明史

本紀第十二 英宗後紀

天順元年(1457年)

天順元年春正月壬午、夜明け前、武清侯石亨、都督ととく張輗・張軏、左都御史楊善、副都御史徐有貞、太監曹吉祥が兵を率いて南宮で帝を迎え、奉天門に臨御し、百官を朝見させた。徐有貞は原官のまま翰林學士を兼ね、内閣に入り機務に参与した。日中、奉天殿に臨御して即位した。兵部尚書于謙・大學士王文を錦衣えいの獄に下した。太常寺卿許彬・大理寺卿薛瑄を礼部侍郎兼翰林學士とし、内閣に入り機務に参与させた。丙戌、詔を下して天下を赦し、景泰八年(1457年)を天順元年(1457年)と改元した。奪門の功と迎え復位させた功を論じ、石亨を忠国公に封じ、張軏を太平侯に、張輗を文安伯に、楊善を興済伯に、曹吉祥の嗣子欽を都督同知に封じた。丁亥、于謙・王文を殺し、その家を籍没した。陳循・江淵・俞士悅は流罪に貶され、蕭鎡・商輅は除名された。己丑、再び奪門の功を論じ、孫鏜を懐寧伯に、董興を海寧伯に封じ、欽天監正湯序を礼部右侍郎とし、官舎の旗軍で位階を進めた者は合わせて三千余人に及んだ。辛卯、巡撫提督官を罷免した。壬辰、于謙の党与の名を掲示して天下に示した。甲午、昌平侯楊俊を殺した。

二月乙未朔、景泰帝を廃して郕王とした。庚子、高穀が致仕した。湯序が景泰の年号を除くことを請うたが、許さなかった。癸卯、吏部侍郎李賢が翰林學士を兼ね、内閣に入り機務に参与した。都督范広を殺した。戊申、柳溥が広西の蛮を破った。癸丑、郕王が薨去した。戊午、方瑛・石璞が湖広の苗を大破した。璞を召還した。壬戌、南畿の被災地の秋糧を免除した。

三月己巳、長子見深を再び皇太子に立て、皇子見潾を徳王に、見澍を秀王に、見澤を崇王に、見浚を吉王に封じた。癸酉、徐有貞を武功伯に封じた。乙亥、文武の軍民に大いに賞を与えた。庚辰、黎淳らに進士及第・出身をそれぞれ賜った。石亨を征虜副将軍とし、延綏で寇を剿討させた。丁亥、山東の飢饉を救済した。

夏四月甲午朔、災異が頻発することを以て直言を求めた。乙未、浙江の被災地の税糧を免除した。丁酉、方瑛が銅鼓藕洞の苗を攻撃し、ことごとく平定した。丁未、囚を録した。癸丑、団営を罷めた。乙卯、孛来が寧夏を寇し、参将种興が戦死した。

五月辛未、安遠侯柳溥が宣府・大同の辺境を守備した。この月、石亨の言により御史楊瑄・張鵬を獄に下した。

六月甲午、右都御史耿九疇・副都御史羅綺を錦衣衞の獄に下した。己亥、徐有貞・李賢を錦衣衞の獄に下した。この日、大風雨雹があり、奉天門の鴟吻を損壊したので、修省を命じた。庚子、徐有貞・李賢・羅綺・耿九疇を外任に貶し、楊瑄・張鵬を辺境に戍らせた。通政司参議兼侍講呂原が内閣に入り機務に参与した。壬寅、薛瑄が致仕した。癸卯、修撰岳正が内閣に入り機務に参与した。甲辰、李賢を再び吏部侍郎とした。乙巳、巡撫貴州副都御史蔣琳が于謙の党与に連座して棄市に処せられた。

秋七月乙丑、再び徐有貞を獄に下した。丙寅、承天門に災害があった。丁卯、みずから南郊で祈祷した。戊辰、修省を命じた。庚午、李賢が再び内閣に入った。許彬を南京礼部侍郎に改めた。辛未、岳正を欽州同知に出し、まもなく獄に下し、流罪に貶した。癸酉、大赦を行った。癸未、徐有貞を金歯に放逐した。辛卯、諸辺の軍士に大いに賞を与えた。

八月甲午、彗星がしばしば現れたことを以て、みずから上帝に祈祷した。

九月甲子、太常少卿彭時が翰林學士を兼ね、内閣に入り機務に参与した。

冬十月丁酉、王振に祭葬を賜い、祠を立てて「旌忠」と称した。壬寅、江西の処士呉与弼を召し出した。丙辰、建文帝の幼子文圭とその家属を釈放し、鳳陽に安置した。

十一月甲戌、広西総兵官朱瑛が田州の叛蛮を討った。己丑、山東の被災地の夏税を免除した。

十二月壬辰、曹欽を昭武伯に封じた。辛丑、安遠侯柳溥を総兵官に充て、甘粛・涼州で孛来を防がせた。

この年、琉球中山・安南・暹羅・占城・哈密・烏斯藏が朝貢した。

天順二年(1458年)

二年春正月辛酉、兵部尚書陳汝言は罪有りて獄に下る。乙丑、太廟を享く。甲戌、南郊にて天地を大祀す。己卯、皇太后の尊号を上る。

二月戊申、雲南・福建・浙江の銀場を開く。中官、雲南の珍宝を市う。

閏月己卯、土木の暴骸を瘞む。

夏四月、巡撫官を復設す。

五月壬寅、処士吳與弼に左諭徳を授く、辞して拝せず、尋いで送りて郷に還す。

秋七月癸卯、定遠伯石彪を平夷将軍と為し、総兵官を充て、寇を寧夏にて禦ぐ。

八月戊辰、孛来、鎮番を寇す。

冬十月甲子、南海子に猟す。壬午、武平伯陳友を征夷将軍と為し、総兵官を充て、寇を寧夏に剿す。

十一月甲寅、山東の秋糧を免ず。

この年、安南・烏斯藏・占城・哈密が朝貢した。

天順三年(1459年)

三年春正月乙未、南郊にて天地を大祀す。甲辰、定遠伯石彪・彰武伯楊信、孛来を安辺営にて敗る、都督僉事周賢・都指揮李鑑戦死す。彪を進めて侯と為す。

二月丁卯、御史及び中官を遣わし広東に珠を採らしむ。

夏四月壬子、両広巡撫僉都御史葉盛が瀧水の瑶族を破る。己巳、南和侯方瑛が貴州の苗族を平定す。

六月辛酉、巡撫官に再び命じて八月に京師に集まり事を議わしむ。

秋八月庚戌、石彪罪あり、錦衣衛の獄に下す。己未、文武大臣・給事中・御史・錦衣衛官の往来交通を禁じ、違う者は鉄榜の例に依りて罪を論ず。乙亥、湖広の被災秋糧を免ず。

冬十月己未、南海子に幸す。庚午、石亨罪に坐して罷免さる。諸々の奪門の功を冒する者に自首して改正することを許す。是の月、法司に命じて廷臣と会し、毎歳霜降に囚を録す。後、常と為す。

十一月癸巳、湖広の飢饉を賑恤す。

是の年、哈密・琉球中山・錫蘭山・満剌加、貢を入る。

天順四年(1460年)

四年春正月丁亥、南郊にて天地を大祀す。癸卯、石亨罪ありて獄に下り、尋いで死す。

二月壬子、僮賊梧州を陥とす。丁卯、石彪、市に棄つ。

三月庚辰、王一夔らに進士及第・出身を賜うこと差あり。戊戌、南畿の被災秋糧を免ず。

夏四月己酉、内臣を分遣して浙江・雲南・福建・四川の銀課を督せしむ。壬子、襄王瞻墡来朝す。

五月壬午、畿内・浙江の被災秋糧を免ず。己亥、中官の蘇州・杭州織造を督することを罷む。

六月癸亥、湖広の被災税糧を免ず。

秋七月乙亥朔、日食あり。辛卯、五月より是の月に至るまで雨、淮水決し、軍民の田廬を没す。使いを遣わして振恤す。

八月甲子、孛来三道より寇す。大同総兵官李文・宣府総兵官楊能これを禦ぐ。癸酉、孛来雁門に入り、忻州・代州・朔州諸州を掠る。

九月庚辰、孛来が大同右衛を包囲す。庚寅、撫寧伯朱永、都督白玉・鮑政、宣府辺を備う。甲午、江西の被災秋糧を免ず。

冬十月甲子、京営将領の騎射を西苑にて閲す。戊辰、南海子に幸す。

十一月丁酉、随操武臣の騎射を西苑にて閲す。

閏月己未、鄭村壩に幸し、甲仗軍馬を閲す。

是の年、琉球中山・安南・占城・爪哇・哈密・烏斯藏、貢を入る。

天順五年(1461年)

五年春正月庚戌、南郊にて天地を大祀す。

二月己卯、山東の被災税糧を免ず。丙申、都督僉事顔彪を征夷将軍と為し、総兵官を充て、両広の瑶賊を討たしむ。

三月壬子、蘇・松・常・鎮の被災税糧を免ず。甲寅、湖広・貴州総兵官李震、広西軍と会し瑶・僮を剿り、悉く之を破る。

夏四月癸巳、兵部侍郎白圭、陝西諸辺を督し、孛来を討つ。

五月丁未、河南の被災秋糧を免ず。

六月丙子、孛来、河西を寇し、官軍敗績す。壬午、兵部尚書馬昂軍務を総督し、懷寧伯孫鏜総兵官を充て、京営軍を帥いて之を禦ぐ。

秋七月庚子、総督京営太監曹吉祥及び昭武伯曹欽反す。左都御史寇深・恭順侯呉瑾殺さる。懷寧伯孫鏜兵を帥いて之を討ち平らぐ。癸卯、吉祥を市にて磔とし、其の族を夷す。其の党湯序等悉く誅に伏す。丁未、南畿の被災税糧を免ず。庚戌、大赦し、直言を求む。丁巳、河、開封に決す。侍郎薛遠往きて之を治む。戊午、都督馮宗総兵官を充て、寇を河西にて禦ぎ、兵部侍郎白圭・副都御史王竑軍務を参賛す。辛酉、孛来上書し和を乞う。

九月壬戌、京師地震し声有り。

冬十月壬申、西辺の用兵を以て、河南・山西・陝西の士民馬を納むる者に冠帯を予う。

十一月丁酉朔、日に食あり。壬戌、南海子に幸す。

この年、安南・琉球中山・哈密・亦力把里、貢を入れる。

天順六年

六年春正月丁未、南郊にて天地を大祀す。戊申、孛来、使いを遣わして貢を入れる。

二月癸酉、孛来に諭す。

三月癸丑、馮宗らを召し還す。

夏四月壬申、河南の被災秋糧を免ず。

五月庚子、顏彪、両広の諸瑶を討ち平らぐ。己未、陝西の被災秋糧を免ず。

六月戊辰、淮王祁銓、来朝す。

秋七月、淮安、海溢す。

九月乙未、皇太后崩ず。

冬十一月甲午、孝恭章皇后を葬る。

この年、琉球中山・哈密・烏斯蔵・暹羅、貢を入れる。

天順七年

七年春正月丙午、南郊にて天地を大祀す。

二月壬戌、詹事陳文を礼部侍郎兼翰林學士とし、内閣に入り機務に預かる。

三月壬寅、旱魃あり、詔して寛卹の政を行い、各所の銀場を停める。

夏四月壬午、宣府・大同の巡按御史李蕃を逮捕し、長安ちょうあん門に荷校す、まもなく死す。丙戌、また中官を派遣して蘇州・杭州の織造を監督せしむ。

五月己丑朔、日食あり。甲寅、遼東巡按御史楊璡、軍職を擅に撻つを以て逮捕治す。

六月丁卯、山西巡按御史韓祺を逮捕し、長安門に荷校す、数日にして死す。

秋七月庚戌、陝西の被災税糧を免ず。

閏月甲戌、宣宗の廃后胡氏の尊諡を上る。戊寅、湖広・貴州に命じて会師し洪江の叛苗を討たしむ。

九月甲戌、広東総兵官欧信に勅し、広西兵と会して瑶賊を討たしむ。

冬十月丁酉、西安諸府の饑饉を賑恤す。丁未、広西巡撫僉都御史呉楨に両広諸軍を節制せしめ、瑶賊を討たしむ。

十一月癸酉、賊梧州を陥とし、致仕布政使宋欽これに死す。壬午、右都御史李賓・副都御史林聰を錦衣衞の獄に下す。

十二月辛卯、刑部尚書陸瑜、侍郎周瑄・程信を錦衣衞の獄に下す、まもなく釈放す。

是の年、琉球中山・哈密・安南・烏斯藏、貢を入る。

天順八年

八年春正月乙卯、帝せず。己未、皇太子文華殿に於いて事を摂す。己巳、大漸し、遺詔して宮妃の殉葬を罷む。庚午、崩ず、年三十八。

二月乙未、尊諡を上り、廟号を英宗とす、裕陵に葬る。

賛に曰く、英宗は仁宗・宣宗の業を承け、海内は富庶にして、朝野は清晏たり。大臣たる三楊・胡濙・張輔のごときは、皆累朝の勲旧にして、遺命を受けて政を輔け、綱紀未だ弛まず。独り王振の権を擅にして釁を開くに至り、遂に乗輿の播遷を招く。乃ち復辟して後も、猶追念して已まず、抑も其れ惑溺の深きこと何ぞや。前後在位二十四年、甚だしき稗政無し。恭讓后に諡を上し、建庶人の繫を釈し、宮妃の殉葬を罷むるに至りては、則ち盛徳の事にして後世に法たるべきものなり。