新唐書

巻一百三十九 列傳第六十四 房琯子:孺復 孫:啟 族孫:式 張鎬 李泌子:繁

房琯

房琯、字は次律、河南河南の人なり。父は融、武后の時、正諫大夫として同鳳閣鸞臺平章事たり。神龍元年、高州に貶死す。琯は少にして学を好み、風度沈整、蔭により弘文生を補す。呂向とともに陸渾山に偕隠し、十年間人事に諧わず。開元中、『封禪書』を作り、宰相張説に説き、説は之を奇とし、奏して校書郎と為す。任県令科に挙げられ、盧氏令を授かる。監察御史を拝し、獄を訊むるに非なるに坐し、睦州司戸参軍に貶せらる。復た県を為し、至る所上徳化をなし、長利を興し、治最を以て顕る。

俄に韋見素・崔渙とともに冊を奉じて霊武に至り、粛宗に謁し、上皇の伝付せしめたる所以の意を具に言い、因りて当時の利病を道い、虜情を箝索し、辞吐華暢、帝は為に容を改む。琯は既に重名有り。帝は意を傾けて之を待ち、機務一二琯と参決し、諸将相敢えて望む者莫し。ここに於て、第五琦財利を言いて幸いし、江淮租庸使と為る。琯諫めて曰く、「往に楊国忠聚斂し、怨を天下に産む。陛下即位し、人未だ徳を見ず、今又琦を寵す、是れ一国忠死し、一国忠生ずるなり、以て遠方を示す無し」と。帝曰く、「六軍の命方に急なり、財無くんば則ち散ず。卿琦を悪むは可なり、何をか財を取らん」と。琯対うるを得ず。北海太守賀蘭進明河南より至り、詔して御史大夫・嶺南節度使を摂せしむ。入りて謝す。帝曰く、「朕琯に語りて正大夫を除く、何ぞ摂せしむるや」と。進明之を銜み、因りて曰く、「陛下晋の乱を知るや。惟だ虚名を尚び、王衍を任じて宰相と為し、浮華を基祖し、天下の事に事えざるを以ての故に、敗に至る。方に唐中興せんとす、実才を用うべく、而るに琯の性疏闊、大言当たる無く、宰相の器に非ず。陛下之を厚く待つ、然れども孰か肯て陛下の為に用いられんや」と。帝曰く、「何ぞや」と。対えて曰く、「陛下頃に皇太子と為り、太子出づれば撫軍と曰い、入れば監国と曰う。而るに琯は聖皇の為に諸王を建遣して都統節度と為し、乃ち陛下を元子と謂いて朔方・河東・河北の空虚の地を付し、永王・豊王は乃ち四節度を統す。此れ聖皇には忠に似たり、陛下には忠に非ざるなり。琯の意、諸子一たび天下を得ば、身恩を失わず、又多く私党を樹て、以て戎権を副えんとす。此を推して言えば、豈に肯て尽く誠を陛下にせんや」と。帝其の語に入り、始めて琯を悪む。進明を以て御史大夫・河南節度使と為す。

会に琯自ら将として賊を平げんことを請う。帝猶琯を倚りて成功せんとし、乃ち詔して琯に節を持ち西京を招討し、蒲潼両関兵馬節度等使を防禦せしめ、自ら参佐を択ぶことを得しむ。乃ち兵部尚書王思礼・御史中丞鄧景山を副とし、戸部侍郎李揖を行軍司馬とし、中丞宋若思・起居郎知制誥賈至・右司郎中魏少游を判官とし、給事中劉秩を参謀とす。琯三軍を分かち京師に趨る。楊希文南軍を将い、宜寿より入る。劉悊中軍を将い、武功より入る。李光進北軍を将い、奉天より入る。琯身は中軍先鋒たり。十月庚子、便橋に次ぐ。辛丑、中軍・北軍賊に陳濤斜に遇い、戦利あらず。琯重きを持して伺う所あらんと欲す。中人邢延恩戦を促す。故に敗れ、士麻葦に死す。癸卯、南軍を率いて復た戦い、遂に大敗し、希文・悊皆賊に降る。初め、琯春秋の時の戦法を用い、車二千乗を以て営を繚らし、騎歩之に夾る。既に戦い、賊風に乗じて噪き、牛悉く髀栗し、賊芻を投じて之に火し、人畜焚焼し、卒四万を殺し、血野を丹にす。残衆纔に数千、軍をなす能わず。琯還り走り行在に至り、帝に謁し、肉袒して罪を請う。帝之を宥し、散を裒夷せしめ、復た進取を図らしむ。琯雅に自ら負うところあり、天下を以て己が任と為す。然れども兵を用うるは本より其の長とする所に非ず。其の佐李揖・劉秩等皆儒生、未だ嘗て軍旅を更めず。琯毎に詫て曰く、「彼の曳落河多くと雖も、我が劉秩に当たる能わんや」と。帝琯の師を喪うを恨むと雖も、而して眷任未だ衰えず。

崔円しょくより来たり、最後に帝に見ゆ。琯帝の省みざるを謂い、之を易しむ。円金を李輔国に畀え、日を淹えずして寵せられ、遂に琯を怨む。琯数たび疾を称して入らず。会に御史大夫顔真卿劾奏して諫議大夫李何忌の不孝を言う。琯素より何忌に善くし、悪名を以て之を錮さんと欲せず、酒に被りて朝に入るを托し、西平郡司馬に貶せらる。琴工董廷蘭琯の所に出入す。琯之を昵す。廷蘭琯の勢を藉り、数たび賕謝を招き、有司の為に劾治せらる。琯帝に訴う。帝因りて震怒し、叱して之を遣り、琯惶恐して第に就く。罷めて太子少師と為す。帝に従い都に還り、清河郡公に封ぜらる。琯の廃せらるるや、朝臣多く琯の謀文武を包み、復た用う可きを言う。琯と雖も亦自ら柄任に当たり、天子の為に功を立つべしと謂う。琯を善くする者其の言を朝に暴す。琯方に日々劉秩・厳武を引きて宴語し、病を移して自如す。帝琯の虚言浮誕、内に鞅鞅たり、党を挟みて公に背き、大臣の体に非ざるを以てす。乾元元年、琯を出して邠州刺史と為し、秩・武等を逐い、因りて詔を下し其の比周の状を陳べ、中外に諭敕す。初め、邠は武将を以て刺史を領せしむ。故に綱目廃弛し、即ち府を治めて営と為し、吏民居を攘い相淆歓す。琯至り、一切之を革め、人以て便安とし、政声流聞す。召して太子賓客を拝し、礼部尚書に遷り、晋・漢二州刺史と為る。宝応二年、召して刑部尚書を拝す。道に病み卒す。太尉を贈らる。

琯は遠き器有り、老子・浮屠の法を談ずるを好み、賓客を喜び、高談余り有りて、而して事に切れず。時に天下多故、謀略攻取に急なり。帝は吏事を以て下を縄し、而るに琯相と為り、遽に従容鎮静を以て之を輔治せんと欲し、又人を知ること明らかならず、以て敗撓を取る。故に功名隳損すと云う。

賛に曰く、唐の名儒多く琯の徳器を言い、王佐の材有りとす。而して史の載する行事、亦少しく貶す。一挙にして師を喪い、訖くまで復た振わず。原るに琯は忠誼を以て自ら奮い、片言主を悟らせて宰相を取り、必ず以て人に過ぐる者あるべし。用うる所の長に違えり。遂に成功無し。然れども盛名の下は、居り難きを為す。夫れ名盛んなれば則ち責望備わり、実副わざれば則ち訾咎深し。琯をして時に遭い承平し、帷幄に従容せしめば、名宰を失わざるなり。而して倉卒に難を済わんとし、事敗れて隙生じ、浮虚比周の罪に陷る。名の累と為るや、戒むるかな。

子 孺復

子孺復、幼より頗る文を属する能くす。然れども狂縦にして法に不法。淮南節度使陳少游奏して幕府に置く。多く術家を招き、己三十にして当に宰相を得べしと言い、以て権近を熏し、進取を希う。後に浙西韓滉の府を辟く。兄宗偃の喪嶺外より還る。孺復出でて臨吊せず。妻鄭と相中らず。慈姆の為に言う有り。乃ち棺を具え家人を召し生斂せしむ。鄭方に乳す。道に上るを促す。鄭行に死す。又崔昭の女を娶る。崔悍媢にして、二侍児を殺し、私に之を瘞す。観察使以て聞こゆ。連州司馬に貶し、崔の去るを聴す。既にして又崔と通じ、復合を請う。詔許す。未だ幾ばくもせず復た離る。終に容州刺史たり。

孫 啓

琯の孫の啓は、蔭補により鳳翔参軍事に補せられ、累次転じて萬年令となり、平素より王叔文に贅附していた。貞元末、叔文が権力を用いると、容管経略使に除され、密かに荊南の帥節を許された。啓が荊湖に至ると、宿留して進もうとせず、時に叔文と韋執誼が内に忿争し、拝官は果たされなかった。やがて皇太子が国政を監すると、啓は惶駭して鎮所に赴いた。凡そ九年を経て、桂管観察使に改められた。州邸が賄賂をもって有司に請い、飛驛をもって詔を送らせたが、既にして憲宗自ら宦官を遣わし詔を賜うと、啓は使者が重い餉を邀えることを畏れ、即座に「先立って五日既に詔を得たり」と言った。使者は欺いて視ることを請い、因って馳せ帰ってこれを聞かせたため、太僕少卿に貶せられた。啓は自ら陳べて使者に南口十五人を献じたと述べたため、帝は怒り、宦官を殺し、啓を虔州長史に貶じ、死去した。始めて詔して五管・福建・黔中道は口を以て饋遺・博易することを得ず、臘口等使を罷めた。

族孫 式

琯の族孫の式は、進士第に擢でられ、累遷して忠州刺史となった。韋皋が表して雲南安撫副使・蜀州刺史とした。皋が卒すると、劉辟が反し、式は留められて行くを得なかった。賊が平定されると、高崇文が保貸し、朝廷に言上して、吏部郎中に除された。時に河朔の諸将劉済・張茂昭等が更に相い劾奏したため、帝はこれを和せんと欲し、式を給事中に拝し、河北に使わし、還って奏上して旨の如くであった。陝虢観察使に遷り、河南尹に改められた。時に王承宗を討つに及び、鎮州において餉車四千乗を索め、民は具えることができなかった。式は建言して「凶年に人労し、調発に任じず」と言った。また御史元稹も「賊未だ禽せずして、河南の民先ず困す」と言った。詔して可とし、都鄙これを安んず。宣歙観察使に改められた。卒し、左散騎常侍さんきじょうじを贈られ、諡して傾といった。吏部郎中韋乾度が言うには「初め式が蜀州を刺す時、劉辟が難を構え、即ち辟に謂いて『向に公が上相となる夢を見る、儀衛甚だ盛んなり、幸いに相忘るるなかれ』と言った。辟は喜び、これを祥と為した。後に辟が兵を発し牒を署するに、首を辟とし、副を式とし、参謀を符載とした。大節既に虧けり、諡を得るに宜しからず」。博士李虞仲が言うには「初め辟が反するや、其の用いられる者は皆その頸の死を救わんとす、ことごとく悪名を被るべけんや。式の如きは、去る能わず、又死する能わず、生を求めて仁を害うと謂うべし。辟が西山に走り、疑畏する所の者を召して尽く之を殺すに、式其の間に在り、会して救を得て免る。而して大節既に虧けりと言うは、溢言に近し」。諡は乃ち定まった。

張鎬

張鎬、字は従周、博州の人。儀状瑰偉にして、大志有り、経史を視るは猶お漁獵の如く、然れども王の大略を好む。少くして吳兢に事え、兢之を器とした。京師に游び、未だ知名れず、率ね嗜酒鼓琴して自ら娯しむ。人或いは之を邀えば、杖策して往き、酔えば即ち返り、世務に及ばず。

天宝末、楊国忠が政を執り、天下の士を求めて己が重しと為さんとし、鎬の才を聞き、之を薦む。褐衣を釈ぎ、左拾遺に拝し、侍御史を歴任す。玄宗西狩するに、鎬は徒步して扈従す。俄かに遣わして肅宗の所に詣らしむ。数たび事を論じ、諫議大夫に擢でられ、尋いで中書侍郎・同中書門下平章事に拝せらる。時に浮屠数百を引いて内に居らしめ、禁中に「内道場」と号し、諷唄外に聞こゆ。鎬諫めて曰く「天子の福は、要は人を養うに在り、一函宇を以てし、風化を美くす。未だ区区たる佛法を以て太平を致すを聞かず。願わくは陛下無為を以て心と為し、小乗を以て聖慮を撓さざらんことを」。帝然りとす。尋いで詔して河南節度使を兼ね、淮南諸軍事を都統す。賊宋州を囲み、張巡急を告ぐ。鎬は道を倍して進み、檄をして濠州刺史閭丘曉に趣き救わしむ。曉は愎撓にして、逗留して進まず、鎬の淮口に至るに比べ、既に巡は陥ちぬ。鎬怒り、杖殺して曉を誅す。帝京師に還り、南陽郡公に封ぜられ、詔して本軍を以て汴州に鎮し、残寇を捕平せしむ。史思明范陽を提げて順款を献ず。鎬其の偽を揣り、密かに奏して曰く「思明は勢窮して服すも、不測を包蔵す。計を以て取るべく、義を以て招くは難し。威権を以て之に仮すべからず」。又言う「滑州防禦使許叔冀は狡獪にして、難に臨み必ず変ず。宜しく追還して宿衛せしむべし」。書入れて省みず。時に宦官鎬の境を出づること絡繹たり、未だ嘗て情を降して結納せず。范陽・滑州より使い還る者、皆盛んに思明・叔冀の忠を言い、而して鎬に経略の才無きを毀つ。帝鎬の事機に切ならざるを以て、遂に宰相を罷め、荊州大都督ととく府長史を授く。思明・叔冀後果たして叛く、鎬の言う如し。召して太子賓客・左散騎常侍に拝す。嗣岐王珍の第を市するに坐し、辰州司戸参軍に貶せらる。代宗初、起して撫州刺史と為し、洪州観察使に遷り、更に平原郡公に封ぜらる。袁晁東境を寇し、江介震騷す。鎬兵を遣わして上饒に屯し、首二千級を斬る。又舒城の賊楊昭を襲い、之を梟す。沈千載なる者は、新安の大豪にして、連結して椎剽し、州県禽うる能わず。鎬別将を遣わして其の衆を尽く殄す。江南西道観察使に改め、卒す。

鎬は布衣より起り、二期にして宰相に至る。身を居するに廉にして、貲産を殖さず。士を善待し、性簡重にして、論議体有り。位に在ること浅きも、而して天下の人推して旧徳と為す。

李泌

李泌、字は長源、魏の八柱国弼の六世孫、京兆に徙居す。七歳にして文を為すことを知る。玄宗開元十六年、能く仏・道・孔子を言う者を悉く召し、禁中に相い答難せしむ。員俶なる者有り、九歳にして坐に昇り、詞辯注射して、坐する人皆屈す。帝之を異とし、曰く「半千の孫、固より当然なり」。因りて問う「童子豈に若き者に類する者有りや」。俶跪いて奏す「臣が舅の子李泌」。帝即ち馳せて之を召す。泌既に至るに、帝方に燕国公張說と弈を観る。因りて説に其の能を試みしむ。説「方円動静」を賦せんことを請う。泌逡巡して曰く「願わくは其の略を聞かん」。説因りて曰く「方は棋局の若く、円は棋子の若く、動は棋生の若く、静は棋死の若し」。泌即ち答えて曰く「方は行義の若く、円は用智の若く、動は騁材の若く、静は得意の若し」。説因りて帝の奇童を得たるを賀す。帝大いに悦びて曰く「是の子の精神は、要は身より大なり」。束帛を賜い、其の家に勅して曰く「善く視養せよ」。張九齢特に奨愛し、常に引いて臥内に至らしむ。九齢は嚴挺之・蕭誠と善し。挺之は誠の佞を悪み、九齢を勧めて之を謝絶せしむ。九齢忽ち独り念いて曰く「嚴は太だ苦勁なり、然れども蕭は軟美にして喜ぶ可し」。方に左右を命じて蕭を召さんとす。泌旁に在り、帥爾として曰く「公布衣より起り、直道を以て宰相に至る。而して軟美なる者を喜ぶか」。九齢驚き、容を改めて之に謝し、因りて「小友」と呼ぶ。及び長ずるに、博学にして、善く《易》を治め、常に嵩・華・終南の間に游び、神仙不死の術を慕う。天宝中、闕に詣で《復明堂九鼎議》を献ず。帝其の早惠を憶い、召して《老子》を講ぜしむ。法有り、待詔翰林を得、仍って東宮に供奉し、皇太子之を遇すること厚し。嘗て詩を賦して楊国忠・安禄山等を譏誚す。国忠之を疾み、詔して蘄春郡に斥置す。

肅宗が霊武にて即位し、人材を探し求めたところ、李泌も自ら至った。謁見して天下の成敗の所以を述べると、帝は喜び、官職を授けようとしたが、固辞して客として従うことを願った。内では国事を議し、外では輿輦に陪従し、人々は指して「黄を著る者は聖人、白を著る者は山人」と言った。帝はこれを聞き、金紫を賜い、元帥広平王行軍司馬に任じた。帝は嘗て「卿は上皇に侍し、中には朕の師となり、今は広平行軍を判ずる。朕父子は卿の道義に資る」と言った。初め、軍中では元帥を謀り、皆建寧王に属していたが、泌は密かに帝に申し上げて「建寧王は確かに賢いが、広平王は嫡嗣にして君主の器量あり、どうして呉太伯とさせようか」と言った。帝は「広平が太子なら、どうして元帥を仮る必要があろうか」と言うと、泌は「元帥に功績があれば、陛下が儲副としないことができましょうか。太子は従うときは撫軍、守るときは監国と言います。今の元帥は撫軍なのです」と言った。帝はこれに従った。

初め、帝が東宮にあった時、李林甫が幾度も讒言を構え、その勢いは甚だ危うかった。即位すると、これを怨み、墳墓を掘り骨を焼こうとした。泌は天子が旧怨を思うのは天下に寛大さを示さず、賊に従った者どもが賊に言い訳を得させると言った。帝は喜ばず、「往事を卿は忘れたのか」と言うと、対して「臣が思うのはここにありません。上皇は天下を有すること五十年、一旦失意し、南方の気候は悪く、かつ春秋高し。陛下が故怨を録することを聞けば、内に慚じて快からず、万が一病を感じられれば、これは陛下が天下の広さをもって親を安んじられないことになります」と言った。帝は感悟し、泌の頸を抱いて泣き、「朕はここに及ばなかった」と言った。そこで从容に賊を破る時期を問うと、対して「賊は金帛子女を掠めて悉く范陽に送り、苟も得る心がある。どうして中国を定められようか。華人がこれを用いられるのは、周摯・高尚ら数人のみで、その他は皆脅制して苟合するに過ぎず、天下の大計については知らないのです。二年を出ずして寇はなくなります。陛下は速やかならんと欲することなかれ。王者の師は万全を務め、久安を図り、後害なからしむべきです。今、李光弼に詔して太原を守らせ、井陘より出で、郭子儀に馮翊を取らせ、河東に入らしめれば、史思明・張忠志は范陽・常山を離れず、安守忠・田乾真は長安ちょうあんを離れず、これをもって三地にしてその四将を禁ずるのです。安禄山に随う者は、ただ阿史那承慶のみです。子儀に華を取らせず、賊に関中を通わせれば、北は范陽を守り、西は長安を救い、数千里を奔命し、その精卒勁騎は一年を逾えずして疲弊します。我は常に逸をもって労を待ち、来ればその鋒を避け、去ればその疲を翦り、征する所の兵を以て撫風に会し、太原・朔方軍と互いにこれを撃つのです。徐かに建寧王を范陽節度大使とし、北は塞に並び光弼と相掎角して、范陽を取らしめます。賊が巣窟を失えば、必ずや河南の諸将の手に死ぬでしょう」と言った。帝はこれを然りとした。西方の兵が大いに集まるに及んで、帝は速やかに長安を得んと欲し、「今戦えば必ず勝ち、攻めれば必ず取る。どうして千里を暇して先ず范陽に事えようか」と言った。泌は「必ず両京を得れば、賊は再び強く、我は再び困ります。かつ我が恃む所は、磧西の突騎・西北の諸戎のみです。もし先に京師を取れば、期は必ず春にあり、関東は早く熱く、馬は病み、士は皆帰りを思い、戦うことができません。賊は士を休め徒を養い、必ず再び南に来るでしょう。これは危険な道です」と言った。帝は聴かなかった。

二京が平定され、帝は上皇を奉迎し、自ら東宮に帰りて子の道を遂げんことを請うた。泌は「上皇は来られません。人臣ですら七十にして伝え、まして上皇をして天下の事に労せしめようとは」と言った。帝が「どうすればよいか」と言うと、泌は群臣のために奏を通じ、天子が晨昏を思恋し、還駕を促して孝養に就かんことを請う旨を詳しく述べた。上皇は初めの奏を得て、「我に剣南一道を与えて自ら奉ぜしめ、再び東には行かぬ」と答えた。帝は甚だ憂えた。再び奏が至ると、喜んで「我ようやく天子の父たるを得る」と言い、遂に誥を下して行を戒めた。

崔圓・李輔国は泌が親信であることを嫉んだ。泌は禍を畏れ、衡山に隠れんことを願った。詔があり三品の禄を給し、隠士の服を賜い、室廬を治めさせた。泌は嘗て松の樛枝を取って背を隠し、「養和」と名付けた。後に龍の形の如きものを得て、これをもって帝に献じたので、四方で争ってこれを模倣した。代宗が立ち、召し寄せて蓬莱殿書閣に住まわせた。初め、泌は妻がなく、肉を食わなかった。帝は光福里の邸第を賜い、強いて詔して肉を食わせ、朔方故留後李暐の甥を娶らせた。婚礼の日、北軍に供帳を命じた。元載は己に附かぬことを憎み、江西観察使魏少遊が僚佐を請うた際、載は泌の才を称え、試秘書少監を以て判官に充てた。載が誅されると、帝は召し還した。また常袞に忌まれ、楚州刺史として出されたが、辞して行かず、帝もこれを留めた。澧州に欠員が生じると、袞は南方の凋瘵を盛んに言い、泌を輟いてこれを治めしむることを請い、澧・朗・峡団練使を授け、杭州刺史に転じた。いずれも風績があった。

徳宗が奉天におられた時、行在に召し赴き、左散騎常侍を授かった。時に李懐光が叛き、歳また蝗旱があり、議者は懐光を赦さんとした。帝は広く群臣に問うた。泌は一枚の桐の葉を破り、使いに附けて進め、「陛下と懐光は、君臣の分は再び合すること叶わず、この葉の如し」と言った。これにより赦さなかった。初め、朱泚の乱に際し、帝は吐蕃に援に赴くことを約し、安西・北庭をもって賂とした。既にして渾瑊が賊と咸陽に戦い、泚は大敗し、吐蕃は師を以て北を追うも甚だ力まず、大いに武功を掠めて帰った。京師が平定されると、約の如く請い来たった。帝は既に許し、遂に与えんとした。泌は「安西・北庭は、西域五十七国及び十姓突厥を制御し、皆悍兵の処にして、以て吐蕃の勢いを分かち、併せて兵を東に侵すことを得ざらしめます。今その地を与えれば、関中危うし。かつ吐蕃は向より両端を持して戦わず、又我が武功を掠めた。これは賊です。どうして与えましょうか」と言った。遂に止めた。

貞元元年、陝虢観察使に拝せらる。泌は初めて山を穿ち車道を開きて三門に至らしめ、以て糧運の便を図る。その労により、検校礼部尚書に進む。淮西の兵、防秋のため鄜州に屯す。已にして四千人亡帰す。或いは曰く、呉少誠密かに之を招く、と。既に境に入るや、泌は険を邀えて悉く之を撃殺す。三年、中書侍郎・同中書門下平章事に拝せられ、累ねて鄴県侯に封ぜらる。初め、張延賞天下の吏員を減ず。人情愁怨し、流離し道路に死する者に至る。泌之を復するを請ふ。帝未だ従はず。因りて問ふ、「今の戸口、承平の時に減ずること幾何ぞ」と。曰く、「三分の二なり」と。帝曰く、「人既に凋耗す。員何ぞ復すべけんや」と。泌曰く、「然らず。戸口は耗すと雖も、而して事は承平の十倍多し。陛下州県を省かんと欲せば則ち可なり。而して吏員は減ずべからず。今州或いは参軍をして券を署せしめ、県は佐史をして案を判せしむ。所謂省官とは、其の冗員を去るなり。常員に非ざるなり」と。帝曰く、「何を以てか冗員と為す」と。対へて曰く、「州の参軍に職事無き者及び兼・試の額内官なり。兼・試は、至徳以来之あり。正員に比して三分の一。悉く罷むべし」と。帝乃ち吏員を復するを許し、而して冗官を罷む。泌又条奏す、「中朝官の常侍・賓客十員、其の六員は罷むべし。左右の贊善三十員、其の二十員は罷むべし。旧制の如く、諸王未だ出閤せざれば、官属皆除かず。而して収むる所の科奉は、乃ち減員に多きに於いてなり」と。帝悦ぶ。是の時、刺史の月奉は千緡に至る。方鎮の取る所は芸無し。而して京官の禄は寡薄なり。方鎮より入りて八座に至るも、乃ち権を罷むと謂ふ。薛邕は左丞より貶せられて歙州刺史と為り、家人其の降るの晩きを恨む。崔祐甫は吏部員外に任じ、洪州別駕を求む。使府の賓佐に忤る所ある者は、郎官に薦ぐ。其の台閣に遷るべき者は、皆赴かざるを以て罪を取りて去る。泌以爲へらく、外太重く、内太軽しと。乃ち官の閑劇に随ひ、普く其の奉を増すを請ふ。時に以て宜しと為す。而して竇参多く其の事を沮乱し、悉く請ふ所の如くならず。泌又白して拾遺・補闕を罷む。帝従はざると雖も、然れども是に因りて諫官を除かず。唯だ韓皋・帰登を用ふ。泌因りて其の公廨銭を収め、二人をして中書舎人署に寓食せしむ。凡そ三年、初めて韋綬・梁肅を以て左右補闕と為す。

太子妃蕭氏の母は、郜国公主なり。蠱媚に坐し、禁中に幽せらる。帝怒り、太子を責む。太子対ふる所を知らず。泌入る。帝数たび舒王の賢なるを称す。泌帝に廃立の意有るを揣り、因りて曰く、「陛下一子有りて之を疑ひ、乃ち弟の子を立てんと欲す。臣古事を以て争ふを敢へず。且つ十宅の諸叔、陛下之を奉ずること何如」と。帝赫然として曰く、「卿何ぞ舒王朕が子に非ざるを知るや」と。対へて曰く、「陛下昔臣に之を言ひしなり。陛下嫡子有りて以て疑ふ。弟の子敢へて陛下に於いて自ら信ぜんや」と。帝曰く、「卿朕が意に違ひ、家族を顧みざるか」と。対へて曰く、「臣衰老し、位は宰相。諫めて誅せらるるは、分なり。太子を廃せしめ、他日陛下悔ひて曰はく『我唯一子を殺す。泌吾に諫めず。吾亦爾が子を殺さん』と。則ち臣祀を絶つ。兄弟の子有ると雖も、歓ぶ所に非ざるなり」と。即ち噫嗚して涕を流す。因りて称して曰く、「昔太宗詔して曰く『太子道に非ず、藩王窺伺する者は、両つながら之を廃せ』と。陛下東宮を疑ひて舒王の賢なるを称す。窺伺すること無からんや。若し太子罪を得ば、請ふ亦之を廃して皇孫を立てよ。千秋万歳の後、天下猶ほ陛下の子孫有らん。且つ郜国其の女の妒忌の為めに、而して東宮を蠱惑す。豈に妻の母を以て太子に累せしむべけんや」と。執り争ふこと数十、意益〓堅し。帝寤り、太子乃ち安んずるを得。

初め、興元後国用大いに屈す。封物皆三分の二を損ず。旧制、堂封は歳三千六百縑。後纔かに千二百。是に至り、帝旧封に還すことを使はす。是に於いて李晟・馬燧・渾瑊各実封を食み、悉く泌に送りて譲る。泌納れず。時に方鎮私に帝に献ずること、歳凡そ五十万緡。其の後稍々損じて三十万に至る。帝用度の乏しきを以て泌に問ふ。泌請ふ、「天下供銭歳百万を宮中に給し、私献を受けざるを勧む。凡そ詔旨須索するは、即ち両税に代へよ。則ち方鎮法を行ふべく、天下紓なり」と。

帝嘗て従容として言ふ、「盧杞清介敢言なり。然れども学少く、古道を以て朕を広むること能はず。人皆其の奸を指すと雖も、朕覚えず」と。対へて曰く、「陛下能く杞の悪を覚ゆれば、安んぞ建中の禍を致さんや。李揆蕃を和し、顔真卿希烈に使はす。其の旧徳を害すること多し。又楊炎の罪は死に至らず。杞之を擠陥して相関播せしむ。懐光功を立て、逼して其の叛をせしむ。此れ天を欺くなり」と。帝曰く、「卿の言誠に之あり。然れども楊炎朕を視ること三尺の童子の如し。論奏する所あるも、可なれば退き、許さざれば官を辞す。独り杞の之を悪むに非ざるなり。且つ建中の乱、卿亦桑道茂の語を知るか。乃ち命の当然なり」と。対へて曰く、「夫れ命とは、已に然るの言なり。主相命を造る。命を言ふべからず。命を言へば、則ち復た善を賞し悪を罰せず。桀曰く『我が生くるは天に命有ること無からんや』と。武王紂を数へて曰く『己に天命有りと謂ふ』と。君にして命を言へば、則ち桀・紂なり」と。帝曰く、「朕請ふ復た命を言はざらん」と。俄に集賢殿・崇文館大学士を加へられ、国史を修す。泌建言す、学士に大を加ふるは、中宗の時に始まり、張説之を為すに及び、固く辞す。乃ち学士を以て院事を知る。崔円に至りて復た大学士と為り、亦泌を引きて譲りと為し而して止む。

帝以爲へらく、「前世の上巳・九日、皆大宴集す。而して寒食多く上巳と同時なり。三月を以て節を名け、我より古を為さんと欲す。何如にしてか可ならん」と。泌請ふ、「正月の晦を廃し、以て二月の朔を中和節と為し、因りて大臣戚里に尺を賜ひ、之を裁度と謂ふ。民間青囊を以て百穀瓜果の種を盛り相問遺し、号けて献生子と為す。里閭宜春酒を醸し、以て勾芒神を祭り、豊年を祈る。百官農書を進め、以て本を務むるを示す」と。帝悦び、乃ち令を著し、上巳・九日と為して三令節とし、中外皆緡銭を賜ひて燕会す。

四年八月、月東壁を蝕む。泌曰く、「東壁は図書の府なり。大臣憂ふる者有るべし。吾宰相として学士を兼ぬ。之に当るべし。昔燕国公張説是を以て亡ぶ。又免るべけんや」と。明年果たして卒す。年六十八。太子太傅を贈らる。

李泌は禁中に出入りし、四君に仕え、数度権幸に憎まれたが、常に智謀をもって免れた。縦横の大言を好み、時に讜議を発し、人主を悟らせて動かすことができた。しかし常に黄老鬼神の説を奉じたため、人に譏りそしられた。初め、粛宗は陰陽巫祝を重んじ、王璵を抜擢して政を執らせたが、大抵工役を興すたびに禁忌俗説に牽制された。また黎幹は左道をもって京兆尹の位に至り、かつて禁中の工人に命じて珠を並べて刺繡させ、乗輿の服とし、挙げてこれを焼いて禳禬とした。徳宗は元よりこれを然しとせず、位を嗣ぐと、内道場を罷め、巫祝を除いた。代宗の葬送に際し、帝は承天門で号泣して送ったが、轀車が道の中央を行かなかった。その故を問うと、有司は言う、「陛下の本命は午に在ります故、これを避けたのです」と。帝は涙して言う、「どうして霊駕を枉げて身の利を謀ることがあろうか」と。命じて午の方角に直進させた。また宣政廊が壊れた時、太卜が言う、「孟冬は魁岡に当たり、営繕すべからず」と。帝は言う、「『春秋』に『啓塞は時に従う』とある。魁岡が何の妨げになろうか」と。急いで詔してこれを修繕させた。桑道茂が奉天を城すとの事が験を現すに及んで、初めて時日の拘忌を尚び、これにより李泌を進用し、李泌もまた自ら建明するところがあった。ただ柳玭が称えるには、両京の回復は、李泌の謀が多かった、その功は魯連・范蠡よりも大であるという。

子 繁

子は繁。繁は少時より才気鋭敏であったが、行いが良くなかった。李泌が初めて陽城を挙げて朝廷に仕えさせたので、陽城は李泌の徳を重んじ、繁に親厚であった。裴延齢を疏劾する際、草稿が整うと、繁を信頼できるとして、夜に繁に書かせた。封じた後、繁はその内容を全て誦憶し、書き写して延齢に見せた。翌日、延齢は帝に告げて言う、「陽城が疏を朝廷に示しました」と。即ちその条項を摘示して自ら訴え弁解した。陽城の奏上が入ると、帝は怒り、遂に省みなかった。李泌は梁肅と親善であったので、繁は梁肅に師事した。梁肅が卒すると、その妻室と淫通し、士人の議論は喧しく醜いものとなり、これにより長年擯斥された。後に太常博士となったが、権徳輿が卿となると、奏してこれを斥け、河南府士曹参そうしん軍に改めた。累遷して隋州刺史となり、罷免されて帰り、調任を得られなかった。敬宗の誕生日に、詔して兵部侍郎丁公著・太常少卿陸亙と共に殿中に入り、老・仏の誦論を抗弁した。大理少卿・弘文館学士に改めたが、諫官御史が相次いで上章して弾劾したため、出されて亳州刺史となった。州に劇賊がおり、家屋を掠め財貨を奪って患いとし、他の刺史はこれを捕らえられなかったが、繁は機略があり、賊の巣窟の在り処を悉く知り、一朝に出兵してこれを捕斬した。議者は繁が先に観察府に啓上しなかったことを責め、擅興の罪とした。詔して御史舒元輿にこれを按問させたが、元輿は繁と元より隙があり、その獄事を悉く覆し、濫殺して罪なき者を殺したとし、詔があって賜死とされ、京兆の人々は皆これを冤んだ。繁は獄に下り、死を免れぬと知ると、先人の功業が泯滅することを恐れ、吏に求めて廢紙を得、筆を握って家伝十篇を著し、世に伝えた。

賛して言う、李泌の為人は、異なることよ。その謀事は忠に近く、その軽く去るは高に近く、その自ら全うするは智に近く、終に上宰を建てるは、功を立て名を立てる者に近い。粛宗が榛莽を披き、朝廷を立てるを見よ。単言暫謀も悟り合うところがあれば、皆政を付けた。この時、李泌の献納は少なくなかった。また代宗を佐けて両京を収めたが、独り録されず。寧ろ二主は宰相の器としなかったのであろうか。徳宗は晩年鬼神の事を好み、乃ち用いられた。怪を以て自ら置き、これに助けられたのである。繁が家伝を著し、李泌が元より鬼谷に居たと言い、史臣が誤って鬼道を好むと言い、自ら解釈した。また李泌が数度霊仙と接し、言うことが経に依らないと著すに及んで、当時の議者が切にこれを認めず、為すところあって然るを知る。繁の言は浮侈多く、信ずべからず。その実に近きものを掇り取って伝に著す。帝に先ず范陽を事とすべく勧め、太子に罪無きことを明らかにしたことは、また誣うべからざるものである。