梁書 巻56 侯景

梁書

侯景

侯景は、 字 を萬景といい、朔方の人である。あるいは雁門の人ともいう。若い頃から放縦で、郷里の人々に恐れられていた。成長すると、勇猛で膂力に優れ、騎射を得意とした。選抜されて北鎮の戍兵となり、次第に功績を立てた。北魏の孝昌元年、懐朔鎮の兵士である鮮于脩礼が定州で反乱を起こし、郡県を陥落させた。また、柔玄鎮の兵士である吐斤洛周がその仲間を率いて、幽州・冀州を再び侵し、脩礼と合流し、その衆は十数万に及んだ。後に脩礼が殺害されると、部下は潰走した。懐朔鎮の将軍であった葛栄がこれらを収集し、吐斤洛周を攻め殺してその衆をすべて手に入れ、「葛賊」と呼ばれた。四年、北魏の明帝が崩御し、その後胡氏が臨朝した。天柱将軍の尓朱栄が晋陽から入って胡氏を しい し、その親族も誅殺した。侯景は私兵を率いて尓朱栄に謁見し、栄は景を非常に異才と認め、すぐに軍事を委任した。ちょうど葛賊が南に迫っていたので、栄は自ら討伐に向かい、景を先鋒として命じた。河内に至って葛賊を大破し、葛栄を生け捕りにした。功績により定州 刺史 しし ・大行臺に抜擢され、濮陽郡公に封じられた。侯景はこれにより威名を著しくした。

しばらくして、北斉の神 武帝 (高歓)が北魏の丞相となり、また洛陽に入って尓朱氏を誅殺した。侯景は再び衆を率いて彼に降り、やはり神武帝に用いられた。侯景の性格は残忍で酷虐であり、軍を統率するには厳格であった。しかし、略奪で得た財宝はすべて将士に分け与えたので、皆が彼のために働き、向かうところ多く勝利した。兵権を総攬し、神武帝に次ぐ地位にあった。北魏は彼を 司徒 しと ・南道行臺とし、十万の衆を擁して河南を専制させた。神武帝が病篤くなった時、子の澄(高澄)に言った。「侯景は狡猾で計略が多く、反覆してその心を知り難い。私が死んだ後、必ずやお前のために働くことはないだろう。」そこで手紙を書いて侯景を召し寄せようとした。侯景はこれを知り、禍が及ぶことを憂慮し、太清元年、行臺郎中の丁和を遣わして上表し、降伏を請うた。その文は以下の通りである。

丁和が到着すると、高祖(梁の武帝)は群臣を朝廷に召集して議論させた。 尚書 僕射 ぼくや の 謝挙 および百官らが議論し、皆が侯景を受け入れるのは適切でないと述べたが、高祖はこの意見に従わず、侯景を受け入れた。

北斉の神武帝が死去し、その子の澄が後を継いだ。これが文襄帝である。高祖は 詔 を下して侯景を河南王・大将軍・使持節・董督河南南北諸軍事・大行臺に封じ、制を承けて事を行うことを許し、かつての鄧禹の故事のように 鼓吹 一部を与えた。斉の文襄帝は大将軍の慕容紹宗を遣わして侯景を長社に包囲した。侯景は西魏に援軍を求めた。西魏はその五城王の元慶らに兵を率いて救援させたので、紹宗は退却した。侯景はさらに司州 刺史 しし の羊鴉仁に兵を求めた。鴉仁は 長史 の鄧鴻に兵を率いて汝水に至らせたが、元慶の軍はまた夜に遁走した。そこで侯景は 懸瓠 と項城を占拠し、 刺史 しし を派遣してこれを鎮めさせるよう求めた。 詔 により羊鴉仁を ・司二州 刺史 しし とし、懸瓠に移鎮させた。西陽 太守 の羊思建を殷州 刺史 しし とし、項城を鎮めさせた。

北魏は元帥(高歓)を新たに失い、侯景がまた河南を挙げて内属したので、斉の文襄帝は侯景が西魏や梁と合従して、自らの禍患となることを憂慮し、手紙を送って侯景を諭した。その文は以下の通りである。

侯景が返書を送った。その文は以下の通りである。

十二月、侯景は軍を率いて譙城を包囲したが陥落せず、退いて城父を攻め、これを陥れた。また、その行臺左丞の王偉と左民郎中の王則を朝廷に遣わして献策を献上し、元氏の子弟を求め立てて魏の主とし、北伐を補佐させたいと請うた。朝廷はこれを許した。 詔 により太子舎人の元貞を咸陽王とし、長江を渡ることを待ち、その時には偽の帝位に即くことを許し、副次的な乗輿や御物を資給した。

斉の文襄帝はまた慕容紹宗を遣わして侯景を追撃させた。侯景は 渦陽 に退き、馬はなお数千匹、甲卒は数万人、車は一万余輛あり、渦水の北で対峙した。侯景軍の食糧が尽き、士卒は皆北方の人で、南への渡河を好まず、その将の暴顕らがそれぞれ配下を率いて紹宗に降った。侯景軍は潰走し、腹心の数騎とともに峽石から淮水を渡り、散り散りになった兵卒を少しずつ収集し、騎兵と歩兵合わせて八百人を得て、 寿春 に奔り、監州の韋黯がこれを受け入れた。侯景は上表して官位の貶降を請うたが、優 詔 で許さず、依然として 州牧とし、本来の官職もそのままとした。

侯景は寿春を占拠すると、反逆を企てるようになった。管轄下の城の住民をすべて召募して軍士とし、市場の税や田租の徴収を勝手に停止し、百姓の子女をすべて将兵に配した。また、錦一万匹を求め、軍人の袍(上衣)にしたいと上表した。領軍の朱异が議論し、御府の錦署の錦は遠近への頒賞に充てるだけで、辺境の城の軍服に供することはできないとして、青布を送ってこれに給するよう請うた。侯景は布を得ると、すべて袍や衫(上着)に用い、それゆえ青色を尚んだ。また、朝廷から給された武器の多くが精良でないとして、東冶の鍛冶工を求め、改めて製造したいと上表し、勅命によりすべて与えられた。侯景は渦陽で敗れて以来、多くの要求をしたが、朝廷は寛大に受け入れ、一度も拒絶しなかった。

以前、 刺史 しし の貞陽侯 蕭淵明 が衆軍を督いて彭城を包囲したが、兵敗して北魏に捕らえられた。この時、使者を遣わして戻らせ、北魏の人が以前の友好関係を追及したいと述べたことを報告させた。二年二月、高祖はまた北魏と和睦した。侯景はこれを聞いて恐れ、急ぎ上表して強く諫めたが、高祖は従わなかった。その後、上表や上疏の言葉は跋扈し、言辞は不遜であった。鄱陽王蕭範が合肥を鎮守し、司州 刺史 しし の羊鴉仁とともに累次にわたり、侯景に異心があると上奏したが、領軍の朱异が「侯景は数百の叛虜に過ぎず、何ができようか」と言い、ともに抑えて奏上せず、かえって賞賜を加えたので、侯景の奸計はますます決定的になった。また、臨賀王蕭正徳が朝廷に怨みを抱いていることを知り、密かに結託を求めるよう命じた。正徳は内応すると約束した。八月、侯景はついに兵を挙げて反乱を起こし、馬頭と木柵を攻め、太守の劉神茂と戍主の曹璆らを捕らえた。そこで 詔 により、鄱陽王蕭範を南道 都督 ととく 、北徐州 刺史 しし の封山侯蕭正表を北道 都督 ととく 、司州 刺史 しし の柳仲礼を西道 都督 ととく 、通直 散騎 常侍 の裴之高を東道 都督 ととく とし、ともに侯景を討伐させ、 歴陽 から渡河させた。また、開府儀同三司・丹陽尹・邵陵王蕭綸に節を持たせ、衆軍を董督させた。

十月、侯景はその中軍の王顕貴に寿春城を守らせ、軍を出して偽り合肥に向かい、ついに譙州を襲撃した。助防の董紹先が城を開いて降伏し、 刺史 しし の豊城侯蕭泰を捕らえた。高祖はこれを聞き、太子家令の王質に兵三千を率いさせ、長江を巡って防備を阻止させた。侯景は歴陽に進攻した。歴陽太守の莊鉄は弟の莊均に数百人を率いさせて夜に侯景の陣営を襲撃させたが、成功せず、均は戦死し、鉄はまた降伏した。蕭正徳は先に大船数十艘を遣わし、葦を積むと偽称して、実際には侯景を渡河させるために装備していた。侯景が京口に至り、渡河しようとした時、王質が障害となることを憂慮した。間もなく王質が理由なく撤退した。侯景はこれを聞いたがまだ信じず、密かに偵察させた。使者に言った。「王質が本当に撤退したなら、江東の樹枝を折って証拠とせよ。」偵察者が言われた通りにして戻ると、侯景は大喜びして言った。「我が事は成就した。」そこで自ら採石から渡河し、馬数百匹、兵千人で、都はこれを気づかなかった。侯景はすぐに分かれて 姑孰 を襲撃し、淮南太守の文成侯蕭寧を捕らえ、ついに慈湖に至った。そこで 詔 により、揚州 刺史 しし の宣城王蕭大器を 都督 ととく 城內諸軍事とし、都官尚書の羊侃を軍師将軍としてこれを補佐させた。南浦侯蕭推に東府城を守らせ、西豊公蕭大春に 石頭 城を守らせ、軽車長史の謝禧に白下を守らせた。

やがて侯景が朱雀航に到着すると、蕭正德は先に丹陽郡に駐屯していたが、この時、配下の兵を率いて侯景と合流した。 建康 令の庾信は千余りの兵を率いて航の北に駐屯していたが、侯景が航に到着するのを見て、航を撤去するよう命じ、船を一隻だけ取り除いたところで、軍を捨てて南塘へ逃走し、遊軍が再び航を閉じて侯景を渡河させた。皇太子は自らの乗馬を王質に与え、精兵三千を配属して、庾信の救援に向かわせた。王質が領軍府に到着すると、賊軍と遭遇し、陣を構える前に逃走した。侯景は勝ちに乗じて宮門の下まで進んだ。西豊公の蕭大春は石頭城を捨てて逃走し、侯景はその儀同の于子悦を派遣してこれを占拠させた。謝禧もまた白下城を捨てて逃走した。侯景はここに至って百方手を尽くして城を攻め、松明を持って大 司馬 門や東西華門などの諸門を焼いた。城内は慌てふためき、備えがなかったため、門楼を穿ち、水をかけて火を消し、ようやく鎮火した。賊はまた東掖門を斬り開こうとしたが、羊侃が門扉を穿ち、数人を刺し殺したため、賊は退却した。賊はまた東宮の塀に登り、城内を射た。夜になると、 太宗 ( 簡文帝 )は人を募って東宮を焼き討ちに出し、東宮の台殿はことごとく焼け落ちた。侯景はまた城西の馬小屋、士林館、太府寺を焼いた。翌日、侯景はまた数百の木驢を作って城を攻めたが、城上から飛石を投げつけられ、当たったものはすべて粉々に砕けた。侯景は苦戦して城を落とせず、損害も多かったため、攻撃を止め、長い包囲陣を築いて内外を遮断し、中領軍の朱异、太子右衛率の陸驗、兼少府卿の徐驎、制局監の周石珍らを誅殺するよう上奏して求めた。城内もまた賞格を書いた矢文を城外に射て、「侯景の首を斬ることができた者には、侯景の地位を与え、併せて銭一億万、布と絹をそれぞれ一万匹、女楽二部を与える」とした。

十一月、侯景は蕭正德を皇帝に立て、儀賢堂で偽帝位に即かせ、年号を正平と改めた。初め、童謡に「正平」という言葉があったので、この号を立ててそれに応じたのである。侯景は自ら相国、天柱将軍となり、蕭正德は娘を侯景の妻とした。

侯景はまた東府城を攻め、百尺の楼車を設置し、城の女牆を鉤でことごとく引き落とし、城はついに陥落した。侯景はその儀同の盧暉略に数千人を率いさせ、長刀を持って城門の両側に立ち、城内の文武官を裸にして外に追い出させ、賊兵が交戦してこれを殺し、死者は二千余人に及んだ。南浦侯の蕭推はこの日に殺害された。侯景は蕭正德の子の蕭見理と儀同の盧暉略に東府城を守らせた。

侯景はまた城の東西にそれぞれ土山を築いて城内に臨み、城内もまた二つの山を作ってこれに対応し、王公以下すべてが土を運んだ。初め、侯景が到着した時は、すぐに京師を平定できると望み、号令は非常に厳明で、百姓を犯すことはなかった。しかし城を攻め落とせなくなると、人心は離反し、また援軍が総集結することを恐れ、兵衆が必ず潰散すると考え、兵を放って殺戮略奪を行い、死体が道を塞ぎ、富家や豪族を恣意に略奪し、子女や妻妾をことごとく軍営に連行した。土山を築く際には、貴賤を問わず、昼夜を分かたず働かせ、乱暴に殴打し、疲れ弱った者は殺して山に埋め、号哭の声は天地に響き渡った。百姓は隠れることができず、皆出てこれに従い、十日ほどの間に、その数は数万に達した。

侯景の儀同である範桃棒が密かに使者を送って降伏を申し出たが、事が漏れて殺害された。この時、邵陵王の蕭綸が西豊公の蕭大春、新塗将軍の永安侯蕭確、超武将軍の南安郷侯蕭駿、前譙州 刺史 しし の趙伯超、武州 刺史 しし の蕭弄璋、歩兵 校尉 こうい の尹思合らを率い、馬歩軍三万を京口から出発させ、直ちに鐘山を占拠した。侯景の党は大いに驚き、船を用意して皆逃げ散ろうとしたが、一万余人を分遣して蕭綸を防がせた。蕭綸はこれを大いに撃破し、千余級を斬首した。翌朝、侯景はまた覆舟山の北に兵を陳べ、蕭綸もまた陣を列ねてこれを待った。侯景は進まず、対峙した。日が暮れると、侯景は軍を引き返した。南安侯の蕭駿が数十騎を率いて挑発すると、侯景は軍を返して戦い、蕭駿は退却した。この時、趙伯超は玄武湖の北に陣を敷いていたが、蕭駿が危急なのを見て救援せず、軍を率いて先に逃走した。諸軍はこれにより混乱し、ついに敗北した。蕭綸は京口へ奔った。賊は輜重や武器甲冑をことごとく鹵獲し、数百級を斬首し、千余人を生け捕りにし、西豊公の蕭大春、蕭綸の司馬の莊丘惠達、直閣将軍の胡子約、広陵令の霍儁らを捕らえ、城下に連行して見せしめにし、「すでに邵陵王を捕らえた」と脅した。霍儁だけは「王は少し敗れただけで、すでに全軍で京口に戻られた。城中はただ堅く守り、援軍は間もなく到着するであろう」と言った。賊は刀で彼を殴打したが、霍儁の言葉と顔色は変わらず、侯景はその義気を認めて釈放した。

この日、鄱陽王の世子である蕭嗣と裴之高が後渚に到着し、蔡洲に営を結んだ。侯景は軍を分けて南岸に駐屯させた。

十二月、侯景は各種の攻城兵器や飛楼、橦車、登城車、登堞車、階道車、火車を造り、いずれも数丈の高さがあり、一つの車に二十輪もつき、宮門の前に陳べ、百方手を尽くして攻城に用いた。火車で城の南東隅の大楼を焼き、賊は火勢に乗じて城を攻めたが、城上から火を放ち、その攻城兵器をことごとく焼き払ったため、賊は退却した。また土山を築いて城に迫ったが、城内は地下道を作ってその土山を引き込み、賊はまたもや立てず、攻城兵器を焼き、柵の中に戻った。材官将軍の宋嶷が賊に降伏し、そのために策を立て、玄武湖の水を引いて台城に灌がせ、城外の水位は数尺上がり、宮門前の御街はすべて洪水のようになった。また南岸の民家や寺院を焼き、残るところなくことごとく焼き尽くした。

司州 刺史 しし の柳仲礼、衡州 刺史 しし の韋粲、南陵太守の陳文徹、宣猛将軍の李孝欽らが、皆救援に駆けつけた。鄱陽王の世子である蕭嗣と裴之高もまた長江を渡った。柳仲礼は朱雀航の南に、裴之高は南苑に、韋粲は青塘に、陳文徹と李孝欽は丹陽郡に、鄱陽王の世子である蕭嗣は小航の南にそれぞれ営を結び、淮水沿いに柵を造った。夜が明けて、侯景はようやく気づき、禅霊寺の門楼に登ってこれを望み見た。韋粲の営塁がまだ完成していないのを見て、先に兵を渡してこれを攻撃した。韋粲は防戦したが敗北し、侯景は韋粲の首を斬って城下で晒しものにした。柳仲礼は韋粲の敗北を聞き、甲冑を着ける暇もなく、数十騎を率いて駆けつけ、賊と遭遇して戦い、数百級を斬首し、水に投じて死んだ者は千余人に及んだ。柳仲礼は深く追撃したが、馬が泥にはまり、また重傷を負った。これ以来、賊は岸を渡ることを敢えてしなくなった。

邵陵王の蕭綸と臨成公の蕭大連らは東路から南岸に集結し、 荊州 刺史 しし の湘東王 蕭 は世子の 蕭方等 と兼司馬の呉曄、天門太守の樊文皎を派遣して京師に赴かせ、湘子岸の前に営を結んだ。高州 刺史 しし の李遷仕と前司州 刺史 しし の羊鴉仁もまた兵を率いて続いて到着した。やがて鄱陽王の世子である蕭嗣、永安侯の蕭確、羊鴉仁、李遷仕、樊文皎が兵を率いて淮水を渡り、賊の東府城前の柵を攻撃してこれを破り、青溪の水の東に営を結んだ。侯景はその儀同の宋子仙を派遣して南平王の邸宅に駐屯させ、水の西沿いに柵を立てて対峙させた。侯景の食糧は次第に尽き、この時には米一斛が数十万銭にもなり、人肉を食う者が十のうち五、六に及んだ。

初め、援軍が北岸に到着すると、百姓は老幼を連れて王師を待ち望んだが、淮水を渡るやいなや、競って略奪を始めた。賊党の中には自ら抜け出そうとする者もいたが、これを聞いて皆思いとどまった。賊が初めて到着した時、城中はかろうじて固守することができ、平定の事業は援軍に期待していた。しかし四方から雲のごとく集まり、その数は百万と号し、連営して対峙すること、すでに一月余りに及んだ。城中では疫病が流行し、死者は大半に及んだ。

景は年初から和睦を請うていたが、朝廷はこれを許さず、事態が切迫したこの時になってようやく聞き入れた。景は江右の四州の地を割譲すること、および宣城王蕭大器を送り出して見送らせることを求め、それから包囲を解いて長江を渡るとした。また、その儀同于子悦と左丞王偉を城内に入れて人質とすることを許すよう求めた。中領軍の傅岐は、宣城王は嫡嗣として重きをなすゆえ、これを許すべきではないと議した。そこで石城公蕭大款を送り出すよう請うたところ、 詔 によって許された。こうして西華門外に壇を設け、尚書 僕射 ぼくや の王克、兼 侍中 の上甲郷侯蕭韶、兼 散騎常侍 さんきじょうじ の蕭瑳を于子悦・王偉らとともに遣わし、壇に登って共に盟を結ばせた。左衛将軍の柳津は西華門の下に出て、景はその柵門を出て、津と遥かに対し、犠牲を殺して血をすすった。

南兗州 刺史 しし の南康嗣王蕭会理、前青・冀二州 刺史 しし の湘潭侯蕭退、西昌侯の世子蕭彧が三万の兵を率いて馬邛州に至った。景は北方の軍が白下から上ってきて、その長江の水路を断つことを憂慮し、すべてを南岸に集めて配置するよう請うた。そこで勅を下して北軍を江潭苑に進ませた。景は上啓して言った。「永安侯と趙威方がたびたび柵越しに臣を罵り、『天子は自ら汝と盟を結んだが、我は終に汝を追い払うであろう』と言っています。どうか彼らを召し入れて城内に入れていただきたい。そうすればすぐに出発いたします。」勅によって両者とも召し入れた。景はさらに上啓して言った。「西岸からの情報によれば、高澄がすでに寿春・ 鍾離 を手に入れたため、もはや安住の地がありません。広陵と譙州を一時お借りし、寿春・鍾離を征討して得次第、すぐに朝廷にお返しします。」

初め、彭城の劉邈が景に説いて言った。「大将軍は長らく兵を留め置き、城を攻め落とせず、今や援軍が雲のごとく集まり、容易には破れません。聞くところによれば軍糧は一か月分も持たず、輸送の水路は絶たれ、野に略奪するものもなく、赤子を掌中に収めるのはまさに今でございます。和睦を請うて、全軍を保ちつつ帰還するに如くはありません。これが上策です。」景はその言葉をよしとして、和睦を請うたのである。後に援軍の号令が統一されておらず、ついに王事に尽力する効果がないことを知り、また城内で疫病による死者が次第に増え、必ずやそれに呼応する者がいると聞いた。景の謀臣である王偉がまた説いて言った。「王は人臣として挙兵し、背き反逆し、宮闕を包囲し守ってすでに百日を超え、妃主を辱め、宗廟を穢しました。今日このような立場で、どこに身を置くことができましょうか。どうか王にはしばらくその変を見守られるよう願います。」景はこれをよしとし、ついに抗表して言った。

臣は聞く、「書は言を尽くさず、言は意を尽くさない」と。されば意は言によらなければ宣べられず、言は筆によらなければ尽くされない。臣が憤りを抱き積もらせ、黙して止むことができない所以である。ひそかに考えるに、陛下はご自身に聡明な知恵をお持ちで、多才多芸であられる。かつて末世の機に乗じて漢水・沔水の地に龍のごとく飛翔し、凶徒を平らげ乱を断ち切り、家の怨みを晴らし、それから先王の跡を踏み、江表に光輝く御座を据え、文王・武王の法を手本とし、堯・舜の道を祖述された。兼ねて魏国が衰微し、外に強敵がいなかったので、西は華陵を取り、北は淮水・泗水の地を封じ、高氏と友好を結び、使者の車が相次ぎ、国境に憂いがなく、十余年に及んだ。自ら万機を覧られ、治道に労苦を惜しまれなかった。周公・孔子の遺文を校正し、真如の秘奥を訓釈された。御寿命は長く、本流と枝葉は磐石のごとく固い。人君としての技芸と業績は、これに匹敵するものはない。臣が一隅で躍り上がり、南風を望んで嘆息する所以である。どうして名と実が食い違い、聞くことと見ることが異なることを図ろうか。臣が身を委ね名を記して以来の前後の事跡は、これまで上表して奏上した通り、すでに詳しく述べた。憤懣に耐えかね、再び陛下のためにこれを陳べる。

三月一日の朝、城内では景が盟約に背いたとして、烽火を上げ鬨の声をあげた。そこで羊鴉仁・柳敬禮・鄱陽世子蕭嗣が東府城の北に進軍した。柵や塁がまだ築かれていないうちに、景の将である宋子仙に襲撃され、敗北し、淮水に赴いて死んだ者は数千人に及んだ。賊は首級を宮闕の下に送った。

景はまた于子悦を遣わし、さらに和睦を請うた。御史中丞の沈浚を景のもとに遣わしたが、景に去る意思はなく、浚は固く責めた。景は大いに怒り、すぐに石闕の前の水を決壊させ、百道に分かれて城を攻め、昼夜止むことなく、城はついに陥落した。こうして車駕の服飾や玩好品、後宮の嬪妾をことごとく略奪し、王侯や朝士を収監して永福省に送り、二宮の侍衛を取り除いた。王偉に武徳殿を守らせ、于子悦に太極東堂に駐屯させ、 詔 を偽って大赦を天下に下し、自ら大 都督 ととく ・督中外諸軍事・録尚書事とし、その侍中・使持節・大丞相・王の位はもとのままとした。初め、城内では積み重なった死体を埋める暇がなく、またすでに死んでいても収殮されていないもの、あるいは死にかけていてまだ絶命していないものがあったが、景はこれらをすべて集めて焼き、その臭気は十余里先まで聞こえた。尚書外兵郎の鮑正が病篤かったが、賊は引きずり出して焼き、火の中で身をよじらせ、長い時間を経てようやく絶命した。こうして援軍はすべて散り散りになった。

景は 詔 を偽って言った。「かつて奸臣が命を擅にし、 社稷 しゃしょく を危うくしようとしたが、丞相の英明な発起により、朕の身近くに入り補佐してくれた。征鎮牧守はそれぞれ本来の任に復するがよい。」蕭正徳を侍中・大司馬に降格し、百官はすべてその職に復した。

景は董紹先に兵を率いさせて広陵を襲撃させた。南兗州 刺史 しし の南康嗣王蕭会理は城を挙げてこれに降った。景は紹先を南兗州 刺史 しし とした。

初め、北兗州 刺史 しし の定襄侯蕭祗と湘潭侯蕭退、および前潼州 刺史 しし の郭鳳がともに兵を起こし、援軍に赴こうとしていた。この時、鳳は淮陰で景に呼応しようと謀り、祗らはこれを制する力がなく、ともに魏に奔った。景は蕭弄璋を北兗州 刺史 しし としたが、州民が兵を起こしてこれに抵抗した。景は廂公の丘子英と直閣将軍の羊海に兵を率いさせて援軍に赴かせたが、海は子英を斬り、その軍を率いて魏に降った。魏はついにその淮陰を占拠した。

景はまた儀同の于子悦と張大黒に兵を率いさせて呉に入らせた。呉郡太守の袁君正は迎えて降った。子悦らが到着すると、呉中を破り略奪し、多くを自ら調達し、子女を強奪し、百姓を毒し虐待したので、呉人は怨み憤らない者はなく、それぞれ城柵を築いて守りを固めた。

この月、景は西州に移って駐屯し、儀同の任約を南道行台として遣わし、姑孰に鎮守させた。

五月、高祖(武帝)が文徳殿で崩御された。初め、台城が陥落した後、景はまず王偉と陳慶を遣わして高祖に謁見させた。高祖は言われた。「景は今どこにいるのか。卿が召し連れて来るがよい。」この時、高祖は文徳殿に座っておられ、景は入朝し、甲士五百人を自衛とし、剣を帯びて殿上に昇った。拝礼が終わると、高祖は問われた。「卿は軍旅の日が長いが、さぞかしご苦労であろう。」景は黙っていた。また問われた。「卿は何州の者で、ここまで敢えて来たのか。」景はまた答えることができず、従者が代わりに答えた。退出してから、景は廂公の王僧貴に言った。「私は常に鞍の上で敵に対し、矢や刃が交錯する中でも、意気は安らかで緩やかで、少しも恐れる心はなかった。今日蕭公(武帝)にお目にかかって、人をして自ら畏れさせるものがある。天威は犯し難いということではあるまいか。私は二度とお会いすることはできない。」高祖は外見上はすでに屈服していたが、内心はなお憤っておられ、時折事を奏上して聞かせると、多くは退けられた。景は深く畏敬し恐れ、また敢えて逼迫することもなかった。景は軍人を殿省の内に直衛させた。高祖は制局監の周石珍に問われた。「これは何者か。」答えて言った。「丞相でございます。」高祖はわざと間違えて言われた。「何という丞相か。」答えて言った。「侯丞相でございます。」高祖は怒って言われた。「その名は景という。どうして丞相と言うのか。」この後、たびたび求められるものは、多くはご意向に沿わず、御膳に至るまで削減され、ついに憂い憤って病気を感じ、崩御された。

景は密かに喪を発せず、仮に昭陽殿に殯し、外の文武官は皆これを知らなかった。二十余日後、梓宮を太極前殿に上げ、皇太子を迎えて皇帝の位に即かせた。こうして 詔 を偽って北方人で奴婢となっている者を赦し、その力を利用しようと図った。

また儀同の来亮に兵を率いさせて宣城を攻撃させた。宣城内史の楊華は亮を誘い出して斬った。景はまたその将である李賢明を遣わして華を討たせたが、華は郡を挙げて降った。景は儀同の宋子仙らに兵を率いさせて東進して銭塘に駐屯させた。新城の戍主である戴僧易は県を拠点としてこれに抵抗した。

この月、景は中軍の侯子鑒を呉軍に遣わし、于子悦と張大黒を捕らえ、都に戻って誅殺させた。

当時、東揚州 刺史 しし の臨成公蕭大連が州を占拠し、呉興太守の張嵊が郡を占拠し、南陵より上流は、それぞれが守りを固めていた。侯景の命令が及ぶのは、呉郡以西、南陵以北だけだった。

六月、侯景は儀同の郭元建を尚書 僕射 ぼくや ・北道行臺・総江北諸軍事とし、新秦に駐屯させた。

郡の者である陸 緝 ・戴文挙らが兵一万余りを起こし、侯景が任命した太守の蘇単于を殺し、前淮南太守の文成侯蕭寧を主に推戴して、侯景に抵抗した。宋子仙がこれを聞いて攻撃すると、陸緝らは城を捨てて逃げた。侯景はそこで呉郡の海塩・胥浦の二県を分けて武原郡とした。

この時、侯景は永福省で蕭正徳を殺した。元羅を西秦王に封じ、元景龍を陳留王に封じ、元氏の子弟で王に封じられた者は十余人に及んだ。柳敬礼を使持節・大 都督 ととく とし、大丞相に隷属させ、軍事に参与させた。

侯景はその中軍の侯子鑒を行臺の劉神茂らの軍の監軍として東方討伐に派遣し、呉興を破り、太守の張嵊父子を捕らえて京師に送り、侯景は彼らを皆殺しにした。

侯景は宋子仙を 司徒 しと とし、任約を領軍将軍とし、尒朱季伯・叱羅子通・彭儁・董紹先・張化仁・于慶・魯伯和・紇奚斤・史安和・時霊護・劉帰義を、みな開府儀同三司とした。

この月、鄱陽嗣王蕭範が兵を率いて柵口に駐屯し、江州 刺史 しし の 尋陽 王蕭大心が西上を要請した。侯景は出陣して姑孰に駐屯し、蕭範の将である裴之悌・夏侯威生が兵を率いて侯景に降った。

十一月、宋子仙が銭塘を攻め、戴僧易が降伏した。侯景は銭塘を臨江郡とし、富陽を富春郡とした。また王偉・元羅をともに儀同三司とした。

十二月、宋子仙・趙伯超・劉神茂が会稽を攻撃し、東揚州 刺史 しし の臨成公蕭大連は城を捨てて逃げ、劉神茂を派遣して追撃・捕縛させた。侯景は裴之悌を使持節・平西将軍・合州 刺史 しし とし、夏侯威生を使持節・平北将軍・南 刺史 しし とした。

この月、百済の使者が到着し、城邑が廃墟と化しているのを見て、端門の外で号泣し、通りかかる者が見て涙を流さない者はなかった。侯景はこれを聞いて大いに怒り、小荘厳寺に監禁し、出入りを許さなかった。

大寶元年正月、侯景は 詔 を偽って自らに班剣四十人を加えることを許し、前後部の羽葆鼓吹を与え、左右長史・従事中郎四人を置いた。

前江都令の祖 皓 が広陵で兵を起こし、侯景が任命した 刺史 しし の董紹先を斬り、前太子舎人の蕭勔を 刺史 しし に推戴した。さらに魏と結んで援軍とし、檄を遠近に飛ばして、侯景を討伐しようとした。侯景はこれを聞いて大いに恐れ、その日に侯子鑒らを率いて京口から出撃し、水陸両軍を集結させた。祖皓は城に拠って防戦したが、侯景が城を攻めて陥落させた。侯景は祖皓を車裂きの刑にして見せしめとし、城中の者は老若を問わず皆斬り殺した。侯子鑒を南兗州事の監軍とした。

この月、侯景は宋子仙を京口に召還した。

四月、侯景は元思虔を東道行臺とし、銭塘に駐屯させた。侯子鑒を南兗州 刺史 しし とした。

文成侯蕭寧が呉の西郷で兵を起こし、十日ほどの間に兵は一万に達し、率いて西上した。侯景の配下の公である孟振・侯子栄がこれを撃破し、蕭寧を斬り、その首を侯景のもとに送った。

七月、侯景は秦郡を西兗州とし、陽平郡を北兗州とした。

任約と盧暉略が しん 熙郡を攻撃し、鄱陽王の世子蕭嗣を殺害した。

侯景は王偉を 中書監 ちゅうしょかん に任じた。

任約が軍を進めて江州を襲撃し、江州 刺史 しし の尋陽王蕭大心はこれに降伏した。 世祖 (後の 元帝 )は当時、江州が陥落したと聞き、衛軍将軍の徐文盛に軍勢を率いて武昌へ下り、任約を防がせた。

侯景はまた 詔 を偽造して自ら相国の位に進み、泰山など二十郡を漢王に封じられ、朝廷に入る時に小走りせず、拝礼時に名を呼ばれず、剣を帯び履を履いたまま殿上に上がることを許された。これは蕭何の故事に倣ったものである。

侯景は柳敬禮を護軍将軍に、姜詢義を相国左長史に、徐洪を左司馬に、陸約を右長史に、沈衆を右司馬に任じた。

この月、侯景は水軍を率いて皖口へ上った。

十月、賊が武林侯蕭諮を広莫門で殺害した。蕭諮は常に太宗(簡文帝)の寝室に出入りしていたため、侯景の一派が不満を抱き、彼を害したのである。

侯景はまた 詔 を偽造して言った。「そもそも天に星象が懸かり、四季は辰星と北斗に則を取る。地に群生が育ち、万物は太陽の光を仰ぎ照らされる。それゆえ、天子が垂拱して帝座に臨めば、八方の枝が共に集まり、河図を負って正位につけば、九域が同じく帰する。故に雲の名を持つ君主、水の号を持つ君主、龍官や人爵の後裔は、みな河図・洛書に符瑞を啓き、岱宗で封禅を行い、四夷を奔走させ、万国を来朝させた。遠く虞・夏の世を聞けば、その道はますます新しく、商・周に至っても、改まることはなかった。幽王・厲王の世が衰えると、戎馬が郊外に生じ、恵帝・懐帝が統御を失うと、胡塵が帝の車駕を犯した。ついに豺狼が毒をほしいままにし、伊水・瀍水の地に侵食し、獫狁が大いに勢いを得て、咸陽・洛陽に巣くった。晋の鼎が東に遷って以来、多くの年代を経て、周の故地は回復せず、歳月は実に久しい。宋の太祖(劉裕)が経略したが、遠大な計画は途中で止み、斉は和親を号したが、使者の冠蓋が空しく労しただけである。我が大梁は符瑞を受けて帝となり、震(東方)より出て皇位に登った。天下は仁に帰し、遠方の地域も教化を浴びた。疆土を開拓し、瀚海を跨いで馬の轡を揚げ、朝廷に来て覲見する者は、塗山の会に等しく、車の轍を並べる。玄亀が洛水より現れ、白雉が豊邑に帰った。鳥塞(北方)は同じ文字を用い、胡天(異民族の地)も同じ軌道を共にする。高澄が跋扈して魏の国を侵し、華夷を扇動して王の職責を果たさず、ついに狼のように北を顧みて侵し、馬首を南に向けたとは思わなかった。天が昏偽を厭い、醜悪な徒党の数が尽き、龍豹が期に応じ、風雲が節を合わせた時である。相国漢王(侯景)は、上徳と英姿を備え、天より授かったものであり、雄大な謀略と勇猛な計略は、その胸中より出ている。珠魚が応を表し、辰星と昴星が輝きを合わせ、六韜を分析し、四履を錙銖のごとく計る。文を騰らせ豹変し、鳳凰が集まり虬龍が翔け、翼を奮って来儀し、河図を負って降臨した。そもそも初めに律を執って、真っ先に行軍を啓き、この廟算を奉じて、獯鬻の醜類を克く除いた。ただ、鼎湖にて先帝が上征され、六龍の御駕が晏駕されたため、干戈は暫く止み、九伐の軍は未だ伸びなかった。しかし悪が熟し貫盈し、元凶が斃れ、弟の高洋が逆を継ぎ、乱の階梯を長くした。あの高洋の言葉は異なるが、この(侯景)もまた同じく侵食を繰り返し、偽の帝号を窃み、斧鉞を挙げようと心に希う。豊水の君臣は図を奉って援助を乞い、関河の百姓は血を泣いて軍を請うた。皆、国の霊威を承け奉り、王の教化を拝見したいと願っている。朕は寡昧ながら、下武の業を継ぎ、堯の民を救い、禹の跡を安んじたいと望む。そもそも車服は功績により与えられ、名は事績によって顕著となる。周の師が殷を克った時、鷹揚の功は尚父(呂尚)に創始され、漢が戎狄を征した時、明友(范明友)が実に度遼将軍の始めであった。ましてや神のごとき規矩と叡智の算は、はるかに測り難く、大功と盛大な業績は、言葉や象では言い尽くせない。どうしてありふれた名前に習い、この守りの固さを保つことができようか。相国は宇宙大将軍、 都督 ととく 六合諸軍事を加えることができ、その他は全て従前の通りとする。」この 詔 文を太宗(簡文帝)に呈すると、太宗は驚いて言った。「将軍に宇宙という称号があるとは!」

北斉はその将軍辛術を派遣して陽平を包囲したが、侯景の行臺郭元建が兵を率いて救援に赴き、辛術は退却した。

徐文盛が資磯に入ると、任約が水軍を率いて迎え撃ったが、徐文盛はこれを大破し、引き続き軍を進めて大挙口に至った。

当時、侯景は皖口に駐屯しており、京師は手薄であった。南康王蕭会理と北兗州司馬の成欽らがこれを襲撃しようとした。建安侯蕭賁がその計画を知り、侯景に告げた。侯景は使者を遣わして蕭会理とその弟の祈陽侯蕭通理、柳敬礼、成欽らを捕らえ、皆殺害した。

十二月、侯景は 詔 を偽造して蕭賁を 竟陵 王に封じた。これは南康王の計画を発覚させた賞である。

この月、張彪が会稽で義兵を挙げ、上虞を攻め落とした。侯景側の太守蔡臺楽が討伐したが、抑えることができなかった。この時、張彪はさらに諸暨、永興などの諸県を破った。侯景は儀同の田遷、趙伯超、謝答仁らを派遣して東方の張彪を討伐させた。

二年正月、張彪は別将を派遣して銭塘、富春を侵したが、田遷が進軍して戦い、これを撃破した。

侯景は王克を太師とし、宋子仙を太保とし、元羅を太傅とし、郭元建を 太尉 たいい とし、張化仁を 司徒 しと とし、任約を 司空 しくう とし、于慶を太子太師とし、時霊護を太子太保とし、紇奚斤を 太子太傅 とし、王偉を尚書左 僕射 ぼくや とし、索超世を尚書右 僕射 ぼくや とした。

北兗州 刺史 しし の蕭邕が魏に降伏しようと謀ったが、事が漏れ、侯景は彼を誅殺した。

この月、世祖(元帝蕭繹)は巴州 刺史 しし の王珣らに軍勢を率いて武昌に下り、徐文盛を助けさせた。任約は西臺( 江陵 )が増援したことを知り、侯景に危急を告げた。三月、侯景は自ら二万の兵を率いて西上し、任約を救援した。四月、侯景は西陽に駐屯した。徐文盛が水軍を率いて邀撃し、侯景を大破した。侯景は 郢州 に備えがなく、兵も少ないと探知し、また宋子仙に軽騎三百を率いて急襲させて陥落させ、 刺史 しし の方諸と行事の鮑泉を捕らえ、武昌の軍人の家族をことごとく捕獲した。徐文盛らはこれを聞いて大いに潰走し、江陵に逃げ帰った。侯景は勝ちに乗じて西上した。

当初、世祖は領軍の 王僧弁 に軍勢を率いて東下させ、徐文盛と交代させようとした。軍は 巴陵 に駐屯したが、ちょうど侯景が到着したので、王僧弁は堅く守りを固めてこれを防いだ。侯景は長い包囲陣を敷き、土山を築き、昼夜攻撃したが、陥落させられなかった。軍中に疫病が流行し、死傷者が大半に及んだ。世祖は平北将軍の胡僧祐に兵二千人を率いて巴陵を救援させた。侯景はこれを聞き、任約に精鋭数千を率いて胡僧祐を迎撃させた。胡僧祐は居士の陸法和とともに赤亭に退いて守り、任約が来ると戦い、大破して任約を生け捕りにした。侯景はこれを聞き、夜遁走した。丁和を郢州 刺史 しし とし、宋子仙、時霊護らを残して丁和を助けさせて守らせ、張化仁と閻洪慶に魯山城を守らせ、侯景は京師に帰還した。王僧弁はそこで軍勢を率いて東下し、漢口に駐屯し、魯山と郢城を攻撃し、いずれも陥落させた。これ以降、諸軍の進むところすべて勝利した。

侯景はそこで太宗(簡文帝 蕭綱 )を廃し、永福省に幽閉した。 詔 書の草案を作成し、太宗にそれを書かせようと迫った。「先皇は 神器 の重さを思い、 社稷 しゃしょく の安泰を思う」というところに至ると、太宗はすすり泣き嗚咽して、自らを止めることができなかった。この日、侯景は 章王蕭棟を迎えて皇帝の位に即かせ、太極前殿で即位させ、大赦を下し、元号を天正元年と改めた。永福省から旋風が吹き、その文物を吹き倒し折り曲げた。見た者はみな驚き恐れた。

当初、侯景は 京邑 を平定した後、すでに 簒奪 さんだつ の志を持っていたが、四方を平定する必要があり、またまだ自立していなかった。巴陵で敗北し、江州・郢州で軍を失い、猛将が外で滅ぼされ、雄心が内で挫かれると、すぐに偽って大号を僭称し、その奸心を遂げようとした。その謀臣の王偉が「古より鼎を移すには、必ず廃立を行わねばならない」と言ったので、侯景はこれに従った。その 太尉 たいい の郭元建はこれを聞き、秦郡から馳せ戻り、侯景を諫めて言った。「四方の軍勢が来ないのは、まさに二宮(皇帝と皇太子)が万福であるからです。もし 弑逆 しいぎゃく を行えば、海内に怨みを結び、事の機会は一度去れば、後悔しても及ばないでしょう。」王偉は固執して従わなかった。侯景はそこで蕭棟の 詔 を偽造し、昭明太子を追尊して昭明皇帝とし、 章安王を安皇帝とし、金華敬妃を敬皇后とし、 章国太妃王氏を皇太后とし、妃張氏を皇后とした。劉神茂を 司空 しくう とし、徐洪を平南将軍とし、秦晃之、王曄、李賢明、徐永、徐珍国、宋長宝、尹思合を儀同三司とした。

侯景は哀太子の妃を郭元建に賜ったが、郭元建は言った。「皇太子の妃がどうして人の妾に降りることがあろうか。」ついに彼女と会おうとしなかった。

十月壬寅の夜、侯景はその衛尉の彭儁と王脩 纂 を遣わし、太宗に酒を奉って言わせた。「丞相は陛下が憂いに処すること久しいと存じ、臣らに一杯を奉進させました。」太宗は自分が殺されようとしていることを知り、大いに酒を飲み、酔って寝所に戻ると、王脩纂が布に土を盛って腹の上に載せ、それによって崩御した。法服で装い、薄い棺に納めて城北の酒庫に密かに埋葬した。

当初、太宗は長く幽閉され、朝士は面会することができず、禍が及ぶことを慮り、常に不安を感じていた。ただ舎人の殷不害だけが後に少しずつ入ることができた。太宗は自分の住む殿を指して彼に言った。「龐涓はこの下で死ぬはずだ。」また言った。「私は昨夜、土を飲み込む夢を見た。卿は試しにこれを考えてみよ。」殷不害は言った。「昔、重耳は土の塊を贈られ、ついに晋国に戻りました。陛下の見た夢は、これに符合するのではないでしょうか。」太宗は言った。「もし幽冥に徴があるなら、この言葉が虚妄でないことを望む。」この時に至って殺されたのは、まさに土によるものであった。

この月、侯景の 司空 しくう ・東道行臺の劉神茂、儀同の尹思合、劉帰義、王曄、雲麾将軍の桑乾王元頵らが東陽を占拠して帰順し、さらに元頵と別将の李占、趙恵朗を遣わして建徳江口を占拠させた。尹思合は侯景の新安太守の元義を捕らえ、その兵を奪った。

張彪が永嘉を攻撃し、永嘉太守の秦遠が張彪に降伏した。

十一月、侯景は趙伯超を東道行臺とし、銭塘を鎮守させ、儀同の田遷、謝答仁らに兵を率いて東進し、劉神茂を征討させた。

侯景は蕭棟の 詔 を偽造し、自らに九錫の礼を加え、丞相以下の百官を置いた。器物を庭に並べて準備していたところ、突然野鳥が侯景の上を翔け、赤い足と赤い嘴、形は山鵲に似ていた。賊徒はみな驚き、競って射たが当たらなかった。侯景は劉勧、戚覇、朱安王を開府儀同三司とし、索九升を護軍将軍とした。南兗州 刺史 しし の侯子鑒が白い麞を献上し、建康では白い鼠を捕獲して献上したが、蕭棟はこれを侯景に帰した。侯景は郭元建を南兗州 刺史 しし とし、 太尉 たいい ・北行臺は元の通りとした。

侯景はまた蕭棟の 詔 を偽造し、その祖父を大将軍に、父を丞相に追崇した。自らに冕を加え、十二の旒を垂れ、天子の旌旗を立て、出入りに 警蹕 を行い、金根車に乗り、六馬を駕し、五時の副車を備え、旄頭と雲罕を置き、楽舞は八佾とし、鐘虡と宮懸の楽を設け、すべて旧儀の通りとした。

侯景はまた蕭棟の 詔 を偽造し、位を自分に 禅譲 させた。そこで南郊で天に柴燎を行い、壇に登って禅譲の文物を受け、すべて旧儀に従った。轜車の床に鼓吹を載せ、橐駝に犠牲を負わせ、輦の上に筌蹄を置き、垂脚坐した。侯景の帯びていた剣の水精の標が理由もなく落下したので、自ら手で拾った。壇に登ろうとしたとき、兎が前を走り過ぎ、たちまち所在を失った。また白虹が日を貫いた。侯景は帰還して太極前殿に登り、大赦を下し、元号を太始元年と改めた。蕭棟を淮陰王に封じ、監省に幽閉した。偽りの有司が奏上して「警蹕」を「永蹕」に改めさせたのは、侯景の名を避けたためである。梁律を漢律と改め、左民尚書を殿中尚書と改め、五兵尚書を七兵尚書と改め、直殿主帥を直寢と改めた。侯景の三公の官は動かすたびに十数人置かれ、儀同は特に多く、ある者は単騎で独り行き、自ら手綱を執った。その左 僕射 ぼくや の王偉が七廟を立てることを請うた。侯景は言った。「七廟とは何か。」王偉は言った。「天子は七世の祖考を祭るので、七廟を置きます。」併せて七世の 諱 を請い、太常に祭祀の礼を整えさせた。侯景は言った。「前世のことはもう思い出せない。ただ父の名は標だ。」これを聞いた者たちは皆ひそかに笑った。侯景の党に侯景の祖父の名が周であることを知っている者がおり、それ以外はすべて王偉がその名位を定め、漢の 司徒 しと の侯覇を始祖とし、晋の徴士の侯瑾を七世の祖とした。そこでその祖父の周を大丞相に、父の標を元皇帝に追尊した。

十二月、謝答仁と李慶らが建徳に到着し、元頵と李占の柵を攻撃して大いにこれを破り、頵と占を捕らえて侯景のもとに送った。侯景は彼らの手足を切断して見せしめにし、一日かかって死なせた。

侯景の二年(大宝二年)正月朔、臨軒で朝会が行われた。侯景は巴丘で敗北して以来、軍兵がほぼ尽き、北斉が隙に乗じて西軍と挟撃することを恐れ、郭元建に歩軍を率いて小峴に向かわせ、侯子鑒に舟師を率いて濡須に向かわせ、肥水で兵を耀かせて武威を示させた。侯子鑒は合肥に到着し、羅城を攻撃してこれを陥落させた。郭元建と侯子鑒はやがて王師(梁の官軍)がすでに近づいていると聞き、合肥の民家を焼き払い、軍を引き退き、侯子鑒は姑孰を守り、郭元建は広陵に戻った。

その時、謝答仁が劉神茂を攻撃し、劉神茂の別将の王華と麗通はともに外営を拠って謝答仁に降伏した。劉帰義と尹思合らは恐れ、それぞれ城を捨てて逃走した。劉神茂は孤立して危うくなり、再び謝答仁に降伏した。

王僧辯の軍が蕪湖に到着すると、蕪湖の城主は夜陰に乗じて逃亡した。侯景は史安和と宋長貴らに兵二千を率いさせ、侯子鑒を助けて姑孰を守らせ、田遷らを召還して京師に戻らせた。この月、侯景の与党の郭長が馬の子が角を生やしたと献上した。三月、侯景は姑孰に行き、陣営の柵を巡視し、また侯子鑒に戒めて言った。「西人(梁の官軍)は水戦に長けているから、争ってはならない。往年、任約が敗れたのは、まさにこのためだ。もし馬と歩兵が一度交戦すれば、必ず打ち破ることができるだろう。汝はただ堅く壁を守ってその変を見よ。」侯子鑒はそこで舟を捨てて岸に上がり、営を閉じて出撃しなかった。王僧辯らはそこで十余日間軍を停めた。賊党は大いに喜び、侯景に告げて言った。「西軍は我々の強さを恐れ、必ず逃げようとしている。撃たなければ、機会を失います。」侯景は再び侯子鑒に水戦の準備を命じた。侯子鑒はそこで歩騎一万余りを率いて洲を渡り、水軍も引き連れてともに進んだ。王僧辯が迎え撃ち、大いにこれを破り、侯子鑒はただ一身を免れただけだった。侯景は侯子鑒の敗北を聞き、大いに恐れて涙を流し、顔を覆って衾を引き被って臥し、しばらくしてようやく起き上がり、嘆いて言った。「誤って 乃公 を殺した!」

王僧辯は進軍して張公洲に駐屯した。侯景は盧暉略に石頭を守らせ、紇奚斤に捍国城を守らせ、すべての百姓と軍士の家族を台城内に追い入れた。王僧辯は侯景の水柵を焼き、淮水に入り、祥霊寺渚に到着した。侯景は大いに驚き、そこで淮水沿いに柵を立て、石頭から朱雀航までを結んだ。王僧辯と諸将はそこで石頭城の西側の歩道上に連なって営を立て柵を構え、落星墩にまで及んだ。侯景は大いに恐れ、自ら侯子鑒、于慶、史安和、王僧貴らを率い、石頭の東北に柵を立てて防ぎ守った。王偉、索超世、呂季略に台城を守らせ、宋長貴に延祚寺を守らせた。王僧辯の父の墓を掘り起こさせ、棺を割き屍を焼かせた。王僧辯らは石頭城の北に進んで営を張った。侯景は陣を列ねて挑戦した。王僧辯が衆軍を率いて奮撃し、大いにこれを破った。侯子鑒、史安和、王僧貴はそれぞれ柵を捨てて逃走し、盧暉略と紇奚斤はともに城を降伏させた。

侯景は退却して敗れた後、宮中に入らず、散り散りになった兵を集めて闕下に駐屯し、やがて逃げようとした。王偉が手綱を取って諫めて言った。「古来より、天子を裏切った者がいるでしょうか!今、宮中の衛士はまだ一戦に足ります。どうしてすぐに逃げ出し、ここを捨ててどこへ行こうというのですか?」侯景は言った。「私は北で賀抜勝を打ち、葛栄を破り、河朔に名を揚げ、高王(高歓)と同じような者だった。今、南に渡って大江を越え、台城を取ることは掌を返すようだった。北山で邵陵王を打ち、南岸で柳仲礼を破ったことは、皆、お前がこの目で見たことだ。今日のことは、恐らく天が私を滅ぼそうとしているのだろう。お前は城をよく守れ。私はもう一度決戦する。」石闕を仰ぎ見て、ためらいながら嘆息した。しばらくして、皮の袋に二人の子を入れて馬の鞍に掛け、その儀同の田遷、范希栄ら百余騎とともに東へ奔った。王偉は台城を捨てて逃亡し、侯子鑒らは広陵へ奔った。

王僧辯は侯瑱に軍を率いて侯景を追撃させた。侯景は晋陵に至り、太守の徐永を脅して東の呉郡へ奔り、進んで嘉興に駐屯した。趙伯超が銭塘を拠ってこれを拒んだ。侯景は呉郡に退き、松江に達したが、侯瑱の軍が急襲して来た。侯景の兵はまだ陣を整えず、皆、幡を掲げて降伏を請うた。侯景は制御できず、腹心数十人と単独の船で逃走し、二人の子を水中に突き落とし、自らは滬瀆から海に入った。壺豆洲に至り、前太子舎人の羊鯤が彼を殺し、屍を王僧辯に送り、首を西台に伝送し、屍を建康の市に晒した。百姓は争って肉を切り刻み食べ、骨を焼いて灰を撒いた。かつてその禍に遭った者は、灰を酒に混ぜて飲んだ。侯景の首が江陵に届くと、世祖(元帝蕭繹)は市で梟首することを命じ、その後、煮て漆を塗り、武庫に納めた。

侯景の身長は七尺に満たなかったが、眉目ははっきりと秀でていた。性格は猜疑心が強く残忍で、殺戮を好んだ。刑罰を受ける者にはまず手足を斬り、舌を切り鼻を削ぎ、一日かかって死なせた。かつて石頭に大きな搗き臼を立て、法を犯した者を皆、搗き殺した。その残酷な仕打ちはこのようなものだった。 さん 立して後、時折白紗帽をかぶり、青い袍をまとったり、あるいは象牙の櫛を髻に挿したりした。床上には常に胡床と筌蹄を設け、靴を履いて足を垂らして座った。ある時は単騎で宮内や華林園で遊び、烏を弓で射た。謀臣の王偉が軽々しく外出することを許さず、そこで鬱々として、さらに意気消沈した。彼の住む殿には常にミミズクが鳴き、侯景はこれを嫌い、毎回人を遣わして山野をくまなく探し捕らえさせた。普通年間に、童謡に「青い糸、白い馬、寿陽から来る」とあった。後に侯景は果たして白馬に乗り、兵は皆、青衣を着ていた。彼の乗る馬は、戦いで勝ちそうになるたびに足踏みして嘶き、意気は俊逸であったが、敗走する時は必ず頭を垂れて前に進もうとしなかった。

初め、中大同年間に、高祖(武帝 蕭 )はかつて夜、中原の牧守が皆、土地を持って降伏して来る夢を見て、朝廷中が慶賀を称え、目覚めて非常に喜んだ。朝になって中書舎人の朱异に会い、見た夢を話した。朱异は言った。「これはまさに天下が一つになろうとする兆しで、天道が先にその徴を示されたのでは?」高祖は言った。「私は人として夢をあまり見ないが、昨夜これを感じ、まことに心を慰められる。」太清二年、侯景が果たして帰順すると、高祖は欣然として自ら喜び、神と通じたと思い、そこで彼を受け入れることを議したが、まだ決心がつかなかった。かつて夜に出て政務を見るため武徳閣に行き、独り言を言った。「我が家国はあたかも金の椀のようで、一つも傷や欠けがない。今、土地を受け入れるのは、果たして適切なことだろうか。もしも紛糾を招くようなことがあれば、後悔しても及ばない。」朱异が声を継いで答えて言った。「聖明の御世、上は蒼天に応じ、北土の遺民で、誰が慕い仰がないでしょうか。機会がなかっただけで、その心に達していないのです。今、侯景は河南十余州を拠り、魏の国土の半分を分け、誠意を尽くして帰順し、遠く聖朝に帰参しようとしています。これはまさに天がその心を誘い、人がその計略を助けているのでは?その心を推し量り事を審らかにすれば、殊に賞賛すべき点があります。今、もし拒絶して受け入れなければ、後の者の望みを絶つ恐れがあります。これは誠に明白なことです。陛下には疑わないでください。」高祖は深く朱异の言葉を採用し、また前の夢を信じて、ついに侯景を受け入れることを決議した。貞陽侯(蕭淵明)が敗北した後、辺境の鎮は恐れ乱れ、高祖はすでにこれを憂えて言った。「我が今の状況は、晋の故事(永嘉の乱など)のようではないか?」

以前、丹陽の陶弘景が華陽山に隠棲し、博学で多識であり、かつて詩を作って言った。「夷甫(王衍)は放縦に任せ、平叔(何晏)は空を談ずる座に坐す。思いもよらぬに、昭陽殿が単于の宮となるとは。」大同の末、人士は競って 玄理 を談じ、武事を習わなかった。この時、侯景は果たして昭陽殿に住んだ。

天監年間に、釈宝志が言った。「掘り尾の狗子(犬の子)自ら狂い発し、死ぬべき時に死なず人を噛み傷つけ、須臾の間に自ら滅び亡び、汝陰より起こり三湘に死す。」また言った。「山家の小児、果たして臂を攘ぎ、太極殿前で虎視す。」掘り尾の狗子、山家の小児は、いずれも猿の姿をしている。侯景はついに都邑を覆滅し、皇室を毒害した。

大同年間に、太医令の朱躭がかつて禁省に直していたが、ある時、夜、犬と羊がそれぞれ一匹ずつ御座にいる夢を見て、目覚めてこれを嫌い、人に告げて言った。「犬と羊は、良きものではない。今、御座を占めているのは、変事があるのでは?」やがて天子(武帝)は塵にまみれ(難に遭い)、侯景が正殿に登った。

景が敗れようとしていた時、僧通道人という者がいた。その性格は狂人のようで、酒を飲み肉を食らい、凡人と変わるところがなく、世間を遊行すること数十年、姓名や故郷は誰も知らなかった。初めは隠遁していると言っていたが、長い時を経てその言葉が実証され、人々は皆彼を闍梨と呼び、景は彼を非常に信頼し敬っていた。景はかつて後堂で配下と共に弓を射ていた時、僧通が同席しており、景から弓を奪い取って景陽山を射ると、大声で「奴を得たり」と叫んだ。景は後にまた配下を集めて宴会を開き、僧通を呼び寄せた。僧通は肉を取り、塩をつけて景に差し出し、「良いか?」と尋ねた。景が答えて「恨むらくは塩辛すぎることだ」と言うと、僧通は「塩辛くなければ腐って臭くなる」と言った。果たしてその屍は塩で封じられた。

王偉は陳留の人である。若い頃から才学があり、景の上奏文、啓上、書簡、檄文は全て彼が作成した。景が志を得た後、 簒奪 さんだつ の計画を立てたのも、全て王偉の謀略であった。彼が捕らえられ江陵に送られ、市中で烹殺されると、その毒害を受けたことのある民衆は、皆その肉を切り取って焼いて食べた。

【評】