この年の初めに北郊の祭祀場を営み、明堂、辟雍、霊台はまだ使用されなかった。呂太后を園に遷した。呂太后に高皇后の尊号を上簿し、地に配し、高廟を郊祀すべきとした。詳細は『光武帝紀』にある。
時気を迎える五郊の兆域。永平年間以来、『礼緯』および『月令』に五郊迎気の服色があるため、元始年間の故事を採用し、洛陽の四方に五郊の兆域を設けた。中兆は未の方角に、壇はすべて三尺、階に等級はない。
立春の日、東郊で春を迎え、青帝句芒を祭った。車旗服飾はすべて青。『青陽』を歌い、八佾で『雲翹』の舞を舞った。またこれに因んで文官の太傅、司徒以下にそれぞれ差等をつけて絹を賜った。
立夏の日、南郊で夏を迎え、赤帝祝融を祭った。車旗服飾はすべて赤。『朱明』を歌い、八佾で『雲翹』の舞を舞った。
立秋の十八日前、中北で黄霊を迎え、黄帝后土を祭った。車旗服飾はすべて黄。『朱明』を歌い、八佾で『雲翹』、『育命』の舞を舞った。
立秋の日、西郊で秋を迎え、白帝蓐収を祭った。車旗服飾はすべて白。『西皓』を歌い、八佾で『育命』の舞を舞った。謁者に特牲一頭を持たせ、先に壇で先虞を祭らせ、事があると、天子は苑に入り犠牲を射て、宗廟を祭り、貙劉と名付けた。詳細は『礼儀志』にある。
立冬の日、北郊で冬を迎え、黒帝玄冥を祭った。車旗服飾はすべて黒。『玄冥』を歌い、八佾で『育命』の舞を舞った。
二月、帝は東に巡狩し、泰山に至らんとして、使者を遣わし太牢一組を持たせ、済陰成陽の霊台で帝堯を祠らせた。帝は泰山に至り、光武帝の山南の壇兆を修めた。辛未、故事の通りに柴を焚いて天地群神を祭った。壬申、孝武帝が作った汶上の明堂で五帝を宗祀し、光武帝を配祀し、洛陽の明堂の礼の通りとした。癸酉、改めて明堂で高祖、太宗、世宗、中宗、世祖、顕宗を告祀し、それぞれ太牢一組を用いた。事が終わると、東后に朝見し、王侯群臣を饗応し賜物を与えた。郡国を行幸し、魯に幸し、東海恭王および孔子の七十二弟子を祠った。四月、京都に還った。庚申、至ったことを告げ、高廟、世祖を祠り、それぞれ特牛一頭を用いた。また霊台の十二門のために詩を作り、それぞれその月に祀ってこれを奏した。和帝は増改するところがなかった。
安帝が即位し、元初六年、『尚書』欧陽家の説により、六宗とは天地四方の中にあり、上下四方の宗であるとした。元始年間の故事により、六宗を『易』の六子の気である日、月、雷公、風伯、山、沢とするのは誤りであるとした。三月庚辰、初めて六宗を改めて立て、洛陽の西北の戌亥の地で祀り、礼は太社に比した。
桓帝が即位して十八年、神仙の事を好んだ。延熹八年、初めて中常侍を陳国の苦県に遣わし老子を祠らせた。九年、濯龍で自ら老子を祠った。文罽で壇を設け、純金の器で飾り、華蓋の座を設け、郊天の楽を用いた。