『周官』、『儀禮』は既に尊ばれているが、書は欠け簡は脱け、因革の詳細はない。漢史が『礼志』を作って以来、後世皆これに因り、一代の制度が初めて明らかに考証できるようになった。欧陽氏は言う、「三代以下、治は二つより出で、礼楽は虚名となる」と。要するに、その用いられる郊廟朝廷から、下って閭里州党に至るまで、観るべきものがないわけではない。ただよく修明講貫し、実意をもってその間に行えば、上下を格し、鬼神を感ずる教化の成ることは、即ちここにある。どうして後世の礼が必ずしも三代に追い及ばないと言えようか。
壇壝の制 神位祭器玉帛牲牢祝冊の数 籩豆の実
祭祀雑議諸儀 祭祀日期 習儀 齋戒 遣官祭祀
○分献陪祀
その王国の祀るところは、則ち太廟・社稷・風雲雷雨・封内山川・城隍・旗纛・五祀・厲壇である。府州県の祀るところは、則ち社稷・風雲雷雨・山川・厲壇・先師廟及び所在の帝王陵廟であり、各衛もまた先師を祭る。庶人に至っては、亦た里社・穀神及び祖父母・父母並びに竈を祀ることを得、祀典に載る。時に多少の更易はあれど、その大要はこれを逾えることはできない。
至るに壇壝の制、神位・祭器・玉帛・牲牢・祝冊の数、籩豆の実、酒斉の名、その彼此の異同を析し、その初終の損益を訂し、首簡に臚列し、本条には略し、遺漏なく、また繁復を免れんことを庶幾うのみである。
○壇壝の制
明初、圜丘を正陽門外、鐘山の陽に建て、方丘を太平門外、鐘山の陰に建つ。圜丘壇は二成。上成は広さ七丈、高さ八尺一寸、四出陛、各九級、正南は広さ九尺五寸、東・西・北は八尺一寸。下成は周囲の壇面、縦横皆広さ五丈、高さは上成に同じ、陛は皆九級、正南は広さ一丈二尺五寸、東・西・北は五寸五分減ず。甃磚闌楯は、皆琉璃をもってこれを作る。壝は壇を去ること十五丈、高さ八尺一寸、四面に霊星門、南は三門、東・西・北は各一。外垣は壝を去ること十五丈、門の制は同じ。天下神祇壇は東門外。神庫五楹は外垣の北にあり、南向。厨房五楹は外壇の東北にあり、西向。庫房五楹は南向。宰牲房三楹、天池一、また外庫房の北にある。執事斎舎は壇外垣の東南にある。坊二は外門外の横甬道の東西にあり、燎壇は内壝外の東南丙地にあり、高さ九尺、広さ七尺、上を開き南に出戸す。方丘壇は二成。上成は広さ六丈、高さ六尺、四出陛、南は一丈、東・西・北は八尺、皆八級。下成は四面各広さ二丈四尺、高さ六尺、四出陛、南は丈二尺、東・西・北は一丈、皆八級。壝は壇を去ること十五丈、高さ六尺、外垣は四面各六十四丈、余りの制は同じ。南郊に浴室あり、瘞坎は内壝外の壬地にある。
洪武四年、圜丘を改築す。上成は広さ四丈五尺、高さ五尺二寸。下成は毎面広さ一丈六尺五寸、高さ四尺九寸。二成の通径は七丈八尺。壇から内壝牆まで、四面各九丈八尺五寸。内壝牆から外壝牆まで、南は十三丈九尺四寸、北は十一丈、東・西は各十一丈七尺。方丘は、上成は広さ三丈九尺四寸、高さ三尺九寸。下成は毎面広さ丈五尺五寸、高さ三尺八寸、通径は七丈四寸。壇から内壝牆まで、四面皆八丈九尺五寸。内壝牆から外壝牆まで、四面各八丈二尺。
十年、合祀の典を改定す。即ち圜丘の旧制を以て、屋をもってこれを覆い、名づけて大祀殿と曰い、凡そ十二楹。中に石臺を設け上帝・皇地祇の座を置く。東・西は広さ三十二楹。正南の大祀門は六楹、歩廊を接ぎて殿廡に通ず。殿後の天庫は六楹。瓦は皆黄琉璃。厨庫は殿の東北にあり、宰牲亭井は厨の東北にあり、皆歩廊をもって殿の両廡に通じ、後に围墙を以て繚る。南に石門三洞ありて大祀門に達し、これを内壇と謂う。外周垣は九里三十歩、石門三洞の南に甬道三あり、中は神道、左は御道、右は王道。道の両旁は稍低く、従官の地と為す。斎宮は外垣内の西南にあり、東向。その後殿の瓦は青琉璃に易う。二十一年に壇壝を増修し、壇後に松柏を樹え、外壝の東南に池二十区を鑿つ。冬月に氷を伐り凌陰に蔵し、夏秋の祭祀の用に供す。成祖が都を北京に遷すや、その制の如し。
嘉靖九年、再び分祀に改めた。圜丘壇を正陽門外五里ばかりの地、大祀殿の南に建て、方澤壇を安定門外の東に建てた。圜丘は二成、壇面及び欄干は全て青琉璃とし、辺角は白玉石を用い、高さ広さの尺寸は皆祖制に遵い、而して神路は転じて遠し。内門四つ。南門外に燎炉毛血池、西南に望燎台あり。外門も亦四つ。南門外左に具服台、東門外に神庫・神厨・祭器庫・宰牲亭、北門外正北に泰神殿あり。正殿は以て上帝・太祖の主を蔵し、配殿は以て従祀諸神の王を蔵す。外に四天門を建つ:東は泰元と曰い、南は昭亨と曰い、西は広利と曰う。又西に鑾駕庫、又西に犠牲所、其の北に神楽観あり。北は成貞と曰う。北門外西北は齋宮と為り、迤西は壇門と為り、壇の北、旧天地壇、即ち大祀殿なり。十七年に之を撤し、又泰神殿を改めて皇穹宇と曰う。二十四年、又即ち故大祀殿の址に大享殿を建つ。方澤も亦二成、壇面は黄琉璃、陛は増して九級と為し、白石を用いて方坎を以て囲む。内、北門外西に瘞位、東に燈台、南門外に皇祇室あり。外、西門外迤西に神庫・神厨・宰牲亭・祭器庫、北門外西北に齋宮あり。又外に四天門を建て、西門外北は鑾駕庫・遣官房・内陪祀官房と為る。又外は壇門と為り、門外は泰折街牌坊、護壇の地千四百余畝。
太社稷壇は、宮城の西南に在り、東西に峙ち、明初に建つ。広五丈、高五尺、四出陛、皆五級。壇の土は五色其の方に随い、黄土を以て之を覆う。壇相去ること五丈、壇の南は皆松を樹う。二壇同一の壝、方広三十丈、高五尺、磚を甃き、四門の飾色其の方に随う。周坦四門、南霊星門三、北戟門五、東西戟門三。戟門各々戟二十四を列ぬ。洪武十年、壇を改めて午門の右にし、社稷共に一壇と為し、二成と為す。上成広五丈、下成広五丈三尺、崇さ五尺。外壝崇さ五尺、四面各十九丈有奇。外垣東西六十六丈有奇、南北八十六丈有奇。垣の北三門、門外は祭殿と為り、其の北は拝殿と為る。外復た三門と為り、垣の東・西・南門各一。永楽中、壇を北京に建て、其の制の如し。帝社稷壇は西苑に在り、壇址高さ六寸、方広二丈五尺、細磚を甃き、以て浄土を実す。壇の北に二坊を樹て、社街と曰う。王国社稷壇は、高広太社稷を殺すこと十の三。府・州・県社稷壇は、広を殺すこと十の五、高を殺すこと十の四、陛三級。後皆壇を同じくして合祭するを定め、京師の如し。
先農壇は、高さ五尺、広さ五丈、四出陛。御耕耤位は、高さ三尺、広さ二丈五尺、四出陛。
山川壇は、洪武九年に建つ。正殿・拝殿各八楹、東西廡二十四楹。西南に先農壇、東南に具服殿、殿の南に耤田壇、東に旗纛廟、後は神倉と為る。周垣七百余丈、垣内の地は歳に穀蔬を種え、祀事に供す。嘉靖十年、名を改めて天神地祇壇と為し、左右に分列す。
太歳壇は嶽瀆と同じ。嶽鎮海瀆山川城隍壇は、高き阜に据え、南向、高さ二尺五寸、方広十倍、四出陛、南向五級、東西北三級。王国山川壇は、高さ四尺、四出陛、方三丈五尺。天下山川の在る所の壇は、高さ三尺、四出陛、三級、方二丈五尺。
○神位祭器玉帛牲牢祝冊の数
嘉靖九年、復た分祀の典を行ふ。圜丘は則ち東は大明、西は夜明。次に東、二十八宿・五星・周天星辰。次に西、風雲雷雨。共に四壇。方丘は則ち東は五嶽、基運・翊聖・神烈の三山、西は五鎮、天寿・純徳の二山。次に東は四海、次に西は四瀆。南北郊は皆独り太祖を奉じて配す。太社稷の配位は別に見ゆ。先農の正位は南向、后稷の配位は西向。
凡そ神位において、天地・祖宗を「神版」と称し、その他を「神牌」と称す。圜丘の神版は長さ二尺五寸、幅五寸、厚さ一寸、台座の高さ五寸、栗の木を用いて作り、正位には「昊天上帝」と題し、配位には「某祖某皇帝」と題し、共に黄色の地に金字。従祀の風雲雷雨の位版は、赤色の地に金字。神席は、上帝には龍椅・龍案を用い、上に錦の褥を敷き、配位も同じ。従祀は、位置を案に置き、席を設けず。方丘の正位は皇地祇と称し、配位及び従祀の制は共に圜丘と同じ。奉先殿の帝后の神主は高さ一尺二寸、幅四寸、台座の高さ二寸、木を用い、金で飾り、青字を刻む。龕は高さ二尺、幅二尺、台座の高さ四寸、朱漆に金で龍鳳花の文様を刻み、二つの窓を開け、紅紗を張り、側面に金銅の環を用い、内側に金糸で文綺を織ったものを敷物とする。社稷において、社の主は石を用い、高さ五尺、幅五尺、上部はやや尖る。壇上に立て、半ば土中に埋め、ほぼ南北に向く。稷には主を用いず。洪武十年、皆木主を設け、丹漆を塗る。祭祀終了後、庫に収め、依然として石主を壇中に埋め、その端をわずかに露出させる。後に祖を配祀するに及び、その位制は塗金の牌座とし、先聖の櫝が架と罩を用いる如く。嘉靖年間、寢廟に蔵す。帝社稷の神位は木を用い、高さ一尺八寸、幅三寸、朱漆の地に金字。壇の南に石龕を置き、以て神位を蔵す。王府・州県の社主は皆石を用い、長さ二尺五寸、幅一尺五寸。日月壇の神位は、松柏を用いて作る。長さ二尺五寸、幅五寸、台座の高さ五寸。朱漆に金字。その他はこれに倣う。
二十一年に更定す、正殿上の三壇には、毎壇登一、籩豆各十二、簠簋各二、共に酒尊六・爵九を殿の東南に設け、西に向く。丹墀内の四壇には、大明・夜明各登一、籩豆十、簠簋二、酒尊三、爵三。星辰の二壇には、各登一、鉶二、酒盞三十、その他は大明と同じ。壝外の二十壇には、各登一、鉶二、籩豆各十、簠簋各二、酒盞十、酒尊三、爵三。神祇壇には、鉶三、籩豆各八。帝王・山川・四瀆・中嶽・風雲雷雨神祇壇には、酒盞各三十、その他は並びに嶽鎮と同じ。
先農は、社稷と同じく、登一を加え、籩豆は二を減ず。
歴代帝王。洪武四年に定む、登一、鉶二、籩豆各八、簠簋各一、俎一、爵三、尊三。七年に更定す、登・鉶・簠簋各一、籩豆各十、爵各三、共に酒尊五を殿の西階に、酒尊三を殿の東階に設く。二十一年に増定す、每位鉶二、簠簋各二、五室共に酒尊三、爵四十八を設く。配位は毎壇籩豆各二、簠簋各一、饋盤一、每位鉶一、酒盞三。三皇は、籩豆各八、簠簋各二、登・鉶各二、爵三、犧尊・象尊・山罍各一。配位は、籩豆各四、簠簋各二、鉶一、爵三、犧尊・象尊各一。
旗纛(軍旗の神)の祭儀は、先農と同様。馬神は、籩と豆は各四、簠・簋・登・象尊・壺尊は各一。
玉帛と犠牲
祝冊
南北郊の祝板は長さ一尺一分、幅八寸、厚さ二分、楸梓の木を用いる。宗廟は長さ一尺二寸、幅九寸、厚さ一分、梓木を用い、楮紙で覆う。群神・帝王・先師は、皆祝文があり、文は多く掲載しない。祝案は西に設ける。
籩と豆の実(中身)
凡そ籩と豆の実、十二を用いる場合、籩には形塩・AK魚・棗・慄・榛・菱・芡・鹿脯・白餅・黒餅・糗餌・粉餈を盛る。豆には韭菹・醯醢、菁菹・鹿醢・芹菹・兔醢・筍菹・魚醢・脾析・豚胉・赩食・糝食を盛る。十を用いる場合、籩は糗餌・粉餈を減じ、豆は赩食・糝食を減ずる。八を用いる場合、籩はさらに白・黒餅を減じ、豆はさらに脾析・豚胉を減ずる。四を用いる場合、籩は形塩・AK魚・棗・慄のみを盛り、豆は芹菹・兔醢・菁菹・鹿醢のみを盛る。各二の場合、籩は慄・鹿脯を盛り、豆は菁菹・鹿醢を盛る。簠と簋が各二の場合、黍・稷・稻・粱を盛る。各一の場合、稷・粱を盛る。登には太羹を盛り、鉶には和羹を盛る。
酒斉(酒類)は周制に倣い、新旧の醅を用い、三酒(事酒・昔酒・清酒)の斉を備える。それを尊に実(満たす)する名称と数は、各々異なる。
祭祀雑議諸儀
その祭祀雑議諸儀、凡そ版位(神位板)は、皇帝位は一尺二寸四方、厚さ三寸、赤地に金字。皇太子位は九寸四方、厚さ二寸、赤地に青字。陪祀官位は、皆白地に黒字。
賛唱。凡そ皇帝躬祀の時、入りて位に就くに、太常寺は中厳を奏し、外辦を奏す。盥洗・升壇・飲福・受胙、各々賛辞を致す。又凡そ祭祀には、各々爵洗の位を設け、爵を滌ぎ爵を拭う。初め壇に升る時、再拝を唱え、及び祭酒の時、福胙を賜うと唱う。洪武七年、礼部其の煩瀆を奏し、悉く削り去る。
上香の礼。明初祭祀は皆これを行ふ。洪武七年翰林詹同の言に依りて罷む。嘉靖九年復た行ふ。
拝礼。初め、毎節皆再拝せり。洪武九年、礼臣奏す、「『礼記』一献三献五献七献の文、皆拝礼を載せず。唐・宋の郊祀、毎節礼を行ふに皆再拝す。然れども亜献終献は、天子礼を行はずして、臣下に行はしむ。今議す、大祀中祀は、迎神より飲福送神に至るまで、宜しく各々再拝の礼を行ふべし。」帝命じて節を十二拝と為し、迎神・飲福受胙・送神各四拝とす。
登壇脱舄。初めは行はれず。洪武八年詔して翰林院の臣に大祀登壇脱舄の礼を考定せしむ。学士楽韶鳳漢・魏以来の朝祭儀を雑考し、議して郊祀廟享の前一日、有司席を以て地に藉け、御幕を壇の東南門外に設け、執事官の履を脱ぐ次を壇門外西階の側に設く。祭日、大駕幕次に入り、舄を脱ぎて壇に升る。其の壇に升る執事・導駕・賛礼・読祝並びに分献陪祀の官は、皆舄を外に脱ぎ、次を以て壇に升り事に供す。協律郎・楽舞生は前に依りて跣襪して位に就く。祭畢りて、壇を降り舄を納む。之に従ふ。嘉靖十七年其の礼を罷む。
○祭祀の日期
欽天監選択し、太常寺予め十二月朔より奉天殿に至り具に奏す。蓋し古の卜法存せず、而して干支の吉を択び以て卜に代ふるなり。洪武七年、太常卿に命じて祭祀の日期を議せしめ、之を版に書き、時に依りて祭り、式として著はす。其の祭日、官を遣はして祭を監せしめ、敬せず儀を失ふ者は之を罪す。
○習儀
凡そ祭祀、先期三日及び二日に、百官朝天宮に於て儀を習ふ。嘉靖九年更めて定め、郊祀冬至は、先期の七日及び六日に於て儀を習ふ。
○斎戒
六年、陪祀官の斋房を北郊斋宮の西南に建て、後ち斋戒の礼儀を定む。凡そ天地を祭るは、正祭前五日午後、沐浴更衣し、外室に処る。次早、百官奉天門に於て誓戒牌を観る。次日、仁祖廟に告げ、退きて斋宮に処り、斋を致すこと三日。宗廟を享くは、正祭前四日午後、沐浴更衣し、外室に処る。次日より始め、斋を致すこと三日。社稷・朝日・夕月・周天星辰・太歳・風雲雷雨・嶽鎮海瀆・山川等の神を祭るは、斋を致すこと二日、前の儀の如し。凡そ制を伝へ香を降し、官を遣はして代はり祀るは、先一日沐浴更衣し、外室に処る。次日官を遣はす。七年制を定め、凡そ大礼前期四日、太常卿天下神祇壇に至り奠告し、中書丞相京師城隍廟に詣り諮を発す。次日、皇帝仁祖廟に詣り配享を請ふ。二十一年制を定め、斋戒前二日、太常司官本司に宿す。次日、斋を致すことを奏請す。又次日、銅人を進め、制を伝へ文武百官に斋戒を諭す。是日、礼部太常司官城隍神に檄し、遍く天下当に祀るべき神祇を請ひ、仍て各廟に香を焚くこと三日。
二十六年、伝制誓戒の儀を定む。凡そ大祀前三日、百官闕に詣り、大朝儀の如く、伝制官制を宣べて云く、「某年月日、某所に祀る、爾文武百官、某日より始め、斋を致すこと三日、当に敬慎すべし。」伝制畢りて、四拝し、礼畢るを奏す。宣徳七年、大祀南郊、帝斋宮に御し、内官使に命じ、酒を飲み葷を食ひ壇に地に唾する者は、皆之を罪し、司礼監縱容する者は同罪とす。斋の日、御史各官を斋次に於て検視し、仍て南京に行はしめ、一体に斋戒せしむ。弘治五年、鴻臚少卿李燧言す、「分献陪祭等の官、道士の房榻を借り居し、貴賤雑処し、且つ宣召不便なり。乞ふ、壇所の隙地に於て、天寿山朝房の礼制に倣ひ、斋房を建てん。」之に従ふ。嘉靖九年、前期三日と定め、帝奉天殿に御し、百官朝服して誓戒を聴く。万暦四年十一月、礼部二十三日冬至天を祀るを以て、十八日に当に祭を奏すべく、十九日百官誓戒を受く。是日、皇太后聖旦、百官宜しく吉服して賀すべし。一日に両つ礼文に遇ひ、服色同じからず、請ふ祭を奏し誓戒するを皆先一日と更めん。帝命じて祭を奏し誓戒するは旧の如くし、而して十八日を以て慶賀の礼を行はしむ。
○官を遣はして祭祀す
洪武二十六年、伝制特遣の儀を定む。この日、皇帝は常儀の如く座に昇り、百官一拝す。礼畢、献官拝位に詣りて四拝し、伝制官御前より出でて制を宣す。孔子を祭る場合は、「某年月日、先師孔子大成至聖文宣王を祭り、卿に命じて礼を行わしむ」と曰う。歴代帝王を祭る場合は、「某年月日、先聖歴代帝王を祭り、卿に命じて礼を行わしむ」と曰う。俯伏し、興き、四拝し、礼畢して出づ。その降香遣官の儀は、前祀の一日の清晨、皇帝皮弁服を着し、奉天殿に昇る。香を捧ぐ者は香を献官に授く。献官は捧じて中陛より降り中道より出で、午門外に至り、龍亭内に置く。儀仗鼓吹し、導引して祭所に至る。後に定めて祭の日には、降香は常儀の如くし、中厳して以て待つ。献官祭畢して後命し、厳を解きて宮に還る。嘉靖九年、大祀に遣官し、飲福礼を行わず。
○分献陪祀
凡そ分献官は、太常寺予め旨を請う。洪武七年、太祖学士詹同に謂いて曰く、「大祀は、終献の方に分献礼を行い、未だ当たらず」と。同乃ち学士宋濂と議して上るに、初献玉帛を奠する将に畢らんとするに、分献官即ち初献礼を行い、亜献・終献皆之の如し。嘉靖九年、四郊工成り、帝太常寺に諭して曰く、「大祀分献官予め定むれば、方に儀を習うべし」と。乃ち大学士張璁等を用いて大明・夜明・星辰・風雲雷雨の四壇に於ける。旧制、分献は文武大臣及び近侍官合わせて二十四人を用い、今四人と定め、法司官は仍って旧例に従い興さず。
凡そ陪祀は、洪武四年、太常寺『周礼』及び唐制を引き、武官四品・文官五品以上を用い、その老疾瘡疥刑余喪過体気の者は与からずと擬す。之に従う。後に郊祀を定め、六科都給事中は皆陪祀に与り、余の祭は与らず。又た定む、凡そ南北郊には、先期に陪祀執事官に明衣布を賜い、楽舞生は各新衣を給す。陪祀官の壇に入る牙牌を制し、凡そ天子親祀するときは、則ち佩して以て入る。その制に二あり、円なる者は祭官之を佩し、方なる者は執事人これ佩す。倶に内府に蔵し、祭に遇えば則ち給し、無き者は壇に入るを得ず。洪武二十九年、初めて山川諸神を祀り、流官は祭服、未入流官は公服とす。洪武二十九年、礼臣の言に従い、未入流官は凡そ祭には皆祭服を用い、九品と同し。