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元史
志第四十五下: 食貨五
食貨の前志は、経世大典に拠ってその項目を立て、凡そ十九あり、天暦以前については、詳細に記載されている。元統以後に至っては、海運の多寡、鈔法の更変、塩茶の利害、これらが六条政類の中に見え、及び有司が事蹟を採訪し、凡そ徴すべきもののあるものは、悉く篇に録して、参考に備える。而して喪乱の際、亡逸して存しないものは、これを闕く。
海運
元は世祖が伯顔の言を用いてより、歳ごとに東南の粟を漕運し、海道によって京師に給すること、至元二十年に始まり、天暦・至順に至るまで、四万石以上より増えて三百万石以上となり、その国計を為す所以のものは大なるものがある。歴年既に久しく、弊日々に生じ、水旱相仍い、公私ともに困しみ、三省の民力を疲弊させて、歳運の恒数を充たす。而して押運監臨の官と、夫れ出納を司る吏とは、恣に貪黷を為し、脚価を時を以て給せず、收支その平を得ず、船戸貧乏にして、耗損益々甚だし。兼ねて風濤不測、盗賊出没し、剽劫覆亡の患い、至元に改元した後より、言うに勝えざるものがある。ここにより歳運の数、漸く旧の如くならず。至正元年、益々河南の粟を以てし、江南三省の運ぶ所を通計して、止めて二百八十万石を得る。二年、又た江浙行省及び中政院財賦総管府に令し、諸人寺観に撥賜するの糧を、尽く数起運せしめ、僅かに二百六十万石を得るのみ。汝・潁の乱が起こり、湖広・江右相継いで陥没し、而して方国珍・張士誠が浙東・西の地を窃拠し、好爵を以て縻し、藩屏として資するも、貢賦供せず、民を剝いて自ら奉り、ここにおいて海運の舟京師に至らざること積年となる。
至正十九年、朝廷兵部尚書伯顔帖木児・戸部尚書齊履亨を遣わし、海運を江浙に徴す。海道を由って慶元に至り、杭州に抵る。時に達識帖睦邇は江浙行中書省丞相、張士誠は太尉、方国珍は平章政事たり。詔を以て士誠に粟を輸させ、国珍に舟を具えさせ、達識帖睦邇これを総督す。既に朝廷の命に達するや、方・張互いに猜疑し、士誠は方氏が其の粟を載せて京に輸せざるを慮り、国珍は張氏が其の舟を掣きて因って虚に乗じて己を襲うを恐る。伯顔帖木児丞相に白し、正辞を以てこれを責め、巽言を以てこれを諭し、乃ち二家の疑いを釈し、其の事を克く済す。先ず海舟を率いて嘉興の澉浦に俟ち、而して平江の粟展転して杭の石墩に達し、又一舍して後に澉浦に抵り、乃ち舟に載す。海灘浅澀にして、躬ら艱苦を履み、舟に載する粟は、石十有一万たり。二十年五月京に赴く。是の年秋、又た戸部尚書王宗礼等を江浙に遣わす。二十一年五月、糧を運び京に赴き、上年の数に如し。九月、又た兵部尚書徹徹不花・侍郎韓祺を遣わし、往きて海運百万石を徴す。二十二年五月、糧を運び京に赴き、上年の数を視るに、僅かに二万を加うるのみ。九月、戸部尚書脱脫歡察爾・兵部尚書帖木を江浙に遣わす。二十三年五月、仍て糧十有三万石を運び京に赴く。九月、又た戸部侍郎博羅帖木児・監丞賽因不花を遣わし、往きて海運を徴す。士誠託辞を以て命を拒み、ここにより東南の粟京師に給するものは、遂に是の歳に止まる。
鈔法
至正十年、右丞相トクトは鈔法を改めようとし、中書省・枢密院・御史臺および集賢・翰林両院の官を集めて共に議した。先に、左司都事武祺が嘗て建言して云うには、「鈔法は世祖の時より既に行われて以来、撥支料本・倒易昏鈔を除いて天下に布かれた外、合支名目あり、宝鈔総庫の料鈔より転撥するにより、鈔法疏通し、民その利を受く。比年以來、祖宗の元行鈔法の本意を失い、転撥を与えず、故に民間に流転するもの少なく、偽鈔の滋多を致す」と。遂にその言に准じ、凡そ合支名目は、既に総庫より転支した。ここに至り、吏部尚書シェーシェドゥ及び武祺は、共に丞相の意に迎合せんと欲す。シェーシェドゥは鈔法を改め、楮幣一貫文省を以て銅錢一千文を権り母と為し、而して錢を子と為さんとす。眾人皆唯唯として、敢えて一語を出さず、惟だ集賢大学士兼国子祭酒呂思誠のみ独り奮然として曰く、「中統・至元には自ら母子あり、上料を母と為し、下料を子と為す。これを達達人(モンゴル人)が漢人を乞い養って子と為すに比すれば、是れ終に漢人の子と為るのみ。豈に故紙を父と為し、而して銅を過房兒子と為す者あらんや」と。一座皆笑う。思誠又曰く、「錢鈔の用法、虚を以て実に換えるは、その致すところ一なり。今、歴代錢及び至正錢、中統鈔及び至元鈔・交鈔を分かちて五項と為す。もし下民之を知り、その実を蔵してその虚を棄つれば、恐らくは国の利に非ざらん」と。シェーシェドゥ・武祺又曰く、「至元鈔偽多し、故に之を更むる爾」と。思誠曰く、「至元鈔偽に非ず、人の偽る爾。交鈔若し出ずれば、亦た偽る者有らん。且つ至元鈔は猶お故戚の如し、家の童稚皆之を識る。交鈔は猶お新戚の如し、敢えて親しまざるべからざれども、人未だ識らず、その偽反って滋く多からんのみ。況んや祖宗の成憲、豈に軽く改むべけんや」と。シェーシェドゥ曰く、「祖宗の法弊あれば、亦た改むべし」と。思誠曰く、「汝輩法を更め、又た世皇を誣わんと欲す。是れ汝又た世皇と高下を争わんと欲するなり。且つ世皇以来、諸帝皆諡して孝と曰う。その成憲を改むる、孝と謂うべけんや」と。武祺又た錢鈔兼行せんと欲す。思誠曰く、「錢鈔兼行すれば、軽重倫を同じくせず、何れをか母と為し、何れをか子と為さん。汝古今に通ぜず、道聴塗説、何ぞ以て行うに足らん。徒に口舌を以て大臣に媚び取らんとする、可ならんや」と。シェーシェドゥ曰く、「我等の策既に行うべからず、公何の策か有る」と。思誠曰く、「我に三字の策有り。曰く行不得、行不得」と。又曰く、「丞相此の言を聴く勿れ。向日金口河を開くが如く、成れば則ち功を汝等に帰し、成らざれば則ち罪を丞相に帰せん」と。トクト其の言直なるを見て、猶豫未だ決せず。御史大夫エセン・テムル言うに曰く、「呂祭酒の言是とする者有り、非とする者有り。但だ廟堂に坐して高聲厲色するに當らざるのみ。若し其の言に従わば、此の事終に行われざらんや」と。明日、御史を諷して之を劾せしむ。思誠帰り臥して出でず、遂に更鈔の議を定めて之を奏す。詔を下して云く、「朕帝王の治は、時に因りて制を宜しくするを聞く。損益の方は、通変に在り。惟れ我が世祖皇帝、建元の初め、中統交鈔を頒行し、錢を以て文と為す。鼓鑄の規未だ遑あらざれども、而して錢幣兼行の意已に具わる。厥の後至元寶鈔を印造し、一を以て五に當て、名づけて子母相權と曰う。而して錢実は未だ用いず。歳歴滋く久しく、鈔法偏に虚し、物價騰踴し、姦偽日萌し、民用匱乏す。爰に廷臣に詢い、博く輿論を采る。僉に弊を拯わんとすれば必ず更張を合すべしと謂う。其れ中統交鈔壹貫文省を以て銅錢一千文を権り、至元寶鈔二貫に准え、仍って至正通寶錢を鑄し、歴代銅錢と並び用い、以て鈔法を実にす。至元寶鈔は、故の如く通行す。子母相權し、新舊相済い、上は世祖の法を立つるの初意に副わん」と。
十一年、寶泉提舉司を置き、至正通寶錢の鼓鑄・交鈔の印造を掌らしめ、民間に通用せしむ。行うこと未だ久しからずして、物價騰踴し、價十倍を逾ゆ。又た海内大亂に値い、軍儲供給・賞賜犒勞のため、每日印造すること數計すべからず。舟車装運し、軸轤相接し、交料の人間に散満するもの、處無くして之無からず。昏軟なる者は復た行用せず。京師にて料鈔十錠、斗粟を易うるも得可からず。既にして所在の郡縣、皆物貨を以て相貿易し、公私の積むところの鈔、遂に俱に行われず、人之を視ること弊楮の若くし、而して国用是れより遂に乏しくなり。
鹽法
大都の鹽:元統二年四月、御史臺監察御史の言を備えて曰く、「窃かに京畿居民の繁盛を覩るに、日用の中、鹽闕くべからず。大德中、商販の行市を把握するに因り、民貴鹽を食す。乃ち局を置き官を設けて之を賣る。中統鈔一貫、鹽四斤八兩を買う。後其の價を倍するも、猶お民用に敷く。泰定の間に及び、任ずる所の局官人を得ざるに因り、上に在る者鈐束を失い、短少の弊有るを致す。ここにおいて巨商利に趨る者當道に營屬し、局官の侵盜を以て由と為し、輒ち之を奏して罷め、復た民に從い販賣せしむ。是より鈔一貫、僅かに鹽一斤を買う。無籍の徒、私に相犯界し、煎賣して独り其の利を受け、官課為に侵礙せらる。而して民貴鹽を食すること益甚だしく、貧者多く食を得ず、甚だ朝廷の小民を恤うの意に副わず。朝廷如し舊の如く局を設け、官為に發賣せば、庶幾くは課虧けずして民賜を受かん」と。
既にして大都路が三巡院及び大興・宛平県の申告を備え、また戸部尚書が建言し、皆御史の陳述の如し。戸部乃ち言う、「謂う、塩専売の法は、本来国を豊かにし民を便ならしむるを以てす。始め大徳七年に大都運司を罷め、河間運司に兼ねてこれを辦せしむ。毎年存留する塩の数を留め、これを米鋪に散じ、その発売に従わしむ。後に富商の専利に因り、遂に南北二城に局を設け、凡そ十五箇所、官これを売る。当時立法厳明にして、民甚だ便益たり。泰定二年、局官・綱船の人等多く侵盗の弊有るに因り、復た民の販売に従い、而して置きし局を罷む。数年に及ばず、有司屡に言う、富商価直を高く擡ぐるの害。運司の言う綱船の作弊は、蓋し立法厳ならず、関防を失うに由りて致る所なり。且つ各処俱に官設の塩鋪有り、商賈の販売と並びて窒礙無し、豈に京城の内に於て、乃ち官売の局を革罷せんや。宜しく本部尚書の言う所及び大都路の申す所に准じ、旧制に依り南北二城に局十五箇所を置くべし。毎局日に十引を売り、売塩官二員を設け、歳を以て一周を満とし、その奉公発売を責む。毎に中統鈔一貫に、塩二斤四両を買わしめ、雑灰土を其中にせしむる毋く、及び権衡其の平を得ざる毋からしむ。凡そ塩を買うこと十貫を過ぐる者はこれを禁じ、貫に及ばざる者は買う所に従い之を与う。もし満歳に短少失陷無く及び元定の分数なる者は、一界を減じて升用すべし。もし侵盗有る者は、例に依り追断す。其の売るべき合塩数は、河間運司に令し四季に分ち、京厫に起赴せしめ、官定の法物を用い、両平に称収し、各局に分給す。其の売る価鈔は、逐旬に起解し、本部官を委ねて輪次にこれを提調せしむ。仍た官を委ねて巡視せしめ、もし豪強兼利の徒有りて、頻りに局塩を買い而して価を増し転売して外に於てする者は、提調巡督官に従い痛くこれを治せしむ。仍た運司に令し厳に督め押運の人をし、法を設け防禁せしめ、致す毋からしむ綱船人等を縦令して作弊せしむるを。其の客商の塩貨は、便に従い相参して発売せしむ。」と。四月二十六日、中書省上奏し、戸部の擬する所の如くこれを行ふ。
至元三年三月、大都京厫戸部に申す云く、「近く文帖を奉じ、至元二年京厫発売食塩一万五千引を起運し、両平に称収し、数に如く実を具して部に申す。各綱の渰没短少塩計八百四十八引を除き、本厫実収一万四千一百五十有二引、已に一万一百引を支え各局に付し発売し、見存塩四千五十有二引、支撥尽くさんと欲す。拠る所の至元三年食塩は、宜しく例に依り河間運司に於て一万五千引を起運し都に赴かしめ、庶くは民間食用闕くこと無からん。」戸部其の言う所を准じ、乃ち議す、「京厫食塩、今歳宜しく河間より一万五千引を運し、其の脚価蓆索等の費は、運司に令し塩課銭内に通算支用せしむ。仍た産業有る船戸を召募し、互いに保識せしめ、毎に一千引を以て一綱と為し、就き各該場官一員を差し、并せて本司奏差或いは監運巡塩官、毎名一綱を管押せしめ、大都興国等場見収塩内に於て数験し、分司官を分派し監視せしめ、数に如く両平に支収し、三月内を限り京厫に赴き交卸せしめ、文憑を取り部に赴き銷照せしむ。但だ雑和沙土、湿潤短少数有らば、並びに本綱船戸・押運場官・奏差監運諸人に令し、数に如く均しく賠い、例に依り坐罪せしむ。」中書戸部の議する所の如くこれを行ふ。
至正三年、監察御史王思誠・侯思禮等建言す、「京師大徳七年大都塩運司を罷めてより、官を設け塩を売り、局十五箇所を置く。泰定二年其の便ならざるを以てこれを罷む。元統二年又これを復す。今に迨る十年、法久しく弊生ず。船に在りては則ち侵盗滲溺の患有り、局に入りては則ち和雑灰土の奸有り。名は一貫二斤四両と曰うも、実に一斤の上を得ず。其の潔浄雑せず、而して斤両足るるは、唯上司提調数処のみ耳。又常白塩一千五百引、船五十艘を用い、毎歳四月を以て起運す。官塩二万引、船五十艘を用い、毎歳七月を以て起運す。而して運司の遣わす人、威福を擅に作し、南は臨清に抵り、北は通州より、至る所に河道を索截し、舟楫往来、擾されざる無し。名は和顧と為すも、実は強奪なり。一歳の中、千里の内、凡そ富商巨賈の米粟を載する者、達官貴人の家室を載する者、一概に遮截し、重賄を得て放行し、拘留する所は、皆貧弱無力の人耳。其の舟小さくして固からず、滲溺侵盗、弊病多端。既に京厫に達し、又時に依り交収するを得ず、歳月を淹延し、困守無聊、妻子を鬻ぎ舟楫を質する者、往々にして之れ有り。此れ客船の狼顧して前ならざる所以にして、京師百物湧貴せしむるは、実に此れに由る。窃かに計るに官塩二万引、毎引脚価中統鈔七貫、総て鈔三千錠と為す。而して十五局官典の俸給、一歳を以て計る之又五百七十六錠、其の就支賃房の資、短脚の価、蓆草諸物、又外に在り。当時局を置き官を設くるは、但だ民の貴塩を食するを為すも、殊に料らざる官売の弊、反って商販の賤なるに如かざるを。豈に徒らに国家を費やし、而して百物を貴からしむるを忍びんや。宜しく憲台に従い具に中書省に呈し、其の塩局を罷むるを議し、及び来歳起運の時、榜文を出だし播告し塩商に、便に従い京に入り興販せしむべし。若し常白塩の用うる船五十艘も、亦宜しく江南小料船を造る処に於て如数にこれを造るべし。既に成りたる後、運司に付し人を顧り運載せしめ、庶くは舟楫通じ而して商賈集まり、則ち京師百物賤く、而して塩も亦貴からざらん。」御史台其の言を以て具に中書に呈す。而して河間運司の申す所も、亦前議の如し。
戸部言う、「運司及び大都路の講究する所、即ち監察御史の言う所と同じく、元設の塩局、合せて准じて革罷し、客旅の興販に聴従すべし。其の常白塩は内府必用の物に繫り、起運故の如し。宜しく都省に従い聞奏すべし。」二月初五日、中書省上奏し、戸部の擬する所の如くこれを行ふ。
河間の塩:至正二年、河間運司戸部に申す云く、「本司歳辦額余塩共三十八万引、計課鈔一百一十四万錠、国用に供す、重からずと為さず。近年以来、各処私塩及び犯界塩販売する者衆し。蓋し軍民官禁治を失うに因り、以て官課を侵礙し、塩法澀滞するは、実に此れに由る。転じて都省に呈し、詔旨を頒降し、所司に宣諭し、欽んで規辦に依らしめんことを乞う。」本部具に中書省に呈す。遂に四月十七日上奏し、旨を降しこれを戒飭す。
七月、また河間運司の申し立てによれば、「本司の課税は、すべて郡県の行塩地方において官塩を買い食することを頼りとしている。昨年、河間等路は旱魃と蝗害により食糧が欠乏し、累次にわたり賑恤を蒙ったが、民力はまだ回復せず、塩を食する者は少ない。また古北口等の地において、関所を守る官や軍人が心を尽くして詰問・捕縛しないため、大都路所属の役所も公に巡査・禁令を行わず、諸人が疙疸塩を積載して街市で売り、あるいは斗で量り、あるいは盤に盛って、公然と贈答するに至った。今、紫荊関で捕獲された犯人張狡羣らが積載していた疙疸塩は、計一千六百余斤に及ぶ。至元六年三月より今に至るまで犯した者は、百件に近づこうとしている。もし申し上げなければ、年末に課税が定数に達せず、虚しくその咎を負うことを恐れる」という。本部は中書省に詳細を呈し、枢密院に照会して榜文を下し、これを禁治させた。
三年、また河間運司の申し立てによれば、「財を生み用を節することは、固より国を治める常の経であり、賦を薄くし徭を軽くすることは、実に民を理める大本である。本司の歳額塩は三十五万引であり、近年さらに余塩三万引を加え、元来定められた竈戸は五千七百七十四戸であるが、逃亡を除けば、ただ四千三百一戸が残るのみである。毎年の額塩は、現存する疲弊した戸に無理に包み煎じることを強制している。今年もし旧例通り煎じさせれば、人力が足りない。また行塩地方は旱魃と蝗害が相次ぎ、百姓にどうして塩を買う資力があろうか。もし憐れみを蒙れば、至正二年を始めとして、暫く余塩三万引を免除し、豊作の年を待って、旧例通り煎じさせていただきたい」という。本部は、銭糧の支用が不足しているため、暫定的に一万引の煎じ取りを停止することを擬し、中書省に詳細を呈した。正月二十八日に上奏し、戸部の擬した通りに施行された。
その後、運司はまた言上した。「至元三十一年、本司の塩額は二十五万引であり、その後累次増加して三十五万に至った。元統元年、また余塩三万引を増やし、すでに詳細を呈した。都省の奏上を蒙り、一万引の煎じ取りを停止することが認められた。外に二万引があるが、もし以前のように現存の戸に包み煎じることを強制すれば、実に耐え難い。もし余塩二万引も併せて煎じ取りを停止すれば、誠に便利で有益である」。戸部はまたこの言上を詳細に中書省に呈し、暫定的に余塩二万引の煎じ取りを一年間停止し、至正四年からは旧例通り煎じさせることを擬した。四月十二日に上奏し、戸部の擬した通りに施行された。
山東の塩について:元統二年、戸部が呈上した。「山東運司が済南路の牒に準じて、副達魯花赤完者・同知闍里帖木兒の言上によれば、大都・河間運司に比べて、巡塩官十二員を改めて設置し、専ら本部の巡査・禁令に当たらせるべきであるという。詳しくは、山東運司は歳に鈔七十五万余錠を徴収し、行塩の地は周囲三万余里に及ぶが、ただ運判一員のみでは、どうして遍く巡行できようか。私塩が往来し、国課を侵し妨げることを恐れる。本司はすでに済南路と便宜を講究したので、その言上に準ずべきである」。中書省は戸部に再議させた。本部は言上した。「河間運司は定められた奏差十二名、巡塩官十六名を設置し、山東運司は奏差二十四名を設置している。今、比例に倣って巡塩官を添設するほか、元来設置された奏差の内から十二名を減ずる」。詳細を中書省に呈し、擬した通りに施行された。
三年二月、また山東運司が臨朐・沂水等県の申し立てを備えて言上した。「本県は十に山、九に水で、居民は稀少であり、元来は食塩地方であったが、後に行塩に改められたため、民間では遂に高価な塩を食することとなり、公私ともに不便である。もし旧例に戻して食塩に改め、居民に戸口の多少を検分させて課鈔を輸納させれば、官民ともに便利であり、また私塩の弊害を革め得る」。運司は分司に移文し、また益都路および滕・嶧等州に下し、長く講究させたところ、互いに食塩が便利であると述べた。また本司運使辛朝列の牒に準じて云う。「零塩については、登・萊等処に倣い、局官を選任し、印を与えて局を設置し、民に分散売却すべきである。これにより、大課が欠損しないのみならず、官は私塩の憂いを解き、民は刑罰・配流の罪を免れる」。戸部が議した。「山東運司の言上する、滕・嶧等処に十一局を増置し、登・萊三十五局の例に倣い、銭穀官の内から通行して局官を選任し、食塩を分散売却することは、官民ともに便利である。すでに役所が講究したので、その議に従うべきである」。詳細を中書省に呈し、擬した通りに施行された。
至元二年、御史台が山東粛政廉訪司の申し立てに基づいて言上した。「済南路が備えて章丘県の申し立てによれば、『山東運司が本司の額定塩課二十八万引について、客商が承辦する分を除き、現存十三万引があり、まったく買い手がなく、年末に近づくにつれ、歳課が定数に達しない。新城・章丘・長山・鄒平・済南はいずれも塩場に近く、大・小清河に接しており、客旅が興販するので、商河・滕・嶧等処に倣い、食塩に改め、暫定的に八千引を配分し、本処の役所に蓆・索・脚力を自ら準備させ、既に擬定された固堤等場に赴かせ、元統三年に定例に従って支出し、民に均等に分散させる』などという事である。窃かに考えるに、山東運司は、初め上司の明文もなく、みだりに民に食塩を分散し、課鈔を追徴し、民をして安んじて生業に従うことを得させなかった。今、至元元年正月・二月の両度、中書戸部の符文が下され、行塩・食塩の地分にはすでに定例があり、民に樁配してはならないとある。本司は省部の行うところに従わず、符文を隠匿し、以前のように人を馳駅させ、州県を督責し、百姓に臨み迫り、食塩課鈔を追徴し、擾害がないわけではない。本司が恣意に事を行い、法を弄んで民を擾すことは、理に照らして取問すべきであるが、課税を徴収する時期に当たるため、憲台の区処に従うべきである。また監察御史の呈上によれば、これもこの事についてである。もし直ちに取問すれば、課税を徴収する時月に当たるので、中書省に詳細を呈して区処を願う」。戸部が議して呈上した。「行塩・食塩にはすでに定まった所があり、改正に従うべきである。もし御史台の呈上に準じて運司を取問すれば、かえって塩法は例によって長く規画すべきものであり、別に議するのは難しいようである」。中書省は擬した通りに施行した。
陝西の塩について:至元二年九月、御史台は陝西行台の諮文を受理した。監察御史帖木児不花の建言を備えており、それには「近頃、巡歴を委ねられ奉元東道に至り、至元元年の各州県の戸口による定額の塩課を調べた。その陝西運司の官は転運の方策を考えず、毎年事前に人を差し向け、各路に分かれて塩引を携行し、州県に遍く配布する。わずか十日一ヶ月も経たぬうちに、杖限を以て鈔を追徴し、民に有無があるかを問わない。窃かに諸処の運司の例を照らすと、皆、運官が商人を召して発売するものである。ただ陝西等処の塩司のみが、近年民戸に配布している。且つて陝西行省の食塩戸は、課鈔二十万三千百六十四錠余を負担すべきところ、その内、鞏昌・延安等処で認定した課鈔は一万六千二百七十一錠、慶陽・環州・鳳翔・興元等処の歳辦課は一万七千九百八十五錠である。その余の課鈔は、先に関陝が旱魃と飢饉に見舞われ、民多く流亡したため、中書省の諮文を准じて、至順三年の塩課を十分を率として四分を減免したが、今に至るまで三年を経て、なお欠損がある。これは戸口が凋残し、十のうち八九を失ったためである。仮に復業する者があっても、家産は既に空しく、近来は歳こそ豊作であったが、物価は甚だ安く、鈔を得ることが困難である。本司の官は皆、有司に徴辦を強制し、高低を分かたず、一律に配給し、少ない者でも二三引に下らず、一引ごとに価三錠を収める。富家ですら応辦する術がなく、貧しい下戸はどうして措置できようか。一年分の食糧を売っても一引の価に償わず、緩やかなれば利息を払って借財し、急なれば妻子を質入れ売却する。仮に引目が手に入っても、力尽きて装運できず、ただ各処の塩商から、強制的に安価で買い取られるのみである。旧債未だ償わぬうちに、新引また至る。民力には限りがあり、官賦は窮まりない。また、寧夏の産する韋紅塩池は課程を辦じず、鞏昌等処が慣例に従って乾課を認め納め、便に従って食用するほかは、その池は陝西環州に百余里隣接しており、紅塩は味甘くして価賤く、解塩は味苦くして価貴い。百姓が私的に販易し、禁約することができない。これをもって考えてみると、河東の塩池は、撈塩戸口の食塩を除き、課すべき引数は、今後は運官が設法し、商人を募って興販させるべきである。但し、行塩の処に遇えば、諸人は韋紅塩法を侵擾してはならない。運司は毎年官吏を輪番で派遣し監視させ、民の採取を許し、立法して抽分し、例に依って発売し、一引ごとに価鈔三錠を収める。黄河以西では、民の食用に任せ、運司の元額課鈔を通じて辦じさせる。時に因って夾帯して黄河東南に至る者は、私塩法と同じく罪する。陝西で解塩を興販する者は禁じない。このようにすれば、官民両便となり、課もまた欠損することがないであろう。」
また、陝西漢中道粛政廉訪使胡通奉の陳述によれば、「陝西の百姓は、解塩を食することを許されている。近頃、荒儉を脱し、流移した者も次第に復帰し、正に安輯すべき時である。しかるに塩吏は民の苦しみを察せず、ただ恢辦を名目とし、貧富を論ぜず、引を配布して課を収め、あるいは官に銭を納めても、動もすれば歳月を経ても、なお塩を得られない。これは地遠く、脚力が艱澀なためである。今後もし大河以東の民に、課程を分定して解塩を買い食させ、その以西の民には、口数を計って課を攤派し、韋紅の塩を食するに任せれば、官は擾乱されず、民も蕩産の禍いがないであろう。且つて解塩は風によって結び、韋紅の塩は地によって産する。東塩は味苦く、西塩は味甘い。またどうしてその美を捨ててその悪に就かんとするだろうか。陝西の百姓に一概に均しく解塩の課を攤派し、韋紅の塩を食させれば、塩吏は巡禁の労を免れ、民もまた恵みを受けるであろう。」と。本台は詳らかに、言うところの塩法は、省部の定擬に従うべきであり、中書省に具呈し、戸部に議させた。本部は議して云う、「陝西行台の言う塩事は、都省より官を選び、陝西に赴き、行省・行台及び河東運司の官と一同に講究し、是否便益かを明白に諮呈すべきである。」と。
三年、都省は陝西行省に移咨し、なお河東運司の正官一名を抜擢して省に赴かせ、一同に再び講究させた。三月初二日、陝西行省の官及び李御史、運司同知郝中順が、鞏昌・延安・興元・奉元・鳳翔・邠州等の官と会し、総帥汪通議等とともに、皆、御史帖木児不花及び廉使胡通奉の言うところに従い、黄河を以て境界と限り、陝西の民に便に従って韋紅二塩を食用させ、解塩は従前の通り西行させ、紅塩は東渡を許さないこととすべきであると称した。その咸寧・長安録事司の三処で未だ配布していない所は、既に配布した州県と同様に斟酌し、乾課を認め納めさせ、運司が既に配布した食塩引価と同じとする。現在納めている乾課は、鈔七万錠を辦じ、通行して季ごとに輸納し、運司は引を配布する必要はない。このようにすれば、民は害を受けず、課もまた欠損することがないであろう。郝同知のみが言うには、「運司は毎年課四十五万錠を辦じ、陝西は該当分二十万錠を辦ずべきところ、今ただ七万錠を認めるのみで、余りの十三万錠は、何処で恢辦するのか?」と。議は合わずして散会した。本省は運司の逐年申報文冊を照合すると、陝西はただ七万二千六十余錠を辦じているのみであった。郝は遂に病を称して出仕せず、その後、結局定論はなかった。
戸部は至順二年の中書省の先例を参照した。かつて兵部郎中井朝散を派遣し、陝西行省の官と一同に講究させ、涇州白家河を以て永久の定界とし、民の食用を許した。なお所在の軍民官に督せしめて厳しく禁約を行わせ、韋紅二塩が境を犯し課を侵すことなからしめた。中書省はその擬定の通りに施行した。
両淮の塩:至元六年八月、両淮運司は行戸部尚書運使王正奉の牒を受けて、『本司は至元十四年に創立され、当時は塩課に定額がなく、ただ実情に応じて拡大してきたが、その後累次増加して六十五万七十五引となった。客商が引を買い、自ら塩場に赴いて塩を支給されると、場官が竈戸を強制し、斛面を増やして塩商に便宜を図り、塩法を乱した。大徳四年、中書省が奏上して許可され、法を改めて倉を設け、綱を立てて運搬を集約し、袋を割り当てて支給し、以前の弊害を革正した。本司の塩を売る地域は、江浙・江西・河南・湖広の管轄する路分で、上流・下流ともに塩法は通行した。至大年間に、正額の余塩三十万引を追加して煎じ、合わせて九十五万七十五引となった。客商が運んで揚州東関に至ると、皆城河内に停泊し、通関放行を待ち、三四十万余引を下らず、積み重ねて数が多く、時に応じて発送できない。至順四年、前運使韓大中らがまた言うには、『毎年売る額塩は九十五万七十五引である。客商が引を買い、勘合を交付されて倉に赴き塩を支給され、船と人足を雇うと、毎引で遠倉は鈔十二三貫、近倉でも七八貫を要し、揚州東関に運んで、順番に通関放行を待つ。その船の梢人らは、塩主が監視できないのを恃み、己が物と同様に見なし、恣に侵奪盗難を行い、弊害が多い。事が発覚して官に至っても、厳しく懲治しないわけではないが、禁止できない。その盗んだ塩を鈔で計算すると、旧船を折価して償うに過ぎず、どうして如数に徴収できようか。これにより裏河の客商は資本を損ない、外江の行商人は多く欺侮され、百姓は高価で不潔な塩を買い、公私ともにその害を受ける。』窃かに考えるに、揚州東関城外の沿河両岸には、官民の空閑地が多い。もし塩商が自ら基地を賃借・購入し、倉房を建て、塩袋を運んで場に至り、順序を定めて倉内に貯蔵し、通関放行を待ち、時期に臨んで船を用いて真州に運び売却することを許されれば、侵盗の患いを防ぎ、長久の利とすることができ、塩法にとって小さな補いではない。』
既に中書戸部及び河南行省に申し出て、照査審議したが、文書往来して紛糾し決せず。久しくして、戸部は遂に議を定め、運司に既に収めた在官の客商の帯納挑河銭の中から、鈔一万錠を撥付して倉房を建てさせ、なお都省から河南行省に移牒し、官を委ねて運司と共に赴き、空地を視察させ、確かに違礙がなければ、その後施行させた。
両浙の塩:至元五年、両浙運司が中書省に申し出て云う。
本司は至元十三年に創立され、当時は定額がなかった。至十五年に初めて定額を立て、塩十五万九千引を徴収した。その後累次増加して四十五万引となり、元統元年にまた余塩三万引を増やし、毎年総計四十八万引となった。毎引の初定官価は中統鈔五貫であったが、その後九貫・十貫、さらには三十・五十・六十・一百と増え、今では三錠となった。毎年正課中統鈔百四十四万錠を徴収し、初年に比べると、引数は十倍、価格は三十倍に増えた。課額が重くなるほど、煎じ徴収は困難になり、兼ねて行塩地界に拘束される戸口は限られている。以前は客商が塩場に赴いて支給を受けることを許し、検校所を設けて、塩袋の場からの搬出を検査した。また支給検査で停滞積みが生じたため、延祐七年に両淮の例に倣い、法を改めて倉を設け、綱官が船を押して場に至り、塩を運んで倉に収貯し、客旅は倉で塩を支給した。初めは便利であったが、今に至る二十余年、綱・場・倉の官に適任でない者が任じられ、ただ掊克を務めるのみである。況んや淮・浙は風土が異なり、両淮は四省に跨り、課額は大きいが、地は広く民は多く、食する者が多いので、徴収を成し遂げられる。本司の地界は、江に臨み海に枕し、煎塩の亭竈は海隅に散漫し、行塩の地は、裏河では両淮と隣接し、海洋では遼東と通じ、番船往来し、私塩が出没して官課を侵礙し、刑禁があっても、防禦し尽くすのは難しい。塩法は壊れ、亭民は消滅し、その弊害は五つある。
本司の管轄する場司三十四箇所は、各々令・丞・管勾・典史を設け、竈戸の火丁を管領する。用工の時は、正に炎暑の月で、昼夜休まない。僅かに陰雨に当たれば、手を束ねて彷徨う。貧窮の小戸は、他に生計がなく、衣食の資は全て工本に頼り、少しでも資産を持つ家は、十に一二もない。有司はその労苦を察せず、また他の役に差発する。各場の元々簽発した竈戸は一万七千有余であったが、後、水旱疫癘により、流移死亡して、七千有余を残すのみとなった。即今、簽補を受けておらず、抛下された額塩は、ただ現戸に包煎させるのみである。もし早く簽補し、優しく存恤しなければ、将来必ず現戸を損ない大課を欠くに至る。これが弊害の一つである。
また、設けた三十五綱の監運綱司は、専ら船戸を召募し、各場の日煎月辦の課額に照らし、官が水脚銭を給し、場で煎じた塩袋を支給して装載することを掌る。毎引の元額は四百斤で、また折耗等の塩十斤を加え、二袋に装て、綱官が押運して割り当てられた倉に赴き納入する。客人が倉に到り塩を支給されるのは、二月から十月の河凍までの間で、運搬を完了することを度とする。その立法は周密でないわけではない。今、各綱の運塩船戸は、経行歳久しく、奸弊が日に日に滋す。凡そ場に到り塩を装載する時、密かに塩場の官吏・司秤人等に属し、斤両を重くし、硬袋に装て、場を出た後、沿途で盗売し、灰土を混ぜてその欠損を補う。及び赴くべき倉に到ると、倉官・司秤人もまた各々賄賂を受け、既に弁別せず、秤盤もまた法の如くでない。倉に日久しく在ると、また消折する。袋法が均一でないのは、誠に細事ではない。旧の如く客商に場で支給させる方が、綱運の俸給・水脚の費用を免れ、また塩法も一新される。これが弊害の二つである。
本司の歳辦額塩は四十八万引で、行塩の地は両浙・江東で凡そ千九百六万余口である。毎日食塩四銭一分八厘を食し、総計すると四十四万九千余引となる。その数を売り尽くしても、なお塩三万一千余引が残る。毎年有司を督励し、戸口を検べて請買させる。また荒歉が連年で、流亡する者が多く、兼ねて江に臨み海に並ぶため、私塩が公然と行われ、軍民官が防禦を失うので、各倉に累年売れずに停積した塩は、凡そ九十余万引で、支散する術がない。もし早く定制を下し、遵守の拠り所とし、賞罰が既に明らかであれば、私塩は減少し、戸口の食塩も廃弛しない。これが弊害の三つである。
また毎季、退引(使用済みの塩引)を回収するが、塩を運んで販売地に到着した客商は、まず水程(航路の距離)と宿泊する店舗を届け出て、退引を納めねばならない。ところが各地の提調官が注意深く検査せず、吏胥や坊里正らに分例銭を要求させ、欲しいままにならないと、あれこれ難癖をつけて留め置く。客商は売れ行きが悪いため他へ転売する場合もあり、水程は届け出ても引は納めず、そのまま埋もれさせ、奸民が家に隠し持って私塩の売買に便乗するのを許している。役所も検査・回収しない。善良な者は官塩を売り終えると、すぐに引目を郷の胥吏に渡す。また狡猾な輩は官に納めず、塩徒と結託して引を証拠として持ち、私塩を盛んに販売する。もし役所の官吏に対し、罷免・降格の罪名を明確に定め、退引を確実に全て官に還付させ、私塩の便乗を防ぐことができればよい。これが第四の弊害である。
本司は延祐七年に杭州など七つの倉を改めて設置し、部轄を置き、各綱の船戸が運んできた塩袋を収納し倉に貯蔵し、客商が順次塩を引き取るのを待つこととし、すべて定められた制度があった。近年、各倉の官・攢典らが貪欲をほしいままにし、出納の際に両方から利益を得ている。綱船が倉に着くたびに、必ず船戸から賄賂を受け、灰土を混ぜるのを許して倉に収納する。あるいは船戸が良質の塩を運んできても、賄賂を贈る金がなければ、わざと事を起こして難癖をつけ、河岸に停泊させたまま、侵奪・盗売させる。倉官と監運人らは弊害を多様に仕組んでおり、そのため各倉には塩が九十万余引も積み上がり、新旧が混ざり合って廊屋に溢れ、支給できず、塩分が流れ出て目減りし、利害は軽くない。客商が買い取ったもので課鈔は官に入っているとはいえ、年を重ねるごとに害が甚だしくなることを恐れる。もし従来通り客商に自ら運搬手段を用意させ、塩場で支給・積載させれば、積み滞りは免れるであろう。これが第五の弊害である。
五つのうち、各倉の積み滞りが最も急務である。一年に売るべき数量を検分すると、わずか四十四万余引に過ぎず、二年間売り尽くしてもまだ残り、さらに煎って運んで倉に積み上げれば、蓄積はますます増える。もし特に上奏を賜り、徳望高い重臣を選任し、関係官府と共に長期的に検討し、時宜に合わせて参酌し、制度を改めて良き規制とし、民衆を恵み救済すれば、大なる課税が欠損しないことを望む。現在、余塩三万引の煎煮を停止し、使者に江浙行省の諮文を持たせ中書省に赴かせ、ご審議を請うている。
戸部が運司の言上を審議し、余塩三万引は別途議論するほか、その他の事柄は行省が明確に決定していないので、省に上申し、行省に移牒して長期的に検討するよう求めた。六年五月、中書省が奏上し、江浙の塩法を整備する官を選任し、江浙行省右丞ナリン(納麟)及び首領官趙郎中らに提調させたが、やがてナリンはまた別の理由で辞任した。
至正元年、運使霍亜中がまた言上した。「両淮・福建の運司にはいずれも余塩があり、すでに停止・免除されている。本司も同一であるので、もし先例に倣って三万引の煎煮を停止していただければ、大なる課税も容易に徴収できるであろう。」中書省が上奏し、旨を得て、暫く余塩三万引を据え置き(倚閣)、塩法が円滑に行われてから徴収することとした。
二年十月、中書右丞相トクト(脱脱)・平章テムルタシ(鐵木兒塔識)らが奏上した。「両浙の食塩(配給塩)は民を害することが甚だしく、江浙行省の官・運司の官が繰り返し指摘している。世祖皇帝の旧制に従い、塩場に近い十里以内の地域を民に買い取らせる以外は、現在設置されている塩倉・綱運を廃止し、客商が運司で塩引を購入し、塩場で直接塩を支給され、行塩地域で販売することを許し、強制配給の弊害を除去すべきである。また検校批驗所を四ヶ所設置し、廉潔で有能な者を選任して運司に直属させ、客商が塩を載せて通過する際は、規定に従って秤量し、袋法を均一にし、引目を批査・検証させ、運司の官は常に実態を究明する。また至元十三年以来の歳辦塩課は、額が少なく価格も安かったが、今は四十五万に増え、額が多く価格も高いため、流通しない。今、戸部が定めた案では、至正三年を始めとして、両浙の定額塩を十万引減額し、塩法が流通したら元の額に戻し、食塩の強制配給は停止することとする。」旨があり、これに従った。
福建の塩について:至元六年正月、江浙行省が福建運司の申告に基づき上奏した。「本司の歳辦額課塩は十三万九引百八十余斤であるが、今調査したところ、海口など七場では、至元四年閏八月末までに、附余増辦などの余塩十万一千九百六十二引二百六十二斤が蓄積されている。考えるに、既に蓄積された附余塩があるので、至元五年の額塩については、天暦元年の例に倣い正額五万引の煎煮を停止し、工本銭を支給せず、上記の余塩五万引を正額に充当すれば、官の工本鈔二万錠を節約でき、亭民(塩戸)の重い負担を免れる。本年は額塩八万九引百八十余斤のみを煎煮し、計十三万九引余りの塩を通じて発売し、正課を納入する。余塩五万余引を残し、翌年の軍民への食塩を前払い支給すれば、実に官民双方に便利である。」本省はこの案の通りとし、中書省に諮呈した。戸部に送付して審議させたが、同様の意見であった。残りの余塩五万一千九百六十二引は売却して鈔とし、通行して解送する。回答を本省に送り、その案に従って施行した。
至正元年、詔があった。「福建・山東における食塩の強制配売は、民を害することが甚だしい。行省・監察御史・廉訪司及び関係する役所の官は、公同して検討すべきである。」二年六月、江浙行省左丞が行臺監察御史・福建廉訪司の官及び運使常山の李鵬挙・漳州など八路の正官と検討し、食塩(強制配給)が不便であること三項目を得た。第一に、余塩三万引は正額と同様に扱うのは難しく、免除すべきである。第二に、塩の定額が重すぎるので、広海の例に倣い、価格を二錠のみにすべきである。第三に、食塩(強制配給)を停止し、全て客商に通行販売を許すべきである。
福建の塩課は至元十三年に始まり、現存する塩は六千五十五引で、毎引鈔九貫であった。二十年、煎売塩は五万四千二百引で、毎引鈔十四貫。二十五年、一錠に増額。三十一年、初めて塩運司を設置し、塩額を七万引に増加。元貞二年、毎引の価格を十五貫増加。大徳八年、運司を廃止し、宣慰使司に併合して徴収させた。十年、都提挙司を設置し、塩額を十万引に増加。至大元年、各場で煎出した余塩三万引。四年、再び運司を設置し、遂に定額を十三万引と定め、価格鈔を二錠に増加。延祐元年、さらに三錠に増加し、運司はまた臨機の変法を行い、建・延・汀・邵の四路は従来通り客商が販売するが、福・興・漳・泉の四路は民への食塩を強制配給し、弊害が今に至る三十余年も続いている。本道は山が多く田が少なく、土地は痩せ民は貧しく、人口は増えていないのに塩額は重くなった。八路の秋糧は毎年わずか二十七万八千九百余石、夏税は一万一千五百余錠に過ぎないのに、塩課十三万引は鈔三十九万錠に相当する。民力は日に日に疲弊し、徴税の度に貧しい者は妻子を質入れ・売却して課税を納め、どうにもならなくなると、往々にして他郷へ逃亡する。近年の漳州の賊徒の騒擾も、これに起因する。運司の官も耳にし目にしているが、職務が専ら徴収拡大にあるため、恵みを施すことができない。もし詔書の趣旨に従い、余塩三万引を廃止し、食塩の強制販売の弊害を除去し、客商が八路で自由に販売することを許せば、誠に官民双方に便利である。正額塩については、もし広海の塩価に倣い毎引中統鈔二錠とするなら、都省の処置に従うべきである。
江浙行省は左丞の講究したところを以て、中書省に諮呈し、戸部に送って定擬させ、至正三年を始めとして、余塩三万引を権宜的に減免し、散派食塩は住罷すべきと擬す。その正額塩価を減ずることは、即ち広海提挙司の事例と異なり、別に更に議するは難し。十月二十八日、右丞相トクト・平章テムルダシ等、以て擬したところを奏して之を行ふ。
広東の塩:至元二年、御史台は江南諸道行御史台の諮備を准じ、監察御史韓承務の建言に、「広東道の管轄する塩課提挙司は、至元十六年を始めとして、止めて塩額六百二十一引を辦し、自後累増して三万五千五百引に至り、延祐の間又余塩を増し、正額を通計して五万五百五十二引となる。竈戸は工程に窘し、官民は催督に迫られ、呻吟愁苦すること已に十年を踰ゆ。泰定の間、憲台及び奉使宣撫に蒙り、交章して敷陳し、余塩一万五千引を減免す。元統元年、都省は支持不敷を以て、権に已に減ぜし余塩を、旧に依り煎辦し、今已に三載、未だ住罷を蒙らず。窃に意ふに議者は、必ず広東は海道を控制し、諸蕃に連接し、船商輳集し、民物富庶にして、以て辦納し易しと謂はんとす、是れ蓋し能く彼の中の事宜を深く知らざるなり。本道の轄する七路八州は、平土絶少にして、加以て嵐瘴毒癘あり、其の民は刀耕火種し、巣顛穴岸し、崎嶇辛苦し、貧窮の家は、経歳淡食し、額外に鹽を辦すれば、売って誰にか將に售らん。所謂富庶なる者は、不過城郭の商賈と舶船交易する者数家のみ。竈戸塩丁は、十に三四を逃し、官吏は罪を畏れ、止めて見存の人戸を将て、勒令して帶煎せしむ。又大に慮るべき者有り、本道は密邇蠻獠にし、民俗頑悪なり、誠に有司の責辦太厳にして、怨を斂めて事を生ずるを恐る、繫る所軽からず。如し蒙らば此の微利を捐て、以て大信を示さば、疲民幸甚なり。」と具呈し、中書省に送り、戸部に定擬させ、元統三年を始めとして、広東提挙司の辦する余塩を、量りて五千引を減ず。十月初九日、中書省は以て擬したところを奏聞し、旨を得て之に従ふ。
広海の塩:至元五年三月、湖広行省は中書省に諮りて云ふ、「広海塩課提挙司の額塩三万五千一百六十五引、余塩一万五千引。近く黎賊の害を為すに因り、民聊生せず、正額積虧四万余引、臥収して庫に在り。若し復た余塩を添辦せば、困苦未だ甦らず、恐らくは不安を致さん。事利害に関す、如し蒙らば憐憫し、聞奏して除免せば、庶幾くは元額を辦し可く、邊民に患を遺さざらん。」戸部議して云ふ、「上項の余塩は、若し全く恢辦せば、元額に非ざるを縁にし、兼て本司は海隅に僻し、轄する竈民は、累遭刼掠し、死亡逃竄し、民物凋弊す、一万五千引の内に於て、量りて五千引を減じ、以て民力を舒すべしと擬す。」中書は以て擬したところを奏聞し、旨を得て之に従ふ。
四川の塩:元統三年、四川行省は塩茶転運使司の申すに據り、「至順四年、中書は坐到して添辦余塩一万引の外に、又帶辦兩浙運司五千引し、正額塩と通行煎辦し、已後に支用闕けず、再び議擬すべしとす。卑司は各場別に煎出余塩無く、免れず勒令して竈戸に承認規劃せしむ、幸に已に足備す。以後の年分は、若し申覆せずんば、誠に竈戸の逃竄を恐れ、正課に妨げあらん。如し蒙らば憐憫し、備諮して中書省に、辦する余塩一万引の内に於て、量りて帶辦兩浙の数を減ぜんことを。」又分司運官の言ふところを准じて云ふ、「四川の塩井は、俱に萬山の間に在り、腹裏・兩淮に比すれば、優苦同じからず、又行ひて余塩を帶辦すれば、竈民此に由りて疲れん。」行省は中書省に諮呈し、上奏して旨を得、権に以て帶辦余塩五千引を倚閣す。
茶法
至元二年、江西・湖広の両行省は具に茶運司同知萬家閭の言ふところの茶由を添印する事を以て、中書省に諮呈して云ふ、「本司は歳辦額課二十八万九千二百余錠。門攤批驗鈔を除く外、数内茶引一百万張、每引十二両五銭、共に鈔二十五万錠と為す。末茶は自ら官印筒袋関防有り、其の零斤草茶由帖は、每年印造一千三百八万五千二百八十九斤、該鈔二万九千八十余錠。茶引一張は、茶九十斤を照し、客商興販す。其の小民の買食及び江南産茶の去處に於て零斤採賣するは、皆須らく由帖を以て照と為す。春首に茶由を発賣し、夏秋に至れば、茶由尽く絶え、民間用を闕く。此を以て之を考ふるに、茶由は数少く課軽く、民用に便にして而も敷かず、茶引は課重く数多く、止めて商旅の興販に於て、年終に尚ほ停閑未賣の者有り。毎歳合印茶由は、十分を率とし、量りて二分を添へ、計二百六十一万七千五十八斤。算して引目内の官茶に依り、每斤鈔一銭三分八厘八毫八絲を収め、計りて鈔七千二百六十九錠七両を増し、比驗して引目二万九千七十六張を減去せば、庶幾くは引停閑せず、茶私積無からん。中書戸部は定擬し、江西茶運司は歳辦公據十万道、引一百万、計鈔二十八万九千二百余錠。茶引は商販に便にして、而も山場の小民は全く茶由を憑りて照と為し、歳辦茶由一千三百八万五千二百八十九斤、每斤一銭一分一厘一毫二絲、計鈔五千八百十六錠七両四銭一分、引二万三千二百六十四張を減ず。茶引一張は、茶九十斤を造り、官課十二両五銭を納む。如し茶由に於て量りて二分を添へ、計二百六十一万七千五十八斤、每斤添収鈔一銭三分八厘八毫八絲、計鈔七千二百六十九錠七両、積み出だす余零鈔数は、官課虧けず、而して民用に便なり。」合せて本省の擬する所を准じ、具に中書省に呈し、行省に移咨し、擬する所の如く之を行ふ。
至正二年、李宏が上言した内の一節に、江州茶司の引据(茶引)の不便な事について言うには、「茶の専売制は、古来未だかつてなく、唐代以来、その法が初めて整備された。国朝(元朝)は既に江州に茶専売都転運司を設置し、なお各路の茶の産地に提挙司七箇所を設け、専ら引据を発行し売り渡し、国課を徴収することを任じ、誰もこれを問う者はなかった。毎年十二月の初めに、人を派遣して各所の提挙司の官吏を召集し、翌年の引据を受け取らせる。それが司に到着すると、十日か一月の間に、司の官は全員揃うことができない。吏や貼書(下級書記)が要求し、それぞれの欲望を満たして、初めて引据を給付する。この時には春の月は既に過ぎている。そこで本司に戻り、ようやく点検して配布しようとすると、また分司の官吏が、各所に赴いて戸を検閲し引据を配布・売却する。引据十枚ごとに、正規の官課である百二十五両を納めるほかに、また中統鈔二十五両を徴収し、これを搭頭事例銭と称し、分司官吏への贈賄の資金とする。提挙司は茶専売を名目としているが、実際には引据を発行・売却する職務を専任できず、ただ運司の官吏のために財貨を調達するだけである。上が行えば下が倣うのは、情勢上必然である。提挙司は分司の官吏の行いがこのようなものを見て、またこれに倣い遅延する。茶戸が引据を得て家に帰る頃には、既に五、六月になっている。その間にまた茶引二、三千本を留保し、茶戸が困窮していることを名目に、新興の戸に転売する。引据一枚ごとにまた中統鈔二十五両を多く徴収し、上下で分け合い、それぞれ私腹を肥やす。このような銭がどこから出るのか知らないが、これが茶戸の苦しみであり、言い尽くせないものがある。引据を手に得て、碾磨(茶の粉砕)を始めようとすると、吏卒が門に来て、最初の期限を催促する。茶がまだ売れていないのに、どうして銭を得られようか。たまに裕福な家があれば、必ず別に工面しなければならない。力の弱い者は、例によって拘禁され、家財を質入れ・売却して官の期限に応じるほかない。そして最終期限までに十分に用意できなければ、上司が厳しく催促し、再び勾追(召喚)され、法外な苦痛を受ける。これは皆、運司が引据を給付するのが遅く、分司が苛酷に徴収する過ちによるものである。茶戸は本来利益を求めるつもりが、かえってその害を受け、日に日に困窮し逃亡する様は、実に哀れむべきである。今もし旧制を申し立て明らかにし、毎年正月に、必ず運司が全ての引据を提挙司に給付し、時宜に応じて配布し、庫に留め置いて分例(手数料)を多く徴収し、茶造りの時期を妨げ誤らせないようにし、もし期限を過ぎた場合は、別に罪を定める。なお、運司が以前のように分司を設けて自ら引据を配布・売却することを許さず、違反した者は粛政廉訪司が例に従って糾弾・処罰する。このようにすれば、茶司の貪欲な風潮を少しは改め、茶戸が困窮の害を免れるであろう。」と。中書省はその言上を戸部に送って審議させ、さらに江西行省に移牒し、官を委ねて茶運司と検討させ、もし有益であれば、その言う通りに施行させた。