元史

志第二十三: 祭祀一

礼に祭祀があるのは、その由来遠い。天子とは、天地宗廟社稷の主であり、郊社禘嘗において事を守る。その意義は報本に存し、何かを為すために為すのではなく、故にその礼は誠を貴び質を尚び、本に反り古を修めることに務め、その初めを忘れないのみである。漢は秦の弊を承け、郊廟の制は周礼を用いず、巡守封禅を謀議し、方士祠官の説が興り、兄弟相継いで共に一代と為し、統緒乱る。その季世に至り、乃ち南北二郊を合して一と為す。唐・宋の盛時と雖も、皆これを正すこと莫く、蓋しその本に反りてこれを求むる者無かりしなり。かの籩豆の事は、有司の職とする所、又豈に仁人孝子の心を尽くすに足らんや。

元の五礼は、皆国俗を以てこれを行い、惟だ祭祀稍々諸古に稽る。その郊廟の儀は、礼官の考うる所日益詳慎にして、而して旧礼初め嘗て廃せられず、豈に亦た所謂初めを忘れざる者か。然れども世祖以来、毎に親しくその事を為すことを難しとす。英宗始めて親郊の意有りと雖も、志克遂げず。久しくして、その礼乃ち文宗に成る。至大の間、大臣議して北郊を立てんとし而して中輟し、遂に廃して講ぜず。然れども武宗親しく廟に享くこと三、英宗親しく享くこと五。晋王帝位に在ること四年、未だ嘗て一たび廟見せず。文宗以後、乃ち復た親享す。豈に道釈祷祠薦禳の盛んなる、生民の力を竭くして寺宇を営むこと、前代未だ有らざる所、重き有れば則ち軽き有るか。或いは曰く、北陲の俗、天を敬し鬼を畏る、その巫祝毎に以て能く親しく祭る所の者を見、而してその喜怒を知ることを為すと為す、故に天子幽明の故・礼俗の弁を察する有ること無くんば、則ち未だ能く親格せず、豈に其れ然らんや。

憲宗日月山に祭天してより、追崇して生まれた所と太祖を並べて配享し、世祖の建つる所の太廟、皇伯朮赤・察合帯皆家人の礼を以て列室に祔す。既にして太宗・定宗天下を世うるの君と為すも俱に廟享を獲ず、而して憲宗も亦た祀らざるを以てす。則ちその因襲の弊、蓋し礼官の議の及ぶ所に非ざる者有り。而るに況や受国の君を禰とせず、而して兄弟共に一世と為す、乃ち前代に徴する有るか。夫れ郊廟国の大祀なり、本原の際既に已に此の如し、則ち中祀以下、闕略有ると雖も、言うに足る無し。

その天子親しく使を遣わして致祭する者三: 曰く社稷、曰く先農、曰く宣聖。而して嶽鎮海瀆は、使者璽書を奉じて即ちその処に事を行い、代祀と称す。その有司常に祀る者五: 曰く社稷、曰く宣聖、曰く三皇、曰く嶽鎮海瀆、曰く風師雨師。その通祀に非ざる者五: 曰く武成王、曰く古帝王廟、曰く周公廟、曰く名山大川・忠臣義士の祠、曰く功臣の祠、而して大臣の家廟は与からず。その儀は皆礼官の擬する所、而して中書に於いて議定す。日星は始めて司天臺に祭り、而して回回司天臺遂に禜星を職事と為す。五福太乙に壇畤有り、道流を以てこれを主とす、皆未だ詳ならず。

凡そ祭祀の事、その書は太常集礼と為し、而して経世大典の礼典篇尤備なり。累朝実録と六条政類を参酌し、その因革を序し、その成制を録し、祭祀志を作る。

郊祀上

元は朔漠に興り、代々に天を拝む礼有り。衣冠は質を尚び、祭器は純を尚び、帝后親しくこれに臨み、宗戚祭を助く。その意幽深古遠、報本反始、自然に出で、而して強いてこれを為すに非ざるなり。憲宗即位の二年、秋八月八日、始めて冕服を以て日月山に於いて天を拝む。その十二日、又た孔氏の子孫元措の言を用い、昊天と后土を合祭し、始めて大いに楽を合して牌位を作り、太祖・睿宗を以て配享す。歳甲寅、諸王を顆顆脳児の西に会し、丁巳の秋、軍脳児に駐蹕し、皆その地に於いて天を祭る。世祖中統二年、親しく北方を征す。夏四月己亥、躬ずから旧桓州の西北に於いて天を祀る。馬湩を灑して以て礼と為し、皇族の外、与かることを得ず、皆その初めの如し。

至元十二年十二月、尊号を受くるを以て、使を遣わし予め天地に告げ、太常に下して唐・宋・金の旧儀を検討せしめ、国陽麗正門の東南七里に祭台を建て、昊天上帝・皇地祇の位二を設け、一献の礼を行ふ。自ら後国に大典礼有れば、皆即ち南郊に於いて告謝す。十三年五月、宋を平ぐるを以て、使を遣わし天地に告げ、中書太常に下して儀物を議定して聞かしむ。制に若く曰く「其れ国礼を以て事を行へ」と。

三十一年、成宗即位す。夏四月壬寅、始めて都城南七里に壇を為す。甲辰、司徒しと兀都帯を遣わし百官を率いて大行皇帝の為に南郊に諡を請はしむ、天に告げて諡を請ふの始めと為す。大徳六年春三月庚戌、昊天上帝・皇地祇・五方帝を南郊に於いて合祭し、左丞相哈剌哈孫を遣わし事を摂せしむ、摂祀天地の始めと為す。

大徳九年二月二十四日、右丞相哈剌哈孫等言す「去年地震星変有り、雨澤期に愆れ、歳比年登らず。天を祈り民を保つ事、天子親しく祀る者三有り: 曰く天、曰く祖宗、曰く社稷。今宗廟・社稷は、歳時摂官事を行ふ。祭天は国の大事なり、陛下未だ親祀に及ばずと雖も、宗廟・社稷の如く、官を遣わし摂祭すべし、歳用冬至、儀物は有司予め備へ、日期至れば則ち以て聞かしむべし」と。制に若く曰く「卿の言是なり、其れ儀物を予備して事を待て」と。

ここにおいて翰林院・集賢院・太常礼官らは皆中書省に会して協議した。博士が疏を上して言うには、「冬至には圜丘においてただ昊天上帝を祀り、西漢の元始年間に至って初めて天地を合祭するようになった。東漢より宋に至る千有余年、分祭と合祭とが定論を見ないまま今日に及んでいる」。集議は言う、「周礼によれば、冬至に圜丘で天を礼し、夏至に方丘で地を礼する。時既に異なり、礼楽もまた同じからず。王莽の制度を、どうして法とすることができようか。今は唐・虞・三代の典に従い、ただ昊天上帝を祀るべきである。その方丘で地を祭る礼については、続けて議して奏聞せしめる」。周礼によれば、壇壝は三成(三重)であり、近代は外に四成を増やして、天文従祀の位を広げた。集議は言う、「周礼の三成の制に依る。しかし周礼の疏には毎成一尺とあり、縦広の度は見えない。壇上が狭隘で器物を容れ難いことを恐れ、四成の制の内から一成を減じ、陽奇の数に合わせることを擬す。毎成の高さは八尺一寸とし、乾の九九に合わせる。上成の縦広は五丈、中成は十丈、下成は十五丈とする。四陛(階段)を設け、陛ごとに十二級とする。外に二壝を設け、内壝は壇より二十五歩を去り、外壝は内壝より五十四歩を去る。壝ごとに四門を設ける。壇は丙巳の地に設け、陽位に就く」。古制によれば、親祀の際の冕には旒がなく、大裘を服し衮を加える。臣下の従祀の冠服は歴代の尚ぶところであり、その制は同じからず。集議は言う、「宗廟で現に用いられている冠服の制度に依る」。周礼の大司楽によれば、「凡そ楽は、圜鐘を宮とし、黄鐘を角とし、太簇を徴とし、姑洗を羽とし、雷鼓雷鼗、孤竹の管、雲和の琴瑟、雲門の舞を用い、冬至の日に地上の圜丘においてこれを奏する。もし楽六変すれば、則ち天神皆降り、礼することが得る」。集議は言う、「楽は天地を動かし鬼神を感ぜしめるものであるから、必ず音律に深く通じた人を訪求し、五声八音を審らかにして、楽の習練を司らせるべきである」。

夏四月壬辰、中書省が再び集議した。博士が言うには、「旧制では神位版に木を用いる」。中書省が議し、蒼玉に金字を刻み、白玉を座とするよう改めることを提案した。博士は言う、「郊祀は質素を尚ぶものであり、旧制に従うべきである」。そこで木主を用いることとし、長さ二尺五寸、幅一尺二寸、上が円く下が方形、丹漆に金字、木は松柏を用い、紅漆の匣に収め、黄羅の帕で覆った。造り終わると、役人がこれを蔵する方法を議した。議する者はまた言う、神主は宗廟にはあるが、今は壇で祀り、対越して上に在るのであり、他の神のように見えないものとは異なる。そこで作製した神主は遂に用いられなかった。

七月九日、博士がまた言うには、「古えに天を祀るには、器は陶匏を用い、席は藁鞂を用いた。漢の甘泉・雍畤の祀りより、後漢・魏・晋・南北朝・隋・唐に至るまで、その壇壝・玉帛・礼器・儀仗は日に日に繁縟を加え、古えの質素を尚ぶ意を次第に失った。宋・金は多く唐制に従ったが、その壇壝・礼器を経典によって考証すれば、固より全く合致するものではなく、その儀法は具わっている。当時名儒が輩出したが、経典を援用して定めなかったわけではなく、古今を斟酌して礼を行ったのもまた宜しかったのである。今、唐・宋・金の親祀・摂行の儀注および雅楽の節次を検討し、集議に従うべきである」。太常寺が議して言うには、「郊祀の事は、聖朝が金・宋を平定して以来、未だ行う暇がなく、今これを厳修しようとしても、一挙に大備することはできない。しかし始めて議するにあたり、また古今の儀を斟酌し、後世に則を垂れるべきである。中書省が翰林院・集賢院・礼官および礼に明るい人士を会させ、去取を講明して奏聞することを請う」。中書省が集議して言うには、「行うべき礼儀は、草創によって備えることはできない。唐・宋には皆摂行の礼があり、従祀と受胙を除く一切の儀注は悉く唐制に依ってこれを修める」。

八月十二日、太常寺が言うには、「祖を尊び天に配する礼儀楽章は別に常典がある。もし当日になってこれを議すれば、慌ただしく誤りがあることを恐れる」。ここにおいて中書省の臣が奏して言うには、「古来漢人が天下を有する者は、その祖宗は皆天に配して祭りを享けた。臣らが平章何栄祖と議したところ、宗廟は既に時に従って祭享しているので、今の郊祀はただ天を祭るのみとする」。制が下って「可」とした。この年の南郊では、配位は遂に省かれた。

十一年、武宗が即位した。秋七月甲子、御史大夫鉄古迭児に命じて即座に南郊において天地に告謝せしめ、主に柏を用い、素質に玄書し、即位の告謝の始めとした。

至大二年冬十月乙酉、尚書省の臣および太常礼官が言うには、「郊祀は国の大礼である。今、南郊の礼は既に行われたが未だ備わらず、北郊の礼は未だ行われていない。今年冬至の南郊には、太祖聖武皇帝を配享することを請う。来年夏至の北郊には、世祖皇帝を配する」。帝は皆これを是とした。十二月甲辰朔、尚書太尉右丞相・太保左丞相・田司徒・郝参政らがまた奏して言うには、「南郊において圜丘で天を祭る大礼は既に挙行された。その北郊において方沢で皇地祇を祭り、併せて神州地祇・五岳四瀆・山林川沢および朝日夕月を祭ることは、これ国家の崇礼すべきものである。聖明の御世に当たってこれを行わなければ、恐らく遂に廃弛するであろう」。制が下って言うには、「卿らの議は甚だ是である。その即座に行え」。

至大三年春正月、中書礼部が太常礼儀院に移文し、博士に北郊従祀・朝日夕月の礼儀を擬定させた。博士李之紹・蒋汝礪が疏を上して言うには、「方丘の礼を按ずるに、夏は五月、商は六月、周は夏至に行い、その丘は国の北にある。礼神の玉は黄琮を用い、犠牲は黄犢を用い、幣は黄繒を用い、后稷を配する。その方壇の制は、漢では都城より四里を去り、壇四陛を設けた。唐では宮城の北十四里を去り、八角三成の方壇を設け、毎成の高さ四尺、上は十六歩の広さとし、陛を設けた。上等の陛は広さ八尺、中等の陛は一丈、下等の陛は広さ一丈二尺である。宋は徽宗に至って初めて再成と定めた。歴代の制は同じからずといえども、三成の式を出るものはない。今、坤の数六を用いる義を取って、都城の北六里を去り、壬の地に善地を選択し、その中に方壇を設け、三成四陛とし、外に三壝を設けることを擬す。なお古制に依り、外壝の外より、四面を治めて稍々低くし、沢中の制に応ずる。宮室・牆囲・器皿の色は、併せて黄を用いる。その再成八角八陛の制は古制に非ず、用い難い。その神州地祇以下の従祀は、漢以来、歴代の制度一様でなく、唐に至って初めて隋制に因り、岳鎮海瀆・山林川沢・丘陵墳衍原隰を、各その方に従って従祀させた。今どうして参酌して挙行しないことがあろうか」。秋九月、太常礼儀院がまた博士に下し、用いるべき器物を検討させた。十一月丙申、南郊において事有り、太祖を配し、五方帝・日月星辰を従祀した。

仁宗延祐元年夏四月丁亥、太常寺の臣が北郊を立てることを請うた。帝は謙遜して未だ遑がなく、北郊の議は遂に中止された。

英宗至治二年九月、南郊祀事を議する旨有り。中書平章買閭、御史中丞曹立、礼部尚書張埜、学士蔡文淵・袁桷・鄧文原、太常礼儀院使王緯・田天沢、博士劉致らが都堂に会して議した。

一に年分について。前代は多く三年に一祀であり、天子の即位は既に三年に及び、常に旨を欽みて依るべきである。

第二は神位である。周礼大宗伯に「禋祀をもって昊天上帝を祀る」とある。注に「昊天上帝とは、冬至に圜丘で祀る天皇大帝である」と謂う。また「蒼璧をもって天を礼す」とある。注に「これは冬至に天を礼するもので、天皇大帝を謂う。北極に在り、これを北辰と謂う」と云う。また「北辰天皇耀魄宝なり、また昊天上帝と名づけ、また太一帝君と名づく。その尊大なるを以て、故に数名あり」と云う。今、晋書天文志中宮を按ずるに「鈎陳口中の一星を天皇大帝と曰い、その神は耀魄宝なり」とある。周礼の祀る天神は、正に昊天上帝を言う。鄭氏は星経をもってこれを推し、乃ち天皇大帝に即すと謂う。然れども漢・魏以来、名号もまた一様ならず。漢初は上帝、太一、皇天上帝と曰い、魏は皇皇帝天と曰い、梁は天皇大帝と曰う。ただ西晋のみ昊天上帝と曰い、周礼に合う。唐・宋以来、壇上に既に昊天上帝第一等を設け、また天皇大帝あり。その五天帝と太一・天一等は、皆経典に見えざるものなり。本朝大徳九年、中書の円議に、ただ周礼に依り、昊天上帝を祀る。至大三年の円議に、五帝は従享とし、前代の通祭に依るとす。

第三は配位である。孝経に曰く「孝は厳父より大なるは莫く、厳父は天に配するより大なるは莫し」と。また曰く「郊祀して后稷を以て天に配す」と。これが郊祀に配位のある所以である。漢・唐以下、皆然らざるは無し。至大三年冬十月三日、旨を奉じて十一月冬至に南郊を合祭し、太祖皇帝を配す。円議して旨を取る。

第四は告配である。礼器に曰く「魯人将に事を上帝に有らんとすれば、必ず先ず事を頖宮に有り」と。注に「后稷に告ぐるなり。これを告ぐるは、将に以て天に配せんとするなり」と。告には牛一を用う。宋会要に、致斎の二日、廟に宿して配を告ぐ。凡そ官を遣わし犠尊豆籩を用い、一献の礼を行う。至大三年十一月二十一日、質明に事を行う。初献摂太尉、太常礼儀院官とともに太廟に赴き奏告す。円議して旨を取る。

第五は大裘冕である。周礼司裘に「大裘を掌りて、以て王の祀天の服に共す」とあり、鄭司農云う、黒羊裘、服して以て天を祀り、質を示すと。弁師に「王の五冕を掌る」とあり、注に「冕服に六有りて、五を言うは、大裘の冕は蓋し旒無く、聯ねて数えざるなり」と。礼記郊特牲に曰く「郊の祭は、長日の至るを迎うるなり。祭の日、王は衮を被りて以て天に象り、冕〔璪〕十有二旒を戴くは、則ち天の数なり」と。陸佃曰く「礼は盛ならざれば服充たさず、蓋し大裘を服し衮を以てこれを襲うなり。冬祀に大裘を服し、衮を以てこれを被るを謂う」と。開元及び開宝通礼に、鸞駕宮を出で、衮冕を服して大次に至り、質明に大裘冕に改服して次を出づ。宋会要紹興十三年に、車駕廟より青城に赴き、通天冠・絳紗袍を服し、祀日に大裘衮冕を服す。円議に衮冕を用い、旨を取る。

第六は匏爵である。郊特牲に曰く「郊の祭は、器に陶匏を用い、以て天地の性に象る」と。注に謂う「陶は瓦器、匏は酌献の酒に用う」と。開元礼・開宝礼に、皆匏爵有り。大徳九年、正配位に匏爵を用い坫有り。円議に正位に匏を用い、配位の飲福に玉爵を用い、旨を取る。

第七は戒誓である。唐通典は礼経を引き、祭の前期十日に親しく百官及び族人を戒め、太宰は群官を総戒す。唐は祀の前七日、宋会要は十日。纂要に太尉南向し、司徒・亜終献・一品・二品従祀北向し、行事官以次に北向し、礼直官誓文を以てこれを授け太尉読む。今天子親しく大礼を行い、ただ礼直局管勾に誓文を読ましむ。円議に管勾に太尉に代わって誓を読ましめ、刑部尚書これを蒞む。

第八は散斎・致斎である。礼経に前期十日、唐・宋・金は皆七日、散斎四日、致斎三日。国朝親祀太廟七日、散斎四日を別殿に、致斎三日を大明殿にす。円議に前の七日に依る。

第九は藉神席である。郊特牲に曰く「莞簟の安きに、而して蒲越槀鞂を尚ぶ」と。注に「蒲越槀鞂は、神席を藉ぐるなり」と。漢旧儀に高帝天に配し紺席、祭天に六綵綺席六重用う。成帝即位し、丞相衡・御史大夫譚、天地は質を尚ぶと以為い、宜しく皆修する勿れとし、詔従う。唐麟徳二年詔に曰く「自らは厚きを以て処し、天を奉ずるには薄きを以てす、裀褥を用い改む。上帝には蒼を以てし、その余は各その方色を視よ」と。宋は褥を席の上に加え、礼官以て礼に非ずと為す。元豊元年、旨を奉じて設けず。国朝大徳九年、正位は槀鞂、配位は蒲越、青繒を以て冒す。至大三年、青綾褥を加え、青錦方座す。円議に至大三年に合い、席の上に褥を設け、各方位に依る。

第十は犠牲である。郊特牲に曰く「郊は特牲にして社稷は太牢」と。また曰く「天地の牛は角繭栗」と。秦は騮駒を用う。漢文帝は五帝一牲を共にす。武帝は三年一祀し、太牢を用う。光武は元始の故事を采り、天地犢を共にす。隋は上帝・配帝に、蒼犢二。唐開元は牛を用う。宋は正位に蒼犢一、配位に太牢一を用う。国朝大徳九年、蒼犢二、羊豕各九。至大三年、馬純色肥腯一、牲正副一、鹿十八、野猪十八、羊十八。円議に旧儀に依る。神位配位は犢を用いる外、仍お馬を用い、その余は並びに旧日已に行われた典礼に依る。

第十一は香鼎である。大祭に三有り、始煙は神を歓ばしむる為、始め宗廟は則ち蕭を焫し鬯を祼し、所謂臭陽牆屋に達するものなり。後世香を焚くは、蓋しこれに本づくも、礼経の正に非ず。至大三年、陶瓦香鼎五十を用い、神座香鼎・香盒案各一。円議に旧儀に依る。

第十二は割牲である。周礼に、司士「凡そ祭祀、其の属を帥いて牲を割き、俎豆を羞す」と。また諸子に「大祭祀六牲の体を正す」と。礼運に云う「其の俎を腥にし、其の殽を熟にし」「其の犬豕牛羊を体す」と。注に云う「其の俎を腥にするは、豚解してこれを腥にし、七体と為すを謂う。其の殽を熟にするは、体解してこれを爓にし、二十一体と為すを謂う。其の犬豕牛羊を体すは、骨肉の貴賤を分別し、以て衆俎と為すを謂う」と。七体は、脊・両肩・両拍・両髀を謂う。二十一体は、肩・臂・臑・膊・骼・正脊・脡脊・横脊・正脅・短脅・代脅へいびに腸三・胃三・拒肺一・祭肺三を謂う。宋元豊三年、詳定礼文所言う、古え祭祀に牲を用うるに、豚解有り、体解有り。豚解すれば則ち七と為し、以て腥を薦む。体解すれば則ち二十一と為し、以て熟を薦む。蓋し犬豕牛羊、骨肉の貴賤を分別し、これを解いて体と為すは、則ち均しきなり。皇朝馬牛羊豕鹿は、並びに至大三年に依り、割牲に国礼を用う。円議に旧儀に依る。

第十三は大次・小次である。周礼掌次に「王が上帝に旅する時、氈案を張り皇邸を設ける」とある。唐の通典には、祭祀の三日前に尚舎直長が外壝の東門の内、道の北に大次を設け、南向きとするとある。宋会要には、祭祀の三日前に儀鸞司がその属を率い、外壝の東門の内、道の北に大次を設け南向きとし、小次を午階の東に設け西向きとするとある。曲礼に「阼に践み、祭祀に臨む」とある。正義に「阼は主階なり。天子祭祀に主階を履みて行事す、故に阼に践むと云う」とある。宋の元豊詳定礼文所の言うには、周礼宗廟には小次を設ける文なし。古えは人君、阼階に臨位す。蓋し阼階は東階なり、惟だ人主のみ主階に位して行事するを得たり。今、国朝の太廟儀注では、大次・小次は皆西にあり、蓋し国家は右を尚び、西を以て尊しと為すなり。円議は祀廟儀注に依る。

続いて末議を具す:

第一は礼神の玉である。周礼大宗伯に「禋祀を以て昊天上帝を祀る」とある。注に「禋は煙の言なり、周人は臭を尚び、煙気の臭の聞こゆる者なり。柴を積み牲体を実し、或いは玉帛あり」とある。正義に「或いは玉帛あり、或いは玉帛を用いず、皆定まらざるの辞なり」とある。崔氏の云うには、天子自ら玉帛牲体を柴上に奉り、詩の「圭璧既に卒つ」を引き、是れ牲玉を燔くなり。蓋し卒とは終なり、礼神既に終わり、当に之を蔵すべきを謂うなり。正経には即ち燔玉の明証無し。漢の武帝、太乙を祠り、胙余は皆燔き、玉無し。晋は牲幣を燔き、玉無し。唐・宋に至りて乃ち之あり。顕慶中、許敬宗等旧礼を修め、乃ち云う「郊天に四圭有るは、猶お宗廟に圭瓚有るが如し」と、並びに事畢りて収蔵し、燔列に在らずと。宋の政和礼制局の言うには「古の祭祀、玉を用いざる無し。周官典瑞は玉器の蔵を掌る、蓋し事已れば則ち蔵し、事有れば則ち出して復用い、未だ嘗て燔瘞の文有らざるなり。今後大祀、礼神の玉は時に出して用い、燔瘞するを得ず」と。之に従う。蓋し燔く者は其の煙気の臭の聞こゆるを取るなり。玉は既に煙無く、又且つ気無し、祭の日は但だ神座に奠め、事既に卒えば、則ち之を収蔵す。

第二は飲福である。特牲饋食礼に曰く、尸九飯し、親しく主人に嘏す。少牢饋食礼に尸十一飯し、尸、主人に嘏す。嘏は長なり、大なり。行礼此に至り、神明已に饗い、盛礼俱に成る、故に長大の福を祭の末に膺受す。漢以来、人君一献纔に畢りて嘏を受く。唐の開元礼では太尉未だ堂に升らざるに、皇帝飲福す。宋の元豊三年、改めて亞終献に従う。既に行礼し、皇帝飲福受胙す。国朝至治元年の親祀廟儀注も、亦た一献畢りて飲福を用う。

第三は升煙である。禋は煙の言なり、煙を升むるは陽に報ゆる所以なり。天を祀るに禋柴有るは、猶お地を祭るに瘞血有り、宗廟に祼鬯有るが如し。歴代以来、或いは先に燔きて後に祭り、或いは先に祭りて後に燔く、皆未だ允ならず。祭の日、楽六変にして牲首を燔く、牲首も亦た陽なり。祭終り、爵酒饌物及び牲体を以て、壇に燎す。天子燎を望み、柴は柏を用う。

第四は儀注である。礼経は秦火の後に出で、残闕脱漏し、存する所幾ばくも無し。漢に至り、諸儒各々見る所を執す。後人の宗とす所は、惟だ鄭康成・王子廱のみ、而して二家自ら相矛盾す。唐の開元礼・杜佑の通典に至り、五礼略ぼ完し。宋に至り、開宝礼并びに会要と郊廟奉祠礼文、中間に講明して始めて備わる。金国は大率唐・宋の制度に依る。聖朝は四海一家、礼楽の興るは、政に今日に在り。況んや天子親しく大礼を行い、用うる所の儀注は、必ず講求に合すべし。大徳九年、中書集議し、行うべき礼儀は唐制に依る。至治元年既に祀廟儀注有り、宜しく大徳九年・至大三年并びに今次の新儀を取り、唐制と参酌し増損して之を修むべし。侍儀司は鹵簿を編排し、太史院は星位を具報し、分献官員数及び行礼并びに諸執事官は、至大三年の儀制に合せ亞終献官は、旨を取るべし。

是の歳、太皇太后崩御し、旨有りて冬至の南郊祀事は、権りに止むべし。

泰定四年春正月、御史臺臣言う「世祖より英宗に至るまで、咸しく未だ親郊せず、惟だ武宗・英宗は親しく太廟を享けり。陛下宜しく躬ら郊廟を祀るべし」と。制して曰く「朕当に世祖の旧典に遵うべし、其れ大臣を命じて摂行して祀事せしめよ」と。閏九月甲戌、天地を郊祀し、五嶽四瀆・名山大川に致祭す。

至順元年、文宗将に親郊せんとし、十月辛亥に太常博士言う「親祀の儀注已に具わる、事に未だ尽きざる者有り、前代の典礼に按ずるに。親郊の七日、百官郊壇に於いて儀を習う。今既に受戒誓と相妨ぐ、合には致斎の前一日に、祭に与る執事者に告示し、各々公服を具えて南郊に赴き儀を習うべし。親祀太廟は防禁有りと雖も、然れども郊外は尤も厳に戒むべく、往来は清粛を貴ぶ。凡そ祭に与る執事・斎郎・楽工、旧より盥洗の位を設けず、殊に涓潔の道に非ず。今合には饌殿・斎班庁前及び斎宿の所に、宜しきに随い数処の盥洗を設置し、俱に鍋釜に温水を置き盆杓巾帨を備え、人をして掌管省諭せしめ、必ず盥洗して然る後に行事せしめ、違う者は之を治すべし。祭日、太常院は官を分かち神厨を提調し、割烹を監視す。上下の燈燭[左米右凡]燎は、以前雖も翦燭提調[左米右凡]盆等の官有りと雖も、率皆故事に虚応し、或いは物料を減刻し、燭燎明らかならず。又嘗て奉礼の胙を賜うを賛したる後、献官方に退かざるに、所司便服にて俎を徹し、壇上の燈燭一時に俱に滅し、因って雑人壇に登り攘奪し、禁止する能わず、甚だ褻慢なり。今宜しく禁約し、省牲の前に、凡そ壝門に入る人は、皆窄紫を服し、官有る者は公服す。四壝の紅門を禁治し、宜しく所司に関木鎖鑰を添造せしめ、祭畢りて即ち閉鎖せしめ、雑人の入るを得ざらしむべし。其の藁秸匏爵は、事畢りて合には大徳九年の例に依りて之を焚くべし」と。壬子、御史臺臣言う「祭日、宜しく股肱近臣及び諸執事人に飲酒せざるを敕すべし」と。制して曰く「卿の言甚だ善し、其れ中書に移文して之を禁ぜよ」と。丙辰、監察御史楊彬等言う「礼に、帝を享くるには必ず始祖を以て配す、今未だ配位を設くると聞かず、窃に礼文の闕くるを恐る。又、先祀の一日、皇帝必ず法駕を備え出でて郊次に宿す、其の扈従近侍の臣未だ嘗て経歴せず、宜しく加えて戒敕を申し、以て孚誠に達すべし」と。命じて中書と議して行わしむ。十月辛酉、始めて大裘衮冕を服し、親しく昊天上帝を南郊に祀り、太祖を以て配す。世祖六合を混一してより、文宗に至るまで凡そ七世、而して南郊親祀の礼始めて克く挙げらる、蓋し器物儀注是に至りて益々詳慎を加うるなり。

至元十二年(1275年)冬十二月より、香・酒・脯臡を用いて一献の礼を行った。而至治元年(1321年)冬の二度の祭告、泰定元年(1324年)の正月、いずれもこれを用いた。大徳九年(1305年)の冬至より、純色の馬一頭、蒼犢(黒色の子牛)一頭、羊・鹿・野豕(猪)各九頭を用いた。十一年(1307年)秋七月、馬一頭、蒼犢の正副各一頭、羊・鹿・野豕各九頭を用いた。而至大年間(1308-1311年)の告謝祭五度、皇慶から延祐年間(1312-1320年)の告謝祭七度、及び至治三年(1323年)冬の告謝祭二度、泰定元年(1324年)の二月、いずれも大徳十一年の数と同様であった。泰定四年(1327年)閏九月、特に皇地祇に黄犢(黄色の子牛)一頭を加え、祀る前夜に新たに獲た鹿二頭を送るよう命じた。ただ至大三年(1310年)の冬至には、正位・配位の蒼犢はいずれも一頭、五方帝の犢は各一頭で、いずれもその方の色に従い、大明に青犢、夜明に白犢を各一頭、馬一頭、羊・鹿・野豕各十八頭、兎十二頭を用い、四年(1311年)四月もこれに同じであった。その犠牲・品物・香・酒は、いずれも国礼を参考に用い、豊かさと簡素さは同じではなかった。告謝は大祀ではないのに、用いる物に違いがなかったのは、いわゆる一度に全てを完備することができなかったということなのだろうか。

南郊の礼は、その始めは告祭であり、後に大祀が行われたが、いずれも摂事(代行祭祀)であった。故に摂祀の儀礼が特に詳しい。

壇壝(祭壇と囲い):場所は麗正門外の丙位(南東)にあり、凡そ三百八畝余りである。壇は三成(三段)で、毎成の高さは八尺一寸、上成は縦横五丈、中成は十丈、下成は十五丈である。四つの階段が午(南)貫地子午卯酉(北南東西)の四位に通じ、各階段は十二級である。外に二重の壝(囲い)を設ける。内壝は壇から二十五歩離れ、外壝は内壝から五十四歩離れている。各壝には四門あり、外垣の南には櫺星門が三つ、東西には櫺星門が各一つある。圜壇の周囲上下は全て甓(煉瓦)で護られ、内外の壝は各高さ五尺、壝の四面には各三つの門があり、全て赤く塗られていた。至大三年(1310年)冬至、三成では従祀の版位を収容するのに不足したため、青い縄で一成に代えた。縄は二百本、各長さ二十五尺で、四成の制を満たした。

燎壇(かがり火の壇)は外壝内の丙巳(南東)の位置にあり、高さ一丈二尺、四方各一丈、周囲も甓で護られ、東西南の三方向に階段があり、上部南側に戸口が開き、上部の幅は六尺で、深さは柴を収容できるほどである。香殿三間は、外壝の南門の外、やや西にあり、南向きである。饌幕殿五間は、外壝の南門の外、やや東にあり、南向きである。省饌殿一間は、外壝の東門の外、やや北にあり、南向きである。

外壝の東南に別院がある。内神厨五間、南向き;祠祭局三間、北向き;酒庫三間、西向き。献官の斎房二十間は、神厨の南垣の外にあり、西向き。外壝の南門の外に、中神門五間があり、諸執事の斎房六十間がこれを翼のように挟み、いずれも北向きである。両翼の端にはいずれも垣があり、東西の周垣に接し、各々門を設けて出入りに便とした。斉班庁五間は、献官斎房の前にあり、西向き。儀鸞局三間、法物庫三間、都監庫五間は、外垣内の西北隅にあり、いずれも西向き。雅楽庫十間は、外垣の西門の内、やや南にあり、東向き。演楽堂七間は、外垣内の西南隅にあり、東向き。献官厨三間は、外垣内の東南隅にあり、西向き。犠牲を洗い養う所は、外垣の南門の外、やや東にあり、西向き。内犠牲房三間は、南向きである。

位:昊天上帝の位は天壇の中央、やや北に、皇地祇の位はその東次、やや後退して置かれ、いずれも南向きである。神席は全て繒(絹)で縁取り、綾の褥と素の座、昊天上帝は色を全て青に、皇地祇は色を全て黄にし、敷物は全て藁秸わらを用いる。配位は東に位置し、西向きである。神席は綾の褥と錦の方形の座、色は全て青にし、敷物は蒲越(蒲のむしろ)を用いる。

その従祀の圜壇、第一等は九位である。青帝の位は寅(東北東)、赤帝の位は巳(南南東)、黄帝の位は未(南南西)、白帝の位は申(西南西)、黒帝の位は亥(北北西)にあり、神主は全て柏を用い、素地に黒字で書く;大明の位は卯(東)、夜明の位は酉(西)、北極の位は丑(北北東)、天皇大帝の位は戌(西北西)にあり、神位版を用い、赤地に黄字で書く。神席・綾褥・座は各々その方の色に従い、敷物は全て藁秸を用いる。

第二等の内官の位は五十四ある。鈎星・天柱・玄枵・天厨・柱史は子(北)の位置にあり、その数五;女史・星紀・御女は丑(北北東)の位置にあり、その数三;子から丑まで、神位は全て西を上とする。帝座・歳星・大理・河漢・析木・尚書は寅(東北東)の位置にあり、帝座は前行に居し、その数六、南を上とする。陰德・大火・天槍・玄戈・天床は卯(東)の位置にあり、その数五、北を上とする。太陽守・相星・寿星・輔星・三師は辰(東南東)の位置にあり、その数五、南を上とする。天一・太一・内厨・熒惑・鶉尾・勢星・天理は巳(南南東)の位置にあり、天一・太一は前行に居し、その数七、西を上とする。北斗・天牢・三公・鶉火・文昌・内階は午(南)の位置にあり、北斗は前行に居し、その数六;填星・鶉首・四輔は未(南南西)の位置にあり、その数三;午から未まで、全て東を上とする。太白・実沈は申(西南西)の位置にあり、その数二、北を上とする。八穀・大梁・杠星・華蓋は酉(西)の位置にあり、その数四;五帝内座・降婁・六甲・伝舎は戌(西北西)の位置にあり、五帝内座は前行に居し、その数四;酉から戌まで、全て南を上とする。紫微垣・辰星・陬訾・釣陳は亥(北北西)の位置にあり、その数四、東を上とする。神席は全て莞席いぐさのむしろを敷き、内壝外の諸神位も全て同じである。

第三等中官百五十九位。虚宿・女宿・牛宿・織女・人星・司命・司非・司危・司祿・天津・離珠・羅堰・天桴・奚仲・左旗・河鼓・右旗は子の方位に位置し、虚宿・女宿・牛宿・織女は前行にあり、その数十七。月星・建星・斗宿・箕宿・天雞・輦道・漸臺・敗瓜・扶筐・匏瓜・天弁・天棓・帛度・屠肆・宗星・宗人・宗正は丑の方位に位置し、月星・建星・斗宿・箕宿は前行にあり、その数十七。子より丑に至るまで、皆西を上とする。日星・心宿・天紀・尾宿・罰星・東咸・列肆・天市垣・斛星・斗星・車肆・天江・宦星・市樓・候星・女床・天籥は寅の方位に位置し、日星・心宿・天紀・尾宿は前行にあり、その数十七、南を上とする。房宿・七公・氐宿・帝席・大角・亢宿・貫索・鍵閉・鈎鈐・西咸・天乳・招搖・梗河・亢池・周鼎は卯の方位に位置し、房宿・七公・氐宿・帝席・大角・亢宿は前行にあり、その数十五、北を上とする。太子星・太微垣・軫宿・角宿・攝提・常陳・幸臣・謁者・三公・九卿・五内諸侯・郎位・郎將・進賢・平道・天田は辰の方位に位置し、太子星・太微垣・軫宿・角宿・攝提は前行にあり、その数十六、南を上とする。張宿・翼宿・明堂・四帝座・黄帝座・長垣・少微・靈臺・虎賁・從官・内屏は巳の方位に位置し、張宿・翼宿・明堂は前行にあり、その数十一、西を上とする。軒轅・七星・三臺・柳宿・内平・太尊・積薪・積水・北河は午の方位に位置し、軒轅・七星・三臺・柳宿は前行にあり、その数九。鬼宿・井宿・參宿・天罇・五諸侯・鉞星・座旗・司怪・天關は未の方位に位置し、鬼宿・井宿・參宿は前行にあり、その数九。午より未に至るまで、皆東を上とする。畢宿・五車・諸王・觜宿・天船・天街・礪石・天高・三柱・天潢・咸池は申の方位に位置し、畢宿・五車・諸王・觜宿は前行にあり、その数十一、北を上とする。月宿・昴宿・胃宿・積水・天讒・卷舌・天河・積尸・太陵・左更・天大將軍・軍南門は酉の方位に位置し、月宿・昴宿・胃宿は前行にあり、その数十二。婁宿・奎宿・壁宿・右更・附路・閣道・王良・策星・天廐・土公・雲雨・霹靂は戌の方位に位置し、婁宿・奎宿・壁宿は前行にあり、その数十二。酉より戌に至るまで、皆南を上とする。危宿・室宿・車府・墳墓・虛梁・蓋屋・臼星・杵星・土公吏・造父・離宮・雷電・騰蛇は亥の方位に位置し、危宿・室宿は前行にあり、その数十三、東を上とする。

内壝内の内外官百六位。天壘城・離瑜・代星・齊星・周星・晉星・韓星・秦星・魏星・燕星・楚星・鄭星は子の方位に位置し、その数十二。越星・趙星・九坎・天田・狗國・天淵・狗星・鼈星・農丈人・杵星・糠星は丑の方位に位置し、その数十一。子より丑に至るまで、皆西を上とする。騎陣將軍・天輻・從官・積卒・神宮・傳說・龜星・魚星は寅の方位に位置し、その数八、南を上とする。陣車・車騎・騎官・頡頑・折威・陽門・五柱・天門・衡星・庫樓は卯の方位に位置し、その数十、北を上とする。土司空しくう・長沙・青丘・南門・平星は辰の方位に位置し、その数五、南を上とする。酒旗・天廟・東甌・器府・軍門・左右轄は巳の方位に位置し、その数六、西を上とする。天相・天稷・爟星・天記・外厨・天狗・南河は午の方位に位置し、その数七。天社・矢星・水位・闕丘・狼星・弧星・老人星・四瀆・野雞・軍市・水府・孫星・子星は未の方位に位置し、その数十三。午より未に至るまで、皆東を上とする。天節・九州殊口・附耳・參旗・九斿・玉井・軍井・屏星・伐星・天厠・天矢・丈人は申の方位に位置し、その数十二、北を上とする。天園・天陰・天廪・天苑・天囷・芻藁・天庾・天倉・鈇鑕・天溷は酉の方位に位置し、その数十。外屏・大司空・八魁・羽林は戌の方位に位置し、その数四。酉より戌に至るまで、皆南を上とする。哭星・泣星・天錢・天綱・北落師門・敗臼・斧鉞・壘壁陣は亥の方位に位置し、その数八、東を上とする。

内壝外の衆星三百六十位、各辰毎に神位三十。第二等以下より、神位の版は皆丹質に黄書。内官・中官・外官は則ち各々その星名を題し、内壝外の三百六十位は、惟だ「衆星位」と題すのみ。凡そ従祀の位は皆内向き、十二次は微かに左旋し、子は子陛の東に居り、午は午陛の西に居り、卯は卯陛の南に居り、酉は酉陛の北に居る。

器物の等、その目八つあり。

一に曰く圭幣。昊天上帝には蒼璧一、繅藉有り、青幣一、燎玉一。皇地祇には黄琮一、繅藉有り、黄幣一。配帝には青幣一。黄帝には黄琮一、青帝には青圭一、赤帝には赤璋一、白帝には白琥一、黒帝には玄璜一、幣は皆その方の色の如し。大明には青圭有邸、夜明には白圭有邸、天皇大帝には青圭有邸、北極には玄圭有邸、幣は皆その玉の色の如し。内官以下は皆青幣。

二に曰く尊罍。上帝には太尊・著尊・犧尊・山罍各二、壇上の東南隅に在り、皆北向き、西を上とす。設けて酌まざる者は、象尊・壺尊各二、山罍四、壇下の午陛の東に在り、皆北向き、西を上とす。皇地祇も亦た之の如し、上帝の酒尊の東に在り、皆北向き、西を上とす。配帝には著尊・犧尊・象尊各二、地祇の酒尊の東に在り、皆北向き、西を上とす。設けて酌まざる者は、犧尊・壺尊各二、山罍四、壇下の酉陛の北に在り、東向き、北を上とす。五帝・日月・北極・天皇には、皆太尊一、著尊二。内官十二次には、各象尊二。中官十二次には、各壺尊二。外官十二次には、各概尊二。衆星十二次には、各散尊二。凡そ尊は各々神座の左に設けて右向きとし、皆坫有り、勺有り、冪を加う。冪は雲を以て絵し、惟だ設けて酌まざる者は勺無し。

第三に籩豆登俎の制。昊天上帝・皇地祇及び配帝には、籩豆は各十二、登三、簋二、簠二、俎八、いずれも匕筯を備え、玉幣篚二、匏爵一、坫あり、沙池一、青甆牲盤一。従祀の九位には、籩豆は各八、簠一、簋一、登一、俎一、匏爵一、坫あり、沙池一、玉幣篚一。内官位五十四には、籩豆は各二、簋一、簠一、登一、俎一、匏爵に坫・沙池・幣篚あり、十二次各一。中官百五十八には、皆籩一、豆一、簋一、簠一、俎一、匏爵に坫・沙池・幣篚あり、十二次各一。外官位百六には、皆籩一、豆一、簋一、簠一、俎一、匏爵・沙池・幣篚あり、十二次各一。衆星位三百六十には、皆籩一、豆一、簋一、簠一、俎一、匏爵・沙池・幣篚あり、十二次各一。これが籩・豆・簠・簋・登・爵・篚の数である。凡そ籩を設けるは神位の左に居し、豆は右に居し、登・簠・簋は中に居し、俎は後に居す。籩には皆巾あり、巾には斧を描く。

第四に酒齊の制。太尊に泛齊をたし、著尊に醴齊を実たし、犧尊に盎齊を実たし、山罍に三酒を実たし、皆上尊あり。馬湩は尊罍の前に設け、器に注いでおおう。設けて酌まざるものは、象尊に醴齊を実たし、壺尊に沈齊を実たし、山罍二に三酒を実たし、皆上尊あり、以て昊天上帝を祀る。皇地祇もまたこれに同じ。著尊に泛齊を実たし、犧尊に醴齊を実たし、象尊に盎齊を実たし、山罍に清酒を実たし、皆上尊あり。馬湩は前に如く設く。設けて酌まざるものは、犧尊に醍齊を実たし、壺尊に沈齊を実たし、山罍三に清酒を実たし、皆上尊あり、以て配帝を祀る。太尊に泛齊を実たし、著尊に醍齊を実たし、皆上尊あり、九位同じく、以て五帝・日月・北極・天皇大帝を祀る。象尊に醴齊を実たし、上尊あり、十二次同じく、以て内官を祀る。壺尊に沈齊を実たし、上尊あり、十二次同じく、以て中官を祀る。概尊に清酒を実たし、上尊あり、十二次同じく、以て外官を祀る。散尊に昔酒を実たし、上尊あり、十二次同じく、以て衆星を祀る。凡そ五齊の上尊は、必ず皆明水を実たし、山罍の上尊は、必ず皆玄酒を実たし、散尊の上尊もまた明水を実たす。

第五に牲齊庶器の制。昊天上帝には蒼犢、皇地祇には黄犢、配位には蒼犢、大明には青犢、夜明には白犢、天皇大帝には蒼犢、北極には玄犢、各一、馬純色一、鹿十八、羊十八、野豕十八、兔十二、蓋し国礼をまじう。牲を割いて七体と為す:左肩臂臑兼ね代脅・長脅を一体と為し、右肩臂臑・代脅・長脅を一体と為し、左髀肫胳を一体と為し、右髀肫胳を一体と為し、脊連背膚短脅を一体と為し、膺骨臍腹を一体と為し、項脊を一体と為し、馬首報陽升烟には則ち之を用う。毛血は豆に盛り、或いは青甆盤にす。饌未だ入らざる時は俎上に置き、饌入れば徹去す。籩の実は、魚鱐・糗餌・粉餈・棗・乾䕩・形鹽・鹿脯・榛・桃・菱・芡・栗。豆の実は、芹菹・韭菹・菁菹・筍菹・脾析菹・𨠑食・魚醢・兔醢・豚拍・鹿臡・醓醢・糝食。凡そ籩の用いること八なる者は、糗餌・粉餈・菱・栗無し。豆の用いること八なる者は、脾析菹・𨠑食・兔醢・糝食無し。用いること皆二なる者は、籩は鹿脯・乾棗を以てし、豆は鹿臡・菁葅を以てす。用いること皆一なる者は、籩は鹿脯を以てし、豆は鹿臡を以てす。凡そ簠・簋の用いること皆二なる者は、簋は黍・稷を以てし、簠は稻・粱を以てす。用いること皆一なる者は、簋は稷を以てし、簠は黍を以てす。登には大羹を実たす。

第六に香祝の制。洗位正位に香鼎一、香合一、食案一、祝案一、皆衣あり、拜褥一、盥爵洗位一、罍一、洗一、白羅巾一、親祀匜二、盤二。地祇配位も皆之に同じ。香は龍脳沉香を用う。祝版の長さ各二尺四寸、闊さ一尺二寸、厚さ三分、木は楸柏を用う。従祀九位には、香鼎・香合・香案・綾拜褥各九、褥は各其の方の色に随い、盥爵洗位二、罍二、洗二、巾二。第二等には、盥爵洗位二、罍二、洗二、巾二。第三等もまた之に同じ。内壝内には、盥爵洗位一、罍一、洗一、巾一。内壝外もまた之に同じ。凡そ巾には、皆篚あり。従祀以下、香は沈檀降真を用い、鼎は陶瓦を用う。第二等十二次以下、皆紫綾拜褥十二。親祀御版位一、飲福位及び大小次盥洗爵洗版位各一、皆青質金書。亞獻・終獻飲福版位一、黒質黄書。御拜褥八、亞終獻飲福位拜褥一、黄道裀褥寶案二、黄羅銷金案衣、水火鑑。

第七に燭燎の制。天壇椽燭四、皆銷金絳紗籠。天壇より内壝外及び楽縣南北の通道に至るまで、絳燭三百五十、素燭四百四十、皆絳紗籠。御位椽燭六、銷金絳紗籠。献官椽燭四、雑用燭八百、[左米右凡]盆二百二十、架あり。黄桑條の膚を去りたるもの一車、束ねて燎壇に置き、以て牲首を焚く。

第八に献摂執事の制。亞献官一、終献官一、摂司徒一、助奠官二、大礼使一、侍中二、門下侍郎二、礼儀使二、殿中監二、尚輦官二、太僕卿二、控馬官六、近侍官八、導駕官二十四、典寶官四、侍儀官五、太常卿丞八、光祿卿丞二、刑部尚書二、礼部尚書二、奉玉幣官一、定撰祝文官一、書読祝冊官二、挙祝冊官二、太史令一、御奉爵官一、奉𠤷盤官二、御爵洗官二、執巾官二、割牲官二、温酒官一、太官令一、太官丞一、良醞令丞二、廪犧令丞二、糾儀御史四、太常博士二、郊祀令丞二、太楽令一、太楽丞一、司尊罍二、亞終献盥洗官二、爵洗官二、巾篚官二、奉爵官二、祝史四、太祝十五、奉礼郎四、協律郎二、翦燭官四、礼直官管勾一、礼部点視儀えい官二、兵部清道官二、拱衞使二、大都兵馬使二、齋郎百、司天生二、看守[左米右凡]盆軍官百二十。