北史

巻十七 列傳第五

列傳第五 景穆十二王上

景穆皇帝に十四男あり。恭皇后は文成皇帝を生む。袁椒房は陽平幽王新成を生む。尉椒房は京兆康王子推、済陰王小新成を生む。陽椒房は汝陰霊王天賜を生む。楽良厲王万寿、広平殤王洛侯の母はともに闕く。孟椒房は任城康王雲を生む。劉椒房は南安恵王楨、城陽康王長寿を生む。慕容椒房は章武敬王太洛を生む。尉椒房は楽陵康王胡児を生む。孟椒房は安定靖王休を生む。趙王深は早く薨じ、伝なく、母は闕く。魏の旧制、太子の後庭には位号なく、文成が即位すると、景穆の宮人で子ある者は、みな椒房と号した。

陽平王新成は、太安三年に封ぜられ、後に内都大官となった。薨じ、諡して幽という。

長子安寿が爵を襲い、孝文帝の後に名を頤と賜う。累遷して懐朔鎮大将となる。 都督 ととく 三道諸軍事として北討し、詔により京に赴くことを征され、戦伐の事を勧められた。対えて曰く、「まさに廟算を仰ぎ杖とし、呼韓邪をして渭橋の礼と同じからしめん」。帝歎じて曰く、「壮なるかな王の言、朕の望むところなり」。未だ発たず、母の憂いに遭い、詔により侍臣を遣わし金革の事を以て敦しく諭され、殯すを既にして出発した。陸睿と三道の諸将を集めて軍途の赴く所を議す。ここにおいて中道は黒山より出で、東道は士盧河に向かい、西道は侯延河に向かう。軍大磧を過ぎ、蠕蠕を大破す。頤が入朝すると、詔して曰く、「王の前言、果たして虚しからず」。後に朔州刺史を除す。及び恒州刺史穆泰の謀反するや、使いを遣わし頤を推して主と為さんとし、頤は密かに状を以て聞す。泰ら誅せられ、帝は甚だ之を嘉す。宣武帝景明元年、青州刺史に在りて薨じ、諡して荘王という。国は伝わりて孫の宗胤に至る。明帝の時、叔父を殺した罪に坐して賜死し、爵を除かれる。

頤の弟衍は、字は安楽、広陵侯の爵を賜い、梁州刺史の位に至る。表を上りて王の仮号を請い、威重を崇めんとす。詔して曰く、「厭うことなき求めと謂うべし、請う所合わず」。転じて徐州刺史となる。州に至り病重く、帝は徐成伯に命じ伝車に乗って疾を療せしむ。差え、成伯還る。帝曰く、「卿は名医なり」。絹三千匹を賜う。成伯辞し、一千を受くるを請う。帝曰く、「『詩』に云う、'人の亡ぶや、邦国殄瘁す'と。是を以て言えば、豈にただ三千匹のみならんや」。その帝に重んぜられること此の如し。後に生母雷氏卒し、表を上りて州を解くを請う。詔して曰く、「先君の余尊の厭う所は、『礼』の明文なり。季末陵遅し、この典廃るるあり。侯は既に親王の子なり、余尊の義に従うべく、便ち大功とすべし」。後に雍州刺史に在りて卒し、諡して康侯という。

衍の性質は清慎にして、在る所廉潔、また産業を営まず、四州を歴牧し、皆称績あり、亡き日に斂屍の具なし。

子暢は、字は叔暢、孝武帝に従い関中に入り、鴻臚に拝され、博陵王に封ぜられる。大統三年東討し、陣に没す。

子敏は、酒を嗜み多く費やし、家之が為に貧し。その婿の柱国乙弗貴、大将軍大利稽祐の家財は皆千万、毎に之を営み給う。敏は随いて即ち散尽す、而して帝は之を責めず。貴、祐は後遂に之を絶つ。位は儀同三司、改めて南武県公に封ぜられる。

暢の弟融は、字は叔融、容貌甚だ短陋なりと雖も、 ぎょう 武人に過ぐ。荘帝爾朱栄を謀殺せんとし、融を以て直閣将軍と為す。爾朱兆の洛に入るに及び、融は人間に逃る。後に孝武帝に従い関中に入り、魏興王に封ぜられ、侍郎、殿中尚書の位に至る。

衍の弟欽は、字は思若、 中書監 ちゅうしょかん 、尚書右僕射、儀同三司の位に至る。欽の色特に黒く、故に時人黒面僕射と号す。欽は従兄麗の妻崔氏に淫し、御史中尉封回に劾奏され、赦に遇い免ぜらる。尋いで司州牧を除す。欽は少くより学を好み、早くより令誉あり。時人の語に曰く、「皇宗略略、寿安、思若」。晚年貴重に及びては、匡益する所ある能わず、論者之を軽んず。欽曾て青州人高僧寿に托し子の為に師を求めしむ。師至るも、未幾にして逃げ去る。欽は以て僧寿を譲る。僧寿は性滑稽、反って欽に謂いて曰く、「凡人粒を絶つこと七日にして乃ち死す。始めて五朝を経るのみにて、便ち爾く逃遁す。食を去りて信に就くは、実に闕く所あり」。欽乃ち大いに慚じ、ここにおいて客を待つこと稍く厚し。後に 司空 しくう 公を除され、钜平県公に封ぜられる。河陰に於いて害に遇い、仮黄鉞、太師、太尉公を贈られる。

子子孝は、字は季業、早くより令誉あり。年八歳、 司徒 しと 崔光見て之を異とし、曰く、「後生の領袖、必ず此の人なり」。孝武帝の関中に入るに及び、従駕に及ばず。後に長安に赴き、義陽王に封ぜられる。

子孝は容儀美くしく、笑謔を善くし、酒を好み士を愛し、縉紳之に帰し、賓客常に満ち、終日倦むことなし。性質また寛慈にして、親族を敦穆す。乃ち学館を私第に置き、群従の子弟を集め、昼夜講読せしむ。並びに衣食を給し、諸子と同じくす。後に 尚書令 しょうしょれい 、柱国大将軍を歴任す。子孝は国運漸く移るを以て、深く自ら貶晦し、日夜酒に縦す。後に例に降りて公と為り、復た姓を拓跋氏とす。未幾にして卒し、子贇が襲う。

京兆王子推は、太安五年に封ぜられ、侍中、征南大将軍、長安鎮大将の位に至る。子推の性質は沈雅にして、綏接に善く、秦、雍の人はその威恵に服す。入りて中都大官と為り、獄を察すること称有り。献文帝将に位を子推に禅らんとし、大臣の固く諫むるを以て、乃ち孝文帝に伝う。孝文帝即位し、侍中、本将軍、開府儀同三司、青州刺史を拝す。未だ至らず、道にて薨ず。

子の太興が襲封し、長安鎮大将に拝された。財貨を貪ったことで官爵を削除された。後に秘書監に任じられ、前の爵位を回復し、西河に改封された。守衛尉卿に転じた。初め、太興は病に罹り、諸沙門に行道を請うた。所有の資財を一時に布施し、病癒を乞い、散生齋と名付けた。齋の後、僧は皆四散したが、一人の沙門が齋の余食を乞うと言った。太興は戯れて言うには、「齋食は既に尽きた、唯だ酒肉のみ有り。」沙門は言う、「亦た能く之を食す。」因って酒一斗、羊脚一隻を出した。食し尽くしても、尚お飽かずと言う。辞して出た後、酒肉は倶に在った。門を出て追うも、見る所無し。太興は遂に仏前に願を乞い、「向の師は、当に俗人に非ざるべし。若し此の病癒ゆれば、即ち王爵を捨てて道に入らん。」未だ幾ばくもせずして癒え、遂に沙門となることを請うた。表を十余上し、乃ち許しを見た。時に孝文帝は南征して軍中に在り、詔して皇太子に四月八日に為に下髪せしめ、帛二千匹を施した。既に沙門となり、名を僧懿とし、嵩山に居した。太和二十二年に終わる。

子の昴、字は伯暉、襲封し、薨ず。

昴の子の悽、字は魏慶、襲封す。孝静帝の時、累遷して太尉・録尚書事・司州牧・青州刺史となる。州にて薨じ、仮黄鉞・太傅・ 司徒 しと 公を贈られ、諡して文と言う。悰は寛和にして度量有り、容貌を美しくし、風望儼然たり。得喪の間、色に見えず。性清儉にして、産業を営まず、身死の日、家に余財無し。

昴の弟の仲景、性厳峭なり。孝荘帝の時、御史中尉を兼ね、京師粛然たり。台に向かう毎に、恒に赤牛を駕し、時人「赤牛中尉」と号す。太昌初め、河南尹となり、法を奉じて私無し。時に吏部尚書樊子鵠の部下は縦横し、又盗竊を為す。仲景密かに収捕を加え、悉く之を獲、咸に即ち行決す。是に於いて豪貴寒心す。孝武帝関に入らんとし、仲景に中軍大 都督 ととく を授け、京師に留まらしむ。斉の神武帝洛陽に至らんと欲し、仲景は遂に妻子を棄て、駕を追って長安に至る。仍って尚書右僕射を除かれ、順陽王に封ぜらる。

仲景は妻子を失いて後、故爾朱天光の妻也列氏を娶る。本倡女にして美色有り、仲景甚だ之を重んず。数年を経て、前妻の叔袁紇氏洛陽より間行して至る。也列は遂に異宅に徙居す。久しくして、姦有り。事露れ、詔して仲景に之を殺さしむ。仲景寵情愈々至り、謬って一婢を殺し、其の屍を蒙り厚葬して以て代えと為す。列は密処に徙し、人其の詐を知る莫し。仲景の三子済・鐘・奉は、叔袁紇氏の生む所なり、皆宗室を以て、早く清官を歴る。仲景は列の尚在を以て、妻子の之を漏らすを恐れ、乃ち袁紇を謀殺せんとす。紇先ず覚り、復た陰に列を害せんと欲す。列従奴に謂いて曰く、「若し袁紇我を殺さば、必ず我を廁中に投げん。我丞相に告げ、冀くは或いは死せざらんことを。若し首愆を理めず、猶お我を好地に埋めば、爾我が為に之を告げよ。」奴遂に周文帝に告ぐ。周文奏に依り、詔して仲景を笞一百し、右僕射を免じ、王を以て第に帰らしむ。也列は自ら告げたるを以て之を逐う。仲景猶お私せず。又告ぐる者有り、詔して重ねて笞一百し、宗正に付し、官爵尽く除かる。仲景仍お焉を通ず。後周文帝其の歴任して令名有るを以て、且つ杖策して駕を追いしを以て、乃ち奏して官爵を復す。也列・袁紇是に於いて同居す。大統五年、幽州刺史を除く。仲景内乱多く、後に州に就きて賜死す。

仲景の弟の暹、字は叔照。孝荘帝の初め、南兗州刺史を除く。州に在りて猛暴、殺害する所多し。元顥洛陽に入り、暹は州に拠りて屈せず。荘帝宮に還り、汝陽王に封ぜられ、累遷して秦州刺史となる。先ず秦州城人は屡々反覆を為し、暹は尽く之を誅し、存する者十の一二。普泰元年、涼州刺史を除かれ、貪暴極まり無し。府人及び商胡の富人の財物を規らんと欲し、一台符を詐り、諸豪等を誣い、賞を加えんと云う。一時に屠戮し、所有の資財生口、悉く自らに入る。孝静帝の時、位は侍中・録尚書事。薨じ、太師・録尚書を贈られる。子の沖襲封す。子無く、国絶つ。

太興の弟の遙、字は太原、器望有り。左衛將軍を以て孝文帝に従い南征し、爵を饒陽男に賜わる。宣武帝の初め、生母の憂に遭い、表して解任を請う。詔して余尊の厭う所を以て、許さず。明帝の初め、累遷して左光禄大夫となり、仍って護軍を領す。

時に冀州の沙門法慶既に妖幻を為し、遂に勃海の人李帰伯を説く。帰伯は闔家之に従い、郷人を招き率い、法慶を推して主と為す。法慶は帰伯を十住菩薩・平魔軍司・定漢王と為し、自ら大乗と号す。一人を殺す者を一住菩薩と為し、十人を殺す者を十住菩薩と為す。又狂薬を合わし、人をして之を服せしめ、父子兄弟相知識せず、唯だ殺害を以て事と為す。刺史蕭宝夤兼長史崔伯驎を遣わして之を討たしむ、煮棗城に敗れ、伯驎戦没す。凶衆遂に盛んにして、所在寺舎を屠滅し、僧尼を斬戮し、経像を焚焼し、云く、「新仏出世し、衆魔を除去す。」詔して遙を使持節・ 都督 ととく 北征諸軍事と為し、之を討破す。法慶を禽え、並びに其の妻尼の惠暉等を獲る。法慶を斬り、首を京師に伝う。後帰伯を禽え、都市にて戮す。

初め、遙の大功の昆弟は皆景穆帝の孫なり、明帝に至りて本服絶ゆ、故に遙等の属籍を除く。遙表して曰く、

窃かに聞く、聖人の以て南面して天下を聴く所以は、其の変革を得べからざる者は、則ち親なり尊なり。四世にして緦服窮まり、五世にして袒免し、六世にして親属竭く。茲を去り以往も、猶お姓を以て之に系し別たず、食を以て之に綴り殊ならず。又《律》に議親と云うは、唯だ当世の属親に当たるのみに非ず、歴として先帝の五世を謂う。謹んで斯の旨を尋ぬれば、将に帝宗を広め、磐石を重んぜんと為す。先皇の茲の事条を変え、此の別制を為す所以は、太和の末、方に呉・蜀に意有り。経始の費、慮深く初に在り。割減の起るは、暫く当時に出づ。且つ臨淮王提の属籍を分つ始め、高祖帛三千匹を賜い、分離を重んずる所以なり。楽良王長命も亦た縑二千匹を賜い、慈眷を存する所以なり。此れ皆先朝の殷勤克念、已むを得ずして然る者なり。

古人言有り、「百足の虫、死に至るまで僵せず」とは、其の己を輔くる者衆きを以てなり。臣誠に妄りに太階に親しみ、苟も潤屋を求むるに欲せず、但だ大宗の一分を傷めば、則ち天子の属籍は十数人に過ぎず。漢に在りて諸王の子は、多少を限らず、皆列土して封ぜられ、之を侯と謂う。魏・晋に至るも、広く河山を胙せずと云うこと莫く、之を公と称するは、蓋し其の大宗の固からざるを悪み、骨肉の恩疏かなるなり。

臣が皇上を去るは雖も五世の遠きも、先帝に於いては便是れ天子の孫なり。高祖の国秩禄賦を以て、復た衣食を給する所以、後族は唯だ其の賦を給し、衣食を与えざるは、外内を別ち、異同を限らんと欲するなり。今諸廟の感、心に在りて未だ忘れず。行道の悲、倏然として已に及ぶ。其の諸封する者は、身亡の日、三年服終わり、然る後に改奪す。今朝廷猶お遏密の中に在りて、便ち此の事を議すは、実に用うるに未だ安からず。

詔して尚書に付し博議して以て聞かしむ。 尚書令 しょうしょれい 任城王澄・尚書左僕射元暉遙の表に同じく奏す。霊太后従わず。卒し、諡して宣公と言う。

遙の弟の恆は、字を景安といい、書史に粗く通じていた。恆は『春秋』の義に基づき、名を山川に因まず、上表して改名して芝とすることを求めた。太常卿・ 中書監 ちゅうしょかん ・侍中を歴任した。後に河陰で害に遭い、太傅・ 司徒 しと 公を追贈され、諡は宣穆公といった。

済陰王の小新成は、和平二年に封ぜられ、武略に富んでいた。庫莫奚が侵擾したため、詔により新成がこれを討った。新成は多く毒酒を用意した。賊が迫ると、すぐに営を棄てて去った。賊が至り、競ってこれを飲んだ。そこで軽騎を選んで縦撃し、捕虜や斬首は甚だ多かった。後に外都大官の位に至った。薨じ、大将軍を追贈され、諡は恵公といった。

子の鬱は、字を伏生といい、爵を襲いだ。開府の位に至り、徐州刺史となった。財貨を濫りに取り、死を賜わり、国は除かれた。

長子の弼は、字を邕明といい、剛正にして文学があり、中散大夫の位にあった。世嫡として、先の爵を襲ぐべきであったが、季父の尚書僕射の麗が于氏の寵愛を頼み、遂に弼の王爵を奪い、横暴にも同母兄の子の誕に授けた。ここにおいて弼は人事を絶ち棄て、病と称して私第に帰った。宣武帝が侍中に召したが、弼は上表して固く辞した。嵩山に入り、洞穴を住居とし、布衣に蔬食を以てした。卒した。建義元年、子の暉業が訴えて王爵を回復した。永安三年、 尚書令 しょうしょれい 司徒 しと 公を追贈され、諡は「文献」といった。初め、弼は夢に人に謂われたことがあった。「君の身は世封を伝えることは得ないが、その先爵を継ぐ者は、君の長子の紹遠である。」と。弼が覚め、すぐに暉業に語ったが、終にその言の如くになった。

暉業は若い頃は険薄で、多く寇盗と交際した。長じてからは節操を改め、子史に通じ、また頗る文を属することをよくし、慷慨として志節があった。 司空 しくう ・太尉を歴任し、特進を加えられ、 中書監 ちゅうしょかん を領し、録尚書事となった。斉の文襄王が嘗て彼に問うて曰く、「近頃何を披覧しているか?」と。対えて曰く、「しばしば伊尹・霍光の伝を尋ね、曹氏・司馬氏の書は読まない。」と。暉業は時運が次第に衰えると知り、もはや全きを図らず、ただ飲食に事とし、一日に三羊、三日に一犢を食した。また嘗て詩を賦して云う、「昔は王道泰平に居り、済済として群英富めり。今は世路阻むに逢い、狐兔鬱として縦横す。」と。斉の初め、美陽県公に降封され、開府儀同三司・特進となった。

暉業が晋陽にいた時、交際する所なく、平素は暇であったので、魏の藩王家の世系を撰し、『弁宗録』四十巻と号し、世に行われた。位望は隆重であり、また性気が人並みでないため、しばしば猜忌を受けた。

天保二年、従駕して晋陽に至り、宮門外で元韶を罵って曰く、「お前は一老嫗にも及ばず、璽を背負って人に与えるなど、何故打ち砕かなかったのか!我この言を出す、死を知る、然れどもお前もまた幾ばくの時を得ようか!」と。文宣帝が聞いてこれを殺し、併せて臨淮公の孝友を斬った。孝友は臨刑に際し驚惶失措したが、暉業は神色自若であった。なお氷を穿ちその屍を沈めた。

暉業の弟の昭業は、学尚頗るあり、諫議大夫の位にあった。荘帝が洛南に行幸せんとした時、昭業は閶闔門外に立ち、馬に叩きつけて諫め、帝はこれを避けて過ぎた。後に労い勉めた。給事黄門侍郎・衛将軍・右光禄大夫の位に至った。卒し、諡は文侯といった。

郁の弟の偃は、太中大夫の位にあった。

子の誕は、字を曇首という。初め、誕の伯父の郁が貪汚により死を賜わり、爵は除かれた。詔により誕は、偃の正妃の子であることを以て、嫡孫として立てられ、特例をもって封を継ぐことを聴された。累遷して斉州刺史となった。州にあって貪暴であり、大いに人の患いとなった。牛馬騾驢、逼奪せざるなく、家の奴隷は、悉く良人を迫り取って婦とした。ある沙門が誕のために薬を採り、還って誕に会い、外の消息を問われ、対えて曰く、「ただ王の貪りを聞く、願わくは王早く代わられんことを。」と。誕曰く、「斉州七万戸、我の至りしより、一家も未だ三十銭を得ず、何をもって貪りと言えようか?」と。後に御史中尉の元纂に糾弾されたが、赦に会って免れた。薨じ、諡は静王といった。

子の撫は、字を伯懿といい、爵を襲いだ。荘帝の初め、従兄の暉業に訴えられて王爵を奪われた。

偃の弟の麗は、字を宝掌といい、宗正卿・右衛将軍を兼ねた。光禄勲に遷り、宗正・右衛は元の如くであった。時に秦州の屠各の王法智が州主簿の呂苟児を推して主とし、建明元年と号し、百官を置き立て、州郡を攻め逼った。涇州の人陳瞻もまた衆を聚めて自ら王と称し、聖明元年と号した。麗を使持節・ 都督 ととく とし、楊椿とともにこれを討たせた。苟児は衆十余万を率い、孤山に屯し、別に諸々の険要を拠り、州城を囲み逼った。麗は出撃し、これを大破し、進軍して水洛に至らせた。賊徒は逆戦し、麗は夜襲してこれを走らせた。秦州行事の李韶が孤山で苟児を破り、勝に乗じて追撃掩襲し、その父母妻子を獲た。諸城の囲みもまた悉く奔散した。苟児はその王公三十余人を率いて麗に詣り罪を請うた。麗は賊を平らげる勢いに乗じ、枉げて良善七百余人を掠めた。宣武帝はその功を嘉し、詔して有司に追及検挙させなかった。

雍州刺史に拝され、政は厳酷で、吏人はこれを患った。その妻の崔氏が一男を産んだので、麗は遂に州の獄囚で、死罪及び徒流で未だ台に申し送られていない者を、一時に放免した。冀州刺史に遷り、入朝して尚書左僕射となった。帝が問うて曰く、「公が州で殺戮無理、枉濫一つにあらず、また大いに道人を殺したと聞く。」と。対えて曰く、「臣が冀州で殺した道人は二百人ばかり、また何ぞ多くあろうか?」と。帝曰く、「一物もその所を得ざれば、これを隍に納るるが如し、況や道人二百を殺して、多くないと言わんや!」と。麗は冠を脱いで謝し、座を賜わった。卒し、諡は威といった。

子の顕和は、若くして節操あり、 司徒 しと 記室参軍を歴任した。 司徒 しと の崔光は彼を見るごとに曰く、「元参軍は風流清秀、容止閑雅、乃ち宰相の器である。」と。徐州安東府長史に除かれた。刺史の元法僧が叛くと、顕和はこれと戦って捕らえられた。手を執って連座するよう命じた。顕和曰く、「顕和と阿翁とは同源別派、皆磐石の宗なり、一朝にして地を以て外に叛く、もし董狐に遇わば、慚徳なからんや?」と。遂に座ろうとしなかった。法僧はなお慰め諭そうとした。顕和曰く、「死して悪鬼と作るべくも、生きて叛臣と為るべからず!」と。将にこれを殺さんとするに及び、神色自若であった。建義初め、秦州刺史を追贈された。

汝陰王の天賜は、和平三年に封ぜられ、後に内都大官となった。孝文帝の初め、殿中尚書の胡莫寒が西部の敕勒の豪富で兼丁の者を選んで殿中武士とし、大いに財貨を受け取った。衆は怒り、莫寒及び高平の仮鎮将の奚陵を殺した。ここにおいて諸部の敕勒は悉く叛いた。詔して天賜と給事中の羅雲にこれを討たせた。前鋒の敕勒が詐降し、雲はこれを信じた。副将の元伏が曰く、「敕勒の色動く、恐らく変有らん、今備えを設けずんば、将に図られんとす。」と。雲は従わなかった。敕勒は襲って雲を殺し、天賜は僅かに自ら全うするを得た。累遷して懐朔鎮大将となった。貪残の罪に坐し、死を恕され、官爵を削除された。卒し、孝文帝は思政観で哭し、本来の爵位を追贈し、葬儀は王礼に従い、諡は霊王といった。

子の逞は、字を萬安といい、齊州刺史の任中に卒した。諡して威という。

逞の子慶和は、東 州刺史であったが、梁の将軍に攻められ、城を挙げて降伏した。梁の武帝は彼を北道総督・魏王とした。項城に至った時、朝廷が討伐軍を出すと、風の便りを聞いて退却した。梁の武帝は彼を責めて言った。「言葉は百舌の如く、胆は鼷鼠の如し」と。遂に合浦に流された。

逞の弟の泛は、字を普安といい、元士から次第に昇進して営州刺史となった。性格は貪婪で残忍であり、人々はその命令に耐えられず、相次いで彼を追放した。泛は平州に逃れた。後に光禄大夫・宗正卿に任ぜられ、東燕県男に封ぜられた。河陰において害に遇った。

泛の弟の修義は、字を壽安といい、頗る文才があった。元士から次第に昇進して齊州刺史となった。修義は、齊州が頻繁に刺史を失うことを理由に、累次上表して固辞した。詔は許さず、便宜に従って官舎を建てることを聴許した。修義はそこで東城に移った。政治は寛和であった。秦州刺史に転じた。明帝の初め、庶人(元)禧や庶人(元)愉らのことを上表して陳べ、前の過ちを許し、陵域に葬ることを賜わるよう請うた。霊太后は詔して言った。「遺体を収めて葬る恩恵は、事柄が上意によるものであり、藩岳(地方長官)がどうして職を越えて干渉し陳べることができようか」と。

州にあっては多く収賄した。累進して吏部尚書となった。選任の職にある時は、ただ賄賂に事寄せ、官職の大小を授けること、皆定価があった。時の中散大夫高居という者は、詔旨により先に任用されることになっていた。上党郡に欠員ができたので、居はこれを求めた。修義はすでに内々に他人に約束していたので、居に与えなかった。居は大声で無礼なことを言ったので、修義は左右の者に命じて彼を引きずり出させた。居は大衆に向かって天を呼び賊と叫んだ。人が居に問うて言った。「白昼の公庭に、どうして賊がいるのか」と。居は修義を指して言った。「この座にいる者が、天子の明詔に背き、物が多い者が官を得る。京師での白昼の強奪、これは大賊ではないか」と。修義は顔色を失った。居は罵りながら行って出た。後に車駕を迎えて修義の罪状を論じようとしたが、左僕射蕭寶夤が諭してやめさせた。

二秦が反乱すると、修義を兼ねて尚書右僕射・西道行台・行秦州事とし、諸軍の節度とした。修義は酒を好む性分で、毎回飲むと連日におよび、遂に中風の病にかかり、精神が昏乱し喪われた。長安に至ったが、ついに軍を部署する益はなかった。元志が敗没し、賊が東へ黒水に至ると、改めて蕭寶夤を派遣してこれを討たせ、修義を雍州刺史とした。州において卒した。 司空 しくう を追贈され、諡して文という。

子の均は、給事黄門侍郎の位に至った。後に西魏に入り、安昌王に封ぜられ、開府儀同三司の位に至った。薨じ、 司空 しくう を追贈され、諡して平という。

子の則は、字を孝規といい、爵を襲い、義州刺史の位に至った。周に仕えて小塚宰・江陵総管となった。

子の文都は、性質が梗直であり、周に仕えて右侍上士となった。隋の開皇初年、内史舎人を授けられた。煬帝が即位すると、累進して御史大夫となったが、事に坐して免官された。間もなく、太府卿を授けられ、当時の評判が大いにあった。大業十三年、帝が江都宮に幸すると、文都は段達・皇甫無逸・韋津らとともに東都留守となることを詔された。帝が崩ずると、文都は達・津らとともに越王侗を推して帝とした。侗は文都を内史令・開府儀同三司・光禄大夫・左 ぎょう 衛大将軍・摂右翊衛将軍・魯国公に任じた。

やがて宇文化及が秦王浩を立てて帝とし、兵を擁して彭城に至ると、所在が震動した。文都は侗を諷して使者を李密に通わせた。密はそこで降伏を請い、官爵を授けられ、その使者を厚く礼遇した。王世充はこれを喜ばず、文都はこれを知り、密かに世充を誅する計画を持った。侗が文都に御史大夫を領させようとすると、世充が固執してやめさせた。盧楚が文都に誅すよう説くと、文都は遂に奏文を懐に入れて殿中に入った。ある人がこれを世充に告げたので、世充は馳せて含嘉城に戻った。夜になって事変が起こり、(世充は)東太陽門を攻めて入り、紫微観の下で拝礼して言った。「文都を斬ることを請い、罪を司寇に帰させてください」と。侗は兵勢の盛んなのを見て、配下の将軍黄桃樹に命じて文都を捕らえ出させた。文都は顧みて侗に言った。「臣は今朝亡びましょうが、陛下もまた夕べには及ぶでしょう」と。侗は慟哭して彼を送り出した。左右の者で憫み黙しない者はなかった。出て興教門に至ると、世充は左右に命じて乱暴に斬らせ、諸子も皆害に遇った。

則の弟の矩は、字を孝矩といい、西魏の時、祖父の爵である始平県公を襲い、南豊州刺史に任ぜられた。時に元氏(北魏皇族)の危うからんとするのを見て、密かに兄弟に言った。「宇文(泰)の心は、路人の見るところである。倒れんとするのを扶けずして、どうして宗子たるを用いようか」と。兄の則に抑えられたので、やめた。後に周の文帝(宇文泰)が兄の子である しん 公護のためにその妹を娶って妻とし、情誼は甚だ密接であった。護が誅されると、連坐して蜀に流された。後に司憲大夫に任ぜられた。隋の文帝はその門地を重んじ、その女を娶って房陵王妃とした。丞相となると、少塚宰に任じ、柱国の位に至り、洵陽郡公の爵を賜った。房陵王(楊勇)が皇太子に立てられると、その女を皇太子妃とし、親礼はますます厚く、夀州総管に任ぜられた。時に陳の将軍任蠻奴らが屡々江北を寇したので、再び孝矩を行軍総管とし、兵を江上に屯させた。後に年老いたため、上表して骸骨を乞うた。軽車将軍・涇州刺史となった。官において卒し、諡して簡という。子の無竭が嗣いだ。

矩の次弟の雅は、字を孝方といい、文武の幹用があった。開皇年中、左領左右将軍・集州及び沁州刺史を歴任し、順陽郡公に封ぜられた。

雅の弟の褒は、字を孝整といい、幼少より成人の器量があった。十歳で孤児となり、諸兄に愛養された。諸兄に善く仕えた。諸兄が別居しようと議すると、褒は泣いて諫めたが、聞き入れられなかった。家は元より富み、金宝が多かったが、褒は一つも受けず、身一つで出て行った。周に仕え、開府・北平県公・趙州刺史の位に至った。韋孝寬に従って尉遅迥を平定し、功により柱国に任ぜられ、河間郡公に進封された。

隋の開皇年中、原州総管に任ぜられた。商人が賊に掠奪された時、その者は同宿の者を疑ってこれを捕らえた。褒はその顔色に冤罪の気配があり言葉が正しいのを察し、遂にこれを釈放した。商人は宮闕に赴き、褒が金を受け取って賊を放ったと訴えた。隋の文帝は使者を遣わして徹底的に調べさせ、使者は文書で責めて、褒がなぜ金のために盗賊を放ったのかと問いただした。褒は咎を引き受け、異なる言い訳をしなかった。使者と褒はともに京師に赴き、遂に罪に坐して免官された。その盗賊は間もなく他の場所で発覚した。上(文帝)が言った。「どうして自ら罪を認めたのか」と。褒は言った。「臣は一州を委ねられながら、盗賊を鎮められなかった。これが臣の第一の罪です。百姓が人に誣告されながら、法司に付さず、すぐに釈放した。これが臣の第二の罪です。形跡を顧みず、今に至って物事に疑われるに至った。これが臣の第三の罪です。臣に三つの罪があり、どうして責めを逃れられましょう。また、臣が賄賂を受け取ったと言わなければ、使者はさらに窮究しようとしたでしょう。そうなれば、縲絏(囚人の縄)が横に及んで良善な者に及び、臣の罪を重くしたでしょう。それゆえ自ら罪を認めたのです」と。上は歎異し、長者であると称した。

煬帝が即位すると、齊郡太守に任ぜられた。遼東の役の時、郡の官で事務を監督する者が前後相次いで派遣された。西曹掾のある者が行く番になった時、病気と偽ったので、褒は彼を杖打ちした。掾は大声で言った。「私は行在所に赴き、告げたいことがある」と。褒は大いに怒り、そこで百余回杖打ちし、数日後に死なせた。罪に坐して免官され、家で卒した。

楽良王万寿は、和平三年に封ぜられ、征東大将軍に拝され、和龍を鎮守した。性質は貪暴であり、征還の途上、憂いのうちに薨じ、諡して厲王という。子の康王楽平が襲封した。薨じた。子の長命が襲封した。人を殺した罪により死を賜い、国は除かれた。

子の忠は、明帝の時、前の爵位を復され、太常少卿の位にあった。孝武帝が天泉池に舟を浮かべ、宗室諸王に陪宴を命じた。忠は愚かで知恵がなく、衣服を好む性質で、遂に紅羅の襦を着け、領に刺繍を施し、碧綢の袴をはき、錦で縁をとった。帝は言った、「朝廷の衣冠には、常の式があるべきである。どうして百戯の衣を着けるのか」。忠は言った、「臣は幼少よりこれを愛し、情は綺羅に存し、歌衣舞服こそ臣の願うところです」。帝は言った、「人の無良、ここに至るか」。

広平王洛侯は、和平二年に封ぜられた。薨じ、諡して殤という。子がなく、後に陽平幽王の第五子の匡を後嗣とした。

匡は字を建扶といい、性質は耿介で、気節があった。孝文帝は彼を重んじた。言った、「叔父は必ずや社稷の儀形となり、朕躬を匡輔できるであろう。今、名を匡と改め、克終の美を成すがよい」。宣武帝が即位すると、累遷して給事黄門侍郎となった。茹皓が寵を得始めると、百官は微かに彼を憚った。帝がかつて山陵から還った時、詔して匡に陪乗させ、また皓をして車に登らせた。皓が裳を褰げて将に上らんとした時、匡が諫めたので、帝は彼を推して下らせた。皓は匡を恨み顔色を失った。当時、その忠謇を壮とした。宣武帝が親政すると、肆州刺史を除した。匡は既に皓に逆らったので、害されることを懼れ、廉慎に自ら修め、甚だ声績があった。恒州刺史に遷った。徴されて大宗正卿・河南邑中正となった。

匡は上奏して、親王及び始藩・二藩の王の妻は、悉く妃号がある。しかし三藩以下は、皆妻と謂う。上は同じく妃の名と為ることを得ず、下は五品以上に命婦の号あるに及ばない。窃かに疑わしいと思う、と。詔して言った、「夫は朝に貴く、妻は室に栄ゆ。婦女に定め無く、升は其の夫に従う。三藩は既に王封を啓く。妃の名も亦た同等たるべし。妻は斉なり。理は己と斉しきなり。妃の例に従うべし」。これより三藩王の妻の名号が始めて定まった。従って度支尚書を除した。匡は表を上して楽陵・章武の例を引き、洛侯の封を紹ぐことを求めた。詔して尚書に付して議させた。尚書は奏して襲封を聴き、以て興絶の義を明らかにすべしと。

当時、宣武帝は政を高肇に委ね、宗室は傾き憚ったが、唯だ匡のみが肇と抗衡した。先ず自ら棺を造り、聴事に置き、意は棺を輿に載せて闕に詣で、肇の罪悪を論じ、自殺して切諫せんと欲した。肇はこれを聞いて悪んだ。後に太常卿劉芳と権量を議して争うことにより、遂に肇と声色を交わした。御史中尉王顯が匡を奏して言った。

金行が御を失って以来、群偽競い興り、礼は壊れ楽は崩れ、彝倫は斁れた。高祖孝文皇帝は睿聖をもって天を統べ、旧典を克復された。乃ち故 中書監 ちゅうしょかん 高閭に命じ、広く儒林を旌し、楽府を推尋させ、黍をもって寸を裁ち、将に周・漢の旧章を均さんとされた。雲構中遷に属し、未だ就かず。高祖は睿思玄深にして、経・記を参考し、一黍の大をもって用いて分体を成し、これを準えて尺と為し、施行を宣布された。

正始の中に至り、故太楽令公孫崇は輒りに自ら意を立て、黍十二を以て寸と為し、別に尺度を造り、律を定めて鐘を刊した。皆な向かって成り訖り、表して観試を求めた。時に勅して太常卿臣芳に、崇の造り既に成るを以て、朝英を集めて議し其の得否を請わしめた。芳は崇の尺度が先朝のものと異なるを疑い、其の作者を察するに、経史に復た異なり、推造鮮にして拠るところ無く、行うべきに非ざりとす。時に 尚書令 しょうしょれい 臣肇・清河王懌等は、崇の造りが乖謬にして『周礼』と同じからざるを以て、遂に臣芳に奏して『周礼』に依り更に造らしめ、成り訖りて量校し、其の善き者に従わしむ。而して芳は先朝の尺度が事古典に合うを以て、乃ち前の詔書に依り、黍を以て寸を刊し、並びに朝廷に呈し、用いて金石を裁せしむ。当時の議者は多く芳を是と云う。唯だ黄門侍郎臣孫恵蔚のみ崇に扶同す。二途参差し、頻りに考議を経る。而して 尚書令 しょうしょれい 臣肇は芳の造りを以てす。崇の物故の後、而して恵蔚も亦た一尺を造り、仍て扶と云う。以て崇の尺に比すれば、自ら相乖背す。量りて省みるに二三、芳の一尺を得と謂う。而して尚書臣匡の表に云う、劉・孫の二尺は長短相傾き、稽考両律、容るる所殊に異なり、言いて中黍を取り、彼の二家を校すれば、云う並びに参差し、折中する所無し、と。自ら一途を立て、議判を請求す。当時の議者は或いは匡に是とし、両途舛駁して、未だ即時に定まらず。肇また云う、「権斛斗尺は、班行已久し。今の論ずる所、豈に先旨を逾えんや。宜しく仰ぎて先朝の故尺に依りて定めと為すべし」。

爾より以後、而して匡と肇は厲言して都坐にし、声色相加わり、高下其の常倫を失い、尊競復た彝序無し。匡は更に表を列ね、己の十是に拠り、芳の十非と云う。又云う、「肇は前に勅旨を被り、芳と共に営督し、鐘石の名を規立し、製作の誉を播かんことを希う。乃ち枢衡の尊を憑み、舅氏の勢を藉り、与奪心に任せ、臧否自己にし、劉芳に阿党し、臣の事を遏絶す。勢を望みて雷同する者には、恩言を以て接し、経に依り古を案ずる者には、即ち怒責を被る。未だ鹿を指して馬と化し、天を移し日を徙すと指さずと雖も、実に蘊藉の士をして気を聳え坐端せしめ、道を懐くの夫をして舌を結ばしむる筵次なり」。又言う、「芳は昔崇と競い、恒に自作と言い、今臣と共に論ずるに、忽ち先朝と称す。豈に前に謂いて可行とし、輒りに自ら取らんと欲し、後錯謬を知り、便ち先朝に推すに非ずや。殊に大臣の体に非ず、深く下たるの義を失う。復た勢臣の前に考校し、偏頗の手に量度せば、臣は必ずや足を刖せられ内朝し、璞を抱いて人外せん」。囂言肆意、朝野に彰わる。

然るに匡の職は出納に当たり、献替の所在たり。斗尺権度は正に司る所なり。若し己に所見有り、能く臧否を練るならば、宜しく応に首に義端を唱え、早く諸惑を弁ずべし。何の故にか心を黙して従に随い、一言も関せず、芳の事成るを見て、方に此の語を出すや。芳の才学を計るに、匡と殊に懸り、見る所の浅深、相匹うべからず。今に至りて始めて発す。恐らくは此れ心に由り、智を人に借り、虚誉を規成す。況んや匡の表に云う、「拠る所の銅権は、形古志の如く、明らかに是れ漢の作にして、莽の別造に非ず」。及び権銘を案ずるに、「黄帝始祖、徳は虞に布き、虞帝始祖、徳は新に布く」。若し莽が漢に佐くる時の事ならば、寧ろ偽新の号を銘せんや。又た莽伝を尋ぬるに、雲う莽居摂す、即ち漢の制度を変ず、と。二証を考校すれば、漢の権に非ざること明らかなり。復た云う、「芳の造る所は、又た先朝の尺より短し。臣既に之を比すれば、権然として相合う」。更に云う、「芳の尺は千金堰と同じからず」。臣復た量比し、因りて其の異なるを見る。二三浮濫、拠准し難し。又た云う、「共に虚端を構え、妄りに疑似を為し、先朝に托し、云う己の制に非ずと」。臣案ずるに、此の欺詐は乃ち匡に在り、芳に在らず。何を以てか之を言うや。

芳は先に勅命を受け、専ら鐘律を造ることを委ねられ、管籥の優劣は彼の裁量に任され、権衡や尺度は本来その職務ではなかった。先に門下省が索芳の尺度を求めたところ、芳は牒で答えて云うには「先朝の頒布した新尺に依拠し、また黍を下して、更に増減せず、鐘律を造り、分寸を調正するのみである」と。匡の造った時を検べると、牒の後一歳であり、芳はその日、匡と未だ争わず、既にこの牒があり、どうして詐りであろうか。崇の造った寸を計ると、積黍十二であり、群情の共に知るところである。しかるに芳の造った寸は、唯だ十黍に止まり、これもまた共に見える。先朝の詔書には、黍をもって寸を成すとあり、首尾歴然として、どうして勝手に自ら取る理があろうか。肇は端右の任に居り、百寮の望むところであり、言行動静は必ず具瞻に副うべきである。もし権勢を恃んで阿党し、詐って先詔を托し、鹿を指して馬となし、日を徙えて天を移さんとすれば、即ち是れ魏の趙高であり、何をもって物を宰となさん。肇にこのことが無ければ、匡は既に宰相を誣毀し、時政を讒謗し、朝聴を阻惑し、不敬甚だしい。請う、肇と匡を並びに尚書に禁じ、その原を推窮し、廷尉に付して罪を定めんことを。

詔して曰く「可なり」と。有司が奏上して匡が肇を誣うとし、匡に死刑を処す。宣武帝は死を恕し、光禄大夫に降す。また宗正卿を兼ねる。出でて兗州刺史となる。匡が発つに臨み、帝は東堂に引見し、労い勉める。匡はなお尺度金石の事を以て、国の大経とし、前には南台に弾劾されたが、然れどもなお更に議することを許された。もし議する日には、願わくは臣の暫く赴くを聴かれんことを。帝曰く「劉芳は学問一時に高く、典故に深く明るい。その拠るところは、先朝の尺と比べて寸が一黍過ぎるのみで、どうしてまた先朝の意と云えようか。兗州は既に執る所経典に合わず、後の議する日には、何ぞ都に赴くを待たんや」と。

明帝の初め、入朝して御史中尉となる。匡は弾劾糾明に厳しく、始めに于忠を奏劾し、次に高聰らを弾劾して免官せしむるも、霊太后は共に許さず。その悪を糾す心に違え、また匡が辞解するを慮り、安んぜんと欲して奨励し、安南将軍の号を進め、後に鎮東将軍を加える。

匡は屡々権衡を改めんことを請うて已まず、ここに於いて詔して曰く「権を謹み度を審らかにすることは、昔よりの令典であり、章を定め暦を革むるは、往代の良規である。匡は宗室の賢亮にして、心を留めること既に久しい。儒貴を更に集めて、時に応じて験決せしむべし。必ずや権衡を得て衷とし、寸籥誤らざらしめよ」と。また詔して曰く「故広平殤王洛侯は体を恭宗より出で、茂年にして薨殞し、国除き祀廃せられ、祀らず忽諸す。匡は親しく子の如く、私的に継ぐこと歳久しく、宜しく維城を樹て、永くこの磐石たらしむべし。特らに王爵を襲い、東平郡王に封ぜらるべし」と。匡の制した尺度が成ると、朝士を集めて是非を議定せんことを請う。詔して門下・尚書・三府・九列に付して議定して聞かしむ。太師・高陽王雍らの議は、以て「晋の 中書監 ちゅうしょかん 荀勖の造りし尺は、高祖の定めし所と毫釐略同じ。侍中崔光は古象尺を得、当時も亦た準議して施用を令す。仰ぎ惟うに孝文皇帝は徳前王に邁り、睿明下燭し、不刊の式は、事変改し難し。臣ら参論して、匡の議を停め、永く先皇の制に遵わんことを請う」と。詔してこれに従う。

匡は毎に奏請するあり、 尚書令 しょうしょれい ・任城王澄は時に執って奪う。匡は剛隘にして、内に遂に平らかならず。先に造りし棺は、猶お僧寺に在り、乃ち復た事を修め、将に澄と相攻たんとす。澄は頗るこれを知り、後に省に赴かんとし、匡と逢遇し、騶卒相撾ち、朝野駭愕す。澄はこれにより匡の罪状三十余条を奏す。廷尉は死刑に処す。詔して八議に付し、特らに原宥を加え、爵を削り官を除く。三公郎中辛雄が奏してこれを理す。後に特らに平州刺史を除き、青州刺史に徙る。尋に関右 都督 ととく ・兼尚書行台となる。疾に遇い、京に還る。孝昌の初め、卒す。諡して文貞と曰う。後に本爵を追復し、済南王に改封す。

第四子の献が襲封し、薨ず。子の祖育が襲封す。武定の初め、馬より墜ちて薨ず。子の勒叉が襲封す。斉が禅を受け、爵は例により降る。

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※本コンテンツはAIによる機械翻訳をベースに構成されています。正確な内容は原文(北史)をご参照ください。

原本を確認する(ウィキソース):北史 巻017