巻7上

高祖孝文皇帝、 いみな は宏、顕祖献文皇帝の長子、母は李夫人と曰う。皇興元年八月戊申、 平城 へいじょう の紫宮に生まる、神光室内を照らし、天地氤氳し、和気充塞す。帝は生まれながらにして潔白、異姿有り、襁褓にして岐嶷、長じて淵裕仁孝、綽然として君人の表有り。顕祖は特に愛し異とす。三年夏六月辛未、皇太子に立てらる。

延興元年

五年秋八月丙午、太華前殿に於いて皇帝の位に即く、大赦し、元を改めて延興元年と為す。丁未、劉彧使いを遣わし朝貢す。

九月壬戌、詔して在位及び民庶に直言極諫せしむ。民に利有り治を益し、政を損じ化を傷つくる有らば、悉く心を以て聞かしむ。壬午、青州高陽の民封辯自ら斉王と号し、党千余人を聚む、州軍討ちて之を滅ぼす。高麗の民奴久等相率いて来降し、各々田宅を賜う。

冬十月丁亥、沃野・統万二鎮の敕勒叛く。詔して 太尉 たいい ・隴西王源賀に追撃せしむ、枹罕に至り、之を滅ぼし、首三万余級を斬る;其の遺迸を冀・定・相の三州に徙し営戸と為す。庚寅、征東大将軍・南安王楨を以て仮節・ 都督 ととく 涼州及西戎諸軍事・領護西域 校尉 こうい ・儀同三司と為し、涼州に鎮せしむ。朔方の民曹平原不逞を招集し、石楼堡を破り、軍将を殺す。劉彧の将垣崇祖衆二万を率い郁洲より東兗州を寇し、南城固に屯す。

十有一月、 刺史 しし 于洛侯討ちて之を破り、崇祖郁洲に還る。妖賊司馬小君衆を聚め平陵に於いて反す、斉州刺史・武昌王平原討ちて之を擒う。

十有二月乙酉、駙馬都尉穆亮を以て趙郡王と為す。壬辰、詔して舜の後を訪わしむ、東萊郡の民媯苟之を獲、其の家を復し畢世、以て盛徳の不朽を彰す。前の濮陽王孔雀の本封を復す。辛丑、趙郡王穆亮長楽王に徙封さる。

延興二年

二年春正月乙卯、統万鎮の胡民相率いて北に叛く。詔して寧南将軍・交阯公韓抜等に追撃滅ぼさしむ。大陽蛮の酋桓誕戸を率いて内属し、征南将軍に拝し、襄陽王に封ぜらる。京師及び河西、南は秦涇に至り、西は枹罕に至り、北は涼州諸鎮を曲赦す。詔して仮員外 散騎常侍 さんきじょうじ 邢祐をして劉彧に使わしむ。

二月乙巳、詔して曰く、「尼父は達聖の姿を稟け、生知の量を体し、理を窮め性を尽くし、道四海に光る。頃者淮徐未だ賓せず、廟隔てて非所に在り、致して祠典を寢頓せしめ、礼章殄滅せしむ、遂に女巫妖覡をして淫進非礼せしめ、殺生鼓舞し、倡優媟狎せしむ、豈に明神を尊び聖道を敬する所以ならんや。自今已後、孔子廟を祭る有らば、制して酒脯を用いるのみとし、婦女の合雑して以て非望の福を祈るを聴かず。犯す者は違制を以て論ず。其の公家事有るは、自ら常礼の如し。犠牲粢盛は、務めて豊潔を尽くすべし。事に臨みて敬を致し、令は粛如たらしむ、牧司の官は、明らかに不法を糾し、禁令必ず行わるるを致せ。」 蠕蠕 じゅんじゅん 塞を犯す。太上皇帝北郊に次す、詔して諸将に討たしむ。虜遁走す。其の別帥阿大干千余落を率いて来降す。東部の敕勒叛き蠕蠕に奔る、太上皇帝之を追う、石磧に至り、及ばずして還る。壬子、高麗国使いを遣わし朝貢す。

三月、太上皇帝北討より至る。戊辰、 散騎常侍 さんきじょうじ ・駙馬都尉万安国を以て大司馬・大将軍と為し、安城王に封ず。庚午、車駕藉田に耕す。石城郡曹平原を獲、京師に送り、之を斬る。連川の敕勒謀り叛き、青・徐・斉・兗の四州に徙配し営戸と為す。

夏四月庚子、詔して工商雑伎は、尽く農に赴くを聴す。諸州郡民に課し益々菜果を種えしむ。辛亥、劉彧使いを遣わし朝貢す。癸酉、詔して沙門は寺を去り民間に浮遊するを得ず、行く者は公文を以て仰ぐ。是の月、劉彧死に、子昱僭りて立つ。五月丁巳、詔して軍警に璽印・伝符を給し、次に馬印を給す。

六月、安州の民水雹に遇い、租を丐い賑恤す。丙申、詔して曰く、「頃者州郡選貢するも、多く実を以てせず、碩人の所以に窮処幽仄するは、鄙夫の所以に超分妄進するは、豈に賢を旌ぎ徳を樹つる所謂ならんや。今年の貢挙は、特に猥濫なり。自今遣わす所は、皆門は州郡の高を尽くし、才は郷閭の選に極むる者とせよ。」

閏月壬子、蠕蠕敦煌を寇し、鎮将尉多侯撃ちて之を走らす。又晋昌を寇し、守将薛奴撃ちて之を走らす。戊午、陰山に行幸す。

秋七月、光州の民孫晏等党千余人を聚め叛き、劉昱に通ず、刺史叔孫璝討ちて之を平らぐ。辛丑、高麗国使いを遣わし朝貢す。壬寅、詔して州郡県各々二人才専対に堪うる者を遣わし、九月の講武に赴かしめ、当に親しく風俗を問わんとす。

八月丙辰、百済国が使者を遣わし、上表を奉じて高句麗討伐の軍を請う。辛酉、地豆于・庫莫奚国が使者を遣わして朝貢し、昌亭国が使者を遣わして蜀馬を献ず。河西の費也頭が反し、薄骨律鎮の将がこれを撃退す。

九月辛巳、車駕宮に還る。戊申、統万鎮将・河間王閭虎皮、貪残の罪により死を賜わる。己酉、詔して州鎮十一の水害により、民の田租を免じ、倉を開き賑恤す。また詔して流迸の民は、皆本貫に還らしめ、違う者は辺鎮に配徙す。

冬十月、蠕蠕塞を犯し、五原に及ぶ。

十一月、太上皇帝自ら討つ。将に漠を渡り襲撃せんとす。蠕蠕軍の至るを聞き、大いに懼れ、北に数千里走る。窮寇遠く遁るを以て、追うべからず、乃ち止む。丁亥、皇叔略を封じて広川王とす。壬辰、使者を分遣し風俗を巡省し、民の疾苦を問う。帝毎月一朝崇光宮す。

十二月庚戌、詔して曰く、「書に云う、『三載一考、三考幽明を黜陟す』と。頃者已来、官は労を以て昇るも、未だ久しからずして代わり、牧守に民を恤うるの心無く、競いて聚斂を為し、故を送り新を迎え、路に相属す。是れ民志を固くし、治道を隆くする所以に非ず。今より牧守温仁清儉・ 己奉公の者は、其の任に久しうすべし。歳積もりて成ること有らば、位一級を遷す。其れ貪残非道・黎庶を侵削する者有らば、官に在ること甫爾と雖も、必ず黜罰を加う。之を令に著し、永く彝準と為す。」詔して 代郡 だいぐん の事は豊沛に同じきを以て、代民先に辺戍に配せられたる者は皆之を免ず。

延興三年

三年春正月庚辰、詔して員外 散騎常侍 さんきじょうじ 崔演をして劉昱に使わしむ。丁亥、崇光宮を改めて寧光宮とす。戊戌、太上皇帝還りて雲中に至る。是の月、相州妖人栄永安を執りて京師に送り、之を斬る。詔して其の支党を赦す。

二月戊申、高麗・契丹国並びに使者を遣わして朝貢す。癸丑、詔して牧守令長、百姓を勤め率い、時に失わしむること無からしむ。同部の内、貧富相通ず。家に兼牛有る者は、無き者に通借す。若し詔に従わざれば、一門の内終身仕えず。守宰察せざれば、居官を免ず。戊午、太上皇帝北討より至り、飲至策勳し、宗廟に告ぐ。王事に死する者は其の家を復す。詔して畿内の民役に従い死事する者、郡県之が喪を迎え、葬費を給す。甲戌、詔して県令一県の劫盗を静め能う者は、二県を兼ね治め、即ち其の禄を食む。二県を静め能う者は、三県を兼ね治め、三年にして郡守に遷す。二千石二郡を静め能う者、上は三郡に至るも亦之の如く、三年にして刺史に遷す。

三月壬午、詔して諸倉囤の穀麦充積する者、出して貧民に賜う。

夏四月戊申、詔して 司空 しくう ・上党王長孫観等に仮し吐谷渾拾寅を討たしむ。壬子、契丹国使者を遣わして朝貢す。詔して孔子二十八世の孫魯郡孔乗を以て崇聖大夫と為し、十戸を給して洒掃を供せしむ。

六月甲子、詔して曰く、「往年県民秀二人を召し、守宰の治状を問うに、善悪具に聞こえ、将に賞罰を加えんとす。而るに賞する者未だ幾ばくもあらず、罪する者衆多なり。法を肆にして生を傷つく、情に未だ忍びず。今特ちに寛恕の恩を垂れ、解網の恵を申す。諸民の列せしむる所の者、特ちに其の罪を原し、尽く之を貸すべし。」

秋七月、詔して河南六州の民、戸ごとに絹一匹・綿一斤・租三十石を収む。乙亥、陰山に行幸す。蠕蠕敦煌を寇し、鎮将楽洛生之を撃破す。事は蠕蠕伝に具す。劉昱将を遣わし縁淮諸鎮を寇し、徐州刺史・淮陽公尉元之を撃退す。

八月己酉、高麗・庫莫奚国並びに使者を遣わして朝献す。庚申、帝太上皇帝に従い河西に幸す。拾寅罪に謝し降を請う、之を許す。

九月辛巳、車駕並びに宮に還る。乙亥、劉昱使者を遣わして朝貢す。己亥、詔して曰く、「今より京師及び天下の囚、罪未だ分判せず、獄に在りて死し近親無き者は、公に衣衾棺櫝を給し葬埋す。曝露することを得ず。」辛丑、詔して使者十人を遣わし州郡を循行し、戸口を検括す。其れ仍りて隠れて出でざる者有らば、州・郡・県・戸主並びに律の如く論ず。庫莫奚国使者を遣わして朝献す。

冬十月、太上皇帝自ら将として南討す。詔して州郡の民、十丁に一を取って行に充て、戸ごとに租五十石を収め、以て軍糧に備う。悉万斤国使者を遣わして朝献す。武都王反し、仇池を攻む。詔して長孫観に仍りて師を回らし之を討たしむ。

十一月戊寅の日、詔して河南七州の牧守多く法を奉ぜず、新邦の民上達すること能わざるを致すにより、使者を遣わして風を観察し獄を察し、幽明を黜陟せしむ。鰥寡孤独貧しく自ら存すること能わざる者あらば、その雑徭を復し、年八十以上は一子役に従わず。力田孝悌、才器時に益あり、信義郷閭に著わるる者は、具に名を以て聞かしむ。癸巳の日、太上皇帝南巡し、懐州に至る。過ぐる所に民の疾苦を問い、高年・孝悌力田に布帛を賜う。

十二月庚戌の日、詔して関外の苑囿は民の樵採を聴す。壬子の日、蠕蠕辺を犯し、柔玄鎮の二部の敕勒叛きてこれに応ず。癸丑の日、沙門慧隱謀反し、誅せらる。

この年、州鎮十一水旱あり、民の田租を丐い、倉を開きて賑恤す。相州の民餓死する者二千八百四十五人。吐谷渾部内の きょう 民鍾豈・渴干ら二千三百戸内附す。

この年、妖人劉挙自ら天子と称す、斉州刺史・武昌王平原これを捕らえ斬る。

延興四年

四年春正月丁丑の日、 侍中 じちゅう ・太尉・隴西王源賀病を以て位を辞す。辛巳の日、粟特国使いを遣わし朝献す。

二月甲辰の日、太上皇帝南巡より至る。辛亥の日、吐谷渾拾寅子の費斗斤を遣わし入侍せしめ、 へい せて方物を献ず。辛未の日、寒食を禁断す。

三月丁亥の日、詔して員外 散騎常侍 さんきじょうじ 許赤虎をして劉昱に使わしむ。高麗・吐谷渾・曹利諸国各使いを遣わし朝貢す。

夏五月甲戌の日、蠕蠕国使いを遣わし朝貢す。

六月乙卯の日、詔して曰く、「朕は歴数開一の期に応じ、千載光 かがや の運に属す。仰ぎて厳誨すと雖も、猶お徳化寛からざるを懼れ、門房の誅有るに至る。然れども下民兇戾にして親戚を顧みず、一人悪を為せば殃合門に及ぶ。朕は民の父母たり、深く愍悼す。今より以後、謀反・大逆・干紀・外奔に非ざれば、罪その身に止むのみ。今徳殊方に被り、文軌将に一ならんとす。刑を宥し禁を寛くするは、亦善からずや」闊悉国使いを遣わし朝貢す。

秋七月庚午の日、高麗国使いを遣わし朝献す。己卯の日、仇池を曲赦す。癸巳の日、蠕蠕敦煌を寇し、鎮将尉多侯大いにこれを破る。

八月庚子の日、吐谷渾国使いを遣わし朝献す。戊申の日、北郊に大いに閲す。

九月、劉昱内に相攻戦するを以て、詔して将軍元蘭ら五将三万騎及び仮の東陽王丕を後継と為し、蜀漢を伐たしむ。丙子の日、契丹・庫莫奚・地豆于諸国各使いを遣わし朝献す。

冬十月庚子の日、劉昱使いを遣わし朝貢す。

十一月、分かちて侍臣を遣わし河南七州を循り、風俗を観察し、初附を撫慰す。戊寅の日、吐谷渾国使いを遣わし朝献す。この年、州鎮十三大いに飢え、民の田租を丐い、倉を開きてこれを賑す。

十二月、詔を下して西征吐谷渾の兵で句律城において初めて叛軍した者を斬り、次いで柔玄・武川の二鎮に分配せしむ。斬られた者は千余人に及んだ。

延興五年

五年春二月庚子、高麗国より使いを遣わして朝献す。癸丑、詔して考課を定め、黜陟を明らかにせしむ。

閏月戊午、吐谷渾国より使いを遣わして朝献す。

夏四月丁丑、亀茲国より使いを遣わして朝献す。癸未、詔して天下の賦調は県が専ら督めて集め、牧守は対検して京師に送らしめ、違う者はその居る官を免ぜしむ。詔して鷹鷂を畜うることを禁じ、互いに告げしめる制を開く。

五月丁酉、契丹・庫莫奚国、各使いを遣わして名馬を献ず。丙午、詔して員外 散騎常侍 さんきじょうじ 許赤虎をして劉昱に使わしむ。丁未、武州山に幸す。辛酉、車輪山に幸す。

六月庚午、牛馬を殺すことを禁ず。壬申、京師の死罪を曲赦し、蠕蠕に備えるため派遣す。

秋八月丁卯、高麗・吐谷渾・地豆于諸国より使いを遣わして朝献す。

九月癸卯、洛州の人賈伯奴・ 州の人田智度、党を聚めて千余人、伯奴は恒農王と称し、智度は上洛王と称し、夜に洛州を攻む。州郡これに撃ち、伯奴を緱氏において斬り、智度を執えて京師に送る。

冬十月、蠕蠕国より使いを遣わして朝献す。太上皇帝、北郊において大閲す。

十二月丙寅、建昌王長楽を改めて安楽王に封ず。己丑、城陽王長寿薨ず。庚寅、劉昱より使いを遣わして朝貢す。

承明元年

承明元年春二月、蠕蠕・高麗・庫莫奚・波斯諸国、並びに使いを遣わして朝貢す。是の月、 司空 しくう ・東郡王陸定国、事に坐して官爵を免ぜられ兵と為る。

夏五月、冀州武邑の民宋伏龍、衆を聚め、自ら南平王と称す。郡県これを捕斬す。蠕蠕国より使いを遣わして朝貢す。

六月甲子、詔して中外に戒厳し、京師の見兵を分けて三等と為し、第一軍出づるに第一兵を遣わし、二等の兵もまたこれに如くせしむ。辛未、太上皇帝崩ず。壬申、大赦し、年を改む。大司馬・大将軍・安城王万安国、苑中において矯詔して神部長奚買奴を殺すに坐し、死を賜う。戊寅、征西大将軍・安楽王長楽を太尉と為す。 すで しょうしょ 僕射 ぼくや ・南平公目辰を 司徒 しと と為し、宜都王に進封す。南部尚書李訢を 司空 しくう と為す。皇太后を尊びて太皇太后と為し、朝に臨みて称制す。

秋七月甲辰、皇妣李貴人を追尊して思皇后と為す。汝陰王天賜を征西大将軍・儀同三司に任ず。高麗・庫莫奚国、並びに使を遣わして朝貢す。濮陽王孔雀、罪有りて死を賜う。

八月甲子、詔して曰く、「朕猥りに前緒を承け、洪烈を纂戎し、先志を隆くせんと思い、政道を緝熙せんとす。群公卿士、其れ各々厥の心を勉め、朕の およ ばざるを匡べよ。諸に民に便にして国に利ある者は、具状を以て聞かしめよ」と。壬午、蠕蠕国、使を遣わして朝貢す。甲申、 長安 ちょうあん の二蠶多く死すを以て、民の歳賦の半を丐う。

九月丁亥、京師を曲赦す。高麗・庫莫奚・契丹諸国、並びに使を遣わして朝献す。癸丑、宕昌・悉萬斤国、並びに使を遣わして朝貢す。

冬十月丁巳、七宝永安行殿を起つ。乙丑、征西大将軍・仮東陽王元丕の爵を進めて正王と為す。己未、詔して曰く、「朕皇極を纂承し、万方を照臨し、遐風を闡さんと思い、兆庶に光被せしめ、朝に不諱の音有り、野に自蔽の響無からしめんとす。帝載を畴咨し、芻蕘に及んで はか う。今より已後、群官卿士より下り吏民に至るまで、各々上書を聴し、直言極諫し、隠す所有る勿れ。諸に便宜有り、治を益し民に利し、以て風俗を正すべき者は、有司以て聞かしめよ。朕将に親ら覧み、三事大夫と其の可否を論じ、裁して之を用いん」と。辛未、輿駕建明仏寺に幸し、罪人を大いに宥す。済南公羅抜、爵を進めて王と為す。

十有一月、蠕蠕国、使を遣わして朝貢す。戊子、太尉・安楽王長楽を定州刺史と為し、京兆王子推を青州刺史と為し、 司空 しくう 李訢を徐州刺史と為し、並びに開府儀同三司を加う。

太和元年

太和元年春正月乙酉朔、詔して曰く、「朕夙に宝業を承け、荷うに堪えざるを懼る。而して天貺具に臻り、地瑞並びに応じ、風和ぎ気晼ぎ、天人交協す。豈に朕の沖昧の能く致す所ならんや。実に神祇七廟の福を降すの助に頼る。今三正初を告ぐ。祗感交切す。宜しく陽始に因り、典に恊いて元を革すべし。其れ今の号を改めて太和元年と為せ」と。辛亥、詔して曰く、「今民を牧む者は、朕と天下を共に治むるなり。宜しく徭役を やす にし、之に勧奬を先にし、其の水陸を相い、務めて地利を尽くし、農夫をして外に布かしめ、桑婦をして内に勤ましめよ。若し軽く徴発有りて、民時に奪うを致さば、侵擅を以て論ず。民に長の教に従わず、農桑に惰る者有らば、罪刑を加えよ」と。太和・安昌の二殿を起つ。己酉、秦州略陽の民王元寿、衆五千餘家を聚め、自ら衝天王と号す。雲中飢え、倉を開き賑恤す。

二月丙寅、漢川の民泉会・譚酉等相率い内属し、之を 并州 へいしゅう に処す。辛未、秦益二州刺史・武都公尉洛侯、元寿を討ち破り、其の妻子を獲て、京師に送る。癸未、高麗・契丹・庫莫奚国、各使を遣わして朝献す。

三月庚子、征西大将軍・雍州刺史・東陽王丕を徴して 司徒 しと と為す。丙午、詔して曰く、「朕政治多闕、災眚屡興つ。去年牛疫、死傷太半す。耕墾の利、当に虧損有るべし。今東作既に興り、人須らく業に肄るべし。其れ在所に勅し田農を督課せしめ、牛有る者は常歳より勤を加え、牛無き者は餘年に倍して庸せしめよ。一夫に治田四十畝を制し、中男は二十畝とす。人に餘力有り、地に遺利有らしむる勿れ」と。庫莫奚・契丹国、各使を遣わして朝献す。

夏四月丙寅、蠕蠕国、使を遣わして朝貢す。丁卯、白登山に幸す。壬申、崞山に幸す。楽安王良薨ず。詔して前東郡王陸定国の官爵を復す。

五月乙酉、車駕武州山に於いて雨を祈り、俄にして澍雨大いに洽う。蠕蠕国、使を遣わして朝貢す。

秋七月壬辰、侍中・開府儀同三司・青州刺史・京兆王子推薨ず。庚子、三等の死刑を定む。己酉、太和・安昌の二殿成る。朱明・思賢門を起つ。是の月、劉昱死に、弟準僭りて立つ。

八月壬子、天下に大赦す。丙子、詔して曰く、「工商皂隸、各々厥の分有り。而るに有司縱濫し、或いは清流に染む。今より已後、戸内に工役有る者は、推して上は本部丞に、已下は次に準じて授く。若し階藉元勳・労を以て国を定むる者は、此の制に従わず」と。戊寅、劉準、使を遣わして朝貢す。

九月癸未、蠕蠕国、使を遣わして朝貢す。乙酉、詔して群臣に太華殿に於いて律令を定めしむ。辛卯、高麗国、使を遣わして朝貢す。庚子、北苑に永楽遊観殿を起ち、神淵池を穿つ。車多羅・西天竺・舍 えい ・疊伏羅諸国、各使を遣わして朝貢す。

冬十月癸酉、京邑の耆老年七十已上の者を太華殿に宴し、衣服を賜う。是の月、庫莫奚・契丹国、各使を遣わして朝献す。又詔して七十已上の者一子を役に従わしめず。亀茲国、使を遣わして朝献す。劉準の葭蘆戍主楊文度、弟鼠を遣わし襲い仇池を陥す。丙子、徐州刺史李訢を誅す。庫莫奚・契丹国、各使を遣わして朝貢す。

十一月癸未、詔して征西将軍・広川公皮懽喜、鎮西将軍梁醜奴、平西将軍楊霊珍らに命じ、四万の兵を率いて楊鼠を討たしむ。乙酉、吐谷渾国より使いを遣わして朝献す。丁亥、懐州の民伊祁苟初、自ら堯の後裔と称し王に応ずとし、重山にて衆を聚む。洛州刺史馮熙これを討ち滅ぼす。閏月、懽喜らの軍、建安に到る。楊鼠、城を棄てて南に走る。癸亥、粟提婆国より使いを遣わして朝献す。庚子、詔して員外 散騎常侍 さんきじょうじ 李長仁を劉準に使わす。

十二月壬寅、懽喜、葭蘆を攻め陥とし、文度を斬り、その首を京師に伝う。甲辰、員闊・吐谷渾国、並びに使いを遣わして朝貢す。丁未、詔す。州郡八つ、水旱蝗の災あり、民飢う。倉を開き賑恤す。安定王休を以て儀同三司となす。

太和二年

二年春正月丁巳、昌黎王馮熙の第二子始興を封じて北平王となす。戊午、吐谷渾より使いを遣わして朝献す。

二月丁亥、行幸して代の湯泉に至る。過ぐる所にて民の疾苦を問い、宮人を以て妻なき貧民に賜う。戊戌、蠕蠕国より使いを遣わして朝献す。癸卯、車駕宮に還る。三月丙子、河南公梁弥機を以て宕昌王となす。

夏四月甲申、崞山に幸す。丁亥、宮に還る。己丑、劉準より使いを遣わして朝貢す。京師旱す。甲辰、北苑にて天災を祈り、親ら礼す。膳を減じ、正殿を避く。丙午、澍雨大いに洽う。京師を曲赦す。

五月、詔して曰く、「婚娉礼を過ぐれば、則ち嫁娶に失時の弊あり。厚葬終を送れば、則ち生者に糜費の苦しみあり。聖王其の此の如きを知り、故に礼数を以て之を申し、法禁を以て之を約す。迺ち者、民漸く奢尚し、婚葬軌を越え、貧富相い高くし、貴賤別なしを致す。又皇族貴戚及び士民の家、氏族を惟みず、下りて非類と婚偶す。先帝親ら明詔を発し、之が為に科禁を為す。而るに百姓常に習い、仍って粛改せず。朕今旧典に憲章し、祗ち先制に案じ、之を律令に著し、永く定準と為す。犯す者は違制を以て論ず。」

六月己丑、鹿野苑に幸す。庚子、皇叔若薨ず。

秋七月戊辰、亀茲国より使いを遣わし、名駝七十頭を献ず。劉準、将を遣わして仇池を寇す。陰平太守楊広香これを撃ち走らす。

八月、使者を分遣して守宰を考察し、民の疾苦を問う。丙戌、詔して諸州の禽獣の貢を罷む。丁亥、勿吉国より使いを遣わして朝献す。

九月丙辰、京師を曲赦す。亀茲国より使いを遣わし、大馬・名駝・珍宝甚だ衆しきを献ず。

冬十月壬辰、詔して員外 散騎常侍 さんきじょうじ 鄭羲を劉準に使わす。

十一月庚戌、詔して曰く、「爵を朝に懸けて、功有る者は必ず其の賞を縻す。刑を市に懸けて、罪有る者は必ず其の辜に罹る。斯れ乃ち古今の成典、治道の実要なり。諸州刺史は牧民の官なり。頃より以来、遂に各怠慢し、姦を縦し賂を納れ、公に背き私に縁り、賊盗並びに興り、侵劫茲に甚だしきを致す。姦宄の声、屡朕が聴に聞ゆ。朕太平の運を承け、千載の期に属す。洪緒を光らしめんと思い、庶績を惟新せんとす。亦た蕃翰群司に望む、徳を敷き恵を宣べ、以て沖人を助け、共に斯の美を成さんことを。幸いに己を克み礼に復し、愆を思い過ちを改め、寡昧をして祖宗に愧じること無からしめ、百姓をして当世に徳を見せしめよ。有司明らかに条禁を為し、朕が意に称えよ。」

十二月癸巳、南郡王李惠を誅す。

是歳、州鎮二十余り水旱あり、民飢う。倉を開き賑恤す。

太和三年

三年春正月癸丑、坤徳六合殿が完成する。庚申、行察官を廃止する詔を下す。

二月辛巳、帝と太皇太后は代郡の温泉に行幸し、民の疾苦を問い、鰥寡貧窮の者には宮女を妻として与える。己亥、宮中に還る。壬寅、乾象六合殿が完成する。

三月甲辰、京師を曲赦する。戊午、吐谷渾・高麗国が各々使者を遣わして朝献する。

夏四月壬申、劉準が使者を遣わして朝献する。癸未、楽良王楽平が薨ず。辛卯、蠕蠕国が使者を遣わして朝献する。丙申、崞山に行幸する。己亥、宮中に還る。庚子、淮陽公尉元が爵を進めて王となる。吐谷渾国が使者を遣わして犛牛五十頭を献ず。雍州刺史・宜都王目辰は罪有りて死を賜う。

五月丁巳、帝は北苑において雨を祈り、陽門を閉ざす。この日、慈雨が大いに潤す。辛酉、詔して曰く、「昔、四代は老人を養い、道を問い言を乞うた。朕は沖昧ながらも、常にその美を尚ぶ。今、国老に各々衣一襲、綿五斤、絹布各五匹を賜う」。

六月辛未、雍州の民が飢えたため、倉を開いて賑恤する。方山に文石室・霊泉殿を造営する。

秋七月壬寅、宮人で年老いた者及び疾病ある者はこれを免ずる詔を下す。

八月壬申、群臣に直言を尽くし規諫することを求め、隠すことなからしむる詔を下す。乙亥、方山に行幸し、思遠仏寺を造営する。丁丑、宮中に還る。

九月壬子、侍中・ 司徒 しと ・東陽王丕を太尉とす。侍中・尚書右僕射・趙郡公陳建を 司徒 しと とし、爵を進めて魏郡王とす。侍中・尚書・河南公苟頽を 司空 しくう とし、爵を進めて河東王とす。侍中・尚書・太原公王叡の爵を進めて中山王とす。侍中・尚書・隴東公張祐の爵を進めて新平王とす。己未、定州刺史・安楽王長楽は罪有りて、京師に徴し詣らしめ、死を賜う。庚申、隴西王源賀が薨ず。高麗・吐谷渾・地豆于・契丹・庫莫奚・亀茲諸国が各々使者を遣わして朝献する。

冬十月己巳朔、天下に大赦を行う。

十有一月癸卯、京師の貧窮・高年・疾患により自ら存することができぬ者に衣服布帛を差等有りて賜う。癸丑、仮の梁郡公元嘉の爵を進めて仮王とし、二将を督して淮陰より出撃せしむ。隴西公元琛は三将を率いて広陵より出撃す。河東公薛虎子は三将を率いて寿春より出撃す。蠕蠕が騎兵十余万を率いて南寇し、塞に至りて還る。

十有二月、粟特・州逸・河龔・疊伏羅・員闊・悉万斤諸国が各々使者を遣わして朝貢する。

この年、島夷蕭道成がその主劉準を廃して僭立し、自ら斉と号す。

太和四年

四年の春正月癸卯、乾象六合殿が完成した。洮陽の羌が叛き、枹罕の鎮将が討伐して平定した。隴西公元琛らが蕭道成の馬頭戍を攻め落とした。乙卯、広川王略が 薨去 こうきょ した。雍州の てい の斉男王が反逆し、美陽令を殺害したが、州郡が捕らえて斬った。丁巳、鷹や鷂を飼育する場所を廃止し、その地を報徳仏寺とした。戊午、襄城王韓頹が罪を犯し、爵位を削られ辺境に流された。蕭道成の徐州刺史崔文仲が淮北を侵犯し、茌眉戍を陥落させた。

二月、尚書の游明根に騎兵二千を率いさせて南征させた。癸巳、詔を下して言う。「朕は天の統緒を継ぎ、海内に君臨し、早朝から夜明けまで、薄氷を踏む思いである。今、春の耕作が始まろうとし、万物が芽生え動き、品物が生まれ育つ時に、慈雨が降らず、一年でも不作となれば、百姓は飢え困窮する。朕は甚だ懼れる。天下に命じ、山川の諸神および雲雨を起こすことのできる神々を祀り、祠堂を修繕し、犠牲と璧を供えよ。民に疾苦ある者は、その地において見舞い問え。」

三月丙午、詔して車騎大将軍馮熙に命じ、衆を督して仮の梁郡王嘉ら諸軍を迎え還らせた。乙卯、蠕蠕国が使者を遣わして朝貢した。

四月己卯、廷尉・籍坊の二つの獄に幸し、諸囚を引見した。詔して言う。「廷尉は天下の公平を司り、民の命が懸かっている。朕が刑罰を慎むことを得るのは、獄官がその任に称することを恃むからである。一人の男が耕さなければ、ある者は飢えに遭い、一人の女が織らなければ、ある者は寒さに遭う。今は農作業の重要な時期であり、百姓が力を尽くす秋であるのに、愚かな民が罪に陥る者が甚だ多い。軽重に従って判決し、耕作の業に赴かせるべきである。」辛巳、白登山に幸した。甲申、天下の貧しい者で、一戸の内に雑多な財貨や穀物・布帛がない者に、一年分の食糧を賜った。

五月丙申朔、火山に幸した。壬寅、宮中に還った。

六月丁卯、時雨が広く行き渡ったことを以て、京師を曲赦した。紬・綾・絹・布百万匹および南伐で捕らえた俘虜を以て、王公以下に賜った。

秋七月辛亥、火山に行幸した。壬子、東明観を改築した。詔して京師の耆老を会わせ、錦綵・衣服・几杖・稲米・蜜・麺を賜い、その家族の徭役を免除した。悉万斤国が使者を遣わして朝貢した。閏月丁亥、虎圈に幸し、自ら囚徒を記録し、軽い者は皆これを赦免した。壬辰、頓丘王李鍾葵が罪を犯し、死を賜った。蕭道成の角城戍主が城を挙げて内属を請うた。

八月丁酉、詔して徐州刺史・仮梁郡王嘉に赴いてこれを迎えさせた。また平南将軍郎大檀ら三将を遣わして朐城から出撃させ、将軍白吐頭ら二将を遣わして海西から出撃させ、将軍元泰ら二将を遣わして連口から出撃させ、将軍封匹ら三将を遣わして角城から出撃させ、鎮南将軍賀羅を遣わして下蔡から出撃させた。甲辰、方山に幸した。戊申、武州山の石窟寺に幸した。庚戌、宮中に還った。乙卯、詔して諸州に氷室を設置させた。蕭道成の梁州刺史崔慧景が長史裴叔保に衆を率いさせて武興を侵犯したが、関城の氐の帥楊鼠がこれを撃破し、叔保は南鄭に還った。

九月、蕭道成の汝南太守常元真・龍驤将軍胡青苟が戸を率いて内属した。乙亥、思義殿が完成した。壬午、東明観が完成した。戊子、詔して言う。「厳寒に雪が降り、獄に繋がれている者や都に輸送中の者の中には凍え飢える者がある。朕はこれを愍れむ。侍臣を廷尉の獄および囚人のいる所に遣わし、広く巡視視察させ、飢寒の者には衣食を与え、桎梏の者には軽い鎖に代えよ。」仮梁郡王嘉が朐山において蕭道成の将盧紹之・玄元度を破り、その下蔡戍主は城を棄てて遁走した。

冬十月丁未、詔して昌黎王馮熙を西道 都督 ととく とし、征南将軍桓誕と共に義陽から出撃させ、鎮南将軍賀羅を下蔡から東に出して鍾離に向かわせた。蘭陵の民桓富がその県令を殺害し、昌慮の桓和と北は泰山の群盗張和顔らと連絡し、徒党を集めて五固に拠り、司馬朗之を主に推した。詔して淮陽王尉元らにこれを討伐させた。

この年、詔して州鎮十八か所の水害旱魃により民が飢えたため、倉を開いて救済撫恤した。

太和五年

五年の春正月己卯、車駕は南巡した。丁亥、中山に至った。高齢者に親しく会い、民の疾苦を問うた。

二月辛卯朔、天下に大赦を行った。孝悌力田・孤貧で自活できない者に、差等を設けて穀物と布帛を賜った。年老いた宮人を免じてその親族のもとに還した。丁酉、車駕は信都に幸し、中山と同様に見舞い問うた。癸卯、中山に還った。己酉、唐水の北岸で武を講じた。庚戌、車駕は都に還った。沙門法秀が謀反を企て、誅殺された。南征の諸将が淮陽において蕭道成の遊撃将軍桓康を撃破した。道成の 州刺史垣崇祖が下蔡を侵犯したが、昌黎王馮熙がこれを撃破した。仮梁郡王嘉が道成の将を大破し、捕虜三万余人を捕らえて京師に送った。

三月辛酉朔、車駕は肆州に幸した。癸亥、雲水の北岸で武を講じた。経過した地において、守宰を考察し、これに昇進降格を加えた。己巳、車駕は宮中に還った。詔して言う。「法秀は妖術詐偽をもって常道を乱し、妄りに符瑞を説き、蘭台御史張求ら百余人が、奴隸を招き集め、大逆を謀った。有司が族誅の刑に処するのは、まことに刑罰の法に合う。しかし、愚かさを憐れみ命を重んずる思いから、なお忍びない。五族の刑は、同祖までに降す。三族の刑は、一門までに止める。門誅の刑は、自身のみに止める。」

夏四月己亥、方山に行幸する。山上に永固石室を建て、石室の庭に碑を立て、また太皇太后の終制を金冊に銘し、また鑒玄殿を起こす。壬子、南の俘虜一万余りを群臣に わか 賜する。甲寅、詔して曰く、「時雨降らず、春苗萎え悴む。諸に骸骨あるの処は、皆埋蔵を勅し、露見せしむることなかれ。神祇の有る所は、悉く禱祈すべし」と。任城王元雲薨ず。

五月庚申朔、詔して曰く、「廼ちに辺兵屡動し、労役未だ息まず、百姓これに因り、軽く刑網に陥り、獄訟煩く興り、四民業を失う。朕毎にこれを念い、用て懐を傷む。農時の要月、民は力を肆うを須う。その天下に勅し、留獄久囚有ることなからしめよ」と。壬戌、鄧至国使いを遣わして朝貢す。庚午、青州主簿崔次恩衆を聚めて謀叛す。州軍これを撃ち、次恩郁洲に走る。

六月甲辰、中山王元叡薨ず。戊午、皇叔元簡を斉郡王に封じ、元猛を安豊王に封ず。

秋七月甲子、蕭道成使いを遣わして朝貢す。辛酉、蠕蠕の別帥他 かんが 衆を率いて内附す。甲戌、乞養雑戸及び戸籍の制五条を班つ。

九月庚子、南郊にて武を閲し、大いに群臣を饗す。蕭道成、車僧朗を使わして班が劉準の使殷霊誕の後に在るを以て、席に就かざるを辞す。劉準の降人解奉君、会中にて僧朗を刃する。詔して奉君等を誅す。乙亥、昌黎王馮熙の世子誕を南平王に封ず。兗州、司馬朗之を斬り、首を京師に伝う。

冬十月癸卯、蠕蠕国使いを遣わして朝貢す。

十二月癸巳、詔して州鎮十二の民飢うるを以て、倉を開き賑恤す。

太和六年

六年春正月甲戌、大赦天下す。

二月辛卯、詔して曰く、「霊丘郡の土は既に褊塉にして、又諸州の路衝たり、官私経る所、供費一に非ず。往年巡行し、其の労瘁を見る。民の租調を十五年復すべし」と。癸巳、白蘭王吐谷渾翼世、誣罔を以て伏誅す。乙未、詔して曰く、「蕭道成、江淮に逆乱し、戎旗頻りに挙がる。七州の民は既に征運の労有り、軽徭の義に深く乖く。朕甚だこれを愍む。其れ常調を三年復すべし」と。戊申、地豆于国使いを遣わして朝貢す。癸丑、王公以下清勤著称する者に穀帛を差等有りて賜う。

三月庚辰、虎圈に行幸し、詔して曰く、「虎狼猛暴にして、肉を食い生を残す。取捕の日、毎に傷害多し。既に益する所無く、損費良多し。今より復た捕貢することなかれ」と。辛巳、武州山石窟寺に幸す。貧老者に衣服を賜う。壬午、方山に幸す。是の月、蕭道成死す。子賾、僭りて立つ。

夏四月甲辰、畿内の鰥寡孤独自ら存すること能わざる者に粟帛を差等有りて賜う。

六月、蠕蠕国使いを遣わして朝貢す。

秋七月、州郡の五万人を発して霊丘道を治めしむ。

八月癸未朔、大使を分遣し、天下の水害遭うる処を巡行し、民の租賦を丐い、貧儉自ら存すること能わざる者に粟帛を賜う。庚子、山沢の禁を罷む。

九月辛酉(の日)、氐の楊後起を武都王とした。

冬十一月乙卯(の日)、吐谷渾国が使者を派遣して朝貢した。

十二月丁亥(の日)、詔を下して言う。「朕は寡薄をもって、政治は平和を欠き、天象を仰いでまとめることができず、この六つの災いを除くことができない。去秋の長雨により洪水が災害となり、百姓は嗷嗷としており、朕はこれをもって嘆き憐れむ。故に使者を派遣し、方々を巡らせて救済させた。しかし牧守は民を利する道を考えず、徴収を整えることのみを期している。毛を愛するあまり皮衣を裏返すようなもので、まったく意味がない。今、未納の租税および将来の租算については、すべてこれを免除する。有司は努めて勧農に励み、豊作を招き、朕の意にかなうようにせよ。」

太和七年

七年春正月庚申(の日)、詔を下して言う。「朕は常に百姓の疾苦を知り、寛政を増し修めようと考えるが、明察が遠くまで及ばず、実際に欠けているところがある。故に州郡の使者、秀孝、計掾に対し、守宰の苛虐の状況を詳しく問うたが、答えは多く実情に合わず、朕が虚心に求める意に甚だ背いている。本来は大辟の刑に処すべきで、上を欺く者は必ず誅されることを明らかにすべきである。しかし情においてなお忍びず、罪を恕して帰らせることを許す。天下に布告し、後に犯す者は恕さないことを知らしめよ。」丁卯(の日)、詔して青、斉、光、東徐の四州の民に対し、戸ごとに倉粟二十石を運び、瑕丘・琅邪に送らせ、租算を一年間免除した。

三月甲戌(の日)、冀・定の二州の民が飢えたため、詔して郡県に道傍で粥を作りこれを食べさせしめ、また関津の禁令を緩め、その往来を任せた。

夏四月庚子(の日)、崞山に行幸し、行路で過ぎた鰥寡で自活できない者に衣服・粟・帛を賜う。壬寅(の日)、車駕宮中に還る。

閏月癸丑(の日)、皇子生まれる。天下に大赦を行う。

五月戊寅朔(の日)、武州山の石窟仏寺に行幸する。

六月、定州が上言し、粥を飢えた人に与え、救った者は九十四万七千余りであった。

秋七月丁丑(の日)、帝と太皇太后、神淵池に行幸する。甲申(の日)、方山に行幸する。詔して員外 散騎常侍 さんきじょうじ 李彪、員外郎蘭英を仮官とし、蕭賾に使わしむ。済南王羅拔を改めて趙郡王に封ず。

九月壬寅(の日)、詔を下して言う。「朕は祖宗を承け、夙夜ただ懼れる。しかし聴政の際、なお慮りが周到でないことを憂え、文案を審らかにし獄を断ずるに至っては、己が過ちを聞きたいと思う。今より群官が事を奏上するには、まさに可を献じ否を替えるべきで、面従する者はあってはならず、朕の過ちを遠近に明らかにさせよ。」冀州が上言し、粥を飢民に与え、救った者は七十五万一千七百余りであった。

冬十月戊午(の日)、皇信堂が完成する。

十一月辛丑(の日)、蕭賾が使者を派遣して朝貢した。

十二月癸丑(の日)、詔を下して言う。「淳風は上古に行われ、礼による教化は近世に用いられる。それ故に夏殷は一族の婚姻を嫌わず、周代になって初めて同姓の娶りを絶った。これらは皆、教えが時に随って設けられ、治めは事に因って改められるものである。皇運の初め、 中原 ちゅうげん は未だ混一せず、乱を撥ね治めを経綸するに、日も暇あらず、古風の遺す質朴は、改めるいとまがなく、後には遂に因循し、今に至るまで変わらなかった。朕は百年の期に属し、仁政の後に当たり、質朴な旧習を改め、新しきを明らかにしたいと思う。今よりこれを悉く禁絶し、犯す者は不道の罪をもって論ずる。」庚午(の日)、林慮山の禁を開き、民とこれを共にする。詔して州鎮十三の民が飢えたため、倉を開いて救済する。

太和八年

八年春正月、詔して隴西公元琛・尚書陸叡を東西二道の大使とし、善を褒め悪を罰せしむ。

二月、蠕蠕国より使いを遣わして朝献す。

夏四月甲寅、方山に幸す。戊午、車駕宮に還る。庚申、行幸して旋鴻池に至り、遂に崞山に幸す。丁卯、宮に還る。

五月己卯、詔して河南七州の戍兵を賑賜す。甲申、詔して員外 散騎常侍 さんきじょうじ 李彪・員外郎蘭英をして蕭賾に使わしむ。

六月丁卯、詔して曰く、「官を置き禄を わか つは、行わるること すで に久し。周礼には食禄の典あり、二漢には受俸の秩著はる。魏 しん およ ぶも、往憲を かんが えざるは莫く、以て治道を経綸す。中原喪乱より此れ、茲の制中絶し、先朝因循して、未だ釐改に いとま あらず。朕四方を永く鑒み、民の を求め、夙興昧旦し、憂勤に至る。故に旧典を憲章し、始めて俸禄を班つ。諸の商人を罷め、以て民事を やす くす。戸毎に調三匹・穀二斛九斗を増し、以て官司の禄と為す。均しく預調を二匹の賦と為し、即ち兼ねて商用とす。一時の煩は有れども、終に永逸の益を くす。禄行はれたる後は、贓満一匹なる者は死す。法を変え度を改むるは、宜しく更始と為すべく、其れ天下を大赦し、之と惟新を与えよ。」戊辰、武州の水氾濫し、民居舎を壊す。

秋七月乙未、行幸して方山石窟寺に至る。

八月甲辰、詔して曰く、「帝業は至って重く、広く はか らずんば治を致すこと無く、王務は至って繁く、博く採らずんば功を興すこと無し。先王其れ此の如きを知り、故に己を虚しくして過を求め、恕を明らかにして咎を思う。是を以て諫鼓は堯の世に置かれ、謗木は舜の庭に立てり、用て能く耳目四達し、 庶類咸 ことごと かがや けり。朕累聖の洪基を承け、千載の昌運に属す。毎に遐風を布き、前式を景行す。承明の初め、内外に班下し、人をして各々規を尽くし、以て其の闕を補わしむるを聴く。中旨宣べらるるも、允称する者少なし。故に時法を変え、遠く古典に遵い、制を班ち俸禄を定め、刑書を改更す。寛猛未だ允ならず、人或いは異議有り、言を思う者情を申す由無く、諫を求むる者自ら達する因無し。故に上明周からず、下情壅塞す。今制す、百辟卿士及び工商吏民、各々便宜を上るべし。民に利し治を益し、化を損じ政を傷つくる、直言極諫し、隠す所有ること無かれ。務めて辞に煩華無く、理簡実に従わしむべし。朕将に親しく覧み、以て世事の要を知り、之を言う者をして罪無からしめ、之を聞く者をして以て戒と為すに足らしめん。」

九月甲午、蕭賾使いを遣わして朝貢す。戊戌、詔して曰く、「俸制既に立ち、宜しく時に班行すべし。其れ十月を首と為し、毎季一たび請わしむ。」是に於いて内外の百官、禄を受くるに差有り。

冬十月、高麗国より使いを遣わして朝貢す。蕭賾の双城戍主王継宗内属す。

十有一月乙未、詔して員外 散騎常侍 さんきじょうじ 李彪・員外郎蘭英をして蕭賾に使わしむ。

十有二月、詔して州鎮十五に水旱有り、民飢うるを以て、使者を遣わし循行し、疾苦する所を問い、倉を開き賑恤せしむ。

太和九年

九年春正月戊寅、詔して曰く、「図讖の興るは、三季に起る。既に経国の典に非ず、徒らに妖邪の憑る所と為るのみ。今より図讖・秘緯及び名づけて孔子閉房記と為す者は、一に皆之を焚くべし。留むる者は大辟を以て論ず。又諸の巫覡神鬼を仮称し、吉凶を妄説し、及び委巷の諸卜にて墳典に載せざる者は、厳しく禁断を加う。」癸未、太華殿に於いて群臣を大饗し、皇誥を班賜す。

二月己亥、制す、皇子封王なる者・皇孫及び曾孫紹封する者・皇女封なる者の歳禄各々差有り。広陽王建の第二子嘉を以て建の後を紹ぎ、広陽王と為す。乙巳、詔して曰く、「昔の哲王、下情を博く採り、箴諫を勤めて求め、旌鼓を建設し、芻蕘を詢納せざるは莫し。朕禄を班ち刑を刪すも、慮い周允ならざるを慮い、讜直を虚懐し、洪猷を顕わさんと思う。百司卿士及び工商吏民、其れ各々上書して極諫し、隠す所有ること無かれ。」

三月丙申、宕昌国が使者を派遣して朝貢した。皇弟の禧を咸陽王に封じ、幹を河南王に封じ、羽を広陵王に封じ、雍を潁川王に封じ、勰を始平王に封じ、詳を北海王に封じた。

夏四月癸丑、方山に行幸した。甲寅、宮中に還った。

五月、高麗国及び蕭賾が共に使者を派遣して朝貢した。

六月辛亥、方山に行幸し、遂に霊泉池に行幸した。丁巳、宮中に還った。

秋七月丙寅朔、諸門を新たに造営した。癸未、使者を派遣して宕昌王梁彌機の兄の子彌承をその国王として拝した。戊子、魚池に行幸し、青原岡に登った。甲午、宮中に還った。

八月己亥、弥沢に行幸した。甲寅、牛頭山に登った。庚申、詔して曰く、「数州に水害が起こり、飢饉が重なって、男女を売り買いする者が出るに至った。天の譴責は、朕一人にあるべきところ、百姓は罪なくして、横に艱難の苦しみに遭っている。朕はこれにより深く憂え、朝夕戒め、食と寝とを忘れている。今、太和六年以来、定・冀・幽・相の四州の飢民の良民を買った者は、全てその親族に返還せよ。たとえ聘して妻妾とした者であっても、非道に遇わせ、心情が楽しまない者もまた離別させること。」甲子、宮中に還った。

冬十月丁未、詔して曰く、「朕は天の命を受けて位に在ること、十有五年になる。先王の典籍を覧る毎に、百氏を経綸し、蓄積が既に積まれれば、黎民は永遠に安泰である。そして末葉に至り、この道は廃れ、富強なる者は山沢を併せ占め、貧弱なる者は一廛の土地さえ望み絶ち、地には遺された利益がありながら、民には余分な財産がなく、ある者は畝畔を争って身を亡ぼし、ある者は飢饉によって生業を棄てる。これで天下太平、百姓豊足を望むことがどうしてできようか。今、使者を派遣し、州郡を巡行させ、牧守と共に天下の田を均しく分け与え、還受は生死を以て断じ、農桑を勧め課し、富民の根本を興すこととする。」戊申、高麗・吐谷渾国が共に使者を派遣して朝貢した。辛酉、侍中・ 司徒 しと ・魏郡王陳建が薨じた。詔して員外 散騎常侍 さんきじょうじ 李彪・尚書郎公孫阿六頭を蕭賾に派遣した。

十二月乙卯、侍中・淮南王他を 司徒 しと とした。蠕蠕が塞を侵犯したので、詔して任城王澄に衆を率いてこれを討たせた。

この年、京師及び州鎮十三で水害旱害により農作物が損害を受けた。宕昌・高麗・吐谷渾等の国が共に使者を派遣して朝貢した。

校勘記

原本を確認する(ウィキソース):魏書 巻7上