梁書
元法僧
元法僧は、北魏の皇族の傍系である。その始祖は道 武帝 である。父の元鍾葵は江陽王であった。法僧は北魏に仕え、 光禄大夫 を歴任し、後に使持節・ 都督 徐州諸軍事・徐州 刺史 となり、彭城を鎮守した。普通五年、北魏朝廷が大混乱に陥ると、法僧は鎮守地を拠点として帝を称し、異分子を誅殺し、諸子を王に立て、将帥を配置し、国を正そうと図った。やがて北魏の混乱がやや収まると、朝廷は法僧を討伐しようとした。法僧は恐れ、使者を遣わして帰順を申し出、附庸となることを請うた。高祖(梁の武帝)はこれを許し、 侍中 ・ 司空 を授け、始安郡公に封じ、封邑五千戸を与えた。北魏軍が迫ると、法僧は朝廷への帰還を請うた。高祖は中書舎人の朱异を派遣して迎えさせた。到着すると、大いに優遇と寵愛を加えられた。当時は降伏者を招き慰撫することを重視していたため、法僧には豪邸・女楽・金品・絹帛を賜り、その前後の賜与は数え切れなかった。法僧は北魏にいた頃、長く国境の要職にあり、しばしば寇掠に乗じて多くの殺戮を行ったため、自衛のための兵士を求めた。 詔 により武装兵士百人が与えられ、宮中の出入りを許された。大通二年、冠軍将軍を加えられた。中大通元年、車騎将軍に転じた。四年、 太尉 に進み、金紫光禄大夫を兼ねた。同年、東魏主に立てられたが赴任せず、そのまま使持節・ 散騎 常侍 ・驃騎大将軍・開府儀同三司・ 郢州 刺史 を授けられた。大同二年、侍中・ 太尉 に召され、領軍師将軍を兼ねた。死去した。享年八十三。二人の子、景隆と景仲は、普通年間に法僧に従って入朝した。
景隆は沌陽県公に封じられ、封邑千戸を与えられ、持節・ 都督 広越交桂等十三州諸軍事・平南将軍・平越中郎将・広州 刺史 として出向した。中大通三年、侍中・安右将軍に召された。四年、征北将軍・徐州 刺史 となり、彭城王に封じられたが赴任せず、まもなく侍中・度支 尚書 に任じられた。太清初年、再び使持節・ 都督 広越交桂等十三州諸軍事・征南将軍・平越中郎将・広州 刺史 となり、赴任途中の雷首で病気にかかり死去した。享年五十八。
景仲は枝江県公に封じられ、封邑千戸を与えられ、侍中・右衛将軍に任じられた。大通三年、加増され、前の分と合わせて二千戸となり、女楽一部を賜った。持節・ 都督 広・越等十三州諸軍事・宣恵将軍・平越中郎将・広州 刺史 として出向した。大同年間、侍中・左衛将軍に召された。兄の景隆は後に広州 刺史 となった。 侯景 が乱を起こすと、景仲が元氏の一族であることを理由に、使者を送って誘い、主君として奉ずると約束した。景仲は挙兵し、下って侯景に呼応しようとした。ちょうど西江督護の 陳霸先 と成州 刺史 の王懐明らが兵を起こして攻撃し、霸先はその兵士たちに布告して言った。「朝廷は元景仲が賊と結託し、国家を危うくしようと謀っているとして、今、曲江公の 蕭 勃を 刺史 として派遣し、この州を鎮撫させることとした。」兵士たちはこれを聞くと、皆、鎧を脱ぎ捨てて散り散りになり、景仲は自ら首を吊って死んだ。
元樹
元樹、 字 は君立、これも北魏の近親皇族である。祖父は献文帝。父の元僖は咸陽王であった。樹は北魏に仕えて宗正卿となったが、尓朱栄の乱に際し、天監八年に梁に帰順し、鄴王に封じられ、封邑二千戸を与えられ、 散騎常侍 に任じられた。普通六年、元法僧を迎え入れて帰朝させる任務に応じ、使持節・督郢司霍三州諸軍事・雲麾将軍・郢州 刺史 に遷り、加増されて前の分と合わせて三千戸となった。南蛮の賊を討伐して平定し、 散騎常侍 ・安西将軍を加えられ、さらに封邑五百戸を加増された。中大通二年、侍中・鎮右将軍に召された。四年、使持節・鎮北将軍・ 都督 北討諸軍事となり、 鼓吹 一部を加えられて北魏を討伐し、北魏の譙城を攻めて陥落させた。ちょうど北魏の将軍独孤如願が救援に来たため、樹は包囲され、城が陥落して捕らえられ、憤慨して北魏で死去した。享年四十八。
子の元貞は、大同年間、北魏の使者崔長謙に従って鄴に行き父を葬ることを願い出て許され、帰還後、太子舎人に任じられた。太清初年、侯景が降伏し、元氏の皇族を求め、主君として奉じたいと願った。 詔 により元貞は咸陽王に封じられ、天子の礼をもって北に送り返されたが、侯景が敗れたため帰還した。
元願達
元願達もまた北魏の皇族の傍系である。祖父は明 元帝 。父は楽平王。願達は北魏に仕えて中書令・郢州 刺史 となった。普通年間、梁の大軍が北伐し、義陽を攻撃すると、願達は州を挙げて帰順を申し出た。 詔 により楽平公に封じられ、封邑千戸を与えられ、豪邸と女楽を賜った。引き続き使持節・ 散騎常侍 ・ 都督 湘州 諸軍事・平南将軍・湘州 刺史 として出向した。中大通二年、侍中・太中大夫・翊左将軍に召された。大同三年、死去した。享年五十七。
王神念
王神念は、太原郡祁県の人である。若い頃から儒学を好み、特に仏典に通暁していた。北魏に仕え、州主簿から出発し、次第に潁川 太守 に昇進し、遂に郡を拠点として梁に帰順した。北魏軍が迫ると、家族と共に長江を渡り、南城県侯に封じられ、封邑五百戸を与えられた。間もなく安成内史に任じられ、さらに武陽内史、宣城内史を歴任し、いずれも治績を上げた。帰朝して太僕卿に任じられた。出向して持節・ 都督 青・冀二州諸軍事・信武将軍・青・冀二州 刺史 となった。
神念の性格は剛直で、赴任した州郡では必ず淫祠を禁止した。当時、青州・冀州の東北に石鹿山が海に臨んでおり、以前から神廟があり、妖しい巫覡が百姓を欺き惑わせ、遠近から祈祷に来る者が多く、浪費が甚だしかった。神念が着任すると、直ちにこれを破壊撤去させ、風俗は改まった。普通年間、大規模な北伐が行われた時、右衛将軍に召された。六年、使持節・ 散騎常侍 ・爪牙将軍に遷り、右衛将軍は元のままとした。病気にかかり死去した。享年七十五。 詔 により生前の官職・衡州 刺史 を追贈され、鼓吹一部を合わせて賜った。諡は壮。
神念は若い頃から騎射に優れ、年老いても衰えず、かつて高祖(武帝)の前で二本の刀と楯を手に取り、左右に交差させながら、馬を駆けさせて往来し、群を抜いていた。当時、また楊華という者がいて、軍を驚かせるような騎乗術ができ、共に当代の妙技と敏捷さを誇り、高祖は深く賞賛した。
子の尊業は、太僕卿まで昇進した。死去すると、信威将軍・青・冀二州 刺史 を追贈され、鼓吹一部を賜った。次子の僧弁は、別に伝がある。
楊華
楊華は、武都郡仇池の人である。父の大眼は、北魏の名将であった。楊華は若い頃から勇力があり、容貌は雄偉で、北魏の胡太后が彼を強いて関係を迫ったため、楊華は禍が及ぶことを恐れ、配下の部曲を率いて降伏してきた。胡太后は彼を追慕して思い止まれず、『楊白華歌辞』を作り、宮人たちに昼夜を問わず手を繋ぎ足を踏み鳴らして歌わせた。その歌詞は非常に哀れんで切なかった。楊華はその後、幾度も征伐に従軍し、戦功を挙げ、官は太僕卿、太子左衛率を歴任し、益陽県侯に封ぜられた。太清年間、侯景の乱が起こると、楊華は志節を立てようとしたが、妻子が賊に捕らえられたため、ついに賊に降り、賊の中で死去した。
羊侃
羊侃は字を祖忻といい、泰山郡梁甫の人で、漢代の南陽太守羊続の子孫である。祖父の規は、宋の武帝が徐州に臨んだ時、 祭酒 従事・大中正に召し出された。薛安都が彭城を挙げて北朝に降った際、規はこれによって北魏に陥り、北魏から衛将軍・営州 刺史 を授けられた。父の祉は、北魏の侍中、金紫光禄大夫であった。羊侃は若い頃から魁偉で、身長は七尺八寸あり、文書や歴史を好み、広く書物に通じ、特に『左氏春秋』と『孫子呉子兵法』を好んだ。弱冠にして父に従って梁州で功を立てた。北魏の正光年間、次第に別将となった。当時、秦州の 羌 に莫遮念生という者がおり、州を占拠して反乱を起こし、帝を称し、弟の天生に軍勢を率いさせて岐州を攻め落とさせ、さらに 雍州 を侵した。羊侃は偏将として、蕭宝夤に従属して討伐に向かい、身を潜めて巡邏し、天生を狙って射ると、矢が弦を離れると同時に倒れ、その軍勢は潰走した。功績により使持節・征東大将軍・東道行台に昇進し、泰山太守を兼任し、爵位は鉅平侯に進んだ。
初め、その父は常に南朝に帰る志を持っており、よく諸子に言った。「人の一生、どうして長く異域に留まっていられようか。お前たちは東の朝廷(南朝)に帰って仕えるがよい。」羊侃はこの時、黄河と済水の地を挙げて父の志を成し遂げようとした。兗州 刺史 の羊敦は、羊侃の従兄であったが、密かにこれを知り、州を拠点として羊侃に抵抗した。羊侃は精兵三万を率いて襲撃したが、勝てず、十数城を築いて守りを固めた。朝廷は賞を与え、元法僧と全く同様に扱った。羊鴉仁と王弁に軍を率いて応援させ、李元履に糧食と武器を輸送させた。北魏の皇帝はこれを聞き、羊侃に驃騎大将軍・ 司徒 ・泰山郡公を授け、長く兗州 刺史 とすることを伝えさせたが、羊侃はその使者を斬って示しとした。北魏の人々は大いに驚き、 僕射 の于暉に数十万の軍勢を率いさせ、高歓や尒朱陽都らが相次いで到着し、羊侃を十数重に包囲し、多くの死傷者を出した。柵の中の矢が尽き、南朝の援軍が進軍しないため、夜に包囲を突破して出撃し、戦いながら進み、一日一夜かけて北魏の国境を脱出した。渣口に至った時、軍勢はまだ一万余人、馬二千匹あり、南朝に入ろうとしたが、士卒は皆、夜通し悲しげな歌を歌った。羊侃は謝って言った。「卿らは故郷を懐かしんでいる。道理として私に従うことはできない。どうか去るも留まるも自由にし、ここで別れよう。」そこでそれぞれ拝礼して別れ、去っていった。
羊侃は大通三年に京師に到着し、 詔 により使持節・ 散騎常侍 ・ 都督 瑕丘征討諸軍事・安北将軍・徐州 刺史 を授けられ、兄の默と三人の弟の忱・給・元も皆、 刺史 に任ぜられた。まもなく羊侃を 都督 北討諸軍事とし、日城に出陣させたが、陳慶之が軍律を失ったため、進軍を停止した。その年、 詔 により持節・雲麾将軍・青・冀二州 刺史 とした。
中大通四年、 詔 により使持節・ 都督 瑕丘諸軍事・安北将軍・兗州 刺史 とし、 太尉 元法僧に従って北伐させた。法僧は先に上奏して言った。「羊侃とは旧知の仲です。同行させてください。」高祖(武帝)は羊侃を召して方策を問うと、羊侃は進取の計略を詳細に述べた。高祖は言った。「卿が 太尉 と同行したいと願っていることを知った。」羊侃は言った。「臣は抜け出して朝廷に帰り、常に命を捧げることを考えておりましたが、実は法僧と同行したいとは思っておりません。北朝の人々は臣を呉人と呼び、南朝の人々はすでに臣を虜と呼んでおります。今、法僧と同行すれば、やはり同類が群れをなすことになり、ただ臣の本心に背くだけでなく、匈奴(北朝)に漢(南朝)を軽んじさせることにもなります。」高祖は言った。「朝廷は今、卿の出陣を必要としている。」そこで 詔 を下し、大軍 司馬 とした。高祖は羊侃に言った。「軍司馬の官は廃れて久しいが、この度は卿のために設けたのだ。」行軍して官竹に至った時、元樹がまた譙城で軍を失った。軍事が中止されると、入朝して侍中となった。五年、高昌県侯に封ぜられ、邑千戸を与えられた。六年、雲麾将軍・ 晉 安太守として出向した。閩越の地は風俗として反乱を好み、前後の太守は誰もこれを止めることができなかったが、羊侃が到着して討伐し、その首領の陳称・呉満らを斬った。これにより郡内は粛清され、敢えて犯す者はいなくなった。まもなく、太子左衛率に召された。
大同三年、車駕(皇帝)が楽遊苑に行幸し、羊侃も宴に参列した。時に少府が新たに造った両刃の槊が完成したと奏上した。長さは二丈四尺、囲みは一尺三寸であった。高祖は羊侃に馬を与え、試させることにした。羊侃は槊を執って馬に乗り、左右に撃ち刺し、特にその妙技を尽くした。高祖はこれを賞賛し、また『武宴詩』三十韻を作って羊侃に示した。羊侃は即座に 詔 に応じて詩を詠んだ。高祖はそれを見て言った。「仁者に勇ありと聞くが、今、勇者に仁ありを見た。まさに鄒・魯の遺風と言え、英賢が絶えないものだ。」六年、 司徒 左 長史 に転じた。八年、都官尚書に転じた。当時、 尚書令 の 何敬容 が権勢を振るっており、羊侃は彼と同じ官省にいたが、一度も遊びに行ったり訪問したりしなかった。宦官の張僧胤が羊侃を訪ねてきたが、羊侃は言った。「私の床は宦官の座る所ではない。」結局、前に進ませず、当時の論評は彼の貞正さを称えた。九年、使持節・壮武将軍・衡州 刺史 として出向した。
太清元年、侍中に召された。ちょうど大規模な北伐が行われ、羊侃を持節・冠軍将軍とし、韓山堰の築造を監督させた。二旬で堰は完成した。羊侃は元帥の貞陽侯に水勢を利用して彭城を攻めるよう勧めたが、聞き入れられなかった。やがて北魏の援軍が大挙して到着すると、羊侃はたびたび遠来の疲れを撃つ好機と勧め、翌日また出戦を勧めたが、いずれも聞き入れられず、羊侃は自らの配下を率いて堰の上に出陣した。諸軍が敗れた後、羊侃は陣を整えてゆっくりと撤退した。
二年、再び都官尚書となった。侯景が反乱を起こし、 歴陽 を陥落させると、高祖は羊侃に侯景討伐の策を問うた。羊侃は言った。「侯景の反逆の兆しは久しく見えていました。あるいは猪の突進のように攻めてくるかもしれません。急いで採石を占拠し、邵陵王に 寿春 を襲取させてください。侯景は進むこともできず、退けば巣窟を失い、烏合の衆は自然に瓦解するでしょう。」議する者たちは侯景がすぐに京師を脅かすことはないだろうと言い、その策は採用されず、羊侃に千余騎を率いて望国門に出陣させた。侯景が新林に至ると、羊侃を召し戻して宣城王を補佐させ、城内諸軍事を 都督 させた。当時、侯景の軍が突然到来したため、民衆は競って城内に入り、公私ともに混乱し、秩序がなくなっていた。羊侃は区画を分けて防備を準備し、いずれも宗室の者たちを間に配置した。兵士たちが武器庫に争って入り、自ら武器や甲冑を取るのを、担当官は制止できなかったが、羊侃が数人を斬るよう命じて、ようやく止めることができた。賊が城に迫ると、皆が恐れおののいた。羊侃は射込まれた手紙を得たと偽って、「邵陵王と西昌侯が近くの道に到着した」と言い、衆はようやく少し落ち着いた。賊が東掖門を攻め、火を放って勢いが盛んだったが、羊侃自らが抵抗し、水をかけて火を消し、弓を引いて数人を射殺したため、賊は退却した。侍中・軍師将軍を加えられた。 詔 により金五千両、銀一万両、絹一万匹を戦士たちに賜るため送られてきたが、羊侃は辞退して受け取らなかった。配下の部曲千余人には、それぞれ私的に賞を与えた。
賊は尖った頂部の木製の驢(攻城兵器)で城を攻め、矢や石では制御できなかった。侃は雉尾炬(松明の一種)を作り、鉄の鏃を付け、油を注いで驢の上に投げて焼き払い、たちまち全てを焼き尽くした。賊はまた東西の両面に土山を築き、城を見下ろそうとした。城内は震え上がったが、侃は地下道を作るよう命じ、ひそかにその土を引き抜かせたので、山は立つことができなかった。賊はさらに登城楼車を作り、高さは十余丈もあり、城内に向かって射かけようとした。侃は言った。「車は高くて不安定だ。彼らが来れば必ず倒れる。寝転がって見ていればよい。わざわざ防備を整える労は要らない。」車が動くと果たして倒れ、人々は皆、侃に感服した。賊はたびたび攻撃しても勝利できず、長い包囲陣を築いた。朱异と張綰は出撃を議論した。高祖が侃に意見を求めたところ、侃は言った。「いけません。賊は多日にわたり攻城し、既に落とせないので、長い包囲陣を築き、城中の降伏者を引き出そうとしているのです。今、出撃すれば、出る人数が少なければ賊を破るのに足りず、多ければ一度の敗北で、自らが踏み合い、門は狭く橋は小さいので、必ず大いに損害を受けます。これは弱みを見せるだけで、王の威光を示すことにはなりません。」聞き入れられず、千余人を出撃させたが、まだ交戦にも至らないうちに風を見て退却し、果たして橋を争って水に飛び込み、死者は大半に及んだ。
初めに、侃の長男の躭が侯景に捕らえられ、城の下に連れて来られて侃に見せられた。侃は彼に言った。「私は一族を挙げて主君に報いることを誓い、それでもまだ足りないと恨んでいる。どうしてこの一子のことを計算に入れようか。幸いにもお前が早く殺してくれることを願う。」数日後、また連れて来られた。侃は躭に言った。「とっくにお前が死んだと思っていたのに、まだ生きていたのか?私は身を国に捧げ、陣中で死ぬことを誓っている。決してお前のために進退を左右することはない。」そして弓を引いて彼を射ようとした。賊はその忠義に感じ入り、彼を害することもなかった。侯景は儀同の傅士哲を遣わし、侃を呼んで語らせた。「侯王は遠くから来て天子にご挨拶申し上げているのに、なぜ閉じこもって拒み、すぐに受け入れないのか?尚書は国家の大臣である。朝廷に申し開きすべきだ。」侃は言った。「侯将軍が逃亡した後、国家に帰順し、重要な鎮めとして方城に任じられ、大任を委ねられた。何の苦しみがあって、突然に兵を挙げたのか?今、烏合の衆を駆り立て、王城の下に至り、虜の馬は淮水を飲み、矢は帝室に集まっている。これで人臣としてあるまじきことか?私は国の重恩を蒙っている。廟算(朝廷の戦略)を承けて大逆を掃討すべきであり、妄りに浮説を受け入れ、門を開いて盗賊を招き入れることはできない。幸いにも侯王に伝えてくれ。早く自らの行くべき道を選ぶように。」士哲はまた言った。「侯王は君に仕えて節を尽くしているが、朝廷に理解されていない。ただ天子に直接申し上げ、奸佞の臣を除きたいだけだ。既に軍旅にあるので、甲冑を着けて朝見に来たのであって、どうして逆賊と言えるのか?」侃は言った。「聖上は四海を治めてほぼ五十年、聡明で叡智に富み、隠れたところも照らさないことはない。どうして奸佞の臣が朝廷にいることがあろうか?その非を飾ろうとして、詭弁がないはずがない。しかも侯王自ら白刃を挙げて城門に向かっている。君に仕えて節を尽くすとは、まさにこのようなことか!」士哲は返す言葉がなく、言った。「北にいた頃、久しくあなたの風采と謀略を敬慕し、常に平生の恨みとして、語り合う機会が得られなかったことを残念に思っていました。どうか軍服を脱ぎ、一度お会いしたい。」侃は彼のために冑を脱いだ。士哲はしばらく眺めた後、去っていった。彼がこのように北の人々に敬慕されていたのである。
後に大雨が降り、城内の土山が崩れた。賊はこれに乗じてまさに入ろうとした。苦戦しても防ぎきれず、侃は多くの火を投げるよう命じ、火の城を作ってその進路を断ち、ゆっくりと内側に城を築いたので、賊は進むことができなかった。十二月、病にかかり台城内で死去した。時に五十四歳。 詔 により東園の秘器(棺)が与えられ、布と絹がそれぞれ五百匹、銭三百万が下賜され、侍中・護軍將軍を追贈され、鼓吹一部が与えられた。
侃は若い頃から雄大で勇猛で、膂力は人並み外れていた。使用する弓は十余石に及んだ。かつて兗州の堯廟で壁を蹴り、真っ直ぐに五尋(約八メートル)まで上り、横に七歩の跡を残した。泗橋には数体の石人があり、長さ八尺、太さ十囲(両手で抱える大きさ)もあったが、侃はそれらを掴んで互いに打ち付け、全てを粉々に砕いた。
侃の性格は豪奢で、音律に長け、自ら『採蓮』と『棹歌』の二曲を作り、非常に新しい趣があった。姬妾を侍らせ、贅沢と華美の極みを尽くした。箏を弾く者に陸太喜という者がおり、鹿の角の爪(義爪)を長さ七寸も着けていた。舞人に張淨琬という者がおり、腰囲は一尺六寸で、当時の人々は皆、彼女が掌の中で舞うことができると推していた。また孫荊玉という者がおり、腰を反らせて地面に貼り付き、筵の上の玉簪を口でくわえることができた。勅命により歌人の王娥兒が下賜され、東宮も歌者の屈偶之を下賜した。二人とも奇曲を極めて巧みに歌い、当時対する者はいなかった。初めて衡州に赴任する時、二隻の船を並べて三間の通梁水齋(水上の建物)を建て、珠玉で飾り、錦繍を加え、豪華な帷や屏風を設け、女楽を並べた。潮に乗って纜を解き、波の上で酒宴を開き、堤に沿って水辺に観衆が押し寄せた。大同年間、魏の使者の陽斐は、侃と北でかつて同窓だったことがあり、 詔 により侃が斐を招いて共に宴を開くよう命じられた。賓客は三百余人、器は全て金玉や雑宝で、三部の女楽を演奏した。夜になると、侍女百余人が皆、金の花の燭を手にした。侃は酒を飲めなかったが、賓客との交遊を好み、終日杯を交わし、彼らと同じく酔い醒めた。性格は寛厚で、度量があった。かつて南に帰る途中、漣口に着き、酒宴を開いた。客の張孺才という者が船中で酔って火事を起こし、延焼して七十余艘の船が焼け、焼失した金帛は数え切れなかった。侃はこれを聞いても、全く気にかけず、酒宴を止めなかった。孺才は恥じ恐れて自ら逃げ隠れたが、侃は慰めて説き、戻るよう促し、以前と同じように扱った。第三子は鶤。
子 鵬
鶤は字を子鵬という。侃に従って台内にいたが、城が陥落すると、陽平に逃げ隠れた。侯景が呼び戻し、手厚く待遇した。侯景が敗れると、鶤は密かに彼を討とうと図り、その東走に従った。侯景が松江で戦いに敗れ、残ったのは三隻の小船だけで、海に出て蒙山に向かおうとした。ちょうど侯景が昼寝で疲れていた時、鶤は船頭に言った。「この中にどこに蒙山があるというのか!お前はただ私の指示に従え。」そして真っ直ぐ京口に向かった。胡豆洲に着くと、侯景は気づいて大いに驚き、岸上の人に尋ねた。彼らは「郭元建はまだ広陵にいる」と言った。侯景は大いに喜び、彼を頼ろうとした。鶤は刀を抜いて船頭を叱り、京口に向かわせた。侯景は水中に飛び込もうとしたが、鶤は刀を抜いて彼を斬りつけた。侯景は船中に逃げ込み、小刀で船板を抉ろうとした。鶤は槊で突き刺して殺した。 世祖 は鶤を持節・通直 散騎常侍 ・ 都督 青・冀二州諸軍事・明威将軍・青州 刺史 とし、昌国県公に封じ、邑二千戸を与え、銭五百万、米五千石、布と絹をそれぞれ一千匹下賜し、さらに東陽太守を兼任させた。陸納を征討し、 散騎常侍 を加えられた。峡中を平定し、西 晉 州 刺史 に任じられた。東関で郭元建を破り、使持節・信武将軍・東 晉 州 刺史 に遷った。承聖三年、西魏が 江陵 を包囲すると、鶤は救援に赴いたが間に合わず、王僧愔に従って嶺表で蕭勃を征討した。 太尉 の僧辯が敗れたと聞き、帰還したが、侯瑱に破られ、 豫 章で殺害された。時に二十八歳。
羊鴉仁
羊鴉仁は、字を孝穆といい、太山郡鉅平県の人である。若い頃から勇猛果敢で胆力があり、郡に仕えて主簿となった。普通年間(520-527年)に、兄弟を率いて魏から梁に帰順し、広 晉 県侯に封ぜられた。青州・斉州の間で征伐に従事し、功績を重ね、次第に 員外 散騎常侍 ・歴陽太守に昇進した。中大通四年(532年)、持節・ 都督 譙州諸軍事・信威将軍・譙州 刺史 となった。大同七年(541年)、太子左衛率に任ぜられ、さらに持節・ 都督 南司州・北司州・ 豫 州・楚州の四州諸軍事・軽車将軍・北司州 刺史 として出向した。侯景が降伏すると、 詔 により鴉仁は士州 刺史 桓和之・仁州 刺史 湛海珍らの精兵三万を督率し、 懸瓠 へ急行して侯景を迎え入れ、さらに 都督 豫 司淮冀殷応西 豫 等七州諸軍事・司 豫 二州 刺史 に任ぜられ、懸瓠に駐屯した。侯景が 渦陽 で敗北し、魏軍が次第に迫ると、鴉仁は兵糧輸送が続かなくなることを恐れ、北司州へ引き返し、上表して謝罪した。高祖(武帝)は大いに怒り、彼を責めた。鴉仁は恐れ、また軍を淮水のほとりに留めた。侯景が反乱を起こすと、鴉仁は配下の軍勢を率いて救援に向かった。太清二年(548年)、侯景が盟約を破ると、鴉仁は趙伯超および南康王蕭会理とともに東府城で賊を攻撃したが、逆に賊に敗れた。臺城が陥落すると、鴉仁は侯景に面会し、侯景に留め置かれて五兵尚書に任ぜられた。鴉仁は常に奮起することを考え、親しい者に言った。「私は凡庸な身でありながら朝廷の寵愛を受け、ついに何の報いもせず、重恩に答えることができなかった。 社稷 が傾き危うくなっているのに、身を以て死ぬこともできず、命を惜しみ、ただ生き延びて今日に至った。もしこのまま終わるなら、死んでも悔いが残る。」こう言って涙を流し、見る者を悲しませた。三年(549年)、江西へ逃亡した。かつての配下の兵士数百人が彼を迎え、江陵へ向かおうとしたが、東莞に至ったとき、かつての北徐州 刺史 荀伯道の息子たちに殺害された。
史臣の論。