旧唐書 和訳 8

旧唐書

本紀第八 玄宗上

玄宗至道大聖大明孝皇帝、諱(いみな)は隆基(りゅうき)。睿宗(えいそう)の第三子である。母は昭成順聖(しょうせいじゅんせい)皇后竇(とう)氏。垂拱(すいきょう)元年秋八月の戊寅の日、東都(洛陽)で生まれた。性格は英邁(えいまい)かつ決断力に富み、多芸であった。特に音律に通じ、「八分(はっぷん)書」(書体の一種)を善(よ)くした。儀範(容姿と立ち居振舞い)は堂々として美しく、非凡な風貌(非常之表)を備えていた。

(垂拱)三年閏七月の丁卯の日、楚(そ)王に封じられた。天授(てんじゅ)三年十月の戊戌の日、出閣(しゅっかく:皇子が宮中を出て居を構えること)し、官署(開府)と属官を置いたが、時に行年は七歳であった。朔(ついたち)と望(十五日)に車騎を連ねて朝堂(ちょうどう)に至ったが、金吾(きんご)将軍の武懿宗(ぶいそう)は、王(玄宗)の列が厳格に整っているのを忌み嫌い、儀仗(ぎじょう:護衛の列)を怒鳴り散らして排除(訶排)し、気勢を削ごう(折之)とした。王はこれを叱りつけて言った。「ここはわが家の朝堂(宮廷)である、汝(なんじ)に何の関係があるか! 敢えてわが騎従(随従)を威圧するとは!」則天(武后)はこれを聞いて、特別に王への寵愛を加え、異例の扱いをした。まもなく再び宮中(閣)に戻った。長寿(ちょうじゅ)二年十二月の丁卯の日、臨淄(りんし)郡王に改封された。聖暦(せいれき)元年、再び出閣し、東都の積善(せきぜん)坊に邸宅を賜った。大足(だいそく)元年、西京(長安)への行幸に従い、興慶(こうけい)坊に邸宅を賜った。長安(ちょうあん)年間には、右衛郎将(うえいろうしょう)、尚輦(しょうれん)奉御を歴任した。

神龍(しんりゅう)元年、衛尉少卿(えいいしょうけい)に遷(うつ)った。景龍(けいりゅう)二年四月、潞(ろ)州別駕(べつが)を兼ねた。十二月、銀青光禄大夫(ぎんせいこうろくたいふ)を加えられた。州の領内に、黄龍が白昼に天へ昇るのが見られた。かつて狩り(畋)に出た際、紫の雲が王の上に立ちのぼり、後から従う者が遠くからそれ(龍気)を望み見ることができた。前後した瑞祥(符瑞)は、合わせて十九に及んだ。四年、中宗が南郊(なんこう)で祭祀を行おうとしたため、京師(長安)に来て朝見した。出発に際し、術士の韓礼(かんれい)に占わせた(筮)ところ、蓍(めどぎ)の一茎が独りですっくと立った。韓礼は驚いて言った。「蓍が立つとは、非凡な大吉の兆し(奇瑞)であり、口では言い表せません。」中宗の末年に当たり、王室には多難な出来事(多故)が多かったため、王は常日頃から密かに才力ある士を招き寄せ、自らの助けとした。王の邸宅の外に池があったが、しばらくの間水が溢れ出し(浸溢)、気を見る者(望気者)はこれを「龍気(りゅうき:天子の気)」であるとした。四年四月、中宗がその邸宅へ行幸し、その池で遊んだが、色とりどりの飾りを付けた船(楼船)を作り、巨大な象にそれを踏ませた。

六月に至り、中宗が急死(暴崩)し、韋后(いごう)が朝廷で実権を握り(臨朝)、命令を下した(称制)。韋温(いおん)・宗楚客(そうそかく)・紀処訥(きしょとつ)らは皇統(宗社)を覆そうと謀り、睿宗が皇帝の弟(介弟)として重んじられていたため、まず(睿宗に対し)不利な状況を企てた。道士の馮道力(ふうどうりき)、隠士(処士)の劉承祖(りゅうしょうそ)はいずれも占いに長けており、王のもとを訪れて忠誠を誓った。王の住む里の名は「隆慶(りゅうけい)」といったが、当時の人々は言葉が訛(なま)って「隆」を「龍」と呼んでいた。韋(庶人)が称制した際に改めた元号も「唐隆(とうりゅう)」であり、いずれも王の名(諱:隆基)と符合していた。王はますます自負心を深め、そこで太平(たいへい)公主と(中宗暗殺の一党の誅殺を)共謀したが、公主は喜び、子の(薛)崇簡(せつすうかん)を従わせた。王はそこで、崇簡、朝邑(ちょうゆう)尉の劉幽求(りゅうゆうきゅう)、長上(ちょうじょう)折衝の麻嗣宗(ましそう)、押し万騎(ばんき)果毅(こき)の葛福順(かっぷくじゅん)・李仙鳧(りせんふ)、宝昌(ほうしょう)寺の僧侶の普潤(ふじゅん)らと策を定め、一党(韋后ら)を誅殺することとした。ある者が「まず大王(父の睿宗)に申し上げるべきです」と言ったが、王は言った。「私は国家(社稷)の危機を救い、父君(君父)の急を助けようとしているのである。事が成れば幸福は皇室(宗社)に帰し、成らねば身を捨てて忠孝を尽くすまでだ。どうして先に許可を請うて、大王を不安がらせて(憂怖)よかろうか! もし願い出て従うならば、王を危険な事に巻き込むことになり、願い出て従わないならば、わが計略は失敗に終わるのだ。」ついに庚子の夜、劉幽求ら数十人を率いて苑(えん)の南から侵入し、総監の鍾紹京(しょうしょうけい)もまた工夫(丁匠)百余人を率いて従った。万騎(左右万騎の兵)を分遣して玄武(げんぶ)門に赴かせ、羽林(うりん)将軍の韋播(いばん)・高嵩(こうすう)を殺し、その首を持参して到着すると、衆兵(万騎)は大いに歓声を上げて集結した。白獣(はくじゅう)・玄徳(げんとく)などの門を攻め、関(かん:かんぬき)を斬って進み、左万騎は左から、右万騎は右から入り、凌煙(りょうえん)閣の前で合流した。その時、太極(たいきょく)殿の前には中宗の棺(梓宮)を守る(宿衛)万騎の兵がいたが、騒動の声を聞くと、皆が甲冑を付けてこれに応じた。韋(庶人)は恐れ惑って飛騎(ひき)の営舎へ逃げ込んだが、乱兵によって殺された。そこで韋氏の一党を分遣して誅殺し、夜明けを待って、内外を討伐・捕縛(討捕)し、皆を斬った。そこで馬を走らせて睿宗に拝謁し、事前に相談(啓請)しなかった罪を謝罪した。睿宗は急いで前に出て王を抱きしめ、泣いて言った。「国家(宗社)の禍難は、お前によって安定した。神々と万民(神祇万姓)は、お前の力に頼っているのだ。」(王を)殿中監(でんちゅうかん)・同中書門下三品(宰相職)に任じ、左右万騎の監督(押)を兼ねさせ、平(へい)王に進封した。

睿宗が即位すると、侍臣たちと皇太子の選定について議論したが、皆が言った。「天下の禍(わざわい)を除いた者は、天下の福を享受すべきであ。天下の危うきを救った者は、天下の安寧を受けるべきです。平王(玄宗)には聖なる徳(聖徳)があり、天下を平定しました。また成器(せいき:長男)以下も皆が譲り合っている(推讓)と聞いております。まさに主鬯(しゅちょう:皇太子として祭祀を司ること)の位に就き、人々の期待(群心)に応えるべきです。」睿宗はこれに従った。丙午の日、制を下して言った。

「舜(しゅん)は四兇(しきょう)を去って、その功績は天地に及び(格)、武(王)には七徳(しちとく)があって、民を平定(戡定)した。ゆえに、大きな勲功(大勲)ある者は必ず神明の福を受け、高い大義に基づく者は、必ず皇太子(匕鬯之主)となることを知るのである。朕(ちん)はつつしんで宝位(皇位)に臨み、天下(寰区)を養い育てているが、万物の心を自らの心とし、万民(兆人)の命(運命)を自らの命としている。たとえ家督(承継)の道としては、皆嫡長子(塚嫡)を尊しとするとはいえ、無私の思い(無私之懐)としては、必ず功績(功業)を第一とすべきである。然(しか)る後に、国家(社稷)を安んじて保ち、末永く宗廟(宗祧)を祀ることができるのだ。第三子の平王(李)隆基(りき)は、孝にして真実忠実(克忠)、義にして勇(ゆう)あり。」

「近頃、朕(睿宗)が藩邸(皇族の邸宅)に居た頃、国家の法(国彞)をうやうやしく守っており、貴戚(外戚)や宦官(中人)を一切近づけなかった。邪悪な徒党が正義を害し、凶悪な一党は実に多く、口先だけの巧みな言葉(利口巧言)や誹謗中傷(讒説)は際限がなかった。韋温(いおん)・(武)延秀(ぶえきしゅう)らは派閥(朋党)を競って作り、晋卿(しんけい:魏元忠の男子)・宗楚客(そうそかく)らはその間で陰謀(交構)をめぐらせた。密かに邪悪な者と結託し、実直で善良な者を排斥し、密かに兵器(兵甲)を蓄えて朕(玄宗)の身を害そうとした。隆基(玄宗)は密かにその期日を聞き、これに先立って奮起し、自ら危険を顧みず(推身)これを鎮め(鞠弭)、兵士(衆)は帰依するように応じ、瞬く間(呼吸之間)に凶悪な首領たち(凶渠)を滅ぼした。崩れ落ちそうであった国家(七廟)を安んじ、まさに命を落とそうとしていた群臣を救ったのである。(その功績を)舜(しゅん)の功績に比べればその四倍であり、武(王)の徳に比べればその七倍にも勝る。神々(霊祇)の期待はそこにあり、兄弟たちも喜んで推挙(楽推)している。一人の元良(皇太子:玄宗)が得られたことで、万邦は定まった。皇太子となるべき者は、この者(平王)をおいて他に誰がいようか。即(すなわ)ち皇太子に立てるものとする。担当官(有司)は日を選び、礼を備えて冊立(冊命)せよ。」

七月の己巳の日、睿宗は承天(しょうてん)門に御し、皇太子は朝堂(ちょうどう)に赴いて(冊立の)詔書(冊)を受けた。この日、景雲(けいうん)の瑞祥があったため、元号を「景雲」と改め、天下に大赦を行った。

(景雲)二年、また制を下して言った。「天が民(丞人)を生み、天子(元後)を立ててこれを治めさせ、天子が国家を立て、皇太子(儲君)を立ててこれを助けさせるのは、国家(家邦)を安らげ(保綏)、後継者を安泰にするためである。朕は広大な帝業(洪業)を継承し、天子の位(宝図)をうやうやしく奉じ、夜中になっても眠らず、日が傾いても精を出して働いてきた(日昃忘倦)。しかし、広大な四海のうちに、ただ一人でも行き届かない者がいることを恐れ、多くの万民のうちに、ただ一つの物でも場所を失うことを恐れている。たとえ官僚(卿士)が誠を尽くし、地方官(守宰)が教化を宣(の)べているとはいえ、天下(庶域)を思いやれば、依然として小康(安泰)の状態には至っていない。そこで、民の風俗(変風)を求め(視察し)、先朝の故事(皇太子に政務を代行させる例)に従うこととする。皇太子・(李)隆基(りき)は仁孝の心が深く、温厚で恭しく徳を備えており、礼の根本(礼体)を深く理解し、天子の計略(皇猷)をわきまえることができる。まさに国政を監視(監国)させ、汝(皇太子)に政治を行わせるものとする。六品以下の官職への任命(除授)および徒罪(ずざい:懲役)以下の刑罰については、すべて隆基の決定(処分)を仰ぐこととする。」

先天(せんてん)元年

延和(えんな)元年六月、凶悪な一党(太平公主ら)が、術士を通じて睿宗に次のように吹き込んだ。「天象(玄象)によれば、帝座(皇帝の星)および前星(皇太子の星)に災厄があり、皇太子は天子となるべきで、(これ以上)東宮(皇太子の位)に留まるべきではありません。」睿宗は「徳ある者に(位を)伝えて災厄を避けること(伝徳避災)、わが意は決した」と言った。

七月の壬午の日、制を下して言った。

「朕は徳の薄い身(寡昧)でありながら、天の大きな恵み(鴻休)をうやうやしく奉じてきたが、もともと(古の賢人である)王季(おうき:周の文王の父)の賢明さには及ばず、早くから(地位を譲った)延陵(えんりょう:季札(きさつ))の節操を理解していた。かつて聖暦(せいれき:武則天の年号)年間には、すでに皇嗣(こうし:皇位継承者)の尊位を(兄に)譲っており、神龍(しんりゅう:中宗の即位)に及んでも、ついに太弟(たいてい:皇太弟)の授与を辞退した。これは単に官僚(衣冠)が見るところであるだけでなく、わが万民(兆庶)も皆が知るところである。近頃、国家の歩みが穏やかでなく(不夷)、時局が困難で天子(少帝)が幼かったため、帝業(大業)は危うく(綴旒之懼:ていりゅうのおそれ)、天子の位(宝位)が失われることが深く憂慮された。公卿らの議論に促され、ついに(皇帝の)印章(契篆:けいてん)を司ることとなったが、日に日に慎み(日慎一日)、今に至っている。十二年(一紀)にわたる労苦は実に尽くし難く、天下の習俗(万方之俗)も次第に教化されてきた。そこで宿願を成し遂げ、俗世(寰区)から離れようと思う。昔、堯(ぎょう)が舜(しゅん)に禅譲したのは、ただ能力(能)ある者に与えたのであり、禹(う)が(子の)啓(けい)に命じたのは、身内を私した(私其親)わけではない。天下(神器)の重みは、正しく公(おおやけ)の授与に帰すべきである。皇太子・隆基は天地に大きな功績があり、国家(社稷)の危うきを定めた。学問(温文)に熟達し、聖なる敬(聖敬)を備えている。彼に国政を任せて(監国)からすでに歳月が経ち、時の政治はいよいよ明らかになり、諸々の職務(庶工)は秩序だっている。朕が子を知ることは、時勢(時)を裏切るものではないだろう。運数(暦数)は彼にある、まさに天子(元後)の位に登るべきである。まさに皇帝の位に即かせるものとする。担当官(有司)は日を選んで(冊立の)詔書(冊)を授けよ。朕はまさに古の太古の世(洪古)の足跡に並び、太皇(たいこう)の風習を慕い、精神は化(教化)と共に巡り、思いは道(真理)と合致し、何事もなさない(無為無事)境地に入ろうと思うが、なんと素晴らしいことではないか! 王公や百官は、朕の意図を理解せよ。」

皇帝(玄宗)は非常に恐れ(惶懼)、急いで参内して頭を叩き、位を譲る(伝位)命令の趣旨を尋ねた。睿宗は「吾(われ)はお前の功績によって(皇帝となり)皇室(宗社)を維持できた。今、帝座(皇帝の星)に禍い(眚)がある。遜(ゆず)って災厄を避けようと思う。ただ聖なる徳と大きな勲功(聖德大勛)があればこそ、始めて禍を転じて福となすことができる。位をお前に譲る(易位)のが、吾(われ)には遅すぎた(と後悔している)ほどだ」と言った。皇帝(玄宗)は初めて武徳(ぶとく)殿において執務(視事)を行い、三品以下の官職の任命(除授)および徒罪(ずざい:懲役)以下の刑罰はすべて自ら決定(決之)することとなった。

開元(かいげん)元年

先天(せんてん)二年七月三日、尚書左僕射(さぼくや)の竇懐貞(とうかいてい)、侍中の岑羲(しんぎ)、中書令の蕭至忠(しょうしちゅう)・崔湜(さいしょく)、雍(よう)州長史の李晋(りしん)、左羽林大将軍の常元楷(じょうげんかい)、右羽林将軍の李慈(りじ)らが、太平(たいへい)公主と共謀し、その月の四日に羽林軍を率いて反乱(作乱)を起こそうとした。皇帝(玄宗)は密かにこれを知り、中旨(ちゅうし:皇帝の特命)をもって岐(き)王の(李)範(はん)、薛(せつ)王の(李)業(ぎょう)、兵部尚書の郭元振(かくげんしん)、将軍の王毛仲(おうもうちゅう)に伝え、閑廄(かんきゅう:馬厩舎)の馬および家来(家人)三百余人を動員し、太僕少卿の李令問(りれいもん)・王守一(おうしゅいつ)、内侍(宦官)の高力士(こうりきし)、果毅(こき)の李守徳(りしゅとく)ら親信の十数人を率いて、武徳殿を出て、虔化(けんか)門に入った。常元楷と李慈を北闕(ほっけつ)で斬首(梟)した。賈膺福(かようふく)・李猷(りゆう)を内客省で捕らえて外へ出した。蕭至忠と岑羲を朝廷で捕らえ、みな斬った。睿宗は翌日、詔を下して言った。「朕(太上皇)は今後、高みの無為(無為の治)に身を置き、これからの軍事・国家の処刑や政治(軍国政刑)の一切について、すべて皇帝(玄宗)の処分(決定)を仰ぐこととする。」皇帝(玄宗)は承天(しょうてん)門の楼に御し、制を下して言った。

「朕は歴代の天子(累聖)の大きな恵み(洪休)を享受し、重なる徳(重光)の慶びを受け継いできた。かつて多難な時期にあたり、宮中(内属)では混乱(構屯)が起き、天子の位(宝位)が失われることを深く憂い、天下(神器)が危うくなることを恐れた。」

国家を治めることに努め(事殷家国)、大義は神々に感銘(義感神祇)を与え、風雲を呼び起こし(吟嘯風雲)、雷電のように(龔行雷電)迅速に(一党を)誅殺した。その結果、君主(睿宗)を堯(ぎょう)・舜(しゅん)のような聖君とし、民(黔首)を安泰(休和)へと救い出した。ついに(景雲元年の)七月(孟秋)、皇太子の位(儲貳)に昇り、まもなく(父・睿宗からの)禅譲(内禅)を受け(即位し)、天子の位(宸居)を継受した。首(こうべ)を垂れて(引退を)請うても空しく、位を譲ろうとする誠意(譲立之誠)も聞き入れられず、恭しく万民(億兆)に臨んでより、今ここに二載(二目)が経った。上は父帝(太上皇)の聖なる教え(聖謨)を仰ぎ、下では諸々の功績(庶績)が結実し、天下(八荒)は一つになり(同軌)、海(瀛海)には波も立たない(泰平)はずであった。ところが、思いもかけず邪悪な者(奸慝:太平公主ら)が密かに謀略し、宮中(蕭牆:しょうしょう)から乱が起きた。逆賊の竇懐貞(とうかいてい)らは、もともと無能でわきまえのない者(庸妄)であったが、朝廷に重用(権歯)され、毫発(ごうはつ)ほどの功績も示していないのに、山のような罪(丘山之釁)を積み重ねた。彼らは皆が梟鞫(きょうきく:親殺しの猛禽、転じて極悪人)となり、まさに邪悪な振る舞い(奸回)をほしいままにしようとした。太上皇(睿宗)の英断は広大で(宏通)、優れた計略(英謀)を独り働かせ、朕(玄宗)に命じて岐王(李)範(はん)・薛王(李)業(ぎょう)らを率いさせ、自ら(賊を)誅殺(誅鋤)させた。刑具を振りかざせば(齊斧一麾)、凶悪な首領たち(凶渠)は皆殺し(尽殪)となった。太陽が輝き(太陽朗耀)、天の道(天衢:てんく)の濁った霧(氛靄)は清まり、季節に順う風が吹き、秋の厳しい空気(粛殺)を奮い立たせた。神々も助け(神霊協賛)、中央も地方も(夷夏)ともに歓喜し、四族(一党)の邪悪が清められ、七百年の皇統(七百之祚)はいよいよ永く続くこととなった。そこで(太上皇からの)重ねての下命を受け、改めて良き時代(休期)を開き、軍事と国家の大いなる法(大猷)を統括し、雲が雨を降らすごとき広大な恩沢(雲雨之鴻澤)を施す。天子の道(承乾之道)は際限なく(無垠)光り輝き、罪を解く恩恵(作解之恩)は万物(品物:人々)に等しく及ぶことを思う。万民(億兆)と共に、この維新(新しい治世)を共にすべきである。まさに天下に大赦を行い、死刑(大闢罪)以下、すべてを赦免(除之)せよ。邠(ひん)王の(李)守礼(しゅれい)には実封(じっぷう)三百戸を加え、宋王の成器(せいき)・申(しん)王の成義(せいぎ)には各一千戸、岐王の範・薛王の業には各七百戸の実封を加える。文武官の三品以下には爵位を一級賜い、四品以下には位階を一階加える。内外の官人で各道の按察使(あんさつし)および御史によって告発されていた者(摘伏)は、すべてその身を清め、選考の日を待って順次登用せよ。

丁卯の日、崔湜(さいしょく)・盧蔵用(ろぞうよう)を官籍から除名し、嶺南(嶺表)へ流刑(長流)とした。壬申の日、(定策の功により)王琚(おうきょ)を銀青光禄大夫・戸部尚書・趙(ちょう)国公とし、実封三百戸を賜った。姜皎(きょうこう)を銀青光禄大夫・工部尚書・楚(そ)国公とし、実封五百戸を賜った。李令問(りれいもん)を銀青光禄大夫・殿中監とし、実封三百戸を賜った。王毛仲(おうもうちゅう)を輔国(ほこく)大将軍・左武衛大将軍・検校内外閑廊(かんろう)兼知監牧使・霍(かく)国公とし、実封五百戸を賜った。王守一(おうしゅいつ)を銀青光禄大夫・太常(たいじょう)卿・同正員(正式な定員扱い)とし、晋(しん)国公に進封し、実封五百戸を賜った。これらはすべて定策(政変の計略)の功を賞したものである。王琚・姜皎・李令問は固辞した。癸丑の日、中書侍郎の陸象先(りくしょうせん)を益(えき)州大都督府長史・兼剣南道按察兵馬使とし、尚書左丞の張説(ちょうえつ)を検校中書令(中書令の代行)とした。甲戌の日、天枢(てんすう:武則天時代に建立された銅鉄の柱)を破壊し、その銅鉄を軍事・国家の雑用(軍国雑用)に充てるよう命じた。庚辰の日、王琚を中書侍郎とし、実封二百戸を加えた。姜皎を殿中監とし、引き続き内外閑廄(かんきゅう)使に充て、実封二百戸を加えた。李令問を殿中少監・知尚食事とし、実封二百戸を加えた。己丑の日、周の「孝明高皇帝」(武則天の父、武士彟)については以前の通り「太原(たいげん)王」と追贈するにとどめ、皇帝の称号を廃止した。「孝明皇后」については「太原王妃」と称すべきである。昊陵(こうりょう)・順陵(じゅんりょう)も、併せて「太原王および妃の墓」と称することとした。

八月の壬辰の日、封(ほう)州の流人であった劉幽求(りゅうゆうきゅう)を尚書左僕射(さぼくや)・知軍国重事・徐(じょ)国公とし、以前の通り実封七百戸とした。制を下して言った。「罪人を処刑(刑人)するのは国家の定法である。しかし(遺棄された)骨を覆い、死体を埋葬する(掩骼埋胔:えんかくまいし)のは、王者の配慮(用心)である。今後、処刑された者の骨肉をみだりに切り裂く(屠割)者がいれば、法に依って残害の罪に処す。」

九月、司空兼揚(よう)州大都督・宋王成器を太尉(たいい)兼揚州大都督とした。益(えき)州大都督兼右金吾(きんご)大将軍・申王成義を司徒(しと)兼益州大都督とした。単于(ぜんう)大都護兼左金吾大将軍・邠王守礼を司空とした。癸丑の日、華嶽(かがく)の神を「金天王(きんてんおう)」に封じた。

九月の丁卯の日、宋王成器を開府儀同三司(かいふぎどうさんし)とした。尚書左僕射の劉幽求を同中書門下三品(宰相職)とした。検校中書令・燕(えん)国公の張説を中書令とした。特進(とくしん)の王仁皎(おうじんこう:皇后の父)を開府儀同三司とした。己卯の日、承天(しょうてん)門において王公や百官に宴を賜い、側近(左右)に楼の下で金銭(金貨)を蒔かせ、中書門下の五品以上の官吏および諸官庁(諸司)の三品以上の官吏に争って拾う(争拾)ことを許した。さらにそれぞれに差をつけて物(品)を賜った。郭元振(かくげんしん)に御史大夫を兼ねさせた。丙戌の日、再び右御史台を置いた。

冬十月の甲申の日、

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新豊(しんぽう)の温湯(おんとう:温泉)に行幸した。癸卯の日、驪(り)山において武芸の披露(講武)を行った。兵部尚書の代(だい)国公・郭元振は、軍の規律(軍容)を乱した罪により、新(しん)州へ流刑(配流)となった。給事中・摂太常(たいじょう)少卿の唐紹(とうしょう)は、軍礼(儀式)に過失があったとして、軍旗(纛:とう)の下で斬首された。甲辰の日、渭(い)川において狩猟(畋猟)を行った。同(どう)州刺史・梁(りょう)国公の姚元之(ようげんし:姚崇)を兵部尚書・同中書門下三品(宰相職)とした。乙巳の日、温湯から戻った。

十一月の乙丑の日、劉幽求に侍中を兼ねさせた。戊子の目、皇帝に「開元神武(かいげんしんぶ)皇帝」の尊号を加えた。

十二月の庚寅の朔(ついたち)、天下に大赦を行い、元号を「開元(かいげん)」に改め、内外の官吏に勲(勲位)を一転賜った。尚書左右僕射(さぼくや)を「左右丞相(じょうしょう)」に、中書省を「紫微(しび)省」に、門下省を「黄門(こうもん)省」に、侍中(じちゅう)を「監(かん)」に、それぞれ改めた。雍(よう)州を「京兆(けいちょう)府」に、洛(らく)州を「河南(かなん)府」に、長史(ちょうし)を「尹(いん)」に、司馬(しま)を「少尹(しょういん)」に、それぞれ改めた。唐の建国以来の宰相および実封(じっぷう)を食(は)む功臣の子孫で、不遇なまま(沉翳)恩賞に預かっていない者を、能力に応じて(量才)抜擢・任用するよう命じた。開元元年十二月の己亥の日、潑寒胡(はつかんこ)戯(冬至に行われる胡族の風習、水をかけ合う祭)を禁じた。癸丑の日、尚書左丞相兼黄門監の劉幽求(りゅうゆうきゅう)を太子少保(さいししょうほ)とし、知政事を免じた。紫微令(しびれい:中書令)の張説(ちょうえつ)を相(そう)州刺史とした。甲寅の日、門下侍郎の盧懐慎(ろかいしん)を同紫微黄門平章事とした。

開元二年

(開元)二年春正月、関中(長安周辺)では昨秋からこの月に至るまで雨が降らず、多くの人々が飢えに苦しんだため、使節を派遣して賑恤(しんじゅつ:食糧等の配給)を行わせた。制を下して、率直にいさめ(直諫)、政治の道理に大きく資する議論(昌言)を公明に行う者を求めた。名山大川に対し、併せて祈願の祭祀(祈祭)を行わせた。丙寅の日、紫微令の姚崇(ようすう)が上奏(上言)し、天下の僧尼を厳重に検査(検責)することを願い出た。これにより、偽って得度し不当に免税を受けていた(偽濫)者二万余人が還俗(げんぞく)した。甲申の日、并(へい)州大都督府長史兼検校左衛大将軍の薛訥(せつとつ)を同紫微黄門三品とし、引き続き兵を率いて奚(けい)・契丹(きったん)を討伐させた。

二月、突厥(とっけつ)のモチュ(黙啜)がその子の同俄(どうが)特勤(テギン)を派遣して北庭(ほくてい)都護府を襲撃(寇)させたが、右驍衛(ぎょうえい)将軍の郭虔瓘(かくけんかん)がこれを撃破し、城下で同俄を斬った。己酉の日、日照り(旱)のため、皇帝自ら囚人の記録を精査(録囚)した(不当な刑がないか確認した)。太史(たいし)監が秘書省に所属していたのを廃止した。

閏月の癸亥の日、道士(どうし)・女冠(じょかん)・僧尼に対し、父母に礼拝(致拝)するよう命じた。丁卯の日、再び十道の按察使(あんさつし)を置いた。己未の日、突厥のモチュの妹婿である火拔(かばつ)頡利発(イルテベル)・石失畢(せきしつひつ)がその妻と共に亡命(来奔)してきたため、燕山(えんざん)郡王に封じ、左衛員外大将軍に任じた。紫微侍郎・趙(ちょう)国公の王琚(おうきょ)を澤(たく)州刺史に左遷(左授)し、実封一百戸を賜い、その他すべての職を停止した。丁亥の日、劉幽求を睦(ぼく)州刺史とした。

三月の甲辰の日、青(せい)州刺史・郇(じゅん)国公の韋安石(いあんせき)を沔(めん)州別駕(べつが:地方官への左遷)とした。太子賓客・逍遙(しょうよう)公の韋嗣立(いしりつ)を岳(がく)州別駕とした。特進(とくしん)で致仕(引退)していた李嶠(りきょう)は、先に子に随って袁(えん)州にいたが、さらに滁(じょ)州別駕に貶(おと)した。これらはいずれも定員外(員外置)の任命とした。昨年九月に天枢(てんすう)を破壊するよう詔(みことのり)があったが、今春になってようやく(解体が)始まった。

夏五月の辛亥の日、黄門監(こうもんかん)の魏知古(ぎちこ)を工部尚書とし、知政事(宰相職)を免じた。

六月の丁巳の日、開府儀同三司・宋王成器を岐(き)州刺史に、司徒・申王成義を豳(ひん)州刺史に、司空・邠王守礼を虢(かく)州刺史に任命した。ただし実際の政務は上佐(部下)に任せる(委務於上佐)こととした。宮中(内)から珠玉(しゅぎょく)や錦(にしき)、刺繍などの装身具・贅沢品(服玩)を出し、正殿の前でそれらを焼却させた。乙丑の日、兵部尚書で引退(致仕)していた韓(かん)国公の張仁願(ちょうじんがん)が卒(しゅつ)した。

七月、薛訥(せつとつ)が副将の杜賓客(とひんかく)・崔宣道(さいせんどう)らと共に兵六万を率いて檀(だん)州道から進軍したが、灤(らん)河において賊と遭遇し、破られた。薛訥らは鎧を捨てて逃げ帰ったが、死刑を減じられ、官名を剥奪して一般人(庶人)とした。辛未の日、光禄(こうろく)卿の竇希瑊(とうきかん)を太子太傅(たいしたいふ)とした。房(ぼう)州刺史・襄(じょう)王の重茂(じゅうも:少帝)が梁(りょう)州で崩御した。諡(おくりな)を「殤帝(しょうてい)」とした。丙午の日、昭文(しょうぶん)館学士の柳沖(りゅうちゅう)、太子左庶子の劉子玄(りゅうしげん)らが、刊定(校訂)した『姓族系録(せいぞくけいろく)』二百巻を献上した。興慶(こうけい)裏の旧邸跡に「興慶宮」を造営した。諸王(皇族)の傅(ふ:目付け役)をすべて廃止した。京師(長安)の官吏が身に付ける跨巾(こきん:頭巾の一種)と算袋(さんたい:計算道具入れ)については、朝参(ちょうさん:朝廷の会議)のある日にのみ着用し、地方官(外官)は政務の日(衙日)に着用し、その他の日は着用をやめることとした。吐蕃(とばん)が臨洮(りんとう)軍に侵攻(寇)し、さらに蘭(らん)州・渭(い)州に出没し、牧場(群牧)を略奪した。そこで、薛訥を摂(せつ)左羽林将軍・隴右(ろうゆう)防御使に起用し、杜賓客・郭知運(かくちうん)・王晙(おうしゅん)・安思順(あんしじゅん)らを率いさせてこれを防がせた。太常卿・岐王範を華(か)州刺史に、秘書監・薛王業を同(どう)州刺史とした。

八月の戊午の日、西天竺(てんじく)国が使節を派遣して方物(ほうぶつ:他方の特産物)を献上した。

九月の戊申の日、新豊(しんぽう)の温泉に行幸した。甲寅の日、制を下して言った。「古(いにしえ)の帝王はみな、厚葬(手厚い葬儀)を戒めてきた。それは亡くなった者に益するところがなく、民の生業を損なうからである。近代以来、人々は贅沢(奢靡)を競い、互いに模倣し合い、次第に風俗となって、家産を使い果たし、困窮(凋弊)するに至っている。そもそも魂魄(こんぱく)は天に帰るものであり、清らかな誠の心(明精誠)は遠く及ばぬものであるはずだ。地に墓を占う(卜宅)のは、亡き人を想う気持ち(思慕)の現れに過ぎない。古の人々が盛り土(封)をしなかったのも、道理に通じていなかったわけではない。しかも、墓は魂の住まい(真宅)であり、当然その部屋があるべきだが、今や別に田園を造り、これを「下帳(げちょう)」と名付け、さらに冥器(めいき:副葬品)などの物についても、みな競って華美(驕侈)を誇っている。礼に失し令に背くものであり、全くもって妥当ではない。遺体を辱め、骸(むくろ)をさらけ出すこと(戮尸暴骸)になるのは、実にこうしたことが原因である。これまでも制限(約束)はあったが、担当官庁(所司)はそれを明らかに周知せず、喪葬を行う家も準拠すべき基準がなかった。」

「担当官庁(所司)は官位の等級(品令)の上下に基づき、明確に制限(節制)を設けよ。冥器(めいき:副葬品)などの物についても、色や形、長さや大きさを定めよ。墓所の庭園(園宅)や下帳(げちょう:死者の住まいを模したテント)などは、すべて禁止し絶やせ。墳墓や墓地(廍域)は、質素(簡倹)であることを旨とせよ。およそ葬儀の道具に、金銀で飾りを付けてはならない。もし違反する者がいれば、まず杖刑一百回に処せ。州県の長官がこれを摘発しなかった場合は、遠方の官職へ左遷(貶授)せよ。」

冬十月の戊午の日、温泉(新豊)から戻った。薛訥(せつとつ)が吐蕃(とばん)を渭(い)州の西の境界にある武階(ぶかい)駅において破り、一万七十級を斬首し、馬七万七匹、牛羊四万頭を奪った。豊安(ほうあん)軍使の郎将・判将軍の王海賓(おうかいひん)が先鋒として力戦したが、戦死した。

十一月の庚寅の日、殤帝(しょうてい:少帝重茂)を武功(ぶこう)の西原に葬った。

十二月の乙丑の日、皇子の(李)嗣真(ししん)を鄫(ぞう)王に、(李)嗣初(ししょ)を鄂(がく)王に、(李)嗣玄(しげん)を鄄(けん)王に封じた。当時、右威衛(いえい)中郎将の周慶立(しゅうけいりゅう)が安南(あんなん)市舶使(しはくし:貿易管理官)となり、波斯(ペルシア)の僧侶と共に珍奇で巧みな品々(奇巧)を多く作り、宮中に献上しようとした。選考の監督官(監選使)であった殿中(でんちゅう)侍御史の柳澤(りゅうたく)が上書してこれをいさめたが、皇帝(玄宗)はこれを嘉(よみ)して聞き入れた(訥之)。

開元(かいげん)三年

三年春正月の丁亥の日、郢(えい)王の(李)嗣謙(しけん:後の粛宗)を皇太子に立て、死罪以下の罪人を一等級減刑し、天下に三日間の酒宴(大酺)を許した。癸卯の日、黄門侍郎の盧懐慎(ろかいしん)を検校黄門監(こうもんかんの代行)とした。甲辰の日、工部尚書の魏知古(ぎちこ)が卒(しゅつ)した。

二月、天下で鯉(こい)を捕らえることを禁じた(「鯉」が唐の国姓「李」に通じるため)。十姓(じっせい:西突厥諸部)の部族のうち、左廂(さしょう)の五咄六(ごとろく)啜、右廂(うしょう)の五弩失畢(ごどしつひつ)五俟斤(いけん)、および高麗(こうらい)の莫離支(まくりし)高文簡(こうぶんかん)、都督の鳷跌思太(してつしたい)らが、それぞれ自らの衆兵を率いて突厥から相次いで亡命(来奔)してきたが、前後は合わせて二千余帳に上った。許(きょ)州・唐(とう)州を分割して仙(せん)州を置いた。

夏四月、岐(き)王の(李)範(はん)に虢(かく)州刺史を、薛(せつ)王の(李)業(ぎょう)に幽(ゆう)州刺史を、それぞれ兼任させた。

六月、山東(さんとう:太行山脈以東)の諸州で大発生した蝗(いなご)が、飛べば太陽を遮り(蔽景)、降りれば苗や農作物を食い尽くし、その羽音は風雨のようであった。紫微令(しびれい)の姚崇(ようすう)が、御史を諸道へ派遣し、官吏を督促して人々を動員し、蝗を(穴に)追い込み(駆撲)、焼き、埋めさせ(焚瘞:ふんえい)、秋の農作物を救うよう請願したが、これに従った。この年、田の収穫があり、人々はそれほど飢えなかった。

秋七月、刑部尚書の李日知(りじつち)が卒した。

冬十月の甲寅の日、制を下して言った。「朕は政務の余暇(聴政之暇)、常に史籍(歴史書)を読んでいる。政治の道に関わる事には、実に心を留めており、その中に疑問点(闕疑)があれば、時々に質問を行いたい。そこで、徳高い儒学者(耆儒)や博学な者を一人選び、毎日参内して侍読(じどく:皇帝の読書を助ける役)に当たらせよ。」光禄(こうろく)卿の馬懐素(ばかいそ)を左散騎常侍とし、右散騎常侍の褚無量(ちょむりょう)と共に侍読に充てた。甲子の目、郿(び)県の鳳泉(ほうせん)湯に行幸した。

十一月の己卯の日、鳳泉湯から戻った。乙酉の日、新豊の温泉(温湯)に行幸した。丁亥の日、反逆者(妖賊)の崔子巖(さいしがん)らが相(そう)州に入り乱を起こした。戊子の目、州の当局がこれを討伐し鎮圧(平之)した。甲午の日、温泉から戻った。

十二月の庚午の日、軍器使(ぐんきし)を「軍器(ぐんき)監」とし、官員を置いた。この冬は雪が降らなかった。

開元四年

四年春正月の癸未の日、尚衣(しょうい)奉御の長孫昕(ちょうそんきん)は、皇后の妹婿であることを鼻にかけ(恃)、その妹婿の楊仙玉(ようせんぎょく)と共に御史大夫の李傑(りけつ)を殴りつけた。皇帝(玄宗)は朝堂において長孫昕を斬り、百官に謝罪するよう命じた。陽気で和やかな月(正月)に刑を執行すべきでないとして、何度も上表して請うたため、ついに打ち殺す(杖殺)よう命じた。丁亥の日、宋(そう)王の成器(せいき)・申(しん)王の成義(せいぎ)は、その名にある「成」の字が昭成(しょうせい)皇后(玄宗の母)の諡号(しごう)を犯す(避諱)ことから、成器を「憲(けん)」に、成義を「捴(そう)」に改名した。刑部尚書・中山(ちゅうざん)郡公の李乂(りがい)が卒した。

二月の丙辰の日、新豊の温湯に行幸した。丁卯の日、温湯から戻った。関中で日照り(旱)があったため、使節を派遣して驪(り)山で雨乞い(祈雨)をさせたところ、直ちに大雨(澍雨:じゅうう)が降った。少牢(しょうろう:羊と豚の供え物)で祭祀を行うよう命じ、引き続き柴刈り(樵採)を禁止した。

夏六月の庚寅の日、皆既月食(月蝕既)があった。癸亥の日、太上皇(たいじょうこう:睿宗)が百福(ひゃくふく)殿において崩御した。辛未の日、京師(長安)・華(か)州・陜(きょう)州で大風が吹き、木を根こそぎにした。癸酉の日、突厥のカガン(可汗)のモチュ(黙啜)が、九姓(きゅうせい:回鶻諸部)の抜曳固(ばつえいこ)によって殺された。その首は斬られて京師(長安)へと送られた。モチュの兄の子の「小殺(しょうせつ)」が後を継いでカガンとなった。この夏、山東・河南・河北で蝗(いなご)が大量発生したが、使節を派遣して分担して捕らえ、埋めさせた。回紇(ウイグル)・同羅(とうら)・霫(しゅう)・勃曳固・僕固(ぼくこ)の五部族が帰順(来附)してきたため、大武(だいぶ)軍の北に安置した。

秋七月の丙申の日、巂(すい)・雅(が)の二州を分割して黎(れい)州を置いた。

冬十月の癸丑の日、戸部尚書・新任の太子詹事(さいしせんじ)の畢構(ひつこう)が卒した。庚午の日、睿宗大聖貞皇帝を橋陵(きょうりょう)に葬った。同(どう)州の蒲城(ほじょう)県を「奉先(ほうせん)県」とし、京兆府に所属させた。

十一月の丁亥の日、中宗(ちゅうそう)の神主(位牌)を西廟(せいびょう)に移した。甲午の日、尚書左丞の源乾曜(げんかんよう)を黄門侍郎・同紫微黄門平章事(宰相職)とした。辛丑の日、黄門監兼吏部尚書(りぶしょうしょ)の盧懐慎が卒した。

十二月の乙卯の日、新豊の温湯に行幸した。その夜、定陵(中宗の墓)の寝殿(廟所)で火災(災)があった。乙丑の日、温湯から戻った。

尚書・広平(こうへい)郡公の宋璟(そうけい)を吏部尚書兼黄門監(こうもんかん)に、紫微侍郎・許(きょ)国公の蘇頲(そてい)を同紫微黄門平章事(宰相職)とした。兵部尚書兼紫微令(しびれい)・梁(りょう)国公の姚崇(ようすう)を開府儀同三司とした。黄門侍郎・安陽男の源乾曜(げんかんよう)を京兆尹(けいちょういん)とし、ともに知政事(宰相職)を免じた。十道採訪使(さいほうし)を廃止した。

開元五年

五年春正月の壬寅の朔(ついたち)、皇帝(玄宗)は喪中(喪制)のため、朝廷の祝い(朝賀)を受けなかった。癸卯の日の寅(とら)の刻(午前四時頃)、太廟(たいびょう:皇室の廟)の屋根が崩れたため、神主(位牌)を太極殿に移した。皇帝は喪服(素服)を着て正殿を避け、五日間朝廷を休み(輟朝)、毎日自ら供え物をして祭った(祭享)。辛亥の日、東都(洛陽)に行幸した。戊辰の日、深い霞(昏霧)が四方を閉ざした。

二月の甲戌の日、東都から戻り、天下に大赦を行った。ただし謀反・大逆の罪(謀反大逆)だけは赦免の対象外とし、それ以外はすべて許した。河南(かなん)の百姓に対しては一年の賦役免除(給復)を行い、河南・河北で水害(澇)および蝗(いなご)害に遭った場所については、今年の地租(田租)を免除した。武徳(ぶとく)・貞観(じょうがん:唐初期)以来の功臣(勲臣)の子孫で無位(官職なし)の者を調査して報告させ、また人里を離れて隠れ住み、高潔な志を守って仕官しない者(嘉遁幽棲養高不仕者)がいれば、州の長官(州牧)はそれぞれ名を挙げて推薦せよと命じた。

三月の庚戌の日、柳城(りゅうじょう:今の朝陽)に以前の通り営(えい)州都督府を置いた。丁巳の日、辛景初(しんけいしょ)の娘を「固安(こあん)県主」に封じ、奚(けい)の首領である饒楽(じょうらく)郡王・大酺(だいほ)に嫁がせた。

夏四月の己丑の日、皇帝の第九子の(李)嗣一(しいち)が薨去した。追って「夏王」に封じ、諡(おくりな)を「悼(とう)」とした。甲午の日、則天(武后)が洛水(洛)で拝礼し図(瑞石)を受けた祭壇(受圖壇)、および碑文、さらに顕聖(けんせい)侯廟について、もともと唐同泰(とうどうたい:武則天の寵臣)が瑞石の文を偽造した際に建てられたものであるとして、直ちに破壊(廃毀)するよう命じた。

六月の壬午の日、鞏(きょう)県で一ヶ月にわたって激しい雨(暴雨)が降り続け、山水が氾濫し、郭邑(かくゆう:城下町)や民家(廬舍)七百余家を破壊し、死者七十二人を出した。汜水(しすい)でも同日、川沿いの百姓の家二百余家が押し流された(漂壞)。

秋七月の甲子の目、詔を下して言った。「古(いにしえ)、天子の法(皇綱)を操り、万物の姿(大象)を執る者が、どうして天の道(天道)を仰ぎ見ず、人の極(人極:道理)に従わなかったことがあろうか。ある時は時代に合わせて変通し、ある時は事務を成し遂げるために損益(調整)を行う。かつて衢室(くしつ:古の明堂)を創設した際には、堂(部屋)の大きさを筵(むしろ)で測った。それによって神を礼(まつ)るのは、孝徳を光(かがや)かせるためであり、それを用いて政治を行う(布政)のは、視朔(ししゅく:月の初めの政務)にふさわしい。これこそ先王が人倫を厚くし、天地を感動させた所以である。少陽(東宮)に位があれば、天帝もこれを喜び(歆)、神は煩わさない(不黷:ふとく)ことを貴び、礼は至上の敬意(至敬)を重んじる。今、明堂(めいどう)は宮中(宮掖)に隣接しており、厳かな祝祭(厳祝)と比べれば、厳粛さ(粛恭)に欠ける点がある。もし法(憲章)に従わなければ、どうして万物の規範(軌物)となろうか! そこで礼官・博士・公卿・大臣に広く議論(群議)に加わらせ、古の(質素な)例を敬い、帝王の居所(露寝)の様式を保存し、闢雍(へきよう:天子の学問所)の名称を廃止すること(罷)に決定した。まさに名称を「乾元(けんげん)殿」と改め、行幸・御門の際は正殿の礼に依るべきである。」

九月の壬寅の日、紫微(しび)省を以前の通り「中書省」に、黄門(こうもん)省を「門下省」に、黄門監を「侍中」に改めた。

冬十月の丙子の目、京師(長安)の太廟の修理が完了した。丁丑の日、亡くなった越(えつ)王・(李)貞(てい)は罪なくして死んだ(死非其罪)として、亡くなった許(きょ)王の男(李)琳(りん)を「嗣越(しえつ)王」に封じ、その後継とした。戊寅の日、神主(位牌)を太廟に合祀(祔)した。

十一月の己亥の日、契丹(きったん)の首領である松漠(しょうばく)郡王・李失活(りしっかつ)が参内(来朝)したため、宗室の娘を「永楽(えいらく)公主」として彼に嫁がせた。司徒兼鄧(とう)州刺史・申王捴(そう)に虢(かく)州刺史を兼ねさせた。

開元六年

六年春正月の丙辰の朔(ついたち)、皇帝はまだ大祥(たいしょう:一周忌の法要)を終えていないため、朝廷の祝い(朝賀)を受けなかった。辛酉の日、天下の諸州で悪銭(あくせん:粗悪な貨幣)を禁止し、二銖(しゅ)四分(約1.5グラム)以上の良銭(好銭)を通用させ、使用に堪えないものは直ちに溶かして(銷破)再び鋳造することとした。将作(しょうさく)大匠の韋湊(いそう)が上疏し、孝敬(皇帝:李弘)の神主を移し、別に義宗(ぎそう)廟を立てるよう請願した。太子少師兼許(きょ)州刺史・岐(き)王範(はん)に鄭(てい)州刺史を兼ねさせた。

二月の甲戌の日、嵩山(すうざん)の隠士である盧鴻(ろこう)を礼と幣(ぬさ:礼品)をもって召し出した。

夏五月の乙未の日、(中宗の)孝敬哀皇后を恭陵(きょうりょう)に合祀(祔)した。契丹の松漠郡王・李失活が卒(しゅつ)した。

六月の甲申の日、瀍(てん)水が氾濫(暴漲)し、民家を破壊し、千余人を溺死させた。乙酉の日、亡くなった侍中の桓彦範(かんげんはん)・敬暉(けいき)、亡くなった中書令兼吏部尚書の張柬之(ちょうかんし)、亡くなった特進の崔玄暐(さいげんい)、亡くなった中書令の袁恕己(えんじょき:五王)を中宗廟の庭へ合祀(配饗)し、亡くなった司空の蘇瑰(そかい)、亡くなった左丞相・太子少保・郴(ちん)州刺史の劉幽求(りゅうゆうきゅう)を睿宗廟の庭へ合祀するよう制を下した。

秋七月の己未の日、秘書監(ひしょかん)の馬懐素(ばかいそ)が卒した。

九月の乙未の日、工部尚書の劉知柔(りゅうちじゅう)を特節(皇帝の使節)として派遣し、河南(かなん)道を巡察・慰問(存問)させた。

冬十月の丙申の日、車駕(皇帝の行列)が京師(長安)に戻った。

十一月の辛卯の日、東都(洛陽)から戻った。丙申の日、自ら太廟に参拝し、戻って承天門に御し、詔を下した。「七廟(皇室七代)の元(げん)皇帝(李熙)以上の三祖の末裔(枝孫)で、官職の順序(官序)を失っている者には、それぞれ一人に五品の京官(中央官)を授ける。内外の官吏で三品以上の、廟(びょう)を持つ者には、それぞれ物三十匹(布単位)を賜い、祭服の修理や供え物の器(俎豆:そとう)の準備に充てさせよ。」文武の官吏にそれぞれ差をつけて物を賜った。乙巳の日、伝国(でんこく)の八つの璽(じ:ハンコ)を以前の通り「宝(ほう)」と改称し、符璽(ふじ)郎を「符宝(ふほう)郎」とした。

十二月、開府儀同三司(かいふぎどうさんし)にして澤(たく)州刺史を兼ねていた宋王憲(そうおうけん:旧名成器)を涇(けい)州刺史に、司徒にして虢(かく)州刺史を兼ねていた申王捴(しんおうそう:旧名成義)を絳(こう)州刺史に、太子少師(さいししょうし)にして鄭(てい)州刺史を兼ねていた岐(き)王範(はん)を岐州刺史に、太子少保(さいししょうほ)にして衛(えい)州刺史を兼ねていた薛(せつ)王業(ぎょう)を虢州刺史に、それぞれ任命した。

開元七年

七年春正月、吐蕃(とばん)が使節を派遣して朝貢した。

三月の丁酉の日、左武衛(さぶえい)大将軍・霍(かく)国公の王毛仲(おうもうちゅう)に特進(とくしん)の位を加えた。渤海(ぼっかい)靺鞨(まつかつ)郡王の大祚栄(だいそえい)が死に、その子の大武芸(だいぶげい)が位を継いだ。

夏四月の癸酉の日、開府儀同三司の王仁皎(おうじんこう)が薨去(こうきょ)した。

五月の己丑の朔(ついたち)、日食(日蝕)があった。

秋七月の丙辰の日、制を下した。日照り(亢陽:こうよう)が長く続いたため、皇帝(玄宗)自ら囚人の記録を精査(録囚)し、多くを赦免(原免)した。諸州については州の長官(州牧)や県の長官(県宰)に、状況に応じて(量事)処置するよう委任した。

八月の癸丑の日、勅を下した。「周公が礼を制してより、歴代において改められることはなかった。子夏(しか)が伝(注釈)を作り、孔子の門下で受け継がれてきた。後の諸家(諸儒)に及んで、例を変える者も現れた。新しく作るよりも、古(いにしえ)を好むべきである。およそ喪服の規定(服紀)については、一(いつ)に旧来の文言(旧文)に依るべきである。」

九月の甲子の目、昭文(しょうぶん)館を以前の通り「弘文(こうぶん)館」と改めた。宋王憲を「寧(ねい)王」に改封した。

冬十月、東都の来庭(らいてい)県の役所(廨:かい)に義宗(ぎそう)廟を置いた。辛卯の日、新豊の温湯に行幸した。癸卯の日、温湯から戻った。戊寅の日、皇太子(李嗣謙)が国学(こくがく:最高学府)に赴いて、年長者を敬う儀式(歯冑礼:しちゅうれい)を行った。随行した官吏(陪位官)や学生にそれぞれ差をつけて物を賜った。

十二月の丙戌の日、弘文・崇文の両館に、書籍の校訂官(讎校書郎:しゅうこうしょろう)の官員を置いた。

開元八年

八年春正月の甲子の朔(ついたち)、皇太子が元服(げんぷく)を行った。乙丑の日、皇太子が太廟(たいびょう)に参拝した。丙寅の日、太極殿において百官を集め、それぞれ差をつけて物を賜った。壬申の日、右散騎常侍・舒(じょ)国公の褚無量(ちょむりょう:旧名元量)が卒した。己卯の日、侍中の宋璟(そうけい)は開府儀同三司に、中書侍郎の蘇頲(そてい)は礼部尚書になり、ともに知政事(宰相職)を免じた。京兆尹(けいちょういん)の源乾曜(げんかんよう)を黄門侍郎に、并(へい)州大都督府長史の張嘉貞(ちょうかてい)を中書侍郎にし、ともに同中書門下平章事(宰相職)とした。

二月の丁酉の日、皇子の(李)敏(びん)が薨去した。追って「懐王」に封じ、諡(おくりな)を「哀(あい)」とした。

夏五月の丁卯の日、源乾曜を侍中に、張嘉貞を中書令とした。南天竺(てんじく)国が使節を派遣し、五色のオウム(鸚鵡)を献上した。

六月の壬寅の夜、東都(洛陽)で激しい雨(暴雨)が降り、穀水(こくすい)が氾濫(泛漲)した。新安(しんあん)・澠池(めんち)・河南(かなん)・寿安(じゅあん)・鞏(きょう)県などの民家がことごとく流失(蕩尽)し、合わせて九百六十一戸、八百一十五人が溺死した。許(きょ)・衛(えい)などの州の馬屋番(掌閑)の当番兵(番兵)で溺れた者は千百四十八人に上った。

秋九月、突厥(とっけつ)のヨク(欲谷)が甘(かん)・涼(りょう)などの州に侵攻(寇)し、涼州都督の楊敬述(ようけいじゅつ)が破られ、契苾(けいひつ)部族を略奪して帰還した。御史大夫の王晙(おうしゅん)を兵部尚書兼幽州都督に、黄門侍郎の韋抗(いこう)を御史大夫・朔方(さくほう)総管にして、これを防がせた。甲子の目、太子少師(さいししょうし)にして岐州刺史を兼ねていた岐王範にさらに太子太傅(たいしたいふ)を兼ねさせ、太子少保にして虢州刺史を兼ねていた薛王業を太子太保(さいしたいほう)とした、その他は以前の通りとした。

冬十月の辛巳の日、長春(ちょうしゅん)宮に行幸した。壬午の日、下邽(かけい)で狩猟(畋)した。

十一月の乙丑の日、長春宮から戻った。辛未の日、突厥が涼州に侵攻(寇)し、人々を殺し、羊や馬を数万計奪って去った。

開元九年

九年春正月の丙辰の日、蒲(ほ)州を「河中(かちゅう)府」と改め、「中都(ちゅうと)」を置いた。丙寅の日、新豊の温湯に行幸した。

夏四月の庚寅の日、蘭池(らんち)州の反乱した胡人(叛胡)の首領、自らヤブグ(葉護)と称した康待賓(こうたいひん)および安慕容(あんぼよう)らが、多覧(たらん)部において大将軍の何黒奴(かこくど)を殺し、自称将軍の石神奴(せきしんぬ)・康鉄頭(こうてつとう)らとともに、長泉(ちょうせん)県を拠点として六胡(りくこ)州を攻め落とした(攻陥)。兵部尚書の王晙(おうしゅん)が、隴右(ろうゆう)の諸軍および河東の九姓(きゅうせい:回鶻諸部)を動員してこれを掃討(掩討)した。甲戌の日、皇帝(玄宗)自ら含元(がんげん)殿において、科挙(制挙)の受験者を試験(策試)し、次のように言った。「古くは三道(の問題)があったが、今は二策を減らしている。近年は最高位の合格者(甲科)がいなかったが、朕は最良の成績のもの(上第)を保存し、優れた賢才(賢俊)を収め、軍や国家(軍国)を安んじること(寧)に努めたい。」さらに担当官に命じて食事(食)を供えさせた。

秋七月の戊申の日、「中都」を廃止し、以前の通り蒲州に戻した。己酉の日、王晙が蘭池州の反乱した胡人を破り、三万五千騎を殺した。丙辰の日、揚(よう)・潤(じゅん)などの州で嵐(暴風)が吹き、屋根を飛ばし木を抜き、公私の船一千余隻を漂流・破損させた。辛酉の日、諸々の首領(酋長)を集め、康待賓を斬った。先天(せんてん)年間に、三九(さんきゅう)射礼(伝統的な弓術の儀礼)を再び設けたが、ここに至って給事中の許景先(きょけいせん)が上疏してこれを反対(抗疏)し、廃止(罷)させた。

九月の己巳の朔(ついたち)、日食があった。丁未の日、開府儀同三司・梁(りょう)国公の姚崇(ようすう)が薨去(こうきょ)した。丁巳の日、丹鳳(たんぽう)楼に御し、突厥の首領たちのために酒宴を開いた。庚申の日、中書省に行幸した。

癸亥の日、右羽林(ううりん)将軍にして権検校(ごんけんぎょう)并(へい)州大都督府長史であった燕(えん)国公の張説(ちょうえつ)を兵部尚書・同中書門下三品(宰相職)とした。

冬十一月の丙辰の日、左散騎常侍の元行沖(げんぎょうちゅう)が『群書目録(ぐんしょもくろく)』二百巻を献上し、宮中の府庫(内府)に収めた。庚午の冬至の日、天下に大赦を行い、内外の官吏の九品以上に一階を加階し、三品以上に爵を一等加えた。神龍元年の六月二十日および七月三日の政変(則天武后の退位と中宗の復位)において国家(社稷)を守った実封(じっぷう)功臣で、事件に連座して官爵を剥奪(削除)されていた者については、生死を問わず(生有死)、状況に応じて官位を戻し、あるいは追贈(収贈)することとした。引退した官吏(致仕官)で魚袋(ぎょたい:官位の証し)を帯びる資格のある者は、終身その携行を許した。天下に三日間の酒宴(賜酺)を許した。

十二月の乙酉の日、新豊の温湯に行幸した。壬午の日、温湯から戻った。この冬は雪が降らなかった。

開元十年

十年春正月の丁巳の日、東都(洛陽)に行幸した。甲子の目、王公以下の視品官(しひんかん:官位はあるが職務のない者)の参佐(随員)、および中央の三品以上の官吏の護衛(伏身)や職員の数を削減(省)した。乙丑の日、天下の公廨銭(くげせん:役所の運営資金)を停止し、官吏の俸給(料)は税戸(ぜいこ)の銭をもって充てることとし、毎月旧来の配分規定に従って支給することとした。戊申の日、内外の官吏の職田(しょくでん:俸給代わりの田地)については、役所の田園(公廨田園)を除き、すべて官が没収(官収)し、逃亡した戸(逃亡戸)や貧困な下等戸(貧下戸)で田地の足りない者に分け与えた。

二月の戊寅の日、東都(洛陽)に到着した。

三月の戊申の日、今後、内外の官吏で賄賂(受財:贓)の罪を犯し、免職(解免)以上の処分を受けた者は、たとえ大赦(赦免)に遭ったとしても、終身官職に就けてはならない(勿齒)と詔(みことのり)した。

夏四月の丁酉の日、契丹(きったん)の首領である松漠(しょうばく)都督・李鬱於(りうつお)を松漠郡王に、奚(けい)の首領である饒楽(じょうらく)都督・李魯蘇(りろそ)を饒楽郡王に封じた。

五月、東都(洛陽)で大雨が降り、伊(い)水・汝(じょ)水などが氾濫(泛漲)し、河南府および許・汝・仙・陳などの諸州の民家(廬舎)数千家を破壊した。溺死者は非常に多かった。

閏五月の壬申の日、兵部尚書の張説が朔方(さくほう)軍に巡辺(国境視察)へ赴いた。戊寅の日、諸外国(諸番)から人質(質)として宿衛(宮廷警護)に当たっていた子弟を、すべて本国へ帰した。

六月の辛丑の日、皇帝(玄宗)自ら『孝経(こうきょう)』の注釈(訓注)を施し、天下に頒布した。癸卯の日、餘姚(よよう)県主の娘である慕容(ぼよう)氏を「燕郡(えんぐん)公主」に封じ、奚の首領、饒楽郡王の李魯蘇に嫁がせた。己巳の日、京師(長安)の太廟を九室(九つの部屋)に増築し、中宗(孝和皇帝)の神主(位牌)を正廟に移した。

秋八月の丙戌の日、嶺南(れいなん)按察使の裴伷先(はいちゅうせん)が、安南(あんなん:今のベトナム)の賊の首領、梅叔鸞(ばいしゅくらん)らが州県を包囲攻撃していると奏上したため、驃騎(ひょうき)将軍兼内侍(宦官)の楊思勖(ようしきょく)を派遣してこれを討伐させた。丁亥の日、戸部尚書の陸象先(りくしょうせん)を汝・許などの諸州へ派遣し、人々の慰撫(存撫)と食糧の配給(賑給)を行わせた。丙申の日、博(はく)・棣(てい)などの諸州で黄河の堤防が崩れ、農作物が流失(漂損)した。

九月、張説(ちょうえつ)が木盤(もくばん)山において康願子(こうがんし)を捕らえた。河曲(黄河の湾曲部)の六州に住む残りの胡人(残胡)五万余口(人)を許・汝・唐・鄧・仙・豫などの諸州へ移住させ、初めて河南・朔方の千里の地を空(無人)とした。甲戌の日、秘書監・楚(そ)国公の姜皎(きょうこう)が事件に連座し、詔(みことのり)により杖刑(じょうけい)六十回に処され、欽(きん)州へ流刑(配流)となったが、その途上で死んだ。都水(とすい)使者の劉承祖(りゅうしょうそ)を雷(らい)州へ流刑とした。乙亥の日、制を下して言った。「朕は天下(宇内)に君臨し、赤子に対するように万民(黎元)を育てている。内では親族と親しみ睦み(睦親)、九族(一族)の秩序を整える(叙)。外では諸々の政治(庶政)を整え、万民(兆人)を救済する。勲臣(功臣)や外戚(勲戚)には手厚い恩を加え、兄弟には友愛(友于)を尽くしている。根本を厚くすること(敦本)を尊び、明らかな徳(明徳)を慎んでいる。今、小人(卑しい者)が災い(孽:げつ)をなし、すでに法(憲章)に従って伏罪したが、不逞の輩が依然として絶えないことを恐れる。宗室(宗属)にある者については、重ねて懲戒(懲誡)する。今後、諸王・公主・駙馬(ふば:天子の婿)・外戚の家には、極めて親しい親族(至親)以外は、門に出入りしてはならず、みだりな言葉を述べてはならない。これによって至公の道(公平な道)を共に保ち、永く平和の意義(平和之義)に協力し、皇室の守り(籓翰:ばんかん)を固め、その休徳を保て。貴戚や親しい親族(懿親)は、これを座右の銘(書座右)とせよ。」また制を下し、百官が占い師(卜祝)と交際することを禁じた。乙卯の夜、京兆(長安)の人、権梁山(けんりょうざん)が自らを「襄(じょう)王の男子」と偽り、「光帝」と自称し、その仲間の権楚璧(けんそへき)とともに、屯営の兵数百人を率いて景風(けいふう)・長楽(ちょうらく)などの各門から関(かんぬき)を斬って宮城に侵入し、反乱(構逆)を企てた。明け方に兵は敗れ、権梁山を斬ってその首を東都(洛陽)に送った。河陽(かよう)の柏崖(はくがい)倉を廃止した。

冬十月の癸丑の日、乾元(けんげん)殿の扁額(題)を以前の通り「明堂(めいどう)」に戻した。甲寅の日、寿安(じゅあん)の旧・興泰(こうたい)宮に行幸した。土宜(どぎ)川において狩猟(畋獵)をした。庚申の日、興泰宮から戻った。波斯(ペルシア)国が使節を派遣し、ライオン(獅子)を献上した。

十一月の乙未の日、初めて宰相に共通して実封三百戸を分け与えた(共食)。

十二月、按察使(あんさつし)を停止した。

開元十一年

十一年春正月の丁卯の日、都城(洛陽)で囚人を引き出し、流罪・死罪を一等減刑し、その他はすべて赦免(原之)した。己巳の日、北都(太原)に巡狩(巡幸)することとし、行幸先で高齢者・孤児(鰥寡惸独)・兵士の家を慰問(存問)するよう命じた。流罪・死罪を一等減刑し、徒罪(ずざい:懲役)以下は放免とした。庚辰の日、并(へい)州・潞(ろ)州に行幸し、長老たち(父老)のために酒宴を開き、その地の死罪(大闢罪)以下を特に赦免(曲赦)し、五年の賦役免除(給復)を行った。皇帝(玄宗)がかつて住んでいた旧宅(旧邸)を、「飛龍(ひりょう)宮」と改めた。

辛卯の日、并(へい)州を「太原(たいげん)府」と改め、官吏の補任について、一(いつ)に京兆(長安)・河南(洛陽)の両府の規定に準じることとした。百姓(一般民)に対しては一年の賦役免除(給復)を行い、貧困戸(貧戸)には二年の免除、元従(げんじゅう:起義以来の功臣)の家系(元従戸)には五年の免除を行った。武徳(ぶとく)年間の功臣およびその子孫で、文武の才能がありながら官職に就いていない者がいれば、府や県の当局に厳密に捜索(搜揚)させ、姓名を挙げて推薦せよと命じた。皇帝(玄宗)自ら『起義堂頌(きぎどうしょう)』の文を作り、書を認(したた)め、太原府の南街に石を刻んで功績を記録させた。戊申の日、晋(しん)州に次(じ:宿泊)した。壇場使(だんじょうし:祭礼の設営官)であった中書令の張嘉貞(ちょうかてい)を幽(ゆう)州刺史に左遷(貶)した。壬子の目、汾陰(ふんいん)の脽(ずい)上において後土(こうど:大地の神)を祀った。壇に登って儀式に加わった(行事)三品以上の官吏には爵位を一等加え、四品以上の官吏には位階を一階加えた。陪席した官吏(陪位官)には勲(勲位)を一転(一等級上昇)賜った。汾陰を「宝鼎(ほうてい)県」と改めた。癸亥の日、兵部尚書の張説(ちょうえつ)に中書令を兼ねさせた。

三月の庚午の日、車駕(皇帝の行列)が京師(長安)に到着した。通過した州・府・県については、今年の地税(田租)を免除し、京城(長安)に収監されている囚人はすべて赦免(原免)するよう命じた。

夏四月の丙辰の日、中宗(ちゅうそう)の神主(位牌)を太廟に合祀(遷祔)した。癸亥の日、張説を正式に中書令に任じ、吏部尚書・中山(ちゅうざん)公の王晙(おうしゅん)を兵部尚書・同中書門下三品(宰相職)とした。

五月の己巳の日、北都(太原)に軍器(ぐんき)監の官員を置いた。王晙を朔方(さくほう)節度使とし、さらに河北郡・隴右(ろうゆう)・河西の兵馬使を兼ねさせた。

六月、王晙(おうしゅん)が朔方軍(の任地)へ赴いた。

秋八月の戊申の日、八代前の祖先である「宣皇帝」(李熙)の廟号を「献祖(けんそ)」、その子の「光皇帝」(李天錫)の廟号を「懿祖(いそ)」と尊称し、初めて太廟の九廟(きゅうびょう)に合祀(祔)した。

九月の己巳の日、皇帝(玄宗)が自ら撰じた『広済方(こうさいほう)』を天下に頒布し、引き続き諸州にそれぞれ医博士(いばくし)一人を置くよう命じた。春秋の二時期に行われる釈奠(せきてん:先聖を祀る儀式)については、諸州は以前の通り生贄(牲牢:せいろう)を用いるべきであるが、その属県においては酒と肉(酒酺:しゅほ)だけでよいこととした。

冬十月の丁酉の日、新豊の温泉宮に行幸した。甲寅の日、温泉から戻った。

十一月の戊寅の日、自ら南郊(なんこう)で祭祀を行い、天下に大赦した。収監されている囚人のうち、死罪から流罪以下まで免除(免除之)した。壇に登って儀式に加わり(行事)、および供奉(ぐほう:皇帝の側に控える)した三品以上の官吏には爵位を一級賜い、四品以上の官吏には一階昇進(転一階)させた。武徳(ぶとく)以来の功臣(実封功臣)や、宰相(宰輔)などで不遇な扱い(淪屈)を受けている者がいれば、担当官庁(所司)はその状況を詳しく奏上(聞)せよ。長安(京城)では五日間、その他の地(京城以外)では三日間の酒宴(賜酺)を許した。この月、京師(長安)から山東(さんとう)・淮南(わいなん)にかけて大雪が降り、平地で三尺余り積もった。丁亥の日、軍器(ぐんき)監の官員官職を廃止し、少府(しょうふ)監に少監一人を増員してその職務に充てさせた。

十二月の甲午の日、鳳泉(ほうせん)湯に行幸した。戊申の日、鳳泉湯から戻った。庚申の日、王晙(おうしゅん)を蘄(き)州刺史とした。

開元十二年

十二年春正月。

夏四月、亡くなった澤(たく)王・(李)上金(じょうきん)の子である(李)義珣(ぎじゅん)を「嗣澤(したく)王」に封じた。嗣許(しきょ)王の(李)瓘(かん)を鄂(がく)州別駕(べつが)に左遷(左授)したが、これは弟の(李)璆(きゅう)が(李)上金の跡を継いだ(嗣故)ため(の連座または調整)である。癸卯の日、嗣江(しこう)王の(李)禕(い)を「信安(しんあん)郡王」に格下げ(降)し、嗣蜀(しょく)王の(李)示俞(ちゅう)を「広漢(こうかん)郡王」に、嗣密(しみつ)王の(李)徹(てつ)を「濮陽(ぼくよう)郡王」に、嗣曹(しそう)王の(李)臻(しん)を「済(せい)国公」に、嗣趙(しちょう)王の(李)琚(きょ)を「中山(ちゅうざん)郡王」に、武陽(ぶよう)郡王の(李)堪(かん)を「澧(れい)国公」に、それぞれ格下げした。李禕(りい)らはみな神龍(しんりゅう)の変革(中宗復位)の後に改めて王位を継いだ(外継)者たちであったが、李瓘(りかん:許王の系統)が澤王の封位を(不当に)手に入れたため、すべて宗室の本来の地位に帰し(帰宗)、封位を改めて格下げしたのである。

秋七月の壬申の日、皆既月食(月蝕既)があった。己卯の日、皇后の王(おう)氏を廃して一般人(庶人)とした。皇后の弟で太子少保(さいししょうほ)・駙馬都尉(ふばとい)であった王守一(おうしゅいつ)を澤(たく)州別駕に左遷(左授)したが、藍田(らんでん)に到着したところで死を賜った(賜死)。戸部尚書・河東(かとう)伯の張嘉貞(ちょうかてい)を台(だい)州刺史に左遷した。

冬十一月の庚申の日、東都(洛陽)に行幸した。華陰(かいん)に到着し、皇帝は西嶽(せいがく)廟の碑文(嶽廟文)を作り、これを石に刻ませて、廟の南の道の傍ら(道周)に立てた。戊寅の日、東都から戻った。庚辰の日、司徒・申(しん)王の捴(そう)が薨去した。追って「恵荘(けいそう)太子」と諡(おくりな)した。五渓(ごけい:今の湘西地方)の首領、覃行璋(たんこうしょう)が反乱したため、鎮軍(ちんぐん)大将軍兼内侍(宦官)の楊思勖(ようしきょく)を派遣してこれを討伐・平定(討平)させた。

閏十二月の丙辰の朔(ついたち)、日食があった。

開元十三年

十三年春正月の乙酉の日、幽(ゆう)州都督府を「大都督府」とした。戊子の目、死罪を流罪に減刑し、流罪以下の罪はすべて赦免(原之)した。御史中丞(ぎょしちゅうじょう)の蒋欽緒(しょうきんしょ)らを十道に派遣し、囚人を調査して不当な刑を正させた(疏決)。

二月の戊午の日、龍門(りゅうもん:洛陽近郊)に行幸し、その日のうちに宮中に戻った。乙亥の日、初めて「彍騎(かくき:精鋭の歩兵禁衛軍)」を置き、十二の司(軍管区)にそれぞれ所属させた。丙子の目、類義の文字や音の近いものを避ける(避文相類及聲相近者)ため、豳(ひん)州を「邠(ひん)州」に、鄚(ばく)州を「莫(ばく)州」に、梁(りょう)州を「褒(ほう)州」に、沅(げん)州を「巫(ふ)州」に、舞(ぶ)州を「鶴(かく)州」に、泉(せん)州を「福(ふく)州」に、それぞれ改称した。

三月の甲午の日、皇太子の(李)嗣謙(しけん)を「(李)鴻(こう:後の粛宗)」と改名した。郯(たん)王の(李)嗣直(しちょく)を「(李)潭(たん)」と改名し、慶(けい)王に改封した。陜(きょう)王の(李)嗣升(ししょう)を「(李)浚(しゅん)」と改名し、忠(ちゅう)王に改封した。鄫(ぞう)王の(李)嗣真(ししん)を「(李)洽(こう)」と改名し、棣(てい)王に改封した。鄂(がく)王の(李)嗣初(ししょ)を「(李)涓(けん)」と改名し、郎(ろう)王に改封した。嗣玄(しげん)を「(李)滉(こう)」と改名し、栄(えい)王に封じた。

また、第八子の(李)涺(きょ)を光(こう)王に、第十二男の(李)濰(い)を儀(ぎ)王に、第十三男の(李)沄(うん)を潁(えい)王に、第十六男の(李)澤(たく)を永(えい)王に、第十八男の(李)清(せい)を寿(じゅ)王に、第二十男の(李)洄(かい)を延(えん)王に、第二十一男の(李)沐(もく)を盛(せい)王に、第二十二男の(李)溢(いつ)を済(せい)王に、それぞれ封じた。丙申の日、御史大夫の程行諶(ていこうしん)が次のように奏上した。「周朝(武周)の酷吏(こくり)である、来子珣(らいししゅん)・万国俊(ばんこくしゅん)・王弘義(おうこうぎ)・侯思止(こうしし)・郭覇(かくは)・焦仁亶(しょうじんたん)・張知默(ちょうちもく)・李敬仁(りけいじん)・唐奉一(とうほういつ)・来俊臣(らいしゅんしん)・周興(しゅうきょう)・丘神勣(きゅうしんせき)・索元礼(さくげんれい)・曹仁哲(そうじんてつ)・王景昭(おうけいしょう)・裴籍(はいせき)・李秦授(りしんじゅ)・劉光業(りゅうこうぎょう)・王徳寿(おうとくじゅ)・屈貞筠(くつていいん)・鮑思恭(ほうしきょう)・劉景陽(りゅうけいよう)・王処貞(おうしょてい)ら二十三人は、皇族(宗枝)を無惨に殺害(残害)し、善良な人々を毒してきた(毒陥)。その情態は極めて重いため、子孫は官職(仕宦)に就くことを許さない。陳嘉言(ちんかげん)・魚承曄(ぎょしょうよう)・皇甫文備(こうほぶんび)・傅游芸(ふゆうげい)の四人は、情態は(先の二十三人に比べ)軽いとはいえ、子孫は要職(近任:皇帝の側に控える官)に就くことを許さない。開元二年二月五日の勅に従うことを請います。」

夏四月の丁巳の日、集仙(しゅうせん)殿を「集賢(しゅうけん)殿」と改め、麗正(れいせい)殿書院を「集賢殿書院」と改めた。宮中(内)の五品以上を学士とし、六品以下を直学士(ちょくがくし)とした。癸酉の日、朝集使(ちょうしゅうし:地方から報告に来る使節)に対し、それぞれ管轄の下で孝行(孝悌)や文武に優れた者を挙げ、泰山(たいざん)の下に集めるよう命じた。

五月の庚寅の日、反逆者(妖賊)の劉定高(りゅうていこう)がその一党を率いて夜間に通洛(つうらく)門を襲ったが、すべて捕らえて斬首した。

六月の乙亥の日、都(洛陽)の西市(せいし)を廃止した。

冬十月の癸丑の日、新しく製造した銅製の天球儀(銅儀)が完成した。景運(けいうん)門の内に置き、百官に示した。辛酉の日、東(泰山)への封禅(ほうぜん:東封)のため、東都(洛陽)を出発した。

十一月の丙戌の日、兗(えん)州の岱宗(たいそう:泰山の別名)にある宿泊所(頓)に到着した。丁亥の日、行幸先の宮殿(行宮)で斎戒(さいかい:致齋)した。己丑の日の冬至(日南至)、法駕(ほうが:天子の本格的な行列)を備えて山に登り、護衛(仗衛)は山の下百余里にわたって並んだ。お供の者(行從)は谷の入り口に留め置くよう詔を下し、皇帝(玄宗)は宰相(宰臣)や礼官とともに山に登った。庚寅の日、上壇(山頂の壇)において昊天上帝(こうてんじょうてい:天の最高神)を祀り、担当官(有司)は下壇において五帝百神(ごていひゃくしん)を祀った。儀式(礼)が終わると、玉冊(ぎょくさく:皇帝の奏文を記した玉の札)を封祀(ほうし)壇の石の櫃(石䃭:せきじん)に納め、その後に柴(しば)を焼いて天に報告した(燔柴)。火が焚かれ(燎發)、群臣が万歳を唱えると、その呼び声は山頂から山の下まで伝えられ、山谷を震わせた。皇帝が(山の下の)斎(さい)宮に戻ると、めでたい雲(慶雲)が現れ、太陽に瑞祥(日抱戴:太陽を抱くような光の輪)が差した。辛卯の日、社首(しゃしゅ:泰山周辺の小山)において皇地祇(こうちぎ:地の最高神)を祀り、封祀壇の例と同様に玉冊を石の櫃に納めた。壬辰の日、帷幕の殿(帳殿)に御して朝廷の祝い(朝賀)を受け、天下に大赦を行い、流刑地にいた者がまだ戻っていない場合はすべて帰還(放還)させた。内外の官吏で三品以上には爵を一等賜い、四品以下には位階を一階加えた。山に登った官吏(登山官)には爵位を一階賜い、褒聖(ほうせい)侯(孔子の子孫)には能力に応じて計らい(処分)を与えた。泰山の神を「天齊(てんせい)王」に封じ、礼の位(礼秩)を三公(さんこう)より一格高くした。山の周囲十里においては柴刈り(樵採)を禁じた。天下に七日間の酒宴(賜酺)を許した。侍中の源乾曜(げんかんよう)を尚書左丞相兼侍中、中書令の張説(ちょうえつ)を尚書右丞相兼中書令とした。甲午の日、泰山(岱嶽)を出発した。丙申の日、孔子の旧宅(孔子宅)に行幸し、自ら酒と物を捧げて祭った(奠祭)。

十二月の己巳の日、東都(洛陽)に到着した。このところ数年にわたって豊作(豊稔)が続いており、東都では米一斗が十銭、青(せい)・斉(せい)の地方では米一斗が五銭であった。この冬、吏部を十の銓(せん:選考部局)に分け、礼部尚書の蘇頲(そてい)、刑部尚書の韋抗(いこう)、工部尚書の盧従願(ろじゅうがん)らに命じて、選考の事務(選事)を分掌させた。

開元十四年

十四年春正月の癸亥の日、契丹(きったん)の松漠(しょうばく)郡王・李召固(りしょうこ)を「広化(こうか)王」に、奚(けい)の饒楽(じょうらく)郡王・李魯蘇(りろそ)を「奉誠(ほうせい)王」に改封した。宗室の姪(外甥女)二人を公主に封じ、それぞれに嫁がせた。

二月の庚戌の朔(ついたち)、邕(ゆう)州の獠(ろう:少数民族)の首領、梁大海(りょうだいかい)・周光(しゅうこう)らが賓(ひん)・横(おう)などの諸州を拠点として反乱(叛)したため、驃騎大将軍兼内侍の楊思勖(ようしきょく)を派遣してこれを討伐させた。

三月の壬寅の日、皇帝の姪(国甥)である東華(とうか)公主を、契丹の李召固に嫁がせた。

夏四月の癸丑の日、御史中丞(ぎょしちゅうじょう)の宇文融(うぶんゆう)と御史大夫の崔隠甫(さいいんぽ)が、尚書右丞相兼中書令の張説(ちょうえつ)を弾劾(弾)したため、尚書省において取り調べ(鞫)を行った。丁巳の日、戸部侍郎の李元紘(りげんこう)を同中書門下平章事(宰相職)とした。庚申の日、張説の中書令の兼務を停止した。丁卯の日、太子少師(さいししょうし)・岐(き)王範(はん)が薨去し、冊(さく)を捧げて「恵文(けいぶん)太子」と追贈(冊贈)した。辛丑の日、定(てい)・恒(こう)・莫(ばく)・易(えき)・滄(そう)の五州に軍を置き、突厥に備えた。

五月の癸卯の日、戸部が計帳(けいちょう:人口統計)を献上した。今年の管轄戸数は七百六万九千五百六十五戸、管轄人口(口)は四千一百四十一万九千七百一十二人であった。

六月の戊午の日、大風が吹き、木を抜き屋根を飛ばし、端門(たんもん)の鴟吻(しふん:瓦飾りの一種)を破壊した。都城の各門や寺院・観(道教寺院)の鴟吻で落ちたものは半数に及んだ。皇帝は日照り(旱)や嵐(暴風雨)が起きたため、中央・地方の官吏(中外群官)に上封事(じょうほうじ:皇帝への秘密の上奏)を命じ、時の政治の得失について、隠すことなく(無有所隱)述べるよう命じた。

秋七月の癸丑の夜、瀍(てん)水が氾濫(暴漲)して運河(漕)に流れ込み、諸州からの年貢船(租船)数百隻を沈没(漂沒)させ、溺死者が非常に多かった。

九月の己丑の日、検校(げんきょう)黄門侍郎兼磧西(せきせい)副大都護の杜暹(とせん)を同中書門下平章事(宰相職)とした。

この秋、十五州(の地方官)が日照り(旱)および霜害(霜)を報告し、五十州が水害(水)を報告した。河南(かなん)・河北(かほく)が特に深刻であり、蘇(そ)・同(どう)・常(じょう)・福(ふく)の四州では民家(廬舎)が押し流されたため、御史中丞(ぎょしちゅうじょう)の宇文融(うぶんゆう)を派遣して実態を調査(検覆)し、食糧を配給(賑給)させた。

冬十月、麟(りん)州を廃止した。庚申の日、汝(じょ)州の広成(こうせい)湯に行幸した。己巳の日、東都(洛陽)に戻った。

十一月の甲戌の日、突厥(とっけつ)が使節を派遣して朝貢した。辛丑の日、渤海(ぼっかい)靺鞨(まつかつ)がその子の(大)義信(ぎしん)を派遣して来朝し、併せて方物(ほうぶつ:他方の特産物)を献上した。

十二月の丁巳の日、寿安(じゅあん)の方秀(ほうしゅう)川に行幸した。己未の日、太陽の色が赤く(赭:あかつち)染まった。壬戌の日、東都に戻った。

開元十五年

十五年春正月の戊寅の日、民間に文武の優れた才能(高才)を持つ者がいれば、宮廷(闕)に来て自薦せよと命じた。庚子の目、太史(たいし)監を再び「太史局」とし、以前の通り秘書省に所属させた。辛丑の日、涼(りょう)州都督の王君㚟(おうくんしゃく)が、青海(せいかい)の西において吐蕃(とばん)を破り、輜重車(しちょうしゃ)や馬・羊を奪って帰還した。

二月、左監門(さかんもん)将軍の黎敬仁(れいけいじん)を河北に派遣し、貧困な者(貧乏)に救援・配給(賑給)を行わせた。当時、河北では牛に大流行病(疫)があった。己巳の日、尚書右丞相の張説(ちょうえつ)、御史大夫の崔隠甫(さいいんぽ)、中丞の宇文融(うぶんゆう)が派閥を作って争ったため(朋黨相構)、張説を引退(致仕)させ、崔隠甫を免職として母を養わせ(侍母)、宇文融を魏(ぎ)州刺史に左遷(左遷)した。

夏五月、晋(しん)州で大洪水があり、人々(居人)の民家を押し流した。癸酉の日、慶(けい)王潭(たん)を涼(りょう)州都督兼河西諸軍節度大使に、忠(ちゅう)王浚(しゅん)を単于(ぜんう)大都護・朔方節度大使に、棣(てい)王洽(こう)を太原(たいげん)冀北(きほく)牧・河北諸軍節度大使に、鄂(がく)王涓(けん)を幽(ゆう)州都督・河北節度大使に、栄(えい)王滉(こう)を京兆(けいちょう)牧・隴右(ろうゆう)節度大使に、光(こう)王涺(きょ)を広(こう)州都督・五府節度大使に、儀(ぎ)王濰(い)を河南(かなん)牧に、潁(えい)王潭(たん)を安東(あんとう)都護・平盧(へいろく)軍節度大使に、永(えい)王沢(たく)を荊(けい)州大都督に、寿(じゅ)王清(せい)を益(えき)州大都督・剣南(けんなん)節度大使に、延(えん)王洄(かい)を安西大都護・磧西(せきせい)節度大使に、盛(せい)王沐(もく)を揚(よう)州大どうとくと、それぞれ任命した。ただし、いずれも宮中(閣)を出ることはなかった(並不出閣)。

秋七月の甲戌の日、雷が興教(こうきょう)門の楼の二つの鴟吻(しふん)を震わせ、欄干(欄檻)や柱が燃えた。礼部尚書の蘇頲(そてい)が卒した。庚寅の日、鄜(ふ)州の洛(らく)水が氾濫し、民家を破壊した。辛卯の日、また同(どう)州馮翊(ひょうよく)県の役所(廨宇)を破壊し、溺死者が非常に多かった。丙申の日、武臨(ぶりん)県を「潁陽(えいよう)県」と改めた。己亥の日、長安(都城)に収監されている囚人を赦免し、死罪を流罪に減刑し、徒罪以下はすべて免除した。

九月の丙子の目、吐蕃が瓜(か)州を襲撃(寇)し、刺史の田元献(でんげんけん)および王君㚟(おうくんしゃく)の父の(王)寿(じゅ)を捕らえ、官吏(人吏)を殺害・略奪し、軍用資金(軍資)や倉庫の食糧(倉糧)をことごとく奪って去った。丙戌の日、突厥(とっけつ)のビルゲ・カガン(毗伽可汗)がその大臣のメイロク・チュ(梅録啜:メイルク)を派遣して朝貢させた。

閏月の庚子の目、突騎施(トゥルギシュ)のソロク(蘇祿)と吐蕃のツァンプ(賛普:王)が安西(あんせい)を包囲したが、副大都護の趙頤貞(ちょういてい)がこれを撃退した。庚申の日、皇帝(玄宗)が東都(洛陽)を出発し、京師(長安)に戻った。回紇(ウイグル)部族が甘(かん)州の鞏筆(きょうひつ)駅において王君㚟(おうくんしゃく)を殺害した。検校(げんきょう)兵部尚書の蕭嵩(しょうすう)に涼(りょう)州の統治(判涼州事)を兼ねさせ、兵を率いて吐蕃を防がせるよう制を下した。この秋、六十三州で水害、十七州で霜害・日照りがあり、河北では飢饉が起きたため、江淮(こうわい:江蘇、安徽)の南の税米(租米:田租)百万石を移送(転)して救援(賑給)に充てた。

冬十月の己卯の日、東都(洛陽)から戻った。

十二月の乙亥の日、温泉宮に行幸した。丙戌の日、温泉宮から戻った。

開元十六年

十六年春正月の庚子の目、初めて興慶(こうけい)宮において政務(聴政)を行った。春(しゅん)・瀧(ろう)などの諸州の獠(ろう:少数民族)の首領、瀧州刺史の陳行範(ちんこうはん)・広州の首領の馮仁智(ふうじんち)・何遊魯(かゆうろ)らが反乱(叛)したため、驃騎(ひょうき)大将軍の楊思勖(ようしきょく)を派遣して討伐させた。壬寅の日、安西副大都護の趙頤貞が曲子(きょくし)城において吐蕃(とばん)を破った。甲子の目、黒水(こくすい)靺鞨(まつかつ)が使節を派遣して朝貢(来朝献)した。

秋七月、吐蕃が瓜(か)州を襲撃したが、刺史の張守珪(ちょうしゅけい)がこれを撃破した。乙巳の日、検校兵部尚書の蕭嵩(しょうすう)・鄯(ぜん)州都督の張志亮(ちょうしりょう)が吐蕃の門城(かどしろ)を攻め落とし(攻拔)、数千級を斬り(斬獲)、物資や家畜(資畜)を収めて帰還した。丙辰の日、新羅(しらぎ)王の金興光(きんこうこう)が使節を派遣して方物を献上した。

八月の己巳の日、特進(とくしん)の張説(ちょうえつ)が『開元大衍暦(かいげんだいえんれき)』を献上したため、担当官(有司)に命じて頒布・施行(頒行)させた。辛卯の日、蕭嵩(しょうすう)がまた杜賓客(とひんかく)を派遣して祁連(きれん)城において吐蕃を攻撃させ、これを大破し、大将一人を捕らえ、五千級を斬首した。

九月の丙午の日、長雨(久雨)のため、死罪を流罪に減らし、徒罪以下を赦免(原之)した。

冬十月の己卯の日、温泉宮に行幸した。己丑の日、温泉宮から戻った。

十一月の癸巳の朔(ついたち)、検校兵部尚書・河西(かせい)節度使にして涼州の統治(判涼州事)に当たっていた蕭嵩を兵部尚書・同中書門下平章事(宰相職)とし、その他は元の通り(如故)とした。

十二月の丁卯の日、温泉宮に行幸した。丁丑の日、温泉宮から戻った。

開元十七年

十七年二月の丁卯の日、巂(すい)州都督の張審素(ちょうしんそ)が蛮(ばん:南方民族)を攻め破り、昆明(こんめい)城および塩(えん)城を攻め落とし、一万人を殺害・捕獲した。庚子の目、特進(とくしん)の張説(ちょうえつ)を再び尚書左丞相とし、同(どう)州刺史の陸象先(りくしょうせん)を太子少保(さいししょうほ)とした。甲寅の日、礼部尚書・信安(しんあん)王の李禕(りい)が衆兵を率いて吐蕃(とばん)の石堡(せきほう)城を攻め落とした。

夏四月の癸亥の日、中書門下に命じて、大理(だいり)・京兆(けいちょう)・万年(まんねん)・長安(ちょうあん)などの各牢獄へ赴き、囚人を調査して正す(疏決)よう命じた。天下に収監されている囚人のうち、死罪を一等減刑し、その他はすべて赦免(宥之)するよう制を下した。丁亥の日、大風が吹き激しい雷(震電)があり、藍田(らんでん)山が崩れた。

五月の癸巳の日、再び十道の按察使(あんさつし)を置いた。右散騎常侍の徐堅(じょけん)が卒した。

六月の甲戌の日、尚書左丞相の源乾曜(げんかんよう)に侍中の兼務を停止させ、黄門侍郎の杜暹(とせん)を荊(けい)州大都督府長史に、中書侍郎の李元紘(りげんこう)を曹(そう)州刺史に、それぞれ任命(地方への出向)した。兵部尚書の蕭嵩(しょうすう)に中書令を兼ねさせた。戸部侍郎兼鴻臚(こうろ)卿の宇文融(うぶんゆう)を黄門侍郎に、兵部侍郎の裴光庭(はいこうてい)を中書侍郎にし、ともに同中書門下平章事(宰相職)とした。

秋七月の辛丑の日、工部尚書の張嘉貞(ちょうかてい)が卒した。

八月の癸亥の日、皇帝(玄宗)自らの誕生日(降誕日)であったため、花萼(かがく)楼の下で百官に酒宴を賜った。百官は上表して、毎年八月五日を「千秋節(せんしゅうせつ)」とし、王公以下は鏡(かがみ)や承露(しょうろ)囊(袋)を献上し、天下の諸州には皆酒宴を行わせ、三日間の休暇を与えるよう請い、これを令(法令)に編入するよう求めたが、皇帝はこれに従った。丙寅の日、越(えつ)州で大水があり、役所(廨宇)や民家を破壊した。己卯の日、中書侍郎の裴光庭に御史大夫を兼ねさせ、以前の通り知政事(宰相職)とした。乙酉の日、尚書右丞相・開府儀同三司にして吏部尚書を兼ねていた宋璟(そうけい)を尚書左丞相に、尚書左丞相であった源乾曜を太子少傅(さいししょうふ)とした。

九月の壬子の目、宇文融(うぶんゆう)を汝(じょ)州刺史に左遷した。まもなくまた昭(しょう)州平楽(へいらく)尉に貶(おと)した。壬寅の日、裴光庭を黄門侍郎とし、以前の通り知政事とした。

冬十月の戊午の朔(ついたち)、日食(日蝕)があったが、完全には欠けず鉤(かぎ)のようであった。癸未の日、睦(ぼく)州が竹の実(竹實:瑞祥)を献上した。庚申の日、元太子賓客(さいしひんかく)の元行沖(げんぎょうちゅう)が卒した。

十一月の庚申の日、自ら九つの廟(九廟)を祭った(親饗)。辛卯の日、京師(長安)を出発した。丙申の日、橋陵(きょうりょう:睿宗の墓)に参拝した。皇帝は陵(みささぎ)を望んで涙を流し、側近(左右)もみな哀感に包まれた。奉先(ほうせん)県を(長安・洛陽と同様の)赤(せき)県とし、管轄下の一万三百戸を陵の維持(供陵寢)に、三府(折衝府)の兵馬を警護(供宿衛)に充てるよう制を下し、さらに県内の死罪以下を特に赦免(曲赦)した。戊戌の日、定陵(ていりょう:中宗の墓)に参拝した。己亥の日、献陵(けんりょう:高祖の墓)に参拝した。壬寅の日、昭陵(しょうりょう:太宗の墓)に参拝した。乙巳の日、乾陵(けんりょう:高宗・則天武后の墓)に参拝した。戊申の日、車駕(皇帝の行列)が宮中に戻った。天下に大赦を行い、流刑・移住となっていた人々をすべて帰還させ、左遷官(左降官)を都に近い場所へ移した。百姓(一般民)には今年の地税(田租)の半分を免除した。各陵の近隣の六つの郷(六郷)をそれぞれ陵の維持(供陵寢)に充てた。内外の官吏で三品以上には爵を一等加え、四品以下には位階を一階加えた。五品以上の清官(名誉ある官職)で父母が亡くなっている者には、官位の等級(級)に応じて死後の官位や郷里の称号(邑號)を賜った。

十二月の辛酉の日、温泉宮に行幸した。乙丑の日、渭(い)水付近で狩り(校獵:こうりょう)をした。壬申の日、温泉宮から戻った。この冬は雪が降らなかった。

開元十八年

十八年春正月の辛卯の日、黄門侍郎の裴光庭を侍中とし、以前の通り御史大夫を兼ねさせた。左丞相の張説(ちょうえつ)に開府儀同三司を加えた。丙午の日、薛(せつ)王業(ぎょう)の邸宅に行幸し、その日のうちに宮中に戻った。

二月の丙寅の日、激しい雪混じりの雨(雨雪)が降り、まもなく雷が鳴り、左飛龍(さひりょう)の馬厩舎(廄)で火災があった。

三月の辛卯の日、州県の等級(上下)および戸口の数(等の基準)を改定し、以前の通り京官(中央官)に職田(しょくでん)を支給した。

夏四月の乙卯の日、京城(長安)の外郭城を築き始めたが、十ヶ月で工事が完了した。壬戌の日、寧親(ねいしん)公主の屋敷に行幸し、その日のうちに宮中に戻った。乙丑の日、裴光庭に吏部尚書を兼ねさせた。この春、侍臣(側近)および百官に対し、毎月の休日(旬暇日)に景勝地(勝地)を訪れて酒宴・遊楽を行うよう命じ、さらに関係官庁(所司)に命じて資金(銭)を出し、テント(供帳)や食事を準備させた。丁卯の日、侍臣以下が春明(しゅんめい)門外の寧(ねい)王憲(寧王李憲)の庭園の池で宴会を開いたが、皇帝(玄宗)は花萼(かがく)楼に御して、彼らが帰る馬(回騎)を呼び寄せ、座らせて酒を飲ませた。彼らは交代で立ち上がって踊り(舞)、それぞれ差をつけて品物を賜った。

五月、契丹(きったん)の将軍(衙官)のカトカン(可突干)が、その主君の李召固(りしょうこ)を殺し、部族(部落)を率いて突厥に降り、奚(けい)の部族もまたこれに従って西へ反乱(叛)した。奚王の李魯蘇(りろそ)が(唐に)逃げ込み、李召固の妻の東華(とうか)公主陳氏、および李魯蘇の妻の東光(とうこう)公主韋氏もみな平盧(へいろく)軍へ逃げ込んだ。幽州長史の趙含章(ちょうがんしょう)に命じて兵を率いてこれを討伐させた。

六月の庚申の日、左右丞相、尚書および中書門下五品以上の、官吏に対し、辺境の任務(辺任)や刺史に適した才能を持つ者を推薦するよう命じた。甲子の目、彗星が五車(ごしゃ:ぎょしゃ座の星名)に現れた。癸酉の日、星の乱れ(星孛:せいはい)が畢(ひつ)・昴(ぼう:おうし座の星名)に現れた。丙子の目、単于(ぜんう)大都護・忠王(李)浚(しゅん)を「河北道行軍元帥」とし、御史大夫の李朝隠(りちょういん)・京兆尹の裴伷先(はいちゅうせん)を副(副元帥)とし、十八の総管(軍団)を率いて契丹および奚などを討伐させるよう命じた。ただし、この計画は結局行われなかった(竟不行)。

壬午の日、東都(洛陽)で瀍(てん)水・洛(らく)水が氾濫し、天津(てんしん)橋・永済(えいさい)橋、および提象門外の詰所(仗舍)を破壊し、千余家の民家(廬舍)に被害を与えた。

閏月の甲申の日、幽(ゆう)州を分割して薊(けい)州を置いた。己丑の日、范安及(はんあんきゅう)・韓朝宗(かんちょうそう)に命じて、瀍水・洛水の水源を疏通(疏決)させ、門(水門)を設置して水勢を調整(節)するよう命じた。辛卯の日、礼部が願い出て、千秋(せんしゅう)節(皇帝の誕生日)に三日間の休暇を与え、また村々の社会(しゃかい:祭りの集まり)において、千秋節にまず白帝(秋の神)や田祖(農耕の神)に感謝の祭り(賽)を行い、その後に宴会(坐飲)を開いて解散するよう請願したが、これに従った。

秋七月の庚辰の日、寧(ねい)王憲(寧王李憲)の邸宅に行幸し、その日のうちに宮中に戻った。

八月の丁亥の日、皇帝(玄宗)は花萼(かがく)楼に御し、千秋節に際して百官の祝い(献賀)を受け、四品以上に金鏡や珠(たま)の袋(珠囊)、繻子(しゅす:縑彩)などを、五品以下にそれぞれ差をつけて束帛(そくはく:絹の束)を賜った。皇帝は八韻の詩を作り、さらに『秋景(しゅうけい)詩』を制作した。辛亥の日、永穆(えいぼく)公主の邸宅に行幸し、その日のうちに宮中に戻った。

九月、これより以前は家格の高い戸(高戸)が官の資金(官本錢)を預かって運用(捉)していたが、乙卯の日、御史大夫の李朝隠(りちょういん)が上奏して、百姓(一般民)の一年分の租銭(税金)を薄く(低利で)貸し付け、以前の通り高戸や典正(地方役人)らに運用させ、月ごとに利息を徴収して、官吏の税銭(公費)に充てるよう請願した。

冬十月、吐蕃(とばん)がその大臣の名悉猟(めいしつりょう)を派遣して方物(ほうぶつ)を献上し、帰順(降)を願い出たため、これを許した。庚寅の日、岐(き)州の鳳泉(ほうせん)湯に行幸した。癸卯の日、鳳泉湯から戻った。

十一月の丁卯の日、新豊の温泉宮に行幸した。

十二月の戊子の目、豊(ほう)州刺史の袁振(えんしん)が不穏な言辞(妖言)の罪で投獄され、獄中で死んだ。戊申の日、尚書左丞相・燕(えん)国公の張説(ちょうえつ)が薨去(こうきょ)した。この年、百官および華(か)州の長老たち(父老)が、皇帝の尊号に「聖文」の二字を加え、さらに西嶽(せいがく:華山)を封(祭)じるよう何度も上表して請願したが、許可(允)されなかった。

開元十九年

十九年春正月の壬戌の日、開府儀同三司・霍(かく)国公の王毛仲(おうもうちゅう)を襄(じょう)州別駕(べつが:地方への左遷)とし、配流の途上で死を賜った(賜死)。一党(党與)で免職・追放(貶黜)された者は十数人に上った。辛卯の日、鴻臚(こうろ)卿の崔琳(さいりん)を吐蕃(とばん)に派遣して答礼の使節(報聘)とした。丙子の目、皇帝(玄宗)自ら興慶(こうけい)宮の龍池において耕作の儀式(親耕)を行った。己卯の日、鯉(こい)を捕らえることを禁じた。天下の州府において春秋二期の社祭(社)および釈奠(せきてん)では、生贄(牲牢)を停止し、ただ酒と肉(酒酺)だけを用いることとし、永く不変の形式(常式)とした。

二月の甲午の日、崔琳を御史大夫とした。

三月の乙酉の朔(ついたち)、崔琳が吐蕃への使節として出発した。

夏四月の壬午の日、京城(長安)に礼院(れいいん:儀礼の調査・管理機関)を置いた。丙申の日、両京(長安・洛陽)および天下の諸州にそれぞれ太公(たいこう)尚父(しょうほ:太公望)廟を置き、張良(ちょうりょう)を合祀(配饗)し、春秋二期の中月(二月・八月)の上戊の目に祭るよう命じた。

五月の壬戌の日、五嶽(五つの名山)にそれぞれ老君(ろうくん:太上老君、老子)廟を置いた。

六月の乙酉の日、大風が吹き、木を根こそぎにした。

秋八月の辛巳の日、天下の死罪を流罪に減じ、徒罪以下をすべて赦免(原之)した。

九月の辛未の日、吐蕃がその国相(こくしょう)の論尚他硉(ろんしょうたこつ)を派遣して朝貢した。

冬十月の丙申の日、東都(洛陽)に行幸した。

十一月の丙辰の日、東都(洛陽)から戻った。甲子の目、太子少傅(さいししょうふ)の源乾曜(げんかんよう)が薨去した。

十二月、巂(すい)州都督の張審素(ちょうしんそ)が、皇帝の使節(監察御史の楊汪)を脅迫・監禁した(劫制)罪で伏罪し、処刑(誅)された。この冬、宮廷の庭園(苑内)の洛(らく)水を浚渫(しゅんせつ)したが、六十余日で作業を終えた。戊戌の日、裴光庭(はいこうてい)が『瑶山往則(ようざんおうそく)』『維城前軌(いじょうぜんき)』各一巻を献上し、皇帝はこれを皇太子や諸王に各一本ずつ賜うよう命じた。

開元二十年

二十年春正月の乙卯の日、礼部尚書・信安王の李禕(りい)に兵を率いて契丹(きったん)を討伐させた。丁巳の日、長芬(ちょうふん)公主の邸宅に、乙丑の日、薛王業の邸宅に、それぞれ行幸し、いずれもその日のうちに宮中に戻った。

二月の己未の日、文武の選人(任官希望者)について、これまでは三月三十日を基準(例)として選考の門(選門)を開き、合格者(団甲)の決定と官職の授与(進官)は夏までかかっていたが、今後、選考の門は正月内に開き、合格者の決定は二月内に終わらせる(訖)よう勅を下した。宰相たちに分担して命じ、京城(長安)の各牢獄に収監されている囚人を調査(録)させた。

三月、信安王の李禕が幽州長史の趙含章(ちょうがんしょう)とともに、幽州の北山において奚(けい)・契丹を大破した。

夏四月の乙亥の日、上陽(じょうよう)の東州において百官に酒宴を賜った。酒に酔った者には寝具(床褥)を賜い、肩輿(かご)に乗せて帰らせたが、その列は道中に連なった。癸巳の日、天津(てんしん)橋を改築(改造)し、皇津(こうしん)橋を壊して、これらを合わせて一つの橋とした。

五月の癸卯の日、寒食(かんしょく:冬至から105日目)の墓参り(上墓)を「五礼」に編入し、永く不変の形式(恆式)とするよう命じた。辛亥の日、金仙(きんせん)長公主が薨去した。戊辰の日、信安王(李禕)が奚・契丹の捕虜(俘)を連れて戻り、皇帝は応天(おうてん)門に御してこれを受けた。

六月の丁丑の日、単于(ぜんう)大都護・河北東道行軍元帥・忠王の李浚(りしゅん:忠王李浚)を司徒にし、都護の職は以前の通りとした。副大使の信安王・李禕に開府儀同三司を加えた。庚寅の日、幽州長史の趙含章が庫の物資を盗用(盗用庫物)した罪、および左監門員外将軍の楊元方(ようげんぽう)が趙含章から賄賂(饋餉:きしょう)を受け取った罪により、ともに朝廷で杖刑(決杖)に処された。さらに瀼(じょう)州へ流刑(流)としたが、ともにその途上で死を賜った(賜死)。その月、范安及(はんあんきゅう)を長安に派遣して花萼(かがく)楼を拡張させ、芙蓉(ふよう)園に至るまでの二重の塀(夾城:皇帝専用の通路)を築かせた。

秋七月の戊辰の日、寧王憲の邸宅に行幸し、その日のうちに宮中に戻った。

八月の辛未の朔(ついたち)、日食(日蝕)があった。

己卯の日、戸部(こぶ)尚書の王晙(おうしゅん)が卒した。

九月の乙巳の日、中書令の蕭嵩(しょうすう)らが『開元新礼(かいげんしんれい)』一百五十巻を奏上した。皇帝は担当官(所司)に対し、これを使用・施行(行用)するように命じた。渤海(ぼっかい)靺鞨(まつかつ)が登(とう)州を襲い、刺史の韋俊(いしゅん)を殺害したため、左領軍(さりょうぐん)将軍の蓋福順(がいふくじゅん)に命じて、兵を動員してこれを討伐させた。

冬十月の丙戌の日、行幸先(巡幸所至)において、賢才でありながら世に知られていない者がいれば推薦せよと命じた。さらに中書門下に対し、囚人を調査して不当な刑を正す(疏決)よう命じた。辛卯の日、潞(ろ)州の飛龍(ひりょう)宮に到着し、その地に三年の賦役免除(給復)を行い、兵役や賦役(兵募丁防)で既に差出されて出発していない者は、他州から出すよう命じた。辛丑の日、北都(太原)に到着した。癸丑の日、太原に対し特別に赦免(曲赦)を行い、三年の賦役免除を行った。

十一月の庚午の日、脽(ずい)上において後土(こうど)を祭り、天下に大赦を行い、左遷官(左降官)を状況に応じて都に近い場所へ移した。内外の文武の官吏に一階を加階し、開元以来の勲臣(功臣)に対し、すべて紫や緋(ひ)の官服の着用を許した(尽假紫及緋)。三日間の酒宴(大酺)を許した。

十二月の壬申の日、京師(長安)に戻った。

この年、戸部が計上した戸数は七百八十六万一千二百三十六戸、人口(口)は四千五百四十三万一千二百六十五人であった。

開元二十一年

二十一年春正月の庚子の朔(ついたち)、士人や庶民(士庶)の家に『老子(ろうし)』一本を備えさせるよう制を下した。毎年の貢挙人(科挙受験者)に対し、『尚書』『論語』の各二条の策問(試験問題)を減らし、代わりに『老子』の策問を加えることとした。乙巳の日、粛明(しゅくめい)皇后(睿宗の妃、玄宗の母)の神主(位牌)を太廟に移して合祀(遷祔)し、儀坤(ぎこん)廟を破壊した。丁巳の日、温泉宮に行幸した。己未の日、工部尚書の李嵩(りすう)を吐蕃(とばん)への使節として派遣した。癸亥の日、温泉宮から戻った。

三月の乙巳の日、侍中の裴光庭(はいこうてい)が薨去した。甲寅の日、尚書右丞の韓休(かんきゅう)を黄門侍郎・同中書門下平章事(宰相職)とした。

閏月、幽州道(ゆうしゅうどう)副総管の郭英傑(かくえいけつ)らが契丹(きったん)を討伐したが、都山(とざん)の下において敗れ、郭英傑は戦死した。

夏四月の丁巳の日、長雨(久旱:ここでは旱魃ではなく異例の気象か)のため、太子少保の陸象先(りくしょうせん)、戸部尚書の杜暹(とせん)ら七人を諸道へ派遣して慰撫(宣慰)と食糧配給(賑給)を行わせ、さらに官吏の適否を調査(黜陟)し、囚人を調査して不当な刑を正す(疏決)よう命じた。丁酉の日、寧(ねい)王憲を太尉(たいい)に、薛(せつ)王業を司徒(しと)に、慶(けい)王(李)潭(たん)を太子太師(たいしたいし)に、忠(ちゅう)王(李)浚(しゅん)を開府儀同三司に、棣(てい)王(李)洽(こう)を太子少傅に、鄂(がく)王(李)涓(けん)を太子太保とした。五月の甲申の日、皇太子(李鴻)が薛氏(せつし:のちの張皇后か)を妃として迎えた(納妃)。天下の死罪を流罪に減じ、流罪以下を釈放するよう制を下した。長安(京)の文武の官吏に勲(勲位)を一転(一等級上昇)賜った。

秋七月の乙丑の朔(ついたち)、日食(日蝕)があった。

九月の壬午の日、皇子の(李)溢(いつ)を済(せい)王に、(李)沔(べん)を信(しん)王に、(李)泚(せい)を義(ぎ)王に、(李)漼(さい)を陳(ちん)王に、(李)澄(ちょう)を豊(ほう)王に、(李)潓(けい)を恒(こう)王に、(李)漩(せん)を涼(りょう)王に、(李)滔(とう)を深(しん)王に、それぞれ封じた。

冬十月の庚戌の日、温泉宮に行幸した。

十一月の戊子の目、尚書右丞相の宋璟(そうけい)が年老いたために引退(致仕)を申し出たが、これを許した。

十二月の丁未の日、兵部尚書の徐(じょ)国公・蕭嵩(しょうすう)を尚書右丞相に、黄門侍郎の韓休(かんきゅう)を兵部尚書に任命し、ともに知政事(宰相職)を免じた。京兆尹(けいちょういん)の裴耀卿(はいようけい)を黄門侍郎に、前中書侍郎の張九齢(ちょうきゅうれい)を以前の官職(中書侍郎)に復職(起復)させ、ともに同中書門下平章事(宰相職)とした。この年、関中(かんちゅう:長安周辺)で長雨(久雨)が続き農作物を害したため、京師(長安)で飢饉が起きた。太倉(たいそう:官の倉庫)の米二百万石を出して救済するよう詔を下した。

開元二十二年

二十二年春正月の癸亥の朔(ついたち)、古の聖なる皇帝や明君、名山大川(嶽瀆海鎮:がくとくかいちん)の祭りには生贄(牲牢)を用いるべきであるが、その他の祭りはすべて酒と肉(酒酺)をもって奠(てん:お供え)に充てるよう制を下した。己巳の日、東都(洛陽)に行幸した。辛未の日、太府卿の厳挺之(げんていし)、戸部侍郎の裴寛(はいかん)を河南(洛陽周辺)へ派遣し、人々の慰問(存問)と救援(賑給)を行わせた。乙酉の日、懐(かい)・衛(えい)・邢(けい)・相(そう)などの五州において食糧が不足したため、中書舎人の裴敦復(はいとんふく)を派遣して調査(巡問)させ、状況に応じて(量)種子を供給させた。己丑の日、東都に到着した。

二月の壬寅の日、秦(しん)州で地震があり、役所(廨宇)や民家(廬舎)がほぼ全て崩壊し、官吏以下四十余人が圧死した。地響き(殷殷)が鳴り、その後も連続して揺れが止まらなかった。尚書右丞相の蕭嵩(しょうすう)を派遣して山川を祭(慰霊)させ、さらに関係官を派遣して慰問と救援(賑恤)を行わせた。圧死者の出た家には一年の賦役免除(給復)を、一家で三人以上亡くなった家には二年の賦役免除を行った。辛亥の日、初めて十道の採訪処置使(さいほうしょちし)を置いた。恒(こう)州の張果(ちょうか:仙人の張果老)先生を招き、銀青光禄大夫の位を授け、「通玄(つうげん)先生」と号した。三月、長安(京兆)の商人、任令方(じんれいほう)の資産六十余万貫を没収(没)した。壬午の日、私鋳銭(しちゅうせん:偽金)を禁じないようにしようと考え、公卿(くぎょう)や百官に是非を詳しく議論(詳議)させたが、人々が「不可である」としたため、中止した。

四月の乙未の日、伊西(いせい)・北庭(ほくてい)を、暫定的に(且)以前の通り節度(軍権)を置くこととした。太廟(たいびょう)署を廃止し、太常寺(たいじょうじ)に宗廟(そうびょう)の奉仕をさせた。庚子の目、唐州の境界において、勝(しょう)州の例に準じて表を立て、日食(日晷)の影の長短を測定(測候)した。乙巳の日、京都(長安・洛陽)で現在収監されている囚人について、中書門下や留守(りゅうしゅ:皇帝不在時の管理官)に対し、実態を調査(検覆)し、減刑(降罪)するよう詔を下した。天下の諸州については刺史(しし)に委任した。丁未の日、眉(び)州の鼎皇(ていこう)山の下の江水の中から宝鼎(ほうてい:宝の鼎)が見つかった。甲寅の日、北庭都護の劉渙(りゅうかん)が反乱を企て、処刑(伏誅)された。

五月の戊子の目、黄門侍郎の裴耀卿(はいようけい)を侍中(じちゅう)に、中書侍郎の張九齢(ちょうきゅうれい)を中書令(ちゅうしょれい)に、黄門侍郎の李林甫(りりんぽ)を礼部尚書・同中書門下平章事(宰相職)とした。関中(かんちゅう:長安周辺)で大風が吹き、木を根こそぎにし、特に同(どう)州での被害が深刻であった。この夏、皇帝(玄宗)は自ら宮廷の庭園(苑中)に麦を植え、皇太子以下を率いて親しく収穫(親獲)を行い、太子らにこう言った。「これは太廟(たいびょう:祖先の廟)に捧げるものであるから、自ら行っているのだ。またお前たちに農業(稼穡:かしょく)の苦労を知ってほしいからでもある。」そこで収穫した麦を側近(侍臣)たちに分け与え、こう言った。「近頃、農作物の調査(巡検)をさせているが、報告される内容は不実なものが多い。ゆえに自ら植えてその結実(成)を観ているのだ。そもそも『春秋』にも麦や禾(いね)のことが記されているが、これこそ古人が(農業を)重視した証しではないか!」六月の乙未の日、左金吾(さきんご)将軍の李佺(りせん)を赤嶺(せきれい)へ派遣し、吐蕃(とばん)との境界を示す碑(分界立碑)を立てさせた。

七月の己巳の日、司徒・薛(せつ)王業が薨去した。追って「恵宣(けいせん)太子」と諡(おくりな)した。甲申の日、中書令の張九齢を「河南開稻田(かなんかいとうでん)使(河南地方の水田開発の責任者)」とした。

八月、これより以前(皇帝の)車駕が東都(洛陽)にいた折、侍中の裴耀卿を「江淮・河南転運使」とし、河口(かこう)に輸送場(輸場)を置かせた。壬寅の日、輸送場の東に「河陰(かいん)県」を置いた。また張九齢を許(きょ)・豫(よ)・陳(ちん)・亳(はく)などの諸州へ派遣し、水屯(すいとん:水利を活かした屯田)を設置させた。

九月の壬申の日、饒楽(じょうらく)都督府を「奉誠(ほうせい)都督府」と改称した。辛巳の日、登(とう)州の平海(へいかい)軍を海口に移して配置(安置)した。冬十月の甲辰の日、元司農(しのう)卿の陳思問(ちんしもん)が賄賂(贓私)の罪により、瀼(じょう)州へ流刑(配流)となった。

十二月の戊子の朔(ついたち)、日食があった。乙巳の日、幽州長史の張守珪(ちょうしゅけい)が兵を動員して契丹(きったん)を討伐し、その王の屈烈(くつれつ)および大臣のカトカン(可突干)を陣中で斬った。その首を東都(洛陽)に送り(伝首)、残りの反乱した奚(けい)族は皆山谷へ逃げ散った(散走)。その首領の李過折(りかせつ)を立てて契丹王とした。この年、突厥(とっけつ)のビルゲ・カガン(毗伽可汗)が死んだ。京城(長安)の乞食(乞兒)を禁止した。

開元二十三年

二十三年春正月の己亥の日、自ら籍田(せきでん:天子の公田)を耕す儀式(親耕)を行い、皇帝は(通常三推のところを)九推まで行って止め、卿以下はそれぞれの割り当てられた田(畝)を最後まで耕した。天下に大赦を行った。長安(京)の文武の官吏および朝集使(ちょうしゅうし)・採訪使(さいほうし)のうち、三品以上に爵を一等加え、四品以下に位階を一階加えた。地方官(外官)には勲を一転賜った。覇王(はおう)の略数(優れた知略)を持ち、天人の理に通じ(学究天人之際)、あるいは将帥(しょうすい)や地方長官(牧宰)としての器量がある者がいれば、五品以上の清官(名誉ある官)および刺史(しし)にそれぞれ一人ずつ推薦させた。引退した官吏(致仕官)で才能のある者は、状況に応じて(量)別の職務に就け(改職)、以前と同様に待遇(依前致仕)することとした。三日間の酒宴(賜酺)を許した。

三月の丁卯の日、殿中(でんちゅう)侍御史の楊万頃(ようばんけい)が仇敵(仇人)によって殺害された。

夏五月の戊寅の日、宗室の子女(宗子)たちが月俸(俸給)の一部を出し合って、興慶(こうけい)宮に龍池(りゅうち)を造ることを願い出て、『聖徳頌(せいとくしょう)』を奏上した。

秋七月の丙子の目、皇太子の(李)鴻(こう)を「(李)瑛(えい)」と改名した。慶(けい)王(李)直(ちょく)以下の十四人の王も皆改名した。また皇子の(李)玭(ひん)を義(ぎ)王に、(李)珪(けい)を陳(ちん)王に、(李)珙(きょう)を豊(ほう)王に、(李)琪(き)を恒(こう)王に、(李)璿(せん)を涼(りょう)王に、(李)璥(けい)を汴(べん)王に、それぞれ封じた。栄(えい)王(李)院(いん)以下の王はすべて邸宅(府)を構え、独自の官属(官属)を置き、それぞれ二千戸の実封を与えた。

八月の戊子の目、高齢者や孤児(鰥寡惸独)に対して、今年の地税(田租)の半分を免除すると制を下した。江淮以南で水害に遭った場所については、その地方の使節(本道使)に救援(賑給)を行わせた。九月の戊申の日、泗(し)州を臨淮(りんわい)県に移して設置した。

冬十月の辛亥の日、伊西(いせい)・北庭(ほくてい)都督府を四鎮(しちん)節度使に所属(移隸)させた。突騎施(トゥルギシュ)が北庭および安西の撥換(はっかん)城を襲った。

十一月の壬申の朔(ついたち)、日食があった。

十二月、新羅(しらぎ)が使節を派遣して朝貢した。

開元二十四年

二十四年春正月、吐蕃(とばん)が使節を派遣して方物を献上した。北庭都護の蓋嘉運(がいかうん)が兵を率いて突騎施を攻撃し、これを破った。

三月の乙未の日、初めて考功(こうこう:官吏の選考)および貢挙(こうきょ:科挙試験)を礼部侍郎に管轄させることとした。

夏六月の丙午の日、京兆(長安周辺)の醴泉(れいせん)の反逆者(妖人)劉志誠(りゅうしせい)が衆兵を率いて反乱を起こし、京城(長安)へ向かおうとした。咸陽(かんよう)の官吏が便橋(べんきょう)を焼いてその道を断ったため、叛徒はまもなく逃げ散り、京兆府(けいちょうふ)がことごとく捕らえて斬首(擒斬)した。この夏は非常に暑く(大熱)、道中で熱中症(暍死:あつじ)により亡くなる者がいた。

秋七月の庚子の目、太子太保(たいしたいほ)の陸象先(りくしょうせん)が卒した。辛丑の日、李林甫(りりんぽ)を兵部尚書とし、以前の通り知政事(宰相職)とした。己巳の日、初めて「寿星(じゅせい)壇」を置き、老人星(りょうじんせい:カノープス)および角(かく)・亢(こう)などの宿(星座)を祭った。

八月の戊申の朔(ついたち)、実の叔父(親舅:母の兄弟)に対し小功(しょうこう:五ヶ月)の喪服、叔母(舅母:叔父の妻)に対し緦麻(しま:三ヶ月)の喪服、堂舅(いとこの叔父)に対し袒免(たんめん:喪服の簡略形)を加えるよう定めた。己亥の日、深(しん)王(李)滔(とう)が薨去した。九月の壬午の日、尚書の主爵(しゅしゃく)を「司封(しほう)」と改称した。

冬十月の戊申の日、皇帝(玄宗)の車駕が東都(洛陽)を出発し、西京(長安)に戻った。甲子の目、華(か)州に到着し、皇帝の宿泊所(行在)に収監されている囚人を特別に赦免(曲赦)した。丁丑の日、東都(洛陽)から戻った。

十一月の壬寅の日、侍中の裴耀卿(はいようけい)を尚書左丞相(しょうしょさじょうしょう)に、中書令の張九齢(ちょうきゅうれい)を尚書右丞相(しょうしょゆうじょうしょう)にし、ともに知政事(宰相職)を免じた。兵部尚書の李林甫(りりんぽ)に中書令を兼ねさせ、殿中(でんちゅう)監の牛仙客(ぎゅうせんかく)を兵部尚書・同中書門下三品(宰相職)とした。尚書右丞相の蕭嵩(しょうすう)を太子太師(たいしたいし)、工部尚書の韓休(かんきゅう)を太子少保(さいししょうほ)とした。

十二月の戊申の日、太子太師・慶王の(李)琮(そう)を司徒とした。

丙寅の目、牛仙客(ぎゅうせんかく)に門下省(もんかしょう)の事務(知門下省事)を管掌させた。