文字サイズ
後漢書
巻八十六・南蠻西南夷列伝第七十
南蛮
昔、高辛氏の時代に犬戎の侵寇があり、帝はその侵暴を憂い、征伐しても勝てなかった。そこで天下に募り、犬戎の将である呉将軍の首を取れる者には、黄金千鎒、邑一万戸を与え、さらに少女を妻とすると約束した。当時、帝が飼っていた犬で、毛が五色に彩られていたものがあり、名を槃瓠といった。命令が下った後、槃瓠は人の首をくわえて宮殿の下に現れた。群臣は怪しんで調べると、それは呉将軍の首であった。帝は大いに喜んだが、槃瓠に娘を妻として与えるわけにはいかず、また封爵する方法もなく、報いようとしてもどうすべきか分からなかった。娘はこれを聞き、帝皇の命令は信義に背くことはできないと考え、自ら進んで行くことを願い出た。帝はやむなく、娘を槃瓠に嫁がせた。槃瓠は娘を得ると、背負って南山に走り込み、石室の中に住んだ。その場所は険しく隔絶しており、人の跡は届かなかった。そこで娘は衣裳を解き去り、僕鑑の結び髪をし、獨力の衣を着た。帝は娘を悲しく思い、使者を遣わして探し求めたが、いつも風雨や暗闇に遭い、使者は進むことができなかった。三年を経て、十二人の子を生んだ。六男六女である。槃瓠が死んだ後、彼らは互いに夫婦となった。木の皮を紡いで織り、草の実で染め、五色の衣服を好んだ。裁断したものには皆、尾の形があった。その母(帝の娘)が後に帰還し、状況を帝に報告した。そこで帝は使者を遣わして諸子を迎えさせた。彼らの衣裳は斑爛とし、言葉は侏離(異様)で、山や谷に入ることを好み、平らで広い土地を楽しまなかった。帝はその意向に従い、名山や広い沢を賜った。その後、彼らは繁殖し、蛮夷と号した。外見は愚かだが内面は狡猾で、土地に安住し古い習慣を重んじた。先父に功績があり、母が帝の娘であるため、田畑を耕し商売をしても、関所や通行証、租税の賦課はなかった。邑には君長がおり、皆、印綬を賜り、冠には獺の皮を用いた。渠帥のことを精夫と呼び、互いに姎徒と呼び合った。現在の長沙・武陵の蛮がこれである。
唐・虞の時代には、彼らと盟約を結んだので、要服と呼ばれた。夏・商の時代には、次第に辺境の患いとなった。周の時代に至ると、徒党はますます盛んになった。宣王が中興すると、方叔に命じて南方の蛮方を討伐させた。詩人が「蛮荆来威」と言ったのがこれである。また「蠢爾蛮荆、大邦爲仇」とも言う。彼らの徒党が多く、それゆえに諸夏に敵対したことが明らかである。
平王が東遷すると、蛮は遂に上国を侵暴した。晋の文侯が政務を補佐すると、蔡の共侯を率いてこれを撃破した。楚の武王の時代に至ると、蛮は羅子と共に楚軍を破り、その将である屈瑕を殺した。荘王が即位した当初、民は飢え兵は弱く、再び蛮に侵寇された。楚軍が盛り返した後、ようやく服従し、これ以降は楚に属した。鄢陵の戦いでは、蛮は恭王と合流して晋を撃った。呉起が悼王の宰相となると、南方の蛮越を併合し、遂に洞庭・蒼梧を領有した。秦の昭王は白起を遣わして楚を討ち、蛮夷の地を攻略し、初めて黔中郡を設置した。漢が興ると、武陵と改称した。毎年、大人には布一匹、小口には二丈を納めさせ、これを賨布と呼んだ。時々寇盗を働くことはあっても、郡国の患いとなるほどではなかった。
光武帝が中興すると、武陵の蛮夷は特に勢いが盛んになった。建武二十三年、精夫の相単程らがその険しい要害を拠点とし、大いに郡県を侵寇した。武威将軍劉尙を遣わし、南郡・長沙・武陵の兵一万余人を徴発し、船に乗って沅水を遡り、武谿に入ってこれを討った。劉尙は敵を軽視して険地に入り、山は深く水は急で、舟船は上ることができなかった。蛮は劉尙の兵糧が少なく、遠くまで入り込み、しかも道筋を知らないことを悟り、要害に屯聚して守りを固めた。劉尙は食糧が尽きて引き返したが、蛮は道沿いに待ち伏せて戦い、劉尙軍は大敗し、全滅した。二十四年、相単程らが下って臨沅を攻撃した。謁者李嵩と中山太守馬成を遣わしてこれを討ったが、勝てなかった。翌年春、伏波将軍馬援・中郎将劉匡・馬武・孫永らを遣わし、兵を率いて臨沅に至り、これを撃破した。単程らは飢え困窮して降伏を請うたが、ちょうど馬援が病死したため、謁者宗均がすべての降伏を受け入れた。官吏を置いて統治すると、群蛮は遂に平定された。
粛宗の建初元年、武陵の澧中の蛮である陳従らが反乱を起こし、零陽蛮の境界内に入った。その冬、零陽蛮の五里の精夫が郡のために陳従を撃破し、陳従らは皆降伏した。三年の冬、漊中の蛮である覃児健らが再び反乱を起こし、零陽・作唐・孱陵の境界内を攻撃し焼き払った。翌年春、荊州七郡および汝南・潁川の弛刑徒と吏士五千余人を徴発し、零陽を守備させ、充中の五里蛮で反乱しない精夫四千人を募り、澧中の賊を討った。五年春、覃児健らが降伏を請うたが、許さなかった。郡は兵を進め、宏下で戦い、大いにこれを破り、児健の首を斬った。残りは皆、陣営を捨てて漊中に逃げ帰り、再び降伏を請うたので、ようやくこれを受け入れた。そこで武陵の屯兵を罷め、それぞれに差をつけて賞賜を与えた。
和帝の永元四年冬、漊中・澧中の蛮である潭戎らが反乱し、郵亭を焼き払い、吏民を殺害略奪した。郡兵がこれを撃破し降伏させた。安帝の元初二年、澧中の蛮は郡県の徭役と租税が公平でないことを恨み、充中の諸種族二千余人と結託し、城を攻めて長吏を殺した。州郡は五里蛮・六亭の兵を募って追撃し、これを破り、皆、散り散りになって降伏した。五里・六亭の渠帥にそれぞれ差をつけて金帛を賜った。翌年秋、漊中・澧中の蛮四千人が共に盗賊となった。また零陵蛮の羊孫・陳湯ら千余人が、赤い幘をかぶり、将軍を称し、官寺を焼き、百姓を掠奪した。州郡は善き蛮を募ってこれを討ち平定した。
順帝の永和元年、武陵太守が上書し、蛮夷が服従しているので、漢人と同じように扱い、その租賦を増やすべきだと述べた。議論する者は皆、これに賛成した。尚書令の虞詡だけが上奏して言った。「古来の聖王は、異なる習俗の者を臣下としなかった。徳が及ばず、威厳が加えられないからではなく、彼らが獣のような貪欲な心を持ち、礼によって統率することが難しいことを知っていたからである。それゆえに羈縻して緩やかに慰撫し、服従すれば受け入れても拒まず、反逆すれば見捨てても追わなかった。先帝の旧典では、貢納や租税の多少は、由来が久しい。今、みだりにこれを増やせば、必ず怨みと反乱が生じる。その得るものを計算しても、費やすものを償わず、必ず後悔することになる。」帝は聞き入れなかった。その冬、澧中・漊中の蛮は果たして貢納する布が旧約と異なることに争い、郷吏を殺し、種族を挙げて反乱を起こした。翌年春、蛮二万人が充城を包囲し、八千人で夷道を侵寇した。武陵太守李進を遣わしてこれを討ち破り、数百の首級を斬り、残りは皆降伏した。李進は良吏を選抜し、蛮の実情と和やかな関係を得た。郡に在任すること九年、梁太后が臨朝すると、詔を下して李進の秩を二千石に増やし、銭二十万を賜った。桓帝の元嘉元年秋、武陵蛮の詹山ら四千余人が反乱し、県令を拘束し、深山に屯結した。永興元年に至り、太守の応奉が恩信をもって招き誘うと、皆、降伏し散り散りになった。
永寿三年十一月、長沙の蛮が反乱を起こし、益陽に駐屯した。延熹三年の秋に至ると、郡の境界を掠奪し、その数は一万余人に達し、長吏を殺傷した。また零陵の蛮が長沙に入った。冬、武陵の蛮六千余人が江陵を侵し、荊州刺史の劉度、謁者の馬睦、南郡太守の李肅は皆逃げ出した。李肅の主簿である胡爽が馬の首を押さえて諫めて言った。「蛮夷は郡に警戒の備えがないのを見て、隙に乗じて進撃したのです。明府は国の大臣として、千里に連なる城を持ち、旗を掲げ鼓を鳴らせば、十万の兵が応じるというのに、どうして符節と守備の重責を捨てて、逃亡者になろうとなさるのですか。」李肅は刀を抜いて胡爽に向かって言った。「掾よ、早く去れ。太守は今危急である。こんなことを考える暇はない。」胡爽は馬を抱えて固く諫めたので、李肅は胡爽を殺して逃げた。帝はこれを聞き、李肅を召し出して市で処刑し、劉度と馬睦は死刑を一等減じ、胡爽の家の門に表彰し、その家の一人を郎に任命した。そこで右校令の度尚を荊州刺史として任じ、長沙の賊を討伐させ、平定した。また車騎将軍の馮緄を派遣して武陵の蛮を討伐させ、皆降伏・散亡させた。軍が帰還すると、賊は再び桂陽を侵し、太守の瘳析は逃げ出した。武陵の蛮もまたその郡を攻撃し、太守の陳奉が官吏と民衆を率いてこれを撃破し、三千余級を斬首し、二千余人を降伏させた。霊帝の中平三年に至り、武陵の蛮が再び反乱を起こし、郡の境界を侵したが、州郡がこれを撃破した。
『礼記』には「南方を蛮といい、額に彫り物をし、足の指が交わる」とある。その習俗は男女が同じ川で沐浴するので、交阯という。その西には噉人国があり、第一子を生むとすぐに解体して食べ、これを宜弟という。味が良ければ、その君主に贈り、君主は喜んでその父を賞する。妻を娶って美しいと、その兄に譲る。今の烏滸人がこれである。
交阯の南に越裳国がある。周公が摂政となって六年、礼楽を制定し、天下が平和になったとき、越裳は三頭の象と通訳を重ねて白雉を献上し、言った。「道のりは遠く、山川が険しく隔たり、使者の音信も通じないので、通訳を重ねて朝貢するのです。」成王はこれを周公に与えた。周公は言った。「徳が及んでいないのに、君子はその貢物を受け取らない。政令が施されていないのに、君子はその民を臣下としない。私はどうしてこの賜り物を得ることができようか。」その使者が請うて言った。「私はわが国の長老から命を受けてこう言われました。『久しく天に烈風雷雨がない。もしかすると中国に聖人がいるのではないか。いるならばどうして朝見に行かないのか。』と。」周公はこれを王に帰し、先王の神霊がもたらしたものとして、宗廟に奉った。周の徳が衰えると、やがて絶えた。
楚の子(王)が覇を称えると、百越が朝貢した。秦が天下を併合し、蛮夷を威圧して服従させ、初めて嶺外を開き、南海・桂林・象郡を置いた。漢が興ると、尉佗が自立して南越王となり、五代にわたって国を伝えた。武帝の元鼎五年に至り、遂にこれを滅ぼし、九郡に分けて置き、交阯刺史がこれを統轄した。そのうち珠崖・儋耳の二郡は海の洲の上にあり、東西千里、南北五百里である。その首長は耳たぶを長くすることを尊び、皆穴を開けて重りを下げ、三寸ほど肩まで垂らす。武帝の末、珠崖太守の会稽の孫幸が広幅の布を徴発して献上させたため、蛮は労役に耐えられず、郡を攻めて孫幸を殺した。孫幸の子の孫豹が善人を集めて返り討ちにし、再びこれを破り、自ら郡の事務を統轄し、残党を討伐して、数年かけてようやく平定した。孫豹は使者を遣わして印綬を封じて返還し、上書して状況を述べた。詔により直ちに孫豹を珠崖太守とした。威令と政令が広く行き渡り、毎年貢物が届いた。中国はその珍しい賄賂を貪り、次第に侵侮するようになったので、数年に一度は反乱が起こった。元帝の初元三年、遂にこれを廃止した。合わせて郡を置いてから六十五年であった。
王莽が政務を補佐するに至り、元始二年、日南の南の黄支国が来て犀牛を献上した。交阯が統轄する地域は、郡県を置いてはいるが、言語はそれぞれ異なり、通訳を重ねてようやく意思が通じる。人は禽獣のようで、長幼の区別がない。髪を項で結い、裸足で歩き、布に頭を通して着る。後に中国の罪人をかなり移住させ、その間に雑居させたので、次第に言葉を知り、礼儀教化が少しずつ見られるようになった。
光武帝が漢を再興すると、錫光が交阯に、任延が九真を守り、そこで耕作を教え、冠や履を作らせ、初めて媒酌と結納の礼を設け、婚姻のことを知らせ、学校を設立し、礼儀へと導いた。
建武十二年、九真の境外の蛮里の張遊が、種族の人々を率いて教化を慕い内属し、帰漢里君に封ぜられた。翌年、南越の境外の蛮夷が白雉と白兎を献上した。十六年に至り、交阯の女子の徴側とその妹の徴貳が反乱を起こし、郡を攻めた。徴側は麊泠県の雒将の娘である。朱珪人の詩索に嫁いで妻となり、非常に雄雄しく勇猛であった。交阯太守の蘇定が法で彼女を裁いたので、徴側は憤慨して反乱を起こした。そこで九真・日南・合浦の蛮里が皆これに応じ、合わせて六十五城を攻略し、自ら王と称した。交阯刺史や諸太守はかろうじて自守するのみであった。光武帝は詔を下して長沙・合浦・交阯に車船を整備させ、道や橋を修築し、険しい渓谷を通じさせ、食糧を蓄えさせた。十八年、伏波将軍の馬援と楼船将軍の段志を派遣し、長沙・桂陽・零陵・蒼梧の兵一万余人を動員してこれを討伐させた。翌年の夏四月、馬援は交阯を破り、徴側・徴貳らを斬り、残りは皆降伏・散亡した。進撃して九真の賊の都陽らを撃ち、破って降伏させた。その首長三百余人を零陵に移住させた。これにより嶺南はすべて平定された。
粛宗の元和元年、日南の境外の蛮夷の究不事人の邑の豪族が生きた犀と白雉を献上した。和帝の永元十二年夏四月、日南・象林の蛮夷二千余人が百姓を掠奪し、官舎や寺を焼き払った。郡県が兵を発して討伐し、その首長を斬り、残りの者たちは降伏した。そこで象林に将兵長史を置き、その禍患を防いだ。安帝の永初元年、九真の境外の夜郎蛮夷が領土を挙げて内属し、千八百四十里の境域を開いた。元初二年、蒼梧の蛮夷が反乱を起こした。翌年、鬱林・合浦の蛮と漢人数千人を誘い込んで蒼梧郡を攻撃した。鄧太后は侍御史の任逴を派遣して詔を奉じ赦免させ、賊は皆降伏・散亡した。延光元年、九真の境外の蛮が貢献して内属した。三年、日南の境外の蛮が再び来て内属した。順帝の永建六年、日南の境外の葉調王の便が使者を遣わして貢献し、帝は便に金印紫綬を賜った。
永和二年、日南・象林の境外の蛮夷の区憐ら数千人が象林県を攻撃し、城や官舎を焼き、長吏を殺した。交阯刺史の樊演が交阯・九真の二郡の兵一万余人を発してこれを救援した。兵士たちは遠征を恐れ、遂に反乱を起こし、その府を攻撃した。二郡は反乱者を撃破したが、賊の勢力はかえって盛んになった。折しも侍御史の賈昌が日南に使者としており、直ちに州郡と力を合わせてこれを討伐したが、利あらず、遂に攻撃を受けた。一年余り包囲され、兵糧が続かなくなったので、帝はこれを憂慮した。翌年、公卿百官と四府の掾属を召し、その方策を問うと、皆が大将を派遣し、荊・揚・兗・豫の四州から四万人を派遣すべきだと議論した。大将軍従事中郎の李固が反論して言った。
もし荊州や揚州に事がなければ、出兵してもよい。しかし今、二州の盗賊は蟠り結んで散じず、武陵や南郡の蛮夷はまだ平定されず、長沙や桂陽はたびたび徴発を受けている。もし再び騒動を起こせば、必ずさらに禍患が生じる。これが第一の不可である。また、兗州や豫州の民は突然徴発され、遠く万里を赴き、帰還の期はなく、詔書が逼迫して催促すれば、必ず反乱や逃亡を招く。これが第二の不可である。南方の州は水土が温暖で暑く、瘴気が加わるため、死亡する者は十人のうち四、五人に及ぶ。これが第三の不可である。遠く万里を跋渉すれば、士卒は疲労し、嶺南に到着する頃には、もはや戦闘に耐えられなくなる。これが第四の不可である。軍の行進は一日三十里を行程とするが、日南まで九千余里も離れており、三百日かかって到着する。一人当たり一日五升の食糧を計算すると、米六十万斛を使い、将吏や驢馬の食糧は含まない。ただ鎧を背負って自ら赴くだけで、費用はこのようになる。これが第五の不可である。仮に軍が現地に到着しても、死亡者は必ず多く、敵を防ぐのに十分でなければ、さらに兵を徴発することになり、これは心腹を刻んで四肢を補うようなものだ。これが第六の不可である。九真と日南は千里も離れており、その官吏や民を徴発するのでさえまだ耐えられないのに、ましてや四州の兵卒を苦しめて、万里の艱難に赴かせることなどできるだろうか。これが第七の不可である。以前、中郎将の尹就が益州の叛羌を討伐した時、益州の諺に『虜が来るのはまだしも、尹が来ると我々を殺す』と言われた。後に尹就が征還され、兵を刺史の張喬に託した。張喬はその将吏を率い、旬月の間に寇虜を破り殄滅させた。これは将を派遣しても益がなく、州郡に任せることができる証拠である。勇略と仁恵があり将帥に任じられる者を改めて選び、刺史や太守とし、皆を交阯に駐在させるべきだ。今、日南は兵が少なく食糧もなく、守るにも足りず、戦うこともできない。一切の官吏と民を北の交阯に移住させ、事態が静まった後、また本籍に帰らせるべきだ。さらに蛮夷を募り、互いに攻撃させ、金帛を輸送してその資金とすべきだ。反間を用いて首魁を捕らえることができた者には、封侯や列士の賞を与えることを約束する。故に幷州刺史の長沙の祝良は、性格が勇猛果断であり、また南陽の張喬は、以前益州で破虜の功績があった。いずれも任用できる。昔、太宗(文帝)は魏尚をそのまま雲中太守に任じ、哀帝は龔舍をすぐに太山太守に任命した。祝良らをすぐに任命し、そのまま赴任させるべきである。
四府(三公と大将軍の府)は皆、李固の議に従い、すぐに祝良を九真太守に、張喬を交阯刺史に任命した。張喬が到着すると、慰撫と誘導を示し、賊は皆降伏して散じた。祝良が九真に到着すると、単車で賊の中に入り、方策を設け、威信をもって招くと、降伏する者が数万人に上り、皆が祝良のために府寺を築き上げた。これによって嶺外は再び平定された。
建康元年、日南の蛮夷千余人が再び県邑を攻め焼き、ついに九真を扇動して、互いに連合した。交阯刺史の九江の夏方は恩恵を開いて招き誘い、賊は皆降伏した。当時、梁太后が朝政を臨み、夏方の功績を称え、桂陽太守に転任させた。桓帝の永寿二年、居風県令が貪欲で暴虐で度を超え、県民の朱達らと蛮夷が集結し、県令を攻め殺し、その数は四、五千人に達し、九真を攻撃した。九真太守の[兒]式は戦死した。詔により六十万銭を賜り、二人の子を郎に任命した。九真都尉の魏朗を派遣してこれを討ち破り、二千の首級を斬ったが、渠帥はなお日南に屯拠し、勢力はますます強盛になった。延熹三年、詔により再び夏方を交阯刺史に任命した。夏方は威厳と恩恵がもともと顕著であったため、日南の旧賊がこれを聞き、二万余人が相次いで夏方のもとに降伏した。霊帝の建寧三年、鬱林太守の谷永が恩信をもって烏滸人十余万を招き降伏させ、内属させた。皆が冠帯を受け、七県を開設した。熹平二年冬十二月、日南の徼外の国が重訳して貢献した。光和元年、交阯と合浦の烏滸蛮が反乱し、九真と日南を誘い、合わせて数万人となり、郡県を攻め陥落させた。四年、刺史の朱儁がこれを撃破した。六年、日南の徼外の国が再び来朝して貢献した。
巴郡南郡蛮は、もともと五姓があった。巴氏、樊氏、瞫氏、相氏、鄭氏である。皆、武落鍾離山から出た。その山には赤と黒の二つの洞穴があり、巴氏の子は赤い穴に生まれ、四姓の子は皆黒い穴に生まれた。君長はおらず、皆鬼神を祀り、共に石の洞穴に剣を投げ、約束して命中させた者を君として奉じた。巴氏の子の務相がただ一人これを命中させ、皆が嘆いた。また、それぞれ土船に乗り、浮かぶことができる者を君とするよう約束した。他の姓は皆沈んだが、ただ務相だけが浮かんだ。そこで共に彼を立て、これが廩君である。そこで土船に乗り、夷水から塩陽へ行った。塩水には神女がおり、廩君に言った。「この地は広大で、魚や塩が出る。どうか留まって共に住みたい。」廩君は許さなかった。塩神は夜になると来て宿を取り、朝になると虫に変わり、諸々の虫と群れ飛び、日光を覆い隠し、天地は暗くなった。十余日が経ち、廩君はその隙をうかがい、弓で射殺した。すると天は開けて明るくなった。廩君はそこで夷城を治め、四姓は皆これに臣従した。廩君が死ぬと、魂魄は代々白虎となった。巴氏は虎が人血を飲むため、遂に人を犠牲として祀った。
秦の恵王が巴中を併合すると、巴氏を蛮夷の君長とし、代々秦の女を娶らせ、その民の爵位は不更に比し、罪があっても爵位によって免除された。その君長は毎年二千十六銭の賦を出し、三年ごとに義賦千八百銭を出した。その民戸は幏布八丈二尺、鶏の羽三十鍭を出した。漢が興ると、南郡太守の靳強は秦の時の故事に全て従うよう請願した。
建武二十三年になると、南郡潳山蛮の雷遷らが初めて反乱を起こし、百姓を寇掠した。武威将軍劉尚に万余人を率いさせて討ち破り、その種族七千余口を江夏の境界内に移住させた。これが今の沔中蛮である。和帝の永元十三年、巫蛮の許聖らが郡の税収が公平でないことを理由に怨恨を抱き、屯聚して反乱を起こした。翌年の夏、使者を派遣して荊州諸郡の兵万余りを督させてこれを討伐した。許聖らは険阻な地形に依拠し、長く破られなかった。諸軍はそこで分かれて進軍し、あるいは巴郡や魚復から数路で攻撃し、蛮は散り散りに逃げ、その渠帥を斬った。勝ちに乗じて追撃し、許聖らを大破した。許聖らは降伏を乞い、再び全て江夏に移住させた。霊帝の建寧二年、江夏蛮が反乱し、州郡がこれを討伐平定した。光和三年、江夏蛮が再び反乱し、廬江の賊黄穰と連合し、十余万人となり、四県を攻め陥落させ、寇患は数年続いた。廬江太守の陸康がこれを討ち破り、残りは皆降伏して散じた。
板楯蛮夷は、秦の昭襄王の時、一頭の白虎がおり、常に群虎を従えて秦、蜀、巴、漢の境を遊行し、千余人を傷害した。昭王はそこで国中に重く募り、虎を殺せる者には、邑一万家と金百鎰を賞とした。時に、巴郡閬中の夷人がおり、白竹の弩を作ることができ、楼に登って白虎を射殺した。昭王はこれを賞賛したが、夷人であるため封を加えたくないと考え、石に刻んで盟約を結び、夷人の田地一頃の租税を免除し、十人の妻には算賦を課さず、人を傷つけた者は論罪し、人を殺した者は[BD77]銭で死罪を贖うことを認めた。盟約には「秦が夷を犯せば、黄龍一双を輸す。夷が秦を犯せば、清酒一鍾を輸す」とあった。夷人はこれに安心した。
後漢の時代になると、郡守は常に彼らを率いて征伐を行った。桓帝の世、板楯蛮がたびたび反乱を起こしたが、蜀郡出身の太守趙温が恩信をもって彼らを降伏させた。霊帝の光和二年、巴郡の板楯蛮が再び反乱を起こし、三蜀および漢中の諸郡を侵犯・略奪した。霊帝は御史中丞の蕭瑗を派遣して益州の兵を監督させて討伐させたが、連年しても平定できなかった。帝は大軍を派遣しようと考え、益州の計吏に問い、征討の方策について意見を求めた。漢中郡の上計吏であった程包が答えて言った。「板楯の七姓は、白虎を射殺して前代に功績を立て、また義人として認められました。彼らは勇猛で、戦いに長けています。昔、永初年間に羌族が漢川に入り、郡県が破壊された時、板楯蛮の救援を得て、羌族はほぼ全滅し、それゆえ神兵と呼ばれました。羌人は彼らを畏れ忌み、同族に伝えて、二度と南へ行くべきではないと言いました。建和二年になると、羌族が再び大挙して侵入しましたが、実際には板楯蛮が連続して彼らを撃破したことに頼ったのです。以前の車騎将軍馮緄が、武陵を南征した時は、丹陽の精鋭な兵の鋭さを受けていたとはいえ、やはり板楯蛮に頼ってその功績を成し遂げました。近年、益州郡が乱れた時も、太守の李顒は板楯蛮で討伐して平定しました。このように忠誠と功績があるのに、もともと悪意はありません。長吏や郷亭の役人が、更賦を非常に重くし、僕役として鞭打ちの刑を与え、奴隷や捕虜以上に扱い、また妻を嫁がせたり子を売ったり、あるいは自ら首を刎ねたりする者さえいます。州郡に冤罪を訴えても、牧守は取り上げて道理を通そうとしません。朝廷は遠く離れており、自分で訴えることもできません。怨みを抱いて天を呼び、谷間で胸を叩いて嘆きます。賦役に愁苦し、残酷な刑罰に苦しめられています。それゆえ、邑落が集まって結束し、反乱を起こすに至ったのです。謀主がいて僭号を称し、不軌を図っているわけではありません。今、ただ賢明で有能な牧守を選任すれば、自然と安寧し集まるでしょう。征伐する煩わしさはありません。」帝はその言葉に従い、太守の曹謙を派遣して詔を宣布し赦免すると、たちまち皆降伏した。中平五年になると、巴郡で黄巾賊が蜂起し、板楯蛮夷はこれに乗じて再び反乱を起こし、城邑を侵犯略奪した。西園上軍別部司馬の趙瑾が派遣され、これを討伐平定した。
西南夷
西南夷とは、蜀郡の境界の外にいる者たちである。夜郎国があり、東は交阯に接し、西には滇国があり、北には邛都国があり、それぞれ君長を立てている。その人々は皆、髪を椎の髻に結い、衣は左前にし、邑に集まって住み、田を耕すことができる。その外にはまた、巂、昆明などの諸部族があり、西は同師に極まり、東北は葉楡に至り、土地は数千里に及ぶ。君長はおらず、髪を編み、家畜に従って移住し、定住しない。巂の東北には莋都国があり、その東北には冉駹国があり、ある者は土着し、ある者は家畜に従って移住する。冉駹の東北には白馬国があり、これが氐種である。この三国にも君長がいる。
夜郎については、初めに女子が遁水で洗濯をしていると、三節の大きな竹が流れてきて足の間に来た。その中から泣き声が聞こえたので、竹を割って見ると、一人の男児を得た。連れ帰って養育した。成長すると、才能と武勇があり、自ら夜郎侯と称し、竹を姓とした。武帝の元鼎六年、南夷を平定し、牂柯郡を置くと、夜郎侯は迎えて降伏し、天子はその王に印綬を賜った。後に遂に彼を殺した。夷獠は皆、竹王は血気によって生まれたのではないとし、非常に重んじ、後継者を立てることを求めた。牂柯太守の呉霸がこれを上奏すると、天子はその三子を侯に封じた。死後、父に配祀した。今の夜郎県にある竹王三郎神がこれである。
初め、楚の頃襄王の時、将軍の荘豪を派遣して沅水から夜郎を伐たせ、軍は且蘭に至り、船を岸につなぎ留めて陸戦した。夜郎を滅ぼした後、そのまま滇池に留まって王となった。且蘭に船をつなぎ留めた牂柯の場所があったので、その名を牂柯と改めた。牂柯の地は雨や洪水が多く、俗に巫鬼や禁忌を好み、家畜は少なく、また蚕桑もないので、その郡は最も貧しかった。句町県には檳榔の木があり、粉にすることができ、百姓はこれを頼りにした。公孫述の時代、大姓の龍氏、傅氏、尹氏、董氏らが、郡の功曹謝暹とともに境を守って漢に仕え、使者を番禺江から派遣して貢物を奉った。光武帝はこれを嘉し、ともに褒賞を加えた。桓帝の時、郡人の尹珍は、自分が荒れた辺境に生まれ、礼義を知らないことを自覚し、汝南の許慎、応奉に経書や図緯を学び、学業を成し遂げて故郷に戻り教授した。これにより南域に初めて学問が起こった。尹珍は官は荊州刺史に至った。
滇王
滇王は、荘蹻の子孫である。元封二年、武帝がこれを平定し、その地を益州郡とし、牂柯、越巂からそれぞれ数県を割いてこれに配した。後数年して、また昆明の地を併合し、皆この郡に属させた。池があり、周囲二百余里、水源は深く広いが、末端に行くにつれて浅く狭くなり、逆流しているように見えるので、滇池と呼ぶ。土地は平坦で開けており、鸚鵡や孔雀が多く出、塩池や田漁の豊かさ、金銀や畜産の富がある。人々の風俗は贅沢を好む。官に就く者は皆、富が数代に及んだ。
王莽の政権が乱れると、益州郡の夷である棟蠶、若豆らが兵を起こして郡守を殺し、越巂の姑復の夷人大牟も皆反乱し、役人や民を殺害略奪した。王莽は寧始将軍廉丹を派遣し、巴蜀の役人や民を動員し、さらに兵糧を輸送する兵卒や移住民十余万を徴発してこれを撃たせた。役人や兵士は飢えと疫病に苦しみ、連年しても平定できずに帰還した。広漢の文斉を太守とし、陂池を築造し、灌漑を開通させ、二千余頃の田を開墾した。兵馬を率いて励まし、障塞を修築し、諸夷を集めて降伏させ、非常に和合を得た。公孫述が益州の地を占拠すると、文斉は険阻な地を固守して拒み、公孫述はその妻子を拘束し、侯に封じることを約束したが、文斉は遂に降伏しなかった。光武帝が即位したと聞くと、間道から使者を遣わして自ら報告させた。蜀が平定されると、鎮遠将軍に召され、成義侯に封じられた。赴任の途中で死去し、詔によって祠堂が建てられ、郡人が廟を立てて祀った。
建武十八年、夷の渠帥である棟蠶が、姑復、楪楡、梇棟、連然、滇池、建伶、昆明の諸種族とともに反乱を起こし、長吏を殺害した。益州太守の繁勝はこれと戦って敗れ、硃提に退いて守った。十九年、武威将軍劉尙らを派遣し、広漢、犍為、蜀郡の人々および硃提夷を動員し、合わせて一万三千人でこれを撃った。劉尙の軍は遂に瀘水を渡り、益州の境界に入った。諸夷は大軍が来たと聞くと、皆、砦を捨てて逃走し、劉尙はその老弱者、穀物、家畜を獲得した。二十年、進軍して棟蠶らと連戦すること数ヶ月、皆これを撃破した。翌年正月、不韋まで追撃し、棟蠶の帥を斬り、首級と捕虜は合わせて七千余人、生け捕り五千七百人、馬三千匹、牛羊三万余頭を得て、諸夷は悉く平定された。
粛宗の元和年間、蜀郡の王追が太守となると、政治と教化が特に優れていた。神馬四頭が滇池の河中から現れ、甘露が降り、白い烏が現れた。学校を初めて興し、次第にその風俗を改めさせた。霊帝の熹平五年、諸夷が反乱を起こし、太守の雍陟を捕らえた。御史中丞の朱亀が派遣されてこれを討伐したが、平定できなかった。朝廷の議論では、郡は辺境の外にあり、蛮夷は反乱を好み、軍を労して遠征させるより、捨てる方がよいとされた。太尉の属官で巴郡出身の李顒が討伐の策を建てたので、李顒を益州太守に任命し、刺史の龐芝とともに板楯蛮を動員して撃破平定した。帰還し、雍陟を取り戻した。李顒の死後、夷人が再び反乱したので、広漢の景毅を太守として、討伐平定した。景毅が初めて郡に着任した時は、米一斛が一万銭だったが、次第に仁恩を施し、短期間のうちに、米は数十銭になったという。
哀牢夷
哀牢夷の祖先には沙壹という名の女性がおり、牢山に住んでいた。かつて水中で魚を捕っていたとき、沈んだ木に触れて何かを感じ、それによって身ごもり、十月後、男の子を十人産んだ。その沈んだ木が龍に変わり、水の上に現れた。沙壹が突然龍の言葉を聞いた。「お前が私のために産んだ子は、今みんなどこにいるのか?」九人の子は龍を見て驚いて逃げたが、末の子だけは逃げられず、龍に背を向けて座っていた。龍は彼を舐めた。その母は鳥の言葉で、背を「九」、座るを「隆」と言ったため、子の名を九隆とした。後に成長すると、兄たちは九隆が力強く、父に舐められて賢いので、共に推して王とした。後に牢山の下に一夫一婦がおり、また十人の女子を産んだ。九隆兄弟は皆彼女たちを娶って妻とし、後に次第に子孫が増えていった。その種族の人々は皆、体に龍の文様のような刻みを入れ、衣服には皆尾を着けていた。九隆が死ぬと、代々世襲された。そして小王を分置し、あちこちに邑を構えて住み、溪谷に散らばった。辺境の荒れ果てた地で、山川が険しく深く、人類が生まれて以来、中国と交渉したことはなかった。
建武二十三年、その王の賢栗は兵を遣わし、筏船に乗って江や漢水を南下し、塞に隣接する夷の鹿茤を攻撃した。鹿茤人は弱く、捕らえられた。その時、激しい雷雨が起こり、南風が吹き起こり、水が逆流し、二百余里にわたって波が逆巻き、筏船は沈没し、哀牢の民衆は数千人が溺死した。賢栗は再びその六人の王に一万の兵を率いさせて鹿茤を攻撃させたが、鹿茤王は戦い、その六人の王を殺した。哀牢の長老たちが共に六人の王を埋葬すると、夜に虎が再びその屍を掘り出して食べた。残った民衆は驚き恐れて退却した。賢栗は恐れおののき、その長老たちに言った。「我々が辺境の塞に入ることは、昔からあったことだ。今、鹿茤を攻撃すると、たちまち天罰を受けた。中国には聖帝がいるのだろうか?天が助けているとは、なんとはっきりしていることか!」二十七年、賢栗らは遂に種族の戸二千七百七十、口一万七千六百五十九を率いて、越巂太守の鄭鴻のもとに降伏し、内属を求め、光武帝は賢栗らを君長に封じた。この年から毎年朝貢するようになった。
永平十二年、哀牢王の柳貌が子を遣わして種族を率いて内属した。その種族で邑の王となる者は七十七人、戸五万一千八百九十、口五十五万三千七百十一であった。西南の洛陽から七千里の地にある。顕宗はその地に哀牢・博南の二県を設置し、益州郡西部都尉が管轄していた六県を割いて、合わせて永昌郡とした。初めて博南山に道を通し、蘭倉水を渡った。旅人はこれを苦しんだ。歌に曰く。「漢の徳は広く、服従せざる者を開く。博南を渡り、蘭津を越える。蘭倉を渡るは、他人のため。」
哀牢人は皆、鼻に穴を開け、耳たぶを長く伸ばす。その首長で自ら王者と称する者は、耳たぶが肩から三寸下がり、庶民は肩までである。土地は肥沃で美しく、五穀や蚕桑に適している。染色や刺繡を知り、毛織物や絹布、蘭干細布を織り、綾錦のような文様を織り成す。梧桐の木の花があり、それを紡いで布とし、幅は五尺で、白く清潔で汚れがつかない。まず死者を覆うのに用い、その後で着用する。その竹は節と節の間が一丈離れており、濮竹という名である。銅、鉄、鉛、錫、金、銀、光珠、琥珀、水晶、琉璃、軻虫、蚌珠、孔雀、翡翠、犀、象、猩猩、貊獣を産出する。雲南県には神鹿が二頭おり、毒草を食べることができる。
以前、西部都尉の広漢の鄭純は、政治が清廉で、教化が夷や貊の地にまで行き渡り、君長たちは感銘を受け慕い、皆、土地の珍品を献上し、その徳と美を称えた。天子はこれを嘉した。すぐに永昌太守に任じた。鄭純は哀牢夷人と約束し、邑の豪族は毎年、貫頭衣を二領、塩を一斛を納めるのを常賦とし、夷の風俗はこれに安んじた。鄭純は都尉・太守として在任し、十年で官のまま死去した。建初元年、哀牢王の類牢が守令と憤り争い、遂に守令を殺して反乱を起こし、巂唐城を攻撃した。太守の王尋は楪楡に逃れた。哀牢三千余人が博南を攻撃し、民家を焼き払った。粛宗は越巂、益州、永昌の夷漢九千人を募って討伐させた。翌年の春、邪龍県の昆明夷の鹵承らが応募し、種族を率いて諸郡の兵と共に類牢を博南で撃ち、大破して斬った。首を洛陽に伝送し、鹵承に帛一万匹を賜り、破虜傍邑侯に封じた。
永元六年、郡の境界外の敦忍乙王の莫延が慕い、使者と通訳を遣わして犀牛と大象を献上した。九年、境界外の蛮および撣国の王の雍由調が重訳を遣わして国の珍宝を献上し、和帝は金印紫綬を賜り、小君長たちにも皆、印綬・銭・帛を加えて与えた。
永初元年、境界外の焦僥種の夷の陸類ら三千余口が種族を挙げて内附し、象牙、水牛、封牛を献上した。永寧元年、撣国の王の雍由調が再び使者を遣わして朝廷に朝賀し、楽と幻人を献上した。幻人は変化し、火を吐き、自ら体を切り離し、牛や馬の頭と取り替えることができた。また跳丸を得意とし、その数は千に及んだ。自ら海西の人であると言った。海西とは大秦のことである。撣国の西南は大秦に通じている。翌年の元会で、安帝は庭で音楽を奏でさせ、雍由調を漢の大都尉に封じ、印綬・金銀・彩繒をそれぞれ差をつけて賜った。
邛都夷
邛都夷は、武帝が開き、邛都県とした。間もなく地が陥没して沼沢となり、それゆえ邛池と名付けられ、南方の人々は邛河と呼んだ。後に再び反乱した。元鼎六年、漢軍が越巂水からこれを討伐し、越巂郡とした。その土地は平原で、田がある。靑蛉県の禺同山には碧鶏と金馬がおり、その光景が時々現れる。風俗は遊蕩を好み、歌を好むことが多く、牂柯とほぼ似ている。豪帥は放縦で、制御し難い。
王莽の時、郡守の枚根が邛人の長貴を徴発し、軍候とした。更始二年、長貴は種族を率いて枚根を攻め殺し、自ら邛穀王と称した。太守の職務を統領した。また公孫述に降った。公孫述が敗れると、光武帝は長貴を邛穀王に封じた。建武十四年、長貴は使者を遣わして三年分の計簿を上奏し、天子はすぐに越巂太守の印綬を授けた。十九年、武威将軍の劉尙が益州夷を討伐する際、越巂を通った。長貴はこれを聞き、劉尙がすでに南方を平定すれば、威令が必ず行き渡り、自分は自由に振る舞えなくなるだろうと疑い、すぐに兵を集めて営台を築き、諸君長を呼び集め、大量の毒酒を醸造し、まず労軍と称して劉尙を襲撃しようとした。劉尙はその謀略を知り、すぐに兵を分けて先に邛都を占拠し、長貴を急襲して誅殺し、その家族を成都に移した。
永平元年、姑復夷が再び反乱し、益州刺史が兵を発して討ち破り、その首長を斬り、首を京師に伝送した。後に太守となった巴郡の張翕は、政治と教化が清く平らかで、夷人の心を得た。郡に十七年在任し、死去すると、夷人は父母を失ったかのように慕った。蘇祈の老人二百余人が牛や羊を携えて葬儀に送り、張翕の本籍地である安漢県まで行き、墳墓を築いて祭祀を行った。詔書でこれを嘉し称え、祠堂を建立させた。
安帝の元初三年、郡の境界外の夷である大羊など八種族が、戸三万一千、人口十六万七千六百二十で、義を慕って内属した。当時、郡県の賦斂が煩雑で頻繁であったため、五年に、巻夷の大牛種の封離らが反乱を起こし、遂久県令を殺害した。翌年、永昌・益州および蜀郡の夷が皆これに呼応して叛き、その勢力はついに十余万に達し、二十余の県を破壊し、長吏を殺害し、邑郭を焼き払い、百姓を略奪し、骸骨が積み重なり、千里に人影がなくなった。詔により益州刺史の張喬が適任の従事を選んで討伐させた。張喬は従事の楊竦を遣わして兵を率いて楡に至らせてこれを攻撃させたが、賊の勢力が盛んで進撃を敢行できず、まず詔書をもって三郡に告示し、密かに武士を求め、その賞金を厚くした。そこで進軍して封離らと戦い、これを大破し、三万級余りの首を斬り、生口千五百人を捕らえ、資財四千余万を獲得し、すべて軍士に賞賜した。封離らは恐れおののき、その同謀の渠帥を斬って、楊竦のもとに詣でて降伏を乞い、楊竦は手厚く慰撫して受け入れた。その他の三十六種族も皆降伏して帰順した。楊竦はこれに乗じて、長吏で姦猾で蛮夷を侵犯した者九十人を上奏し、皆死刑を減じた。州中で功績を論じるうちに上奏する前に、楊竦が創傷の病気で死去したため、張喬は深く痛惜し、石に銘を刻み、その像を描かせた。天子は張翕に遺愛があるとして、その子の湍を太守に任命した。夷人は喜び、道で奉迎した。言うには、「郎君の儀容容貌は我が府君に似ている。」後に湍はやや彼らの心を失い、反乱を企てようとする者がいたが、諸夷の耆老たちが互いに諭して言った、「先の府君の故にすべきである。」こうして安定を得た。後、順帝・桓帝の間、広漢の馮顥が太守となったが、その政治教化には特に多くの異なる事績があったという。
莋都夷
莋都夷とは、武帝が開拓し、莋都県としたものである。その人々は皆、髪を振り乱し、衣を左前に着け、言語は多く譬喩を好み、居住状況は汶山夷とほぼ同じである。土地には長寿の神薬が産出し、仙人の山図が居住した所である。元鼎六年、沈黎郡とした。天漢四年に至り、蜀に併合して西部とし、二つの都尉を置いた。一つは旄牛に駐在し、境界外の夷を主管し、一つは青衣に駐在し、漢人を主管した。
永平年間、益州刺史の梁国の朱輔は、功名を立てることを好み、慷慨として大略があった。州に在任すること数年、漢の徳を宣示し、威厳をもって遠方の夷を懐柔した。汶山以西は、前世に至らなかった所で、正朔が及んでいなかった。白狼・槃木・唐菆など百余りの国、戸百三十余万、口六百万以上が、種族全体で貢物を奉じ、種族として臣僕となった。朱輔は上疏して言った、「臣は聞く、『詩経』に『彼徂者岐、有夷之行』とあります。伝に『岐の道は僻遠であっても、人は遠くない』とあります。詩人が誦詠して、符験としました。今、白狼王の唐菆らが教化を慕い帰順し、詩三章を作りました。路は邛来大山の零高坂を経由し、険峻で危険なこと、岐道の百倍です。幼児を背負い老人を連れ、慈母に帰るが如くです。遠方の夷の言葉は、辞意が正しがたく、草木は異種、鳥獣は別類です。犍為郡の掾である田恭が彼らと親しく交わり、その言葉をよく理解しています。臣は彼に命じてその風俗を訊ね、その言葉を翻訳させました。今、従事史の李陵を田恭とともに護送して宮闕に詣でさせ、併せてその楽詩を上呈します。昔、聖帝の時代には、四夷の楽を舞わせました。今上呈するものは、その一つを備えるものであります。」帝はこれを嘉し、事を史官に下して、その歌を記録させた。
『遠夷楽徳歌詩』に曰く、
大漢は治まる、堤官隗構。天と意を合わせる。魏冒逾糟。吏と訳は平らかで正しく、罔驛劉脾。我に従わずして来る。旁莫支留。風聞して教化に傾き、征衣隨旅。見る所は奇異。知唐桑艾。多く繒布を賜い、邪毘糹甚糹甫。甘美な酒食。推潭僕遠。昌楽して肉飛び、拓拒蘇便。屈伸ことごとく備わる。局後仍離。蛮夷は貧しく薄く、僂讓龍洞。報いる所なし。莫支度由。願わくは主上長寿、陽雒僧鱗。子孫栄え盛んに。莫稚角存。
『遠夷慕徳歌詩』に曰く、
蛮夷の居る所、僂讓皮尼。日の入る部。且交陵悟。義を慕い教化に傾き、繩動隨旅。日出ずる主に帰す。路旦揀雒。聖徳深き恩、聖德渡諾。人と富み厚く。魏菌度洗。冬は霜雪多く、綜邪流籓。夏は和雨多く。莋邪尋螺。寒温時に適い、藐潯滬灕。部人は多く有り。菌補邪推。危険を渡り険阻を経て、辟危歸險。万里も遠しとせず。莫受萬柳。俗を去り徳に帰し、術疊附德。心は慈母に帰す。仍路孳摸。
『遠夷懐徳歌』に曰く、
荒服の外、荒服の儀。土地は瘠せて堅い。犂籍憐憐。肉を食い皮を衣とし、阻蘇邪犂。塩穀を見ず。莫碭粗沐。吏と訳は風を伝え、罔譯傳微。大漢安楽。是漢夜拒。携え背負って仁に帰し、蹤優路仁。険しい狭き所を冒す。雷折險龍。高山は峻しく険しく、倫狼藏幢。崖に沿い石を磻る。扶路側祿。木の薄き所に家を発ち、息落服淫。百宿して洛に到る。理歷髭雒。父子ともに賜いを受け、捕顡菌毘。匹帛を懐に抱く。懷稿匹漏。種族の人に伝え告げ、傳室呼敕。長く臣僕たらんことを願う。陵陽臣僕。
粛宗の初め、朱輔は事に坐して免官された。この時、郡尉の府舎には皆彫刻や装飾があり、山神海霊・奇禽異獣を描いて、これを見せびらかし、夷人はますます畏怖した。和帝の永元十二年、旄牛の境界外の白狼・楼薄の蛮夷王である唐繒らは、ついに種族の人々十七万口を率いて、帰順して内属した。詔により金印紫綬を賜い、小豪には銭帛をそれぞれ差等を付けて与えた。
安帝の永初元年、蜀郡の三襄種の夷が境界外の污衍種と合流して兵三千余人で反乱を起こし、蚕陵城を攻撃し、長吏を殺害した。二年、青衣道の夷の邑長である令田が、境界外の三種の夷三十一万口とともに、黄金・旄牛の毦を携え、土地を挙げて内属した。安帝は令田の爵号を増して奉通邑君とした。延光二年春、旄牛夷が反乱し、零関を攻撃し、長吏を殺害した。益州刺史の張喬と西部都尉がこれを撃破した。ここにおいて蜀郡属国都尉を分置し、太守のように四県を管轄させた。桓帝の永寿二年、蜀郡の夷が反乱し、吏民を殺害略奪した。延熹二年、蜀郡の三襄夷が蚕陵を寇し、長吏を殺害した。四年、犍為属国の夷が郡の境界を寇し、益州刺史の山昱がこれを撃破し、千四百級の首を斬り、残りは皆解散した。霊帝の時、蜀郡属国を漢嘉郡とした。
冉駹夷
冉駹夷は、武帝が開いたもので、元鼎六年に汶山郡とした。地節三年に至り、夷人は郡を立てて賦税が重いことを理由に、宣帝はこれを省いて蜀郡に併せ北部都尉とした。その山には六夷七羌九氐があり、それぞれ部落をなす。その王侯は文書をよく知り、法は厳重である。婦人を貴び、母族を党とする。死ぬとその屍を焼く。土気は寒さが多く、盛夏でも氷がまだ解けないため、夷人は冬には寒さを避けて蜀に入り傭工となり、夏には暑さを避けてその邑に戻る。皆山に依って住み、石を積んで室とし、高いものは十余丈に至り、これを邛籠という。また土地は剛鹵で、穀粟麻菽は生ぜず、ただ麦を資とし、畜牧に適する。旄牛があり、角がなく、一名童牛といい、肉は千斤重く、毛は毦とすることができる。名馬を産する。霊羊があり、毒を療することができる。また食薬鹿があり、鹿鏖に胎のあるものがある。その腸中の糞も毒疾を療する。また五角羊、麝香、軽毛<曷毛>鶏、牲牲がある。その人は旄氈、班罽、青頓、毞毲、羊羧などを作ることができる。特に雑薬が多い。地に鹹土があり、煮て塩とする。麡羊牛馬は、これを食べて皆肥える。
その西にはまた三河、槃於虜があり、北には黄石、北地、盧水胡があり、その外は徼外となる。霊帝の時、再び蜀郡北部を分けて汶山郡とした。
白馬氐
白馬氐は、武帝の元鼎六年に開かれ、広漢西部を分け、合わせて武都とした。土地は険阻で、麻田があり、名馬、牛、羊、漆、蜜を産する。氐人は勇猛で愚直で抵抗し、貨を貪り利に死す。河池に住み、一名仇池といい、方百頃、四面が切り立っている。しばしば辺境を寇し、郡県が討つと、険固に依って自ら守る。元封三年、氐人が反叛し、兵を遣わしてこれを破り、分かれて酒泉郡に徙した。昭帝の元鳳元年、氐人が再び反叛し、執金吾馬適建、龍<名頁>侯韓増、大鴻臚田広明を遣わし、三輔、太常の徒を将いて討ち破った。
王莽が簒乱すると、氐人もまた叛いた。建武初年、氐人は皆隴蜀に附き、及び隗囂が滅ぶと、その酋豪は公孫述に背いて漢に降り、隴西太守馬援が上奏してその王侯君長を復し、印綬を賜った。後に囂の族人隗茂が反し、武都太守を殺した。氐人の大豪斉鍾留は種類から敬信され、諸豪を威服し、郡丞孔奮とともに茂を撃ち、破って斬った。後もまた時に寇盗となり、郡県が討ち破った。
論
論じて曰く、漢氏が戎狄を征伐し、辺遠に事あるは、蓋しまた王業と終始をともにしたのである。疆垂を傾没し、師を喪い将を敗るに至るも、時歳を出ず、ついに四夷の境を開き、殊俗の附を款くことができた。もし文約の沾漸する所、風声の周流する所は、ほとんど日の出入する処に及ぼうとしている。山経、水志に著されるものも、また略して及んでいる。服叛は常ならず、威沢は時に曠くとも、その化の行わるるに及べば、則ち緩耳雕脚の倫、獣居鳥語の類、挙げて種を尽くし落ち、面を回らして吏を請い、海を陵ぎ障を越え、累訳して内属する。故にその名を中郎、校尉の署に録し、数を都護、部守の曹に編し、動もすれば数百万を以て計る。もしまた山に蔵れ海に隠れる霊物、沙に沈み陸に栖む瑋宝は、表に怪麗を呈し、宮幄に雕被せしめないものはない。またその賨幏火毳、馴禽封獣の賦は、内府に軨積し、夷歌巴舞、殊音異節の技は、外門に列倡する。豈に柔服の道、必ず斯に足るものあらんや。然れどもまた遠きを致す者と云うべきである。蛮夷は巌谷に附阻すれども、類に土居あり、荆、交の区に連渉し、巴、庸の外に布護し、量極むべからず。然れどもその兇勇狡算は、羌狄に薄く、故に陵暴の害は深くすることができない。西南の徼は、特に劣っている。故に関守永昌は、遠離より肇め、土を啓き人を立て、今に至って成都と為す。
賛
賛して曰く、百蛮蠢居し、方徼に仞る。体を鏤り卉衣し、深きに憑り阻峭に依る。また別夷あり、蜀表に屯す。聚落は参差し、岐道は紆余たり。往化既に孚れば、襟を改め宝を輸す。永昌を建てしめ、億兆に同編せしむ。