◎宗室
○義宗倍(子に平王隆先・晉王道隱あり)章肅皇帝李胡(子に宋王喜隱あり)順宗濬 晉王敖盧斡
義宗倍
ほどなく、諸部多く叛き、大元帥がこれを討ち平らげた。太祖の訃報が届くと、倍は即日、山陵に奔赴した。倍は皇太后が徳光を立てたい意向であることを知り、公卿に謂って曰く、「大元帥の功徳は人神に及び、内外の帰属するところ、社稷の主たるに相応しい。」乃ち群臣とともに太后に請い、位を譲った。ここにおいて大元帥が皇帝の位に即いた。これが太宗である。太宗が即位すると、倍は疑われるようになり、東平を南京とし、倍をそこに移住させ、その民をことごとく移した。また衛士を置き、ひそかにその動静を窺わせた。倍が帰国すると、王継遠に命じて『建南京碑』を撰述させ、西宮に書楼を建て、『楽田園詩』を作った。唐の明宗はこれを聞き、人を遣わして海を渡らせ、書を持たせて密かに倍を召し寄せた。倍は海上で狩猟していた。使者が再び至ると、倍は左右に謂って曰く、「我は天下を主上に譲ったのに、今かえって疑われる。他国に赴き、呉の太伯の名を成すに如かず。」海上に木を立て、詩を刻んで曰く、「小山大山を圧す、大山全く力無し。故郷の人を見るを恥じ、ここより外国に投ぜん。」高美人を伴い、書物を載せて海を渡り去った。
唐は天子の儀衛をもって倍を迎え、倍は船殿に座し、衆官が陪列して寿を上けた。汴に至り、明宗に謁見した。明宗は荘宗の后夏氏を妻とさせ、東丹の姓を賜い、名付けて慕華といった。瑞州を懐化軍と改め、懐化軍節度使・瑞慎等州観察使に拝した。また李の姓を賜い、名を賛華といった。鎮を滑州に移し、遙かに虔州節度使を領した。倍は異国にあっても、常にその親を思い、安否を問う使者は絶えなかった。後に明宗の養子従珂がその君を弑して自立すると、倍は密かに太宗に報じて曰く、「従珂は君を弑しました。どうして討たれないのですか。」及びて太宗が石敬瑭を立てて晋主とし、洛に兵を加えると、従珂は自ら焼死しようとし、倍を召してともにせんとしたが、倍は従わず、壮士李彦紳を遣わしてこれを害させた。時に三十八歳。一人の僧がこれを収めて埋葬した。敬瑭が洛に入ると、喪服を着て臨哭し、王礼をもって仮に葬った。後に太宗は医巫閭山に改葬し、謚して文武元皇王といった。世宗が即位すると、謚して譲国皇帝とし、陵を顕陵といった。統和年中、さらに文獻と改謚した。重熙二十年、文獻欽義皇帝と増謚し、廟号を義宗とし、及び二后に謚して端順、柔貞といった。
倍は初め書を買い集めて万巻に至り、医巫閭山の絶頂にある望海堂に蔵した。陰陽に通じ、音律を知り、医薬・砭焫の術に精通した。遼・漢の文章に巧みで、かつて『陰符経』を訳した。本国人物の画を善くし、『射騎』、『獵雪騎』、『千鹿図』などは、皆、宋の秘府に入った。しかし性質は苛酷で殺戮を好み、婢妾の些細な過ちにも、常に刲灼の刑を加えた。夏氏は恐れて髪を削ぎ尼となることを求めた。五子あり、長は世宗、次は婁国・稍・隆先・道隱、それぞれ伝がある。
子 平王隆先
平王隆先は、字を團隱といい、母は大氏である。景宗が即位すると、初めて平王に封ぜられた。ほどなく、政事令を兼ね、東京留守となった。賦税を軽くし、刑獄を省み、鰥寡を恤れみ、しばしば賢能の士を推薦した。後に統軍耶律室魯とともに高麗を討ち功があり、還って薨じ、医巫閭山の道隱谷に葬られた。平王は人となり聡明で、博学にして詩を作ることができ、『閬苑集』が世に行われた。保寧の末、その子陳哥が渤海官属と謀りその父を殺害し、兵を挙げて乱を起こした。上は命じて市で轘裂の刑に処した。
子 晉王道隱
論
論じて曰く、古より新たに造りし国に、一伝にして太子譲る、豈に易くして得んや。遼の義宗は、盛なりと謂うべし。然れども譲りて疑われ見ゆるは、豈に建元称制の際に兆さざらんや。是れ則ち一時の君臣、礼制に暗き過ちなり。書を束ねて海を浮かび、跡を他国に寄せ、親を思うて忘れず、安否を問うて絶えず、其の心甚だ諒むに足る者あり。其の始め泰伯の賢を慕いて遠適の謀りを為し、終わりに陳恒の悪を疾みて請討の挙有りしを観るに、志趣の卓なる、蓋し早歳に先ず孔子を祀るの言に現るるか。善く令終せず、天道詰め難し、性卞にして殺を嗜むに由る所に非ずや。然りと雖も、遼の代を終わるまで、賢聖継統するは、皆其の子孫なり。至徳の報い、昭然として茲に在り。
章肅皇帝李胡
天顕五年、代北に地を徇わしめ、寰州を攻め、多く俘虜して還り、遂に皇太弟と為し、天下兵馬大元帥を兼ぬ。太宗親征するとき、常に京師を留守す。世宗鎮陽に即位す、太后怒り、李胡を遣わし兵を将いて之を撃たしむ。泰徳泉に至り、安端・留哥に敗られる。太后と世宗、潢河を隔てて陣し、各々挙兵の意を言う。耶律屋質入りて太后に諫めて曰く「主上既に立ちたれば、宜しく之を許すべし」と。時に李胡側に在り、色を作して曰く「我在りて、兀欲安んぞ立つことを得ん」と。屋質曰く「公の酷暴にして人心を失うを奈何せん」と。太后李胡を顧みて曰く「昔我と太祖、汝を諸子に異にして愛す、諺に云う『偏憐の子は業を保たず、得難き婦は家を主たず』と。我は汝を立てざるに非ず、汝自ら能わざるなり」と。会議に及び、世宗は剣を解かしめて言わしむ。和約既に定まり、上京に趨る。会に李胡と太后の謀りて廃立を謀る者有りと告ぐる有り、李胡を祖州に徙し、其の出入を禁ず。穆宗の時、其の子喜隠謀反す、辞李胡に逮り、之を囚う、獄中に死す、年五十、玉峰山西谷に葬る。統和中、追謚して欽順皇帝と曰う。重熙二十一年、更に謚して章肅と曰い、后を和敬と曰う。二子:宋王喜隠、衛王宛。
子 喜隠
喜隠、字は完徳、雄偉にして騎射に善く、趙王に封ぜらる。応歴中、謀反す、事覚る、上臨問して状有り、親を以て之を釈く。未だ幾ばくもせず、復た反し、獄に下る。景宗即位す、赦有ると聞き、自ら其の械を去りて朝す。上怒りて曰く「汝罪人、何ぞ禁所を擅に離るるを得ん」と。詔して守者を誅し、復た獄に置く。改元保寧に及び、乃ち之を宥し、皇后の姉を以て妻とし、復た爵し、宋に王とす。喜隠軽僄にして恒無く、小に志を得れば即ち驕る。上嘗て召す、時に至らず、怒りて之を鞭つ、是れより憤怨して乱を謀る。貶せられて復た召され、適に上と劉継元に書するを見るに、辞意卑遜なり、諫めて曰く「本朝は漢に於いて祖たり、書旨此の如きは、恐らくは国体を虧かん」と。帝尋ち之を改む。西南面招討使を授け、之を河東に命じて吐蕃戸を索めしむ、稍々見用せらる。復た群小を誘いて謀叛す、上命じて其の手足を械し、圜土を築き、祖州に囚う。宋の降卒二百余人、劫いて喜隠を立てんと欲す、城堅くして入るを得ず、其の子留礼寿を立て、上京留守除室之を擒る。留礼寿誅せられ、喜隠に死を賜う。
論
論じて曰く、李胡残酷驕盈、太祖其の不才なるを知りて而も能く教えず、太后其の悪を知らずして溺愛す。初め屋質の言を以て世宗の立つを定め、而して復た廃立を謀る。子孫継いて逆を以て誅せられ、並びに其の身に及び、哀しむべしのみ。夫れ太祖の世より、剌葛・安端首めて禍乱を倡え、太祖既に之を誅せず、又復た之を用う、固より君人の量有るも、然れども惟だ太祖の才以て之を駕馭するに足れり、庶幾くば其の可ならん。李胡より下り、宗王反側す、代無きは無し、遼の内難、国と始終を共にす。厥の後嗣君、厳法を以て之を縄とすと雖も、卒に止む可からず。嗚呼、創業垂統の主、以て厥の孫に謀りを貽す者は、審にせざる可けんや。
順宗濬
母后の害せらるるに及び、太子憂色有り。耶律乙辛北院枢密使と為り、常に自ら安からず。会に護衛蕭忽古乙辛を謀害せんとす、事覚り、獄に下る。副点検蕭十三乙辛に謂いて曰く「臣民心太子に属す、公は閥閲に非ず、一日若し立てば、吾輩身を措く何の地か」と。乃ち同知北院宣徽事蕭特裏特と謀りて太子を構陥れ、陰に右護衛太保耶律査剌を令して都宮使耶律撒剌・知院蕭速撒・護衛蕭忽古の廃立を謀るを誣告せしむ。詔して案ずるも跡無く、治めず。乙辛復た牌印郎君蕭訛都幹等を令して言わしむ「査剌前の告げ妄ならず、臣実に謀り与り、耶律乙辛等を殺さんと欲し、然る後に太子を立てんとす。臣若し言わざれば、恐らくは事発して連坐せん」と。帝之を信じ、太子を別室に幽し、耶律燕哥を以て案を鞫かしむ。太子枉状を具に陳べて曰く「吾儲副たり、尚何をか求めん。公当に吾が為に之を弁ずべし」と。燕哥は乃ち乙辛の党、其の言を易えて款伏と為す。上大いに怒り、太子を廃して庶人と為す。将に出でんとして曰く「我何の罪か是に至る」と。十三叱して車に登らしめ、衛士を遣わして其の扉を闔わしむ。上京に徙し、圜堵の中に囚う。乙辛尋ち達魯古・撒八を遣わし往きて之を害せしむ、太子年方に二十、上京留守蕭撻得疾を以て薨ずと紿いて聞こゆ。上之を哀しみ、有司を命じて龍門山に葬らしむ。其の妃を召さんと欲す、乙辛陰に人を遣わし之を殺す。帝後其の冤を知り、悔恨及ぶ無く、謚して昭懐太子と曰い、天子の礼を以て玉峰山に改葬す。乾統初、追尊して大孝順聖皇帝と曰い、廟号順宗、妃蕭氏貞順皇后。一子、延禧、即ち天祚皇帝。
論
論じて曰く、道宗太子の賢なるを知りて、而も能く乙辛の詐りを弁ぜず、竟に父子の親を絶ち、万世の為に惜しむ。乙辛一身の計りを知りて、君臣の義有るを知らず、豈に復た太子有るを知らんや。奸邪の臣人家国を乱る此の如きは、戒むべからずや。戒むべからずや。
晋王敖盧幹
論
論じて曰く、天祚は君たらず、臣下其の子を謀りて立つるも、適以て之を殺す。敖盧斡は君父の命を重んじ、亡びずして死す、申生其れ恭なるかな。