元史

列傳第六十八:元明善 虞集 掲傒斯 黄溍

元明善

元明善、字は復初、大名清河の人。その先祖は拓跋魏の裔とされ、清河に居住すること、明善に至って四世となる。明善は天性聡明で、抜きん出ており、書を読めば過目して即座に記憶し、諸経に師法を有し、特に『春秋』に深く通じていた。弱冠にして呉中に遊学し、既に文章を能くする名があり、浙東使者に推挙されて安豊・建康両学正となった。

行枢密院の掾に辟召される。時に董士選が僉院事としており、彼を賓友の如く遇し、敢えて曹属として扱わなかった。士選が江西左丞に昇進すると、また省掾に辟召された。折しも贛州の賊劉貴が反乱を起こし、明善は士選に従って兵を率いてこれを討ち、賊三百人を捕らえた。明善は誤って連座した者を緩やかに処するよう議し、全活を得た者は百三十人に及んだ。ある日、将佐が「捕虜および一切の死者の屍を多く戮して、軍威を張るべきである」と進言した。明善は強く争い、「王者の師は天罰を恭しく行うものであり、小醜が跳梁するも、その渠魁を戮するのみで足りる。民に何の罪があろうか」と論じた。その後、賊が記した贛・吉の民丁十万を記した籍帳を得た。役人は喜び、これを蔓り広げて利益としようとしたが、明善はその籍を焼いて跡を滅するよう請い、二郡は遂に安堵した。

南行台の掾に昇進。間もなく、枢密院照磨を授かる。転じて中書左曹掾となり、掾曹に滞留する事案は無かった。初め、明善が江西にいた時、張瑄がその省の参政であった。明善は馬を所有しており、駿足だが瘠せていた。瑄が従騎として借り受け、久しくして益々壮健となり、瑄はこれを愛し、米三十斛を致してその代価に酬いた。後に瑄が失脚すると、江浙行省がその家を没収し、金穀の簿冊を得た。そこに「米三十斛を元復初に送る」と記され、馬の代価に酬うためとは記されていなかったため、明善は連座して免官された。久しくして、その事を弁白する者が現れ、乃ち再び省曹の掾に復した。

仁宗が東宮に在った時、真っ先に抜擢して太子文学とした。即位すると、翰林待制に改める。成宗・順宗実録の編修に参与し、翰林直学士に昇進。詔により尚書経文を節略し、その政要に関わる部分を訳して進上せよとの命があり、明善は宋の忠臣の子で集賢直学士の文陞を挙げて同訳潤に当たらせ、許された。書が完成し、一篇奏上する毎に、帝は必ず善しと称え、「二帝三王の道は、卿でなければ聞くことができなかった」と言った。興聖太后が尊号を受けた後、廷臣はこれに因んで赦しを施行するよう請うたが、明善は「赦しを数えることは善人の福ではなく、過ちを宥すのみで足りる」と述べた。

旨を奉じて山東・河南の飢饉に出向き賑済した。時に彭城・下邳諸州は数十駅に連なり、民は餓え馬は斃れていたが、官には賑貸の文書が無かった。明善は鈔一万二千錠を分け与え、「命令を擅にする罪は、辞さない」と言った。還って武宗実録を修し、また翰林侍講学士に昇進し、科挙・服色等の事を預かり議した。

延祐二年、初めて天下の進士を会試し、明善は真っ先に考試官を充てられた。廷試に及んではまた読巻官となり、取った士は後に多く名臣となった。礼部尚書に改め、孔氏の宗法を正し、宣聖五十四世の孫思晦を襲封して衍聖公とし、事を上奏すると、制によりこれを可とした。参議中書省事に抜擢され、間もなくまた翰林に入り侍読となった。年の内に湖広行省参知政事を拝命。また召されて集賢に入り侍読となり、廟制を広めることを議し、翰林学士に昇進して仁宗実録を修した。英宗が自ら太室に祼礼を行う際、礼官が祝冊を進め、御名を署するよう請うた。命により明善が代わりに署することを三度許され、眷遇の厚さは当時並ぶ者無かった。至治二年、在官のまま卒去。泰定年間、資善大夫・河南行省左丞を追贈され、清河郡公を追封、諡して文敏といった。

明善は早くから文章をもって自ら誇り、秦漢の間に出入りし、晚年は益々精妙に至り、文集が世に行われた。

初め江西・金陵に在った時、毎度虞集と激論を交わし、以て互いに切磋した。明善は言う、「集が諸経を治めるのは、ただ朱子の定めた所のみである。漢以来先儒の嘗て尽心した所を考うるに、甚だ未だ博くない」と。集もまた言う、「凡そ文辞を為すは、言いたいことを得て止まるべきである。必ずや明善の云う『雷霆の震驚の如く、鬼神の霊変の如し』のようでなければならぬというのは、性情の正しきものではない」と。二人は初め甚だ歓んで相得たが、京師に至って、乃ち再び互いに譲らなくなった。董士選が中台より江浙行省に出向く時、二人は共に都門外まで送り出した。士選は言った、「伯生は教導を職とするから、早く還るべきである。復初は更に我を送るが宜しかろう」。集は還り、明善は二十里外まで送った。士選は馬を下りて邸舎に入り、席を設け、嚢中の肴を出して酒を酌み交わした。乃ち酒を挙げて明善に属して言った、「士選は功臣の子として、台省に出入りするも、国家に補うところ無し。ただ数人の佳士を得て、朝廷に用いられることを求めるのみである。復初と伯生の如きは、他日必ず皆光顕するであろう。然れども恐らく人の間を構えられることを免れまい。復初は中原の人であるから、仕えて必ず道に当たるであろう。伯生は南人であるから、復初に摧折されることになろう。今我が為にこの酒を飲み、慎んでこのようであってはならない」。明善は巵酒を受け、跪いてこれを釂した。起立して言う、「誠に公の言う如し。他日を論ずるに及ばず、今既に隙が開いております。公に再び一巵を賜わり、明善終身公の言を忘れませんように」。乃ち再び飲んで別れた。

真人呉全節は、明善と交わり特に密であり、嘗て明善に文章を作ることを求めた。既に成ると、明善は全節に言った、「伯生が我が文を見れば、必ず譏弾するであろう。我が知りたいところである。成季(全節の字か)我が為に饌を整え、伯生を招き来らせてこれを見せよ。もし既に石に刻み入れたならば、則ち及ぶところでは無い」。明日、集が至ると、明善はその文を出し、どうかと問うた。集は言った、「公が集の言に従い、百余字を去れば、則ち伝えられるであろう」。明善は即ち筆を執り集に属し、凡そ百二十字を削り、文は益々精当となった。明善は大いに喜び、乃ち歓好初めの如くとなった。集は経学に明るい士を見る毎に、亦た明善の言葉を以て彼らに告げた。

明善の一子、晦、蔭を受けて峽州路同知となったが、早世した。

虞集の弟槃 范梈

虞集、字は伯生、宋の丞相虞允文の五世の孫である。曾祖父の剛簡は利州路提刑となり、治績があった。嘗て臨卭の魏了翁、成都の范仲黼・李心傳らと、しょくの東門外で講学し、程氏・朱氏の微旨を得て、易・詩・書・論語説を著し、以てその義を発明した。蜀人は師としてこれを尊んだ。祖父の㠭は連州の知州となり、亦た文学をもって知名であった。父の汲は黄岡尉であった。宋が滅亡すると、臨川崇仁に寓居し、呉澄と友となり、澄はその文を清くして醇であると称えた。嘗て再び京師に至り、俘虜となった族人十余口を贖い出して帰り、これにより家は益々貧しくなった。晚年漸く家を興し、諸生の中で教授し、孛朮魯翀・欧陽玄を得て称許し、翰林院編修官を以て致仕した。楊氏を娶る。国子祭酒楊文仲の女である。咸淳年間、文仲が衡州を守り、汲を従えた。子が無かったため、南岳に祈った。集が生まれようとする時、文仲は朝早く起き、衣冠を正して坐り仮寐した。夢に一道士が前に至り、牙兵が啓して「南嶽真人来見す」と言う。既に覚め、甥の館で男子を得たと聞き、心に甚だ異とするところがあった。

虞集三歳にして既に読書を知り、歳は乙亥、虞汲は家を率いて嶺外に赴く、干戈の中に書冊を携える可きものなく、楊氏は口授して論語・孟子・左氏伝・欧蘇の文を教え、聞いて直ちに誦するを得たり。長沙に還るに及び、外傅に就き、始めて刻本を得るも、則ち已に諸経を尽く読み、其の大義を通ずるに至れり。文仲は世に春秋を以て名家と為し、而して族弟参知政事虞棟は性理の学に明らかに、楊氏は在室の時、即ち其の説を尽く通じたれば、故に虞集と弟虞槃は皆家庭に受業し、出づれば則ち契家子として呉澄に従い遊び、授受に源委を具えたり。

左丞董士選が江西より南行台中丞に除せられ、虞集を家塾に延ぶ。大徳初年、始めて京師に至る。大臣の推薦により、大都路儒学教授を授けられ、訓迪を職と為すと雖も、而も益々自ら充広し、少しも暇佚せず。国子助教に除せられ、即ち師道を以て自ら任じ、諸生は其の退く時を窺い、毎に策を挟んで門下に趨り卒業し、他館の生多く相率いて虞集に詣りて益を請う。丁内艱に遭い、服除け、再び助教と為り、博士に除せられる。監祭殿上に、劉生と云う者あり、酒に酔って俎豆の間に礼を失す、虞集は監に言い、其の籍を削らんことを請う。大臣に劉生の為に謝する者あり、虞集は持して不可とし、曰く「国学は礼義の出づる所なり、此れを治めざれば、何を以て教えと為さんや」と。仁宗東宮に在り、旨を伝えて虞集に諭し、其の事を竟うる勿からしむ、虞集は劉生の失礼の状を上之し、詹事院に移し、竟に劉生を黜す、仁宗更に虞集を以て賢と為す。

大成殿に新たに登歌楽を賜う、其の師は世江南に居り、楽生は皆河北田里の人、情性相能わず、虞集親しく之を教え、然る後に曲を成す。復た司楽一人を設けて之を掌らしめ、以て考正を俟つことを請う。仁宗即位し、監学に責成し、台臣を祭酒に拝し、呉澄を司業に除し、皆以て更張を為さんと欲し、以て帝意に副わんとす、虞集力めて其の説を賛す。異論を為して以て之を沮む者あり、呉澄は檄を投じて去り、虞集も亦病を以て免ず。未だ幾ばくもせず、太常博士に除せられ、丞相拜住方に其の院使と為り、間を以て虞集に礼器祭義を問うこと甚だ悉し、虞集は先王の制作、及び古今の因革治乱の由を言う、拜住歎息し、益々儒者の有用を信ず。

朝廷方に科挙を以て士を取る、説者は治平を力致す可しと謂う、虞集独り以て当に其の源を治むべしと謂う。集賢修撰に遷り、会議学校に因り、乃ち議を上りて曰く「師道立つれば則ち善人多し、学校は士の教を受け、以て成徳達材に至る所なり。今天下の学官、猥りに資格を以て授け、強いて之を諸生の上に加え、而して名づけて師と曰うのみ、有司之を信ぜず、生徒之を信ぜず、学校に益無し。此くの如くして師道の立つを望む、可ならんや。下州小邑の士は見聞する所無く、父兄の子弟を導く所以は、初より必ず学問を為すの実意無く、師友の游従も亦其の邪正を弁ぜず、然らば則ち所謂賢材は天より降り地より出ずるに非ず、安んぞ望むの理有らんや。今の計と為すは、守令に経明行修成徳の者を求め、身を以て之を師尊し、至誠懇惻を以て之を求むるに若かず、其の徳化の及ぶ、庶幾くは観感する所有らん。其の次は則ち操履近正にして詭異駭俗を為さず、確かに先儒の経義師説を守りて敢えて妄りに奇論を為さず、衆の敬服する所にして郷愿の徒に非ざる者を求め、延致するの日、其の書を諷誦し、学者をして之を習わしめ、耳に入れ心に著け、以て其の本を正しくせば、則ち他日も亦発する所有らん。其の次は則ち郷貢京師に至りて罷帰する者を取り、其の議論文芸は猶以て其の人を聳動するに足り、泛々として根柢を知らざる者の如くに非ざるなり」と。六年、翰林待制に除せられ、兼ねて国史院編修官と為る、仁宗嘗て左右に対し歎じて曰く「儒者は皆用いられたり、惟だ虞伯生未だ顕擢せられざるのみ」と。会して晏駕し、用いるに及ばず。

英宗即位し、拜住相と為り、頗る賢俊を超用す、時に虞集は憂を以て江南に還る、拜住知らず。乃ち上に言い、使を遣わして之を蜀に求めしむ、見えず;江西に求めしむ、又見えず;虞集方に呉中に墓を省み、使至り、命を受け朝に趨るも、則ち拜住は見るに及ばざりき。泰定初年、礼部を考試し、同列に言いて曰く「国家科目の法は、諸経伝注各其の主とする所有り、将に一道德・同風俗を以てせんと欲し、学者をして専門に業を擅にせしむるを欲するに非ず、近代の五経学究の固陋の如くに非ざるなり。聖経深遠にして、一人の見を以て尽くす可からず、試芸の文は、其の高き者を推して取り、必ずしも先ず主意有るを要せず、若し先ず主意を定むれば、則ち賢を求むるの心狭く、而して差此より始まる」と。後に再び考官と為り、率ね是の説を持す、故に取る所毎に人を得たりと称せらる。

泰定初年、国子司業に除せられ、秘書少監に遷る。天子上都に幸す、講臣多く高年なるを以て、命じて虞集と集賢侍読学士王結に、経を執りて以て従わしむ。是より歳嘗に行在に在り、経筵の制は、経史中より心徳治道に切なる者を取り、国語・漢文を以て両様に進読し、潤訳の際、聖学を陳ぶる者は未だ易くして其の要を尽くし難く、時務を指す者は尤も難くして其の情を極め難きを患う、毎に一時其の学に精なる者を選びて之を為さしむるも、猶数日にして乃ち一篇を成す、虞集は古今名物の弁を反覆して以て之を通じ、然る後に以て忤わざるを得、其の辞の達する所、万に一にも及ばず、則ち未だ嘗て退きて窃に歎かざるは無かりき。翰林直学士に拝し、俄に国子祭酒を兼ぬ、嘗て講罷に因り、京師の東南の運糧を恃みて実と為し、民力を竭して以て不測を航するは、遠人を寛にして地利に因る所以に非ざるを論ず。同列と進みて曰く「京師の東、海に瀕すること数千里、北は遼海に極まり、南は青・斉に濱し、萑葦の場なり、海潮日毎に至り、淤れて沃壤と為る、浙人の法を用い、堤を築き水を捍ぎて田と為し、富民官を得んと欲する者に聴き、其の衆を合わせて地を分授し、官其の畔を定めて以て限と為し、能く万夫を以て耕す者には、万夫の田を授け、万夫の長と為し、千夫・百夫も亦之の如くし、其の惰る者を察して之を易ゆ。一年は征する勿れ;二年は征する勿れ;三年は其の成を視、地の高下を以て、朝廷に定額し、以て次第に漸く之を征す;五年にして積蓄有れば、命じて官と為し、儲うる所に就きて以て禄を給す;十年にして符印を佩かしめ、以て子孫に伝うるを得しむ、軍官の法の如くせん。則ち東面の民兵数万、以て近く京師を衛い、外に島夷を禦ぎ;遠く東南の海運を寛にして、以て疲民を紓う;遂に富民の官を得るの志を遂げ、而して其の用を獲;江海の游食盗賊の類、皆帰する所有らん」と。議中に定まるも、説者は一たび此の制有れば、則ち執事者必ず賄を以て成り、而して為す可からずと以為う。事遂に寝す。其の後海口万戸の設け、大略之を宗とす。

文宗が潜邸に在った時、既に虞集の名を知っており、即位すると、虞集に命じて依然として経筵を兼ねさせた。嘗て先世の墳墓が呉・越にあるものが、歳月が久しく湮滅したことを以て、一郡を乞いて自ら便ならしめんと請うたが、帝は曰く、「汝の才は何ぞ堪えざらん、顧みるに今は未だ汝を去らしむべからず」と。奎章閣侍書学士に除す。時に関中大饑饉あり、民は枕籍して死に、方数百里に孑遺なき者有り、帝は虞集に関中を救うには如何にすべきかを問うた。対えて曰く、「承平の日久しく、人情宴安たり、志あるの士は、近効を急ぐれば、則ち怨讟興る。不幸にして大災の余、正に君子が治を為し新たにするの機なり、若し一二の仁術有り、民事を知る者を遣わし、稍々其の禁令を寛かにし、使いて為す所あるを得せしめ、郡県に随いて用うべきの人を択び、旧民の在る所に因り、城郭を定め、閭里を修め、溝洫を治め、畎畝を限り、征斂を薄くし、其の傷残老弱を招き、漸く其の力を以て之を治めば、則ち遠く去りて来帰する者漸く至り、春耕秋斂、皆助くる所ある有らん。一二歳の間、征せず徭せず、封域既に正しければ、友望相済い、四面より至る者、均斉方一にして、截然として法有り、則ち三代の民、将に空虚の野に出づるを見ん」と。帝は善しと称す。因りて進みて曰く、「幸いに臣に一郡を仮し、此の法を以て之を行わしめ試みば、三五年の間、必ず以て朝廷に報ゆる者有らん」と。左右に曰く者有り、「虞伯生は此を以て去らんと欲するなり」と。遂に其の議を罷む。勅有りて諸の兼職は三を過ぎずとし、国子祭酒を免ず。

時に宗藩は暌隔し、功臣は汰侈し、政教未だ立たず、帝将に廷に於いて士を策せんとし、虞集は命を被り読巻官と為り、乃ち制策を擬して以て進む。首に「親親を勧め、群臣を体し、風俗を同一にし、万邦を協和す」とを以て問いと為す。帝は用いず。虞集は入侍して燕閑に侍するも、時政に益無く、且つ媢嫉する者多きを以て、乃ち大学士忽都魯都児迷失等と共に進みて曰く、「陛下独見を出だし、奎章閣を建て、書籍を覧し、学士員を置き、以て顧問に備う。臣等員に備わるも、殊に補報無く、窃かに聖徳を累わすを恐る。乞うらくは臣等の職を辞するを容れられん」と。帝曰く、「昔我が祖宗は、睿智聰明にして、其の致理の道に於いては、生而知之たり。朕は早歳跋渉難阻し、我が祖宗を視るに、既に生知の明に乏しく、国家の治体に於いて、豈に周知せんや。故に奎章閣を立て、学士員を置き、以て祖宗の明訓、古昔の治乱得失を、日に前に陳べしむ。卿等其れ学ぶ所を悉くして、以て朕が志を輔けよ。若し軍国の機務は、自ら省院台之を任ず。卿等の責に非ず。其れ復た辞する勿れ」と。

旨有りて本朝の典故を采輯し、唐・宋の会要に倣い、経世大典を修め、虞集と中書平章政事趙世延に命じ、同しく総裁を任ず。虞集言う、「礼部尚書馬祖常は、旧章を多聞し、国子司業楊宗瑞は、素より暦象地理記問度数の学有り、共に典を領すべし。翰林修撰謝端、応奉蘇天爵、太常李好文、国子助教陳旅、前詹事院照磨宋褧、通事舎人王士点は、倶に見聞有り、撰録を助くべし。庶幾くは是の書早く成らん」と。帝は嘗て遼・金・宋の三史を修めしむるを命じたるも、未だ成績を見ず、大典は閣学士に令して専ら其の属を率いて之を為さしむ。既にして累朝の故事に未だ備わらざる者有るを以て、請うらくは翰林国史院が祖宗実録を修むる時の百司の具うる所の事蹟を以て参訂せんと。翰林院の臣帝に言う、「実録は、法外に伝うるを得ず、則ち事蹟も亦た人に示すべからず」と。又た国書脱卜赤顔を以て太祖以来の事蹟を増修せんことを請う。承旨塔失海牙曰く、「脱卜赤顔は外人に伝えしむべからざる者なり」と。遂に皆已む。俄に世延帰り、虞集専ら其の事を領す。再び歳を閲し、書乃ち成る。凡そ八百帙。既に上進し、目疾を以て職を解くを丐うも、允さず。乃ち治書侍御史馬祖常を挙げて自ら代わらしむ。報いず。

御史中丞趙世安、隙に乗じて虞集の為に請うて曰く、「虞伯生久しく京師に居し、甚だ貧しく、又た目を病む。幸いに一外任を仮し、医に便ならしめよ」と。帝怒りて曰く、「一虞伯生、汝輩容れざるか」と。帝方に文学を用いんと嚮い、虞集の弘才博識を以て、施すに宜からざる無く、一時の大典冊咸く其の手より出ず。故に重ねて其の去るを聴かず。虞集毎に詔を承けて述作有るに、必ず帝王の道、治忽の故を以て、従容として諷切し、冀くは感悟有らんことをす。顧問を承け及び古今の政治得失に及んでは、尤も委曲として言を尽くし、或いは事に随いて規諫す。出でては人に語さず、諫めて或いは入らざれば、家に帰りて悒悒として楽しまず。家人其の然るを見るも、敢えて其の故を問わず。時に世家の子孫、才名を以て進用せらるる者衆く、其の知遇日々に隆んなるを患え、毎に以て之を間せんことを思う。既に効せざれば、則ち相与に虞集の文辞を摘み、指して譏訕と為す。天子の察知して自ら有るに頼み、故に中傷する能わず。然れども虞集其の人に遇うも、未だ少しくも変ぜず。一日、虞集に命じて制を草し乳母の夫を封じて営都王と為さしむ。貴近の阿栄・巎巎をして旨を伝えしむ。二人の者は、素より虞集を忌み、繆りて制に封じて営国公と為すと言う。虞集藁を具す。俄に丞相自ら榻前より来たりて制詞を索むること甚だ急なり。虞集藁を以て進む。丞相愕然として故を問う。虞集為に紿かれたるを知り、即ち請うて藁を易えて以て進む。終に自ら言わず。二人の者は之を愧づ。其の雅量此の類の如し。

人材を論薦するに、必ず先ず器識を以てし、心に善しとせざるは、牢籠を以て誉を沽わず。文章を評議するに、至当に折せざるに止まらず。其の経に詭する者は、文と雖善くとも、与せず。此の二者を以て物に忤い謗を速うすと雖も、終に動かされず。光の人龔伯璲、才俊を以て馬祖常の喜ぶ所と為る。祖常御史中丞と為り、伯璲其の門に游ぶ。祖常亟に之を称し、虞集が薦引するを欲す。虞集不可とし、曰く、「是の子は小に才有りと雖も、然れども遠き器に非ず、亦た令終を得ざるを恐る」と。祖常未だ然りと為さず。一日、虞集を邀えて其の家に過ぎしめ、宴を設く。酒半ば、薦牘を出だして虞集の署するを求む。虞集固く之を拒む。祖常楽しまずして罷む。文宗崩ず。虞集告に在り、南還を謀わんと欲すも、果たさず。幼君崩ず。大臣将に妥歓帖穆爾太子を立てんとし、至大の故事を用い、諸の老臣を召して上都に赴きて政を議わしむ。虞集召しの列に在り。祖常人をして之に告げしめて曰く、「御史言有り」と。乃ち病を謝して臨川に帰る。

初め、文宗上都に在り、将に其の子阿剌忒納答剌を立てて皇太子と為さんとし、乃ち妥歓帖穆爾太子の乳母の夫の言を以て、明宗の日の在りし時、素より太子は其の子に非ずと謂い、之を江南に黜く。駅を以て翰林学士承旨阿隣帖木児・奎章閣大学士忽都魯篤彌実を召し、其の事を脱卜赤顔に書かしむ。又た虞集を召し詔を書かしめ、中外に播告せしむ。時に省台の諸臣は、皆文宗の素より信用する所、功を同じくし体を一にするの人なり。御史も亦た敢えて其の事を斥言せず。意は虞集を諷して速やかに去らしめんとするに在るのみ。伯璲後用事に以て敗れ、其の身を殺さる。世乃ち虞集の人を知るに服す。

元統二年、使いを遣わして上尊酒・金織文錦二を賜い、禁林に召し還す。疾作して行く能わず。屡に勅有り、即ち家に於いて文を撰し、勲旧・侍臣を褒錫す。旧詔を以て言う者有り。帝懌せずして曰く、「此れ我が家の事、豈に彼の書生に由らんや」と。至正八年五月己未、病を以て卒す。年七十七。官は将仕郎より、十二転して通奉大夫と為る。江西行中書省参知政事・護軍を贈り、仁寿郡公に封ず。

孝友を集め、両親を故家の令徳をもって仕え、中ごろ乱亡に遭い、下邑に僑寓したが、左右に承順して違うところがなかった。弟の槃は早く卒し、その孤児を教育し、己が子と異なることがなかった。兄の采は、筦庫をもって賦を京師に輸送し、数千緡を虧き、力を尽くして貸しを営み代償し、難色を示さなかった。庶弟を撫で、孤妹を嫁がせ、恩意を具えていた。山林の士で古学を知る者は、必ず折節してこれを下し、後進を接するに、少なくかつ賤しきも、己が敵のごとくした。権門が赫奕たる当時、いまだかつて附麗するところなく、中書に集議し、正言讜論、多く容受せられ、しばしば片言をもって疑誤を解き、人を濱死より出だすも、またこれを徳とせず。張珪・趙世延は特にこれを敬礼し、疑うところあれば必ず諮問した。

家はもと貧しく、老いて帰った後は食指ますます衆く、門に登る士は道に相望み、好事は争って邸舎を起こしてこれをもてなした。しかし碑板の文は、いまだかつて苟く作らず。南昌の富民に伍真父という者あり、資産一方に甲たり、諸王の女を娶り妻とし、本位下の郡総管に充てられた。既に卒すと、その子は豊城の士甘慤に属して集の文を求め父の墓を銘し、中統鈔五百錠を奉じて礼物に準えたが、集は許さず、慤は愧歎して去った。束脩羔雁の入りは、還って賓客の費とし、空乏すれども恤れなかった。

集の学は博洽であるが、本原を究極し、精微を研ぎ探り、心に解し神に契い、その経緯弥綸の妙は、一に諸文に寓し、藹然として慶曆・乾淳の風烈がある。かつて江左の先賢は甚だ衆く、その人皆知り易からず、その学皆言い易からず、後生晩進で知る者は鮮いとして、太原の元好問の『中州集』の遺意を取り、別に『南州集』を作ってこれを表章しようとしたが、病目のために止んだ。平生文を為すこと万篇、稿存するもの十二三。早歳に弟の槃とともに書舎を闢き二室とし、左室には陶淵明の詩を壁に書き、題して陶庵とし、右室には邵堯夫の詩を書き、題して邵庵とした。故に世に邵庵先生と称された。

子四人、安民は、蔭をもって官を歴て吉州路安福州を知った。その門に遊び称許せられた者は、莆田の陳旅、旅もまた文行を世に有した。国学の諸生たる蘇天爵・王守誠の輩は、終身他師を名乗らず、皆当世に名卿と称せられた者である。その交遊特に厚き者は、范梈という。

槃は字を仲常といい、延祐五年に進士に及第し、吉安永豊丞を授かった。父の憂に服した。湘郷州判官を除され、頗る古を癖とすることを称された。富民が人を殺し、己に隷する者をしてこれに坐らせ、上下皆阿従したが、槃のみ署せず、殺人者はついに死を免れず、而坐する者は冤なきを得た。

巫がその州に至り、神の降りたると称し、その人に告げて曰く「某方に火あり」と。即ち火災が起こった。また曰く「明日某方に火あり」と。民が火災を告ぐる者、槃は皆赴き救い、昼夜に達し、告ぐる者数十、寝食尽く廃し、県の長吏以下は皆巫を家に迎え、厚く礼した。また曰く「将に大水あり、かつ兵至らん」と。州の大家は皆尽く室を逃げた。槃は劫火の卒一人を得てこれを訊き、巫の党の為すところを尽く得て、捕盗司に坐し、巫を召してこれを鞫いたが、敢えて鞭箠を施す者なし。槃は卒に謂いて曰く「これ将に大乱を為さんとす、安んぞ神あらんや」と。急ぎこれを治め、党与数十人を尽く得た。羅絡内外し、果たして将に変を為さんとする者あり、同僚は皆敢えて出で視ず、曰く「君自らこれを為せ」と。槃は乃ち巫へいびにその党を法の如く断じ、一時吏民始めて儒者の政を為すことかくの如きを服した。秩満し、嘉魚県尹を除されたが、槃は既に卒していた。

槃は幼時、嘗て柳子厚の『非国語』を読み、『国語』は誠に非とすべきも、而して柳子の説も亦非なりと以為い、『非非国語』を著し、時人已にその識有るを歎じた。詩・書・春秋に皆論著あり、而して春秋は乃ちその家学、故に尤も善し。呉澄の解する諸経義を読み、輒ちその旨趣の在る所を得、澄は亟にこれを称した。

兄の集は、方外の士を接するに、必ずその説を叩撃し、嘗て以為うに、聖人の教え明らかならず、学を為す者底止する所なし、苟くも吾が道と異端との疑似の間に深く知らずして、窃かに夫の性命の原・死生の故を究めんと欲すれば、その折れてこれに帰せざる者は寡し、と。槃は然らず、諸僧の坐に在るを聞けば、輒ち入らず竟に去る。その人方正なることかくの如く、集と雖も亦これを厳憚した。然れども不幸にして年艾に及ばずして卒した。

范梈は字を亨父といい、一字を徳機といい、清江の人である。家貧しく、早く孤となり、母の熊氏は志を守り他に適さず、長じてこれを教えた。梈は天資穎異、誦読する所は、輒ち記憶し、癯然として清寒衣に勝たざるが如くとも、流俗の中に克く自ら樹立し、苟賤の意なし。居れば則ち窮を固くして節を守り、力を竭して親を養い、出れば則ち陰陽の技を仮りて、旅食を給し、詩に耽り文に工み、力を用いること精深、人知る者罕なり。

年三十六、始めて京師に客し、即ち諸公の間に声有り、中丞董士選はこれを家塾に延いた。朝臣の薦めにより、翰林院編修官と為る。秩満し、御史台は海南海北道廉訪司照磨に擢で、遐僻を巡歴し、風波瘴癘を憚らず、至る所学を興し民を教え、冤滞を雪理すること甚だ衆し。江西湖東に遷り、長吏は素より厳明と称せられ、僚属の中に独りこれを敬異した。翰林応奉に選充せられる。御史台は又改めて福建閩海道知事に擢でた。閩の俗は素より汚れ、文繡局は良家の子を取って繡工と為し、別無きこと尤も甚だしく、梈は歌詩一篇を作りその弊を述べ、廉訪使は取って以て上聞し、皆罷め遣わし、その弊遂に革まった。

未だ幾ばくもなく、疾を移して故里に帰る。天暦二年、湖南嶺北道廉訪司經歷を授けられたが、親を養うを以て辞した。この歳、母喪有り。明年十月、亦疾を以て卒し、年五十九。著する所の詩文多く世に伝わる。

梈は身を持すること廉正、官に居るは私を以て干すべからず、疏食飲水、泊如たり。呉澄は道学を以て自ら任じ、許可すること少なかったが、嘗て曰く「亨父の若きは、謂うべし特立独行の士なり」と。文を為してその墓を志し、東漢の諸君子を以てこれに擬す。

揭傒斯

揭傒斯は字を曼碩といい、龍興富州の人である。父は来成、宋の郷貢進士。傒斯は幼く貧しく、読書特に刻苦、昼夜少しも懈らず、父子自ら師友と為り、ここにより百氏を貫通し、早くより文名有り。大徳の間、稍々湘・漢に游び出で、湖南帥の趙淇は、雅に知人と号し、これを見て驚いて曰く「他日翰苑の名流なり」と。程鉅夫・盧摯は、先後に湖南憲長と為り、咸くこれを器重し、鉅夫は因りて従妹を以て妻とす。

延祐の初め、鉅夫・摯列ねて朝廷に薦め、特授して翰林国史院編修官と為す。時に平章李孟は国史を監修し、その撰する所の功臣列伝を読み、嘆じて曰く「是の方に史筆と名づくべし、他人の若きは、直に吏牘を謄するのみ」と。応奉翰林文字に昇り、仍って編修を兼ね、国子助教に遷り、復た応奉として留まる。南帰して母を省み、旋って復た召し還される。傒斯は凡そ三たび翰林に入り、朝廷の事、台閣の儀、閑習せざるなし、集賢学士王約は謂う「傒斯と治道を談ずれば、大いに人を起こし、これに政を授くれば、当に施すべからざる無からん」と。

天暦の初め、奎章閣が開かれると、まず抜擢されて授経郎とされ、勲戚大臣の子孫を教えた。文宗は時に閣に臨幸し、諮問することがあると、奏対が意に適い、常にその字(曼碩)で呼び名を呼ばなかった。中書が儒臣を任用する上奏をするたびに、必ず問うて曰く、「その才能は揭曼碩に比べてどうか」と。時に太平政要策を出して臺臣に示し、曰く、「これは朕の授経郎揭曼碩が進呈したものだ」と。かくのごとく親しく重んぜられたのである。

富州は地に金を産せず、官府は姦民の言葉に惑わされ、淘金戸三百を募り、その者を総領とし、他郡に散らして金を採らせて献上させ、歳課は四両から累次増加して四十九両に至った。その者が死ぬと、三百戸で存するものは十に一もなく、また貧しくて生活に困窮し、有司はついに官に役せられる民に代わって納入を責め、民は多くこれによって破産した。中書は傒斯の言葉により、ついにその徴収を免除し、民はこれによって蘇生し、富州の人々は今に至るまで彼を徳としている。

経世大典の編修に参与し、文宗はその撰した憲典を取って読み、顧みて近臣に謂いて曰く、「これはまさに唐律ではないか」と。特に藝文監丞を授け、参檢校書籍事を兼ね、かつしばしばその純実を称え、任用しようとしたが、文宗が崩御したために止んだ。元統の初め、便殿で詔に対し、慰諭すること久しく、諸王の着用する表裏各一を賜うことを命じ、自ら識別して授け、翰林待制に遷り、集賢學士に陞り、階は中順大夫となった。先に、儒學官が吏部の選を受けるには、必ず集賢に移し、その学業を考較し、集賢は国子監に下し、監は博士に下し、吏文が滞り、動もすれば累月を超えた。傒斯はその法を改めるよう請い、事を本院の属官に委ね、人々は大いに便利とした。

旨を奉じて北嶽・濟瀆・南鎮を祀り、便道で西還した。時に秦王伯顏が国政を執り、しばしばその還朝を促したが、傒斯は病を引き固辞した。既にして天子が親しく奎章閣供奉學士に抜擢すると、即日就道し、未だ到らぬうちに翰林直學士に改め、経筵が開かれると、再び侍講學士・同知経筵事に陞り、対品で中奉大夫に進階した。時に新格では超陞は二等を越えず、ただ傒斯のみ四等を進み、九階を転じ、まさに異数であった。経筵には専官がなく、領とか知とかいうものは多く宰執大臣であったので、微辞奥義は必ず傒斯に訂定させてから進講し、その言は往々にして献替の誠を寓し、もって治道を裨益することを務めた。天子はその忠懇を嘉し、数えて金織文段を出して賜うた。

至正三年、七十歳となり、その事を致して去ろうとしたが、詔により使者を遣わして漷南で追及した。まもなくまた上尊の諭旨を奉じ、還って明宗神御殿の碑を撰することを命じられ、文が成ると、楮幣一万緡・白金五十両を賜い、中宮もまた白金を賜うた。去らんことを求めたが、許されず、丞相脫脫及び執政大臣に命じて面諭して行かせまいとした。傒斯曰く、「もし揭傒斯に一得の献があって、諸公がその言を用い天下がその利を蒙るならば、たとえここで死すとも何の恨みがあろう。そうでなければ、何の益があろうか」と。丞相は因って問うて曰く、「方今の政治は何を先とすべきか」と。傒斯曰く、「人材を儲えることを先とすべし。位望未だ隆ならざる時に養い、周密な庶務の後に用いれば、則ち人材を失い事を廃する患いなし」と。ある日、朝堂に集議し、傒斯は抗言して曰く、「新旧の銅錢を兼ね行い、以て鈔法の弊を救うべし」と。執政は不可と言ったが、傒斯はますます力を込めて主張し、丞相はその阿らざるを称えたが、ついにその言を行わなかった。

遼・金・宋の三史を修する詔が下り、傒斯は総裁官となった。丞相が問うて曰く、「史を修するには何を本とすべきか」と。曰く、「人を用いることを本とす。学問文章あって史事を知らざる者は、与すべからず。学問文章あり史事を知りて心術正しからざる者は、与すべからず。人を用いる道は、また心術を本とすべきなり」と。かつ僚属に言うて曰く、「史を作る法を求めんと欲すれば、須らく史を作る意を求むべし。古人の史を作るは、小善といえども必ず録し、小悪といえども必ず記す。然らずんば、何を以て懲勧を示さんや」と。ここにおいて毅然として筆削を自ら任じ、凡そ政事の得失、人材の賢否は、一律に是非の公を以てし、物論の斉しからざるに至っては、必ず反覆辨論し、以て至当に帰するを求めて後に止んだ。四年、遼史が成り、旨を以て奨諭され、なお早く金・宋の二史を成すよう督せられた。傒斯は史館に留宿し、朝夕休むことを敢えず、寒疾を得て、七日にして卒した。時にちょうど使者が上京より至り、史局に宴を賜うことになっていたが、傒斯の故を以て宴の日を改め、使者がこれを聞かせると、帝は嗟悼し、楮幣一万緡を賜い、なお駅舟を給し、その喪を江南に護送させた。六年、制により護軍を贈られ、章郡公を追封され、諡して文安といった。勲爵ありて官階なきは、有司の過失である。

傒斯は少くして窮約に処し、親に事えて菽水粗く具えながら必ずその歓心を得、禄入あるに及び、衣食稍々前に踰ゆると、愀然として曰く、「吾が親は未だ嘗て是を享けず」と。故に平生清儉、老いに至るまで変わることなし。兄弟に友愛し、終始間然たる言なし。朝廷に立ちては散地に居ながらも、士を薦めるに急で、人の善を揚げるは及ばざるを恐れ、吏の貪墨して民を病むを聞けば、則ち特に曲げて之を揜覆せざりき。文章を作るに、叙事は厳整、語は簡にして当たり、詩は特に清婉麗密、楷書・行・草を善くす。朝廷の大典冊及び元勲茂徳にして銘辞を得るに当たる者は、必ず以て命ぜられた。殊方絶域、咸くその名を慕い、その文を得る者は、これを栄えとせざるはなしという。

黃溍・柳貫・吳萊

黃溍、字は晉卿、婺州義烏の人。母の童氏、大星が懐に墜つるを夢み、乃ち娠り、二十四箇月を歴て始めて溍を生む。溍は生まれながら俊異、童に成るに比し、書詩を授けると、一月とせずして誦することを成す。長ずるに及び、文を以て四方に名有り。

延祐二年の進士に及第し、台州寧海丞を授かる。県地は鹽場に瀕し、亭戸はその有司に統べられざるを恃み、毒を肆にして民を害す。編戸で漕司及び財賦府に隷する者も、亦た各々憑る所有りと謂い、横暴尤も甚だし。溍は皆痛く法を以てこれを縄し、吏が利害を以て白すも顧みず。民に後母が僧と通じてその父を酖殺しながら、反って民の為す所と誣うる者あり、獄将に成らんとするに、溍は衣冠を変え陰にこれを察し、具にその姦偽を知り、卒えてその寃を直す。悪少年で盜籍に名在りて、劫奪を謀り、未だ行わざる者あり、邑の大姓これを執り、賞格に中らんと図るも、初め獲財の左験無く、事久しく決せず、溍これが為に疏剔し、その獄を上し、本條の如くこれを論じ、死を免かるる者十余人。

両浙都轉運鹽使司石堰西場監運に遷り、諸暨州判官に改まる。巡海の官舸は、例として三載を以て一新し、費は官より出で、而して足ることを民に責む。余有れば、則ちその事を総ぶる者これを私す。溍は浮蠹を撙節し、余錢を民に還し、驩呼して去る。奸民、偽鈔を以て黨與を鈎結し、脅えて人財を攘み、官若しくは吏その謀を聴き、挟んで新昌・天台・寧海・東陽諸県に往き、株連の及ぶ所数百家、民の受くる禍甚だ惨し。郡府、溍に下ってこれを鞫治せしむ。溍一問するに、皆伏すことを引き、官吏は除名し、同謀者は各々杖してこれを遣る。盜ありて錢唐県の獄に繫がれ、游民獄吏に賂して私にこれを縱し、文牒を假署し、その来たりて向導と為るを発し、二十余家を逮捕す。溍その情を得て訪うに、正盜は宜しく重議に傅すべく、偽文書を持ち来たる者は又た州民に非ず、俱に械して錢唐に還し、誣うる者は自ら明らかなり。

朝廷に入り応奉翰林文字・同知制誥に任じられ、兼ねて国史院編修官となり、転じて国子博士となった。弟子を朋友の如く遇し、師道を以て自尊することは未だ始めず、軽々しく人の拝礼を受けることはなかったが、学び来る者は益々恭しく、学業成って仕官する者は皆世に聞こえた。時に礼殿の配位四を増設しようとし、配位は東に座して西に向かうべきところ、学官の中には左右に分置することを議する者があり、同僚は敢えて争わなかったが、黄溍のみが面と向かってこれを論破し、事は止んだ。

江浙等処儒学提挙として出向した。黄溍は年齢が六十七歳になったばかりで、引退の年齢を待たず、急いで俸禄を返上して親に仕えることを請う上奏をし、長江を渡って直ちに帰郷した。間もなく秘書少監として致仕したが、ほどなく致仕を取り消され、翰林直学士・知制誥同修国史に任じられた。まもなく経筵官を兼ね、経書を執り進講すること三十二回、帝はその忠誠を嘉し、しばしば金織りの紋段を賜った。侍講学士・知制誥同修国史・同知経筵事に昇進した。官階は将仕郎から七転して中奉大夫に至った。重ねて上章して帰郷を求め、返答を待たずして出発した。帝はこれを聞き、使者を遣わして京師に追い返し、前の官職に復させた。久しくして、ようやく辞任を許され南に帰り、田里の間に悠々と過ごすこと凡そ七年、繡湖の私邸にて卒した。享年八十一。中奉大夫・江西等処行中書省参知政事・護軍を追贈され、江夏郡公に追封され、諡して文献といった。

黄溍は天資が剛直特異であり、州県に在ってはただ清廉を以て治め、月俸が足りなければ、毎度家産を売ってその費用を補った。朝廷に昇ってからは、挺然として立って付和雷同せず、足を巨公・勢人の門に登らせず、君子はその清風高節を称え、氷壺や玉尺の如く、微塵も汚れぬものとした。しかし剛直にして包容心に欠け、物事に触れると弦の如く緊迫し雷霆の如く震えることもあり、容易に近寄りがたいように見えたが、一転瞬の間に、あたたかく陽春の如くなるのであった。黄溍の学問は、天下の書を博く極め、これを至精のところに約し、経史の疑難や古今の因革・制度・名物の類を剖析し、傍らに引き曲げて証し、多くは先儒の未だ発しなかったところであった。文辞は布置謹厳、援拠精切、俯仰雍容、声色を大きくせず、譬えば澄んだ湖に波なく、一碧万頃、魚鼈蛟龍は潜伏して動かず、しかも淵然たる光は、自ら犯しがたいものである。著した書に、『日損斎稿』三十三巻、『義烏志』七巻、『筆記』一巻がある。同郡の柳貫・呉萊は皆浦陽の人である。

柳貫は字を道伝といい、器量は凝定し、端厳として神の如し。嘗て蘭渓の金履祥に性理の学を受けたが、必ず躬行に現わし、幼少より老いに至るまで、好学倦まず。凡そ六経・百氏・兵刑・律暦・数術・方技・異教外書に至るまで、通ぜざるものはなかった。文章は沈鬱舂容、涵肆演迤えんいとして、人多くこれを伝誦した。始め察挙により江山県儒学教諭となり、官は翰林待制に至った。黄溍及び臨川の虞集・豫章の掲傒斯と齊名し、人は儒林四傑と号した。著した書に、文集四十巻、『字系』二巻、『近思録広輯』三巻、『金石竹帛遺文』十巻がある。七十三歳で卒した。

呉萊は字を立夫といい、集賢大学士呉直方の子である。世代は柳貫・黄溍よりやや後である。天資は人に絶し、七歳にして文を作ることができ、凡そ書は一度目を通せば、直ちに誦することができた。嘗て族父の家に往き、日に『漢書かんじょ』一帙を持ち替えて去った。族父が急にこれを試みると、呉萊は琅然と誦し、一字も遺さず、三度他の編に替えても、皆その通りであった。人々は驚いて神の如しとした。

延祐七年、春秋をもって礼部に挙げられたが、及第せず、深裊山中に退居し、益々諸書の奥旨を究め、『尚書標説』六巻、『春秋世変図』二巻、『春秋伝授譜』一巻、『古職方録』八巻、『孟子弟子列伝』二巻、『楚漢正声』二巻、『楽府類編』一百巻、『唐律刪要』三十巻、文集六十巻を著した。その他、『詩伝科条』、『春秋経説』、『胡氏伝証誤』などは、皆未だ稿を脱さなかった。

呉萊は特に論文を好み、嘗て言った。「文章を作ることは兵を用いるが如し。兵法には正・奇がある。正は法度であり、部隊を分明にすること要す。奇は法度に縛られず、目を挙げる一瞬の間に千変万化し、坐作進退撃刺が一時に俱に起こる。そして止まらんとする時には、什伍各々その隊に還り、元より乱れたことはない。」聞く者はこれを服した。

柳貫は平生、人を称許すること極めて慎み、毎度呉萊を称して絶世の才といった。黄溍は晚年、人に謂って言った。「呉萊の文は、嶄絶雄深、秦・漢の間人の作する所に類し、実に今世の士ではない。我がたとえ一世を操觚そうこするとも、またどうしてこれに及ぶことができようか。」その先輩に推許されることこのようであった。呉萊は御史の推薦により、長薌書院山長に調ぜられたが、赴任せずに卒した。享年僅かに四十四、君子はこれを惜しんだ。私諡して淵穎先生といった。