明史

志第二十五 礼三

志第二十五 礼三(吉礼三)

社稷、朝日夕月、先農、先蠶、高禖、祭告、祈報、神祇、星辰霊星寿星司中司命司民司禄、太歳月将風雲雷雨、嶽鎮海瀆山川、城隍

○社稷

社稷の祭祀は、京師および王国・府・州・県にすべて存在した。その壇が宮城の西南にあるものを太社稷と称した。明初、太社を東に、太稷を西に建て、壇はいずれも北向きであった。洪武元年、中書省の臣が議を定めて言うには、「周の制度では、小宗伯が国を建てる神位を掌り、右に社稷、左に宗廟を置く。社稷の祭祀は、壇であって屋根のある建物ではない。その制は中門の外、外門の内にある。尊び親しむこと、先祖と等しい。しかし天子には三社がある。群姓のために立てるものを太社という。自らのために立てるものを王社という。また勝国の社には屋根をかけ、国は亡びてもこれを存続させ、神を重んじるのである。後世の天子はただ太社・太稷を立てる。漢の高祖こうそは官の太社・太稷を立て、一年に各々二度祭祀を行った。光武帝は洛陽らくようの宗廟の右に太社稷を立て、春秋二仲月および臘に、一年に三度祭祀を行った。唐は隋の制度を踏襲し、含光門の右に社稷を並べて建て、仲春・仲秋の戊の日にこれを祭った。玄宗は社稷を大祀に昇格させ、なお四時に祭祀を行うことを命じた。宋の制度は東漢の時と同じである。元の世祖は和義門内に社稷を営み、春秋二仲月の上戊の日に祭祀を行った。今は春秋二仲月の上戊の日に祭祀を行うのがよろしい。」この年二月、太祖は親しく太社・太稷を祀った。社には后土を配祀し、西向きとした。稷には后稷を配祀し、東向きとした。帝は皮弁服を着て犠牲を省み、通天冠・絳紗袍を着て三献の礼を行った。初め、帝は中書省・翰林院に命じて屋根を造り、風雨に備えることを議させた。学士陶安が言うには、「天子の太社は必ず風雨霜露を受ける。亡国の社はこれに屋根をかけるのであって、天陽を受けないのである。屋根を建てるのは適切ではない。もし風雨に遇えば、則ち斎宮において望祭を請うべきである。」これに従った。三年、壇の北に祭殿五間を建て、さらに北に拝殿五間を建て、風雨に備えた。

十年、太祖は社稷が分祀され、配祀が妥当でないとして、礼官に議させた。尚書張籌が言うには、

『通典』によれば、顓頊は共工氏の子である句龍を后土として祀った。后土は社である。烈山氏の子である柱を稷とした。稷は田正である。唐・虞・夏はこれを踏襲した。これが社稷の始まりである。商の湯は旱魃のため社を遷し、后稷をもって柱に代えた。句龍を遷そうとしたが、継ぐ者がいなかったので、やめた。しかし王粛は社は句龍を祭り、稷は后稷を祭るとし、いずれも人鬼であって地祇ではないとする。一方、陳氏の『礼書』はまた、社は五土の祇を祭り、稷は五穀の神を祭るとする。鄭康成もまた、社は五土の総神、稷は原隰の神であるとする。句龍には水土を平らげる功績があるので、社に配し、后稷には播種の功績があるので、稷に配するのである。二つの説は異なる。漢の元始年間、夏の禹を官社に配し、后稷を官稷に配した。唐・宋および元もまた句龍を社に配し、周の棄を稷に配した。この配祀の制度は、初めから定論があったわけではない。社稷の分合の意義については、『書経』召誥に『社を新邑に』とあり、孔注は「社稷は同じ犠牲を用いる」と言う。『周礼』「封人は王の社壝を設けることを掌る」の注に、「稷を言わないのは、社を挙げれば稷はこれに従うからである」とある。陳氏『礼書』には、「稷は土なくしては生じず、土は稷なくしては生生の効果を見ることができない。故に社を祭るには必ず稷に及ぶ」とある。『山堂考索』には、「社は九土の尊であり、稷は五穀の長である。稷は土より生ずる。則ち社と稷は固より分かつべからざるものである」とある。これを合祭すべきことは、古に明らかな証拠がある。社稷を共に一つの壇とすべきことを請う。句龍は共工氏の子である。これを祀るのは道理に合わない。商の湯は遷そうとして果たさなかった。漢はかつて夏の禹に代えようとしたが、夏の禹は今や帝王の列に祀られており、棄(后稷)もまた先農に配祀されている。句龍・棄の配位を廃し、謹んで仁祖淳皇帝を配享し奉り、以て一代の盛典を成すことを請う。」遂に午門の右に改めて作り、社稷を共に一つの壇とした。

初め、社稷は中祀に列せられていたが、仁祖を配祀したことにより、上祀に昇格した。冕服を具えて祭祀を行い、奉安の礼を行った。十一年春、社稷を祭るに新たに定めた儀式を行った。迎神・飲福・送神は凡そ十二拝とし、その他は旧の如くであった。建文の時、改めて太祖を配祀し奉った。永楽年間、北京の社稷壇が完成し、制度は南京と同じであった。洪熙以後、太祖・太宗を共に配祀し奉った。旧制では、上丁に孔子を釈奠し、翌日の上戊に社稷を祀った。弘治十七年八月、上丁が初十日、上戊が朔日に当たり、礼官は十一日に社稷を祀ることを請うた。御史金洪がこれを弾劾し、このようにすれば中戊であって上戊ではないと言った。礼部が覆奏して言うには、「洪武二十年に嘗て十一日を上戊としたことがあり、誤りは今日に始まったことではない。」旧制に従い、なお上戊を用いることを命じた。

嘉靖九年、礼部に諭して言うには、「天地は最も尊く、次は宗廟、また次は社稷である。今、祖を奉って天に配し、また祖を奉って社に配する。これは礼官の過失である。皇祖の旧制に改めて従うべきであり、太社は句龍を配し、太稷は后稷を配すべきである。」乃ち社稷壇の配位の礼を更正し、太廟および社稷に告げ、遂に二配位の神牌を寢廟に蔵し、更に八拝の礼を行うことを定めた。その壇が西苑の豳風亭の西にあるものを帝社稷と称した。東が帝社、西が帝稷で、いずれも北向きであった。初めは西苑土穀壇と名付けた。嘉靖十年、帝は土穀壇もまた社稷であるのに、どうして太社稷と区別するのかと言った。張璁らが言うには、「古、天子は王と称した。今もし王社・王稷と称すれば、王府の社稷と名が同じになる。以前に定めた神牌は五土穀之神と称し、名義は至極妥当である。」帝は帝耤の意義を採り、帝社・帝稷と改め、上戊の翌日に祭祀を行った。後に次戊に改めたが、次戊が望(十五日)の後になる場合は、なお上巳を用いた。春に告げ秋に報いることを定制とした。隆慶元年、礼部が言うには、「帝社稷の名は、古来存在せず、煩瑣であることを嫌うべきであり、廃止すべきである。」これに従った。

中都にもまた太社壇があり、洪武四年に建てられた。五方の土を取って築いた。直隸・河南は黄土を、浙江・福建・広東・広西は赤土を、江西・湖広・陝西は白土を、山東は青土を、北平は黒土を進めた。天下の府県千三百余城、各々土百斤を、名山の高爽な地より取った。

王国の社稷は、洪武四年に定められた。十一年、礼臣が言うには、「太社稷が既に同壇合祭であるので、王国の各府・州・県もまた同壇とし、国社国稷の神と称し、配位を設けるべきではない。」詔して可とした。十三年九月、再び両壇一壝の制を当初の様式の如く定めた。十八年、王国が社稷山川等を祭る儀礼を定め、十二拝の礼を行った。

府州県の社稷は、洪武元年に天下の郡邑に壇制を頒布し、いずれも本城の西北に設置し、右が社、左が稷とした。十一年、京師と同じく同壇合祭と定めた。献官は守禦武臣を初献とし、文官を亜献・終献とした。十三年、溧水県が社稷を祭るに、牛醢をもって鹿醢に代えた。礼部が言うには、「定制では、祭物が欠けるものは他の物で代えることを許す」と。帝は言った、「いわゆる欠けるとは、その土地の産出でないものをいう。溧水にはもとより鹿がいる。これは有司が故意に苟且簡略にしたのである。百官がその職務を処理し民事を尽くせるのは、常に敬懼の心を存するからである。神すらおろそかにするなら、人事に対してまた何を懼れようか」と。律に照らして論ずるよう命じた。そこで礼部に勅して天下の郡邑に下し、凡そ祭祀には必ず物を備え、もし地産でなく、市鬻する由もないものは、その欠けることを聴すとした。十四年、三献はいずれも文職長官とし、武官は参与させないと令した。

里社は、毎里百戸ごとに壇一所を立て、五土五穀の神を祀る。

朝日夕月

洪武三年、礼部が言うには、

古より日月を祀る礼に六つがある。《郊特牲》に曰く、「郊の祭は、天を大いに報いて日を主とし、月を以て配す」、これが一である。《玉藻》に曰く、「東門の外に日に翰す」、《祭義》に曰く、「東郊に日を祭り、西郊に月を祭る」、これが二である。《小宗伯》に「四郊に類を肆し、東郊に日を兆し、西郊に月を兆す」、これが三である。《月令》に、孟冬「天宗に来年を祈る」、天宗は日月の類、これが四である。《覲礼》に「東門の外に日に拝し、方明を祀るに反し、南門の外に日を礼し、北門の外に月を礼す」、これが五である。「霜雪風雨の時ならざれば、則ち日月を禜す」、これが六である。説く者は、郊祀に因ってこれを祀るは、正祀にあらずという。類禜してこれを祀る、及び諸侯を覲してこれを礼するは、常祀にあらずという。ただ春分に東門外でこれを朝し、秋分に西門外でこれを夕するものは、祀りの正と常である。蓋し天地は至って尊い故に、その始めを用いて二至に祭り、日月は天地に次ぐ。春分は陽気方に永く、秋分は陰気向かって長ず、故に二分に祭って、陰陽の義を得るという。秦より八神を祭り、六は月主、七は日主とし、雍にはまた日月廟があった。漢は太乙を郊祀し、朝日夕月は周の法を改めた。常に泰畤を郊祀し、質明に出でて行宮し、東に向かって日を揖し、西に向かって月を揖し、また殿下で東西に日月を拝した。宣帝は神山で日を祠り、萊山で月を祠った。魏の明帝が初めて東郊で日を朝し、西郊で月を夕した。唐は二分の日に、国城の東西で朝日夕月した。宋人はこれに因り、大祀に昇格した。元は郊壇で日月を従祀し、その二分の朝日夕月は、皇慶中に建立を議したが行われなかった。今、古を稽えて正祭の礼とし、各々壇を設けて専祀すべきである。朝日壇は城東門外に築くべく、夕月壇は城西門外に築くべし。朝日は春分とし、夕月は秋分とする。星辰は則ち月壇に祔祭すべし。〓これに従った。その祀儀は社稷と同じである。二十一年、帝は大明・夜明が既に従祀しているとして、朝日夕月の祭を廃した。嘉靖九年、帝は「天を大いに報いて日を主とし、月を以て配す。大明壇は夜明壇と異なるべきである。かつ日月の照臨する功は甚だ大きい。太歳等の神は歳に二祭あるに、日月星辰はただ一の従祭に止まるは、義として安からず」と言った。大学士張璁もまたこれを缺典と認めた。そこで春秋分の祭を旧儀の如く定額とし、朝日壇を朝陽門外に建てて西向きとし、夕月壇を阜城門外に建てて東向きとした。壇制に隆殺を設けて区別を示した。朝日は護壇地百畝、夕月は護壇地三十六畝。朝日には従祀なく、夕月は五星・二十八宿・周天星辰を共に一壇とし、南向きに祔せしめた。春祭は時に寅とし、日の出を迎えるためである。秋祭は時に亥とし、月の出を迎えるためである。十年、礼部が朝日・夕月の儀を上奏した。朝日は迎神四拝、飲福受胙両拝、送神四拝。夕月は迎神・飲福受胙・送神いずれも再拝。その他は並びに旧儀の如し。隆慶元年、礼部が議定し、東郊は甲・丙・戊・庚・壬年、西郊は丑・辰・未・戌年に、車駕親祭とする。その他の年は文大臣を遣わして朝日壇を摂祭し、武大臣を遣わして夕月壇を摂祭する。三年、礼部が朝日の儀を上奏し言うには、「正祭で風雨に遇えば、則ち壇前に小次を設け、駕は小次に就いて行礼する。その昇降奠献は、いずれも太常寺執事官に代行させる」と。制して曰く「可」と。

先農

洪武元年、廷臣に諭して来春耤田の礼を行わしめんとした。ここにおいて礼官銭用壬らが言うには、「漢の鄭玄は王社は耤田の中にあるという。唐の祝欽明は『先農は即ち社である』という。宋の陳祥道は『社は自ら社、先農は自ら先農である。耤田の祭る所は先農であって、社ではない』という。先農を享け躬耕と同日にするに至っては、礼に明文なく、ただ《周語》に曰く『農正耤礼を陳ぶ』と。韋昭の注に云う『その神を祭り農を祈るなり』と。漢に至り耤田の日に先農を祀り、その礼始めて著わる。晋より唐・宋に至るまで相沿って廃さず。政和の間、有司に先農を享けしめ、親耕の礼のみ行う。南渡後、再び親祀した。元は耕耤を議したが、ついに親行せず。その先農を祀るは、有司に摂事を命じた。今、耕耤の日に、皇帝躬ら先農を祀り、礼畢、躬ら耤田を耕すことを議す。仲春に日を択びて事を行うべし」と。これに従った。

二年二月、帝は先農壇を南郊に建て、耤田の北に在った。親祭し、后稷を配した。器物祀儀は社稷と同じである。祀畢、耕耤の礼を行った。御耒耜二具、青絹を以て韜み、御耕牛四頭、青衣を被せた。礼畢、大次に還った。応天府尹及び上元・江寧両県令が庶人を率いて畝を終わらせた。この日、壇所で百官耆老を宴労した。十年二月、官を遣わして先農を享け、応天府官に農民耆老を率いさせて陪祀せしめた。二十一年、先農を祭る儀を更定し、配位を設けなかった。

永楽中、京師に壇を建て、南京の制の如くし、太歳壇の西南に在った。石階九級。西に瘞位、東に斎宮・鑾駕庫、東北に神倉、東南に具服殿、殿前は観耕の所である。護壇地六百畝、黍稷及び新品物を薦める地九十余畝。毎歳仲春上戊、順天府尹が致祭した。後に凡そ登極の初めに遇えば、耕耤の礼を行い、則ち親祭した。

弘治元年、耕耤儀を定む。前日に百官斎戒す。順天府官は耒耜及び穜AL種を進呈し、内官はなお捧げ出でてこれを授け、午門の左より出づ。彩輿を置き、鼓楽し、耤田の所に送る。期日に至り、帝は翼善冠黄袍を着し、壇所の具服殿に詣で、袞冕を服し、先農を祭る。畢りて還り、翼善冠黄袍に更む。太常卿導引して耕耤位に至らしめ、南向に立つ。三公以下各々位に就く。戸部尚書は北向に跪きて耒耜を進め、順天府官は北向に跪きて鞭を進む。帝は耒を執り、三推三反を終へ、戸部尚書は跪きて耒耜を受け、順天府官は跪きて鞭を受け、太常卿は復位を奏請す。府尹は青箱を挟みて種子を播き覆ふ。帝は外門に御し、南向に坐し、三公の五推、尚書九卿の九推を観る。太常卿は耕畢を奏す。帝は具服殿に還り、座に升る。府尹は両県令耆老を率ひて礼を行ひ畢り、上中下の農夫各十人を引き、農器を執りて朝見し、其の畝を終へしむ。百官慶賀の礼を行ひ、酒饌を賜ふ。三品以上は丹陛上東西に坐し、四品以下は臺下に坐し、並びに耆老を壇旁に宴労す。宴畢りて、駕還宮す。大楽鼓吹振作し、農夫人に布一匹を賜ふ。

嘉靖十年、帝は其の礼の過ぎて煩はしきを以て、礼官に命じて更定せしむ。迎神送神は二拝のみ行ふ。先二日、順天府尹は耒耜穜AL種を彩輿に置き、耕耤所に至り、百官の慶賀を並びに罷む。後また耕根車を造りて耒耜を載せ、府尹は祭日に進呈畢り、耒耜を車内に載せ前の玉輅を行はしむるを議す。其の御門観耕は地位卑下なり、観耕臺一を建つるを議す。詔して皆可とす。後また西苑の隙地を墾きて田とす。殿を建てて無逸と曰ひ、亭を豳風と曰ひ、又省耕と曰ひ、省斂と曰ひ、倉を恆裕と曰ふ。礼部は郊廟粢盛支給の数を上り、因りて言ふ、「南郊の耤田は、皇上三推し、公卿各々其の力を宣べ、西苑に較べて重し。西苑は農官督理すと雖も、皇上時に耕斂を省み、耤田に較べて勤し。請ふらくは、耤田の出づる所を以て、南郊の圓廩神倉に蔵め、以て圜丘・祈谷・先農・神祇壇・長陵等の陵・歴代帝王及び百神の祀に供すべし。西苑の出づる所を以て、恆裕倉に蔵め、以て方澤・朝日・夕月・太廟・世廟・太社稷・帝社稷・禘佩・先蠶及び先師孔子の祀に供すべし」と。之に従ふ。十六年、諭して凡そ親耕に遇ふれば、則ち戸部尚書先づ先農を祭る。皇帝至れば、止めて三推の礼を行ふ。三十八年、親耕を罷め、惟だ官を遣はして先農を祭らしむ。四十一年、並びに司をして復た奏する勿からしむ。隆慶元年、西苑耕種の諸祀を罷め、皆耤田に之を取る。

○先蠶

明初は未だ祀典に列せず。嘉靖の時、都給事中夏言は各宮の莊田を親蠶廠公桑園に改むるを請ふ。司をして桑柘を種へしめ、以て宮中の蠶事に備へしむ。九年、復た疏を上りて言ふ、耕蠶の礼は、偏廩すべからずと。帝乃ち礼部に敕す、「古へは天子親耕し、皇后親蠶し、以て天下を勧む。今歳より始め、朕親しく先農を祀り、皇后親しく蠶すべし。其れ古制を考へ、儀を具して以て聞かしめよ」と。大学士張璁等は安定門外に先蠶壇を建つるを請ふ。詹事霍韜は道遠きを以て之を爭ふ。戸部も亦言ふ、「安定門外近西の地は、水源通ぜず、蠶を浴する所無し。皇城内西苑の中に太液・瓊島の水有り。唐制を考ふるに苑中に在り、宋も亦宮中に在り、宜しく之に倣ひて行ふべし」と。帝は唐人陋に因りて安んずるを謂ひ、法とすべからずと。是に於て礼部尚書李時等言ふ、「大明門より安定門に至るは、道路遙遠なり。請ふらくは鳳輦をして東華・玄武の二門より出でしむ」と。因りて四事を條上す。一、繭を治むるの礼、二、壇壝の向、三、桑を採るの器、四、壇を掌るの官。帝其の言に従ひ、玄武門より出づるを命ず。内使儀衛を陳べ、軍一万人、五千は壇所を圍み、五千は道に護り、餘は議の如し。

二月、工部は先蠶壇の圖式を上る。帝親しく其の制を定む。壇は方二丈六尺、二級を疊み、高さ二尺六寸、四出陛す。東西北は俱に桑柘を樹つ。内に蠶宮令署を設く。採桑臺は高さ一尺四寸、方十倍、三出陛す。鑾駕庫五間。後に織堂を蓋ふ。壇圍は方八十丈。礼部は皇后親蠶の儀を上る。蠶将に生ぜんとするに、欽天監は吉巳の日を擇びて以て聞かしむ。順天府は蠶母の名數を具へて北郊に送り、工部は鉤箔筐架諸の器物を以て蠶母に給す。順天府は蠶種及び鉤筐一を進呈し、内官は捧げ出で、還りて之を授く。玄武右門を出で、彩輿中に置き、鼓樂して蠶室に送る。蠶母は蠶種を受け、浴飼して以て待つ。命婦文四品・武三品以上は俱に陪祀し、侍女一人を携へて鉤筐を執らしむ。皇后は三日齋し、内執事並びに司贊・六尚等の女官及び壇に入るべき者は一日齋す。先一日、太常寺は祝版・祭物・羊・豕・籩豆各六・黒帛を具へ、蠶宮令に送る。是の日、分ちて執事の女官に授く。日未だ明けず。宿衛は兵備を陳べ、女樂司設監は儀仗及び重翟車を備へ、俱に玄武門外に候す。将に明けんとするに、内侍は坤寧宮に詣でて奏請す。皇后は常服を服し、導引の女官導きて宮門を出で、肩輿に乗り、玄武門に至る。内侍は降輿を奏請し、重翟車に升る。兵衛儀仗及び女樂前導し、北安門を出で、行帷を以て障ひ、壇内壝の東門に至る。内侍は降車を奏請し、肩輿に乗る。兵衛・儀仗は東門外に停る。皇后は具服殿に入り、禮服に易へ、出でて壇に至る。司贊は位に就くを奏す。公主・内外の命婦は各々拝位に就く。先蠶を祭り、三献の礼を行ふ。女官執事は儀の如し。迎神四拝、福胙を賜ふに二拝、送神四拝す。凡そ拝跪興するに、公主・内外の命婦は皆同じ。礼畢りて、皇后は具服殿に還り、常服に更む。司賓は外命婦を引き先づ採桑壇の東陛の下に詣らしめ、南北に向ふ。尚儀は奏請し、皇后は採桑位に詣り、東に向ふ。公主以下は皇后の位の東に位し、亦南北に向ひ、西を以て上とす。鉤を執る者は跪きて鉤を進め、筐を執る者は跪きて筐を奉じ桑を受く。皇后は桑を三条採り、還りて壇南の儀門に至り坐し、命婦の桑を採るを観る。三公の命婦は五条を採り、列侯・九卿の命婦は九条を採る。畢りて、各々女侍に授く。司賓は内命婦一人を引き、桑室に詣らしめ、尚功は鉤筐を執る者を率ひて従ふ。尚功は桑を以て蠶母に授く。蠶母は桑を受け、縷切し、以て内命婦に授く。内命婦は蠶に食はしめ、一箔を灑ぎ畢りて還る。尚儀は礼畢を奏す。皇后は還りて具服殿に坐す。司賓は蠶母等を率ひて叩頭畢りて、司贊は班齊を唱ふ。外名婦は序立定まり、尚儀は詞を致して云ふ、「親蠶既に成れり、礼當に慶賀すべし」と。四拝畢りて、命婦に宴を賜ひ、並びに蠶母に酒食を賜ふ。公主及び内命婦は殿内に、外命婦文武二品以上は臺上に、三品以下は丹墀に、尚食は膳を進む。教坊司の女樂は樂を奏す。宴畢りて、公主以下は各々班に就き四拝す。礼畢りて、皇后は宮に還り、導從前にす。詔して擬の如し。

四月、養蚕の事が成り、治繭の礼を行う。蚕婦で繅絲及び織物に巧みな者を各十人選ぶ。日を卜し、皇后宮を出て、導従は常の儀の如く、織堂に至る。内命婦一人が三盆手の礼を行い、織婦に布きて、以て其の事を終える。蚕宮令は尚衣織染監局に送り祭服を造らせ、其の先蚕を祀るには、楽を用いるのみとし、舞を用いず、楽女生の冠服は俱に黒を用いる。

十年二月、礼臣言う、「去歳皇后躬ら採桑を行い、既に天下を風励するに足りたり。今先蚕壇殿の工未だ畢らず、宜しく且つ官を遣わして礼を行わしむべし」と。帝初めは不可とし、旧の如く行うべしと令す。已にして皇后の出入不便なるを以て、先蚕壇を西苑に改めて築くを命ず。壇の東を採桑臺と為し、臺の東を具服殿と為し、北を蚕室と為し、左右を廂房と為し、其の後を従室と為し、以て蚕婦を居らしむ。蚕宮署を宮の左に設け、令一員、丞二員、内臣謹恪なる者を択びて之を為さしむ。四月、皇后内苑に親蚕の礼を行う。帝、親耕に賀無きを謂い、此れ安んぞ賀を得ん、第に叩頭の礼を行い、女楽は第に宴に供し、前導すべからずと。三十八年に罷め、親蚕の礼を行う。四十一年、並びに罷む所司の奏請。

高禖

嘉靖九年、青州の儒生李時颺、高禖を祠りて以て聖嗣を祈らんことを請う。礼官覆して以て聞く。帝曰く、「高禖は古礼と雖も、今実に行い難し」と。遂に其の議を寢す。已にして高禖を祀る礼を定む。木臺を皇城東、永安門の北、震方に設く。臺上、皇天上帝南向、騂犢、蒼壁。献皇帝配し、西向、牛羊豕各一。高禖は壇下に在りて西向、牲数之の如し、礼三献。皇帝位は壇下に在りて北向、后妃の位は南数十丈外に在りて北向、帷を用う。壇下に弓矢、弓韣を陳ぶること后妃嬪の数の如し。祭畢りて、女官后妃嬪を導きて高禖の前に至らしめ、跪きて弓矢を取りて后妃嬪に授け、后妃嬪受けて之を弓韣に納む。

祭告

明の制、凡そ登極、巡幸及び上諡、葬陵、冊立、冊封、冠婚等の事有れば、皆天地、宗廟、社稷に祭告す。凡そ宮室を営造し、及び将を命じて師を出すに、歳時旱潦有れば、天地、山川、太廟、社稷、后土に祭告す。凡そ即位の初め、並びに闕里の孔廟及び歴代帝王の陵寢に祭告す。

洪武二年、礼部尚書崔亮奏す、圜丘、方丘、大祀、前期に親ら太廟に告げ、仍って使を遣わして百神に告げしむるは天下の神祇壇に於いてすと。六年、礼部尚書牛諒奏す、太歳諸神、凡そ祈報有れば、則ち一十五壇を設け、事有りて祭告するは、則ち神位二十八壇を設く。中、太歳、風雲雷雨、五嶽、五鎮、四海、凡そ五壇。東、四瀆、京畿、湖広、山東、河南、北平、広西、四川、甘肅の山川、夏冬二季の月将、京都城隍、凡そ十二壇。西、鐘山、江西、浙江、福建、山西、広東、遼東の山川、春秋二季の月将、旗纛、戦船等の神、凡そ十一壇。若し親祀せば、皇帝皮弁服にて一献の礼を行い、毎に三壇ごとに一回の礼を行う。八年、帝中都に駐蹕し、天地に祭告すること中都の圜丘に於いてす。九年、諸王将に籓に之かんとするを以て、日を分かちて太廟、社稷、嶽鎮海瀆及び天下の名山大川に告祭し、復た天地に告祀すること圜丘に於いてす。初め、諸王朝に来たりて還り籓するに、真武等の神を端門に祭り、豕九、羊九、制帛等の物を用い、護衛旗纛を承天門に祭るも、亦た之の如し。二十六年、帝其の礼の太だ繁きを以て、制を定めて豕一、羊一とし、帛を用いず。尋いで又た端門の祭を罷め、惟だ葷素二壇を用いて承天門外に祭る。

永楽七年、北京に巡狩し、天地、宗廟、社稷に祭告す。嘉靖八年秋、躬ら山川諸神を祭るを以て、先期必ずしも官を遣わして太廟に告げしむるに及ばずと命ず。凡そ出入有れば、必ず内殿に祖考に親告す。聖誕の前一日、酒果を以て列聖帝后に奉先殿に告げ、至日に、酒脯を以て皇天上帝に玄極宝殿に告げ、官を遣わして牲醴を以て神烈、天寿、純德諸陵山及び東嶽、都城隍を祭り、素羞を以て真武及び霊済宮を祭り、又た修斎を道極七宝帝尊に告ぐ。隆慶三年、親ら朝日壇を祭るを以て、予め奉先、弘孝、神霄殿に告ぐ。

祈報

洪武二年、太祖春久しく雨無きを以て、諸神祇に祈告す。中に風雲雷雨、嶽鎮海瀆を設け、凡そ五壇。東に鐘山、両淮、江西、両広、海南北、山東、燕南燕薊の山川、旗纛諸神を設け、凡そ七壇。西に江東、両浙、福建、湖広荊襄、河南北、河東、華州の山川、京都城隍を設け、凡そ六壇。中の五壇に帛を奠む。初献、帝親ら礼を行い、両廡は官を命じて分献せしむ。三年夏、旱す。六月朔、帝素服草履にて、歩みて山川壇に禱る。藁席に露坐し、昼は日に曝し、夜は地に臥し、凡そ三日。六年、礼部尚書牛諒の言に従い、太歳諸神、春に祈り秋に報ゆ、凡そ十五壇。中、太歳、風雲雷雨、五嶽、五鎮、四海。東、四瀆、京畿山川、春秋二季の月将、京都各府城隍。西、鐘山、甘肅山川、夏冬二季の月将、旗纛戦船等の神。各五壇。時に甘肅新たに附す、故に其の山川の祭を京師に附す。其の親祀の儀は祭告と同し。正統九年三月、雨雪期に愆り、官を遣わして天地、社稷、太歳、風雲雷雨、嶽鎮海瀆を祭る。弘治十七年、畿内、山東久しく旱し、官を命じて天寿山に祭告し、各巡撫を分命して北嶽、北鎮、東嶽、東鎮、東海に祭告せしむ。

嘉靖八年春、帝礼部に諭す、「去冬雪少なく、今東作に当たり、雨澤降らず、当に親ら南郊の社稷、山川を祭るべし」と。尚書方献夫等言う、「『周礼・大宗伯』に『荒礼を以て兇札を哀しむ』と。釈する者謂う、『君膳挙げず、馳道除かず、祭事県けず、皆以て貶損の意を示す所以なり』と。又た曰く、『国に大故有れば、則ち上帝及び四望に旅す』と。釈する者曰く、『故とは兇災を謂う。旅は陳なり、其の祭祀を陳べて以て禱るなり、礼は祀の備わるに若かざるなり』と。今陛下万姓の労を閔み、親ら出でて祈祷せんとす。礼儀務めて簡約にし、以て天戒に答うべし。常朝官並びに従い、同しく省愆祈籲の誠を致すべし」と。随って儀注を具えて上る。二月、親ら南郊に禱り、山川は同日、社稷は次日を用い、道を除かず、冠服浅色、羣臣同じ。文五品、武四品以上は大祀門外に、余の官は南天門外に、班に就きて陪祀す。是の秋、帝親ら山川諸神を祀らんと欲す。礼部尚書李時言う、「旧例山川等の祭は、中夜に礼を行い、先一日郊に出でて斎宿す。祭畢りて、清晨鑾を迴し、両日にて事畢る、礼重きに過ぐ。宜しく先農壇の例に比し、昧爽に礼を行うべし」と。因りて儀を具えて進む。制可す。祭服に皮弁を用い、迎神、送神各両拝。

十一年、大学士李時らは聖嗣(皇子)が未だ降誕せずとし、廷臣をして嶽鎮名山に詣でて祝祷せしめることを請うた。帝は道士を分遣して香帛を齎し行かせ、所在の守臣に礼を行わせ、在廷の大臣には地祇壇に分詣して祈告せしめようとした。ここにおいて礼部尚書夏言が言上した。「我が朝は地祇壇を建て、嶽鎮海瀆より遠近の名山大川に至るまで、ことごとく懐柔しており、これにて祈祷するは、正に古人の望衍の義に叶う。但し輔臣の請うところは、嶽鎮に止まる。窃かに思うに山川海瀆は、発祥し霊を効し、嶽鎮と功を同じくし、況んや基運、翊聖、神烈、天寿、純徳の諸山は、また祖宗の霊を安んずる地なり。祈祷の礼は、皆欠くべからず。」遂に命じて大臣を壇に詣でさせ分祀せしめた。

○神祇壇

洪武二年、礼部尚書崔亮の言に従い、天下神祇壇を円丘壝外の東、及び方丘壝外の西に建てた。郊祀の前期、帝はみずから壇に詣で、神位を設け、西向きに、酒脯をもって祭告した。郊祀の日、分献従祀が将に畢らんとするを俟ち、壇に就いて祭った。後に定めて官を遣わし予告せしめた。また山川壇を正陽門外天地壇の西に建て、諸神を合祀した。凡そ壇を十九設け、太歳、春夏秋冬四季月将を第一とし、次に風雲雷雨、次に五嶽、次に五鎮、次に四海、次に四瀆、次に京都鐘山、次に江東、次に江西、次に湖広、次に淮東、淮西、次に浙東、浙西、福建、次に広東、広西、海南、海北、次に山東、山西、河南、河北、次に北平、陝西、次に左江、右江、次に安南、高麗、占城諸国の山川、次に京都城隍、次に六纛大神、旗纛大将、五方旗神、戦船、金鼓、銃砲、弓弩、飛槍飛石、陣前陣後の諸神とし、皆躬自行礼した。祭に先立ち、礼官が奏上した。「祝文は、太歳以下四海に至るまで、凡そ五壇、臣と称する者は親しく御名を署す。その鐘山諸神、余と称する者は礼官に代署せしむることを請う。」帝曰く、「朋友の書牘すら尚お親しく姓名を題す。況んや神明においてをや。」遂に親署を加えた。後にまた定めて、驚蟄、秋分の後三日、官を遣わして山川壇の諸神を祭らせた。七年、春、秋の仲月上旬、日を択びて以て祭ることを令した。九年、復た山川壇の制を定め、凡そ十三壇とした。正殿は、太歳、風雲雷雨、五嶽、五鎮、四海、四瀆、鐘山の七壇。東西廡各三壇、東は、京畿山川、夏冬二季月将。西は、春秋二季月将、京都城隍。十年、正殿七壇を定め、帝は親しく行礼し、東西廡は功臣を遣わし分献せしめた。二十一年、大祀殿の諸神壇壝を増修した。乃ち勅して十三壇の諸神並びに春祭を停め、毎歳八月中旬、日を択びてこれを祭らしめた。礼部に命じて山川壇の祭儀を更定せしめ、社稷と同様とした。永楽中、京師に山川壇を建て、南京の制と同じくし、ただ正殿鐘山の右に、天寿山の神を益す。嘉靖十一年、山川壇の名を天神地祇壇と改め、雲師、雨師、風伯、雷師の序を改めた。天神壇は左に在り、南向き、雲、雨、雷、凡そ四壇。地祇壇は右に在り、北向き、五嶽、五鎮、基運翊聖神烈天寿純徳の五陵山、四海、四瀆、凡そ五壇。従祀は、京畿山川、西向き;天下山川、東向き。辰、戌、丑、未の年の仲秋、皇帝親祭し、余の年は大臣を遣わし摂祭せしめた。その太歳、月将、旗纛、城隍は、別にこれを祀った。十七年、皇天上帝の尊称を加え、神祇に予告し、遂に壇を圜丘外壝の東南に設け、親しく神祇壇の位を定め、陳設の儀式を定めた。礼部が言う。「皇上が親しく大明壇に献ずれば、則ち四壇の分献諸臣は、並列することを敢えず。請う、先ず上香畢りて、官を命じて代献せしむ。」帝が裁定し、上香、奠帛、献爵復位の後、分献官方まさに行礼す。亜、終の二献は、執事官が代わり、余の壇は俱に献官三行す。隆慶元年、礼臣が言う。「天神地祇は已に南北郊に従祀す。その仲秋の神祇の祭は復た挙ぐべからず。」令してこれを罷めしめた。

○星辰壇

洪武三年、帝は中書省の臣に謂いて曰く、「日月は皆専壇に祭る。而して星辰は乃ち月壇に祔祭す。礼に非ず。」礼部は城南の諸神享祭壇の正南向きに、九間を増し、朝日夕月に周天の星辰を祭り、俱に是に於て行礼すべしと擬す。朝日夕月は仍た春秋分に祭り、星辰は則ち天寿節の前三日とす。これに従う。四年九月、帝は躬ら周天星辰を祀る。正殿共に十壇、中に周天星辰の位を設け、儀は朝日の如し。二十一年、星辰は既に南郊に従祀するを以て、禜星の祭を罷む。

○霊星諸神

洪武元年、太常司が奏す。「《周礼》『ゆえに〓〓りょうを以て司中、司命、風師、雨師を祀る』。《天府》『し天を祭らば則ち司民、司祿を祀り、而して民数、穀数を献じ、受けて之を蔵す。』漢の高帝は郡国に命じて霊星祠を立つ。唐の制、立秋後辰の日に霊星を祀り、立冬後亥の日に官を遣わし司中、司命、司民、司祿を祀り、少牢を以てす。宋の祀りは唐の如く、而して秋分の日に寿星を祀る。今は唐の制の如く、日を分かちて祀り、壇を城南に為さんことを擬す。」これに従う。二年、礼部尚書崔亮の奏に従い、毎歳聖寿日に寿星を祭り、同日に司中、司命、司民、司祿を祭り、民と同しく其の福を受くるを示す。八月の望日に霊星を祀る。皆官を遣わし行礼す。三年、寿星等の祀を罷む。

○太歳月将風雲雷雨の祀

古は太歳、月将の壇宇の制無く、明に始めて其の祭を重んず。雲師を風師の次に増すも、亦た明に始まる。太祖は既に太歳諸神を以て圜丘に従祀し、又た群祀壇を合祭す。已にして礼官に命じて専祀の壇壝を議せしむ。礼臣言う。「太歳とは、十二辰の神なり。按ずるに《説文》、歳の字は歩に従い戌に従う。木星は一歳に一次を行き、十二辰を歴て周天す、歩むが若し。陰陽家の説に、又た十二月将、十日十二時の所直の神有り、天乙、天罡、太乙、功曹、太沖の類の若し。経に見えざるも、歴代之に因る。元は毎に大興作有れば、太歳、月将、日直、時直を太史院に祭る。若し風師、雨師の祀は、《周官》に見え、後世皆祭り有り。唐の天宝中、雷師を雨師の次に増す。宋、元之に因る。然れども唐の制は各時に別祭し、享祀の本意を失う。宜しく太歳、風雲雷雨の諸天神を合して一壇と為し、諸地祇を一壇と為し、春秋に専祀すべし。」乃ち定めて、驚蟄、秋分の日に太歳諸神を城南に祀る。三年後、諸神は陰陽一気、流行して間無きを以て、乃ち二壇を合して一と為し、而して四季月将を増す。又た祭期を改め、地祇と俱に驚蟄、秋分の後三日を用う。

嘉靖十年、礼部に太歳壇の制度を考証するよう命じた。礼官が言うには、「太歳の神は、唐・宋の祀典には載っておらず、元では祭祀があったが、常典ではなかった。壇宇の制度は、古来より根拠がない。太歳は天神であるから、壇を設けて露天で祭祀すべきであり、社稷壇の制度を基準としつつやや小さくするのがよい」。これに従った。そこで正陽門外の西に太歳壇を建て、天壇と向かい合わせた。中央に太歳殿。東廡に春・秋の月将二壇。西廡に夏・冬の月将二壇。帝は拝殿において親祭した。毎年孟春に宗廟を享け、歳暮の祫祭の日に、官を遣わして祭祀を行わせた。王国・府・州・県も風雲雷雨師を祀り、やはり城の西南に壇を築いた。祭祀は驚蟄・秋分の日に行った。

○嶽鎮海瀆山川の祭祀

洪武二年、太祖は、嶽瀆の諸神を城南で合祭しており、専用の祭祀がなく、また享祀の場所が屋根付きで壇でないのは、神を尊ぶ道ではないと考えた。礼官が言うには、「虞舜は四嶽を祭り、《王制》に初めて五嶽の称がある。《周官》に『四望を四郊に兆す』とあり、《鄭注》は四望を五嶽・四鎮・四瀆とする。《詩序》に巡狩して四嶽河海を礼すとあり、さらに四海の祭祀もある。およそ天子の方望の事は、通じないものはない。そして嶽鎮海瀆は、諸侯の封内にあれば、それぞれこれを祀る。封建を廃止すると、嶽瀆は皆祠官の管轄となった。漢で再び諸侯を建てると、侯国はそれぞれその封内の山川を祀り、天子は関与しなかった。武帝の時、諸侯が分割・廃止され、五嶽は皆天子の邦内となった。宣帝の時、初めて使者に節を持たせて嶽瀆を祠る礼があった。魏から隋にかけて、嶽鎮海瀆はその地に祠を立て、有司が祭祀を行った。唐・宋の制度では、本界の刺史・県令に命じて祀らせる祭祀、郊祀に因って望祭する祭祀、また使者を遣わす祭祀があった。元は使者を遣わして嶽鎮海瀆を祀り、東西南北中を五道に分けた。今は、嶽鎮海瀆及び天下の山川・城隍などの地祇を一つの壇に合わせ、天神と同等とし、春秋に専用の祭祀を行うのがよい」。そこで祭祀の日を清明・霜降と定めた。前日の一日、皇帝は自ら犠牲を検分した。当日、通天冠・絳紗袍を着用し、嶽鎮海瀆の前に行き、三献の礼を行った。山川・城隍は、分献官が礼を行った。この年、官十八人を命じ、天下の嶽鎮海瀆の神を祭らせた。帝は皮弁を着て奉天殿に臨み、自ら御名を署し、香と祝文を使者に授けた。百官は公服を着て中書省まで送り、使者はこれを持って行った。黄金の合に香を貯め、黄綺の幡二つ、白金二十五両で祭物を購入した。

三年、詔して嶽鎮海瀆の神号を定めた。おおよそ次の通り。「治を行う道は、必ず礼に基づく。嶽鎮海瀆の封号は、唐・宋に始まる。英霊の気は集まって神となり、必ず上帝より命を受けるものであり、どうして国家の封号を加えることができようか。礼を乱して経典に合わぬことは、これ以上ない。今、古制に依って定め、前代の封じた名号を全て除く。五嶽は、東嶽泰山の神、南嶽衡山の神、中嶽嵩山の神、西嶽華山の神、北嶽恆山の神と称する。五鎮は、東鎮沂山の神、南鎮會稽山の神、中鎮霍山の神、西鎮吳山の神、北鎮醫無閭山の神と称する。四海は、東海の神、南海の神、西海の神、北海の神と称する。四瀆は、東瀆大淮の神、南瀆大江の神、西瀆大河の神、北瀆大濟の神と称する」。帝は自ら祝文に署名し、官を遣わして更定した神号を告げ祭祀させた。六年、礼官が言うには、「四川が平定されていなかったので、峡州で江瀆を望祭した。今、しょくは既に平定されたので、南瀆に人を遣わして祭祀を行うべきである」。これに従った。十年、官十八人を命じ分けて嶽鎮海瀆を祀らせ、制書を賜った。

萬曆十四年、巡撫胡來貢が北嶽の祭祀を渾源州に改めるよう請うた。礼官が言うには、「《大明集礼》には、漢・唐・宋の北嶽の祭祀は皆定州曲陽県にあり、史書と全て合致する。渾源を北嶽と称することは、州志や碑文にのみ見え、経伝には考証すべきものがない。やはり曲陽で祀るのが正しい」。

その他の山川の祭祀。洪武元年、帝は自ら汴梁の諸神を祀り、また官を遣わして境内の山川を祭らせた。二年、天下の山川を嶽瀆壇に合祀させた。帝はまた、安南・高麗が共に臣従したので、その国内の山川は中国と同様に祭るべきと考え、中書及び礼官に考証させた。安南の山二十一、その江六、その水六。高麗の山三、その水四。祀典に記載し、位を設けて祭祀するよう命じた。三年、使者を安南・高麗・占城に遣わし、その国の山川を祀らせた。帝は斎戒し、自ら祝文を作った。また官を遣わして、山川の神号を革正する詔を安南・占城・高麗に頒布した。六年、琉球などの国が既に朝貢したので、その国の山川を祀った。八年、礼部尚書牛諒が言うには、「京都で天下の山川の祭祀を廃止した以上、外国の山川も天子が自ら祀るべきではない」。中書及び礼臣が各省に附祭するよう請うたので、これに従った。広西は安南・占城・真臘・暹羅・鎖裏を附祭し、広東は三佛齊・爪哇を附祭し、福建は日本・琉球・渤泥を附祭し、遼東は高麗を附祭し、陝西は甘肅・朵甘・烏斯藏を附祭し、京城では再び祭祀しなかった。また礼官の言に従い、各省の山川は壇の中央南向きに、外国の山川は東西向きにし、同壇で共に祀った。その王国山川の祭祀は、洪武十三年に制度を定めた。十八年に王国の山川祭祀を定めた。儀礼は社稷と同じだが、瘞埋の文はない。凡そ嶽鎮海瀆及び他の山川の所在する地では、有司に年に二回祭祀させ、清明・霜降の日に行った。

○城隍

洪武二年、礼官が言うには、「城隍の祭祀は、その始まりが詳らかでない。先儒は、社があれば更に城隍があるべきではないと言う。故に唐の李陽冰の《縉雲城隍記》には『祀殿にはなく、ただ呉越にある』とある。しかし成都の城隍祠は李徳裕が建てたものであり、張説には城隍を祭る文があり、杜牧には黄州城隍を祭る文があるから、ただ呉越だけではない。また蕪湖の城隍廟は呉の赤烏二年に建てられ、高斉の慕容儼・梁の武陵王が城隍を祀ったことは、皆史書に記されており、またただ唐だけではない。宋以来その祠は天下に遍く、あるいは廟額を賜り、あるいは封爵を頒ち、あるいは至っては遷就傅会し、各々一人を指して神の姓名とした。張九齢の《祭洪州城隍文》に『城隍は是れ保ち、氓庶は是れ依る』とあるのを按ずるに、前代の崇祀の意があるのである。今は嶽瀆諸神の壇に附祭するのがよい」。そこで封爵を加えるよう命じた。京都は承天鑑国司民升福明霊王とし、開封・臨濠・太平・和州・滁州は皆王に封じた。その他の府は鑑察司民城隍威霊公とし、秩は正二品。州は鑑察司民城隍霊佑侯とし、秩は三品。県は鑑察司民城隍顕佑伯とし、秩は四品。袞章冕旒は皆差等があった。詞臣に命じて制文を撰ばせて頒布した。

三年、詔して封号を去り、ただその府州県城隍の神と称す。また各廟に他神を屏去せしむ。廟制を定め、高広は官署の庁堂に視る。木を造りて主とし、塑像を毀ちて水中に舁き置き、その泥を取って壁に塗り、雲山を以て絵す。六年、中都城隍神主の成れるを制し、官を遣わして香幣を齎し奉安す。京師の城隍は既に山川壇に附饗し、また二十一年に廟を改建す。尋いで大礼殿に従祀するを以て、山川壇の春祭を罷む。永楽中、都城の西に廟を建て、大威霊祠と曰う。嘉靖九年、山川壇の従祀を罷め、歳に仲秋の旗纛を祭る日を以て、並びに都城隍の神を祭る。凡そ聖誕節及び五月十一日の神誕には、皆太常寺堂上官を遣わして礼を行わしむ。国に大災あれば則ち廟に告ぐ。王国にある者は王親しくこれを祭り、各府州県にある者は守令これを主とす。