唐・虞の時代には、天を祭る類を天礼とし、地を祭る類を地礼とし、宗廟を祭る類を人礼とした。故に書に云う、伯夷に命じて朕が三礼を典とせしむ、と。これをもって天地を弥綸し、陰陽を経緯し、幽賾を弁じて幾深に洞徹し、百神を通じて万事を節するのである。殷は夏に因り、損益あり、傍らに祗訓を垂れて、生霊を勧めた。商辛は無道にして、雅章は湮滅した。周公は乱を救い、斯の文を弘制し、吉礼をもって鬼神を敬い、凶礼をもって邦国を哀しみ、賓礼をもって賓客を親しみ、軍礼をもって不虔を誅し、嘉礼をもって姻好を合わす、これを五礼と謂う。故に曰く「礼経三百、威儀三千、未だ室に入りて戸より由らざる者は無し」と。成王・康王はこれに由り、刑措いて用いられず。
秦氏は戦勝の威をもって、九国を併呑し、其の儀礼を尽く収めて咸陽に帰す。ただ其の尊君抑臣を採り、以て時に用うるとなす。退譲は趨歩より起り、忠孝は動止に成るに至っては、華葉靡として挙げず、鴻纖並びに擯く。甚だしきは芻狗の路に棄つるが若く、章甫の越に遊ぶが如し、懦林の道尽き、詩書は煙と為る。
漢の高祖は既に秦の乱を平げ、初めて項羽を誅し、元勲を放賞し、朝制に遑い無し。群臣は酒を飲み功を争い、或いは剣を抜いて柱を撃つ、高祖これを患う。叔孫通言うに曰く、「儒者は進取と与にし難く、守成と与にすべし」と。ここに朝儀を起すを請うて許され、猶「吾が能く行うことを度りて之を為せ」と曰う。微かに礼容を習い、皆軌に順うことを知る。若し文・武を祖述し、洙・泗を憲章せんとすれば、則ち良く暇あらず、自ら之を畏るるなり。武帝は典制を興して方術を愛し、鬼神の祭に至っては、流宕して帰らず。世祖(光武帝)は中興し、明皇(明帝)は位を纂ぎ、明堂を祀り、冠冕を襲い、霊台に登り、雲物を望み、其の時制を得て、百姓これを悦ぶ。而して朝廷の憲章は、其の来り已に旧く、或いは升平の運に之を得、或いは凶荒の年に之を失い、而して世載遐邈、風流訛舛す。必ず人情有り、将に礼意を移さんとす、殷・周の以て軌を異にし、秦・漢に於いて轍を改むる所以なり。風俗に輝きを増し、堤防を広く樹つるに至っては、礼の威厳に非ざれば、亦何を以て尚ばんや!譬えば山祇の嵩・岱有るが如く、海若の滄溟有るが如し、涓塵を以て飾りて、伊の敗を貽さず。而して高堂生の伝うる所の士礼も亦之を儀と謂い、人情を弘暢し、行事を粉飾す。西京(前漢)より以降に洎りて、用いて相い裁準し、咸く当世の美を称し、自ずから周旋の節有り。黄初(魏)の朝儀を詳定し、太始(晋)の乖謬を削除するは、則ち宋書の之を言うこと備わりたり。
梁の武帝始めて群儒に命じ、大典を裁成す。吉礼は則ち明山賓、凶礼は則ち厳植之、軍礼は則ち陸璉、賓礼は則ち賀瑒、嘉礼は則ち司馬褧。帝は又た沈約・周捨・徐勉・何佟之等に命じ、咸く参詳に在らしむ。陳の武帝は建業を克平し、多く梁の旧に準じ、仍て尚書左丞江徳藻・員外散騎常侍沈洙・博士沈文阿・中書舎人劉師知等に詔し、或いは行事に因り、時に随い取捨せしむ。後斉は則ち左僕射陽休之・度支尚書元修伯・鴻臚卿王晞・国子博士熊安生、周に在りては則ち蘇綽・盧辯・宇文㢸、並びに儀礼に習える者にして、国典を平章し、以て時に用う。高祖(隋文帝)は牛弘・辛彦之等に命じ、梁及び北斉の儀注を採り、以て五礼と為す。
梁の南郊は、円壇を為し、国の南に在り。高さ二丈七尺、上の径十一丈、下の径十八丈。其の外に再び壝有り、四門。常に北郊と間歳す。正月上辛に行事し、一特牛を用い、天皇上帝の神を其の上に祀り、皇考太祖文帝を以て配す。礼は蒼璧制幣を用う。五方上帝・五官之神・太一・天一・日・月・五星・二十八宿・太微・軒轅・文昌・北斗・三台・老人・風伯・司空・雷電・雨師、皆従祀す。其の二十八宿及び雨師等の座に坎有り、五帝も亦之の如く、余は皆平地なり。器は陶匏を以てし、席は槀秸を用う。太史は柴壇を丙地に設く。皇帝は万寿殿に斎し、玉輅に乗り、大駕を備えて以て礼を行ふ。礼畢りて、服を変え通天冠して還る。
北郊は、方壇を北郊に為す。上方十丈、下方十二丈、高さ一丈。四面各々陛有り。其の外に壝を再重と為す。南郊と間歳す。正月上辛に、一特牛を以て、后地の神を其の上に祀り、徳后を以て配す。礼は黄琮制幣を用う。五官之神・先農・五岳・沂山・嶽山・白石山・霍山・無閭山・蔣山・四海・四瀆・松江・会稽江・銭塘江・四望、皆従祀す。太史は埋坎を壬地に設く。
四年、佟之云う、「周礼に『天を神と曰い、地を祇と曰う』と。今天は神と称せず、地は祇と称せず、天欑題は宜しく皇天座と曰うべく、地欑は宜しく后地座と曰うべし。又た南郊明堂は沈香を用い、本天の質を取り、陽の宜しくする所なり。北郊は上和香を用い、地の人の親しむに於いて、宜しく雑馥を加うべし」と。帝並びに之に従う。
五年、明山賓称す、「伏して制旨を尋ぬるに、周は建子を以て天を祀り、五月に地を祭る。殷は建丑を以て天を祀り、六月に地を祭る。夏は建寅を以て天を祀り、七月に地を祭る。頃代以来、南北二郊、同じく夏正を用う」と。詔して更に詳議せしむ。山賓以て為す、二儀並びに尊く、三朝慶始め、同じく此の日を以て二郊と為すは允当なりと。並びに請う、五帝を郊に迎え、皆始祖を以て配饗せしめんと。及び郊廟福を受くるに、唯だ皇帝再拝し、明らかに上霊の祚を降す、臣下は敢えて同じくせざるなりと。詔して並びに議に依う。
六年、議者以て為す、北郊に岳鎮海瀆の座有り、而して又た四望の座有り、煩重を疑う。儀曹郎の朱异議して曰く、「望は即ちざるの名なり、豈に星海に局し、岳瀆に拘わるを容れんや」と。明山賓曰く、「舜典に云う『山川に望む』と。春秋伝に曰く『江・漢・沮・漳、楚の望なり』と。而るに今北郊に岳鎮海瀆を設け、又た四望を立て、窃かに煩黷を謂う、宜しく省くべし」と。徐勉曰く、「岳瀆は山川の宗なり。望祀の義に至りては、岳瀆に止まらず。若し四望を省かば、義に於いて非なり」と。議久しく決し能わず。十六年に至り、北郊に事有り、帝復た其の議を下す。是に於いて八座奏す、四望・松江・浙江・五湖等の座を省かんと。其の鍾山・白石は、既に土地の所在なり、並びに留めて故の如くせんと。
七年、帝は一献を質と為し、三献は則ち文と為す、天に事うるの道、理応然るべからずとし、詔して詳議せしむ。博士の陸瑋・明山賓、礼官の司馬褧、以て為す「宗祧の三献は、義臣下を兼ね、上天の礼は、主帝王に在り、理を約め義を申べ、一献を以て允当なり」と。是より天地の祭は皆一献と為し、始めて太尉の亜献、光禄の終献を省く。又た太常丞の王僧崇称す、「五祀の位は北郊に在り、円丘は重ねて設くべからず」と。帝曰く、「五行の気は、天地俱に有り、故に宜しく両従すべし」と。僧崇又た曰く、「風伯・雨師は、即ち箕・畢の星なり。而るに今南郊に箕・畢の二星を祀り、復た風師・雨師を祭る、祀典に乖くを恐る」と。帝曰く、「箕・畢は自ら二十八宿の名なり、風師・雨師は自ら箕・畢の星の下隷なり。両祭は嫌わず」と。
十一年、太祝牒す、北郊に止だ一海有り、及び二郊相承けて柒俎を以て牲を盛り、素案を以て玉を承く。又た制す、南北二郊壇下の衆神の座は、悉く白茅を以てすと。詔して詳議せしむ。八座奏す、「礼に云う『天下の物を観て、其の徳に称うべき無し』と、則ち知る郊祭の俎は、理柒すべからざるを。又た白茅を藉と為すは、礼出づる所無し。皇天大帝の坐は既に俎を用う、則ち知る郊に俎の義有るを」と。是に於いて素俎に改め、並びに北郊に四海の座を置く。五帝以下は、悉く蒲席藁薦を用い、並びに素俎を以てす。又た帝曰く、「礼に『月を坎に祭る』と、良に月は陰義なる由りなり。今五帝は天神なり、而して更に坎に居す。又た礼に云う『日を壇に祭り、月を坎に祭る』と、並びに別祭なり、郊に在るに関わらず、故に各々陰陽に従い、而して壇坎を立て得るなり。南郊に兆すは、陽に就くの義、北郊に居するは、陰に就くの義なり。既に陽に就くと云う、義陰と異なり。星月と祭るは、理坎と為さず」と。八座奏して曰く、「五帝の義は、坎に居すべからず。良に斉代の円丘は、小にして且つ峻く、辺に神を安んずる所無きに由る。今丘の形既に大なり、易く安んずるを取り得べし。請う五帝の座は悉く壇上に於いて、外壝の二十八宿及び雨師等の座は、悉く坎と為すを停めん」と。是より南北二郊は、悉く坎の位無し。
十七年、帝は威仰・魄宝俱に天帝なり、壇に於いては則ち尊く、下に於いては則ち卑しとす。且つ南郊の祭る天皇は、其の五帝別に明堂の祀有り、重ねて設くるを煩わさず。又た郊に二十八宿を祀りて十二辰無きは、義に於いて闕然たり。是に於いて南郊始めて五帝の祀を除き、十二辰の座を加え、二十八宿と各々其の方に於いて壇と為す。
太中大夫・大著作を領し、太常卿を摂る許亨が奏上して曰く、「昔、梁の武帝が云う、『天の数は五、地の数は五、五行の気は、天地ともに有す』と。故に南北郊の内、並びに五祀を祭る。臣が周礼を按ずるに、『血をもって社稷五祀を祭る』と。鄭玄が云う、『陰祀は血より起り、気臭を貴ぶなり。五祀は、五官の神なり』と。五神は五行を主り、地に隷し、故に埋沈副辜とともに陰祀と為す。既に煙柴に非ず、陽祭に関わらず。故に何休が云う、『周の爵五等なるは、地に五行有るに法るなり』と。五神の位は北郊に在り、圓丘に重ねて設くるは宜しからず」。制して曰く、「可なり」。亨また奏上して曰く、「梁の武帝の議、箕・畢は自ら二十八宿の名、風師・雨師は自ら箕・畢の下隷、即ち星に非ず。故に郊雩の所、皆雨を祭る。臣が案ずるに周礼大宗伯の職に云う、『槱燎して司中・司命・風師・雨師を祀る』と。鄭衆が云う、『風師は箕なり、雨師は畢なり』と。詩に云う、『月畢に離るれば、滂沱たらしむ』と。此くの如くすれば則ち風伯・雨師は即ち箕・畢の星なり。而るに今、南郊に箕・畢の二星を祀り、復た風伯・雨師を祭るは、祀典に乖くを恐る」。制して曰く、「若し郊に星位を設くれば、任せて即ち之を除け」。亨また奏上して曰く、「梁の儀注に曰く、『一献は質と為し、三献は文と為す。天に事うるの事、故に三献せず』と。臣が案ずるに周礼司樽の言う所、三献は宗祧に施し、而して鄭の注に『一献は羣小祀に施す』と。今、小祀の礼を用いて天神大帝に施すは、梁武の此の義、通ぜざるなり。且つ樽俎の物は質文に依り、拜献の礼は虔敬に主る。今請う、凡そ郊丘の祀事は、宗祧に準じ、三献を以て允当と為す」。制して曰く、「議に依れ」。
廃帝光大年中、また昭后を以て北郊に配す。宣帝即位に及び、南北二郊の卑下なるを以て、更に増広を議す。久しくして決せず。太建十一年に至り、尚書祠部郎王元規議して曰く、
尚書僕射臣繕、左戸尚書臣元饒、左丞臣周確、舍人臣蕭淳、儀曹郎臣沈客卿、元規の議に同じ。詔して遂に用いるに依る。
後主嗣立し、典礼の事に意無く、旧儒碩学に加え、漸く以て凋喪し、朝亡するに至るまで、竟に改作無し。
圓丘には則ち蒼璧束帛を以てし、正月上辛、其の上に昊天上帝を祀り、高祖神武皇帝を以て配す。五精の帝は、中丘に従祀す。面は皆内向す。日月・五星・北斗・二十八宿・司中・司命・司人・司祿・風師・雨師・霊星は下丘に在り、衆星の位と為し、内壝の中に遷す。合わせて蒼牲九を用う。夕牲の旦、太尉廟に告げ、幣を神武廟に陳べ訖り、両楹の間に埋む。皇帝初献、太尉亜献、光禄終献。司徒は五帝を献じ、司空は日月・五星・二十八宿を献じ、太常丞已下は衆星を薦む。方澤には則ち黄琮束帛を以てし、夏至の日、其の上に崐崙皇地祇を禘し、武明皇后を以て配す。其の神州の神・社稷・岱岳・沂鎮・会稽鎮・云云山・亭亭山・蒙山・羽山・嶧山・崧岳・霍岳・衡鎮・荊山・内方山・大別山・敷浅原山・桐柏山・陪尾山・華岳・太岳鎮・積石山・龍門山・江山・岐山・荊山・嶓冢山・壷口山・雷首山・底柱山・析城山・王屋山・西傾朱圉山・鳥鼠同穴山・熊耳山・敦物山・蔡蒙山・梁山・岷山・武功山・太白山・恒岳・医無閭山鎮・陰山・白登山・碣石山・太行山・狼山・封龍山・漳山・宣務山・閼山・方山・苟山・狭龍山・淮水・東海・泗水・沂水・淄水・濰水・江水・南海・漢水・穀水・洛水・伊水・漾水・沔水・河水・西海・黒水・澇水・渭水・涇水・酆水・済水・北海・松水・京水・桑乾水・漳水・呼沲水・衞水・洹水・延水、並びに従祀す。其の神州の位は青陛の北甲寅の地に在り、社の位は赤陛の西未の地に在り、稷の位は白陛の南庚の地に在り、自余は並びに内壝の内に在り、内向し、各其の方の如し。合わせて牲十二を用い、儀は圓丘と同じ。其の後諸儒礼を定め、圓丘は冬至に改むと云う。
其の南北郊は則ち歳一祀し、皆正月上辛を以てす。南郊は壇を国南に為し、広輪三十六尺、高さ九尺、四面各一陛。三壝を為し、内壝は壇を去ること二十五歩、中壝・外壝は相去ること内壝の如し。四面各一門に通ず。又た外壝の外に大営を為し、広輪二百七十歩。営塹の広さ一丈、深さ八尺、四面各一門。又た中壝の外丙地に燎壇を為し、広輪二十七尺、高さ一尺八寸、四面各一陛。壇に感帝霊威仰を祀り、高祖神武皇帝を以て配す。礼は四圭有邸を用い、幣は各方色の如し。其の上帝及び配帝は、各騂特牲一を用い、儀燎は圓丘と同じ。其の北郊は則ち壇を南郊壇の如く為し、瘞坎を方澤坎の如く為し、其の上に神州神を祀り、武明皇后を以て配す。礼は両圭有邸を用い、各黄牲一を用い、儀瘞は北郊と同じ。
後周は周の制度を模範とし、祭祀の様式は多く儀礼に依拠した。司量は壇を築く制度を掌り、円丘は三重で、一重ごとの高さは一丈二尺、深さは二丈である。上部の直径は六丈、十二の階段があり、各段に十二の踏み石がある。国都の南七里の郊外に位置する。円形の外囲いの直径は三百歩、内囲いはその半分である。方丘は一重で、下部の高さは一丈、直径六丈八尺、上部の高さは五尺、辺の長さ四丈、八面あり、各面に一つの階段があり、階段は十段で、一段の高さは一尺である。方丘は国都の北六里の郊外にある。丘は一重で、八面あり、下部の高さは一丈、辺の長さ六丈八尺、上部の高さは五尺、辺の長さ四丈である。各面に一つの階段があり、一段の高さは一尺である。その囲いは八面で、直径百二十歩、内囲いはその半分である。南郊では国都の南五里に方壇を築く。その高さは一丈二尺、広さは四丈である。その囲いは辺の長さ百二十歩、内囲いはその半分である。神州の壇は、高さ一丈、辺の長さ四丈で、北郊の方丘の右側にある。その囲いは方丘と同じである。
円丘及び南郊の祭祀は、ともに正月の上辛の日に行う。円丘では、その先祖である炎帝神農氏を昊天上帝に配祀して壇上に祀る。五方上帝、日月、内官、中官、外官、衆星は、みな従祀する。皇帝は蒼輅に乗り、玄冕を戴き、大駕の行列を整えて行幸する。祭祀に参列する者は皆、蒼色の服を着る。南郊では、始祖の献侯莫那を感生帝である霊威仰に配祀して壇上に祀る。北郊の方丘では、神農を后地の祇に配祀する。神州では献侯莫那を配祀する。
犠牲に用いる制度は、昊天上帝を祀り、皇地祇及び五帝、日月、五星、十二辰、四望、五官を祭る時は、それぞれの方角の色の毛の犠牲を用いる。宗廟では黄色、社稷では黒色を用い、散祭祀には純色のものを用い、表狢磔禳には雑色のものを用いる。
凡そ大祀には、斎戒する官は皆その日の朝に尚書省に集まり、誓戒を受ける。散斎は四日、致斎は三日行う。祭祀の前日、昼の漏刻で五刻の時に祭祀の場所に到着し、沐浴し、明衣を着け、皆、喪服や哭泣を見聞きしてはならない。昊天上帝、五方上帝、日月、皇地祇、神州社稷、宗廟などは大祀とし、星辰、五祀、四望などは中祀とし、司中、司命、風師、雨師及び諸星、諸山川などは小祀とする。大祀の犠牲は清めの厩で九十日間飼育し、中祀は三十日、小祀は十日間飼育する。犠牲の方色を揃えるのが難しい場合は、純色のもので代用することを許す。祈願のための犠牲は飼育しない。祭祀の犠牲は、打撲してはならない。死んだ場合は埋める。
明堂は国都の南にある。梁の初め、宋・斉の制度に依拠し、その祭祀の方法は依然として斉の制度に従った。礼に通じない点があれば、武帝はさらに学者と議論した。旧斉の儀礼では、郊祀に帝は皆、袞冕を着用した。天監七年に至り、初めて大裘を作ったが、明堂の儀注には依然として袞服と記されていた。十年、儀曹郎の朱异が「礼では大裘に冕を戴き、昊天上帝を祭る。五帝も同様である。これは天神が高遠であるため、誠実質素であるべきという道理による。今、五帝を広く祭るのに、文飾を容れる道理はない」と考え、そこで大裘に改めた。朱异はまた「斉の儀礼では初献に樽彝を用いるが、明堂は質素を貴ぶので、三献すべきではない。また象樽を用いるべきではない。礼に『朝踐には太樽を用いる』とある。鄭玄は『太樽は瓦である』という。記にも『有虞氏は瓦樽を用いた』とある。これらは皆、宗廟で用いるものであり、なお質素である。まして明堂においては、礼として象(飾り)を容れるべきではない。今、瓦樽に改めることを請う。文と質の調和に合致するであろう」と考えた。また「宗廟は文飾を貴ぶので、多くの種類の珍味を供えるが、天の道理は尊遠であるから、簡約であるべきである。今の儀注で薦めるものは、宗廟と異ならない。道理から事実を考えれば、妥当でないと思われる。今後、明堂の肴膳は二郊の基準に準ずることを請う。ただし、帝という名称は本来、生育を司り、一年を成す功績は実に顕著である。昊天のように、言葉や形象を絶する道理とは異なり、同じく郊祀とはいえ、また少し異なるべきである。もし水土の産物、蔬果の類は、なお薦めるに相応しく、梨・棗・橘・栗の四種の果物と、薑・蒲・葵・韭の四種の漬物、粳・稻・黍・粱の四種の米のみを用いる。これ以外で、郊祀にないものは、すべて省除することを請う」と言った。
初めに、博士の明山賓が儀注を制定し、明堂において五帝を祀る際、行禮は先ず赤帝より始めるとした。朱异はまた、「明堂は既に五帝を汎祭するものであるから、先後を設けることは容れられず、東階より昇るならば、宜しく先ず春帝(青帝)を祀るべきである。改めて青帝より始めることを請う」と考えた。また、「明堂の籩豆等の器は、皆彫飾を施している。尋ねるに郊祀は質素を貴び、陶匏に改めて用い、宗廟は文飾を貴ぶから、誠に彫俎を用いるべきである。明堂の禮は、既に郊祀に比べて文飾を重んじるものであるから、陶匏を用いることは容れられず、宗廟に比べて質素であるから、また彫俎を用いるべきではない。二つの道を斟酌し、その中道を存する必要があり、純漆を用いるよう改めることを請う」と考えた。朱异はまた、「旧儀では、明堂において五帝を祀る際、先ず鬱鬯を酌み、地に灌いで神を求め、及び初献には清酒を用い、次に酃、終わりに醁を用いる。禮が終わると、太祝が俎上の黍肉を取り、御前に当たってこれを授ける。郊祀の儀に依り、清酒一献のみに止めることを請う。且つ五帝は天神であるから、地に求めることはできず、二郊の祭りには、黍肉の禮は無い。灌及び授俎の法を停めることを併せて請う」と考えた。また、「旧来の明堂は皆太牢を用いる。記を案ずるに『郊祀には特牲を用いる』とあり、また『天地の牛は、角が繭栗の如し』とある。五帝は既に天神と称するから、理として三牲の祭りは無い。而して毛詩の我將篇には、文王を明堂に祀るとして『維れ羊維れ牛』の説がある。良く周が二代を監み、その義は文飾を貴び、明堂は郊祀に比べて極めて質素ではなかったから、特に三牲を用い、ただ一代の制に止まったのである。今、百王を斟酌し、義は通典に存するから、蔬果の薦は周禮に符するとはいえ、牲牢の用は夏・殷に遵うべきである。今より明堂は特牛のみを用いることを請う。これは質と文の中に合し、また誠を貴ぶ義を見るものである」と考えた。帝は皆これに従った。
陳の制では、明堂殿屋は十二間。中央六間は、齊の制に依り、六座を安んず。四方帝は各其の方に依り、黄帝は坤維に居し、而して配饗の坐は梁の法に依る。武帝の時は、德帝を以て配す。文帝の時は、武帝を以て配す。廢帝已後は、文帝を以て配す。牲は太牢を用い、粢盛は六飯、鈃羹果蔬備えて薦む。
後齊は周官考工記を採りて五室と為し、周は漢の三輔黃図を採りて九室と為し、各其の制を存するも、竟に立たず。