金史

志第三十六:百官一(三師・三公・尚書省・六部・都元帥府・樞密院・大宗正府・御史臺・宣撫司・勸農使司・司農司・三司・國史院・翰林學士院・審官院・太常寺)

金は景祖より初めて官属を建て、諸部を統率して征伐を専らとし、巍然として自ら一国を成した。その官長は皆、勃極烈と称した。故に太祖は都勃極烈として位を嗣ぎ、太宗は諳版勃極烈として居守した。諳版とは、尊大なる称である。次に国論忽魯勃極烈あり。国論は貴きを言い、忽魯は総帥の如きものである。また国論勃極烈あり、或いは左右に置き、所謂国相である。次に諸勃極烈の上には、国論・乙室・忽魯・移賚・阿買・阿舍・昊・迭の号があり、宗室功臣を昇拜する序次とした。その部長を孛堇と曰い、数部を統べる者を忽魯と曰う。凡そこれらは、熙宗が官制を定めるに至って皆廃された。その後、辺民を鎮撫する官を禿裏と称するのみとなり、烏魯骨の下に掃穩脱朵があり、詳穩の下に麼忽・習尼昆がある。これは官制に具わりて廃されず、皆遼の官名を踏襲したものである。

漢官の制は、平州の人が猛安謀克の官を好まず、始めて長吏以下を置いた。天輔七年に左企弓を行樞密院として広寧に置き、尚ほ遼の南院の旧制を踏襲した。天会四年、尚書省を建て、遂に三省の制ができた。熙宗に至り新官制及び換官格を頒ち、内外官を除拜し、始めて勲封・食邑を官銜に入れることを定め、その後その制が定まった。然れども大率皆遼・宋の旧制を循った。海陵庶人正隆元年、中書門下省を罷め、只だ尚書省を置くのみとした。省より下の官司の別は、院・台・府・司・寺・監・局・署・所と曰い、各々その属を統べてその職を修める。職には定位あり、員には常数あり、紀綱明らかにして庶務挙がり、是を以て金一代を通じて守りて敢えて変えざりき。大定二十八年、在仕官一万九千七百員、四季に赴選する者千余、歳に監差する者三千。明昌四年に奏す、周歳の間に、官の死及び事故ある者六百七十、新たに仕に入る者五百十、現に在る官一万一千四百九十九、内女直四千七百五員、漢人六千七百九十四員。泰和七年に至っては、在仕官四万七千余、四季に部が擬授する者千七百、監官が部に到る者九千二百九十余、則ち世宗の時の三倍である。宣宗の招賢所・経略司、義宗の益政院の如きは、危亡の政なりと雖も、必ず其の次に列し、以て一時の事を著わす。

三師

太師・太傅・太保各一員、皆正一品。一人を師範とし、四海を儀刑す。

三公

太尉・司徒しと司空しくう各一員、皆正一品。道を論じ邦を経め、陰陽を燮理す。

尚書省

左司、郎中一員、正五品。国初に左・右司侍郎を置き、天眷三年に始めて今の名に改む。旧く凡そ朝を視るに、執政官親ら奏を執りしが、天徳二年より左・右司官に付することを詔し、定制と為す。員外郎一員、正六品。本司の奏事を掌り、吏・戸・礼三部の受事付事を総察し、兼ねて起居注官を帯び、其の間の記述の事を回避す。每月朔の朝には、則ち先づ是の月の秩満する者を集めて簿と為し、名づけて闕本と曰い、及び行止簿・貼黄簿・並びに官制を同じく進呈し、御覧畢れば則ち之を受けて蔵す。凡そ除拜有る毎に、尚書省の敢えて擬注せざる所の者は、則ち一闕に二三人を具えて以て制授を聴く。都事二員、正七品。貞元二年、左右司官は、宮中出身、並びに進士・令史の三色人の内より通選す。三年、監察御史相応の人を以て取次ぎ稟奏し、復た擬注せず。本司の受事付事を掌り、稽失を検勾し、文牘を省署し、兼ねて省内の宿直を知り、架閣等の事を検校す。右司の掌る所同じ。右司、郎中一員、正五品。員外郎一員、正六品。本司の奏事を掌り、兵・刑・工三部の受事付事を総察し、兼ねて修注官を帯び、其の間の記述の事を回避す。都事二員、正七品。

尚書省祗候郎君管勾官、従七品。祗候郎君を掌り、其の出入及び差遣の事を謹む。承安二年以前は、走馬郎君を擬注す。『泰和令』に、左右女直都事を以て兼ぬ。正大年間、親従人を用いるに改む。

架閣庫は大定二十一年六月に設け、仍て都事を以て之を提控す。管勾旧く二員、正大に一員を省く、正八品。同管勾旧く二員、正大に一員を省く、従八品。総じて左右司大程官の追付する文牘を察し、並びに小都監の紙筆の給受を提控するを掌り、余の管勾同じ。女直省令史三十五人、左二十人、右十五人。大定二十四年に三十人と為し、進士十人、宰執の子・宗室の子十人、密院台部統軍司令史十人。漢令史三十五人、左二十一人、右十四人。省訳史十四人、左右各七人。女直訳史同じ。通事八人、左右各四人。高麗・夏国・回紇訳史四人、左右各二人。諸部通事六人。曳剌二十人。走馬郎君五十人。提点歳賜所は、左右司郎中・員外郎之を兼ね、歳賜の出入する銭幣の事を提点するを掌る。

堂食公使酒庫。使一員、従八品。歳賜銭の受給を掌り、庫事を総領す。副一員、正九品。使事を貳るを掌る。

直省局。局長、従八品。都堂の礼及び官員の参謝の儀を掌る。副局長、正九品、局長を貳るを掌る。尚書省の楽工を管勾す、従九品。

行台の制度。熙宗の天會十五年、劉を罷めて、行台尚書省を汴に置く。天眷元年、河南の地を宋に与え、燕京の樞密を行台尚書省と改む。天眷三年、再び汴京に移し置く。皇統二年、行台の官品は皆、中台より一等下と定む。

六部

国初は左司・右司と署を同じくす。天眷三年に始めて分かれて治む。

吏部

尚書一員、正三品。侍郎一員、正四品。郎中二員、従五品。天徳二年、四員に増やし、後に省く。員外郎、従六品。天徳二年、四員に増やし、後に省く。文武の選授・勲封・考課・制誥の出給の政を掌る。才能・行状・功労の効果により、仕える者の賢否を比べ、行止・文冊・貼黄簿により、官職の欠員に関する機要を制す。正七品以上は、名を省に上し、制授を聴く。従七品以下は、季月ごとに至れば、則ち資格に循って擬注し、八品以上よりは奏し、以下は則ちせず。侍郎以下は、皆、尚書の次官たり。郎中は文武の選・流外の遷用・官吏の差使・行止名簿・封爵制誥を掌る。一員は勲級の酬賞・承襲の用廕・循遷・致仕・考課・議諡の事を掌る。員外郎は曹務を分かち判じ、及び事に参議す。掌るところは郎中と同じ。

文官九品、階は凡そ四十有二:従一品上は開府儀同三司と曰い、中は儀同三司と曰い、中次は特進と曰い、下は崇進と曰う。正二品上は金紫光禄大夫と曰い、下は銀青栄禄大夫と曰う。従二品上は光禄大夫と曰い、下は栄禄大夫と曰う。正三品上は資徳大夫と曰い、中は資政大夫と曰い、下は資善大夫と曰う。従三品上は正奉大夫と曰い、中は通奉大夫と曰い、下は中奉大夫と曰う。正四品上は正議大夫と曰い、中は通議大夫と曰い、下は嘉議大夫と曰う。従四品上は大中大夫と曰い、中は中大夫と曰い、下は少中大夫と曰う。正五品上は中議大夫と曰い、中は中憲大夫と曰い、下は中順大夫と曰う。従五品上は朝請大夫と曰い、中は朝散大夫と曰い、下は朝列大夫と曰う。旧は奉徳大夫と曰い、天徳二年に改む。正六品上は奉政大夫と曰い、下は奉議大夫と曰う。従六品上は奉直大夫と曰い、下は奉訓大夫と曰う。正七品上は承徳郎と曰い、下は承直郎と曰う。従七品上は承務郎と曰い、下は儒林郎と曰う。正八品上は文林郎と曰い、下は承事郎と曰う。従八品上は征事郎と曰い、下は従仕郎と曰う。正九品上は登仕郎と曰い、下は将仕郎と曰う。従九品上は登仕佐郎と曰い、下は将仕佐郎と曰う。この二階は、大定十四年に創めて増す。

武散官、凡そ仕えて従二品以上より従一品に至る者は、皆、文資を用う。正三品以下よりは、階は文資と同じ:正三品上は龍虎衛上将軍と曰い、中は金吾衛上将軍と曰い、下は驃騎衛上将軍と曰う。従三品上は奉国上将軍と曰い、中は輔国上将軍と曰い、下は鎮国上将軍と曰う。正四品上は昭武大将軍と曰い、中は昭毅大将軍と曰い、下は昭勇大将軍と曰う。従四品上は安遠大将軍と曰い、中は定遠大将軍と曰い、下は懐遠大将軍と曰う。正五品上は広威将軍と曰い、中は宣威将軍と曰い、下は明威将軍と曰う。従五品上は信武将軍と曰い、中は顕武将軍と曰い、下は宣武将軍と曰う。正六品上は武節将軍と曰い、下は武徳将軍と曰う。従六品上は武義将軍と曰い、下は武略将軍と曰う。正七品上は承信校尉こういと曰い、下は昭信校尉と曰う。従七品上は忠武校尉と曰い、下は忠顕校尉と曰う。正八品上は忠勇校尉と曰い、下は忠翊校尉と曰う。従八品上は修武校尉と曰い、下は敦武校尉と曰う。正九品上は保義校尉と曰い、下は進義校尉と曰う。従九品上は保義副尉と曰い、下は進義副尉と曰う。この二階は、大定十四年に創めて増す。

封爵:正従一品は郡王、国公と曰う。正従二品は郡公と曰う。正従三品は郡侯と曰う。正従四品は郡伯と曰う。旧は県伯と曰い、承安二年に改む。正五品は県子と曰い、従五品は県男と曰う。

凡そ勲級:正二品は上柱国と曰い、従二品は柱国と曰う。正三品は上護軍と曰い、従三品は護軍と曰う。正四品は上軽車都尉と曰い、従四品は軽車都尉と曰う。正五品は上騎都尉と曰い、従五品は騎都尉と曰う。正六品はぎょう騎尉と曰い、従六品は飛騎尉と曰う。正七品は雲騎尉と曰い、従七品は武騎尉と曰う。

凡そ食邑:封王は万戸、実封一千戸。郡王は五千戸、実封五百戸。国公は三千戸、実封三百戸。郡公は二千戸、実封二百戸。郡侯は一千戸、実封一百戸。郡伯は七百戸、県子は五百戸、県男は三百戸、皆、実封なし。天眷の定制より、凡そ食邑は、散官と同じく銜に入る。

司天翰林官、旧制は従七品以下より五階に止まる。天眷の定制に至り、司天は従四品以下より、十五階を立てる:従四品上は欽象大夫と曰い、中は正儀大夫と曰い、下は欽授大夫と曰う。正五品上は霊憲大夫と曰い、中は明時大夫と曰い、下は頒朔大夫と曰う。従五品上は雲紀大夫と曰い、中は協紀大夫と曰い、下は保章大夫と曰う。正六品上は紀和大夫と曰い、下は司玄大夫と曰う。従六品上は探賾郎と曰い、下は授時郎と曰う。正七品上は究微郎と曰い、下は霊台郎と曰う。従七品上は明緯郎と曰い、下は候儀郎と曰う。正八品上は推策郎と曰い、下は司正郎と曰う。従八品上は校景郎と曰い、下は平秩郎と曰う。正九品上は正紀郎と曰い、下は挈壺郎と曰う。従九品上は司暦郎と曰い、下は司辰郎と曰う。

太醫官、旧は従六品以下より七階に止まる。天眷の制、従四品以下より、十五階を立てる:従四品上は保宜大夫と曰い、中は保康大夫と曰い、下は保平大夫と曰う。正五品上は保頤大夫と曰い、中は保安大夫と曰い、下は保和大夫と曰う。従五品上は保善大夫と曰い、中は保嘉大夫と曰い、下は保順大夫と曰う。正六品上は保合大夫と曰い、下は保沖大夫と曰う。従六品上は保愈郎と曰い、下は保全郎と曰う。正七品上は成正郎と曰い、下は成安郎と曰う。従七品上は成順郎と曰い、下は成和郎と曰う。正八品上は成愈郎と曰い、下は成全郎と曰う。従八品上は醫全郎と曰い、下は醫正郎と曰う。正九品上は醫效郎と曰い、下は醫候郎と曰う。従九品上は醫痊郎と曰い、下は醫愈郎と曰う。

内侍は、天徳年間に創設された制度であり、従四品以下、十五階より成る。従四品上は中散大夫、中は中尹大夫、下は中侍大夫と称す。正五品上は中列大夫、中は中禦大夫、下は中儀大夫。従五品上は中常大夫、中は中益大夫、下は中衛大夫。正六品上は中良大夫(天徳の制では中亮)、下は中涓大夫。従六品上は通禁郎、下は通侍郎。正七品上は通掖郎、下は通禦郎。従七品上は禁直郎、下は侍直郎。正八品上は掖直郎、下は内直郎。従八品上は司賛郎、下は司謁郎。正九品上は司閽郎、下は司僕郎。従九品上は司奉郎、下は司引郎。

教坊は、旧来は武散官を用いたが、大定二十九年に相応しからずとして、新たに二十五階を定めた。明昌三年、従四品以下を改めて十五階と定めた。従四品上は雲韶大夫、中は仙韶大夫、下は成韶大夫。正五品上は章徳大夫、中は長寧大夫、下は徳和大夫。従五品上は景雲大夫、中は雲和大夫、下は協律大夫。正六品上は慶喜大夫、下は嘉成大夫。従六品上は粛和郎、下は純和郎。正七品上は舒和郎、下は調音郎。従七品上は比音郎、下は司楽郎。正八品上は典楽郎、下は協楽郎。従八品上は掌楽郎、下は和楽郎。正九品上は司音郎、下は司律郎。従九品上は和声郎、下は和節郎。

凡そ内外の官の政績、歴任した資考、交代の期日、去就の理由は、任期満了の際にすべて解由に詳しく記し、吏部はこれに基づいて能力の有無を定める。また解由の要点を抜き出し、選任擬定の際に読み上げる。これを銓頭と称す。また歴任の銓頭を合わせて行止簿に記す。行止簿とは、姓を類別とし、各人の平素の歴任資考と功過を記したものである。また別に簿を作り、諸官庁の官名を列挙し、交代があるごとに小黄綾に交代の期日と去就の理由を記し、選任擬定の要領を定めるのである。

凡そ県令については、尚書省による任命(省除)と吏部による任命(部除)を区別して記録し、それぞれ詳しく記す。泰和四年、考課法を定め、唐令に準じて四善・十七最の制を作った。四善の一は徳義有聞、二は清慎明著、三は公平可称、四は勤恪匪懈。十七最の一は礼楽興行し、管轄区域を粛清すること、これが政教の最である。二は賦役均平で、田野が開拓されること、これが牧民の最である。三は決断に滞りなく、与奪が道理にかなうこと、これが判事の最である。四は吏卒を統制し、奸盗が発生しないこと、これが厳明の最である。五は案簿が分明で、評議擬定が均等妥当であること、これが検校の最である。以上はいずれも県令・丞・簿・警巡使・副使・録事・司候・判官を指す。六は審理判断が適切で、諮問執行が道理にかなうこと、これが幕職の最である。七は盗賊が消滅し、民を安寧にすること、これが巡捕の最である。八は出納に明るく、物資に損失がないこと、これが倉庫の最である。九は訓導に方策があり、生徒が学業に専念すること、これが学官の最である。十は検査に方策があり、行旅が滞らないこと、これが関津の最である。十一は堤防が堅固で、防備に憂いがないこと、これが河防の最である。十二は出納が迅速明敏で、数に誤りがないこと、これが監督の最である。十三は禁囚を厳重に監察し、軽重について怨みがないこと、これが獄官の最である。十四は物価を実情に合わせ、奸悪な不正が行われないこと、これが市司の最であり、市令を指す。十五は兵器が完備整頓され、防衛に方策があること、これが辺防の最であり、正副部隊将・鎮防官を指す。十六は獄事を審議して実情を得、処断が公平であること、これが法官の最である。十七は差役が均平で、盗賊が止息すること、これが軍職の最であり、都軍・軍轄を指す。

凡そ県令以下で、三最以上かつ四善または三善を有する者は上とし、一等を昇進する。三最以上かつ二善を有する者は中とし、二資歴を減ずる。三最以上かつ一善を有する者は下とし、一資歴を減ずる。節度判官・防禦判官・軍判以下で、一最かつ四善または三善を有する者は上とし、一資歴を減ずる。一最かつ二善を有する者は中とし、榜首に昇る。一最かつ一善を有する者は下とし、本等の首位に昇る。また明昌四年に定めた、軍民ともに廉能と称する者を廉能官とする制度を参酌し、その中から抜擢を定める。宣宗興定元年、県令を辟挙する法を施行し、六事をもって考課した。一は田野が開拓されること、二は戸口が増加すること、三は賦役が公平であること、四は盗賊が止息すること、五は軍民が和合すること、六は詞訟が簡素であること。六事すべてを備える者は上等とし、職一等を昇進する。四事を兼ねる者は中等とし、二資歴を減ずる。その次を下等とし、一資歴を減ずる。そうでなければ不称職とし、罷免して降格する。平常の者は本格に従う。

凡そ王に封ずる場合、大国の号は二十あり、恒(旧は遼)、邵(旧は梁)、汴(旧は宋)、鎬(旧は秦)、並(旧は晋)、益(旧は漢)、彭(旧は齊)、趙、越、譙(旧は殷)、郢(旧は楚)、魯、冀、豫、絳(旧は唐)、袞、鄂(旧は呉)、夔(旧はしょく)、宛(旧は陳)、曹である。次国の号は三十あり、涇(旧は隋)、鄭、衛、韓、潞、豳、沈、岐、代、澤、徐、滕、薛、紀、升(旧は原)、邢、翼、豐、畢、鄧、鄆、霍、蔡、瀛(金の格によれば葛はここにあるべき)、沂、荊、榮、英、壽、溫である。小国の号は三十あり、濮、遂(旧は濟)、道、定、景(後に鄒と改む)、申、崇、宿、息、莒、鄴、郜、舒、淄、郕、萊(旧は宗、諱を避けて改む)、鄖、郯、杞、向、管(旧は郇、興定元年に改む)、密、胙、任、戴、鞏、蔣(『士民須知』に旧は葛と云う)、蕭、莘、芮である。王に封ずる郡号は十あり、金源、広平、平原、南陽、常山、太原、平陽、東平、安定、延安である。公主に封ずる県号は三十あり、楽安、清平、蓬莱、榮安、棲霞、壽光、霊仙、壽陽、鐘秀、恵和、永寧、慶雲、静楽、福山、隆平、徳平、文安、福昌、順安、楽壽、静安、霊壽、大寧、聞喜、秀容、宜芳、真寧、嘉祥、金郷、華原である。

凡そ白號の姓、完顏・溫迪罕・夾谷・陀滿・僕散・術虎・移剌荅・斡勒・斡准・把・阿不罕・卓魯・回特・黑罕・會蘭・沈谷・塞蒲裏・吾古孫・石敦・卓陀・阿廝准・匹獨思・潘術古・諳石剌・石古苦・綴罕・光吉剌は、皆金源郡に封ぜられる。斐滿・徒單・溫敦・兀林荅・阿典・紇石烈・納闌・孛術魯・阿勒根・納合・石盞・蒲鮮・古裏甲・阿迭・聶摸欒・抹拈・納坦・兀撒惹・阿鮮・把古・溫古孫・耨碗・撒合烈・吾塞・和速嘉・能偃・阿裏班・兀裏坦・聶散・蒲速烈は、皆廣平郡に封ぜられる。吾古論・兀顏・女奚烈・獨吉・黃摑・顏盞・蒲古裏・必蘭・斡雷・獨鼎・尼厖窟(窟亦た古と作す)・拓特・盍散・撒荅牙・阿速・撒剗・准土穀・納謀魯・業速布・安煦烈・愛申・拿可・貴益昆・溫撒・梭罕・霍域は、皆隴西郡に封ぜられる。黑號の姓、唐括(舊書は同古と作す)・蒲察・術甲・蒙古・蒲速・粘割・奧屯・斜卯・准葛・諳蠻・獨虎・術魯・磨輦・益輦・帖暖・蘇孛輦は、皆彭城郡に封ぜられる。

親王の母妻は、一字王に封ぜられる者は舊封王妃とし、正従一品とする。次室は王夫人に封ず。承安二年、勅して王妃は止めて王夫人と封じ、次室は孺人と封ず。郡王の母妻は郡王夫人に封じ、國公の母妻は國公夫人に封じ、郡公の母妻は郡公夫人に封じ、郡侯の母妻は郡君に封ず(承安二年に郡侯夫人と改む)。四品文散の少中大夫・武散の懷遠大將軍以上の母妻は縣君に封ず(承安二年に郡君とす)。五品文散の朝列大夫・武散の宣武將軍以上の母妻は鄉君に封ず(承安二年に縣君とす)。

皇統五年、古官に「牧」・「長」と曰うあり、各々總名を有す。今庶官は類を分かたずして名と為し、文移に便ならず。遂に京府尹牧・留守・知州・縣令・詳穩・群牧を「長官」と定め、同知・簽院・副使・少尹・通判・丞を「佐貳官」と曰い、判官・推官・掌書記・主簿・縣尉を「幕職官」とし、兵馬司及び他の司軍たる者を「軍職官」と曰い、警巡・市令・錄事・司候・諸參軍・知律・勘事・勘判を「厘務官」とし、應に倉庫院務を管する者を「監當官」とす(監當官は大定制に出づ)。知事孔目以下文書を行う者を「吏」とす。凡そ除拜に、尚書令・左右丞相以下、品同じからざる者は、則ち「守」の字を帯ぶ。左右丞は則ち「行守」の字を帯ぶ。凡そ台官・御史・部官・京尹・少尹・守令・丞・簿・尉・錄事・諸卿少より協律・評事・諫官・國子監學官・諸監より丞郎・符寶郎・東宮詹事・率府・僕正副・令丞・王府官に至るまで、散官職事より高き者は「行」の字を帯び、職事散官より一品高き者は「守」の字を帯び、二品高き者は「試」の字を帯び、品同じき者は皆なしか。猛安・謀克・翰林待制・修撰・判・推・勘事官・都事・典事・知事・內承奉・押班・通事舍人・通進・編修・勾當・頓舍・部役・廂官・受給管勾・巡河官・直省直院長副・諸檢法・知法・司正・教授・司獄・司候・東宮諭德・贊善・掌寶・典儀以下、王府文學・記事參軍は、並びに「充」の字を帯ぶ。樞密・宣徽・勸農・諸軍都指揮・統軍・轉運使・招討・提刑・節度・群牧・防禦・客省・引進・四方館・閣門・太醫・教坊・鷹坊・警巡・巡檢・諸司局倉庫務使副は、皆「充」の字及び「知某事」を帯ぶ。凡そ「知」・「判」・「簽書」の字を帯ぶ者は、則ち「行」・「守」・「試」の字を帯ばず。以上帯ぶ所の字は、品同じき者は則ちなしか。三師・三公・平章政事・元帥以下監軍より、東宮三師・三少・點檢より振肅・承旨・學士・王傅・副統・招討及び前に載せざる所の者に至るまで、皆「行」・「守」・「試」・「知」・「充」の字を帯ばず。

主事四員、從七品。管下の差除を知り、行止を校勘し、分かちて封勲資考の事を掌り、惟だ選事に限りては則ち通じて署し、及び受事付事を掌り、稽失を檢勾し省署の文牘を兼ね、併せて本部の宿直・架閣の檢校を知る。餘部の主事は、受事付事以下より、掌る所並びに此れに同じ。皇統四年、六部主事始めて漢士人を用う。大定三年、進士を用い、特旨に非ざれば吏人に擬すべからず、宰執の人材を保奏するが如きは常例に入らず。承安五年、女直主事一員を増す。令史六十九人、内女直二十九人。譯史五人、通事二人、令史と同し。泰和八年、令史十人を増す。

架閣庫は大定二十一年六月に設け、仍て主事を以て之を提控せしむ。管勾、正八品。吏・兵兩部の架閣を掌り、兼ねて吏部の行止を檢校す。女直・契丹・漢字を識る人を以て充て、如し無くば、女直・漢字を識る人を擬して充つ。同管勾一員。

官誥院。提挙二員、院事を署するを掌る。吏部郎中・翰林修撰各一人を以て充つ。

戸部

尚書一員、正三品。侍郎二員、正四品。泰和八年に一員を減じ、大安二年に復た増す。郎中二員、従五品。天徳二年に五員を置き、泰和に省きて二員と作し、又た四員と作す。貞祐四年に八員を置き、五年に六員と作す。員外郎三員、従六品。郎中以下、皆一員を以て戸籍・物力・婚姻・継嗣・田宅・財業・塩鉄・酒麴・香茶・礬錫・丹粉・坑冶・榷場・市易等の事を掌り、一員を以て度支・国用・俸祿・恩賜・錢帛・寶貨・貢賦・租税・府庫・倉廩・積貯・権衡・度量・法式・職田の給授・官物の拘収並びに計帳の照磨等の事を掌る(『泰和令』は二員と作し、後一員を増し、貞祐四年に六員と作し、又た八員と作し、五年に四員と作す)。主事五員、従七品。女直司二員、通じて戸度金倉等の事を掌る。漢人司三員、員外郎と分かちて曹事を掌る。泰和八年に一員を減じ、貞祐四年に八員と作し、五年に六員と作す。兼ねて編附條格を提控し、架閣を管勾する等の事を掌る。令史七十二人、内女直十七人。譯史五人、通事二人。泰和八年に八人を増す。

架閣庫。管勾一員、正八品。戸部・礼部両部の架閣を掌る。大安三年に主事が各々これを兼ねる。同管勾、従八品。検法、従八品。勾当官五員、正八品。貞元二年、幹弁官十員を設け、従七品。三年、四員を置き、まもなくこれを廃す。四年、改めて勾当官とし、専ら支給納入の提控・勘覆の管勾・交鈔の経歴及び香・茶・塩引・文帳の照磨等の事を掌らせる。承安二年に四員とし、貞祐四年に十五員、五年に十員、興定元年に五員、二年に再び十員とする。

礼部

尚書一員、正三品。侍郎一員、正四品。郎中一員、従五品。員外郎一員、従六品。凡そ礼楽・祭祀・燕享・学校・貢挙・儀式・制度・符印・表疏・図書・冊命・祥瑞・天文・漏刻・国忌・廟諱・医卜・釈道・四方の使客・諸国の進貢・犒労張設の事を掌る。僧・尼・道士・女冠を試すことは、三年に一度、限度八十人とし、京府の幕職または節鎮防禦の佐貳官二員・僧官二人・道官一人・司吏一名・従人各一人・厨子二人・把門官一名・雑役三人を差遣する。僧童は『法華経』・『心地観経』・『金光明経』・『報恩経』・『華厳経』等の経合わせて五部、計八帙を読むことができねばならぬ。『華厳経』は四帙に分け、各帙より二巻を取り、各巻より四題を挙げ、百字を読むことを限りとする。尼童は経半部を試し、僧童と同様とする。道士・女冠の童行は『道德経』・『救苦経』・『玉京山経』・『消災経』・『霊宝度人経』等の経を誦する。皆、句を誦し成し、音釈に依って通と為す。中選した者は試官が証拠を与え、名を有司に報ずる。凡そ僧尼官が現管する人八十人及び道士女冠が三十人に及ぶ者は一名を放度し、死者は監壇に度牒を以て部に申しこれを毀棄させる。主事二員、従七品。令史十五人、内女直五人。訳史二人、通事一人。

左三部検法司。司正二員、正八品。法状を披詳することを掌る。興定二年、右部に額外に検・知法及び掌法を設け、四年に廃す。検法二十二員、従八品。各司の法文字を取り調べ裁断することを掌る。右三部検法の職事はこれと同じ。元来は劄付を受けたが、大定三年に勅給を命ず。

兵部

尚書一員、正三品。侍郎一員、正四品。郎中一員、従五品。員外郎二員、従六品。兵籍・軍器・城隍・鎮戍・厩牧・鋪駅・車輅・儀仗・郡邑図志・険阻・障塞・遠方帰化の事を掌る。馬を給する場合、従一品以上は、従者八人、馬十匹、食料銭三貫十四文。従二品以上は、従者五人、馬七匹、食料銭二貫九十八文。従三品以上は、従者三人、馬五匹、銭一貫五百十一文。従五品以上は、従者二人、馬四匹、銭九百六十八文。従七品以上は、従者一人、馬三匹、銭六百十七文。従九品以上は、従者一人、馬二匹、銭四百六十四文。従者無き者は、七十八文を減ず。御前差で官無き者は、従五品に準ずる。省差で官有る者は、人ごとに銭四百五十一文を支給し、従者有る者は六十八文を加う。走馬人は銭百五十七文を支給する。赦書は日に五百里を行く。これは『天興近鑑』に載せる制である。泰和六年に遞鋪を置く。その制は、該軍馬路十里ごとに一鋪を設け、各鋪に四人を配置し、内鋪頭一人、鋪兵三人とし、所轄の軍の射糧軍より差して充て、腰鈴を以て日に三百里を行く。凡そ元帥府・六部の文移は、勅遞・省遞の牌子を以て、鋪に入れて転送する。主事二員、従七品。貞祐五年に承発司管勾が漢人主事を兼ねる。令史二十七人、内女直十二人。訳史三人、通事二人。

刑部

尚書一員、正三品。侍郎一員、正四品。郎中一員、従五品。員外郎二員、従六品。一員は律令格式・刑名の審定・関津の譏察・赦詔の勘鞫・追征給没等の事を掌り、一員は監戸・官戸・配隷・良賤の訴・城門の啓閉・官吏の改正・功賞捕亡等の事を掌る。主事二員、従七品。令史五十一人、内女直二十二人、訳史五人、通事二人。架閣庫。管勾一員、正八品。刑部・工部両部の架閣を掌る。大安二年に主事が各々これを兼ねる。同管勾一員、従八品。

工部

尚書一員、正三品。侍郎一員、正四品。郎中一員、従五品。修造営建の法式・諸作の工匠・屯田・山林川沢の禁・江河の堤岸・道路橋梁の事を掌る。員外郎一員、従六品。貞祐五年、覆実司官を兼ねる。天徳三年、二員を増す。主事二員、従七品。令史十八人、内女直四人。訳史二人、通事一人。覆実司。管勾一員、従七品。戸部・工部に隷属し、営造の材物・工匠の価直等の事を覆実することを掌る。大安元年、三司・工部に隷属し、同管勾を廃す。貞祐五年に併せてこれを廃し、二部の主事が兼ねる。興定四年に再び設け、省の擬に従い、戸部・工部に挙げさせない。

右三部検法司。司正二員、正八品。検法、従八品。二十二員。

都元帥府

征討の事を掌り、兵が罷むれば則ち省く。天会二年、宋を伐つに始めて置く。泰和八年、再び枢密院に改む。

都元帥一員、従一品。左副元帥一員、正二品。右副元帥一員、正二品。元帥左監軍一員、正三品。元帥右監軍一員、正三品。左都監一員、従三品。右都監一員、従三品。経歴一員、都事一員、知事一員(興定三年に見ゆ)、正七品。検法一員、従八品。元帥府女直令史十二人、承安二年十六人、漢人令史六人、訳史三人、女直訳史一人、承安二年二人。通事、女直三人、後に六人と作し、承安二年再び三人と作し、漢人二人。

正隆六年(1161年)、海陵王が南征するに当たり、三道都統制府及び左右領軍大都督ととくを設置し、三十二の総管を統率した。その称号は神策・神威・神捷・神銳・神毅・神翼・神勇・神果・神略・神鋒・武勝・武定・武威・武安・武捷・武平・武成・武毅・武銳・武揚・武翼・武震・威定・威信・威勝・威捷・威烈・威毅・威震・威略・威果・威勇であった。泰和六年(1206年)に宋を征伐する際、臨時に平南撫軍上將軍(正三品)から殄寇果毅都尉(従六品)までの九階を設けた。すなわち、平南撫軍上將軍・平南冠軍大將軍・平南龍驤將軍・平南虎威將軍・平南蕩江將軍・殄寇中郎將・殄寇郎將・殄寇折沖都尉・殄寇果毅都尉であり、軍が帰還すると廃止した。令史・訳史八十人を置き、うち正員は三十三人、残り四十七人は本府から選抜した。元光年間(1222-1223年)、義軍を招集し、総領使(従五品)・副使(従六品)・訓練官(従八品)を置いた。正大二年(1225年)、総領の名称を都尉と改め、官秩を四品に昇格させた。四年(1227年)、さらに従三品に昇格した。建威・折沖・振武・蕩寇・果毅・殄寇・虎賁・鷹揚・破虜などの名称があった。

樞密院

天輔七年(1123年)、広寧府に初めて設置された。天会三年(1125年)に燕山を平定した後、初め左企弓をその長官とし、後に劉彥宗を任じた。当初はなお遼の南院の制度に倣っていたが、後にはそうではなかった。泰和六年(1206年)に一時元帥府と改称したことがある。

樞密使一員、従一品。すべての武備・機密の事柄を掌る。樞密副使一員、従二品。泰和四年(1204年)に二人を置いたが、後には恒例とはしなかった。簽書樞密院事一員、正三品。同簽樞密院事一員、正四品。大定十七年(1177年)に一員を増員したが、まもなく廃止した。明昌初年(1190年)、再び一員を増員したが、まもなくまた省いた。三年(1192年)九月に再び一員を増員した。經歷一員、従五品。興定三年(1219年)設置。都事一員、正七品。事務の受付・交付、公文書の検閲・誤りの調査・署名、宿直の管理を兼ねることを掌る。架閣庫管勾一員、正八品。知法二員、従八品。各部署の法令適用の審査・裁断を掌る。その他の部署の検法も同様である。樞密院令史は、女直十二人、漢人六人、三品官の子弟四人、吏員からの転補二人。訳史三人、通事三人、回紇訳史一人、曳剌十五人。

大宗正府

泰和六年(1206年)、睿宗の諱を避けて、大睦親府と改称した。

判大宗正事一員、従一品。皇族の中で親族の者を以て充て、宗族の和睦を促し、統率・糾弾し、王命を謹んで奉ずることを掌る。泰和六年に判大睦親事と改称。同判大宗正事一員、従二品。泰和六年に同判大睦親事と改称。同簽大宗正事一員、正三品。宗室の者が充てる。大定元年(1161年)設置。泰和六年に同簽大睦親事と改称。大宗正丞二員、従四品。一員は宗室の中から有能な者を選んで充て、一員は親疏を問わず、上京の長官・次官を分掌し、臨潢以東の六つの司属の管理を兼ねる。泰和六年に大睦親丞と改称。知事一員、従七品。檢法、従八品。諸宗室將軍、正七品。上京・東溫忒の二か所にいずれも置かれた。世宗の時に初めて官職を与えることを命じ、その戸数は凡そ百二十であった。明昌二年(1191年)に司属と改称し、令・丞を設けた。承安二年(1197年)に令を随朝司令と同格(正七品)とし、丞を正八品とした。中都・上京・紮裏瓜・合古西南・梅堅寨・蒲與・臨潢・泰州・金山などの地に設置し、大宗正府に属させた。

御史臺

登聞檢院はこれに隷属する。『士民須知』に見える。『総格』・『泰和令』にはいずれも記載されていない。

御史大夫、従二品。旧制は正三品、大定十二年(1172年)に昇格。朝儀の糾察・官邪の弾劾・官府の公事の審理を掌る。内外の刑獄で所属官庁の審理・裁断が不当で、陳訴があるものは御史臺に付して処理させる。御史中丞、従三品。大夫の次官。侍御史二員、従五品。以上の官品はいずれも大定十二年(1172年)に順次昇格した。奏事・臺務の処理を掌る。治書侍御史二員、従六品。職掌は侍御史と同じ。殿中侍御史二員、正七品。毎回朝対の際に龍墀の下に立ち、専ら朝参者の儀礼作法を糾弾し、百官の休暇・届出事項を奏目に具して進呈する。監察御史十二員、正七品。内外の非違の糾察・諸司の帳簿の検査・祭礼の監察及び出使の事を掌る。各種の人事を参画・注擬する。大定二年(1162年)は八員、承安四年(1199年)は十員、承安五年(1200年)に両司それぞれ十二員を増員した。典事二員、従七品。架閣庫管勾一員、従八品。檢法四員、従八品。獄丞一員、従九品。御史臺令史は、女直十三人(内訳は班内祗六人、終場挙人七人)、漢人十五人(内訳は班内祗七人、終場挙人八人)。訳史四人(内訳は班内祗二人、終場挙人二人)。通事三人。

宣撫司

泰和六年(1206年)に陝西路宣撫使を設置し、陝西右監軍・右都監の兵馬公事を節制させた。八年(1208年)、陝西宣撫司を安撫司と改称した。山東東西路・大名府路・河北東西路・河東南北路・遼東・陝西・咸平・隆安・上京・肇州・北京の凡そ十か所に司を置いた。

使、従一品。副使、正三品。

勸農使司

泰和八年(1208年)に廃止したが、貞祐年間(1213-1217年)に復置した。興定六年(1222年)に勸農司を廃止し、改めて司農司を設置した。

使は一員、正三品。副使は一員、正五品。天下の力田(農業に力を入れること)を勧課することを掌る。

司農司

興定六年に設置し、採訪公事を兼ねる。

大司農一員、正二品。卿三員、正四品。少卿三員、正五品。知事二員、正七品。興定六年、陝西および河南三路に行司農司を置き、官五員を設けた。正大元年、帰徳・許州・河南・陝西に各々置き、三員とする。卿一員、正四品。少卿一員、正五品。丞一員、正六品。卿以下は順番に出巡して案を察し、官吏の臧否(善悪)を察して昇黜(昇進・罷免)する。使節の過ぐる所、奸吏は息をひそめ、十年の間に民政は修め挙げられ、実にその力に頼る。

三司

泰和八年、戸部の官員を省いて三司を置く。勧農・塩鉄・度支・戸部の三科を兼ねるという。貞祐年間にこれを罷める。

使一員、従二品。副使一員、正三品。簽三司事一員、正四品。同簽三司事一員、正五品。勧農・塩鉄・度支を掌る。判官三員、従六品。本来は参幹官、大安元年に参議と改める。規措審計官三員、正七品。掌ることは参幹官と同じ。知事二員、正七品。女直・漢字を識る人を以て充てる。勾当官二員、正八品。大安元年に三員を置く。照磨吏員七人。管勾架閣庫一員、正八品。三司令史五十人、内女直十人、漢人四十人。大安元年に八人を増す。訳史二人、大安元年に一人を増す。通事二人。知法三員、従八品。女直知法一員、大安元年に二員を増す。

国史院

先に嘗て諫官を以てその職を兼ねさせたが、明昌元年に詔して諫官に兼ねさせず、その奏章において私に己の美を溢すことを恐れたが故である。監修国史は、国史を監修する事を掌る。修国史は、国史を修め、院事を判ずることを掌る。

同修国史二員。女直人・漢人各一員。承安四年に改めて女直一員を擬し、契丹の同修国史を罷める。

編修官、正八品。女直・漢人各四員。明昌二年に契丹編修三員を罷め、女直一員を添える。大定十八年に書写の出職人を用いる。検閲官、従九品。書写、女直・漢人各五人。『遼史』を修めるに刊修官一員、編修官三員。

翰林学士院

天徳二年、翰林学士院に侍読学士より応奉文字に至るまで、通じて漢人十員、女直・契丹各七員を設けしむ。

翰林学士承旨、正三品。制撰詞命を掌る。凡そ応奉文字は、銜内に「知制誥」を帯ぶ。直学士以上同じ。貞祐三年に従二品に昇す。翰林学士、正三品。翰林侍読学士、従三品。翰林侍講学士、従三品。翰林直学士、従四品。員数を限らず。翰林待制、正五品。員数を限らず、詞命文字を分掌し、院事を分判し、銜内に「知制誥」を帯ばず。翰林修撰、従六品。員数を限らず、掌ることは待制と同じ。応奉翰林文字、従七品。

審官院

承安四年に設置し、大安二年にこれを廃止した。もし注擬(官職の任命)が不適当であれば、上(皇帝)は御史台の官に論列させた。

知院一員、従三品。奏上された除授(任命)の不適当な事柄を駁奏することを掌る。随朝の六品、外路の五品以上の官の除授は、すべて本院に送って審査させる。補闕・拾遺・監察は七品であっても、本院に送る。あるいは御批(皇帝の直筆指示)も送って稟議する。ただ部除(尚書省吏部による任命)は送らない。同知審官院事一員、従四品。掌書四人。女直・漢人各二人、御史台終場挙人から選抜任用する。

太常寺

皇統三年正月に初めて設置された。太廟署・廩犧署・郊社署・諸陵署・大楽署などがこれに隷属する。

卿一員、従三品。少卿一員、正五品。丞一員、正六品。礼楽・郊廟・社稷・祠祀の事を掌る。博士二員、正七品。典礼を検討することを掌る。検閲官一員、従九品。掌ることは博士と同じ。泰和元年に設置、四年に廃止。検討二員、従九品。明昌元年に設置、品官の子孫および終場挙人をもって、国史院の漢人書写の例に同じくし、試験して補う。太祝、従八品。神主を奉祀することを掌る。奉礼郎、従八品。版位を設け、儀式を執り行うことを掌る。協律郎、従八品。麾節をもって楽を指揮し、律呂を調和し、音調を監視することを掌る。

太廟署。皇統八年に太廟が完成し、署を設け、令・丞を置き、なお慶元宮・明徳宮・永祚宮の三宮の提挙を兼ねた。令一員、従六品。太廟・衍慶宮・坤寧宮の殿中の神御(御神体)諸物および諸門の鍵の管理、掃除・守衛を掌り、兼ねて廩犧令の事を掌る。丞一員、従七品。兼ねて廩犧署丞を兼ねる。直長は明昌三年に廃止。

廩犧署。令・丞は太廟令・丞が兼ね、犠牲を薦め飼養する等の事を掌る。

郊社署。承安三年に祝史・斎郎百六十人を設け、班祗儤使とし、一年ごとに交替させた。大安元年、武成王廟署を兼ねることを奏上した。令一員、従六品。丞一員、従七品。社稷・祠祀・祈祷および祭器などの物を掌る。直長は明昌三年に廃止。

武成王廟署。大安元年に設置。令は従六品。丞は従七品。春秋の祀享を掌り、郊社令・丞が兼ねる。

諸陵署。大安四年に随朝と同じとする。提点山陵は正五品。涿州刺史が兼ねる。令は従六品。丞一員、従七品。山陵を守ることを掌る。直長は正八品。

園陵署。令は宛平県丞が兼ねる。貞祐二年に園陵が大興県の境に遷されたため、大興県令・丞が兼ねるようになった。

大楽署。鼓吹署を兼ねる。楽工百人。令一員、従六品。丞は従七品。律呂を調和し、音声を教習し、並びに施用の法を掌る。楽工部籍直長一員、正八品。大楽正、従九品。祠祀および行礼の際の楽懸の陳設を掌る。大楽副正、従九品。

右は太常寺に属す。