元史

本紀第十三: 世祖十

二十一年春正月乙卯、帝は大明殿に御し、右丞相和禮霍孫が百官を率いて玉冊玉寶を奉り、尊号を憲天述道仁文義武大光孝皇帝と上る。諸王百官は朔旦の儀の如く朝賀し、天下に赦す。丁巳、勅す。「今より凡そ事を奏する者は、必ず先ず同列に奏する所を語れ。奏し終わりて、その奉ずる旨云何を、同列に知らせて後に之を簿に書せ。明らかに告げずして輒く簿に書する者は、必闍赤を杖つべし。」己未、雲南都元帥府を罷め、管する軍民を行省に隷す。甲子、揚州等処の理算官を罷め、その事を行省に付す。江浙行省平章忙忽帯、真珠百斤を進む。丙寅、闊闊你敦言う。「芍陂に屯田する兵二千、布種二千石、粳糯二万五千石有奇を得たり。新附軍二千を増すことを乞う。」之に従う。丁卯、建都王、烏蒙及び金歯一十二処俱に降る。建都は先に緬に制せられ、降らんと欲して能わざりき。時に諸王相吾答児及び行省右丞太卜、参知政事也罕的斤、分道して緬を征し、阿昔・阿禾の両江に於いて船二百艘を造り、流れに順って之を攻め、江頭城を抜き、都元帥袁世安に之を戍らしむ。遂に使を遣わして緬王を招諭す、応ぜず。建都の太公たいこう城は乃ち其の巣穴なり、遂に水陸並び進み、太公城を攻め、之を抜く。故に是に至り皆降る。庚午、江淮・荊湖・江西・四川行枢密院を立て、建康・鄂州・撫州・成都に治む。躭羅国安撫司を立つ。辛未、相吾答児、使を遣わして緬国の貢する珍珠・珊瑚・異綵及び七宝束帯を進む。甲戌、蒙古官及び翰林院官各一人を遣わして岳瀆后土を祠らしむ。王積翁を遣わし詔を齎して日本に使わしめ、錦衣・玉環・鞍轡を賜う。積翁、慶元より航海して日本の近境に至り、舟人の為に害せらる。御史臺臣言う。「罪黜の之人、久しく其の名を忘れ又復奏用す。戒約を乞う。」帝曰く。「卿等の言う所固より是なり。然れども其の間豈に罪軽くして録用すべき者無からんや。」御史大夫玉速帖木児対えて曰く。「各人の犯す所の罪状明白に敷奏し、用ふる否は当に聖裁を取るべし。」之に従う。丙子、建寧の叛賊黄華自殺す。丁丑、雲南諸路按察司官陛辞す。詔を諭して曰く。「卿彼に至りては、当に朕が意を宣明すべし。貨財を求むる勿れ。名成れば則ち貨財之に随う。財に徇えば則ち必ず其の名を失い、而して性命も亦保つべからず。」己卯、馬八児国、使を遣わし珍珠・異宝・縑段を貢す。

二月辛巳、福建宣慰使管如徳を以て泉州行省参知政事と為し、緬を征せしむ。揚州の漕河を浚う。高麗の征日本船を造ることを罷む。丁亥、翰林学士承旨撒里蛮に命じ籍田に於いて先農を祀らしむ。壬辰、江西の叛寇の妻子を以て鷹坊の虎を養う者に賜う。別速帯の逃軍七百余人を以て安西王の屯田に付し、牛具を給す。邕州・賓州の民黄大成等叛き、梧州・韶州・衡州の民相挺して起つ。湖南宣慰使撒里蛮、兵を将いて之を討つ。甲午、羣牧所を罷む。己亥、瑞州、叛民晏順等三十二人を獲、へいせて妻子を京師に送る。阿八赤の開河の役を罷め、其の軍及び水手各万人を以て海道の糧を運ばしむ。檀州の淘金五百人を放ちて家に還らしむ。丁未、江南の楽工を括す。阿塔海に命じ兵一万五千人、船二百艘を発し征占城を助けしむ。船足らざれば、江西省に命じて之を益さしむ。戊申、江淮行省を杭州に徙し、浙西宣慰司を平江に徙し、黄州宣慰司を省みて淮西道に入る。大内の万寿山に法輪竿を立法し、高さ百尺。漳州に盗起る。江浙行省に命じ兵を調べて進討せしむ。秦州総管劉発罪有り。嘗て黄華に帰らんと欲し、事覚えて誅せらる。故宋の宗室及び其の大臣の仕うる者を内地に遷す。

三月辛亥、思・播の管軍民官に勅し今より遷す勿れ。丁巳、皇子北平王南木合、北辺より至る。王は至元八年に和林北の野里麻里の地に幕庭を建て、七年留まり、是に至り始めて帰る。右丞相安童継いて至る。張弘範等を以て新附軍を将せしむ。壬戌、虎符を更めて定む。丙寅、乗輿上都に幸す。丁卯、太廟の正殿成り、神主を奉安す。甲戌、潮・贛・吉・撫・建昌に戍兵を置く。乙亥、高麗国王王賰、皇帝の尊号礼成るを以て、使を遣わし来賀す。

夏四月壬午、軍民に令し同しく堤堰を築き、以て五えいの屯田に利せしむ。乙酉、泉府司を省みて戸部に入る。大都留守司を立て少府監を兼ぬ。大都路総管府を立つ。西川・延安・鳳翔・興元宣課司を立つ。迷里火者・蜜剌里等の言に従い、鈔一万錠を以て別十八里及び河西・上都に市せしむ。火者赤を以て旧に依り揚州塩運使と為し、歳に塩八十万石を市して以て過ちを贖わしむ。己亥、涿州の巨馬河決し、三十余里を衝突す。庚子、湖広行省平章阿里海牙、身を海浜に至らしめて占城の散軍を収集し、復た南征せしめ、且つ其の未だ行かざる者を趣さんことを請う。之を許す。壬寅、江淮行省、各翼の童男女百人を進む。忽都鉄木児の征緬の師、賊の為に衝潰せらる。戊申、高麗王王賰及び公主、其の世子謜を以て来朝す。思・播の田・楊二家の軍二千を発して征緬に従わしむることを勅す。江南の塩徒軍を籍し、蔵匿する者は罪有り。火児忽等の所部の民戸饑を告ぐ。帝曰く。「饑民救わずんば、糧を儲くるとも何を為さん。」万石を発して之を賑す。開元等路宣慰司に命じ船百艘を造り、狗国の戍軍に付す。雲南行省、緬国の江頭城を破るに因り、童男女八十人、并せて銀器幣帛を進む。

五月己酉朔、禿禿合の言に従い、二千戸を立て、欽察・康里の子弟で国に奉公を願う者を総轄せしむ。壬子、征東省の印を拘収す。癸丑、枢密院の臣が言うには、「唆都の潰軍は既に李恒に収集させ、江淮・江西両省の潰軍は別に使者を遣わして招諭し、来る者には皆糧を与え、舟楫の損じたものはこれを修繕し、以て阿里海牙の調用を待つ」と。これに従う。戊午、中書省に勅す、「奏目及び文冊は皆畏吾字を用いることを許さず、その宣命・劄付は共に蒙古書を用いよ」と。己未、荊湖占城行省が言うには、「忽都虎・忽馬児等が兵を率いて占城を征し、前鋒の舟師は舒眉蓮港に至って進むべき方向を知らず、万戸劉君慶に命じて進軍し新州に駐屯させたところ、占蛮を捕え、我が軍が既に還ったことを初めて知った。直ちに占蛮を遣わして案内させ占城の境に至らしめたところ、その国主が阿不蘭を遣わして降伏の書を奉り、且つその国が唆都の軍馬に虜掠され、国計は既に空しくなったので、来年嫡子を遣わして方物を進上することを待つと言う。続いてその孫の路司理勒蟄等を遣わして表を奉りて闕下に詣でさせた」と。乙丑、高麗の産する鉄を取る。江南の今年の田賦を十分の二を蠲免す。その十八年以前の未徴の逋欠は、全てこれを免ず。阿魯忽奴が言うには、「かつて江南の民戸の中から匠戸三十万を撥付したが、技芸のない者が多く、今は諸色の工匠を選定し終えたので、余りの十九万九百余戸は宜しくこれを放ちて民とすべし」と。これに従う。各道の提刑按察司分司の事柄を詔諭す。庚午、荊湖占城行省が兵を以て進み烏馬の境を占拠す。地は安南に近く、増兵を請う。鄂州の達魯花赤趙翥等に命じて璽書を奉り安南を往諭せしむ。河間路任丘県の民李移住が謀叛を図り、事覚えて誅せらる。天下の私蔵する天文図讖・太乙雷公式・七曜暦・推背図・苗太監暦を捜索し、私習及び収匿する者あればこれを罪す。丁丑、忽都虎・烏馬児・劉万戸等が揚州省の軍二万を率いて唆都の軍前に赴く。風に遇い船散じ、その軍は皆潰えた。烏馬児等の誥命・虎符及び部将の受けた宣敕を追収することを勅し、河西の孛魯合答児等を以てこれに代え、阿里海牙の節制に聴かしむ。

閏五月己卯、法里剌王を封じて郡王とし、虎符を佩かしむ。思・播二州を改めて順元路宣撫司に隷属せしむ。西南番安撫司を罷め、総管府を立てる。西川の蒙古軍に鈔を与え、鎧仗を備えさせ、遂寧の沿江の曠土を耕して食とせしめ、四頃以下の者は地税の輸納を免ず。総帥汪惟正に命じて四川の民戸を検括せしむ。辛巳、衞輝路の小清河の神に加封して洪済威恵王と曰う。壬午、蒙古侍衞親軍都指揮使八忽帯が黄華を征して還り、人口百七十一を進む。乙酉、雲南境内の洪城を察罕章に併せ、皇太子に隷属せしむ。丙戌、行御史臺を揚州より杭州に遷す。庚寅、帰附した洞蛮の官十八人に衣を賜い、還遣す。癸巳、北安王に螭紐の金印を賜う。皮貨所を罷む。江南諸行省の造った征日本船の隠弊を理算し、按察司は沮撓すべからざることを詔す。甲辰、安南国王の世子陳日烜がその中大夫陳謙甫を遣わして玉杯・金瓶・珠絛・金領及び白猿・緑鳩・幣帛等の物を貢ぐ。丙午、侍衞親軍一万人を以て大都城を修繕せしむ。

六月壬子、使者を分道して遣わし、景の測験・日月の交食・暦法を尋訪せしむ。官吏の俸を増し、十分を率とし、一錠に及ばざる者は量りて五分を増す。甲寅、詔して皇子脱歓を封じて鎮南王とし、塗金銀印を賜い、鄂州に駐屯せしむ。庚申、蒙古都元帥府を蒙古都万戸府と改め、砲手元帥府を砲手万戸府と改め、砲手都元帥府を回回砲手軍匠万戸府と改む。甲子、也速帯児の部する軍六十人に命じて双城で金を淘がしむ。憨答孫の請いに従い、阿剌帯の和林の屯田軍を移してその部する所と相合せしめ、五河に屯田せしむ。乙丑、中衞の屯田に蝗あり。甲戌、皇子愛牙赤の怯薛帯孛折等及び兀剌海の部する民戸に鈔二万一千六百四十三錠を賜い、皇子南木合の怯薛帯・怯憐口に一万二百四十六錠を賜う。馬一万一百九十五・羊一万六十を以て、朶魯朶海扎剌伊児の部する貧軍に賜う。

秋七月丁丑朔、荊湖・西川両省に勅して合兵して又巴・散毛の洞蛮を討たしむ。雲南省の臣が言うには、「騰越・永昌・羅必丹の民心は携貳す、宜しく也速帯児或いは汪総帥に将兵してこれを討たしむべし」と。制して「可」と曰う。枢密院に命じて軍を差し大都城を修繕せしむ。己卯、衍福司を立てる。中書省の臣が言うには、「宰相の名は軽々しく授くべからず。今占城省の臣は既に七人に及び、宜しくこれを汰うべし」と。詔して軍官に相の銜を帯びしめざるべし。皇子北安王に印を賜う。揚州管匠提挙司を復す。丁亥、江淮行省が占城の遣わした太半達連扎を闕下に赴かせ、及びその地図を以て来上す。塔剌赤が言うには、「頭輦哥国王は高麗に出戍し、旺速等の部する軍四百を調発して往かしめたが、今頭輦哥は已に回り、軍を躭羅に留め、その妻子を去ること久し、宜しく他軍をして更に戍らしむべし」と。伯顔等が議し、高麗軍千人を以て躭羅に屯し、その留戍の四百人はこれを放ちて家に還らしむ。これに従う。戊子、詔して鎮南王脱歓に占城を征せしむ。留め置いた安南の使黎英等を遣わしてその国に還らしめ、日烜はその中大夫阮道学等を遣わして方物を以て来献す。総帥汪惟正が言うには、「一門の兄弟で仕える者は多く、乞うらくは仍って秦・鞏州に便宜都総帥府を置き、仍って元帥の印を用い、即ちその兄弟四人の中より一人を選び総帥とし、総帥の下の総管府はその者に兼ねさせよ。汪氏の二人で西川に兵を典むる者も、その一人を選び万戸とし、余は皆例に依り遷転せしめよ」と。これに従う。貧乏なる者阿魯渾・玉龍帖木児等に鈔を賜い、合わせて七千四百八十錠。

八月丁未、雲南行省が言うには、「華帖・白水江・塩井の三か所の土老蠻が叛き、諸王及び行省の使者を殺した」と。兵千人を調発してこれを討たしむ。軍官の格例を定擬し、河西・回回・畏吾児等は各官品に依り萬戸府の達魯花赤に充て、蒙古人と同様とす。女直・契丹は漢人と同様とす。もし女直・契丹で西北に生まれ漢語に通じざる者は、蒙古人と同様とす。女直で漢地に生長した者は、漢人と同様とす。己酉、御史臺の臣が言うには、「籍の無き軍で軍に従い殺掠を願う者は、初め渡江の兵威を張るためにこれを仮借したが、今各々弓矢を持ち平民を剽劫す。もし各翼に分属せずんば、他変を生ずるを恐る」と。詔してこれを還家せしむ。辛亥、征東招討司の聶古帯が言うには、「骨嵬を進討せよとの旨有り。然るに阿里海牙・朵剌帯・玉典の三軍皆後期す。七月以後は海風正に高く、糧仗船重く、不測を深く憂う。姑く少しく緩むべし」と。これを従う。占城国王は唆都の軍の回還を乞い、土産を以て歳ごとに職貢を修めんことを願い、使臣大盤亜羅日加翳・大巴南等十一人をして表を奉り闕に詣らしめ、三象を献ず。甲子、福建の畬軍を放ち、その軍器を収む。その部長は近処の州郡の民官に遷転す。庚午、車駕上都より至る。甲戌、搠完上言す、「建都の女子沙智は道を治め站を立て功有り。既に虎符を授け、その父の元より収附した民を管領して萬戸と為す。今建昌路総管に改む。仍って虎符を佩ばしむべし」と。これを従う。

九月甲申、京師地震す。市舶司を塩運司に併合し、福建等処塩課市舶都転運司を立つ。中書省言う、「福建行省の軍餉甚だ少なく、必ず揚州に於いて転輸す。事多く遅誤す。もし両省を一に併せ、省臣を分命して泉州に治めしむれば便なり」と。詔して中書右丞・行省事忙兀台を以て江淮等処行中書省平章政事と為し、その行省左丞忽剌出・蒲寿庚、参政管如徳をして泉州に分省せしむ。癸巳、太白南斗を犯す。丙申、江南総摂楊璉真加が宋の陵冢を発して収めたる金銀宝器を以て天衣寺を修めしむ。甲辰、海南白虎・獅子・孔雀を貢ぐ。

冬十月丁未、太廟に享す。戊申、四川行省言う、金歯の遺民尚多く未だ附かずと。要剌海に探馬赤軍二千人を将いてこれを討たしむ。己酉、敕す、「管軍萬戸を行省宣慰使と為す者は、軍事を兼管すべからず。仍って萬戸と為す者は、民政を兼涖すべからず」と。壬子、漣海等処の屯田法を定む。辛酉、征東招討司兵を以て骨嵬を征す。宋に手記軍有り。死すれば則ち兄弟若しくは子を以て継ぐ。詔して漢軍の籍に依りこれを籍し、その手に文すべからず。丁卯、和礼霍孫科挙を設くるを請う。詔して中書省に議せしむ。和礼霍孫罷まるに会い、事遂に寝す。招討使張万を以て征緬招討使と為し、三珠の虎符を佩ばしむ。戊辰、常平倉を立て、五十万石の価鈔を以てこれを給す。甲戌、行中書省に詔諭す、凡そ日本を征する船及び長年篙手は、並びに官にて鈔を給し価を増してこれを募れと。貧乏なる者押失・忻都察等に鈔一万四千三錠を賜う。

十一月甲申、南木里・忙哥赤を郡公に封ず。戊子、北京宣慰司に灤河の道を修めしむ。己丑、江西行省参知政事也的迷失、海賊黎徳を禽獲し及び余党百三十三人を招降す。即ちその地にて黎徳を誅し以て徇し、黎徳の弟黎浩及び偽招討呉興等を檻車にて京師に送る。遷転の官員薄くして就かざる者は、その令に帰農して役に当らしむ。庚寅、占城国王使臣大羅盤亜羅日加翳等を遣わし表を奉り来たり聖誕節を賀し、礼幣及び象二を献ず。占城旧州主宝嘉婁も亦た表を奉り入附す。庚子、范文虎を以て左丞と為し、枢密院事を商量せしむ。太陰心を犯す。辛丑、和礼霍孫・麦朮丁・張雄飛・温迪罕皆罷まる。前右丞相安童復た右丞相と為り、前江西榷茶運使盧世栄を右丞と為し、前御史中丞史枢を左丞と為し、不魯迷失海牙・撒的迷失並びに参知政事と為し、前戸部尚書拜降を参議中書省事と為す。中書省に敕して鈔法を整治し、金銀の価を定め、私自の回易を禁じ、官吏奉行して虔ならざる者はこれを罪す。壬寅、安童・盧世栄言う、「阿合馬専政の時に用いし大小の官員、例皆奏罷す。その間に豈に通才無からんや。宜しく可用なる者を択び仍ってこれを用うべし」と。詔して言う所に依り汰選し、私情に徇うべからず。癸卯、福建行省使人八合魯思を遣わし南巫里・別里剌・理倫・大力等四国を招降す。各々その相を遣わし表を奉り方物を以て来貢す。江淮の間に自ら襄陽より東海に至るまで荒田多し。司農司に命じ屯田法を立て、人を募り開耕せしめ、その六年の租税並びに一切の雑役を免ず。蒙古の貧乏なる者也里古・薛列海・察吉児等に鈔十二万四千七百二十二錠を賜う。

十二月甲辰朔、中書省の臣言う、「江南の官田は権豪寺観に欺隠せらるる者多し。宜しくその積年の収入を免じ、日期を限り、人の首実を聴くべし。限を踰えて人の告ぐる所と為る者は、その半を徴して告者に給すべし」と。これを従う。常平塩局を立つ。乙巳、崔彧盧世栄を相と為すべからずと言い、旨に忤いて罷まる。丁壮万人を以て神山河を開き、萬戸府を立て以てこれを総べしむ。辛亥、儀鳳司を以て衞尉院に隷せしむ。癸亥、盧世栄言う、「京師の富豪戸酒を醸し、価高くして味薄く、以て課の時を失い輸せざるに至る。宜しく一切禁罷し、官自ら酤売すべし。向の歳課は一月にて弁ずべし」と。これを従う。甲子、高麗提挙司を以て工部に隷せしむ。乙丑、太一を祀る。丙寅、荊湖占城行省八番の劉継昌を遣わし龍昌寧・龍延万等を諭降して闕に赴かしめ、羊馬・白氊を奉り来貢せしめ、各々本処の安撫使を授く。宣慰司を立て、西南諸蕃等処の酋長を招撫す。癸酉、翰林承旨撒里蛮・翰林集賢大学士許国禎に命じ、諸路の医学教授を集め本草を増修せしむ。是の月、鎮南王の軍安南に至り、その守兵を殺し、六道を分かち以て進む。安南の興道王兵を以て万刼に於いて拒む。進撃してこれを敗る。萬戸倪閏劉邨に戦い死す。涇州を以て都総帥府に隷せしむ。蒙古の貧乏なる者兀馬児等に鈔二千八百八十五錠・銀四十錠を賜う。

二十二年春正月戊寅、命相を以て天下に詔す。民間の金銀売買、懐孟諸路の竹貨、江淮以南の江河の魚利、皆その禁を弛む。諸処の站赤の飲食、官これを支給す。官を遣わし諸路の囚を慮し、罪軽き者はこれを釈す。屯衞輝の新附軍六千家を徙し、これを京師に廩し、以て倉廩を完うす。五衞軍及び新附軍を発し蒙邨漕渠を濬う。庚辰、別十八里の驛伝を立つ。宋の郊天臺を毀つ。桑哥言う、「楊輦真加云う、会稽に泰寧寺有り、宋これを毀ち以て寧宗等の攢宮を建つ。銭唐に龍華寺有り、宋これを毀ち以て南郊と為す。皆勝地なり。宜しく復た寺と為し、以て皇上・東宮の寿を祈るべし」と。時に寧宗等の攢宮は既に毀ち寺を建つ。勅し郊天臺を毀ち、亦た寺を建つ。壬午、詔して市舶都転運司を立つ。上都等路群牧都転運使司・諸路常平塩鉄坑冶都転運司を立つ。甲申、使を遣わし代わりて五岳・四瀆・東海・后土を祀る。戊子、闊闊你敦言う、「先に旨有り、軍二千を遣わし芍陂に屯田せしむ。土の肥磽を試み、去秋既に米二万余石を収む。屯士二千人を増すを請う」と。これに従う。江南の楽工八百家を京師に徙す。駙馬唆郎哥を封じて寧昌郡王と為し、亀紐銀印を賜う。西川の趙和尚自ら宋の福王の子広王と称し以て民を誑かす。信ずる者有り。真定の民劉驢児三乳有り、自ら異と為し、不軌を謀る。事覚え、皆磔裂して以て徇しむ。五条河の屯田軍五百を兀失蠻・扎失蠻に移す。辛卯、諸衞の軍六千八百人を発し護国寺の修造に給す。御史臺の贓罰庫を広む。癸巳、枢密臣言う、「旧制、四宿衞各一人を選び枢密院の事を参決す。脱列伯を以て僉院と為すを請う」と。これに従う。詔して京師の荒地を括し、宿衞士に耕種せしむ。乙未、中書省臣、御史大夫玉速怗木児を以て左丞相と為し、中丞撒里蠻を御史大夫と為すを請う。行御史臺を罷む。その所属の按察司を御史臺に隷し、行御史臺大夫撥魯罕を中書省平章政事と為す。帝曰く、「玉速怗木児は朕思う有らん。撥魯罕は寛緩にして不可なり」と。安童対えて曰く、「阿必赤合は如何」と。帝曰く、「此の事は朕自らこれを処す。行御史臺を罷むるは、当に奏する如くすべし」と。盧世栄、福建行中書省を罷め、宣慰司を立て、江西行中書省に隷するを請う。又言う、「江南行中書省の事繁く、恐らくは壅滞を致さん。今行省に随い行枢密院を立て兵を総べ、以てその務を分つは便なり」と。帝曰く、「行院の事は、前日既に言う。阿合馬その子忽辛に兵柄を兼ねしめんと欲して止む。今議してこれを行わん」と。占城を征し擅に還る将帥二十三人を遠方に流す。丙申、帝近郊に畋る。武備監を陞めて武備寺と為し、尚医監を陞めて太医院と為し、職俱に三品。六部を陞めて二品と為す。合必赤合を以て中書平章政事と為す。礼部に命じ会同館を領せしむ。初め、外国の使至れば、常に翰林院をしてこれを主たしむ。是に至りて改正す。荊湖占城行省、叛蠻百六十六洞を平らぐ。詔して私酒を禁ず。己亥、江浙行省の治むる所の南康を分ち江西省に隷す。辛丑、楊兀魯帯を以て征骨嵬招討使と為し、二珠の虎符を佩かしむ。壬寅、殿に大樽を造る。樽は木を以て質と為し、内は銀にして外は金、雲龍を鏤し、高さ一丈七寸。是月壬午、烏馬児兵を領き安南の興道王と遇い、これを撃ち破る。兵富良江の北に次ぐ。乙酉、安南の世子陳日烜戦船千余艘を領き以て拒ぐ。丙戌、これと戦い、大いにこれを破る。日烜遁去す。その城に入り、還りて富良江の北に屯す。唆都・唐古帯等兵を引き鎮南王と会す。

二月乙巳、車駕は柳林に駐蹕した。済州の漕運船を三千艘増やし、役夫一万二千人を徴発した。初め、江淮は毎年百万石の米を京師に漕送し、海運十万石、膠州・萊州六十万石、そして済州の運ぶ三十万石は、水が浅く船が大きいため、常に到達できず、百石の船に替え、一船に四人を用いるので、役夫の数が増加したのである。渾河の堤防の決壊を塞ぎ、役夫四千人を用いた。詔して江淮・江西元帥招討司を上中下三萬戸府に改め、蒙古・漢人・新附の諸軍を参酌させ、三十七翼を編成した。上萬戸は、宿州、蘄県、真定、沂郯、益都、高郵、沿海の七翼。中萬戸は、棗陽、十字路、邳州、鄧州、杭州、懷州、孟州、真州の八翼。下萬戸は、常州、鎮江、潁州、廬州、亳州、安慶、江陰水軍、益都新軍、湖州、淮安、寿春、揚州、泰州、弩手、保甲、処州、上都新軍、黄州、安豊、松江、鎮江水軍、建康の二十二翼。各翼に達魯花赤・萬戸・副萬戸を各一人置き、所在の行院に隷属させた。江西の賊黎德等の残党は悉く平定した。応に放還すべき五衞軍を用いて河西務の河を穿つ。旧例では、五衞軍は十人を率とし、七人と三人に分けて二番とし、十月に七人を放還し、正月に復役させ、正月に三人を放還し、四月に復役させ、交替で休息させた。丙午、荊湖行省に隷属する八番・羅甸を西川行省に隷属させた。嵐州・管州を分けて二州とした。桑乾河の神洪済公に加封して顕応洪済公とした。己酉、皇孫阿難答のために衍福司を立て、職は四品、使・同知・副使を各一員とした。辛亥、広東宣慰使月得迷失が潮州・恵州の賊郭逢貴等四十五寨を討ち、皆平定し、民一万余戸・軍三千六百十人を降し、捕らえた渠帥を入朝させ、面陳して事を奏上することを請うた。これに従った。丙辰、詔して膠州・萊州で開鑿した新河を廃止し、軍一万人を江浙行省に隷属させて水戦を習わせ、一万人に江淮の米を載せて海路で利津から京師に至らせた。辛酉、御史臺の臣が言うには、「近ごろ中書が奏上して行御史臺を廃止し、按察司を提刑転運司に改め、兼ねて銭穀を管轄させたが、糾弾の職務が廃れてしまった。安童に老臣と議させてください」。これに従った。壬戌、太陰が心宿を犯した。中書省の臣盧世栄が規措所を立て、銭穀を経営することを請い、秩は五品、用いる官吏は善く商売をする者とし、白身人に限らないとした。帝はこれに従った。参知政事不魯迷失海牙等が因みに奏上して、盧世栄の姻党に牛姓の者がおり、以前は提挙であったが、今浙西運司の課程が頗る多いので、転運副使に昇進させることを擬した。これにも従った。詔して、旧城の住民で京城に移る者は、資産が高い者及び官職にある者を優先とし、なお定制として地八畝を一分とし、地が八畝を超える者及び力で家屋を建てられない者は、皆みだりに占拠することを許さず、民に家屋を建てさせることを聴許した。御帯庫を昇格して章佩監とした。右千戸只児海迷失の分地を泉州に移した。合剌失都児に新附民五千戸を賜い、合剌赤・阿速・阿塔赤・昔宝赤・貴由赤等でかつて征戦に従った者にも、皆これを賜った。民八十戸を皇太子の宿衞の臣でかつて征戦に従った者に賜った。盧世栄の言を用い、江南の民の土田を回買した。詔して天下に銅銭を拘収する。私的に酒麹を造ることを禁じることを申し令した。戊辰、車駕は上都に行幸した。帝が省臣に問うた、「行御史臺は何故廃止したのか」。安童が言うには、「江南で盗賊が屡々起こり、行御史臺が鎮圧する事が多いので、臣は廃止すべからずと存じます。しかし江浙行中書省と共に杭州にあり、地が甚だ遠く僻遠なので、江州に移し、江浙・湖南・江西三省の中に置くのが便利です」。これに従った。真定・済南・太原・甘粛・江西・江淮・湖広等の処に宣慰司兼都転運使司を立て、課程を治めさせ、なお条制を立てた。諸司が管課の官吏を擅に追及することを禁じ、敢えて沮害擾乱する者は、姓名を具えて奏聞させた。済州漕運司の軍を一万二千人増やした。江西・江淮・湖広造船提挙司を立てた。江浙行省の参政馮珪、湖広行省の右丞要束木・参政潘傑、龍興行省の左丞伯顔・参政楊居寛・僉省陳文福に命じ、専ら課程の事を領掌させた。瓮吉剌帯を中書左丞相とした。己巳、按察司を再び立てた。民二万七千戸を駙馬唆郎哥に撥付した。忽都魯を平章政事とした。詔して、「各道の提刑按察司が、条画を遵奉し、職事を行って成果のある者は、任期満了で昇職させる。贓污で任に称さない者は、罷免し除名する」。詔して供膳司を立て、職は従五品、達魯花赤・令・丞を各一員とした。融州総管府を廃止して州とした。

三月丙子、太史監候張公礼・彭質等を遣わして占城に行き日晷を測候させた。癸未、甘州行中書省を廃止し、宣慰司を立て、寧夏行中書省に隷属させた。荊湖占城行省が兵を増やすことを請うた。当時、陳日烜の逃げた天長・長安ちょうあんの二箇所の兵力が再び集結し、興道王の船千余艘が万劫に集結し、阮盝は永平におり、官兵は遠征して久しく戦い、孤立してその中におり、唆都・唐古帯の兵も時に至らず、故に兵を増やすことを請うたのである。帝は水行を危険とし、陸路を遵って往くことを命じた。庚子、詔して旧制に依り、凡そ塩一引四百斤、価銀十両を、今の鈔に折して二十貫とし、上都に商う者は、六十に一を税す。契本を増やして三銭とした。上都規措所回易庫を立て、破れた鈔の工墨を毎貫二分から三分に増やした。

夏四月癸卯朔、行枢密院都鎮撫司を立てた。畏兀の駅を六所設置した。丙午、日本征伐の船で江淮から糧を運び、また軍に水戦を教習させた。庚戌、監察御史陳天祥が中書右丞盧世栄の罪悪を弾劾した。詔して世栄・天祥を皆上都に赴かせた。壬子、江陵の民張二の妻鄧氏が一産で三男を生んだ。癸丑、詔して宋の広王及び陳宜中を追捕する。中書省・枢密院・御史臺の官を各一名遣わし、大都及び諸路の罪囚を決断させた。大都・汴梁・益都・廬州・河間・済寧・帰徳・保定で蝗害があった。辛酉、耽羅で造った日本征伐船百艘を高麗に賜った。壬戌、御史中丞阿剌怗木児・郭佑、侍御史白禿剌怗木児、参知政事撒的迷失等が盧世栄の招いた罪状を奏上した。阿剌怗木児等と世栄が帝の前で対決し、世栄は悉く罪を認めた。六部を旧に復して三品に改めた。詔して、「安童に諸老臣と議させ、世栄の行ったことで、廃すべきは廃し、改めるべきは改め、その用いた人で実に罪のない者は、朕自ら裁決する」。癸亥、勅して麦朮丁の行いが清廉潔白であるので、安童と共に省事を治めさせた。

五月甲戌、御史中丞郭佑を中書省参知政事とする。丁丑、上都の商税を減ず。戊寅、広平・汴梁・鈞・鄭、旱魃あり。遠方の暦日が京師から供給されるが、時に至らず、荊湖等処四行省で用いるものは隆興で印刷し、合剌章・河西・西川等処で用いるものは京兆で印刷する。詔して甘州に毎地一頃ごとに税三石を輸納せしむ。壬午、軍千人をもって阿失塩場の倉を修繕す。忻都を踢里玉招討使とし、虎符を佩かしむ。旨あり、「兵を興して遠く攻むべからず、近地に服さざる者あればこれを討て」と。右巴等の洞蛮、平ぐ。甲申、汴梁宣慰司を立て、安西王の故事に依り、汴梁より南は江に至るまで、親王をもってこれを鎮撫せしむ。丁亥、中書省臣言う、「六部の官は甚だ冗多なり、ただ六十八員を以て定員とし、余は悉く汰去すべし」と。詔してその廉潔にして幹局ある者を選び存置す。漢地及び江南にて拘えた弓箭兵器を三等に分ち、下等はこれを毀ち、中等は近居の蒙古人に賜い、上等は庫に貯蔵す。行省・行院・行臺ある者はこれらを掌らしめ、省・院・臺なきところは達魯花赤・畏兀・回回で職に居る者がこれを掌る。漢人・新附人は職に居ると雖もこれに関与せしめず。戊子、昇江・烏定・朵里滅該等の府を路と改む。雲南行省臣脱怗木兒、逋賦を蠲免し、侵隠を徴収し、叛民を戍守し、黜陟を明らかにし、転運を罷め、親王に給し、豪戸に賦し、重税を除き、盗賊を決断し、駅馬を増し、質子を取り、俸祿を定め、農桑を教え、学者を優遇し、死事を恤み、逃亡を捕らうる等十余事を言上す。命じて中書省にその行いうべきものを議して施行せしむ。庚寅、真定・広平・河間・恩州・大名・済南、蚕災あり。大都諸門の尉・副を各一人増す。勅して朵児只に甘・沙・速等州の流徙饑民を招集せしむ。行御史臺、再び杭州に移す。丁酉、行枢密院を建康に移す。戊戌、汴梁・懐孟・濮州・東昌・広平・平陽・彰徳・衞輝、旱魃あり。江南造船提挙司を罷む。陳日烜、海港に走る。鎮南王、李恒に命じて追襲せしめ、これを破る。暑雨疫病の起こるに適い、兵は北還して思明州せんと欲す。唆都等に命じて烏里に還らしむ。安南、兵をもって追躡す。唆都、戦死す。恒は後距たり、以て鎮南王を衞い、薬矢左膝に中り、思明に至り、毒発して卒す。

六月庚戌、女直・水達達に命じて船二百艘及び征日本迎風船を造らしむ。辛亥、揚州、芝草を進む。丙辰、馬速忽・阿里を遣わし、鈔千錠を齎して馬八図に往き奇宝を求めしむ。馬速忽に虎符を賜い、阿里に金符を賜う。高麗、使いを遣わして来たり方物を貢ぐ。庚午、詔して商税を減じ、牙行を罷め、市舶司を省いて転運司に併入す。左丞呂師夔、五月の暇を乞い、母に省みするため江州に赴かんことを請う。帝これを許し、因って安童に諭して曰く、「此事は汝ら蒙古人は知らざるなり。朕の左右にもまた漢人なし。可否皆朕自ら決す。汝は心を尽くして善く百姓を治め、重く困窮せしめて乱を致し、以て朕を羞かしむることなかれ」と。参知政事張徳潤、その家人四百戸を皇太子に献ず。馬湖部、田鼠が稼穡を食い尽くさんとす。その総管、祠してこれを祝す。鼠悉く水に赴きて死す。

秋七月壬申、温石浴室及び更衣殿を造る。癸酉、詔して捕猟を禁ず。甲戌、勅して秘書監に地理志を修撰せしむ。乙亥、安南の降者、昭国王及び武道・文義・彰憲・彰懐の四侯、闕に赴く。戊寅、京師、蝗あり。甘州屯田の新附軍三百人を分ち、亦集乃の地に田す。己卯、米千石を以て瓮吉剌の貧民に廩す。壬午、陝西四川行中書省左丞汪惟正、入見す。甲申、闊里吉思等の平げたる大小十谿洞を悉く府・州・県と改む。汴梁城を修繕す。丁亥、広東宣慰使月の迷失、入覲す。降したる渠帥郭逢貴等を以て京師に至り、山寨の降る者百五十余所なりと言上す。帝問う、「戦いて後に降るか、招けば即ち降るか」と。月の迷失対えて曰く、「その首として敵に拒ぎし者は臣已にこれを磔にせり。これらは皆招降したる者なり」と。因って言う、「塔朮の兵の後、未だその民を撫治せず、州県の官また至る者なし。故に盗賊各々土地を拠り、互いに攻殺し、人民漸く消耗す。今宜しく良吏を選び往きてこれを治むべし」と。これに従う。庚寅、枢密院言う、「鎮南王脱歓の総べる征交趾の兵は久戦して力疲れたり。奥魯赤等三万戸より蒙古軍千人を分ち、江淮・江西・荊湖三行院より漢軍・新附軍四千人を分ち、良将を選びてこれを将とし、鎮南王脱歓・阿里海牙の節制を取らしめ、以て交趾を征せしむべし」と。これに従う。また唐兀帯を荊湖行省左丞とす。唐兀帯、征交趾の軍を放ちて家に還り休憩せしむることを請う。詔して脱歓・阿里海牙にこれを処置せしむ。諸王阿只吉の分地の貧民に農具牛種を給し、自ら耕播せしむ。乙未、雲南行省言う、「今年は緬を征する暇あらず。秋禾を収穫し、先ず羅北甸等の部を伐つことを請う」と。これに従う。庚子、開・達・梁山の三州を改めて夔州路に隷属せしむ。(八月庚子)鈔一万二千四百錠を給して元本とし、利息を取って甘・粛二州の屯田貧軍を贍養す。

〔九月〕乙亥、両淮の荒地を民に自ら実地申告させ、三年間免税とした。中書省が江北諸城の課程銭糧を杭・鄂の二行省の節制に任せているのは道途が迂遠であるとして、中書に改めて隷属させるよう請うたので、これを許した。永昌・騰衝の二城は緬国と金歯の間にあり、破壊されて敵を防ぐことができないので、修繕を命じた。詔して「今後貢物はその地の産物のみとし、産さないものは軽々しく献上してはならない」と。丙子、真臘・占城が楽工十人及び薬材・鰐魚皮などの物品を貢いだ。辛巳、隠匿している工匠を収集した。丙戌、速木都剌・馬答の二国が使節を派遣して朝貢した。庚寅、詔して交趾征討の諸軍に対し、蒙古軍百人・漢軍四百人を留めて鎮南王トゴン(脱歓)の宿衛とし、残りは全て帰還させるよう命じた。別に江淮行枢密院が統轄する蒙古兵を江西に駐屯させた。癸巳、雲南が地方の産物を貢いだ。烏蒙が叛いたので、四川行院のイェスデル(也速帯児)に兵を率いて討伐させ、馬湖総管の汝作に蛮軍三百を助けとさせた。西崖門の酋長アジェ(阿者)ら百余戸を降伏させた。

冬十月己亥〔朔〕、応昌府において鈔五千錠で和糴を行った。河間・山東塩課転運司を再び二つに分けた。ハサルハイヤ(合撒児海牙)を派遣して安南に使わした。シェシェテキン(雪雪的斤)を派遣して畏兀児戸一千を率い合剌章に駐屯させた。庚子、太廟で祭祀を行った。甲辰、南嶽廟を修復した。乙巳、枢密院の臣が言うには「トクトムル(脱脱木児)が使者を遣わし、アシャ(阿沙)・アニュ(阿女)・アゼ(阿則)の三部が叛こうとしているので、人を派遣して召喚すべきであり、もし来なければ隙をみて討伐すべきである」と。許さなかった。そこで詔を下して諭した「事は雲南王エセンテムル(也先帖木児)と議しない限り、軽々しく行ってはならない」と。詔して征東招討使タタルダイ(塔塔児帯)・ヤンウルダイ(楊兀魯帯)に一万人を率いて骨嵬を征討させ、これによりヤンウルダイに三珠虎符を授け、征東宣慰使都元帥とした。壬子、長葛・郾城がそれぞれ芝草を献上した。癸丑、征東行省を設置し、アタカイ(阿塔海)を左丞相とし、劉国傑・陳巖をともに左丞とし、洪茶丘を右丞として、日本を征討させた。トリチャアン(脱里察安)・ダジグアサン(答即古阿散)らに印を賜い、中書省を考覈させ、その制度は三品の如くとした。丙辰、参議テムル(怗木児)を参知政事とし、郭佑の上位に置き、かつ命じて「今後は全ての事を汝に責める」と言った。馬法国が入貢した。戊午、江淮行省平章マングダイ(忙兀帯)を江浙省左丞相とした。初め、西川には四路のみを置いていたが、アフマ(阿合馬)が官を濫用して九路に増やした。台臣がその地は民が少ないと言い、広元・成都・順慶・重慶・夔府の五路を残し、他は全て廃止した。後に山谷が険要で蛮夷が雑居しているため、嘉定路・叙州宣撫司を再設置してこれを制御した。大理寺を都護府に昇格させ、職は従二品とした。都護府が言うには、合剌禾州の民が飢えており、戸ごとに牛二頭・種二石を与え、さらに鈔十一万六千四百錠を与え、米六万四百石を買い入れ、四か月分の食糧として救済した。癸亥、ダジグアサン(答即古阿散)に積年の銭穀を理算させ、別に司署を設置したが、省部と対等で政務を干擾するため、省中に併合した。丁卯、詔して枢密院に膠・萊諸処の漕船と、高麗・江南諸処で建造した海舶を計算させ、江淮の民船を徴発し、日本征討に備えさせた。なお詔して海に慣れた者を募り、水工千人を率いる者を千戸とし、百人を率いる者を百戸とした。タハイ(塔海)の弟六十が言うには「今、百姓及び諸投下の民は、全て女直で造船するよう命じられているが、女直はまた軍役に徴発され、工役が非常に煩雑である。ナヤン(乃顔)・シンナハル(勝納合児)の両投下の鷹坊・採金などの戸だけが徴発されない」と。旨を下して使者を派遣しその民を徴発した。烏蒙蛮夷宣撫使アモン(阿蒙)が叛いたので、詔してロビダン(羅必丹)の兵の徴発を止め、雲南行省とともに出兵して討伐させた。郭佑が言うには「江南平定以来、十年の間に、銭糧の事は八回も理算を行った。今ダジグアサン(答即古阿散)らがまたもや鈎考しようとしている。直ちに罷めるべきである」と。帝はこれを嘉納した。

十一月己巳朔、広東宣慰使ユエデシ(月的迷失)が英徳・循・梅の三路は民が少ないとして州に改めるよう請い、また管軍総管于躍を惠州総管とし、蔚州知州ムバラ(木八剌)を潮州ダルガチ(達魯花赤)とするよう請うた。帝はその専断を疑い、許さなかった。御史台の臣が言うには「御史台・按察司は百官を糾察することを職分とするが、近頃銭穀を鈎校する者がその奸を暴かれることを恐れ、私的に群れをなす不逞の徒を集め、その事を阻もうとしている。願わくは陛下が旧制に従ってこれを諭されたい」と。制して「可」とした。庚午、皇子アイヤチ(愛牙赤)に銀印を賜った。壬申、日本征討のため、アバラ(阿八剌)を派遣して江淮行省の軍需を監督させ、チャク(察忽)を派遣して遼東行省の軍需を監督させた。甲戌、合剌章・四川・建都などの駅を設置した。戊寅、使者を派遣して高麗に兵一万人・船六百五十艘を出させ、日本征討を助けさせた。なお近地で多く造船するよう命じた。己丑、重慶府のブカ(不花)の家人百二十三戸を籍没して民とした。御史台の臣が奏上した「昔、宋は家族のない壮士を塩軍とし、数は五千であったが、今存する者は一千百二十二人で、性質が凶暴に習い、民はこれを患い苦しんでいる。衣糧を与え、屯田させて自ら養うようにすべきである」と。詔してこれを実行するよう議した。癸巳、詔して江淮の米百万石を漕運し、海路で高麗の合浦に貯蔵させ、なお東京及び高麗にそれぞれ米十万石を貯蔵させ、日本征討に備えさせた。諸軍は来年三月を期して順次出発し、八月に合浦で会合することとした。乙未、トルハン(禿魯歓)を参知政事とした。盧世栄を誅殺した。丙申、囚徒を赦免し、その顔に墨刑を施し、また宋の時の私塩販売の軍で海道に習熟した者を水工として募り、日本征討に用いた。

十二月、詔して天下の罪囚を減刑した。占城から遁走して帰還したフトゥフ(忽都虎)・劉九・田二を旧職に復帰させ、日本征討に従軍させた。アタカイ(阿塔海)の日本征討戦士を一万人、回回砲手を五十人増員した。己亥、枢密院の請いに従い、軍籍条例を厳格に定め、壮士及び有力な家の者を選んで軍に充てた。詔して枢密院に「以前日本征討のため、五衛軍を家に帰して装備を整えさせたが、今は全て壮士を選び、正月一日に京師に到着させるように」と。江淮行省が戦船千艘で江中で水戦を訓練した。辛丑、ダジグアサン(答即古阿散)の党人蔡仲英・李蹊を誅殺した。丁未、皇太子が薨去した。戊午、中衛軍四千人に木材五万八千六百本を伐採させ、万安寺の修造に供給した。己未、太廟の柱を丹塗りした。乙酉、集賢院を設置し、ジャリマン(扎里蛮)にこれを統轄させた。戊子、合剌章の打金規措所及び都元帥府を廃止した。詔して合剌章の酋長の子を京師に入質させ、千戸・百戸の子は雲南王エセンテムル(也先帖木児)の下に留質させた。中書省の臣が奏上した「ナスレッディーン(納速丁)が言うには、合剌章の冗官を減らせば、歳に俸金九百四十六両を節減できる。また屯田課程を専門に管理する者を置けば、歳に金五千両を得られる」と。全て従った。ジビゲ(只必哥)らを派遣して雲南行省を考覈させた。庚寅、詔して工匠官を転任させないようにした。辛卯、詔して有司に北斗を祭祀させた。

この年、江浙転運司に命じて課程を統括して管轄させた。諸路の僧侶四万人を西京普恩寺に集め、資戒会を七昼夜にわたって行わせた。重慶等の州県を合併・削減した。占城行省参知政事亦黒迷失らが軍を率いて帰還し、海外の四州に駐屯し、使者を遣わして奏聞したので、勅命によりその軍を帰還させた。皇子脱歓、諸王阿魯灰・只吉不花、公主囊家真らに、鈔計七千七百三十二錠・馬六百二十九匹・衣料の絹織物百匹・弓千張・矢二万発を賜うた。諸王阿只吉・合児魯・忙兀帯・宋忽児・阿沙・合丹・別合剌ら及び官戸で河西に散居する者に、羊馬の代価として鈔三万七千七百五十七錠・布四千匹・絹二千匹を賜うた。伯八剌らが貧困であるため、鈔七万六千五百二錠を給与した。諸王阿只吉・小厮・汪総帥・別速帯・也先らの所部及び征緬・占城等の軍を賞し、鈔五万三千五百四十一錠・馬八千百九十七匹・羊一万六千六百三十四頭・牛十一頭・米二万二千一百石・絹帛八万一千匹・綿五百三十斤・木綿二万七千二百七十九匹・甲冑千領・弓千張・衣服百七十九着を賜うた。帝師也憐八合失甲自羅二思八らに命じて、万安・興教・慶寿等の寺で順次に仏事を行わせ、合わせて十九会に及んだ。死罪二百七十一人を処断した。