元史

列傳第八十四: 孝友一

世に先王没して、民に善俗なしと言う。元が天下を有つて、その教化は必ずしも古の如くではないが、民に孝義を以て聞こえる者は、蓋し乏しからず。豈に天理民彝の人心に存するもの、終に泯びざるにあらざるか。上に立つ人、苟くもその泯びざる所に因り、復た勧奬を加えてこれを興起せば、則ち三代の治も亦た漸く復すべし。

今、史氏の載する所を観るに、その事親篤孝なる者は、則ち臨江の劉良臣、汴梁の陳善、同官の強安、瀋州の高守質、安豊の高澤、鞏昌の王欽、修武の員思忠、榆県の王士寧、河南の朱友諒、泉州の葉森、寧陵の呂德、汲県の劉淇、建昌の鄭佛生、堂邑の張復亨、保定の邢政、寧夏の趙那海、臨潼の任居敬、隴西の周慶・徐德興、汝寧の李従善、華州の要敬、色目氏の沙の有り。

その居喪廬墓する者は、則ち太原の王構、萊州の任梓、平灤の王振、北京の張洪範、登封の王佐、下蔡の許従政・張鐩、富平の王賈僧、鄭州の段好仁・趙璧・薛明善・張齊、汴梁の韓榮・劉斌・張裕・何泰・史恪・高成・鄧孝祖・李文淵・杜天麟・張顯祖、涇陽の張国祥、延安の王旻、東昌の張翬、永平の梁訥、高唐の鄭栄・劉居敬、同州の趙良、南陽の周郁・陳介・劉権、大同の高著・江郁・毛翔、帰徳の葛祥・張徳成・張遜・王珪・劉弼、汲県の徐昌祖、真定の宋貞・王世賢、晉寧の史貴、保定の耿徳溫・張行一・賈秉實・張勖、河南の王宗道・孫裔・夾谷天祐、趙州の趙徳隆、安豊の王徳新・石思讓・翼寧・何溥、大都の王麟・李簡、華陰の李寧・屈秀、懐慶の侯栄・丁用・郭天一、耀州の王思、中牟の閻譲、曹州の鄧淵・呂政、徐州の胡居仁・張允中、えい輝の王慶、福建の朱虞龍、随州の高可燾、済寧の魏鐸、武康の王子中、淮安の翟諟、汶上の趙恒、須城の許時中、衡山の欧陽誠復、江陵の穆堅、薊州の王欽、定陶の元顕祖、絳州の姚好智、宿州の孫克忠、集慶の傅霖、済南の宋懐忠・牟克孝、汝寧の張郁、泉州の黄道賢・谷城・王福、解州の靖与曾、般陽の戴貞、衞州の王治、沔陽の徐勝祖、興中の石抹昌齢、峡州の秦桂華、蒙古・色目氏の納魯丁・赤思馬・改住・阿合馬・拜住・木八剌・玉龍帖木児・鎖住・唐兀歹・晏只哥・李朵羅歹・塔塔思歹有り。

その累世同居する者は、則ち休寧の朱震雷、池州の方時発、河南の李福、真定の杜良、華州の王顕政、建寧の王貴甫、句容の王栄・周成、鄢陵の夏全、保定の成珪、開平の温義、大同の王瑞之、平江の湯文英、鄜州の員従政、江州の范士奇、涇州の李子才、宿州の王珍有り。

その財を散じて急を周する者は、則ち河南の高顏和、台州の程遠大、潭州の湯居恭・李孔英、建康の湯大有、吉州の劉如翁・厳用父、高唐の孟恭、松江の管仲徳・章夢賢・夏椿、江陵の陳一寧、中興の傅文鼎、永州の唐必栄、済南の李恭、寧夏の何恵月有り。

天子皆嘗てその門閭を表し、或いはその家を復す。故に唐史の例を援り、姓名を篇端に具列す。その事蹟尤も彰著なる者を択び、復た別に之が為に傳を為す云う。

王閏は、東平須城の人。父は素より資多く、既に老いて、尽く之を廃し、淡薄を甘んぜず、毎食必ず魚肉を需む。閏は朝夕勤苦して市に入り、営奉闕くること無し。父の性復た乖戾にして、閏は左右承順し、甚だその歓心を得、郷里之を称す。父嘗て臥疾し、夜長明燈を室中に燃やす。火籬壁の間に延ぶ。閏火の声を聞き、驚き起き馳せ救う。火已に熾なり、煙焰寝戸を蔽う。閏火中に突入し、衣を解きて父に蒙り、抱いて出ず。肌体灼爛すれども、父は少も傷無し。一女救う能わず、遂に焚死す。中統二年、その役を復す。

郭道卿は、興化莆田の人。四世祖義重は至孝にして、宋紹興の間詔有りて之を旌す。郷里孝子祠を立てる。至元初内附す。閩の盗起こり、居人竄匿す。道卿は弟佐卿と独り孝子祠を守り去るに忍びず、遂に俱に執わる。盗将に佐卿を殺せんとす。道卿泣き告げて曰く、「吾れ児有り已に長ず。弟弱く子幼し。請う弟に代わりて死せん」と。佐卿も亦た泣き告げて曰く、「吾が家事は兄に頼りて以て理む。請う我を殺せ」と。道卿固より頸を引いて刃を請う。盗相顧みて曰く、「汝が孝門の兄弟此の若くんば、吾何ぞ忍びて害せん」と。両つながら之を釈す。

道卿年八十、子廷煒は建寧路平準行用庫使と為り、辞して帰り侍養す。道卿嘗て疝を病み、危甚だし。廷煒憂瘁して扶護し、一夕にして髪尽く白し。有司状を言い、之を旌す。

蕭道寿は、京兆興平の人。家貧しく、筬を鬻ぎて以て自給す。母年八十余り、道寿は事養礼を尽くす。毎朝、母の起つを候い、夫婦親しく盥櫛を侍す。日に三たび飯すれども、必ず母の食するを待ち、然る後に退きて食す。夕に至れば、必ず母の寝るを待ち、然る後に退きて寝す。外出すれば必ず告げ、母許して乃ち敢えて出づ。母或いは怒り、之を罰せんと欲すれば、道寿自ら杖を進め、地に伏して以て受く。杖足れば、母命じて起たしむれば、乃ち起つ。起ちて復た再拝し、教に違えるを謝し、拱立して左右に俟ち、色喜ぶに及びて乃ち退く。母嘗て疾有り、医累歳療する能わず。道寿は股の肉を刲きて之を啖い、而して癒ゆ。至元八年、羊酒を賜い、その門を表す。

郭狗狗は、平陽翼城の人。父寧は、欽察先鋒使首領官と為り、大良平を戍る。宋将史太尉来たり攻む。夜大良平を陥とす。寧の全家俘えらる。史将に寧を殺せんとす。狗狗年五歳、史に告げて曰く、「我が父を殺すこと勿れ。当に我を殺すべし」と。史驚き寧に問うて曰く、「是の児幾歳ぞや」と。寧曰く、「五歳」と。史曰く、「五歳の児能く是の言を為す。吾当に汝が家を全うせん」と。即ち騎を以て寧等を送り合州に往かしむ。道国兵に遇い、騎驚き散ず。寧の家俱に還るを得。御史以て事を聞かしむ。命じて之を旌す。

張閏は、延安延長県の人、軍籍に隷す。八世爨を異にせず、家人百余口、間言無し。日に諸女諸婦をして各々一室に聚まり女功を為さしめ、工畢れば、斂めて一庫に貯え、室に私蔵無し。幼稚啼泣すれば、諸母見る者即ち抱きて哺う。一婦帰寧し、其の子を留む。衆婦共に乳し、孰れが己が児なるかを問わず、児も亦た孰れが己が母なるかを知らず。閏の兄顕卒す。即ち家事を以て姪の聚に付す。聚辞して曰く、「叔は、父の行なり。叔宜しく之を主とすべし」と。閏曰く、「姪は、宗子なり。姪宜しく之を主とすべし」と。相譲ること既に久しく、卒に以て聚に付す。縉紳の家、自ら如かずと謂う。至元二十八年、その門を旌表す。

また蕪湖の芮世通あり、十世同居す。峽州の向存義、汴梁の丁煦、八世同居す。州縣朝に請うて、並びに旌美を加えらる。

田改住、汶上の人。父病みて愈えず、天に禱り、衣を去りて氷上に臥すこと一月。

同縣の王住兒、母病み、氷上に臥すこと半月。

寗猪狗、山丹州の人。母年七十餘、風疾を患い、藥餌效なし、猪狗股肉を割きて進み啖わしむ、遂に愈ゆ。歳餘して復た發し、行くこと能わず、猪狗手づから溷穢を滌ぎ、護視甚だ周し、板輿を造りて母を載せ、夫婦共に舁ぎ、園田を行きて以て之を娛ます。後卒す、喪に居るに禮あり、鄉閭之を稱す。

潭州萬戶移剌瓊の子李家奴、九歳、母病み、醫言う、治すべからずと、李家奴股肉を刲ぎ、糜を煮て以て進む、病乃ち痊ゆ。撫州路總管管如林、渾州の民朱天祥、並びに母疾のため股を刲ぎ、其の家を旌ぐ。

畢也速答立、迷裏氏、秦州に家す。父喪し、墓次に廬し、晝夜悲號す、飛烏翔集し、墳土踴り起つ。

また尹夢龍あり、中興の人。母喪し、土を負いて墳と為し、廬を結びて其の側に居る。手づから孝經を千餘巻書き、鄉人に散じて之を讀ます。羣烏其の冢樹に集まる。

樊淵、建康句容の人。幼くして父を失い、母に事えて篤く孝なり。至元十二年、母を奉じて兵を避け茅山に至る。兵至り、其の母を殺さんと欲す。淵母を抱きて號哭し、身を以て死に代わらんとす、兵兩たび之を釋す。三十年、江東廉訪使者辟きて吏と為す。母亡し、喪に奔り、哀しみ行路を感ぜしむ。服闋け、神主を奉じて之に事え、起居飲食、十年平生の如し。臺憲交わって薦む、淵墳墓を去るに忍びず、終に起たず。

延祐の間、汀州寧化の人賴祿孫、母病み、蔡五九の亂に値い、母を負いて邑人に從い南山に避く。盜至り、眾散走す、祿孫母を守り去らず。盜將に其の母を刃せんとす、祿孫身を以て翼蔽して曰く、「吾が母を傷つくる勿れ、寧ろ我を殺せ」と。母渴す、水を得ず、祿孫唾を含みて之を煦す。盜相顧みて駭歎し、害するに忍びず、反って水を取って之に與う。其の妻を掠め去る者有り、眾之を責めて曰く、「奈何ぞ孝子の婦を辱しむる!」使いて之を歸す。

事聞こえ、並びに褒表を賜う。

劉德泉、汴梁杞縣の人。早く母に喪い、父榮再び王氏に娶り、二子居敬・居元を生む、俱に幼し、德泉甚だ之を撫す。王氏病み卒するに及び、乃ち益々相い友愛す。至元の末、歳饑え、父析居せしめんと欲す、德泉泣きて止むるを得ず、乃ち各其の業を受けて去る。久しうして父卒す、兄弟相約して同爨し、和好初めの如し。

至治三年、真定の朱顯、至元の間より、其の祖父已に財を分つ。顯に至り、姪彥昉等の幼くして恃む所なきを念い、弟耀に謂いて曰く、「父子兄弟、本同一氣、異処すべけんや」と。乃ち會して祖墓の下に拜し、分券を取って之を焚き、復た與に同居す。

延祐の間、蔚州の吳思達兄弟六人、嘗て父命にて析居す。思達開平縣の主簿と為り、父卒し、家に還る。葬を治め畢り、宗族を會し、泣きて其の母に告げて曰く、「吾が兄弟別処すること十餘年、今多く破産す、一母の生む所を以て、兄弟の苦樂均しからざるを忍びんや」と。即ち家財を以て其の逋を代償し、更に復た共に居る。母卒し、哀毀甚だし。宅後柳連理す、人以て友義の感ずる所と為す。

また朱汝諧あり、濮州の人。父子明嘗て命じて兄汝弼と別産せしむ。子明卒し、汝弼家盡く廢す、汝諧泣きて共居を請う。仲父子昭・子玉貧しく病む、汝諧迎えて家に至らしめ、湯藥甘旨を奉ずること甚だ謹し、後卒し、喪葬禮を盡す。鄉人之を賢とす。

州縣各名を以て聞こえ、其の閭を表す。

郭回は邵武の人である。平素より貧しく、六十歳になっても妻がなく、母を奉じて神祠に寄宿し、養生は甚だ艱難であった。母が九十八歳で亡くなると、郭回は身を傭って銭を得てこれを葬った。毎朝、墳墓に詣でて哭祭し、十四年間絶やさなかった。州がその状を上奏し、命じて衣糧を給して贍済し、なおその異行を表彰した。

孔全は亳州鹿邑の人である。父の成が病に臥せると、股の肉を刲いてこれを啖らせ、病は癒えた。後に父が亡くなると、喪に服して哀しみを尽くした。墓の左に廬を結び、土を背負って墳を築き、一日に六十肩を運び、風雨で損なわれれば、晴れるのを待ってこれを補った。三年にして、墳を築き上げ、広さ一畝、高さ三丈余りに及んだ。

張子夔は安西の人である。父が亡くなると、毎夜半、背に土を負い、肘と膝で地を這い、葬所に匍匐して至り、細土を篩って墳を築いた。

陳乞児は帰徳夏邑の人である。九歳の時、母が亡くなり、哀毀して、自ら土を背負って墳を築き、高さ一丈、広さ十六歩に及んだ。人々はその幼さを憐れみ、助けようとしたが、彼は泣いて拝礼し辞退した。

また、峨眉の趙国安、解州の張琛、南陽の李庭瑞、息州の移剌伯顔、南陽の怯烈歹がおり、皆喪に服して至行があり、墓次に廬を結び、土を背負って墳を築いた。いずれも役所の請いにより、その異行を表彰した。

楊一は懐孟の人である。至元年間、叔父の清が家貧であるのを憐れみ、密かに分家の契書を神祠に持ち詣でて焼き捨て、清と同居すること三十年、間然たる言はなかった。

張本は東昌茌平の人である。篤く孝行で、伯父、叔父に事えること皆甚だ謹厳であった。伯父が嘗て病に臥せると、張本は昼夜側を離れなかった。また巾車に載せ、歩いて挽いて岱嶽に詣でて祈禱した。

張慶は真定の人である。継母に善く事えた。伯父の泰が河南に別居していたが、張慶はその貧しさを聞き、迎え帰って養った。供する饍は豊かに備わり、実の父母を上回った。

元善は大名の人である。父に昆弟五人あり、貧しさのため江淮に流散した。久しくして、遂に客死した。至大四年、元善はその骸骨を尋ね求め、併せて弟・姪等十五の喪を迎えて帰り、祖父母を改葬し、諸喪を序列して塋次に祔葬した。

州県がこれを朝廷に奏聞し、併せてその家を旌表した。

趙毓は唐州の人である。父の福は鄭の管城に移った。その先代は、三世同居共炊であった。趙毓は福州司獄の官に任じられ、任期満了して帰郷し、母が老いたため再び仕えなかった。ある日、諸弟を集め、泣いて遺訓を述べ、世々別居しないことを願い、且つ天を祝して歃血して盟った。これより大小百口、少しも間然たる言がなく、同力合作し、家道は殷かになった。趙毓の長兄の瑞は早世し、嫂の劉氏は志を守ったが、趙毓は家人を率いてこれに事えること甚だ恭しかった。次兄の選が続いて亡くなると、嫂の王氏について、趙毓の母はその若さを理由に、帰って再嫁することを許したが、王氏は言った、「婦に再嫁の義はありません。終生姑に事えることを願います」。趙毓の妹は王佑を婿に取ったが、佑が亡くなると、妹は佑の母に子がないことを思い、朱氏に帰ってこれを養うことを乞うた。人は孝・友・節・義が趙毓の一家に集まったと言った。元貞初年、これを旌表した。

胡光遠は太平の人である。母が亡くなり墓側に廬を結んだ。ある夜、夢に母が魚を食べたがっているのを見た。朝起きて天に号泣し、魚を求めて祭ろうとしたところ、生きた魚五尾が墓前に並び、皆噛み痕があった。隣里は驚異し、丁度共に集まって見ていると、獺が草の中から出て、水に浮かんで去った。人々はこれが獺の献じたものと知った。その状を官に聞こえさせ、その閭を表彰した。

至順年間、永平の龐遵は、母が腫れ物の病にかかり、三年も起き上がれなかった。ある時、母が突然魚を食べたがり、龐遵は市で求めたが得られなかった。帰途で歎き恨んでいると、突然鯉がその舟に躍り込んだ。羹を作って献上すると、母は喜び、病は癒えた。

陳韶孫は広州番禺の人である。父の瀏が罪により肇州に流された。韶孫は十歳の時、父が遠くに流謫されるのを忍びず、朝夕号泣して従うことを願った。父はこれを阻むことができず、遂に共に行った。万里を跋渉し、労苦を厭わず、道すがら遼陽を通り過ぎた時、平章の塔出がこれを見て憐れみ、彼に言った、「天子は寛仁で、罰は嗣子に及ばない。辺地は苦寒で、汝の堪えられる所ではない。我が汝を故郷に返そう、汝はそれを願うか」。韶孫は言った、「既に身をもって父に代わることができないならば、生死を共にすべきであり、帰ることは願いません」。塔出は驚異し、銭を賜って労った。大徳六年、瀏が死ぬと、韶孫は哀慟し、見る者皆これに泣き下った。肇州万戸府がこれを朝廷に奏聞し、命じて郷里に遣還させ、なおその異行を表彰した。

李忠は晋寧の人である。幼くして孤となり、母に事えること至孝であった。大徳七年、大地震があり、郇保山が移動し、その通過した所の居民の廬舎は、皆摧圧して傾き崩れた。李忠の家に近づくと、山は二つに分かれ、五十余歩進んで再び合わさり、李忠の家だけが無事であった。

呉國寶は雷州の人である。性質は孝順で友愛に篤く、父が喪に服すときは墓の傍らに廬を結んだ。大徳八年、境内に蝗害が起こり作物を損なったが、ただ呉國寶の田だけは損害がなかった。人々は皆、孝行の感動がもたらしたものだと言った。

李茂は大名の人で、家を揚州に移した。父の興壽が臨終に際し、李茂に言った、「私は病んで死にそうだ、お前はよく母に仕えよ」。李茂は涙を流して命を受け、母の孟氏に仕えることますます謹んだ。母はかつて眼を病んで失明したが、李茂は泰安山に祈り、三年して再び見えるようになった。また母の長寿を願い、毎晩天に祈り、自分の寿命を減らして母に与えるよう乞うた。孟氏はついに八十四歳で亡くなり、喪に服して哀慟し、聞く者を傷ませた。大徳九年、揚州で再び火災があり、千余りの家に延焼したが、火が李茂の家屋に及んだとき、皆風が返って消えた。事が聞こえ、表彰された。

羊仁は廬州廬江の人である。至元初年、阿朮の軍が南下し、羊仁の家は掠奪され、父は殺され、母と兄弟は皆散り散りになった。羊仁は七歳のとき、汴の人李子安の家奴に売られ、二十余年力仕事をしたが、子安は彼を哀れみ、良民に放免した。羊仁は行方を尋ねて、母を潁州の蒙古軍塔海の家に、兄を睢州の蒙古軍岳納の家に、弟を邯鄲の連大の家に見出したが、皆下働きとしており、まだ無事であった。そこで親戚故旧に懇願して、百錠の鈔を借り受け、諸家を歴訪して彼らを贖い出そうとした。あらゆる手を尽くし、さらに六年を経て、ようやく成就した。大小二十余人が再び集まって良民となり、孝行と友愛が非常に篤く、郷里の人々はこれを称えた。大徳十二年、その家を表彰した。

また黄覚經という者がいた、建昌の人である。五歳のとき、乱のために母を失った。やや成長すると、天に誓い仏書を誦し、母の所在を求めたいと願った。そこで江を渡り淮を渡り、物乞いをしながら行き、風雨を冒し、あらゆる艱苦を経て、汝州梁県の春店に至り、その母を得て帰った。

章卿孫はしょくの人で、もとは劉氏であった。幼くして章提刑の養子となり、母の富氏と離散して三十八年、江西の諸郡を遍く訪ね、迎え帰って養った。

俞全は杭州の人である。幼くして掠奪され、劉餻の家奴に売られた。後に良民となることを得て、汴から歩いて杭州に帰り、その母と姉を尋ね、得て、母に仕えて孝行で知られた。

李鵬飛は池州の人である。生母の姚氏は、嫡母に容れられず、改嫁して朱氏の妻となった。鵬飛は幼く、知らなかった。十九歳のとき、思慕し哀痛し、医を学んで人を救い、早く母に会いたいと誓った。行きて三年求め、蘄州羅田県で得た。時に朱氏の家で疫病が流行しており、鵬飛が彼らを治癒させたので、遂に迎え帰って奉養した。久しくして、再び朱氏に帰ったが、時に江を渡って省覲した。亡くなった後は、毎年子孫を連れて墓に祭り、その身の終わりまで続けた。

いずれも役人の請いにより、その里門を表彰した。

趙一徳は龍興新建の人である。至元十二年、国軍が南伐し、捕虜となって燕に至り、鄭留守の家奴となった。三代に仕え、忠実で有能と称された。至大元年、ある日、その主君の鄭阿思蘭とその母の沢国太夫人に拝礼して請うて言った、「一徳は父母を離れて、生きながらえて貴方の門下に依るようになって、三十余年になります。故郷は万里の遠く、帰省することができず、思慕の念は骨に刻むようですが、敢えて言いませんでした。今父母は既に老いており、もし不幸があれば、永遠に天地の間の罪人となってしまいます」。そこで地に伏して涕泣し、起き上がることができなかった。阿思蘭母子は共に感動し、帰ることを許し、一年で戻ることを約束させた。

一徳が家に至ると、父と兄は既に亡く、ただ母がおり、八十余歳であった。一徳は地を選んで二つの棺を葬り終え、少し留まって母に仕えたいと思ったが、罪を得ることを恐れ、期日通りに燕に戻った。阿思蘭母子は嘆いて言った、「彼は賤しい奴隷であるのに、かくの如くできる。我々はその孝行を成就させないことがあろうか」。即ち証文を裂いて良民に放免した。

一徳が辞して帰ろうとしたとき、ちょうど阿思蘭が冤罪で誅殺され、詔によってその家財を没収することになった。多くの奴隷はそれぞれ逃亡したが、一徳だけは奮い立って言った、「主君の家に禍があるのに、我々が他人のように忍べようか」。即ち留まって去らず、張錦童と共に中書省に赴き、冤罪の状を訴え、昭雪を得て、没収されたものを返還させた。太夫人は一徳を労って言った、「役人が我が家を没収したとき、親戚も顧みなかったのに、汝だけが危険を冒して我が冤罪を晴らした。疾風に勁草を知るとは、汝に見ることができる。我が家業が失われて再び存するようになったのは、皆汝の力である。私は何をもって汝に報いようか」。そこで良田と家屋を分けて与えようとした。一徳は謝して言った、「一徳は卑しい者ではありますが、これによって利益を得ようとしたのではありません。ただ我が主君が罪なくして誅殺されるのを深く哀れんだので、留まって主君に報いたのです。今老母は八十余歳で、帰って侍養することができ、主君の賜りは既に厚いものです。どうして田や家屋が必要でありましょうか」。遂に受けずに去った。皇慶元年、その門を表彰した。

王思聰は延安安塞の人である。平素は田畑を耕し、農閑期には諸生を教え、謝礼を得て親を養った。母が喪に服すとき、哀しみを尽くした。父が後妻に楊氏を娶ると、実母のように仕えた。家に幼い者が多く、父の食事を侵すので、別に養老堂という室を築いて父を奉り、朝夕に定省し、ますます久しく怠らなかった。父がかつて重病になったとき、思聰は非常に憂い、天に拝礼して祈り、額と膝は皆瘡となり、神泉を得て飲ませると、治癒した。後に再び失明すると、思聰が舐めると、すぐに見えるようになった。県が状況を上申し、表彰するよう命じた。

徹徹は揑古思氏である。幼くして父を喪い、母に仕えて篤く孝行した。やや成長すると、母が亡くなり、慟哭して気絶し、水漿を口にしないこと三日に及んだ。葬った後、喪に服して礼を守り、毎節季の祭祀には、喪中のように常に泣いた。四十余歳になっても、思慕の情は子供のようであった。人の父母を見るたびに、嗚咽して涙を流した。人がその理由を尋ねると、言った、「人は皆父母があるのに、私だけはない。それゆえ泣くのです」。至大三年、表彰された。

王初応は漳州長泰の人である。至大四年二月、父の義士と共に劉嶺山で柴を採っていたとき、虎が叢棘の中から出てきて、義士を襲い、右肩を傷つけた。初応が救いに赴き、鎌刀を抜いて虎の鼻を刺し殺したので、義士は生き延びた。

泰定二年、同県の施合徳は、父の真祐がかつて田に出て草取りをしていたとき、虎に田で扼された。合徳は従弟の發仔と共に斧を持って前に進み虎を殺し、父は生き延びた。

またその門を表彰した。

鄭文嗣は婺州浦江の人である。その家は十世同居し、凡そ二百四十余年に及び、一銭一尺の布帛も敢えて私せず。至大年間にその門を表彰した。

文嗣が没すると、従弟の大和が家事を継いで主宰し、益々厳格にして恩情があり、家庭の中は凛然として公府の如く、子弟に少しでも過ちがあれば、髪の白い者でもなお鞭打った。毎年節に遇うと、大和が堂上に坐し、群従の子らは皆盛装し、雁行の如く左の序列の下に立ち、順次に進み出る。拝跪して杯を捧げて寿を祝うことを終えると、皆厳粛な容姿で拱手し、右より走り出て、足の歩みが相連なり、敢えて参差する者がない。見る者は嘆賞し、三代の遺風があると言った。事状が聞こえ、その家を復した。部使者の余闕が「東浙第一家」と書してこれを褒めた。

大和は方正で、浮屠・老子の教えを奉ぜず、冠婚葬祭には必ず朱熹の家礼を考証して行い執った。親の喪に際しては、哀しみ甚だしく、三年間酒肉を口にせず、子孫はこれに従って感化され、皆孝行で謹厳であった。嘗て仕官したことがあっても、敢えて一毫も家法に違うことはなかった。諸婦はただ女工に事とし、家政に預からせなかった。宗族や里閭には、皆恩をもって懐かせた。家に二頭の馬を飼っていたが、一頭が出ると、もう一頭はそのために食わず、人は孝義に感ぜられたものと思った。家範三巻があり、世に伝わった。

王薦は福寧の人である。性は孝にして義を好んだ。父が嘗て病甚だしく、薦は夜に天に祈り、己の年を減らして父の寿を増やすことを願った。父は絶えてまた蘇り、その友に告げて言うには、「ちょうど神人があり、黄衣に赤い帕頭をし、恍惚として私に語って言うには、汝の子は孝である、上帝が命じて汝に十二歳を賜う、と。」病は遂に癒え、後果たして十二年にして卒した。母の沈氏が渇病にかかり、薦に語って言うには、「瓜を得て私に食わせれば、渇きは止められよう。」時に冬月で、郷里に求めて得られず、深奥嶺に行き至ると、大雪に遭い、薦は雪を避けて樹下にあり、母の病を思い、天を仰いで哭した。忽然として岩石の間に青蔓が離披し、二つの瓜があるのを見、因って摘んで帰り母に奉った。母がこれを食うと、渇きは頓に止んだ。

兄の孟韐は早世し、嫂の林氏は更に劉仲山に嫁いだ。仲山は嘗て田を薦に売り、死ぬに及んで葬ることができず、且つ子がなく、族はその貧しさを以て、敢えて後にしようとする者はいなかった。薦は即ちその田を返し、後を立てさせ、且つ葬りを治めさせた。州は民の死して葬らざる者を禁じ、時に民貧しく未だ葬らざる者多く、令を畏れ、悉く柩を焼き、骨を野中に棄てた。薦はこれを哀しみ、地を以て義阡とし収めて葬った。死して斂することができない者があれば、また棺を買って贈り、人皆これを感じた。至大四年、その郷は旱魃し、民は糴に艱しみ、薦は尽く儲粟を出してこれを賑った。施福ら十一家があり、飢えて死せんとし、薦が聞き、惻然としてこれを救済せんと欲し、家の粟は既に尽き、即ち己の田を以て穀百石に換えて分け与えた。福らは己を生かしたその徳を感じ、毎月朔に、仏祠に会して福を祈った。福建宣慰司が事状を上奏してこれを表彰した。

郭全は遼陽の人である。幼くして母を喪い、哀戚すること成人の如し。壮に及び、父の庭玉また卒し、廬に居ること三載、粥を啜り面は墨の如し。継母の唐古氏に事えること甚だ孝で、唐古氏は四子を生み、皆幼く、全は躬耕して養った。既に長じて婦を娶ると、各々財を分けて異居を求め、全は止めることができず、凡そ田廬器物、悉く自ら朽ちた弊れたものを取り、唐古氏を奉じて居り、甘旨に乏しきことなかった。唐古氏が卒すと、全は年六十余、哀痛して毀瘠し、その墓に廬して喪を終えた。

また劉德という者がおり、奉元の人である。父が後妻の何氏を娶り、德はこれを事えること生みしが如し。家貧しく、傭工して賃銭を取り、寸銭尺帛も皆これを上納した。四弟は皆何氏の出で、德は撫愛すること特に篤かった。年五十にして未だ娶らず、貸し借りして銭を得て先ず弟のために婦を求め、諸弟もまたその徳に化され、一門藹然とした。郷里はこれを劉佛子と称した。

馬押忽は也里可温氏である。平素貧しく、継母の張氏、庶母の呂氏に事え、克く子の職を尽くした。

劉居敬は大都の人である。年十歳の時、継母の郝氏が病み、居敬はこれを憂い、天に懇願して代わることを求めた。

事状が聞こえ、並びにこれを褒め表彰した。

楊皡は扶風の人である。父は清、母は牛氏。牛氏は嘗て病が劇しく、皡は天に叩いて代わることを求め、遂に癒え、この如きこと再びあった。後に牛氏が失明すると、皡は太白山に登って神泉を取り洗うと、また元の如くなった。牛氏が没すると、哀毀すること特に甚だしかった。葬りの日、大雨が降ったが、独り皡の墓の前後数里は、密雲がこれを蔽い、雨は土に沾わず、送る者は大いに喜んだ。葬りを終えると、妻の衞氏に命じて家に居て清を養わせ、皡は独り墓上に廬し、土を負って墳とし、蔬食水飲、その喪を終えた。清が卒しても、またこの如くした。

丁文忠は許州偃城の人で、鼓冶を業とする。母の和氏が疾み、弟の文孝と力を尽くして調侍した。母が卒すと、文忠は墓側に廬し、妻と面すること三年に及ばなかった。父の貴また疾み、医も療すことができず、文忠は車一輛を造り、兄弟共にこれを御し、父を載せて嵩山、五臺、泰安、河瀆の諸祠に禱った。途で異僧に遇い薬を遺されて癒えた。延祐七年、これを表彰した。

邵敬祖は宛丘の人である。父の喪に墓に廬した。母が継いで没すると、河が決壊し、葬ることができず、城西に殯した。敬祖は露宿してその側に依り、風雨も去らなかった。友人これを哀しみ、草舍を縛って庇った。前後廬に居ること六年、両股共に湿疾となった。至治三年、その家を表彰した。

その後また永平の李彥忠がおり、父の喪に墓に廬し、八年家に至らなかった。

茶陵の譚景星は、幼くして父を失い、そのことを追憶し、墓の傍らに廬を結んで十年を過ごした。

亳州の郭成は、七十一歳の時に母が喪に服し、粥を食い墓傍に廬して一年、朝夕に哭して臨んだ。人々はその老いてなお孝行を尽くせることを哀れんだ。

扈鐸は、汴梁蘭陽の人である。早くに孤児となり、伯父に養育された。壮年になってからは、伯父を実の父のように仕えた。伯父は老いて子がなく、鐸は妾を買い与えたが、一年余りして一女を産んだ。その妾は性質がやや愚鈵で、熟睡して女児を圧死させた。久しくして伯父が卒去すると、鐸は非常に哀悼した。遺腹で一男が生まれたので、鐸は前の失敗を戒め、母と妻の妹に看護させるよう告げ、自らはまた戸外に廬を結び、夜中に注意深く観察し、安らかに寝ることはできなかった。弟が食事できるようになると、常に自ら抱いて食べさせ、同じ寝床で起居し、十年間少しも怠らなかった。弟が病気になると、鐸は夜に星斗に向かって額を地に叩きつけ哀願して言った。「天よ、我が家を滅ぼさないでください。鐸父子の間で一人を去らせてください。我が弟を失わせず、伯父を後継ぎなくさせないでください。」翌朝、弟は快癒した。母が亡くなると、哀傷のあまり礼を越え、墓の傍らに廬を結び、家事を顧みず、宗族が帰るよう勧めても、鐸は言った。「今年は凶作で盗賊が多い。我が家は貧しいが、墓の中に欲しいものがないとどうして分かろうか。もし我が親の霊を驚かせたなら、生きていても何の意味があろうか。」ついに廬を守って去らなかった。

孫秀実は、大寧の人である。性質は剛毅で、人の急難を救うことを喜んだ。同郷の王仲和がかつて秀実に頼み、富者から二千錠の鈔を借りたが、貧しくて返済できず、親を捨てて逃げ去った。数年後、その親が彼を思い、病気になった。秀実は毎日薪や米を贈り見舞ったが、ついに楽しむことはなかった。秀実はこれを哀れみ、すべて代わって返済し、借用証書を取り戻してその親に返し、さらに奴隷に馬を引かせ金を持たせ、仲和を訪ねさせて帰らせた。父子は歓喜して再会し、聞く者は皆嘆賞した。また李懷玉らが秀実から一千五百錠の鈔を借り、返済の見込みがないと判断すると、借用証書をすべて返却して徴収しなかった。

また賈進という者がいた。大同の人である。大徳九年、地震があり、民家は多く損傷し、かつ食糧が不足したので、進は酒・薬・炭・米を与えて救済した。毎年冬には、木綿の衣を数百着作って寒さに凍える者に着せた。土地を買って共同墓地とし、墓のない者を葬らせた。

李子敬は、陝西三原の人である。嫁ぐことのできない者五十余人を嫁がせ、葬ることのできない喪五十余件を葬り、借用証書四万余貫を焼き捨てた。

役所がその名を朝廷に報告し、ともに表彰した。

宗杞は、大都の人である。十九歳の時、父の内宰が卒去し、胸を叩き地に踊り哭き叫び、気絶してはまた蘇り、三日間水さえ口にしなかった。哀しみが心を傷つけ、ついに病気になった。床に伏せていてもなお哭き止まず、涙が尽きると、血に変わった。埋葬した後、病状はますます悪化した。杞には継母がおり、他の兄弟はいなかったので、自ら起き上がれないと悟り、遺書をしたため妻の楊氏に言い含めた。「汝はよく志を守り、我が母に仕えよ。」そして卒去した。楊氏は遺腹で一男を産み、人々は孝行の感動により、天がその子孫を絶やさなかったのだと言った。泰定三年、その門を表彰した。

趙榮は、扶風の人である。母の強氏が病気になると、榮は三度も自分の腿の肉を切り取って食べさせた。また母を背負って太白山に登り、神に祈り、聖水を得て飲ませると、全快した。後年七十五歳で亡くなると、榮は号泣して食事をせず、三日経ってようやく水を飲み、七日経って粥を食べた。埋葬の日、白雲がその墓の前後十五里を覆い、葬儀が終わると散った。榮は土を背負って墳丘を築き、その傍らに廬を結んで喪が明けるまで過ごした。

吳好直は、華州蒲城の人である。父が亡くなり、継母に孝行を尽くした。兄弟がかつて財産分与を求めたが、好直が諭しても止められず、すぐに自分が得るべき分をすべて彼らに譲った。師について学問に出て、淡泊な生活を三十年送り、少しも後悔しなかった。また甄城の柴郁・陳舜咨がおり、皆孝友に努め、自分の財産を分けて兄弟に譲った。県令がその状況を報告し、ともに表彰して称えた。

余丙は、建徳遂安の人である。幼くして母を失い、血の涙を流して病気になった。父が亡くなると、埋葬するに忍びず、古い山の下に廬を結び、その中に仮埋葬し、毎日戸を閉めて守り見張った。ある牧童が火を残し、仮埋葬の廬に燃え広がった。丙と子の慈は急いで消し止めようとしたが止まらず、火の中に身を投げ、棺とともに焼け死のうとした。たちまち暴雨が降り、火は消えた。

徐鈺は、鎮江の人である。元服したばかりの時、父の鎮に付き添い、婺源へ向かおうとし、丹陽の小川を渡った。鎮が轎に乗って足を滑らせ、水中に落ちた。同行者は岸に立ち、救うことができなかった。鈺は川に飛び込んで鎮を抱きかかえて出た。鎮は舟の縁につかまって上がることができた。鈺は力尽き、しかも水勢が急流だったので、ついに溺死し、遺体は四十五里流され、浅瀬で発見された。江浙行省がその状況を報告し、表彰して顕彰した。

尹莘は、汴梁洧川の人である。至治初年、京師に遊学していたが、突然母の病気の夢を見て、心に怪しんだ。駆けつけて帰ると、母はすでに亡くなっていた。墓傍に廬を結び粗食し、哀傷のあまり骨と皮ばかりになり、毎日鶏が鳴くと起き、自ら祭りの食事を調理し、墓所に行って哭いて供え物をし、風雪の日もやめなかった。父の輔臣が疫病にかかった時、莘は湯薬を奉じ、衣も解かず、その糞を嘗めて病状の軽重を確かめ、夜には天に祈って言った。「莘は母の死に目に会えず、父の病を治せません。人子としてこのようでは、どうして世に立つことができましょう。どうか私が死んで父の命に代わりたい。」数日で父は快癒し、郷里の人々は嘆き驚いた。

また高唐の孫希賢がおり、母が痢疾にかかった。希賢は医書を調べると、「血が温かく身が熱ければ死に、血が冷たく身が涼しければ生きる」とあった。希賢がそれを嘗めると、血は温かかった。そこで号泣して天に祈り、自分が身代わりになることを求めると、母はついに全快した。

高郵の卜勝榮は、母が痢疾にかかり、薬が効かなかったので、毎日その痢を嘗めて快癒を求めた。兄が病気になると、北辰を礼拝し、自分の寿命を減らして兄の命を延ばすよう乞い願った。ともに全快した。

劉廷譲は大寧武平の人である。至順の初め、北方に兵乱が起こり、民は殺戮・略奪に遭った。廷譲は家族を連れて山中に避難したが、幼い弟がまだ乳飲み子で、母の王氏はその子を懐に抱いていた。兵が急に迫り、廷譲は己の子を棄て、片手で幼弟を抱き、片手で母を支え、疾走して難を免れた。事が聞こえ、表彰された。

劉通は亳州譙県の人である。家は貧しく農業を営んでいた。母の卜氏は音楽を好み、技芸者が簫や鼓を持って門に来るたび、必ず楽しませて侍らせ、あるいは自ら歌舞して、母の心を喜ばせた。卜氏が目を失明すると、通は酒肉を断つことを誓い、三十年間怠ることなく祈り続けた。卜氏が八十五歳の時、突然再び見えるようになった。至大年間の鄱陽の黄鎰、皇慶年間の諸曁の丁祥一も、いずれも親が失明した際、舌で舐めて、再び視力を得させた。ともに表彰を命じられた。

張旺舅は安豊霍丘の人である。幼くして父を失い、母の陳氏は貧しく暮らしながら節操を守った。旺舅は九歳で飴を売って母を養った。成長して母が病に伏せると、数か月間枕元に付き添い、旺舅には医者を呼ぶ金がなく、ただ日夜慟哭し、天に礼拝して身代わりを乞うた。間もなく母は平癒した。また、自らの生業が微細で多くを養えないと考え、ついに娶らず、母の天寿を全うさせた。県令が朝廷に上奏し、表彰された。

張思孝は華州の人である。母の喪に服し、孝行で知られた。父が病気の時は、看病・介護を極めて丁寧に行い、治らぬと、父の涕洟が半ば入った器を、涙を流して飲み干し、さらに潔斎して祈りを捧げ、身代わりを乞うた。間もなく、全快した。至順三年、その門を表彰した。

杜佑は邳州の人である。河南行省が彼を三叉口水馬站の提領に任命した。父の成が家で病にかかると、佑は突然心が騒ぎ、全身に汗をかき、ただちに職を棄てて帰郷した。父の病は始まって三日目であり、神に祈って身代わりを乞い、また糞を嘗めて病状を確かめた。父が没すると、墓の傍に庵を結び哀悼の情を尽くし、馴らされた兎が現れる瑞祥があった。

長寿は、父の帖住が平章政事の官にあり、五人の子を儲けた。長男の山寿は早世し、次が即ち長寿、次が永寿・福寿・忙古海牙である。元統年間、帖住が没すると、長寿は哀傷のあまり礼を尽くした。喪が明け、蔭官を受ける順番となった時、弟たちと共に母の前に羅拝して言うには、「我が父は清廉で貧しく、諸弟はまだ何も成し遂げておりません。どうか職を永寿に譲りたい」と。永寿は福寿に譲ろうとし、福寿は言うには、「二人の兄が譲ることができるなら、福寿だけができないことがあろうか」と。忙古海牙に譲ろうとし、母はそれに従った。忙古海牙は蔭官を申請し、太禧宗禋院神御殿の侍礼佐郎となり、官階は奉議大夫となった。兄弟は母に仕えること特に篤く、郷里の人々はこれを称えた。

至大年間、河中の梁外僧は、親の喪に服し墓傍に庵を結んだ。兄の那海は奥魯官であったが、自らかつて遠方に出仕して親を養えなかったことを思い、職を棄て、外僧を推挙して代わらせた。人々は外僧の孝行と那海の義を称えた。また、畏吾氏の秋秋、および濠州の高中・嘉定の武進も、いずれも親に仕えるため仕官を望まず、祖父の蔭官を叔父や兄弟に譲ったという。

孫瑾は鎮江丹徒の人である。父の喪に服し、哀傷のあまり憔悴し、厳冬に裸足で歩き、柩を四年間停め、衣帯を解かず、常に粥を食し、仏書を誦した。葬送の際、柩を載せて長江を渡ると、潮波がちょうど湧き立っていたが、俄かに順風が帆を助け、平地を歩くようであった。継母の唐氏に仕えること特に孝で、かつて癰を患った時、瑾は自ら膿を吸い、また目を失明すると、舐めて再び見えるようにした。唐氏が没し、日を卜して葬ろうとした時、春に長雨が続き、瑾は夜に天に号泣して晴れを乞うた。夜明けになると、雲が晴れ日が明るくなり、ちょうど墓穴を埋め終わると、再び陰気が合わさり、数日間雨が降り止まなかった。

また、呉希曾という者がおり、睢寧の人である。父が没し、葬る日に大雨が降った。希曾は柩の前に跪き、艾を腕に据えて燃やし、火が盛んになると雨が止んだ。葬った後、墓の左に庵を結んだ。

県がその事績を上申し、ともに表彰された。

張恭は河南偃師の人である。兵部の符牒により鷹房府の案牘に任命されたが、親が老いたため辞職して帰郷し侍養し、先祖の墓を開墾・整備し、自ら水を背負って松柏に灌いだ。父の喪には、過度な哀悼を示した。母の馮氏に仕えること特に謹み深かった。凶作の年には、恭夫婦は野草を採って食したが、母への美味しい食物の供給には不足がなかった。母が病気になると、恭は自ら汚物を除去し、飲食を口移しで与え、また糞を嘗めて病状を確かめた。天暦の初め、西方の兵が河南に至り、住民は皆逃げ散った。恭は母の病を見守り、首に一剣を受けても去らず、母は驚き恐れて没した。恭は喪に服し礼を尽くし、人々は孝行と称えた。詔があり、その閭を表彰した。

訾汝道は徳州斉河の人である。父の興が没し、喪に服し、孝行で知られた。母の高氏は家を治めることに厳しく、汝道は恭しく従順に仕えた。母がかつて病臥した時は、昼夜を分かたず側を離れなかった。ある日、母は人を退けて汝道に金珠若干を授け、「お前はもとより孝行で、家に私蓄がない。私が一旦逝けば、この物はお前のものではなくなる。よく隠しておけ、他の兄弟に知らせるな」と言った。汝道は泣いて拝し、「我が父母は艱難を経て家業を成しました。今や田宅・牛羊は既に多く、汝道は大恩に報いる術がないことを恨んでおります。ましてやこれを受け、不孝の罪を重ねることができましょうか」と言い、ついに辞退した。母が没すると、哀傷のあまり憔悴し、喪が明けるまで酒肉を口にしなかった。

性格は特に兄弟愛に厚く、二人の弟が分家しようとした時、汝道は良い田畑と屋敷をすべて譲った。二人の弟が早世すると、その孤児たちを己の子のように育てた。郷人の劉顕らは貧しく生活の手段がなかったので、汝道は己の田を分け与え、それぞれがその地代で一生を過ごせるようにした。里中に大疫が流行した時、瓜を食べて発汗し治癒した者がいたので、汝道はすぐに多くの瓜と米を買い求め、戸々を巡って贈った。ある者が「疫気は人に感染するから入るな」と言ったが、聞かず、ますます広く巡って苦しみを尋ねたが、ついに無事であった。死者が出ると、さらに棺を贈り、人々は皆感激した。かつて麦粟を人に貸したが、秋になって蝗が作物を食い尽くし、人々は償うことができなかった。汝道はその借用証書を集めて焼いた。県令の李譲がその家の表彰を請うた。