隋書

巻六 志第一 礼儀一

唐・虞の時代には、天を祭る類を天礼とし、地を祭る類を地礼とし、宗廟を祭る類を人礼とした。故に書に云う、伯夷に命じて朕が三礼を典とせしむ、と。これをもって天地を弥綸し、陰陽を経緯し、幽賾を弁じて幾深に洞徹し、百神を通じて万事を節するのである。殷は夏に因り、損益あり、傍らに祗訓を垂れて、生霊を勧めた。商辛は無道にして、雅章は湮滅した。周公は乱を救い、斯の文を弘制し、吉礼をもって鬼神を敬い、凶礼をもって邦国を哀しみ、賓礼をもって賓客を親しみ、軍礼をもって不虔を誅し、嘉礼をもって姻好を合わす、これを五礼と謂う。故に曰く「礼経三百、威儀三千、未だ室に入りて戸より由らざる者は無し」と。成王・康王はこれに由り、刑措いて用いられず。

犬戎が(幽王を)しいした後より、周は遷都して弱体化し、礼は失われ楽は微かに、風は凋み俗は敝れた。仲尼は蜡賓に預かって歎じて曰く、「丘に志有り、禹・湯・文・武・成王・周公は未だ礼に謹まざる者は無し」と。ここに礼を緝め楽を興し、時弊を救わんと欲した。君主は顧みず棄て、道は鬱して行われず。故に国を敗り家を喪い人を亡ぼすには、必ず先ず其の礼を廃す。昭公は孟子を娶りて姓を諱み、楊侯は女色を窃みて人を傷つく。故に曰く、婚姻の礼廃れば、則ち淫僻の罪多し、と。群飲して逸し、其の郵を知らず、郷飲酒の礼廃れば、則ち争闘の獄繁し、と。魯侯は五廟の祀を逆らい、漢帝は三年の制を罷む、喪祭の礼廃れば、則ち骨肉の恩薄し、と。諸侯は天子に下堂し、五伯は君を河陽に召す、朝聘の礼廃れば、則ち侵陵の漸起る、と。

秦氏は戦勝の威をもって、九国を併呑し、其の儀礼を尽く収めて咸陽に帰す。ただ其の尊君抑臣を採り、以て時に用うるとなす。退譲は趨歩より起り、忠孝は動止に成るに至っては、華葉靡として挙げず、鴻纖並びに擯く。甚だしきは芻狗の路に棄つるが若く、章甫の越に遊ぶが如し、懦林の道尽き、詩書は煙と為る。

漢の高祖こうそは既に秦の乱を平げ、初めて項羽こううを誅し、元勲を放賞し、朝制に遑い無し。群臣は酒を飲み功を争い、或いは剣を抜いて柱を撃つ、高祖これを患う。叔孫通言うに曰く、「儒者は進取と与にし難く、守成と与にすべし」と。ここに朝儀を起すを請うて許され、猶「吾が能く行うことを度りて之を為せ」と曰う。微かに礼容を習い、皆軌に順うことを知る。若し文・武を祖述し、洙・泗を憲章せんとすれば、則ち良く暇あらず、自ら之を畏るるなり。武帝は典制を興して方術を愛し、鬼神の祭に至っては、流宕して帰らず。世祖(光武帝)は中興し、明皇(明帝)は位を纂ぎ、明堂を祀り、冠冕を襲い、霊台に登り、雲物を望み、其の時制を得て、百姓これを悦ぶ。而して朝廷の憲章は、其の来り已に旧く、或いは升平の運に之を得、或いは凶荒の年に之を失い、而して世載遐邈、風流訛舛す。必ず人情有り、将に礼意を移さんとす、殷・周の以て軌を異にし、秦・漢に於いて轍を改むる所以なり。風俗に輝きを増し、堤防を広く樹つるに至っては、礼の威厳に非ざれば、亦何を以て尚ばんや!譬えば山祇の嵩・岱有るが如く、海若の滄溟有るが如し、涓塵を以て飾りて、伊の敗を貽さず。而して高堂生の伝うる所の士礼も亦之を儀と謂い、人情を弘暢し、行事を粉飾す。西京(前漢)より以降に洎りて、用いて相い裁準し、咸く当世の美を称し、自ずから周旋の節有り。黄初(魏)の朝儀を詳定し、太始(晋)の乖謬を削除するは、則ち宋書の之を言うこと備わりたり。

梁の武帝始めて群儒に命じ、大典を裁成す。吉礼は則ち明山賓、凶礼は則ち厳植之、軍礼は則ち陸璉、賓礼は則ち賀瑒、嘉礼は則ち司馬褧。帝は又た沈約・周捨・徐勉・何佟之等に命じ、咸く参詳に在らしむ。陳の武帝は建業を克平し、多く梁の旧に準じ、仍て尚書左丞江徳藻・員外散騎常侍さんきじょうじ沈洙・博士沈文阿・中書舎人劉師知等に詔し、或いは行事に因り、時に随い取捨せしむ。後斉は則ち左僕射陽休之・度支尚書元修伯・鴻臚卿王晞・国子博士熊安生、周に在りては則ち蘇綽・盧辯・宇文㢸、並びに儀礼に習える者にして、国典を平章し、以て時に用う。高祖(隋文帝)は牛弘・辛彦之等に命じ、梁及び北斉の儀注を採り、以て五礼と為す。

礼に曰く、「万物は天に本づき、人は祖に本づく、以て上帝に配する所以なり」と。秦人は六籍を蕩して煨燼と為し、天を祭る礼は残欠し、儒者は各々其の見る所の物を守りて之が義を為す。一説に云う:天を祭る数は、終歳に九有り、地を祭る数は、一歳に二有り、円丘・方沢は、三年に一行う。若し円丘・方沢の年は、天を祭るに九有り、地を祭るに二有り。若し天円丘の祭を通ぜずば、終歳に八有り。地方沢の祭を通ぜずば、終歳に一有り。此れ則ち鄭学の宗とするところなり。一説に云う:唯だ昊天有りて、五精の帝は無し。而して一天歳に二祭し、壇位唯一なり。円丘の祭は、即ち是れ南郊、南郊の祭は、即ち是れ円丘なり。日南至に、其の上に於いて以て天を祭り、春に又一祭し、以て農事を祈る、之を二祭と謂い、別に天は無し。五時迎気は、皆是れ五行の人帝太皡の属を祭る、天を祭るに非ず。天は皇天と称し、亦た上帝と称し、亦た直ちに帝と称す。五行の人帝も亦た上帝と称すことを得、但だ天と称すことを得ず。故に五時迎気及び文王・武王の明堂に配祭するは、皆人帝を祭る、天を祭るに非ず。此れ則ち王学の宗とするところなり。梁・陳より以降に洎りて隋に至るまで、議者は各々其の師を宗とし、故に郊丘互いに変易有り。

梁の南郊は、円壇を為し、国の南に在り。高さ二丈七尺、上の径十一丈、下の径十八丈。其の外に再び壝有り、四門。常に北郊と間歳す。正月上辛に行事し、一特牛を用い、天皇上帝の神を其の上に祀り、皇考太祖文帝を以て配す。礼は蒼璧制幣を用う。五方上帝・五官之神・太一・天一・日・月・五星・二十八宿・太微・軒轅・文昌・北斗・三台・老人・風伯・司空しくう・雷電・雨師、皆従祀す。其の二十八宿及び雨師等の座に坎有り、五帝も亦之の如く、余は皆平地なり。器は陶匏を以てし、席は槀秸を用う。太史は柴壇を丙地に設く。皇帝は万寿殿に斎し、玉輅に乗り、大駕を備えて以て礼を行ふ。礼畢りて、服を変え通天冠して還る。

北郊は、方壇を北郊に為す。上方十丈、下方十二丈、高さ一丈。四面各々陛有り。其の外に壝を再重と為す。南郊と間歳す。正月上辛に、一特牛を以て、后地の神を其の上に祀り、徳后を以て配す。礼は黄琮制幣を用う。五官之神・先農・五岳・沂山・嶽山・白石山・霍山・無閭山・蔣山・四海・四瀆・松江・会稽江・銭塘江・四望、皆従祀す。太史は埋坎を壬地に設く。

天監三年、左丞の呉操之が啓上して称える、「伝に云う『啓蟄にして郊す』と。郊は立春の後に応ずべきである」と。尚書左丞の何佟之が議す、「今の郊祭は、昔歳の功を報い、而して今年の福を祈るなり。故に歳首の上辛を取る、立春の先後に拘わらず。周は冬至に円丘に於いて、大いに天を報ずるなり。夏正また郊し、以て農事を祈る、故に啓蟄の説有り。晋の太始二年より、円丘・方沢を併せて二郊と同じくす。是れ今の郊禋は、礼兼ねて祈報することを知る、一途に限るべからざるなり」と。帝曰く、「円丘は自ら天を祭る、先農は即ち穀を祈るなり。但だ陽の位に就くが故に、郊に在るなり。冬至の夜、陽気は甲子より起こる、既に昊天を祭る、宜しく冬至に在るべし。祈穀の時は古に依るべく、必ず啓蟄を須いす。一つの郊壇に在りて、分かちて二つの祭と為す」と。是より冬至を祀天と謂い、啓蟄を祈穀と名づく。何佟之又た啓す、「案ずるに鬯は六彝に盛り、画冪を以て覆い、其の文飾を備え、之を宗廟に施す。今南北二郊、儀注に祼有り、既に質を尚ぶに乖き、謂うべし宜しく革変すべし」と。博士の明山賓議し、以て為す、「表記に『天子親耕し、粢盛秬鬯を以て上帝に事う』と、蓋し明堂の祼のみ。郊は祼すべからず」と。帝之に従う。又た有司以て為す、祀竟りて、器席相承けて庫に還す、請う典に依りて之を焼埋せんと。佟之等議す、「礼を案ずるに『祭器弊れば則ち之を埋む』と。今一用して便ち埋む、費して典に乗ず」と。帝曰く、「薦藉は軽き物、陶匏は賤き器、方に庫に還付せんとす、復た穢悪を容すべし。但だ敝れば則ち之を埋む、蓋し四時の祭器を謂うのみ」と。是より有司の議に従い、之を焼埋す。

四年、佟之云う、「周礼に『天を神と曰い、地を祇と曰う』と。今天は神と称せず、地は祇と称せず、天欑題は宜しく皇天座と曰うべく、地欑は宜しく后地座と曰うべし。又た南郊明堂は沈香を用い、本天の質を取り、陽の宜しくする所なり。北郊は上和香を用い、地の人の親しむに於いて、宜しく雑馥を加うべし」と。帝並びに之に従う。

五年、明山賓称す、「伏して制旨を尋ぬるに、周は建子を以て天を祀り、五月に地を祭る。殷は建丑を以て天を祀り、六月に地を祭る。夏は建寅を以て天を祀り、七月に地を祭る。頃代以来、南北二郊、同じく夏正を用う」と。詔して更に詳議せしむ。山賓以て為す、二儀並びに尊く、三朝慶始め、同じく此の日を以て二郊と為すは允当なりと。並びに請う、五帝を郊に迎え、皆始祖を以て配饗せしめんと。及び郊廟福を受くるに、唯だ皇帝再拝し、明らかに上霊の祚を降す、臣下は敢えて同じくせざるなりと。詔して並びに議に依う。

六年、議者以て為す、北郊に岳鎮海瀆の座有り、而して又た四望の座有り、煩重を疑う。儀曹郎の朱异議して曰く、「望は即ちざるの名なり、豈に星海に局し、岳瀆に拘わるを容れんや」と。明山賓曰く、「舜典に云う『山川に望む』と。春秋伝に曰く『江・漢・沮・漳、楚の望なり』と。而るに今北郊に岳鎮海瀆を設け、又た四望を立て、窃かに煩黷を謂う、宜しく省くべし」と。徐勉曰く、「岳瀆は山川の宗なり。望祀の義に至りては、岳瀆に止まらず。若し四望を省かば、義に於いて非なり」と。議久しく決し能わず。十六年に至り、北郊に事有り、帝復た其の議を下す。是に於いて八座奏す、四望・松江・浙江・五湖等の座を省かんと。其の鍾山・白石は、既に土地の所在なり、並びに留めて故の如くせんと。

七年、帝は一献を質と為し、三献は則ち文と為す、天に事うるの道、理応然るべからずとし、詔して詳議せしむ。博士の陸瑋・明山賓、礼官の司馬褧、以て為す「宗祧の三献は、義臣下を兼ね、上天の礼は、主帝王に在り、理を約め義を申べ、一献を以て允当なり」と。是より天地の祭は皆一献と為し、始めて太尉の亜献、光禄の終献を省く。又た太常丞の王僧崇称す、「五祀の位は北郊に在り、円丘は重ねて設くべからず」と。帝曰く、「五行の気は、天地俱に有り、故に宜しく両従すべし」と。僧崇又た曰く、「風伯・雨師は、即ち箕・畢の星なり。而るに今南郊に箕・畢の二星を祀り、復た風師・雨師を祭る、祀典に乖くを恐る」と。帝曰く、「箕・畢は自ら二十八宿の名なり、風師・雨師は自ら箕・畢の星の下隷なり。両祭は嫌わず」と。

十一年、太祝牒す、北郊に止だ一海有り、及び二郊相承けて柒俎を以て牲を盛り、素案を以て玉を承く。又た制す、南北二郊壇下の衆神の座は、悉く白茅を以てすと。詔して詳議せしむ。八座奏す、「礼に云う『天下の物を観て、其の徳に称うべき無し』と、則ち知る郊祭の俎は、理柒すべからざるを。又た白茅を藉と為すは、礼出づる所無し。皇天大帝の坐は既に俎を用う、則ち知る郊に俎の義有るを」と。是に於いて素俎に改め、並びに北郊に四海の座を置く。五帝以下は、悉く蒲席藁薦を用い、並びに素俎を以てす。又た帝曰く、「礼に『月を坎に祭る』と、良に月は陰義なる由りなり。今五帝は天神なり、而して更に坎に居す。又た礼に云う『日を壇に祭り、月を坎に祭る』と、並びに別祭なり、郊に在るに関わらず、故に各々陰陽に従い、而して壇坎を立て得るなり。南郊に兆すは、陽に就くの義、北郊に居するは、陰に就くの義なり。既に陽に就くと云う、義陰と異なり。星月と祭るは、理坎と為さず」と。八座奏して曰く、「五帝の義は、坎に居すべからず。良に斉代の円丘は、小にして且つ峻く、辺に神を安んずる所無きに由る。今丘の形既に大なり、易く安んずるを取り得べし。請う五帝の座は悉く壇上に於いて、外壝の二十八宿及び雨師等の座は、悉く坎と為すを停めん」と。是より南北二郊は、悉く坎の位無し。

十七年、帝は威仰・魄宝俱に天帝なり、壇に於いては則ち尊く、下に於いては則ち卑しとす。且つ南郊の祭る天皇は、其の五帝別に明堂の祀有り、重ねて設くるを煩わさず。又た郊に二十八宿を祀りて十二辰無きは、義に於いて闕然たり。是に於いて南郊始めて五帝の祀を除き、十二辰の座を加え、二十八宿と各々其の方に於いて壇と為す。

陳の制も、亦た間歳を以てす。正月上辛、特牛一を用い、天地を南北二郊に祀る。永定元年、武帝禅を受け、南郊を修め、円壇高さ二丈二尺五寸、上広さ十丈、柴燎して天に告ぐ。明年正月上辛、南郊に事有り、皇考の徳皇帝を以て配し、十二辰の座を除き、五帝の位を加え、其の余は梁の旧に準ず。北郊は壇と為し、高さ一丈五尺、広さ八丈、皇妣の昭后を以て配し、従祀も亦た梁の旧に準ず。及び文帝の天嘉年中、南郊は改めて高祖を以て配し、北郊は徳皇帝を以て天に配す。

太中大夫・大著作を領し、太常卿を摂る許亨が奏上して曰く、「昔、梁の武帝が云う、『天の数は五、地の数は五、五行の気は、天地ともに有す』と。故に南北郊の内、並びに五祀を祭る。臣が周礼を按ずるに、『血をもって社稷五祀を祭る』と。鄭玄が云う、『陰祀は血より起り、気臭を貴ぶなり。五祀は、五官の神なり』と。五神は五行を主り、地に隷し、故に埋沈副辜とともに陰祀と為す。既に煙柴に非ず、陽祭に関わらず。故に何休が云う、『周の爵五等なるは、地に五行有るに法るなり』と。五神の位は北郊に在り、圓丘に重ねて設くるは宜しからず」。制して曰く、「可なり」。亨また奏上して曰く、「梁の武帝の議、箕・畢は自ら二十八宿の名、風師・雨師は自ら箕・畢の下隷、即ち星に非ず。故に郊雩の所、皆雨を祭る。臣が案ずるに周礼大宗伯の職に云う、『槱燎して司中・司命・風師・雨師を祀る』と。鄭衆が云う、『風師は箕なり、雨師は畢なり』と。詩に云う、『月畢に離るれば、滂沱たらしむ』と。此くの如くすれば則ち風伯・雨師は即ち箕・畢の星なり。而るに今、南郊に箕・畢の二星を祀り、復た風伯・雨師を祭るは、祀典に乖くを恐る」。制して曰く、「若し郊に星位を設くれば、任せて即ち之を除け」。亨また奏上して曰く、「梁の儀注に曰く、『一献は質と為し、三献は文と為す。天に事うるの事、故に三献せず』と。臣が案ずるに周礼司樽の言う所、三献は宗祧に施し、而して鄭の注に『一献は羣小祀に施す』と。今、小祀の礼を用いて天神大帝に施すは、梁武の此の義、通ぜざるなり。且つ樽俎の物は質文に依り、拜献の礼は虔敬に主る。今請う、凡そ郊丘の祀事は、宗祧に準じ、三献を以て允当と為す」。制して曰く、「議に依れ」。

廃帝光大年中、また昭后を以て北郊に配す。宣帝即位に及び、南北二郊の卑下なるを以て、更に増広を議す。久しくして決せず。太建十一年に至り、尚書祠部郎王元規議して曰く、

尚書僕射臣繕、左戸尚書臣元饒、左丞臣周確、舍人臣蕭淳、儀曹郎臣沈客卿、元規の議に同じ。詔して遂に用いるに依る。

後主嗣立し、典礼の事に意無く、旧儒碩学に加え、漸く以て凋喪し、朝亡するに至るまで、竟に改作無し。

後斉の制、圓丘方澤は、並びに三年に一祭し、之を禘祀と謂う。圓丘は国南郊に在り。丘下の広輪二百七十尺、上の広輪四十六尺、高さ四十五尺。三成、成の高さ十五尺、上中二級は四面各一陛、下級は方維八陛。周りを三壝を以てし、丘を去ること五十歩。中壝は内壝を去り、外壝は中壝を去ること、各二十五歩。皆八門に通ず。又た外壝の外に大営を為し、輪広三百七十歩。其の営塹の広さ一十二尺、深さ一丈、四面各一門に通ず。又た中壝の外に燎壇を為し、丘の丙地に当つ。広輪三十六尺、高さ三尺、四面各陛有り。方澤は壇を為し国北郊に在り。広輪四十尺、高さ四尺、面各一陛。其の外に三壝を為し、相去る広狭は圓丘と同じ。壝外の大営、広輸三百二十歩。営塹の広さ一十二尺、深さ一丈、四面各一門に通ず。又た壇の壬地、中壝の外に瘞坎を為し、広深一丈二尺。

圓丘には則ち蒼璧束帛を以てし、正月上辛、其の上に昊天上帝を祀り、高祖神武皇帝を以て配す。五精の帝は、中丘に従祀す。面は皆内向す。日月・五星・北斗・二十八宿・司中・司命・司人・司祿・風師・雨師・霊星は下丘に在り、衆星の位と為し、内壝の中に遷す。合わせて蒼牲九を用う。夕牲の旦、太尉廟に告げ、幣を神武廟に陳べ訖り、両楹の間に埋む。皇帝初献、太尉亜献、光禄終献。司徒しとは五帝を献じ、司空は日月・五星・二十八宿を献じ、太常丞已下は衆星を薦む。方澤には則ち黄琮束帛を以てし、夏至の日、其の上に崐崙皇地祇を禘し、武明皇后を以て配す。其の神州の神・社稷・岱岳・沂鎮・会稽鎮・云云山・亭亭山・蒙山・羽山・嶧山・崧岳・霍岳・衡鎮・荊山・内方山・大別山・敷浅原山・桐柏山・陪尾山・華岳・太岳鎮・積石山・龍門山・江山・岐山・荊山・嶓冢山・壷口山・雷首山・底柱山・析城山・王屋山・西傾朱圉山・鳥鼠同穴山・熊耳山・敦物山・蔡蒙山・梁山・岷山・武功山・太白山・恒岳・医無閭山鎮・陰山・白登山・碣石山・太行山・狼山・封龍山・漳山・宣務山・閼山・方山・苟山・狭龍山・淮水・東海・泗水・沂水・淄水・濰水・江水・南海・漢水・穀水・洛水・伊水・漾水・沔水・河水・西海・黒水・澇水・渭水・涇水・酆水・済水・北海・松水・京水・桑乾水・漳水・呼沲水・えい水・洹水・延水、並びに従祀す。其の神州の位は青陛の北甲寅の地に在り、社の位は赤陛の西未の地に在り、稷の位は白陛の南庚の地に在り、自余は並びに内壝の内に在り、内向し、各其の方の如し。合わせて牲十二を用い、儀は圓丘と同じ。其の後諸儒礼を定め、圓丘は冬至に改むと云う。

其の南北郊は則ち歳一祀し、皆正月上辛を以てす。南郊は壇を国南に為し、広輪三十六尺、高さ九尺、四面各一陛。三壝を為し、内壝は壇を去ること二十五歩、中壝・外壝は相去ること内壝の如し。四面各一門に通ず。又た外壝の外に大営を為し、広輪二百七十歩。営塹の広さ一丈、深さ八尺、四面各一門。又た中壝の外丙地に燎壇を為し、広輪二十七尺、高さ一尺八寸、四面各一陛。壇に感帝霊威仰を祀り、高祖神武皇帝を以て配す。礼は四圭有邸を用い、幣は各方色の如し。其の上帝及び配帝は、各騂特牲一を用い、儀燎は圓丘と同じ。其の北郊は則ち壇を南郊壇の如く為し、瘞坎を方澤坎の如く為し、其の上に神州神を祀り、武明皇后を以て配す。礼は両圭有邸を用い、各黄牲一を用い、儀瘞は北郊と同じ。

後周は周の制度を模範とし、祭祀の様式は多く儀礼に依拠した。司量は壇を築く制度を掌り、円丘は三重で、一重ごとの高さは一丈二尺、深さは二丈である。上部の直径は六丈、十二の階段があり、各段に十二の踏み石がある。国都の南七里の郊外に位置する。円形の外囲いの直径は三百歩、内囲いはその半分である。方丘は一重で、下部の高さは一丈、直径六丈八尺、上部の高さは五尺、辺の長さ四丈、八面あり、各面に一つの階段があり、階段は十段で、一段の高さは一尺である。方丘は国都の北六里の郊外にある。丘は一重で、八面あり、下部の高さは一丈、辺の長さ六丈八尺、上部の高さは五尺、辺の長さ四丈である。各面に一つの階段があり、一段の高さは一尺である。その囲いは八面で、直径百二十歩、内囲いはその半分である。南郊では国都の南五里に方壇を築く。その高さは一丈二尺、広さは四丈である。その囲いは辺の長さ百二十歩、内囲いはその半分である。神州の壇は、高さ一丈、辺の長さ四丈で、北郊の方丘の右側にある。その囲いは方丘と同じである。

円丘及び南郊の祭祀は、ともに正月の上辛の日に行う。円丘では、その先祖である炎帝神農氏を昊天上帝に配祀して壇上に祀る。五方上帝、日月、内官、中官、外官、衆星は、みな従祀する。皇帝は蒼輅に乗り、玄冕を戴き、大駕の行列を整えて行幸する。祭祀に参列する者は皆、蒼色の服を着る。南郊では、始祖の献侯莫那を感生帝である霊威仰に配祀して壇上に祀る。北郊の方丘では、神農を后地の祇に配祀する。神州では献侯莫那を配祀する。

犠牲に用いる制度は、昊天上帝を祀り、皇地祇及び五帝、日月、五星、十二辰、四望、五官を祭る時は、それぞれの方角の色の毛の犠牲を用いる。宗廟では黄色、社稷では黒色を用い、散祭祀には純色のものを用い、表狢磔禳には雑色のものを用いる。

高祖(文帝)が天命を受けると、制度を一新しようとし、国子祭酒の辛彥之に命じて祀典を議定させた。国都の南、太陽門外の道の東二里に円丘を築いた。その丘は四重で、各重の高さは八尺一寸である。下の重の広さは二十丈、第二重の広さは十五丈、第三重の広さは十丈、第四重の広さは五丈である。二年ごとの冬至の日に、その上で昊天上帝を祀り、太祖武元皇帝を配祀する。五方上帝、日月、五星、内官四十二座、次官百三十六座、外官百十一座、衆星三百六十座は、みな従祀する。上帝と日月は丘の第二等に、北斗五星、十二辰、河漢、内官は丘の第三等に、二十八宿、中官は丘の第四等に、外官は内囲いの内側に、衆星は内囲いの外側に祀る。犠牲は、上帝と配帝には蒼色の子牛二頭を、五帝と日月にはそれぞれの方色の子牛一頭を、五星以下には羊と豚を各九頭用いる。

宮城の北十四里に方丘を築いた。その丘は二重で、各重の高さは五尺、下の重の辺の長さは十丈、上の重の辺の長さは五丈である。夏至の日に、その上で皇地祇を祭り、太祖を配祀する。神州、迎州、冀州、戎州、拾州、柱州、営州、咸州、陽州の九州の山、海、川、林、沢、丘陵、墳衍、原隰は、みな従祀する。地祇及び配帝は壇上に祀り、黄色の子牛二頭を用いる。神州の九州の神座は第二等の八つの階段の間に置く:神州は東南、迎州は南、冀州と戎州は西南、拾州は西、柱州は西北、営州は北、咸州は東北、陽州は東にそれぞれ祀り、それぞれの方色の子牛一頭を用いる。九州の山海以下は、それぞれの方角に従って八つの階段の間に祀る。冀州の山林川沢、丘陵墳衍は、壇の南、やや西に祀り、羊と豚を各九頭加える。南郊では国都の南、太陽門外の道の西一里に壇を築く。宮城から十里の距離である。壇の高さは七尺、広さは四丈である。孟春(正月)の上辛の日に、その上で感生帝である赤熛怒を祠り、太祖武元皇帝を配祀する。その礼は四圭有邸を用い、犠牲には赤色の子牛二頭を用いる。北郊では孟冬(十月)に神州の神を祭り、太祖武元皇帝を配祀する。犠牲には子牛二頭を用いる。

凡そ大祀には、斎戒する官は皆その日の朝に尚書省に集まり、誓戒を受ける。散斎は四日、致斎は三日行う。祭祀の前日、昼の漏刻で五刻の時に祭祀の場所に到着し、沐浴し、明衣を着け、皆、喪服や哭泣を見聞きしてはならない。昊天上帝、五方上帝、日月、皇地祇、神州社稷、宗廟などは大祀とし、星辰、五祀、四望などは中祀とし、司中、司命、風師、雨師及び諸星、諸山川などは小祀とする。大祀の犠牲は清めの厩で九十日間飼育し、中祀は三十日、小祀は十日間飼育する。犠牲の方色を揃えるのが難しい場合は、純色のもので代用することを許す。祈願のための犠牲は飼育しない。祭祀の犠牲は、打撲してはならない。死んだ場合は埋める。

初め、帝(文帝)は周より禅譲を受けた後、民衆が心服していないことを恐れ、多く符瑞を説いてこれを誇示した。作り出して献上する者も、数え切れないほどであった。仁寿元年冬至に南郊で祭祀を行い、昊天上帝及び五方天帝の神位を設け、ともに壇上に祀り、封禅の礼のようであった。祝板には次のように記した。

大業元年、孟春に感生帝を祀り、孟冬に神州を祀る際、高祖文帝を配祀するように改めた。その他はすべて旧礼を用いた。十年、冬至に円丘で祭祀を行ったが、帝は斎宮で斎戒しなかった。翌朝、法駕を整え、到着するとすぐに礼を行った。この日は大風が吹き、帝は独りで上帝に献じ、三公が分けて五帝に献じた。礼が終わると、御馬を疾駆させて帰還した。

明堂は国都の南にある。梁の初め、宋・斉の制度に依拠し、その祭祀の方法は依然として斉の制度に従った。礼に通じない点があれば、武帝はさらに学者と議論した。旧斉の儀礼では、郊祀に帝は皆、袞冕を着用した。天監七年に至り、初めて大裘を作ったが、明堂の儀注には依然として袞服と記されていた。十年、儀曹郎の朱异が「礼では大裘に冕を戴き、昊天上帝を祭る。五帝も同様である。これは天神が高遠であるため、誠実質素であるべきという道理による。今、五帝を広く祭るのに、文飾を容れる道理はない」と考え、そこで大裘に改めた。朱异はまた「斉の儀礼では初献に樽彝を用いるが、明堂は質素を貴ぶので、三献すべきではない。また象樽を用いるべきではない。礼に『朝踐には太樽を用いる』とある。鄭玄は『太樽は瓦である』という。記にも『有虞氏は瓦樽を用いた』とある。これらは皆、宗廟で用いるものであり、なお質素である。まして明堂においては、礼として象(飾り)を容れるべきではない。今、瓦樽に改めることを請う。文と質の調和に合致するであろう」と考えた。また「宗廟は文飾を貴ぶので、多くの種類の珍味を供えるが、天の道理は尊遠であるから、簡約であるべきである。今の儀注で薦めるものは、宗廟と異ならない。道理から事実を考えれば、妥当でないと思われる。今後、明堂の肴膳は二郊の基準に準ずることを請う。ただし、帝という名称は本来、生育を司り、一年を成す功績は実に顕著である。昊天のように、言葉や形象を絶する道理とは異なり、同じく郊祀とはいえ、また少し異なるべきである。もし水土の産物、蔬果の類は、なお薦めるに相応しく、梨・棗・橘・栗の四種の果物と、薑・蒲・葵・韭の四種の漬物、粳・稻・黍・粱の四種の米のみを用いる。これ以外で、郊祀にないものは、すべて省除することを請う」と言った。

初めに、博士の明山賓が儀注を制定し、明堂において五帝を祀る際、行禮は先ず赤帝より始めるとした。朱异はまた、「明堂は既に五帝を汎祭するものであるから、先後を設けることは容れられず、東階より昇るならば、宜しく先ず春帝(青帝)を祀るべきである。改めて青帝より始めることを請う」と考えた。また、「明堂の籩豆等の器は、皆彫飾を施している。尋ねるに郊祀は質素を貴び、陶匏に改めて用い、宗廟は文飾を貴ぶから、誠に彫俎を用いるべきである。明堂の禮は、既に郊祀に比べて文飾を重んじるものであるから、陶匏を用いることは容れられず、宗廟に比べて質素であるから、また彫俎を用いるべきではない。二つの道を斟酌し、その中道を存する必要があり、純漆を用いるよう改めることを請う」と考えた。朱异はまた、「旧儀では、明堂において五帝を祀る際、先ず鬱鬯を酌み、地に灌いで神を求め、及び初献には清酒を用い、次に酃、終わりに醁を用いる。禮が終わると、太祝が俎上の黍肉を取り、御前に当たってこれを授ける。郊祀の儀に依り、清酒一献のみに止めることを請う。且つ五帝は天神であるから、地に求めることはできず、二郊の祭りには、黍肉の禮は無い。灌及び授俎の法を停めることを併せて請う」と考えた。また、「旧来の明堂は皆太牢を用いる。記を案ずるに『郊祀には特牲を用いる』とあり、また『天地の牛は、角が繭栗の如し』とある。五帝は既に天神と称するから、理として三牲の祭りは無い。而して毛詩の我將篇には、文王を明堂に祀るとして『維れ羊維れ牛』の説がある。良く周が二代を監み、その義は文飾を貴び、明堂は郊祀に比べて極めて質素ではなかったから、特に三牲を用い、ただ一代の制に止まったのである。今、百王を斟酌し、義は通典に存するから、蔬果の薦は周禮に符するとはいえ、牲牢の用は夏・殷に遵うべきである。今より明堂は特牛のみを用いることを請う。これは質と文の中に合し、また誠を貴ぶ義を見るものである」と考えた。帝は皆これに従った。

先に、帝は改作を欲し、乃ち制旨を下し、群臣とその義を切磋した。制に曰く、「明堂は大戴禮に準じる:『九室八牖、三十六戸。茅を以て屋を蓋い、上円下方』。鄭玄は援神契に拠り、亦『上円下方』と云い、又『八窗四達』と云う。明堂の義は、本来五帝神を祭るものであり、九室の数はその理が見られない。若し五堂と為すならば、五帝の数に当たるとはいえ、南に向かえば則ち叶光紀(黒帝)に背き、北に向かえば則ち赤熛怒(赤帝)に背き、東に向かい西に向かうも、また此の如くであり、事に於いて甚だ安んずべからず。且つ明堂の五帝を祭ることは、則ち総義であり、郊に於ける五帝を祭ることは、則ち別義である。宗祀に配する所は、復た室を有すべきであり、若し専ら一室に配するならば、則ち義は五に配するに非ず、若し皆五に配するならば、則ち便ち五位を成す。理を以て言えば、明堂は本来室を有さない」。朱异は、「月令に『天子明堂の左个、右个に居す』とある。聽朔の禮は、既に明堂に在り、今若し室が無ければ、則ち義に於いて欠けることとなる」と考えた。制に曰く、「若し鄭玄の義の如くならば、聽朔は必ず明堂に在るべきであり、此に於いては則ち人神混淆し、莊敬の道が廃れる。春秋に云う、『二大國の間に介居す』と。此の明堂左右个と云うは、祀る所の五帝堂の南に、又小室有り、亦明堂と号し、三処に分かれて聽朔するを謂う。既に三処あれば、則ち左右の義有り。営域の内、明堂の外に在れば、則ち个の名有り、故に明堂左右个と曰うのである。此を以て言えば、聽朔の処は、自ずから五帝堂の外に在り、人神に別有り、少しも相干えることは無い」。その議は是非定まらず、初めは未だ改めなかった。十二年、太常丞虞㬭が復た周禮の明堂九尺の筵を引き、高下修廣の数と為し、堂は一筵を崇くし、故に階は九尺高しと為した。漢家の制度は、猶此の禮を遵い、故に張衡が云う、「堂を筵を以て度る」と。鄭玄は廟寢三制既に同じく、俱に九尺を以て度と為すべきと為した。制に曰く、「可なり」。是に於いて宋の太極殿を毀ち、その材を以て明堂十二間を構え、基準は太廟に準じた。中央六間に六座を安んじ、悉く南向と為す。東より第一青帝、第二赤帝、第三黄帝、第四白帝、第五黒帝。配帝は総べて五帝に配享し、阼階の東上に在り、西向。大殿の後を小殿五間と為し、五佐室と為した。

陳の制では、明堂殿屋は十二間。中央六間は、齊の制に依り、六座を安んず。四方帝は各其の方に依り、黄帝は坤維に居し、而して配饗の坐は梁の法に依る。武帝の時は、德帝を以て配す。文帝の時は、武帝を以て配す。廢帝已後は、文帝を以て配す。牲は太牢を用い、粢盛は六飯、鈃羹果蔬備えて薦む。

後齊は周官考工記を採りて五室と為し、周は漢の三輔黃図を採りて九室と為し、各其の制を存するも、竟に立たず。

高祖(隋の文帝)は陳を平らげ、杞梓を収羅し、郊丘宗社の典禮は粗く備わるも、唯明堂は未だ立たず。開皇十三年、詔を以てこれを議せしむ。禮部尚書牛弘、國子祭酒辛彥之等が議を定む。事は弘傳に在り。後に檢校將作大匠事の宇文愷が、月令の文に依り、明堂の木樣を造り、重檐複廟、五房四達、丈尺規矩、皆準憑有り、以て献上す。高祖は之を異とし、有司に命じて郭内の安業里に規兆を為さしむ。方に崇建せんと欲し、又詳定を命ず。諸儒爭論し、之を能く決する者無し。弘等又経史の正文を条りて重ねて奏す。時に非議既に多く、久しくして定まらず、又議して之を罷む。大業中に及び、愷又明堂議及び樣を造りて之を奏す。煬帝は其の議を下すも、但だ霍山に於いて木を採ることを令するのみにて、而して都を建て役を興すに及び、其の制遂に寝す。隋代終わるまで、五方上帝を祀るには、明堂に止まり、恒に季秋に雩壇上に在りて祀る。其の用いる幣は各其の方に於いてす。人帝は各天帝の左に在り。太祖武元皇帝は太昊の南に在り、西向。五官は庭に在り、亦各其の方に依る。牲は犢十二を用う。皇帝、太尉、司農は青帝及び太祖に於いて三献の禮を行ふ。自餘の有司は助奠す。五官を堂下に祀り、一献の禮を行ふ。燎有り。其の省牲進熟は、南郊の儀の如し。