世に先王没して、民に善俗なしと言う。元が天下を有つて、その教化は必ずしも古の如くではないが、民に孝義を以て聞こえる者は、蓋し乏しからず。豈に天理民彝の人心に存するもの、終に泯びざるにあらざるか。上に立つ人、苟くもその泯びざる所に因り、復た勧奬を加えてこれを興起せば、則ち三代の治も亦た漸く復すべし。
今、史氏の載する所を観るに、その事親篤孝なる者は、則ち臨江の劉良臣、汴梁の陳善、同官の強安、瀋州の高守質、安豊の高澤、鞏昌の王欽、修武の員思忠、榆県の王士寧、河南の朱友諒、泉州の葉森、寧陵の呂德、汲県の劉淇、建昌の鄭佛生、堂邑の張復亨、保定の邢政、寧夏の趙那海、臨潼の任居敬、隴西の周慶・徐德興、汝寧の李従善、華州の要敬、色目氏の沙の有り。
その居喪廬墓する者は、則ち太原の王構、萊州の任梓、平灤の王振、北京の張洪範、登封の王佐、下蔡の許従政・張鐩、富平の王賈僧、鄭州の段好仁・趙璧・薛明善・張齊、汴梁の韓榮・劉斌・張裕・何泰・史恪・高成・鄧孝祖・李文淵・杜天麟・張顯祖、涇陽の張国祥、延安の王旻、東昌の張翬、永平の梁訥、高唐の鄭栄・劉居敬、同州の趙良、南陽の周郁・陳介・劉権、大同の高著・江郁・毛翔、帰徳の葛祥・張徳成・張遜・王珪・劉弼、汲県の徐昌祖、真定の宋貞・王世賢、晉寧の史貴、保定の耿徳溫・張行一・賈秉實・張勖、河南の王宗道・孫裔・夾谷天祐、趙州の趙徳隆、安豊の王徳新・石思讓・翼寧・何溥、大都の王麟・李簡、華陰の李寧・屈秀、懐慶の侯栄・丁用・郭天一、耀州の王思、中牟の閻譲、曹州の鄧淵・呂政、徐州の胡居仁・張允中、衞輝の王慶、福建の朱虞龍、随州の高可燾、済寧の魏鐸、武康の王子中、淮安の翟諟、汶上の趙恒、須城の許時中、衡山の欧陽誠復、江陵の穆堅、薊州の王欽、定陶の元顕祖、絳州の姚好智、宿州の孫克忠、集慶の傅霖、済南の宋懐忠・牟克孝、汝寧の張郁、泉州の黄道賢・谷城・王福、解州の靖与曾、般陽の戴貞、衞州の王治、沔陽の徐勝祖、興中の石抹昌齢、峡州の秦桂華、蒙古・色目氏の納魯丁・赤思馬・改住・阿合馬・拜住・木八剌・玉龍帖木児・鎖住・唐兀歹・晏只哥・李朵羅歹・塔塔思歹有り。
その累世同居する者は、則ち休寧の朱震雷、池州の方時発、河南の李福、真定の杜良、華州の王顕政、建寧の王貴甫、句容の王栄・周成、鄢陵の夏全、保定の成珪、開平の温義、大同の王瑞之、平江の湯文英、鄜州の員従政、江州の范士奇、涇州の李子才、宿州の王珍有り。
その財を散じて急を周する者は、則ち河南の高顏和、台州の程遠大、潭州の湯居恭・李孔英、建康の湯大有、吉州の劉如翁・厳用父、高唐の孟恭、松江の管仲徳・章夢賢・夏椿、江陵の陳一寧、中興の傅文鼎、永州の唐必栄、済南の李恭、寧夏の何恵月有り。
天子皆嘗てその門閭を表し、或いはその家を復す。故に唐史の例を援り、姓名を篇端に具列す。その事蹟尤も彰著なる者を択び、復た別に之が為に傳を為す云う。
郭道卿は、興化莆田の人。四世祖義重は至孝にして、宋紹興の間詔有りて之を旌す。郷里孝子祠を立てる。至元初内附す。閩の盗起こり、居人竄匿す。道卿は弟佐卿と独り孝子祠を守り去るに忍びず、遂に俱に執わる。盗将に佐卿を殺せんとす。道卿泣き告げて曰く、「吾れ児有り已に長ず。弟弱く子幼し。請う弟に代わりて死せん」と。佐卿も亦た泣き告げて曰く、「吾が家事は兄に頼りて以て理む。請う我を殺せ」と。道卿固より頸を引いて刃を請う。盗相顧みて曰く、「汝が孝門の兄弟此の若くんば、吾何ぞ忍びて害せん」と。両つながら之を釈す。
道卿年八十、子廷煒は建寧路平準行用庫使と為り、辞して帰り侍養す。道卿嘗て疝を病み、危甚だし。廷煒憂瘁して扶護し、一夕にして髪尽く白し。有司状を言い、之を旌す。
蕭道寿は、京兆興平の人。家貧しく、筬を鬻ぎて以て自給す。母年八十余り、道寿は事養礼を尽くす。毎朝、母の起つを候い、夫婦親しく盥櫛を侍す。日に三たび飯すれども、必ず母の食するを待ち、然る後に退きて食す。夕に至れば、必ず母の寝るを待ち、然る後に退きて寝す。外出すれば必ず告げ、母許して乃ち敢えて出づ。母或いは怒り、之を罰せんと欲すれば、道寿自ら杖を進め、地に伏して以て受く。杖足れば、母命じて起たしむれば、乃ち起つ。起ちて復た再拝し、教に違えるを謝し、拱立して左右に俟ち、色喜ぶに及びて乃ち退く。母嘗て疾有り、医累歳療する能わず。道寿は股の肉を刲きて之を啖い、而して癒ゆ。至元八年、羊酒を賜い、その門を表す。
郭狗狗は、平陽翼城の人。父寧は、欽察先鋒使首領官と為り、大良平を戍る。宋将史太尉来たり攻む。夜大良平を陥とす。寧の全家俘えらる。史将に寧を殺せんとす。狗狗年五歳、史に告げて曰く、「我が父を殺すこと勿れ。当に我を殺すべし」と。史驚き寧に問うて曰く、「是の児幾歳ぞや」と。寧曰く、「五歳」と。史曰く、「五歳の児能く是の言を為す。吾当に汝が家を全うせん」と。即ち騎を以て寧等を送り合州に往かしむ。道国兵に遇い、騎驚き散ず。寧の家俱に還るを得。御史以て事を聞かしむ。命じて之を旌す。
張閏は、延安延長県の人、軍籍に隷す。八世爨を異にせず、家人百余口、間言無し。日に諸女諸婦をして各々一室に聚まり女功を為さしめ、工畢れば、斂めて一庫に貯え、室に私蔵無し。幼稚啼泣すれば、諸母見る者即ち抱きて哺う。一婦帰寧し、其の子を留む。衆婦共に乳し、孰れが己が児なるかを問わず、児も亦た孰れが己が母なるかを知らず。閏の兄顕卒す。即ち家事を以て姪の聚に付す。聚辞して曰く、「叔は、父の行なり。叔宜しく之を主とすべし」と。閏曰く、「姪は、宗子なり。姪宜しく之を主とすべし」と。相譲ること既に久しく、卒に以て聚に付す。縉紳の家、自ら如かずと謂う。至元二十八年、その門を旌表す。
また蕪湖の芮世通あり、十世同居す。峽州の向存義、汴梁の丁煦、八世同居す。州縣朝に請うて、並びに旌美を加えらる。
田改住、汶上の人。父病みて愈えず、天に禱り、衣を去りて氷上に臥すこと一月。
同縣の王住兒、母病み、氷上に臥すこと半月。
寗猪狗、山丹州の人。母年七十餘、風疾を患い、藥餌效なし、猪狗股肉を割きて進み啖わしむ、遂に愈ゆ。歳餘して復た發し、行くこと能わず、猪狗手づから溷穢を滌ぎ、護視甚だ周し、板輿を造りて母を載せ、夫婦共に舁ぎ、園田を行きて以て之を娛ます。後卒す、喪に居るに禮あり、鄉閭之を稱す。
潭州萬戶移剌瓊の子李家奴、九歳、母病み、醫言う、治すべからずと、李家奴股肉を刲ぎ、糜を煮て以て進む、病乃ち痊ゆ。撫州路總管管如林、渾州の民朱天祥、並びに母疾のため股を刲ぎ、其の家を旌ぐ。
畢也速答立、迷裏氏、秦州に家す。父喪し、墓次に廬し、晝夜悲號す、飛烏翔集し、墳土踴り起つ。
また尹夢龍あり、中興の人。母喪し、土を負いて墳と為し、廬を結びて其の側に居る。手づから孝經を千餘巻書き、鄉人に散じて之を讀ます。羣烏其の冢樹に集まる。
延祐の間、汀州寧化の人賴祿孫、母病み、蔡五九の亂に値い、母を負いて邑人に從い南山に避く。盜至り、眾散走す、祿孫母を守り去らず。盜將に其の母を刃せんとす、祿孫身を以て翼蔽して曰く、「吾が母を傷つくる勿れ、寧ろ我を殺せ」と。母渴す、水を得ず、祿孫唾を含みて之を煦す。盜相顧みて駭歎し、害するに忍びず、反って水を取って之に與う。其の妻を掠め去る者有り、眾之を責めて曰く、「奈何ぞ孝子の婦を辱しむる!」使いて之を歸す。
事聞こえ、並びに褒表を賜う。
劉德泉、汴梁杞縣の人。早く母に喪い、父榮再び王氏に娶り、二子居敬・居元を生む、俱に幼し、德泉甚だ之を撫す。王氏病み卒するに及び、乃ち益々相い友愛す。至元の末、歳饑え、父析居せしめんと欲す、德泉泣きて止むるを得ず、乃ち各其の業を受けて去る。久しうして父卒す、兄弟相約して同爨し、和好初めの如し。
延祐の間、蔚州の吳思達兄弟六人、嘗て父命にて析居す。思達開平縣の主簿と為り、父卒し、家に還る。葬を治め畢り、宗族を會し、泣きて其の母に告げて曰く、「吾が兄弟別処すること十餘年、今多く破産す、一母の生む所を以て、兄弟の苦樂均しからざるを忍びんや」と。即ち家財を以て其の逋を代償し、更に復た共に居る。母卒し、哀毀甚だし。宅後柳連理す、人以て友義の感ずる所と為す。
また朱汝諧あり、濮州の人。父子明嘗て命じて兄汝弼と別産せしむ。子明卒し、汝弼家盡く廢す、汝諧泣きて共居を請う。仲父子昭・子玉貧しく病む、汝諧迎えて家に至らしめ、湯藥甘旨を奉ずること甚だ謹し、後卒し、喪葬禮を盡す。鄉人之を賢とす。
州縣各名を以て聞こえ、其の閭を表す。
郭回は邵武の人である。平素より貧しく、六十歳になっても妻がなく、母を奉じて神祠に寄宿し、養生は甚だ艱難であった。母が九十八歳で亡くなると、郭回は身を傭って銭を得てこれを葬った。毎朝、墳墓に詣でて哭祭し、十四年間絶やさなかった。州がその状を上奏し、命じて衣糧を給して贍済し、なおその異行を表彰した。
張子夔は安西の人である。父が亡くなると、毎夜半、背に土を負い、肘と膝で地を這い、葬所に匍匐して至り、細土を篩って墳を築いた。
陳乞児は帰徳夏邑の人である。九歳の時、母が亡くなり、哀毀して、自ら土を背負って墳を築き、高さ一丈、広さ十六歩に及んだ。人々はその幼さを憐れみ、助けようとしたが、彼は泣いて拝礼し辞退した。
また、峨眉の趙国安、解州の張琛、南陽の李庭瑞、息州の移剌伯顔、南陽の怯烈歹がおり、皆喪に服して至行があり、墓次に廬を結び、土を背負って墳を築いた。いずれも役所の請いにより、その異行を表彰した。
張本は東昌茌平の人である。篤く孝行で、伯父、叔父に事えること皆甚だ謹厳であった。伯父が嘗て病に臥せると、張本は昼夜側を離れなかった。また巾車に載せ、歩いて挽いて岱嶽に詣でて祈禱した。
張慶は真定の人である。継母に善く事えた。伯父の泰が河南に別居していたが、張慶はその貧しさを聞き、迎え帰って養った。供する饍は豊かに備わり、実の父母を上回った。
元善は大名の人である。父に昆弟五人あり、貧しさのため江淮に流散した。久しくして、遂に客死した。至大四年、元善はその骸骨を尋ね求め、併せて弟・姪等十五の喪を迎えて帰り、祖父母を改葬し、諸喪を序列して塋次に祔葬した。
州県がこれを朝廷に奏聞し、併せてその家を旌表した。
趙毓は唐州の人である。父の福は鄭の管城に移った。その先代は、三世同居共炊であった。趙毓は福州司獄の官に任じられ、任期満了して帰郷し、母が老いたため再び仕えなかった。ある日、諸弟を集め、泣いて遺訓を述べ、世々別居しないことを願い、且つ天を祝して歃血して盟った。これより大小百口、少しも間然たる言がなく、同力合作し、家道は殷かになった。趙毓の長兄の瑞は早世し、嫂の劉氏は志を守ったが、趙毓は家人を率いてこれに事えること甚だ恭しかった。次兄の選が続いて亡くなると、嫂の王氏について、趙毓の母はその若さを理由に、帰って再嫁することを許したが、王氏は言った、「婦に再嫁の義はありません。終生姑に事えることを願います」。趙毓の妹は王佑を婿に取ったが、佑が亡くなると、妹は佑の母に子がないことを思い、朱氏に帰ってこれを養うことを乞うた。人は孝・友・節・義が趙毓の一家に集まったと言った。元貞初年、これを旌表した。
胡光遠は太平の人である。母が亡くなり墓側に廬を結んだ。ある夜、夢に母が魚を食べたがっているのを見た。朝起きて天に号泣し、魚を求めて祭ろうとしたところ、生きた魚五尾が墓前に並び、皆噛み痕があった。隣里は驚異し、丁度共に集まって見ていると、獺が草の中から出て、水に浮かんで去った。人々はこれが獺の献じたものと知った。その状を官に聞こえさせ、その閭を表彰した。
陳韶孫は広州番禺の人である。父の瀏が罪により肇州に流された。韶孫は十歳の時、父が遠くに流謫されるのを忍びず、朝夕号泣して従うことを願った。父はこれを阻むことができず、遂に共に行った。万里を跋渉し、労苦を厭わず、道すがら遼陽を通り過ぎた時、平章の塔出がこれを見て憐れみ、彼に言った、「天子は寛仁で、罰は嗣子に及ばない。辺地は苦寒で、汝の堪えられる所ではない。我が汝を故郷に返そう、汝はそれを願うか」。韶孫は言った、「既に身をもって父に代わることができないならば、生死を共にすべきであり、帰ることは願いません」。塔出は驚異し、銭を賜って労った。大徳六年、瀏が死ぬと、韶孫は哀慟し、見る者皆これに泣き下った。肇州万戸府がこれを朝廷に奏聞し、命じて郷里に遣還させ、なおその異行を表彰した。
李忠は晋寧の人である。幼くして孤となり、母に事えること至孝であった。大徳七年、大地震があり、郇保山が移動し、その通過した所の居民の廬舎は、皆摧圧して傾き崩れた。李忠の家に近づくと、山は二つに分かれ、五十余歩進んで再び合わさり、李忠の家だけが無事であった。
呉國寶は雷州の人である。性質は孝順で友愛に篤く、父が喪に服すときは墓の傍らに廬を結んだ。大徳八年、境内に蝗害が起こり作物を損なったが、ただ呉國寶の田だけは損害がなかった。人々は皆、孝行の感動がもたらしたものだと言った。
また黄覚經という者がいた、建昌の人である。五歳のとき、乱のために母を失った。やや成長すると、天に誓い仏書を誦し、母の所在を求めたいと願った。そこで江を渡り淮を渡り、物乞いをしながら行き、風雨を冒し、あらゆる艱苦を経て、汝州梁県の春店に至り、その母を得て帰った。
章卿孫は蜀の人で、もとは劉氏であった。幼くして章提刑の養子となり、母の富氏と離散して三十八年、江西の諸郡を遍く訪ね、迎え帰って養った。
俞全は杭州の人である。幼くして掠奪され、劉餻の家奴に売られた。後に良民となることを得て、汴から歩いて杭州に帰り、その母と姉を尋ね、得て、母に仕えて孝行で知られた。
いずれも役人の請いにより、その里門を表彰した。
一徳が家に至ると、父と兄は既に亡く、ただ母がおり、八十余歳であった。一徳は地を選んで二つの棺を葬り終え、少し留まって母に仕えたいと思ったが、罪を得ることを恐れ、期日通りに燕に戻った。阿思蘭母子は嘆いて言った、「彼は賤しい奴隷であるのに、かくの如くできる。我々はその孝行を成就させないことがあろうか」。即ち証文を裂いて良民に放免した。
王思聰は延安安塞の人である。平素は田畑を耕し、農閑期には諸生を教え、謝礼を得て親を養った。母が喪に服すとき、哀しみを尽くした。父が後妻に楊氏を娶ると、実母のように仕えた。家に幼い者が多く、父の食事を侵すので、別に養老堂という室を築いて父を奉り、朝夕に定省し、ますます久しく怠らなかった。父がかつて重病になったとき、思聰は非常に憂い、天に拝礼して祈り、額と膝は皆瘡となり、神泉を得て飲ませると、治癒した。後に再び失明すると、思聰が舐めると、すぐに見えるようになった。県が状況を上申し、表彰するよう命じた。
王初応は漳州長泰の人である。至大四年二月、父の義士と共に劉嶺山で柴を採っていたとき、虎が叢棘の中から出てきて、義士を襲い、右肩を傷つけた。初応が救いに赴き、鎌刀を抜いて虎の鼻を刺し殺したので、義士は生き延びた。
またその門を表彰した。
鄭文嗣は婺州浦江の人である。その家は十世同居し、凡そ二百四十余年に及び、一銭一尺の布帛も敢えて私せず。至大年間にその門を表彰した。
兄の孟韐は早世し、嫂の林氏は更に劉仲山に嫁いだ。仲山は嘗て田を薦に売り、死ぬに及んで葬ることができず、且つ子がなく、族はその貧しさを以て、敢えて後にしようとする者はいなかった。薦は即ちその田を返し、後を立てさせ、且つ葬りを治めさせた。州は民の死して葬らざる者を禁じ、時に民貧しく未だ葬らざる者多く、令を畏れ、悉く柩を焼き、骨を野中に棄てた。薦はこれを哀しみ、地を以て義阡とし収めて葬った。死して斂することができない者があれば、また棺を買って贈り、人皆これを感じた。至大四年、その郷は旱魃し、民は糴に艱しみ、薦は尽く儲粟を出してこれを賑った。施福ら十一家があり、飢えて死せんとし、薦が聞き、惻然としてこれを救済せんと欲し、家の粟は既に尽き、即ち己の田を以て穀百石に換えて分け与えた。福らは己を生かしたその徳を感じ、毎月朔に、仏祠に会して福を祈った。福建宣慰司が事状を上奏してこれを表彰した。
郭全は遼陽の人である。幼くして母を喪い、哀戚すること成人の如し。壮に及び、父の庭玉また卒し、廬に居ること三載、粥を啜り面は墨の如し。継母の唐古氏に事えること甚だ孝で、唐古氏は四子を生み、皆幼く、全は躬耕して養った。既に長じて婦を娶ると、各々財を分けて異居を求め、全は止めることができず、凡そ田廬器物、悉く自ら朽ちた弊れたものを取り、唐古氏を奉じて居り、甘旨に乏しきことなかった。唐古氏が卒すと、全は年六十余、哀痛して毀瘠し、その墓に廬して喪を終えた。
また劉德という者がおり、奉元の人である。父が後妻の何氏を娶り、德はこれを事えること生みしが如し。家貧しく、傭工して賃銭を取り、寸銭尺帛も皆これを上納した。四弟は皆何氏の出で、德は撫愛すること特に篤かった。年五十にして未だ娶らず、貸し借りして銭を得て先ず弟のために婦を求め、諸弟もまたその徳に化され、一門藹然とした。郷里はこれを劉佛子と称した。
馬押忽は也里可温氏である。平素貧しく、継母の張氏、庶母の呂氏に事え、克く子の職を尽くした。
劉居敬は大都の人である。年十歳の時、継母の郝氏が病み、居敬はこれを憂い、天に懇願して代わることを求めた。
事状が聞こえ、並びにこれを褒め表彰した。
楊皡は扶風の人である。父は清、母は牛氏。牛氏は嘗て病が劇しく、皡は天に叩いて代わることを求め、遂に癒え、この如きこと再びあった。後に牛氏が失明すると、皡は太白山に登って神泉を取り洗うと、また元の如くなった。牛氏が没すると、哀毀すること特に甚だしかった。葬りの日、大雨が降ったが、独り皡の墓の前後数里は、密雲がこれを蔽い、雨は土に沾わず、送る者は大いに喜んだ。葬りを終えると、妻の衞氏に命じて家に居て清を養わせ、皡は独り墓上に廬し、土を負って墳とし、蔬食水飲、その喪を終えた。清が卒しても、またこの如くした。
その後また永平の李彥忠がおり、父の喪に墓に廬し、八年家に至らなかった。
茶陵の譚景星は、幼くして父を失い、そのことを追憶し、墓の傍らに廬を結んで十年を過ごした。
亳州の郭成は、七十一歳の時に母が喪に服し、粥を食い墓傍に廬して一年、朝夕に哭して臨んだ。人々はその老いてなお孝行を尽くせることを哀れんだ。
扈鐸は、汴梁蘭陽の人である。早くに孤児となり、伯父に養育された。壮年になってからは、伯父を実の父のように仕えた。伯父は老いて子がなく、鐸は妾を買い与えたが、一年余りして一女を産んだ。その妾は性質がやや愚鈵で、熟睡して女児を圧死させた。久しくして伯父が卒去すると、鐸は非常に哀悼した。遺腹で一男が生まれたので、鐸は前の失敗を戒め、母と妻の妹に看護させるよう告げ、自らはまた戸外に廬を結び、夜中に注意深く観察し、安らかに寝ることはできなかった。弟が食事できるようになると、常に自ら抱いて食べさせ、同じ寝床で起居し、十年間少しも怠らなかった。弟が病気になると、鐸は夜に星斗に向かって額を地に叩きつけ哀願して言った。「天よ、我が家を滅ぼさないでください。鐸父子の間で一人を去らせてください。我が弟を失わせず、伯父を後継ぎなくさせないでください。」翌朝、弟は快癒した。母が亡くなると、哀傷のあまり礼を越え、墓の傍らに廬を結び、家事を顧みず、宗族が帰るよう勧めても、鐸は言った。「今年は凶作で盗賊が多い。我が家は貧しいが、墓の中に欲しいものがないとどうして分かろうか。もし我が親の霊を驚かせたなら、生きていても何の意味があろうか。」ついに廬を守って去らなかった。
孫秀実は、大寧の人である。性質は剛毅で、人の急難を救うことを喜んだ。同郷の王仲和がかつて秀実に頼み、富者から二千錠の鈔を借りたが、貧しくて返済できず、親を捨てて逃げ去った。数年後、その親が彼を思い、病気になった。秀実は毎日薪や米を贈り見舞ったが、ついに楽しむことはなかった。秀実はこれを哀れみ、すべて代わって返済し、借用証書を取り戻してその親に返し、さらに奴隷に馬を引かせ金を持たせ、仲和を訪ねさせて帰らせた。父子は歓喜して再会し、聞く者は皆嘆賞した。また李懷玉らが秀実から一千五百錠の鈔を借り、返済の見込みがないと判断すると、借用証書をすべて返却して徴収しなかった。
また賈進という者がいた。大同の人である。大徳九年、地震があり、民家は多く損傷し、かつ食糧が不足したので、進は酒・薬・炭・米を与えて救済した。毎年冬には、木綿の衣を数百着作って寒さに凍える者に着せた。土地を買って共同墓地とし、墓のない者を葬らせた。
李子敬は、陝西三原の人である。嫁ぐことのできない者五十余人を嫁がせ、葬ることのできない喪五十余件を葬り、借用証書四万余貫を焼き捨てた。
役所がその名を朝廷に報告し、ともに表彰した。
趙榮は、扶風の人である。母の強氏が病気になると、榮は三度も自分の腿の肉を切り取って食べさせた。また母を背負って太白山に登り、神に祈り、聖水を得て飲ませると、全快した。後年七十五歳で亡くなると、榮は号泣して食事をせず、三日経ってようやく水を飲み、七日経って粥を食べた。埋葬の日、白雲がその墓の前後十五里を覆い、葬儀が終わると散った。榮は土を背負って墳丘を築き、その傍らに廬を結んで喪が明けるまで過ごした。
吳好直は、華州蒲城の人である。父が亡くなり、継母に孝行を尽くした。兄弟がかつて財産分与を求めたが、好直が諭しても止められず、すぐに自分が得るべき分をすべて彼らに譲った。師について学問に出て、淡泊な生活を三十年送り、少しも後悔しなかった。また甄城の柴郁・陳舜咨がおり、皆孝友に努め、自分の財産を分けて兄弟に譲った。県令がその状況を報告し、ともに表彰して称えた。
余丙は、建徳遂安の人である。幼くして母を失い、血の涙を流して病気になった。父が亡くなると、埋葬するに忍びず、古い山の下に廬を結び、その中に仮埋葬し、毎日戸を閉めて守り見張った。ある牧童が火を残し、仮埋葬の廬に燃え広がった。丙と子の慈は急いで消し止めようとしたが止まらず、火の中に身を投げ、棺とともに焼け死のうとした。たちまち暴雨が降り、火は消えた。
徐鈺は、鎮江の人である。元服したばかりの時、父の鎮に付き添い、婺源へ向かおうとし、丹陽の小川を渡った。鎮が轎に乗って足を滑らせ、水中に落ちた。同行者は岸に立ち、救うことができなかった。鈺は川に飛び込んで鎮を抱きかかえて出た。鎮は舟の縁につかまって上がることができた。鈺は力尽き、しかも水勢が急流だったので、ついに溺死し、遺体は四十五里流され、浅瀬で発見された。江浙行省がその状況を報告し、表彰して顕彰した。
尹莘は、汴梁洧川の人である。至治初年、京師に遊学していたが、突然母の病気の夢を見て、心に怪しんだ。駆けつけて帰ると、母はすでに亡くなっていた。墓傍に廬を結び粗食し、哀傷のあまり骨と皮ばかりになり、毎日鶏が鳴くと起き、自ら祭りの食事を調理し、墓所に行って哭いて供え物をし、風雪の日もやめなかった。父の輔臣が疫病にかかった時、莘は湯薬を奉じ、衣も解かず、その糞を嘗めて病状の軽重を確かめ、夜には天に祈って言った。「莘は母の死に目に会えず、父の病を治せません。人子としてこのようでは、どうして世に立つことができましょう。どうか私が死んで父の命に代わりたい。」数日で父は快癒し、郷里の人々は嘆き驚いた。
また高唐の孫希賢がおり、母が痢疾にかかった。希賢は医書を調べると、「血が温かく身が熱ければ死に、血が冷たく身が涼しければ生きる」とあった。希賢がそれを嘗めると、血は温かかった。そこで号泣して天に祈り、自分が身代わりになることを求めると、母はついに全快した。
高郵の卜勝榮は、母が痢疾にかかり、薬が効かなかったので、毎日その痢を嘗めて快癒を求めた。兄が病気になると、北辰を礼拝し、自分の寿命を減らして兄の命を延ばすよう乞い願った。ともに全快した。
劉廷譲は大寧武平の人である。至順の初め、北方に兵乱が起こり、民は殺戮・略奪に遭った。廷譲は家族を連れて山中に避難したが、幼い弟がまだ乳飲み子で、母の王氏はその子を懐に抱いていた。兵が急に迫り、廷譲は己の子を棄て、片手で幼弟を抱き、片手で母を支え、疾走して難を免れた。事が聞こえ、表彰された。
劉通は亳州譙県の人である。家は貧しく農業を営んでいた。母の卜氏は音楽を好み、技芸者が簫や鼓を持って門に来るたび、必ず楽しませて侍らせ、あるいは自ら歌舞して、母の心を喜ばせた。卜氏が目を失明すると、通は酒肉を断つことを誓い、三十年間怠ることなく祈り続けた。卜氏が八十五歳の時、突然再び見えるようになった。至大年間の鄱陽の黄鎰、皇慶年間の諸曁の丁祥一も、いずれも親が失明した際、舌で舐めて、再び視力を得させた。ともに表彰を命じられた。
張旺舅は安豊霍丘の人である。幼くして父を失い、母の陳氏は貧しく暮らしながら節操を守った。旺舅は九歳で飴を売って母を養った。成長して母が病に伏せると、数か月間枕元に付き添い、旺舅には医者を呼ぶ金がなく、ただ日夜慟哭し、天に礼拝して身代わりを乞うた。間もなく母は平癒した。また、自らの生業が微細で多くを養えないと考え、ついに娶らず、母の天寿を全うさせた。県令が朝廷に上奏し、表彰された。
杜佑は邳州の人である。河南行省が彼を三叉口水馬站の提領に任命した。父の成が家で病にかかると、佑は突然心が騒ぎ、全身に汗をかき、ただちに職を棄てて帰郷した。父の病は始まって三日目であり、神に祈って身代わりを乞い、また糞を嘗めて病状を確かめた。父が没すると、墓の傍に庵を結び哀悼の情を尽くし、馴らされた兎が現れる瑞祥があった。
長寿は、父の帖住が平章政事の官にあり、五人の子を儲けた。長男の山寿は早世し、次が即ち長寿、次が永寿・福寿・忙古海牙である。元統年間、帖住が没すると、長寿は哀傷のあまり礼を尽くした。喪が明け、蔭官を受ける順番となった時、弟たちと共に母の前に羅拝して言うには、「我が父は清廉で貧しく、諸弟はまだ何も成し遂げておりません。どうか職を永寿に譲りたい」と。永寿は福寿に譲ろうとし、福寿は言うには、「二人の兄が譲ることができるなら、福寿だけができないことがあろうか」と。忙古海牙に譲ろうとし、母はそれに従った。忙古海牙は蔭官を申請し、太禧宗禋院神御殿の侍礼佐郎となり、官階は奉議大夫となった。兄弟は母に仕えること特に篤く、郷里の人々はこれを称えた。
至大年間、河中の梁外僧は、親の喪に服し墓傍に庵を結んだ。兄の那海は奥魯官であったが、自らかつて遠方に出仕して親を養えなかったことを思い、職を棄て、外僧を推挙して代わらせた。人々は外僧の孝行と那海の義を称えた。また、畏吾氏の秋秋、および濠州の高中・嘉定の武進も、いずれも親に仕えるため仕官を望まず、祖父の蔭官を叔父や兄弟に譲ったという。
孫瑾は鎮江丹徒の人である。父の喪に服し、哀傷のあまり憔悴し、厳冬に裸足で歩き、柩を四年間停め、衣帯を解かず、常に粥を食し、仏書を誦した。葬送の際、柩を載せて長江を渡ると、潮波がちょうど湧き立っていたが、俄かに順風が帆を助け、平地を歩くようであった。継母の唐氏に仕えること特に孝で、かつて癰を患った時、瑾は自ら膿を吸い、また目を失明すると、舐めて再び見えるようにした。唐氏が没し、日を卜して葬ろうとした時、春に長雨が続き、瑾は夜に天に号泣して晴れを乞うた。夜明けになると、雲が晴れ日が明るくなり、ちょうど墓穴を埋め終わると、再び陰気が合わさり、数日間雨が降り止まなかった。
また、呉希曾という者がおり、睢寧の人である。父が没し、葬る日に大雨が降った。希曾は柩の前に跪き、艾を腕に据えて燃やし、火が盛んになると雨が止んだ。葬った後、墓の左に庵を結んだ。
県がその事績を上申し、ともに表彰された。
張恭は河南偃師の人である。兵部の符牒により鷹房府の案牘に任命されたが、親が老いたため辞職して帰郷し侍養し、先祖の墓を開墾・整備し、自ら水を背負って松柏に灌いだ。父の喪には、過度な哀悼を示した。母の馮氏に仕えること特に謹み深かった。凶作の年には、恭夫婦は野草を採って食したが、母への美味しい食物の供給には不足がなかった。母が病気になると、恭は自ら汚物を除去し、飲食を口移しで与え、また糞を嘗めて病状を確かめた。天暦の初め、西方の兵が河南に至り、住民は皆逃げ散った。恭は母の病を見守り、首に一剣を受けても去らず、母は驚き恐れて没した。恭は喪に服し礼を尽くし、人々は孝行と称えた。詔があり、その閭を表彰した。
訾汝道は徳州斉河の人である。父の興が没し、喪に服し、孝行で知られた。母の高氏は家を治めることに厳しく、汝道は恭しく従順に仕えた。母がかつて病臥した時は、昼夜を分かたず側を離れなかった。ある日、母は人を退けて汝道に金珠若干を授け、「お前はもとより孝行で、家に私蓄がない。私が一旦逝けば、この物はお前のものではなくなる。よく隠しておけ、他の兄弟に知らせるな」と言った。汝道は泣いて拝し、「我が父母は艱難を経て家業を成しました。今や田宅・牛羊は既に多く、汝道は大恩に報いる術がないことを恨んでおります。ましてやこれを受け、不孝の罪を重ねることができましょうか」と言い、ついに辞退した。母が没すると、哀傷のあまり憔悴し、喪が明けるまで酒肉を口にしなかった。
性格は特に兄弟愛に厚く、二人の弟が分家しようとした時、汝道は良い田畑と屋敷をすべて譲った。二人の弟が早世すると、その孤児たちを己の子のように育てた。郷人の劉顕らは貧しく生活の手段がなかったので、汝道は己の田を分け与え、それぞれがその地代で一生を過ごせるようにした。里中に大疫が流行した時、瓜を食べて発汗し治癒した者がいたので、汝道はすぐに多くの瓜と米を買い求め、戸々を巡って贈った。ある者が「疫気は人に感染するから入るな」と言ったが、聞かず、ますます広く巡って苦しみを尋ねたが、ついに無事であった。死者が出ると、さらに棺を贈り、人々は皆感激した。かつて麦粟を人に貸したが、秋になって蝗が作物を食い尽くし、人々は償うことができなかった。汝道はその借用証書を集めて焼いた。県令の李譲がその家の表彰を請うた。