後漢書

卷二·帝紀第二 顯宗孝明帝

 

顯宗孝明皇帝のいみなは莊である。〈《謚法》に言う:「四方を照らし臨むことを明という。」《伏侯古今注》に言う:「莊のあざなは嚴という。」〉

光武帝の第四子である。母は陰皇后。帝は生まれつき下顎が豊かであった。〈杜預が《左傳》に注して言う:「豊下とは、顔が四角いことである。」《東觀記》に言う:「帝は下顎が豊かで上顎が尖り、項は赤色で、堯に似ているところがある。」〉

十歳で春秋を通じて理解し、光武帝はこれを奇異とした。

建武十五年

東海公に封ぜられ、十七年に爵位を進めて王とされ、十九年に皇太子に立てられた。博士桓榮に師事し、尚書を学んで通じた。

中元二年

二月戊戌、皇帝の位に即き、年三十。皇后を尊んで皇太后と称した。

三月丁卯、光武皇帝を原陵に葬った。〈《帝王紀》に言う:「原陵は方三百二十歩、高さ六丈、臨平亭の東南にあり、洛陽から十五里離れている。」〉

有司が上奏して尊廟を世祖と称した。

夏四月丙辰、詔して言った:「私は末の小さい者であり、聖なる業を奉じて受け継ぎ、朝から晩まで震え畏れ、敢えて安逸に耽ることはしない。先帝は天命を受けて中興し、その徳は帝王に等しく、万邦を協和させ、その恩恵は上下に至り、〈假は至の意。音は格。〉

百神を懐柔し、鰥寡に恵みを施された。〈懷は安んずる。柔は和らげる。《礼》に言う『凡そ山林で雲を起こし雨を降らすことができるものは皆神といい、天下を持つ者は百神を祭る』、これが百神を懐柔することである。《書》に言う:「鰥寡に恵みを施す。」〉

私は天命を継承し、先帝の体制を受け継ぎ文治を守っている。

農耕の困難を知らず、廃失を恐れている。聖なる恩寵による遺戒は、天下を顧み、民衆を第一とする。公卿百官は、どうして私の至らぬところを補佐できるのか。天下の男子に爵位を賜うこと、各人二級。

三老、孝悌、力田には各人三級。

爵位が公乗を超えた者は、子または同産、同産の子に移譲できる。

および流民で戸籍がなく自ら申告しようとする者には各人一級。

鰥夫、寡婦、孤児、独り者、重病の者には粟を各人十こく。刑を執行された者および郡国の徒刑囚で、

中元元年

四月己卯の赦免以前に犯行があり、その後捕縛された者は、その刑をすべて免除する。また辺境の民で乱に遭い内郡の者の妻となった者で、己卯の赦免以前の者は、すべて辺境に送還し、その望むままとする。中二千石以下から黄綬まで、

降格や贖罪の論議を受けた者は、すべて元の官位に復し贖金も返還する。今、上には天子がなく、下には方伯もない。

淵を渡るのに舟や櫂がないようなものだ。万乗の重みは極めて重く、若者は思慮が軽い。

実に有徳の者が私を左右して助けてくれることを頼みとする。

高密侯の鄧禹は第一の功労者であり、東平王の劉蒼は度量が広く博識で謀略があり、ともに六尺の孤児を託すことができ、大事に臨んでも屈しない。

鄧禹を太傅とし、劉蒼を驃騎将軍とする。太尉の趙憙は南郊で諡号を告げ、

司徒の李訢は梓宮を奉安し、

司空の馮魴は将校を率いて復土の任にあたる。

節郷侯に封じられたのは鄧憚、安郷侯は鄧訢、楊邑侯は鄧魴である。

秋九月、焼当羌が隴西を侵し、允街で郡兵を破った。

隴西の囚人を赦し、罪一等を減じ、今年の租調を徴収しないこととした。また、天水から徴発した三千人についても、その年の更賦を免除した。

謁者の張鴻を派遣し、允吾で反乱した羌を討伐させた。

張鴻の軍は大敗し、戦死した。冬十一月、中郎将の竇固を派遣し、捕虜将軍の馬武ら二将軍を監督させ、焼当羌を討伐させた。

十二月甲寅、詔を下した。「今は春の季節であり、人々は耕作と養蚕に励むべき時である。役人は時節の気候に順応し、煩わしい干渉をしないよう務めよ。

天下の逃亡者で殊死しゅし以下の罪を犯した者は、贖罪を認める。死罪は縑二十匹、右趾から髡鉗城旦舂までは十匹を納めること。

完城旦舂から司寇作までは三匹を納める。

罪が発覚する前に、詔書が届いて自ら申告した者は、贖罪額の半分でよい。今、選挙が実情に合わず、邪悪な佞臣が去らず、権門への請託が横行し、残忍な役人が勝手放題に振る舞い、

民衆は愁え怨み、その心情を訴えるところがない。役人は明確に罪状を奏上し、同時に推薦者も正すこと。

また、郡県はしばしば徴発に際し、軽率に不正な利益を図り、虚弱な者を不当に責め立て、貧しい者を真っ先に厳しく扱う。その務めは公平にあり、不当な酷さを加えてはならない。」

永平元年

春正月、帝は公卿以下を率いて原陵に参拝し、元会の儀礼に倣った。

夏五月、太傅の鄧禹が薨去した。

戊寅、東海王の劉彊が薨去した。司空の馮魴を派遣し、節を持たせて葬儀を監督させ、升龍の旄頭、鑾輅、龍旂を賜った。

六月乙卯、東海恭王を葬る。

秋七月、捕虜将軍馬武らが焼当羌と戦い、これを大破した。隴右を守る士卒を募り、人ごとに銭三万を賜う。

八月戊子、山陽王荊を広陵王に移封し、国に就かせる。

この年、遼東太守祭肜が鮮卑を使わして赤山烏桓を撃たせた。

これを大破し、その渠帥きょすいを斬った。越巂姑復夷が叛いた。

州郡が討伐して平定した。

二年春正月辛未、明堂において光武皇帝を宗祀し、帝および公卿列侯が初めて冠冕・衣裳・玉佩・絇屨を着用して行事を行った。

礼が終わると、霊台に登った。尚書令に節を持たせて詔を下し、驃騎将軍・三公に告げさせた。「今、良月吉日に、明堂において光武皇帝を宗祀し、五帝に配祀した。

礼には法物を備え、楽には八音を和し、祉福を詠じ、功德を舞い、

時令を班布し、群后に勅した。

事が終わると、霊台に登り、元気を望み、時律を吹き、物変を観た。

群僚藩輔、宗室子孫、衆郡の奉計、百蛮の貢職、

烏桓・濊貊も皆来て助祭し、単于の侍子・骨都侯も皆陪位した。これはまさに聖祖の功德の致すところである。朕は暗陋をもって、大業を奉承し、みずから珪璧を執り、恭しく天地を祀る。

仰ぎ惟うに、先帝は命を受けて中興し、乱を撥ねて正に反し、もって天下を寧んじた。

泰山を封じ、明堂を建て、辟雍を立て、霊台を起こし、大道を恢弘し、これを八極に被う。

しかし、私の子には成王や康王のような資質はなく、

群臣には呂尚や周公旦のような謀略もない。盥洗して爵を進める際も、畏れ多くてただ慚愧の念に堪えない。

生来頑固で愚かであり、事に臨むとますます恐れる。だからこそ『君子は坦蕩として、小人は常に戚戚たり』というのだ。

天下に対し、殊死以下の罪、謀反や大逆の罪をすべて赦免することを命じる。百官や師尹は、その職務を励行し、時令に従い、昊天を敬い、

億兆の民を安んじよ。」

三月、辟雍に臨み、初めて大射の礼を行った。

秋九月、沛王輔、楚王英、済南王康、淮陽王延、東海王政が来朝した。

冬十月壬子、辟雍に行幸し、初めて養老の礼を行った。詔して言う。「光武皇帝は三朝の礼を建てられたが、臨んで饗宴されるには至らなかった。

微々たる私が、聖なる事業を継ぐこととなった。

先ごろ暮春の吉辰に、初めて大射を行い、今月の元日に、

再び辟雍に赴いた。三老を尊び父のように事え、五更を兄のように事え、安車に蒲で包んだ車輪を付け、綏を供え執り授けた。侯王は醤を設け、公卿は珍味を供え、朕自ら袒ぎて肉を切り分け、爵を執って口を清める酒をすすめた。

食の前後には、喉が詰まらないよう、噎せないよう祈る者を置いた。

堂上では鹿鳴の歌を歌い、堂下では新宮の管楽を奏で、

八佾の舞が整い、万舞が庭で行われた。

朕はもとより薄徳であり、どうしてこれに堪えられようか。易は負乗を戒め、詩は『彼己』を刺す。

私は常に恥じ入り、心を忘れない。三老の李躬は、年齢が高く学識に明るい。五更の桓栄は、私に尚書を授けた。

詩経

に言う、『徳のない者には報いず、言葉のない者には酬いない』と。

桓栄に関内侯の爵位を賜い、食邑五千戸を与える。三老と五更はともに二千石の禄で終身養われる。天下の三老には酒一石、肉四十斤を賜う。役人は老人を大切にし、

幼い孤児を憐れみ、寡婦や独り身を恵み、私の意にかなうようにせよ。」

中山王の劉焉が初めて封国に赴いた。

甲子の日、西に巡狩し、長安に行幸し、高祖廟を祀り、十一陵で祭祀を行った。館邑を巡り、郡県の官吏と会い、労をねぎらい賜物を与え、音楽を奏した。十一月甲申、使者を遣わして中牢の礼で蕭何と霍光を祀った。皇帝は陵園を拝謁し、その墓の前で車を止めて敬意を表した。

河東に進幸し、通過した地で二千石、令長以下から掾史に至るまで、それぞれ差等を付けて賜物を与えた。

癸卯、車駕が宮に帰還した。

十二月、護羌校尉の竇林が獄に下され死んだ。

この年、初めて五郊で気を迎える儀式を行った。

少府の陰就の子の陰豊がその妻の酈邑公主を殺害し、陰就は連座して自殺した。

三年春正月癸巳、詔を下して言った。「私は郊祀を奉じ、霊台に登り、史官に会い、儀器と度数を正した。

春は一年の始まりである。始めが正しければ、三時の収穫がある。

近年水害と旱害が調節されず、辺境の民は食糧が乏しく、政治が上で誤れば、民がその咎を受ける。役人は時節の気に順い、農桑を勧め督励し、螟や蜮を除き、蝥や賊を駆逐せよ。

刑罰を詳細に審査し慎重に科し、一方の言葉を明らかに察知し、

朝から晩まで怠ることなく、朕の意にかなうようにせよ。」

二月甲寅、太尉趙憙と司徒李訢が免官された。丙辰、左馮翊の郭丹が司徒となった。己未、南陽太守の虞延が太尉となった。

甲子、貴人馬氏を皇后に立て、皇子の炟を

皇太子とした。天下の男子に爵位を賜い、一人につき二級;三老・孝悌・力田には一人につき三級;流浪者で戸籍がなく登録を希望する者には一人につき一級;鰥・寡・孤・獨・重篤な

病気

で貧しく自活できない者には粟を、一人につき五斛賜った。

夏四月辛酉、皇子の建を千乗王に封じ、

羨を広平王に封じた。

六月丁卯、天船の北に星の彗星すいせいが現れた。

秋八月戊辰、大楽を大予楽に改称した。

壬申晦、日食があった。詔して言った。「朕は祖業を奉じて受け継いだが、善政はない。日月が蝕を起こし、彗星が天に現れ、水害旱害が調節されず、農作物が実らず、人々に蓄えがなく、下民は憂いと水害に苦しんでいる。

朕は朝から晩まで勤めて考えているが、知恵と能力が及ばない。昔、楚の荘王は災害がなくても戒めと畏れを抱いた。

魯の哀公は禍が大きかったが、天は譴責を下さなかった。

今の異変は、おそらくまだ救うことができる。役人はその職務をよく考え、無徳の朕を正すようにせよ。古には卿士が詩を献じ、百工が箴言を諫めたものである。

上奏する者は、何も憚ることがない。」

冬十月、光武廟で蒸祭を行った。〈『礼記』に「冬の祭りを蒸という」とある。蒸とは衆の意である。冬の作物がすべて実り、祭るものが多いからである。〉

初めて文始・五行・武徳の舞を奏した。〈『前漢書』によれば、文始舞は本来舜の韶舞であり、高祖六年に文始と改称した。舞人は羽籥を執る。五行舞は本来周の舞であり、始皇帝二十六年に五行と改称した。舞人の冠冕衣服は五行の色に則る。武徳舞は高祖四年に作られ、武力をもって乱を除くことを表す。舞人は干戚を執る。光武帝の創業期には礼楽が整っておらず、今初めて奏したので「初」と記した。〉

甲子、車駕は皇太后に従い章陵に行幸し、旧宅を見た。十二月戊辰、章陵から帰還した。

この年、北宮および諸官府を造営した。京師および郡国で七度の大水が起こった。

四年春二月辛亥、詔を下した。「朕は自ら藉田を耕し、農事を祈る。〈『礼記』に「天子は東郊で自ら耕し、藉田千畝を設け、冕を戴き朱紘を垂れ、自ら耒耜を執る」とある。『五経要義』に「天子の藉田は、上帝への供物を用意し、百姓に先んじて孝敬を尽くすためである。藉とは蹈むことで、自ら田を踏み耕すことを言う」とある。『続漢書』志によれば「正月に耕し始め、事が終わると先農に告げ祀る」。『漢旧儀』に「先農とは神農炎帝である。太牢で祀り、百官は皆従う。皇帝自ら耒耜を執って耕す。天子は三推し、三公は五推、孤卿は七推、大夫は十二推し、士庶人は一畝を終える。そして藉田倉を設け、令丞を置き、天地宗廟の祭祀に供える穀物とする」とある。〉

京師では冬に積雪がなく、春に暖かく潤う気配がない。〈燠は暖かさ、音は於六反。沐は潤沢の意。温かく潤う気がないことを言う。〉

諸官を煩わせ労し、精誠を積んで祈願した。〈積精とは蓄積すること。『説文』に「事を告げ福を求めることを禱という」とある。〉

そして近頃再び時雨を得て、越冬麦が潤った。公卿に俸給の半分を賜う。有司は時政を遵守し、刑罰を公平にするよう努めよ。」

秋九月戊寅、千乗王劉建が薨去した。

冬十月乙卯、司徒郭丹・司空馮魴が免官された。丙辰、河南尹范遷が司徒となり、太僕伏恭が司空となった。

十二月、陵郷侯梁松が獄に下され死んだ。〈匿名文書で誹謗した罪による。〉

五年春二月庚戌、驃騎将軍東平王劉蒼が罷免されて藩国に帰り、琅邪王劉京が封国に赴いた。

冬十月、鄴に行幸した。趙王劉栩と鄴で会った。常山の三老が帝に言上した。「上は元氏でお生まれになりました。どうか優遇と租税免除をお願いします。」詔して言った。「豊・沛・済陽は、天命を受けた由縁の地であり、恩を加え徳に報いるのは当然である。今、永平の政において百姓は怨みを抱き、官吏が免除を求めるのは、笑われるべきことであり、この県の懇願を拒みがたいが、〈重とは難しい意。拳拳とは勤勉な様。『礼記』に「一つの善を得れば拳拳として胸に抱き離さない」とある。〉

元氏県の田租と更賦を六年間免除し、県の掾史および門番や走卒に労をねぎらい賜う。」〈侍閤・門闌部署・街里の走卒には皆等級があり、その数は担当する職務に応じて定められている。」〉

鄴から帰還した。

十一月、北匈奴が五原を侵す。十二月、雲中を侵すが、南単于が撃退した。

この年、内郡にいる辺境の住民を発遣し、装備費用として一人あたり二万銭を賜う。

六年春正月、沛王劉輔、楚王劉英、東平王劉蒼、淮陽王劉延、琅邪王劉京、東海王劉政、趙王劉盱、北海王劉興、齊王劉石が来朝した。

二月、王雒山で宝鼎が現れた。

廬江太守がこれを献上した。夏四月甲子、詔して言う。「昔、禹は九牧の金を収め、鼎を鋳て物を象り、人に神姦を知らしめ、悪気に逢わしめなかった。

徳に遭えば興り、商、周に遷った。周の徳が既に衰えると、鼎はついに淪亡した。

祥瑞の降るは、以て有徳に応ずる。方今政化に僻むこと多し、何を以てか茲を致さん。

に曰く、鼎は三公を象る。

豈に公卿が職を奉じて其の理を得るや。太常は其れ礿祭の日に、

廟に鼎を陳べ、以て器用に備えよ。三公には帛五十匹を賜い、九卿、二千石にはその半ばを賜う。先帝の詔書に、人に上事して聖と称することを禁じたが、近頃の章奏には頗る浮詞が多い。今より若し過称虚誉有らば、尚書は皆宜しく抑えて省みず、諂う子を嗤わざるを示せ。」

冬十月、行幸して魯に至り、東海恭王の陵を祠る。沛王劉輔、楚王劉英、済南王劉康、東平王劉蒼、淮陽王劉延、琅邪王劉京、東海王劉政と会う。十二月、還り、陽城に幸し、使者を遣わして中岳を祠る。壬午、車駕宮に還る。東平王劉蒼、琅邪王劉京が駕に従い来朝して皇太后に拝謁する。

七年春正月癸卯、皇太后陰氏崩ず。二月庚申、光烈皇后を葬る。

秋八月戊辰、北海王劉興薨ず。

この年、北匈奴が使者を派遣して和親を求めた。

八年の春正月己卯、司徒の范遷が薨去した。

三月辛卯、太尉の虞延が司徒となり、衛尉の趙憙が太尉の職務を代行した。

越騎司馬の鄭衆を派遣して北匈奴に返答の使者として赴かせた。初めて度遼将軍を設置し、五原郡の曼柏に駐屯させた。

秋、十四の郡国で雨が降った。

冬十月、北宮が完成した。

丙子、辟雍に臨み、三老と五更を養老した。礼が終わると、詔を下して三公に命じ、郡国及び中都官にいる死罪の囚人を募集し、罪一等を減じ、笞刑を科さず、度遼将軍の営に赴き、朔方・五原の辺境の県に駐屯させることとした。妻子は自ら従わせ、便宜的に辺境の県に籍を置かせた。

父母や兄弟で互いに代わろうとする者は、自由にそれを認めることとした。大逆無道で斬首刑に処せられる者は、すべて募集して蚕室に下すこととした。亡命者はそれぞれ差等を設けて罪を贖わせることにした。移住する者にはすべて、弓弩と衣服・食糧を賜った。

壬寅の晦、日食があり、皆既となった。

詔を下して言った。「朕は無徳をもって大業を奉じているが、下には人々の怨みを残し、上は三光を動かしている。日食の変異は、その災いが特に大きい。春秋の図讖としんが至譴とするところである。

常にその過ちを思い、それは朕一人にある。諸官は職務を励行し、遠慮なく意見を述べよ。」そこで在職する者は皆、封事を上奏し、それぞれ得失を述べた。

帝は上奏文を閲覧し、深く自らを責め、上奏された文書を百官に示した。詔を下して言った。「群臣の言うことは、すべて朕の過ちである。人の冤罪を裁けず、官吏の狡猾さを禁じられず、軽々しく人力を用いて宮殿を修繕し、出入りに節度がなく、喜怒が度を過ぎている。昔、応門が守りを失い、関雎が世を刺した。

飛蓬が風に従うのは、微子が嘆いたところである。

常に前の戒めを顧み、慄然として恐れ慎んでいる。ただ薄徳を恐れ、時が経つにつれて怠りに至ることを憂えるのみである。」

北匈奴が西河諸郡を侵犯した。

九年の春三月辛丑の日、詔を下して郡国の死罪囚を減罪し、妻子を連れて五原・朔方に赴き戸籍に登録させた。所在の死者には皆、妻の父あるいは男子の同産(兄弟)一人に終身の賦役免除を賜う。その妻に父兄がなく母だけがいる者は、その母に銭六万を賜い、またその口算(人頭税)を免除した。

夏四月甲辰の日、詔を下して郡国に公田を貧しい人々に賜い、それぞれ差等をつけた。司隷校尉と部刺史に命じ、墨綬を佩びる長吏で在職三年以上で特に治績が優れた者を毎年一人ずつ上申させ、上計吏とともに上京させることとした。

および特に政治が治まらない者についても、同様に報告させることとした。

この年は大豊作であった。

四姓小侯のために学校を開設し、五経の師を置いた。

十年の春二月、広陵王の劉荊が罪を犯し、自殺した。封国は除かれた。

夏四月戊子の日、詔を下して言った。「かつて五穀が豊かに実り、

今年は蚕や麦の収穫が良好である。天下に大赦を行う。今は盛夏で万物が成長する時節であり、過去の悪事を洗い流し、農事の功労に報いる。百姓は桑と穀物の耕作に努め、災害に備えよ。官吏はその職務を敬い、怠慢や過失のないようにせよ。」

閏月甲午の日、南に巡狩し、南陽に行幸し、章陵を祀った。日が北至(夏至)に至り、

また旧宅を祀った。礼が終わると、校官の弟子を召して雅楽を奏させ、鹿鳴の詩を演奏した。

帝自ら塤と篪を演奏してこれに合わせ、

賓客を楽しませた。帰途、南頓に行幸し、三老や官属を労い饗応した。

冬十一月、淮陽王の劉廷を召し出し、平輿で会見した。

沛王の劉輔を召し出し、睢陽で会見した。

十二月甲午の日、車駕は宮中に帰還した。

十一年の春正月、沛王劉輔、楚王劉英、済南王劉康、東平王劉蒼、淮陽王劉延、中山王劉焉、琅邪王劉京、東海王劉政が来朝した。

秋七月、司隷校尉の郭覇が獄に下され死んだ。

この年、漅湖から黄金が現れた。

廬江太守がこれを献上した。この時、麒麟、白雉、醴泉、嘉禾が各地に現れた。

十二年春正月、益州の辺境外の夷である哀牢王が相率いて内属した。これにより永昌郡を設置し、益州西部都尉を廃止した。

夏四月、将作謁者の王呉を派遣して汴渠を修築させ、滎陽けいようから千乗の海口に至った。

五月丙辰、天下の男子に爵位を賜い、人ごとに二級、三老・孝悌・力田には人ごとに三級、流民で名籍がなく登録を望む者には人ごとに一級を賜った。鰥・寡・孤・獨・篤癃で貧しく家屬がおらず自活できない者には粟を賜い、人ごとに三斛とした。詔して言った。「昔、曾子と閔子騫は親に仕え、

歓びを尽くして養いを致した。仲尼が子を葬った時には、棺はあったが椁はなかった。

喪は哀しみを致すことを貴び、礼は倹約を守ることを旨とする。今、百姓の送終の制度は、競って奢侈に流れている。生者は一石の蓄えもないのに、財力は全て墳土に尽きてしまう。

伏祭や臘祭の時にも糟糠さえなく、犠牲の牛や羊を喪祭に兼ねて用いる。

幾世代にもわたって積み上げた家業を浪費し、一朝の費用に供し、子孫は飢え寒さに苦しみ、ここで命を絶つ。これが祖先の意であろうか。また、車や衣服の制度は、耳目の欲のままに極められている。田は荒れて耕されず、遊食する者が多い。

役人は科禁を明らかにし、今に適したものを郡国に公布せよ。」

秋七月乙亥、司空の伏恭が罷免された。乙未、大司農の牟融が司空となった。

冬十月、司隷校尉の王康が獄に下され死んだ。

この年、天下は安らかで平穏であり、人々に徭役ようえきはなく、年ごとに豊作が続き、百姓は豊かで富み、粟一斛が三十銭、牛や羊が野を覆った。

十三年の春二月、帝は藉田で耕作を行った。儀礼が終わると、見物人に食物を賜った。

三月、河南尹の薛昭が獄に下され死んだ。

夏四月、汴渠が完成した。辛巳の日、帝は滎陽に行幸し、河渠を巡行した。乙酉の日、詔を下して言った。「汴渠が決壊して以来、六十余年が経過した。

さらに近年は、雨水が時宜を得ず、汴水が東へ侵食し、日増しに甚だしくなり、水門の旧位置はすべて河中にあり、水は広く溢れて茫洋とし、岸の境目も測り知れない。

広々と果てしなく、秩序がわからない。今、兗州・豫州の民は多く水害を受けているが、県の役人が民の急務を優先せず、他の労役を好んで起こすと言う者もいる。また、黄河の水が汴に入れば、幽州・冀州が利益を受けるので、左の堤防が強ければ右の堤防が傷み、左右ともに強ければ下流が傷むと言い、水の勢いに任せて流れさせ、人々が高い所に住むようにし、公家は塞き止めの費用を省き、百姓は溺れる憂いがなくなるとする意見もある。議論は一致せず、南北で意見が異なり、朕は何に従うべきかわからず、長く決断できなかった。今、堤防を築き渠を整え、水を堰き止めて水門を立て、黄河と汴水を分流させ、旧来の流路に戻した。陶丘の北は、次第に肥沃な土壌になっていく。

そこで嘉玉と清浄な犠牲を捧げ、河神を礼拝する。

東へ洛汭を過ぎ、禹の功績に感嘆した。

今、五土の適性が、本来の土色に戻り、

渠に近い下田は、貧しい者に賦与し、豪族がその利益を独占することを許さない。

これで世宗(武帝)の瓠子の事業を継ぐことができよう。」

これにより河を渡り、太行山に登り、上党に行幸した。壬寅の日、車駕は宮中に戻った。

冬十月壬辰の晦、日食があった。三公は冠を脱ぎ自らを弾劾した。制を下して言った。「冠と履については弾劾しなくてよい。災異が頻繁に現れるのは、その咎は朕にある。憂い恐れて慌ただしく、その方策を知らない。役人が事を陳べるのに、多く隠し避けることがあり、君主を塞がれ蔽わせ、下情が通じないことがあるのか。昔、衛に忠臣がいたので、霊公はその位を守ることができた。

今、どうすれば陰陽を調和させ、災いと天譴を消し止められるのか。刺史・太守は刑罰を詳らかにし冤罪を理め、鰥寡孤独を慰め救恤し、職務に励んで思慮を尽くすように。」

十一月、楚王の劉英が謀反を企て、廃され、封国は除かれ、涇県に移された。

連座して死罪や流刑となった者は数千人に及んだ。

この年、斉王の劉石が薨去した。

十四年春三月甲戌の日、司徒の虞延が免官され、自殺した。夏四月丁巳の日、鉅鹿太守の南陽郡出身の邢穆が司徒となった。

かつての楚王の劉英が自殺した。

夏五月、故広陵王の劉荊の子である元寿を広陵侯に封じた。

初めて寿陵(生前に造営する陵墓)を造営した。

十五年春二月庚子の日、東方へ巡狩に出た。辛丑の日、偃師に行幸した。詔を下し、逃亡者で殊死以下の罪を犯した者は贖罪を許すこととした:死罪は縑四十匹、右趾から髡鉗城旦舂までの刑は十匹、完城旦から司寇までの刑は五匹を納めることとした。犯罪が未発覚で、詔書が届いた日に自首した者は、その半額で贖うことを許した。沛王の劉輔を召して睢陽で会合させた。進んで彭城に行幸した。癸亥の日、帝は下邳で籍田の礼を行った。

三月、琅邪王の劉京を召して良成で会合させた。

東平王の劉蒼を召して陽都で会合させた。

また広陵侯とその三人の弟を召して魯で会合させた。東海恭王の陵を祀った。帰途、孔子の旧宅に行幸し、仲尼と七十二弟子を祀った。

自ら講堂に臨み、皇太子と諸王に経書を講義させた。また東平に行幸した。

辛卯の日、進んで大梁に行幸した。

定陶に至り、定陶恭王の陵を祀った。

夏四月庚子の日、車駕は宮中に帰還した。

信都を楽成国と改め、臨淮を下邳国と改めた。皇子の劉恭を鉅鹿王に、劉党を楽成王に、劉衍を下邳王に、劉暢を汝南王に、劉昞を常山王に、劉長を済陰王に封じた。

天下の男子に爵位を賜い、人ごとに三級進めた。郎、従官で二十年以上勤務の者には帛百匹、十年以上二十年未満の者には二十匹、十年未満の者には十匹を賜い、官府の吏には五匹、書佐・小史には三匹を賜った。天下に大酺を五日間許すことを命じた。

乙巳の日、天下に大赦を行い、謀反・大逆およびその他赦免すべきでない者とされた者も、すべて赦免して罪を除いた。

冬、車騎校が上林苑で狩猟を行った。

十二月、奉車都尉の竇固と駙馬都尉の耿秉を派遣して涼州に駐屯させた。

十六年春二月、太僕の祭肜を派遣して高闕から出撃させた。

奉車都尉の竇固を酒泉から、駙馬都尉の耿秉を居延から出撃させた。

騎都尉の来苗を平城から出撃させて、北匈奴を討伐した。竇固は天山で呼衍王を撃破した。

兵を留めて伊吾盧城に駐屯させた。

耿秉、来苗、祭肜はすべて戦果なく帰還した。

夏五月、淮陽王の劉延が謀反を企てたが、発覚した。癸丑の日、司徒の邢穆と駙馬都尉の韓光は事件に連座して獄に下され死に、連座して誅殺された者は非常に多かった。

戊午の晦の日、日食があった。

六月丙寅の日、大司農の西河出身の王敏が司徒となった。

秋七月、淮陽王の劉延は封地を移され阜陵王に封じられた。

九月丁卯の日、詔を下して郡・国・中都官の死罪囚を死罪一等減じ、笞刑を行わず、軍営に赴かせ、朔方・敦煌に駐屯させることとした。妻子は自ら従うことを許し、父母や兄弟姉妹で従いたい者は自由に従わせよ。女子で既に嫁いで人妻となっている者は同行させてはならない。謀反・大逆・無道の罪についてはこの詔書を適用しない。

この年、北匈奴が雲中を侵犯したが、雲中太守の廉范がこれを撃破した。

十七年春正月、甘露が甘陵に降った。北海王の劉睦が薨去した。

二月乙巳の日、司徒の王敏が薨去した。三月癸丑の日、汝南太守の鮑昱が司徒となった。

この年、甘露が頻繁に降り、樹木の枝が内側に寄り添い、

芝草が宮殿の前に生え、神雀が五色に輝きながら京師に飛来して集まった。西南夷の哀牢、儋耳、僬僥、槃木、白狼、動黏などの諸種族が、前後して慕義して貢物を献上した。

西域の諸国が王子を侍子として派遣した。夏五月戊子の日、公卿百官は皇帝の威徳が遠方を懐柔し、祥瑞の物が顕著に応じたことを以て、共に朝堂に集まり、杯を捧げて寿を祝した。

詔を下して言った。「天は神聖な物を生じ、王者に応える。遠方の人が教化を慕うのは、実に徳があるからである。朕は虚薄な身で、どうしてこれを享受できようか。ただ高祖、光武帝の聖徳が及んだものであり、敢えて辞退はしない。謹んで杯を挙げよ。太常は吉日を選んで策を立てて宗廟に告げよ。天下の男子に爵位を賜う。人ごとに二級、三老、孝悌、力田には人ごとに三級、流民で名籍がなく登録を望む者には人ごとに一級。鰥、寡、孤、独、重病、貧しく自活できない者には粟を、人ごとに三斛。郎、従官で職務に就いて十年以上の者には、帛十匹。中二千石、二千石から黄綬以下の者で、去年以来、秩禄を減じられ奉贖(俸禄で罪を贖うこと)に処せられた者は、皆その贖いを返還する。」

秋八月丙寅の日、武威、張掖、酒泉、敦煌および張掖属国の、

囚人で右趾刑以下で兵役に堪えられる者を、

全て一律にその罪を問わず、軍営に赴かせた。

冬十一月、奉車都尉の竇固、駙馬都尉の耿秉、騎都尉の劉張を派遣して敦煌の昆侖塞から出撃させ、

蒲類海の上で白山の虜を撃破し、ついに車師に入った。

初めて西域都護、戊己校尉を設置した。

この年、天水を漢陽郡と改称した。

十八年春三月丁亥の日、詔を下して言った。「天下の亡命の者で、殊死以下の罪を自ら贖うことを命ずる。死罪は縑三十匹、右趾刑から髡鉗城旦舂刑までは十匹、完城旦刑から司寇刑までは五匹。吏民で罪を犯したが未だ発覚しておらず、詔書が到着した時に自首する者は、半額で贖うことを許す。」

夏四月己未の日、詔を下して言った。「春以来、時雨が降らず、越冬麦は旱害を受け、秋の種蒔きもまだ行われていない。政治が中正を失い、憂慮と恐れを抱くばかりである。天下の男子に爵位を賜う。人ごとに二級、および流民で名籍がなく登録を望む者には人ごとに一級。鰥、寡、孤、独、重病、貧しく自活できない者には粟を、人ごとに三斛。冤罪の獄を審理し、軽い拘束を受けている者を記録せよ。二千石は分かれて五岳四瀆を祈願せよ。郡内に名山大川で雲雨を起こすことができるものがあれば、

長吏はそれぞれ潔斎して祈請し、恵みの慈雨が降ることを望む。」

六月己未の日、星が太微に現れた。

焉耆と龜茲が西域都護の陳睦を攻撃し、その兵士をことごとく滅ぼした。北匈奴と車師後王が戊己校尉の耿恭を包囲した。

秋八月壬子の日、帝は東宮前殿で崩御した。享年四十八歳。遺詔には、寝廟を建てず、主を光烈皇后の更衣別室に納めるようにとあった。

帝は初めて寿陵を作った際、制度は流水を流すのみとし、石の外棺は幅一丈いちじょう二尺、長さ二丈五尺とし、墳丘を築くことはなかった。

万年の後には、地を掃いて祭りを行い、水と干し飯を盛った器を供えるだけでよいとした。

百日を過ぎたら、四季に一度だけ祭奠を設け、数人の吏卒を置いて掃除をさせ、参道を開いて整備してはならない。敢えて何かを造営しようとする者は、宗廟を擅に議する法によって処断する。

帝は建武の制度を遵守し、敢えて違う者はなかった。後宮の家は、侯に封ぜられたり政事に関与したりすることはできなかった。

館陶公主

が子のために郎官を求めたが、許されず、代わりに千万の銭を賜った。帝は群臣に言った。「郎官は天上の列宿に応じ、百里を治める。

その人を得なければ、民はその災いを受ける。だからこそ難しいのだ。」そのため、官吏はその官にふさわしく、民はその業に安んじ、遠近は厳かに服従し、戸口は増加した。

論じて言う。明帝は刑の道理に通じ、法令は分明であった。日が暮れても朝に座し、隠れた冤罪も必ず明らかにした。内外に寵愛や不正の私心はなく、上に立って驕り高ぶる様子もなかった。獄を断じて実情を得、その刑罰は前代の十二分の一と称された。

故に後世、事を論ずる者は、必ず先ず建武・永平の政治を挙げる。そして鍾離意や宋均の徒は、常に明察と聡明を以て言われた。

果たして人を広く受け入れる度量が十分ではなかったということだろうか。

贊して曰く、顕宗は大いに継承し、業業として兢兢たり。危惧の心を抱き恭しく徳を修め、政治は明察にして奸佞を制す。

朝儀文物を整え、陵墓の費用を省き薄くす。

廃れた典章を永く思い、身を下げて道に従う。

台に登り雲を観、辟雍に臨み老を拝す。帝の業績を勉め、文考の光を増す。