遼史

列傳第四十三: 逆臣中

蕭翰、一名は敵烈、字は寒真、宰相敵魯の子なり。天贊初め、唐兵鎮州を圍み、節度使張文禮、使を遣わして急を告ぐ。翰、詔を受けて康末怛とともに往きて救い、これを克ち、其の將李嗣昭を殺し、石城を抜く。會同初め、漢軍侍衛を領す。八年、晉を伐ち、晉の將杜重威を破り、望都に追い至る。翰奏して曰く、「軍をして下馬して射しむべし」と。帝その言に從う。軍士歩み進む。敵人短兵を持ちて猝然に至る。我が軍利あらず。帝これを悔いて曰く、「此れ吾が言を用いるの過ち、此に至る!」と。駕に從い汴に入り、宣武軍節度使と為る。帝の欒城に崩ずるに會い、世宗即位す。翰これを聞き、事を李從敏に委ね、徑に行在に趨る。是の年秋、世宗と皇太后と潢河横渡において相拒み、和議未だ定まらず。太后翰に問うて曰く、「汝何の怨みあって叛くや」と。對えて曰く、「臣の母罪無く、太后之を殺す。此を以て憾み無き能わざるなり」と。初め耶律屋質、太后に附するを以て囚われたり。翰聞きて之を快しとし、即ち囚われし所に謂いて曰く、「汝嘗て我輩及ばずと言えり。今狴犴に在り、何ぞや」と。對えて曰く、「第に公の此の如きに至らざらんことを願うのみ」と。翰默然たり。天祿二年、帝の妹阿不裏を尚ぶ。後に天德と謀反を謀り、獄に下る。復た惕隱劉哥及び其の弟盆都の亂を結ぶ。耶律石剌、屋質に告ぐ。屋質遽かに入りて之を奏す。翰等伏せず。帝其の事を發せんと欲せず。屋質固く諍いて以て不可と為す。乃ち屋質に詔して鞫按せしむ。翰辜に伏す。帝竟に之を釋す。復た公主と以て書を以て明王安端の反を結ぶ。屋質其の書を得て以て奏す。翰誅に伏す。

牒蠟、字は述蘭、六院夷離堇蒲古只の後なり。天顯中、中臺省右相と為る。會同元年、趙思温と節を持ちて晉帝を冊す。我が師の晉を伐つに及び、滹沱河に至り、晉の將杜重威を降す。牒蠟功多くを占む。大同元年、相州の叛を平げ、首級數萬を斬る。世宗即位し、使を遣わして馳せて報じ、仍って牒蠟に命じて偏將術者を執りて來らしむ。其の使誤って術者の營に入る。術者詔を得て、反って牒蠟を誘い、執りて太后に送る。牒蠟亡走して世宗に歸す。和約既に成り、燕王に封じ、南京留守と為る。天祿五年、察割逆をしいす。牒蠟方に醉える。其の妻扶けて察割の幕に入る。因って之に從う。明旦、壽安王亂を討つ。凡そ脅從する者皆兵を棄てて降る。牒蠟降らず、陵遲にて死す。妻子皆誅せらる。

朗、字は歐新、季父房罨古只の孫なり。性輕佻、力多く、人「虎斯」と呼ぶ。天顯間、材勇を以て進み、戰う毎に輒ち克つ。是れを由りて名を得。會同九年、太宗汴に入り、澶淵を知らしめ、河渡を控扼せしむ。天祿元年、燕・趙已南皆劉知遠に應ず。朗と汴守蕭翰城を棄てて闕に歸る。先に、朗の祖罨古只、其の弟轄底の爲に詐りて夷離堇を取らる。是れより族中六院職事に任ずる者無し。世宗其の事を悉くせず、朗を以て六院大王と為す。察割の亂を作すに及び、人を遣わして朗に報じて曰く、「事成れり」と。朗、詳穩蕭胡裏を遣わして以て所部の軍を往かしめ、命じて曰く、「當に兩端を持ち、其の勝つ者を助くべし」と。穆宗即位し、誅に伏し、其の家屬を籍す。

劉哥、字は明隱、太祖の弟寅底石の子なり。幼より驕狠、人を陵侮するを好み、長じて益々凶狡なり。太宗之を惡み、邊僥を守らしめ、累遷して西南邊大詳穩と為る。會同十年、叔父安端、帝に從い晉を伐ち、病を以て先に歸り、劉哥と鄰居す。世宗軍中に立ち、安端往く所を議す。劉哥首めて世宗に附するの策を建て、以て本部の兵を之に助く。時に太后、皇太弟李胡に命じて兵を率い南せしむ。劉哥・安端、泰德泉において遇う。既に戰を接し、安端馬より墜つ。王子天德馳せ至り、槍を以て之を刺さんと欲す。劉哥身を以て安端を衛い、天德を射て、甲を貫きて膚に及ばず。安端馬を得て復た戰う。太弟の兵敗る。劉哥と安端、行在に朝す。和議成るに及び、太后劉哥に問うて曰く、「汝何の怨みあって叛くや」と。對えて曰く、「臣の父罪無く、太后之を殺す。此を以て怨むのみ」と。事平ぎ、功を以て惕隱と為る。天祿中、其の弟盆都・王子天德・侍衛蕭翰と謀反を謀る。耶律石剌其の事を發す。劉哥飾辭を以て免る。後に帝に博を請い、酒を進むるに因りて逆を弑せんと欲す。帝之を覺り、果たさず、囚われる。一日、劉哥を召し、項を鎖して以て博す。帝問うて曰く、「汝實に反するか」と。劉哥誓いて曰く、「臣若し反心あらば、必ず千頂疽を生じて死なん!」と。遂に之を貰う。耶律屋質固く諍いて、罪赦すべからずと為す。上屋質に命じて之を按せしむ。服すること具なり。詔して死を免じ、烏古部に流す。果たして千頂疽を以て死す。弟盆都。

盆都、殘忍にして力多く、膚蛇の皮の若し。天祿初め、族屬を以て皮室詳穩と為る。二年、兄劉哥と謀反を謀り、死を免じ、轄戛斯國に使わす。既に還り、復た察割の亂に預かり、陵遲にて死す。

異母弟二人:化葛裏・奚蹇。應歷初め、職任無く、族子を以て、甚だ優禮を見る。三年、或る者化葛裏・奚蹇と衛王宛の逆を謀るを告ぐ。獄に下り、飾辭を以て免る。四年春、復た謀反を謀り、誅に伏す。

海思、字は鐸袞、隋國王釋魯の庶子なり。機警にして口辯なり。會同五年、詔して直言を求む。時に海思年十八、羊裘を衣、牛に乗りて闕に詣る。有司問うて曰く、「汝何の故をもって來るや」と。對えて曰く、「詔に應じて事を言わんとす。苟も貧稚を以て見遺せられずば、亦た直言の選に備うべし」と。有司以て聞く。會に帝將に出獵せんとす。使をして謂わしめて曰く、「吾の還るを俟てば則ち之を見ん」と。海思曰く、「臣陛下の賢を求むるの急なるを以て、是を以て來るのみ。今反って獵に緩し。請う、此より歸らん」と。帝聞き、即ち召見して坐を賜い、治道を以て問う。明王安端と耶律頗德に命じて之を試みしむ。數日、安端等奏して曰く、「海思の材、臣等の及ばざる所なり」と。帝海思を召して問うて曰く、「汝と言う者何如なる人ぞ」と。對えて曰く、「安端の言は收檢無く、空車の峻阪を走るが若し。頗德は靴を著けて曠野を行き鴇を射るが如し」と。帝大笑す。宣徽使に擢で、屢び事を以て任ず。帝其の貧しきを知り、金器を以て之を賜う。海思即ち親友に散ず。後に帝に從い晉を伐ち功有り。世宗軍中に即く。皇太后兵を以て潢河横渡において逆らう。太后耶律屋質を遣わして世宗の自立を責む。屋質帝の前に至り、旨を諭して屈せず。世宗海思を遣わして對せしむ。亦た遜らず、且つ之に命じて曰く、「汝屋質を見て懼るる勿れ」と。海思太后に見えて還り、旨に稱せず。既に和し、太后の諸局事を領す。穆宗即位し、冀王敵烈と謀反を謀り、獄中に死す。

敵獵は、字を烏輦といい、六院の夷離堇術不魯の子である。若い頃から偽りが多い。世宗が即位すると、群牧都林牙となった。察割が乱を謀ると、官僚の多くは囚われの身となった。寿安王と耶律屋質が兵を率いて討伐に来ると、諸党は順次引き去った。察割は事の成就せぬことを悟り、直ちに囚われの場所に赴き、弓矢を手に脅して言った、「この連中を皆殺しにせよ」。敵獵が進み出て言った、「殺しても何の益がありましょうか。ひそかに考えるに、屋質は寿安王を立てようとしているので、この挙に出たのであり、しかも寿安王は必ずしも知らないでしょう。もし人を遣わしてこのことを口実とすれば、おそらく免れることができましょう」。察割は言った、「卿の言う通りだ。誰を使者とすべきか」。敵獵は言った、「大王が疑わなければ、敵獵が罨撒葛と共に往き、これを説得いたします」。察割は彼らを遣わした。寿安王は敵獵の計を用い、察割を誘い出して殺し、脅迫されていた人々は一人も害されることなく、皆敵獵の力によるものであった。乱が平定されると、帝は賞賛したが、顕著に用いることはなかった。敵獵は失望し、平素から快からず、不逞の輩と結び、ひそかに不軌を抱いた。応暦三年、その党と謀って婁国を立てようとしたが、事が発覚し、陵遅の刑に処せられて死んだ。

蕭革は、小字を滑哥、字を胡突堇といい、国舅房の林牙和尚の子である。機敏で悟りが早く、多くの智謀を持っていた。太平の初め、累進して官職に昇った。近習の間を遊び歩き、諂い媚びて互いに親しみ、同輩から称賛され、これによって名声が上聞に達した。重熙の初め、北面林牙に拝された。十二年、北院枢密副使となった。帝はかつて近臣と宴し、革に言った、「朕は卿の才を知っているゆえ、自ら抜擢した。卿は力を尽くすがよい」。革は言った、「臣は不才であり、誤って聖知を蒙り、万が一にも報いることができません。ただ愚忠を尽くすのみで、どうして怠ることができましょうか」。翌年、北府宰相に拝された。十五年、同知北院枢密事に改めた。革は寵を恃んで権を専らにし、同僚はただ官位を備えるだけであった。時に夷離畢耶律義先は革の奸佞を知り、侍宴の機会に因って、革の短所を言い、これを用いれば事を敗るであろうと述べた。帝は聞き入れなかった。ある日、上は義先に命じて革と対面して骰子を擲たせた。義先は酒が酣になると言った、「臣は大臣の位を備えていながら、忠を進め佞を去ることができないとしても、どうして賊と博戯などできましょうか」。革はこれを恨みに思い、偽って言った、「貴公は戯れが過ぎるではありませんか」。義先は罵り続けてやまなかった。帝は怒り、皇后がこれを解いて言った、「義先は酒狂いです。醒めれば治すことができます」。翌日、上は革に詔して言った、「義先は無礼である。痛くこれを糾せよ」。革は言った、「義先の才は、どうして聖鑑を逃れましょうか。しかし天下は皆その忠直を知っています。今、酒の過ちを罪とすれば、恐らく人望に背くでしょう」。帝は革が犯されても報いず、ますます厚く遇した。その偽りの情で上に媚びることは多くこの類であった。南院枢密使に拝され、詔して諸王の上に班せしめ、呉王に封ぜられた。北院を知ることに改め、鄭王に進み、中書令を兼ねた。帝が危篤に陥ると、革に詔して言った、「大位は一日も空けることはできない。朕もし覚めなければ、直ちに燕趙国王に嗣がせよ」。清寧元年、再び南院枢密使となり、楚王に改封された。また北院に移り、国舅蕭阿剌と共に朝政を執った。革は私的に曲げることが多く、阿剌は常にこれを是正した。これによって隙が生じ、阿剌を出して東京留守とした。ちょうど南郊の祭があり、阿剌は例によって宮闕に赴いた。帝が群臣に時務を訪ねると、阿剌は利害を陳べ、言葉は甚だ激切であった。革は帝の意の悦ばざるを窺い、因って讒して言った、「阿剌は寵を恃み、上を侮る心があり、臣子の礼ではありません」。帝は大いに怒り、殿下で阿剌を縊り殺した。後に上は革の奸計を知り、寵遇は次第に衰えた。八年、致仕し、鄭国王に封ぜられた。九年の秋、革はその子を重元の婿とし、革はその謀に与かり、陵遅の刑に処せられて殺された。