新唐書

巻一百八十三 列傳第一百零八 畢崔劉陸鄭朱韓

畢諴

畢諴、字は存之、黄門監畢構の從孫なり。構の弟栩、凌を生み、凌は勻を生み、世官を失い、鹽估を為す。勻は諴を生み、早く孤となる。夜薪を然して書を読み、母其の疲れを恤み、火を奪いて寐させんとす、肯へて息まず、遂に經史に通じ、辭章を工みす。性端愨にして、妄りに人と交はらず。

大和年中、進士・書判拔萃に舉げられ、連ねて中る。忠武杜悰の幕府に辟さる。悰度支を領す、表して巡官と為し、又從ひて淮南に辟さられ、入りて侍御史に拜す。李德裕始め悰と同く政を輔くるも、協はず、故に悰を劍南東川節度使に出だす。故吏惟だ諴餞訊すること平素の如く、德裕之を忌み、慈州刺史に出だす。累官駕部員外郎・倉部郎中。故事、要家勢人、倉・駕の二曹を以て辱しと為すも、諴はい然として美官に處るが如く、異言無し。宰相之を知り、職方郎中兼侍御史知雜事を以てし、召し入れて翰林學士と為す。

党項河西を擾す、宣宗嘗て邊事を召し訪ふ、諴古今に援質し、條に羌を破る狀甚だ悉くす、帝悅びて曰く、「吾將に能く帥する者を擇ばん、孰か謂はん頗・牧吾が禁署に在りと、卿朕が為に行かんや」と。諴唯唯す、即ち刑部侍郎を拜し、出でて邠寧節度・河西供軍安撫使と為る。諴軍に到り、吏を遣はして懷諭せしむ、羌人皆順向す。時に戍兵常に調饟の乏しきを苦しむ、諴士を募り屯田を置き、歲に谷三十萬斛を収め、以て度支の經費を省く、詔書嘉美す。俄に昭義に徙り、又河東に遷る。河東尤胡に近く、復た杷頭七十烽を脩め、虜を候ふこと謹み、寇敢へて入らず。

懿宗立つ、宣武節度使に遷り、召されて戶部尚書と為り、度支を判す。未だ幾ばくもせず、禮部尚書同中書門下平章事を以てす。再期、固より疾と稱し、兵部尚書に改め、罷む。旋ち平章事を兼ねて河中を節度す。卒す、年六十二。

諴吏術に於て尤も長ずる所あり、貴きに既にして、得る所の祿奉、宗屬の乏しきを養護し、間然する無し。初め、諴宣宗に知られ、嘗て相たることを許さる。令狐之を忌み、邠寧より凡そ三徙し、還るを得ず。諴結ぶ所有らんと思ひ、太原に至り、麗姝を求め盛に飾らしめて獻ぜしむ。曰く、「太原我に分無し、今是を以て餌と為し、將に吾が族を破らんとす」と。受けず。使者邸に留まるも、諴亦之を放つ。太醫李玄伯なる者、帝の喜ぶ所、錢七十萬を以て之を聘ひ、夫婦日自ら進食し、其の歡心を得、乃ち之を帝に進む、嬖幸後宮に冠す。玄伯又丹劑を治めて以て進む、帝之を餌ひ、疽背に生ず。懿宗立つ、玄伯及び方士王嶽・虞芝等を収め、俱に誅死せしむ。

崔彥昭

崔彥昭、字は思文、其の先清河の人なり。儒術に淹貫し、進士第に擢でらる。數へて帥鎮の辟奏に應じ、吏治に於て精明、至る所課最なり。累進戶部侍郎。河陽節度使より河東に徙る。是に先だち、沙陀諸部多く法を犯す、彥昭撫循して威惠有り、三年、境內大いに治まり、耆老闕を叩きて留まらんことを願ひ、詔して可とす。僖宗立つ、兵部侍郎・諸道鹽鐵轉運使を授く。俄に同中書門下平章事、仍て度支を判す。初め、楊收・路巖・韋保衡皆朋比賄賂に坐して罪を得て死す、蕭仿政を秉り、之を矯革す、而して彥昭協力す、故に百職修舉し、察して苛に至らず。六月に及ばず、門下侍郎に遷る。帝因りて詔を下し收等の過惡を暴き、丁寧に申勵し、以て其の美を成す。

彥昭宰相と雖も、退朝して母の膳に侍り、家人と齒し、順色柔聲、左右に在りて違ふこと無く、士人多く其の孝を稱す。王凝と外昆弟なり。凝大中初め先づ顯はる、而して彥昭未だ仕へず、嘗て凝に見ゆ、凝倨にして冠帶せず、嫚言して曰く、「明經舉に從ふに若かず」と。彥昭憾みと為す。是に至り、凝兵部侍郎と為る。母彥昭の相たるを聞き、婢に敕して屨襪を多く製せしめ、曰く、「王氏の妹必ず子と皆逐はれん、吾將に共に行かん」と。彥昭之を聞き、泣き且つ拜し、敢へて怨みと為さず。而して凝竟に免る。

伶人李可及懿宗の寵する所と為り、橫はる甚だし、彥昭奏して逐ひ、嶺南に死す。累拜して兼尚書右僕射、疾を以て位を去り、太子太傅を授かり、卒す。

劉鄴

劉鄴、字は漢藩、潤州句容の人なり。父三復、善く文章を以て名を知らる。少くして孤、母病み廢す、三復粟を丐ひて以て養ふ。李德裕浙西觀察使と為り、其の文を奇とし、表して掌書記と為す。德裕三たび浙西及び劍南・淮南を領するも、嘗て從はざること無し。會昌時、位宰相、三復を擢でて刑部侍郎・弘文館學士と為す。

鄴六七歲にして辭を屬する能くす、德裕之を憐み、其の子と師學を共にせしむ。德裕既に斥けらる、鄴依る所無く、去りて江湖の間に客す。陜虢高元裕表して推官に署し、高少逸又鎮國幕府に辟す。咸通初め、左拾遺に擢で、召されて翰林學士と為り、進士第を賜ふ。歷中書舍人、承旨に遷る。鄴德裕の朋黨を以て誣はれ海上に死するを傷み、令狐久しく國に當り、數赦を更へるも、官爵を還さず。懿宗の立つに至り、位を去る、鄴乃ち直に其の冤を申し、官爵を復し、世其の義を高しとす。進みて戶部侍郎・諸道鹽鐵轉運使。禮部尚書同中書門下平章事を以てし、度支を判す。僖宗位を嗣ぎ、再び尚書左僕射に遷る。

初め、韋保衡・路巖鄴と同く政を秉る、跡親しきを為す。俄に蕭仿・崔彥昭相を得、鄴を罷めて淮南節度使・同平章事と為す。黃巢方に熾なり、詔して高駢之に代はり、鳳翔に節度を徙む、固辭し、左僕射に還る。帝西狩す、乘輿に追ひ及ばず、崔沆・豆盧瑑と將軍張直方の家に匿る、賊捕ふこと急なり、三人臣たることを肯へず、俱に見殺さる。

豆盧瑑は、字を希真といい、河南の人である。官歴は翰林學士・戶部侍郎を経て、崔沆と共に同中書門下平章事に任ぜられた。この日、朝廷に宣告したところ、大風雷雨が起こり樹木を抜いた。間もなく、禍に及んだ。初め、咸通年間に、暦を治める者で禍福を言うのに巧みな者がおり、或る者が問うて言うには、「近頃の宰相は多くても四、五人に至らないのは、何故か」と。答えて言うには、「紫微星がまさに災いを受けているが、しかしその人もまたまさに免れないであろう」と。後に楊收・韋保衡・路巖・盧攜・劉鄴・於琮、瑑と沆は、皆終わりを得られなかったという。

陸扆

陸扆は、字を祥文といい、宰相陸贄の族孫である。陝に客居し、遂に陝の人となった。光啓二年、僖宗に従って山南に幸し、進士に及第し、累進して翰林學士・中書舍人となった。扆は文章を作るのに巧みで、敏速なること射撃の如く、一時の詔勅文書は、同僚自ら及ばないと思い、昭宗は彼を優遇した。帝が嘗て賦を作り、學士に皆和するよう詔したところ、独り扆が最も早く出来上がった。帝はこれを見て、嘆じて言うには、「貞元の時、陸贄・吳通玄兄弟は内廷の文書に優れていたが、後継者がいなかった。今朕はこれ(扆)を得た」と。初め、進士に挙げられた時、ちょうど天子が遷幸中で、六月に及第の榜が出た。このため、毎年暑さの甚だしい時、他の學士が戯れて言うには、「榜を造る天である」と。扆が及第したのが時宜に合わなかったことを嘲笑したのである。累進して尚書左丞となり、嘉興縣男に封ぜられた。戸部侍郎・同中書門下平章事に転じた。故事では、三省から宰相を得ると、光署錢があり、宴の資金として留保されるが、學士院には未だかつてなかった。扆に至り、光院錢五十萬を送り、近侍の官署を栄えさせた。中書侍郎に進み、戸部を管轄した。

嗣覃王が兵を率いて鳳翔を討伐しようとした時、扆は諫めて言うには、「国運がようやく安定したばかりで、近隣の輔弼の地に兵を加えるべきではなく、必ずや他の賊に乗ぜられ、益がない。また親王が軍事に携われば、必ず後患がある」と。帝は軍を起こそうとしていたので、扆が妨害したと責め、峽州刺史に貶した。軍は果たして敗れた。久しくして、工部尚書を授けられた。天子に従って華州から還り、兵部尚書として再び国政を担当し、吳郡公に封ぜられた。

天復初年、帝は密かに韓偓に言うには、「陸扆と裴贄とは、どちらが我に忠実か」と。偓は言うには、「扆らは皆宰相であり、どうして他心がありましょうか」と。帝は言うには、「外間では扆が朕の復位を喜ばず、元日に服を着替えて啓夏門に奔ったというが、本当か」と。偓は言うには、「誰が陛下にこのことを申し上げましたか」と。帝は言うには、「崔胤と令狐渙である」と。偓は言うには、「仮に扆がそうであったとしても、責めるに足りません。かつ陛下が反正された時、扆は元よりその謀議を知らず、突然兵の起こるのを聞いて、出奔しようとしただけです。陛下がその死難しなかったことを責めるのは可ですが、喜ばなかったとするのは讒言です」と。帝は遂に悟った。累進して戸部尚書を兼ねた。

帝が鳳翔から還られ、天下に大赦を行い、諸道に皆詔書を賜ったが、独り李茂貞には及ばなかった。扆は言うには、「国の西、鳳翔が最も近く、その罪跡を尋ねれば固より赦すべからざるものがある。しかし尚職貢を修めており、朝廷は未だこれを絶っておらず、詔書において異なる扱いをすべきではない」と。初め、崔胤が宰相を罷められた時、扆が代わった。胤は内心怨み、この時議論して扆が陰に党附しているとし、沂王傅に貶し、東都で分司させた。胤が死ぬと、再び吏部尚書を授けられ、遷都に従って洛陽らくように移った。柳璨が初めて朱全忠に附き、朝廷の衣冠で声望ある者を除こうと謀り、扆を濮州司戸參軍に貶し、白馬驛で殺害した。享年五十九。扆は初め允迪と名乗り、後に改めたという。

鄭綮

鄭綮は、字を蘊武という。進士に及第し、監察御史を歴任し、累進して左司郎中に抜擢された。貧窮甚だしかったため、廬州刺史の補任を請うた。黄巢が淮南を掠めた時、綮は檄を移して州境を犯さぬよう請うたところ、黄巢は笑い、兵を収め、州は独り無事であった。僖宗はこれを嘉し、緋魚袋を賜った。任期が満ちて去る時、千緡の余銭を州の庫に蔵めた。後、他の賊が来ても、終に鄭使君の銭を犯さなかった。楊行密が刺史となった時、これを都に送り返して綮に還した。王徽が御史大夫となり、兵部郎中として知雜事を表薦し、給事中に遷った。杜弘徽が中書舍人に任ぜられた時、綮はその兄の讓能が政を輔けているので、禁中の要職に処すべきでないとし、制書を返上したが、返答がなく、直ちに病を理由に去った。右散騎常侍さんきじょうじに召され、しばしば政事の失を条摘し、衆人は喜んでこれを伝え、宰相は怒り、国子祭酒に改めたが、議論する者は不当とし、再び常侍に戻した。大順以後、王政が衰微すると、綮は毎度詩謠を以て諷諫を託し、宦官が天子の前でこれを誦した。昭宗は彼に未だ尽くされていない蘊蓄があると思い、役人が班簿を上った際、遂にその傍らに署して言うには、「礼部侍郎・同中書門下平章事とせよ」と。綮は元より詩を善くし、その語は多く滑稽であり、故に調子を外すことが多く、世間では共に「鄭五歇後体」と号した。この時、省の吏がその家に走り謁上すると、綮は笑って言うには、「諸君は誤っている。人々は皆字を知らず、宰相もまた我に及ばない」と。吏の言うことは虚妄ではなかった。間もなく制詔が下ったと聞き、嘆じて言うには、「万一そうなれば、天下の人を笑い殺すであろう」と。政務を視るに及んで、宗族や親戚が慶賀に詣でると、頭を掻いて言うには、「歇後体の鄭五が宰相になるとは、事の成り行きは知れたものだ」と。固く辞譲したが、聞き入れられなかった。朝廷に立つや侃々として、以前の態度は無くなった。自ら人の瞻望するに足らぬと思い、僅か三ヶ月で、病を理由に致仕を乞い、太子少保を拝命して致仕し、卒した。

朱朴

朱朴は、襄州襄陽の人である。三史の挙により、荊門令から京兆府司録參軍に進み、著作郎に改まった。乾寧初年、太府少卿李元實が中外の九品以上の官の二月分の俸給を取って軍興を助けようとしたが、朴が上疏して強く反対し、止んだ。

国子《毛詩》博士に抜擢された。時事について上書し、遷都を議して言うには、「古の王者はその居を常とせず、皆天地の興衰を観て、時に随って事を制した。関中は、隋家の都とした所で、我が朝は実にこれを因襲し、凡そ三百年、文物資貨、奢侈僭偽が皆極まっている。広明の巨盗が宮闕を陥覆し、官署や庫蔵、里門や市街は、残っているのは十の二、三であり、石門・華陰に幸して以来、その十二の中からまた八、九を失い、高祖こうそ・太宗の制度は蕩然として無くなった。襄・鄧の西は、平坦な地が数百里続き、その東は漢輿・鳳林が関となり、南は菊潭が環屈して流れて漢水に注ぎ、西には上洛の重山の険があり、北には白崖が連絡し、まさに形勝の地、沃衍の墟である。もし広く漕渠を浚って天下の財を運べば、大いに集めることが出来よう。古より中興の君は、既に衰えた衰えを去り、未だ王たらざる王たる所に就く。今の南陽は、漢の光武が起きたが未だ王たらざる所である。臣が山河の壮麗なる処を見るに多く、故都は盛んでいても衰え、興すのは難しい。江南は土薄く水浅く、人心は囂浮軽巧で、都とすべからず。河北は土厚く水深く、人心は強愎狠戾で、都とすべからず。惟だ襄・鄧こそ実に中原であり、人心は質朴善良で、秦に咫尺の距離ながら上洛が限界となり、永く夷狄の侵軼の憂いが無い。これが建都の極選である」と。返答はなかった。

朴は人となり木強で、他に才能は無かった。この時、天子は政を失い、特起の士を用いて中興を任せようと思い、朴と親しい方士の許巖士が寵愛を受け、禁中に出入りし、朴に経世済民の才があると言い、また水部郎中何迎もその賢を表したので、帝は召して語り合い、左諫議大夫・同中書門下平章事に抜擢した。平素聞こえが無かったので、人々は大いに驚き、間もなく戸部を管轄し、中書侍郎に進んだ。帝は益々兵を治めようとし、処分すべきことは一々朴に委ねた。朴は四方に檄を移し、近い者は甲士を出し、糧秣を供給し、遠い者は余剰を上納させた。後数ヶ月、巖士が韓建に殺され、朴は罷められ秘書監となり、三度貶謫されて郴州司戸參軍となり、卒した。朴と共に宰相となった者に孫偓がいる。

附 孫偓

孫偓、字は龍光。父の景商は天平軍節度使となった。偓は進士に及第し、顕官を歴任し、戸部侍郎同中書門下平章事となり、門下に遷り、鳳翔四面行営都統となった。まもなく礼部尚書・行営節度諸軍都統招討処置等使を兼ねた。初め、家の堂の柱に槐の枝が生え、一年で茂ったが、後に偓が政を執ると、楽安県侯に封ぜられた。朴と共に衡州司馬に貶せられ、そこで卒した。

偓の性質は通達簡素で、わざとらしい飾り立てをせず、嘗て言った、「士に仮に行い有らば、必ずしも己の長を以て彼の短を形どり、己の清を以て彼の濁を顕わすには及ばぬ」と。客に対する毎に、奴僕の童が互いに罵り合い引きずり倒すことがあっても、これを責めず、曰く、「もし怒りの心を持てば、即ち自ら撓むことになる」と。

兄に儲がいる。

兄の儲は天雄節度使を歴任し、兵部尚書で終わった。

韓偓

韓偓、字は致光、京兆府萬年県の人。進士に及第し、河中幕府に佐けた。召されて左拾遺に拝されたが、病のため解任。後に累遷して左諫議大夫となった。宰相崔胤が度支を管掌した時、表して自らの副とさせた。王溥が推薦して翰林学士とし、中書舎人に遷った。偓は嘗て胤と策を定めて劉季述を誅し、昭宗が反正した時、功臣となった。帝は宦官の驕横を患い、悉くこれを除かんとした。偓は言った、「陛下が季述を誅した時、残りは皆赦して問わず、今またこれを誅せば、誰が死を懼れぬことがあろうか。垢を含み忍び隠し、後を待つべきです。天子の威柄は、今は方鎮に散在しております。もし上下心を同じくし、権綱を摂領すれば、なお天下の治まることを望めましょう。宦官の中で忠厚で任用に堪える者には、恩幸を仮し、自らその党を剪除させれば、成らざるはありません。今、度支を食む者は八千人、公私の牽属する者は二万を減ぜず、六、七の巨魁を誅するも益あるを見ず、却ってその逆心を固めるだけです」と。帝は膝を前に進めて言った、「この一事は終始卿に属す」。

中書舎人令狐渙は機巧に任せ、帝は嘗て国政を担当させようとしたが、俄かにまた悔いて言った、「渙が宰相となれば或いは国を誤るであろう、朕はまず卿を用いよう」と。偓は辞して言った、「渙は二世宰相、故事に練達しており、陛下は既にこれを許されました。もし渙を許すことが改められるなら、臣を許すことだけは移せぬものでしょうか」と。帝は言った、「私は未だ面して命じたわけではない、何を憚ることがあろうか」と。偓はそこで御史大夫趙崇が勁正雅重で、中外の準縄と為し得ると推薦した。帝は偓が崇の門生であることを知り、その譲れることを嘆じた。初め、李継昭らは功により皆同中書門下平章事に進み、当時「三使相」と称されたが、後次第に韓全誨・周敬容に附き、皆胤を忌んだ。胤はこれを聞き、鳳翔の李茂貞を召し入朝させ、その族子の継筠を宿衛に留めさせた。偓はこれを聞き、不可と為したが、胤は納れなかった。偓はまた令狐渙に語ると、渙は言った、「我らは宰相を惜しまぬのか。衛軍がなければ閹豎に図られるであろう」と。偓は言った、「そうではない。兵がなければ家も国も安らかであり、兵があれば家も国も保てぬ」と。胤はこれを聞き、憂えて、出ずる所を知らなかった。李彦弼が帝の前に出て甚だ倨傲であったので、帝は平らかでなく、偓はこれを逐うよう請うた。その党を赦して自新を許せば、狂謀は自ら破れると。帝は用いなかった。彦弼は偓と渙が禁省の語を漏らし、政を図るに与すべからずと讒した。帝は怒って言った、「卿には官属があり、日夜議事するのに、どうして私に学士に会わせたくないのか」と。継昭らは殿中で飲みつつ自若としていたので、帝は怒った。偓は言った、「三使相は功有ります。金帛官爵を厚く与え、政事に関与させぬ方がよい。今、宰相は事を専決できず、継昭輩の奏は必ず聴かれます。他日急に改めれば、人は皆怨みを生じます。初めは衛兵で中人を検めましたが、今は敕使と衛兵が一つとなり、臣はひそかに寒心します。茂貞に詔してその衛軍を還させられることを願います。さもなくば、両鎮の兵が闕下で闘い、朝廷は危うくなります」と。そして胤が朱全忠を召して全誨を討たせ、汴兵が将に至らんとした時、偓は胤に茂貞を督して衛卒を還すよう勧めた。また内臣の罪を表暴し、それによって全誨らを誅するよう勧めた。もし茂貞が詔に従わなければ、即ち全忠の入朝を許すべきだと。用いられる前に、全誨らは既に帝を劫して西幸させた。

偓は夜に追い鄠に及び、帝に拝謁して慟哭した。鳳翔に至り、兵部侍郎に遷り、承旨に進んだ。

宰相韋貽範が母の喪にあったが、詔して位に還らせようとした。偓が制を草すこととなり、上言した、「貽範は喪に処すること数ヶ月ならず、急に視事せしむれば、孝子の心を傷つけます。今、中書の事は一相で辦じられます。陛下が誠に貽範の才を惜しまれるなら、縗を変えてから召すこともできます。何ぞ必ずしも峨冠して廟堂に出でしめ、泣血して柩の側に入らせ、毀瘠すれば則ち務を廃し、勤恪すれば則ち哀を忘る、これは人情の処し得る所ではありません」と。学士使の馬従皓が偓に迫って草を求めると、偓は言った、「腕は断たれようとも、麻は草せぬ」と。従皓は言った、「君は死を求めるのか」と。偓は言った、「吾が職は内署にあり、黙々としていてよいのか」と。明日、百官が至ったが、麻が出ず、宦官侍臣が共に騒いだ。茂貞が入って帝に拝謁し言った、「宰相を命じたのに学士が麻を草さぬとは、反逆ではないか」と、艴然として出た。姚洎はこれを聞き言った、「私が当直であれば、また死を継ごう」と。既にして帝は茂貞を畏れ、ついに詔して貽範を還らせて相とし、洎が代わって麻を草した。ここにおいて宦官の党は偓を甚だ怒った。従皓が偓を責めて言った、「南司は北司を甚だ軽んずる。君は崔胤・王溥の推薦するところ、今日北司が仮にこれを殺すも可なり。両軍の枢密は、君が周歳奉入無きを以て、我ら救接を議す、君はこれを知るか」と。偓は敢えて答えなかった。

茂貞は帝が間を出て全忠に依らんことを疑い、兵をもって行在を衛らせた。帝が武徳殿前を行き、因って尚食局に至ると、学士が独り在るに会い、宮人が偓を招いた。偓が至り、再拝して哭して言った、「崔胤は甚だ健在、全忠の軍は必ず済みましょう」と。帝は喜んだ。偓は言った、「願わくは陛下還宮され、人に知られませぬように」と。帝は面豆を賜って去った。全誨が誅せられ、宮人は多く連坐して死した。帝は残党を悉く除かんとしたが、偓は言った、「礼に、人臣に将無し、将あれば必ず誅すと。宮婢が恩を負うは赦すべからず。然れども三十年ならずして人とは成れず、悉く誅せば則ち仁を傷つけます。願わくは尤も甚だしき者を去り、内を安んじて外とし、以て群心を静められよ」と。帝は言った、「善し」。崔胤が輝王を元帥とするよう請うた。帝は偓に問うた、「他日、我が児の累となるか」と。偓は言った、「陛下が東内におられた時、天陰雺たり、王は烏の声を聞きて言われました、『上と后は幽困せられ、烏雀の声も亦悲し』と。陛下はこれを聞きて惻然とされました、これは有りましたか」と。帝は言った、「然り。この児は天より忠孝を生まれつき、人と異なる」と。意は遂に決した。偓の議が胤に附く類はこのようであった。

帝が反正し、政事に励精するや、韓偓は機密に当たり、多く帝の意に合い、三、四度宰相にしようとしたが、譲って敢えて当たらなかった。蘇検がまた同輔政に引き入れようとしたが、遂に固く辞した。初め、韓偓が侍宴した時、京兆尹鄭元規・威遠使陳班と並席しようとしたが、辞して言うには、「学士は外班と接しない」と。主席の者が固く請うたので、乃ち坐した。既に元規・班が至ると、終に席を絶った。全忠・崔胤が階前に臨んで事を宣するや、坐する者は皆席を去ったが、韓偓は動かず、言うには、「侍宴にては輒ち立たず、二公は我を以て礼を知る者と為さんとするなり」と。全忠は韓偓が己を軽んじたことに怒り、憤然として出た。韓偓が高位の者を侵侮するのを好むと讒言する者があり、崔胤もまた韓偓と仲違いした。王溥・陸扆を逐うに当たり、帝は王賛・趙崇を宰相にしようとしたが、崔胤は賛・崇は宰相の器でないと執し、帝は已むを得ずこれを罷めた。賛・崇は皆韓偓が宰相として推薦した者であった。全忠が帝に謁見し、韓偓の罪を責めると、帝は幾度も崔胤を顧みたが、胤は弁解しなかった。全忠は中書に至り、韓偓を召して殺そうとした。鄭元規が言うには、「韓偓は侍郎・学士承旨の位にあり、公急ぐことなかれ」と。全忠は乃ち止め、濮州司馬に貶した。帝はその手を執り流涕して言うには、「我が左右に人無し」と。再び栄懿尉に貶し、鄧州司馬に移した。天祐二年、再び学士として召され、故官に還った。韓偓は敢えて朝に入らず、その一族を率いて南に依り王審知に依って卒した。

兄 韓儀

兄の韓儀、字は羽光、亦た翰林学士として御史中丞となった。韓偓が貶された明年、帝が文思球場に宴した時、全忠が入ると、百官は廡下に坐した。全忠は怒り、韓儀を棣州司馬に貶し、侍御史帰藹を登州司戸参軍に貶した。

賛に曰く、懿宗・僖宗以来、王道は日にその序を失い、腐った宦官が朝廷を塞ぎ、賢人は遁逃し、四方の豪傑英材は、各々付く所に附いて奮い立った。天子は塊然として、与にするところは、佞人で剛愎な庸奴のみ、乃ち横流を障ぎ、已に顛れんとするのを支えんと欲するは、寧ろ殆うからざらんや。観るに朱朴・張濬の輩は次を越えて用いられ、豚の臑を捭き、貙の牙を拒み、亡びに趣くのみ。一人の韓偓さえ容れることができず、況んや賢者をや。