遼史

列傳第二: 宗室 義宗倍 章肅皇帝李胡 順宗濬 晉王敖盧斡

列傳第二: 宗室 義宗倍 章肅皇帝李胡 順宗濬 晉王敖盧斡

◎宗室

原文◎宗室

○義宗倍(子に平王隆先・晉王道隱あり)章肅皇帝李胡(子に宋王喜隱あり)順宗濬 晉王敖盧斡

原文○義宗倍(子平王隆先晉王道隱)章肅皇帝李胡(子宋王喜隱)順宗濬晉王敖盧斡

義宗倍

原文義宗倍

義宗は、名を倍といい、小字あざなしょうじは圖欲、太祖の長子、母は淳欽皇后蕭ショウ氏である。幼少より聡明で学問を好み、外見は寛大ながら内には誠実さを秘めていた。神冊元年春、皇太子に立てられた。時に太祖が侍臣に問うて曰く、「天命を受けた君主は、天に事え神を敬うべきである。大功徳ある者を朕は祀ろうと思うが、誰を先とすべきか。」皆、仏をもって答えとした。太祖曰く、「仏は中国の教えではない。」倍曰く、「孔子は大聖人にして、万世の尊ぶところ、先とすべきです。」太祖は大いに喜び、直ちに孔子廟を建て、詔して皇太子に春秋の釈奠を行わせた。

原文義宗,名倍,小字圖欲,太祖長子,母淳欽皇后蕭氏。幼聰敏好學,外寬內摯。神冊元年春,立為皇太子。時太祖問侍臣曰:「受命之君,當事天敬神。有大功德者,朕欲祀之,何先?」皆以佛對。太祖曰:「佛非中國教。」倍曰:「孔子大聖,萬世所尊,宜先。」太祖大悅,即建孔子廟,詔皇太子春秋釋奠。

かつて烏古ウコ・党項トウコウの征討に従い、先鋒都統となり、また燕地の経略に当たった。太祖が西征する時、倍を留めて京師を守らせ、その際に渤海ホッカイ攻略の計略を述べた。天顯元年、渤海征討に従軍した。扶餘城を陥落させると、上(太祖)は戸口を調査しようとしたが、倍は諫めて曰く、「今、地を得たばかりで民を調べれば、民は必ず不安になります。破竹の勢いに乗じて、まっすぐに忽汗城に至り、これを攻め落とせば必ず成功します。」太祖はこれに従った。倍は大元帥徳光とともに前鋒となり、夜に忽汗城を包囲した。大諲譔は窮地に陥り、降伏を請うた。まもなく再び叛いたが、太祖はこれを撃破した。その国を東丹と改め、その城を天福と名付け、倍を人皇王としてこれを統治させた。なお天子の冠服を賜い、元号を甘露と建て、制を称し、左右大次四相及び百官を置き、すべて漢法を用いた。毎年、布十五万端、馬千匹を貢納させた。上は諭して曰く、「この地は海に臨み、永く住むに適さぬ。汝を留めて撫治させ、朕の民を愛する心を示すのだ。」御駕が還ろうとする時、倍は歌を作って献上した。陛を辞する時、太祖曰く、「汝に東土を治めさせれば、我また何を憂えようか。」倍は号泣して出立した。かくて儀坤州に赴いた。

原文嘗從征烏古、党項,為先鋒都統,及經略燕地。太祖西征,留倍守京師,因陳取渤海計。天顯元年,從征渤海。拔扶餘城,上欲括戶口,倍諫曰:「今始得地而料民,民必不安。若乘破竹之勢,徑造忽汗城,克之必矣。」太祖從之。倍與大元帥德光為前鋒,夜圍忽汗城,大諲譔窮蹙,請降。尋復叛,太祖破之。改其國曰東丹,名其城曰天福,以倍為人皇王主之。仍賜天子冠服,建元甘露,稱制,置左右大次四相及百官,一用漢法。歲貢布十五萬端,馬千匹。上諭曰:「此地瀕海,非可久居,留汝撫治,以見朕愛民之心。」駕將還,倍作歌以獻。陛辭,太祖曰:「得汝治東土,吾復何憂。」倍號泣而出。遂如儀坤州。

ほどなく、諸部多く叛き、大元帥がこれを討ち平らげた。太祖の訃報が届くと、倍は即日、山陵に奔赴した。倍は皇太后が徳光を立てたい意向であることを知り、公卿に謂って曰く、「大元帥の功徳は人神に及び、内外の帰属するところ、社稷の主たるに相応しい。」乃ち群臣とともに太后に請い、位を譲った。ここにおいて大元帥が皇帝の位に即いた。これが太宗である。太宗が即位すると、倍は疑われるようになり、東平を南京とし、倍をそこに移住させ、その民をことごとく移した。また衛士を置き、ひそかにその動静を窺わせた。倍が帰国すると、王継遠に命じて『建南京碑』を撰述させ、西宮に書楼を建て、『楽田園詩』を作った。唐の明宗はこれを聞き、人を遣わして海を渡らせ、書を持たせて密かに倍を召し寄せた。倍は海上で狩猟していた。使者が再び至ると、倍は左右に謂って曰く、「我は天下を主上に譲ったのに、今かえって疑われる。他国に赴き、呉の太伯の名を成すに如かず。」海上に木を立て、詩を刻んで曰く、「小山大山を圧す、大山全く力無し。故郷の人を見るを恥じ、ここより外国に投ぜん。」高美人を伴い、書物を載せて海を渡り去った。

原文未幾,諸部多叛,大元帥討平之。太祖訃至,倍即日奔赴山陵。倍知皇太后意欲立德光,乃謂公卿曰:「大元帥功德及人神,中外攸屬,宜主社稷。」乃與群臣請於太后而讓位焉。於是大元帥即皇帝位,是為太宗。太宗既立,見疑,以東平為南京,徙倍居之,盡遷其民。又置衛士陰伺動靜。倍既歸國,命王繼遠撰《建南京碑》,起書樓於西宮,作《樂田園詩》。唐明宗聞之,遣人跨海持書密召倍。倍因畋海上。使再至,倍謂左右曰:「我以天下讓主上,今反見疑;不如適他國,以成吳太伯之名。」立木海上,刻詩曰:「小山壓大山,大山全無力。羞見故鄉人,從此投外國。」攜高美人,載書浮海而去。

唐は天子の儀衛をもって倍を迎え、倍は船殿に座し、衆官が陪列して寿を上けた。汴に至り、明宗に謁見した。明宗は荘宗の后夏氏を妻とさせ、東丹の姓を賜い、名付けて慕華といった。瑞州を懐化軍と改め、懐化軍節度使・瑞慎等州観察使に拝した。また李の姓を賜い、名を賛華といった。鎮を滑州に移し、遙かに虔州節度使を領した。倍は異国にあっても、常にその親を思い、安否を問う使者は絶えなかった。後に明宗の養子従珂がその君を弑しいして自立すると、倍は密かに太宗に報じて曰く、「従珂は君を弑しました。どうして討たれないのですか。」及びて太宗が石敬瑭を立てて晋主とし、洛に兵を加えると、従珂は自ら焼死しようとし、倍を召してともにせんとしたが、倍は従わず、壮士李彦紳を遣わしてこれを害させた。時に三十八歳。一人の僧がこれを収めて埋葬した。敬瑭が洛に入ると、喪服を着て臨哭し、王礼をもって仮に葬った。後に太宗は医巫閭山に改葬し、謚して文武元皇王といった。世宗が即位すると、謚して譲国皇帝とし、陵を顕陵といった。統和年中、さらに文獻と改謚した。重熙二十年、文獻欽義皇帝と増謚し、廟号びょうごうを義宗とし、及び二后に謚して端順、柔貞といった。

原文唐以天子儀衛迎倍,倍坐船殿,眾官陪列上壽。至汴,見明宗。明宗以莊宗后夏氏妻之,賜姓東丹,名之曰慕華。改瑞州為懷化軍,拜懷化軍節度使、瑞慎等州觀察使。復賜姓李,名贊華。移鎮滑州,遙領虔州節度使。倍雖在異國,常思其親,問安之使不絕。後明宗養子從珂弒其君自立,倍密報太宗曰:「從珂弒君,盍討之。」及太宗立石敬瑭為晉主,加兵於洛。從珂欲自焚,召倍與俱,倍不從,遣壯士李彥紳害之,時年三十八。有一僧為收瘞之。敬瑭入洛,喪服臨哭,以王禮權厝。後太宗改葬於醫巫閭山,謚曰文武元皇王。世宗即位,謚讓國皇帝,陵曰顯陵。統和中,更謚文獻。重熙二十年,增謚文獻欽義皇帝,廟號義宗,及謚二后曰端順,曰柔貞。

倍は初め書を買い集めて万巻に至り、医巫閭山の絶頂にある望海堂に蔵した。陰陽に通じ、音律を知り、医薬・砭焫の術に精通した。遼・漢の文章に巧みで、かつて『陰符経』を訳した。本国人物の画を善くし、『射騎』、『獵雪騎』、『千鹿図』などは、皆、宋の秘府に入った。しかし性質は苛酷で殺戮を好み、婢妾の些細な過ちにも、常に刲灼の刑を加えた。夏氏は恐れて髪を削ぎ尼となることを求めた。五子あり、長は世宗、次は婁国・稍・隆先・道隱、それぞれ伝がある。

原文倍初市書至萬卷,藏於醫巫閭絕頂之望海堂。通陰陽,知音律,精醫藥、砭焫之術。工遼、漢文章,嘗譯《陰符經》。善畫本國人物,如《射騎》、《獵雪騎》、《千鹿圖》,皆入宋秘府。然性刻急好殺,婢妾微過,常加刲灼。夏氏懼而求削髮為尼。五子:長世宗,次婁國、稍、隆先、道隱,各有傳。

子 平王隆先

原文子 平王隆先

平王隆先は、字を團隱といい、母は大氏である。景宗が即位すると、初めて平王に封ぜられた。ほどなく、政事令を兼ね、東京留守となった。賦税を軽くし、刑獄を省み、鰥寡を恤れみ、しばしば賢能の士を推薦した。後に統軍耶律ヤリツ室魯とともに高麗コウライを討ち功があり、還って薨こうじ、医巫閭山の道隱谷に葬られた。平王は人となり聡明で、博学にして詩を作ることができ、『閬苑集』が世に行われた。保寧の末、その子陳哥が渤海官属と謀りその父を殺害し、兵を挙げて乱を起こした。上は命じて市で轘裂の刑に処した。

原文平王隆先,字團隱,母大氏。景宗即位,始封平王。未幾,兼政事令,留守東京。薄賦稅,省刑獄,恤鰥寡,數薦賢能之士。後與統軍耶律室魯同討高麗有功,還薨,葬醫巫閭山之道隱谷。平王為人聰明,博學能詩,有《閬苑集》行於世。保寧之季,其子陳哥與渤海官屬謀殺其父,舉兵作亂,上命轘裂於市。

子 晉王道隱

原文子 晉王道隱

晉王道隱は、字を留隱といい、母は高氏である。道隱は唐で生まれた。人皇王が李従珂の害に遭った時、年尚幼く、洛陽の僧が匿い養ったため、名を道隱とした。太宗が唐を滅ぼし、京に還ると、詔して外羅山の地を賜り居住させた。性質は沈静で、文武の才があり、時に人に称された。景宗が即位すると、蜀王に封ぜられ、上京留守となった。乾亨元年、守りを南京に移し、号令厳粛にして、民は安らかに生業を得た。数年居住し、荊王に転封された。統和初め、病により薨じ、追封して晉王とした。

原文晉王道隱,字留隱,母高氏。道隱生於唐,人皇王遭李從珂之害,時年尚幼,洛陽僧匿而養之,因名道隱。太宗滅唐,還京,詔賜外羅山地居焉。性沈靜,有文武才,時人稱之。景宗即位,封蜀王,為上京留守。乾亨元年,遷守南京,號令嚴肅,民獲安業。居數年,徙封荊王。統和初,病薨,追封晉王。

論

原文論

論じて曰く、古より新たに造りし国に、一伝にして太子譲る、豈に易くして得んや。遼の義宗は、盛なりと謂うべし。然れども譲りて疑われ見ゆるは、豈に建元称制の際に兆さざらんや。是れ則ち一時の君臣、礼制に暗き過ちなり。書を束ねて海を浮かび、跡を他国に寄せ、親を思うて忘れず、安否を問うて絶えず、其の心甚だ諒むに足る者あり。其の始め泰伯の賢を慕いて遠適の謀りを為し、終わりに陳恒の悪を疾みて請討の挙有りしを観るに、志趣の卓なる、蓋し早歳に先ず孔子を祀るの言に現るるか。善く令終せず、天道詰め難し、性卞にして殺を嗜むに由る所に非ずや。然りと雖も、遼の代を終わるまで、賢聖継統するは、皆其の子孫なり。至徳の報い、昭然として茲に在り。

原文論曰:自古新造之國,一傳而太子讓,豈易得哉?遼之義宗,可謂盛矣!然讓而見疑,豈不兆於建元稱制之際乎?斯則一時君臣昧於禮制之過也。束書浮海,寄跡他國,思親不忘,問安不絕,其心甚有足諒者焉。觀其始慕泰伯之賢而為遠適之謀,終疾陳恒之惡而有請討之舉,誌趣之卓,蓋已見於早歲先祀孔子之言歟。善不令終,天道難詰,得非性卞嗜殺之所致也?雖然,終遼之代,賢聖繼統,皆其子孫。至德之報,昭然在茲矣。

章肅皇帝李胡

原文章肅皇帝李胡

章肅皇帝、小字は李胡、一名は洪古、字は奚隠、太祖の第三子、母は淳欽皇后蕭氏。少より勇悍にして力多く、而して性残酷、小怒すれば輒ち人面に黥し、或いは水火の中に投ず。太祖嘗て諸子の寝るを観るに、李胡は項を縮めて内に臥し、曰く「是れ必ず諸子の下に在らん」と。又嘗て大寒、三子を命じて薪を採らしむ。太宗は択ばずして取り、最も先に至る。人皇王は其の乾ける者を取りて束ねて帰り、後に至る。李胡は少なく取りて多く棄て、既に至りて、袖手して立つ。太祖曰く「長は巧にして次は成る、少は及ばず」と。而して母は篤く李胡を愛す。

原文章肅皇帝,小字李胡,一名洪古,字奚隱,太祖第三子,母淳欽皇后蕭氏。少勇悍多力,而性殘酷,小怒輒黥人面,或投水火中。太祖嘗觀諸子寢,李胡縮項臥內,曰:「是必在諸子下。」又嘗大寒,命三子采薪。太宗不擇而取,最先至;人皇王取其乾者束而歸,後至;李胡取少而棄多,既至,袖手而立。太祖曰:「長巧而次成,少不及矣。」而母篤愛李胡。

天顕五年、代北に地を徇わしめ、寰州を攻め、多く俘虜して還り、遂に皇太弟と為し、天下兵馬大元帥を兼ぬ。太宗親征するとき、常に京師を留守す。世宗鎮陽に即位す、太后怒り、李胡を遣わし兵を将いて之を撃たしむ。泰徳泉に至り、安端・留哥に敗られる。太后と世宗、潢河を隔てて陣し、各々挙兵の意を言う。耶律屋質入りて太后に諫めて曰く「主上既に立ちたれば、宜しく之を許すべし」と。時に李胡側に在り、色を作して曰く「我在りて、兀欲安んぞ立つことを得ん」と。屋質曰く「公の酷暴にして人心を失うを奈何せん」と。太后李胡を顧みて曰く「昔我と太祖、汝を諸子に異にして愛す、諺に云う『偏憐の子は業を保たず、得難き婦は家を主たず』と。我は汝を立てざるに非ず、汝自ら能わざるなり」と。会議に及び、世宗は剣を解かしめて言わしむ。和約既に定まり、上京に趨る。会に李胡と太后の謀りて廃立を謀る者有りと告ぐる有り、李胡を祖州に徙し、其の出入を禁ず。穆宗の時、其の子喜隠謀反す、辞李胡に逮り、之を囚う、獄中に死す、年五十、玉峰山西谷に葬る。統和中、追謚して欽順皇帝と曰う。重熙二十一年、更に謚して章肅と曰い、后を和敬と曰う。二子:宋王喜隠、衛王宛。

原文天顯五年,遣徇地代北,攻寰州,多俘而還,遂立為皇太弟,兼天下兵馬大元帥。太宗親征,常留守京師。世宗即位鎮陽,太后怒,遣李胡將兵擊之。至泰德泉,為安端、留哥所敗。太后與世宗隔潢河而陣,各言舉兵意。耶律屋質入諫太后曰:「主上已立,宜許之。」時李胡在側,作色曰:「我在,兀欲安得立?」屋質曰:「奈公酷暴失人心何!」太后顧李胡曰:「昔我與太祖愛汝異於諸子,諺云:『偏憐之子不保業,難得之婦不主家。』我非不欲立汝,汝自不能矣。」及會議,世宗使解劍而言。和約既定,趨上京。會有告李胡與太后謀廢立者,徙李胡祖州,禁其出入。穆宗時,其子喜隱謀反,辭逮李胡,囚之,死獄中,年五十,葬玉峰山西谷。統和中,追謚欽順皇帝。重熙二十一年,更謚章肅,后曰和敬。二子:宋王喜隱、衛王宛。

子 喜隠

原文子 喜隱

喜隠、字は完徳、雄偉にして騎射に善く、趙王に封ぜらる。応歴中、謀反す、事覚る、上臨問して状有り、親を以て之を釈く。未だ幾ばくもせず、復た反し、獄に下る。景宗即位す、赦有ると聞き、自ら其の械を去りて朝す。上怒りて曰く「汝罪人、何ぞ禁所を擅に離るるを得ん」と。詔して守者を誅ちゅうし、復た獄に置く。改元保寧に及び、乃ち之を宥し、皇后の姉を以て妻とし、復た爵し、宋に王とす。喜隠軽僄にして恒無く、小に志を得れば即ち驕る。上嘗て召す、時に至らず、怒りて之を鞭つ、是れより憤怨して乱を謀る。貶せられて復た召され、適に上と劉継元に書するを見るに、辞意卑遜なり、諫めて曰く「本朝は漢に於いて祖たり、書旨此の如きは、恐らくは国体を虧かん」と。帝尋ち之を改む。西南面招討使を授け、之を河東に命じて吐蕃戸を索めしむ、稍々見用せらる。復た群小を誘いて謀叛す、上命じて其の手足を械し、圜土を築き、祖州に囚う。宋の降卒二百余人、劫いて喜隠を立てんと欲す、城堅くして入るを得ず、其の子留礼寿を立て、上京留守除室之を擒る。留礼寿誅せられ、喜隠に死を賜う。

原文喜隱,字完德,雄偉善騎射,封趙王。應歷中,謀反,事覺,上臨問有狀,以親釋之。未幾,復反,下獄。景宗即位,聞有赦,自去其械而朝。上怒曰:「汝罪人,何得擅離禁所!」詔誅守者,復置於獄。及改元保寧,乃宥之,妻以皇后之姊,復爵,王宋。喜隱輕僄無恒,小得志即驕。上嘗召,不時至,怒而鞭之,由是憤怨謀亂。貶而復召,適見上與劉繼元書,辭意卑遜,諫曰:「本朝於漢為祖,書旨如此,恐虧國體。」帝尋改之。授西南面招討使,命之河東索吐蕃戶,稍見進用。復誘群小謀叛,上命械其手足,築圜土,囚祖州。宋降卒二百餘人欲劫立喜隱,以城堅不得入,立其子留禮壽,上京留守除室擒之。留禮壽伏誅,賜喜隱死。

論

原文論

論じて曰く、李胡残酷驕盈、太祖其の不才なるを知りて而も能く教えず、太后其の悪を知らずして溺愛す。初め屋質の言を以て世宗の立つを定め、而して復た廃立を謀る。子孫継いて逆を以て誅せられ、並びに其の身に及び、哀しむべしのみ。夫れ太祖の世より、剌葛・安端首めて禍乱を倡え、太祖既に之を誅せず、又復た之を用う、固より君人の量有るも、然れども惟だ太祖の才以て之を駕馭するに足れり、庶幾くば其の可ならん。李胡より下り、宗王反側す、代無きは無し、遼の内難、国と始終を共にす。厥の後嗣君、厳法を以て之を縄とすと雖も、卒に止む可からず。嗚呼、創業垂統の主、以て厥の孫に謀りを貽す者は、審にせざる可けんや。

原文論曰:李胡殘酷驕盈,太祖知其不才而不能教,太后不知其惡而溺愛之。初以屋質之言定立世宗,而復謀廢立。子孫繼以逆誅,並及其身,可哀也已。夫自太祖之世,剌葛、安端首倡禍亂,太祖既不之誅,又復用之,固為有君人之量,然惟太祖之才足以駕馭,庶乎其可也。李胡而下,宗王反側,無代無之,遼之內難,與國始終。厥後嗣君,雖嚴法以繩之,卒不可止。烏乎,創業垂統之主,所以貽厥孫謀者,可不審歟!

順宗濬

原文順宗濬

順宗、名は濬、小字は耶魯幹、道宗の長子、母は宣懿皇后蕭氏。幼にして能く言い、学を好み書を知る。道宗嘗て曰く「此の子聡慧、殆ど天授か」と。六歳、梁王に封ぜらる。明年、上に従い猟す、矢連発して三たび中る。上左右を顧みて曰く「朕が祖宗以来、騎射人に絶え、威天下に震う。是の児幼しと雖も、其の風を墜さず」と。後に十鹿に遇い、射て其の九を獲る。帝喜び、宴を設く。八歳、皇太子に立てらる。大康元年、北南枢密院事を兼領す。

原文順宗,名濬,小字耶魯斡,道宗長子,母宣懿皇后蕭氏。幼而能言,好學知書。道宗嘗曰:「此子聰慧,殆天授歟!」六歲,封梁王。明年,從上獵,矢連發三中。上顧左右曰:「朕祖宗以來,騎射絕人,威震天下。是兒雖幼,不墜其風。」後遇十鹿,射獲其九。帝喜,設宴。八歲,立為皇太子。大康元年,兼領北南樞密院事。

母后の害せらるるに及び、太子憂色有り。耶律乙辛北院枢密使と為り、常に自ら安からず。会に護衛蕭忽古乙辛を謀害せんとす、事覚り、獄に下る。副点検蕭十三乙辛に謂いて曰く「臣民心太子に属す、公は閥閲に非ず、一日若し立てば、吾輩身を措く何の地か」と。乃ち同知北院宣徽事蕭特裏特と謀りて太子を構陥れ、陰に右護衛太保耶律査剌を令して都宮使耶律撒剌・知院蕭速撒・護衛蕭忽古の廃立を謀るを誣告せしむ。詔して案ずるも跡無く、治めず。乙辛復た牌印郎君蕭訛都幹等を令して言わしむ「査剌前の告げ妄ならず、臣実に謀り与り、耶律乙辛等を殺さんと欲し、然る後に太子を立てんとす。臣若し言わざれば、恐らくは事発して連坐せん」と。帝之を信じ、太子を別室に幽し、耶律燕哥を以て案を鞫かしむ。太子枉状を具に陳べて曰く「吾儲副たり、尚何をか求めん。公当に吾が為に之を弁ずべし」と。燕哥は乃ち乙辛の党、其の言を易えて款伏と為す。上大いに怒り、太子を廃して庶人と為す。将に出でんとして曰く「我何の罪か是に至る」と。十三叱して車に登らしめ、衛士を遣わして其の扉を闔わしむ。上京に徙し、圜堵の中に囚う。乙辛尋ち達魯古・撒八を遣わし往きて之を害せしむ、太子年方に二十、上京留守蕭撻得疾を以て薨ずと紿いて聞こゆ。上之を哀しみ、有司を命じて龍門山に葬らしむ。其の妃を召さんと欲す、乙辛陰に人を遣わし之を殺す。帝後其の冤を知り、悔恨及ぶ無く、謚して昭懐太子と曰い、天子の礼を以て玉峰山に改葬す。乾統初、追尊して大孝順聖皇帝と曰い、廟号順宗、妃蕭氏貞順皇后。一子、延禧、即ち天祚皇帝。

原文及母后被害,太子有憂色。耶律乙辛為北院樞密使,常不自安。會護衛蕭忽古謀害乙辛,事覺,下獄。副點檢蕭十三謂乙辛曰:「臣民心屬太子,公非閥閱,一日若立,吾輩措身何地!」乃與同知北院宣徽事蕭特裏特謀構陷太子,陰令右護衛太保耶律查剌誣告都宮使耶律撒剌、知院蕭速撒、護衛蕭忽古謀廢立。詔案無跡,不治。乙辛復令牌印郎君蕭訛都斡等言:「查剌前告非妄,臣實與謀,欲殺耶律乙辛等,然後立太子。臣若不言,恐事發連坐。」帝信之,幽太子於別室,以耶律燕哥鞫案。太子具陳枉狀曰:「吾為儲副,尚何所求。公當為我辨之。」燕哥乃乙辛之黨,易其言為款伏。上大怒,廢太子為庶人。將出,曰:「我何罪至是!」十三叱登車,遣衛士闔其扉。徙於上京,囚圜堵中。乙辛尋遣達魯古、撒八往害之,太子年方二十,上京留守蕭撻得紿以疾薨聞。上哀之,命有司葬龍門山。欲召其妃,乙辛陰遣人殺之。帝後知其冤,悔恨無及,謚曰昭懷太子,以天子禮改葬玉峰山。乾統初,追尊大孝順聖皇帝,廟號順宗,妃蕭氏貞順皇后。一子,延禧,即天祚皇帝。

論

原文論

論じて曰く、道宗太子の賢なるを知りて、而も能く乙辛の詐りを弁ぜず、竟に父子の親を絶ち、万世の為に惜しむ。乙辛一身の計りを知りて、君臣の義有るを知らず、豈に復た太子有るを知らんや。奸邪の臣人家国を乱る此の如きは、戒むべからずや。戒むべからずや。

原文論曰:道宗知太子之賢,而不能辨乙辛之詐,竟絕父子之親,為萬世惜。乙辛知為一身之計,不知有君臣之義,豈復知有太子乎!奸邪之臣亂人家國如此,可不戒哉!可不戒哉!

晋王敖盧幹

原文晉王敖盧斡

晉王、諱いみなは敖盧斡、天祚皇帝の長子、母は文妃蕭氏という。髫齔(幼少)の頃より、馬を馳せて射を善くす。出でて大丞相耶律隆運の後を継ぎ、晉王に封ぜらる。性、人の善を道(言)うを楽しみ、人の不能を矜れむ。時に宮中にては読書する者を見れば輒ち斥く。敖盧斡嘗て寢殿に入り、小底茶剌の書を閲するを見て、因りて取りて観る。会に諸王至るや、陰に袖にして之を帰し、曰く「他人に見しむる勿れ」と。一時、長者と称せらる。及んで長ずるに及び、積もりて人望有り、内外心を帰す。保大元年、南軍都統耶律余睹其の母文妃と謀を密かにして之を立てんとす。事覚るや、余睹金に降り、文妃誅せらる。敖盧斡は実に謀に与せず、免る。二年、耶律撒八等復た謀をなして立てんとすも、克たず。上、敖盧斡の人心を得るを知り、忍びずして誅を加え、縊殺せしむ。或いは之に亡ぶるを勧むるも、敖盧斡曰く「安んぞ蕞爾の軀の為に忍びて、臣子の大節を失わんや」と。遂に就きて死す。聞く者之を傷む。

原文晉王,小字敖盧斡,天祚皇帝長子,母曰文妃蕭氏。甫髫齔,馳馬善射。出為大丞相耶律隆運後,封晉王。性樂道人善,而矜人不能。時宮中見讀書者輒斥,敖盧斡嘗入寢殿,見小底茶剌閱書,因取觀。會諸王至,陰袖而歸之,曰:「勿令他人見也。」一時號稱長者。及長,積有人望,內外歸心。保大元年,南軍都統耶律余睹與其母文妃密謀立之,事覺,余睹降金,文妃伏誅,敖盧斡實不與謀,免。二年,耶律撒八等復謀立,不克。上知敖盧斡得人心,不忍加誅,令縊殺之。或勸之亡,敖盧斡曰:「安忍為蕞爾之軀,而失臣子之大節!」遂就死。聞者傷之。

論

原文論

論じて曰く、天祚は君たらず、臣下其の子を謀りて立つるも、適以て之を殺す。敖盧斡は君父の命を重んじ、亡びずして死す、申生其れ恭なるかな。

原文論曰:天祚不君,臣下謀立其子,適以殺之。敖盧斡重君父之命,不亡而死,申生其恭矣乎!