鄭畋
鄭畋、字は臺文、その系は滎陽より出づ。父の亞、字は子佐。爽邁にして文あり、進士・賢良方正・書判拔萃に挙げられ、三たびその科に中る。李德裕が翰林學士たりし時、その才を高くし、浙西を守るに及んで、幕府に辟署す。監察御史に擢でられ、李回が中丞を任ずるや、刑部郎中知雜事に薦められ、給事中に拝せらる。德裕が宰相を罷むると、出でて桂管觀察使となり、吳湘の獄に坐して冤を直す能わず、循州刺史に貶ぜられ、官にて死す。
畋は進士に挙げらる。時に年甚だ少く、有司が上第の籍を上ぐるや、武宗疑い、試みたる所のものを索めて自ら省み、乃ち可とす。宣武推官に奏せられ、書判拔萃を以て渭南尉に擢でらる。父喪にて免ず。宣宗の時、白敏中・令狐綯國に當たり、皆德裕を怨み、その賓客並びに廢斥せらる。故に畋調せられず幾十年、外に帥鎮幕府を更む。位を去りて、始めて虞部員外郎となる。右丞鄭薰、畋に罪を誣え、郎官に任ずべからずとし、これを出す。久しくして乃ち入りて刑部員外郎となる。劉瞻宰相たりし時、薦めて戶部郎中を授けられ、翰林に入りて學士となり、俄かに制誥を知る。徐州の賊龐勛を討つに會し、書詔紛委す。畋、思ひ淹晷せず、文を成すこと粲然たり、機要に切らざるはなく、當時これを推す。勛平ぐるを以て、戶部侍郎にて學士承旨に進む。瞻、諫めて懿宗に迕ひ、賜罷せらる。畋、制書を草すること多く褒言あり、韋保衡等これを怨み、下に附き上を罔ふと為し、梧州刺史に貶ず。僖宗立ち、内に徙りて郴・絳二州とし、右散騎常侍を以て召し還さる。故事に、兩省延英に轉對すれども、獨り常侍は與からず。畋、顧問に備ふべしと建言し、詔して可とす。遂に令に著す。兵部侍郎を以て同中書門下平章事に進む。故時に、宰相の騶哄數坊を聯ね、行人を呵止す。畋、導者を敕して百歩に止め、百官の仆史を禁じて擅に宰相府に至ることを得ざらしむ。交・廣・邕南の兵は、舊く嶺北五道の米を取って往きてこれを餉ぐ。船多く敗沒す。畋、嶺南の鹽鐵を廣州節度使韋荷に委ね、歳に海を煮て鹽を取ること直四十萬緡、虔・吉の米を市いて安南を贍ひ、荊・洪等の漕役を罷むべしと請ふ。軍食遂に饒なり。後に王師甫を以て嶺南供軍副使と為す。師甫、兵を兼ねて總べ、而して歳に獻錢二十萬緡を加へんことを請ふ。畋曰く「荷且つ功有り。而して師甫は利を以て朝廷を啖ひ、その兵を奪はんと謀る。不可なり」と。これを罷む。再び門下侍郎に遷り、滎陽郡侯に封ぜらる。星變を以て去位を求め、許さず。
乾符六年、黃巢の勢い浸く盛んとなり、安南を據り、書を騰して天平節度使を求む。帝群臣をして議せしむ。皆節を假して以て難を紡がんことを請ふ。畋、因りて嶺南節度使を授けんと欲す。而して盧攜方に高駢に倚り、功を立てしめんとす。乃ち曰く「駢が才略雙ぶもの無し。淮南は天下の勁兵、又諸道の師方に至らんとす。蕞爾たる賊、奈何ぞこれを捨て、四方をして解體せしめんや」と。畋曰く「然らず。巢の亂は饑に本づく。その眾は利を以て合す。故に江・淮に興り、根蔓天下す。國家久しく平らぎ、士戰を忘れ、所在壘を閉じて敢へて出でず。如し恩を以て罪を釋き、歳豐かなるに及ばしめば、その下歸るを思ひ、眾一たび離るれば、即ち巢は機上の肉なるのみ。法に不戰にして人の兵を屈すと謂ふ。今謀を以て伐たずして、兵を以て怖しむれば、恐らくは天下の憂ひ未だ艾たざらん」と。僕射於琮言す「南海は寶產を以て天下を富ます。如し賊に與せば、國藏竭きん」と。天子内にも亦駢に屬す。乃ち攜の議を然りとす。畋曰く「安危吾等に屬す。而して公は淮南に倚りて兵を用ふ。吾稅駕する所を知らず」と。會に駢奏す「南蠻方に強し。西戎の如く、公主を下嫁せしめんことを請ふ」と。攜又議してこれに從はんとす。畋、國威靈を損ずと以為ひ、不可なりとす。即ち抗論し、相詬嫚するに至る。攜怒り、衣を拂ひて去り、裾硯に蔑られ、因りてこれを抵す。帝、大臣口語を爭ふを以て、百官に示すこと無しとし、乃ち俱に罷め、畋を以て太子賓客と為し、東都に分司せしむ。俄かに召し吏部尚書に拜す。
明年、鳳翔隴西節度使と為り、銳兵五百を募り、「疾雷將」と號す。境中の盜發するを敢へず、發すれば輒ち得たり。會に巢東都を陷す。兵を遣わして京師を戍らしめ、家財を以て行を勞ひ、妻自ら戎衣を纴ぎて戰士に給す。帝梁・洋に出づ。畋斜谷に上謁し、泣いて曰く「將相國を誤る。臣請ふ死を以て無狀を懲らさん」と。帝勞ひてこれを遣はし、且つ曰く「公謹みて賊の衝を扼し、得て西向せしむること無からしめよ」と。畋曰く「方に艱虞の時、事機急なる有り。中覆すべからず。便宜に事に從事することを請ふ。臣當に死を以て國に報ぜん」と。帝曰く「社稷に利あれば、不可なること無し」と。畋還り、士卒を搜し、器械を繕ひ、城隍を浚ひ、梁に使する者道相屬せしむ。俄にして賊の使至る。諸將皆賊に附かんと欲す。畋開諭して不可なりとす。即ち悉く金帛を出だし、脫身して去ることを得んことを請ふ。復た聽かず。而して使、偽の赦令を以て軍中に示して乃ち去る。明日、詔使至る。畋監軍袁敬柔を召し、逆順を以て諸將に曉し、乃ち命を聽かしめ、血を刺して以て盟す。畋子凝績を遣はして帝に從はしむ。詔有りて同中書門下平章事に進む。賊將又至る。畋軍中にこれを斬り、餘黨數百人皆捕へてこれを誅す。檢校尚書右僕射・西面行營都統に遷る。軍中制を承りて除拜す。乃ち前靈武節度使唐弘夫を以て行軍司馬と為す。
弘夫咸陽を取り、桴を以て兵を渭水に濟す。賊甲を伏せ偽りて走る。弘夫と宗楚勝に乘じて都門に入る。賊の為に覆さる。畋數たび輕く進むこと無かれと敕す。二人聽かず。果たして敗る。鄜・夏の兵を以て東渭橋に屯す。再び司空・兼門下侍郎・京城四面行營都統に進み、禦袍犀帶を賜ふ。拝して賀せず。
行軍司馬李昌言なる者興平に屯す。麾下を遣はして南面都統を求めんとし、輒ち兵を引いて府に趨る。畋意にせずして襲はる。城に登りて好語して曰く「吾方に朝に入らんとす。公能く兵を戢め人を愛し、國の為に賊を滅さば、能くば則ち此を守れ」と。遂に軍を委ねて去る。昌言自ら留後と為り、畋を衛して境を出でしむ。既に半道、内に慚負し、即ち疾を辭す。詔して太子少傅を授け、東都に分司せしめ、便醫を興元にせしむ。
時に田令孜は権勢を恃んで何か請うことがあったが、畋は応じなかった。陳敬瑄は官品をもって宰相の上位に居ようとしたが、畋は言う、「外宰相(節度使が宰相を兼ねる者)がどうして官品を論じられようか」と。ついにその下に処することを肯んじなかった。令孜・敬瑄は内心常にこれを恨んだ。賊が平定され、帝が還都しようとした時、李昌言は自ら畋を襲ってその鎮を奪ったものであり、今畋が国政を執るのを内心喜ばず、故に三人は結託し、客を遣わして畋の過失を上奏した。帝はその実情を得て、許さなかった。畋はそこで病を理由に去位し、入朝して帝に謁して言うには、「乗輿が東還されるに当たり、大散関を経由して鳳翔に幸せられ、供給や頓置のことはすべて昌言に委ねれば、安泰であります。臣が宰相として従えば、彼は猜疑し阻害するでしょう。反側の心を靖める方策ではありません。散官をもって病を養わせてください。もし群臣に疑いがあるならば、願わくば臣の上奏文を示して、天子が臣に微塵の隔てもないことを知らしめてください」と。帝はその誠意により、検校司徒・太子太保を授けて政事を罷めさせた。凝績を壁州刺史とし、留めて養わせた。龍州に移り、卒去。六十三歳。太尉を追贈された。後、帝は畋の忠誠と尽力を思い、また太傅を追贈した。凝績も数年後に卒去した。初め、李茂貞は博野の裨将として奉天に戍守していたが、畋は召して麾下に隷属させ、遊軍・巡邏を委ね、厚く礼遇した。茂貞はその抜擢に感じ入り、畋が鄭に還葬された時、上表して文昭と諡することを請うた。天復初年、李思恭とともに僖宗廟廷に配饗され、また宗楚・弘夫に官を追贈した。
畋は人となり仁恕で、姿や風采は玉が聳えるようであった。凡そ布衣の交わりを結んだ者は、貴くなるまで少しも変えることがなかった。鄭縠は、鄭薰の子である。畋が政権を執っていた時、給事中に抜擢し、侍郎に至った。その怨みを和らげることはこのようなものであった。黄巣の難に際し、諸軍に先んじて賊を破り、功は終わりまで全うしなかったが、還って天子を補佐し、帷幄の中で策をめぐらし、ついに国を復興させたという。
王鐸
僖宗の初め、左僕射として召された。初め、鐸が国政を執った時、制度を練り、智慮は周密で、当時の議論はこれを推して允当とした。時に河南で盗賊が起こり、天下は鐸の入朝輔政を待ち望み、また鄭畋がしばしばその賢を言上したので、再び門下侍郎・平章事に拝された。乾符六年、賊が江陵を破り、宋威は功がなく、諸将は観望して進まず、天下は大いに震駭した。朝廷は統帥を置くことを議し、鐸はそこで自ら諸将を率いて群盗を督することを請うた。帝はただちに鐸を侍中・荊南節度使・諸道行営都統とし、晋国公に封じた。流亡の民を安撫し受け入れ、さらに軍を募り、兵器甲冑を整え、武備を張り設けた。李系という者は、西平王李晟の諸孫である。機敏で弁舌に長け、兵事をよく語ったが、中身はなかった。鐸はこれを信じ、将に挙げ、精兵を分けて湖南を守らせた。まもなく賊は広州を捨て、鼓を鳴らして北上し、系は風を望んで未だ戦わずして潰走し、鐸は襄陽に退いて営した。そこで高駢をもってこれに代え、鐸は太子賓客に貶され、東都で分司した。
鐸は代々貴族で、出入りの裘馬は鮮明で、妾侍も多くいた。魏を過ぎた時、楽彦禎の子従訓は内心これを利とした。李山甫という者は、数度進士に挙げられては黜落され、魏の幕府に依っていたが、内に禍を楽しみ、かつ朝廷の大臣を怨んでいた。従訓を導いて詭謀をめぐらし、伏兵を高鶏泊に置いて劫掠させ、鐸および家属・吏佐三百余人は皆害に遇った。朝廷は微弱で、その冤罪を治めることができず、天下はこれを痛んだ。
弟の鐐は、累官して汝州刺史となった。乾符年中、王仙芝が攻めて来た時、鐐はこれを防ぎ、自ら勇士を督し別将董漢勛とともに南門・北門を守った。城が陥落し、漢勛は力戦して死に、鐐は韶州司馬に貶された。太子賓客で終わった。
王徽
王徽、字は昭文、京兆の人。進士に及第し、校書郎を授かった。沈詢が度支を判り、徐商が塩鉄を領した時、皆使府に辟召して任用した。初め、宣宗が宰相に命じて公主に尚うべき者を選ばせた時、ある者が徽を聞かせた。徽は元来名声利禄に淡泊で、聞いて喜ばず、宰相劉彖のところへ行って言うには、「徽は年齢四十を過ぎ、また病が多い。選に在るべきではありません」と。彖が言上したので、やめた。令狐綯に従って宣武・淮南の掌書記となり、召されて右拾遺を授かった。上奏文二十余通を上し、言葉に遠慮がなく、公議は浩然として重んじた。徐商が政事を罷め、江陵を守った時、内心徽を幕府に表したいと思ったが、外任を喜ばないのを恐れて、忍んで言わなかった。徽は自ら赴いて言う、「公は徽を知っておられます。どうして従わないことがありましょうか」と。商は大いに喜び、殿中侍御史に表し、節度府判官に任じた。御史中丞高湜が推薦して知雑事とし、考功員外郎に進んだ。故事では、考簿は朱で上下を註して殿最としたが、年久しくして漫漶しやすく、吏はしばしば改竄して奸を行った。徽は初めて墨を用い、ついに妄欺を絶った。翰林学士に抜擢された。
昭義の高潯が賊と石橋で戦い、敗北した。その将劉広が勝手に帰還し、潞州を占拠した。別将の孟方立が劉広を殺し、ついで邢・洺・磁の三州を取って自分に背かせた。昭義の管轄は、ただ沢州一州のみとなった。帝は兵部侍郎の鄭昌図に潞州を暫く守らせたが、兵士の心は多く方立に付き、昌図は制御できなかった。朝議は大臣を鎮撫させることとし、即座に王徽を検校尚書左僕射・同中書門下平章事に授け、昭義節度使を領させた。この時、李克用も沢・潞を争っていた。王徽は朝廷の力では兵をもってこれに抗し得ないと図り、上表して固く辞退したので、詔してこれを許可した。さらに諸道租庸供軍使とした。そこで行営都監の楊復光を説き、沙陀の罪を赦し、国難に赴かせるよう請うた。その夏、沙陀が諸軍と会し、遂に京師を平定したが、王徽の助力が多かった。右僕射に遷った。
大乱の後、宮観は焼けて残り、園陵は皆発掘され、草むらとなっていた。乗輿に東還の意思がまだなく、詔して王徽を大明宮留守・京畿安撫制置脩奉使に充てた。王徽は外では兵糧を調達し、内では流亡の民を撫慰し、一年余りで次第に人々が集まり住み、殿舎を興復し、裁断に適切なところがあった。即座に上表して帝の東還を請うた。さらに検校司空・御史大夫に進み、引き続き京兆尹を権知した。宦官や権要の家は争って人を遣わして邸宅を造営し、平民を侵害した。訴訟が前に満ちたが、王徽は勢家や寵臣に屈せず、一様に法によって公平に裁いた。これによって帝の左右に憎まれ、その党の薛杞を少尹として、その権力を軽んじた。薛杞は丁度喪中にあったので、王徽は上奏して府に到着させないようにした。衆人は憤り、共に讒言して王徽を罷免させ、行在所に赴かせた。まもなく太子少師を授けられた。王徽はそこで病気を理由に河中に移り、百日満了で免官となった。帝が京師に還ると、前の官職を再度申し渡したが、病気を称して拝謁に堪えられないとした。宰相はその怨望を憎み、集州刺史に貶した。時に帝が沙陀を避けて宝鶏に出た。帝は王徽に罪がないのを思い、吏部尚書に拝し、瑯邪郡侯に封じた。未だ赴任せずに嗣襄王の李煴が乱を起こし、帝は漢中に進んだ。李煴は王徽を召し出そうと迫ったが、王徽は病弱な体であると自称した。李煴が僭号すると、群臣に誓牒を作るよう迫ったが、王徽は手が弱いと託けて、終に署名しようとしなかった。李煴が平定され、帝が鳳翔に至ると、王徽を召して御史大夫としたが、足が痺れると固く辞退したので、再び太子少師に拝した。
家譜によれば、その先祖はもと魏の諸公子であり、秦が魏を滅ぼし、漢代に関中霸陵に移され、その故王家であることから、王氏を称した。十世祖の王羆は、周に仕えて同州刺史となり、死んで咸陽の鳳政原に葬られ、子孫は杜陵に家を定めた。曾祖の王擇従は、兄弟四人、易従・朋従・言従といい、皆進士に及第した。鳳閣舍人に至った者が三人いたので、故に「鳳閣王氏」と号した。これより大中時に至るまで、進士に登第した者は十八人、台省牧守の位に至った者は三十余人であった。王徽には雅望があり、宰相に拝されて一日で京師が乱れたので、その施設として語るべきものはない。
韋昭度
韋昭度、字は正紀、京兆の人。進士第に及第し、華やかな近職を歴任し、累遷して中書舍人となった。僖宗が西に狩り立つ時、兵部侍郎・翰林學士承旨として従った。間もなく、同中書門下平章事となった。京に還り、司空を授けられた。再び山南に狩り立ち、還って鳳翔に駐った。李昌符の乱が突然起こると、昭度は家族を禁軍に質とし、共に賊を討つことを誓ったので、兵士は感動し、昌符を平定した。太保に遷り、侍中を兼ねた。昭宗が即位すると、中書令を守り、岐国公に封ぜられた。
閬州刺史の王建が成都で陳敬瑄を攻めた時、昭度を西川節度使とした。敬瑄は受け入れず、詔して東川の顧彦朗に王建と合兵して討たせ、昭度を行営招撫使を兼ねさせた。そこで旌節を立てて城下を行き、その衆に諭して言った、「長く城を閉ざすな。」敬瑄は人を遣わして罵らせて言った、「鉄券は先帝の命じたもの、どうしてこれに背くのか。」半年を経て、ようやく漢州を陥落させた。王建は昭度を欺いて言った、「公は師を曝して遠く出で、蛮夷の地を事とし、まさに山東では兵が連なり禍が結び、朝廷は治めることができない。これは腹心の病である。急ぎ還ってこれを定めるべきである。敬瑄は小さい者、王建らに責めさせれば解決できる。」昭度はこれを信じ、還ることを請うた。道半ばに至らないうちに、王建は重兵をもって剣門を守り、急いで成都を攻めた。敬瑄を囚え、自ら留後を称した。昭度は罷免されて東都留守となった。
杜譲能が既に害された後、司徒・門下侍郎として再び平章事となり、太傅に進んだ。王行瑜が尚書令を求めた。昭度は建言して言った、「太宗はこれによって即位された。後、人臣で再び拝された者はない。郭子儀は大功があり、嘗てこれを授けられたが、固く辞して免れた。まして行瑜においてをや。」そこで尚父と改号した。行瑜は怨んだ。時に李磎を輔政に用いようとしたが、崔昭緯が密かに行瑜に語って言った、「以前公は既に尚書令となろうとしたが、昭度が不可と主張した。今また李磎を引き入れて力を合わせようとしている。これは奸人が努めて党与を立て、上の聴きを惑わそうとするもので、事が再び杜太尉の時のようになる恐れがある。」行瑜はそこで李茂貞と共に数度上書して朝政を讒謗した。昭度は恐れ、病気を称し、罷免されて太傅となり、致仕した。行瑜・茂貞・韓建が連合して兵を率いて宮闕の下に至り、昭度が蜀を伐った時失策があったと言い、彼を貶すよう請うた。未だ返答に及ばないうちに、行瑜は昭度を都亭駅で捕らえて殺した。天子は已むを得ず、詔を下してその罪を暴いた。行瑜が誅されると、官爵を追復し、その家に収葬を許し、太尉を贈った。
張濬
張濬、字は禹川、本は河間の人。性格は通脱で檢束がなく、広く書史を知り、高論を好み、士友は彼を軽蔑して疎んじた。志を得ず、そこで粗末な服を着て金鳳山に隠居し、縦横の術を学び、捭闔をもって時世に干渉した。枢密使の楊復恭が彼に遇い、処士として推薦して太常博士とし、度支員外郎に進めた。黄巢の乱の時、病気を称し、母を連れて商山に逃れた。僖宗が西に出奔した時、衛士の食糧が供給されず、漢陰令の李康が乾飯数百馱を献上したので、兵士は皆飽きるほど与えられた。帝はこれを異とし、言った、「お前がここまでできるのか。」答えて言った、「臣がどうしてこのようなことを知りましょう、張濬が臣に教えたのです。」そこで急いで張濬を行在所に召し、再び諫議大夫に進めた。宰相の王鐸が行営都統を任じられると、上奏して都統判官に任用した。
時に王敬武は平盧に在りて、その軍最も強く、累次召すも肯へて応ぜず。張濬往きてこれを説くも、敬武既に賊に臣す。使者を迎へず。濬これを責めて曰く、「公は天子の為に藩を守る。今、使者詔を齎して至るに、北面して俯伏せずして敢へて侮慢す。公は乃ち未だ君臣の大分を識らず、何を以て吏民を長ぜんや」と。敬武愕眙して愧謝す。濬詔を宣する已に、士卒兵を按じて默默たり。濬将佐を召して鞠場に至り、倡言して曰く、「忠義の士は当に利害を審らかにすべし。黄巢は販塩の虜のみ。天子を捨てて之に臣すは、何の利かあらん。今、諸侯の王事に勤むる者は踵を接す。公等一州を拠して成敗を観る。後、賊平らぎて、将に安くにか往かん。誠に能く此の時に大盗を共に誅し、天子を迎へば、功名富貴は反手にして取るべし。吾れ公等の安きを捨てて危きに陥るを憐れむなり」と。諸将雑然として曰く、「諫議の語是なり」と。敬武即ち軍を引いて濬に従ひ西す。濬を擢ちて会軍使と為す。賊平らぎ、戸部侍郎を以て度支を判す。後に再び山南に狩し、同中書門下平章事を拝し、仍り度支を判す。
濬始めは復恭に由りて進み、復恭中に権を失ひ、更に田令孜に依る。故に復恭之を銜む。中尉と為るに及び、数へて離間せらる。昭宗即位し、復恭援を恃み功を立て、専ら事を任す。帝稍々平らかならず。当時多く言ふ、濬方略有り、大計を処するに善しと。乃ち復び委信を見、嘗て致治の要を問ふ。対へて曰く、「強兵に在り。兵強ければ、天下服す」と。天子是に由りて武功に甘心す。後に古今の事を論ずるに、濬輒ち曰く、「漢・晋の遠きは道ふ可き無し。陛下春秋鼎に富み、天資英特なり。内に宦臣に逼せられ、外に強臣に迫せらる。故に安んぜず。此れ臣の痛心して血を泣く所以なり」と。
先づ、汴・華・邠・岐の兵河を絶ちて平陽に会す。汴将朱崇節既に潞に戍る。濬慮ふ、汴人の遂に之を拠有せんことを。乃ち揆に命じて兵を分かち潞に趨らしめ、中人韓帰範に節を持たしめて軍に送り護らしむ。会ふ、太原の将李存孝方に潞を攻む。揆長子に至りて、存孝に禽せらる。汴人も亦城を棄てて去る。濬陰地関に次ぐ。諸軍平陽に壁す。存孝之を撃てば、皆大いに北し、仗械を委てて去る。濬衆を斂めて夜遁す。比明するに、軍太半を失ふ。存孝進みて晋・絳・慈・隰を掠む。其の鋒甚だ盛ん。濬間道より王屋に出で、河清に奔り、桴にして済り、麾下略ほ盡きたり。全諲薬を飲みて死し、建遁れ去る。克用上書して罪を請ふ。其の辞悖慢、韓帰範を因りて以て聞かしむ。朝廷震動し、即日詔を下して濬を罷め武昌軍節度使と為し、三たび貶されて繍州司戸参軍と為る。全忠為に申請し、詔して便に使はしむるを聴す。濬乃ち藍田に至り韓建に依る。韋昭度の死に及び、復た緯を用ひて宰相と為す。故に濬も亦兵部尚書を拝し、天下租庸使を領す。将に復用せんとす。克用上言して曰く、「若し朝に濬を以て相と為さば、暮に請ふ兵を以て見えん」と。乃ち止む。
始め、濬素より永寧の史葉彦に厚し。彦其の謀を知り、以て濬の子格に告ぐ。濬免れ難きを度り、父子相持ちて泣きて曰く、「留まらば則ち俱に死せん。去りて以て吾が嗣を存せんには如かず」と。格拝して辞し、彦士三十人を率ひて之を送り、漢を溯りて蜀に入る。後、王建に事ふ。少子播は、間道より淮南に走り、楊行密に依る。時に行密承制除拝を得たり。播請ふ、毎に吏を除くに、必ず紫極宮の玄宗の像の前に制誥を案に致し、乃ち之を出さしめ、朝廷を忘れざるを示し、且つ家冤を雪がんと欲して克たず。広陵に終る。
【贊】
贊して曰く、唐の季、嗣君暗庸にして、天其の徳を穢すこと久し。纖人柄を朝に執り、謀ふこと靡くして乖かならず。畋・鐸の如きは皆社稷の才にして、大過の世に当たり、天下に倡ふ。王室の支を扶け、幾くんぞ中興に致さんとす。俄にして逆豎乱宦に乗ぜられ、功業成就する所無し。濬は乱を以て乱を止めんとし、其の心を悖繆す。悲しきかな。