房琯
会に琯自ら将として賊を平げんことを請う。帝猶琯を倚りて成功せんとし、乃ち詔して琯に節を持ち西京を招討し、蒲潼両関兵馬節度等使を防禦せしめ、自ら参佐を択ぶことを得しむ。乃ち兵部尚書王思礼・御史中丞鄧景山を副とし、戸部侍郎李揖を行軍司馬とし、中丞宋若思・起居郎知制誥賈至・右司郎中魏少游を判官とし、給事中劉秩を参謀とす。琯三軍を分かち京師に趨る。楊希文南軍を将い、宜寿より入る。劉悊中軍を将い、武功より入る。李光進北軍を将い、奉天より入る。琯身は中軍先鋒たり。十月庚子、便橋に次ぐ。辛丑、中軍・北軍賊に陳濤斜に遇い、戦利あらず。琯重きを持して伺う所あらんと欲す。中人邢延恩戦を促す。故に敗れ、士麻葦に死す。癸卯、南軍を率いて復た戦い、遂に大敗し、希文・悊皆賊に降る。初め、琯春秋の時の戦法を用い、車二千乗を以て営を繚らし、騎歩之に夾る。既に戦い、賊風に乗じて噪き、牛悉く髀栗し、賊芻を投じて之に火し、人畜焚焼し、卒四万を殺し、血野を丹にす。残衆纔に数千、軍をなす能わず。琯還り走り行在に至り、帝に謁し、肉袒して罪を請う。帝之を宥し、散を裒夷せしめ、復た進取を図らしむ。琯雅に自ら負うところあり、天下を以て己が任と為す。然れども兵を用うるは本より其の長とする所に非ず。其の佐李揖・劉秩等皆儒生、未だ嘗て軍旅を更めず。琯毎に詫て曰く、「彼の曳落河多くと雖も、我が劉秩に当たる能わんや」と。帝琯の師を喪うを恨むと雖も、而して眷任未だ衰えず。
琯は遠き器有り、老子・浮屠の法を談ずるを好み、賓客を喜び、高談余り有りて、而して事に切れず。時に天下多故、謀略攻取に急なり。帝は吏事を以て下を縄し、而るに琯相と為り、遽に従容鎮静を以て之を輔治せんと欲し、又人を知ること明らかならず、以て敗撓を取る。故に功名隳損すと云う。
賛に曰く、唐の名儒多く琯の徳器を言い、王佐の材有りとす。而して史の載する行事、亦少しく貶す。一挙にして師を喪い、訖くまで復た振わず。原るに琯は忠誼を以て自ら奮い、片言主を悟らせて宰相を取り、必ず以て人に過ぐる者あるべし。用うる所の長に違えり。遂に成功無し。然れども盛名の下は、居り難きを為す。夫れ名盛んなれば則ち責望備わり、実副わざれば則ち訾咎深し。琯をして時に遭い承平し、帷幄に従容せしめば、名宰を失わざるなり。而して倉卒に難を済わんとし、事敗れて隙生じ、浮虚比周の罪に陷る。名の累と為るや、戒むるかな。
子 孺復
子孺復、幼より頗る文を属する能くす。然れども狂縦にして法に不法。淮南節度使陳少游奏して幕府に置く。多く術家を招き、己三十にして当に宰相を得べしと言い、以て権近を熏し、進取を希う。後に浙西韓滉の府を辟く。兄宗偃の喪嶺外より還る。孺復出でて臨吊せず。妻鄭と相中らず。慈姆の為に言う有り。乃ち棺を具え家人を召し生斂せしむ。鄭方に乳す。道に上るを促す。鄭行に死す。又崔昭の女を娶る。崔悍媢にして、二侍児を殺し、私に之を瘞す。観察使以て聞こゆ。連州司馬に貶し、崔の去るを聴す。既にして又崔と通じ、復合を請う。詔許す。未だ幾ばくもせず復た離る。終に容州刺史たり。
孫 啓
琯の孫の啓は、蔭補により鳳翔参軍事に補せられ、累次転じて萬年令となり、平素より王叔文に贅附していた。貞元末、叔文が権力を用いると、容管経略使に除され、密かに荊南の帥節を許された。啓が荊湖に至ると、宿留して進もうとせず、時に叔文と韋執誼が内に忿争し、拝官は果たされなかった。やがて皇太子が国政を監すると、啓は惶駭して鎮所に赴いた。凡そ九年を経て、桂管観察使に改められた。州邸が賄賂をもって有司に請い、飛驛をもって詔を送らせたが、既にして憲宗自ら宦官を遣わし詔を賜うと、啓は使者が重い餉を邀えることを畏れ、即座に「先立って五日既に詔を得たり」と言った。使者は欺いて視ることを請い、因って馳せ帰ってこれを聞かせたため、太僕少卿に貶せられた。啓は自ら陳べて使者に南口十五人を献じたと述べたため、帝は怒り、宦官を殺し、啓を虔州長史に貶じ、死去した。始めて詔して五管・福建・黔中道は口を以て饋遺・博易することを得ず、臘口等使を罷めた。
族孫 式
琯の族孫の式は、進士第に擢でられ、累遷して忠州刺史となった。韋皋が表して雲南安撫副使・蜀州刺史とした。皋が卒すると、劉辟が反し、式は留められて行くを得なかった。賊が平定されると、高崇文が保貸し、朝廷に言上して、吏部郎中に除された。時に河朔の諸将劉済・張茂昭等が更に相い劾奏したため、帝はこれを和せんと欲し、式を給事中に拝し、河北に使わし、還って奏上して旨の如くであった。陝虢観察使に遷り、河南尹に改められた。時に王承宗を討つに及び、鎮州において餉車四千乗を索め、民は具えることができなかった。式は建言して「凶年に人労し、調発に任じず」と言った。また御史元稹も「賊未だ禽せずして、河南の民先ず困す」と言った。詔して可とし、都鄙これを安んず。宣歙観察使に改められた。卒し、左散騎常侍を贈られ、諡して傾といった。吏部郎中韋乾度が言うには「初め式が蜀州を刺す時、劉辟が難を構え、即ち辟に謂いて『向に公が上相となる夢を見る、儀衛甚だ盛んなり、幸いに相忘るるなかれ』と言った。辟は喜び、これを祥と為した。後に辟が兵を発し牒を署するに、首を辟とし、副を式とし、参謀を符載とした。大節既に虧けり、諡を得るに宜しからず」。博士李虞仲が言うには「初め辟が反するや、其の用いられる者は皆その頸の死を救わんとす、ことごとく悪名を被るべけんや。式の如きは、去る能わず、又死する能わず、生を求めて仁を害うと謂うべし。辟が西山に走り、疑畏する所の者を召して尽く之を殺すに、式其の間に在り、会して救を得て免る。而して大節既に虧けりと言うは、溢言に近し」。諡は乃ち定まった。
張鎬
張鎬、字は従周、博州の人。儀状瑰偉にして、大志有り、経史を視るは猶お漁獵の如く、然れども王霸の大略を好む。少くして吳兢に事え、兢之を器とした。京師に游び、未だ知名れず、率ね嗜酒鼓琴して自ら娯しむ。人或いは之を邀えば、杖策して往き、酔えば即ち返り、世務に及ばず。
天宝末、楊国忠が政を執り、天下の士を求めて己が重しと為さんとし、鎬の才を聞き、之を薦む。褐衣を釈ぎ、左拾遺に拝し、侍御史を歴任す。玄宗西狩するに、鎬は徒步して扈従す。俄かに遣わして肅宗の所に詣らしむ。数たび事を論じ、諫議大夫に擢でられ、尋いで中書侍郎・同中書門下平章事に拝せらる。時に浮屠数百を引いて内に居らしめ、禁中に「内道場」と号し、諷唄外に聞こゆ。鎬諫めて曰く「天子の福は、要は人を養うに在り、一函宇を以てし、風化を美くす。未だ区区たる佛法を以て太平を致すを聞かず。願わくは陛下無為を以て心と為し、小乗を以て聖慮を撓さざらんことを」。帝然りとす。尋いで詔して河南節度使を兼ね、淮南諸軍事を都統す。賊宋州を囲み、張巡急を告ぐ。鎬は道を倍して進み、檄をして濠州刺史閭丘曉に趣き救わしむ。曉は愎撓にして、逗留して進まず、鎬の淮口に至るに比べ、既に巡は陥ちぬ。鎬怒り、杖殺して曉を誅す。帝京師に還り、南陽郡公に封ぜられ、詔して本軍を以て汴州に鎮し、残寇を捕平せしむ。史思明范陽を提げて順款を献ず。鎬其の偽を揣り、密かに奏して曰く「思明は勢窮して服すも、不測を包蔵す。計を以て取るべく、義を以て招くは難し。威権を以て之に仮すべからず」。又言う「滑州防禦使許叔冀は狡獪にして、難に臨み必ず変ず。宜しく追還して宿衛せしむべし」。書入れて省みず。時に宦官鎬の境を出づること絡繹たり、未だ嘗て情を降して結納せず。范陽・滑州より使い還る者、皆盛んに思明・叔冀の忠を言い、而して鎬に経略の才無きを毀つ。帝鎬の事機に切ならざるを以て、遂に宰相を罷め、荊州大都督府長史を授く。思明・叔冀後果たして叛く、鎬の言う如し。召して太子賓客・左散騎常侍に拝す。嗣岐王珍の第を市するに坐し、辰州司戸参軍に貶せらる。代宗初、起して撫州刺史と為し、洪州観察使に遷り、更に平原郡公に封ぜらる。袁晁東境を寇し、江介震騷す。鎬兵を遣わして上饒に屯し、首二千級を斬る。又舒城の賊楊昭を襲い、之を梟す。沈千載なる者は、新安の大豪にして、連結して椎剽し、州県禽うる能わず。鎬別将を遣わして其の衆を尽く殄す。江南西道観察使に改め、卒す。
鎬は布衣より起り、二期にして宰相に至る。身を居するに廉にして、貲産を殖さず。士を善待し、性簡重にして、論議体有り。位に在ること浅きも、而して天下の人推して旧徳と為す。
李泌
李泌、字は長源、魏の八柱国弼の六世孫、京兆に徙居す。七歳にして文を為すことを知る。玄宗開元十六年、能く仏・道・孔子を言う者を悉く召し、禁中に相い答難せしむ。員俶なる者有り、九歳にして坐に昇り、詞辯注射して、坐する人皆屈す。帝之を異とし、曰く「半千の孫、固より当然なり」。因りて問う「童子豈に若き者に類する者有りや」。俶跪いて奏す「臣が舅の子李泌」。帝即ち馳せて之を召す。泌既に至るに、帝方に燕国公張說と弈を観る。因りて説に其の能を試みしむ。説「方円動静」を賦せんことを請う。泌逡巡して曰く「願わくは其の略を聞かん」。説因りて曰く「方は棋局の若く、円は棋子の若く、動は棋生の若く、静は棋死の若し」。泌即ち答えて曰く「方は行義の若く、円は用智の若く、動は騁材の若く、静は得意の若し」。説因りて帝の奇童を得たるを賀す。帝大いに悦びて曰く「是の子の精神は、要は身より大なり」。束帛を賜い、其の家に勅して曰く「善く視養せよ」。張九齢特に奨愛し、常に引いて臥内に至らしむ。九齢は嚴挺之・蕭誠と善し。挺之は誠の佞を悪み、九齢を勧めて之を謝絶せしむ。九齢忽ち独り念いて曰く「嚴は太だ苦勁なり、然れども蕭は軟美にして喜ぶ可し」。方に左右を命じて蕭を召さんとす。泌旁に在り、帥爾として曰く「公布衣より起り、直道を以て宰相に至る。而して軟美なる者を喜ぶか」。九齢驚き、容を改めて之に謝し、因りて「小友」と呼ぶ。及び長ずるに、博学にして、善く《易》を治め、常に嵩・華・終南の間に游び、神仙不死の術を慕う。天宝中、闕に詣で《復明堂九鼎議》を献ず。帝其の早惠を憶い、召して《老子》を講ぜしむ。法有り、待詔翰林を得、仍って東宮に供奉し、皇太子之を遇すること厚し。嘗て詩を賦して楊国忠・安禄山等を譏誚す。国忠之を疾み、詔して蘄春郡に斥置す。
肅宗が霊武にて即位し、人材を探し求めたところ、李泌も自ら至った。謁見して天下の成敗の所以を述べると、帝は喜び、官職を授けようとしたが、固辞して客として従うことを願った。内では国事を議し、外では輿輦に陪従し、人々は指して「黄を著る者は聖人、白を著る者は山人」と言った。帝はこれを聞き、金紫を賜い、元帥広平王行軍司馬に任じた。帝は嘗て「卿は上皇に侍し、中には朕の師となり、今は広平行軍を判ずる。朕父子は卿の道義に資る」と言った。初め、軍中では元帥を謀り、皆建寧王に属していたが、泌は密かに帝に申し上げて「建寧王は確かに賢いが、広平王は嫡嗣にして君主の器量あり、どうして呉太伯とさせようか」と言った。帝は「広平が太子なら、どうして元帥を仮る必要があろうか」と言うと、泌は「元帥に功績があれば、陛下が儲副としないことができましょうか。太子は従うときは撫軍、守るときは監国と言います。今の元帥は撫軍なのです」と言った。帝はこれに従った。
二京が平定され、帝は上皇を奉迎し、自ら東宮に帰りて子の道を遂げんことを請うた。泌は「上皇は来られません。人臣ですら七十にして伝え、まして上皇をして天下の事に労せしめようとは」と言った。帝が「どうすればよいか」と言うと、泌は群臣のために奏を通じ、天子が晨昏を思恋し、還駕を促して孝養に就かんことを請う旨を詳しく述べた。上皇は初めの奏を得て、「我に剣南一道を与えて自ら奉ぜしめ、再び東には行かぬ」と答えた。帝は甚だ憂えた。再び奏が至ると、喜んで「我ようやく天子の父たるを得る」と言い、遂に誥を下して行を戒めた。
崔圓・李輔国は泌が親信であることを嫉んだ。泌は禍を畏れ、衡山に隠れんことを願った。詔があり三品の禄を給し、隠士の服を賜い、室廬を治めさせた。泌は嘗て松の樛枝を取って背を隠し、「養和」と名付けた。後に龍の形の如きものを得て、これをもって帝に献じたので、四方で争ってこれを模倣した。代宗が立ち、召し寄せて蓬莱殿書閣に住まわせた。初め、泌は妻がなく、肉を食わなかった。帝は光福里の邸第を賜い、強いて詔して肉を食わせ、朔方故留後李暐の甥を娶らせた。婚礼の日、北軍に供帳を命じた。元載は己に附かぬことを憎み、江西観察使魏少遊が僚佐を請うた際、載は泌の才を称え、試秘書少監を以て判官に充てた。載が誅されると、帝は召し還した。また常袞に忌まれ、楚州刺史として出されたが、辞して行かず、帝もこれを留めた。澧州に欠員が生じると、袞は南方の凋瘵を盛んに言い、泌を輟いてこれを治めしむることを請い、澧・朗・峡団練使を授け、杭州刺史に転じた。いずれも風績があった。
徳宗が奉天におられた時、行在に召し赴き、左散騎常侍を授かった。時に李懐光が叛き、歳また蝗旱があり、議者は懐光を赦さんとした。帝は広く群臣に問うた。泌は一枚の桐の葉を破り、使いに附けて進め、「陛下と懐光は、君臣の分は再び合すること叶わず、この葉の如し」と言った。これにより赦さなかった。初め、朱泚の乱に際し、帝は吐蕃に援に赴くことを約し、安西・北庭をもって賂とした。既にして渾瑊が賊と咸陽に戦い、泚は大敗し、吐蕃は師を以て北を追うも甚だ力まず、大いに武功を掠めて帰った。京師が平定されると、約の如く請い来たった。帝は既に許し、遂に与えんとした。泌は「安西・北庭は、西域五十七国及び十姓突厥を制御し、皆悍兵の処にして、以て吐蕃の勢いを分かち、併せて兵を東に侵すことを得ざらしめます。今その地を与えれば、関中危うし。かつ吐蕃は向より両端を持して戦わず、又我が武功を掠めた。これは賊です。どうして与えましょうか」と言った。遂に止めた。
太子妃蕭氏の母は、郜国公主なり。蠱媚に坐し、禁中に幽せらる。帝怒り、太子を責む。太子対ふる所を知らず。泌入る。帝数たび舒王の賢なるを称す。泌帝に廃立の意有るを揣り、因りて曰く、「陛下一子有りて之を疑ひ、乃ち弟の子を立てんと欲す。臣古事を以て争ふを敢へず。且つ十宅の諸叔、陛下之を奉ずること何如」と。帝赫然として曰く、「卿何ぞ舒王朕が子に非ざるを知るや」と。対へて曰く、「陛下昔臣に之を言ひしなり。陛下嫡子有りて以て疑ふ。弟の子敢へて陛下に於いて自ら信ぜんや」と。帝曰く、「卿朕が意に違ひ、家族を顧みざるか」と。対へて曰く、「臣衰老し、位は宰相。諫めて誅せらるるは、分なり。太子を廃せしめ、他日陛下悔ひて曰はく『我唯一子を殺す。泌吾に諫めず。吾亦爾が子を殺さん』と。則ち臣祀を絶つ。兄弟の子有ると雖も、歓ぶ所に非ざるなり」と。即ち噫嗚して涕を流す。因りて称して曰く、「昔太宗詔して曰く『太子道に非ず、藩王窺伺する者は、両つながら之を廃せ』と。陛下東宮を疑ひて舒王の賢なるを称す。窺伺すること無からんや。若し太子罪を得ば、請ふ亦之を廃して皇孫を立てよ。千秋万歳の後、天下猶ほ陛下の子孫有らん。且つ郜国其の女の妒忌の為めに、而して東宮を蠱惑す。豈に妻の母を以て太子に累せしむべけんや」と。執り争ふこと数十、意益〓堅し。帝寤り、太子乃ち安んずるを得。
初め、興元後国用大いに屈す。封物皆三分の二を損ず。旧制、堂封は歳三千六百縑。後纔かに千二百。是に至り、帝旧封に還すことを使はす。是に於いて李晟・馬燧・渾瑊各実封を食み、悉く泌に送りて譲る。泌納れず。時に方鎮私に帝に献ずること、歳凡そ五十万緡。其の後稍々損じて三十万に至る。帝用度の乏しきを以て泌に問ふ。泌請ふ、「天下供銭歳百万を宮中に給し、私献を受けざるを勧む。凡そ詔旨須索するは、即ち両税に代へよ。則ち方鎮法を行ふべく、天下紓なり」と。
帝嘗て従容として言ふ、「盧杞清介敢言なり。然れども学少く、古道を以て朕を広むること能はず。人皆其の奸を指すと雖も、朕覚えず」と。対へて曰く、「陛下能く杞の悪を覚ゆれば、安んぞ建中の禍を致さんや。李揆蕃を和し、顔真卿希烈に使はす。其の旧徳を害すること多し。又楊炎の罪は死に至らず。杞之を擠陥して相関播せしむ。懐光功を立て、逼して其の叛をせしむ。此れ天を欺くなり」と。帝曰く、「卿の言誠に之あり。然れども楊炎朕を視ること三尺の童子の如し。論奏する所あるも、可なれば退き、許さざれば官を辞す。独り杞の之を悪むに非ざるなり。且つ建中の乱、卿亦桑道茂の語を知るか。乃ち命の当然なり」と。対へて曰く、「夫れ命とは、已に然るの言なり。主相命を造る。命を言ふべからず。命を言へば、則ち復た善を賞し悪を罰せず。桀曰く『我が生くるは天に命有ること無からんや』と。武王紂を数へて曰く『己に天命有りと謂ふ』と。君にして命を言へば、則ち桀・紂なり」と。帝曰く、「朕請ふ復た命を言はざらん」と。俄に集賢殿・崇文館大学士を加へられ、国史を修す。泌建言す、学士に大を加ふるは、中宗の時に始まり、張説之を為すに及び、固く辞す。乃ち学士を以て院事を知る。崔円に至りて復た大学士と為り、亦泌を引きて譲りと為し而して止む。
帝以爲へらく、「前世の上巳・九日、皆大宴集す。而して寒食多く上巳と同時なり。三月を以て節を名け、我より古を為さんと欲す。何如にしてか可ならん」と。泌請ふ、「正月の晦を廃し、以て二月の朔を中和節と為し、因りて大臣戚里に尺を賜ひ、之を裁度と謂ふ。民間青囊を以て百穀瓜果の種を盛り相問遺し、号けて献生子と為す。里閭宜春酒を醸し、以て勾芒神を祭り、豊年を祈る。百官農書を進め、以て本を務むるを示す」と。帝悦び、乃ち令を著し、上巳・九日と為して三令節とし、中外皆緡銭を賜ひて燕会す。
四年八月、月東壁を蝕む。泌曰く、「東壁は図書の府なり。大臣憂ふる者有るべし。吾宰相として学士を兼ぬ。之に当るべし。昔燕国公張説是を以て亡ぶ。又免るべけんや」と。明年果たして卒す。年六十八。太子太傅を贈らる。
李泌は禁中に出入りし、四君に仕え、数度権幸に憎まれたが、常に智謀をもって免れた。縦横の大言を好み、時に讜議を発し、人主を悟らせて動かすことができた。しかし常に黄老鬼神の説を奉じたため、人に譏りそしられた。初め、粛宗は陰陽巫祝を重んじ、王璵を抜擢して政を執らせたが、大抵工役を興すたびに禁忌俗説に牽制された。また黎幹は左道をもって京兆尹の位に至り、かつて禁中の工人に命じて珠を並べて刺繡させ、乗輿の服とし、挙げてこれを焼いて禳禬とした。徳宗は元よりこれを然しとせず、位を嗣ぐと、内道場を罷め、巫祝を除いた。代宗の葬送に際し、帝は承天門で号泣して送ったが、轀車が道の中央を行かなかった。その故を問うと、有司は言う、「陛下の本命は午に在ります故、これを避けたのです」と。帝は涙して言う、「どうして霊駕を枉げて身の利を謀ることがあろうか」と。命じて午の方角に直進させた。また宣政廊が壊れた時、太卜が言う、「孟冬は魁岡に当たり、営繕すべからず」と。帝は言う、「『春秋』に『啓塞は時に従う』とある。魁岡が何の妨げになろうか」と。急いで詔してこれを修繕させた。桑道茂が奉天を城すとの事が験を現すに及んで、初めて時日の拘忌を尚び、これにより李泌を進用し、李泌もまた自ら建明するところがあった。ただ柳玭が称えるには、両京の回復は、李泌の謀が多かった、その功は魯連・范蠡よりも大であるという。
子 繁
子は繁。繁は少時より才気鋭敏であったが、行いが良くなかった。李泌が初めて陽城を挙げて朝廷に仕えさせたので、陽城は李泌の徳を重んじ、繁に親厚であった。裴延齢を疏劾する際、草稿が整うと、繁を信頼できるとして、夜に繁に書かせた。封じた後、繁はその内容を全て誦憶し、書き写して延齢に見せた。翌日、延齢は帝に告げて言う、「陽城が疏を朝廷に示しました」と。即ちその条項を摘示して自ら訴え弁解した。陽城の奏上が入ると、帝は怒り、遂に省みなかった。李泌は梁肅と親善であったので、繁は梁肅に師事した。梁肅が卒すると、その妻室と淫通し、士人の議論は喧しく醜いものとなり、これにより長年擯斥された。後に太常博士となったが、権徳輿が卿となると、奏してこれを斥け、河南府士曹参軍に改めた。累遷して隋州刺史となり、罷免されて帰り、調任を得られなかった。敬宗の誕生日に、詔して兵部侍郎丁公著・太常少卿陸亙と共に殿中に入り、老・仏の誦論を抗弁した。大理少卿・弘文館学士に改めたが、諫官御史が相次いで上章して弾劾したため、出されて亳州刺史となった。州に劇賊がおり、家屋を掠め財貨を奪って患いとし、他の刺史はこれを捕らえられなかったが、繁は機略があり、賊の巣窟の在り処を悉く知り、一朝に出兵してこれを捕斬した。議者は繁が先に観察府に啓上しなかったことを責め、擅興の罪とした。詔して御史舒元輿にこれを按問させたが、元輿は繁と元より隙があり、その獄事を悉く覆し、濫殺して罪なき者を殺したとし、詔があって賜死とされ、京兆の人々は皆これを冤んだ。繁は獄に下り、死を免れぬと知ると、先人の功業が泯滅することを恐れ、吏に求めて廢紙を得、筆を握って家伝十篇を著し、世に伝えた。
賛して言う、李泌の為人は、異なることよ。その謀事は忠に近く、その軽く去るは高に近く、その自ら全うするは智に近く、終に上宰を建てるは、功を立て名を立てる者に近い。粛宗が榛莽を披き、朝廷を立てるを見よ。単言暫謀も悟り合うところがあれば、皆政を付けた。この時、李泌の献納は少なくなかった。また代宗を佐けて両京を収めたが、独り録されず。寧ろ二主は宰相の器としなかったのであろうか。徳宗は晩年鬼神の事を好み、乃ち用いられた。怪を以て自ら置き、これに助けられたのである。繁が家伝を著し、李泌が元より鬼谷に居たと言い、史臣が誤って鬼道を好むと言い、自ら解釈した。また李泌が数度霊仙と接し、言うことが経に依らないと著すに及んで、当時の議者が切にこれを認めず、為すところあって然るを知る。繁の言は浮侈多く、信ずべからず。その実に近きものを掇り取って伝に著す。帝に先ず范陽を事とすべく勧め、太子に罪無きことを明らかにしたことは、また誣うべからざるものである。