巻170

列伝第五十七:尚文 申屠致遠 雷膺 胡祗遹 王利用 暢師文 張炤 袁裕 張昉 郝彬 高源 楊湜 吳鼎 梁德珪

尚文

尚文、字は周卿、代々祁州深沢の人であったが、後に保定に移り、遂にその籍を占めた。文は幼くして聡明で、非凡な志を抱いていた。張文謙が河東を宣撫した時、参政の王椅がその才能を推薦し、遂に書記を掌るよう召し出された。間もなく、西夏行中書省が再び彼を召し出した。至元六年、初めて朝儀が定められると、太保劉秉忠が世祖に上言し、詔によって文は諸儒と共に、唐の開元礼及び近代の礼儀で今日において実行可能なものを採り、斟酌して損益を加え、凡そ文武の儀仗・服色の等級差別は、全て文がこれを掌った。七年春二月、朝儀が完成し、百官が練習したところ、帝が臨御してこれを観覧し、大いに喜び、遂に定制となった。冬十一月、侍儀司が設置されると、右直侍儀使に抜擢され、司農都事に転じた。

原文尚文字周卿,世為祁州深澤人,後徙保定,遂占籍焉。文幼潁悟,負奇志。張文謙宣撫河東,參政王椅薦其才,遂辟掌書記。未幾,西夏行中書省復辟之。至元六年,始立朝儀,太保劉秉忠言於世祖,詔文與諸儒,採唐開元禮及近代禮儀之可行於今者,斟酌損益,凡文武儀仗、服色差等,皆文掌焉。七年春二月,朝儀成,百官肄習,帝臨觀之,大悅,遂為定制。冬十一月,立侍儀司,擢右直侍儀使,轉司農都事。

十七年、輝州の長官として出向した。当時、河朔は大旱魃に見舞われたが、輝州だけは祈祷によって雨を得、境内は大いに豊作となった。懐孟の民である馬氏・宋氏が、殺人の罪を自白したが、長年にわたり獄は決せられず、提刑使者が文に審理して結論を報告するよう命じた。文は跡を推し究めて実情を明らかにし、獄吏・獄卒が罪を捏造していた様子を突き止め、両件の獄事は共に釈放された。十九年、戸部郎中に進み、懐・衛の竹税提挙司を廃止するよう上奏し、民はこれを便利とした。

原文十七年,出守輝州。時河朔大旱,輝獨以禱得雨,境內大稔。懷孟民馬氏、宋氏,誣伏殺人,積歲獄不能決,提刑使者命文讞以論報。文推迹究情,得獄吏、獄卒羅織狀,兩獄皆釋。十九年,進戶部郎中,奏罷懷、衞竹稅提舉司,民便之。

二十二年、御史台都事・行台御史に任ぜられた。封事を上書して言うには、上(皇帝)は年齢が高く、皇太子に禅位すべきであると。太子はこれを聞いて恐れ、中台はその上奏文を秘して発送しなかった。答即古阿散らはこれを知り、内外の諸官庁の吏員の文書を収め、天下の埋もれた銭穀を大々的に捜索するよう請うたが、実はその事を暴こうとしたのであり、御史台の吏員の文書を全て差し押さえて封印した。文は秘された上奏文を留め置いて渡さず、答即古は帝に報告し、宗正の薛徹干に命じてその上奏文を取らせた。文は言った、「事態は急を要する」。即ち御史大夫に報告して言った、「これは上は太子を危うくし、下は大臣を陥れ、天下の民に毒を流さんとするもので、その謀は極めて奸悪である。且つ答即古は阿合馬の余党であり、贓罪は狼藉を極めている。先んじて彼らの謀を挫くべきである」。大夫は遂に丞相と議し、即ち入朝して状況を言上した。帝は激怒して言った、「汝らに罪はないのか」。丞相が進み出て言った、「臣らは罪を逃れることはできません。しかし、この輩は名が刑書に載っており、この挙動は人心を動揺させます。重臣を選んでその長とし、紛擾を鎮めるのが宜しいかと」。帝の怒りはやや解け、その上奏を許可した。その後、答即古は人の金を受け取ったことが発覚し、その党と共に遂に姦贓の罪で死刑に処せられたが、その機先は実に文によって制せられたのである。大司農丞に昇進し、少卿に転じ、吏部侍郎に遷り、江南湖北道粛政廉訪使に改められた。三十一年、召されて刑部尚書となった。

原文二十二年,除御史臺都事、行臺御史。上封事言上春秋高,宜禪位皇太子,太子聞之懼,中臺祕其章不發。答即古阿散等知之,請收內外百司吏案,大索天下埋沒錢糧,而實欲發其事,乃悉拘封御史臺吏案。文拘留祕章不與,答即古聞于帝,命宗正薛徹干取其章。文曰:「事急矣!」即白御史大夫曰:「是欲上危太子,下陷大臣,流毒天下之民,其謀至奸也。且答即古乃阿合馬餘黨,贓罪狼籍,宜先發以奪其謀。」大夫遂與丞相議,即入言狀,帝震怒曰:「汝等無罪耶?」丞相進曰:「臣等無所逃罪,但此輩名載刑書,此舉動搖人心,宜選重臣為之長,庶靖紛擾。」帝怒稍解,可其奏。既而答即古受人金,與其黨竟坐姦贓論死,其機實自文發之。陞大司農丞,轉少卿,遷吏部侍郎,改江南湖北道肅政廉訪使。三十一年,召為刑部尚書。

元貞初年、中台侍御史に任ぜられた。当時、行台御史及び浙西憲司が、江浙行省平章の不法な事柄十七件を弾劾し、詔によって文がこれを詰問するために派遣された。証拠は明白であったが、平章はなおも力強く争って服さず、文は上聞に達した。平章は、御史が制度に違反して防鎮軍の数を取り調べたと主張した。成宗は省台の大臣に雑議を命じ、皆が言うには、「平章は功臣の子孫であり、犯した罪は軽い。事は寛恕すべきである。御史が軍数を取り調べたのは、法に照らせば死罪に当たる」。文は抗弁して言った、「平章の罪状は明白であり、取調べを受けず、人臣の礼が無い。その罪は軽くない。御史は糾弾を行う官であり、兵卒の争訴に基づき、その将帥に名簿通りに均等に役務を負担させるよう責めたのであり、情状に法を害するものは無く、仮に罪があっても軽い」。廷議で数度争い、省台と共に入奏すると、帝の考えは初めて悟るところとなり、平章・御史はそれぞれ杖罰を受けて追放された。彼の正義を守って迎合しない様は、このようなものであった。

原文元貞初,拜中臺侍御史。時行臺御史及浙西憲司,劾江浙行省平章不法者十七事,制遣文往詰之。左驗明著,猶力爭不服,文以上聞;平章乃言御史違制取會防鎮軍數。成宗命省臺大臣雜議,咸曰:「平章勳臣之後,所犯者輕,事宜宥;御史取會軍數,法當死。」文抗言:「平章罪狀明白,不受簿責,無人臣禮,其罪非輕。御史糾事之官,因兵卒爭愬,責其帥如籍均役,情無害法,即有罪亦輕。」廷辯數四,與省臺入奏,帝意始悟,平章、御史各杖遣之。其守正不阿類如此。

元貞二年、建言した、「治平の世には、たびたび赦すべきではない。不急の役務は、暫く停止すべきである」。いずれも成宗に嘉納され、河北河南粛政廉訪使に任ぜられた。大徳元年、黄河が蒲口で決壊し、台から檄を飛ばして文に防河の策を視察させた。文は建言した。

原文元貞二年,建言;「治平之世,不宜數赦;不急之役,宜且停罷。」咸為成宗所嘉納,授河北河南肅政廉訪使。大德元年,河決蒲口,臺檄令文按視防河之策。文建言:

長河は万里の西より来たり、その勢いは湍急猛烈である。盟津に至って下れば、地は平らで土は緩く、移り変わり常ならず、禹の故道を失い、中国の患となって、幾千幾百年を知らない。古より黄河を治めるに、処置が適切であれば、力を用いることは少なくて患いは遅く、事が宜しきを失えば、力を用いることは多くて患いは速い。これは不易の定論である。今、陳留より睢に至るまで、東西百余里、南岸に旧河口十一あり、既に塞がれたもの二、自ら涸れたもの六、川に通ずるもの三、岸は水より高く、計りて六七尺、あるいは四五尺。北岸の故堤は、その水は田より三四尺高く、あるいは高低等しく、大概南は北より高く、約八九尺。堤どうして壊れずにいられようか、水どうして北へ流れずにいられようか。

原文長河萬里西來,其勢湍猛,至盟津而下,地平土疏,移徙不常,失禹故道,為中國患,不知幾千百年矣。自古治河,處得其當,則用力少而患遲;事失其宜,則用力多而患速。此不易之定論也。今陳留抵睢,東西百有餘里,南岸舊河口十一,已塞者二,自涸者六,通川者三,岸高於水,計六七尺,或四五尺;北岸故堤,其水比田高三四尺,或高下等,大概南高於北,約八九尺,堤安得不壞,水安得不北也!

蒲口は今、千有余歩決壊し、迅疾として東へ流れ、黄河の旧河道を得て、二百里を行き、帰徳の横堤の下に至り、再び本流に合流する。あるいは強引に塞ぎ止めようとすれば、上は決壊し下は崩れ、功は成し得ない。今の計りを推し量るに、河北の郡県は、水の性質に順い、遠く長垣を築き、以て氾濫を防ぐべし。帰徳・徐・邳の民は、衝撃による崩壊を避け、安便に従うことを聴くべし。患いを受けた家は、河南の退灘地内において、頃畝を給付し、以て永業とすべし。異時に河が他所で決壊した場合も、これに倣うべし。真にこれを行えば、また一時の救荒の良策である。蒲口は塞がずともよい。

原文蒲口今決千有餘步,迅疾東行,得河舊瀆,行二百里,至歸德橫堤之下,復合正流。或強湮遏,上決下潰,功不可成。揆今之計,河(西)〔北〕郡縣,順水之性,遠築長垣,以禦泛濫;歸德、徐、邳,民避衝潰,聽從安便。被患之家,宜於河南退灘地內,給付頃畝,以為永業;異時河決他所者,亦如之。信能行此,亦一時救荒之良策也。蒲口不塞便。

朝廷はこれに従った。時に河朔の郡県・山東憲部が争って言うには、「塞がなければ河北の桑田は全て魚鱉の区と化す。塞ぐのがよい」。帝は再びこれに従った。翌年、蒲口は再び決壊した。河を塞ぐ工事は、歳無くしてこれ無からず。その後、水は北へ流れて復た黄河の故道に入り、竟に文の言う通りとなった。

原文朝廷從之。會河朔郡縣、山東憲部爭言:「不塞則河北桑田盡為魚鱉之區,塞之便。」帝復從之。明年,蒲口復決。塞河之役,無歲無之。是後水北入復河故道,竟如文言。

三年、山東憲使に転じ、行省参知政事・行御史台中丞を歴任した。七年、召されて資善大夫・中書左丞に任ぜられた。浙西が飢饉に陥ると、倉を開いても足りず、民に粟を納めさせ官を補うことでこれを救済した。山東は凶作となり、盗賊がひそかに発生すると、鈔八百五十余万貫を出してこれを鎮めた。十道の使者を選び、天下を巡行して民の疾苦を問うよう奏請した。また、南方の白雲宗を斥けて罷め、民と均しく賦役に従事させるよう上奏した。西域の商人が珍宝を奉じて進め売ろうとしたが、その価は六十万錠であった。省臣の平章が文を顧みて言った、「これは所謂押忽大珠というもので、六十万で酬いるのは過ぎたことではない」。一座で回して賞玩したが、文は何に用いるのかと問うた。平章は言った、「口に含めば渇かず、顔を温めれば目に光を生ずる」。文は言った、「一人がこれを含めば、千万人が渇かぬというなら、誠に宝である。若し一つの宝がただ一人を救うのみならば、その用は既に微細である。我の謂う宝とは、米粟これである。一日食わざれば飢え、三日で病み、七日で死す。有れば百姓安らかで、無ければ天下乱る。その功用を較べれば、豈に彼に優らざらんや」。平章は固く請うてこれを見ようとしたが、文は遂に動じなかった。六十九歳の時、病を理由に老齢を告げて帰郷した。十年、昭文館大学士・中書右丞・商議中書省事に任ぜられたが、召しに応じなかった。

原文三年,調山東憲使,歷行省參知政事、行御史臺中丞。七年,召拜資善大夫、中書左丞。浙西饑,發廪不足,募民入粟補官以賑之。山東歲凶,盜賊竊發,出鈔八百五十餘萬貫以弭之。選十道使者,奏請巡行天下,問民疾苦。又奏斥罷南方白雲宗,與民均事賦役。西域賈人有奉珍寶進售者,其價六十萬錠,省臣平章顧謂文曰:「此所謂押忽大珠也,六十萬酬之不為過矣。」一坐傳玩,文問何所用之,平章曰:「含之可不渴,熨面可使目有光。」文曰:「一人含之,千萬人不渴,則誠寶也;若一寶止濟一人,則用已微矣。吾之所謂寶者,米粟是也,一日不食則饑,三日則疾,七日則死;有則百姓安,無則天下亂。以功用較之,豈不愈於彼乎!」平章固請觀之,文竟不為動。年六十九,因疾告老而歸。十年,拜昭文館大學士、中書右丞、商議中書省事,召不起。

武宗・仁宗の世、たびたび招き寄せ、国事について諮問し、宴を賜い及び金帛を加増し、階位は光禄大夫より進み、銀青栄禄大夫に転じ、なお中書左丞のままであったが、田舎への帰還を請うた。延祐六年、太子詹事に任ぜられ、三度使者を遣わして、ようやく起ち上がった。仁宗は、太子を教えるために思う存分に言うよう命じ、殊礼をもって遇した。泰定三年、中書平章政事を以て致仕し、翌年、家にて卒した。享年九十二。

原文武宗、仁宗之世,屢延致,訪以國事,賜燕及金帛有加,進階自光祿大夫,轉銀青榮祿大夫,仍中書左丞,丐還田里。延祐六年,拜太子詹事,使三往,乃起。仁宗命盡言以教太子,待以殊禮。泰定三年,以中書平章政事致仕,明年,卒于家,年九十二。

申屠致遠

申屠致遠、字は大用、その先祖は汴の人である。金の末年にその父の義に従って東平の壽張に移り住んだ。致遠は府学で学業に励み、李謙・孟祺らと並び称された。世祖が南征したとき、小濮に駐兵し、荊湖経略使の乞寔力台が推薦して経略司知事とし、軍中の機密事務は多く彼が計画した。軍が帰還し、隨州に至ったとき、捕虜とした男女を致遠はことごとく釈放して帰した。

原文申屠致遠字大用,其先汴人。金末從其父義徙居東平之壽張。致遠肄業府學,與李謙、孟祺等齊名。世祖南征,駐兵小濮,荊湖經略使乞寔力台,薦為經略司知事,軍中機務,多所謨畫。師還,至隨州,所俘男女,致遠悉縱遣之。

至元七年、崔斌が東平を守り、学官として招聘した。十年、御史臺が掾に辟召したが、就任せず、太常太祝を授けられ、兼ねて奉禮郎となった。帝が太常卿の孛羅を遣わして毛血の薦めについて問うと、致遠は答えて言った、「毛は純粋を告げ、血は新しさを告げる、これが礼です」。宋が平定され、焦友直・楊居寛が両浙を宣慰し、都事に推挙した。まず言うには、「宋の図籍は朝廷に上すべきである。江南の学田は、従来通り学問を養うのに用いるべきである」。行省はこれに従った。臨安府安撫司経歴に転じた。臨安が杭州と改められると、総管府推官に遷った。宋の駙馬楊鎮の従子の玠節は、家は財産に富み、蔵を守る吏の姚溶がその銀を盗み、事が発覚するのを恐れ、玠節が密かに宋の広王・益王と通じていると誣告した。役所が拷問すると、誣告に服し、獄が決した。致遠がこれを審理し、その実情を得て、溶は罪に服し、玠節は謝礼として賄賂を贈ったが、致遠は怒って断った。杭州の者に金淵という者がおり、籍を冒して儒と成ろうとしたが、儒学教授の彭宏が従わなかった。淵は彭宏が詩を作って異志があると誣告し、書を市中に掲げ、巡邏の者がこれを上申した。致遠はその実情を察し、淵を捕えて徹底的に詰問し、罪に処した。所属の県が反乱者として拘束した十七人を訊問すると、賊寇が起こったため、兵で自衛したのであって、実は反乱者ではないことが分かり、皆釈放された。西僧の楊璉真加が宋の故宮に仏塔を建て、高宗が書いた九経の石刻を取って基礎にしようとしたが、致遠が強く拒んだので、やめた。壽昌府判官に改められた。当時、賊寇がひそかに起こり、加えて征日本の戦船を造ったため、遠近騒然としたが、致遠は施設に方策があり、人々はそれによって安んじた。

原文至元七年,崔斌守東平,聘為學官。十年,御史臺辟為掾,不就,授太常太祝,兼奉禮郎。帝遣太常卿孛羅問毛血之薦,致遠對曰:「毛以告純,血以告新,禮也。」宋平,焦友直、楊居寬宣慰兩浙舉為都事,首言:「宋圖籍宜上之朝;江南學田,當仍以贍學。」行省從之。轉臨安府安撫司經歷。臨安改為杭州,遷總管府推官。宋駙馬楊鎮從子玠節,家富於貲,守藏吏姚溶竊其銀,懼事覺,誣玠節陰與宋廣、益二王通,有司榜笞,誣服,獄具。致遠讞之,得其情,溶服辜,玠節以賄為謝,致遠怒絕之。杭人金淵者,欲冒籍為儒,儒學教授彭宏不從,淵誣宏作詩有異志,揭書于市,邏者以上。致遠察其情,執淵窮詰,罪之。屬縣械反者十七人,訊之,蓋因寇作,以兵自衞,實非反者,皆得釋。西僧楊璉真加,作浮圖于宋故宮,欲取高宗所書九經石刻以築基,致遠力拒之,乃止。改壽昌府判官,時寇盜竊發,加之造征日本戰船,遠近騷然,致遠設施有方,眾賴以安。

二十年、江南行臺監察御史に拝された。江淮行省の宣使の郄顯・李兼が平章の忙兀台の不法を訴えたが、詔があって問わず、なお郄顯らを忙兀台に付して審問させ、獄に繋ぎ、必ず死罪に処そうとした。致遠が浙西で囚人を慮囚したとき、その冤状を知り、釈放しようとしたが、忙兀台が勢いで脅した。致遠は動じず、自ら郄顯らの枷を外し、軍に従って自ら贖罪させた。桑哥が国政を執ったとき、治書侍御史の陳天祥が湖広に使いし、平章の要束木を弾劾した。桑哥はその上疏中の言葉を摘み、不道と誣告し、使いを遣わして訊問するよう奏上し、天祥は逮捕された。当時、行臺が御史を遣わして湖広を巡察させようとしたが、皆これを恐れ、敢えて行く者なく、致遠は慨然として行くことを請うた。到着すると、累章を上して極力論じた。桑哥がちょうど天祥の罪を定めるよう促していたが、致遠の上章が届き、桑哥は気勢をそがれた。江西行省平章の馬合謀が商税の外に横領して徴収し、忽辛が郷民を籍して匠戸とし、転運使の盧世栄が茶を専売して利益を貪った。致遠はこれらを併せて弾劾した。また言うには、占城・日本は海を渡って遠征すべきでなく、ただ中国を浪費するだけである。銓選を南北で制限すると、優劣苦楽が均しくなく、その殿最を考課し、地の遠近を量り、制度を定めれば、銓衡は公平になり、吏の弊は革まるであろう。その他、香莎米を廃し、竹課の禁令を緩め、司獄官・医学職員を設けることなど、皆致遠が発案したものである。

原文二十年,拜江南行臺監察御史。江淮行省宣使郄顯、李兼愬平章忙兀台不法,有詔勿問,仍以顯等付忙兀台鞫之,繫于獄,必抵以死。致遠慮囚浙西,知其寃狀,將縱之,忙兀台脅之以勢,致遠不為動,親脫顯等械,使從軍自贖。桑哥當國,治書侍御史陳天祥使至湖廣,劾平章要束木,桑哥摘其疏中語,誣以不道,奏遣使往訊之,天祥就逮。時行臺遣御史按部湖廣,咸憚之,莫敢往,致遠慨然請行。比至,累章極論之,桑哥方促定天祥罪,會致遠章上,桑哥氣沮。江西行省平章馬合謀於商稅外橫加徵取,忽辛籍鄉民為匠戶,轉運使盧世榮榷茶牟利,致遠并劾之。又言占城、日本,不可涉海遠征,徒費中國;銓選限以南北,優苦不均,宜考其殿最,量地遠近,定為立制,則銓衡平而吏弊革。他如罷香莎米,弛竹課禁,設司獄官醫學職員,皆致遠發之。

二十八年、父の喪に服し、起復して江南行臺都事となったが、喪に服し終えることを理由に辞した。二十九年、江東建康道粛政廉訪司僉事となったが、着任せず、病気を理由に帰った。元貞元年、世祖実録を纂修するため、翰林待制に召されたが、赴任しなかった。大徳二年、淮西江北道粛政廉訪司僉事となり、部を巡行して和州に至り、病気で卒した。

原文二十八年,丁父憂,起復江南行臺都事,以終制辭。二十九年,僉江東建康道肅政廉訪司事,未至,移疾還。元貞元年,纂(收)〔修〕世祖實錄,召為翰林待制,不赴。大德二年,僉淮西江北道肅政廉訪司事,行部至和州,得疾卒。

致遠は清く修め苦節を守り、権貴に事えることを恥じ、書を万巻集め、墨莊と名付けた。家に余財なく、諸子を師友のように教えた。著書に『忍斎行藁』四十巻、『釈奠通礼』三巻、『杜詩纂例』十巻、『集験方』十二巻、『集古印章』三巻がある。

原文致遠清修苦節,耻事權貴,聚書萬卷,名曰墨莊。家無餘產,教諸子如師友。所著忍齋行藁四十卷,釋奠通禮三卷,杜詩纂例十卷,集驗方十二卷,集古印章三卷。

子七人:伯騏は徴事郎・嶺北湖南道粛政廉訪司知事。驥・驪は共に学官。駉は奉政大夫・兵部員外郎。

原文子七人:伯騏,徵事郎、嶺北湖南道肅政廉訪司知事;驥,驪,俱為學官;駉,奉政大夫、兵部員外郎。

雷膺

雷膺、字は彦正、渾源の人。父の淵は金の監察御史。膺は七歳で孤となり、金の末年に母の侯氏が膺を連れて北に渾源に帰り、艱難辛苦を嘗め尽くし、機織りを業として、膺に読書を課した。膺は学問に志を篤くし、母に事えて孝で知られた。太宗の時、詔して郡国に科を設けて選試し、凡そ儒籍を占める者はその家を復すとし、膺は年弱冠にしてその選に与り、ますます自ら砥礪し、遂に文学で称された。丞相の史天沢が真定を鎮めると、万戸府掌書記に辟召した。

原文雷膺字彥正,渾源人。父淵,金監察御史。膺生七歲而孤,金末,母侯氏挈膺北歸渾源,艱險備嘗,織絍以為業,課膺讀書。膺篤志於學,事母以孝聞。太宗時,詔郡國設科選試,凡占儒籍者復其家,膺年甫弱冠,得與其選,愈自砥礪,遂以文學稱。丞相史天澤鎮真定,辟為萬戶府掌書記。

世祖が即位し、初めて十路宣撫司を置き、詔して耆旧の使副の子弟を選んで僚属とし、膺は大名路宣撫司員外郎を授けられた。中統二年、翰林承旨の王鶚・王磐が推薦して、膺を翰林修撰・同知制誥とし、兼ねて国史院編修官とした。五年、陝西西蜀四川按察司参議に転じた。至元二年、陝西五路転運司諮議に改めた。四年、蜀に用兵し、金符を佩び、左壁総帥府事参議となり、軍が帰還すると、承務郎・同知恩州事に昇った。憲府がその才能を表薦したので、遂に入朝して監察御史に拝され、まず「君心を正し、朝廷百官を正す」ことを言上し、また聚斂の臣は相とすべきでないと斥けた。十一年、奉議大夫を加えられ、河東山西道提刑按察司僉事となり、称職で知られた。

原文世祖即位,初置十路宣撫司,詔選耆舊使副子弟為僚屬,授膺大名路宣撫司員外郎。中統二年,翰林承旨王鶚、王磐,薦膺為翰林修撰、同知制誥,兼國史院編修官。五年,調陝西西蜀四川按察司參議。至元二年,改陝西五路轉運司諮議。四年,用兵于蜀,佩金符,參議左壁總帥府事,師還,陞承務郎、同知恩州事。憲府表薦其能,遂入拜監察御史,首以「正君心、正朝廷百官」為言,又斥聚斂之臣不宜作相。十一年,加奉議大夫,僉河東山西道提刑按察司事,以稱職聞。

十四年、朝列大夫・山南湖北道提刑按察副使に進んだ。この時、江南は新たに帰附したばかりで、諸将は戦功を売り、かつ俘獲を利し、往往にして無辜にまで濫り及び、あるいは強いて新民を籍して奴隷とした。膺が令を出し、民に還ることができた者は数千人に及んだ。十八年、淮西江北道提刑按察副使に転じたが、母が老いていることを理由に辞した。二十年、行臺侍御史に遷り、母を奉じて官に赴き、湖広・江西に分司し、按察使二人及び行省の官吏の不法な者を奏劾した。二十二年、母の喪に服し、官を去った。翌年、起復し、中議大夫・江南浙西道提刑按察使を授けられた。当時、蘇州・湖州は雨が多く農作物を損ない、百姓は食に苦しんだ。膺は朝廷に請い、倉米二十万石を発して賑済した。江淮行省は発米が多すぎるとし、三分の一を留保するよう議したが、膺は言った、「皇沢を布宣し、困窮を恵養することは、行省臣の職である。どうして役所の出納の吝嗇を倣うことができようか」。行省は奪うことができず、全て与えた。時に年六十二歳、即ち致仕し、山陽に帰って老いた。二十九年、召されて集賢学士に拝された。

原文十四年,進朝列大夫、山南湖北道提刑按察副使。是時,江南新附,諸將市功,且利俘獲,往往濫及無辜,或強籍新民以為奴隸。膺出令,得還為民者以數千計。十八年,轉淮西江北道提刑按察副使,以母老辭。二十年,遷行臺侍御史,奉母之官,分司湖廣、江西,奏劾按察使二人及行省官吏之不法者。二十二年,丁母憂,去官。明年,起復,授中議大夫、江南浙西道提刑按察使。時蘇、湖多雨傷稼,百姓艱食,膺請于朝,發廪米二十萬石賑之。江淮行省以發米太多,議存三之一,膺曰:「布宣皇澤,惠養困窮,行省臣職耳,豈可效有司出納之吝耶!」行省不能奪,悉給之。時年六十二,即致仕,歸老于山陽。二十九年,徵拜集賢學士。

成宗が即位し、上都で朝会し、諸故老を召して国政を諮詢したが、膺がその筆頭となり、多く建議した。ある日、便殿に引見され、奏対が旨にかなったので、白玉の帯環一つを賜った。翌年、鈔五千貫を賜り、秩を二品に進めた。大徳元年夏六月、病気で京師に卒し、年七十三。通奉大夫・河南江北等処行中書省参知政事・護軍を贈られ、馮翊郡公に追封され、諡して文穆といった。

原文成宗即位,朝會上都,召諸故老,諮詢國政,膺為稱首,多所建白。一日,延見便殿,奏對稱旨,賜白玉帶環一。明年,賜鈔五千貫,進秩二品。大德元年夏六月,以疾卒于京師,年七十三。贈通奉大夫、河南江北等處行中書省參知政事、護軍,追封馮翊郡公,諡文穆。

子の肇は順徳路総管府判官。孫の豫は南陽府穣県尹。

原文子肇,順德路總管府判官。孫豫,南陽府穰縣尹。

胡祗遹

胡祗遹は字を紹聞といい、磁州武安の人である。幼くして孤となり、成長して書を読み、名流に知られた。中統の初め、張文謙が大名を宣撫したとき、員外郎に辟召された。翌年、入朝して中書詳定官となった。至元元年、応奉翰林文字を授けられ、まもなく太常博士を兼ね、戸部員外郎に転じ、右司員外郎に転じ、まもなく左司を兼ねた。時に阿合馬が国政を執り、群下を進用したため、官は冗員で事は煩雑であった。祗遹は建言して言う、「官を省くは吏を省くに如かず、吏を省くは事を省くに如かず」と。これにより権奸に逆らい、出されて太原路治中となり、兼ねて本路鉄冶を提挙し、歳賦の不調を責められようとした。その職に臨むや、最上の評判で聞こえた。河東山西道提刑按察副使に改めた。

原文胡祗遹字紹(開)〔聞〕,磁州武安人。少孤,既長讀書,見知於名流。中統初,張文謙宣撫大名,辟員外郎。明年,入為中書詳定官。至元元年,授應奉翰林文字,尋兼太常博士,調戶部員外郎,轉右司員外郎,尋兼左司。時阿合馬當國,進用羣下,官冗事煩,祗遹建言:「省官莫如省吏,省吏莫如省事。」以是忤權奸,出為太原路治中,兼提舉本路鐵冶,將以歲賦不辦責之。及其蒞職,乃以最聞。改河東山西道提刑按察副使。

宋が平定されると、荊湖北道宣慰副使となった。佃民がその田主が謀反を企てていると訴えた者があったが、祗遹はその冤罪を察知し、告発者を罪に処した。十九年、済寧路総管となり、枢府に八事を上書して軍政を論じた。すなわち、役が重いこと、逃戸、貧難、正身入役、偽署文牒、官吏保結、有名無実、合併偏頗である。枢府はこれを是とし、その言を定法として著した。済寧は治所を鉅野県に移したが、国初以来兵戈を経て、その廃墟は久しく、民居は集まらず、風俗は朴野であった。祗遹は郡の子弟を選び、師を選んで教え、自ら講論し、その俗を変えることを期した。久しくして治績は最上と称された。山東東西道提刑按察使に昇進し、赴任する先々で豪右を抑え、寡弱を扶け、教化を敦厚にし、士風を励ました。民に父子兄弟が互いに訴訟する者がいれば、必ず懇切に天倫の重さを諭し、やむを得ない場合は法をもって裁いた。召されて翰林学士に拝されたが、赴任せず、江南浙西道提刑按察使に改められ、まもなく病気のため帰郷した。

原文宋平,為荊湖北道宣慰副使。有佃民訴其田主謀為不軌者,祗遹察其寃,坐告者。十九年,為濟寧路總管,上八事於樞府言軍政:曰役重,曰逃戶,曰貧難,曰正身入役,曰偽署文牒,曰官吏保結,曰有名無實,曰合併偏頗。樞府是之,以其言著為定法。濟寧移治鉅野縣,自國初經兵戈,其廢已久,民居未集,風俗樸野。祗遹選郡子弟,擇師教之,親為講論,期變其俗,久之治效以最稱。升山東東西道提刑按察使,所至抑豪右,扶寡弱,以敦教化,以厲士風。民有父子兄弟相訟者,必懇切諭以天倫之重,不獲已,則繩以法。召拜翰林學士,不赴,改江南浙西道提刑按察使,未幾,以疾歸。

二十九年、朝廷は耆徳者十人を徴したが、祗遹はその筆頭であった。病気を理由に辞退した。三十年、卒去。六十七歳。延祐五年、礼部尚書を追贈され、諡は文靖。子の持は太常博士。

原文二十九年,朝廷徵耆德者十人,祗遹為之首,以疾辭。三十年,卒,年六十七。延祐五年,贈禮部尚書,諡文靖。子持,太常博士。

王利用

王利用は字を国賓といい、通州潞県の人である。遼より中書令・太原郡公を追贈された王籍の七世の孫で、高祖以下は皆金に仕えた。利用は幼くして聡明で、弱冠にして魏初と同学となり、ついに斉名し、諸名公が口を揃えて称賛した。初め世祖の潜邸に仕え、中書が掾に辟召したが、辞して就かなかった。

原文王利用字國賓,通州潞縣人。遼贈中書令、太原郡公籍之七世孫,高祖以下皆仕金。利用幼穎悟,弱冠,與魏初同學,遂齊名,諸名公交口稱譽之。初事世祖於潛邸,中書辟為掾,辭不就。

中統の初め、百司の印章を監鑄することを命じられ、太府内蔵官を歴任し、出て山東経略司詳議官となり、北京奥魯同知に遷り、安肅・汝・蠡・趙の四州知州を歴任し、入朝して監察御史に拝された。薊州に禁地があり、民はその中で射猟できなかったが、巡邏の者が州民が禁を犯したと誣告し、その家を没収した。利用がこれを糾弾すると、巡邏の者が上訴した。利用はますます力強く弁明し、没収したものを悉く民に返還させた。翰林待制に抜擢され、興文署を兼ね、旨を奉じて上都・隆興等路の儒士を程試した。直学士に昇進し、耶律鑄とともに実録を修した。出て河東・陝西・燕南三道提刑按察副使・四川提刑按察使となった。四川の土豪に官府の長短を握る者がいたが、実情を問い質して罪に当て、民はこれにより安堵した。都元帥の塔海が、巫山県民数百人を抑えて奴隷にしていたが、民は屡々訴えても決着しなかった。利用は檄を承って審問し、悉く民籍に戻した。

原文中統初,命監鑄百司印章,歷太府內藏官,出為山東經略司詳議官,遷北京奧魯同知,歷安肅、汝、蠡、趙四州知州,入拜監察御史。薊州有禁地,民不得射獵其中,邏者誣州民冒禁,籍其家,利用糾之,邏者訴于上,利用辨愈力,得以所沒入悉歸之民。擢翰林待制,兼興文署,奉旨程試上都、隆興等路儒士。陞直學士,與耶律鑄同修實錄。出為河東、陝西、燕南三道提刑按察副使、四川提刑按察使。四川土豪有持官府長短者,問得其實,而當以罪,民賴以安。都元帥塔海,抑巫山縣民數百口為奴,民屢訴不決,利用承檄覈問,盡出為民。

大徳二年、安西・興元両路総管に改めた。興元においては、職田の租額を減じ、他郡で役務に服する站戸の負担を悉く免除し、民は大いに便益を得た。婦人が夫を毒殺した事件があり、薬の出所を問うたところ、吏が婦人に教えて富商が売ったと指摘させた。獄が上奏されると、利用は言った、「家が富んでいて毒薬を売るなど、人情としてありえようか」と。訊問すると、果たして冤罪であった。まもなく致仕し、漢中に居住した。

原文大德二年,改安西、興元兩路總管。其在興元,減職田租額,站戶之役於他郡者悉除之,民甚便焉。有婦毒殺其夫,問藥所從來,吏教婦指為富商所貨。獄上,利用曰:「家富而貨毒藥,豈人情哉?」訊之,果寃也。未幾,致仕,居漢中。

成宗の朝、起用されて太子賓客となり、まず時政に切実な十七事を疏上した。すなわち、天戒を謹んで畏れ、祖宗に法を取り、母后に孝事し、至尊を敬奉し、百姓を撫愛し、本を敦くして末を抑え、心を清くして政を聴き、欲を寡くして身を養い、酒は節飲すべく、財は節用すべく、功有れば必ず賞し、罪有れば必ず罰し、讒言を杜絶し、直諫を求めて納れ、官職は材を量って授け、工役は時を見て動かし、近侍をして時々経筵に赴かせ経史を講読せしめる、である。帝及び太子は嘉納し、皇后はこれを聞き、別本を録して進上するよう命じた。利用は老病のため朝参できず、帝は医者を遣わして診察させた。利用は弟の利貞・利亨に言った、「我は国の厚恩を受けたが、報いることができず慚愧に耐えない。死生は天命にあり、薬の及ぶところではない」と。ついに卒去。七十七歳。

原文成宗朝,起為太子賓客,首以切於時政者,疏上十七事:曰謹畏天戒,取法祖宗,孝事母后,敬奉至尊,撫愛百姓,敦本抑末,清心聽政,寡欲養身,酒宜節飲,財宜節用,有功必賞,有罪必罰,杜絕讒言,求納直諫,官職量材而授,工役相時而動,俾近侍時赴經筵講讀經史。帝及太子嘉納之,皇后聞之,命錄別本以進。利用以老病不能朝,帝遣醫診視之,利用謂弟利貞、利亨曰:「吾受國厚恩,愧不能報,死生有命,藥不能為也。」遂卒,年七十七。

利用は常に自ら言った、平生書を読み、恕の一字に得るところがあった、と。廉希憲は当時の名相で、簡重で許可を慎み、嘗て人に語って言った、「方今文章と政事を兼備する者は、王国賓その人である」と。武宗が即位すると、官僚の旧臣として、制を下して栄禄大夫・柱国・中書平章政事を追贈し、潞国公に封じ、諡は文貞。

原文利用每自言,平生讀書,於恕字有得焉。廉希憲當時名相,簡重,慎許可,嘗語人曰:「方今文章攻事兼備者,王國賓其人也。」武宗即位,以官僚舊臣,制贈榮祿大夫、柱國、中書平章政事,封潞國公,諡文貞。

暢師文

暢師文は字を純甫といい、南陽の人である。祖父の淵は、中順大夫・上騎都尉・魏郡伯を追贈された。父の訥は詩名があり、『地理指掌図』に注を加え、汴の幕官として仕え、太中大夫・上軽車都尉・魏郡侯を追贈された。

原文暢師文字純甫,南陽人。祖淵,贈中順大夫、上騎都尉、魏郡伯。父訥,有詩名,注地理指掌圖,仕為汴幕官,贈太中大夫、上輕車都尉、魏郡侯。

師文は幼くして機敏で悟りが早く、家が貧しく書が無かったが、手で書き写し口で誦し、過目すれば忘れなかった。弱冠にして許衡に謁し、衡の門人である姚燧・高凝と皆親しく交わった。至元五年、時政十六策を上書し、丞相の安童はその才を奇として、右三部令史に辟召した。十二年、丞相の伯顔が宋を攻めるに当たり、掾属に選ばれ、江南平定に従い、帰還するときは舟中に書籍のみを載せた。十三年、宋平定の事蹟を編纂して上進した。十四年、東川行枢密院都事に除され、心を尽くして賛画し、裨益するところ多かった。十六年、安西王が承制して四川北道宣慰司経歴に改め、まもなく承直郎・潼川路治中に除された。府舎を修築するとき、地を掘って銀五十錠を得た。同僚が師文に十錠を分け与えようとしたが受けず、廟学と伝舎の修築に充て、残りは酒器を作って公用に供した。十九年、承制して同知保寧路事に改め、治め方は平簡を尚び、反側の徒も安堵した。二十二年、西蜀四川道提刑按察司事に僉した。

原文師文幼警悟,家貧無書,手錄口誦,過目輒不忘。弱冠,謁許衡,與衡門人姚燧、高凝皆相友善。至元五年,陳時政十六策,丞相安童奇其才,辟為右三部令史。十二年,丞相伯顏攻宋,選為掾屬,從定江南,及歸,舟中惟載書籍而已。十三年,編平宋事蹟上之。十四年,除東川行樞密院都事,盡心贊畫,多所裨益。十六年,安西王承制改四川北道宣慰司經歷,尋除承直郎、潼川路治中。修府舍,發地得銀五十錠,同僚分師文十錠,不受,用以修廟學及傳舍,餘作酒器給公用。十九年,承制改同知保寧路事,治尚平簡,反側以安。二十二年,僉西蜀四川道提刑按察司事。

二十三年、監察御史に拝され、権貴を避けず糾弾し、編纂した『農桑輯要』の書を上進した。二十四年、陝西漢中道巡行勧農副使に遷り、義倉を設置し、民に種芸法を教えた。二十八年、僉陝西漢中道提刑按察司事に改めた。時に提刑按察司を更めて粛政廉訪司とし、そのまま本道粛政廉訪司事に僉し、奸を黜き才を挙げ、皆その公正に服した。三十一年、山南道に転じた。松滋・枝江に水害があり、毎年民を発して防水に当たらせ、往復数百里で供給に苦しんでいた。師文は江水が安流であるとして、その役を悉く罷めた。駙馬の亦都護の家人が勢いに恃んで法を犯したが、師文はその甚だ悪しき者を処罰し、流刑に処した。

原文二十三年,拜監察御史,糾劾不避權貴,上所纂農桑輯要書。二十四年,遷陝西漢中道巡行勸農副使,置義倉,教民種藝法。二十八年,改僉陝西漢中道提刑按察司事。時更提刑按察司為肅政廉訪司,就僉本道肅政廉訪司事,黜姦舉才,咸服其公。三十一年,徙山南道。松滋、枝江有水患,歲發民防水,往返數百里,苦於供給,師文以江水安流,悉罷其役。駙馬亦都護家人怙勢不法,師文治其甚惡者,流之。

大徳二年、山東道に改め、入朝して国子司業となった。七年、出て陝西行中書省理問官となり、滞獄を決断するに少しも阿徇しなかった。間もなく、病気のため家に居した。九年、陝西漢中道粛政廉訪副使に抜擢されたが、また病気のため赴任しなかった。十年、太常少卿に改め、翰林侍読学士・朝請大夫・知制誥同修国史に転じた。

原文大德二年,改山東道,入為國子司業。七年,出為陝西行中書省理問官,決滯獄,不少阿徇。頃之,以疾家居。九年,擢陝西漢中道肅政廉訪副使,又以疾不赴。十年,改太常少卿,轉翰林侍讀學士、朝請大夫、知制誥同修國史。

至大元年、成宗実録が完成し、鈔百錠を賜ったが受け取らなかった。当時、制作は多くその手によるものであった。二年、少中大夫を加えられた。三年、外任を補うことを請い、太平路総管に任じられた。時に大旱があり、師文は俸禄を投じて祈禱を行い、数日も経たぬうちに慈雨が大いに降り、豊年となった。当塗の人が牛を殺して雨乞いをした罪で、囚われた者が六十余人、師文は哀れんで彼らを釈放した。公田の米が屋敷に積み上がり、「我が家に何人いるというのか、これを食い尽くせるものか」と言い、貧しい士人や細民を呼び、自由に取らせた。廉訪分司官は前後して到着する者も、必ず先ず師文を訪れ、先生と称した。師文は在任久しからずして、境内は平穏であった。

原文至大元年,修成宗實錄,賜鈔壹百錠,不受。時制作多出其手。二年,加少中大夫。三年,請補外任,除太平路總管。時大旱,師文捐俸致禱,不數日,澍雨大降,遂為豐年。當塗人坐殺牛祈雨,囚繫者六十餘人,師文憫而出之。公田米積之盈屋,曰:「我家幾人,能盡食此乎!」呼貧士及細民,恣其取去。廉訪分司官前後至者,必先謁師文,稱為先生。師文在任未久,境內晏然。

皇慶二年、再び召されて翰林侍読学士・中奉大夫・知制誥同修国史となり、勅旨により王勃成道記序等の文を撰し、銀二鋌を賜ったが受け取らなかった。燕南河北道粛政廉訪使に任じられたが、病により官を去った。延祐元年、翰林学士・資徳大夫として召されたが、河南に至ったところで、また病により襄陽に帰った。四年秋八月、河南郷試の試験官を務めて帰る途中、襄県に宿し、駅舎で卒去した。七十一歳。襄陽峴山に葬られた。泰定二年、資政大夫・河南江北等処行中書省左丞・上護軍を追贈され、魏郡公に追封され、諡は文肅。後至元八年、推忠守正亮節功臣を加贈された。

原文皇慶二年,復召為翰林侍讀學士、中奉大夫、知制誥同修國史,奉旨撰王勃成道記序等文,賜銀貳鋌,不受。除燕南河北道肅政廉訪使,以病去官。延祐元年,徵拜翰林學士、資德大夫,行至河南,復以病歸襄陽。四年秋八月,考河南鄉試歸,次襄縣,卒于傳舍,年七十一,葬襄陽峴山。泰定二年,贈資政大夫、河南江北等處行中書省左丞、上護軍,追封魏郡公,諡文肅。後至元八年,加贈推忠守正亮節功臣。

子は三人、長男は篤、官は太中大夫・江東道粛政廉訪副使に至った。

原文三子,長曰篤,仕至太中大夫、江東道肅攻廉訪副使。

張炤

張炤、字は彦明、済南の人。父の信は商売で身を起こし、資産は郷里で最もあった。壬辰の年に飢饉があり、粟を出して救済し、郷人はこれにより全く生き延びた。

原文張炤字彥明,濟南人。父信,以商賈起家,貲雄於鄉。壬辰歲饑,出粟賑貸,鄉人賴以全活。

炤は幼少より聡明で学問に励み、初め済南で吏に補され、寿陽に上計した。行省に積年の調査で未納の銀十万五千両があり、炤は利害を詳細に条陳したので、遂に徴収を免れ、民は擾乱を免れた。中統元年、中書省掾に召され、間もなく右司提控案牘に遷った。四年、出て山東東路大都督府員外郎となった。至元四年、陝西五路西蜀四川行中書省左右司員外郎に転じた。八年、奉訓大夫に進階し、兗州知事となった。時に州内は大旱であり、官吏・民衆が懇ろに祈っても雨は降らなかったが、炤が着任すると、慈雨が十分に降った。属邑に剛悪な吏がおり、官府を頼みに暴横をほしいままにしていると聞き、炤は法をもってこれを糾し、杖罰の上境外に追放し、民害は遂に止んだ。

原文炤幼穎悟力學,始補吏濟南,上計壽陽,行省有積年勾考未輸銀一十萬五千兩,炤條陳利害切至,遂獲免徵,民得無擾。中統元年,辟為中書省掾,俄遷右司提控案牘。四年,出為山東東路大都督府員外郎。至元四年,轉陝西五路西蜀四川行中書省左右司員外郎。八年,進階奉訓大夫、知兖州事。時州境亢旱,吏民懇禱不雨,炤始至,甘雨霑足。聞屬邑有桀黠吏,挾官府肆為暴橫,炤繩之以法,杖出境外,民害遂息。

十一年、淮西等路行中書省左右司郎中に改めて任じられた。丞相阿塔海が軍を率いて瓜洲・鎮江を攻撃した際、炤は糧食を輸送し、戦具を供給し、凡そ二年にわたり、参画の功が多かった。十三年、揚州が未だ降らず、丞相阿朮が兵を率いてこれを攻めた。五月、宋の将李庭芝が城を棄てて泰州に逃げた。炤は兵を率いて揚州城下に迫り、自ら赴いて招諭し、制置使朱煥が城を降した。庭芝もまた捕らえられた。炤は未だ降伏しない州郡に檄を飛ばすと、皆風を望んで帰順した。阿朮に従って入朝し、世祖より錦衣・鞍勒を賜った。

原文十一年,改授淮西等路行中書省左右司郎中,丞相阿塔海領軍進攻瓜洲、鎮江,炤運糧儲,給戰具,凡二年,贊畫之力居多。十三年,揚州未下,丞相阿朮提兵攻之。五月,宋將李庭芝棄城遁泰州,炤領兵迫揚州城下,躬往招諭,制置朱煥以城降,庭芝亦就擒。炤傳檄未下州郡,皆望風款附。從阿朮入覲,世祖賜錦衣、鞍勒。

十三年、太中大夫・揚州路総管府達魯花赤に昇進し、行中書省事を商議し、金虎符を佩用した。時に行省は揚州にあり、南北の要衝を占めていたが、炤は慰撫し労来して、上下安んじた。十六年、鎮江路総管府達魯花赤に改められたが、病と称して帰郷し、書物八万巻を購い、そのうち一万巻を済南府学に送り教育の資とした。二十一年、起用されて東昌路総管となり、政に臨むこと二年、官吏・民衆は畏服し、治績最上と称された。二十五年に卒去、六十四歳。延祐五年、太中大夫・東昌路総管を追贈され、清河郡侯に追封され、諡は敬惠。子の用中は、沂州山場同提挙となった。

原文十三年,陞太中大夫、揚州路總管府達魯花赤,商議行中書省事,佩金虎符。時行省在揚州,據南北要津,炤撫綏勞來,上下安之。十六年,改鎮江路總管府達魯花赤,謝病歸,購書八萬卷,以萬卷送濟南府學資教育。二十一年,起為東昌路總管,蒞政二年,吏民畏服,以治最稱。二十五年卒,年六十四。延祐五年,贈太中大夫、東昌路總管,追封清河郡侯,諡敬惠。子用中,沂州山場同提舉。

袁裕

袁裕、字は仲寛、洛陽の人。幼くして孤となり、従兄に従って聊城に難を避け、そこで家を定めた。やや長じて学問を好んだ。中統初年、聊城県丞より、中書右司掾に召され、初めて「重囚に衣糧・医薬を与え、妻子・財産を没収することを免じ、焚瘞銭を出すのみとすべし」と建言し、後に令として定められた。順天路の民王住児が、喧嘩の際に誤って人を殺した。その母は七十歳で、朝廷に言上して「妾は寡婦で老いており、この児に頼って生きております。児が死ねば、妾もまた死ぬでしょう」と言った。裕は執政に言った。「囚人は誤って人を殺し、情は故意の犯しにあらず。その母を哀れむべきであり、宥すことを乞う」と。執政がこれを上聞すると、帝はこれに従い、囚人は死罪を免れた。南京総管劉克興が良民を掠めて奴隷としたが、後に詔書を偽った罪で獲罪し、妻子・財産の半分を没収すべきところであった。裕は中書省に言上し、その家のみを没収し、奴隷が再び民となる者は数百人に及んだ。

原文袁裕字仲寬,洛陽人。幼孤,從兄避難聊城,因家焉。稍長嗜學。中統初,由聊城縣丞,辟中書右司掾,始建言「給重囚衣糧醫藥,免籍其孥、產,止令出焚瘞錢」,後著為令。順天路民王住兒,因鬭誤殺人,其母年七十,言於朝曰:「妾寡且老,恃此兒以為生,兒死,則妾亦死矣。」裕言於執政曰:「囚誤殺人,情非故犯,當矜其母,乞宥之。」執政以聞,帝從之,囚得免死。南京總管劉克興掠良民為奴隸,後以矯制獲罪,當籍孥、產之半,裕言于中書,止籍其家,奴隸得復為民者數百。

至元六年、開封府判官に遷った。洧川県の達魯花赤が貪暴で、盛夏に民を徴発して蝗を捕らせ、水を飲むことを禁じた。民は憤りに耐えかねてこれを殴り殺した。有司は大逆の罪で極刑に処すべき者七人、連座すべき者五十余人とした。裕は言った。「達魯花赤は自ら衆怒を犯して死んだのである。どうして全てを民の罪とせんや」と。首謀者一人を誅し、残りはそれぞれ杖罰を加えることを議した。部使者が囚人を録して県に至り、あまりに寛大であると疑ったが、裕はますます力説して弁明し、遂にその事状を中書省に陳べた。刑曹は結局裕の議に従った。

原文至元六年,遷開封府判官。洧川縣達魯花赤貪暴,盛夏役民捕蝗,禁不得飲水,民不勝忿,擊之而斃,有司當以大逆置極刑者七人,連坐者五十餘人。裕曰:「達魯花赤自犯眾怒而死,安可悉歸罪於民!」議誅首惡者一人,餘各杖之有差,部使者錄囚至縣,疑其太寬,裕辨之益力,遂陳其事狀于中書,刑曹竟從裕議。

八年、監察御史に任じられた。間もなく勅旨により西夏中興等路新民安撫副使を授けられ、兼ねて本道巡行勧農副使・奉直大夫となり、金符を佩用した。時に鄂の民一万余りを西夏に移したが、有司は食糧を与えたものの、流離転倒する者はなお多かった。裕は安撫使獨吉と共に朝廷に請い、丁数に応じて土地を与え、三つの屯を立て、耕して自ら養うようにさせた。官民ともに便利とした。また言上した。「西夏は羌・渾が雑居し、奴隷と良民の区別がつかない。既に良民となる文書を持つ者を検証し、良民とすべきである」と。これに従い、八千余人を得て、官が牛具を与え、田を力耕して農とさせた。十三年、甘州等路宣撫副使に進み、兼ねて西夏中興等路新民安撫副使となった。翌年、甘州に移鎮した。

原文八年,拜監察御史,俄有旨授西夏中興等路新民安撫副使,兼本道巡行勸農副使、奉直大夫,佩金符。時徙鄂民萬餘于西夏,有司雖與廪食,而流離顛沛猶多。裕與安撫使獨吉請于朝,計丁給地,立三屯,使耕以自養,官民便之。又言:「西夏羌、渾雜居,驅良莫辨,宜驗已有從良書者,則為良民。」從之,得八千餘人,官給牛具,使力田為農。十三年,進甘州等路宣撫副使,兼西夏中興等路新民安撫副使。明年,移鎮甘州。

十八年、南陽知府に転じた。翌年、召されて刑部侍郎に任じられ、出て順徳路総管となった。郡に鉄冶提挙張鑑がおり、子がなく、妾を買ったが、その妻が嫉妬してこれを殺した。裕はその妻を捕らえ、訊問して罪を認めさせた。裕は法の適用を公平適切に行ったが、悪を憎むこと少しも寛大にしなかったのはこのようであった。二十一年、官において卒去した。五十九歳。裕はその兄に養育の恩があったため、自分の子の師愈に命じて、兄の子の仁に蔭官を譲らせた。師愈は後に侍御史に至った。

原文十八年,調南陽知府。明年,召拜刑部侍郎,出為順德路總管。郡有鐵冶提舉張鑑,無子,買妾,其妻妬而殺之。裕捕其妻,訊之服辜。裕用法平允,而疾惡不少貸如此。二十一年,卒于官,年五十九。裕以其兄有鞠育之恩,令其子師愈推蔭兄子仁,師愈後仕至侍御史。

張昉

張昉、字は顕卿、東平汶上の人。父の汝明は、金の大安元年の経義進士で、官は治書侍御史に至った。

原文張昉字顯卿,東平汶上人。父汝明,金大安元年經義進士,官至治書侍御史。

昉は性質が細密で、事に遇えば敢えて言い、確然として守る所があり、任子の試みにより吏部令史に補せられた。金が滅び、郷里に帰った。嚴實が行臺東平を治め、掾として召し出した。郷人に左道を執って衆を惑わし謀反を企てた者がおり、事が発覚して逮捕され、連座した者が甚だ多かったが、諸僚佐は敢えて言う者なく、昉のみ別に白状して数百人を出し、實はその才能を認め、幕職に進めた。当時は戦乱の後で、吏曹は雑多に進用され、文法に習熟せず、東平は郡邑五十四を管轄し、民は多く事は繁雑で、簿書は山積みし、漫然として統紀がなかった。昉は曹に坐し、自ら案牘を閲し、左右に応答し、皆その当を得、事に滞留するものはなかった。初め、将校で戦死した者がおり、弟がその職を襲ったが、この時に至って革去され、昉が弁明して復職させた。その者が金を持って夜に昉に贈ったが、昉はこれを退け、慚愧して謝して去った。同里の張氏が、絲五万両を昉の家に預けて他へ行ったが、やがて昉の家が火災に遭い、家人は惶駭して走り避け、財物は悉く焼けたが、ただ力いっぱいに預かった絲を守り、張氏に渡した。

原文昉性縝密,遇事敢言,確然有守,以任子試補吏部令史。金亡,還鄉里。嚴實行臺東平,辟為掾。鄉人有執左道惑眾謀不軌者,事覺逮捕,詿誤甚眾,諸僚佐莫敢言,昉獨別白出數百人,實才之,進幕職。時兵後,吏曹雜進,不習文法,東平轄郡邑五十四,民眾事繁,簿書填委,漫無統紀。昉坐曹,躬閱案牘,左酬右答,咸得其當,事無留滯。初,有將校死事,以弟襲其職者,至是革去,昉辨明,復之,持金夜饋昉,昉却之,慚謝而去。同里張氏,以絲五萬兩寄昉家而他適,俄而昉家被火,家人惶駭走避,貲用悉焚,惟力完所寄絲,付張氏。

乙卯、権知東平府事を命ぜられたが、病気を理由に辞し、家に居て母を養った。中統四年、参知中書省事となった。商挺が巴蜀を鎮守し、表して四川等処行枢密院参議とした。至元元年、入朝して中書省左右司郎中となり、能否を甄別し、黜陟を公平にし、人に怨言がなかった。三年、制国用使司郎中に遷った。制司は専ら財賦を管掌し、時の宰相がこれを統領し、倚任して事を集めたが、特に煩重と号され、昉は誠を尽くして補佐し、出納は謹んで行い、賦を加徴せずして国用は豊かになった。

原文乙卯,權知東平府事,以疾辭,家居養母。中統四年,參知中書省事。商挺鎮巴蜀,表為四川等處行樞密院參議。至元元年,入為中書省左右司郎中,甄別能否,公其黜陟,人無怨言。三年,遷制國用使司郎中。制司專職財賦,時宰領之,倚任集事,尤號煩重,昉竭誠贊畫,出納惟謹,賦不加斂,而國用以饒。

四年、母の喪に服し、哀毀して定めを踰えたが、まもなく詔により起復し、東平で囚人を録し、多く平反した。七年、尚書省左右司郎中に転じた。九年、中書省左右司郎中に改めた。昉は識慮があり、古今を損益し、典憲を裁定して、当時皆これに適い、称職と称された。十一年、兵刑部尚書に拝され、上疏して骸骨を乞い、その事を致し、卒した。中奉大夫・参知政事を贈られ、東平郡公を追封され、諡は莊憲といった。

原文四年,丁內憂,哀毀踰制,尋詔起復,錄囚東平,多所平反。七年,轉尚書省左右司郎中。九年,改中書省左〔右〕司郎中。昉有識慮,損益古今,裁定典憲,時皆宜之,名為稱職。十一年,拜兵刑部尚書,上疏乞骸骨,致其事,卒。贈中奉大夫、參知政事,追封東平郡公,諡莊憲。

子の克遹は平陰県尹。孫の振は秘書著作郎、揆は中書省左司都事、拱は常徳路蒙古学教授。

原文子克遹,平陰縣尹。孫振,祕書著作郎;揆,中書省左司都事;拱,常德路蒙古學教授。

郝彬

郝彬は字を景文といい、霸州信安の人である。世祖の初め、十六歳で太子宿衛に充てられ、揚州路治中に抜擢された。宋末、鄞県の賊顧閏が海島に衆を聚め、時々出没して攻撃掠奪し、宋は官をもって羈縻したが、内附後ますます横暴になり、揚州の境を侵したので、彬が討ち捕らえた。泰興に人が殺されて二年になるが賊を捕えられない事件があり、吏が無実の人を誣告し、獄は既に決していた。彬はその誣告を疑い、審議したところ、果たして真の賊を得た。

原文郝彬字景文,霸州信安人也。世祖初,年十六,充太子宿衞,擢揚州路治中。宋末,鄞縣賊顧閏,聚眾海島,時出攻剽,宋羈縻以官,內附後益橫,侵揚州境,彬討禽之。泰興人有被殺二年而捕賊不獲者,吏誣平人,獄已具。彬疑其誣,讞之,果得真賊。

御史が彬を推薦して淮西道宣慰司事同知とし、戸版を検覈し、屯田を整え、諸々の廃れたことを修め挙げた。江淮財賦総管府は東宮の田賦を掌ったが、その官属は皆詹事院から奏授され、中書に隷属せず、往々にして姦利を為し、誅求飽くことがなかった。彬が総管となり、入見して、憲司の糾察を受けて私弊を革し、隷属する六提挙司を罷めて民の苦しみを蘇らせるよう請うた。従われ、遂にその四つを罷めた。国家の経費は、塩の利益が十のうち八を占め、両淮の塩は特に天下の半分を担い、法は日に日に壊れ、彬を行戸部尚書としてこれを経理させた。彬は舟楫の通ずる所、道里の均しい所を測り、六倉を建て、場で塩を煮、倉に運び積むことを請うた。歳首に、群商を転運司で倉籌を探らせてその場所を定め、乃ち券を買わせ、また河商・江商の市易で法に如かざる者を定め、法として著した。入朝して工部尚書となり、戸部尚書に改め、中書参知政事に拝されたが、まもなく免ぜられ帰った。

原文御史薦彬同知淮西道宣慰司事,覈戶版,理屯田,諸廢修舉。江淮財賦總管府掌東宮田賦,其官屬皆從詹事院奏授,不隸中書,往往為姦利,誅求無厭。彬為總管,入見,請受憲司糾察以革私弊,罷所隸六提舉司以蘇民瘼。從之,遂罷其四。國家經費,鹽利居十之八,而兩淮鹽獨當天下之半,法日以壞,以彬行戶部尚書經理之。彬請度舟楫所通、道里所均,建六倉,煮鹽于場,運積之倉;歲首,聽羣商於轉運司探倉籌定其所,乃買券,又定河商、江商市易之不如法者,著為法。入為工部尚書,改戶部尚書,拜中書參知政事,俄免歸。

尚書省が立てられ、参知政事に拝されたが、辞しても命を免れなかった。同列は務めて事を生じ功を求め、無罪の人を殺した。彬は積み重ねた誠意で開き導いたが、或いは従い或いは違い、横暴で制することができなかった。大司徒を兼ねるよう命ぜられたが拝さなかった。仁宗が東宮におられた時、彬は力の限り懇ろに辞し、病気が重いと称した。時の宰相が強いて起そうとし、遂に奏して重ねて賜って餌としようとしたが、彬は動じなかった。罪に議しようとしたが、罪を得る由もなく、彬は堅く一つの榻に臥すること数ヶ月に及び、尚書省の臣は皆罪を得たが、彬はこれに関与しなかった。家に居ること七年、足跡一度として門外に出なかった。仁宗がこれを思い、大司農卿としたが、まもなく病気を理由に辞した。延祐七年三月に卒した。

原文尚書省立,拜參知政事,辭不獲命。同列務生事要功,殺無罪之人,彬積誠意開引,或從或違,橫不可制。命兼大司徒,不拜。仁宗在東宮,彬懇辭至力,因稱疾篤。時相強起之,至奏重賜以餌之,彬不為動。議罪之,罪無從得,彬堅臥一榻至數月,尚書省臣皆得罪,彬不與焉。家居七年,足跡未嘗一出門外。仁宗思之,以為大司農卿,未幾,謝病。延祐七年三月卒。

高源

高源は字を仲淵といい、晉州の人である。高祖の揖は州の法吏となり、法を用いること公平であった。父の汝霖は真定廉訪司照磨となり、東平に使いし、高唐を通り、盗賊に遇って死んだ。

原文高源字仲淵,晉州人。高祖揖,為州法吏,用法公平。父汝霖,為真定廉訪司照磨,使東平,道高唐,遇盜死。

源は幼くして力学し、母に事えて孝行で、県吏に補せられた。中統初め、衛輝路知事に抜擢され、累進して斉河県尹となり、遺愛があり、官を去って十年経っても、民はなお碑を立ててこれを頌した。行臺都事に遷り、江南浙西道提刑按察司事を僉した。常州路達魯花赤馬恕が民田を奪い及びその他の不法の事を弾劾した。恕は恐れ、走って権臣阿合馬に賄賂し、別の事で源を誣告した。獄に繋がれた後、ある日、突然釈放されたが、その理由を知る者はなかった。以前、源の住む隣里には、阿合馬の姻戚が多く、平素より源が母に事えて至孝であることを知っていた。この時に至り、源が無辜の罪に坐したと聞き、皆阿合馬の所へ詣でて言った、「源は孝子です。ただ私が知るだけでなく、天も必ず知っています。況や捏造した罪は真実でなく、もし妄りに源を殺せば、天に悖り不祥です。」阿合馬は感ずるところあり悟り、死を免れた。まもなく河間等路都転運副使に除され、撫治に条理があり、竈戸で逃げた者は皆復業し、常賦の外に、羨余数十万緡を得た。

原文源幼力學,事母孝,補縣吏。中統初,擢衞輝路知事,累陞齊河縣尹,有遺愛,去官十年,民猶立碑頌之。遷行臺都事,僉江南浙西道提刑按察司事。劾常州路達魯花赤馬恕奪民田及他不法事。恕懼,走賂權臣阿合馬,以他事誣源,既繫獄,一日,忽釋之,莫知所由。先時,源所居鄰里,多阿合馬姻戚,素知源事母至孝。至是,聞源坐非辜,悉詣阿合馬曰:「源,孝子也,非但我知之,天必知之。況媒孽之罪非實,若妄殺源,悖天不祥。」阿合馬感悟,得不死。尋除河間等路都轉運副使,撫治有條,竈戶逃者皆復業,常賦外,羨餘幾十萬緡。

至元二十四年、江東道勧農営田使となった。二十八年、都水監に遷った。通恵河を開鑿し、文明門より東七十里で、会通河と接続し、閘七つ、橋十二を置き、人はその利益を蒙った。同知湖南道宣慰司事を授けられた。卒し、年七十七。子に夢弼・良弼・公弼。

原文至元二十四年,為江東道勸農營田使。二十八年,遷都水監。開通惠河,由文明門東七十里,與會通河接,置閘七、橋十二,人蒙其利。授同知湖南道宣慰司事。卒,年七十七。子夢弼、良弼、公弼。

楊湜

楊湜は字を彦清といい、真定藁城の人である。章程学を習い、書算に巧みで、初め府吏より遷って検法となった。中統元年、中書掾として召し出され、中山の楊珍・無極の楊卞と齊名し、当時の人は三楊と見なした。中書省が初めて立てられた時、国用が足りず、湜は鈔法は榷貨をもって国用を制すべきと論じ、朝廷はこれに従い、よって条制を掌らせた。四年、益都路宣慰司諮議を授けられ、左司提控掾に遷り、贓吏の法を厳しくするよう請うた。

原文楊湜字彥清,真定藁城人。習章程學,工書算,始以府吏遷檢法。中統元年,辟為中書掾,與中山楊珍、無極楊卞齊名,時人以三楊目之。中書省初立,國用不足,湜論鈔法宜以榷貨制國用,朝廷從之,因俾掌其條制。四年,授益都路宣慰司諮議,遷左司提控掾,請嚴贓吏法。

至元二年、河南大名諸処行中書省都事に除された。三年、制国用司が立てられ、天下の銭穀を総べ、湜を員外郎とし、金符を佩かせた。宣徽院参議に改めた。湜は帑を計り籍を立て、その出入の算を具え、毎月終わりに上奏し、遂に令として定まった。諸路交鈔都提挙を加えられ、鈔法の便宜な事を上奏し、平準行用庫の白金の出入に、偷濫の弊があるとして、五十両を錠に鋳て、元宝の文字を入れ、用いるに便ならしめるよう請うた。

原文至元二年,除河南大名諸處行中書省都事。三年,立制國用司,總天下錢穀,以湜為員外郎,佩金符。改宣徽院參議。湜計帑立籍,具其出入之算,每月終上之,遂定為令。加諸路交鈔都提舉,上鈔法便宜事,謂平準行用庫白金出入,有偷濫之弊,請以五十兩鑄為錠,文以元寶,用之便。

七年、国用司を改めて尚書省とし、戸部侍郎に任じ、なお交鈔提挙を兼ねた。時に壬子の旧籍を用いて民の賦役の高下を定めようとしたが、湜が言うには、「貧富は常ならず、歳月が久しければ次第に変わる。昔時の籍をもって今の賦役を定めることができようか」と。廷議はこれを善しとし、よって軽重を順序づけさせたところ、人々は公平であると思った。湜は心算が精細であり、当時経費を論ずる者は、皆その才能を推した。

原文七年,改制國用司為尚書省,拜戶部侍郎,仍兼交鈔提舉。時用壬子舊籍定民賦役之高下,湜言:「貧富不常,歲久寖易,其可以昔時之籍,而定今之賦役哉!」延議善之,因俾第其輕重,人以為平。湜心計精析,時論經費者,咸推其能焉。

子の克忠は、安豊路総管となった。孫は貞。

原文子克忠,安豐路總管。孫貞。

呉鼎

呉鼎は字を鼎臣といい、燕の人である。至元十七年、裕宗に東宮で謁見し、宿衛に入ることを命じられた。二十五年、織染雑造局総管府副総管に任じられ、後に累官して礼部尚書・宣徽副使となった。大徳十一年、山東諸郡が飢饉となり、詔により鼎が往きてこれを賑済した。朝廷では米四万石、鈔を米一万石に折って発給することを議したが、鼎は同行の使者に言った、「民が鈔を得ても、どこで米に換えられようか」と。同行の使者は言った、「朝議はすでに定まった。恐らく再び得ることはできないだろう」と。鼎は言った、「人命は米よりも重くないのか」と。朝廷に言上し、ついにその請いを容れた。

原文吳鼎字鼎臣,燕人。至元十七年,見裕宗於東宮,命入宿衞。二十五年,授織染雜造局總管府副總管,後積官至禮部尚書、宣徽副使。大德十一年,山東諸郡饑,詔鼎往賑之。朝廷議發米四萬石,鈔折米一萬石,鼎謂同使者曰:「民得鈔,將何從易米?」同使者曰:「朝議已定,恐不可復得。」鼎曰:「人命豈不重於米耶!」言于朝,卒從所請。

至大元年、正奉大夫・保定路総管に改めた。時に皇太后が五台に行幸しようとされ、言上する者が保定の西の五迴嶺を開いて、捷徑を取るよう請うた。使者を鼎のもとに遣わし、地形を視察させ、工費を計算させたところ、鼎は言った、「荒山が険しく入り込み、人跡久しく絶えている。乗輿の往くべき所ではない」と。還って報告すると、太后は喜び、その役を止めさせた。三年、召されて資善大夫・同知中政院事に任じられた。両浙の財賦で中政院に属するものは巨万に計り、以前の任者は多くその余剰を取ったが、鼎がこれを治めると、少しも私することがなかった。浙に朱・張という二つの富豪があり、多く民に銭を貸していたが、その後両家は誅滅され、券で既に償ったものも官に入った。官はただ券を検証して徴収するので、民は堪えることができなかった。鼎は力を尽くして弁明し、ようやく免れることができた。四年、京畿漕運使に改めた。

原文至大元年,改正奉大夫、保定路總管。時皇太后欲幸五臺,言者請開保定西五迴嶺,以取捷徑。遣使即鼎,使視地形,計工費,鼎言:「荒山斗入,人迹久絕,非乘輿所宜往。」還報,太后喜,為寢其役。三年,召授資善大夫、同知中政院事。兩浙財賦隸中政者鉅萬計,前往者率多取其贏,鼎治之,一無私焉。浙有兩富豪,曰朱、張家,多貸與民錢,其後兩家誅沒,而券之已償者,亦入于官,官唯驗券徵理,民不能堪。鼎力為辨白,始獲免。四年,改京畿漕運使。

皇慶二年、特旨により再び宣徽院事を僉とし、四月、資政大夫・崇祥院使に進んだ。延祐三年に卒した。年五十三。栄禄大夫・平章政事・柱国を贈られ、薊国公に追封され、諡して孝敏といった。

原文皇慶二年,特旨復僉宣徽院事;四月,進資政大夫、崇祥院使。延祐三年卒,年五十有三。贈榮祿大夫、平章政事、柱國,追封薊國公,諡孝敏。

梁徳珪

梁徳珪は字を伯温といい、大興良郷の人である。初め昭睿順聖皇后の宮に給事し、国語を習わせ、奏対に通じさせた。十一歳の時、世祖に謁見した。至元十六年、中書左司員外郎となり、まもなく郎中に昇り、六遷して参議尚書省事となった。至元三十一年、執政が入って奏事したが、帝がその曲折を尋ねても、答えることができなかった。徳珪が傍らから弁析すると、明白通暢であったので、帝は大いに喜び、参知政事に任じた。省に在ること久しく、凡そ銭穀出納の制、銓選進退の宜、諸藩賜予の節、命令が急に至っても、簡牘を閲する暇がなく、同列は措辞を知らなかったが、徳珪は数語で即座に定めた。時に疑事に遇うと、「某の事は某の律の如くすべく、某年嘗てこの旨あり」と言い、これを験するに皆その通りであった。北京が地震した時、帝が州郡の囚人の数を報じたものを見て、その過多を怪しんだ。徳珪はちょうど右司に在ったので、詔して問うた。対えて言うには、「国を当たる者が徴索に急で、蔓延して収繫したため、このようになったのです」と。帝は感悟し、中外の逋負を大赦したので、民はこれによって蘇った。

原文梁德珪字伯溫,大興良鄉人。初給事昭睿順聖皇后宮,令習國語,通奏對,年十一,見世祖。至元十六年,為中書左司員外郎,俄陞郎中,六遷至參議尚書省事。至元三十一年,執政入奏事,帝詢其曲折,不能對,德珪從旁辯析,明白通暢,帝大悅,拜參知政事。在省日久,凡錢穀出納之制,銓選進退之宜,諸藩賜予之節,命有驟至,不暇閱簡牘,同列莫知措辭,德珪數語即定;間遇疑事,則曰某事當如某律,某年嘗有此旨,驗之皆然。北京地震,帝閱州郡報囚之數,怪其過多,德珪方在右司,詔問焉。對曰:「當國者急於徵索,蔓延收繫,以致此爾。」帝感悟,為大赦中外逋負,民賴以蘇。

大徳年間、成宗が即位し、一に祖武に遵い、廟堂は安静を以て治とし、進を求める者はその志を逞しくすることができず、朋党を結んで怨みを起こし、事を摭って徳珪を中傷した。時に帝が病に罹り、言上する者が盛気で詰問したので、徳珪は位が執政に在りながら、凌轢を受けず、慷慨して咎を引き、ついに湖広に安置された。帝の病が癒え、これを知って問うと、召して復位させた。既に至ると、帝が問うた、「卿はどこにいたのか」と。徳珪は涕泣して語ることができず、酒饌を賜り、その母に拝謁させた。因って気疾を以て、骸骨を乞うて帰った。大徳八年九月、家で卒した。年四十六。

原文大德間,成宗即位,一遵祖武,廟堂以安靜為治,求進者不得逞其志,朋聚興怨,摭事中傷德珪。會帝有疾,言者盛氣致詰,德珪以位居執政,不受凌轢,慷慨引咎,遂安置湖廣。帝疾愈,問知之,召使復位。既至,帝問:「卿安在?」德珪涕泣不能語,賜酒饌,使往拜其母,因以氣疾,乞骸骨歸。大德八年九月,卒於家,年四十有六。