金史

本紀第四: 熙宗

熙宗弘基纘武莊靖孝成皇帝、諱は亶、本諱は合剌、太祖の孫、景宣皇帝の子なり。母は蒲察氏。天輔三年己亥の歳に生まる。天会八年、諳班勃極烈杲薨ず。太宗の意久しく未だ決せず。十年、左副元帥宗翰・右副元帥宗輔・左監軍完顔希尹朝に入り、宗幹と議して曰く「諳班勃極烈の位虚しく已久し、今早く定めざれば、其の人に非ざるを授くるを恐る。合剌は先帝の嫡孫、立つべし」と。相与に太宗に請うこと再三、乃ち之に従う。四月庚午、詔して曰く「爾は太祖の嫡孫なるを以て、故に爾を諳班勃極烈と命ず。其れ自ら沖幼と謂い、童戯に狎れざるべし、惟だ其の徳を敬え」と。諳班勃極烈とは、太宗嘗て是の官に居り、大位に登りて、弟杲を以て命ず。杲薨じ、帝儲嗣と定議す、故に是を以て命ず。

十三年正月己巳、太宗崩ず。庚午、即ち皇帝の位に即く。甲戌、中外に詔す。公私の酒を禁ずるを詔す。癸酉、使を遣わし斉・高麗・夏に告哀し及び即位を報じ、仍て詔して斉に自今臣と称し子と称す勿からしむ。二月乙巳、太祖后唐括氏を追諡して聖穆皇后と曰い、裴満氏を光懿皇后と曰う。太祖妃僕散氏を追冊して徳妃と曰い、烏古論氏を賢妃と曰う。辛酉、太祖を和陵に改葬す。

三月己卯、斉・高麗の使来たり弔祭す。庚辰、大行皇帝を諡して文烈と曰い、廟号を太宗とす。乙酉、太宗を葬りて和陵と為す。甲午、国論右勃極烈・都元帥宗翰を以て太保と為し、三省事を領し、晋国王に封ず。戊戌、諸国の使に宴を賜うるを詔す。楽を挙げず。四月戊午、斉・高麗使を遣わし即位を賀す。丙寅、昏徳公趙佶薨ず、使を遣わし祭を致し及び賻贈す。是の月、甘露熊嶽県に降る。

五月甲申、左副元帥宗輔薨ず。九月壬申、皇考豊王を追尊して景宣皇帝と為し、廟号を徽宗とし、皇妣蒲察氏を惠昭皇后と為す。戊寅、太祖后紇石烈氏・太宗后唐括氏を尊びて皆太皇太后と為し、中外に詔す。乙酉、徽宗及び惠昭后を改葬して興陵と為す。

十一月、尚書令しょうしょれい宋国王宗磐を以て太師と為す。乙亥、初めて暦を頒つ。己卯、元帥左監完顔希尹を以て尚書左丞相兼侍中と為し、太子少保高慶裔を左丞と為し、平陽尹蕭慶を右丞と為す。己丑、天開殿を爻剌に建つ。十二月癸亥、初めて斉・高麗・夏の朝賀・賜宴・朝辞の儀を定む。京西の鹿囿を農民に賜う。

十四年正月己巳朔、上両宮に太皇太后に朝す。斉・高麗・夏使を遣わし来たり賀す。癸酉、暦を高麗に頒つ。丁丑、太皇太后紇石烈氏崩ず。乙酉、万寿節、斉・高麗・夏使を遣わし来たり賀す。上本七月七日生まるも、皇考の忌日に同じきを以て、正月十七日を用いるに改む。二月癸卯、上尊諡して欽憲皇后と曰い、睿陵に葬る。三月壬午、太保宗翰・太師宗磐・太傅宗幹を以て並びに三省事を領せしむ。丁酉、高麗使を遣わし来たり弔す。八月丙辰、九代祖以下を追尊して皇帝・皇后と曰い、始祖・景祖・世祖・太祖・太宗の廟は皆祧せざるを定む。癸亥、詔して斉国と本朝の軍民訴訟相関する者は、文移年を署するに、止だ天会を用いしむ。十月甲寅、呉激を以て高麗王生日使と為し、蕭仲恭を斉劉回謝並びに生日正旦使と為す。

十五年正月癸亥朔、上明徳宮に太皇太后に朝す。斉・高麗・夏使を遣わし来たり賀す。初めて『大明暦』を用う。己卯、万寿節、斉・高麗・夏使を遣わし来たり賀す。六月庚戌、尚書左丞高慶裔・転連使劉思罪有りて伏誅す。七月辛巳、太保・領三省事・晋国王宗翰薨ず。丙戌夜、京師地震す。皇叔宗雋・宗固、叔祖暈を封じて皆王と為す。丁亥、兵を汰い爵の濫を興す。十月乙卯、元帥左監軍撻懶を以て左副元帥と為し、魯国王に封ず。宗弼右副元帥、瀋王に封ず。知枢密院事兼侍中時立愛致仕す。十一月丙午、斉国を廃し、劉豫を降封してしょく王と為し、中外に詔す。行台尚書省を汴に置く。十二月戊辰、劉豫表を上り封爵を謝す。癸未、詔して明年を天眷元年と改むるを命ず。大赦す。韓昉・耶律紹文等を命じて国史を編修せしむ。勖を以て尚書左丞・同中書門下平章事と為す。蜀王劉豫を臨潢府に徙す。

天眷元年正月戊子朔、上明徳宮に朝す。高麗・夏使を遣わし来たり賀す。女直小字を頒つ。大司空しくう昱を封じて王と為す。甲辰、万寿節、高麗・夏使を遣わし来たり賀す。二月壬戌、上爻剌の春水に如く。乙丑、天開殿に幸す。己巳、詔して来流水・混同江の護邏地を罷め、民に耕牧せしむ。三月庚寅、禁苑の隙地を以て百姓に分給す。戊申、韓昉を以て翰林学士と為す。

四月丁卯、少府監盧彦倫に命じて宮室を営建せしめ、止だ儉素に従わしむ。壬午、朝享して天元殿と為す。裴満氏を立てて貴妃と為す。五月己亥、詔して経義・詞賦の両科を以て士を取る。

六月戊午、上天開殿より至る。秋七月辛卯、左副元帥撻懶・東京留守宗雋来朝す。丁酉、按出滸河溢れ、廬舍を壊し、民多く溺死す。壬寅、左丞相希尹罷む。八月甲寅朔、官制を行い頒つ。癸亥、回鶻使を遣わし朝貢す。己卯、河南の地を宋に与う。右司侍郎張通古等を以て江南に使わしむ。京師を以て上京と為し、府を会寧と曰い、旧上京を北京と為す。九月甲申朔、奭を以て会寧牧と為し、鄧王に封ず。乙未、詔して百官の誥命、女直・契丹・漢人は各本字を用い、渤海は漢人に同じ。丁酉、燕京枢密院を改めて行台尚書省と為す。戊戌、上明徳宮に朝す。甲辰、奕を以て平章政事と為す。己酉、燕中・西三京、平州東・西等路の州県を省く。辛亥、権行台左丞相張孝純致仕す。

十月甲寅朔、御前管勾契丹文字李徳固を以て参知政事と為す。丙寅、叔宗強を封じて紀王と為し、宗敏を邢王と為し、太宗の子斛魯補等十三人を王と為す。己巳、初めて親王以下佩刀の宮に入るを禁ず。辛未、封国の制を定む。癸酉、東京留守宗雋を以て尚書左丞相兼侍中と為し、陳王に封ず。十一月丙辰、康宗以上の画像工畢するを以て、奠献して乾元殿と為す。十二月癸亥、新宮成る。甲戌、高麗使を遣わし入貢す。丁丑、貴妃裴満氏を立てて皇后と為す。

二年正月壬午朔、高麗・夏が使者を遣わして来朝し賀した。戊戌、万寿節、高麗・夏が使者を遣わして来賀した。左丞相宗雋を太保・領三省事とし、袞国王に進封した。興中尹完顔希尹を尚書左丞相兼侍中に復職させた。二月乙未、上は天開殿に行幸した。三月丙辰、百官に命じて儀制を詳定させた。四月甲戌、百官が朝参し、初めて朝服を用いた。己卯、宋が使者を遣わし河南の地を謝した。

五月戊子、太白が昼間に現れた。乙巳、上は天開殿より帰還した。六月己酉朔、初めて冠服を着用した。辛亥、呉十が謀反し、誅殺された。己未、上は従容として侍臣に謂いて曰く、「朕は毎に『貞観政要』を閲し、その君臣の議論を見るに、大いに規法とすべきなり。」翰林学士韓昉対えて曰く、「皆、太宗が温顔をもって訪問し、房玄齢・杜如晦らが忠誠を竭くしたによる。その書は簡略なれども、以て法と為すに足る。」上曰く、「太宗は固より一代の賢君なり、明皇は如何。」昉曰く、「唐は太宗以来、惟だ明皇・憲宗を数うるのみ。明皇は所謂く始め有りて終わり無き者なり。初め艱危を以て位を得、姚崇・宋璟を用い、惟だ正を是れ行い、故に開元の治を成すことを得たり。末年万機に怠り、政を李林甫に委ね、奸諛を用いるを是とし、以て天宝の乱を致せり。苟くも終わりを慎むこと始めの如くせば、則ち貞観の風を追うも難からざるなり。」上善しと称す。又曰く、「周の成王は如何なる主ぞ。」昉対えて曰く、「古の賢君なり。」上曰く、「成王は賢なれども、亦た周公の輔佐の力なり。後世、周公が其の兄を殺せりと疑う、朕の観るに、社稷の大計の為には、亦た非とすべからざるなり。」

七月辛巳、宋国王宗磐・袞国王宗雋が謀反し、誅殺された。丙戌、右副元帥宗弼を都元帥とし、国王に進封した。丁亥、宗磐らを誅したことを以て中外に詔した。己丑、左副元帥撻懶を行台左丞相とし、杜充を行台右丞相とし、蕭宝・耶律輝を行台平章政事とした。甲午、咸州祥穩沂王暈は宗磐と謀反した罪に坐し、誅殺された。辛丑、太傅・領三省事宗幹を太師とし、領三省は元の如く、梁宋国王に進封した。

八月辛亥、行台左相撻懶・翼王鶻懶及び活離胡土・撻懶の子斡帯・烏達補が謀反し、誅殺された。丁丑、太白が昼間に現れた。

九月戊寅朔、太宗の諸子を降封した。大司空昱を罷免した。丙申、初めて新宮に居した。太祖の原廟を慶元宮に立てた。壬寅、宋が王倫らを遣わし父の喪及び母韋氏等の帰還を乞うたが、倫を拘えて遣わさず。温都思忠に諸路を廉問させた。十月癸酉、夏国が使者を遣わし喪を告げた。十二月、豫国公昱が薨去した。

三年正月丁丑朔、高麗・夏が使者を遣わして来賀した。癸巳、万寿節、高麗・夏が使者を遣わして来賀した。都元帥宗弼に行台尚書省事を領させた。四月乙巳朔、温都思忠が諸路を廉問し、廉吏杜遵晦以下百二十四人を得、各々一階を進め、貪吏張軫以下二十一人は皆これを罷免した。癸丑、蜀国公完顔銀朮哥が薨去した。丁卯、上は燕京に行幸した。

五月丙子、詔して元帥府に河南・陝西の地を再取せしむ。己卯、詔して李仁孝を冊立して夏国王とす。都元帥宗弼に命じ兵を以て黎陽より汴に向かわしめ、右監軍撒離合に河中より陝西に向かわしむ。是の月、河南平まる。六月、陝西平まる。上は涼陘に駐蹕し、大旱あり。蕭彦譲・田鐧を使わして西京の囚を決せしむ。秋七月癸卯朔、日食あり。乙卯、宗弼が使者を遣わし河南・陝西の捷を奏す。丁卯、詔して文武官五品以上致仕する者に俸禄の半ばを給し、職三品の者は仍って傔人を給す。

八月辛巳、陝西五路を招撫諭す。壬午、初めて公主・郡県主及び駙馬の官品を定む。九月壬寅朔、宗弼来朝す。戊申、上は燕京に至る。己酉、親しく太祖廟を饗す。庚申、宗弼軍中に還る。夏国が使者を遣わし賻贈を謝す。癸亥、左丞相完顔希尹・右丞蕭慶及び希尹の子昭武大将軍把搭・符宝郎漫帯を誅殺す。戊辰、夏国が使者を遣わし封冊を謝す。十一月癸丑、孔子四十九代孫璠を以て衍聖公を襲封せしむ。癸亥、都点検蕭仲恭を尚書右丞とし、前西京留守昂を平章政事とす。甲子、行台尚書右丞相杜充薨去す。十二月乙亥、都元帥宗弼上言す、宋将岳飛・張俊・韓世忠が衆を率いて江を渡る、と。詔して之を撃たしむ。丁丑、地震あり。己亥、元帥左監軍阿離補を左副元帥とし、右監軍撒離合を右副元帥とす。

皇統元年正月辛丑朔、高麗・夏が使者を遣わして来賀した。庚戌、群臣上尊号して曰く崇天體道欽明文武聖德皇帝。初めて袞冕を着用す。癸丑、太廟に謝す。大赦す。改元す。丁巳、万寿節、高麗・夏が使者を遣わして来賀した。己未、初めて命婦の封号を定む。夏国が榷場の設置を請う、これを許す。己巳、平章政事昂を漆水郡王に封ず。

二月戊寅、詔す、諸致仕官で職が倶に三品に至る者は、俸禄人力各々其の半ばを給す。宗弼廬州を克つ。乙酉、海濱王耶律延禧を豫王に改封し、昏徳公趙佶を天水郡王とし、重昏侯趙桓を天水郡公とす。戊子、上親しく孔子廟を祭り、北面して再拝す。退いて侍臣に謂いて曰く、「朕幼年遊佚し、志学を知らず、歳月逾邁し、深く以て悔いる。孔子は位無きも、其の道は尊ぶべく、万世をして景仰せしむ。凡そ善を為すは、勉めざるべからず。」是より『尚書』『論語』及び『五代』『遼史』諸書を頗る読み、或いは夜を以て継ぐ。

三月己未、上は群臣を瑤池殿に宴し、時に宗弼が使者を遣わし捷を奏す。侍臣多く詩を進めて賀す。帝之を覧て曰く、「太平の世は、当に文物を尚ぶべし、古より治を致すは、皆是れに由るなり。」四月丙子、済南尹韓昉を参知政事とす。辛巳、宗弼江南を伐つことを請う、之に従う。五月己酉、太師・領三省事・梁宋国王宗幹薨去す。庚戌、上親しく臨む。日官奏す、戌・亥は哭泣に宜しからず、と。上曰く、「君臣の義、骨肉の親、豈に之を避くべけんや。」遂に之を哭して慟し、朝を輟むこと七日を命ず。

六月甲戌、詔して都元帥宗弼に宰執と同に入り奏事せしむ。庚寅、行台平章政事耶律暉致仕す。壬辰、有司楽を挙げることを請う、上は宗幹の新喪を以て允さず。甲午、衛王宗強薨去す、上親しく臨み、朝を輟むこと宗幹の喪の如し。七月癸卯、景宣皇帝の忌辰を以て、尚食に命じて肉を徹せしむ。丙午、宗弼を尚書左丞相兼侍中・都元帥・領行台(元の如く)とす。己酉、宗弼軍中に還る。辛亥、参知政事耶律譲罷免さる。

九月戊申、上は燕京より帰還す。明徳宮において太皇太后に朝す。詔して鰥寡孤独自存し能わざる者に賜う、人絹二匹・絮三斤。是の秋、蝗あり。都元帥宗弼宋を伐ち、淮を渡る。書を以て宋を譲責し、宋復書して兵を罷むることを乞う、宗弼便宜を以て淮を画して界とす。

十一月己酉、高麗国が尊号受領を賀す。稽古殿に火災あり。十二月癸巳、夏国が尊号受領を賀す。天水郡公趙桓が本品の俸禄を請う、詔してこれを賙済す。左丞勖が先朝の『実録』三巻を進む、上香を焚き立ちてこれを受く。

二年正月乙未朔、高麗・夏が使者を遣わし来賀す。己亥、上は来流河に狩猟す。乙巳、高麗を封ずることを命ず。丁未、上は来流河より至る。辛亥、万寿節、高麗・夏が使者を遣わし来賀す。壬子、衍聖公孔璠薨ず、子の拯が襲封す。二月丁卯、上は天開殿に至る。甲戌、熙河路を賑恤す。戊子、皇子済安生まる。辛卯、宋の使曹勳が来たり、歳幣銀・絹二十五万両・匹を許し、淮を画して境界とし、世々子孫、永く誓言を守ることを約す。蜀王劉豫を改めて曹王と封ず。壬辰、皇子の生誕を以て、中外に赦しを行う。

三月辛丑、天開殿より還る。大雪。丙午、宗弼を太傅と為す。丙辰、左宣徽使劉筈を遣わし、袞冕・圭・冊を以て宋の康王を帝として冊封す。宋帝の母韋氏及び故妻邢氏、天水郡王並びに妻鄭氏の喪を江南に帰す。戊午、子の済安を立てて皇太子と為す。四月丙寅、宋に臣すことを中外に告ぐ。庚午、五雲楼・重明等の殿成る。五月癸巳朔、朝に臨まず。上は去年より酒に荒み、近臣と飲み、或いは夜を継ぐ。宰相入りて諫むれば、輒ち酒を飲ませて曰く、「卿等の意を知る。今既に飲めり、明日は戒めん」と。因りて復た飲む。乙卯、宋に誓詔を賜う。辛酉、群臣を五雲楼に宴し、皆尽く酔いて罷む。

七月甲午、回鶻が使者を遣わし来貢す。北京・広寧府に蝗害あり。丁酉、宗弼に金券を賜う。八月丁卯、詔して朱弁・張邵・洪皓を宋に帰す。辛未、太宗の子胡盧を復た王と為す。陝西を賑恤す。

九月壬辰、詔して天水郡王の子・姪・婿、天水郡公に俸給を与う。

十一月甲寅、平章政事漆水郡王昂薨ず、鄆王を追封す。十二月乙丑、高麗王が使者を遣わし封冊を謝す。庚午、宋が使者を遣わし三喪及び母韋氏の帰還を謝す。壬申、上は核耶呆米路に狩猟す。癸未、宮に還る。甲申、皇太子済安薨ず。

三年正月己丑朔、皇太子の喪を以て正殿に御せず、群臣便殿に詣でて賀す。宋・高麗・夏の使は皇極殿に詣でて遙賀す。乙巳、万寿節、正旦の儀の如し。三月辛卯、尚書左丞勖を平章政事と為し、殿前都点検宗憲を尚書左丞と為す。丁酉、太皇太后唐括氏崩ず。己酉、子の道済を封じて魏王と為す。

五月丁巳朔、京兆が瑞麦を進む。癸亥、上は太皇太后に致祭す。甲申、初めて太廟・社稷を立てる。六月己酉、初めてぎょう毅軍を置く。七月丙寅、上は太皇太后に致祭す。庚辰、太原路が獬豸並びに瑞麦を進む。

八月辛卯、詔して天水郡王の孫及び天水郡公の婿に俸禄を与う。丙申、老人星見ゆ。乙巳、太皇太后に諡して欽仁皇后と曰う。戊申、恭陵に葬る。十二月癸未朔、日食あり。

四年正月癸丑朔、宋・高麗・夏が使者を遣わし来賀す。甲寅、詔して去年の宋の幣を以て始祖以下の宗室に賜う。己未、宋の使王倫を平州転運使と為す。既に命を受け、復た辞す。その反覆を罪し、これを誅す。乙丑、陝西が嘉禾十有二茎を進む。茎皆七穂なり。己巳、万寿節、宋・高麗・夏が使者を遣わし来賀す。乙亥、上は欽仁皇后を祭り、哭して哀しみを尽くす。二月癸未、上は東京に至る。丙申、百泊河の春水に次す。丁酉、回鶻が使者を遣わし来賀す。粘合韓奴を以てこれに報ず。

五月辛亥朔、薫風殿に次す。六月辛巳朔、日食あり。

七月庚午、東京に原廟を建つ。八月癸未、魏王道済を殺す。九月乙酉、上は東京に至る。壬子、沙河に畋猟し、虎を射てこれを獲る。乙卯、使者を遣わし遼主の陵を祭る。辛酉、詔して薫風殿二十里内及び巡幸の過ぐる所五里内の者、並びに一年を復す。癸酉、行台左丞相張孝純薨ず。十月壬辰、飢民に借貸する酬賞の格を立てる。甲辰、河朔諸郡の地震を以て、詔して百姓の一年を復し、その圧死して人無く収葬する者あれば、官これを斂蔵す。陝西・蒲・解・汝・蔡等の処、歳饑に因り、流民が典雇されて奴婢と為る者、官絹を給して良民に贖い、その郷に放還す。十一月己酉、上は海島に狩猟す。十二月甲午、東京に至る。

五年正月丁未朔、宋・高麗・夏が使者を遣わし来賀す。癸亥、万寿節、宋・高麗・夏が使者を遣わし来賀す。二月乙未、済州の春水に次す。三月戊辰、天開殿に次す。五月戊午、初めて御製の小字を用う。壬寅、平章政事勖の諫めにより、上は酒を止め、仍て廷臣に布告す。六月乙亥朔、日食あり。

八月戊戌、天開殿を発つ。九月庚申、東京より至る。十月辛卯、太祖に増諡す。閏月戊寅、大名府が牛の麟を生ずるを進む。壬辰、懐州が嘉禾を進む。十二月戊申、始祖以下の十帝及び太宗・徽宗に増諡す。丁巳、赦しを行う。

六年正月辛未朔、宋・高麗・夏が使者を遣わし来賀す。壬申、太祖の諸孫を封じて王と為す。乙亥、謀勒に畋猟す。甲申、京師に還る。丁亥、万寿節、宋・高麗・夏が使者を遣わし来賀す。庚寅、辺地を以て夏国に賜う。壬辰、春水に至る。帝に従い禽を逐うに、導騎誤って大沢中に入る。帝の馬陷る。因りて歩み出づ。亦た導者を罪せず。乙未、偎喝を封じて王と為す。二月丙寅、右丞相韓企先薨ず。

三月壬申、阿離補を行台右丞相とする。四月庚子朔、上春水より至る。同判大宗正事宗固を太保・右丞相兼中書令とする。戊午、行台右丞相阿離補薨ず。五月壬申、高麗王楷薨ず。辛卯、左宣徽使劉筈を行台右丞相とする。

六月乙巳、宇文虛中及び高士談を殺す。乙丑、使者を遣わして高麗を弔祭し、併せて嗣王晛を起復す。九月戊辰朔、許王の汴を破り、睿宗の陝西を平らげ、鄭王の遼を克ち、及び婁室・銀朮可の皆大功有るを以て、併せて碑を立てしむ。戊寅、曹王劉豫薨ず。是歳、粘割韓奴を遣わして耶律大石を招くも、害せらる。

七年正月乙丑朔、宋・高麗・夏使いを遣わして来賀す。辛巳、萬春節、宋・高麗・夏使いを遣わして来賀す。癸未、西京の鹿囿を民田となす。丁亥、太白天を経る。三月戊寅、高麗使いを遣わして弔祭・起復を謝す。四月戊午、便殿に宴す。上酒に酔い、戸部尚書宗禮を殺す。六月丁酉、横海軍節度使田鐧・左司郎中奚毅・翰林待制邢具瞻及び王植・高鳳廷・王效・趙益興・龔夷鑒等を殺す。

七月己巳、太白天を経る、畿内を曲赦す。九月、太保・右丞相宗固薨ず。都元帥宗弼を太師・領三省事とし、都元帥・行台尚書省事は元の如し、平章政事勖を左丞相兼侍中とし、都点検宗賢を右丞相兼中書令とし、行台右丞相劉筈・右丞蕭仲恭を平章政事とし、李德固を尚書右丞とし、秘書監蕭肄を参知政事とする。十月壬子、平章行台尚書省事奚寶薨ず。十一月癸酉、工部侍郎僕散太彎を御史大夫とする。乙亥、兵部尚書秉德三角羊を進む。己卯、詔して常膳の羊豕五の二を減ず。癸未、尚書左丞宗憲を行台平章政事とし、同判大宗正事亮を尚書左丞とする。十二月戊午、参知政事韓昉罷む。兵部尚書秉德を参知政事とする。

八年正月庚申朔、宋・高麗・夏使いを遣わして来賀す。丙子、萬寿節、宋・高麗・夏使いを遣わして来賀す。二月壬子、哥魯葛波古等を以て横賜高麗・夏国使とす。甲寅、大理卿宗安等を以て高麗王晛封冊使とす。乙卯、上天開殿に如く。四月戊子朔、日食有り。辛丑、参知政事秉德等を遣わして廉察官吏とす。庚戌、天開殿より至る。甲寅、『遼史』成る。六月乙卯、平章政事蕭仲恭を行台左丞相とし、左丞亮を平章政事とし、都点検唐括辯を尚書左丞とする。高麗使いを遣わして封冊を謝す。

七月乙亥、御史大夫僕散彎罷む、侍衛親軍都指揮使阿魯帶を以て御史大夫とする。戊寅、尚書左丞唐括辯職を奉じて謹まずを以て、之を杖つ。八月戊戌、宗弼『太祖実録』を進む、上香を焚き立ちて之を受く。庚子、尚書左丞相勖を行台尚書省事を領せしめ、右丞相宗賢を太保・尚書左丞相とする。丙午、行台左丞相蕭仲恭を尚書右丞相とする。閏月庚申、宰臣西林に鹿多きを以て、上に請いて狩らしむ。上稼を害するを恐れ、允さず。丙寅、太廟成る。九月丙申、尚書左丞唐括辯罷む。左宣徽使稟を以て尚書左丞とする。十月辛酉、太師・領三省事・都元帥・越国王宗弼薨ず。

十一月壬辰、太白天を経る。乙未、左丞相宗賢・左丞稟等言う、州郡の長吏は当に併せて本国人を用うべしと。上曰く、「四海の内、皆朕が臣子なり、若し分別して之を待たば、豈に一を致さんや。諺に云わざるや、‘疑う人を使う勿れ、使う人を疑う勿れ’。今より本国及び諸色の人、量才して通用せしめよ」と。辛丑、尚書左丞相宗賢を左副元帥とし、平章政事亮を尚書左丞相兼侍中とし、参知政事秉德を平章政事とする。庚戌、左副元帥宗賢復た太保と為り、左丞相・左副元帥は元の如し。十二月乙卯、右丞相蕭仲恭を太傅・領三省事とし、左丞相亮を尚書右丞相とする。乙亥、左丞相宗賢を太師・領三省事兼都元帥とする。

九年正月甲申朔、宋・高麗・夏使いを遣わして来賀す。戊戌、太師・領三省事・都元帥宗賢罷む。領行台尚書省事勖を太師・領三省事とし、同判大宗正事充を尚書左丞相とし、右丞相亮を都元帥を兼ねしむ。庚子、萬寿節、宋・高麗・夏使いを遣わして来賀す。壬寅、左丞相充薨ず。丙午、右丞相亮を左丞相とし、判大宗正事宗本を尚書右丞相とし、左副元帥宗敏を都元帥とし、南京留守宗賢を左副元帥兼西京留守とする。己酉、宗賢復た太保・領三省事と為る。

二月甲寅、會甯牧唐括辯復た尚書左丞と為り、尚書左丞稟を行台平章政事とする。三月癸未朔、日食有り。辛丑、司空宗本を尚書右丞相兼中書令とし、左丞相亮を太保・領三省事とする。

四月壬申夜、大風雨有り、雷電震えて寝殿の鴟尾を壊し、火有りて上寝に入り、幃幔を焼く、帝別殿に趨りて之を避く。丁丑、龍有りて利州榆林河水上に闘う。大風民居・官舎を壊し、瓦木人畜皆十数里に飄揚し、死傷者数百人。五月戊子、四月壬申・丁丑の天変を以て、肆赦す。翰林学士張鈞を命じて詔を草せしむ、参知政事蕭肄其の語を擿げて誹謗と為す、上怒り、鈞を殺す。是日、上京の囚を曲赦す。庚寅、太保・領三省事亮を出して行台尚書省事を領せしむ。戊申、武庫署令耶律八斤妄りに上言すと称し、宿直将軍蕭榮が胙王元と党を為すと、之を誅す。

六月己未、都元帥宗敏を太保・領三省事兼左副元帥とし、左丞相宗賢を都元帥を兼ねしむ。八月庚申、劉筈を司空とし、行台右丞相は元の如し。宰臣遼陽・勃海の民を燕南に徙すを議す、之に従う。侍従高寿星等当に遷るべし、訴えて后と為る、后以て上に白す、上議者を怒り、平章政事秉德を杖ち、左司郎中三合を殺す。九月丙申、領行台尚書省事亮を復た平章政事とする。戊戌、右丞相宗本を太保・領三省事とし、左副元帥宗敏を行台尚書省事を領せしめ、平章政事秉德を尚書左丞相兼中書令とし、司空劉筈を平章政事とする。庚子、御史大夫宗甫を参知政事とする。

十月乙丑、北京留守の胙王元及び弟の安武軍節度使查剌・左衛将軍特思を殺す。大赦す。癸酉、翰林学士の京を以て御史大夫となす。十一月癸未、皇后裴満氏を殺す。胙王妃撒卯を召して宮に入らしむ。戊子、故鄧王の子阿懶・達懶を殺す。癸巳、上、忽剌渾土温に狩猟す。使を遣わして徳妃烏古論氏及び夾谷氏・張氏を殺さしむ。十二月己酉朔、上、狩猟の所より至る。丙辰、妃裴満氏を殺して寝殿となす。而して平章政事の亮、群臣の震恐するに因り、親しき所の駙馬唐括辯・寝殿小底の大興国・護衛十人長の忽土・阿里出虎等と謀りて乱を為さんとす。丁巳、忽土・阿里出虎を以て内直に当たらしめ、省令史の李老僧に命じて興国に語らしむ。夜二鼓、興国、符を窃み、詔を矯めて宮門を開き、辯等を召す。亮、刀を懐きて其の妹婿の特廝と辯に随いて宮に入りて宮門に至る。守者、辯が駙馬なるを以て疑わず、之を内す。殿門に及んで、衛士覚り、刃を抽いて之を劫すも、敢えて動く者なし。忽土・阿里出虎、帝の前に至る。帝、榻上に常に置く所の佩刀を求めしも、既に興国の其の処を易置したるを知らず。忽土・阿里出虎遂に進みて帝をしいす。亮復た前に進みて手ずから之を刃す。血、其の面と衣とに満ち濺ぐ。帝崩ず。時に年三十一。左丞相の秉德等遂に亮を奉じて坐らしめ、羅列して拝し万歳を呼び、立って以て帝となす。帝を降して東昏王とし、皇后裴満氏の墓中に葬る。貞元三年、改葬して大房山の蓼香甸とし、諸王同じ兆域なり。大定初、追諡して武霊皇帝とし、廟号を閔宗とし、陵を思陵と曰う。別に廟を立つ。十九年、升祔して太廟となし、増諡して弘基纘武荘靖孝成皇帝とす。二十七年、廟号を改めて熙宗とす。二十八年、思陵狭小なるを以て、峨眉穀に改葬し、仍って思陵と号す。中外に詔す。

賛に曰く、熙宗の時、四方事無く、宗室大臣を敬礼し、国政を委ね、其の継体守文の治、観るに足る者有り。末年、酒に酔い妄りに殺し、人危懼を懐く。所謂、前に讒有りて見えず、後に賊有りて知らず。禍に馴致するは、一朝一夕の故に非ざるなり。