元史

志第四十六: 兵一

兵とは、先王が天下を威圧し、奸宄を折奪し、禍乱を戡定するために用いるものである。三代の制度は遠く、漢・唐以下、その法は変遷して一様ではない。おおむね用いるにその道を得れば、兵力は富み、国勢は強くなる。用いるにその宜しきを失すれば、兵力は消耗し、国勢は弱くなる。故に兵制の得失は、国勢の盛衰にかかわるのである。

元の国を有するや、朔漠に基を肇く。その兵制は簡略ながらも、太祖・太宗より夏を滅ぼし金を剪り、霆轟風飛して中土を奄有し、兵力は雄勁と謂うべきであった。世祖即位に及び、川しょくを平らげ、荊襄を下し、継いで大将に命じて師を率い江を渡らせ、南宋の地を尽く取り、天下遂に一に定まる。豈に盛ならずや。

国初を考うるに、兵を典する官は、兵数の多寡を視て爵秩の崇卑と為す。万夫を長ずる者を万戸と為し、千夫を千戸と為し、百夫を百戸と為す。世祖の時、官制を頗る修め、内には五衛を立てて宿衛諸軍を総べ、衛には親軍都指揮使を設く。外は万戸の下に総管を置き、千戸の下に総把を置き、百戸の下に弾圧を置き、枢密院を立ててこれを総べる。方面に警有るに遇えば、則ち行枢密院を置き、事已れば則ち廃し、都鎮撫司を行省に属せしめて移す。万戸・千戸・百戸は上中下に分かつ。万戸は金虎符を佩く。符の趺は伏虎の形を為し、首は明珠と為し、三珠・二珠・一珠の別有り。千戸は金符、百戸は銀符。万戸・千戸陣に死する者は、子孫爵を襲ぐ。病に死すれば則ち一等を降す。総把・百戸老死し、万戸他官に遷るは、皆襲ぐことを得ず。この法は尋いで廃れ、後は大小と無く、皆その官を世襲し、ただ罪を以て去る者のみは然らず。

軍士に至っては、則ち初め蒙古軍・探馬赤軍有り。蒙古軍は皆国人、探馬赤軍は則ち諸部族なり。その法は、家に男子有れば、十五以上七十以下、衆寡と無く尽く兵に簽す。十人を一牌と為し、牌頭を設く。上馬すれば則ち戦闘に備え、下馬すれば則ち屯聚牧養す。孩幼稍く長ずれば、又これを籍し、漸丁軍と曰う。中原を平らげし後、民を発して卒と為す、是を漢軍と為す。或いは貧富を以て甲乙と為し、戸より一人を出だすを独戸軍と曰い、二三を合して一人を出だせば、則ち正軍戸と為し、余を貼軍戸と為す。或いは男丁を論じ、嘗ては二十丁を以て一卒を出だし、至元七年は十丁を以て一卒を出だす。或いは戸を論じ、二十戸を以て一卒を出だし、年二十以上なる者を限りて充てる。士卒の家富商大賈なるは、則ち又一人を取るを余丁軍と曰い、至元十五年に免ず。或いは匠を取って軍と為すを匠軍と曰う。或いは諸侯将校の子弟を取って軍に充てるを質子軍と曰い、又は禿魯華軍と曰う。是れ皆多事の際の一時の制なり。

天下既に平らぎ、嘗て軍と為したる者は、定めて尺籍伍符に入れ、更易すべからず。丁産を詐りて増損する者は、覚れば則ち実を籍に更え、印を以てこれを印す。病にて戍所に死する者は、百日の外次丁を役す。陣に死する者は、一年を復す。貧しくして役する能わざる者は、聚めて一にするを合併と曰う。貧甚だしき者・老いて子無き者は、その籍を落とす。戸絶する者は、別に民を以てこれを補う。奴にして自便を縦に得る者は、俾くその主の貼軍と為さしむ。その戸逃れて還る者は、三年を復し、又逃るる者はこれを杖し、他役に投ずる者は籍に還す。継いで得たる宋兵を、新附軍と号す。又遼東の乣軍・契丹軍・女直軍・高麗軍、雲南の寸白軍、福建の畬軍有り、則ち皆他方を出戍せざる者、蓋し郷兵なり。又技を以て名づくる者有り、砲軍・弩軍・水手軍と曰う。応募して集まる者を答剌罕軍と曰う。

その名数は、則ち憲宗二年の籍、世祖至元八年の籍・十一年の籍有り、而して新附軍は二十七年の籍有り。兵籍は軍機の重務に係るを以て、漢人はその数を閲せず。枢密の近臣職専ら軍旅を掌る者と雖も、惟だ長官一二人之を知る。故に国を有すること百年、而して内外の兵数の多寡、人之を知る者莫し。

今その典籍に考うべきものは、兵制と曰い、宿衛と曰い、鎮戍と曰う。而して馬政・屯田・站赤・弓手・急遞鋪兵・鷹房捕獵、兵に非ざるも兵たる者は、亦類を以てこれに附す。兵志を作る。

兵制

太宗元年十一月、詔す。「兄弟諸王諸子へいびに衆官人等の所属する去処の簽軍事理に、妄りに彼此を分かつ者有らば、達魯花赤并びに官員皆これを罪す。毎一牌子軍一名を簽し、年二十以上三十以下なる者を限りて充て、仍お千戸・百戸・牌子頭を定立す。その隠匿して実ならず及び知情して首せず并びに逃役軍人を隠藏する者は、皆死を処す。」

七年七月、宣徳・西京・平陽・太原・陝西五路の人匠を簽して軍に充て、各処の管匠頭目に命ず、織匠及び和林の宮殿を建つる一切の合干人等を除く外、応に回回・河西・漢児の匠人并びに札魯花赤及び札也・種田人等有り、通じて丁数を験し、毎二十人軍一名を出だす。

八年七月、詔す。「燕京路保州等処は、毎二十戸軍一名を簽し、答不葉児に統領せしめて出軍せしむ。真定・河間・邢州・大名・太原等路は、先に簽したる軍人の外、断事官忽都虎の新たに籍したる民戸三十七万二千九百七十二人の数内に於て、毎二十丁軍一名を起し、亦た答不葉児に属せしめてこれを領せしむ。」

十三年八月、総管万戸劉黒馬に諭す、斜烈の奏するところに拠れば、忽都虎等の元に籍したる諸路の民戸一百万四千六百五十六戸、逃戸を除く外に、七十二万三千九百十戸有り、路に随い総て軍十万五千四百七十一名を簽し、点数過ぐる所九万七千五百七十五人、余は近年の蝗旱に因り、民力艱難、往々にして逃在す。旨有り、今後は止だ見在の民戸を験て軍を簽し、仍お逃戸復業する者は三年の軍役を免ずるを命ず。

世祖中統元年六月、解塩司の軍一百人を罷むるを詔す。初め、解塩司元に籍したる一千の塩戸内に、毎十戸軍一人を出だし、後阿藍答児その役を倍す。世祖重くその民を困するを以て、これを罷む。七月、張栄実の南征に従い、多く功を立てしを以て、水軍万戸と為し兼ねて覇州の民戸を領せしむ。諸水軍の将吏河陰県達魯花赤胡玉千戸王端臣の軍七百四人、八柳樹千戸斡来の軍三百六十一人、孟州の龐抄児赤・張信の軍一百九十人、濱棣州海口総把張山の軍一百人、滄州海口達魯花赤塔剌海の軍一百人、睢州李総管麾下の孟春等五十五人、覇州蕭万戸の軍一百九十五人、悉く命に聴かしむ。

三年(1262年)三月、詔を下す。「真定・彰徳・邢州・洺磁・東平・大名・平陽・太原・えい輝・懐孟等の路各所において、旧来按札児・孛羅・笑乃䚟・闊闊不花・不里合抜都児等の官の管轄に属した探馬赤軍人で、乙卯年(1255年)に民戸として登録された者、また軍に簽発された者がある。もし壬寅(1242年)・甲寅(1254年)の両度の簽定軍で、既に籍冊に入っている者は、各万戸に随って従前通り出征せよ。その、かつて軍となったことがなく、また蒙古・漢人の民戸内で数に入っている者は、悉く軍に簽せよ。」六月、軍士で貧乏を訴える者が多いため、貧富を兼ね合わせて役に応じさせ、実に自活できない者には三年間優遇して恤うことを命じた。十月、山東東路経略司に諭す。「益都路の匠軍で以前に簽把されたことのある者は、他の路の例に従い、軍に従わせよ。」鳳翔府の屯田軍人を平陽軍の数に準じて充当し、なお鳳翔で屯田させ、軍に従わせてはならない。刁国器の管轄する重簽軍九百十五人は、即日放免して民とする。陝西行省が言う。「士卒で金州を戍守する者は、諸奥魯が既に服役しており、今重ねて苦労させる。」詔してこれを罷めしむ。併せて山東・大名・河南諸路の新たに簽した防城戍卒を罷む。

四年(1263年)二月、詔す。「統軍司及び管軍万戸・千戸等は、太祖の制に従い、各官が子弟を入朝させて禿魯花に充てよ。」その制は、万戸は禿魯花一名、馬十匹、牛二具、種田人四名。千戸で現に管軍五百または五百以上を管する者は、禿魯花一名、馬六匹、牛一具、種田人二名。管する軍が五百に及ばなくとも、その家が富強で子弟が健壮な者も、禿魯花一名を出し、馬匹・牛具・種田人は同じ。万戸・千戸の子弟で禿魯花に充てる者は、妻子を連れて共に至らせ、従人は数を定めず、馬匹・牛具は定められた数を除き、さらに余分を増やすのは聴す。もし貧乏で自ら準備できない者があれば、本万戸内で禿魯花を出すべきでない人の中から、広く援助して発遣し、よって軍衆に賦課してはならない。万戸・千戸に親子がいないか、または親子が幼弱で成人に及ばない者は、弟・姪を充て、親子が年十五に及ぶのを待って交換せよ。もし確かに親子があれば、隠匿して代えてはならず、確かに気力があれば、妄りに貧乏と称してはならず、また到来しても気力が完備していない者は、共にこれを罪する。今月、帝は太宗の旧制により、官を設け職を分ち、軍民の事は各々司る所がある。後に多事の際、区別する暇がなく、阿海を都元帥に充て、専ら北京・東京・平灤・懿州・蓋州路において現管軍人を管領させ、凡そ民間の事には預からしめない。五月、枢密院を立て、凡そ蒙古・漢軍は共に枢密の節制を聴く。統軍司・都元帥府は、辺境の緊急事務に遇えば便宜に調度するほかは、その軍情一切の大小公事は、必ず申し覆すべし。設けるべき奥魯官は、皆枢密院に従って設置する。七月、詔して河南の保甲丁壮・射生軍三千四百四十一戸の雑泛科差を免じ、専ら守把巡哨をさせよ。八月、成都路行枢密院に諭す。「近年軍人で逃亡・事故の多い者は、各奥魯内で実情を尽くして簽補せよ。乙卯年(1255年)に軍籍に定められた数の者は、悉く簽起して軍に赴かせよ。」十一月、女直・水達達及び乞烈賓の地で合せて鎮守軍を簽し、亦里不花に三千人を簽させ、塔匣来に付してこれを領せしむ。併せて達魯花赤官の子及びその他の近上の戸内でも、また軍を簽し、亦里不花の節制を聴かしむ。

至元二年(1265年)八月、陝西五路西蜀四川行省が言う。「新たに簽した軍七千人を、もし民戸から発すれば、恐らく擾乱を招く。今鞏昌には既に旧軍三千、諸路軍二千あり、残り二千人も必ずしも民戸から発する必要はなく、便宜により起補すべきである。」これに従う。十一月、省院官が議し、私的に間道を走り、馬匹を盗販し、かつて南界を越えた人三千八百四戸を収得し、悉く軍に充て、一千九百七十八人を山東路統軍司に、一千人を蔡州万戸に与え、残り八百二十六戸は、旨を留めて軍中に置く。

三年(1266年)七月、内外の巡軍を増やし、外路は毎百戸ごとに中産の者一人を選んでこれに充て、その賦役は余りの戸に代わって輸納させ、都では武衞軍四百を増やす。

四年(1267年)正月、蒙古軍を簽し、毎戸二丁・三丁の者は一人、四丁・五丁の者は二人、六丁・七丁の者は三人とする。二月、詔して官を遣わし平陽・太原の人戸を軍に簽す。軍・站・僧・道・也里可温・答失蠻・儒人等の戸を除き、係官・投下民戸・運司戸・人匠・打捕鷹房・金銀鉄冶・丹粉錫碌等の、何の戸計たるを問わず、酌中戸内で丁が多く堪当する人戸を検分し、軍二千人を簽し、百戸・牌子頭を定立して、陝西五路西蜀四川行中書省の管轄する東川に出征せしむ。また京兆・延安の両路で軍一千人を簽し、平陽・太原の例の如くする。五月、詔す。「河南路は酌中戸内で丁が多く堪当軍人の人戸を検分し、軍四百二十名を簽し、枢密院に帰属させ、軍に従わせ、その徭役を復す。南京路は邳州・南宿州を除き、中書省の分間定に依って応簽軍人戸とし、丁数を検分し、軍二千五百八十名を簽し、管領して出征せしむ。」十二月、女直・水達達軍三千人を簽す。

五年(1268年)閏正月、詔して益都の李璮の元簽軍は、なお旧数のまま役に充てよ。二月、詔して諸路の奥魯を総管府に隷属させず、別に総押所官を設け、枢密院の節制を聴かしむ。六月、省臣が議す。「簽起した禿魯花官員は、皆既に遷転し、あるいは物故・黜退した者があり、その内にまた貧難の蒙古人氏がある。各路総管府の達魯花赤・総管及び兵を掌る万戸は合せて当然すべきであるが、その次の官員の禿魯花は宜しく放罷し、自ら留質を願う者はこれを聴す。」十月、長軍の官が士卒を侵漁することを禁じ、違う者は罪を論ず。十一月、山東・河南の沿辺州城の民戸を軍に簽し、征進に遇えば、則ち有力の家を選んで元の守辺城漢軍と一体に出征させ、その無力の家に代わって辺城を守らせ及び屯田の勾当を行わせる。

六年(1269年)二月、懐孟・衞輝路の丁の多い人戸を簽して軍に充て、益都・淄萊の管轄する登・萊州の李璮旧軍内から、一万を起簽し、官を差して部領して出征せしむ。その淄萊路の管轄する淄・萊等の処で李璮旧管でない者は、五百二十六人を簽し、その他の諸色人戸もまた酌量して丁数を検分し、軍を簽して起遣し、軍前に赴いて役に就かしむ。十月、山東路統軍司の言に従い、応に係る逃亡軍で未だ獲られざる者は、その次親の丁に代わって役に就かせ、身死した軍人もまた親丁に代補させ、親丁がなければ少壮の驅丁に代わらしむ。

七年(至元七年)三月、軍官の等級を定め、万戸・千戸・百戸・総把は軍士の数によって差をつけた。六月、成都府は民三万一千七十五戸を調査し、義士軍八千六十七人を徴発した。七月、諸路の砲手軍を選別した。初め太祖・太宗が征討の際、諸路から徴発し、また州県を攻め落として、鉄木金火などの人匠を招收して砲手に充て、管領して出征させ、壬子年(1252年)には皆砲手として戸籍に附した。中統四年(1263年)に選定し、正軍として役に当たる者を除き、その他の戸は民と同様に差役を負担させた。後に出軍正戸の負担が煩雑困難となったため、至元四年(1267年)に元来砲手に充てた民戸の補助を取ったが、その中には能力のある者とない者がおり、隠れて負担を免れる不便があったので、この時に選別したのである。

八年(至元八年)二月、瓜州・沙州の鷹房三百人を軍に充てた。

九年(至元九年)正月、河南省が増兵を請うたので、諸路に命じて軍三万人を徴発した。詔して元帥府・統軍司・総管万戸府に軍籍を実査させた。二月、アジュ(阿朮)に行省蒙古軍を統轄させ、劉整・アリハヤ(阿里海牙)に漢軍を統轄させた。四月、詔して「諸路の軍戸の駆丁(奴隷身分の丁男)は、至元六年以前に良民となって民籍に入った者は差役を負担する。七年以後に、良民となる文書に便宜のまま民となると書かれた者も同様とする。その他は良民となっても、皆本戸の軍役を補助させよ」とした。七月、大都・京兆などの探馬赤戸の名籍を調査した。九月、枢密院に詔して「諸路の正軍・貼戸および同籍の親戚・僮奴で、丁年に達し役務に堪え、諸王や権要に依って役を避けている者は、皆軍に戻せ。ただし技芸の精巧な者は名を上奏せよ」とした。十二月、府・州・司・県のダルガチ(達魯花赤)および治民長官に、本職に差し支えなく、諸軍のオロ(奥魯、軍士家族の管理組織)を兼管させた。各路総管府のダルガチ・総管には、別に宣命と印信を与え、府・州・司・県のダルガ赤長官には印信のみを与え、任期満了の際は別に解由(離任証明書)を作成し、枢密院に申告させた。

十年(至元十年)正月、カラ(合剌)が渠江の北の雲門山および嘉陵江西岸の虎頭山に二つの戍を設置することを請い、その地図を献上し、さらに兵二万を増やすことを乞うたので、京兆の新たに徴発した軍五千人を与えて増強するよう命じた。陝西京兆・延安・鳳翔三路の諸色人戸、約六万戸の内から、軍六千人を徴発した。五月、乾討虜人(略奪を生業とする者)を禁じ、軍に志願する者は、万戸・千戸の下で牌甲を編成し、大軍と共に征進させることとした。八月、軍吏の長が借金を募ることを禁じ、重利を取って軍力を損なうことを許さず、違反者は罪に処することとした。九月、襄陽の生券軍(投降兵で生券(給与保証証)を与えられた者)が都に至り、枷を解き拘束を免じて死罪を赦され、自ら部伍を立てることを許され、日本征伐に従軍させ、さらに蒙古人・漢人の中から官を選んで率いさせた。

十一年(至元十一年)正月、初めて軍官が功績により散官の位階を昇進する規定を定めた。五月、便宜総帥府が言上した「本路の軍は今より四十年間、或いは死亡し或いは逃亡し、丁男がおらず補充できず、現在の軍は少ない。役に堪えるか否かの丁力を選別し、貧困で丁男のいない者は罷免し、民戸・站戸の中から別に選んで充役させてほしい」。これに従った。詔して延安府・沙井・浄州などの種田白達達戸(農業に従事する白タタール戸)から、軍務に堪えうる者を選び、徴発して出征させた。六月、潁州屯田総管李珣が言上した「近頃徴軍事に際し、徐・邳州の屯田の例に倣い、三丁の内、一丁は防城に当たり、二丁は納糧とし、丁壮七百余人を徴発でき、また元来配属された保甲丁壮と共に、私が統率して潁州を鎮守し、現在駐屯しているナカ(納合)監戦軍馬を代わって別の用途に充てたい」。これに従った。

十二年(至元十二年)三月、官を遼東に派遣し、蒙古のダルガチ・千戸・百戸などの官の子弟を選別して出軍させた。詔して各所に配置した襄陽生券軍で農業に従事している者、あるいは自ら志願して軍に充たる者の数を詳細に上奏させた。五月、正陽万戸劉復亨が言上した「新たに江南三十余城を下したが、皆兵をもって守り、また江北・淮南・潤州・揚州など未降伏の地があり、軍力が分散し、配置が行き届かず、そのため鎮巣軍・滁州の両箇所で再び反乱が起こった。河西などの戸を徴発して軍とし、力を合わせて討伐除去すれば、後患なからんことを請う」。旨があり、粛州ダルガチに命じ、また使者を同行させて各色戸計の物力が富裕で強い者を検分し徴発させた。六月、平陽・西京・延安などの路のダルガチの弟・男子を徴発して軍とした。萊州の酒税官王貞らが上言した「国家が残宋を討平するのは、弔民伐罪を事とするのであって、何嘗か賄利を心にかけようか。彼らは事業を継がず、小人は貨利を貪り図り、乾討虜の名目を作り、その地を侵掠し、得た人口を悉く売り払い、酒食の費用に充てている。勝っても朝廷に益なく、敗れれば実に国辱である。招討司が収容した乾討虜人は、皆罷免し、その能力の高下を評定して正軍として登録し、各万戸に管領させて征進させれば、一にはその実用を得、二には王者の師の弔伐の名を正すことになり、実に便利有益である」。これに従った。

十四年(至元十四年)正月、詔して「上都・隆興・西京・北京の四路の編民(戸籍に登録された民)で捕獵などの戸から、丁壮の軍二千人を選抜徴発し、上都を防守せよ」。中書省が議して「各路から組み合わせ、二十五戸の内から軍一名を取り、騎射に優れた者を充て、官が行資として中統鈔一錠を与え、なお自ら鞍馬・衣装・器仗を備えさせ、牌甲に編成し、官を差して統率し、前来して役務に就かせる」。十二月、枢密院の臣が言上した「亡宋の州城を収附し、新たに帰附して糧食を請う官軍および通事・馬軍などで、軍官が存恤せず、多く逃散している者を招誘してほしい」。左丞陳巖らに命じて軍役に堪える者を選別させ、収容して軍に充て、旧例により月ごとに銭糧を支給させた。生券で軍役に堪えない者は、官が牛具・糧食を与え、屯田して耕作養生させた。

十五年正月、軍官の承襲の制度を定む。凡そ軍官にして功ある者はその秩を陞し、元受の職は、他に功ある者をして居らしめ、子姪をして復た代わらしむることを得ず。陣歿の者のみ承襲を得、病死者は一等を降す。総把・百戸の老病死は、承襲の例に在らず。凡そ将校、陣に臨みて中傷し、還営して創を病む者も、亦た陣歿の人と一体に承襲せしむ。長軍の官、士卒を恤わざるを禁じ、及び士卒の亡命して役を避け、初附の百姓を侵擾する者は、倶に罪有り。雲南行省言う、「雲南旧来屯駐の蒙古軍甚だ少なく、遂に漸く長成丁の怯困都等軍を取って、出征に備う。雲南は闊遠にして、未だ降らざるの地多く、必ず兵を用うべし。既に爨・僰人一万を簽して軍と為し、新たに降附した落落・和泥等人を続けて取り、亦た軍に充てしむ。然れども其の人は中原と同からず、若し別の地に赴きて出征せば、必ず逃匿に致らん。宜しく各その居る一方の未だ降らざる処に用うべし」と。九月、軍士を併す。初め、至元九年に軍三万を簽す。ただ精鋭年壮の者を択び、復た其の資産を問わず、且つ貼戸の助け無し。歳久しくして貧乏堪えざる者多し。枢密院臣奏す、宜しく民と為すべしと。遂に一万五千に併す。諸軍戸、諸侯王の怯憐口・人匠に投充し、或は別戸と託して其の役を避くる者は、復た軍と為し、良匠有れば則ち別ちて之を出だす。枢密臣又言う、「至元八年、各路の軍の富商大賈たる者一百四十三戸に於て、各一軍を増し、号して余丁軍と為す。今、東平等路の諸奥魯総管府言う、往々人死産乏しく、二軍を充つること能わず。余丁の役に充つるを免せんことを乞う」と。制して可とす。十二月、枢密院官議す、「諸軍官、軍籍に在る者は、百戸・総把は権めて軍役に準ずるを除き、其の元帥・招討・万戸・総管・千戸或は首領官は、倶に再び正軍一名を当つべし」と。

十六年正月、五翼探馬赤の重役軍を罷む。三月、両淮に回回礮を造る新附軍匠六百人及び蒙古・回回・漢人・新附人にして礮を造る能き者を括り、京師に至らしむ。五月、淮西道宣慰司官昂吉児、亡宋の通事軍を招諭して、之を麾下に属せしめんことを請う。初め、亡宋は多く北地の蒙古人を招納して通事軍と為し、之に遇すること甚だ厚く、毎戦皆前行に列し、願わくは死力を効さんとす。及び宋亡び、帰する所無し。朝議、版籍に編入せんと欲すれど未だ暇あらず。人人疑懼し、皆自ら安からず。是に至り、昂吉児招集を請い、行伍に列し、以て征戍に備えんとす。之に従う。九月、河西の地に未だ軍を簽せざる官及び富強戸にして物力有る者に詔し、軍六百人を簽す。十月、寿州等処招討使李鉄哥、罪有りて亡命の者を召募して軍に充てんことを請う。其の言う、「功を使うは過を使うに如かず。始め南宋未だ平らかならざる時、蒙古・諸色人等、罪に因りて皆亡命し往きて焉に依る。今已に平定すれど、尚お林藪に逃匿す。若し其の罪を釈して之を用いば、必ず能く力を効し、一も十に当たらざる者無からん」と。十一月、太原・平陽・西京・延安路の新簽軍を罷め、籍に還す。

十七年七月、江淮諸路に詔し、答剌罕軍を招集せしむ。初め江南を平らぐるに、死士にして軍に従わんと願う者を募り、号して答剌罕と為し、劉万戸の麾下に属す。南北既に混一すれど、復た之を散ず。其の人皆帰する所無く、率いて群聚し剽掠す。是に至り、諸路を命じて之を招集せしめ、万奴に部領を令めて旧の如くし、范左丞・李抜都二人の節制を聴かしむ。

十八年二月、貧乏なる軍人三万户を併せて一万五千と為し、貼戸を取って正軍を津貼し役に充てしむ。四月、蒙古・漢人・新附軍総管を置く。六月、枢密院議す、「正軍貧乏にして丁無き者は、富強丁多き貼戸をして権めて正軍に充てて役に応ぜしめ、正軍の物力を験し、却って貼戸を津済せしめ、其の正軍は仍って軍頭と為すこと旧の如くすべし。或は正軍実に単丁に係る者は、傭雇練習の人を許して役に応ぜしめ、丁多き者は傭雇すべからず。軍官も亦た親従人を以て之に代うることを得ず」と。

十九年二月、諸侯王阿只吉、使を遣わして言う、「探馬赤軍凡そ九処出征す。各奥魯内に復た雑泛徭役を徴す。便ならず」と。詔して之を免じ、併せて有司に詔し、軍戸を重役すべからず。六月、長軍の官を禁じ、士卒を占役することを得ざらしむ。定海の答剌罕軍を散じて各営に還し、及び戍城邑に帰せしむ。十月、漸丁軍士を簽発す。旧制に遵い、家に一丁のみの者は数に作さず。凡そ二丁より五丁・六丁の家は、一人を止めて存し、余は皆軍に充つ。

二十年二月、各処の行枢密院に命じ、新附軍の籍冊を造らしむ。六月、丞相伯顔の議に従い、括りし宋の手号軍八万三千六百人を以て、牌甲を立て、官を設けて之を統べしむ。十月、出征軍人の亡命の罪を定む。首なる者は斬り、余は死を減じて一等とす。

二十一年八月、江東道僉事馬奉訓言う、「劉万奴の乾討虜軍、私に相糾合し、徒党を結び、弓を張り矢を挟み、或は使臣と詐称す。各翼の万戸・千戸・百戸・牌甲内に管領するに散ずるに若かず」と。省院官以て聞く。旨有り、此の軍に問わしむべし、「脱歓に従い出征虜掠せんと欲するか?且く放散して家に還らんと欲するか?」と。回奏す、「衆軍皆言う、襄樊を囲み江を渡る以来、国に力を効す。願わくは家に還り少しく息わんことを令めよ」と。遂に之に従う。亡宋の手記軍を籍す。宋の時に是の軍有り。死すれば則ち兄弟若しくは子を以て承代す。旨有り、漢軍の例に依りて之を籍し、其の手を湼すこと毋れ。

二十二年正月、行枢密院を江南三省に立て、其の各処行省の見管軍馬悉く以て之に付す。九月、福建の黄華畬軍に詔し、恒産有る者は放ちて民と為し、恒産無く妻子と与にする者は編して守城軍と為す。交趾を征する蒙古軍五百人・漢軍二千人、蒙古軍百人・漢軍四百人を留めて鎮南王脱歓の宿衛と為すを除き、余は悉く遣還し、別に江淮行枢密院の蒙古軍を以て江西を戍らしむ。十月、月的迷失の言に従い、乾討虜軍七百人を以て、名数を籍し、牌甲を立て、将官の軍無き者をして之を領せしむ。十一月、御史台臣言う、「昔、宋は室家無き壮士を以て塩軍と為す。内附の初め、五千人有り。占城を征し糧を運ぶに死亡する者を除き、今一千一百二十二人を存す。此の徒は皆性凶暴を習い、民之を患い苦しむ。宜しく衣糧を給し、屯田して自ら贍わしめ、庶幾くは其の擾を絶たん」と。之に従う。十二月、枢密院の請に従い、軍籍の条例を厳しく立て、壮士及び有力の家を選びて軍に充てしむ。旧例、丁力強き者は軍に充て、弱き者は出銭す。故に正軍・貼戸の籍有り。之を行うこと既に久しく、而して強者弱く、弱者強く、籍も亦た旧の如し。其の同戸異居の者は、私に年期を立て、以て相更代す。故に老稚軍に従うを免れずして強壮家に居る者有り。是に至りて革む。江浙省、塩徒を募りて軍と為し、四千七百六十六人を得、軍官麾下に士卒無き者を選び、相参して之を統べ、以て各処の鎮守に備う。

二十四年閏二月、枢密院の臣が言うには、「諸軍の貼戸には、正軍が既に死んだ者、工匠に充てられた者、民に放たれた者、元来各投下の戸で回付された者があり、このように休閑している一千三百四十戸は、人を差し向けて貧富を分け揀い、貼戸・正軍を定めてほしい」と。制して可とする。

二十六年八月、枢密院が議するに、「諸管軍官の万戸・千戸・百戸などで、軍を治めるに法あり、鎮守に憂いなく、鎧仗が精良で完備し、差役が均平で、軍に逃竄する者のない者は、所司に薦挙させて上聞に達し、次第を超えて抜擢任用することを許す。諸軍吏の長は、上司の命なくして、みだりに職を離れることを許さない。諸長軍の者、及び蒙古・漢軍は、みだりに辺境の事を言うことを許さない」。

成宗大徳二年十二月、各省の提調軍馬官員を定める。凡そ随従軍士を用いるに、蒙古の長官は三十名、次官は二十名、漢人は十名とし、万戸・千戸・百戸人等は、皆これを占役してはならない。行省の鎮撫は、ただ外を聴探するのに用いるほか、また余分に役占してはならない。

十一年四月、詔して礼店軍を還して土蕃宣慰司に属させる。初め、西川の也速迭児・按住奴・帖木児らが統べる探馬赤軍は、壬子年より礼店に籍を属し、王相府に隷していたが、後に王相府が廃止されると、陝西省に属した。桑哥が土蕃宣慰司に属すよう奏上したが、皆不便と為し、大徳十年に壬子年の籍に依るよう命じ、ここに至って再び改めて属させる。

武宗至大元年正月、通恵河千戸劉粲の領する運糧軍九百二十人を、万戸赤因帖木児の兵籍に属させる。十二月、丞相三宝奴らが言うには、「国の制度では、行省の佐貳及び宣慰使は軍馬を提調してはならない。遥授平章・揚州宣慰使阿憐帖木児のような者は、かつて成宗と乳母を同じくしたため、これを行うことができたが、常の法ではない。今沙的を代わりに命じたので、国制に遵い、提調させてはならない」と。制して可とする。

仁宗皇慶元年三月、中書省の臣が李馬哥ら四百戸を民とするよう奏上する。初め、李馬哥ら四百戸は諸侯王脱脱に属し、乙未年に籍を定めて民と為したが、高麗の林衍及び乃顔が叛くと、皆かつて軍に簽された。至元八年に軍籍を置き、李馬哥らが七十二万戸内の軍数に非ざるを以て、再び民と改めた。至大四年、枢密院が再び軍とするよう奏上した。ここに至り、省官がこれを言上したので、乙未年に既に定めた籍に遵うよう命じる。後に枢密院が再び奏上し、遂に軍戸と為す。十二月、省臣が言うには、「先に枢密院が奏準したところでは、雲南省は各省の制に遵うべきで、その省官で長たる者二員のみが虎符を佩くことを得て軍馬を提調し、その余の佐貳は預かることを得ず、既に虎符を受けた者は悉くこれを収める。今雲南省が言うには、本省は軍士の力を籍して以て錢穀を辦集し、調遣あるに遇えば、省官自ら衆を率いて上馬するので、旧制では牧民官であっても虎符を佩き軍務を領することを得て、他省と異なる。臣ら議うに、既に虎符を受けた者は故事に依り、未だ受けざる者は宜しくこれを頒賜すべきである」と。制して可とする。

二年正月、詔す、「雲南省は遠方を鎮め、辺務を掌る。凡そ事軍旅に渉る者は、平章より僚佐に至るまで須らく同署押し、その長官二員は、また哈必赤とすべし」。

延祐元年二月、四川省の軍官に闕員あり、詔す、「民官遷調の制に依り、人を差し本省の提調官及び監察御史とともに銓注すべし」。

三年三月、伯顔都万戸府及び紅胖襖総帥府に命じ、各々軍九千五百人を調発し、諸侯王の所へ往き、守辺の士卒を交代させる。その都万戸府に属する者は、軍一名に馬三匹、総帥府に属する者は、軍一名に馬二匹とする。人に自ら計らわせ、貧しく自ら備えること能わざる者は、則ち行伍の長及び百戸・千戸らにこれを助けさせる。悉く精鋭で騎射を練習した士を遣わす。毎軍一百名に百戸一員、五百名に千戸一員とする。また買住・囊加䚟の二人に命じ、左右に分かれてこれを部領させる。