新五代史

巻第十七

目次

高祖の皇后李氏は、唐の明宗皇帝の女なり。后は初め永寧公主と号し、清泰二年に魏國長公主に封ぜらる。廃帝の立つより、常に高祖必ず反すと疑う。三年、公主は太原より入朝して千春節に参じ、辞して帰らんとす。留むるを得ず、廃帝酔いて、公主に語りて曰く、「爾の帰ること何ぞ速やかなる、石郎と反せんと欲するか」と。既に醒めて、左右之を告ぐ。廃帝大いに悔ゆ。公主帰り、以て高祖に語る。高祖是より益々自ら安からず。

高祖即位し、公主まさに皇后と為るべし。天福二年三月、有司言う、「皇太妃の尊号已に正し、宝冊を上ぐるを請う」と。太妃は、高祖の庶母劉氏なり。高祖は宗廟未だ立たず、謙抑して未だ皇ならず。七年夏五月、高祖已に病み、乃ち詔して太妃を皇太后と尊む。然れども卒に冊を奉ぜずして高祖崩ず。故に后は高祖の世に終わりて亦冊命無し。出帝天福八年七月、冊して皇后を皇太后と尊む。

太后は人と為り彊敏にして、高祖常に厳しく之を憚る。出帝の馮皇后事を用うるに、太后数え訓戒す。出帝従わず、乃ち敗に及ぶ。

開運三年十二月、耶律徳光已に晉兵を降し、張彦沢を遣わして先ず京師を犯さしめ、書を以て太后に遺し、具に已に晉軍を降すを道い、且つ曰く、「吾に梳頭の妮子一薬囊を窃みて以て晉に奔る有り、今皆在るか否や。吾陽城に戦う時、奚車一乗を亡う、在るか否や」と。又問う、契丹先ず晉に獲らるる者及び景延広・桑維翰等の所在を。太后と帝、彦沢の至るを聞き、自ら焚ぜんと欲す。嬖臣薛超勧めて止む。及び徳光の与うる所の書を得て、乃ち火を滅して上苑の中に出づ。帝当直の学士范質を召し、謂ひて曰く、「杜郎一何相い負くことぞ。昔先帝太原に起つ時、一子を択びて留守せしめんと欲し、之を北朝皇帝に謀る。皇帝我に属す。我素より其の知る所と為す。卿我が為に奏を草し具に之を言へ。庶幾く我が子母を活かさん」と。質、帝が為に降表を草す。曰く、

孫男臣重貴言す。頃者唐の運告げ終り、中原馭を失い、数窮まり否極まり、天缺け地傾く。先人田一成一有り、衆一旅有り。兵連なり禍結び、力屈し勢孤なり。翁皇帝患を救ひ剛を摧き、利を興し害を除き、躬ずから甲冑を擐ぎ、深く寇場に入る。露を犯し霜を蒙り、鴈門の険を度り、風を馳せ電を撃ち、中冀の誅を行ふ。黄鉞一たび麾すれば、天下大いに定まり、勢宇宙に凌ぎ、義神明に感ず。功成りて居らず、遂に晉の祚を興す。則ち翁皇帝石氏に大造有り。

旋て天鞠凶を降すに属し、先君即世す。臣遺旨を遵承し、前基を纂紹す。諒闇の初め、荒迷して次を失ひ、凡そ軍国の重事有るは、皆将相大臣に委ぬ。宗祧を擅に継ぐに至りては、既に命を稟ぜず。軽く文字を発し、輒ち敢へて尊に抗す。自ら釁端を啓き、果たして赫怒を貽す。禍至りて神惑ひ、運尽きて天亡す。十万の師徒、風に望みて束手す。億兆の黎庶、頸を延べて心に帰す。臣義に負き羞を包み、生を貪り恥を忍び、自ら顛覆を貽し、上祖宗に累す。朝昏を偷み度り、視息を苟く存す。翁皇帝若し疇昔を恵顧し、稍々雷霆を霽らし、未だ霊誅を賜はず、先祀を絶たずんば、則ち百口更生の徳を荷ひ、一門報ゆる無き恩を銜む。願ふ所なれども、敢へて望まざるなり。臣と太后・妻馮氏と、郊野に於いて面縄し罪を俟つ次第なり。

又た太后の表を為りて曰く、

晉室皇太后新婦李氏妾言す。張彦沢・傅住児等至り、伏して蒙る、皇帝阿翁書を降し安撫する者。妾伏して念ふ、先皇帝頃にへい・汾に在り、適逢屯難に逢ひ、危きは累卵に同じく、急なるは倒懸の若く、智勇俱に窮まり、朝夕保たず。皇帝阿翁冀北より発し、親しく河東に抵り、山川を跋履し、険阻を踰越す。巨㜸を立平げ、遂に中原を定め、石氏の覆亡を救ひ、晉朝の社稷を立つ。不幸先帝厭代し、嗣子祧を承く。好を継ぎ民を息ます能はずして、反って恩を虧き義を辜す。兵戈屡く動き、駟馬追ひ難し。戚実に自ら貽し、咎将に誰か執らん。今穹旻震怒し、中外携離す。上将羊を牽き、六師甲を解く。妾挙宗釁を負ひ、景を視て生を偷む。惶惑の中、撫問斯に至り、恩旨を明宣し、含容を曲示し、慰諭丁寧、神爽飛越す。豈謂はんや已に垂れんとする命、忽ち更生の恩を蒙らんとは。罪を省み躬を責むれば、九死未だ報ぜず。今孫男延煦・延宝を遣はし、表を奉りて罪を請ひ、陳謝以て聞こゆ。

徳光報じて曰く、「憂ふること無かるべし。管取一喫飯の処有らん」。

四年正月丁亥朔、徳光京師に入る。帝と太后肩輿にて郊外に至る。徳光見ず。封禅寺に館す。其の将崔延勳を遣わし兵を以て之を守らしむ。是の時雨雪寒凍、皆饑に苦しむ。太后人をして寺僧に謂はしめて曰く、「吾嘗て此に於いて僧数万に飯す。今日豈相ひ憫まざらんや」と。寺僧虜の意測り難しと辞し、敢へて食を献ぜず。帝陰に守る者に祈り、乃ち稍々食を得。

辛卯、徳光帝を降して光禄大夫・検校太尉と為し、「負義侯」に封じ、黄龍府に遷す。徳光人をして太后に謂はしめて曰く、「吾聞く、重貴母の教に従はずして此に至ると。自便を求むべし。俱に行くこと勿れ」と。太后答えて曰く、「重貴妾に事ふること甚だ謹し。失ふ所は、先君の志に違ひ、両国の歓を絶つなり。然れども重貴此れ去る、幸いに大恵を蒙り、生を全うし家を保つ。母子に随はずして、何れの所にか帰らんと欲する」と。是に於いて太后は馮皇后・皇弟重睿・皇子延煦・延宝等と挙族帝に従ひて北し、宮女五十・宦者三十・東西班五十・医官一・控鶴官四・御厨七・茶酒司三・儀鸞司三・六軍の士二十人を以て従ひ、騎兵三百を以てえいす。経る州県は、皆故晉の将吏なり。供饋する所有れども、通ずるを得ず。路傍の父老、争ひ持する羊酒を献ぜんとす。衞兵推隔して帝に見えしめず。皆涕泣して去る。

幽州より十余日を行き、平州を過ぎ、榆関を出て、砂磧の中を行く。飢えて食を得ず、宮女・従官を遣わして木の実・野の菜を採らせて食す。また七八日行きて錦州に至る。虜人、帝と太后に迫りて阿保機の画像を拝せしむ。帝辱めに耐えず、泣きて呼びて曰く「薛超我を誤らせ、我をして死なしめず」と。また五六日行きて海北州を過ぎ、東丹王の墓に至り、延煦を遣わしてこれを拝せしむ。また十余日行きて遼水を渡り、渤海国の鉄州に至る。また七八日行きて南海府を過ぎ、遂に黄龍府に至る。

この歳六月、契丹の国母、帝と太后を懐密州に徙す。州は黄龍府の西北一千五百里に去る。遼陽を過ぎること二百里にして、国母永康王に囚われ、永康王は帝と太后を遣わして遼陽に還り止まらしめ、稍々これを供給す。明年四月、永康王遼陽に至る。帝白衣紗帽を着し、太后・皇后とともに帳中に詣りて上謁す。永康王、帝をして常服にて見えしむるを止む。帝地に伏して雨の如く泣き、自ら過咎を陳ぶ。永康王人をしてこれを扶け起たしめ、座に与え、酒を飲み楽を奏す。而して永康王帳下の伶人・従官、故主を望見し、皆泣下し、悲しみ自ら勝えず、争って衣服薬餌を以て遺り物とす。

五月、永康王陘に上り、帝の従い行く宦者十五人・東西班十五人及び皇子延煦を取りて去る。永康王の妻の兄禅奴、帝の小女を愛し、これを求めしに、帝幼きを以て辞す。永康王一騎を馳せてこれを取り、以て禅奴に賜う。陘は虜地にして、尤も高涼、虜人は常に五月に陘に上りて暑を避け、八月に陘を下る。八月に至り、永康王陘を下る。太后自ら馳せて州に至り永康王に見え、漢児城の側に地を賜わり種牧して以て生を為さんことを求む。永康王、太后の自ら従うを以てし、十余日行きて、延煦とともに遼陽に還らしむ。

明年は乃ち漢の乾祐二年、その二月、帝と太后を建州に徙す。遼陽より東南に千二百里行きて建州に至る。節度使趙延暉、正寝を避けて以てこれを館す。建州を去ること数十里外に地五十余頃を得、帝従い行く者を遣わして耕しこれを食らわしむ。

明年三月、太后疾に臥し、医薬無く、常に天を仰ぎて泣き、南を望みて戟手して杜重威・李守貞等を罵りて曰く「死者知らざらしむれば則ち已まん、若し其れ知ること有らば、地下に於いて爾を赦さじ」と。八月疾篤く、帝に謂いて曰く「我死すれば、其の骨を焚きて范陽の仏寺に送れ、我をして虜地の鬼と為らしむるなかれ」と。遂に卒す。帝と皇后・宮人・宦者・東西班、皆髪を被き跣足にて、其の柩を扶き舁ぎて賜地に至り、其の骨を焚き、地を穿ちてこれを葬る。

周の顕徳中、契丹より亡げ帰れる中国人有り、言うに帝と皇后諸子皆恙無きを見たりと。後に其の終わる所を知らず。

安太妃

安太妃は代北の人なり、其の世家を知らず、敬儒の妻となり、出帝を生み、秦国夫人に封ぜらる。出帝立ちて、尊びて皇太妃と為す。妃老いて失明し、出帝に従い北遷し、遼陽より建州に徙され、道中に卒す。臨終に帝に謂いて曰く「我を焚きて灰と為し、南に向かってこれを颺げよ、庶幾くば遺魂中国に反え得ん」と。既に卒し、砂磧中草木無く、乃ち奚車を毀ちてこれを焚き、其の燼骨を載せて建州に至る。李太后も亦卒し、遂にこれを併せ葬る。

出帝皇后馮氏

出帝皇后馮氏は定州の人なり。父濛は州の進奏吏と為り、京師に居り、巧佞を以て安重誨に喜ばれ、鄴都副留守と為す。高祖鄴都に留守し、濛を得て甚だ歓び、乃ち重胤をして濛の女を娶らしめ、後吳国夫人に封ぜらる。重胤早く卒し、后寡居し、色有り、出帝これを悦ぶ。高祖崩じ、梓宮殯に在り、出帝喪中に居りて、これを納れて后と為す。是の日、六軍の仗衞・太常の鼓吹を以てし、后をして西御莊に至らしめ、高祖の影殿に見えしむ。群臣皆賀す。帝顧みて馮道等に謂いて曰く「皇太后の命なり、卿等と大慶に任えず」と。群臣出で、帝と皇后酣に飲み歌舞し、梓宮の前を過ぎ、酹して告げて曰く「皇太后の命なり、先帝と大慶に任えず」と。左右皆失笑し、帝も亦自ら絶倒し、左右に顧みて謂いて曰く「我今日新女壻を為す、何如生」と。后と左右皆大笑し、声外に聞ゆ。

后既に立ちて、内寵を専らにし、宮官尚宮・知客等を封拝して皆郡夫人と為し、又男子李彦弼を用いて皇后宮都押衙と為す。其の兄玉政を執り、内外に用事し、晋遂に以て乱る。契丹京師を犯し、帝の悪を天下に暴きて曰く「叔母を中宮に納れ、人倫の大典を乱る」と。后帝に従い北遷し、帝の辱めを哀しみ、数え毒薬を求め、帝とともに飲みて死なんことを欲すれど、薬得可からず。後に其の終わる所を知らず。

晋氏始めは夷狄より出でて微なりしも、終に夷狄に滅ぼさる。故に其の宗室の次序本末、究め見ること能わず。其れ見るべき者は曰く、高祖二叔父、一兄六弟、七子二孫、而して略有り詳有り。惟だ禍乱多き故に其の事実を失えるのみならず、抑亦称すべき者無きなり。然れども粗く其の見る者を存して、以て其の闕を備う。二叔父は万友・万詮、兄は敬儒、弟は敬威・敬德・敬殷・敬贇・敬暉・重胤、子は重貴・重信・重乂・重英・重進・重睿・重杲、孫は延煦・延宝。孝平皇帝は孝元皇帝・万友・万詮を生み、孝元皇帝は高祖を生み、万友は敬威・敬贇を生み、万詮は敬暉を生む。而して敬儒・敬德・敬殷・重胤は皆其の高祖に於ける親疎を知らず。

高祖は孝元皇帝の第二子なり。而して敬儒は兄なり、其の長子なるを疑わば、則ち高祖に属して長にして親し。然るに贈官反って諸弟に最後にし、而して高祖の世独り追封を得ず、此れ又疑わしきなり。重胤は高祖の弟なり、亦其の親疎たるを知らず。然れども高祖これを愛し、養いて以て子と為す。故に名に「重」を加えて諸子の下に歯す。高祖の叔・兄と弟敬殷・子重進は皆即位前に卒し、而して敬威・敬德・重胤・重英は高祖の反時に死す。高祖の少子は馮六、名付けられずして卒す。而して旧説重睿を以て幼子と為すは、非なり。

石氏世軍中に事え、万友・万詮職卑くして見えず。天福二年正月、万友故金紫光禄大夫・検校司徒しと兼御史大夫・上柱国より太師を贈らる。万詮も亦金紫光禄大夫・検校司空しくう兼御史大夫・上柱国より太傅を贈らる。出帝天福八年五月、皇叔祖万友を追封して秦王と為し、万詮に加贈して太師とし、追封して趙王と為す。

敬威

敬威は字を奉信といい、唐の廃帝の時に彰聖右第三都指揮使となり、常州刺史を兼ねた。高祖が太原で挙兵したと聞き、人に言うには、「生ある者は必ず死あり、人として誰が免れようか。我が兄は今まさに大事を挙げんとしている。私は生きながらえて辱めを受け、一時の笑い者となることはできない」と。そこで自殺した。敬德は当時沂州馬歩軍指揮使であり、高祖が反逆したため誅殺された。

天福二年正月、敬威と敬德の両名にいずれも太傅を追贈し、また敬殷にも検校太子賓客を追贈し、同様に太傅を贈ったが、敬儒には及ばなかった。七年正月、敬威を広王に、敬德を福王に、敬殷を通王に追封し、いずれも太尉を贈った。敬儒は初め故金紫光禄大夫・検校尚書左僕射兼御史大夫・上柱国の位から太傅を贈られたが、ただ一人封を得られなかった。出帝の天福八年五月、三皇叔(三人の皇叔)にいずれも太師を加贈し、皇伯敬儒は初めて宋王に追封され、同様に太師を加贈された。

敬贇

敬贇は字を德和といい、若い頃は無頼で、民間に身を潜めていた。高祖が人をやって探し出させ、太原牙将に補任した。即位すると、飛龍皇城使とし、累進して曹州防禦使となった。天福五年冬、河陽三城節度使に任じた。

敬贇は性貪暴であり、高祖は賢明な補佐の吏を選んでこれを輔けさせたが、敬贇もまた高祖の厳しさを憚り、未だ敢えて法を犯すことはなかった。一年余りして、鎮を保義に移した。出帝の時、同中書門下平章事を加えられ、次第に驕慢恣肆となり始めた。帝が使者を遣わすと、必ず「小姪(私の小さな甥)は無事か」と問うた。陝の人はその暴虐に苦しみ、召還して京師に帰したが、彼が皇叔であるため責めることができず、その元従都押衙の蘇彥存と鄭溫遇を退けてこれを戒めた。

契丹が辺境を侵犯すると、敬贇は出帝に従って澶淵に赴き、兵を率いて汶陽を守備し、麻家渡を守ったが、敵と遭遇することなく、いずれも功績がなかった。開運元年七月、再び出て威勝軍節度使となった。一年余りして、出帝は曹州を威信軍とし、敬贇に節度使を授けた。曹州では貪暴が特に甚だしく、久しくして召還された。

張彥澤の兵が京師を侵犯すると、敬贇は夜中に逃走し、城の東の垣を越えようとして、砂濠に落ちて溺死した。時に四十九歳。

韓王敬暉

韓王敬暉は字を德昭といい、人となり重厚剛直で、勇猛かつ智謀多く、高祖は特にこれを愛した。高祖の時に曹州防禦使となり、廉潔倹約をもって称され、官にて卒した。太傅を贈られた。天福八年、太師を加贈され、韓王に追封された。子の曦が嗣いだ。

高祖の李皇后は楚王重信を生んだが、その他の諸子はその母を知らない。高祖が太原で挙兵した時、重英は右衛大将軍であった。正月、高祖は二人の子のために哀悼の礼を行い、いずれも太保を贈った。また重進にも故左金吾衛将軍の位から太保を贈った。七年正月、いずれも太傅を加贈し、重英を虢王に、重胤を郯王に、重進を夔王に追封した。出帝の天福八年五月、いずれも太師を加贈した。

楚王重信

楚王重信は字を守孚といい、人となり聡明で悟りが早く智謀多く、礼を好んだ。天福二年二月、左ぎょう衛上将軍から河陽三城節度使に任じられ、善政があり、高祖は詔を下してこれを褒めた。この年、范延光が反逆し、詔により前霊武節度使張従賓に河陽の兵を発して延光を討たせたが、従賓もまた反逆し、重信は殺害された。時に二十歳。高祖は重信に太尉を贈ろうとしたが、大臣が漢の故事を引き、皇子で三公となる者はないと言った。高祖は言う、「この児は善を行って禍に遭った。私はこれを非常に哀れむ。我が思いから出たことであり、どうして先例があろうか」と。そこで太尉を贈った。七年正月、太師を加贈し、沂王に追封した。出帝の天福八年五月、封を改めて楚王とした。

壽王重乂

壽王重乂は字を弘理といい、人となり学問を好み、兵法をよく知っていた。高祖が即位すると、左驍衛大将軍に任じた。高祖が汴州に行幸した時、東都留守とした。張従賓が反逆し、河南を攻撃した際、殺害された。時に十九歳。太傅を贈られた。天福七年正月、太尉を加贈し、壽王に追封した。出帝の天福八年五月、太師を加贈した。いずれも子がなかった。

重睿

重睿は人となり容貌が高祖に似ていた。高祖が臥病の際、宰相の馮道が臥内に入って拝謁すると、重睿はまだ幼く、高祖は呼び出して前に出させ馮道に拝礼させ、そこで宦官に抱かせて馮道の懐に置かせた。高祖は言わなかったが、左右の者は皆、重睿を馮道に託したことを知った。高祖が崩御すると、晋の大臣は国家多事を以て、長君を立てることを議し、しかるに景延広は既に密かに出帝を立てることを許していたので、重睿は遂に立てられなかった。出帝は重睿を検校太保・開封尹とし、左散騎常侍さんきじょうじの辺蔚を以て開封府事を権知させた。開運二年五月、重睿を雄武軍節度使に拝し、歳余して、鎮を忠武に移したが、皆その鎮に赴かなかった。契丹が晋を滅ぼすと、重睿は出帝に従って北遷し、後はその終わりを知らない。

重杲

陳王重杲は、高祖の末子なり。幼名は馮六、名を付けざるに卒し、太傅を贈られ、陳王に追封され、重杲の名を賜う。出帝天福八年五月、太師を加贈す。

延煦と延寶

延煦と延寶は、高祖の諸孫にして、出帝これを子と為す。

開運二年の秋、延煦を鄭州刺史に任ず。延煦は年少にして政務を視ること能わず、一宦者を以てこれに従わしめ、また尚書郎路航を選びて州事に参ぜしむ。宦者遂に政事を専らにし、毎に航を詬辱し、出帝航を召し還す。已にして延煦を徙して齊州防禦使とす。

三年、鎮寧軍節度使に拝す。是の時、河北に兵を用ひ、天下旱蝗有り、民餓死する者百萬を以て計ふ。而して諸鎮聚斂を爭ひ為す。趙在禮の積む所鉅萬、諸侯王の最と為る。出帝其の貲に利し、乃ち延煦をして在禮の女を娶らしむ。在禮絹三千匹を獻じ、前後獻する所勝數す可からず。三年五月、宗正卿石光贊を遣はして聘幣一百五十床を以て其の第に迎へしむ。出帝萬歲殿に在禮を宴す。以て賜予する所甚だ厚し。君臣奢侈を窮極す。時人榮と以為ふ。在禮人に謂ひて曰く、「吾此の一婚、其の費十萬。」十一月、延煦を徙して保義を鎮せしむ。

延煦が斉州防禦使となると、延寶は代わって鄭州刺史となった。契丹が晉を滅ぼすに及んで、出帝と太后は延煦・延寶を遣わし、降表・玉璽・金印を齎らしめて契丹に帰順せしめたが、延寶はこの時すでに威信軍節度使となっていた。契丹は璽を得て、その製作が精巧でなく、前史の伝えるものと異なるとし、延煦らに命じて還り報じ、真の璽を求めしめた。出帝は状を以て答えて曰く、「頃に潞王従珂は洛陽らくようにて自焚し、玉璽は所在を知らず、既に焼けたるかと疑う。先帝は天命を受け、玉工に命じてこの璽を製せしめ、位に在りし群臣皆これを知る」と。乃ち已んだ。後に延煦らは出帝に従い北遷し、その終わりを知らず。

嗚呼、古の不幸にして子無き者は、其の同宗の子を以て後と為すを、聖人は之を許し、之を禮經に著して諱まざるなり。而して後世の閭閻鄙俚の人は則ち之を諱む、諱むれば則ち其の欺と偽に勝へざるなり。故に其の苟も偷みて嬰孩襁褓を竊取し、其の父母を諱みて、自ら欺きて以て我が生める子と為し、曰く、「然らずんば、則ち能く其の一志を我に盡くして愛するを得ず、而して其の心必ず二ならん」と。而して其の子と為る者は、亦自ら其の生まるる所を諱みて、其の天性の親を絶ち、反りて以て叔伯父と視る、此を以て其の九族を欺き、而して其の人鬼親疎の屬を亂る。凡そ物生れて知有るは、未だ其の父母を愛せざるは無し。使ひ此の子なり、能く忍びて真に其の天性を絶つや、曾て禽獸の若かざるなり。其の忍びずして外に陽に之を絶つに使はば、是れ大偽なり。

里巷の卑しい者どもが事を慮ることも、既に深いものがある。しかし、苟且に窃み欺き偽ることは法と為すべからざるは、小人の事である。ただ聖人のみは然らず、人道は絶えたるを継ぐより大なるは莫しと謂い、これは万世の通制にして天下の公行である、何ぞ必ずしも諱まんや。所謂子たる者は、父母より生ぜざるは未だあらざるなり、故に人の後を為す者は、必ず生みし父有り、後としたる父有り、これは理の自然である、何ぞ必ずしも諱まんや。その簡易明白にして、苟且ならず窃まず、欺かず偽らず、通制と為し公行と為すべきは、聖人の法である。

また、人の後を継ぐ者は承継する重責があるゆえに、その喪服を斬衰に加える。しかし、生みの親の縁を絶つことはしない、それは天性の縁であり絶つことができないからである。しかし、恩は義に屈する場合があり、ゆえにその喪服を期服に降す。喪服は外物であるから、降すことができるが、父母の名は改めることができない。ゆえに経書に明記して曰く、「人の後を為す者は、其の父母に報ず」と。三代以来、天下国家を有する者はこれを用いない者はなかったが、晋氏は用いなかった。出帝が敬儒に対しては、その父としての道を絶ち、臣下として爵位を与えた。ただその義において立つべからざるがゆえに、已むを得ず絶ったのみならず、おそらくはまた巷の鄙びた俗習の行いを見慣れていたからであろう。

五代は、干戈賊亂の世にして、禮樂崩壞し、三綱五常の道絕え、先王の制度文章は掃地に盡きてしまったのである!寒食に野祭して紙錢を焚くが如き、天子にして閭閻の鄙俚なることを為すもの多し!而して晉氏は夷狄より起り、篡逆を以て天下を得、高祖は耶律德光を父と為し、出帝は德光に於いては則ち祖と為して孫と稱し、其の所生の父に於いては則ち臣として之を名づく、是れ豈に人理を以て責むべきならんや!