巻二十四 志第十四 職官
『書経』に「唐・虞は古に稽(かんが)え、官を建つること惟(こ)れ百」とある。これは民衆を導き励まし、諸々の政務を成し遂げるためのものである。『易経』に「天は象を垂(た)れ、聖人はこれに則る」とある。執法は南宮の右にあり、上相は端門の外に処(お)り、鳥龍が位に居り、雲火が名を垂れることについては、前代の史書が詳しく述べており、その由来は古い。黄帝は三公の位階を設けて民衆に親しみ、少昊は九扈の名を配して農正とし、重黎を天地に命じ、融冥を水火に 詔 (みことのり)した。これらについては言うことができる。伊尹は「三公は陰陽を調え、九卿は寒暑を通じ、大夫は人事を知り、列士はその私心を去る」と言った。成湯が亳に居た時、初めて二相を置き、伊尹と仲虺をそれに任じ、すべての枢要な事柄は君主の命令を仰いだ。周の武王が天下を平定し、成王・康王が法則を垂れるに及んで、六卿が職務を分掌し、二公が教化を広め、それぞれに役所を設け、各々標準を掲げた。もしその道に適わなければ、人は虚栄を求めなかった。子孫のために謀り、その根本を固めることはこのようであった。秦が周の官制を変え、漢が嬴秦の旧制に従った。あるいは時勢に応じて適用し、あるいは任務によって改変し、覇王の法典の意義はここにある。すでにその安定を得たのは、いわゆるその時代の制度を得たのである。四征将軍は漢代に興り、四安将軍は魏の初めに起こり、四鎮将軍は遠方を懐柔するために通じ、四平将軍は喪乱を鎮めるために設けられた。渡遼将軍、淩江将軍、軽車将軍、強弩将軍は、遠方に威光を揚げ、征伐を表すために用いられ、興ってはまた廃され、その称号はますます煩雑になった。魏が志を得て、諸夏を平定した時、初めて軍師祭酒を置き、軍律の参掌にあたらせた。建安十三年、漢の三公の制度を廃し、丞相を置き換え、曹公(曹操)がこれに就き、宰相の職を兼ねた。孫呉と劉蜀は多く漢の制度に依拠し、臨時に官名を定めることがあっても、旧来の章典を辱めることはなかった。世祖武皇帝( 司馬炎 )が即位した初め、安平王司馬孚を太宰とし、鄭沖を太傅とし、王祥を太保とし、司馬望を 太尉 とし、何曾を 司徒 とし、荀顗を 司空 とし、石苞を大司馬とし、陳騫を大将軍とした。世にいう八公が同時に並び立ち、雲に攀(よ)じ翼に附く者たちである。棟梁を成すのは一本の枝の勢いではなく、経綸を処するには万夫の敵と称される。ある者は羊を引いて夢に叶い、ある者は釣りを垂れてその道を明らかにし、ある者は空桑からその術を献じ、ある者は版を操ってその心を啓いた。臥龍、飛鴻、方金、擬璧、秦奚、鄭産、楚材晋用、これらもまた昔の優れた人材であり、特に顕著なものである。宣王( 司馬懿 )が 曹爽 を誅殺してからは、政令は己から出て、英俊を網羅して天官(朝廷の官職)に備えた。蘭卿( 何晏 )が拘束され、貴公(曹爽)が顕戮された時、たとえ名目上は魏に仕えていても、その心は皇晋にあった。文王( 司馬昭 )が大業を継ぎ、晋の台府を開いた初め、二衛を置き、前駆には養由基のような弩兵を備え、三部を設けると、熊渠や佽飛のような勇猛な兵衆がいた。それゆえ武帝が龍のように飛翔し、この勢いに乗じて奮い立ったのは、ちょうど武王が周の十乱(十人の治臣)をもって殷の民を治めたようなものである。それゆえ泰始から太康に至るまで、高い枝に茂る葉のように、人々がこの位に就いた。太興から建元に至るまで、南の金、北の銑のように、人材がこの官位に用いられた。夔が石を叩き龍が言葉を伝えるような天の働きを人が代行するには及ばないが、任官は賢によるべく、事に臨むには能によるべしという点では、ほぼそのようであった。
丞相と相国は、ともに秦の官職である。晋が魏から 禅譲 を受けた後は、ともに設置せず、恵帝の後は、廃止と設置が定まらなかった。これに就いた者は、趙王 司馬倫 、梁王司馬肜、成都王司馬穎、南陽王司馬保、王敦、 王導 の徒であり、いずれも尋常の臣下の職務ではなかった。
太宰、太傅、太保は、周の三公の官である。魏の初めは太傅のみを置き、鐘繇をこれに任じた。末年になってまた太保を置き、鄭沖をこれに任じた。晋の初めは景帝( 司馬師 )の 諱 を避けたため、また『周官』の官名を採用し、太宰を置いて太師の任に代えさせ、その位階を三司より増し、太傅・太保とともに上公とし、道を論じ国を経営し、陰陽を調和させる役目とし、適任者がいれば欠員とした。安平献王司馬孚がこれに就いた。長江を渡って以後(東晋)、その官名は廃されず、これに就く者は非常に少なかった。
太尉 、 司徒 、 司空 は、いずれも古い官職である。漢から魏を経て、三公として設置された。晋が天命を受けてから、江左(東晋)に至るまで、その官職は継承されて廃されなかった。
大司馬は、古い官職である。漢の制度では、大将軍、驃騎将軍、車騎将軍の上に冠して用い、 太尉 の職務に代えさせたので、常に 太尉 と交互に設置され、並列しなかった。魏になって 太尉 があり、大司馬と大将軍はそれぞれ別個の官職となり、位は三司の上にあった。晋が魏から禅譲を受けると、その制度に因り、安平王司馬孚を太宰とし、鄭沖を太傅とし、王祥を太保とし、義陽王司馬望を 太尉 とし、何曾を 司徒 とし、荀顗を 司空 とし、石苞を大司馬とし、陳騫を大将軍とした。合わせて八公が同時に並置され、ただ丞相だけはなかった。義陽王司馬望が大司馬になって以後、規定は旧制の通り、三司の上に置かれた。
大将軍は、古い官職である。漢の武帝が設置し、大司馬の名を冠して、尊崇すべき重職とした。漢の東京(後漢)になると、大将軍は常置されず、これに就く者は皆、朝権を専断した。景帝(司馬師)が大将軍となった時も、非常の重任を受けた。後に叔父の司馬孚が 太尉 となったため、大将軍を 太尉 の下に改めるよう上奏した。晋が天命を受けた後も、その制度に依り、位は三司の下にあったが、後に旧制に復し、三司の上となった。太康元年、琅邪王司馬伷が大将軍に遷ると、再び制度を改めて三司の下とし、司馬伷が 薨去 した後は旧制に戻った。
開府儀同三司は、漢の官職である。殤帝の延平元年、鄭騭が車騎将軍、儀同三司となった。「儀同」の名称はここから始まる。魏になって黄権が車騎将軍、開府儀同三司となった。「開府」の名称はここから起こる。
驃騎将軍、車騎将軍、衛将軍、伏波将軍、撫軍将軍、都護将軍、鎮軍将軍、中軍将軍、四征将軍、四鎮将軍、龍驤将軍、典軍将軍、上軍将軍、輔国将軍などの大将軍、左右光禄大夫、光禄大夫の三大夫で、開府を許された者は皆、位は公に従う。
太宰、太傅、太保、 司徒 、 司空 、左右光禄大夫、光禄大夫で、開府を許され位が公に従う者は文官公とされ、進賢冠の三梁を戴き、黒介幘をつける。
大司馬、大将軍、 太尉 、驃騎将軍、車騎将軍、衛将軍、諸大将軍で、開府を許され位が公に従う者は武官公とされ、皆、武冠を着け、平上黒幘をつける。
文武の官公は、皆、金章紫綬を仮授され、五時服を着る。その相国、丞相は、皆、袞冕を着け、緑の盭綬を用い、常の公とは異なるようにした。
諸公および開府位従公たる者は、品秩が第一で、食俸は一日五斛。太康二年(281年)には、さらに絹が支給され、春に百匹、秋に絹二百匹、綿二百斤。元康元年(291年)には、菜田十頃、田騶十人を給し、立夏後に田に及ばない者は、食俸を一年分給する。長史一人を置き、秩は一千石。西東閣祭酒、西東曹掾、戸倉賊曹令史属各一人。御属閣下令史、西東曹倉戸賊曹令史、門令史、記室省事令史、閣下記室書令史、西東曹学事各一人。武賁二十人を給し、班剣を持つ。朝車駕駟、安車黒耳駕三各一乗、祭酒掾属白蓋小車七乗、軺車施耳後戸、皁輪犢車各一乗を給する。祭酒以下、令史以上は、皆皁零辟朝服を着る。 太尉 は兵権を加えられなくても、吏属は皆絳服を着る。 司徒 は左右長史各一人を加置し、秩千石。 主簿 、左西曹掾属各一人。西曹は右西曹と称し、その左西曹令史以下の人数は旧令の通り。 司空 は導橋掾一人を加置する。
諸公および開府位従公で兵権を加えられる者は、司馬一人を増置し、秩千石。従事中郎二人、秩は比千石。主簿、記室督各一人。舎人四人。兵鎧、士曹、営軍、刺奸、帳下 都督 、外 都督 、令史各一人。主簿以下、令史以上は、皆絳服を着る。司馬には長史と同じく吏卒を給し、従事中郎には侍二人を給し、主簿、記室督には各々侍一人を給する。その他、臨時に増崇される者は、褒加はそれぞれその時の状況に応じて節文とし、定制とはしない。
諸公および開府位従公で持節 都督 となる者は、参車を六人に増やし、長史、司馬、従事中郎、主簿、記室督、祭酒、掾属、舎人は、通常の兵権を加えられた公の制度と同じとする。
特進は、漢代の官である。両漢および魏・晋では、加官として本官の車服に従う。吏卒は無い。太僕の羊琇が位を譲り、特進に拝され、 散騎常侍 を加えられたが、他の官は無かったため、吏卒と車服を給された。その他、特進を加えられる者は、ただその禄賜を食み、その班位に就くだけで、別に特進としての吏卒や車服は給されず、後に令が定められた。特進の品秩は第二で、位は諸公の次、開府驃騎将軍の上にあり、進賢冠の両梁を戴き、黒介幘、五時の朝服を着け、水蒼玉を佩び、章綬は無く、食俸は一日四斛。太康二年(281年)に初めて春服の絹五十匹、秋の絹百五十匹、綿百五十斤を賜う。元康元年(291年)に菜田八頃、田騶八人を給し、立夏後に田に及ばない者は、食俸を一年分給する。主簿、功曹史、門亭長、門下書佐各一人を置き、安車黒耳駕に御者一人を給し、軺車施耳後戸一乗を給する。
左右光禄大夫は、金章紫綬を仮授される。光禄大夫に金章紫綬を加えられる者は、品秩第二で、禄賜、班位、冠幘、車服、佩玉、吏卒・羽林および卒の設置、諸々の賜給は全て特進と同じである。加官として授けられる者は、ただ章綬を仮授され、禄賜と班位があるだけで、別に車服や吏卒は給されない。また、卒してこの位を追贈される場合、元々卿官を持っていた者は、重ねて吏卒を給されず、その他は皆給される。
光禄大夫で銀章青綬を仮授される者は、品秩第三で、位は金章紫綬の将軍の下、諸卿の上にある。漢代に設置された時は定員が無く、多くは拝官・仮授・賵贈の使者や、喪事の監護に任じられた。魏氏以来、転じてさらに優遇され重んじられ、もはや使命の官とはされなくなった。諸公で老齢を告げる者は、皆この位を家で拝され、また朝廷の顕職にありながら再びこれを加えられる者もあり、晋が天命を受けた後も、旧来のまま改めず、再び優遇崇敬の制度とした。しかし諸公が位を譲った場合、再びこれを加えず、あるいはさらに上公に拝され、あるいは本来の封邑で公の禄を食む。諸卿尹や中朝の大官で年老いて致仕する者、および内外の職にこの位を加えられる者は、前後して非常に多かった。これにより、ある者は開府することができ、ある者は進んで金章紫綬を加えられ、また礼贈の位とされた。泰始年間(265-274年)には、ただ太子詹事の楊珧だけが給事中光禄大夫を加給された。兵権を加える制度では、諸々の供給は三品将軍に依る。その他は旧制の通りで、武帝、恵帝、孝懐帝の三世を通じて終わった。
光禄大夫は卿と同じく秩中二千石で、進賢冠の両梁を戴き、黒介幘、五時の朝服を着け、水蒼玉を佩び、食俸は一日三斛。太康二年(281年)に初めて春の賜物として絹五十匹、秋の絹百匹、綿百斤を給する。恵帝元康元年(291年)に初めて菜田六頃、田騶六人を給し、主簿、功曹史、門亭長、門下書佐各一人を置く。
驃騎将軍以下および諸大將軍で開府せず持節 都督 でない者は、品秩第二で、その禄は特進と同じである。長史、司馬各一人を置き、秩千石。主簿、功曹史、門下督、録事、兵鎧士賊曹、営軍、刺奸、帳下 都督 、功曹書佐門吏、門下書吏各一人。仮節して 都督 となる者は、その設置は四征鎮将軍が大將軍を加えられ開府せず 都督 となる者と同じである。
四征鎮安平将軍に大將軍を加えられ開府せず、持節 都督 となる者は、品秩第二で、参佐吏卒を置き、幕府の兵騎は通常の 都督 制と同じとするが、朝会と禄賜のみは二品将軍の例に従う。しかし持節、 都督 には定員が無い。前漢では使者を派遣する時に初めて持節があった。光武帝建武初年、四方を征伐するに当たり、初めて臨時に督軍御史を置き、事が終わると罷免した。建安年間、魏武(曹操)が丞相となり、初めて大將軍を派遣して督軍させた。二十一年(216年)、孫権を征伐して帰還した時、夏侯惇が二十六軍を督したのがこれである。魏文帝黄初三年(222年)、初めて 都督 諸州軍事を置き、ある者は 刺史 を兼ねた。また上軍大將軍曹真が 都督 中外諸軍事・仮黄鉞となると、内外の諸軍を総統した。魏明帝太和四年(230年)秋、宣帝(司馬懿)が蜀を征伐するに当たり、大 都督 の号を加えられた。高貴郷公正元二年(255年)、文帝(司馬昭)が 都督 中外諸軍となり、まもなく大 都督 を加えられた。晋が禅譲を受けると、 都督 諸軍が上、臨諸軍が次、督諸軍が下となった。使持節が上、持節が次、仮節が下である。使持節は二千石以下を殺すことができ、持節は官位の無い人を殺すことができ、軍事の場合は使持節と同じことができる。仮節は軍事においてのみ軍令を犯した者を殺すことができる。江左(東晋)以来、 都督 中外は特に重んじられ、ただ王導など権力の重い者がこれに居た。
三品将軍で秩中二千石の者は、武冠を戴き、平上黒幘、五時の朝服を着け、水蒼玉を佩び、食俸、春秋の綿絹の賜物、菜田、田騶は光禄大夫や諸卿の制度と同じである。長史、司馬各一人を置き、秩千石。主簿、功曹、門下 都督 、録事、兵鎧士賊曹、営軍、刺奸吏、帳下 都督 、功曹書佐門吏、門下書吏各一人。
尚書 を録する。漢の武帝の時を調べると、左右曹の諸吏が尚書の奏事を分けて処理し、枢要を知る者が初めて尚書事を領した。張安世は車騎将軍として、 霍光 は大将軍として、王鳳は大司馬として、師丹は左将軍として、いずれも尚書事を領した。後漢の章帝は太傅の趙憙と 太尉 の牟融に並んで尚書事を録させた。尚書に録という名称があるのは、おそらく趙憙と牟融から始まり、これも西京(前漢)で尚書を領した職務と同じで、唐虞の時代の大麓の職に相当する。和帝の時、 太尉 の鄧彪が太傅となり、尚書事を録し、位は上公で三公の上にあった。漢の制度ではこれが常となり、幼帝が即位するたびに太傅を置いて尚書事を録させ、これは古代の塚宰が万事を総括する意味に相当し、その者が死去するとすぐに廃止された。魏晋以後も、公卿の中で権力の重い者がこれを行った。
尚書令 は、秩禄千石で、銅印墨綬を仮に与えられ、進賢冠の両梁冠をかぶり、納言幘を着け、五時の朝服を着用し、水蒼玉を佩び、月俸は五十斛である。拝命を受ける際には策命され、これは端右(尚書省の長官)の地位にあるためである。太康二年(281年)に初めて絹が賜与され、春に三十匹、秋に七十匹、綿七十斤が与えられた。元康元年(291年)に初めて菜田六頃と田騶六人が与えられ、立夏後に田を与えられなかった者は一年分の俸禄を受け取った。初め賈充が 尚書令 となった時、目の病気を理由に上表して省事吏四人を置いた。省事という職はおそらくここから始まった。
僕射 の服制、秩禄、印綬は令と同じである。調べると、漢代には本来一人を置いていたが、漢の献帝の建安四年(199年)、執金吾の栄郃を尚書左 僕射 とした。 僕射 が左右に分かれて置かれたのは、おそらくここから始まった。魏を経て晋に至り、江左(東晋)に至るまで、設置・廃止は一定せず、二人置く場合は左右 僕射 とし、あるいは両方を置かず、単に尚書 僕射 と呼んだ。令が欠員の時は左 僕射 が省の長となる。もし左右ともに欠員の場合は、尚書 僕射 を置いて左の事務を主管させた。
列曹尚書について調べると、尚書は本来漢が秦の制度を継承して設置したものである。武帝が後宮で遊宴するようになってから、初めて宦官を用いて中書を主管させ、司馬遷がこれに任じられた。その間にこの官は廃止され、中書の職務となった。成帝の建始四年(前29年)、中書宦官を廃止し、再び尚書五人を置き、一人を 僕射 とし、四人を四曹に分けて、図書・秘記・章奏の事務を総括して掌らせ、それぞれに任務があった。第一は常侍曹で、丞相・御史・公卿の事務を主管した。第二は二千石曹で、 刺史 ・郡国の事務を主管した。第三は民曹で、吏民の上書事務を主管した。第四は主客曹で、外国・夷狄の事務を主管した。後に成帝はさらに三公曹を置き、獄事の裁断を主管し、これで五曹となった。後漢の光武帝は三公曹に年末の諸州郡の考課事務を主管させ、常侍曹を吏部曹に改めて選挙と祠祀の事務を主管させ、民曹に土木工事・塩池・園苑の事務を主管させ、客曹に護駕と 羌 胡の朝賀事務を主管させ、二千石曹に訴訟事務を主管させ、中都官曹に水火・盗賊の事務を主管させ、合わせて六曹とした。これに令と 僕射 二人を加えて、八座と呼んだ。尚書には曹の名称はあったが、号としては用いられなかった。霊帝が侍中の梁鵠を選部尚書とした時、ここで初めて曹の名称が見られるようになった。魏になって選部を吏部に改め、選部事務を主管し、さらに左民・客曹・五兵・度支の五曹尚書があり、二 僕射 ・一令を合わせて八座となった。晋では吏部・三公・客曹・駕部・屯田・度支の六曹尚書を置き、五兵はなかった。咸寧二年(276年)、駕部尚書を廃止した。四年(278年)、 僕射 一人を廃止し、再び駕部尚書を置いた。太康年間(280-289年)には、吏部・殿中・五兵・田曹・度支・左民の六曹尚書があり、駕部・三公・客曹はなかった。恵帝の世にはさらに右民尚書があり、六曹で止まり、この時にどの曹が廃止されたかはわからない。江東に渡ってからは、吏部・祠部・五兵・左民・度支の五尚書があった。祠部尚書は常に右 僕射 と職務を通じさせ、恒常的には置かず、右 僕射 がこれを兼任した。もし右 僕射 が欠員の場合は、祠部尚書が右の事務を兼任して知った。
左右丞は、漢の武帝の建始四年(前29年)に尚書を設置した時から、すぐに丞四人を置いた。光武帝になって初めて二人を減らし、ただ左右丞のみを置いた。左右丞はおそらくここから始まった。ここから晋に至るまで変わらなかった。晋の左丞は台内の禁令、宗廟の祠祀、朝儀の礼制、署吏の選用、緊急の休暇を主管した。右丞は台内の庫蔵・廬舎、あらゆる器物、および賑給・人頭税・布の徴収、刑獄・兵器、遠方からの文書・章表・奏事の監督記録を掌った。八座の郎が初めて拝命される時は、皆漢の旧制に従い、都座に集まって交礼(互いに礼を交わす儀式)を行い、転任する時にはまた交礼を解いた。
尚書郎は、西漢の旧制で四人を置き、尚書の事務を分掌させた。一人は匈奴単于の営部を主管し、一人は 羌 夷の吏民を主管し、一人は戸口と墾田を主管し、一人は財帛の輸送を主管した。光武帝が尚書を六曹に分けてからは、合わせて三十四人を置き、秩禄四百石で、左右丞と合わせて三十六人となった。郎は文書の起草を主管し、五日ごとに建礼門内で交替で宿直した。尚書郎は初め三署から台に赴いて試験を受け、守尚書郎となり、一年満了で尚書郎と称し、三年で侍郎と称し、吏能のある者を選んでこれに任じた。魏に至って、尚書郎には殿中・吏部・駕部・金部・虞曹・比部・南主客・祠部・度支・庫部・農部・水部・儀曹・三公・倉部・民曹・二千石・中兵・外兵・都兵・別兵・考功・定課の二十三郎があった。青龍二年(234年)、尚書の陳矯が上奏して都官・騎兵を置き、合わせて二十五郎となった。一郎が欠員するたびに、文案をまとめる能力のある孝廉五人を試験し、謹んでその姓名を封をして上奏し、補任した。晋が天命を受けると、武帝は農部・定課を廃止し、直事・殿中・祠部・儀曹・吏部・三公・比部・金部・倉部・度支・都官・二千石・左民・右民・虞曹・屯田・起部・水部・左右主客・駕部・車部・庫部・左右中兵・左右外兵・別兵・都兵・騎兵・左右士・北主客・南主客の三十四曹郎を置いた。後にさらに運曹を置き、合わせて三十五曹とし、郎二十三人を置き、互いに統轄した。江左(東晋)に至っては、直事・右民・屯田・車部・別兵・都兵・騎兵・左右士・運曹の十曹郎がなかった。康帝・穆帝以後は、さらに虞曹・二千石の二郎がなく、ただ殿中・祠部・吏部・儀曹・三公・比部・金部・倉部・度支・都官・左民・起部・水部・主客・駕部・庫部・中兵・外兵の十八曹郎のみであった。後にさらに主客・起部・水部を廃止し、残り十五曹となった。
侍中について調べると、黄帝の時、風後が侍中であった。周では常伯の任に相当し、秦は古い名称を取って侍中を置き、漢がこれを継承した。秦漢ともに定員はなく、功績の高い者一人を 僕射 とした。魏晋以来は四人を置き、別に官を加える者はこの数には含まれない。賓客の接待と威儀を掌り、大駕(皇帝の大行列)が出る時は、次直の侍中が護駕し、正直の侍中が璽を背負って陪乗し、剣は帯びず、残りは皆騎馬で従った。御駕が殿に登る時は、 散騎常侍 と向かい合って扶け、侍中は左に、常侍は右に位置した。切実な質問に近くで答え、遺漏を拾い補うことを担当した。江左の哀帝の興寧四年(366年)、 桓温 が上奏して二人を廃止したが、後に旧に復した。
給事黄門侍郎は、秦の官である。漢以後もこれに因り、侍中とともに門下の諸事を管轄し、定員はなかった。晋に至って、定員四人を置いた。
散騎常侍 は、もともと秦の官職である。秦は散騎を置き、また中常侍を置いた。散騎は車駕の後ろに騎乗して従い、中常侍は禁中に入ることができた。いずれも定員はなく、加官とすることもあった。漢の東京(後漢)の初め、散騎は廃止され、中常侍は宦官が務めるようになった。魏の文帝の黄初の初め、散騎を置き、中常侍と合わせて、ともに規諫を掌り、実務は管轄せず、貂の尾と冠の飾りを右に挿し、騎乗して随従した。 晉 に至るまで変わらなかった。元康年間、恵帝が初めて宦官の董猛を中常侍としたが、その後は廃止された。常に顕職であった。
給事中は、秦の官職である。大夫・博士・議郎などに加えられる官で、顧問応対を掌り、位は中常侍の次であった。漢もこれを踏襲した。漢の東京(後漢)で廃止されたが、魏の時代に復活し、 晉 に至るまで変わらなかった。 散騎常侍 の下、給事黄門侍郎の上に位置し、定員はなかった。
通直 散騎常侍 について調べると、魏の末期には 散騎常侍 に員外の者がいた。泰始十年、武帝が二人を 散騎常侍 と員を同じくして直(当直)させたので、通直 散騎常侍 と呼んだ。江左(東 晉 )では四人を置いた。
員外 散騎常侍 は、魏の末期に置かれ、定員はなかった。
散騎侍郎は四人。魏の初めに 散騎常侍 とともに置かれた。魏から 晉 にかけて、 散騎常侍 ・侍郎は侍中・黄門侍郎とともに尚書の奏事を審議したが、江左(東 晉 )になって廃止された。
通直散騎侍郎は四人。初め、武帝が員外散騎侍郎を置いた。太興元年、元帝が二人を散騎侍郎と員を同じくして直(当直)させたので、通直散騎侍郎と呼んだ。後に四人に増員された。
員外散騎侍郎は、武帝が置き、定員はなかった。
奉朝請は、もともと官職ではなく、定員もなかった。漢の東京(後漢)では三公・外戚・宗室・諸侯の多くが奉朝請となった。奉朝請とは、朝会に奉じて召しに応じるだけである。武帝も宗室・外戚を奉車都尉・駙馬都尉・騎都尉の三都尉として奉朝請とした。元帝が 晉 王であった時、参軍を奉車都尉とし、掾属を駙馬都尉とし、行参軍舍人を騎都尉とし、いずれも奉朝請とした。後に奉車・騎の二都尉は廃止され、駙馬都尉のみが奉朝請として残った。公主を娶った者、劉惔・桓溫らは皆これになった。
中書監 および中書令について調べると、漢の武帝が後宮で遊宴するようになり、初めて宦官に尚書の事務を掌らせ、中書謁者と呼び、令と 僕射 を置いた。成帝は中書謁者令を中謁者令と改称し、 僕射 を廃止した。漢の東京(後漢)では中謁者令は廃止されたが、中官謁者令があり、その職務ではなかった。魏の武帝が魏王であった時、秘書令を置き、尚書の奏事を掌った。文帝の黄初の初め、中書と改め、監と令を置き、秘書左丞の劉放を 中書監 とし、右丞の孫資を中書令とした。監・令はおそらくここから始まる。 晉 もこれを踏襲し、ともに員を一人ずつ置いた。
中書侍郎は、魏の黄初の初め、中書に監・令が置かれた後、通事郎を置き、その位は黄門郎の次であった。黄門郎がすでに文書に署名して処理した後、通事郎が署名した。署名が済むと、奏上して皇帝に届け、皇帝が閲覧し、許可を書いた。 晉 に至り、中書侍郎と改称し、員は四人。中書侍郎はおそらくここから始まる。江左(東 晉 )の初め、中書侍郎を通事郎と改称したが、まもなく中書侍郎に戻した。
中書舍人について調べると、 晉 の初め、初めて舍人と通事を各一人置いた。江左(東 晉 )では舍人と通事を合わせて通事舍人と呼び、奏案や上奏文の取り次ぎを掌った。後に廃止され、代わりに中書侍郎一人が西省に直(当直)し、 詔 命も掌った。
秘書監について調べると、漢の桓帝の延熹二年に秘書監が置かれ、後に廃止された。魏武(曹操)が魏王であった時、秘書令と秘書丞を置いた。文帝の黄初の初め、中書令を置いて尚書の奏事を掌らせ、秘書は令を監に改めた。後に何禎を秘書丞としたが、秘書にはもともと丞がいたので、禎を秘書右丞とした。 晉 が天命を受けると、武帝は秘書を中書省に併合したが、秘書著作の局は廃止しなかった。恵帝の永平年間、再び秘書監を置き、その属官に丞と郎があり、ともに著作省を統轄した。
著作郎は、周の左史の職務に相当する。漢の東京(後漢)では図籍は東観にあったので、名儒に東観で著作させた。その名称はあったが、まだ官職としては確立していなかった。魏の明帝の太和年間、 詔 によって著作郎が置かれ、ここに初めてその官職ができ、中書省に所属した。 晉 が天命を受けると、武帝は繆徴を中書著作郎とした。元康二年、 詔 して言った。「著作は以前中書に所属していたが、秘書はすでに文籍を掌っている。今、中書著作を秘書著作に改める。」こうして秘書省に所属を改めた。後に別に省を置いたが、依然として秘書省に所属した。著作郎一人を大著作郎と呼び、専ら史書編纂の任を掌り、また佐著作郎八人を置いた。著作郎が初めて職務に就く時、必ず名臣の伝を一人撰する。
太常・光禄勲・衛尉・太僕・廷尉・大鴻臚・宗正・大司農・少府・将作大匠・太后三卿・大長秋は、いずれも列卿であり、それぞれ丞・功曹・主簿・五官などの員を置いた。
太常には、博士・協律 校尉 の員があり、また太学の諸博士・祭酒および太史・太廟・太楽・鼓吹・陵などの令を統轄した。太史にはさらに別に霊台丞を置いた。
太常博士は、魏の官職である。魏の文帝が初めて設置し、 晉 がこれを踏襲した。皇帝の車駕の先導を担当する。王公以下で追諡されるべき者の諡号は、博士が議論して決定する。
協律 校尉 は、漢の協律都尉の職務であり、魏の杜夔がこれを務めた。 晉 に至り、協律 校尉 と改称された。
晉 の初期は魏の制度を継承し、博士十九人を置いた。咸寧四年になると、武帝が初めて国子学を設立し、国子祭酒・博士をそれぞれ一人、助教を十五人と定めて、生徒を教育させた。博士はすべて品行が清廉で純粋であり、典籍の義理に通暁している者から選び、 散騎常侍 ・中書侍郎・太子中庶子以上の官にある者でなければ召し出して試験をすることができた。江左(東 晉 )の初期には、九人に減らされた。元帝の末年、『儀礼』・『春秋公羊』の博士をそれぞれ一人増員し、合わせて十一人となった。後にさらに十六人に増員され、もはや『五経』ごとに分掌せず、太学博士と呼ぶようになった。孝武帝の太元十年、国子助教の員数を十人に減らした。
光祿勳は、武賁中郎将・羽林郎将・冗従 僕射 ・羽林左監・五官左右中郎将・東園匠・太官、御府・守宮・黄門・掖庭・清商・華林園・暴室などの令を統轄する。哀帝の興寧二年、光祿勳を廃止し、 司徒 に統合した。孝武帝の寧康元年に再設置された。
衛尉は、武庫・公車・衛士・諸冶などの令、左右都候、南北東西督冶掾を統轄する。江を渡って(東 晉 )になると、衛尉は廃止された。
太僕は、典農・典虞都尉、典虞丞、左右中典牧都尉、車府典牧、乗黄廄・驊騮廄・龍馬廄などの令を統轄する。典牧には別に羊牧丞が置かれた。太僕は、元帝が江を渡って(東 晉 )以降、廃止されたり設置されたりした。太僕が廃止されると、驊騮廄は門下省の管轄となった。
廷尉は、刑法と訴訟を主管し、属官に正・監・評があり、律博士の員も置かれた。
大鴻臚は、大行・典客・園池・華林園・鉤盾などの令を統轄し、また青宮列丞・鄴玄武苑丞があった。江左(東 晉 )では、必要があれば臨時に設置し、必要がなければ廃止した。
宗正は、皇族宗人の系図を統轄し、また太醫令史を統轄し、司牧掾の員もあった。江を渡って(東 晉 )になると、哀帝が宗正を廃止して太常に統合し、太醫は門下省に移管された。
大司農は、太倉・籍田・導官の三つの令、襄国都水長、東西南北部護漕掾を統轄する。江を渡って(東 晉 )になると、哀帝が大司農を廃止して都水に統合したが、孝武帝が再設置した。
少府は、材官 校尉 ・中左右三尚方・中黄左右蔵・左校・甄官・平准・奚官などの令、左校坊・鄴中黄左右蔵・油官などの丞を統轄する。江を渡って(東 晉 )になると、哀帝が少府を廃止して丹陽尹に統合したが、孝武帝が再設置した。江を渡ってからは尚方を一つだけ置き、また御府を廃止した。
将作大匠は、必要があれば設置し、必要がなければ廃止した。
太后三卿とは、衛尉・少府・太僕であり、漢代に設置され、いずれも太后の宮に随伴して官号とし、同名の卿の上位に位置し、太后がいなければ欠員とした。魏は漢の制度を改め、九卿の下位に置いた。 晉 になると旧制に復し、同名の卿の上位に置かれた。
大長秋は、皇后に仕える卿であり、皇后がいれば設置し、皇后がいなければ廃止した。
御史中丞は、もともと秦の官職である。秦の時代、御史大夫には二つの丞があり、一つは御史丞、もう一つが中丞であった。中丞は外では部 刺史 を監督し、内では侍御史を統率し、公卿からの上奏を受け付け、弾劾や案件の文書を提出した。漢はこれを踏襲した。成帝の綏和元年、御史大夫を大 司空 と改称し、長史を置いたが、中丞の官職は従来通りであった。哀帝の建平二年、再び御史大夫となった。元寿二年、また大 司空 となり、中丞は外に出て御史台の長官となった。漢の東京(後漢)から 晉 に至るまでこの制度を踏襲し、中丞を台の長官とした。
治書侍御史は、漢の宣帝が宣室で斎戒して政務を決裁した際、侍御史二人に文書を扱わせて側に侍らせたことに始まり、後に別に設置されて治書侍御史と呼ばれたのがその起源である。魏の時代にはさらに治書執法を置き、上奏と弾劾を担当し、治書侍御史は法令を担当し、両官とも設置された。 晉 になると、治書侍御史のみを置き、定員は四人であった。泰始四年には、さらに黄沙獄治書侍御史一人を置き、その位階は御史中丞と同じで、 詔 獄および廷尉の不当な判決をすべて審理した。後に河南に併合されると、黄沙治書侍御史は廃止された。太康年間には、さらに治書侍御史二員を廃止した。
侍御史は、前漢・後漢で五つの曹を担当していた。第一は令曹で法令を、第二は印曹で印章の彫刻を、第三は供曹で祭祀の供物を、第四は尉馬曹で厩舎の馬を、第五は乗曹で行幸の護衛をそれぞれ担当した。魏では八人を置いた。 晉 では定員九人とし、位階は治書侍御史と同じで、十三の曹を担当した。吏曹、課第曹、直事曹、印曹、中 都督 曹、外 都督 曹、媒曹、符節曹、水曹、中壘曹、營軍曹、法曹、算曹である。江左(東 晉 )初期には課第曹を廃止し、庫曹を置いて厩舎・牧畜・牛馬・市租を担当させた。後に曹を分けて外左庫、内左庫を置いた。
殿中侍御史は、魏の蘭臺が二名の御史を殿中に派遣し、不法行為を監察させたことに始まる。 晉 では四人を置き、江左では二人を置いた。また、魏 晉 の官品令には第七品の禁防禦史があり、孝武帝の太元年間には検校御史の呉琨がいたことから、この二職も蘭臺の職務であった。
符節御史は、秦の符璽令の職務を受け継いだものである。漢もこれを踏襲し、その位は御史中丞の次であった。魏になると独立した一台となり、御史中丞の次位にあり、節・銅武符・竹使符の授与を担当した。泰始九年、武帝はこれを蘭臺に併合し、符節御史を置いてその事務を担当させた。
司隸 校尉 は、漢の武帝が初めて十三州を設置し、各州に 刺史 一人を置き、さらに司隸 校尉 を置いて三輔・三河・弘農の七郡を監察したことに始まる。後漢から魏・ 晉 を通じてこの官は廃止されなかった。属官には功曹、都官從事、諸曹從事、部郡從事、主簿、錄事、門下書佐、省事、記室書佐、諸曹書佐守從事、武猛從事などがあり、総計で吏員百人、兵卒三十二人を擁した。江東に渡ると司隸 校尉 の官は廃止され、その職務は揚州 刺史 が引き継いだ。
謁者 僕射 は秦代の官職で、漢から魏まで踏襲された。魏では 僕射 を置き、重要な任命式や百官の序列を統括し、十人の謁者を管轄した。武帝の時に 僕射 を廃止し、謁者を蘭臺に併合した。江左で再び 僕射 を置いたが、後にまた廃止された。
都水使者は、漢の水衡都尉の職務を受け継いだものである。漢にはさらに都水長丞があり、池沼・灌漑・河渠の管理・保全を担当し、太常に属していた。後漢では都水を廃止し、河堤謁者を置き、魏もこれを踏襲した。武帝が水衡都尉を廃止すると、都水使者一人を置き、河堤謁者をその属官とした。江左では河堤謁者を廃止し、謁者六人を置いた。
中領軍将軍は魏の官職である。漢の建安四年、魏王曹操の丞相府が独自に設置し、漢中を平定した後、曹休を中領軍に任じた。文帝が即位すると、初めて領軍将軍を設置し、曹休をこれに任じて、五校・中壘・武衛の三つの営を統率させた。武帝の初年に廃止し、中軍将軍の 羊祜 に二衛・前・後・左・右・ 驍 衛などの諸営を統率させ、領軍の職務を代行させた。懐帝の永嘉年間に中軍を中領軍と改称した。永昌元年に北軍中候と改称したが、まもなく領軍に戻した。成帝の時代に再び中候とし、まもなく領軍に戻した。
護軍将軍は、もともと秦の護軍都尉の官職である。漢もこれを踏襲し、高祖は陳平を護軍中尉とし、武帝は再び護軍都尉として大司馬に属させた。魏王曹操が丞相の時、韓浩を護軍、史渙を領軍としたが、これは漢の官制にはない。建安十二年、護軍を中護軍、領軍を中領軍と改称し、長史・司馬を置いた。魏の初年、護軍将軍を設置し、武官の選任を担当し、領軍に隷属させたが、 晉 の時代には隷属しなかった。元帝の永昌元年に護軍を廃止し、領軍に併合した。明帝の太寧二年に再び領軍・護軍を置き、それぞれが営兵を統率した。江左以来、領軍は別に営を統率することはなくなり、二衛・ 驍 騎・材官などの諸営を総括し、護軍は依然として別に営を有した。資歴の重い者が領軍・護軍となり、軽い者が中領軍・中護軍となった。属官には長史・司馬・功曹・主簿・五官があり、出征を命じられると参軍を置いた。
左右衛将軍は、文帝の時代に初めて中衛を設置した。武帝が即位すると、これを左右衛に分け、羊琇を左衛将軍、趙序を右衛将軍に任じた。ともに長史・司馬・功曹・主簿の定員を置いたが、江左では長史を廃止した。
驍 騎将軍・遊撃将軍は、ともに漢代の雑号将軍である。魏では中軍として設置された。 晉 では、領軍・護軍・左右衛・ 驍 騎・遊撃を六軍とした。
左右前後軍将軍について、魏の明帝の時代に左軍があったことから、左軍は魏の官職であり、 晉 になっても変わらなかった。武帝の初年にさらに前軍・右軍を置き、泰始八年に後軍を置いて、これらを四軍とした。
屯騎・歩兵・越騎・長水・射声などの 校尉 は、五校と呼ばれ、いずれも漢代の官職である。魏 晉 から江左に至るまで、依然として営兵を統率し、司馬・功曹・主簿を置いた。後に左軍・右軍・前軍・後軍を廃止して鎮衛軍とし、左右の営 校尉 は従来通りとし、いずれも中領軍が統率した。
二衛は当初、前駆・由基・強弩を三部司馬とし、それぞれに督史を置いた。左衛には熊渠武賁、右衛には佽飛武賁を配した。二衛はそれぞれ五部督を有した。命中武賁は、 驍 騎・遊撃がそれぞれ統率した。さらに武賁・羽林・上騎・異力の四部を置き、命中と合わせて五督とした。衛・鎮の四軍は五校と同様に、それぞれ千人を置いた。殿中将軍を新設し、中郎・ 校尉 ・司馬は 驍 騎将軍に準じた。椎斧を持つ武賁は二衛に分属させた。尉中武賁・鈒を持つ冗従・羽林司馬は、常に随行する人数にそれぞれ差があった。武帝は武官を非常に重視したため、軍校の多くは朝廷で清望ある士人を選んで任じた。以前、陳勰は文帝に重用され、特に才能があり、軍令に明るかった。帝が 晉 王であった時、兵事を統括させるために任用した。蜀が平定された後、 諸葛亮 の陣法や伏兵の用兵術、また甲乙校の標識の制度を陳勰に学ばせたところ、陳勰はすべて精通したため、陳勰を殿中典兵中郎将とし、後に将軍に昇進させた。長い間、武帝が出入りする際には、陳勰が白獣幡を持って乗輿の左右に従い、儀仗隊の整列は整然としていた。太康末年、武帝が雉狩りに出た時、陳勰はすでに都水使者となっており、散従していた。車駕が暗くなるまで帰らず、漏刻が尽きて函を閉じる時分になったが、乗輿を停めて長い間閉じることができなかったため、 詔 を下して陳勰に閉めさせた。陳勰が白獣幡を掲げて指揮すると、あっという間に函は閉じられた。皆が陳勰の熟練ぶりを称賛し、武帝に大いに信任された。
太子太傅と少傅は、いずれも古くからの官職である。泰始三年(267年)、武帝が初めて官制を整備し、それぞれ一人ずつを置いたが、まだ詹事は設置されておらず、官事の大小を問わずすべて二傅が管轄し、ともに功曹・主簿・五官を置いた。太傅は中二千石、少傅は二千石である。訓導の際は、太傅が前、少傅が後ろに位置した。皇太子が先に拝礼し、諸傅がそれに答えた。武帝は後に、皇太子の副体としての尊厳を重んじ、諸公にこの職を就かせた。本官の地位が重いため、行(兼任)または領(統轄)の形をとった。当時、侍中の任愷は武帝に親しく敬われており、再びこれを領させたが、これは一時的な制度であった。咸寧元年(275年)、給事黄門侍郎の楊珧を詹事とし、宮中の事務を掌らせたため、二傅はもはや官属を領さなくなった。楊珧が衛将軍となり少傅を領した時、詹事を廃止し、傅の訓導を重視・拡大し、 太尉 の賈充に太保を領させ、 司空 の斉王司馬攸に太傅を領させ、設置する吏属も以前のようになった。二傅は進賢冠の両梁冠をかぶり、黒い介幘を着け、五時の朝服を着用し、水蒼玉を佩び、俸禄は一日三斛であった。太康二年(281年)、初めて春の賜与として絹五十匹、秋の絹百匹、綿百斤が支給された。その後、 太尉 の汝南王司馬亮、車騎将軍の楊駿、 司空 の衛瓘、石鑒らがみな傅保を領したが、依然として詹事を置かず、武帝の世が終わるまでそのままだった。恵帝の元康元年(291年)、再び詹事を置き、二傅には菜田六頃と田騶六人を与え、立夏後に田を得られない者は一年分の俸禄を支給された。丞一人を置き、秩禄は千石。主簿・五官掾・功曹史・主記門下史・録事・戸曹・法曹・倉曹・賊曹・功曹書佐・門下亭長・門下書佐・省事をそれぞれ一人ずつ置き、赤耳の安車一乗を与えた。湣懐太子が官制を整えると、六傅を置き、三太・三少とし、景帝の諱が師であったため、太師を太保と改称し、尚書事を通じて省み、詹事の文書は六傅に関して処理された。しかし元康以後、諸傅は二または三、四または六と変動し、永康年間には再び詹事を置かなかった。太安以来、詹事を置き、孝懐帝の世まで続いた。江東に渡った後は、太傅・少傅はあったが、師保は立てなかった。
中庶子は四人で、職掌は侍中と同じである。
中舎人は四人で、咸寧四年(278年)に設置され、舎人の中で才学の優れた者をこれに充て、中庶子とともに文書を掌り、職掌は黄門侍郎のようで、中庶子の下、洗馬の上に位置した。
食官令は一人で、職掌は太官令と同じである。
庶子は四人で、職掌は 散騎常侍 ・ 中書監 令に比する。
舎人は十六人で、職掌は散騎侍郎・中書侍郎などに比する。
洗馬は八人で、職掌は謁者や秘書のようで、図書典籍を掌る。釈奠や講経の際にはその事務を掌り、外出時には当直の者が前駆し、威儀を導いた。
率更令は、宮殿の門戸および賞罰の事務を主管し、職掌は光禄勲・衛尉のようである。
家令は、刑獄・穀物財貨・飲食を主管し、職掌は司農・少府に比する。後漢では食官令を主管したが、食官令および晋では独自の官となり、もはや家令に属さなくなった。
僕は、車馬・親族を主管し、職掌は太僕・宗正のようである。
左右衛率について、武帝が東宮を建てた時、衛率を置き、初めは中衛率と称した。泰始五年(269年)、左右に分け、それぞれ一軍を領した。恵帝の時、湣懐太子が東宮にいたため、さらに前後の二率を加えた。江東に至り、前後の二率を廃止したが、孝武帝の太元年間(376-396年)に再び設置した。
王には師・友・文学をそれぞれ一人ずつ置くが、景帝の諱のため、師を傅と改称した。友というのは、周の文王や孔子の四友という名号に由来する。太守を内史と改称し、相および僕を廃止した。郎中令・中尉・大農の三卿がある。大国には左右常侍をそれぞれ一人ずつ置き、郎中を廃止して侍郎二人を置き、典書・典祠・典衛・学官令・典書丞をそれぞれ一人ずつ、治書四人、中尉司馬・世子庶子・陵廟牧長をそれぞれ一人ずつ、謁者四人、中大夫六人、舎人十人、典府をそれぞれ一人ずつ置く。
咸寧三年(277年)、衛将軍の楊珧と 中書監 の荀勖は、斉王司馬攸に声望があるのを恐れ、恵帝に後の禍難があることを憂い、かつての 司空 裴秀が五等封建の旨を立てた故事を引き合いに出し、機会を見て武帝に時勢に適したことを共に述べ、「古く侯を建てたのは、王室を藩屏として守るためであった。今、呉の賊寇がまだ滅びず、方岳の任は重大であるのに、諸王が帥となり、 都督 や封国を領しているが、それぞれその統内の臣を臣下とせず、事柄の重大さにふさわしくない。また、異姓の諸将が辺境に駐在しているので、親戚をもってこれに参与させるべきであるのに、諸王公はみな京都におり、城を守る意味もなく、万世の固めにもならない」と主張した。帝は初めは気づかなかったが、そこで 詔 を下してその制度を議させた。有司が上奏し、諸王公の戸邑の制度を改め、いずれも中尉が兵を領することとした。平原・汝南・琅邪・扶風・斉を大国とし、梁・趙・楽安・燕・安平・義陽を次国とし、その他を小国とし、いずれも近隣の県を割いて合わせて一万戸を満たすようにした。また、郡公の制度は小国の王と同じとし、やはり中尉が兵を領する。郡侯は五千戸に満たない王と同じとし、一軍一千一百人を置き、やはり中尉がこれを領する。当時、特に魯公国の戸邑を増やし、故 司空 の博陵公王沈を郡公に追封し、钜平侯の羊祜を南城郡侯に進封した。また、南宮王の司馬承、随王の司馬万はそれぞれ泰始年間に県王に封ぜられ、邑千戸であったが、この時に至り、県王を改めて邑を三千戸に増やした。制度は郡侯と同じで、やはり一軍を置いた。これ以降、皇子でなければ王となることはできず、諸王の支庶はみな皇室の近親であるため、それぞれ封土を推恩して封を受けた。大国・次国の始封王の支子は公とし、封王を継承する者の支子は侯とし、封王を継承する者の支子は伯とする。小国で五千戸以上の場合は、始封王の支子は子とし、五千戸に満たない始封王の支子および始封の公侯の支子はみな男とし、これ以外は封を受けることができない。公の制度は五千戸の国と同じ、侯の制度は五千戸に満たない国と同じで、やはり一軍千人を置き、中尉がこれを領する。伯・子・男以下はそれぞれ差等があるが、軍は置かない。大国の始封の孫は下軍を廃止し、曾孫はさらに上軍を廃止する。次国の始封の子孫も下軍を廃止する。その他はすべて一軍を常とする。大国の中軍は二千人、上下軍はそれぞれ千五百人。次国の上軍は二千人、下軍は千人。国に赴いていない者は、大国には守土百人、次国には八十人、小国には六十人を置く。郡侯・県公も小国の制度と同じである。施行されると、増加・移転した者はそれぞれ本奏の通りに国に赴くよう命じられたが、諸公はみな京師を恋しがり、涙を流して去った。呉平定後、斉王司馬攸はついに国に赴いた。
中朝(西晋)の制度では、典書令は常侍の下、侍郎の上に位置した。江東に渡ると、侍郎は常侍の次となり、典書令は三軍の下に位置した。公国には中尉・常侍・三軍がなく、侯国にはさらに大農・侍郎がなく、伯・子・男には典書以下しかなく、さらに学官・令史の職もなく、みな順次に減じられた。公侯以下は官属を置くが、国の大小に応じて定まった制度はなく、その他の官司もそれぞれ差等がある。名山大沢は封じず、塩・鉄・金・銀・銅・錫、始平の竹園、別都の宮室園囿は、いずれも属国としない。朝廷に出仕している者は、その国と同じで、みな自らその文武官を選ぶ。卿士となってその世子がすでに壮年に達している者は、みな国に臨んで統治させる。王公以下の、茅社・符璽・車旗・命服は、すべて泰始初年の故事の通りである。
州には 刺史 を置き、別駕、治中従事、諸曹従事などの役員を置いた。管轄する中郡以上および江陽郡・朱提郡には、それぞれ部従事一人を置き、小郡にも一人を置いた。また主簿、門亭長、録事、記室書佐、諸曹佐、守従事、武猛従事などがあった。総計で吏が四十一人、卒が二十人である。諸州の辺境で遠隔の地、あるいは山険で、賊や 羌 夷の近くに臨むところには、さらに弓馬従事五十余人を置いた。徐州にはさらに淮海を置き、涼州には河津を置き、諸州にはそれぞれ都水従事一人を置いた。涼州・益州には吏八十五人、卒二十人を置いた。荊州にはさらに監佃督一人を置いた。
郡にはすべて太守を置き、河南郡は京師の所在地であるため、尹と称した。諸王国では内史が太守の任を掌り、さらに主簿、主記室、門下賊曹、議生、門下史、記室史、録事史、書佐、循行、幹、小史、五官掾、功曹史、功曹書佐、循行小史、五官掾などの役員を置いた。郡国の戸数が五千に満たない場合は、職吏五十人、散吏十三人を置き、五千戸以上では職吏六十三人、散吏二十一人を置き、一万戸以上では職吏六十九人、散吏三十九人を置いた。郡国にはすべて文学掾一人を置いた。
県は大きいところには令を置き、小さいところには長を置いた。主簿、録事史、主記室史、門下書佐、幹、遊徼、議生、循行功曹史、小史、廷掾、功曹史、小史書佐幹、戸曹掾史幹、法曹門幹、金倉賊曹掾史、兵曹史、吏曹史、獄小史、獄門亭長、都亭長、賊捕掾などの役員があった。戸数が三百未満の場合は、職吏十八人、散吏四人を置き、三百以上では職吏二十八人、散吏六人を置き、五百以上では職吏四十人、散吏八人を置き、千以上では職吏五十三人、散吏十二人を置き、千五百以上では職吏六十八人、散吏十八人を置き、三千以上では職吏八十八人、散吏二十六人を置いた。
郡国および県では、農繁期にはすべて管轄する戸数の多少に応じて差をつけ、散吏を農事奨励に当たらせた。また、県で五百戸以上はすべて郷を置き、三千戸以上は二郷を置き、五千戸以上は三郷を置き、一万戸以上は四郷を置き、郷には嗇夫一人を置いた。郷の戸数が千未満の場合は治書史一人を置き、千以上では史と佐をそれぞれ一人ずつ、正一人を置き、五千五百以上では史一人、佐二人を置いた。県はおおよそ百戸ごとに里吏一人を置き、土地が広く人口がまばらな場合は、適宜に里吏を置くことを許したが、五十戸を下回ってはならないと制限した。戸数千以上では校官掾一人を置いた。
県にはすべて方略吏四人を置いた。 洛陽 県には六部尉を置いた。江左(東晋)以後、 建康 にも六部尉を置き、その他の大県には二人、次県・小県にはそれぞれ一人を置いた。鄴と 長安 には、三千戸以上の制度と同じように吏を置いた。
四中郎将は、いずれも後漢に設置され、魏から晋を経て、その職務が存続し、江左(東晋)ではさらに重要視された。
護 羌 校尉 、夷 校尉 、蛮 校尉 などについて述べる。武帝が 襄陽 に南蛮 校尉 を、長安に西戎 校尉 を、寧州に南夷 校尉 を置いた。元康年間、護 羌 校尉 は涼州 刺史 に、西戎 校尉 は雍州 刺史 に、南蛮 校尉 は荊州 刺史 となった。江左(東晋)初期に南蛮 校尉 を廃止したが、まもなく江陵に再設置し、南夷 校尉 を鎮蛮 校尉 と改称した。安帝の時、襄陽に寧蛮 校尉 を置いた。
護匈奴中郎将、護 羌 中郎将、護戎中郎将、護蛮中郎将、護夷中郎将、護越中郎将について述べる。武帝が四中郎将を置き、 刺史 を兼ねる者もあり、あるいは節を持ってその任に当たる者もあった。武帝はさらに平越中郎将を置き、広州に駐在させ、南越の保護を主務とした。