三國志さんごくし

蜀しょく書二 先主傳

先主の姓は劉、諱は備、字は玄徳、涿郡涿県の人で、漢の景帝の子である中山靖王劉勝の後裔である。劉勝の子の劉貞は、元狩六年に涿県陸城亭侯に封ぜられたが、酎金の罪により侯位を失い、その地に住みついた。先主の祖父は劉雄、父は劉弘で、代々州郡に仕えた。劉雄は孝廉に推挙され、官は東郡范県の令に至った。

原文先主姓劉,諱備,字玄德,涿郡涿縣人,漢景帝子中山靖王勝之後也。勝子貞,元狩六年封涿縣陸城亭侯,坐酎金失侯,因家焉。 〈《典略》曰:備本臨邑侯枝屬也。〉先主祖雄,父弘,世仕州郡。雄舉孝廉,官至東郡范令。

先主は幼くして孤児となり、母と共に履を売り、蓆を織ることを生業とした。家の東南角の籬の上に桑の木が生え、高さ五丈余りにもなり、遠くから見ると童童として小さな車蓋のようであり、往来する者は皆この木が並々ならぬものだと怪しみ、ある者は貴人が出るであろうと言った。先主が幼い頃、宗族の子供たちとその木の下で遊び、「私は必ずやこの羽葆蓋車に乗るであろう」と言った。叔父の劉子敬が彼に言った。「お前はでたらめを言うな、我が一族を滅ぼすぞ!」十五歳の時、母は彼に学問をさせ、同族の劉徳然や遼西の公孫瓚と共に、かつて九江太守であった同郡の盧植に師事した。劉徳然の父の劉元起は常に先主を資助し、劉徳然と同等に扱った。劉元起の妻が言った。「それぞれ別の家なのに、どうしていつもそうできるのかしら!」劉元起は言った。「我が宗族にこの児がいるが、普通の者ではない。」そして公孫瓚は深く先主と親友となった。公孫瓚は年長であったので、先主は兄として彼に仕えた。先主は読書をあまり好まず、犬馬・音楽・美しい衣服を好んだ。身長は七尺五寸、手を垂らすと膝に届き、振り返れば自分の耳が見えた。言葉少なで、人にへりくだることをよくし、喜怒を顔色に表さなかった。豪侠と交わりを結ぶことを好み、若者たちは争って彼に付き従った。中山の大商人の張世平・蘇双らは財産を千金も蓄え、馬を売買して涿郡を往来していたが、先主を見て並々ならぬ者と感じ、多くの金銭を与えた。先主はこれによって徒党を集めることができた。(『漢晋春秋』にいう。涿の人李定が「この家から必ず貴人が出る」と言った。)

原文先主少孤,與母販履織蓆為業。舍東南角籬上有桑樹生高五丈餘,遙望見童童如小車蓋,往來者皆怪此樹非凡,或謂當出貴人。 〈《漢晉春秋》曰:涿人李定云:「此家必出貴人。」〉先主少時,與宗中諸小兒於樹下戲,言:「吾必當乘此羽葆蓋車。」叔父子敬謂曰:「汝勿妄語,滅吾門也!」年十五,母使行學,與同宗劉德然、遼西公孫瓚俱事故九江太守同郡盧植。德然父元起常資給先主,與德然等。元起妻曰:「各自一家,何能常爾邪!」起曰:「吾宗中有此兒,非常人也。」而瓚深與先主相友。瓚年長,先主以兄事之。先主不甚樂讀書,喜狗馬、音樂、美衣服。身長七尺五寸,垂手下膝,顧自見其耳。少語言,善下人,喜怒不形於色。好交結豪俠,年少爭附之。中山大商張世平、蘇雙等貲累千金,販馬周旋於涿郡,見而異之,乃多與之金財。先主由是得用合徒眾。

霊帝の末、黄巾の乱が起こり、州郡はそれぞれ義兵を挙げた。先主は配下を率いて校尉こういの鄒靖に従い黄巾賊を討伐して功績があり、安喜県の尉に任ぜられた。督郵が公務で県に来た時、先主は面会を求めたが通じず、直ちに中に入って督郵を縛り上げ、二百回杖打ち、綬を解いてその首に結びつけ馬のくびきにつなぎ、官を棄てて逃亡した。間もなく、大将軍の何進が都尉の毌丘毅を丹楊に派遣して兵を募集した。先主は彼と共に行き、下邳で賊に遭遇し、力戦して功績があり、下密県の丞に任ぜられた。再び官を去った。後に高唐県の尉となり、令に昇進した。賊に敗れたため、中郎将の公孫瓚の下に奔った。公孫瓚は彼を別部司馬に上表し、青州刺史の田楷と共に冀州牧の袁紹を防がせた。幾度か戦功があり、試みに平原県の令を守り、後に平原国の相を兼任した。郡民の劉平は平素から先主を軽んじ、その下に立つことを恥じ、刺客を遣わして彼を刺させた。刺客は刺すに忍びず、事情を話して去った。そのように人心を得ていたのである。(『典略』にいう。平原の劉子平は劉備が武勇に優れることを知っていた。当時張純が反乱を起こし、青州は詔を受けて従事に兵を率いさせ張純を討たせた。平原を通った時、子平は従事に劉備を推薦し、そこで共に従った。野で賊に遭遇し、劉備は傷を負って死んだふりをし、賊が去った後、旧知の者が車に載せてくれたので免れた。後に軍功により中山安喜県の尉となった。『典略』にいう。その後、州郡は詔書を受け、軍功により長吏となった者を淘汰することになり、劉備は自分がその中にあると疑った。督郵が県に来て、劉備を遣わそうとしたが、劉備はかねてこれを知っていた。督郵が伝舎にいると聞き、劉備は面会を求めたが、督郵は病と称して会おうとしなかった。劉備はこれを恨み、役所に戻って吏卒を連れ再び伝舎へ赴き、門に突入して「私は府君の密教を受けて督郵を収める」と言った。そのまま床に就いてこれを縛り、外へ連れ出して境界に至り、自ら綬を解いて督郵の首に結びつけ、木に縛りつけて百回余り鞭打ち、殺そうとした。督郵が哀願したので、解き放って去った。『英雄記』にいう。霊帝の末年、劉備はかつて京師にあり、後に曹公と共に沛国に還り、兵を募って衆を集めた。ちょうど霊帝が崩じ、天下大乱となり、劉備もまた軍を起こして董卓討伐に従った。『魏書』にいう。劉平は刺客を結んで劉備を刺させようとしたが、劉備はそれを知らずに刺客を非常に手厚く遇したので、刺客は事情を話して去った。この時、人民は飢饉に苦しみ、屯聚して掠奪を働いた。劉備は外では寇難を防ぎ、内では財を豊かにして施し、身分の低い士でも必ず同じ席に座り、同じ器で食を共にし、選り好みをしなかった。多くの者が彼に帰順した。)

原文靈帝末,黃巾起,州郡各舉義兵,先主率其屬從校尉鄒靖討黃巾賊有功,除安喜尉。 〈《典略》曰:平原劉子平知備有武勇,時張純反叛,青州被詔,遣從事將兵討純,過平原,子平薦備於從事,遂與相隨,遇賊於野,備中創陽死,賊去後,故人以車載之,得免。後以軍功,為中山安喜尉。 〉督郵以公事到縣,先主求謁,不通,直入縛督郵,杖二百,解綬繫其頸着馬枊,〈五葬反。〉棄官亡命。 〈《典略》曰:其後州郡被詔書,其有軍功為長吏者,當沙汰之,備疑在遣中。督郵至縣,當遣備,備素知之。聞督郵在傳舍,備欲求見督郵,督郵稱疾不肯見備,備恨之,因還治,將吏卒更詣傳舍,突入門,言「我被府君密教收督郵」 。遂就床縛之,將出到界,自解其綬以繫督郵頸,縛之著樹,鞭杖百餘下,欲殺之。督郵求哀,乃釋去之。〉頃之,大將軍何進遣都尉毌丘毅詣丹楊募兵,先主與俱行,至下邳遇賊,力戰有功,除為下密丞。復去官。後為高唐尉,遷為令。 〈《英雄記》云:靈帝末年,備嘗在京師,後與曹公俱還沛國,募召合眾。會靈帝崩,天下大亂,備亦起軍從討董卓。〉為賊所破,往奔中郎將公孫瓚,瓚表為別部司馬,使與青州刺史田楷以拒冀州牧袁紹。數有戰功,試守平原令,後領平原相。郡民劉平素輕先主,恥為之下,使客刺之。客不忍刺,語之而去。其得人心如此。 〈《魏書》曰:劉平結客刺備,備不知而待客甚厚,客以狀語之而去。是時人民饑饉,屯聚鈔暴。備外禦寇難,內豐財施,士之下者,必與同席而坐,同簋而食,無所簡擇。眾多歸焉。〉

袁紹が公孫瓚を攻撃すると、先主は田楷と共に東の斉に駐屯した。曹操が徐州を征伐すると、徐州牧の陶謙は使者を遣わして田楷に危急を告げた。田楷と先主は共に救援に向かった。当時、先主は独自の兵千余人と幽州の烏丸や雑胡の騎兵、さらに飢民数千人をかき集めていた。到着すると、陶謙は丹楊兵四千を先主に加え、先主は田楷を離れて陶謙に帰属した。陶謙は先主を豫よ州刺史に上表し、小沛はいに駐屯させた。陶謙が病篤くなり、別駕の糜竺に言った。「劉備でなければこの州を安んじることはできない。」陶謙が死ぬと、糜竺は州の人々を率いて先主を迎えたが、先主は敢えて承諾しなかった。下邳の陳登が先主に言った。「今、漢室は衰微し、天下は傾覆している。功を立て事を成すは、今日にある。あの州は豊かで、戸口は百万、あなたに州の事を治めていただきたい。」先主は言った。「袁術が近く寿春におり、この方は四代にわたり五人の三公を出した家柄で、天下の帰するところである。あなたは州を彼に与えるべきだ。」陳登は言った。「袁術は驕慢で豪放であり、乱を治める主君ではない。今、あなたのために歩兵騎兵十万を集め、上は主君を助け民を救い、五覇の業を成し遂げ、下は地を割き境を守り、功績を竹帛に記すことができます。もしあなたがお聞き入れにならなければ、私もあなたに従うことはできません。」北海国の相の孔融が先主に言った。「袁術がどうして国を憂い家を忘れる者でありましょうか。墓中の枯骨に過ぎず、どうして気にかけるに足りますまい。今日の事は、百姓が能ある者に与え、天が与えるものを取らなければ、後悔しても追いつきません。」先主は遂に徐州を領した。袁術が先主を攻めて来ると、先主は盱眙・淮陰でこれを防いだ。曹操は先主を鎮東将軍に上表し、宜城亭侯に封じた。これは建安元年のことであった。先主と袁術が一ヶ月余り対峙していると、呂布が虚を突いて下邳を襲撃した。下邳の守将の曹豹が反乱し、内応して呂布を迎え入れた。呂布は先主の妻子を捕虜にし、先主は軍を海西に転進させた。楊奉・韓暹が徐州・揚州の間を寇掠したので、先主は迎え撃ってことごとく斬った。先主は呂布に和を請い、呂布はその妻子を返した。先主は関羽を派遣して下邳を守らせた。(『献帝春秋』に曰く、陳登らは使者を袁紹のもとへ遣わして言った。「天が災いを降し、禍がわが州に至り、州の長が亡くなり、民は主を失いました。奸雄が隙に乗じて盟主に憂いをもたらすことを恐れ、謹んで故平原相劉備府君を宗主として奉り、永く百姓が依るべき所を知るようにいたしました。今、寇難が縦横にあり、甲を解く暇もありませんので、謹んで下吏を遣わして奔告いたします。」袁紹は答えて言った。「劉玄徳は広く雅で信義があり、今徐州が喜んで彼を戴くのは、まことに望みにかなうものである。)

原文袁紹攻公孫瓚,先主與田楷東屯齊。曹公征徐州,徐州牧陶謙遣使告急於田楷,楷與先主俱救之。時先主自有兵千餘人及幽州烏丸雜胡騎,又略得饑民數千人。既到,謙以丹楊兵四千益先主,先主遂去楷歸謙。謙表先主為豫州刺史,屯小沛。謙病篤,謂別駕麋竺曰:「非劉備不能安此州也。」謙死,竺率州人迎先主,先主未敢當。下邳陳登謂先主曰:「今漢室陵遲,海內傾覆,立功立事,在於今日。彼州殷富,戶口百萬,欲屈使君撫臨州事。」先主曰:「袁公路近在壽春,此君四世五公,海內所歸,君可以州與之。」登曰:「公路驕豪,非治亂之主。今欲為使君合步騎十萬,上可以匡主濟民,成五霸之業,下可以割地守境,書功於竹帛。若使君不見聽許,登亦未敢聽使君也。」北海相孔融謂先主曰:「袁公路豈憂國忘家者邪?冢中枯骨,何足介意。今日之事,百姓與能,天與不取,悔不可追。」先主遂領徐州。 〈《獻帝春秋》曰:陳登等遣使詣袁紹曰:「天降災沴,禍臻鄙州,州將殂殞,生民無主,恐懼姦雄一旦承隙,以貽盟主日昃之憂,輒共奉故平原相劉備府君以為宗主,永使百姓知有依歸。方今寇難縱橫,不遑釋甲,謹遣下吏奔告于執事。」紹答曰:「劉玄德弘雅有信義,今徐州樂戴之,誠副所望也。」〉袁術來攻先主,先主拒之於盱眙、淮陰。曹公表先主為鎮東將軍,封宜城亭侯,是歲建安元年也。先主與術相持經月,呂布乘虛襲下邳。下邳守將曹豹反,閒迎布。布虜先主妻子,先主轉軍海西。 〈《英雄記》曰:備留張飛守下邳,引兵與袁術戰於淮陰石亭,更有勝負。陶謙故將曹豹在下邳,張飛欲殺之。豹眾堅營自守,使人招呂布。布取下邳,張飛敗走。備聞之,引兵還,比至下邳,兵潰。收散卒東取廣陵,與袁術戰,又敗。〉楊奉、韓暹寇徐、揚閒,先主邀擊,盡斬之。先主求和於呂布,布還其妻子。先主遣關羽守下邳。

先主は小沛に戻り、再び兵を集めて一万余人を得た。呂布はこれを憎み、自ら出兵して先主を攻撃し、先主は敗走して曹公のもとに帰順した。曹公は手厚くもてなし、豫州牧に任じた。先主は沛に向かい散兵を収容し、曹公から軍糧を供給され、さらに兵を与えられて東進し呂布を討つことになった。呂布は高順を派遣して攻撃し、曹公は夏侯惇を救援に派遣したが、救うことができず、高順に敗れ、再び先主の妻子が捕らえられ呂布のもとに送られた。曹公自ら東征に出陣し、先主を助けて下邳で呂布を包囲し、生け捕りにした。先主は再び妻子を得て、曹公に従って許都に戻った。曹公は先主を左将軍に上表し、礼遇はますます厚くなり、外出時には同じ車に乗り、座る時には同じ席に座った。袁術が徐州を経由して北の袁紹のもとに赴こうとしたので、曹公は先主に朱霊と路招を督させてこれを迎え撃たせた。到着する前に、袁術は病死した。(『英雄記』に曰く、劉備は張飛を留めて下邳を守らせ、兵を率いて袁術と淮陰の石亭で戦い、勝負は互角であった。陶謙の旧将曹豹が下邳にいたが、張飛は彼を殺そうとした。曹豹の衆は営を堅く守り、人を遣わして呂布を招いた。呂布は下邳を取ると、張飛は敗走した。劉備はこれを聞いて兵を引き返したが、下邳に着く頃には兵は崩壊していた。散った兵を集めて東の広陵を取り、袁術と戦ったが、また敗れた。/『英雄記』に曰く、劉備の軍は広陵にあり、飢餓に苦しみ、官吏兵士は大小を問わず互いに食い合い、窮乏と飢えに迫られて小沛に戻ろうとし、吏を遣わして呂布に降伏を請うた。呂布は劉備に州へ戻らせ、勢いを合わせて袁術を撃たせた。刺史の車馬や僮僕を整え、劉備の妻子や部曲・家族を泗水のほとりに送り出し、道祖神を祭って共に楽しんだ。/『魏書』に曰く、諸将は呂布に言った。「劉備はたびたび裏切り養い難い者です。早く計るべきです。」呂布は聞き入れず、その状況を劉備に語った。劉備は心安からず自ら身を託そうとして、人を遣わして呂布を説得し、小沛に駐屯することを求めたので、呂布はこれを遣わした。)

原文先主還小沛,〈《英雄記》曰:備軍在廣陵,飢餓困踧,吏士大小自相噉食,窮餓侵逼,欲還小沛,遂使吏請降布。布令備還州,并勢擊術。具刺史車馬僮僕,發遣備妻子部曲家屬於泗水上,祖道相樂。魏書曰:諸將謂布曰:「備數反覆難養,宜早圖之。」布不聽,以狀語備。備心不安而求自託,使人說布,求屯小沛,布乃遣之。 〉復合兵得萬餘人。呂布惡之,自出兵攻先主,先主敗走歸曹公。曹公厚遇之,以為豫州牧。將至沛收散卒,給其軍糧,益與兵使東擊布。布遣高順攻之,曹公遣夏侯惇往,不能救,為順所敗,復虜先主妻子送布。曹公自出東征,〈英雄記曰:建安三年春,布使人齎金欲詣河內買馬,為備兵所鈔。布由是遣中郎將高順、北地太守張遼等攻備。九月,遂破沛城,備單身走,獲其妻息。十月,曹公自征布,備於梁國界中與曹公相遇,遂隨公俱東征。〉助先主圍布於下邳,生禽布。先主復得妻子,從曹公還許。表先主為左將軍,禮之愈重,出則同輿,坐則同席。袁術欲經徐州北就袁紹,曹公遣先主督朱靈、路招要擊術。未至,術病死。

先主がまだ出陣していない時、献帝の外戚である車騎将軍董承が、帝の衣帯の中の密詔を受け、曹公を誅殺すべきであると申し出た。先主はまだ行動を起こさなかった。この時、曹公はゆったりと先主に言った。「今、天下の英雄は、使君と私だけだ。本初(袁紹)の輩は、数えるに足りない」。先主はちょうど食事中で、匙と箸を落とした。こうして董承および長水校尉の种輯、将軍の呉子蘭、王子服らと共謀した。ちょうど派遣されることになり、実行には至らなかった。事が発覚し、董承らは皆誅殺された。(臣松之が案ずるに、董承は漢霊帝の母である董太后の甥であり、献帝にとっては丈人(岳父)にあたる。古くは丈人という称がなかったので、これを舅と呼んだのである。/『華陽国志』に云う、この時ちょうど雷鳴がとどろいており、劉備はそれに因んで曹操に言った。「聖人が『迅雷風烈には必ず変ず』と言ったのは、まことに理由があることです。一震の威は、かくも甚だしいものなのですね。」/『献帝起居注』に曰く、董承らは劉備と謀ってまだ発動しないうちに、劉備は出て行った。董承は王子服に言った。「郭多には数百の兵があり、李傕の数万人を破った。ただ足下と私が同じ心であるかどうかだけだ。昔、呂不韋の門は子楚を必要として後に高くなった。今、私とあなたもこれと同じである。」王子服は言った。「恐れ多くて承知できません。しかも兵も少ない。」董承は言った。「事を挙げ終われば、曹公の兵を得られる。不足があろうか。」王子服は言った。「今、京師に任せられる者がいるでしょうか。」董承は言った。「長水校尉种輯、議郎呉碩は私の腹心で事を弁じる者である。」そこで計を定めた。)

原文先主未出時,獻帝舅車騎將軍董承〈臣松之案:董承,漢靈帝母董太后之侄,於獻帝為丈人。蓋古無丈人之名,故謂之舅也。〉辭受帝衣帶中密詔,當誅曹公。先主未發。是時曹公從容謂先主曰:「今天下英雄,唯使君與操耳。本初之徒,不足數也。」先主方食,失匕箸。 〈《華陽國志》云:于時正當雷震,備因謂操曰:「聖人云『迅雷風烈必變』,良有以也。一震之威,乃可至於此也!」〉遂與承及長水校尉种輯、將軍吳子蘭、王子服等同謀。會見使,未發。事覺,承等皆伏誅。 〈《獻帝起居注》曰:承等與備謀未發,而備出。承謂服曰:「郭多有數百兵,壞李傕數万人,但足下與我同不耳!昔呂不韋之門,須子楚而後高,今吾與子由是也。」服曰:「惶懼不敢當,且兵又少。」承曰:「舉事訖,得曹公成兵,顧不足邪?」服曰:「今京師豈有所任乎?」承曰:「長水校尉种輯、議郎吳碩是我腹心辦事者。」遂定計。〉

先主は下邳を占拠した。朱霊らが帰還すると、先主は徐州刺史の車冑を殺害し、関羽を下邳に留めて守らせ、自身は小沛に戻った。東海の昌霸はが反乱し、多くの郡県が曹公に背いて先主に味方し、数万人の兵が集まった。先主は孫乾を派遣して袁紹と連合を結び、曹公は劉岱と王忠を派遣して攻撃させたが、勝てなかった。建安五年、曹公が東征して先主を攻撃し、先主は大敗した。曹公はその兵をすべて収容し、先主の妻子を捕虜とし、関羽をも捕らえて帰還した。(胡沖の『呉歴』に曰く、曹公はたびたび近臣を遣わして諸将を密かに窺わせ、賓客や酒食のある者があれば、事に因んでこれを害した。劉備は当時門を閉ざし、人を率いて蕪菁を植えていた。曹公は人を遣わして門を窺わせた。去った後、劉備は張飛・関羽に言った。「私が菜を植える者であろうか。曹公は必ず疑いを抱いているに違いない。もはや留まるべきではない。」その夜、後ろの柵を開け、張飛らと軽騎で共に去り、与えられた賜り物の衣服はすべて封をして残し、小沛へ行って兵衆を集めた。臣松之が案ずるに、魏武帝は先主を遣わして諸将を統率させ袁術を迎え撃たせたが、郭嘉らは皆諫めた。魏武は従わず、その事は明らかであり、菜を植えたために遁逃したのではない。胡沖の言うがごときは、何と甚だしく乖僻であろうか。)

原文先主據下邳。靈等還,先主乃殺徐州刺史車冑,留關羽守下邳,而身還小沛。 〈胡沖《吳歷》曰:曹公數遣親近密覘諸將有賓客酒食者,輒因事害之。備時閉門,將人種蕪菁,曹公使人闚門。既去,備謂張飛、關羽曰:「吾豈種菜者乎?曹公必有疑意,不可復留。」其夜開後柵,與飛等輕騎俱去,所得賜遺衣服,悉封留之,乃往小沛收合兵眾。臣松之案:魏武帝遣先主統諸將要擊袁術,郭嘉等並諫,魏武不從,其事顯然,非因種菜遁逃而去。如胡沖所云,何乖僻之甚乎! 〉東海昌霸反,郡縣多叛曹公為先主,眾數萬人,遣孫乾與袁紹連和,曹公遣劉岱、王忠擊之,不克。五年,曹公東征先主,先主敗績。 〈《魏書》曰:是時,公方有急於官渡,乃分留諸將屯官渡,自勒精兵征備。備初謂公與大敵連,不得東,而候騎卒至,言曹公自來。備大驚,然猶未信。自將數十騎出望公軍,見麾旌,便棄眾而走。〉曹公盡收其眾,虜先主妻子,並禽關羽以歸。

先主は青州に逃れた。青州刺史の袁譚は、先主がかつて推挙した茂才であったため、歩兵と騎兵を率いて先主を迎えた。先主は袁譚に従って平原に到着し、袁譚は使者を走らせて袁紹に報告した。袁紹は将を派遣して道中で出迎えさせ、自身は鄴から二百里の地点まで出向いて先主と面会した。一か月余り駐留し、失った兵士たちが次第に集まってきた。曹公と袁紹が官渡で対峙している時、汝南の黄巾賊の劉辟らが曹公に背き袁紹に呼応した。袁紹は先主に兵を率いさせ、劉辟らとともに許都の近辺を攻略させた。関羽が逃亡して先主のもとに帰参した。曹公は曹仁に兵を率いさせて先主を攻撃させ、先主は袁紹軍に戻ったが、密かに袁紹から離れようと考え、袁紹に南の荊州牧劉表と連合するよう進言した。袁紹は先主に本来の兵を率いさせて再び汝南に赴かせ、賊の龔都らと合流し、数千人の兵となった。曹公は蔡陽を派遣して攻撃させたが、先主に討たれた。

原文先主走青州。青州刺史袁譚,先主故茂才也,將步騎迎先主。先主隨譚到平原,譚馳使白紹。紹遣將道路奉迎,身去鄴二百里,與先主相見。 〈魏書曰:備歸紹,紹父子傾心敬重。 〉駐月餘日,所失亡士卒稍稍來集。曹公與袁紹相拒於官渡,汝南黃巾劉辟等叛曹公應紹。紹遣先主將兵與辟等略許下。關羽亡歸先主。曹公遣曹仁將兵擊先主,先主還紹軍,陰欲離紹,乃說紹南連荊州牧劉表。紹遣先主將本兵復至汝南,與賊龔都等合,眾數千人。曹公遣蔡陽擊之,為先主所殺。

曹公が袁紹を破ると、自ら南進して先主を攻撃した。先主は麋竺と孫乾を派遣して劉表に連絡を取り、劉表は自ら郊外に出迎え、上賓の礼でもてなし、兵を増やして新野に駐屯させた。荊州の豪傑で先主に帰順する者が日増しに多くなり、劉表はその本心を疑い、密かに警戒した。先主は夏侯惇や于禁らを博望で防がせた。しばらくして、先主は伏兵を設け、ある朝、自らの陣営を焼いて偽装退却し、夏侯惇らが追撃すると、伏兵に撃破された。(『九州春秋』にいう。劉備は荊州に数年住み、あるとき劉表の座から立ち上がって厠に行き、腿の内側に肉がついたのを見て、感慨のあまり涙を流した。席に戻ると、劉表が怪しんで劉備に問うた。劉備は言った。「私は常に体を鞍から離さず、腿の肉はすべて落ちていた。今はもう馬に乗らないので、腿の内側に肉がついてしまった。日月は馳せるように過ぎ、老いが近づいているのに功業を建てていない。だから悲しいのだ。」『世語』にいう。劉備が樊城に駐屯していたとき、劉表は彼を礼遇したが、その人柄を憚り、あまり信用しなかった。あるとき劉備を宴会に招き、蒯越と蔡瑁はその会に乗じて劉備を捕らえようとした。劉備はこれを察知し、厠に行くふりをして密かに逃げ出した。乗っていた馬の名は的盧といい、的盧に乗って逃げ、襄陽城の西の檀溪の水中に落ち、溺れて出られなくなった。劉備は慌てて言った。「的盧よ、今日は難儀だ。努力してくれ!」的盧は一跳びで三丈を越え、ついに脱出できた。筏に乗って川を渡り、中流で追手が到着し、劉表の意向と称して劉備に謝して言った。「どうしてそんなに早く去られたのですか!」孫盛は言う。これは事実ではない。劉備は当時旅の身であり、客と主の立場は大きく異なっていた。もしこのような変事があれば、どうして劉表の治世の終わりまで平然と過ごし、事端を起こさなかっただろうか。これらはみな世俗の妄説であり、事実ではない。)

原文曹公既破紹,自南擊先主。先主遣麋竺、孫乾與劉表相聞,表自郊迎,以上賓禮待之,益其兵,使屯新野。荊州豪傑歸先主者日益多,表疑其心,陰禦之。 〈《九州春秋》曰:備住荊州數年,嘗於表坐起至廁,見髀裡肉生,慨然流涕。還坐,表怪問備,備曰:「吾常身不離鞍,髀肉皆消。今不復騎,髀裏肉生。日月若馳,老將至矣,而功業不建,是以悲耳。」《世語》曰:備屯樊城,劉表禮焉,憚其為人,不甚信用。曾請備宴會,蒯越、蔡瑁欲因會取備,備覺之,偽如廁,潛遁出。所乘馬名的盧,騎的盧走,墮襄陽城西檀溪水中,溺不得出。備急曰:「的盧:今日厄矣,可努力!」的盧乃一踴三丈,遂得過,乘桴渡河,中流而追者至,以表意謝之,曰:「何去之速乎!」孫盛曰:此不然之言。備時羈旅,客主勢殊,若有此變,豈敢晏然終表之世而無釁故乎?此皆世俗妄說,非事實也。〉使拒夏侯惇、于禁等於博望。久之,先主設伏兵,一旦自燒屯偽遁,惇等追之,為伏兵所破。

建安十二年、曹操が北方の烏丸を征討したとき、先主(劉備)は劉表に許都を襲撃するよう進言したが、劉表は採用しなかった。〈『漢晉春秋』によると、曹操が柳城から帰還した後、劉表は劉備に言った。「あなたの意見を用いなかったため、この好機を逃してしまった。」劉備は答えた。「今、天下は分裂し、日々戦争が続いています。機会はこれきりでなく、また訪れるでしょう。もし後にそれを捉えることができれば、このことは悔やむに足りません。」〉曹操が南方に進軍して劉表を攻めようとしたとき、ちょうど劉表が死去した。〈『英雄記』によると、劉表は病に伏し、劉備に荊州刺史を兼任させるよう上奏した。『魏書』によると、劉表は病が重くなり、国を劉備に託し、振り返って言った。「我が子は才能がなく、諸将もまた離散している。私が死んだ後、あなたが荊州を執り行ってほしい。」劉備は言った。「ご子息たちはそれぞれ優れておられます。どうかご病気のご静養を。」ある者が劉備に、劉表の言葉に従うべきだと勧めたが、劉備は言った。「この人は私を厚く遇してくれた。今その言葉に従えば、人々は私が薄情だと思うだろう。それは忍びない。」臣の松之(裴松之)は考えるに、劉表夫妻はもともと劉琮を寵愛し、嫡子を捨てて庶子を立てることは、以前から決めていたことであり、臨終に際して突然荊州を劉備に授ける理由はない。これも事実ではない言葉である。〉子の劉琮が後を継ぎ、使者を遣わして降伏を請うた。先主は樊城に駐屯していたが、曹操が突然到来したことを知らず、宛城に至って初めてそれを聞き、直ちに配下の兵を率いて去った。襄陽を通り過ぎるとき、諸葛亮は先主に劉琮を攻撃して荊州を手に入れるよう進言した。先主は言った。「私はそれが忍びない。」〈孔衍の『漢魏春秋』によると、劉琮は降伏を乞うたが、劉備には告げようとせず、劉備も知らなかった。しばらくして気づき、親しい者を遣わして劉琮に問わせた。劉琮は宋忠を劉備のもとに遣わし、旨を伝えさせた。その時、曹操は宛城にいた。劉備は大いに驚き、宋忠に言った。「あなたがたはこのようなことをしておきながら、早くに教えてくれず、今、災いが迫ってから私に告げるとは、あまりにもひどすぎはしないか!」刀を抜いて宋忠に向かい、「今、あなたの首を斬ったところで、私の怒りは解けまい。また、大丈夫たる者が別れ際にあなたのような者を殺すのは恥ずかしいことだ!」と言い、宋忠を帰らせた。そして配下を呼び集めて協議した。ある者が劉琮と荊州の官吏・兵士を脅し取って真っ直ぐ南の江陵に向かうよう劉備に勧めた。劉備は答えて言った。「劉荊州(劉表)は臨終に孤児(劉琮ら)を私に託された。信義に背いて自分だけ助かろうとするようなことは、私のするべきことではない。死んでからどんな顔をして劉荊州に会えようか!」〉そこで馬を止めて劉琮を呼んだが、劉琮は恐れて起き上がれなかった。劉琮の側近や荊州の人々の多くは先主に帰順した。〈『典略』によると、劉備は劉表の墓に別れを告げ、涙を流して去った。〉当陽に到着する頃には、民衆は十余万人、輜重車は数千台に及び、一日に十余里しか進まなかった。別に関羽に数百艘の船を率いさせ、江陵で合流するよう命じた。ある者が先主に言った。「速やかに行軍して江陵を守るべきです。今、大勢の民衆を抱えていますが、鎧を着た兵は少なく、もし曹操の軍が来たら、どうやって防ぎましょうか。」先主は言った。「大事を成すには必ず人を根本としなければならない。今、人々が私に帰ってくるのに、どうして忍んで彼らを見捨てて去れようか!」〈習鑿歯が言う。先主は転々と危難に遭いながらも、信義はますます明らかになり、情勢が逼迫し事態が危急であっても言葉は道理を失わなかった。劉景升(劉表)の顧みを追憶すれば、その情は三軍を感動させた。義に赴く士を思いやれば、喜んで彼らとともに敗北を共にした。彼が人々の心を結びつけた方法を見よ。単に酒を分け与え寒さを慰め、苦労を共にし病気を見舞っただけではなかった。彼が最終的に大業を成し遂げたのは、もっともなことではなかったか!〉

原文十二年,曹公北征烏丸,先主說表襲許,表不能用。 〈《漢晉春秋》曰:曹公自柳城還,表謂備曰:「不用君言,故為失此大會。」備曰:「今天下分裂,日尋干戈,事會之來,豈有終極乎?若能應之於後者,則此未足為恨也。」〉曹公南征表,會表卒,〈《英雄記》曰:表病,上備領荊州刺史。魏書曰:表病篤,託國於備,顧謂曰:「我兒不才,而諸將並零落,我死之後,卿便攝荊州。」備曰:「諸子自賢,君其憂病。」或勸備宜從表言,備曰:「此人待我厚,今從其言,人必以我為薄,所不忍也。」臣松之以為表夫妻素愛琮,捨適立庶,情計久定,無緣臨終舉荊州以授備,此亦不然之言。〉子琮代立,遣使請降。先主屯樊,不知曹公卒至,至宛乃聞之,遂將其眾去。過襄陽,諸葛亮說先主攻琮,荊州可有。先主曰:「吾不忍也。」〈孔衍《漢魏春秋》曰:劉琮乞降,不敢告備。備亦不知,久之乃覺,遣所親問琮。琮令宋忠詣備宣旨。是時曹公在宛,備乃大驚駭,謂忠曰:「卿諸人作事如此,不早相語,今禍至方告我,不亦太劇乎!」引刀向忠曰:「今斷卿頭,不足以解忿,亦恥大丈夫臨別復殺卿輩!」遣忠去,乃呼部曲議。或勸備劫將琮及荊州吏士徑南到江陵,備答曰:「劉荊州臨亡託我以孤遺,背信自濟,吾所不為,死何面目以見劉荊州乎!」〉 乃駐馬呼琮,琮懼不能起。琮左右及荊州人多歸先主。 〈《典略》曰:備過辭表墓,遂涕泣而去。〉比到當陽,眾十餘萬,輜重數千兩,日行十餘里,別遣關羽乘船數百艘,使會江陵。或謂先主曰:「宜速行保江陵,今雖擁大眾,被甲者少,若曹公兵至,何以拒之?」先主曰:「夫濟大事必以人為本,今人歸吾,吾何忍棄去!」〈習鑿齒曰:先主雖顛沛險難而信義愈明,勢偪事危而言不失道。追景升之顧,則情感三軍;戀赴義之士,則甘與同敗。觀其所以結物情者,豈徒投醪撫寒含蓼問疾而已哉!其終濟大業,不亦宜乎!〉

曹操は江陵に軍需物資があるのを恐れ、先主がそこを占拠するのを警戒し、輜重を捨て、軽装の軍勢で襄陽に到着した。先主が既に通過したと聞くと、曹操は精鋭の騎兵五千を率いて急追し、一日一夜に三百余里を行軍し、当陽の長坂で追いついた。先主は妻子を捨て、諸葛亮、張飛、趙雲ら数十騎とともに逃走した。曹操は彼の民衆と輜重をことごとく奪った。先主は斜めに漢津へ向かい、ちょうど関羽の船隊と会合し、沔水を渡ることができた。劉表の長子で江夏太守の劉琦の軍勢一万余人に出会い、ともに夏口へ向かった。先主は諸葛亮を遣わし、孫権と同盟を結ばせた。〈『江表伝』によると、孫権は魯粛を遣わし劉表の二人の子を弔問させ、併せて劉備と結ばせるよう命じた。魯粛が到着する前に曹操は既に漢津を渡っていた。魯粛は進み続け、当陽で劉備と出会った。そこで孫権の意向を伝え、天下の情勢を論じ、厚意を表した。そして劉備に尋ねた。「豫州(劉備)は今どこへ行こうとしているのですか。」劉備は答えた。「蒼梧太守の呉巨と旧知があるので、彼のもとへ身を寄せようと思っている。」魯粛は言った。「孫討虜将軍(孫権)は聡明で仁恵があり、賢者を敬い士を礼遇する。江南の英雄豪傑は皆、彼に帰順し、既に六郡を領有し、兵は精鋭で糧食は豊富であり、事を成すのに十分です。今、あなたのためを思えば、腹心の者を遣わし東方と自ら同盟を結び、連和の友好を高め、共に世の事業を成し遂げるのが良いでしょう。呉巨に身を寄せようなどと言われますが、呉巨は凡人で、辺境の郡に偏在しており、間もなく他人に併呑されるでしょう。どうして頼りにできましょうか。」劉備は大いに喜び、鄂県に進んで駐屯し、すぐに諸葛亮を魯粛に随行させ孫権のもとへ赴かせ、同盟の誓いを結ばせた。〉孫権は周瑜、程普らに数万の水軍を率いさせ、先主と力を合わせ、〈『江表伝』によると、劉備は魯粛の計略に従い、鄂県の樊口に進んで駐屯した。諸葛亮が呉へ赴きまだ帰らないうちに、劉備は曹操の軍が南下したと聞き、恐れをなして、毎日偵察の役人を水辺に派遣し孫権の軍を待ち望んだ。役人が周瑜の船を見つけ、急いで劉備に報告した。劉備は言った。「どうしてそれが青州・徐州の軍ではないとわかるのか。」役人は答えた。「船でわかります。」劉備は人を遣わして慰労した。周瑜は言った。「軍務の任があり、職務を離れることはできません。もしあなたがご威光を屈して来てくだされば、誠に私の望みに叶います。」劉備は関羽、張飛に言った。「彼は私を招こうとしている。今、私が東方と結びつこうとしながら行かないのは、同盟の意思に反する。」そこで単艦に乗って周瑜に会いに行き、尋ねた。「今、曹操を防ぐのは、非常に得策である。戦う兵卒はどれほどいるか。」周瑜は言った。「三万人である。」劉備は言った。「少ないのが残念だ。」周瑜は言った。「これで十分です。豫州はただ私が彼を打ち破るのをご覧になればよい。」劉備は魯粛らを呼んで共に話し合おうとした。周瑜は言った。「命令を受けており、勝手に職務を離れることはできません。もし子敬(魯粛)に会いたいなら、別に彼を訪ねてください。また、孔明(諸葛亮)も既に一緒に来ており、二、三日以内には到着するでしょう。」劉備は周瑜を深く敬服し驚いたが、心の中では彼が必ず北軍(曹操軍)を破れるとは認めていなかった。そこで後方に離れて、二千人を率いて関羽、張飛とともに行動し、周瑜に従属しようとせず、進退の余地を残す計略をとった。孫盛は言う。劉備は雄才であり、必滅の地にありながら、呉に急を告げて奔走の援助を得た。江辺を顧みて後ろめたい計画を抱く理由はない。『江表伝』の言葉は、呉の者が自らの美を独占しようとした言辞であろう。〉曹操と赤壁で戦い、大破し、その船を焼き払った。先主は呉軍と水陸ともに進軍し、南郡まで追撃した。その時また疫病が流行り、北軍の多くが死に、曹操は軍を引き返した。〈『江表伝』によると、周瑜が南郡太守となった後、南岸の地を劉備に分け与えた。劉備は油江口に別に営を設け、名前を公安と改めた。劉表に仕えていた官吏・兵士で北軍(曹操軍)に従っていた者の多くが叛いて劉備に投降した。劉備は周瑜から与えられた土地が少なく、民を安住させるのに不十分だと考え、(後)〔再び〕孫権から荊州の数郡を借り受けた。〉

原文曹公以江陵有軍實,恐先主據之,乃釋輜重,輕軍到襄陽。聞先主已過,曹公將精騎五千急追之,一日一夜行三百餘里,及於當陽之長坂。先主棄妻子,與諸葛亮、張飛、趙雲等數十騎走,曹公大獲其人眾輜重。先主斜趨漢津,適與羽船會,得濟沔,遇表長子江夏太守琦眾萬餘人,與俱到夏口。先主遣諸葛亮自結於孫權,〈《江表傳》曰:孫權遣魯肅弔劉表二子,并令與備相結。肅未至而曹公已濟漢津。肅故進前,與備相遇於當陽。因宣權旨,論天下事勢,致殷勤之意。且問備曰:「豫州今欲何至?」備曰:「與蒼梧太守〔吳巨〕有舊,欲往投之。」肅曰:「孫討虜聰明仁惠,敬賢禮士,江表英豪,咸歸附之,已據有六郡,兵精糧多,足以立事。今為君計,莫若遣腹心使自結於東,崇連和之好,共濟世業,而云欲投〔吳巨〕,〔巨〕是凡人,偏在遠郡,行將為人所併,豈足託乎?」備大喜,進住鄂縣,即遣諸葛亮隨肅詣孫權,結同盟誓。 〉權遣周瑜、程普等水軍數萬,與先主并力,〈江表傳曰:備從魯肅計,進住鄂縣之樊口。諸葛亮詣吳未還,備聞曹公軍下,恐懼,日遣邏吏於水次候望權軍。吏望見瑜船,馳往白備,備曰:「何以知(之)非青徐軍邪?」吏對曰:「以船知之。」備遣人慰勞之。瑜曰:「有軍任,不可得委署,儻能屈威,誠副其所望。」備謂關羽、張飛曰:「彼欲致我,我今自結託於東而不往,非同盟之意也。」乃乘單舸往見瑜,問曰:「今拒曹公,深為得計。戰卒有幾?」瑜曰:「三萬人。」備曰:「恨少。 」瑜曰:「此自足用,豫州但觀瑜破之。」備欲呼魯肅等共會語,瑜曰:「受命不得妄委署,若欲見子敬,可別過之。又孔明已俱來,不過三兩日到也。」備雖深愧異瑜,而心未許之能必破北軍也,故差池在後,將二千人與羽、飛俱,未肯係瑜,蓋為進退之計也。孫盛曰:劉備雄才,處必亡之地,告急於吳,而獲奔助,無緣復顧望江渚而懷後計。江表傳之言,當是吳人欲專美之辭。〉與曹公戰於赤壁,大破之,焚其舟船。先主與吳軍水陸並進,追到南郡,時又疾疫,北軍多死,曹公引歸。 〈《江表傳》曰:周瑜為南郡太守,分南岸地以給備。備別立營於油江口,改名為公安。劉表吏士見從北軍,多叛來投備。備以瑜所給地少,不足以安民,(後)〔復〕從權借荊州數郡。〉

先主は劉琦を荊州刺史に上表し、さらに南方の四郡を征伐した。武陵太守の金旋、長沙太守の韓玄、桂陽太守の趙範、零陵太守の劉度はいずれも降伏した。廬江の雷緒は部曲数万を率いて投降した。劉琦が病死すると、配下たちは先主を推して荊州牧とし、公安を治所とした。孫権は次第に彼を恐れ、妹を嫁がせて関係を固めた。先主は京へ赴いて孫権と会い、親密な情誼を結んだ。孫権は使者を遣わし、共に蜀を取ろうと提案した。ある者はこれに応じるべきだと進言したが、荊州主簿の殷観が進み出て言った。「もし我々が呉の先鋒となって進み、蜀を攻略できず、退却して呉に付け込まれるようなことがあれば、大事は去ります。今はただ彼らの蜀征伐を認めつつ、我々は新たに支配した諸郡を理由に出兵できないと言えば、呉は我々を越えて単独で蜀を取ることはできません。このように進退の計を用いれば、呉と蜀の両方の利益を収めることができます。」先主はこれに従い、孫権は果たして計画を中止した。殷観を別駕従事に昇進させた。(『三輔決録注』にいう。金旋は字を元機といい、京兆の人。黄門郎、漢陽太守を歴任し、召されて議郎に任じられ、中郎将に遷り、武陵太守を領したが、劉備に攻撃されて死んだ。子の金禕については『魏武本紀』に事績が見える。『山陽公載記』にいう。劉備は帰還すると、左右の者に言った。「孫車騎は上体が長く下体が短い。その下につくのは難しい。私はもう彼に会うことはできない。」そこで昼夜兼行で進んだ。臣松之が案ずるに、『魏書』には劉備と孫権の会話が載っており、『蜀志』に述べる諸葛亮と孫権の会話とまったく同じである。劉備が魏軍を破る前は、まだ孫権と会見していないので、この説はありえない。ゆえに『蜀志』が正しいとわかる。『献帝春秋』にいう。孫権は劉備と共に蜀を取ろうとし、使者を遣わして劉備に告げて言った。「米賊の張魯は巴、漢に拠り、曹操の耳目となって益州を狙っている。劉璋は武勇に乏しく、自ら守ることができない。もし曹操が蜀を得れば、荊州は危うい。今まず劉璋を攻め取り、進んで張魯を討ち、首尾連なって呉、楚を統一すれば、たとえ十人の曹操がいても憂いはない。」劉備は自分で蜀を図ろうと思い、拒んで聞かず、言った。)

原文先主表琦為荊州刺史,又南征四郡。武陵太守金旋、長沙太守韓玄、桂陽太守趙範、零陵太守劉度皆降。 〈《三輔決錄注》曰:金旋字元機,京兆人,歷位黃門郎,漢陽太守,徵拜議郎,遷中郎將,領武陵太守,為備所攻劫死。子禕,事見《魏武本紀》。〉廬江雷緒率部曲數萬口稽顙。琦病死,羣下推先主為荊州牧,治公安。權稍畏之,進妹固好。先主至京見權,綢繆恩紀。 〈《山陽公載記》曰:備還,謂左右曰:「孫車騎長上短下,其難為下,吾不可以再見之。」乃晝夜兼行。臣松之案:魏書載劉備與孫權語,與蜀志述諸葛亮與權語正同。劉備未破魏軍之前,尚未與孫權相見,不得有此說。故知蜀志為是。 〉權遣使云欲共取蜀,或以為宜報聽許,吳終不能越荊有蜀,蜀地可為己有。荊州主簿殷觀進曰:「若為吳先驅,進未能克蜀,退為吳所乘,即事去矣。今但可然贊其伐蜀,而自說新據諸郡,未可興動,吳必不敢越我而獨取蜀。如此進退之計,可以收吳、蜀之利。」先主從之,權果輟計。遷觀為別駕從事。 〈《獻帝春秋》曰:孫權欲與備共取蜀,遣使報備曰:「米賊張魯居王巴、漢,為曹操耳目,規圖益州。劉璋不武,不能自守。若操得蜀,則荊州危矣。今欲先攻取璋,進討張魯,首尾相連,一統吳、楚,雖有十操,無所憂也。」備欲自圖蜀,拒答不聽,曰:〉

益州は民が豊かで強く、土地は険阻であり、劉璋は弱いとはいえ、自らを守るには十分である。張魯は虚偽の者で、必ずしも曹操に忠誠を尽くすとは限らない。今、軍勢を蜀や漢中に疲弊させ、万里を転送して、戦いに勝ち攻め取ろうとし、全ての行動を失敗させまいとするのは、これは呉起でもその計画を定められず、孫武でもその事をうまく行えないだろう。曹操には君主をないがしろにする心はあっても、主君を奉じる名目はある。議論する者たちは曹操が赤壁で敗北したのを見て、その力が尽きたと思い、もはや遠大な志がないと考えている。今、曹操は天下の三分の二を既に手中に収め、滄海で馬に水を飲ませ、呉会で兵威を示そうとしている。どうしてここに座して老いを待つことを肯うだろうか。今、同盟者が理由もなく互いに攻撃し合い、曹操に好機を与え、敵に隙を突かせるのは、長い目で見た良策ではない。

原文益州民富彊,土地險阻,劉璋雖弱,足以自守。張魯虛偽,未必盡忠於操。今暴師於蜀、漢,轉運於萬里,欲使戰克攻取,舉不失利,此吳起不能定其規,孫武不能善其事也。曹操雖有無君之心,而有奉主之名,議者見操失利於赤壁,謂其力屈,無復遠志也。今操三分天下已有其二,將欲飲馬於滄海,觀兵於吳會,何肯守此坐須老乎?今同盟無故自相攻伐,借樞於操,使敵承其隙,非長計也。

孫権は聞き入れず、孫瑜に水軍を率いて夏口に駐屯させた。劉備は軍勢が通過することを許さず、孫瑜に言った。「お前が蜀を取ろうとするなら、私は髪を振り乱して山に入り、天下に対して信義を失わないであろう。」関羽を江陵に、張飛を秭帰に駐屯させ、諸葛亮に南郡を守らせ、劉備自身は孱陵に駐留した。孫権は劉備の意図を知り、孫瑜を召還した。

原文〈權不聽,遣孫瑜率水軍住夏口。備不聽軍過,謂瑜曰:「汝欲取蜀,吾當被髮入山,不失信於天下也。」使關羽屯江陵,張飛屯秭歸,諸葛亮據南郡,備自住孱陵。權知備意,因召瑜還。〉

建安十六年、益州牧の劉璋は遠くから曹操が鍾繇らを遣わして漢中の張魯を討伐しようとしていると聞き、内心恐れを抱いた。別駕従事の蜀郡の張松が劉璋を説得して言った。「曹公の軍勢は強く、天下に敵なしです。もし張魯の資力を利用して蜀の地を取ろうとすれば、誰がこれを防げましょうか。」劉璋は言った。「私は確かにそれを憂えているが、まだ策はない。」張松は言った。「劉豫州(劉備)は、使君(劉璋)の同族であり、曹公の深い仇敵です。用兵に長けており、もし彼に張魯を討伐させれば、張魯は必ず敗れます。張魯が敗れれば、益州は強くなり、曹公が来ても何もできません。」劉璋はこれを認め、法正に四千人を率いさせて先主を迎えさせ、前後に巨億の財貨を贈った。法正は益州が奪取可能な策を述べた。先主は諸葛亮、関羽らを留めて荊州を守らせ、歩兵数万を率いて益州に入った。涪に至ると、劉璋自ら出迎え、互いに会って大いに喜んだ。張松は法正に命じて先主に伝えさせ、また謀臣の龐統が進言して、会見の場で劉璋を襲撃するよう勧めた。先主は言った。「これは大事である。軽率にはできない。」劉璋は先主を行大司馬に推挙し、司隸校尉を兼任させた。先主もまた劉璋を行鎮西大将軍に推挙し、益州牧を兼任させた。劉璋は先主の兵を増やし、張魯を攻撃させ、また白水軍を督させることにした。先主は合わせて三万余人の軍勢を擁し、戦車、鎧、武器、物資は非常に豊富であった。この年、劉璋は成都に帰還した。先主は北へ葭萌に到着したが、すぐには張魯を討伐せず、厚く恩徳を施して、人心を収攬した。(『呉書』にいう。劉備は先に張松に会い、後に法正を得て、いずれも厚い恩意をもって迎え入れ、その殷勤の歓を尽くした。そこで蜀中の広狭、兵器や庫蔵、人馬の多少、および諸要害の道のりの遠近を問うと、張松らは詳しく述べ、さらに地図を描いて山川の位置を示した。これによって益州の虚実をことごとく知った。)

原文十六年,益州牧劉璋遙聞曹公將遣鍾繇等向漢中討張魯,內懷恐懼。別駕從事蜀郡張松說璋曰:「曹公兵強無敵於天下,若因張魯之資以取蜀土,誰能御之者乎?」璋曰:「吾固憂之而未有計。」松曰:「劉豫州,使君之宗室而曹公之深讎也,善用兵,若使之討魯,魯必破。魯破,則益州強,曹公雖來,無能為也。」璋然之,遣法正將四千人迎先主,前後賂遺以巨億計。正因陳益州可取之策。 〈《吳書》曰:備前見張松,後得法正,皆厚以恩意接納,盡其殷勤之歡。因問蜀中闊狹,兵器府庫人馬眾寡,及諸要害道里遠近,松等具言之,又畫地圖山川處所,由是盡知益州虛實也。〉先主留諸葛亮、關羽等據荊州,將步卒數万人入益州。至涪,璋自出迎,相見甚歡。張松令法正白先主,及謀臣龐統進說,便可於會所襲璋。先主曰:「此大事也,不可倉卒。」璋推先主行大司馬,領司隸校尉;先主亦推璋行鎮西大將軍,領益州牧。璋增先主兵,使擊張魯,又令督白水軍。先主並軍三萬餘人,車甲器械資貨甚盛。是歲,璋還成都。先主北到葭萌,未即討魯,厚樹恩德,以收眾心。

翌年、曹操が孫権を征伐すると、孫権は先主に救援を求めた。先主は使者を遣わして劉璋に告げた。「曹公が呉を征伐し、呉は危急を憂えています。孫氏と私は元より唇歯の関係にあり、また楽進が青泥で関羽と対峙しています。今、関羽を救援に行かなければ、楽進は必ず大勝し、転じて州の境界を侵すでしょう。その憂いは張魯よりも甚だしいです。張魯は自らを守るだけの賊であり、慮るに足りません。」そこで劉璋に一万の兵と物資(宝物)を求め、東へ向かおうとした。劉璋は兵四千だけを許し、その他は全て半分しか与えなかった。張松は先主と法正に手紙を書いて言った。「今、大事は成らんとしています。どうしてこれを捨てて去ろうとするのですか。」張松の兄で広漢太守の張肅は、禍が自分に及ぶことを恐れ、劉璋にその謀略を告発した。そこで劉璋は張松を捕らえて斬り、不和が始まった。劉璋は関所の諸将に文書で、先主との連絡を一切禁じた。先主は大いに怒り、劉璋の白水軍督の楊懐を召し出し、無礼を責めて斬った。そして黄忠と卓膺に兵を率いて劉璋に向かわせた。先主は直接関中へ赴き、諸将と兵士たちの妻子を人質とし、兵を率いて黄忠、卓膺らと共に涪へ進み、その城を占拠した。劉璋は劉璝、冷苞、張任、鄧賢らを涪に派遣して先主を防がせたが、いずれも敗北し、綿竹に退いて守った。劉璋はさらに李厳を派遣して綿竹の諸軍を督させたが、李厳は配下を率いて先主に降伏した。先主の軍はますます強くなり、諸将を分遣して配下の県を平定させ、諸葛亮、張飛、趙雲らは兵を率いて川を遡り白帝、江州、江陽を平定した。ただ関羽だけが荊州に留まって守備した。先主は軍を進めて雒を包囲した。当時、劉璋の子の劉循が城を守っており、攻撃を受けてほぼ一年が経過していた。(『魏書』に曰く、劉備はこれによって部下を激怒させて言った。「私は益州のために強敵を征討し、兵士たちは勤勉に苦しみ、安らかに居る暇もない。今、蔵の財を積みながら功ある者への賞与を惜しむとは、士大夫が死力を尽くして戦うことを望めようか。」『益部耆旧雑記』に曰く、張肅は威儀があり、容貌は非常に立派であった。張松は人となり短小で、放蕩にして節操を治めなかったが、識見は達して精果であり、才幹があった。劉璋が曹操のもとへ遣わしたが、曹操はあまり礼遇しなかった。曹操の主簿楊脩は深く彼を器重し、曹操に張松を辟するよう白したが、曹操は受け入れなかった。楊脩は曹操の撰した兵書を張松に見せると、張松は宴飲の間に一度見ただけで暗誦した。楊脩はこれによってますます彼を異とした。『益部耆旧雑記』に曰く、張任は蜀郡の人で、家柄は寒門であった。若くして胆勇があり、志節を有し、州に仕えて従事となった。『傅子』に曰く、初め、劉備が蜀を襲うと、丞相掾の趙戩は言った。「劉備は成し遂げられないのではないか。用兵に拙く、戦うごとに敗れ、奔亡して暇もなく、どうして人を図れようか。蜀は小区域ながら、険固で四方が塞がれ、独り守る国であり、卒かに併合するのは難しい。」徴士の傅幹は言った。「劉備は寛仁で度があり、人の死力を得ることができる。諸葛亮は治を達し変を知り、正しくして謀があり、その相となり、張飛・関羽は勇にして義があり、皆万人の敵であり、その将となっている。この三人は皆人傑である。劉備の略をもって、三傑がこれを佐ければ、どうして成し遂げられないことがあろうか。」『典略』に曰く、趙戩は字を叔茂といい、京兆長陵の人である。質実で学を好み、言は詩書を称し、人を愛恤し、疎密を論じなかった。公府に辟され、入って尚書選部郎となった。董卓は私する所の者を以て台閣に並べようとしたが、趙戩は拒んで聴かなかった。董卓は怒り、趙戩を召して殺そうとし、観る者は皆趙戩のために懼れたが、趙戩は自若としていた。董卓に会うに及び、辞を引き正色で是非を陳説すると、董卓は凶戾といえども屈して謝し、平陵令に遷した。旧将の王允が害されると、敢えて近づく者もなかったが、趙戩は官を棄ててこれを収斂した。三輔が乱れると、趙戩は荊州に客となり、劉表はこれを賓客とした。曹操が荊州を平らげると、趙戩の手を執って言った。「どうして会うのが遅かったのか。」そこで辟して掾とした。後に五官将司馬、相国鍾繇の長史となり、年六十余りで卒した。)

原文明年,曹公徵孫權,權呼先主自救。先主遣使告璋曰:「曹公徵吳,吳憂危急。孫氏與孤本為脣齒,又樂進在青泥與關羽相拒,今不往救羽,進必大克,轉侵州界,其憂有甚於魯。魯自守之賊,不足慮也。」乃從璋求萬兵及資(寶),欲以東行。璋但許兵四千,其餘皆給半。 〈《魏書》曰:備因激怒其眾曰:「吾為益州徵強敵,師徒勤瘁,不遑寧居;今積帑藏之財而吝於賞功,望士大夫為出死力戰,其可得乎!」〉張松書與先主及法正曰:「今大事垂可立,如何釋此去乎!」松兄廣漢太守肅,懼禍逮己,白璋發其謀。於是璋收斬松,嫌隙始構矣。 〈《益部耆舊雜記》曰:張肅有威儀,容貌甚偉。松為人短小,放蕩不治節操,然識達精果,有才幹。劉璋遣詣曹公,曹公不甚禮;公主簿楊脩深器之,白公闢松,公不納。脩以公所撰兵書示松,松宴飲之間一看便闇誦。脩以此益異之。〉璋敕關戍諸將文書勿複關通先主。先主大怒,召璋白水軍督楊懷,責以無禮,斬之。乃使黃忠、卓膺勒兵向璋。先主徑至關中,質諸將並士卒妻子,引兵與忠、膺等進到涪,據其城。璋遣劉璝、冷苞、張任、鄧賢等拒先主於涪,〈《益部耆舊雜記》曰:張任,蜀郡人,家世寒門。少有膽勇,有志節,仕州為從事。〉皆破敗,退保綿竹。璋復遣李嚴督綿竹諸軍,嚴率眾降先主。先主軍益強,分遣諸將平下屬縣,諸葛亮、張飛、趙雲等將兵溯流定白帝、江州、江陽,惟關羽留鎮荊州。先主進軍圍雒;時璋子循守城,被攻且一年。

十九年の夏、雒城が陥落した。成都を包囲すること数十日、劉璋は降伏した。蜀の地は豊かで繁栄し、先主は酒宴を設けて士卒を大いにねぎらい、蜀の城中の金銀を取って将兵に分け与え、穀物と絹布は返還した。先主は再び益州牧を兼任し、諸葛亮を股肱の臣とし、法正を謀主とし、関羽・張飛・馬超を爪牙とし、許靖・麋竺・簡雍を賓友とした。また董和・黄権・李厳らはもともと劉璋に任用されていた者であり、呉壹・費観らは劉璋の姻戚であり、彭羕は劉璋に排斥されていた者であり、劉巴は以前から忌み嫌っていた者であったが、皆を顕職に就け、その才能を十分に発揮させた。志ある者は皆、競って励んだ。(『益部耆旧雑記』に曰く、劉璋は張任・劉璝に精兵を率いさせて涪で先主を拒捍させたが、先主に破られ、退いて劉璋の子劉循と共に雒城を守った。張任は兵を率いて雁橋に出たが、戦ってまた敗れた。張任を捕らえた。先主は張任の忠勇を聞き、軍に命じてこれを降そうとしたが、張任は声を励まして言った。「老臣は終に二主に事えず。」そこでこれを殺した。先主は嘆惜した。)

原文十九年夏,雒城破,〈《益部耆舊雜記》曰:劉璋遣張任、劉璝率精兵拒捍先主於涪,為先主所破,退與璋子循守雒城。任勒兵出於雁橋,戰复敗。禽任。先主聞任之忠勇,令軍降之,任厲聲曰:「老臣終不復事二主矣。」乃殺之。先主嘆惜焉。〉進圍成都數十日,璋出降。 〈《傅子》曰:初,劉備襲蜀,丞相掾趙戩曰:「劉備其不濟乎?拙於用兵,每戰則敗,奔亡不暇,何以圖人?蜀雖小區,險固四塞,獨守之國,難卒並也。」徵士傅幹曰:「劉備寬仁有度,能得人死力。諸葛亮達治知變,正而有謀,而為之相;張飛、關羽勇而有義,皆萬人之敵,而為之將:此三人者,皆人傑也。以備之略,三傑佐之,何為不濟也?」《典略》曰:趙戩,字叔茂,京兆長陵人也。質而好學,言稱詩書,愛卹於人,不論疏密。闢公府,入為尚書選部郎。董卓欲以所私並充臺閣,戩拒不聽。卓怒,召戩欲殺之,觀者皆為戩懼,而戩自若。及見卓,引辭正色,陳說是非,卓雖凶戾,屈而謝之遷平陵令。故將王允被害,莫敢近者,戩棄官收斂之。三輔亂,戩客荊州,劉表以為賓客。曹公平荊州,執戩手曰:「何相見之晚也!」遂闢為掾。後為五官將司馬,相國鍾繇長史,年六十餘卒。〉蜀中殷盛豐樂,先主置酒大饗士卒,取蜀城中金銀分賜將士,還其穀帛。先主复領益州牧,諸葛亮為股肱,法正為謀主,關羽、張飛、馬超為爪牙,許靖、麋竺、簡雍為賓友。及董和、黃權、李嚴等本璋之所授用也,吳壹、費觀等又璋之婚親也,彭羕又璋之所排擯也,劉巴者宿昔之所忌恨也,皆處之顯任,盡其器能。有誌之士,無不競勸。

二十年、孫権は先主が益州を手に入れたことを受け、使者を遣わして荊州を返還するよう求めてきた。先主は言った。「涼州を得てからでなければ、荊州をお返しすることはできません」。孫権は怒り、呂蒙を派遣して長沙・零陵・桂陽の三郡を襲撃・奪取させた。先主は兵五万を率いて公安に下り、関羽に益陽に入るよう命じた。この年、曹操が漢中を平定し、張魯は巴西へ逃げた。先主はこれを聞き、孫権と和睦し、荊州を江夏・長沙・桂陽を東側(呉領)とし、南郡・零陵・武陵を西側(蜀領)と分け、軍を率いて江州に戻った。黄権を派遣して兵を率い張魯を迎えさせたが、張魯は既に曹操に降伏していた。曹操は夏侯淵と張郃を漢中に駐屯させ、しばしば巴の境界を侵犯した。先主は張飛に進軍して宕渠に至り、張郃らと瓦口で戦い、張郃らを破り、兵を収めて南鄭に戻るよう命じた。先主も成都に帰還した。

原文二十年,孫權以先主已得益州,使使報欲得荊州。先主言:「須得涼州,當以荊州相與。」權忿之,乃遣呂蒙襲奪長沙、零陵、桂陽三郡。先主引兵五萬下公安,令關羽入益陽。是歲,曹公定漢中,張魯遁走巴西。先主聞之,與權連和,分荊州、江夏、長沙、桂陽東屬,南郡、零陵、武陵西屬,引軍還江州。遣黃權將兵迎張魯,張魯已降曹公。曹公使夏侯淵、張郃屯漢中,數數犯暴巴界。先主令張飛進兵宕渠,與郃等戰於瓦口,破郃等,收兵還南鄭。先主亦還成都。

二十三年、先主は諸将を率いて漢中に進軍した。将軍の呉蘭・雷銅らを分遣して武都に入らせたが、いずれも曹操軍に殲滅された。先主は陽平関に駐屯し、夏侯淵・張郃らと対峙した。

原文二十三年,先主率諸將進兵漢中。分遣將軍吳蘭、雷銅等入武都,皆為曹公軍所沒。先主次於陽平關,與淵、郃等相拒。

二十四年春、陽平から南へ沔水を渡り、山に沿って少しずつ前進し、定軍山の地形を利用して陣営を築いた。夏侯淵が兵を率いてその地を奪おうとした。先主は黄忠に命じて高所から鬨の声を上げて攻撃させ、夏侯淵軍を大破し、夏侯淵および曹操が任命した益州刺史の趙顒らを斬った。曹操は長安ちょうあんから大軍を率いて南征した。先主は遠くから予測して言った。「曹操が来たとしても、どうすることもできまい。我々が必ず漢川を手に入れることになる」。曹操が到着すると、先主は兵を集めて険阻な地で防ぎ、ついに交戦せず、数ヶ月経っても陥落せず、逃亡する兵が日増しに多くなった。夏、曹操は果たして軍を率いて撤退し、先主はついに漢中を手中に収めた。劉封・孟達・李平らを派遣して上庸で申耽を攻撃させた。

原文二十四年春,自陽平南渡沔水,緣山稍前,於定軍山勢作營。淵將兵來爭其地。先主命黃忠乘高鼓譟攻之,大破淵軍,斬淵及曹公所署益州刺史趙顒等。曹公自長安舉眾南征。先主遙策之曰:「曹公雖來,無能為也,我必有漢川矣。」及曹公至,先主斂眾拒險,終不交鋒,積月不拔,亡者日多。夏,曹公果引軍還,先主遂有漢中。遣劉封、孟達、李平等攻申耽於上庸。

秋、臣下たちが先主を漢中王に推戴し、漢の皇帝に上表した。

原文秋,群下上先主為漢中王,表於漢帝曰:

平西将軍都亭侯の臣下馬超、左将軍(長史を兼任)鎮軍将軍の臣下許靖、営司馬の臣下龐羲、議曹従事中郎軍議中郎将の臣下射援、軍師将軍の臣下諸葛亮、蕩寇将軍漢寿亭侯の臣下関羽、征虜将軍新亭侯の臣下張飛、征西将軍の臣下黄忠、鎮遠将軍の臣下頼恭、揚武将軍の臣下法正、興業将軍の臣下李厳ら百二十人が上奏して言う。昔、唐堯は至聖であったが四凶が朝廷にあり、周成王は仁賢であったが四国が乱を起こし、高后(呂后)が称制すると諸呂が命令を窃み、孝昭帝が幼少の時には上官桀らが謀反を企てた。皆、世の寵愛を頼み、国権を踏みにじり、極めて凶悪で乱れ、社稷は危うくなった。大舜、周公、朱虚侯(劉章)、博陸侯(霍光)でなければ、流放し捕らえ討伐し、危険を安定させ傾きを正すことはできなかった。伏して考えるに、陛下は聖徳の御姿を生まれつき、万邦を統治なさっているが、厄運と不幸な艱難に遭われた。董卓がまず難を起こし、京畿を覆し、曹操がその禍を踏み台にし、天の秤を窃み執った。皇后と太子は、毒殺されて害され、天下を乱し、民と物を破壊した。長らく陛下に塵を被り憂厄に遭わせ、空虚な邑に幽閉された。人神に主なく、王命は絶え、皇極を厭い昧わし、神器を盗もうとした。左将軍司隸校尉豫・荊・益三州牧宜城亭侯の劉備は、朝廷の爵禄を受け、力を尽くして国難に殉じようと心に念じている。その機兆を見て、赫々と憤発し、車騎将軍董承と共謀して曹操を誅殺し、国家を安んじ、旧都を平定せんとした。折しも董承の機密事が漏れ、曹操の遊魂が長く悪を遂げることを許し、海内を残滅させた。臣らは常に、王室に大いには閻楽の禍(秦二世殺害)があり、小さいには定安の変(孺子嬰廃位)があることを恐れ、朝夕おののき、戦慄して息を詰めている。昔、虞書には九族を厚く序列し、周は二代(夏・殷)を鑑として同姓を封建したことが記され、詩経にもその義が著され、長く伝えられた。漢が興った初め、疆土を割き、王子弟を尊んだので、ついに諸呂の難を折り、太宗(文帝)の基を成した。臣らは、劉備を肺腑の枝葉、宗子の藩翰とし、心は国家にあり、乱を鎮めることを念じている。曹操が漢中で敗れて以来、海内の英雄は風を見て蟻のように付き従ったが、爵号は顕わでなく、九錫も加えられていない。これは社稷を鎮め守り、万世に光を輝かせるものではない。辞を奉じて外にあり、礼と命令は断絶している。昔、河西太守梁統らは漢の中興の時、山河に限られ、位は同じく権は均しく、互いに率いることができず、皆竇融を推して元帥とし、ついに功績を立て、隗囂を打ち破った。今、社稷の難は、隴・蜀の時よりも急である。曹操は外では天下を呑み込み、内では群僚を残害し、朝廷には蕭牆の内の危険があり、侮りを防ぐ備えがまだ建てられていない。寒心に堪えうる。臣らは旧典に依って、劉備を漢中王に封じ、大司馬に拝し、六軍を統率整えさせ、同盟を糾合し、凶逆を掃滅させる。漢中・巴・蜀・広漢・犍為を国とし、署置するものは漢初の諸侯王の旧典に依る。権宜の制は、苟くも社稷に利あれば、専断してもよい。その後、功が成り事が立ち、臣らは退き伏して罪を矯め、死んでも恨みはない。(『三輔決録注』に曰く、射援は字を文雄といい、扶風の人である。その先は本姓は謝で、北地の諸謝と同族であった。始祖の謝服が将軍として出征した時、天子は謝服を良き名ではないとして射に改め、子孫はこれを氏とした。兄の堅は字を文固といい、若くして美名があり、公府に辟されて黄門侍郎となった。献帝の初め、三輔が飢乱となると、堅は官を去り、弟の援と共に南のかた蜀に入って劉璋に依り、劉璋は堅を長史とした。劉備が劉璋に代わると、堅を広漢・蜀郡の太守とした。援もまた若くして名行があり、太尉皇甫嵩はその才を賢として娘を妻とし、丞相諸葛亮は援を祭酒とし、従事中郎に遷し、官に卒した。)

原文平西將軍都亭侯臣馬超、左將軍(領)長史鎮軍將軍臣許靖、營司馬臣龐羲、議曹從事中郎軍議中郎將臣射援、〈《三輔決錄注》曰:援字文雄,扶風人也。其先本姓謝,與北地諸謝同族。始祖謝服為將軍出征,天子以謝服非令名,改為射,子孫氏焉。兄堅,字文固,少有美名,闢公府為黃門侍郎。獻帝之初,三輔飢亂,堅去官,與弟援南入蜀依劉璋,璋以堅為長史。劉備代璋,以堅為廣漢、蜀郡太守。援亦少有名行,太尉皇甫嵩賢其才而以女妻之,丞相諸葛亮以援為祭酒,遷從事中郎,卒官。〉軍師將軍臣諸葛亮、蕩寇將軍漢壽亭侯臣關羽、徵虜將軍新亭侯臣張飛、征西將軍臣黃忠、鎮遠將軍臣賴恭、揚武將軍臣法正、興業將軍臣李嚴等一百二十人上言曰:昔唐堯至聖而四凶在朝,周成仁賢而四國作難,高后稱制而諸呂竊命,孝昭幼衝而上官逆謀,皆馮世寵,藉履國權,窮凶極亂,社稷幾危。非大舜、周公、硃虛、博陸,則不能流放禽討,安危定傾。伏惟陛下誕姿聖德,統理萬邦,而遭厄運不造之艱。董卓首難,盪覆京畿,曹操階禍,竊執天衡;皇后太子,鴆殺見害,剝亂天下,殘毀民物。久令陛下蒙塵憂厄,幽處虛邑。人神無主,遏絕王命,厭昧皇極,欲盜神器。左將軍領司隸校尉豫、荊、益三州牧宜城亭侯備,受朝爵秩,念在輸力,以殉國難。睹其機兆,赫然憤發,與車騎將軍董承同謀誅操,將安國家,克寧舊都。會承機事不密,令操遊魂得遂長惡,殘泯海內。臣等每懼王室大有閻樂之禍,小有定安之變,〈趙高使閻樂殺二世。王莽廢孺子以為定安公。〉夙夜惴惴,戰栗累息。昔在虞書,敦序九族,週監二代,封建同姓,詩著其義,歷載長久。漢興之初,割裂疆土,尊王子弟,是以卒折諸呂之難,而成太宗之基。臣等以備肺腑枝葉,宗子籓翰,心存國家,念在弭亂。自操破於漢中,海內英雄望風蟻附,而爵號不顯,九錫未加,非所以鎮衛社稷,光昭萬世也。奉辭在外,禮命斷絕。昔河西太守梁統等值漢中興,限於山河,位同權均,不能相率,咸推竇融以為元帥,卒立效績,摧破隗囂。今社稷之難,急於隴、蜀。操外吞天下,內殘群寮,朝廷有蕭牆之危,而御侮未建,可為寒心。臣等輒依舊典,封備漢中王,拜大司馬,董齊六軍,糾合同盟,掃滅凶逆。以漢中、巴、蜀、廣漢、犍為為國,所署置依漢初諸侯王故典。夫權宜之製,苟利社稷,專之可也。然後功成事立,臣等退伏矯罪,雖死無恨。

そこで沔陽に壇場を設け、兵を陳べ衆を列ね、群臣が陪位し、奏上を読み終えると、先主に王冠を授けた。

原文遂於沔陽設壇場,陳兵列眾,群臣陪位,讀奏訖,禦王冠於先主。

先主は漢の皇帝に上奏して言った。

原文先主上言漢帝曰:

臣は具臣の才を持ち、上将の任を担い、三軍を監督統率し、外で辞命を奉じているが、寇難を掃除し、王室を靖んじ匡すことができず、久しく陛下の聖教を陵遅させ、天下は塞がって泰平にならず、ただ憂いて反側し、病のごとく頭を痛めている。かつて董卓が乱の階梯を作り、それ以来、群凶が縦横し、海内を残害剥奪した。陛下の聖徳威霊に頼り、人神が共に応じ、あるいは忠義の者が奮って討ち、あるいは上天が罰を下し、暴逆な者は共に滅び、次第に氷のように消えた。ただ曹操だけが、久しく梟除されず、国権を侵し擅り、心のままに極めて乱れた。臣はかつて車騎将軍董承と図謀して曹操を討とうとしたが、機密事が漏れ、董承は害され、臣は流浪して拠り所を失い、忠義を果たせなかった。ついに曹操に極めて凶悪で逆らうことをさせ、主后を殺戮し、皇子を毒殺させた。同盟を糾合し、奮力することを念じたが、懦弱で武がなく、数年経っても効果がなかった。常に恐れるのは、死んで国恩に背き、目覚めても寝ても長嘆し、夕べも戒め厳しくあることだ。今、臣の群僚は、昔の虞書に九族を厚く序列し、衆を明らかにして励み翼とすること、五帝の損益もこの道は廃れず、周は二代を鑑として諸姫を建て、実に晋・鄭の夾輔の福に頼ったこと、高祖こうそが龍興し、王子弟を尊び、九国を大いに開き、ついに諸呂を斬って大宗を安んじたことを考えている。今、曹操は直を悪み正を醜とし、その徒は実に多く、禍心を包蔵し、簒さん盗は既に明らかである。宗室は微弱で、帝族には位がなく、古式を斟酌し、権宜を仮り依って、臣を大司馬漢中王に上った。臣は伏して自ら三省するに、国の厚恩を受け、一方の任を担い、力を尽くして効果がなく、得たものは既に過ぎており、重ねて高位に辱められて罪と誹謗を重くすべきではない。群僚は義をもって臣を迫る。臣は退いて考えるに、寇賊が梟除されず、国難が未だ已まず、宗廟は傾き危うく、社稷は墜ちんとしている。これが臣の憂い責め首を砕く負担である。もし権に応じて変を通じ、聖朝を寧靖にするためならば、水火に赴くも辞すべきでなく、敢えて常の宜しきを慮り、後悔を防ごうとする。衆議に順い、印璽を拝受し、国威を崇める。仰いで爵号を思うと、位は高く寵は厚く、俯して報效を思うと、憂いは深く責めは重く、驚き怖れ息を詰め、谷に臨むが如し。力を尽くして誠を輸し、六師を奨励し、群義を率い整え、天に応じ時に順い、凶逆を撲討し、社稷を寧んじ、万分の一に報いる。謹んで章を拝し、駅伝によって左将軍・宜城亭侯の仮の印綬を上還する。(鄭玄の注に曰く、庶は衆の意、励は作の意、叙は次序の意である。九族を序してこれを親しみ、衆の明をもって羽翼の臣を作すのである。)

原文臣以具臣之才,荷上將之任,董督三軍,奉辭於外,不得掃除寇難,靖匡王室,久使陛下聖教陵遲,六合之內,否而未泰,惟憂反側,疢如疾首。曩者董卓造為亂階,自是之後,群凶縱橫,殘剝海內。賴陛下聖德威靈,人神同應,或忠義奮討,或上天降罰,暴逆並殪,以漸冰消。惟獨曹操,久未梟除,侵擅國權,恣心極亂。臣昔與車騎將軍董承圖謀討操,機事不密,承見陷害,臣播越失據,忠義不果。遂得使操窮凶極逆,主後戮殺,皇子鴆害。雖糾合同盟,念在奮力,懦弱不武,歷年未效。常恐殞沒,孤負國恩,寤寐永嘆,夕惕若厲。今臣群寮以為在昔虞書敦敘九族,庶明勵翼,〈鄭玄注曰:庶,眾也;勵,作也;敘,次序也。序九族而親之,以眾明作羽翼之臣也。〉五帝損益,此道不廢。週監二代,並建諸姬,實賴晉、鄭夾輔之福。高祖龍興,尊王子弟,大啟九國,卒斬諸呂,以安大宗。今操惡直醜正,寔繁有徒,包藏禍心,篡盜已顯。既宗室微弱,帝族無位,斟酌古式,依假權宜,上臣大司馬漢中王。臣伏自三省,受國厚恩,荷任一方,陳力未效,所獲已過,不宜复忝高位以重罪謗。群寮見逼,迫臣以義。臣退惟寇賊不梟,國難未已,宗廟傾危,社稷將墜,成臣憂責碎首之負。若應權通變,以寧靖聖朝,雖赴水火,所不得辭,敢慮常宜,以防後悔。輒順眾議,拜受印璽,以崇國威。仰惟爵號,位高寵厚,俯思報效,憂深責重,驚怖累息,如臨於谷。盡力輸誠,獎厲六師,率齊群義,應天順時,撲討凶逆,以寧社稷,以報萬分,謹拜章因驛上還所假左將軍、宜城亭侯印綬。

そこで成都に戻って治めた。魏延を抜擢して都督ととくとし、漢中を鎮守させた。その時、関羽が曹公の将曹仁を攻め、樊城で于禁を捕らえた。間もなく孫権が関羽を襲撃して殺し、荊州を取った。(『典略』にいう。劉備はこれにより館舎を建て、亭障を築き、成都から白水関に至るまで四百余区を設けた。)

原文於是還治成都。拔魏延為都督,鎮漢中。 〈《典略》曰:備於是起館舍,築亭障,從成都至白水關,四百餘區。〉時關羽攻曹公將曹仁,禽于禁於樊。俄而孫權襲殺羽,取荊州。

二十五年、魏の文帝が尊号を称し、年号を黄初と改めた。漢帝が害されたとの伝聞があり、先主は喪を発し喪服を着て、孝愍皇帝と追諡した。この後、各地で次々と多くの瑞祥が言われ、日月のように相属した。故議郎陽泉侯劉豹、青衣侯向挙、偏将軍張裔、黄権、大司馬属殷純、益州別駕従事趙莋、治中従事楊洪、従事祭酒何宗、議曹従事杜瓊、勧学従事張爽、尹黙、譙周らが上奏して言った。

原文二十五年,魏文帝稱尊號,改年曰黃初。或傳聞漢帝見害,先主乃發喪制服,追諡曰孝愍皇帝。是後在所並言眾瑞,日月相屬,故議郎陽泉侯劉豹、青衣侯向舉、偏將軍張裔、黃權、大司馬屬殷純、益州別駕從事趙莋、治中從事楊洪、從事祭酒何宗、議曹從事杜瓊、勸學從事張爽、尹默、譙周等上言:

臣は聞く、河図や洛書、五経の讖や緯は、孔子が選び定めたものであり、その応験は遠くから自ずと現れると。謹んで洛書甄曜度を案ずるに、『赤い三日が徳を昌んじ、九世が会い備わり、合わせて帝の際となる』とある。洛書寶號命には、『天が帝の道を度り備わって皇と称し、契を統握して、百の事成りて敗れず』とある。洛書錄運期には、『九侯七傑が命を争い民は骸を炊き、道路には籍籍として人の頭を踏み、誰が主たらしめるか玄が且つ来たる』とある。孝經鉤命決錄には、『帝は三たび建て九たび会い備わる』とある。臣の父の群が未だ亡くならざりし時、西南の方にしばしば黄気あり、直立して数丈、年来積もりて見え、時に景雲や祥風があり、璿璣より下り来たりてこれに応ず、これ異瑞なりと言った。また二十二年の中、数たび気あり旗の如く、西より竟いて東へ、中天を行く、図や書に『必ず天子その方に出ず』とある。この年、太白・熒惑・填星が、常に歳星に従って相追うことを加える。近く漢初め興るや、五星は歳星に従って謀り;歳星は義を主り、漢の位は西にあり、義の上方、故に漢の法は常に歳星をもって人主を候う。まさに聖主この州より起こり、もって中興を致すべし。時に許帝なお存す、故に群下敢えて漏らし言わず。頃者熒惑また歳星を追い、見るに胃・昴・畢に在り;昴・畢は天綱たり、経に『帝星ここに処れば、衆邪消亡す』と曰う。聖諱は予め睹え、期験を推揆すれば、符合して数至り、この如きは一に非ず。臣は聞く、聖王は天に先んじて天違わず、天に後れて天時に奉ず、故に際に応じて生まれ、神と合契すと。願わくは大王、天に応じ民に順い、速やかに洪業に即き、もって海内を寧んぜんことを。

原文臣聞河圖、洛書,五經讖、緯,孔子所甄,驗應自遠。謹案洛書甄曜度曰:『赤三日德昌,九世會備,合為帝際。』洛書寶號命曰:『天度帝道備稱皇,以統握契,百成不敗。』洛書錄運期曰:『九侯七傑爭命民炊骸,道路籍籍履人頭,誰使主者玄且來。』孝經鉤命決錄曰:『帝三建九會備。』臣父群未亡時,言西南數有黃氣,直立數丈,見來積年,時時有景雲祥風,從璿璣下來應之,此為異瑞。又二十二年中,數有氣如旗,從西竟東,中天而行,圖、書曰『必有天子出其方』。加是年太白、熒惑、填星,常從歲星相追。近漢初興,五星從歲星謀;歲星主義,漢位在西,義之上方,故漢法常以歲星候人主。當有聖主起於此州,以致中興。時許帝尚存,故群下不敢漏言。頃者熒惑复追歲星,見在胃昴畢;昴畢為天綱,經曰『帝星處之,眾邪消亡』。聖諱豫睹,推揆期驗,符合數至,若此非一。臣聞聖王先天而天不違,後天而奉天時,故應際而生,與神合契。原大王應天順民,速即洪業,以寧海內。

太傅の許靖、安漢将軍の糜竺、軍師将軍の諸葛亮、太常の賴恭、光祿勳の黄柱、少府の王謀らが上言した:

原文太傅許靖、安漢將軍糜竺、軍師將軍諸葛亮、太常賴恭、光祿勳〔黃柱〕、少府王謀等上言:

曹丕が帝位を簒奪さんだつし漢室を滅ぼし、神器を窃取し、忠良の臣を脅迫し、残酷で無道な行いをした。人も鬼も憤り憎み、皆が劉氏を思っている。今、上には天子がおらず、天下は不安で、拠り所とするものが無い。群臣が前後して上書した者は八百余人に上り、皆が符瑞を称え述べ、図讖が明らかな証拠を示している。先頃、武陽の赤水に黄龍が現れ、九日間いて去った。孝経援神契には『徳が淵泉に至れば黄龍が現れる』とあり、龍は君主の象徴である。易経の乾卦九五には『飛龍天に在り』とあり、大王は龍のように昇り、帝位に登られるべきである。また以前、関羽が樊城と襄陽を包囲した時、襄陽の男子張嘉と王休が玉璽を献上した。その璽は漢水に潜み、淵泉に伏していたが、光輝き照り輝き、霊光が天を徹した。そもそも漢とは、高祖が元々天下を平定するために起こした国号である。大王は先帝の軌跡を継がれ、また漢中で興られた。今、天子の玉璽の神光が先に現れ、璽は襄陽、漢水の末流から出た。これは大王がその下流を承け継がれ、天子の位を大王に授けられたことを明らかにしており、瑞兆と符応は人の力によるものではない。昔、周には烏と魚の瑞祥があり、皆が「めでたいことだ」と言った。二祖(高祖・光武帝)が天命を受けた時も、図書が先に現れ、証拠とされた。今、天が祥瑞を告げ、多くの儒者や英俊が進み出て河図・洛書を献じ、孔子の讖記もことごとく揃って到来している。伏して考えるに、大王は孝景皇帝の中山靖王の末裔としてお生まれになり、本流も支流も百世続き、天と地の神が福を降し、聖なる御姿は大きく立派で、神武の才を御身に備え、仁愛を施し徳を積まれ、人を愛し士を好まれるので、四方の者が心を寄せているのである。霊図を考察し、讖緯を啓発してみると、神明の表れとして、御名が明らかに示されている。直ちに帝位に即き、二祖の業を継ぎ、昭穆の系譜を嗣がれるべきである。天下にとってこれほど幸せなことはない。臣らは謹んで博士の許慈、議郎の孟光と共に礼儀を立て、吉日を選び、尊号を奉上する。

原文曹丕篡弒,湮滅漢室,竊據神器,劫迫忠良,酷烈無道。人鬼忿毒,咸思劉氏。今上無天子,海內惶惶,靡所式仰。群下前後上書者八百餘人,咸稱述符瑞,圖、讖明徵。間黃龍見武陽赤水,九日乃去。孝經援神契曰『德至淵泉則黃龍見』,龍者,君之像也。易乾九五『飛龍在天』,大王當龍昇,登帝位也。又前關羽圍樊、襄陽,襄陽男子張嘉、王休獻玉璽,璽潛漢水,伏於淵泉,暉景燭燿,靈光徹天。夫漢者,高祖本所起定天下之國號也,大王襲先帝軌跡,亦興於漢中也。今天子玉璽神光先見,璽出襄陽,漢水之末,明大王承其下流,授與大王以天子之位,瑞命符應,非人力所致。昔周有烏魚之瑞,咸曰休哉。二祖受命,圖、書先著,以為徵驗。今上天告祥,群儒英俊,並進河、洛,孔子讖、記,咸悉具至。伏惟大王出自孝景皇帝中山靖王之冑,本支百世,乾祇降祚,聖姿碩茂,神武在躬,仁覆積德,愛人好士,是以四方歸心焉。考省靈圖,啟發讖、緯,神明之表,名諱昭著。宜即帝位,以纂二祖,紹嗣昭穆,天下幸甚。臣等謹與博士許慈、議郎孟光,建立禮儀,擇令辰,上尊號。

成都の武擔の南で皇帝の位に即いた。(『蜀本紀』にいう。武都に男がいて女に変じ、顔色は美しく、おそらく山の精であろう。蜀王はこれを娶って妻としたが、水土に慣れず、病んで国に帰ろうとしたので、蜀王はこれを留めたが、ほどなくして死んだ。蜀王は卒を発して武都の土を担わせ、成都の郭中に葬った。その地は数畝、高さ十丈で、武擔と号した。臣松之が案ずるに、武擔は山の名で、成都の西北にあり、おそらく乾位が西北にあるため、そこに就いて即位したのであろう。)

原文即皇帝位於成都武擔之南。 〈《蜀本紀》曰:武都有丈夫化為女子,顏色美好,蓋山精也。蜀王娶以為妻,不習水土,疾病欲歸國,蜀王留之,無幾物故。蜀王發卒之武都擔土,於成都郭中葬,蓋地數畝,高十丈,號曰武擔也。臣松之案:武擔,山名,在成都西北,蓋以乾位在西北,故就之以即阼。〉為文曰:

建安二十六年四月丙午の日、皇帝たる劉備は謹んで黒い牡牛を用い、皇天上帝と后土の神々に明らかに告げる。漢は天下を有し、その天命は限りなく続くものであった。かつて王莽が簒奪を企てたが、光武皇帝が激怒してこれを誅伐し、社稷は再び存続した。今、曹操は兵力を恃んで残忍を安んじ、主君の後継者を殺害し、その悪逆は天を覆い夏(漢)を滅ぼさんとし、天の明らかな意志をも顧みない。曹操の子の丕は、その凶逆を継承し、神器を窃み居座っている。群臣と将兵たちは、社稷が廃絶に瀕していると考え、劉備がこれを修復し、高祖と光武帝の二祖の後を継ぎ、天罰を謹んで行うべきであるとしている。劉備は自らの徳のなさを思い、帝位を汚すことを恐れている。庶民に諮問し、外に蛮夷の君長に及んでも、皆が『天命には応えねばならず、祖先の業は長く廃されてはならず、四海には主がいなければならない』と言う。天下の民が模範と仰ぎ望むのは、劉備ただ一人にある。劉備は天の明らかな命令を畏れ、また漢の皇統が地に埋もれようとしていることを恐れ、謹んで吉日を選び、百官とともに壇に登り、皇帝の璽綬を受けた。燔祭と瘞祭を修め、天神に類祭を告げる。どうか神々が漢家のためにその位を享受し、永遠に四海を安んじてくださるように。

原文惟建安二十六年四月丙午,皇帝備敢用玄牡,昭告皇天上帝后土神祇:漢有天下,歷數無疆。曩者王莽篡盜,光武皇帝震怒致誅,社稷復存。今曹操阻兵安忍,戮殺主後,滔天泯夏,罔顧天顯。操子丕,載其凶逆,竊居神器。群臣將士以為社稷隳廢,備宜脩之,嗣武二祖,龔行天罰。備惟否德,懼忝帝位。詢於庶民,外及蠻夷君長,僉曰『天命不可以不答,祖業不可以久替,四海不可以無主』 。率土式望,在備一人。備畏天明命,又懼漢阼將湮於地,謹擇元日,與百寮登壇,受皇帝璽綬。脩燔瘞,告類於天神,惟神饗祚於漢家,永綏四海!

《魏書》によると、劉備は曹操の死を聞くと、属官の韓冉を派遣して書簡を奉じ弔問させ、併せて葬儀の贈り物を届けさせた。文帝(曹丕)は、劉備が喪中に和睦を求めることを嫌い、荊州刺史に命じて韓冉を斬らせ、使者の往来を断った。《典略》によると、劉備は軍謀掾の韓冉を派遣して書簡を携えて弔問させ、錦や布を貢物として献上させた。韓冉は病気と称して上庸に滞在した。上庸で彼の書簡が届けられたが、ちょうど曹丕が帝位を継承した時で、詔勅を下して韓冉を招き寄せようとした。劉備はその返書を得て、遂に皇帝を称した。

原文〈《魏書》曰:備聞曹公薨,遣掾韓冉奉書吊,並致賻贈之禮。文帝惡其因喪求好,敕荊州刺史斬冉,絕使命。《典略》曰:備遣軍謀掾韓冉齎書吊,並貢錦布。冉稱疾,住上庸。上庸致其書,適會受終,有詔報答以引致之。備得報書,遂稱制。〉

章武元年(221年)夏四月、大赦を行い、年号を改めた。諸葛亮を丞相とし、許靖を司徒しととした。百官を設置し、宗廟を立て、高皇帝(劉邦りゅうほう)以下を合祭した。〈臣の松之は考えるに、先主(劉備)は孝景皇帝の末裔と称するが、世代が遠く隔たり、昭穆の順序がはっきりしない。漢の皇統を継いだとはいえ、どの皇帝を始祖として親廟を立てたのかわからない。当時は英傑賢臣が補佐し、儒学者が朝廷にいたのだから、宗廟の制度には必ず規範があったはずである。しかし記録が欠け簡略で、まことに残念なことである。〉五月、皇后呉氏を立て、子の劉禅を皇太子とした。六月、子の劉永を魯王とし、劉理を梁王とした。車騎将軍張飛がその左右の者に害された。初め、先主は孫権が関羽を襲撃したことに憤り、東征しようとした。秋七月、ついに諸軍を率いて呉を討伐した。孫権は書簡を送って和睦を請うたが、先主は激怒して許さなかった。呉の将軍陸議(陸遜)、李異、劉阿らが巫・秭帰に駐屯した。将軍呉班・馮習は巫から出撃して李異らを撃破し、軍は秭帰に駐留した。武陵郡の五谿の蛮夷が使者を遣わして援軍を要請した。

原文章武元年夏四月,大赦,改年。以諸葛亮為丞相,許靖為司徒。置百官,立宗廟,祫祭高皇帝以下。 〈臣松之以為先主雖云出自孝景,而世數悠遠,昭穆難明,既紹漢祚,不知以何帝為元祖以立親廟。於時英賢作輔,儒生在宮,宗廟制度,必有憲章,而載記闕略,良可恨哉!〉五月,立皇后吳氏,子禪為皇太子。六月,以子永為魯王,理為梁王。車騎將軍張飛為其左右所害。初,先主忿孫權之襲關羽,將東征,秋七月,遂帥諸軍伐吳。孫權遣書請和,先主盛怒不許,吳將陸議、李異、劉阿等屯巫、秭歸;將軍吳班、馮習自巫攻破異等,軍次秭歸,武陵五谿蠻夷遣使請兵。

二年春正月、先主の軍は秭帰に帰還し、将軍の呉班・陳式の水軍は夷陵に駐屯し、長江の東西両岸を挟んだ。二月、先主は秭帰から諸将を率いて進軍し、山に沿って嶺を切り開き、夷道の猇亭(猇は許交反)に陣営を駐め、佷山(佷は音恆)から武陵に通じ、侍中の馬良を派遣して五谿の蛮夷を慰撫すると、皆相率いて呼応した。鎮北将軍の黄権は江北の諸軍を督し、呉軍と夷陵道で対峙した。夏六月、黄気が秭帰から十余里の間に現れ、広さは数十丈であった。その後十余日、陸議が猇亭で先主の軍を大破し、将軍の馮習・張南らは皆戦死した。先主は猇亭から秭帰に帰還し、離散した兵を収集し、船を放棄して、歩道で魚复に帰還し、魚复県を永安と改称した。呉は将軍の李異・劉阿らを派遣して先主の軍を追跡させ、南山に駐屯させた。秋八月、兵を収めて巫に帰還した。司徒の許靖が死去した。冬十月、詔により丞相の諸葛亮は成都で南北郊の祭祀を営んだ。孫権は先主が白帝に駐留していると聞き、非常に恐れ、使者を派遣して和睦を請うた。先主はこれを許し、太中大夫の宗瑋を派遣して返答させた。冬十二月、漢嘉太守の黄元は先主の病気が癒えないと聞き、兵を挙げて守りを固めた。

原文二年春正月,先主軍還秭歸,將軍吳班、陳式水軍屯夷陵,夾江東西岸。二月,先主自秭歸率諸將進軍,緣山截嶺,於夷道猇亭〈猇,許交反。 〉駐營,自佷山〈佷,音恆。〉通武陵,遣侍中馬良安慰五谿蠻夷,咸相率響應。鎮北將軍黃權督江北諸軍,與吳軍相拒於夷陵道。夏六月,黃氣見自秭歸十餘里中,廣數十丈。後十餘日,陸議大破先主軍於猇亭,將軍馮習、張南等皆沒。先主自猇亭還秭歸,收合離散兵,遂棄船舫,由步道還魚复,改魚复縣曰永安。吳遣將軍李異、劉阿等踵躡先主軍,屯駐南山。秋八月,收兵還巫。司徒許靖卒。冬十月,詔丞相亮營南北郊於成都。孫權聞先主住白帝,甚懼,遣使請和。先主許之,遣太中大夫宗瑋報命。冬十二月,漢嘉太守黃元聞先主疾不豫,舉兵拒守。

三年春二月、丞相の諸葛亮が成都から永安に到着した。三月、黄元が進軍して臨邛県を攻撃した。将軍の陳曶(音は笏)を派遣して黄元を討伐させ、黄元の軍は敗北し、流れに沿って長江を下ったが、その親兵に縛られ、生きたまま成都に送られ、斬られた。先主の病が重篤となり、丞相の諸葛亮に後事を託し、尚書令しょうしょれいの李厳を補佐とした。夏四月癸巳、先主は永安宮で崩御した。時に六十三歳であった。(諸葛亮集に先主の遺詔が載せられ、後主を戒めて言う。

原文三年春二月,丞相亮自成都到永安。三月,黃元進兵攻臨邛縣。遣將軍陳曶〈音笏。〉討元,元軍敗,順流下江,為其親兵所縛,生致成都,斬之。先主病篤,託孤於丞相亮,尚書令李嚴為副。夏四月癸巳,先主殂於永安宮,時年六十三。 〈諸葛亮集載先主遺詔敕後主曰:

朕は最初の病気はただ下痢だけであったが、後に他の病気が混じり、ほとんど助からない。人は五十歳で夭折とは言わず、年齢はすでに六十有余であるから、何を恨むことがあろうか。もう自らを悲しむことはしないが、ただ卿たち兄弟のことを思う。射君が来て、丞相が卿の知恵と度量を称賛し、非常に大きく成長したと言った。期待以上である。本当にこのようであれば、朕はまた何を憂えようか。努めよ、努めよ。悪が小さいからといって行ってはならず、善が小さいからといって行わないでいてはならない。賢であり徳あることのみが、人を服従させることができる。汝の父は徳が薄い。これを模倣してはならない。漢書かんじょ・礼記を読むがよい。暇な時に諸子百家および六韜・商君書を広く見て回り、人の知恵を増すがよい。聞くところによると、丞相が申子・韓非子・管子・六韜を一通書き写し終えたが、まだ送られず、途中で失われたという。自らさらに求めて名声を上げるがよい。

原文朕初疾但下痢耳,後轉雜他病,殆不自濟。人五十不稱夭,年已六十有餘,何所复恨,不復自傷,但以卿兄弟為念。射君到,說丞相嘆卿智量,甚大增脩,過於所望,審能如此,吾復何憂!勉之,勉之!勿以惡小而為之,勿以善小而不為。惟賢惟德,能服於人。汝父德薄,勿效之。可讀漢書、禮記,間暇歷觀諸子及六韜、商君書,益人意智。聞丞相為寫申、韓、管子、六韜一通已畢,未送,道亡,可自更求聞達。

臨終の時、魯王を呼んで語った。「朕が亡くなった後、汝たち兄弟は丞相を父のように仕え、卿たちに丞相と共に事を行わせよ。」)

原文臨終時,呼魯王與語:「吾亡之後,汝兄弟父事丞相,令卿與丞相共事而已。」〉

諸葛亮が後主に上言して言う。

原文亮上言於後主曰:

伏して思うに、大行皇帝は仁を広め徳を立て、覆い照らすこと限りなく、天は哀れまず、病床に伏して長く留まり、今月二十四日に突然昇天された。臣妾は号泣し、父母を喪ったようである。遺詔を顧みると、事は大宗(皇統)のためであり、行動や表情を損なうことなく、百官は哀悼し、満三日で喪服を脱ぎ、葬儀の期日には再び礼に従う。その郡国の太守・相・都尉・県令長は、三日で喪服を脱ぐ。臣の諸葛亮は親しく戒めを受け、神霊を畏れ震え、敢えて違えることはしない。臣は請うてこれを宣布し奉行することを。

原文伏惟大行皇帝邁仁樹德,覆燾無疆,昊天不弔,寢疾彌留,今月二十四日奄忽升遐,臣妾號咷,若喪考妣。乃顧遺詔,事惟大宗,動容損益;百寮發哀,滿三日除服,到葬期復如禮;其郡國太守、相、都尉、縣令長,三日便除服。臣亮親受敕戒,震畏神靈,不敢有違。臣請宣下奉行。

五月、梓宮(棺)は永安から成都に帰還し、諡して昭烈皇帝と称した。秋八月、恵陵に葬られた。(葛洪『神仙伝』に言う。仙人の李意其は蜀の人である。代々にわたって彼を見たという。漢文帝の時代の人だと言う。先主が呉を討伐しようとした時、人を派遣して李意其を迎えた。李意其が到着すると、先主は礼を尽くして敬い、吉凶を尋ねた。李意其は答えずに紙筆を求め、兵馬や武器を数十枚描き終えると、すぐに一つ一つ手で破り、また一人の大人を描き、地面を掘って埋めると、まっすぐ去って行った。先主は非常に不愉快であった。そして自ら出軍して呉を征伐し、大敗して帰還し、憤りと恥辱から発病して死んだ。人々はやっとその意味を知った。あの大人を描いて埋めたのは、つまり先主の死を意味していたのである。)

原文五月,梓宮自永安還成都,諡曰昭烈皇帝。秋,八月,葬惠陵。 〈葛洪《神仙傳》曰:仙人李意其,蜀人也。傳世見之,云是漢文帝時人。先主欲伐吳,遣人迎意其。意其到,先主禮敬之,問以吉凶。意其不答而求紙筆,畫作兵馬器仗數十紙已,便一一以手裂壞之,又畫作一大人,掘地埋之,便徑去。先主大不喜。而自出軍徵吳,大敗還,忿恥發病死,眾人乃知其意。其畫作大人而埋之者,即是言先主死意。〉

評して言う。先主の剛毅で寛厚なこと、人を知り士を待遇することは、おそらく高祖(劉邦)の風があり、英雄の器量であった。そして国を挙げて諸葛亮に後事を託した時、心に二心がなく、誠に君臣の最も公なるものであり、古今の盛んな軌範である。機略と才幹は魏武(曹操)に及ばず、それゆえ基盤も狭かった。しかし挫折しても屈せず、終いに臣下とならなかったのは、おそらく彼(曹操)の度量では必ずや自分を容れられなかったからであり、ただ利益を競うためだけでなく、害を避けるためでもあったと言えよう。

原文評曰:先主之弘毅寬厚,知人待士,蓋有高祖之風,英雄之器焉。及其舉國託孤於諸葛亮,而心神無貳,誠君臣之至公,古今之盛軌也。機權幹略,不逮魏武,是以基宇亦狹。然折而不撓,終不為下者,抑揆彼之量必不容己,非唯競利,且以避害云爾。