金史

本紀第二: 太祖

本紀第二: 太祖

太祖應乾興運昭德定功仁明莊孝大聖武元皇帝、諱いみなは旻、本諱は阿骨打、世祖の第二子なり。母は翼簡皇后拏懶氏と曰う。遼の道宗の時に五色の雲気屢屢東方に出で、大きさ二千斛の囷倉の状の若し、司天の孔致和竊かに人に謂いて曰く、「其の下に当に異人を生じ、非常の事つかを建つべし。天象を以て告ぐ、人の力の能あたく為す所に非ざるなり」と。咸雍四年戊申七月一日、太祖生まる。幼時に群児と戲れ、力数輩を兼ね、挙止端重、世祖尤も之を愛す。世祖、臘碚・麻産と野鵲水に戦い、世祖四創を被り、疾困し、太祖を膝に坐せ、其の髮を循りて之を撫でて曰く、「此の兒長大せば、吾復た何をか憂えん」と。十歳、弓矢を好む。甫く成童にして、即ち善く射る。一日、遼の使府中に坐し、顧みて太祖の手に弓矢を持するを見、群烏を射しめんとす。連三発皆中つ。遼使矍然として曰く、「奇男子なり」と。太祖嘗て紇石烈部の活離罕の家に宴し、門外に散步し、南に高阜を望み、衆をして之を射しむるも、皆至ること能わず。太祖一発にして之を過ぎ、度る所至ること三百二十歩を逾ゆ。宗室の謾都訶最も遠くを射るに善く、其の及ばざる者猶お百歩なり。天德三年、射碑を立てて以て之を識す。

原文太祖應乾興運昭德定功仁明莊孝大聖武元皇帝,諱旻,本諱阿骨打,世祖第二子也。母曰翼簡皇后拏懶氏。遼道宗時有五色雲氣屢出東方,大若二千斛囷倉之狀,司天孔致和竊謂人曰:「其下當生異人,建非常之事。天以象告,非人力所能爲也。」咸雍四年戊申七月一日,太祖生。幼時與群兒戲,力兼數輩,舉止端重,世祖尤愛之。世祖與臘碚、麻產戰于野鵲水,世祖被四創,疾困,坐太祖于膝,循其發而撫之,曰:「此兒長大,吾復何憂?」十歲,好弓矢。甫成童,即善射。一日,遼使坐府中,顧見太祖手持弓矢,使射群烏,連三發皆中。遼使矍然曰:「奇男子也!」太祖嘗宴紇石烈部活離罕家,散步門外,南望高阜,使衆射之,皆不能至。太祖一發過之,度所至逾三百二十步。宗室謾都訶最善射遠,其不及者猶百步也。天德三年,立射碑以識焉。

世祖、卜灰を伐つ。太祖、辞不失に因りて従行を請う。世祖許さずして心に之を異とす。烏春既に死し、窩謀罕和を請う。既に和を請い、復た来たりて攻む。遂に其の城を囲む。太祖年二十三、短甲を被り、冑を免れ、馬に介せず、行囲して諸軍に号令す。城中望みて之を識る。壮士太峪駿馬に乗じ槍を持ちて城を出で、馳せて太祖を刺す。太祖備えに及ばず、舅氏の活臘胡馳せて其の間に出で、太峪を撃つ。槍折れ、其の馬に刺し中つ。太峪僅かに免る。嘗て沙忽帶と出營して殺略し、世祖に知らしめず。且に還らんとし、敵重兵を以て之を追う。独り隘巷を行き、道を失い、追う者益急なり。高岸人の等しきに値い、馬一躍にして過ぐ。追う者乃ち還る。世祖疾に寢す。太祖、事有りて遼の統軍司に如ゆく。将に行かんとし、世祖之を戒めて曰く、「汝速かに此の事を了え、五月未だ半ばならずして帰らば、則ち我猶お汝に及んで見ん」と。太祖往きて曷魯騷古統軍に見ゆ。事を畢えし既に、世祖の没する前一日還りて家に至る。世祖、太祖の来たるを見、請う所の事皆志の如くなるを、喜び甚だし。太祖の手を執り、其の頸を抱きて之を撫で、穆宗に謂いて曰く、「烏雅束柔善なり、惟だ此の子能く契丹の事を了う」と。穆宗亦た雅く太祖を重んじ、出入必ず俱にす。太祖遠く出でて帰れば、穆宗必ず親しく之を迓う。

原文世祖伐卜灰,太祖因辭不失請從行,世祖不許而心異之。烏春既死,窩謀罕請和。既請和,復來攻,遂圍其城。太祖年二十三,被短甲,免胄,不介馬,行圍號令諸軍。城中望而識之。壯士太峪乘駿馬持槍出城,馳刺太祖。太祖不及備,舅氏活臘胡馳出其間,擊太峪,槍折,刺中其馬,太峪僅得免。嘗與沙忽帶出營殺略,不令世祖知之。且還,敵以重兵追之。獨行隘巷中,失道,追者益急。值高岸與人等,馬一躍而過,追者乃還。世祖寢疾,太祖以事如遼統軍司。將行,世祖戒之曰:「汝速了此事,五月未半而歸,則我猶及見汝也。」太祖往見曷魯騷古統軍,既畢事,前世祖沒一日還至家。世祖見太祖來,所請事皆如志,喜甚,執太祖手,抱其頸而撫之,謂穆宗曰:「烏雅束柔善,惟此子足了契丹事。」穆宗亦雅重太祖,出入必俱。太祖遠出而歸,穆宗必親迓之。

世祖既に臘醅を擒とらえ、麻産尚だ直屋鎧水に拠る。肅宗、太祖をして先ず麻産の家屬を取らしむ。康宗、直屋鎧水に至りて之を囲む。太祖軍に会し、親しく麻産を獲とら、馘を遼に献ず。遼、太祖をして詳穩たらしめ、仍なおて穆宗・辞不失・歡都皆をして詳穩たらしむ。久しうして。偏師を以て泥厖古部の跋黑・播立開等を伐ち、乃ち達塗阿を以て郷導と為し、帥水に沿いて夜行し之を襲い、其の妻子を鹵す。初め、溫都部の跋忒、唐括部の跋葛を殺す。穆宗、太祖をして之を伐たしむ。太祖入りて辞し、穆宗に謂いて曰く、「昨夕赤祥を見る、此の行必ず敵に克たん」と。遂に行く。是の歳大雪、寒さ甚だし。烏古論部の兵と土溫水に沿いて末鄰郷を過ぎ、跋忒を阿斯溫山北濼の間に追い及びて之を殺す。軍還り、穆宗親しく太祖を靄建村に迓う。

原文世祖已擒臘醅,麻產尚據直屋鎧水。肅宗使太祖先取麻產家屬,康宗至直屋鎧水圍之。太祖會軍,親獲麻產,獻馘于遼。遼命太祖爲詳穩,仍命穆宗、辭不失、歡都皆爲詳穩。久之。以偏師伐泥厖古部跋黑、播立開等,乃以達塗阿爲鄉導,沿帥水夜行襲之,鹵其妻子。初,溫都部跋忒殺唐括部跋葛,穆宗命太祖伐之。太祖入辭,謂穆宗曰:「昨夕見赤祥,此行必克敵。」遂行。是歲大雪,寒甚。與烏古論部兵沿土溫水過末鄰鄉,追及跋忒于阿斯溫山北濼之間,殺之。軍還,穆宗親迓太祖于靄建村。

撒改、都統を以て留可を伐ち、謾都訶、石土門と合して敵庫德を伐つ。撒改、将佐と議す。或いは先ず辺地部落の城堡を平げんと欲し、或いは径に留可城を攻めんと欲す。議決すること能わず、太祖の軍中に至らんことを願う。穆宗、太祖をして往かしめて曰く、「事必ず疑わしき有らん。軍の未だ発せざる者は甲士こうし七十あるのみ、尽く以て汝に畀えん」と。謾都訶、米里迷石罕城の下に在り、石土門未だ到らず。土人、謾都訶を執らんとして以て敵に与えんと欲し、使をして来たりて急を告げしむ。斜堆甸に於いて太祖に遇う。太祖曰く、「国兵尽く此に在り。敵をして先ず謾都訶に志を得しめば、後に種を誅すと雖も、何の益かあらん」と。乃ち甲士四十を分かちて之に与う。太祖三十人を以て撒改の軍に指す。道に人に遇いて曰く、「敵已に盆搦嶺の南路を据えたり」と。衆、沙偏嶺より往かんと欲す。太祖曰く、「汝等敵を畏るるか」と。盆搦嶺を度る既に、敵を見ず。已にして聞く、敵乃ち沙偏嶺を守りて以て我を拒ぐと。撒改の軍に及びて、夜急に之を攻め、遅明に其の衆を破る。是の時、留可・塢塔皆遼に在り。留可を破る既に、還りて塢塔城を攻む。城中の人城を以て降る。初め、太祖盆搦嶺を過ぎ、塢塔城の下を経る。従騎に後るる者有り。塢塔城の人攻めて之が釜を奪う。太祖馬を駐めて呼びて之に謂いて曰く、「我が炊食の器を取ること毋れ」と。其の人謾りて言いて曰く、「公能く此に来らば、何をか食を得んことを憂えん」と。太祖鞭を以て之を指して曰く、「吾留可を破らば、即ち汝に於いて之を取らん」と。是に至り、其の人釜を持ちて前りて曰く、「奴輩誰か敢えて祥穩の器を毀たんや」と。蒲家奴ほかどを遣わして詐都を招く。詐都乃ち降り、之を釈す。穆宗将に蕭海里を伐たんとし、兵を募りて千余人を得。女直じょちょくの兵未だ千に満たず。是に至り、太祖勇気自ら倍し、曰く、「此の甲兵有り、何事か図るべからざらん」と。海里来たりて戦い、遼兵と合す。因りて遼人を止め、自ら戦と為す。勃海の留守甲を以て太祖に贈る。太祖亦た受けず。穆宗問う、何を為して受けざるかと。曰く、「彼の甲を被りて戦わば、戦勝するは則ち是れ彼に因りて功を成すなり」と。穆宗の末年、諸部に令して擅に信牌を置き馳驛して事を訊くことを得ざらしむ。号令此より始めて一にす。皆太祖より之を啓く。

原文撒改以都統伐留可,謾都訶合石土門伐敵庫德。撒改與將佐議,或欲先平邊地部落城堡,或欲徑攻留可城,議不能決,願得太祖至軍中。穆宗使太祖往,曰:「事必有可疑。軍之未發者止有甲士七十,盡以畀汝。」謾都訶在米里迷石罕城下,石土門未到,土人欲執謾都訶以與敵,使來告急,遇太祖于斜堆甸。太祖曰:「國兵盡在此矣。使敵先得志于謾都訶,後雖種誅之,何益也。」乃分甲士四十與之。太祖以三十人指撒改軍。道遇人曰:「敵已據盆搦嶺南路矣。」衆欲由沙偏嶺往,太祖曰:「汝等畏敵耶?」既度盆搦嶺,不見敵,已而聞敵乃守沙偏嶺以拒我。及至撒改軍,夜急攻之,遲明破其衆。是時,留可、塢塔皆在遼。既破留可,還攻塢塔城,城中人以城降。初,太祖過盆搦嶺,經塢塔城下,從騎有後者,塢塔城人攻而奪之釜。太祖駐馬呼謂之曰:「毋取我炊食器。」其人謾言曰:「公能來此,何憂不得食。」太祖以鞭指之曰:「吾破留可,即于汝乎取之。」至是,其人持釜而前曰:「奴輩誰敢毀祥穩之器也。」遣蒲家奴招詐都,詐都乃降,釋之。穆宗將伐蕭海里,募兵得千餘人。女直兵未嘗滿千,至是,太祖勇氣自倍,曰:「有此甲兵,何事不可圖也!」海里來戰,與遼兵合,因止遼人,自爲戰。勃海留守以甲贈太祖,太祖亦不受。穆宗問何爲不受?曰:「被彼甲而戰,戰勝則是因彼成功也。」穆宗末年,令諸部不得擅置信牌馳驛訊事,號令自此始一,皆自太祖啟之。

康宗七年、年穀が実らず、民多く流亡し餓死し、強者は転じて盗賊となる。歡都らはその法を重くし、盗賊をなす者は皆これを殺さんと欲す。太祖曰く、「財を以て人を殺すは、不可なり。財は人の致す所なり」と。遂に盗賊の征償法を減じて三倍を征すと為す。民間に逋負多く、妻子を売りても償う能わず、康宗は官属と会議す。太祖は外庭に在りて帛を以て杖の端に系ぎ、その衆を麾し、令して曰く、「今貧者は自ら活く能わず、妻子を売りて債を償う。骨肉の愛は、人心の同じき所なり。今より三年征すること勿れ、三年を過ぎて徐かにこれを図らん」と。衆皆令を聴ゆるき、聞く者は感泣し、是より遠近心に帰す。癸巳の歳十月、康宗は狼を逐う夢を見、屡しばしば発して中つる能わず、太祖前に進みてこれを射て中つ。旦日、夢みし所を以て僚佐に問う。衆曰く、「吉なり。兄得ること能わずして弟これを得るの兆なり」と。是の月、康宗即世し、太祖位を襲いて都勃極烈ぼっきょくれつと為る。遼の使阿息保来たりて曰く、「何を以て喪を告げざるや」と。太祖曰く、「喪有りて弔う能わず、而して乃ち以て罪と為すか」と。他日、阿息保復た来たり、径ちに騎して康宗の殯所に至り、賵馬を閲し、これを取らんと欲す。太祖怒り、これを殺さんとし、宗雄諫めて止む。既にして遼の命久しく至らず。遼主は畋獵を好み、淫酗し、政事に怠り、四方の奏事、往々に見省せられず。紇石烈阿疏は既に遼に奔り、穆宗その城及びその部衆を取れども、帰る能わず。遂に族弟の銀朮可ぎんじゅつか、辞里罕と陰ひそかに南江の居人渾都僕速を結び、ともに亡れて高麗に入らんと欲す。事覚え、太祖は夾古撒喝を使わしてこれを捕えしむ。而して銀朮可、辞里罕は先んじて遼の戍所に獲られ、渾都僕速は已に亡げ去り、撒喝その妻子を取りて還る。

原文康宗七年,歲不登,民多流莩,強者轉而爲盜。歡都等欲重其法,爲盜者皆殺之。太祖曰:「以財殺人,不可!財者,人所致也。」遂減盜賊征償法爲征三倍。民間多逋負,賣妻子不能償,康宗與官屬會議,太祖在外庭以帛系杖端,麾其衆,令曰:「今貧者不能自活,賣妻子以償債。骨肉之愛,人心所同。自今三年勿征,過三年徐圖之。」衆皆聽令,聞者感泣,自是遠近歸心焉。歲癸巳十月,康宗夢逐狼,屢發不能中,太祖前射中之。旦日,以所夢問僚佐,衆曰:「吉。兄不能得而弟得之之兆也。」是月,康宗即世,太祖襲位爲都勃極烈。遼使阿息保來,曰:「何以不告喪?」太祖曰:「有喪不能吊,而乃以爲罪乎?」他日,阿息保復來,徑騎至康宗殯所,閱賵馬,欲取之。太祖怒,將殺之,宗雄諫而止。既而遼命久不至。遼主好畋獵、淫酗,怠于政事,四方奏事,往往不見省。紇石烈阿疏既奔遼,穆宗取其城及其部衆,不能歸。遂與族弟銀朮可、辭里罕陰結南江居人渾都僕速,欲與俱亡入高麗。事覺,太祖使夾古撒喝捕之,而銀朮可、辭里罕先爲遼戍所獲,渾都僕速已亡去,撒喝取其妻子而還。

二年甲午六月、太祖は江西に至る。遼は使を遣わして来たり、節度を襲ぐの命を致す。初め、遼は毎歳使を遣わし、名鷹海東青を海上たてまつに市い、道は境内を過ぐ。使者貪婪にして恣にし、征索に芸無く、公私これに厭苦す。康宗は嘗て阿疏を遣わさざるを以て言と為し、稍々その使者を拒ぐ。太祖節度を嗣ぎ、また蒲家奴を遣わして往きて阿疏を索む。故に常にこの二者を以て言と為し、終に遼を滅すに至りて然る後已む。是に至り、復た宗室の習古乃、完顔かんがん銀朮可を遣わして往きて阿疏を索む。習古乃ら還り、遼主の驕肆にして廃弛せる状を具に言う。ここにおいて官僚耆旧を召し、遼を伐つことを以てこれに告げ、沖要を備えしめ、城堡を建て、戎器を修めしめて、後の命を聴かしむ。遼の統軍司これを聞き、節度使捏哥を使わして来たりて状を問わしめ、曰く、「汝等異志有るか。戦具を修め、守備を傷け、将に誰を以てか禦がんとするや」と。太祖これに答えて曰く、「険を設けて自ら守る、また何をか問わんや」と。遼復た阿息保を遣わして来たりてこれを詰む。太祖これに謂いて曰く、「我は小国なり、大国に事えて礼を廃せざるを敢えず。大国は徳沢を施さず、而して逋逃を是れ主とす。此を以て小を字く、能く望み無からんや。若し阿疏を以て我に与えば、請う朝貢を事えん。苟も已むを得ざれば、豈に手を束ねて制を受くべけんや」と。阿息保還り、遼人始めて備えを為し、統軍蕭撻不野に命じて諸軍を甯江州に調わしむ。太祖これを聞き、僕聒剌を使わして復た阿疏を索めしめ、実にその形勢を観さしむ。僕聒剌還りて言う、「遼兵多く、その数を知らず」と。太祖曰く、「彼初めて兵を調う、豈に遽かに此の如く集めんや」と。復た胡沙保を遣わして往かしむ。還りて言う、「惟だ四院統軍司と甯江州の軍及び渤海八百人のみ」と。太祖曰く、「果たして吾が言の如し」と。諸将佐に謂いて曰く、「遼人は我が将に兵を挙げんとするを知り、諸路の軍を集めて我に備う。我は必ず先んじてこれを制し、人の制する所と為る無かれ」と。衆皆曰く、「善し」と。乃ち入りて宣靖皇后に見え、遼を伐つ事を以て告ぐ。后曰く、「汝は父兄を嗣ぎ邦家を立て、見る可きは則ち行え。吾は老いたり、我に憂いを貽す無かれ。汝は必ず是に至らざるべし」と。太祖感泣し、觴を奉じて寿を為す。即ち后を奉じて諸将を率い門を出で、觴を挙げて東に向かい、遼人の荒肆にして阿疏を帰さず、並びに己が兵を用うるの意を、皇天后土に禱る。酹し畢り、后は太祖に命じて正坐せしめ、僚属と会酒し、諸部に号令す。婆盧火を使わして移懶路の迪古乃の兵を征めしめ、斡魯古、阿魯を使わして斡忽、急賽の両路の遼籍に系る女直を撫諭せしめ、実不迭を使わして完睹路に往かしめ、遼の障鷹官達魯古部の副使辞列、甯江州の渤海の大家奴を執らしむ。ここにおいて達魯古部の実里館来たりて告げて曰く、「兵を挙げて遼を伐つと聞く、我が部は誰に従わん」と。太祖曰く、「吾が兵は少なきも、旧国なり、汝と鄰境なれば、固より我に従うべし。若し遼人を畏るれば、自ら往きてこれに就け」と。

原文二年甲午六月,太祖至江西,遼使使來致襲節度之命。初,遼每歲遣使市名鷹海東青于海上,道出境內,使者貪縱,征索無藝,公私厭苦之。康宗嘗以不遣阿疏爲言,稍拒其使者。太祖嗣節度,亦遣蒲家奴往索阿疏,故常以此二者爲言,終至于滅遼然後已。至是,復遣宗室習古乃、完顏銀朮可往索阿疏。習古乃等還,具言遼主驕肆廢弛之狀。于是召官僚耆舊,以伐遼告之,使備沖要,建城堡,修戎器,以聽後命。遼統軍司聞之,使節度使捏哥來問狀,曰:「汝等有異志乎?修戰具,傷守備,將以誰禦?」太祖答之曰:「設險自守,又何問哉!」遼復遣阿息保來詰之。太祖謂之曰:「我小國也,事大國不敢廢禮。大國德澤不施,而逋逃是主,以此字小,能無望乎?若以阿疏與我,請事朝貢。苟不獲已,豈能束手受制也。」阿息保還,遼人始爲備,命統軍蕭撻不野調諸軍于甯江州。太祖聞之,使僕聒剌復索阿疏,實觀其形勢。僕聒剌還言:「遼兵多,不知其數。」太祖曰:「彼初調兵,豈能遽集如此。」復遣胡沙保往,還言:「惟四院統軍司與甯江州軍及渤海八百人耳。」太祖曰:「果如吾言。」謂諸將佐曰:「遼人知我將舉兵,集諸路軍備我,我必先發制之,無爲人制。」衆皆曰:「善。」乃入見宣靖皇后,告以伐遼事。后曰:「汝嗣父兄立邦家,見可則行。吾老矣,無貽我憂,汝必不至是也。」太祖感泣,奉觴爲壽。即奉后率諸將出門,舉觴東向,以遼人荒肆,不歸阿疏,並己用兵之意,禱于皇天后土。酹畢,后命太祖正坐,與僚屬會酒,號令諸部。使婆盧火征移懶路迪古乃兵,斡魯古、阿魯撫諭斡忽、急賽兩路系遼籍女直,實不迭往完睹路執遼障鷹官達魯古部副使辭列、甯江州渤海大家奴。于是達魯古部實里館來告曰:「聞舉兵伐遼,我部誰從?」太祖曰:「吾兵雖少,舊國也,與汝鄰境,固當從我。若畏遼人,自往就之。」

九月、太祖は軍を進めて甯江州に至り、寥晦城に次やどす。婆盧火の徴兵は後期し、これを杖ち、復た遣わして軍を督めしむ。諸路の兵皆来流水に会し、二千五百人を得る。遼の罪を致し、天地に申告して曰く、「世々遼国に事え、職貢を恪く修め、烏春、窩謀罕の乱を定め、蕭海里の衆を破り、功有りて省みず、而して侵侮を是れ加う。罪人阿疏、屡請すれども遣わさず。今将に遼に罪を問わんとす、天地其れ鑒み佑けたまえ」と。遂に諸将に命じて挺を伝えしめて誓わしめて曰く、「汝等同心尽力し、功有る者は、奴婢部曲ぶきょくは良と為し、庶人はこれを官し、先に官有る者は叙進し、軽重は功に視よ。苟も誓言に違わば、身は挺の下に死し、家属は赦さず」と。師は唐括帯斡甲の地に次す。諸軍禳射し、介して立ち、光有りて烈火の如く、人の足及び戈矛の上に起こり、人兵祥と為す。明日、紮只水に次し、光見ゆること初めの如し。将に遼界に至らんとして、先ず宗幹を使わして士卒ついを督め塹を夷らしむ。既に度りて渤海軍に遇い、我が左翼の七謀克ぼうこくを攻む。衆少しく却く。敵兵直ちに中軍を犯す。斜也しゃや出でて戦い、哲垤先駆す。太祖曰く、「戦は易うべからず」と。宗幹を使わしてこれを止めしむ。宗幹馳せ出でて斜也の前に在り、哲垤の馬を控えて止め、斜也遂にこれと俱に還る。敵人はこれに従う。耶律謝十馬より墜つ。遼人前に進みて救う。太祖救う者を射て斃す。並びに謝十を射てこれに中つ。騎有りて突き前る。又これを射て、紮を徹し胸を洞く。謝十箭を抜きて走る。追いてこれを射て、その背に中つ。矢の半を飲み、僨れて死す。乗ずる所の馬を獲る。宗幹は数騎と遼軍中に陥る。太祖これを救い、冑を免じて戦う。或いは傍よりこれを射る。矢は顙に拂う。太祖顧みて射る者を見、一矢にして斃す。将士に謂いて曰く、「敵を尽くして止めよ」と。衆これに従い、勇気自ら倍す。敵大いに奔り、相蹂踐し死者十の七八。撒改は別路に在り、会戦に及ばず。人を使わして戦勝を以てこれを告げしめ、而して謝十の馬を以てこれを賜う。撒改はその子宗翰、完顔希尹を使わして来たりて賀し、且つ帝を称し、因りて進むを勧む。太祖曰く、「一戦にして勝ち、遂に大号を称す、何ぞ人に示すこと浅きや」と。軍を進めて甯江州に至る。諸軍塹を填めて城を攻む。甯江の人東門より出づ。温蒂痕、阿徒罕邀撃し、尽くこれを殪す。

原文九月,太祖進軍甯江州,次寥晦城。婆盧火徵兵後期,杖之,復遣督軍。諸路兵皆會于來流水,得二千五百人。致遼之罪,申告于天地曰:「世事遼國,恪修職貢,定烏春、窩謀罕之亂,破蕭海里之衆,有功不省,而侵侮是加。罪人阿疏,屢請不遣。今將問罪于遼,天地其鑒佑之。」遂命諸將傳挺而誓曰:「汝等同心盡力,有功者,奴婢部曲爲良,庶人官之,先有官者敘進,輕重視功。苟違誓言,身死梃下,家屬無赦。」師次唐括帶斡甲之地,諸軍禳射,介而立,有光如烈火,起于人足及戈矛之上,人以爲兵祥。明日,次紮只水,光見如初。將至遼界,先使宗幹督士卒夷塹。既度遇渤海軍攻我左翼七謀克,衆少卻,敵兵直犯中軍。斜也出戰,哲垤先驅。太祖曰:「戰不可易也。」遣宗幹止之。宗幹馳出斜也前,控止哲垤馬,斜也遂與俱還。敵人從之,耶律謝十墜馬,遼人前救。太祖射救者斃。並射謝十中之。有騎突前,又射之,徹紮洞胸。謝十拔箭走,追射之,中其背,飲矢之半,僨而死,獲所乘馬。宗幹與數騎陷遼軍中,太祖救之,免胄戰。或自傍射之,矢拂于顙。太祖顧見射者,一矢而斃。謂將士曰:「盡敵而止。」衆從之,勇氣自倍。敵大奔,相蹂踐死者十七八。撒改在別路,不及會戰,使人以戰勝告之,而以謝十馬賜之。撒改使其子宗翰、完顏希尹來賀,且稱帝,因勸進。太祖曰:「一戰而勝,遂稱大號,何示人淺也。」進軍甯江州,諸軍填塹攻城。甯江人自東門出,溫蒂痕、阿徒罕邀擊,盡殪之。

十月朔日、その城を陥れ、防禦使大薬師奴を捕らえ、密かにこれを釈放し、遼人を招諭させた。鉄驪部が来て帰順を申し出た。来流城に至り、俘とりこ獲を将兵に賜う。渤海の梁福・斡答剌を召し、偽って逃亡させ、その郷人を招諭して言う、「女直と渤海は本来一家なり、我が師を興して罪を伐つは、無辜に濫り及ばざるなり」と。完顔婁室ろうしつをして系遼籍の女直を招諭せしむ。軍を返し、宣靖皇后に謁し、獲たるものを宗室の耆老に頒ち、実里館の資産を将兵に給す。初めて諸路に命じて三百戸を以て謀克と為し、十謀克を以て猛安もうあんと為す。酬斡らは讒謀水の女直を撫定す。鱉古の酋長胡蘇魯、城を以て降る。

原文十月朔,克其城,獲防禦使大藥師奴,陰縱之,使招諭遼人。鐵驪部來送款。次來流城,以俘獲賜將士。召渤海梁福、斡答剌使之偽亡去,招諭其鄉人曰:「女直、渤海本同一家,我興師伐罪,不濫及無辜也。」使完顏婁室招諭系遼籍女直。師還,謁宣靖皇后,以所獲頒宗室耆老,以實里館貲產給將士。初命諸路以三百戶爲謀克,十謀克爲猛安。酬斡等撫定讒謀水女直。鱉古酋長胡蘇魯以城降。

十一月、遼の都統蕭糺里・副都統撻不野、歩騎十万を将いて鴨子河北に会す。太祖自ら将いてこれを撃つ。鴨子河に至らざるに、既に夜、太祖方に枕に就かんとす、若しその首を扶くる者三たびあるが如く、覚めて起ちて曰く、「神明我を警むるなり」と。即ち鼓を鳴らし燧を挙げて行く。黎明に河に及び、遼兵方に凌道を壊さんとす、壮士十輩を選びてこれを撃退す。大軍続いて進み、遂に岸に登る。甲士三千七百、至れる者は僅かに三分の一。俄にして敵に出河店において遇い、大風起こり、塵埃天を蔽い、風勢に乗じてこれを撃つと、遼兵潰ゆ。逐いて斡論濼に至り、首虜及び車馬甲兵珍玩を殺獲すること勝計せず、遍く官属将兵に賜い、宴犒一日に満つ。遼人は嘗て言う、女直兵若し満万ならば則ち敵すべからずと、ここに至りて始めて満万と云う。斡魯古、遼兵を破り、その節度使撻不野を斬る。僕虺ら賓州を攻め、これを抜く。兀惹の雛鶻室来降す。遼の将赤狗児、賓州において戦い、僕虺・渾黜これを破る。鉄驪王回離保、その部を以て降る。吾睹補・蒲察ほさつ、復た赤狗児・蕭乙薛の軍を祥州東に破る。斡忽・急塞の両路降る。斡魯古、遼軍を鹹州西に破り、統軍実婁を陣に斬る。完顔婁室、鹹州を克つ。

原文十一月,遼都統蕭糺里、副都統撻不野將步騎十萬會于鴨子河北。太祖自將擊之。未至鴨子河,既夜,太祖方就枕,若有扶其首者三,寤而起,曰:「神明警我也!」即鳴鼓舉燧而行。黎明及河,遼兵方壞淩道,選壯士十輩擊走之。大軍繼進,遂登岸。甲士三千七百,至者才三之一。俄與敵遇于出河店,會大風起,塵埃蔽天,乘風勢擊之,遼兵潰。逐至斡論濼,殺獲首虜及車馬甲兵珍玩不可勝計,遍賜官屬將士,燕犒彌日。遼人嘗言女直兵若滿萬則不可敵,至是始滿萬雲。斡魯古敗遼兵,斬其節度使撻不野。僕虺等攻賓州,拔之。兀惹雛鶻室來降。遼將赤狗兒戰于賓州,僕虺、渾黜敗之。鐵驪王回離保以所部降。吾睹補、蒲察復敗赤狗兒、蕭乙薛軍于祥州東。斡忽、急塞兩路降。斡魯古敗遼軍于鹹州西,斬統軍實婁于陣。完顏婁室克鹹州。

是の月、呉乞買・撒改・辞不失、宮属諸将を率いて進むを勧め、新歳の元日を以て恭しく尊号を上らんことを願う。太祖許さず。阿離合懣・蒲家奴・宗翰ら進みて曰く、「今大功已に建てり、若し称号せずんば、以て天下の心を繋ぐこと無し」と。太祖曰く、「吾将にこれを思わん」と。

原文是月,吳乞買、撒改、辭不失率宮屬諸將勸進,願以新歲元日恭上尊號,太祖不許。阿離合懣、蒲家奴、宗翰等進曰:「今大功已建,若不稱號,無以系天下心。」太祖曰:「吾將思之。」

収国元年正月壬申朔、群臣尊号を奉上す。是の日、即ち皇帝の位に即く。上曰く、「遼は賓鉄を以て号と為し、その堅きを取るなり。賓鉄は堅しと雖も、終には亦た変壊す、惟だ金は変ぜず壊れず。金の色は白し、完顔部の色は白を尚ぶ」と。ここにおいて国号を大金とし、元を収国と改む。丙子、上自ら将いて黄龍府を攻め、益州に臨む。州人は走りて黄龍に保つ、その余民を取って帰る。遼は都統耶律訛里朶・左副統蕭乙薛・右副統耶律張奴・都監蕭謝仏留を遣わし、騎二十万・歩卒七万を以て辺を戍らしむ。婁室・銀朮可を留めて黄龍を守らしめ、上は兵を率いて達魯古城に趨き、甯江州西に次す。遼は僧家奴を遣わして来たり和を議す、国書は上名を斥け、且つ属国たらしめんとす。庚子、師を進む、火光正円にして、空より墜つ。上曰く、「此れ祥征、殆ど天の助けなるか」と。白水に酹して拝し、将兵喜躍せざるは莫し、進みて達魯古城に逼る。上高きに登りて遼兵を望むに連雲灌木の状の如し、顧みて左右に謂いて曰く、「遼兵は心貳にして情怯し。多しと雖も畏るるに足らず」と。遂に高阜に趨きて陣を為す。宗雄は右翼を以て先ず遼の左軍に馳せ、左軍退く。左翼はその陣後に出で、遼の右軍は皆力戦す。婁室・銀朮可はその中堅を衝く。凡そ九たび陣に陷り、皆力戦して出づ。宗翰は中軍を以てこれを助けんことを請う。上は宗幹をして往かしめて疑兵と為さしむ。宗雄已に利を得、遼の右軍を撃つと、遼兵遂に敗る。勝に乗じて追躡し、その営に至り、会うに日已に暮れ、これを囲む。黎明、遼軍は囲みを潰して出で、北を逐いて阿婁岡に至る。遼の歩卒は尽く殪え、その耕具数千を得て以て諸軍に給す。この役に、遼人は本より屯田せんと欲し、且つ戦い且つ守らんとす、故にその耕具を併せて獲る。

原文收國元年正月壬申朔,群臣奉上尊號。是日,即皇帝位。上曰:「遼以賓鐵爲號,取其堅也。賓鐵雖堅,終亦變壞,惟金不變不壞。金之色白,完顏部色尚白。」于是國號大金,改元收國。丙子,上自將攻黃龍府,進臨益州。州人走保黃龍,取其餘民以歸。遼遣都統耶律訛里朵、左副統蕭乙薛、右副統耶律張奴、都監蕭謝佛留,騎二十萬、步卒七萬戍邊。留婁室、銀朮可守黃龍,上率兵趨達魯古城,次甯江州西。遼使僧家奴來議和,國書斥上名,且使爲屬國。庚子,進師,有火光正圓,自空而墜。上曰:「此祥征,殆天助也!」酹白水而拜,將士莫不喜躍,進逼達魯古城。上登高望遼兵若連雲灌木狀,顧謂左右曰:「遼兵心貳而情怯。雖多不足畏!」遂趨高阜爲陣。宗雄以右翼先馳遼左軍,左軍卻。左翼出其陣後,遼右軍皆力戰。婁室、銀朮可沖其中堅。凡九陷陣,皆力戰而出。宗翰請以中軍助之。上使宗幹往爲疑兵。宗雄已得利,擊遼右軍,遼兵遂敗。乘勝追躡,至其營,會日已暮,圍之。黎明,遼軍潰圍出,逐北至阿婁岡。遼步卒盡殪,得其耕具數千以給諸軍。是役也,遼人本欲屯田,且戰且守,故並其耕具獲之。

二月、師還る。三月辛未朔、寥晦城において狩猟す。四月、遼の耶律張奴、国書を以て来る。上は書辞の慢侮なるを以て、その五人を留め、独り張奴を遣わして回報せしめ、書も亦たこれに如くす。五月庚午朔、近郊に避暑す。甲戌、天を拝し柳を射る。故事、五月五日・七月十五日・九月九日に天を拝し柳を射り、歳を以て常と為す。

原文二月,師還。三月辛未朔,獵于寥晦城。四月,遼耶律張奴以國書來。上以書辭慢侮,留其五人,獨遣張奴回報,書亦如之。五月庚午朔,避暑于近郊。甲戌,拜天射柳。故事,五月五日、七月十五日、九月九日拜天射柳,歲以爲常。

六月己亥朔、遼の耶律張奴、復た国書を以て来る、猶お上名を斥く。上も亦た遼主の名を斥けて以てこれに復し、且つこれを諭して降らしむ。七月戊辰、弟呉乞買を以て諳班あんばん勃極烈と為し、国相こくしょう撒改を国論勃極烈と為す。辞不失を阿買勃極烈と為し、弟斜也を国論昊勃極烈と為す。甲戌、遼は辞剌を遣わして書を以て来らしむ、これを留めて遣わさず。九百奚営来降す。

原文六月己亥朔,遼耶律張奴復以國書來,猶斥上名。上亦斥遼主名以復之,且諭之使降。七月戊辰,以弟吳乞買爲諳班勃極烈,國相撒改爲國論勃極烈。辭不失爲阿買勃極烈,弟斜也爲國論昊勃極烈,甲戌,遼使辭剌以書來,留之不遣。九百奚營來降。

八月戊戌、上親征して黄龍府を征す。混同江に次す、舟無し、上は一人をして道の前を行かしめ、赭白馬に乗じて径ちに渉りて曰く、「我が鞭の指す所に視て行け」と。諸軍これに随い、水は馬の腹に及ぶ。後に舟人をしてその渡る処を測らしむるに、深くしてその底を得ず。熙宗天眷二年、黄龍府を以て済州と為し、軍を利涉と曰う、蓋し太祖の渉り済ましめたる故なり。

原文八月戊戌,上親征黃龍府。次混同江,無舟,上使一人道前,乘赭白馬徑涉,曰:「視吾鞭所指而行。」諸軍隨之,水及馬腹。後使舟人測其渡處,深不得其底。熙宗天眷二年,以黃龍府爲濟州,軍曰利涉,蓋以太祖涉濟故也。

九月、黄龍府を克ち、辞剌を還し遣わし、遂に班師す。江に至り、前に如く径ちに渡る。丁丑、黄龍府より至る。己卯、黄龍空中に見ゆ。癸巳、国論勃極烈撒改を以て国論忽魯勃極烈と為し、阿離合懣を国論乙室勃極烈と為す。

原文九月,克黃龍府,遣辭剌還,遂班師。至江,徑渡如前。丁丑,至自黃龍府。己卯,黃龍見空中。癸巳,以國論勃極烈撒改爲國論忽魯勃極烈,阿離合懣爲國論乙室勃極烈。

十一月、遼主は黄龍府を取れりと聞き、大いに懼れ、自ら七十万を将いて駝門に至る。駙馬蕭特末・林牙蕭査剌ら騎五万・歩四十万を将いて斡鄰濼に至る。上自ら将いてこれを御す。

原文十一月,遼主聞取黃龍府,大懼,自將七十萬至駝門。附馬蕭特末、林牙蕭查剌等騎五萬、步四十萬至斡鄰濼。上自將御之。

十二月己亥、爻剌に至り、諸将を集めて会議した。皆が言うには、「遼兵は七十万と号し、その鋒鋭は容易に当たるべからず。我が軍は遠来し、人馬疲弊している。ここに駐留し、深く溝を掘り高く塁を築いて待つべきである」と。上はこれに従った。迪古乃・銀朮可を遣わして達魯古を鎮撫させた。丁未、上は騎兵を率いて自ら遼軍の様子を偵察し、糧秣督運の者を捕らえ、遼主が張奴の反乱により、西へ帰還してすでに二日経っていることを知った。この日、上は熟結濼に戻り、矛の先に光が現れた。戊申、諸将が言うには、「今、遼主は既に帰還した。その油断に乗じて追撃すべきである」と。上は言った、「敵が来れば迎え撃たず、去ったからといって追撃する。これをもって勇としようというのか」。衆は皆恐れ慚じ、自ら進んで戦おうと願った。上はさらに言った、「もし真に敵を追いたいならば、軽装で行き、糧秣輸送の煩わしさはない。もし敵を破れば、何を求めて得られないことがあろうか」。衆は皆奮い立ち躍進し、護歩答岡において遼主に追いついた。この戦役、兵はわずか二万であった。上は言った、「彼は衆く我は寡ない。兵を分けてはならない。その中軍が最も堅固なのを見れば、遼主は必ずそこにいる。その中軍を破れば、目的を達することができる」。右翼をして先に戦わせた。兵が数度交戦するうちに、左翼が合流してこれを攻撃した。遼兵は大いに潰え、我が師はこれを追撃し、その陣中を横断した。遼師は敗北し、死者が百余里にわたって連なった。輿輦・帟幄・兵械・軍資を獲得し、その他の宝物・馬牛は数えきれなかった。この戦いで、斜也は矛を揮って数十人を殺し、阿離本は包囲されたが、溫蒂罕迪忽迭が四謀克の兵を率いてこれを救い出し、完顏蒙刮は数か所の傷を負いながらも力戦を止めず、その功績はいずれも最上と評された。蕭特末らは陣営を焼いて遁走し、そこで軍を返した。來穀撒喝は開州を奪取し、婆盧火は特鄰城を陥落させ、辞里罕は降伏した。

原文十二月己亥,行次爻剌,會諸將議。皆曰:「遼兵號七十萬,其鋒未易當。吾軍遠來。人馬疲乏,宜駐于此,深溝高壘以待。」上從之。遣迪古乃、銀朮可鎮達魯古。丁未,上以騎兵親候遼軍,獲督餉者,知遼主以張奴叛,西還二日矣。是日,上還至熟結濼,有光見于予端。戊申,諸將曰:「今遼主既還,可乘怠追擊之。」上曰「敵來不迎戰,去而追之,欲以此爲勇邪?」衆皆悚愧,願自效。上復曰:「誠欲追敵,約齎以往,無事餫饋。若破敵,何求不得。」衆皆奮躍,追及遼主于護步答岡。是役也,兵止二萬。上曰:「彼衆我寡,兵不可分。視其中軍最堅,遼主必在焉。敗其中軍,可以得志。」使右翼先戰。兵數交,左翼合而攻之。遼兵大潰,我師馳之,橫出其中。遼師敗績,死者相屬百餘里。獲輿輦帟幄兵械軍資,他寶物馬牛不可勝計。是戰,斜也援矛殺數十人,阿離本被圍,溫蒂罕迪忽迭以四謀克兵出之,完顏蒙刮身被數創,力戰不已,功皆論最。蕭特末等焚營遁去,遂班師。來穀撒喝取開州,婆盧火下特鄰城,辭里罕降。

二年正月戊子、詔を下して言った、「遼兵を破って以来、四方より降伏して来る者が多い。優しく慰撫すべきである。今より契丹・奚・漢・渤海・遼籍に属する女直・室韋・達魯古・兀惹・鉄驪の諸部の官民で、既に降伏した者、あるいは軍に捕虜となった者、逃亡して戻って来た者は、罪としない。その酋長は引き続き官職に任じ、かつ適宜居住させること」。

原文二年正月戊子,詔曰:「自破遼兵,四方來降者衆,宜加優恤。自今契丹、奚、漢、渤海、系遼籍女直、室韋、達魯古、兀惹、鐵驪諸部官民,己降或爲軍所俘獲,逃遁而還者,勿以爲罪。其酋長仍官之,且使從宜居處。」

閏月、高永昌が東京を占拠し、撻不野を遣わして来援を求めた。高麗が使節を遣わして勝利を祝賀し、かつ保州を求めて来た。詔して自らこれを取ることを許した。二月己巳、詔を下して言った、「近年、凶作により庶民が食糧に苦しみ、多くは豪族に依附し、そのために奴隷となった者、および法を犯し、賠償を徴収しても弁済できず、身を抵当として奴隷となった者、あるいは私的に期限を定め、人をもって対価とし贖あがなおうとしたが、期限を過ぎて奴隷となった者は、いずれも二人で一人を贖い良民とすることを聴許する。もし元の約定で一人で贖うこととした場合は、元の約定に従う」。四月乙丑、斡魯に内外諸軍を統率させ、蒲察・迪古乃と咸州路都統の斡魯古と会合させ、高永昌を討伐させた。胡沙補らが害された。五月、斡魯らは永昌を破り、撻不野が永昌を捕らえて献上し、軍中でこれを誅殺した。東京の州県および南路の遼籍女直は皆降伏した。詔して遼の法を廃し、税賦を軽減し、猛安謀克を設置すること、全て本朝の制度の通りとした。斡魯を南路都統とした。迭勃極烈の阿徒罕が照散城において遼兵六万を破った。九月己亥、上は近郊で狩猟した。乙巳、南路都統の斡魯が婆盧買水に来て謁見した。初めて金牌を制定した。十二月庚申朔、諳班勃極烈の呉乞買および群臣が尊号を奉って大聖皇帝と称し、明年を天輔元年と改めた。

原文閏月,高永昌據東京,使撻不野來求援。高麗遣使來賀捷,且求保州。詔許自取之。二月己巳,詔曰:「比以歲凶,庶民艱食,多依附豪族,因爲奴隸,及有犯法,征償莫辦,折身爲奴者,或私約立限,以人對贖,過期則爲奴者,並聽以兩人贖一爲良。若元約以一人贖者,即從元約。」四月乙丑,以斡魯統內外諸軍,與蒲察、迪古乃會咸州路都統斡魯古討高永昌。胡沙補等被害。五月,斡魯等敗永昌,撻不野擒永昌以獻,戮之于軍。東京州縣及南路系遼女直皆降。詔除遼法,省稅賦,置猛安謀克一如本朝之制。以斡魯爲南路都統。迭勃極烈阿徒罕破遼兵六萬于照散城。九月己亥,上獵近郊。乙巳,南路都統斡魯來見于婆盧買水。始制金牌。十二月庚申朔,諳班勃極烈吳乞買及群臣上尊號曰大聖皇帝,改明年爲天輔元年。

天輔元年正月、開州が叛き、加古撒喝らが討伐して平定した。國論昊勃極烈の斜也が兵一万を率いて泰州を奪取した。四月、遼の秦晉國王耶律捏里が来伐し、迪古乃・婁室・婆盧火が兵二万を率いた。咸州路都統の斡魯古と会合してこれを撃った。五月丁巳、詔を下して、寧江州を収めて以後、同姓で婚姻した者は、杖罰を加えて離縁させることとした。七月戊申、完顏斡論をして東京の事務を掌らせた。八月癸亥、高麗が使節を遣わして保州を請うて来た。十二月甲子、斡魯古らが蒺藜山において耶律捍里の軍を破り、顕州を抜き、乾・懿・豪・徽・成・川・惠等の州は皆降伏した。

原文天輔元年正月,開州叛,加古撒喝等討平之。國論昊勃極烈斜也以兵一萬取泰州。四月,遼秦晉國王耶律捏里來伐,迪古乃、婁室、婆盧火將兵二萬。會咸州路都統斡魯古擊之。五月丁巳,詔自收甯江州已後同姓爲婚者,杖而離之。七月戊申,以完顏斡論知東京事。八月癸亥,高麗遣使來請保州。十二月甲子,斡魯古等敗耶律捍里兵于蒺藜山,拔顯州,乾、懿、豪、徽、成、川、惠等州皆降。

今月、宋の使節である登州防禦使の馬政が国書を持って来た。その概略は次の通りである、「日の出ずる方角より、実に聖人が生まれ出でた。ひそかに聞くに、遼を征伐し、しばしば強敵を破られたと。もし遼を平定された後、五代の時に契丹に陥った漢地を、願わくば下邑として賜りたい」。

原文是月,宋使登州防禦使馬政以國書來,其略曰:「日出之分,實生聖人。竊聞征遼,屢破勍敵。若克遼之後,五代時陷入契丹漢地,願畀下邑。」

二年正月庚寅、遼の双州節度使の張崇が降伏した。散睹を宋に遣わして返聘させ、書には次のように記した、「請われた土地については、今、宋と挟み撃ちにして攻め、得た者がこれを有するものとする」。

原文二年正月庚寅,遼雙州節度使張崇降。使散睹如宋報聘,書曰:「所請之地,今當與宋夾攻,得者有之。」

二月癸丑朔、遼の使節耶律奴哥らが来て和議を協議した。辛酉、孛堇の迪古乃・婁室が来て謁見した。上は遼主が近く中京にいるのに、敢えて軽々しく来たとして、皆これを杖罰した。劾里保・双古らが言上したことには、咸州都統の斡魯古は遼主が中京にいることを知りながら進軍討伐せず、糧秣が豊富であるのに実情を報告せず、顕州を攻撃した時に捕らえた生口や財貨・家畜を多く自ら取ったという。

原文二月癸丑朔,遼使耶律奴哥等來議和。辛酉,孛堇迪古乃、婁室來見。上以遼主近在中京,而敢輒來,皆杖之。劾里保、雙古等言,鹹州都統斡魯古知遼主在中京而不進討,芻糧豐足而不以實聞,攻顯州時所獲生口財畜多自取。

三月癸未朔、闍哥を命じて代わりに都統とし、これを取り調べさせた。斡魯古は罪に坐して謀克に降格された。壬辰、遼の使節耶律奴哥が国書を持って来た。庚子、婁室の言上により、黄龍府は地が僻遠であるので、重く守備を固めるべきであるとして、そこで諸路の謀克を合わせ、婁室を万戸としてこれを鎮守させた。

原文三月癸未朔,命闍哥代爲都統而鞫治之,斡魯古坐降謀克。壬辰,遼使耶律奴哥以國書來。庚子,以婁室言黃龍府地僻且遠,宜重戍守,乃命合諸路謀克,以婁室爲萬戶鎮之。

四月辛巳、遼の使節が国書を持って来た。

原文四月辛巳,遼使以國書來。

五月丙申、胡突袞を遼に遣わすことを命じた。

原文五月丙申,命胡突袞如遼。

六月甲寅、詔を下して有司に命じ、民が良人を虐待し、あるいは典雇し、また倍額の贖金を取ることを禁じた。甲戌、遼の通・祺・双・遼等の州より八百余戸が来帰した。命じて諸部に分置し、肥沃の地を選んで居住させた。

原文六月甲寅,詔有司禁民淩虐典雇良人,及倍取贖直者。甲戌,遼通、祺、雙、遼等州八百餘戶來歸,命分置諸部,擇膏腴之地處之。

七月癸未、詔を下して言った、「匹里水路の完顏朮里古・渤海の大家奴ら六謀克の貧困の民は、かつて官糧を与え、漁猟の地に置いた。今、長い年月が経ち、増減を知らない。その数を具申して報告せよ」。胡突袞が遼より戻り、耶律奴哥が再び国書を持って来た。丙申、胡突袞を遼に遣わした。遼の戸二百が来帰し、泰州に居住させた。詔して阿里骨・李家奴・特里底を遣わし、未だ降伏しない者を招諭させた。なお達魯古部の勃堇の辞列に詔して言った、「降伏帰附した新たな民は、善く慰撫せよ。来る者は各々その便に従って安住させ、官糧を与え、軽々しく動揺・騒擾させてはならない」。

原文七月癸未,詔曰:「匹里水路完顏朮里古、渤海大家奴等六謀克貧乏之民,昔嘗給以官糧,置之漁獵之地。今曆日已久,不知登耗,可具其數以聞。」胡突袞還自遼,耶律奴哥復以國書來。丙申,胡突袞如遼。遼戶二百來歸,處之泰州。詔遣阿里骨、李家奴、特里底招諭未降者。仍詔達魯古部勃堇辭列:「凡降附新民,善爲存撫。來者各令從便安居,給以官糧,毋輒動擾。」

八月、胡突袞が遼より戻り、耶律奴哥・突迭が再び国書を持って来た。

原文八月,胡突袞還自遼,耶律奴哥、突迭復以國書來。

九月戊子、詔を下して言った、「国書や詔令は、善く文章を綴る者を選んでこれを作成すべきである。そのため、所在に博学雄才の士を訪ね求めるよう命ずる。丁重に送り出して朝廷に赴かせよ」。

原文九月戊子,詔曰:「國書詔令,宜選善屬文者爲之。其令所在訪求博學雄才之士。敦遣赴闕。」

閏月庚戌朔、降将の霍石・韓慶和を千戸とした。九百奚部の蕭寶・乙辛、北部の訛里野、漢人の王六兒・王伯龍、契丹の特末・高從佑らが、各々衆を率いて来降した。遼の耶律奴哥が国書を持って来た。

原文閏月庚戌朔,以降將霍石、韓慶和爲千戶。九百奚部蕭寶、乙辛,北部訛里野,漢人王六兒、王伯龍,契丹特末、高從佑等,各率衆來降。遼耶律奴哥以國書來。

十月癸未、龍化州の降伏者張應古・劉仲良を以て千戸となす。乙未、鹹州都統司言う、漢人李孝功・渤海の二哥、衆を率いて来降す。命じて各々その部を以て千戸となす。

原文十月癸未,以龍化州降者張應古、劉仲良爲千戶。乙未,鹹州都統司言,漢人李孝功、渤海二哥率衆來降。命各以所部爲千戶。

十二月甲辰、孛堇朮孛を遣わし、定遼の地を以て高麗に諭す。耶律奴哥、国書を以て来る。遼の懿州節度使劉宏、戸三千を以て並びに遼の候人を執りて来降し、以て千戸となす。川州の寇二万、既に降りて復た叛く、紇古烈照里これを撃破す。

原文十二月甲辰,遣孛堇朮孛以定遼地諭高麗。耶律奴哥以國書來。遼懿州節度使劉宏以戶三千並執遼候人來降,以爲千戶。川州寇二萬已降復叛,紇古烈照里擊破之。

三年正月甲寅、東京の人質となれる者永吉等五人、衆を結びて叛く。事覚り、その首悪を誅し、余は皆杖百、行在の家産資産の半を没収す。詔して東京事を知る斡論に、継いて犯す者有らば並びにこれに如くせしむ。丙辰、詔して鱉古孛堇酬斡に曰く、「胡魯古・迭八合の二部、来たりて款を送る、若等先時に交悪無からざるも、今より相侵擾する毋れ」。

原文三年正月甲寅,東京人爲質者永吉等五人結衆叛。事覺,誅其首惡,余皆杖百,沒入在行家屬資產之半。詔知東京事斡論,繼有犯者並如之。丙辰,詔鱉古孛堇酬斡曰:「胡魯古、迭八合二部來送款,若等先時不無交惡,自今毋相侵擾。」

三月、耶律奴哥、国書を以て来る。

原文三月,耶律奴哥以國書來。

四月丙子朔、日食有り。

原文四月丙子朔,日有食之。

五月壬戌、詔して咸州路都統司に曰く、「兵興以前、曷蘇館・回怕里と系遼籍・不系遼籍の女直戸民、罪を犯して辺境に流竄し或いは遼に亡入する者有り、本皆吾が民、遠く異境に在り、朕甚だこれを憫む。今即ち和を議し、当に理索を行ふべし。諸路の千戸・謀克に明諭し、遍く其の官称・名氏・地里を詢訪し、具に録して上らしむべし」。

原文五月壬戌,詔咸州路都統司曰:「兵興以前,曷蘇館、回怕里與系遼籍、不系遼籍女直戶民,有犯罪流竄邊境或亡入于遼者,本皆吾民,遠在異境,朕甚憫之。今即議和,當行理索。可明諭諸路千戶、謀克,遍與詢訪其官稱、名氏、地里,具錄以上。」

六月辛卯、遼、太傳習泥烈等を遣わし冊を奉じて来る、上、冊文の合はざる者数事を擿してこれを復す。散睹、宋より還る。宋使馬政及びその子宏来聘す。散睹、宋の団練使を受く、上怒り、杖してこれを奪ふ。宋使還り、復た孛堇辞列・曷魯等を遣わし宋に如かしむ。

原文六月辛卯,遼遣太傳習泥烈等奉冊爾來,上擿冊文不合者數事復之。散睹還自宋。宋使馬政及其子宏來聘。散睹受宋團練使,上怒,杖而奪之。宋使還,復遣孛堇辭列、魯等如宋。

七月辛亥、遼人楊詢卿・羅子韋各々衆を率いて来降し、命じて各々その部を以て謀克となす。

原文七月辛亥,遼人楊詢卿、羅子韋各率衆來降,命各以所部爲謀克。

八月己丑、女直字を頒つ。

原文八月己丑,頒女直字。

九月、遼の冊礼使の期を失するを以て、諸路の軍に詔し江を過ぎて屯駐せしむ。

原文九月,以遼冊禮使失期,詔諸路軍過江屯駐。

十一月、習泥烈等復た国書を以て来る。曷懶甸の長城、高麗三尺を増築す。詔して胡剌古・習顯に営壘を慎み固くせしむ。

原文十一月,習泥烈等復以國書來。曷懶甸長城,高麗增築三尺。詔胡剌古、習顯慎固營壘。

四年二月、辞列・曷魯、宋より還る。宋使趙良嗣・王暉来たり燕京・西京の地を議す。

原文四年二月,辭列、曷魯還自宋。宋使趙良嗣、王暉來議燕京、西京地。

三月甲辰、上群臣に謂ひて曰く、「遼人屡敗し、使を遣わして成を求む、惟だ虚辞を飾り、以て師を緩むるの計と為す、当に進討を議すべし。咸州路統軍司に軍旅を治め器械を修め、数を具して聞かしむべし」。辛酉、詔して咸州路都統司に曰く、「朕、遼国の和議成る無きを以て、将に四月二十五日に師を進めんとす」。斜葛に兵一千を留めて鎮守せしめ、闍母に余兵を以て渾河に来会せしむ。遼の習泥烈、国書を以て来る。

原文三月甲辰,上謂群臣曰:「遼人屢敗,遣使求成,惟飾虛辭,以爲緩師之計,當議進討。其令咸州路統軍司治軍旅、修器械,具數以聞。」辛酉,詔咸州路都統司曰:「朕以遼國和議無成,將以四月二十五日進師。」令斜葛留兵一千鎮守,闍母以餘兵來會于渾河。遼習泥烈以國書來。

四月乙未、上自ら将として遼を伐つ。遼使習泥烈・宋使趙良嗣等を従へて行く。

原文四月乙未,上自將伐遼。以遼使習泥烈、宋使趙良嗣等從行。

五月甲辰、渾河の西に次ぐ、宗雄をして先づ上京に趨らしめ、降者馬乙を遣わし詔を以て城中に諭す。壬子、上京に至る、官民に詔して曰く、「遼主道を失ひ、上下怨みを同じくす。朕兵を興して以来、過ぐる城邑固くして服さざる者は即ち攻め抜き、降する者は撫恤す、汝等必ずこれを聞けり。今爾が国の和好の事、反覆して欺かるるを見る、朕天下の生霊の久しく塗炭に罹るを欲せず、遂に策を決して進討す。比ちかに宗雄等を遣わし相継ぎて招諭す、尚従はざるなり。今若これを攻めば、則ち城破れん!重ねて吊伐の義を以て、民を残すを欲せず、故に明詔を開示し、禍福を以て諭す、其れ審らかに図れ」。上京の人、禦備儲蓄を恃み固守の計と為す。甲寅、亟に命じて進攻せしむ。上、習泥烈・趙良嗣等に謂ひて曰く、「汝ら吾が用兵を観て、以て去就を卜すべし」。上親ら城に臨み、将士諸軍を督して鼓噪して進む。旦より巳に及び、闍母、麾下を以て先登し、其の外城を克し、留守撻不野城を以て降る。趙良嗣等觴を奉じて寿を為し、皆万歳と称す。是の日、上京の官民を赦す。詔して遼の副統余睹に諭す。壬戌、沃黒河に次ぐ。宗幹群臣を率いて諫めて曰く、「地遠く時暑く、軍馬罷弊し、若し深く敵境に入らば、糧饋乏絶し、後艱有らんを恐る」。上これに従ひ、乃ち師を班し、命じて兵を分かち慶州を攻めしむ。余睹、闍母を遼河に襲ふ、完顔背答・烏塔等戦ひてこれを卻し、完顔特虎ここに死す。

原文五月甲辰,次渾河西,使宗雄先趨上京,遣降者馬乙持詔諭城中。壬子,至上京,詔官民曰:「遼主失道,上下同怨。朕興兵以來,所過城邑負固不服者即攻拔之,降者撫恤之,汝等必聞之矣。今爾國和好之事,反覆見欺,朕不欲天下生靈久罹塗炭,遂決策進討。比遣宗雄等相繼招諭,尚不聽從。今若攻之,則城破矣!重以吊伐之義,不欲殘民,故開示明詔,諭以禍福,其審圖之。」上京人恃禦備儲蓄爲固守計。甲寅,亟命進攻。上謂習泥烈、趙良嗣等曰:「汝可觀吾用兵,以卜去就。」上親臨城,督將士諸軍鼓噪而進。自旦及巳,闍母以麾下先登,克其外城,留守撻不野以城降。趙良嗣等奉觴爲壽,皆稱萬歲。是日,赦上京官民。詔諭遼副統餘睹。壬戌,次沃黑河。宗幹率群臣諫曰:「地遠時暑,軍馬罷乏,若深入敵境,糧饋乏絕,恐有後艱。」上從之,乃班師,命分兵攻慶州。余睹襲闍母于遼河,完顏背答、烏塔等戰卻之,完顏特虎死焉。

七月癸卯、上は遼征伐より還幸す。

原文七月癸卯,上至自伐遼。

九月、燭隈水部の実里古達らが孛堇の酬斡・僕忽得を殺して叛く。

原文九月,燭隈水部實里古達等殺孛堇酬斡、僕忽得以叛。

十月戊朔、日食あり。戊寅、斡魯に命じ胡剌古・烏春の兵を分かちて実里古達を討たしむ。

原文十月戊辰朔,日有食之。戊寅,命斡魯分胡剌古、烏春之兵以討實里古達。

十一月、東京留守司が本京の官民の質子の番代を増やすことを請う。上は許さず、曰く「諸質子は既に各々田廬を受け、若しまた番代せば、往来して動揺す。並びに旧に仍るべし」と。

原文十一月,東京留守司乞本京官民質子增數番代,上不許,曰:「諸質子已各受田廬,若復番代,則往來動搖,可並仍舊。」

十二月、宋また馬政を使わして来たり、西京の地を請う。

原文十二月,宋復使馬政來請西京之地。

五年春正月、斡魯、合撻剌山にて実里古達を破り、首悪四人を誅し、余は悉く撫定す。

原文五年春正月,斡魯敗實里古達于合撻剌山,誅首惡四人,餘悉撫定。

二月、昱及び宗雄を遣わし諸路の猛安謀克の民一万戸を分かちて泰州に屯せしめ、婆盧火にこれを統率せしめ、耕牛五十頭を賜う。

原文二月,遣昱及宗雄分諸路猛安謀克之民萬戶屯泰州,以婆盧火統之,賜耕牛五十。

四月乙丑朔、宗翰、遼を伐つことを請う。諸路に詔して軍事を戒めしむ。

原文四月乙丑朔,宗翰請伐遼,詔諸路預戒軍事。

五月、遼の都統耶律余睹ら咸州に詣でて降る。

原文五月,遼都統耶律餘睹等詣鹹州降。

閏月辛巳、国論胡魯勃極烈撒改薨ず。

原文閏月辛巳,國論胡魯勃極烈撒改薨。

六月癸巳、余睹その将吏と来見す。丙申、千戸胡離答、部人を擅に蒲里衍に署するに坐し、杖一百、これを罷む。庚子、詔して諳版勃極烈呉乞買に国政を貳せしむ。昊勃極烈斜也を以て忽魯勃極烈と為し、蒲家奴を昊勃極烈と為し、宗翰を移賚勃極烈と為す。

原文六月癸巳,餘睹與其將吏來見。丙申,千戶胡離答坐擅署部人爲蒲里衍,杖一百,罷之。庚子,詔諳版勃極烈吳乞買貳國政。以昊勃極烈斜也爲忽魯勃極烈,蒲家奴爲昊勃極烈,宗翰爲移賚勃極烈。

七月庚辰、咸州都統司に詔して曰く「余睹来りしより、遼国の事由を灼に見る。已に親征を決議す。其れ軍を治めて師期を俟て」と。尋いで連雨に因り親征を罷む。昊勃極烈昱を命じて都統と為し、称賚勃極烈宗翰を副とし、師を帥いて西す。

原文七月庚辰,詔鹹州都統司曰:「自餘睹來,灼見遼國事宜,已決議親征,其治軍以俟師期。」尋以連雨罷親征。命昊勃極烈昱爲都統,稱賚勃極烈宗翰副之,帥師而西。

十二月辛丑、忽魯勃極烈杲を以て内外諸軍都統と為し、昱・宗翰・宗幹・宗望・宗盤らを副とす。甲辰、詔して曰く「遼政綱を為さず、人神共に棄つ。今中外を一統せんと欲す。故に汝に命じて大軍を率い討伐を行わしむ。爾兵事を慎重にし、善謀を用いるを択び、賞罰必ず行い、糧餉必ず継ぎ、降服を擾さず、俘掠を縦すことなく、見可すべくして進み、師期を淹留することなかれ。事権に従う有らば、須もとらく申稟する毋れ」と。戊申、詔して曰く「若し中京を克せば、得る所の礼楽儀仗図書文籍は、並びに先次津発して闕に赴かしむべし」と。

原文十二月辛丑,以忽魯勃極烈杲爲內外諸軍都統,以昱、宗翰、宗幹、宗望、宗盤等副之。甲辰,詔曰:「遼政不綱,人神共棄。今欲中外一統,故命汝率大軍以行討伐。爾其慎重兵事,擇用善謀,賞罰必行,糧餉必繼,勿擾降服,勿縱俘掠,見可而進,無淹師期。事有從權,毋須申稟。」戊申,詔曰:「若克中京,所得禮樂儀仗圖書文籍,並先次津發赴闕。」

六年正月癸酉、都統杲、高・恩・回紇の三城を克す。乙亥、中京を取り、遂に沢州を下す。

原文六年正月癸酉,都統杲克高、恩、回紇三城。乙亥,取中京,遂下澤州。

二月庚寅朔、日食あり。己亥、宗翰ら北安州にて遼の奚王霞末を破り、降す。奚部西節度使訛里剌、本部を以て降る。壬寅、都統杲、使いを遣わして来たり捷を奏し、並びに獲たる所の貨宝を献ず。詔して曰く「汝等外に兵を提げ、克く任に副い、城邑を攻め下し、人民を撫安す。朕甚だ之を嘉す。言う所の将士を分遣して山前諸部を招降するは、計らく悉く已に撫定せり。続いて来報せしむべし。山后若し往くべからずんば、即ち田を営み馬を牧し、秋成に及びて、乃ち大挙を図るべし。更に当に熟議し、見可すべくして行うべし。若し兵を益さんと欲せば、数を持ち来上せよ。一戦の勝に恃み、輒すなわち弛慢有ることなかれ。新たに降附する者は当に善く撫存すべし。将士に宣諭して、朕が意を知らしめよ」と。宗翰は北安に駐まり、希尹らを遣わし地を略せしむ。遼の護衛耶律習泥烈を獲、遼主の鴛鴦濼に猟するを知る。其の子晋王賢にして人望有るを以て、悪みて之を殺す。衆益々心を離す。西北・西南両路の兵馬有りと雖も、皆羸弱なり。遂に耨碗温都らを遣わし都統杲に報じ、兵を進めて之を襲わしむ。

原文二月庚寅朔,日有食之。己亥,宗翰等敗遼奚王霞末于北安州,降。奚部西節度使訛里剌以本部降。壬寅,都統杲遣使來奏捷,並獻所獲貨寶。詔曰:「汝等提兵于外,克副所任,攻下城邑,撫安人民,朕甚嘉之。所言分遣將士招降山前諸部,計悉已撫定,續遣來報。山后若未可往,即營田牧馬,俟及秋成,乃圖大舉。更當熟議,見可則行。如欲益兵,具數來上,不可恃一戰之勝,輒有弛慢。新降附者當善撫存。宣諭將士,使知朕意。」宗翰駐北安,遣希尹等略地,獲遼護衛耶律習泥烈,知遼主獵鴛鴦濼,以其子晉王賢而有人望,惡而殺之,衆益離心。雖有西北、西南兩路兵馬,皆羸弱。遂遣耨碗溫都等報都統杲進兵襲之。

三月、都統の杲は青嶺より出で、宗翰は瓢嶺より出で、遼主を鴛鴦濼に追う。遼主は西京に奔る。宗翰はさらに白水濼まで追うも、及ばず、その貨宝を獲る。己巳、西京に至る。壬申、西京降る。希尹は遼主を乙室部に追うも、及ばず。乙亥、西京また叛く。是の月、遼の秦晉國王耶律捏里、燕に即ち位す。

原文三月,都統杲出青嶺,宗翰出瓢嶺,追遼主于鴛鴦濼。遼主奔西京。宗翰復追至白水濼,不及,獲其貨寶。己巳,至西京。壬申,西京降。希尹追遼主于乙室部,不及。乙亥,西京復叛。是月,遼秦晉國王耶律捏里即位于燕。

四月辛卯、また西京を取る。壬辰、徒單吳甲・高慶裔を宋に遣わす。戊戌、都統の杲は西京より白水濼に赴き、昊勃極烈の昱は鉄呂川にて毗室部を襲うも、敵に敗られる。会して察剌の兵と会し、黄水の北まで追い、これを大いに破る。耶律坦は西南諸部を招き来らしめ、西は夏に至り、その招討使耶律佛頂降る。金肅・西平の二郡の漢軍四千余人叛き去る。耶律坦等これを襲い取る。闍母・婁室は天徳・雲内・甯邊・東勝等の州を招き降し、阿疏を獲て還る。是の時、山西の城邑諸部は降るも、人心未だ固からず、遼主は陰山に保ち、耶律捍里は燕京に在り、都統の杲は宗望を遣わし入奏せしめ、上(皇帝)の軍に臨まんことを請う。

原文四月辛卯,復取西京。壬辰,遣徒單吳甲、高慶裔如宋。戊戌,都統杲自西京趨白水濼,昊勃極烈昱襲毗室部于鐵呂川,爲敵所敗。還會察剌兵,追至黃水北,大破之。耶律坦招徠西南諸部,西至夏,其招討使耶律佛頂降。金肅、西平二郡漢軍四千餘人叛去,耶律坦等襲取之。闍母、婁室招降天德、雲內、甯邊、東勝等州,獲阿疏而還。是時,山西城邑諸部雖降,人心未固,遼主保陰山,耶律捍里在燕京,都統杲遣宗望入奏,請上臨軍。

五月辛酉、宗望来たりて捷を奏す。百官入りて賀し、宴を賜いて甚だ歓ぶ。先に、遼の枢密使得里底・節度使和尚・雅里斯・餘里野等を獲たり。都統の杲は阿鄰を使わし護送して闕に赴かしむ。得里底は道中に亡ぶ。阿鄰は誅せらる。耶律捍里は使を遣わし兵を罷むるを請う。戊寅、楊勉を使わし書を以て捍里を諭し、これを降らしむ。謀葛失はその子菹泥刮失を遣わし方物を貢す。

原文五月辛酉,宗望來奏捷,百官入賀,賜宴歡甚。先是,獲遼樞密使得里底、節度使和尚、雅里斯、餘里野等,都統杲使阿鄰護送赴闕。得里底道亡,阿鄰坐誅。耶律捍里遣使請罷兵。戊寅,使楊勉以書諭捍里,使之降。謀葛失遣其子菹泥刮失貢方物。

六月戊子朔、上(皇帝)みずから遼を征し、上京より発つ。諳班勃極烈の吳乞買、国を監す。辛亥、上京の官民に詔を諭して曰く、「朕は天に順い伐ち、すでに三京を定む。ただ遼主未だ獲ず、兵已む能わざるをもってす。今者親征し、上京路より進まんと欲す。撫定の新民、驚疑して業を失わんことを恐れ、すでに篤密呂より出づ。その先に降り後に叛き逃げて険阻に入る者は、詔後に出で首とせば、ことごとくその罪を免ず。もしなお命に拒まば、孥戮して赦さず」と。是の月、耶律捍里卒す。斡魯・婁室は野穀にて夏人を破る。

原文六月戊子朔,上親征遼,發自上京。諳班勃極烈吳乞買監國。辛亥,詔諭上京官民曰:「朕順天吊伐,已定三京,但以遼主未獲,兵不能已。今者親征,欲由上京路進,恐撫定新民,驚疑失業,已出自篤密呂。其先降後叛逃入險阻者,詔後出首,悉免其罪。若猶拒命,孥戮無赦。」是月,耶律捍里卒。斡魯、婁室敗夏人于野穀。

七月甲子、諸将に詔して遠く迎えること無からしめ、以て軍務を廃せしめず。乙丑、上京の漢人毛八十二千余戸を率いて降る。因って命じてこれを領せしむ。丙寅、斡荅剌は降る者衆し。命じて八千戸を領せしめ、忽薛を以てこれを副わす。壬午、希尹は阿疏を見るに杖を以てし、これを釈す。

原文七月甲子,詔諸將無得遠迎,以廢軍務。乙丑,上京漢人毛八十率二千餘戶降,因命領之。丙寅,以斡荅剌招降者衆,命領八千戶,以忽薛副之。壬午,希尹以阿疏見杖而釋之。

八月己丑、鴛鴦濼に次る。都統の杲、官属を率いて来見す。癸巳、上は遼主を大魚濼に追う。昱・宗望は遼主を石輦鐸に追い及び、戦い、これを破り、遼主遁る。己亥、居延の北に次る。辛丑、中京の将完顏渾黜は高州にて契丹・奚・漢六万を破り、孛堇の麻吉これに死す。得里得満部降る。昱・宗望は遼主を烏里質鐸に追うも、及ばず。

原文八月己丑,次鴛鴦濼。都統杲率官屬來見。癸巳,上追遼主于大魚濼。昱、宗望追及遼主于石輦鐸,與戰,敗之,遼主遁。己亥,次居延北。辛丑,中京將完顏渾黜敗契丹、奚、漢六萬于高州,孛堇麻吉死之。得里得滿部降。昱、宗望追遼主于烏里質鐸,不及。

九月庚申、草濼に次る。闍母は中京部族の先に叛く者を平らげ、及び沿海郡県を招撫す。節度使耶律慎思は諸部を領して内地に入る。乙丑、六部奚に詔して曰く、「汝等既に降りてまた叛き、衆心を扇ぎ誘う。罪は赦さるべからず。なお帰附の日浅く、綏懐いだの道未だ孚しんからざるあるを恐るるをもって、故にまた招諭を令す。もし能く速やかに降らば、まさにその罪を釈し、官は皆な旧のままならしむべし」と。帰化州降る。戊辰、帰化州に次る。甲戌、宗雄薨ず。丁丑、奉聖州降る。

原文九月庚申,次草濼。闍母平中京部族之先叛者,及招撫沿海郡縣。節度使耶律慎思領諸部入內地。乙丑,詔六部奚曰:「汝等既降復叛,扇誘衆心,罪在不赦。尚以歸附日淺,恐綏懷之道有所未孚,故復令招諭。若能速降,當釋其罪,官皆仍舊。」歸化州降。戊辰,次歸化州。甲戌,宗雄薨。丁丑,奉聖州降。

十月丙戌朔、奉聖州に次る。詔して曰く、「朕は屡将臣に勅し、安輯懐附せしめ、侵擾あること無からしむ。然れども愚民知無く、なお多く山林に逃げ匿る。即ち兵を加えんと欲すれども、深く忍びず。今その逃散の人民、罪の軽重無く、皆な矜み免ず。能く衆を率いて帰附する者有らば、これに世官を授く。あるいは奴婢その主に先だちて降らば、並びに釈して良とす。そのこれを布告し、朕が意を諭せしめよ」と。蔚州降る。庚寅、餘睹等は蔚州の降臣翟昭彥・徐興・田慶を遣わし来見す。昭彥・慶を命じて皆な刺史とし、興を団練使とす。詔して曰く、「比ごろ幽・薊の一方を招くも服さず。今師を帥いて以て往かんと欲す。故に先ず山西諸部を安撫す。汝等既にすでに懐服す。宜しく撫存を加うべし。官民未だ附かざる以前の、罪の軽重及び官に係る逋負は、皆な釈免を与え、諸官各々遷敘すべし」と。丁酉、蔚州の翟昭産・田慶は知州事の蕭観寧等を殺し以て叛く。丙午、また降る。

原文十月丙戌朔,次奉聖州。詔曰;「朕屢敕將臣,安輯懷附,無或侵擾。然愚民無知,尚多逃匿山林,即欲加兵,深所不忍。今其逃散人民,罪無輕重,鹹與矜免。有能率衆歸附者,授之世官。或奴婢先其主降,並釋爲良。其佈告之,使諭朕意。」蔚州降。庚寅,餘睹等遣蔚州降臣翟昭彥、徐興、田慶來見。命昭彥、慶皆爲刺史,興爲團練使。詔曰:「比以幽、薊一方招之不服,今欲帥師以往,故先安撫山西諸部。汝等既已懷服,宜加撫存。官民未附已前,罪無輕重及系官逋負,皆與釋免,諸官各遷敘之。」丁酉,蔚州翟昭產、田慶殺知州事蕭觀寧等以叛。丙午,復降。

十一月、燕京の官民に詔を諭す。王師の至る所、降る者はその罪を赦し、官は皆な旧のままならしむ。

原文十一月,詔諭燕京官民,王師所至,降者赦其罪,官皆仍舊。

十二月、上は燕京を伐つ。宗望は兵七千を率いて先んず。迪古乃は得勝口より出で、銀朮哥は居庸関より出で、婁室は左翼と為り、婆盧火は右翼と為り、居庸関を取る。丁亥、媯州に次る。戊子、居庸関に次る。庚寅、遼の統軍都監高六等来たりて款を送る。上は燕京に至り、南門より入り、銀朮哥・婁室を使わし城上に陣せしめ、乃ち城南に次る。遼の知樞密院左企弓・虞仲文、樞密使曹勇義、副使張彥忠、参知政事康公弼、僉書劉彥宗、表を奉じて降る。辛卯、遼の百官軍門に詣り叩頭して罪を請う。詔して一切これを釈す。壬辰、上は徳勝殿に御し、群臣賀す。甲午、左企弓等を命じて燕京諸州県を撫定せしむ。西京の官吏に詔して曰く、「乃ち者師は燕都に至り、すでに皆な撫定す。ただ蕭妃と官属数人遁れ去る。すでに兵を発して追襲す。あるいは彼の路に至らば、執いて来たるべし」と。黄龍府叛く。宗輔これを討ち平らぐ。

原文十二月,上伐燕京。宗望率兵七千先之,迪古乃出得勝口,銀朮哥出居庸關,婁室爲左翼,婆盧火爲右翼,取居庸關。丁亥,次媯州。戊子,次居庸關。庚寅,遼統軍都監高六等來送款。上至燕京,入自南門,使銀朮哥、婁室陣于城上,乃次于城南。遼知樞密院左企弓、虞仲文,樞密使曹勇義,副使張彥忠,參知政事康公弼,僉書劉彥宗奉表降。辛卯,遼百官詣軍門叩頭請罪,詔一切釋之。壬辰,上御德勝殿,群臣稱賀。甲午,命左企弓等撫定燕京諸州縣。詔西京官吏曰:「乃者師至燕都,已皆撫定。唯蕭妃與官屬數人遁去,已發兵追襲,或至彼路,可執以來。」黃龍府叛,宗輔討平之。

七年正月丁巳、遼の奚王回離保、僭って帝と称す。甲子、遼の平州節度使時立愛降る。詔して平州を曲赦す。また諳班勃極烈に詔して曰く、「比ごろ昂を遣わし諸部民人を嶺東に徙うつす。而るに昂悖戾にして、騒動煩擾し、致すところ多く怨み叛く。その命に違いて衆を失う、まさに重典を置くべし。もしあるいは疑わしき有らば、禁錮して以て待つべし」と。庚午、中京都統の斡論に詔して曰く、「卿の人民を撫定し、各々その業に安んずるを聞く。朕甚だこれを嘉す。回離保は徒を聚あつめて命に逆らう。汝宜しく計画すべく、滋蔓せしむること無からしめよ」と。壬申、回離保を招諭する詔を下す。癸酉、時立愛の言に因りて諸部を招撫す。己卯、宋の使来たりて燕京・西京の地を議す。庚辰、宜・錦・乾・顯・成・川・豪・懿等の州皆な降る。甲申、詔して曰く、「諸州部族帰附の日浅く、民心未だ寧からず。今農事将に興らんとす。分ちて典兵の官に諭すべく、軍士を縦して人民を動擾せしめ、以て農業を廃すること無からしめよ」と。

原文七年正月丁巳,遼奚王回離保僭稱帝。甲子,遼平州節度使時立愛降。詔曲赦平州。又詔諳班勃極烈曰:「比遣昂徙諸部民人于嶺東,而昂悖戾,騷動煩擾,致多怨叛。其違命失衆,當置重典。若或有疑,禁錮以待。」庚午,詔中京都統斡論曰:「聞卿撫定人民,各安其業,朕甚嘉之。回離保聚徒逆命,汝宜計畫,無使滋蔓。」壬申,詔招諭回離保。癸酉,以時立愛言招撫諸部。己卯,宋使來議燕京、西京地。庚辰,宜、錦、乾、顯、成、川、豪、懿等州皆降。甲申,詔曰:「諸州部族歸附日淺,民心未寧。今農事將興,可遣分諭典兵之官,無縱軍士動擾人民,以廢農業。」

二月乙酉朔(一日)、撒八を命じて興中府を詔諭せしめ、これを降す。遼の来州節度使田顥・隰州刺史杜師回・遷州刺史高永福・潤州刺史張成、皆降る。壬辰(八日)、諳版勃極烈に詔して曰く、「郡県は今皆撫定せり。逃散して未だ降らざる者あり、既にその罪を釈せり。更に宜しくこれを招諭すべし。前後起遷せし戸民、郷里を去ること未だ久しからず、豈に故郷を懐かしむ心なからんや。所在の有司に令して、深く存恤を加え、輒ち騒動あることなからしむべし。衣食足らざる者は、官これを賑貸すべし。」癸巳(九日)、詔して曰く、「頃このごろ兵事未だ息まず、諸路の関津その往来を絶つ。今天下一家なり。若し仍これを禁ずれば、民を便にする所以ゆえんにあらず。今より顕・咸・東京等路の往来は、その便に従うを聴す。その間、虜掠りょりゃくせられ及び身を鬻ひさぎし者は、並びに自ら贖いて良民となることを許す。」仍駅伝を馳せて布告せしむ。興中・宜州、復た叛す。宋の使趙良嗣来たり、歳幣を加えて燕の税に代えんことを請い、及び疆界を画定し、使を遣わして正旦・生辰を賀し、榷場を置き交易し、並びに西京等の事を計議す。癸卯(十九日)、銀朮哥・鐸剌、宋に如く。乙巳(二十一日)、都統杲に詔して曰く、「新附の民に材能ある者は、これを録用すべし。」戊申(二十四日)、平州の官に詔し、宋使とともに与うる所の燕京六州の地を分割せしむ。癸丑(二十九日)、大赦す。是の月、平州を改めて南京と為し、張覚を以て留守と為す。

原文二月乙酉朔,命撒八詔諭興中府,降之。遼來州節度使田顥、隰州刺史杜師回、遷州刺史高永福、潤州刺史張成皆降。壬辰,詔諳版勃極烈曰:「郡縣今皆撫定,有逃散未降者,已釋其罪,更宜招諭之。前後起遷戶民,去鄉未久,豈無懷土之心?可令所在有司,深加存恤,毋輒有騷動。衣食不足者,官賑貸之。」癸巳,詔曰:「頃因兵事未息,諸路關津絕其往來。今天下一家,若仍禁之,非所以便民也。自今顯、咸、東京等路往來,聽從其便。其間被虜及鬻身者,並許自贖爲良。」仍令馳驛佈告。興中、宜州復叛。宋使趙良嗣來,請加歲幣以代燕稅,及議畫疆與遣使賀正旦生辰、置榷場交易,並計議西京等事。癸卯,銀朮哥、鐸剌如宋。乙巳,詔都統杲曰:「新附之民有材能者,可錄用之。」戊申,詔平州官與宋使同分割所與燕京六州之地。癸丑,大赦。是月,改平州爲南京,以張覺爲留守。

三月甲寅朔(一日)、昂を誅せんとす。習不失の諫に依り、これを杖七十とし、仍泰州に拘す。戊午(五日)、都統杲等言う、耶律麻哲、余睹・呉十・鐸刺等の謀叛を告ぐ。宜しく早くこれを図るべしと。上、余睹等を召し、従容としてこれに謂いて曰く、「朕が天下を得るは、皆我が君臣の同心同徳、以て大功を成すに非ずや。固より汝等の力に非ず。今汝等の謀叛を聞く。若し誠然ならば、必ず鞍馬甲胄器械の属を須むべし。当に悉く汝に付すべし。朕食言せず。若し再び我がために擒えられば、死を免かるることを望むなかれ。留まりて朕に事えんと欲せば、異志を懐くことなかれ。吾汝を疑わず。」余睹等皆戦慄して対する能わず。鐸刺を杖七十とす。余は並びにこれを釈す。宋の使盧益・趙良嗣・馬宏、国書を以て来たる。

原文三月甲寅朔,將誅昂,以習不失諫,杖之七十,仍拘泰州。戊午,都統杲等言耶律麻哲告余睹、吳十、鐸刺等謀叛,宜早圖之。上召余睹等,從容謂之曰:「朕得天下,皆我君臣同心同德以成大功,固非汝等之力。今聞汝等謀叛,若誠然耶,必須鞍馬甲胄器械之屬,當悉付汝,朕不食言。若再爲我擒,無望免死。欲留事朕,無懷異志,吾不汝疑。」餘睹等皆戰慄不能對。命杖鐸剌七十,餘並釋之。宋使盧益、趙良嗣、馬宏以國書來。

四月丁亥(四日)、斡魯・宗望を遣わし、遼主を陰山に襲わしむ。壬辰(九日)、宋に復書す。師初めて燕に入るや、遼兵復た奉聖州を犯し、林牙大石、龍門の東二十五里に壁とりでを築く。都統斡魯これを聞き、照立・婁室・馬和尚等を遣わし兵を率いてこれを討たしむ。大石を生け捕り、その衆悉く降る。癸巳(十日)、詔して曰く、「今より軍事若し皆中覆ちゅうふくせば、留滞無きにしも非ず。応まさにこの路の事務は都統司に申し、余は皆枢密院に取決すべし。」契丹の九斤、党を聚めて興中府に乱を起こす。これを擒う。九斤自殺す。習古乃・婆盧火を命じて長勝軍及び燕京の豪族工匠を監護せしめ、松亭関より内地に徙らしむ。己亥(十六日)、儒州に次(とど)まる。斡魯・宗望等、遼の権六院司喝離質を白水濼に襲い、これを獲う。その宗属たる秦王・許王等十五人降る。遼主が輜重しちょうを青塚に留め、兵一万を以て応州に往くを聞き、照里・背荅・宗望・婁室・銀朮哥等を遣わし追襲せしむ。宗望、遼主に追い及び、決戦し、これを大いに敗る。その子趙王習泥烈及び伝国璽を獲る。

原文四月丁亥,遣斡魯、宗望襲遼主于陰山。壬辰,復書于宋。師初入燕,遼兵復犯奉聖州,林牙大石壁龍門東二十五里。都統斡魯聞之,遣照立、婁室、馬和尚等率兵討之,生獲大石,悉降其衆。癸巳,詔曰:「自今軍事若皆中覆,不無留滯。應此路事務申都統司,餘皆取決樞密院。」契丹九斤取聚黨興中府作亂,擒之,九斤自殺。命習古乃、婆盧火監護長勝軍,及燕京豪族工匠,由松亭關徙之內地。己亥,次儒州。斡魯、宗望等襲遼權六院司喝離質于白水濼,獲之。其宗屬秦王、許王等十五人降。聞遼主留輜重青塚,以兵萬人往應州,遣照里、背荅、宗望、婁室、銀朮哥等追襲之。宗望追及遼主,決戰,大敗之,獲其子趙王習泥烈及傳國璽。

五月甲寅(二日)、南京留守張覚、城に拠りて叛く。丙寅(十四日)、野狐嶺に次(とど)まる。己巳(十七日)、落藜濼に次(とど)まる。斡魯等、趙王習泥烈・林牙大石・駙馬乳奴等を以て来献し、並びに上る所の国璽。宗雋、俘にせし所の遼主の子秦王・許王・女奥野等を以て来見す。奚路都統撻懶たつらん、速古・啜里・鉄尼の部する所の十三巌を攻め、皆これを平らぐ。又た奚の馬和尚を遣わし、達魯古及び五院司諸部を攻め下し、その節度乙列を執る。回離保、その下の者に殺さる。辛巳(二十九日)、南京の官民に詔諭す。

原文五月甲寅,南京留守張覺據城叛。丙寅,次野狐嶺。己巳,次落藜濼。斡魯等以趙王習泥烈、林牙大石、附馬乳奴等來獻,並上所獲國璽。宗雋以所俘遼主子秦王、許王、女奧野等來見。奚路都統撻懶攻速古、啜里、鐵尼所部十三岩,皆平之。又遣奚馬和尚攻下達魯古並五院司諸部,執其節度乙列。回離保爲其下所殺。辛巳,詔諭南京官民。

六月壬午朔(一日)、鴛鴦濼に次(とど)まる。是の日、闍母、張覚を営州に敗る。丙申(十五日)、上、豫よろこばず。上京に還らんとし、移賚勃極烈宗翰を命じて都統と為し、昊勃極烈昱・迭勃極烈斡魯を副と為し、兵を雲中に駐め、以て辺備せしむ。己酉(二十八日)、斡独山駅に次(とど)まり、諳班勃極烈呉乞買を召す。

原文六月壬午朔,次鴛鴦濼。是日,闍母敗張覺于營州。丙申,上不豫,將還上京,命移賚勃極烈宗翰爲都統,昊勃極烈昱、迭勃極烈斡魯副之,駐兵雲中,以備邊。己酉,次斡獨山驛,召諳班勃極烈吳乞買。

七月辛酉(十日)、牛山に次(とど)まる。宗翰、軍中に還る。

原文七月辛酉,次牛山。宗翰還軍中。

八月辛巳朔(一日)、日食あり。乙未(十五日)、渾河北に次(とど)まる。諳班勃極烈呉乞買、宗室百官を率いて上謁す。戊申(二十八日)、上、部堵濼西行宮に崩ず。年五十六。

原文八月辛巳朔,日有食之。乙未,次渾河北。諳班勃極烈吳乞買率宗室百官上謁。戊申,上崩于部堵濼西行宮,年五十六。

九月癸丑(三日)、梓宮しきゅう、上京に至る。乙卯(五日)、宮城の西南に葬る。寧神殿を建つ。丙辰(六日)、諳班勃極烈、即ち皇帝の位に即く。天会三年三月、上りて尊諡して武元皇帝と曰い、廟号を太祖とす。原廟を西京に立つ。天会十三年二月辛酉、和陵に改葬し、『開天啓祚睿徳神功之碑』を燕京城南嘗かつて駐蹕ちゅうひつせし地に立つ。皇統四年、和陵を改めて睿陵と曰う。五年十月、諡を増して応乾興運昭徳定功睿神荘孝仁明大聖武元皇帝と曰う。貞元三年十一月、大房山に改葬し、仍号して睿陵とす。

原文九月癸丑,梓宮至上京。乙卯,葬宮城西南,建寧神殿。丙辰,諳班勃極烈即皇帝位。天會三年三月,上尊諡曰武元皇帝,廟號太祖,立原廟于西京。天會十三年二月辛酉,改葬和陵,立《開天啟祚睿德神功之碑》于燕京城南嘗所駐蹕之地。皇統四年,改和陵曰睿陵。五年十月,增諡應乾興運昭德定功睿神莊孝仁明大聖武元皇帝。貞元三年十一月,改葬于大房山,仍號睿陵。

賛に曰く、太祖は英謨睿略、豁達大度、人を知りて善く任じ、人用いらるるを楽しむ。世祖、陰に遼を取るの志あり。是を以て兄弟相授け、伝えて康宗に及び、遂に太祖に及ぶ。臨終に太祖を以て穆宗に属す。その素志蓋けだし是の如し。初めて東京を定むるや、即ち遼法を除去し、租税を減省し、本国の制度を用う。遼主播越はえつし、宋は歳幣を納れ、幽・薊・武・朔等州を以て宋に与え、而して南京を平州に置く。宋人終に燕・代を守ること能わず、卒に遼主は見獲みとらわれ、宋主は執らる。功は天会の間に成るも、規摹運為きぼううんいは実に此より始まる。金、天下を有すること百十有九年、太祖数年すうねんの間、算に遺策無く、兵に留行無く、大業を底定していし、子孫に伝う。鳴呼、雄なるかな。

原文贊曰:太祖英謨睿略,豁達大度,知人善任,人樂爲用。世祖陰有取遼之志,是以兄弟相授,傳及康宗,遂及太祖。臨終以太祖屬穆宗,其素志蓋如是也。初定東京,即除去遼法,減省租稅,用本國制度。遼主播越,宋納歲幣,以幽、薊、武、朔等州與宋,而置南京于平州。宋人終不能守燕、代,卒之遼主見獲,宋主被執。雖功成于天會間,而規摹運爲賓自此始。金有天下百十有九年,太祖數年之間算無遺策,兵無留行,底定大業,傳之子孫。鳴呼,雄哉!