元史

列傳第五十九:程鉅夫、趙孟頫、鄧文原、袁桷、曹元用、齊履謙

程鉅夫

程鉅夫は名を文海といい、武宗の廟諱を避けて、字をもって行なった。その先祖は徽州から郢州京山に移り、後に建昌に家を構えた。叔父の飛卿は宋に仕え、建昌の通判であったが、世祖の時に城を降した。鉅夫は人質として入朝し、宣武将軍・管軍千戸に任ぜられた。ある日、召見され、賈似道はどのような人物かと問われると、鉅夫は条理を立てて詳しく答え、帝は喜び、筆札を与えて書かせたところ、二十余幅を書いて進上した。帝は大いにこれを奇とし、そこで今何の官にあるかと問うと、千戸と答えた。帝は近臣に言った。「朕がこの人の相貌を見るに、既に貴顕に相応しい。その言論を聴くに、誠に聡明で識見ある者である。翰林に置くべし。」丞相の火禮霍孫が旨を伝えて翰林に至り、その年少を理由に、応奉翰林文字に奏したが、帝は言った。「今後、国家の政事の得失、及び朝臣の邪正については、皆朕に言うべきである。」鉅夫は頓首して謝し言った。「臣は本来疎遠の臣であり、陛下の知遇を蒙り、敢えて力を尽くして陛下に報いざらんや。」まもなく翰林修撰に進み、しばしば転じて集賢直学士、兼祕書少監となった。

至元十九年、五事を奏上して陳べた。第一は江南の仕籍を取って会すること、第二は南北の選挙を通ずること、第三は考功歴を立てること、第四は貪贓籍を置くこと、第五は江南官吏に俸給を与えることである。朝廷は多くこれを採用施行し、京師安貞門に土地を賜り、居室を築かせた。二十年、翰林集賢直学士を加えられ、会同館事を同領した。二十三年、帝に謁見し、まず陳べた。「国学を興建し、江南に使者を遣わして遺逸を捜訪することを乞う。御史臺・按察司は、併せて南北の人を参用すべきである。」帝は嘉してこれを納れた。

二十四年、尚書省が立てられると、詔して参知政事とせんとしたが、鉅夫は固く辞した。また御史中丞に命ぜられたが、臺臣が言うには、「鉅夫は南人であり、かつ年少である。」帝は大いに怒って言った。「汝らは南人を用いていないのに、どうして南人が用いられないと知るのか。今後、省部臺院には必ず南人を参用せよ。」そこで鉅夫を依然として集賢直学士とし、侍御史に拝し、行御史臺事を行わせ、詔を奉じて江南に賢を求めた。初め、書詔令は皆蒙古字を用いていたが、この時、帝は特に命じて漢字で書かせた。帝はかねてより趙孟藡・葉李の名を聞いていたので、鉅夫がまさに出発しようとする時、帝は密かに諭して必ずこの二人を招致すべきとされた。鉅夫はまた趙孟頫・余恁・萬一鶚・張伯淳・胡夢魁・曾晞顏・孔洙・曾沖子・凌時中・包鑄等二十余人を推薦し、帝は皆これらを臺憲及び文学の職に抜擢した。還朝して、民間の利病について五事を陳べ、集賢学士に拝し、依然として行臺に還った。

二十六年、時の宰相桑哥が専政し、法令は苛酷で急峻であり、四方は騒動した。鉅夫が入朝し、上疏して言った。「臣は聞く、天子の職は、相を択ぶことより大なるはなく、宰相の職は、賢を進めることより大なるはないと。もし賢を進めることを急務とせず、ただ財貨を殖やすことを心がけるならば、上に徳を為し、下に民を為すの意ではない。昔、文帝が決獄及び銭穀について丞相の周勃に問うたが、勃は答えられず、陳平が進み出て言った。『陛下が決獄を問われるならば、廷尉を責められよ。銭穀を問われるならば、治粟内史を責められよ。宰相は、上は陰陽を理め、下は万物の宜を遂げ、外は四夷を鎮撫し、内は百姓を親附するものである。』その言うところを観れば、宰相の職を知ることができる。今、権姦が事を用い、尚書を立てて銭穀を鈎考し、生民を剝割することを務めとし、委任する者は、率皆貪饕で利を邀える人々である。江南で盗賊が窃かに発するのは、まさにこのためである。臣は窃かに思うに、尚書の政を清め、行省の権を損じ、利を言う官を罷め、民を恤う事を行えば、国にとって便である。」桑哥は大いに怒り、京師に羈留して遣わさず、殺すことを奏請した。凡そ六度奏上したが、帝は皆許さなかった。鉅夫が既に行臺に還った後、二十九年にまた鉅夫を胡祗遹・姚燧・王惲・雷膺・陳天祥・楊恭懿・高凝・陳儼・趙居信等十人と共に召し、闕に赴かせて賜対した。三十年、閩海道肅政廉訪使として出向し、学を興し教えを明らかにし、吏民はこれを畏れ愛した。

大徳四年、江南湖北道肅政廉訪使に遷った。官に至ると、まず行省平章の家奴で民に害を為す者を治め、上下粛然とした。八年、召されて翰林学士に拝し、中書省事を商議した。十年、亢旱・暴風・星変があったので、鉅夫は詔に応じて災を弭ぐ策を陳べた。その項目は五つあり、曰く天を敬うこと、曰く祖を尊ぶこと、曰く心を清めること、曰く体を持すること、曰く化を更えることである。帝は皆これを然とした。雲南省の臣が言うには、「世祖が親しく雲南を平定されたので、民は点蒼山に石を刻んで功德を紀することを願う。」詔して鉅夫にその文を撰ばせた。

十一年、山南江北道肅政廉訪使に拝し、また留まって翰林学士となった。至大元年、成宗実録を修した。二年、上都に召された。三年、また山南江北道肅政廉訪使に拝した。四年、李謙・尚文等十六人と共に闕に赴き、便殿で賜対した。浙東海右道肅政廉訪使に拝し、留まって翰林学士承旨となった。皇慶元年、武宗実録を修した。二年、旱魃があり、鉅夫は詔に応じて桑林六事を陳べたが、時の宰相の意に忤った。翌日、帝は近侍を遣わして上尊を賜い、労って言った。「中書で集議したが、卿の言うところのみが甚だ当たっている。後、事に臨むには、極言せよ。」そこで詔して鉅夫に平章政事李孟・参知政事許師敬と共に貢挙法を行うことを議させた。鉅夫は建言した。「経学は程頤・朱熹の伝註を主とすべく、文章は唐・宋の宿弊を革むべし。」命じて鉅夫に詔を草させて施行した。

三年、病を理由に骸骨を乞い田里に帰ろうとしたが、許されず、命じて尚医に薬物を与えさせ、その子の大本を郊祀署令に官し、以て侍養に便ならしめた。時に近臣をして撫視せしめ、かつ労って言った。「卿は世祖の旧臣であり、忠にして貞である。粥を加えて勉め、しばらく京師に留まり、以て朕が心に副えよ。」鉅夫の請いが益々堅かったので、特に光禄大夫を授け、上尊を賜い、命じて廷臣以下をして斉化門外で飲餞せしめ、駅伝を与えて南還させた。行省及び有司に勅して常に存問を加えさせた。三年居住して卒した。年七十。泰定二年、大司徒しと・柱国を贈られ、楚国公を追封され、諡して文憲といった。

趙孟頫

趙孟頫は字を子昂といい、宋の太祖の子である秦王徳芳の後裔である。五世の祖は秀安僖王の子偁、四世の祖は崇憲靖王の伯圭である。高宗に子がなく、子偁の子を立てた。これが孝宗である。伯圭はその兄であり、湖州に邸第を賜わったので、故に孟頫は湖州の人となった。曾祖は師垂、祖は希永、父は与訔で、皆宋に仕えて大官に至った。国朝に入り、孟頫の貴顕により累贈されて、師垂は集賢侍読学士、希永は太常礼儀院使に贈られ、併せて呉興郡公に封ぜられ、与訔は集賢大学士に贈られ、魏国公に封ぜられた。

孟頫は幼くして聡敏であり、読書は過目すれば即ち誦し、文を為すには筆を操れば立ちどころに成った。十四歳の時、父の蔭により官に補され、吏部銓法に試中し、真州司戸参軍に調ぜられた。宋が滅びると、家に居て、益々学に力を入れた。

至元二十三年、行臺侍御史程鉅夫が詔を奉じて江南に遺逸を捜訪し、孟頫を得て、これをもって入見させた。孟頫は才気英邁にして、神采煥発、神仙の中人の如く、世祖は顧みて喜び、右丞葉李の上に坐らせようとした。或る者が孟頫は宋の宗室の子なり、左右に近づけるべからずと言うも、帝は聴かなかった。時に尚書省を立てんとし、孟頫に命じて詔を草し天下に頒たしめた。帝はこれを見て喜び、「朕が心の欲言する所を得たり」と言った。詔して百官を刑部に集めて法を議させた。衆は至元鈔二百貫を計って贓満とすべしと欲した。孟頫曰く、「始め鈔を造る時、銀を以て本とし、虚実相権す。今二十余年の間、軽重相去ること数十倍に至る。故に中統を改めて至元と為す。また二十年後には、至元必ずまた中統の如くなるべし。民に鈔を計って法に抵せしむるは、重きに過ぎるを疑う。古は米・絹を以て民生の須いとする所と為し、これを二実と謂い、銀・銭と二物と相権し、これを二虚と謂う。四者を直と為すは、升降時有るも、終に大いに相遠からず。絹を以て贓を計るは、最も適中なり。況んや鈔は乃ち宋の時に創り、辺郡に施し、金人襲いてこれを用い、皆已むを得ざるより出づ。乃ちこれを以て人の死命を断たんと欲するは、深く取るに足らざるが如し」と。或る者は孟頫年少にして、初め南方より来たり、国法の不便を譏り、意頗る平らかならずとし、孟頫を責めて曰く、「今朝廷至元鈔を行ふ。故に法を犯す者は是を以て贓を計り罪を論ず。汝以て非と為すは、豈に至元鈔を沮格せんと欲するか」と。孟頫曰く、「法は人命の係る所なり。議に重軽有らば、則ち人その死を得ざるなり。孟頫詔を奉じて議に与る。敢えて言わざるべからず。今中統鈔虚なれば、故に至元鈔に改む。至元鈔終に虚なる時無からんと謂うは、豈に是の理あらんや。公理を揆えず、勢を以て相陵がんと欲する、可ならんや」と。その人愧色有り。帝初め孟頫を大用せんと欲す。議者これを難じた。

二十四年六月、兵部郎中を授かる。兵部は天下の諸駅を総べる。時に使客の飲食の費、幾十倍前に於ける。吏供給する無く、強いて民に取り、その擾を勝えず。遂に中書に請い、鈔を増してこれを給す。至元鈔法滞澀して行う能わず。詔して尚書劉宣と孟頫を遣わし、駅を馳せて江南に至り、行省丞相の令に慢なる罪を問わしむ。凡そ左右司官及び諸路の官は、則ち径ちにこれを笞たしむ。孟頫命を受けて行く。還るに比し、一人も笞たず。丞相桑哥大いに以て譴と為す。

時に王虎臣なる者有り、平江路総管趙全の不法を言う。即ち虎臣を命じて往きてこれを按ぜしむ。葉李執りて奏す、虎臣を遣わすべからずと。帝聴かず。孟頫進みて曰く、「趙全固より問うべし。然れども虎臣前にこの郡を守り、多く強いて人の田を買い、賓客を縦して姦利を為さしむ。全数これと争う。虎臣これを怨む。虎臣往かば、必ず全を陥れん。事縦え実を得るとも、人亦疑い無からざるべし」と。帝悟り、乃ち他使を遣わす。桑哥鐘初めて鳴る時に即ち省中に坐す。六曹の官後に至る者は、則ちこれを笞つ。孟頫偶々後れて至る。断事官遽かに孟頫を引いて笞を受けしむ。孟頫入りて都堂右丞葉李に訴えて曰く、「古は刑大夫に上らず。以てその廉耻を養い、節義を教う。且つ士大夫を辱しむるは、是れ朝廷を辱しむるなり」と。桑哥亟に孟頫を慰めて出ださしむ。是より笞つ所は、唯だ曹史以下と為す。他日、東御牆外を行く。道険しく、孟頫の馬跌ちて河に堕つ。桑哥これを聞き、帝に言う。御牆を移して築き稍々西に二丈許り。帝孟頫の素より貧しきを聞き、鈔五十錠を賜う。

二十七年、集賢直学士に遷る。是の歳地震す。北京尤も甚だしく、地陥ち、黒沙水涌き出で、人死傷数十万。帝深くこれを憂う。時に駐蹕龍虎臺、阿剌渾撒里を遣わし馳せて還らしめ、集賢・翰林両院の官を召集し、災を致すの由を詢ねしむ。議者は桑哥を畏忌し、但だ泛ねに経・伝及び五行災異の言を引き、人事を修め天変に応ずるを以て対と為し、敢えて時政に語る者無し。先ず是れ、桑哥忻都及び王済等を遣わし天下の銭糧を理算せしむ。已に数百万を徴入し、未だ徴せざるもの尚数千万。民を害すること特甚だしく、民聊生する無く、自殺する者相属し、山林に逃ぐる者は、則ち兵を発してこれを捕う。皆敢えてその事を沮むる者無し。孟頫と阿剌渾撒里甚だ善し。勧めて令して帝に奏し天下を赦し、尽く与に蠲除せしめ、庶幾くは天変弭ぐべしと言わしむ。阿剌渾撒里入りて奏す、孟頫の言う如く。帝これに従う。詔草已に具わる。桑哥怒りて謂う、必ず帝の意に非ずと。孟頫曰く、「凡そ銭糧未だ徴せざるものは、その人死亡已に尽く、何の従ってか取らん。この時に及ばずして除免せずんば、他日言事者、倘や失陷銭糧数千万を以て尚書省に帰咎せば、豈に丞相の深き累と為さざらんや」と。桑哥悟り、民始めて蘇ることを獲たり。

帝嘗て葉李・留夢炎の優劣を問う。孟頫対えて曰く、「夢炎は臣が父の執り、その人重厚、自信に篤く、謀を好みて能く断じ、大臣の器有り。葉李の読む所の書は、臣皆これを読み、その知る所能くする所は、臣皆これを知り能くす」と。帝曰く、「汝夢炎を以て李より賢しと為すか。夢炎宋に在りて状元たり、位丞相に至る。賈似道国を誤り上を罔うするに当たり、夢炎阿諛して容を取る。李は布衣なり、乃ち闕に伏して上書す。是れ夢炎より賢なり。汝夢炎を父の友と為し、敢えてその非を斥言せず。詩を賦してこれを譏るべし」と。孟頫の賦する所の詩に、「往事已に非なり那んぞ説くべけん、且つ将に忠直を以て皇元に報ぜん」の語有り。帝歎賞す。

孟頫退きて奉御徹里に謂いて曰く、「帝賈似道の国を誤るを論じ、留夢炎の言わざるを責む。桑哥の罪は似道に甚だし。而して我等言わずんば、他日何を以てその責めに辞せん。然れども我は疏遠の臣、言うも必ず聴かれじ。侍臣の中に書を読み義理を知り、慷慨大節有り、又上に親信せらるる者は、公に踰る者無し。一旦の命を捐て、万姓の為に残賊を除くは、仁者の事なり。公必ずこれを勉めよ」と。既にして徹里帝の前に至り、桑哥の罪悪を数う。帝怒り、衛士に命じてその頰を批らしむ。血口鼻に涌き、委頓して地上に伏す。少く間ありて、復呼びてこれを問う。対えて初めの如し。時に大臣亦継ぎて言う者有り。帝遂に按じて桑哥を誅し、尚書省を罷む。大臣多く罪を以て去る。

帝は孟頫に中書の政事を参与させようとしたが、孟頫は固く辞退し、詔勅によって宮門の出入りを禁じないこととなった。帝に謁見するたびに、必ずゆったりと政治の道について語り、多く有益なところがあった。帝が問うた、「そちは趙太祖の孫か、それとも太宗の孫か」。答えて言う、「臣は太祖の十一世の孫でございます」。帝が言う、「太祖の事跡は、そちは知っているか」。孟頫は知らないと謝すると、帝は言った、「太祖の事跡には、多く取るべきところがある。朕は皆知っている」。孟頫はひそかに考えた、長く帝の側近にいれば、必ず人の忌み嫌われるところとなろうと、外任を補うことを強く請願した。二十九年、済南路総管府事の同知として出向した。当時総管は欠員で、孟頫が単独で府事を署し、公務は清廉簡素であった。元掀児という者がおり、塩場に使役され、艱苦に耐えかねて逃げ去った。その父が他人の死体を見つけ、そこで同役の者を殺人で誣告し、すでに誣伏していた。孟頫はその冤罪を疑い、判決を留保し、一月余りして、掀児が自ら帰還したので、郡中は神明と称した。僉廉訪司事の韋哈剌哈孫は、もとより苛酷で、孟頫がその意に順承できないことをもって、事を構えて中傷したが、ちょうど世祖実録の編修があり、孟頫を召還して京師に帰したので、事は解けた。久しくして、汾州知州に転じたが、着任せず、詔勅によって金字の蔵経を書写し、完成すると、集賢直学士・江浙等処儒学提挙に任じられ、泰州尹に転じたが、着任しなかった。

至大三年、京師に召され、翰林侍読学士として、他の学士とともに南郊祭祀の祝文を撰定し、また殿名を擬進したが、議論が合わず、告暇して去った。仁宗が東宮にあった時、もとよりその名を知っており、即位すると、召して集賢侍講学士・中奉大夫に任じた。延祐元年、翰林侍講学士に改め、集賢侍講学士・資徳大夫に転じた。三年、翰林学士承旨・栄禄大夫に拝された。帝の寵眷は甚だ厚く、字をもって呼び、名を呼ばなかった。帝はかつて侍臣と文学の士について論じ、孟頫を唐の李白・宋の蘇子瞻に比した。またかつて孟頫の操行が純正で、博学多聞、書画は絶倫、仏・老の旨に旁通することを称え、皆人の及ばぬところであると言った。これを快く思わぬ者が間に入ったが、帝は初め聞こえぬふりをした。また上書して国史に記載される事柄は、孟頫に参与させるべきではないと言う者があったが、帝は言った、「趙子昂は、世祖皇帝に抜擢された者である。朕は特に礼遇して優遇し、館閣に置き、著述を司らせ、後世に伝えようとしている。この輩が騒ぐのは何事か」。まもなく鈔五百錠を賜り、侍臣に言った、「中書はしばしば国用の不足を称え、必ず持って与えようとしない。普慶寺の別に貯蔵する鈔をもってこれに給せよ」。孟頫はかつて数か月宮中に至らなかったが、帝が左右に問うと、皆が年老いて寒さを畏れるためだと答えたので、勅して御府に命じ貂鼠の裘を賜った。

初め、孟頫は程鉅夫の推薦により、郎官として起家し、鉅夫が翰林学士承旨となった時、致仕を求めて去ろうとしたが、孟頫がその後任となり、先ずその門を拝してから、後に院に入った。当時の人はこれを衣冠の盛事とした。六年、南帰の請願が許された。帝は使者を遣わして衣幣を賜り、朝廷に還るよう促したが、病気のため、果たせなかった。至治元年、英宗は使者をその家に遣わし、孝経を書写させた。二年、上尊酒と衣二襲を賜った。この年の六月に卒去した。六十九歳であった。魏国公を追封され、諡は文敏といった。

孟頫の著作には、尚書註があり、琴原・楽原があり、律呂の伝わらぬ妙を得ていた。詩文は清邃奇逸で、これを読むと、人に飄飄として塵界を出でんとする思いを抱かせる。篆・籀・分・隷・真・行・草書、古今に冠絶せぬものはなく、遂に書をもって天下に名を知られた。天竺の僧が、数万里の彼方からその書を求めて来て帰国し、国中で宝とした。その画は山水・木石・花竹・人馬に特に精緻であった。前史官の楊載は、孟頫の才は書画によってかなり覆い隠されていると称し、その書画を知る者はその文章を知らず、その文章を知る者はその経世済民の学を知らないと言った。人はこれを知言としている。

子の雍・奕は、ともに書画で名を知られた。

鄧文原

鄧文原は字を善之といい、一字は匪石、綿州の人である。父の漳は、銭塘に移住した。文原は十五歳で春秋に通じた。宋の時代に、流寓の身で浙西転運司の試験を受け、四川の士人の首位となった。至元二十七年、行中書省に召されて杭州路儒学正となった。大徳二年、崇徳州教授に転じた。五年、応奉翰林文字に抜擢された。九年、修撰に昇進し、告暇して江南に還った。至大元年、再び修撰となり、成宗実録の編修に参与した。三年、江浙儒学提挙に任じられた。

皇慶元年、国子司業に召された。官に着くと、まず学校の政を改めることを建議したが、当路の者は因循として、改作を重んじず、議論が合わず、病を理由に去った。科挙制が施行されると、文原は江浙で校文を務め、士人が旧習を守ることを慮り、朱熹の貢挙私議を大書して門に掲げた。延祐四年、翰林待制に昇進した。五年、江南浙西道粛政廉訪司事の僉として出向し、平江の僧でその府の判官理熙を恨む者がおり、その徒に賄賂して熙の収賄を告発させ、熙は誣伏した。文原が行部して審問し、実情を得て、僧を杖罰し熙を釈放した。呉興の民が夜帰りするのを、巡邏の者が捕らえ、亭の下に拘束した。その者が逃げ去り、追い及んだ者がいて、その脇腹を刺し、地面に倒れた。翌朝、家人がこれを連れ帰ったが、死に臨んで、その兄が「汝を殺した者はどのような者か」と問うと、「白帽・青衣・長身の者である」と言った。その兄が官に訴えると、役人は初更の当直者を張福児と問い、これを捕らえて服罪させた。械で拘束されて三年、文原がこれを記録して言った、「福児の身長は六尺に満たず、長身とは見えない。刃物で右脇を傷つけたが、福児はもとより左手を使う。傷は左にあるべきで、どうして右に傷があるのか」。これを訊問すると、果たして真の殺人者を得て、福児を釈放した。桐廬の人戴汝惟の家が盗難に遭い、役人が盗人を捕らえ、獄が成って郡に送られた。夜に戴氏の家屋を焼く者があったが、汝惟の行方は知れなかった。文原は言った、「これには必ず訳がある」。そこでその妻の葉氏とその弟が汝惟を謀殺した様子を得て、水辺の樹下で、死体と血の滲んだ斧がともに在るのを見つけた。人はこれを神と称した。

六年、江東道に転じた。徽・寧国・広徳の三郡は、毎年の茶課鈔三千錠を納入していたが、後に十八万錠に増加し、山谷の産物を尽くしてもその半分を充てられず、残りは皆民間から無理に取り立て、毎年の常例としていた。当時転運司の官は郷里の狡猾な者を用い、動もすれば法を犯して民を誣告し、転運司は役人を専制し、凡そ五品官以下は皆杖決でき、州県はどうすることもできなかった。文原はその専司を廃止し、郡県にこれを管轄させるよう請願したが、回答がなかった。徽の民謝蘭の家僕で汪姓の者が死に、蘭の甥の回が汪の族人に賄賂して蘭が殺したと誣告させ、蘭は誣伏した。文原がこれを記録し、その実情を得て、蘭を釈放し回を罪に坐した。当時長く旱魃が続いて雨が降らず、獄を決すると雨が降った。

至治二年、集賢直学士に召された。地震があり、詔勅によって災害を鎮める方策を議論した。文原は滞囚を決断し、河北に倉廩を設置し、余剰の粟を蓄えて飢饉を賑うこと、また以前の議論を繰り返し、茶の専売を行う転運司を廃止することを請願したが、また回答がなかった。翌年、国子祭酒を兼ね、江浙省の臣趙簡が経筵を開くよう請願した。泰定元年、文原は経筵官を兼ね、病気を理由に致仕して帰郷を請願した。二年、翰林侍講学士に召されて拝されたが、病気を理由に辞退した。四年、嶺北湖南道粛政廉訪使に拝されたが、病気のため赴任しなかった。天暦元年に卒去した。七十一歳であった。

文原は内に厳しく外に寛恕であり、家は貧しいが行いは廉潔であった。初め京師に客寓していた時、ある書生が病篤く、袋の中の金を取り出し、文原に託してその親に帰すよう頼んだ。既に死ぬと、同宿の書生が金を盗んで去った。文原は金を買って死者の家に償い、終生人に語らなかった。文集若干巻、内制集若干巻があり、家に蔵された。子の衍は、蔭授により江浙等処儒学副提挙に任ぜられたが、未だ就任せずして卒した。至順五年、制により文原に江浙行省参知政事を追贈し、諡して文肅といった。

袁桷

袁桷は字を伯長といい、慶元の人で、宋の同知枢密院事袁韶の曾孫である。童子の時、既に名声があった。部使者が茂才異等に挙げ、麗沢書院の山長に起用された。

大徳初め、閻復・程文海・王構が推薦して翰林国史院検閲官とした。時に初めて南郊を建て、桷は十議を進めた。曰く、「天に二日無し。天は既に二つ有るべからず、五帝を天と謂うべからず」として昊天五帝議を作る。祭天は歳に九度あるいは二度あり、祭天名数議を作る。圜丘は五経に見えず、郊は周官に見えず、圜丘非郊議を作る。后土は社なり、后土即社議を作る。三歳一郊は古にあらず、祭天無間歳議を作る。燔柴は古経に見え、周官は禋祀を以て天とす、その義それぞれ旨あり、燔柴泰壇議を作る。祭天の牛は角が繭栗、郊に牲を用いるに牛二頭、配を合わせてこれを言い、群祀を増やして合祠するは、周公の制にあらず、郊不當立従祀議を作る。郊は質にして尊ぶの義、明堂は文にして親しむの義、郊明堂礼儀異制議を作る。郊に辛を用いるは魯の礼なり、卜して常に辛と為すべからず、郊非辛日議を作る。北郊は三礼に見えず、地を尊び北郊に遵うは鄭玄の説なり、北郊議を作る。礼官はその博識を推し、多くこれを採用した。応奉翰林文字・同知制誥に昇進し、国史院編修官を兼ね、遼・金・宋三史の遺書を購求するよう請うた。二考を経て待制に遷り、また再任し、集賢直学士を拝した。久しくして、病を移して官を去った。復た直学士として集賢に召し入れられ、未だ幾ばくもせず、翰林直学士・知制誥同修国史に改めた。至治元年、侍講学士に遷った。泰定初め、辞して帰った。

桷は詞林に在り、朝廷の制冊・勲臣の碑銘は、多くその手に出ず。著す所に易説・春秋説・清容居士集がある。泰定四年に卒し、年六十一。中奉大夫・江浙等処行中書省参知政事・護軍を追贈され、陳留郡公に追封され、諡して文清といった。

曹元用

曹元用は字を子貞といい、世々阿城に住み、後に汶上に移った。祖父の義は仕えず。父の宗輔は徳清県主簿であった。元用は資質俊爽で、幼い時より書を嗜み、一度目を通せば、直ちに誦することができた。毎夜読書し、常に夜明けまで寝ず、父は病気になるのを憂い、止めると、衣で窓を蔽い黙ってこれを見た。

初め鎮江路儒学正となり、考満して京師に遊んだ。翰林承旨の閻復は、四方の士を許可すること少なかったが、元用に会い、その為した文を示した。元用は直ちにその疵を指摘し、復は大いにこれを奇とし、因って翰林国史院編修官に推薦した。即ち史院の僚属が才無きを論じ、較試を請い、その優れた者を取って用いるべきと上言した。御史台が掾史に辟召した。元用は初め吏事に習わなかったが、事を見るに明決で、吏は反ってこれを師とした。中書省右司掾に転じ、清河の元明善・済南の張養浩と同時に三俊と号された。応奉翰林文字を除され、礼部主事に遷った。時に累朝の皇后で既に崩じた者は、なお名称で呼び、諡号がなかった。元用は言う、「后は天下の母なり、豈に直にその名を称すべきや。宜しく徽号を加え、以て懿徳を彰すべし」。尚書省右司都事に改め、員外郎に転じた。尚書省が罷められると、任城に退居し、久しくして、斉・魯の間で従学する者が甚だ衆かった。

延祐六年、太常礼儀院経歴を授かり、英宗が躬ら祀事を修め、礼楽に鋭意するに属し、その親祀の儀注・鹵簿輿服の制は、率ねその裁定するところであった。初め、太廟九室は、一殿に合饗していたが、仁宗が崩じ、祔する室が無かった。乃ち武宗室の前に、綵を結び次とした。英宗が上京に在り、礼官を召し集議させた。元用は言う、「古えは、宗廟に寝有り室有り。宜しく今の室を寝と為し、当に前に大殿を更に営み、十五室と為すべし」。帝はその議を嘉し、翰林待制を授け、直学士に昇進させた。

至治三年八月、鉄失の変が起こり、賊党の赤斤鉄木児が急ぎ京師に至り、百司の印を収め、両院の学士を召し北上せしめた。元用は独り行かず、曰く、「此れ非常の変なり、吾は寧ろ死すとも、曲から従うべからず」。未だ幾ばくもせず、賊は果たして敗れ、人皆その先見の明有りと称した。

泰定二年、太子賛善を授かり、礼部尚書に転じ、経筵官を兼ね、大朝会に及んでは糾儀官となり、巻班の令を申し、序を以て退くべくし、門を争って出ずる擾乱無からしめた。また太醫・儀鳳・教坊等の官は、正班に序すべからず、自ら一列を為すべしと言い、後皆これを行った。時に宰執に科挙法を罷めんとする者あり、元用は「国家の文治、正に此れに在り、胡ぞ罷むべけんや」と以為った。また太廟四時の享を損じ、冬祭のみを存せんとする者あり、元用は謂う、「禴祠嘗烝、四時の享は、一つを闕くべからず、乃ち経礼の大なる者なり、其れ費を惜しみて礼を廃すべけんや」。

三年夏、帝は日食・地震・星変を以て、災を弭する所以を議するよう詔した。元用は謂う、「天に応ずるは実を以てし文を以てせず、徳を修め政を明らかにするは、天に応ずるの実なり。宜しく浮費を撙節し、財用を節し、守令を選び、貧民を恤み、禋祀を厳にし、仏事を汰し、造作を止めて民力を紓め、賞罰を慎んで勧懲を示すべし」。皆時弊に切中した。また科挙取士の法を論じ、冒濫を革め、考覈を厳にし、真才の用を得しむべしと。議上り、朝廷皆これに是とした。中奉大夫・翰林侍講学士を拝し、経筵官を兼ね、仁宗・英宗両朝実録の編修に預かった。また旨を奉じて甲令を纂集して通制と為し、唐の貞観政要を訳して国語と為した。書成り、皆時に行われた。凡そ大なる制誥は、率ね元用の草するところであった。文宗の時、寛恤の詔を草し、帝は覧めて善とし、金織の文錦を賜った。

天暦二年、代わって曲阜の孔子廟を祀った。還り、司寇の像及び代祀の記を献上し、帝は甚だ喜んだ。太禧宗禋院副使の欠員に値し、中書が元用を以てこれに当てるよう奏したが、帝は允さず曰く、「此人は、翰林中に無くてはならぬ者なり、将に大いに用いんとす」。会って卒し、帝は嗟悼すること久しく、侍臣に謂う、「曹子貞は忠を尽くし力を宣べ、今亡しぬ。賜賻すべく鈔五千緡を賜うべし」。正奉大夫・江浙等処行中書省参知政事・護軍を追贈され、東平郡公に追封され、諡して文獻といった。詩文四十巻、号して超然集という。二子:偉、儀。

斉履謙

斉履謙は字を伯恒といい、父の義は算術に善かった。履謙は六歳の時、父に従って京師に至り、七歳で読書し、一度過ぎれば即ち記憶できた。年十一、推歩星暦を教えられ、その法を尽く曉った。十三歳、師に従い、聖賢の学を聞いた。自ら是より窮理を務めとし、洙・泗・伊・洛の書でなければ読まなかった。

至元十六年、初めて太史局を立て、新暦を改めて制定するに当たり、履謙は星暦生に補せられた。同輩は皆司天臺の官の子弟であったが、太史王恂が算数を問うと、誰も答えることができず、履謙のみが問われるままに答えたので、王恂は大いにこれを奇とした。新暦が完成した後、さらに暦経・暦議の編纂に参与した。二十九年、星暦教授に任ぜられた。都城の刻漏は、従来木で作られ、その形が碑に似ていたので碑漏と称し、内部に曲筒を設け、銅を鋳て丸とし、碑の頂から転がり落ち、鐃を鳴らして時を報じたが、その漏は長く廃れて壊れ、朝夕の時刻が狂っていた。大徳元年、中書省が履謙にこれを視察させたところ、刻漏の傍らに宋代の旧銅壺四つがあるのを見て、図に基づき蓮花漏・宝山漏などの制度を考定し、工匠に命じて改作させた。また鼓楼を再建し、更鼓を増設し、守漏卒を置くことを請うた。当時これに従って用いられた。

二年、保章正に遷り、初めて暦官の政務を専管した。三年八月朔日、時刻は巳の刻に近く、暦に依れば日食二分余とされたが、その時になっても食が起こらず、人々は皆恐れた。履謙は言った、「食すべき時に食さぬことは、古にもある。ましてや時刻は午に近く、陽が盛んで陰が微かであるから、食すべき時に食さぬのも当然である」。そこで唐の開元以来、食すべき時に食さなかった事例十件を考証して上奏した。六年六月朔日、時刻は戌の刻に近く、暦に依れば日食五十七秒とされた。人々は交食の度合いが浅く、かつまた地平線に近いため、隠して報告すべきでないと主張した。履謙は言った、「私が掌るのは常数のことであり、食するか否かは天に係るものである」。ただ一人で状況を上奏したところ、その時刻に果たして食が起こった。人々が没日のことで争って決着がつかなかった時、履謙は言った、「気は本来十五日であるが、時に十六日あるのは、余分の積み重ねによる。故に暦法では積み重なった日を没日と称し、本来の気を出ないものを正しいとする」。人々はその議論に服した。

七年八月戊申の夜、大地震が起こった。詔して災害の原因と災害を鎮める方策を問うた。履謙は春秋に基づき言上した、「地は陰に属し静を主とし、妻の道・臣の道・子の道である。この三者の道を失えば、地はそれによって安寧でなくなる。これを鎮める方策は、大臣がみずからを省みて己を責め、専制の威を去り、天変に応えることであり、ただ祈禱を行うだけではならない」。当時成宗は病臥しており、宰相に専権を振るう者がいたので、履謙はこのように言及したのである。九年冬、初めて南郊を立て、昊天上帝を祀ることとなり、履謙は司天臺官を代行した。旧制では、祭祀において司天は時刻を掌るが、鐘鼓や更漏がなく、往々にして夜明けになってから行事を始めた。履謙は宰執に申し出て、鐘鼓と更漏を用い、早晩に節度を持たせることを請うた。これに従った。

至大二年、太常が社稷壇の修復と太廟庭中の井戸の浚渫を請うた。ある者が歳君(太歳神)の方位に当たるとして、その工事を止めようとした。履謙は言った、「国家は四海を家とする。歳君がただここにのみ在るわけではない」。三年、授時郎秋官正に昇進し、冬官正の職務を兼ねて管轄した。四年、仁宗が即位し、儒術を尊尚した。台臣が履謙に学問と行いがあり、国学の子弟を教えるに足ると言上したので、国子監丞に抜擢され、奉直大夫・国子司業に改めて任ぜられ、呉澄とともに任命され、時に人材を得たと称された。毎朝五鼓に学に入り、風雨寒暑にかかわらず少しも怠ることがなく、その教養には法があり、諸生は皆畏服した。間もなく、また履謙を太史院事に僉とさせた。

皇慶二年春、彗星が東井宿に現れた。履謙は善政を増修して天意に応えるべきであると奏上し、時務八事を陳述した。仁宗はこれに動容し、宰臣を顧みて速やかに実行するよう命じた。履謙が国学を去って以来、呉澄もまた病を理由に帰り、学制はやや廃れた。延祐元年、善く教える者を選ぶよう詔があり、ここにまた履謙を国子司業とした。履謙はますます己を律して厳しくし、教導の道を広げ、毎斎に伴読一人を長として置き、助教が欠員であっても諸生の講授は絶えなかった。当時初めて国子生の歳貢六人を命じ、入学の先後を順序としたが、履謙は言った、「その業績を考課しなければ、どうして善を興し人材を得られようか」。そこで旧制を斟酌し、昇斎・積分などの法を立てた。毎季その学行を考課し、順次に昇進させ、上斎に昇った後、さらに二年を経なければ私試に参加させない。孟月・仲月には経疑・経義を試し、季月には古賦・詔誥・章表・策を試し、蒙古・色目人は明経・策問を試す。文辞と道理ともに優れた者は一分、文辞は普通だが道理が優れた者は半分とし、歳末に八分に積み上がった者を高等とし、四十人を定員とした。その後、集賢院・礼部がその芸業の及格者六人を定め、歳貢に充てた。三年経っても一経を通じない者、および在学が一年に満たない者は、ともに罷免した。帝はその議に従い、これより人人は志を励まし、文学の士が多くなった。五年、濱州知州として出向したが、母の喪に服したため、果たして赴任しなかった。

至治元年、太史院使に拝せられた。泰定二年九月、本官のまま江西・福建の宣撫使として奉使し、貪汚した官吏四百余人を罷免し、括地に虚加された糧数万石を免除し、州県で先賢の子孫を房夫などの役に充てていた者をすべて罷免して帰した。福建憲司の職田は、毎畝ごとに年三石の米を納めさせ、民は苦しみに耐えられなかった。履謙は法令に準じて納めさせるよう命じたため、これによって怨みを招き、京に戻ると、憲司が果たして他の事で誣告した。間もなく、履謙を誣告した者は皆事に坐して免職となり、履謙は初めて冤罪が晴れ、再び太史院使となった。天暦二年九月に卒した。

履謙は篤学で勤苦し、家は貧しく書物がなかった。星暦生となり太史局にいた時、秘書監が亡宋の旧書を運び、本院に留置したのに際し、昼夜を分かたず誦読し、深く究めて自得したので、その学問は博洽精通し、六経・諸史・天文・地理・礼楽・律暦から、下は陰陽五行・医薬・卜筮に至るまで、淹く貫通せぬものはなく、特に経籍に精しかった。著書に『大学四伝小註』一卷、『中庸章句続解』一卷、『論語言仁通旨』二卷、『書伝詳説』一卷、『易繫辞旨略』二卷、『易本説』四卷、『春秋諸国統紀』六卷がある。皇極の名は『洪範』に見え、皇極の数は邵氏の『経世書』に始まるが、数は極そのものではなく、ただその数を極に仮託したに過ぎないとして、『経世書入式』一卷を著した。『経世書』には内篇・外篇があり、内篇は極によって数を明らかにし、外篇は数によって極を会得するので、『外篇微旨』一卷を著した。『授時暦』は五十年行われたが、推考されたことがなかった。履謙は日々に日影を測定し、併せて朝夕の五星と宿度を測り、至治三年冬至から泰定二年夏至までに、天道の加時の真数が、それぞれ現行の暦書より二刻少ないことを明らかにし、『二至景考』二卷を著した。『授時暦』には経と串とがあるが、経は定法を著し、串は成数を記すもので、その法の所以と数の由来を求めると、略されて記載されていないので、『経串演撰八法』一卷を作った。

元朝は国を立てて百余年に及び、郊廟の楽は宋・金の制を沿襲し、これを正す者なきあり。履謙は楽は律に本づき、律は気に本づくと言い、気候の法は前史に具載す、僻地を選び密室と為し、金門の竹及び河内の葭莩を取りて候うべし、上は以て雅楽を正し、郊廟に薦め、神人を和し、下は以て度量を同じくし、物貨を平らげ、風俗を厚くすべしと。その事を列ねて上る。また黒石の古律管一つを得たり、長さ尺八寸、外は方、内は円空と為し、中に隔たりあり、隔たりの中に小竅あり、蓋し以て気を通ずるなり。隔たりの上九寸、その空均しく直し、径およそ三分、以て黄鐘の数に応ず。隔たりの下九寸、その空は小竅より迤𨓦として管底に至り殺し、径およそ二寸余、蓋し以てその気を聚めて上らしむるなり。その製は律家の説くところと異なり、蓋し古の所謂玉律なる者はこれなり。適まさに他官に遷り、事遂に寝す、志ある者は深くこれを惜しむ。至順三年五月、翰林学士・資善大夫・上護軍を贈られ、汝南郡公を追封され、諡して文懿と曰う。