新唐書

巻一百八十三 列傳第一百零八 畢崔劉陸鄭朱韓

巻一百八十三 列傳第一百零八 畢崔劉陸鄭朱韓

畢諴

原文畢諴

畢諴、字あざなは存之、黄門監畢構の從孫なり。構の弟栩、凌を生み、凌は勻を生み、世官を失い、鹽估を為す。勻は諴を生み、早く孤となる。夜薪を然して書を読み、母其の疲れを恤み、火を奪いて寐させんとす、肯へて息まず、遂に經史に通じ、辭章を工みす。性端愨にして、妄りに人と交はらず。

原文畢諴,字存之,黃門監構從孫。構弟栩,生淩,淩生勻,世失官,為鹽估。勻生諴,蚤孤。夜然薪讀書,母恤其疲,奪火使寐,不肯息,遂通經史,工辭章。性端愨,不妄與人交。

大和年中、進士・書判拔萃に舉げられ、連ねて中る。忠武杜悰の幕府に辟さる。悰度支を領す、表して巡官と為し、又從ひて淮南に辟さられ、入りて侍御史に拜す。李德裕始め悰と同く政を輔くるも、協はず、故に悰を劍南東川節度使せつどしに出だす。故吏惟だ諴餞訊すること平素の如く、德裕之を忌み、慈州刺史に出だす。累官駕部員外郎・倉部郎中。故事、要家勢人、倉・駕の二曹を以て辱しと為すも、諴沛然として美官に處るが如く、異言無し。宰相之を知り、職方郎中兼侍御史知雜事を以てし、召し入れて翰林學士と為す。

原文大和中,舉進士、書判拔萃,連中。辟忠武杜悰幕府。悰領度支,表為巡官,又從辟淮南,入拜侍御史。李德裕始與悰同輔政,不協,故出悰劍南東川節度使。故吏惟諴餞訊如平日,德裕忌之,出為慈州刺史。累官駕部員外郎、倉部郎中。故事,要家勢人,以倉、駕二曹為辱,諴沛然如處美官,無異言。宰相知之,以職方郎中兼侍御史知雜事,召入翰林為學士。

党項河西を擾す、宣宗嘗て邊事を召し訪ふ、諴古今に援質し、條に羌を破る狀甚だ悉くす、帝悅びて曰く、「吾將に能く帥する者を擇ばん、孰か謂はん頗・牧吾が禁署に在りと、卿朕が為に行かんや」と。諴唯唯す、即ち刑部侍郎を拜し、出でて邠寧節度・河西供軍安撫使と為る。諴軍に到り、吏を遣はして懷諭せしむ、羌人皆順向す。時に戍兵常に調饟の乏しきを苦しむ、諴士を募り屯田を置き、歲に谷三十萬斛こくを収め、以て度支の經費を省く、詔書嘉美す。俄に昭義に徙り、又河東に遷る。河東尤胡に近く、復た杷頭七十烽を脩め、虜を候ふこと謹み、寇敢へて入らず。

原文党項擾河西,宣宗嘗召訪邊事,諴援質古今,條破羌狀甚悉,帝悅曰:「吾將擇能帥者,孰謂頗、牧在吾禁署,卿為朕行乎。」諴唯唯,即拜刑部侍郎,出為邠寧節度、河西供軍安撫使。諴到軍,遣吏懷諭,羌人皆順向。時戍兵常苦調饟乏,諴募士置屯田,歲收谷三十萬斛,以省度支經費,詔書嘉美。俄徙昭義,又遷河東。河東尤近胡,復脩杷頭七十烽,謹候虜,寇不敢入。

懿宗立つ、宣武節度使に遷り、召されて戶部尚書と為り、度支を判す。未だ幾ばくもせず、禮部尚書同中書門下平章事を以てす。再期、固より疾と稱し、兵部尚書に改め、罷む。旋ち平章事を兼ねて河中を節度す。卒す、年六十二。

原文懿宗立,遷宣武節度使,召為戶部尚書,判度支。未幾,以禮部尚書同中書門下平章事。再期,固稱疾,改兵部尚書,罷。旋兼平章事節度河中。卒,年六十二。

諴吏術に於て尤も長ずる所あり、貴きに既にして、得る所の祿奉、宗屬の乏しきを養護し、間然する無し。初め、諴宣宗に知られ、嘗て相たることを許さる。令狐之を忌み、邠寧より凡そ三徙し、還るを得ず。諴結ぶ所有らんと思ひ、太原に至り、麗姝を求め盛に飾らしめて獻ぜしむ。曰く、「太原我に分無し、今是を以て餌と為し、將に吾が族を破らんとす」と。受けず。使者邸に留まるも、諴亦之を放つ。太醫李玄伯なる者、帝の喜ぶ所、錢七十萬を以て之を聘ひ、夫婦日自ら進食し、其の歡心を得、乃ち之を帝に進む、嬖幸後宮に冠す。玄伯又丹劑を治めて以て進む、帝之を餌ひ、疽背に生ず。懿宗立つ、玄伯及び方士王嶽・虞芝等を収め、俱に誅死せしむ。

原文諴於吏術尤所長,既貴,所得祿奉,養護宗屬之乏,無間然。始,諴被知於宣宗,嘗許以相。令狐忌之,自邠寧凡三徙,不得還。諴思有以結,至太原,求麗姝盛飾使獻。曰:「太原於我無分,今以是餌,將破吾族矣。」不受。使者留於邸,諴亦放之。太醫李玄伯者,帝所喜,以錢七十萬聘之,夫婦日自進食,得其歡心,乃進之帝,嬖幸冠後宮。玄伯又治丹劑以進,帝餌之,疽生於背。懿宗立,收玄伯及方士王嶽、虞芝等,俱誅死。

崔彥昭

原文崔彥昭

崔彥昭、字は思文、其の先清河の人なり。儒術に淹貫し、進士第に擢でらる。數へて帥鎮の辟奏に應じ、吏治に於て精明、至る所課最なり。累進戶部侍郎。河陽節度使より河東に徙る。是に先だち、沙陀諸部多く法を犯す、彥昭撫循して威惠有り、三年、境內大いに治まり、耆老闕を叩きて留まらんことを願ひ、詔して可とす。僖宗立つ、兵部侍郎・諸道鹽鐵轉運使を授く。俄に同中書門下平章事、仍て度支を判す。初め、楊收・路巖・韋保衡皆朋比賄賂に坐して罪を得て死す、蕭仿政を秉り、之を矯革す、而して彥昭協力す、故に百職修舉し、察して苛に至らず。六月に及ばず、門下侍郎に遷る。帝因りて詔を下し收等の過惡を暴き、丁寧に申勵し、以て其の美を成す。

原文崔彥昭,字思文,其先清河人。淹貫儒術,擢進士第。數應帥鎮辟奏,於吏治精明,所至課最。累進戶部侍郎。繇河陽節度使徙河東。先是,沙陀諸部多犯法,彥昭撫循有威惠,三年,境內大治,耆老叩闕願留,詔可。僖宗立,授兵部侍郎、諸道鹽鐵轉運使。俄同中書門下平章事,仍判度支。初,楊收、路巖、韋保衡皆坐朋比賄賂得罪死,蕭仿秉政,矯革之,而彥昭協力,故百職修舉,察不至苛。不六月,遷門下侍郎。帝因下詔暴收等過惡,申勵丁寧,以成其美。

彥昭宰相と雖も、退朝して母の膳に侍り、家人と齒し、順色柔聲、左右に在りて違ふこと無く、士人多く其の孝を稱す。王凝と外昆弟なり。凝大中初め先づ顯はる、而して彥昭未だ仕へず、嘗て凝に見ゆ、凝倨にして冠帶せず、嫚言して曰く、「明經舉に從ふに若かず」と。彥昭憾みと為す。是に至り、凝兵部侍郎と為る。母彥昭の相たるを聞き、婢に敕して屨襪を多く製せしめ、曰く、「王氏の妹必ず子と皆逐はれん、吾將に共に行かん」と。彥昭之を聞き、泣き且つ拜し、敢へて怨みと為さず。而して凝竟に免る。

原文彥昭雖宰相,退朝侍母膳,與家人齒,順色柔聲,在左右無違,士人多其孝。與王凝外昆弟也。凝大中初先顯,而彥昭未仕,嘗見凝,凝倨不冠帶,嫚言曰:「不若從明經舉。」彥昭為憾。至是,凝為兵部侍郎。母聞彥昭相,敕婢多制屨襪,曰:「王氏妹必與子皆逐,吾將共行。」彥昭聞之,泣且拜,不敢為怨。而凝竟免。

伶人李可及懿宗の寵する所と為り、橫はる甚だし、彥昭奏して逐ひ、嶺南に死す。累拜して兼尚書右僕射、疾を以て位を去り、太子太傅を授かり、卒す。

原文伶人李可及為懿宗所寵,橫甚,彥昭奏逐,死嶺南。累拜兼尚書右僕射,以疾去位,授太子太傅,卒。

劉鄴

原文劉鄴

劉鄴、字は漢藩、潤州句容の人なり。父三復、善く文章を以て名を知らる。少くして孤、母病み廢す、三復粟を丐ひて以て養ふ。李德裕浙西觀察使と為り、其の文を奇とし、表して掌書記と為す。德裕三たび浙西及び劍南・淮南を領するも、嘗て從はざること無し。會昌時、位宰相、三復を擢でて刑部侍郎・弘文館學士と為す。

原文劉鄴,字漢藩,潤州句容人。父三復,以善文章知名。少孤,母病廢,三復丐粟以養。李德裕為浙西觀察使,奇其文,表為掌書記。德裕三領浙西及劍南、淮南,未嘗不從。會昌時,位宰相,擢三復刑部侍郎、弘文館學士。

鄴六七歲にして辭を屬する能くす、德裕之を憐み、其の子と師學を共にせしむ。德裕既に斥けらる、鄴依る所無く、去りて江湖の間に客す。陜虢高元裕表して推官に署し、高少逸又鎮國幕府に辟す。咸通初め、左拾遺に擢で、召されて翰林學士と為り、進士第を賜ふ。歷中書舍人、承旨に遷る。鄴德裕の朋黨を以て誣はれ海上に死するを傷み、令狐久しく國に當り、數赦を更へるも、官爵を還さず。懿宗の立つに至り、位を去る、鄴乃ち直に其の冤を申し、官爵を復し、世其の義を高しとす。進みて戶部侍郎・諸道鹽鐵轉運使。禮部尚書同中書門下平章事を以てし、度支を判す。僖宗位を嗣ぎ、再び尚書左僕射に遷る。

原文鄴六七歲能屬辭,德裕憐之,使與其子共師學。德裕既斥,鄴無所依,去客江湖間。陜虢高元裕表署推官,高少逸又辟鎮國幕府。咸通初,擢左拾遺,召為翰林學士,賜進士第。歷中書舍人,遷承旨。鄴傷德裕以朋黨抱誣死海上,令狐久當國,更數赦,不為還官爵。至懿宗立,去位,鄴乃申直其冤,復官爵,世高其義。進戶部侍郎、諸道鹽鐵轉運使。以禮部尚書同中書門下平章事,判度支。僖宗嗣位,再遷尚書左僕射。

初め、韋保衡・路巖鄴と同く政を秉る、跡親しきを為す。俄に蕭仿・崔彥昭相を得、鄴を罷めて淮南節度使・同平章事と為す。黃巢方に熾なり、詔して高駢之に代はり、鳳翔に節度を徙む、固辭し、左僕射に還る。帝西狩す、乘輿に追ひ及ばず、崔沆・豆盧瑑と將軍張直方の家に匿る、賊捕ふこと急なり、三人臣たることを肯へず、俱に見殺さる。

原文初,韋保衡、路巖與鄴同秉政,為跡親。俄而蕭仿、崔彥昭得相,罷鄴為淮南節度使、同平章事。黃巢方熾,詔高駢代之,徙節度鳳翔,固辭,還左僕射。帝西狩,追乘輿不及,與崔沆、豆盧瑑匿將軍張直方家,賊捕急,三人不肯臣,俱見殺。

豆盧瑑は、字を希真といい、河南の人である。官歴は翰林學士・戶部侍郎を経て、崔沆と共に同中書門下平章事に任ぜられた。この日、朝廷に宣告したところ、大風雷雨が起こり樹木を抜いた。間もなく、禍に及んだ。初め、咸通年間に、暦を治める者で禍福を言うのに巧みな者がおり、或る者が問うて言うには、「近頃の宰相は多くても四、五人に至らないのは、何故か」と。答えて言うには、「紫微星がまさに災いを受けているが、しかしその人もまたまさに免れないであろう」と。後に楊收・韋保衡・路巖・盧攜・劉鄴・於琮、瑑と沆は、皆終わりを得られなかったという。

原文豆盧瑑者,字希真,河南人。仕歷翰林學士、戶部侍郎,與崔沆皆拜同中書門下平章事。是日,宣告於廷,大風雷雨拔樹。未幾,及禍。初,咸通中,有治歷者工言禍福,或問:「比宰相多不至四五,謂何?」答曰:「紫微方災,然其人又將不免。」後楊收、韋保衡、路巖、盧攜、劉鄴、於琮、彖與沆,皆不得終雲。

陸扆

原文陸扆

陸扆は、字を祥文といい、宰相陸贄の族孫である。陝に客居し、遂に陝の人となった。光啓二年、僖宗に従って山南に幸し、進士に及第し、累進して翰林學士・中書舍人となった。扆は文章を作るのに巧みで、敏速なること射撃の如く、一時の詔勅文書は、同僚自ら及ばないと思い、昭宗は彼を優遇した。帝が嘗て賦を作り、學士に皆和するよう詔したところ、独り扆が最も早く出来上がった。帝はこれを見て、嘆じて言うには、「貞元の時、陸贄・吳通玄兄弟は内廷の文書に優れていたが、後継者がいなかった。今朕はこれ(扆)を得た」と。初め、進士に挙げられた時、ちょうど天子が遷幸中で、六月に及第の榜が出た。このため、毎年暑さの甚だしい時、他の學士が戯れて言うには、「榜を造る天である」と。扆が及第したのが時宜に合わなかったことを嘲笑したのである。累進して尚書左丞となり、嘉興縣男に封ぜられた。戸部侍郎・同中書門下平章事に転じた。故事では、三省から宰相を得ると、光署錢があり、宴の資金として留保されるが、學士院には未だかつてなかった。扆に至り、光院錢五十萬を送り、近侍の官署を栄えさせた。中書侍郎に進み、戸部を管轄した。

原文陸扆,字祥文,宰相贄族孫。客於陜,遂為陜人。光啟二年,從僖宗幸山南,擢進士第,累進翰林學士、中書舍人。扆工屬辭,敏速若註射然,一時書命,同僚自以為不及,昭宗優遇之。帝嘗作賦,詔學士皆和,獨扆最先就。帝覽之,嘆曰:「貞元時,陸贄、吳通玄兄弟善內廷文書,後無繼者,今朕得之。」始,得舉進士時,方遷幸,而六月榜出。至是,每甚暑,它學士輒戲曰:「造榜天也。」以譏扆進非其時。累為尚書左丞,封嘉興縣男。徙戶部侍郎、同中書門下平章事。故事,自三省得宰相,有光署錢,留為宴資,學士院未始有。至扆,送光院錢五十萬,以榮近司。進中書侍郎,判戶部。

嗣覃王が兵を率いて鳳翔を討伐しようとした時、扆は諫めて言うには、「国運がようやく安定したばかりで、近隣の輔弼の地に兵を加えるべきではなく、必ずや他の賊に乗ぜられ、益がない。また親王が軍事に携われば、必ず後患がある」と。帝は軍を起こそうとしていたので、扆が妨害したと責め、峽州刺史に貶した。軍は果たして敗れた。久しくして、工部尚書を授けられた。天子に従って華州から還り、兵部尚書として再び国政を担当し、吳郡公に封ぜられた。

原文嗣覃王以兵伐鳳翔,扆諫曰:「國步方安,不宜加兵近輔,必為它盜所乘,無益也。且親王而屬軍事,必有後害。」帝顧軍興,責扆沮撓,貶峽州刺史。師果敗。久之,授工部尚書。從天子自華州還,以兵部尚書復當國,封吳郡公。

天復初年、帝は密かに韓偓に言うには、「陸扆と裴贄とは、どちらが我に忠実か」と。偓は言うには、「扆らは皆宰相であり、どうして他心がありましょうか」と。帝は言うには、「外間では扆が朕の復位を喜ばず、元日に服を着替えて啓夏門に奔ったというが、本当か」と。偓は言うには、「誰が陛下にこのことを申し上げましたか」と。帝は言うには、「崔胤と令狐渙である」と。偓は言うには、「仮に扆がそうであったとしても、責めるに足りません。かつ陛下が反正された時、扆は元よりその謀議ぼうぎを知らず、突然兵の起こるのを聞いて、出奔しようとしただけです。陛下がその死難しなかったことを責めるのは可ですが、喜ばなかったとするのは讒言です」と。帝は遂に悟った。累進して戸部尚書を兼ねた。

原文天復初,帝密語韓偓曰:「陸扆、裴贄孰忠於我?」偓曰:「扆等皆宰相,安有它腸?」帝曰:「外言扆不喜我復位,元日易服奔啟夏門,信不?」偓曰:「孰為陛下言此?」曰:「崔胤、令狐渙。」偓曰:「設扆如是,亦不足責。且陛下反正,扆素不知謀,忽聞兵起,欲出奔耳。陛下責其不死難則可,以為不喜,乃讒言也。」帝遂悟。累兼戶部尚書。

帝が鳳翔から還られ、天下に大赦を行い、諸道に皆詔書を賜ったが、独り李茂貞には及ばなかった。扆は言うには、「国の西、鳳翔が最も近く、その罪跡を尋ねれば固より赦すべからざるものがある。しかし尚職貢を修めており、朝廷は未だこれを絶っておらず、詔書において異なる扱いをすべきではない」と。初め、崔胤が宰相を罷められた時、扆が代わった。胤は内心怨み、この時議論して扆が陰に党附しているとし、沂王傅に貶し、東都で分司させた。胤が死ぬと、再び吏部尚書を授けられ、遷都に従って洛陽に移った。柳璨が初めて朱全忠に附き、朝廷の衣冠で声望ある者を除こうと謀り、扆を濮州司戸參軍に貶し、白馬驛で殺害した。享年五十九。扆は初め允迪と名乗り、後に改めたという。

原文帝至自鳳翔,大赦天下,諸道皆賜詔,獨不及李茂貞。扆曰:「國西,鳳翔為最近,跡其罪固不可赦。然尚修職貢,朝廷未之絕,無宜於詔書有以異也。」始,崔胤罷相,扆代之。胤內怨望,及是議以為陰有黨附,貶沂王傅,分司東都。胤死,復授吏部尚書,從遷洛。柳璨始附朱全忠,謀去朝廷衣冠有望者,貶扆濮州司戶參軍,殺之白馬驛,年五十九。扆初名允迪,後改雲。

鄭綮

原文鄭綮

鄭綮は、字を蘊武という。進士に及第し、監察御史を歴任し、累進して左司郎中に抜擢された。貧窮甚だしかったため、廬州刺史の補任を請うた。黄巢が淮南を掠めた時、綮は檄を移して州境を犯さぬよう請うたところ、黄巢は笑い、兵を収め、州は独り無事であった。僖宗はこれを嘉し、緋魚袋を賜った。任期が満ちて去る時、千緡の余銭を州の庫に蔵めた。後、他の賊が来ても、終に鄭使君の銭を犯さなかった。楊行密が刺史となった時、これを都に送り返して綮に還した。王徽が御史大夫となり、兵部郎中として知雜事を表薦し、給事中に遷った。杜弘徽が中書舍人に任ぜられた時、綮はその兄の讓能が政を輔けているので、禁中の要職に処すべきでないとし、制書を返上したが、返答がなく、直ちに病を理由に去った。右散騎常侍に召され、しばしば政事の失を条摘し、衆人は喜んでこれを伝え、宰相は怒り、国子祭酒に改めたが、議論する者は不当とし、再び常侍に戻した。大順以後、王政が衰微すると、綮は毎度詩謠を以て諷諫を託し、宦官が天子の前でこれを誦した。昭宗は彼に未だ尽くされていない蘊蓄があると思い、役人が班簿を上った際、遂にその傍らに署して言うには、「礼部侍郎・同中書門下平章事とせよ」と。綮は元より詩を善くし、その語は多く滑稽であり、故に調子を外すことが多く、世間では共に「鄭五歇後体」と号した。この時、省の吏がその家に走り謁上すると、綮は笑って言うには、「諸君は誤っている。人々は皆字を知らず、宰相もまた我に及ばない」と。吏の言うことは虚妄ではなかった。間もなく制詔が下ったと聞き、嘆じて言うには、「万一そうなれば、天下の人を笑い殺すであろう」と。政務を視るに及んで、宗族や親戚が慶賀に詣でると、頭を掻いて言うには、「歇後体の鄭五が宰相になるとは、事の成り行きは知れたものだ」と。固く辞譲したが、聞き入れられなかった。朝廷に立つや侃々として、以前の態度は無くなった。自ら人の瞻望するに足らぬと思い、僅か三ヶ月で、病を理由に致仕を乞い、太子少保を拝命して致仕し、卒した。

原文鄭綮,字蘊武。及進士第,歷監察御史,擢累左司郎中。因窶甚,丐補廬州刺史。黃巢掠淮南,綮移檄請無犯州境,巢笑,為斂兵,州獨完。僖宗嘉之,賜緋魚。歲滿去,贏錢千緡藏州庫。後它盜至,終不犯鄭使君錢。及楊行密為刺史,送都還綮。王徽為御史大夫,以兵部郎中表知雜事,遷給事中。杜弘徽任中書舍人,綮以其兄讓能輔政,不宜處禁要,上還制書,不報,輒移病去。召為右散騎常侍,往往條摘失政,眾讙傳之,宰相怒,改國子祭酒,議者不直,復還常侍。大順後,王政微,綮每以詩謠托諷,中人有誦之天子前者。昭宗意其有所蘊未盡,因有司上班簿,遂署其側曰:「可禮部侍郎、同中書門下平章事。」綮本善詩,其語多俳諧,故使落調,世共號「鄭五歇後體」。至是,省史走其家上謁,綮笑曰:「諸君誤矣,人皆不識字,宰相亦不及我。」史言不妄。俄聞制詔下,嘆曰:「萬一然,笑殺天下人!」既視事,宗戚詣慶,搔首曰:「歇後鄭五作宰相,事可知矣。」固讓,不聽。立朝偘然,無復故態。自以不為人所瞻望,才三月,以疾乞骸,拜太子少保致仕,卒。

朱朴

原文朱朴

朱朴は、襄州襄陽の人である。三史の挙により、荊門令から京兆府司録參軍に進み、著作郎に改まった。乾寧初年、太府少卿李元實が中外の九品以上の官の二月分の俸給を取って軍興を助けようとしたが、朴が上疏して強く反対し、止んだ。

原文朱朴,襄州襄陽人。以三史舉,繇荊門令進京兆府司錄參軍,改著作郎。乾寧初,太府少卿李元實欲取中外九品以上官兩月俸助軍興,朴上疏執不可而止。

国子《毛詩》博士に抜擢された。時事について上書し、遷都を議して言うには、「古の王者はその居を常とせず、皆天地の興衰を観て、時に随って事を制した。関中は、隋家の都とした所で、我が朝は実にこれを因襲し、凡そ三百年、文物資貨、奢侈僭偽が皆極まっている。広明の巨盗が宮闕を陥覆し、官署や庫蔵、里門や市街は、残っているのは十の二、三であり、石門・華陰に幸して以来、その十二の中からまた八、九を失い、高祖・太宗の制度は蕩然として無くなった。襄・鄧の西は、平坦な地が数百里続き、その東は漢輿・鳳林が関となり、南は菊潭が環屈して流れて漢水に注ぎ、西には上洛の重山の険があり、北には白崖が連絡し、まさに形勝の地、沃衍の墟である。もし広く漕渠を浚って天下の財を運べば、大いに集めることが出来よう。古より中興の君は、既に衰えた衰えを去り、未だ王たらざる王たる所に就く。今の南陽は、漢の光武が起きたが未だ王たらざる所である。臣が山河の壮麗なる処を見るに多く、故都は盛んでいても衰え、興すのは難しい。江南は土薄く水浅く、人心は囂浮軽巧で、都とすべからず。河北は土厚く水深く、人心は強愎狠戾で、都とすべからず。惟だ襄・鄧こそ実に中原であり、人心は質朴善良で、秦に咫尺の距離ながら上洛が限界となり、永く夷狄の侵軼の憂いが無い。これが建都の極選である」と。返答はなかった。

原文擢國子《毛詩》博士。上書言當世事,議遷都曰:「古王者不常厥居,皆觀天地興衰,隨時制事。關中,隋家所都,我實因之,凡三百歲,文物資貨,奢侈僭偽皆極焉。廣明巨盜陷覆宮闕,局署帑藏,裏闬井肆,所存十二,比幸石門、華陰,十二之中又亡八九,高祖、太宗之制蕩然矣。夫襄、鄧之西,夷溫數百里,其東,漢輿、鳳林為之關,南,菊潭環屈而流屬於漢,西有上洛重山之險,北有白崖聯絡,乃形勝之地,沃衍之墟。若廣浚漕渠,運天下之財,可使大集。自古中興之君,去已衰之衰,就未王而王。今南陽,漢光武雖起而未王也。臣視山河壯麗處多,故都已盛而衰,難可興已;江南土薄水淺,人心囂浮輕巧,不可以都;河北土厚水深,人心強愎狠戾,不可以都。惟襄、鄧實惟中原,人心質良,去秦咫尺,而有上洛為之限,永無夷狄侵軼之虞,此建都之極選也。」不報。

朴は人となり木強で、他に才能は無かった。この時、天子は政を失い、特起の士を用いて中興を任せようと思い、朴と親しい方士の許巖士が寵愛を受け、禁中に出入りし、朴に経世済民の才があると言い、また水部郎中何迎もその賢を表したので、帝は召して語り合い、左諫議大夫・同中書門下平章事に抜擢した。平素聞こえが無かったので、人々は大いに驚き、間もなく戸部を管轄し、中書侍郎に進んだ。帝は益々兵を治めようとし、処分すべきことは一々朴に委ねた。朴は四方に檄を移し、近い者は甲士こうしを出し、糧秣を供給し、遠い者は余剰を上納させた。後数ヶ月、巖士が韓建に殺され、朴は罷められ秘書監となり、三度貶謫されて郴州司戸參軍となり、卒した。朴と共に宰相となった者に孫偓がいる。

原文朴為人木強,無它能。方是時,天子失政,思用特起士,任之以中興,而朴所善方士許巖士得幸,出入禁中,言朴有經濟才,又水部郎中何迎亦表其賢,帝召與語,擢左諫議大夫、同中書門下平章事。以素無聞,人人大驚,俄判戶部,進中書侍郎。帝益治兵,所處可一委朴。朴移檄四方,令近者出甲士,資饋饟,遠者以羨余上。後數月,巖士為韓建所殺,朴罷為秘書監,三貶郴州司戶參軍,卒。與朴皆相者孫偓。

附 孫偓

原文附 孫偓

孫偓、字は龍光。父の景商は天平軍節度使となった。偓は進士に及第し、顕官を歴任し、戸部侍郎同中書門下平章事となり、門下に遷り、鳳翔四面行営都統となった。まもなく礼部尚書・行営節度諸軍都統招討処置等使を兼ねた。初め、家の堂の柱に槐の枝が生え、一年で茂ったが、後に偓が政を執ると、楽安県侯に封ぜられた。朴と共に衡州司馬に貶せられ、そこで卒した。

原文孫偓,字龍光。父景商,為天平軍節度使。偓第進士,歷顯官,以戶部侍郎同中書門下平章事,遷門下,為鳳翔四面行營都統。俄兼禮部尚書、行營節度諸軍都統招討處置等使。始,家第堂柱生槐枝,期而茂,既而偓秉政,封樂安縣侯。與朴皆貶衡州司馬,卒。

偓の性質は通達簡素で、わざとらしい飾り立てをせず、嘗て言った、「士に仮に行い有らば、必ずしも己の長を以て彼の短を形どり、己の清を以て彼の濁を顕わすには及ばぬ」と。客に対する毎に、奴僕の童が互いに罵り合い引きずり倒すことがあっても、これを責めず、曰く、「もし怒りの心を持てば、即ち自ら撓むことになる」と。

原文偓性通簡,不矯飭,嘗曰:「士茍有行,不必以己長形彼短、己清彰彼濁。」每對客,奴童相詬曳仆諸前,不之責,曰:「若持怒心,即自撓矣。」

兄に儲がいる。

原文兄 儲

兄の儲は天雄節度使を歴任し、兵部尚書で終わった。

原文兄儲,歷天雄節度使,終兵部尚書。

韓偓

原文韓偓

韓偓、字は致光、京兆府萬年県の人。進士に及第し、河中幕府に佐けた。召されて左拾遺に拝されたが、病のため解任。後に累遷して左諫議大夫となった。宰相崔胤が度支を管掌した時、表して自らの副とさせた。王溥が推薦して翰林学士とし、中書舎人に遷った。偓は嘗て胤と策を定めて劉季述を誅し、昭宗が反正した時、功臣となった。帝は宦官の驕横を患い、悉くこれを除かんとした。偓は言った、「陛下が季述を誅した時、残りは皆赦して問わず、今またこれを誅せば、誰が死を懼れぬことがあろうか。垢を含み忍び隠し、後を待つべきです。天子の威柄は、今は方鎮に散在しております。もし上下心を同じくし、権綱を摂領すれば、なお天下の治まることを望めましょう。宦官の中で忠厚で任用に堪える者には、恩幸を仮し、自らその党を剪除させれば、成らざるはありません。今、度支を食む者は八千人、公私の牽属する者は二万を減ぜず、六、七の巨魁を誅するも益あるを見ず、却ってその逆心を固めるだけです」と。帝は膝を前に進めて言った、「この一事は終始卿に属す」。

原文韓偓,字致光,京兆萬年人。擢進士第,佐河中幕府。召拜左拾遺,以疾解。後遷累左諫議大夫。宰相崔胤判度支,表以自副。王溥薦為翰林學士,遷中書舍人。偓嘗與胤定策誅劉季述,昭宗反正,為功臣。帝疾宦人驕橫,欲盡去之。偓曰:「陛下誅季述時,余皆赦不問,今又誅之,誰不懼死?含垢隱忍,須後可也。天子威柄,今散在方面,若上下同心,攝領權綱,猶冀天下可治。宦人忠厚可任者,假以恩幸,使自翦其黨,蔑有不濟。今食度支者乃八千人,公私牽屬不減二萬,雖誅六七巨魁,未見有益,適固其逆心耳。」帝前膝曰:「此一事終始屬卿。」

中書舎人令狐渙は機巧に任せ、帝は嘗て国政を担当させようとしたが、俄かにまた悔いて言った、「渙が宰相となれば或いは国を誤るであろう、朕はまず卿を用いよう」と。偓は辞して言った、「渙は二世宰相、故事に練達しており、陛下は既にこれを許されました。もし渙を許すことが改められるなら、臣を許すことだけは移せぬものでしょうか」と。帝は言った、「私は未だ面して命じたわけではない、何を憚ることがあろうか」と。偓はそこで御史大夫趙崇が勁正雅重で、中外の準縄と為し得ると推薦した。帝は偓が崇の門生であることを知り、その譲れることを嘆じた。初め、李継昭らは功により皆同中書門下平章事に進み、当時「三使相」と称されたが、後次第に韓全誨・周敬容に附き、皆胤を忌んだ。胤はこれを聞き、鳳翔の李茂貞を召し入朝させ、その族子の継筠を宿衛に留めさせた。偓はこれを聞き、不可と為したが、胤は納れなかった。偓はまた令狐渙に語ると、渙は言った、「我らは宰相を惜しまぬのか。衛軍がなければ閹豎に図られるであろう」と。偓は言った、「そうではない。兵がなければ家も国も安らかであり、兵があれば家も国も保てぬ」と。胤はこれを聞き、憂えて、出ずる所を知らなかった。李彦弼が帝の前に出て甚だ倨傲であったので、帝は平らかでなく、偓はこれを逐うよう請うた。その党を赦して自新を許せば、狂謀は自ら破れると。帝は用いなかった。彦弼は偓と渙が禁省の語を漏らし、政を図るに与すべからずと讒した。帝は怒って言った、「卿には官属があり、日夜議事するのに、どうして私に学士に会わせたくないのか」と。継昭らは殿中で飲みつつ自若としていたので、帝は怒った。偓は言った、「三使相は功有ります。金帛官爵を厚く与え、政事に関与させぬ方がよい。今、宰相は事を専決できず、継昭輩の奏は必ず聴かれます。他日急に改めれば、人は皆怨みを生じます。初めは衛兵で中人を検めましたが、今は敕使と衛兵が一つとなり、臣はひそかに寒心します。茂貞に詔してその衛軍を還させられることを願います。さもなくば、両鎮の兵が闕下で闘い、朝廷は危うくなります」と。そして胤が朱全忠を召して全誨を討たせ、汴兵が将に至らんとした時、偓は胤に茂貞を督して衛卒を還すよう勧めた。また内臣の罪を表暴し、それによって全誨らを誅するよう勧めた。もし茂貞が詔に従わなければ、即ち全忠の入朝を許すべきだと。用いられる前に、全誨らは既に帝を劫して西幸させた。

原文中書舍人令狐渙任機巧,帝嘗欲以當國,俄又悔曰:「渙作宰相或誤國,朕當先用卿。」辭曰:「渙再世宰相,練故事,陛下業已許之。若許渙可改,許臣獨不可移乎?」帝曰:「我未嘗面命,亦何憚?」偓因薦御史大夫趙崇勁正雅重,可以準繩中外。帝知偓,崇門生也,嘆其能讓。初,李繼昭等以功皆進同中書門下平章事,時謂「三使相」,後稍稍更附韓全誨、周敬容,皆忌胤。胤聞,召鳳翔李茂貞入朝,使留族子繼筠宿衛。偓聞,以為不可,胤不納。偓又語令狐渙,渙曰:「吾屬不惜宰相邪?無衛軍則為閹豎所圖矣。」偓曰:「不然。無兵則家與國安,有兵則家與國不可保。」胤聞,憂,未知所出。李彥弼見帝倨甚,帝不平,偓請逐之,赦其黨許自新,則狂謀自破,帝不用。彥弼譖偓及渙漏禁省語,不可與圖政,帝怒,曰:「卿有官屬,日夕議事,奈何不欲我見學士邪?」繼昭等飲殿中自如,帝怒,偓曰:「三使相有功,不如厚與金帛官爵,毋使豫政事。今宰相不得顓決事,繼昭輩所奏必聽。它日遽改,則人人生怨。初以衛兵檢中人,今敕使、衛兵為一,臣竊寒心,願詔茂貞還其衛軍。不然,兩鎮兵鬥闕下,朝廷危矣。」及胤召朱全忠討全誨,汴兵將至,偓勸胤督茂貞還衛卒。又勸表暴內臣罪,因誅全誨等;若茂貞不如詔,即許全忠入朝。未及用,而全誨等已劫帝西幸。

偓は夜に追い鄠に及び、帝に拝謁して慟哭した。鳳翔に至り、兵部侍郎に遷り、承旨に進んだ。

原文偓夜追及鄠,見帝慟哭。至鳳翔,遷兵部侍郎,進承旨。

宰相韋貽範が母の喪にあったが、詔して位に還らせようとした。偓が制を草すこととなり、上言した、「貽範は喪に処すること数ヶ月ならず、急に視事せしむれば、孝子の心を傷つけます。今、中書の事は一相で辦じられます。陛下が誠に貽範の才を惜しまれるなら、縗を変えてから召すこともできます。何ぞ必ずしも峨冠して廟堂に出でしめ、泣血して柩の側に入らせ、毀瘠すれば則ち務を廃し、勤恪すれば則ち哀を忘る、これは人情の処し得る所ではありません」と。学士使の馬従皓が偓に迫って草を求めると、偓は言った、「腕は断たれようとも、麻は草せぬ」と。従皓は言った、「君は死を求めるのか」と。偓は言った、「吾が職は内署にあり、黙々としていてよいのか」と。明日、百官が至ったが、麻が出ず、宦官侍臣が共に騒いだ。茂貞が入って帝に拝謁し言った、「宰相を命じたのに学士が麻を草さぬとは、反逆ではないか」と、艴然として出た。姚洎はこれを聞き言った、「私が当直であれば、また死を継ごう」と。既にして帝は茂貞を畏れ、ついに詔して貽範を還らせて相とし、洎が代わって麻を草した。ここにおいて宦官の党は偓を甚だ怒った。従皓が偓を責めて言った、「南司は北司を甚だ軽んずる。君は崔胤・王溥の推薦するところ、今日北司が仮にこれを殺すも可なり。両軍の枢密は、君が周歳奉入無きを以て、我ら救接を議す、君はこれを知るか」と。偓は敢えて答えなかった。

原文宰相韋貽範母喪,詔還位,偓當草制,上言:「貽範處喪未數月,遽使視事,傷孝子心。今中書事,一相可辦。陛下誠惜貽範才,俟變缞而召可也。何必使出峨冠廟堂,入泣血柩側,毀瘠則廢務,勤恪則忘哀,此非人情可處也。」學士使馬從皓逼偓求草,偓曰:「腕可斷,麻不可草!」從皓曰:「君求死邪?」偓曰:「吾職內署,可默默乎?」明日,百官至,而麻不出,宦侍合噪。茂貞入見帝曰:「命宰相而學士不草麻,非反邪?」艴然出。姚洎聞曰:「使我當直,亦繼以死。」既而帝畏茂貞,卒詔貽範還相,洎代草麻。自是宦黨怒偓甚。從皓讓偓曰:「南司輕北司甚,君乃崔胤、王溥所薦,今日北司雖殺之可也。兩軍樞密,以君周歲無奉入,吾等議救接,君知之乎?」偓不敢對。

茂貞は帝が間を出て全忠に依らんことを疑い、兵をもって行在を衛らせた。帝が武徳殿前を行き、因って尚食局に至ると、学士が独り在るに会い、宮人が偓を招いた。偓が至り、再拝して哭して言った、「崔胤は甚だ健在、全忠の軍は必ず済みましょう」と。帝は喜んだ。偓は言った、「願わくは陛下還宮され、人に知られませぬように」と。帝は面豆を賜って去った。全誨が誅せられ、宮人は多く連坐して死した。帝は残党を悉く除かんとしたが、偓は言った、「礼に、人臣に将無し、将あれば必ず誅すと。宮婢が恩を負うは赦すべからず。然れども三十年ならずして人とは成れず、悉く誅せば則ち仁を傷つけます。願わくは尤も甚だしき者を去り、内を安んじて外とし、以て群心を静められよ」と。帝は言った、「善し」。崔胤が輝王を元帥とするよう請うた。帝は偓に問うた、「他日、我が児の累となるか」と。偓は言った、「陛下が東内におられた時、天陰雺たり、王は烏の声を聞きて言われました、『上と后は幽困せられ、烏雀の声も亦悲し』と。陛下はこれを聞きて惻然とされました、これは有りましたか」と。帝は言った、「然り。この児は天より忠孝を生まれつき、人と異なる」と。意は遂に決した。偓の議が胤に附く類はこのようであった。

原文茂貞疑帝間出依全忠,以兵衛行在。帝行武德殿前,因至尚食局,會學士獨在,宮人招偓,偓至,再拜哭曰:「崔胤甚健,全忠軍必濟。」帝喜,偓曰:「願陛下還宮,無為人知。」帝賜以面豆而去。全誨誅,宮人多坐死。帝欲盡去餘黨,偓曰:「禮,人臣無將,將必誅,宮婢負恩不可赦。然不三十年不能成人,盡誅則傷仁。願去尤者,自內安外,以靜群心。」帝曰:「善。」崔胤請以輝王為元帥,帝問偓:「它日累吾兒否?」偓曰:「陛下在東內時,天陰雺,王聞烏聲曰:『上與後幽困,烏雀聲亦悲。』陛下聞之惻然,有是否?」帝曰:「然。是兒天生忠孝,與人異。」意遂決。偓議附胤類如此。

帝が反正し、政事に励精するや、韓偓は機密に当たり、多く帝の意に合い、三、四度宰相にしようとしたが、譲って敢えて当たらなかった。蘇検がまた同輔政に引き入れようとしたが、遂に固く辞した。初め、韓偓が侍宴した時、京兆尹鄭元規・威遠使陳班と並席しようとしたが、辞して言うには、「学士は外班と接しない」と。主席の者が固く請うたので、乃ち坐した。既に元規・班が至ると、終に席を絶った。全忠・崔胤が階前に臨んで事を宣するや、坐する者は皆席を去ったが、韓偓は動かず、言うには、「侍宴にては輒ち立たず、二公は我を以て礼を知る者と為さんとするなり」と。全忠は韓偓が己を軽んじたことに怒り、憤然として出た。韓偓が高位の者を侵侮するのを好むと讒言する者があり、崔胤もまた韓偓と仲違いした。王溥・陸扆を逐うに当たり、帝は王賛・趙崇を宰相にしようとしたが、崔胤は賛・崇は宰相の器でないと執し、帝は已むを得ずこれを罷めた。賛・崇は皆韓偓が宰相として推薦した者であった。全忠が帝に謁見し、韓偓の罪を責めると、帝は幾度も崔胤を顧みたが、胤は弁解しなかった。全忠は中書に至り、韓偓を召して殺そうとした。鄭元規が言うには、「韓偓は侍郎・学士承旨の位にあり、公急ぐことなかれ」と。全忠は乃ち止め、濮州司馬に貶した。帝はその手を執り流涕して言うには、「我が左右に人無し」と。再び栄懿尉に貶し、鄧州司馬に移した。天祐二年、再び学士として召され、故官に還った。韓偓は敢えて朝に入らず、その一族を率いて南に依り王審知に依って卒した。

原文帝反正,勵精政事,偓處可機密,率與帝意合,欲相者三四,讓不敢當。蘇檢復引同輔政,遂固辭。初,偓侍宴,與京兆鄭元規、威遠使陳班並席,辭曰:「學士不與外班接。」主席者固請,乃坐。既元規、班至,終絕席。全忠、胤臨陛宣事,坐者皆去席,偓不動,曰:「侍宴無輒立,二公將以我為知禮。」全忠怒偓薄己,悻然出。有譖偓喜侵侮有位,胤亦與偓貳。會逐王溥、陸扆,帝以王贊、趙崇為相,胤執贊、崇非宰相器,帝不得已而罷。贊、崇皆偓所薦為宰相者。全忠見帝,斥偓罪,帝數顧胤,胤不為解。全忠至中書,欲召偓殺之。鄭元規曰:「偓位侍郎、學士承旨,公無遽。」全忠乃止,貶濮州司馬。帝執其手流涕曰:「我左右無人矣。」再貶榮懿尉,徙鄧州司馬。天祐二年,復召為學士,還故官。偓不敢入朝,挈其族南依王審知而卒。

兄 韓儀

原文兄 儀

兄の韓儀、字は羽光、亦た翰林学士として御史中丞となった。韓偓が貶された明年、帝が文思球場に宴した時、全忠が入ると、百官は廡下に坐した。全忠は怒り、韓儀を棣州司馬に貶し、侍御史帰藹を登州司戸参軍に貶した。

原文兄儀,字羽光,亦以翰林學士為御史中丞。偓貶之明年,帝宴文思球場,全忠入,百官坐廡下,全忠怒,貶儀棣州司馬,侍御史歸藹登州司戶參軍。

賛に曰く、懿宗・僖宗以来、王道は日にその序を失い、腐った宦官が朝廷を塞ぎ、賢人は遁逃し、四方の豪傑英材は、各々付く所に附いて奮い立った。天子は塊然として、与にするところは、佞人で剛愎な庸奴のみ、乃ち横流を障ぎ、已に顛れんとするのを支えんと欲するは、寧ろ殆うからざらんや。観るに朱朴・張濬の輩は次を越えて用いられ、豚の臑を捭き、貙の牙を拒み、亡びに趣くのみ。一人の韓偓さえ容れることができず、況んや賢者をや。

原文贊曰:懿、僖以來,王道日失厥序,腐尹塞朝,賢人遁逃,四方豪英,各附所合而奮。天子塊然,所與者,惟佞愎庸奴,乃欲鄣橫流、支已顛,寧不殆哉!觀綮、朴輩不次而用,捭豚臑,拒貙牙,趣亡而已。一韓偓不能容,況賢者乎?