後漢書

志第八

祭祀中 北郊 明堂 辟雍 霊台 迎気 増祀 六宗 老子

 

この年、初めて北郊の営造を始めた。明堂、辟雍、霊台はまだ用いられなかった。呂太后を園に遷した。簿上で太后の尊号を高皇后とし、地に配祀すべきものとし、高廟を郊祀した。詳細は『光武帝紀』にある。

北郊は洛陽城の北四里にあり、四つの階を持つ方形の壇である。三十三年正月辛未の日、郊祀を行った。地祇を別に祀り、位は南面で西上とし、高皇后を配祀し、西面で北上とした。皆壇上にあり、地理の群神は従食し、皆壇下にあった。元始年間の故事の通りである。中岳は未の位にあり、四岳はそれぞれの方角の孟辰の地にあり、中営の内にある。海は東にあり、西の瀆は河西に、済は北に、淮は来に、江は南にある。その他の山川はそれぞれの方角の通りで、皆外営の内にある。四陛のDD3C及び中外営の門の封神は南郊の通りである。地祇と高后にはそれぞれ犢を一頭、五岳には牛を一頭共用し、海と四瀆には牛を一頭共用し、群神には二頭共用した。奏楽も南郊の通りである。神を送った後、俎の実物を壇の北に埋めた。

明帝が即位し、

永平二年

正月辛未の日、初めて明堂で五帝を祀り、光武帝を配祀した。五帝の坐位は堂上にあり、それぞれの方角に位置した。黄帝は未の位にあり、皆南郊の位の通りであった。光武帝の位は青帝の南、少し退いて西面であった。犠牲はそれぞれ犢一頭、奏楽は南郊の通りであった。事が終わると、霊台に登り、雲気を望んだ。

時気を迎える五郊の兆域である。永平年間以来、『礼緯』及び『月令』に五郊迎気の服色があるため、元始年間の故事を採用し、洛陽の四方に五郊の兆域を設けた。中兆は未の位にあり、壇は皆三尺で、階に等級はない。

立春の日、東郊で春を迎え、青帝句芒を祭った。車・旗・服飾は皆青色であった。『青陽』を歌い、八佾の舞で『雲翹』の舞を舞った。またこれに因んで文官の太傅、司徒以下にそれぞれ差等を付けて絹を賜った。

立夏の日、南郊で夏を迎え、赤帝祝融を祭った。車・旗・服飾は皆赤色であった。『朱明』を歌い、八佾の舞で『雲翹』の舞を舞った。

立秋の十八日前、中北で黄霊を迎え、黄帝后土を祭った。車・旗・服飾は皆黄色であった。『朱明』を歌い、八佾の舞で『雲翹』、『育命』の舞を舞った。

立秋の日、西郊で秋を迎え、白帝蓐收を祭る。車・旗・服飾はすべて白。『西皓』を歌い、八佾の舞『育命』の舞を舞う。謁者に命じて一特牲を壇で先虞に先祭させ、有事の際には天子が苑に入り牲を射て、宗廟を祭る。これを貙劉という。詳細は『礼儀志』にある。

立冬の日、北郊で冬を迎え、黒帝玄冥を祭る。車・旗・服飾はすべて黒。『玄冥』を歌い、八佾の舞『育命』の舞を舞う。

章帝が即位し、

元和二年

正月、詔して言う。「山川百神で、祭祀に応ずべきものが尽くされていない。群祀で享祀すべきものを増やし修めることを議せよ。」

二月、帝は東に巡狩し、泰山に至らんとして、使者を遣わして一太牢を奉じ、済陰郡成陽県の霊台で帝堯を祠った。帝は泰山に至り、光武帝の山南の壇兆を修めた。辛未の日、柴を焚いて天地群神を祭り、故事の通りとした。壬申の日、孝武帝が作った汶上の明堂で五帝を宗祀し、光武帝を配祀した。雒陽の明堂の礼と同じである。癸酉の日、改めて高祖、太宗、世宗、中宗、世祖、顕宗を明堂で告祀し、各々一太牢を用いた。事が終わると、東后に朝見し、王侯群臣を饗応し賜与した。郡国を行幸し、魯に幸し、東海恭王及び孔子の七十二弟子を祠った。四月、京都に還った。庚申の日、帰還を告げ、高廟と世祖廟に各々一特牛で祠った。また霊台十二門のために詩を作り、各々その月に祀ってこれを奏した。和帝は増改するところがなかった。

安帝が即位し、

元初六年

、『尚書』の欧陽家の説により、六宗とは天地四方の中にあり、上下四方の宗であるとする。元始年間の故事により、六宗を『易』の六子の気である日、月、雷公、風伯、山、沢とするのは正しくないとした。三月庚辰、初めて六宗を改めて立て、雒陽西北の戌亥の地で祀り、礼は太社に比した。

延光三年

、帝は東に巡狩し、泰山に至り、柴祭を行い、及び汶上の明堂を祠り、元和二年の故事の通りとした。順帝が即位し、常祀を修め奉った。

桓帝は即位して十八年目、神仙の事柄を好んだ。延熹八年、初めて中常侍を陳国の苦県に派遣して老子を祀らせた。九年、自ら濯龍で老子を祀った。文罽で壇を築き、純金の器で飾り、華蓋の座を設け、郊天の楽を用いた。