元史

志第四十八:兵三

馬政

西北の地は天下で最も馬が多い。秦・漢以来、文献に記されるところはおおよそ考証できる。元は朔方より興り、その風俗は騎射に長じ、弓馬の利をもって天下を取った。これは古来未だかつてなかったことであろう。その沙漠万里、牧養して蕃息し、太僕の馬は数えきれぬほどであり、まさに一代の盛事というべきである。

世祖中統四年、羣牧所を設け、太府監に隷属させた。まもなく尚牧監に昇格し、さらに太僕院に昇格、衛尉院と改称した。院が廃止されると、太僕寺を立て、宣徽院に属させた。後に中書省に隷属し、御位下・大オルドの馬を管掌した。その牧地は、東は耽羅を越え、北は火里禿麻を踰え、西は甘肅に至り、南は雲南などの地に及び、合わせて十四箇所。上都・大都より玉你伯牙・折連怯呆兒に至るまで、周囲万里、牧地ならざるはない。

馬の群れは、あるいは千百頭、あるいは三五十頭とし、左股に官印を烙し、大印子馬と号した。その印には、兵古・貶古・闊卜川・月思古・斡欒などの名がある。牧人はハチ(哈赤)・ハラチ(哈剌赤)といい、千戸・百戸があり、父子相承して職を任じた。夏から冬にかけ、地の宜しきに従い、水草を逐って移動し、十月にはそれぞれの本地に至る。朝廷は毎年九月・十月に寺官を馳駅させて巡視させ、その多寡を較べ、産んだ駒があれば直ちに烙印して調査し、現存数を収除し、蒙古・回回・漢字の文冊を作成して報告させた。その総数はおそらく知り得ない。凡そ病死したものが三頭なら、牧人に大牝馬一頭を償わせ、二頭なら二歳馬一頭、一頭なら牝羊一頭を償わせた。馬がない者は羊・駱駝・牛で折納した。

太廟の祀事および諸寺の影堂で乳酪を用いる時は、牝馬を供する。駕仗および宮人の出入りには、尚乗馬を供する。車駕が上都に行幸する時は、太僕卿以下皆従い、先駆の馬は健徳門外に出し、その肥えて乳を取れるものを選んで行き、痩せ衰えて耐えられないものは群れに還す。天子より諸王百官に至るまで、それぞれ脱羅氈で撒帳を設け、乳を取る室とした。車駕が京師に還ると、太僕卿は期前に使者を遣わして馬五十ユンド(醞都)を徴発して京師に来させる。ユンドとは、乳を承ける車の名である。到着すると、朝廷にいて卿大夫となっているハチ・ハラチに、自ら秣飼いさせ、日に黒馬乳を醸して玉食に奉じ、これを細乳といった。毎ユンドに牝馬四十頭。牝馬一頭ごとに、官が芻一束・菽八升を給する。駒一頭には、芻一束・菽五升を給する。菽が高価な時は、その半量を小稻で充てる。諸王百官以下にも、馬乳の供給があり、ユンドの数は前と同じだが、馬は四分の一減らし、これを粗乳といった。芻粟は旬ごとに度支から支給を受け、寺官も旬ごとに閑廐に行って肥瘠を検閲した。また世祖以下の山陵には、それぞれユンドがあり、馬乳を取って祀事に供し、金陵擠馬と号した。五年を経ると、すべて守山陵の使者に与えた。

凡そ御位下・正宮位下・随朝諸色目人員、甘粛・土番・耽羅・雲南・占城・蘆州・河西・亦奚卜薛・和林・斡難・怯魯連・阿剌忽馬乞・哈剌木連・亦乞里思・亦思渾察・成海・阿察脫不罕・折連怯呆兒などの処の草地、内は江南・腹裏諸処に及び、官に係る孳生の馬・牛・駝・騾・羊を点数の対象とする処、十四道の牧地、各千戸・百戸などの名目は左の如し。

東路折連怯呆兒などの処、玉你伯牙・上都周囲、哈剌木連などの処、阿剌忽馬乞などの処、斡斤川などの処、阿察脫不罕、甘州などの処、左手永平などの処、右手固安州などの処、雲南亦奚卜薛、蘆州、益都、火里禿麻、高麗耽羅国。

一、折連怯呆兒などの処御位下:折連怯呆兒地ハラチ千戸買買・買的・撒台・怯兒八思・闊闊來・塔失鐵木兒・哈剌那海・伯要䚟・也兒的思・撒的迷失・教化・太鐵木兒・塔都・也先・木薛肥・不思塔八・不兒都・麻失不顏台・撒敦。按赤・忽里哈赤千戸下百戸脱脫木兒。兀魯兀内土阿八剌哈赤闊闊出。徹徹地撒剌八。薛裏溫你里溫オトクチ(斡脱忽赤)哈剌鐵木兒。哈思罕地僧家奴。玉你伯牙断頭山百戸哈只。

一、玉你伯牙などの処御位下:玉你伯牙地ハラチ百戸忽兒禿哈・兀都蠻・燕鐵木兒・暗出忽兒・也先禿滿・玉龍鐵木兒・月思哥・明里不蘭。

大オルド位下:乞剌里郭羅赤馬某ら。哈里牙兒苟赤別鐵木兒。伯只剌苟赤阿藍答兒。阿察兒伯顏苟赤教化的ら。塔魯内亦兒哥赤・塔里牙赤ら。伯只剌阿塔赤忽兒禿哈。桃山太師月赤察兒分出鐵木兒ら。伯顏只魯干阿塔赤禿忽魯ら。玉你伯牙奴禿赤・火你赤。

一、哈剌木連などの処御位下:阿失溫忽都地八都兒。希徹禿地吉兒䚟。哈察木敦。火石脳兒哈塔・咬羅海牙・撒的。換撒里真按赤哈答。須知忽都ハラチ別乞。軍脳兒ハラチ火羅思。玉龍䩞徹。雲内州拙里牙赤昌罕。察罕脳兒欠昔思。棠樹兒安魯罕。石頭山禿忽魯。牙不罕你里溫脱脫木兒。開成路黒水河不花。

大オルド位下:完者。

一、阿剌忽馬乞などの処御位下:阿剌忽馬乞地ハラチ百戸按不憐・乾鐵哥・火石鐵木兒・末赤・卯罕・不蘭奚・孛羅罕。怯魯連地ハラチ千戸床八失、百戸怯兒的・小薛干・別鐵列不作・孛羅・串都・也速・典列・坦的里・也里迷失・忙兀䚟。斡難地蘭盞兒・未者・哈只不花ら。

大オルド(大斡耳朵)の配下:アラクマキ・アンフイ(阿剌忽馬乞按灰)ら。コク(闊苦)の地のコチギン(闊赤斤)ら。

一、オギン川(斡斤川)等の地の御配下:オギン川の地のカラチ(哈剌赤)千戸ユエル(月魯)、アラテムル(阿剌鐵木兒)、タタタチャル(塔塔塔察兒。拙里牙赤オロスン(斡羅孫)、マタハルハ(馬塔哈兒哈)の地のカラチ千戸タンシ(當失)、エンフリ(燕忽里)、ホンチャイタイナン(歡差太難。コク(闊闊)の地のウヌフチ(兀奴忽赤)マングダイ(忙兀䚟。ケルレン(怯魯連)のバラハチ(八剌哈赤)バルマス(八兒麻思)。

大オルド(大斡耳朵)の配下:マタハルハ(馬塔哈兒哈)ケレン(怯連)の口ジルハフ(只兒哈忽)。

一、アチャトブハン(阿察脫不罕)等の地の御配下:アチャトブハンの地のハチシュナ(哈赤守納。オチュアン(斡川)のジャマシ(札馬)のボチ(寶赤)マンゲサル(忙哥撒兒。ホロハン(火羅罕)のアンチトフチ(按赤禿忽赤。成海の後のホイハン(火義罕)タルハン(塔兒罕)、アンチエセン(按赤也先。フアンウアルブラ(黄兀兒不剌)のアンチモエルゲ(按赤未兒哥)、フリンシ(忽林失。インリゲ(應里哥)の地のアンチハダン(按赤哈丹)、フタイミシ(忽台迷失。インギリエグ(應吉列古)のカラチブル(哈剌赤不魯。イルフンチャシ(亦兒渾察西)のカラチ。ダランスル(答蘭速魯)のカラチバジギル(哈剌赤八只吉兒。ハルハスンブラ(哈兒哈孫不剌)のカラチアルト(哈剌赤阿兒禿)。

大オルド(大斡耳朵)の配下:ケルレン(怯魯連)のホニチ(火你赤)タラハイ(塔剌海)。

一、甘州等の地の御配下:口千子(口千子)のカラブハ(哈剌不花)一箇所。オルチ(奧魯赤)一箇所。アラシャアラン山(阿剌沙阿蘭山)のウドマン(兀都蠻。イブラキン(亦不剌金)一箇所。クァンチェガン(寬徹干。タタアン(塔塔安)の地のプアン(普安。勝回の地の劉子総管。コクス(闊闊思)の地のタイテムル(太鐵木兒)ら。甘州等の地のヤンジュプ(楊住普。ボケレン(撥可連)の地のサルギス(撒兒吉思。ジハトゥン(只哈禿)の屯田地のアントン(安童)一箇所。カラバンクト(哈剌班忽都)のチョリヤチ(拙里牙赤)エルメイ(耳眉)。

一、左手(東方)永平等の地の御配下:永平の地のカラチ(哈剌赤)千戸六十。楽亭の地のチョリヤチ(拙里牙赤)、アドチ(阿都赤)、ダラチ(答剌赤)ミリミシ(迷里迷失)、イルゲチ(亦兒哥赤)マモサルダ(馬某撒兒答。香河のアンチ(按赤)ディンジュ(定住)、イマチ(亦馬赤)スゲテムル(速哥鐵木兒。河西務のアイヤチ(愛牙赤)ボロダイ(孛羅䚟。漷州のカラチトフチャ(哈剌赤脫忽察。桃花島の青(昔寶赤)チバン(赤班)ら。

大オルド(大斡耳朵)の配下:河西務のユティチ(玉提赤)百戸マジャル(馬札兒)。

一、右手(西方)固安州の四ケシク(怯薛)のバラハチ(八剌哈赤)平章ナワイ(那懷)を長とする:固安州のカラチトフチャ(哈剌赤脫忽察)、ハチフリハチ(哈赤忽里哈赤)、アンチブドル(按赤不都兒。真定のシボチ(昔寶赤)トクト(脫脫。左えいのカラチタブダイ(哈剌赤塔不䚟。青州のカラチアハブハ(哈剌赤阿哈不花。涿州のカラチブルハス(哈剌赤不魯哈思)。

一、雲南のイイブシエ(亦奚卜薛)テムルブハ(鐵木兒不花)を長とする。

一、蘆州。

一、益都のカラチ(哈剌赤)フドテムル(忽都鐵木兒)。

一、ホリトマ(火里禿麻)のタイシェンフル(太勝忽兒)を長とする。

一、高麗の耽羅。

屯田。

古くは兵を農に寓せしむ。漢・魏より下りて、始めて屯田を置きて守辺の計と為す。国を有つ者其の法を用いるに善ければ、則ち亦た兵を養い民を息わすの要道なり。国初、兵を用いて征討し、堅城大敵に遇えば、則ち必ず屯田して以て之を守る。海内既に一たび、ここに於いて内に各衛、外に行省、皆屯田を立て、以て軍餉を資す。或いは古の制に因り、或いは地の宜に以てす。其の慮り蓋し甚だ詳密なり。大抵芍陂・洪澤・甘・粛・瓜・沙は、昔人の制に因る。其の地利蓋し旧に減ぜず。和林・陝西・四川等地は、則ち地の宜に因りて始めて之を為し、亦た未だ嘗て其の利を遺さず。雲南八番、海南・海北に至りては、屯田の所に非ざれども、而も蛮夷の腹心の地と為すを以て、則ち又た兵を制し旅を屯して以て之を控扼す。ここに由りて天下に屯すべからざる兵無く、耕すべからざる地無し。今故に其の建置増損の概を著し、而して内外の轄する所の軍民屯田、各以て次に列す。

枢密院の轄する所

左衛屯田:世祖中統三年三月、枢密院の二千人を調発し、東安州の南、永清県の東の荒土及び本衛の元占むる牧地に於いて、屯を立てて開耕し、左右手屯田千戸所を分置し、軍二千名、田一千三百十頃六十五畝と為す。

右衛屯田:世祖中統三年三月、本衛の軍二千人を調発し、永清・益津等の処に於いて屯を立てて開耕し、左右手屯田千戸所を分置す。其の屯軍田畝の数は、左衛と同じ。

中衛屯田:世祖至元四年、武清・香河等の県に於いて置立す。十一年、各屯の地界相去ること百余里、往来耕作不便なるを以て、河西務・荒荘・楊家口・青台・楊家白等の処に遷す。其の屯軍の数は左衛と同じ、田一千三十七頃八十二畝と為す。

前衛屯田:世祖至元十五年九月、各省の軍人備侍衛する者を以て、覇州・保定・涿州の荒閑地土に於いて屯種し、左右手屯田千戸所を分置す。屯軍は左衛と同じ、田一千頃と為す。

後衛屯田:置立の歳月は前衛と同じ。後に永清等の処の田畝低下なるを以て、昌平県の太平荘に遷す。泰定三年五月、太平荘は乃ち世祖の経行の地、営盤の所在、春秋往来し、衛士の頭匹を牧放す、漢軍と屯を立つるに宜しからずと為し、遂に之を罷め、旧に立つる屯所に止まり、耕作旧に如し。屯軍は左衛と同じ、田一千四百二十八頃十四畝と為す。

武衛屯田:世祖至元十八年、迤南の軍人三千名を発し、涿州・覇州・保定・定興等の処に於いて屯田を置立し、広備・万益等六屯を分設し、別に農政院を立てて以て之を領せしむ。二十二年、農政院を罷めて司農寺と為し、自後民と相参して屯種す。二十五年、別に屯田万戸府を立て、屯種の軍人を分管す。二十六年、屯軍を武衛親軍都指揮使司に属し、兼ねて屯田事を領せしむ。仁宗皇慶元年、衛率府に改属し、後に復た之を武衛に帰す。英宗至治元年、広備・利民二千戸軍人の耕する地土を以て、左衛率府忙古䚟屯田千戸所と互いに更易するを命ず。屯軍三千名、田一千八百四頃四十五畝と為す。

左翼屯田万戸府:世祖至元二十六年二月、蒙古侍衛軍の従人の屯田する者を罷め、別に斡端・別十八里より回還の漢軍及び大名・衛輝両翼の新附軍を以て、前・後二衛迤東の還戍士卒と合併して屯田し、左・右翼屯田万戸府を設けて以て之を領せしむ。遂に大都路覇州及び河間等の処に於いて屯を立てて開耕し、漢軍左右手二千戸・新附軍六千戸所を置き、軍二千五十一名、田一千三百九十九頃五十二畝と為す。

右翼屯田万戸府:其の置立の歳月は左翼と同じ。成宗大徳元年十一月、真定の軍人三百名を発し、武清県崔黄口に於いて増置して屯田す。仁宗延祐五年四月、衛率府を立て、本府の屯田を併せて詹事院に属せしめ、後に復た之を枢密に帰し、漢軍千戸所三を分置し、別に新附軍千戸所一を置き、軍一千五百四十人、田六百九十九頃五十畝と為す。

忠翊侍衛屯田:世祖至元二十九年十一月、各万戸府に命じ、大同・隆興・太原・平陽等の処の軍人四千名を摘発し、燕只哥赤斤の地面及び紅城周迴に於いて屯田を置立し、荒田二千頃を開耕せしめ、仍て西京宣慰司に命じて其の事を領せしめ、後に改めて大同等処屯儲万戸府を立てて以て之を領せしむ。成宗大徳十一年、侍衛親軍都指揮使司に改め、仍て屯田を領す。武宗至大四年、黄華嶺の新附屯田軍一千人を併せて本衛に帰し、別に屯署を立つ。是の年、大同侍衛を中都威衛に改め、之を徽政院に属し、屯軍二千を分けて弩軍翼を置き、止めて二千人を以て左右手屯田千戸所を分置し、黄華嶺の新附軍屯は旧に如し。仁宗延祐二年、紅城の屯軍を古北口・太平荘に遷して屯種す。五年、復た中都威衛の軍八百人を簽し、左都威衛の轄する所の地内に於いて、別に屯署を立つ。七年十二月、左都威衛及び太平荘・白草営等の処の屯田を罷め、復た紅城周迴に於いて屯を立て、仍て中都威衛に属す。英宗至治元年、始めて忠翊侍衛に改め、屯田は旧に如し、田二千頃と為す。後に屯所を移置す、其の数を知らず。

左・右欽察衛屯田:世祖至元二十四年、本衛の軍一千五百十二名を発し、左右手屯田千戸所及び欽察屯田千戸所を分置し、清州等の処に於いて屯田す。英宗至治二年、始めて左・右欽察衛を分ち、左右手屯田千戸所を以て分属せしむ。文宗天暦二年、龍翊侍衛を創立し、復た之に隷せしむ。軍は左手千戸所七百五名、右手千戸所四百三十七名、欽察千戸所八百名。田は左手千戸所一百三十七頃五十畝、右手千戸所二百十八頃五十畝、欽察千戸所三百頃。

左衛率府屯田:武宗至大元年六月、大都路漷州武清県及び保定路新城県に於いて屯田を置立するを命ず。英宗至治元年、武衛と左衛率府の屯田地界、相離隔絶し、耕作不便なるを以て、両衛の屯地を以て互いに更易するを命じ、三翼屯田千戸所を分置し、軍三千人、田一千五百頃と為す。

宗仁衛屯田:英宗至治二年八月、五衛の漢軍二千人を発し、大寧等の処に於いて屯田を創立し、両翼屯田千戸所を分置し、田二千頃と為す。

宣忠扈衛屯田:文宗至順元年十二月、収聚し終えた一万のオロス人を命じ、地百頃を与え、宣忠扈衛親軍万戸府屯田を立て、宗仁衛の例に依る。

大司農司の管轄するもの

永平屯田総管府:世祖至元二十四年八月、北京の材木を採る百姓三千余戸を以て、灤州に屯を立て、官署を設けてその事を領せしむ。戸三千二百九十、田一万一千六百十四頃四十九畝。

営田提挙司:その建置の始め詳らかならず、その設立する処は大都漷州の武清県に在り。戸は軍二百五十三、民一千二百三十五、析居放良四百八十、不蘭奚二百三十二、火者一百七十口、独居不蘭奚一十二口、黒瓦木丁八十二名、田三千五百二頃九十三畝。

広済署屯田:世祖至元二十二年正月、崔黄口の空城屯田は、歳ごとに涝害で収穫なく、清・滄等の処に遷す。後に大司農寺が尚珍署の旧領する屯夫二百三十戸をこれに帰属せしめ、既にしてまた済南・河間の五百五十戸、平灤・真定・保定三路の屯夫四百五十戸を遷し、併せて本屯に入る。戸合わせて一千二百三十、田一万二千六百頃三十八畝。

宣徽院の管轄するもの

淮東淮西屯田打捕総管府:世祖至元十六年、民を募り漣・海州の荒地を開耕せしむ。官は禾種を与え、自ら牛具を備え、得たる子粒は官十の四を得、民十の六を得、仍って屯戸の徭役を免ず。屡々中廃せんと欲するも果たさず。二十七年、管轄する提挙司十九処を併せて十二と為す。その後再び併合し、止むる処八処を設く。戸一万一千七百四十三、田一万五千一百九十三頃三十九畝。

豊閏署:世祖至元二十二年、大都路薊州の豊閏県に創立す。戸八百三十七、田三百四十九頃。

宝坻屯:世祖至元十六年、大都の属邑の編民三百戸を簽し、大都の宝坻県に屯を立てる。田四百五十頃。

尚珍署:世祖至元二十三年、済寧路の兗州に置立す。戸四百五十六、田九千七百十九頃七十二畝。

腹裏の管轄する軍民屯田

大同など処の屯儲総管屯田:成宗大徳四年、西京黄華嶺など処の田土頗る広きを以て、軍民九千余人を発し、屯を立て開耕す。六年、始めて屯儲軍民総管万戸府を設く。十一年、漢軍を放罷して紅城の屯所に還し、止むる処民夫を屯に存す。仁宗の時、万戸府を改めて総管府と為す。戸は軍四千二十、民五千九百四十五、田五千頃。

虎賁親軍都指揮使司屯田:世祖至元十七年十二月、月児魯官人言う、「近く滅捏怯土・赤納赤・高州・忽蘭若班など処に駅伝を改置す。臣等議う、旧き駅所に置くところに屯田を設立すべし」。これに従う。二十八年、虎賁親軍二千人を発して屯に入る。二十九年、軍一千を増し、凡そ三十四屯を立て、上都に司を置く。軍三千人、佃戸七十九、田四千二百二頃七十九畝。

嶺北行省屯田

世祖至元二十一年、和林の阿剌䚟の元領する軍一千人を五条河に併入す。成宗元貞元年、六衛の漢軍一千名を摘発し、称海に赴きて屯田す。大徳三年、五条河の漢軍を悉く称海に併入す。仁宗延祐三年、称海の屯田を罷め、復た五条河に屯を立てる。六年、蒙古軍五千人を分揀し、復た称海に屯田す。七年、命じて世祖の旧制に依り、称海・五条河ともに屯田を設け、軍一千人を発して五条河に屯を立てしむ。英宗の時、屯田万戸府を立てる。戸四千六百四十八、田六千四百余頃。

遼陽等処行中書省の管轄する屯田

大寧路海陽等処打捕屯田所:世祖至元二十三年、大寧・遼陽・平灤諸路において、漏籍・放良・孛蘭奚の人戸及び僧道で還俗した者を拘刷し、瑞州の西の海に臨む荒地に屯を立てて開墾させ、打捕屯田総管府を設置した。成宗大徳四年、これを廃止し、ただ打捕屯田所を立てるのみとし、戸数は元来撥付され及び召募した者合わせて百二十二、田は二百三十頃五十畝であった。

浦峪路屯田万戸府:世祖至元二十九年十月、蛮軍三百戸・女直一百九十戸を以て、咸平府において屯種させた。三十年、本府の万戸和魯古䚟に命じてその事を統轄させ、なお茶剌罕・剌憐等処に屯を立てた。三十一年、万戸府の屯田を廃止した。仁宗大徳二年、蛮軍三百戸を肇州蒙古万戸府に撥属させ、ただ女直一百九十戸を残し、旧来の通りに屯を立て、田は四百頃であった。

金復州万戸府屯田:世祖至元二十一年五月、新附軍一千二百八十一戸を発し、忻都察において屯田を置き立てた。二十六年、京師で役務に就く新附軍一千人を分け、哈思罕関東の荒地で屯田させた。三十年、玉龍帖木児・塔失海牙両万戸の新附軍一千三百六十戸を以て、金復州に併入し、屯を立てて耕作させ、戸数は三千六百四十一、田は二千五百二十三頃であった。

肇州蒙古屯田万戸府:成宗元貞元年七月、乃顔の不魯古赤及び打魚水達達・女直等の戸を以て、肇州の傍近の地で開墾させ、戸数は不魯古赤二百二十戸、水達達八十戸、帰附軍三百戸、後に増加した漸丁五十二戸であった。

河南行省の管轄する軍民屯田

南陽府民屯:世祖至元二年正月、詔して孟州の東、黄河の北、南は八柳樹・枯河・徐州等処に至るまでの、凡そ荒閑の地土は、阿朮・阿剌罕等の統領する士卒に命じて屯を立てて耕種させ、かつ各万戸の管轄する漢軍を摘出して屯田させるべしとした。六年、襄樊攻撃の軍餉が不足したため、南京・河南・帰徳諸路の編民二万余戸を発し、唐・鄧・申・裕等処に屯を立てた。八年、元の屯戸を散還させ、別に南陽の諸色戸計を簽し、営田使司を立ててこれを統轄させたが、まもなく廃止し、南陽屯田総管府に改めて立てた。後にまた廃止し、ただ有司に隷属させ、戸数は六千四十一、田は一万六百六十二頃七畝であった。

洪沢万戸府屯田:世祖至元二十三年、洪沢南北三屯を立て、万戸府を設置してこれを統轄させた。先に江淮行省が言上した。「国家の経費は、糧儲が急務である。今、屯田の利益は両淮に過ぐるものはなく、況んや芍陂・洪沢は皆、漢・唐の旧時に嘗て屯を立てた地である。もし江淮の新附漢軍に屯田させれば、歳に糧百五十余万石を得ることができよう。」ここに至りこれに従った。三十一年、三屯万戸を廃止し、ただ洪沢屯田万戸府を立ててこれを統轄させた。その置立した処所は、淮安路の白水塘・黄家疃等処にあり、戸数は一万五千九百九十四名、田は三万五千三百一十二頃二十一畝であった。

芍陂屯田万戸府:世祖至元二十一年二月、江淮行省が言上した。「安豊の芍陂は田一万余頃を灌漑することができる。乞うらくは三万人を置いて屯を立てんことを。」中書省が議して言う。「軍士二千人を発し、姑くこれを試み行わしむべし。」後に屯戸は一万四千八百八名に至った。

徳安等処軍民屯田総管府:世祖至元十八年、各翼から取立てた漢軍及び諸路で拘収した手号新附軍を以て、十屯に分置し、屯田万戸府を立てた。三十一年、総管府に改めて立て、民は九千三百七十五名、軍は五千九百六十五名、田は八千八百七十九頃九十六畝であった。

陝西等処行中書省の管轄する軍民屯田

陝西屯田総管府:世祖至元十一年正月、安西王府の管轄する編民二千戸を以て、櫟陽・涇陽・終南・渭南に屯田を立てた。十八年、屯田所を立てた。十九年、軍站屯戸を拘収して怯憐口戸計とした者で、放還されて帰る所なき者を、屯戸に籍し、安西・平涼に屯田を立て、提領所を設けてこれを統轄させた。二十九年、鳳翔・鎮原・彭原に屯田を立て、至元十年に簽した成都・延安への接応軍人を放罷し、民屯を置き立て、屯田所を設立したが、まもなく軍屯に改め、千戸所に管領させた。三十年、再び民屯に改め、戸数は鳳翔一千一百二十七戸、鎮原九百一十三戸、櫟陽七百八十六戸(後に六百五十戸を存す)、涇陽六百九十六戸(後に六百五十八戸を存す)、彭原一千二百三十八戸、安西七百二十四戸(後に二百六十二戸を存す)、平涼二百八十八戸、終南七百七十一戸(後に七百一十三戸を存す)、渭南八百一十一戸(後に七百六十六戸を存す)であった。田は鳳翔九十頃十二畝、鎮原四百二十六頃八十五畝、櫟陽一千二十頃九十九畝、涇陽一千一十頃九十九畝、彭原五百四十五頃六十八畝、安西四百六十七頃七十八畝、平涼一百一十五頃二十畝、終南九百四十三頃七十六畝、渭南一千二百二十二頃三十一畝であった。

陝西等処万戸府屯田:世祖至元十九年二月、盩厔の南の官有荒地を以て、帰附軍を発し、孝子林・張馬村に軍屯を立てた。二十年、南山の把口子を巡哨する軍人八百戸を以て、盩厔県の杏園荘・寧州の大昌原で屯田させた。二十一年、文州の鎮戍新附軍九百人を発し、亜柏鎮に軍屯を立て、また燕京の戍守新附軍四百六十三戸を以て、徳順州の威戎に屯を立てて開墾させた。戸数は孝子林屯三百一戸、張馬村屯三百一十三戸、杏園荘屯二百三十三戸、大昌原屯四百七十四戸、亜柏鎮屯九百戸、威戎屯四百六十三戸であった。田は孝子林二十三頃八十畝、張馬村七十三頃八十畝、杏園荘一百一十八頃三十畝、大昌原一百五十八頃七十九畝、亜柏鎮二百六十八頃五十九畝、威戎一百六十四頃八十畝であった。

貴赤延安総管府屯:世祖至元十九年、贖身・放良・不蘭奚及び漏籍の戸計を拘収し、延安路の探馬赤草地で屯田させ、戸数は二千二十七、田は四百八十六頃であった。

甘粛等処行中書省の管轄する軍民屯田

寧夏等処新附軍万戸府屯田:世祖至元十九年三月、南より新附軍一千三百八十二戸を発し、寧夏等処に往きて屯田す。二十一年、塔塔裏千戸所管軍人九百五十八戸を遣わして屯田せしめ、田一千四百九十八頃三十三畝と為す。

管軍万戸府屯田:世祖至元十八年正月、命じて肅州・沙州・瓜州に屯田を置立せしむ。先ず是れ、都元帥劉恩を遣わして肅州諸郡に往かしめ、地の宜しき所を視せしむ。恩還りて言う、屯田を立つるに宜しと。遂に之に従う。軍を発して甘州黒山子・満峪・泉水渠・鴨子翅等処に屯を立て、戸二千二百九十と為し、田一千一百六十六頃六十四畝と為す。

寧夏営田司屯田:世祖至元八年正月、己未年随州・鄂州投降人民一千一百七戸を簽発し、中興に往きて居住せしむ。十一年、編して屯田戸と為し、凡そ二千四百丁。二十三年、漸丁を続簽し、三百人を得、田一千八百頃と為す。

寧夏路放良官屯田:世祖至元十一年、安撫司の請いに従い、招收放良人民九百四戸を以て、編聚して屯田と為し、田四百四十六頃五十畝と為す。

亦集乃屯田:世祖至元十六年、帰附軍人を甘州に調す。十八年、以て屯田軍に充つ。二十二年、甘州新附軍二百人を遷し、亦集乃合即渠に往きて開種せしめ、田九十一頃五十畝と為す。

江西等処行中書省所轄屯田

贛州路南安寨兵万戸府屯田:成宗大徳二年正月、贛州路の轄する信豊・会昌・龍南・安遠等処、賊人出没するを以て、寨兵及び宋旧役弓手を発し、抄数漏籍人戸と、屯を立てて耕守せしめ、以て之を鎮遏す。戸三千二百六十五と為し、田五百二十四頃六十八畝と為す。

江浙等処行中書省所轄屯田

汀・漳屯田:世祖至元十八年、福建調軍糧儲費用するを以て、腹裏の例に依り、屯田を置立し、命じて管軍総管鄭楚等に、鎮守士卒の年老いて征戦に備え難き者を発せしめ、百十四人を得、又南安等県居民一千八百二十五戸を募り、屯を立てて耕作せしむ。成宗元貞三年、命じて南詔・黎・畬に各々屯田を立て、見戍軍人を摘撥し、毎屯一千五百名を置き、及び将に招く所の陳弔眼等余党を屯に入れ、軍人と相参して耕種せしむ。戸は汀州屯一千五百二十五名、漳州屯一千五百一十三名と為す。田は汀州屯二百二十五頃、漳州屯二百五十頃と為す。

高麗国立屯

高麗屯田:世祖至元七年創立す。是の時日本を東征し、糧餉を積み、進取の計と為さんと欲し、遂に王綧・洪茶丘等の管する高麗戸二千人及び中衞軍二千人を発し、婆娑府・咸平府軍各一千人を合せ、王京東寧府・鳳州等一十処に、屯田を置立し、経略司を設けて以て其の事を領せしむ。毎屯軍五百人を用う。

四川行省所轄軍民屯田二十九処

広元路民屯:世祖至元十三年、利州路元帥の言に従い、広元は実に東西両川の要衝にして、支給浩繁なり。係官田畝を經理し、九頃六十畝を得。遂に褒州に刷到せる無主人口を以て、偶配して十戸と為し、屯を立て開種す。十八年、新得州編民七十七戸を発して屯田せしめ、戸合わせて八十七と為す。

敍州宣撫司民屯:世祖至元十一年、命じて西しょく四川経略使に屯田を起立せしむ。十五年、長寧軍・富順州等処編民四百七十五戸を簽し、屯を立て耕種せしむ。十九年、一百六十戸を続簽す。二十年、敍州に民一千九百戸を簽す。二十五年、富順州復た民六百八戸を簽し、旧屯に増入す。二十七年、勘を取って屯戸を析出し、二百八十四を得。成宗元貞二年、復た站戸一千一十七戸を放罷し、旧に依りて屯田す。総じて之を戸四千四百四十四と為す。

紹慶路民屯:世祖至元十九年、本路未当差民戸内に於て、二十三戸を簽し、屯田を置立す。二十年、彭水県籍管万州寄戸内に於て、二十戸を簽撥す。二十一年、彭水県未当差民戸三十二戸を簽し増入す。二十六年、屯戸貧乏なる者多く負逋す。復た彭水県編民一十六戸を簽し之を補う。戸九十一と為す。

嘉定路の民屯:世祖至元十九年、亡宋の編民四戸を徴発し、屯田を設置した。成宗元貞元年、成都の義士軍八戸を割き増員した。戸数は十二戸。

順慶路の民屯:世祖至元十二年、順慶の民三千四百六十八戸を徴発し、屯田を設置した。十九年、更に民戸内から一千三百三十六戸を差し出させ民屯を設置した。二十年、更に二百十二戸を徴発し増員した。総計五千十六戸。

潼川府の民屯:世祖至元十一年、本府の編民及び義士軍二千二百二十四戸を徴発し、屯田を設置した。十三年、更に民一百四十二戸を徴発した。二十一年、行省が使者を遂寧府に遣わし、監夫の老弱廃疾なる者を選び、四十六戸を得て、徴発して屯戸に充当した。総計二千四百十二戸。

夔路総管府の民屯:世祖至元十一年に設置し、累次本路の編民を徴発して五千二十七戸に至り、続いて新附軍内から老弱五十六戸を徴発し増員した。

重慶路の民屯:世祖至元十一年に設置し、累次江津・巴県・瀘州・忠州等の処で、編民二千三百八十七戸を徴発割り当てし、併せて募集により、総計三千五百六十六戸。

成都路の民屯:世祖至元十三年、陰陽人四十戸を徴発し、屯糧を納めさせた。二十二年、続いて瀘州の編民九十七戸を徴発し、屯田戸に充当した。三十一年、続いて千戸高徳の管轄する民十四戸を徴発した。

保寧万戸府の軍屯:世祖至元二十六年、保寧府が言上した。「本管の軍人は、一戸に二丁三丁あり、父兄子弟が相次いで役に応じるのは、実に重複しており、もしまた成都に遷して屯種させれば、家を離れて遠く隔たり、逃亡隠匿する者が必ず多い。乞うらくは、本府の在営の士卒及び夔路の守鎮軍人に、保寧の沿江に限って屯種させられたい。」これを聞き入れた。軍一千二百名を徴発した。二十七年、屯軍一百二十九人を派遣し、万戸也速迭児に従って西征させ、別に漸丁軍人を徴発して屯田に入れ、戸数一千三百二十九名、田数一百十八頃二十七畝。

敍州等処万戸府の軍屯:成宗元貞二年、敍州軍屯と改めて設置し、遂寧の屯軍二百三十九人を遷し、敍州宣化県の喁口上下の荒地で開墾させ、田数四十一頃八十三畝。

重慶五路守鎮万戸府の軍屯:仁宗延祐七年、軍一千二百人を派遣し、重慶路の三堆・中嶆・趙市等の処で屯耕させ、田数四百二十頃。

夔路万戸府の軍屯:世祖至元二十一年、四川行省の議に従い、辺境の要地を除いて軍を分けて鎮守させ、余軍一万人に、命官が成都諸処で膏腴の地を選び、屯田を設置して開墾させ、戸数三百五十一人、田数五十六頃七十畝、凡そ十四屯を創立した。

成都等路万戸府の軍屯:本路崇慶州義興郷の楠木園に設置し、戸数二百九十九人、田数四十二頃七十畝。

河東陝西等路万戸府の軍屯:灌州の青城・陶壩及び崇慶州の大柵頭等の処に設置し、戸数一千三百二十八名、田数二百八頃七畝。

広安等処万戸府の軍屯:成都路崇慶州の七宝壩に設置し、戸数一百五十名、田数二十六頃二十五畝。

保寧万戸府の軍屯:崇慶州晋原県の金馬に設置し、戸数五百六十四名、田数七十五頃九十五畝。

敍州万戸府の軍屯:灌州の青城に設置し、戸数二百二十一名、田数三十八頃六十七畝。

五路万戸府軍屯:成都路崇慶州の大柵鎮孝感郷及び灌州青城県の懐仁郷に設置され、戸数は一千百六十一名、田地は二百三頃十七畝。

興元金州等処万戸府軍屯:崇慶州晋原県孝感郷に設置され、戸数は三百四十四名、田地は五十六頃。

随路八都万戸府軍屯:灌州青城県・温江県に設置され、戸数は八百三十二名、田地は百六十二頃五十七畝。

旧附等軍万戸府軍屯:灌州青城県・崇慶州等処に設置され、戸数は一千二名、田地は百二十九頃五十畝。

砲手万戸府軍屯:灌州青城県龍池郷に設置され、戸数は九十六名、田地は十六頃八十畝。

順慶軍屯:晋原県義興郷・江源県将軍橋に設置され、戸数は五百六十五名、田地は九十八頃八十七畝。

平陽軍屯:灌州青城県・崇慶州大柵頭に設置され、戸数は三百九十八名、田地は六十九頃六十五畝。

遂寧州軍屯:戸数は二千名、田地は三百五十頃。

嘉定万戸府軍屯:世祖至元二十一年、蒙古・漢軍及び嘉定新附軍三百六十人を抜き出し、崇慶州・青城等処で屯田を行わせた。二十八年、元の翼に帰還させ、残った屯軍は僅か十三名、田地は二頃二十七畝。

順慶等処万戸府軍屯:世祖至元二十六年、軍を発して沿江下流の漢初等処で屯種させ、戸数は六百五十六名、田地は百十四頃八十畝。

広安等処万戸府軍屯:世祖至元二十七年、広安の旧附漢軍百十八名を割り当て、新明等処に屯を立て開墾させ、田地は二十頃六十五畝。

雲南行省の管轄する軍民屯田十二箇所

威楚提挙司屯田:世祖至元十五年、威楚提挙塩使司において漏籍人戸を拘刷して民屯に充て、本司がその事を管轄した。中原の制度とは異なり、戸数は三十三、田地は百六十五双。

大理金歯等処宣慰司都元帥府軍民屯:世祖至元十二年、管轄州県において漏籍人戸を拘刷し、二千六十六戸を得て屯田を設置した。十四年、本府の編民四百戸を簽してこれを補った。十八年、永昌府の編民千二百七十五戸を続けて簽して増員した。二十六年、大理軍屯を立て、爨僰軍の中から二百戸を抜き出した。二十七年、さらに爨僰軍人二百八十一戸を簽して増員した。二十八年、続けて百十九戸を増加した。総計で民屯三千七百四十一戸、軍屯六百戸、田地は軍民の己業で二万二千百五双。

鶴慶路軍民屯田:世祖至元十二年、鶴慶路の編民百戸を簽して民屯を立てた。二十七年、爨僰軍百五十二戸を簽して軍屯を立てた。田地は軍屯六百八双、民屯四百双、いずれも己業である。

武定路総管府軍屯:世祖至元二十七年、雲南の戍軍の糧餉が不足するため、和曲・禄勧二州の爨僰軍の中より、一百八十七戸を徴発し、屯を立てて耕作させ、田七百四十八双を得た。

威楚路軍民屯田:世祖至元十二年、威楚民屯を立て、本路の漏籍人戸を拘刷し、一千一百一戸を得た。内八百六十六戸には官が無主荒田四千三百三十双を与え、余りの戸は自備の己業田一千一百七十五双を有した。二十七年、初めて屯軍を立て、本路の爨僰軍内より三百九十九戸を徴発し、内一十五戸には官が荒田六十双を与え、余りの戸は自備の己業田一千五百三十六双を有した。

中慶路軍民屯田:世祖至元十二年、中慶民屯を設置し、所属州県内で漏籍人戸を拘刷し、四千一百九十七戸を得た。官が田一万七千二十二双を与え、自備の己業田二千六百二双を有した。二十七年、初めて軍屯を立て、爨僰軍人七百九戸を用い、官が田二百三十四双を与え、自備の己業田二千六百一双を有した。

曲靖等処宣慰司兼管軍万戸府軍民屯田:世祖至元十二年、曲靖路民屯を立て、管轄する州郡の諸色漏籍人戸七百四十戸を拘刷して屯を立てた。十八年、民一千五百戸を追加徴発して増員し、その耕作する田は、官が一千四百八十双を与え、自備の己業田三千双を有した。十二年、澂江民屯を立て、徴発した屯戸は曲靖と同じく、凡そ一千二百六十戸である。二十六年、初めて軍屯を立て、爨僰軍内より一百六十九戸を徴発した。二十七年、更に二百二十六戸を徴発して増員した。十二年、仁徳府民屯を立て、徴発した屯戸は澂江と同じく、凡そ八十戸で官が田一百六十双を与えた。二十六年、初めて軍屯を立て、爨僰軍四十四戸を徴発した。二十七年、更に五十六戸を徴発して増員し、耕作する田畝四百双は、全て軍人の己業に属する。

烏撒宣慰司軍民屯田:世祖至元二十七年、烏撒路軍屯を立て、爨僰軍一百一十四戸をもって屯田させた。また東川路民屯を立て、屯戸も爨僰軍人に係り、八十六戸で、皆自備の己業を有した。

臨安宣慰司兼管軍万戸府軍民屯田:世祖至元十二年、臨安民屯二箇所を立て、いずれも所属州県において漏籍人戸を拘刷して開墾させた。宣慰司の管轄する民屯三百戸、田六百双。本路の管轄する民屯二千戸、田三千四百双。二十七年、爨僰軍屯を継続して立て、戸数二百八十八、田一千一百五十二双。

梁千戸翼軍屯:世祖至元三十年、梁王が使者を雲南行省に遣わし言わせるには、漢軍一千人をもって屯田を設置したいと。三十一年、三百人を発して鎮戍巡邏に備えさせ、残る七百人をもって烏蒙で屯田し、後に新興州に移転し、田三千七百八十九双を得た。

羅羅斯宣慰司兼管軍万戸府軍民屯田:世祖至元二十七年、会通民屯を立て、屯戸は爨僰土軍二戸に係る。十六年、建昌民屯を立て、編民一百四戸を割り当てた。二十三年、爨僰軍一百八十戸を発し、軍屯を立てた。この年、また会川路民屯を立て、本路の管轄する州邑の編民四十戸を発した。十六年、徳昌路民屯を立て、編民二十一戸を発した。二十年、初めて軍屯を立て、爨僰軍人一百二十戸を発した。

烏蒙等処屯田総管府軍屯:仁宗延祐三年、烏蒙軍屯を立てた。先に雲南行省が言うには、「烏蒙は雲南の咽喉の地であり、別に屯戍の軍馬がなく、その地は広闊で、土壌は肥沃であり、皆古昔の屯田の跡がある。畏吾児及び新附の漢軍を発して屯田させ、鎮圧させたい。」ここに至りこれに従った。戸数は軍五千人、田一千二百五十頃。

湖広等処行中書省の管轄する屯田三箇所

海北海南道宣慰司都元帥府民屯:世祖至元三十年、民戸を募集し併せて新附士卒を発し、海南・海北等処に屯田を設置した。成宗元貞元年、その地は瘴癘が多いため、屯田軍二千人を各翼に還し、二千人を留め募集した民とともに屯種させた。大徳三年、屯田万戸府を廃し、屯軍は全て役務に還し、ただ民戸八千四百二十八戸に屯田させた。瓊州路五千一十一戸、雷州路一千五百六十六戸、高州路九百四十八戸、化州路八百四十三戸、廉州路六十戸。田は瓊州路二百九十二頃九十八畝、雷州路一百六十五頃五十一畝、高州路四十五頃、化州路五十五頃二十四畝、廉州路四頃八十八畝。

広西両江道宣慰司都元帥撞兵屯田:成宗大徳二年、黄聖許が叛き、交趾に逃れ、水田五百四十五頃七畝を遺棄した。部民に呂瑛という者がおり、牧蘭等処及び融慶渓洞の徭・撞の民丁を募り、上浪・忠州諸処で屯を開き耕作させることを言上した。十年、大任洞の賊黄徳寧等を平定し、その地の遺棄した田土をもって、藤州屯田を継続して設置した。戸数は上浪屯一千二百八十二戸、忠州屯六百一十四戸、那扶屯一千九戸、雷留屯一百八十七戸、水口屯一千五百九十九戸。継続して増設した藤州屯は、二百八頃一十九畝。

湖南道宣慰司衡州等処屯田:世祖至元二十五年、徳安屯田万戸府の軍士一千四百六十七名を調発し、衡州の清化・永州の烏符・武岡の白倉に分置し、屯田を設置した。二十七年、衡陽県の土産なき居民を募集し、九戸を得て、清化屯に増員した。戸数は清化屯軍民五百九戸、烏符屯軍民五百戸、白倉屯も同じ。田は清化屯一百二十頃一十九畝、烏符屯一百三頃五十畝、白倉屯八十六頃九十二畝。