巻3

太宗明元皇帝、 いみな は嗣、太祖の長子なり、母は劉貴人と曰う、登国七年雲中宮に生まる。太祖晩年に子あり、聞きて大いに悦び、乃ち天下に大赦す。帝は明叡にして寬毅、礼に非ざれば動かず、太祖甚だ之を奇とす。天興六年、齊王に封ぜられ、相國を拝し、車騎大將軍を加えらる。

初め、帝の母劉貴人は死を賜わり、太祖帝に告げて曰く、「昔漢武帝其の子を立てんとし其の母を殺し、婦人をして後に國政に與からしめず、外家の亂を爲さしむ。汝統を繼ぐべし、故に吾遠く漢武に同じくし、長久の計を爲す。」帝素より純孝、哀泣して自ら勝えず、太祖之を怒る。帝宮に還り、哀しみ自ら止まず、日夜號泣す。太祖知りて又之を召す。帝入らんと欲す、左右曰く、「孝子父に事ふるは、小杖は則ち受け、大杖は之を避く。今陛下怒り盛んなり、入りて或は不測ならん、帝を不義に陷れん。出でて且く出づるに如かず、怒りの解くるを待ちて進むは、晚からず。」帝懼れ、之に從ひ、乃ち遊行して外に逃る。

永興元年

天賜六年冬十月、清河王紹逆を爲し、太祖崩ず。帝入りて紹を誅す。壬申、即ち皇帝の位に即き、大赦し、年を改めて永興元年と爲す。皇妣を追尊して宣穆皇后と爲す。公卿大臣先に罷め歸第し朝政に與からざる者は、悉く復た登用す。詔して南平公長孫嵩、北新侯安同に民訟を對理せしめ、賢を簡び能に任じ、彝倫攸に敍ぶ。

閏十月丁亥、朱提王悅謀反し、死を賜る。詔して鄭兵將軍、山陽侯奚斤に諸州を巡行せしめ、民の疾苦を問ひ、窮乏を撫恤せしむ。

十有二月戊戌、 えい 王儀の子良を封じて南陽王と爲し、陰平公元烈爵を進めて王と爲し、高涼王樂真改めて封ぜられ平陽王と爲る。己亥、帝始めて西宮に居り、天文殿に御す。 蠕蠕 じゅんじゅん 塞を犯す。

是の歲、乞伏乾歸金城に據り自ら秦王と稱す。高雲海夷馮跋の滅ぼす所と爲り、跋號を僭し、自ら大燕天王と稱す。

永興二年

二年春正月甲寅朔、詔して南平公長孫嵩等に蠕蠕を北伐せしむ。平陽の民黃苗等、汾に依りて自ら固め、姚興の官號を受く。 并州 へいしゅう 刺史 しし 元六頭之を討ち平ぐ。

二月癸未朔、詔して將軍于栗磾に歩騎一萬を領して平陽を鎮めしむ。

夏五月、長孫嵩等大漠より還り、蠕蠕追ひて之を牛川に圍む。壬申、帝北伐す。蠕蠕聞きて遁走し、車駕還りて參合陂に幸す。

秋七月丁巳、陂西に馬射臺を立て、仍び武を講じ戰を教ふ。乙丑、車駕北伐より至る。

八月、章武の民劉牙衆を聚めて反す。山陽侯奚斤之を討ち平ぐ。

九月甲寅、太祖宣武皇帝を盛樂金陵に葬る。

冬十有二月辛巳、詔して將軍周觀に衆を率ひて西河離石に詣り、山胡を鎮撫せしむ。

この年、司馬徳宗の将劉裕は、 慕容 ぼよう 超を広固において滅ぼした。

永興三年

三年春二月戊戌、詔して曰く、「衣食足りて栄辱を知る。夫人飢寒切己にして、朝夕に済わざるを恐れ、急とする所は温飽のみ、何ぞ暇あって仁義の事に及ばんや。王教の多く違うは、蓋し此に由る。夫耕し婦織り、内外相成さずんば、何を以て家給し人足らん。其れ宮人に簡ぶるに、当に御すべからざる及び執作伎巧の者を除き、自余は悉く出だして鰥民に配せよ」。己亥、詔して北新侯安同等に節を持ちて へい ・定二州及び諸山居雑胡・丁零を循行せしめ、其の疾苦を問い、守宰の不法を察挙せしむ。其の冤窮失職し、強弱相陵ぎ、孤寒自ら存する能わざる者は、各々事を以て聞かしむ。昌黎・遼東の民二千余家内属す。

三月己未、詔して侍臣に常に剣を帯びしむ。

夏四月戊寅、河東蜀の民黄思・郭綜等、営部七百余家を率いて内属す。

五月丁卯、車駕 盛楽 せいらく にて金陵を謁す。己巳、昌黎王慕容伯児謀反し、誅せらる。

六月、姚興使いを遣わして来聘す。西河胡の張賢等、営部を率いて内附す。

秋七月戊申、衛士に酺を三日賜い、布帛各差有り。辛酉、附国の大人に錦罽衣服を賜い、各差有り。

八月戊寅、詔して将軍・束州侯尉古真に兵五千を統べさせ、西境の太洛城を鎮守せしむ。

冬十二月甲戌、蠕蠕の斛律宗党吐觝于等百余人内属す。甲午、詔して南平公長孫嵩・任城公嵇抜・白馬侯崔玄伯等をして朝堂に坐せしめ、囚徒を録決せしめ、務めて平当ならしむ。

永興四年

四年春二月癸未、虎圈に登り虎を射る。南平公長孫嵩等に布帛を賜い、各差有り。

夏四月乙未、西宮にて群臣を宴し、各々直言を献ぜしむ。

秋七月己巳朔、東巡す。四廂大将を置き、又十二時に倣い、十二小将を置く。山陽侯奚斤・元城侯元屈を行左右丞相とす。己卯、石会山に大いに獮す。戊子、去畿陂に臨み漁を観る。庚寅、濡源に至る。西巡し、北部諸落に幸し、繒帛を以て賜う。

八月庚戌、車駕宮に還る。壬子、西宮に幸し、板殿に臨み、大いに群臣将吏を饗し、田猟の獲る所を以て之に賜う。民に大酺三日を命ず。乙卯、王公以下宿衛将士に至るまで布帛を賜い、各差有り。

冬十一月乙丑、宗室の近属たる南陽王元良以下より緦麻の親に至るまでに布帛を賜うこと各有差なり。

十二月丁巳、車駕北巡し、長城に至りて還る。

是の年、乞伏乾帰は兄の子公府に殺され、子の熾磐立つ。沮渠蒙遜自ら河西王と称す。

永興五年

五年春正月己巳、大いに閲兵し、畿内の男子十二歳以上悉く集う。己卯、西宮に幸す。頞抜大・渠帥四十余人、闕に詣で貢を奉り、繒帛錦罽を賜うこと各有差なり。乙酉、諸州に詔し、六十戸ごとに戎馬一匹を出さしむ。庚寅、東郊に大いに閲兵し、将帥を部署す。山陽侯奚斤を以て前軍と為し、衆三万、陽平王元熙等十二将、各一万騎とす。帝白登に臨み、躬自ら校覧す。

二月戊申、陽平王元熙及び諸王・公・侯・将士に布帛を賜うこと各有差なり。庚戌、高柳川に幸す。甲寅、車駕宮に還る。癸丑、北苑に魚池を穿つ。庚午、姚興使いを遣わして来聘す。詔して使者を分遣し儁逸を巡求せしむ。其の豪門強族にして州閭に推される者、及び文武の才幹有り臨疑能く決する者、或いは先賢の世冑にして德行清美、学優義博、人の師と為すべき者、各々京師に詣でしめ、才に随い叙用し、以て庶政を賛えしむ。

夏四月、河東の民薛相、部を率いて内属す。乙巳、上党の民労聰・士臻、群聚して盗と為り、太守令長を殺し、相率いて外奔す。乙卯、車駕西巡し、前軍の奚斤等に先行を詔し、跋那山に於いて越勤部を討たしむ。

夏五月乙亥、雲中の旧宮の大室に行幸す。丙子、大赦天下す。西河の張外・建興の王紹、自ら犯したる罪重しと以て、敢えて解散せず。庚戌、元城侯元屈等を遣わし衆三千を率いさせて へい 州を鎮守せしむ。乙卯、会稽公劉潔・永安侯魏勤等に詔し、衆三千を率いさせて西河を鎮守せしむ。

六月、西に幸して五原に至り、骨羅山に校猟し、獣十万を獲る。濩沢の劉逸自ら征東将軍・三巴王と号し、王紹に官属を署置せしめ、建興郡を攻逼す。元屈等これを討平す。

秋七月己巳、還りて薄山に幸す。帝登りて太祖の遊幸刻石頌徳の処を観、乃ち其の旁に石壇を起し饗を薦ぐ。従者に山下に大酺を賜う。奚斤等、跋那山西に於いて越勤倍泥部落を破り、馬五万匹、牛二十万頭を獲、二万余家を大寧に徙し、口を計りて田を受く。河西の胡曹龍・張大頭等、各々部を領し、衆二万人を擁し、来たりて蒲子に入り、研子塁に於いて張外を逼脅す。外懼れ、牛酒を以て給し、馬を殺し盟誓し、龍を推して大単于と為し、美女良馬を龍に奉る。丙戌、車駕大室より西南に巡り諸部落し、其の渠帥に繒帛を賜うこと各有差なり。遂に南に次ぎて定襄の大落城に至り、東に十嶺山を踰え、善無川に田す。

八月癸卯、車駕宮に還る。癸丑、奚斤等師を班す。甲寅、帝白登に臨み、降民を観、軍実を数う。曹龍降り、張外を執りて送り、之を斬る。辛未、征還の将士に牛・馬・奴婢を賜うこと各有差なり。新民を大寧川に置き、農器を給し、口を計りて田を受く。丁丑、犲山宮に幸す。癸未、車駕宮に還る。

冬十月丁巳、将軍元屈・会稽公劉潔・永安侯魏勤等、吐京の叛胡を撃つも、利あらず、潔は傷つけられ、勤は之に死す。

十一月癸酉、西宮に大饗す。姚興使いを遣わし朝貢し、来たりて女を進めることを請う、帝之を許す。

神瑞元年

神瑞元年春正月辛酉、禎瑞頻りに集まるを以て、大赦し、元を改む。辛巳、繁畤に幸す。王公以下より士卒百工に至るまでに布帛を賜うこと各有差なり。

二月戊戌、車駕は宮に還る。この月、 赫連 かくれん 屈孑が河東蒲子に侵入し、吏民を殺掠す。三城護軍張昌らが要撃してこれを走らす。庚戌、犲山宮に幸す。西河胡の曹成・吐京民の劉初原が屈孑の置いた吐京護軍及びその守兵三百余人を攻め殺す。乙卯、 平城 へいじょう の東北に豊宮を起つ。

夏五月辛酉、車駕は宮に還る。

六月、司馬徳宗の冠軍将軍・太山太守劉研の弟、輔国将軍・領東平太守陽平の趙鸞、広威将軍・平昌太守羅卓、斗城屠各の帥張文興ら、流民七千余家を率いて内属す。河西胡の酋長劉遮・劉退孤が部落等一万余家を率い、河を渡り内属す。戊申、犲山宮に幸す。丁亥、車駕は宮に還る。

秋八月戊子、詔して馬邑侯元陋孫を姚興に使わす。辛丑、謁者悦力延を遣わして蠕蠕を撫慰し、于什門をして馮跋を招諭せしむ。詔して平南将軍・相州刺史尉古真に司馬徳宗の 太尉 たいい 劉裕と相聞かしめ、博士王諒を仮の平南参軍として命を将せしむ。姚興、使いを遣わして来聘す。

冬十一月壬午、詔して使者を諸州に巡行せしめ、守宰の資財を校閲し、自家の齎さざるものは悉く簿して贓と為す。詔して守宰法に如かざるは、民の闕に詣りて告言するを聴く。

十二月丙戌朔、蠕蠕塞を犯す。丙申、帝北伐して蠕蠕を討つ。河内人司馬順宰、自ら晋王と号す。太守討捕すれども獲ず。

この歳、禿髪傉檀、乞伏熾磐に滅ぼさる。

神瑞二年

二年春正月丙辰、車駕北伐より至り、従征の将士に布帛を賜うこと各差あり。

二月丁亥、西宮に大饗し、附国の大・渠帥で歳首に朝する者に繒帛金罽を賜うこと各差あり。司馬徳宗の琅邪太守劉朗、二千余家を率いて内属す。庚子、河西胡の劉雲ら、数万戸を率いて内附す。甲辰、太祖廟を白登の西に立つ。

三月、詔して曰く、「刺史守宰、率ね多く逋慢し、前後怠惰にして、数たび督罰を加うれども、猶改悛せず。今年の貲調懸違する者は、家財を出だしてこれを充てしめ、民に徴発するを聴かず」。河西の飢胡上党に屯聚し、白亜栗斯を推して盟主と為し、大将軍と号し、上党に反し、自ら単于と号し、建平元年と称す。司馬順宰を以てその謀主と為す。

夏四月、詔して将軍公孫表ら五将にこれを討たしむ。河南の流民二千余家内属す。衆、栗斯を廃して劉虎を立て、率善王と号す。司馬徳宗、使いを遣わして朝貢す。己卯、車駕北巡す。

五月丁亥、参合の東に次ぎ、大寧に幸す。丁未、四岬山に田す。

六月戊午、去畿陂に幸し、漁を観る。辛酉、濡源に次ぎ、蜯臺を築き立つ。頽牛山にて白熊を射て、これを獲る。丁卯、赤城に幸し、長老に親しく見え、民の疾苦を問い、租を一年復す。南に石亭に次ぎ、上谷に幸し、百年を問い、賢俊を訪い、田租の半を復す。壬申、涿鹿に幸し、橋山に登り、温泉を観、使者をして太牢を以て黄帝廟を祠らしむ。広寧に至り、歴山に登り、舜廟を祭る。

秋七月、宮に還り、過ぎし所の田租の半を復す。

九月、〈闕〉に差等あり。河南の流民、前後三千余家内属す。京師の民飢え、山東に出でて就食するを聴す。

冬十月壬子、姚興、 散騎常侍 さんきじょうじ ・東武侯姚敞、 尚書 しょうしょ 姚泰を使わし、その西平公主を送り来たり、帝は后礼をもってこれを納る。辛酉、沮洳城に行幸す。癸亥、車駕宮に還る。丙寅、詔して曰く、「古人言う、百姓足れば則ち君余りあり、未だ民富みて国貧しき者あらざるなり。頃者以来、頻りに霜旱に遇い、年穀登らず、百姓飢寒して自ら存すること能わざる者甚だ衆し、その布帛倉穀を出して以て貧窮を賑せよ」。

十有一月丁亥、犲山宮に幸す。庚子、車駕宮に還る。

泰常元年

泰常元年春正月甲申、犲山宮に行幸す。戊子、車駕宮に還る。

三月己丑、長楽王処文薨ず。常山の民霍季、自ら名の図讖に載ると言い、一つの黒石を持ちて以て天賜の玉印と為し、誑惑して党を聚め、山に入りて盗と為る。州郡これを捕斬す。

夏四月壬子、大赦し、元を改む。庚申、河間王脩薨ず。

六月丁巳、車駕北巡す。

秋七月甲申、帝自ら白鹿陂より西行し、牛川に大いに獮し、釜山に登り、殷繁水に臨みて南し、九十九泉に観る。戊戌、車駕宮に還る。

九月戊午、前 へい 州刺史叔孫建等、大いに山胡を破る。劉虎、河を渡り東に走り、陳留に至り、従人に殺さる。司馬順宰等皆死す。司馬徳宗の相劉裕、河を泝り姚泓を伐ち、その部将王仲徳を前鋒と為し、陸道より梁城に至らしむ。兗州刺史尉建畏懦し、州を棄て北に渡る。王仲徳遂に滑臺に入る。詔して将軍叔孫建等に河を渡らしめ、滑臺に威を耀かしめ、尉建を城下に斬る。

冬十月壬戌、犲山宮に幸す。徒何部落の庫傉官斌先ず降るも、後に復た叛き馮跋に帰す。 ぎょう 騎将軍延普、濡水を渡り討撃し、大いにこれを破り、斌及び馮跋の幽州刺史・漁陽公庫傉官昌、征北将軍・関内侯庫傉官提等の首を斬り、庫傉官女生を生擒し、縛して京師に送る。幽州平ぐ。

十一月甲戌、車駕宮に還り、蓬臺を北苑に築く。

十二月、南陽王良薨ず。

是歳、姚興卒し、子泓立つ。

泰常二年

二年の春二月丙午、詔して曰く、「九州の民は、京邑と隔絶して遠く、時に壅滞あり、守宰至りて以て聞えざる者あり。今東作方に興り、或は貧窮にして農務を失する者あらん。其れ使者を遣わして天下を巡行せしめ、諸州を省み、民の風俗を観、民の疾苦を問い、守宰の治行を察せよ。諸に自ら申す能わざる者あり、皆因りて以て聞えしめよ」と。辛酉、司馬徳宗の 滎陽 けいよう 守将傅洪、使を遣わして叔孫建に詣り、虎牢を以て降らんことを請い、軍を赴かせて接応せんことを求む。徳宗の譙王司馬文思、使王良を遣わして闕に詣り上書し、軍を請いて劉裕を討たんことを請う。詔して 司徒 しと 長孫嵩に諸軍を率いさせて劉裕を邀撃せしめ、畔城に戦い、互いに勝敗あり。帝詔して諸軍を止めしむるも、克わず。

夏四月丁未、榆山の丁零翟蜀、営部を率いて使を遣わし劉裕に通ず。馮跋、人王特児等をして司馬徳宗に通ぜしむ。章武太守、特児等を捕え、囚として京師に送る。丁巳、高柳に幸す。壬戌、車駕宮に還る。五月、汝南の民胡譁等万餘家、相率いて内属す。乙未、司馬徳宗の斉郡太守王懿来降す。車駕西巡し、雲中に至り、遂に河を済い、大漠に田す。

秋七月、白台を城南に作る。高さ二十丈。司馬順之、常山に入り、流言を以て衆を惑わし、天帝の命を受く、年二十五にして人君と為るべしと称し、遂に党を封龍山に聚む。趙郡の大盗趙德、執りて京師に送り、之を斬る。

八月、劉裕、姚泓を滅ぼす。九月癸酉、司馬徳宗の平西将軍・荊州刺史司馬休之、息譙王文思、章武王の子司馬国璠・司馬道賜、輔国将軍温楷、竟陵内史魯軌、荊州治中韓延之・殷約、平西参軍桓謐・桓璲及び桓温の孫道子、勃海の刁雍、陳郡の袁式等数百人来降す。姚泓の 匈奴 きょうど 鎮将姚成都、弟の和都と共に鎮を挙げて来降す。

冬十月己酉、詔して 司徒 しと 長孫嵩等をして京師に還らしめ、叔孫建を遣わして ぎょう を鎮守せしむ。癸丑、 章王夔薨ず。

十有一月、 司徒 しと 長孫嵩等諸軍、楽平に至る。詔して嵩に娥清・周幾等を遣わさせ、叔孫建と共に西山の丁零翟蜀・洛支等を討たしめ、余党を悉く滅ぼして還る。諸州の租税を復す。

十有二月己酉、詔す、河東・河内に姚泓の子弟民間に播越する者あり、能く京師に送致する者あらば之を賞せよと。庚申、西山に田す。癸亥、車駕宮に還る。 てい の豪徐騃奴・斉元子等、部落三万を擁して雍に在り、使を遣わして内附を請う。詔して将軍王洛生及び河内太守楊声等に西行せしめて之に応ぜしむ。壬申、大寧長川に幸す。姚泓の尚書・東武侯姚敞、敞の弟鎮遠将軍僧光、右将軍姚定世、洛より来奔す。

是の年、李暠卒す。子歆立ち、使を遣わして朝貢す。

泰常三年

三年の春正月丁酉朔、帝長川より詔し、護 高車 こうしゃ 中郎将薛繁に高車丁零十二部の大人の衆を率いさせて北略せしめ、弱水に至り、降る者二千餘人、牛馬二萬餘頭を獲る。河東の胡・蜀五千餘家、相率いて内属す。

三月、司馬徳宗、使を遣わして来貢す。庚戌、西宮に幸す。范陽は去年水害あり、其の租税を復す。

夏四月己巳、冀・定・幽三州の徒何を京師に徙す。五月丙午、詔して叔孫建に広阿を鎮守せしむ。壬子、車駕東巡し、濡源及び甘松に至る。征東将軍長孫道生・給事黄門侍郎奚観に精騎二万を率いさせて馮跋を襲わしめ、又 ぎょう 騎将軍延普に命じて幽州より北に遼西に趨りて声勢と為さしめ、帝自ら突門嶺にて之を待つ。道生、龍城に至り、其の民萬餘家を徙して還る。

六月乙酉、車駕西返す。

秋七月戊午、京師に至る。

八月、雁門・河内大いに雨水あり、其の租税を復す。

九月甲寅の日、諸州に詔して民の租を調べ、戸ごとに五十石とし、定州・相州・冀州の三州に積ませた。

冬十月戊辰の日、西苑に宮を築いた。

この年、司馬徳宗が卒し、弟の徳文が位を僭称した。赫連屈丐が皇帝を僭称した。

泰常四年

四年正月壬辰の朔日、車駕は河に臨み、犢渚において大規模な狩猟を行った。癸卯の日、車駕は宮に還った。

三月癸丑の日、蓬臺の北に宮を築いた。司馬徳文の寧朔将軍・平陽太守・匈奴護軍の薛辯および司馬楚之・司馬順明・司馬道恭が、ともに使者を遣わして降伏を請うた。

夏四月庚辰の日、車駕は東廟にて祭祀を行い、遠方の藩国から助祭した者は数百国に及んだ。辛巳の日、南巡し、雁門に行幸した。通過した地に対し、今年の租賦を免除することを賜うた。五月庚寅の朔日、灅水にて漁を見物した。己亥の日、車駕は宮に還った。通過した地に対し、一年分の租賦を免除した。

六月、司馬徳文の建威将軍・河西太守・馮翊の きょう 酋である党道子が使者を遣わして内属した。

秋八月辛未の日、東巡した。使者を遣わして恒岳を祭祀した。甲申の日、車駕は宮に還った。通過した地に対し、一年分の田租を免除した。九月、白登山に宮を築いた。

冬十二月癸亥の日、西巡し、雲中に至り、白道を越え、辱孤山において野馬を北に狩った。黄河に至り、君子津から西に渡り、薛林山において大規模な狩猟を行った。

泰常五年

五年春正月丙戌の朔日、薛林より東に還り、屋竇城に至り、将士を饗応・慰労し、大酺を二日間行い、捕らえた禽獣を分け与えてこれを賜うた。己亥の日、車駕は宮に還った。三月丙戌の日、南陽王の意文が薨じた。

夏四月、河西の屠各の帥である黄大虎、羌酋の不蒙娥らが使者を遣わして内附した。丙寅の日、灅南宮を造営した。

五月乙酉の日、詔して曰く、「宣武皇帝は道を体して一を得、天が自然に授けたものであり、大行(皇帝の死)の大名が未だ盛美を尽くしておらず、洪烈を光揚し、これを永遠に伝えるに足るものではない。今、緯図を開いて初めて尊号を目にし、天と人の意が、煥然として明らかである。『宣』を『道』と改め、更に上って尊 おくりな を道武皇帝とし、霊命の先に啓かれたことと、聖徳の玄妙なる符合を顕彰する。郊廟に告祀し、八表に宣べ示す。」庚戌の日、淮南侯の司馬国璠、池陽侯の司馬道賜らが謀反を企て誅殺された。

六月丙寅の日、翳犢山に行幸した。

秋七月丁酉、西は五原に至る。丁未、雲中の大室に幸し、従者に大酺を賜う。

八月癸亥、車駕宮に還る。閏月甲午、陰平王烈薨ず。

冬十一月、詔して ぎょう 騎将軍延普に乾城を築かしむ。

十二月丁亥、杏城の羌酋狄溫子、三千餘家を率いて内附す。

是の歳、劉裕其の主司馬徳文を廃殺し、僭って自ら皇帝と称し、国号を宋とす。李歆は沮渠蒙遜に滅ぼされ、歆の弟恂は敦煌に自立す。

泰常六年

六年春正月辛未、公陽に行幸す。

二月、民二十戸を調し、戎馬一匹・大牛一頭を輸さしむ。

三月甲子、陽平王熙薨ず。乙亥、六部の民に制し、羊百口満つれば戎馬一匹を輸さしむ。京師の六千人を発して苑を築き、旧苑より起ち、東は白登を包み、周回三十餘里。

夏六月乙酉、北巡し、蟠羊山に至る。

秋七月、西巡し、柞山に狩り、親ら虎を射て、之を獲、遂に河に至る。

八月庚子、犢渚に大獮す。九月庚戌、車駕宮に還る。壬申、劉裕使いを遣わして朝貢す。

冬十月己亥、代に行幸す。

十二月丙申、西に巡狩し、雲中に至る。

是の歳、沮渠蒙遜李恂を滅ぼす。

泰常七年

七年春正月甲辰朔、雲中より西行し、屋竇城に幸す。従者に大酺三日を賜い、蕃渠帥には繒帛をそれぞれ差等ありて賜う。

二月丙戌、車駕宮に還る。従者に布帛をそれぞれ差等ありて賜い、西宮にて大饗す。

三月乙丑、河南王曜薨ず。

夏四月甲戌、皇子燾を泰平王に封ず。燾は あざな を佛釐とす。相國に拜し、大將軍を加う。丕を樂平王とし、車騎大將軍を加う。彌を安定王とし、 えい 大將軍を加う。範を樂安王とし、中軍大將軍を加う。健を永昌王とし、撫軍大將軍を加う。崇を建寧王とし、輔國大將軍を加う。俊を新興王とし、鎮軍大將軍を加う。獻懷長公主の子嵇敬を長樂王に封じ、大司馬・大將軍に拜す。初め、帝は素服寒食散を服し、頻年動發し、萬機に堪えず。五月、詔して皇太子に臨朝聽政せしむ。是の月、泰平王政を攝す。劉裕卒し、子義符僭立す。

秋九月、詔して 司空 しくう 奚斤に節を假し、前鋒諸軍事を 都督 ととく せしめ、 しん 兵大將軍・行揚州刺史と為し、交阯侯周幾を宋兵將軍・交州刺史と為し、安固子公孫表を吳兵將軍・廣州刺史と為し、前鋒として劉義符を伐たしむ。乙巳、灅南宮に幸し、遂に廣寧に如く。己酉、詔して泰平王に百國を率い法駕を以て東苑に田せしむ。車乘服物は皆乘輿の副を以てす。辛亥、平城の外郭を築き、周回三十二里。辛酉、橋山に幸し、使者を遣わし黄帝・唐堯の廟を祠る。因りて東に幸し幽州に至り、耆年を見、其の苦しむ所を問い、爵號を賜う。使者を分遣し州郡を循行せしめ、風俗を觀察せしむ。

冬十月甲戌、車駕宮に還る。過ぎし所の田租の半を復す。奚斤滑臺を伐つも克たず、帝怒り、親ら南討を議し、其の聲援と為らんとす。壬辰、車駕南巡し、天門關より出で、恒嶺を踰ゆ。四方の蕃附の大人各おの其の部を率い従う者五萬餘人。

十有一月、泰平王親ら六軍を統べ出で塞上に鎮す。安定王彌と北新公安同居守す。丙午、司州の殊死已下を曲赦す。劉義符の東郡太守王景度滑臺を棄てて走る。詔して成皐侯元苟兒を兗州刺史と為し、滑臺に鎮せしむ。

十有二月、壽光侯叔孫建等を遣わし衆を率い平原より東渡し、青・兗諸郡を徇下せしむ。劉義符の兗州刺史徐琰河を渡ると聞き、守りを棄てて走る。叔孫建遂に東に入り青州に至る。司馬愛之・秀之先に黨を濟東に聚め、皆衆を率いて來降す。

泰常八年

八年正月丙辰、鄴に行幸し、民俗を存恤す。 司空 しくう 奚斤既に兗 を平げ、還りて虎牢を圍む。劉義符の守將毛德祖拒守して下らざるも、河東蜀の薛定・薛輔五千餘家を率いて内屬す。蠕蠕塞を犯す。

二月戊辰、長川の南に長城を築き、赤城より起り、西は五原に至り、延袤二千餘里、戍 えい を備置す。

三月乙巳、帝鄴南の韓陵山に田し、汲郡に幸し、枋頭に至る。乙卯、靈昌津より濟い、陳留・東郡に幸す。乙丑、河を濟いて北し、西に河内に之き、冶坂津に浮橋を造る。

夏四月丁卯、成臯城に幸し、虎牢を觀る。而して城内水乏しく、綆を懸けて河を汲む。帝令して艦を連ね其上に轒轀を施し、其の汲路を絕ち、又地道を穿ちて以て其の井を奪わしむ。遂に 洛陽 らくよう に至り、石經を觀る。蠻王梅安、渠帥數千人を率いて來たり方物を貢ぐ。閏月己未、還りて河内に幸し、北に太行に登り、高都に幸す。虎牢潰え、劉義符の冠軍將軍・司州刺史・觀陽伯毛德祖、冠軍司馬・ 滎陽 けいよう 太守翟廣、建威將軍竇霸、振武將軍姚勇錯、振威將軍吳寶之、司州別駕姜元興、治中竇溫を獲る。士衆大いに疫し、死者十二三。辛酉、帝還りて しん 陽に至る。從官に班賜し、王公已下厮賤に逮るまで、霑給せざる無し。

五月丙寅、還りて雁門に次す。皇太子留臺の王公を率い句注の北に迎う。庚寅、車駕南巡より至る。

六月己亥、太尉・宜都公の穆観が 薨去 こうきょ した。丙辰、北巡し、参合陂に至り、蟠羊山に遊ぶ。

秋七月、三会屋侯泉に行幸し、詔して皇太子に百官を率いて従わしむ。

八月、馬邑に行幸し、灅源を観る。

九月乙亥、車駕宮に還る。詔して 司空 しくう の奚斤をして京師に還らしめ、昌平侯の娥清・交阯侯の周幾らに枋頭を鎮守せしむ。劉義符の潁川太守李元徳が密かに許昌に入る。詔して周幾にこれを撃たしむ。元徳遁走す。幾、許昌を平定し、軍を枋頭に還す。

冬十月癸卯、西宮を広げ、外垣牆を起こし、周回二十里。

十一月己巳、帝、西宮にて 崩御 ほうぎょ す。時に年三十二。遺詔して 司空 しくう 奚斤の獲たる軍実を以て大臣に賜い、 司徒 しと 長孫嵩より以下、士卒に至るまで各々差有り。

十二月庚子、上諡して明元皇帝と曰い、雲中の金陵に葬り、廟を太宗と称す。

帝は儒生を礼愛し、史伝を好んで覧る。劉向の撰せる『新序』『説苑』が経典の正義に多く欠く所有るを以て、乃ち新集三十篇を撰し、諸々の経史を採り、古義に該洽し、文武を兼ねて資けたり。

【論】

史臣曰く、太祖は英雄にして、北に朔漠を駆り、末年は内に多く釁隙有り。明元は純孝の心を抱き、梟鏡の禍に逢い、権を以て事を済し、危うきにして安きを獲、隆基固本し、内和し外輯む。徳を以て宗と為さる、良に愧じる無し。

校勘記

原本を確認する(ウィキソース):魏書 巻3