後漢書

巻一上・光武帝紀第一上

世祖光武皇帝のいみなは秀、あざなは文叔。

南陽郡蔡陽県の人。

高祖の九世の孫であり、景帝の系統に出自し、長沙定王劉発の子孫である。

劉発は舂陵節侯劉買を生んだ。

劉買は鬱林太守の劉外を生んだ。

劉外は鉅鹿都尉の劉回を生んだ。

劉回は南頓県令の劉欽を生んだ。

劉欽が光武帝を生んだ。光武帝は九歳で父を亡くし、叔父の劉良に養育された。身長は七尺三寸、眉と髭は美しく、口は大きく、鼻筋が通り、額の中央が隆起していた。

性質は農耕に勤勉であった。

しかし兄の伯升(劉縯)は任侠を好み士を養い、しばしば光武帝が田畑の仕事に従事するのを嘲笑し、高祖の兄の劉仲に例えた。

王莽の天鳳年間、

長安に赴き、尚書を学び、大義をほぼ通暁した。

王莽の末期、天下は連年、蝗害こうがいによる災害が続き、賊や盗賊が鋭鋒えいほうのように蜂起ほうきした。

地皇三年、

(天鳳六年を地皇と改めた。)

南陽は凶作で飢饉が起こり、

諸家の賓客の多くが小盗賊となった。光武帝は役人を避けて新野に身を寄せ、

そこで宛で穀物を売った。

宛の人李通らが図讖としんをもって光武帝に説いて言った。「劉氏が再び興り、李氏がこれを補佐するであろう」。

光武帝は初めは受け入れられないと思ったが、ただ兄の伯升が平素から軽客を結びつけ、必ず大事を挙げるであろうこと、また王莽の敗亡はすでに兆しがあり、天下がまさに乱れようとしていることを考え、ついに彼らと謀議ぼうぎを定めた。そこで兵弩へいどを購入した。十月、李通の従弟の李軼らと宛で挙兵した。この時、二十八歳であった。

十一月、張宿に彗星すいせいが現れた。

光武帝はついに賓客を率いて舂陵に戻った。この時、伯升はすでに衆を集めて兵を起こしていた。初め、諸家の子弟は恐れ、皆逃亡して身を隠し、「伯升が我々を殺す」と言った。光武帝が絳衣こういに大冠をかぶっているのを見ると、

皆驚いて言った。「謹厚きんこうな者までもがまたこうするのか」。そこで次第に自ら安んじた。伯升はそこで新市・平林の兵を招き、

その帥である王鳳・陳牧とともに西進して長聚を攻撃した。

光武帝は初め牛に乗り、新野の尉を殺してようやく馬を得た。

進軍して唐子郷を屠り、

また湖陽の尉を殺した。

軍中で財物の分配が公平でなかったため、兵士たちは恨みを抱き、劉氏一族を攻撃しようとした。光武帝は一族の者が得た物を集め、すべて彼らに与えたので、兵士たちはようやく喜んだ。棘陽を攻め落とし、

王莽の前隊大夫甄阜と、

属正梁丘賜と、

小長安で戦ったが、

漢軍は大敗し、棘陽に戻って守りを固めた。

更始元年、

正月甲子朔、漢軍は再び甄阜・梁丘賜と沘水の西で戦い、大いにこれを破り、阜と賜を斬った。

伯升(劉縯)はまた、王莽の納言将軍厳尤と秩宗将軍陳茂を淯陽で破り、

宛城を包囲した。

二月辛巳、劉聖公を天子として立て、伯升を大司徒とし、光武帝を太常偏将軍とした。

三月、光武帝は別行動で諸将とともに昆陽・定陵・郾を攻略し、すべてこれを陥落させた。

牛馬や財物を多く得、穀物数十万こくを手に入れ、これを宛城の包囲軍に送って補給した。王莽は甄阜・梁丘賜の死と漢帝の即位を聞き、大いに恐れ、大司徒王尋と大司空王邑を派遣し、

兵百万、そのうち甲士こうし四十二万人を率いさせ、五月に潁川に到着し、再び厳尤・陳茂と合流した。

以前、光武帝が舂陵侯家の滞納地租の訴訟を厳尤に申し立てた際、尤は彼を見て非凡な人物だと思った。

この時、城中から降伏して尤のもとに来た者が、光武帝が財物を取らず、ただ兵を集めて策を練っているだけだと話した。尤は笑って言った。「あの立派なひげと眉の持ち主か?どうしてそんなことをしているのだろう!」

当初、王莽は天下で兵法に通じる者六十三家数百人を徴用し、すべて軍吏に任命した。武衛を選抜訓練し、猛士を募集した。

旌旗と輜重しちょうは千里にわたって絶えることがなかった。

当時、長人巨無霸という者がいた。

身長一丈いちじょう、太さ十囲じゅういで、彼を壘尉るいいに任命した。

また諸々の猛獣を駆り立て、

虎・豹・犀・象の類を率いて、威勢を助けさせた。秦・漢以来の出師の盛んなこと、かつてこのようなことはなかった。光武帝は数千の兵を率い、陽関でこれを迎え撃った。

諸将は尋・邑の軍勢が盛んなのを見て、逆に退却し、昆陽に馳せ入った。皆、恐れおののき、妻子を憂い心配し、

諸城に散らばって帰ろうとした。光武帝が議論して言った。「今、兵糧はすでに少なく、外敵は強大である。力を合わせて防げば、功績はおそらく立てられるだろう。もし分散させようとすれば、形勢的に全軍が無事ではいられない。しかも宛城はまだ陥落しておらず、救援することはできない。昆陽がもし破られれば、一日のうちに諸部もまた滅びてしまう。今、心胆を同じくして功名を挙げようとせず、かえって妻子や財物を守ろうとするのか?」諸将は怒って言った。「劉将軍はどうしてこのようなことを言えるのか!」光武帝は笑って立ち上がった。ちょうど斥候騎兵が戻り、大軍がまさに城北に至り、軍陣が数百里に及び、その後尾が見えないと報告した。諸将は急いで互いに言った。「改めて劉将軍に計略を請おう。」光武帝は再び勝敗の図を描いて説明した。諸将は憂慮し追い詰められ、皆「諾」と言った。当時、城中にはわずか八、九千人がいた。光武帝は成国上公王鳳と廷尉大将軍王常に留守を命じ、夜、自ら驃騎大将軍宗佻、

五威将軍李軼ら十三騎とともに、

城南門から出て、城外で兵を集めた。当時、莽軍で城下に到着していた者はほぼ十万に上り、光武帝はほとんど出られないところだった。

郾・定陵に到着すると、諸営の兵をすべて動員した。しかし諸将は財貨を貪り惜しみ、分けて留守を守ろうとした。光武帝は言った。「今もし敵を破れば、珍宝は万倍にもなり、

大功を成すことができる。もし敗れれば、首一つ残らず、何の財物があろうか!」衆はこれに従った。

厳尤が王邑に説いて言った。「昆陽城は小さいが堅固である。今、僭称せんしょうしている者は宛におり、急いで大軍を進めれば、

彼らは必ず奔走するだろう。宛が敗れれば、昆陽は自然に降伏する。」邑は言った。「私はかつて虎牙将軍として翟義を包囲したが、生け捕りにできなかったことで、責められた。

今、百万の軍勢を率いながら、城に遭遇して攻め落とせないとは、どういうことか?」(「遇」は「過」とする異文あり。)

そこで数十重に包囲し、百を数える陣営を並べ、雲車を十余丈の高さに立てた。(雲車とは楼車のこと。雲と称するのはその高さを言う。これに登って敵を望見する。墨子に「公輸般が雲梯の器械を作った」とあるのと同じ。)

城中を見下ろし、(俯瞰ふかんして見ることを瞰と言い、音は苦暫反。)

旗幟が野を覆い、(『広雅』に「幟は幡なり、音は熾」とある。)

埃塵が天に連なり、鉦鼓せいこの音が数百里に聞こえた。(『説文』に「鉦は鐃なり、鈴に似る」とある。)

ある者は地道を掘り、衝輣で城を突いた。(衝は橦車。詩に「臨衝閑閑」とある。許慎は「輣は楼車なり」と言う。輣の音は歩耕反。)

積弩を乱射し、矢は雨のように降り注ぎ、城中の者は戸板を背負って水を汲んだ。王鳳らは降伏を請うたが、許されなかった。王尋と王邑は、功績は刻々と成就するものと思い込み、意気揚々としていた。夜には流星が陣営の中に墜ち、昼には山が崩れるような雲が陣営の上に落ち、地面に届かぬ一尺のところで散った。将兵は皆、伏して恐れた。(『続漢志』に「雲が山の崩れるようであるとは、営頭の星を言う。占いには『営頭の墜ちるところ、その下では軍は覆り将は殺され、血は千里に流れる』とある。」厭の音は一葉反。)

六月己卯、光武帝はついに諸部隊と共に進軍し、自ら歩兵と騎兵千余りを率い、大軍の前を四、五里進んで陣を布いた。王尋と王邑も兵数千を派遣して戦わせた。光武帝はこれに突撃し、数十の首級を斬った。(秦の法では、首一つを斬るごとに爵位一級を賜うので、首を斬ることを級と言うようになった。)

諸部隊は喜んで言った。「劉将軍は平生、小敵を見ると臆病だったが、今大敵を見て勇ましいのは、実に不思議だ。それにまた前線に立っている。将軍を助けよう!」光武帝が再び進むと、王尋と王邑の兵は退き、諸部隊が一斉に攻めかかり、数百から千の首級を斬った。連勝して、前進した。この時、劉伯升が宛を陥落させてからすでに三日経っていたが、光武帝はまだ知らず、偽って使者に書状を持たせて城中に報せ、「宛からの援軍が到着した」と言わせ、わざとその書状を落とした。王尋と王邑がこれを拾い、喜ばなかった。(憙の音は許記反。)

諸将は累勝を重ねて以来、胆力はますます壮となり、一人で百人に当たる者ばかりとなった。光武帝は敢死隊三千人を率い、城西の水上から敵の中堅を突いた。(敢死とは果敢に死を覚悟した者を言う。凡そ軍事において、中軍の将が最も尊く、中央に位置して堅固で精鋭な部隊で自らを補佐するので、中堅と言う。)

王尋と王邑の陣は乱れ、鋭気に乗じてこれを崩壊させ、ついに王尋を殺した。城中からも鬨の声を上げて打って出て、内外で勢いを合わせ、叫び声は天地を震わし、王莽の軍は大いに潰走し、逃げる者は互いに踏みつけ合い、百余里の間にわたって奔り倒れた。(えいは倒れること、音は於計反。あるいは「噎」と作る。)

折しも大雷雨と強風が起こり、屋根瓦が皆飛び、雨は注ぐように降り、滍川ちせんは増水して溢れた。(『水経』に、滍水は南陽魯陽県西の堯山から出て、東南に昆陽城の北を経て、東に入り汝水に合流するとある。滍の音は直理反。)

虎豹も皆、股を震わせ、兵士たちは我先に逃げようとして、溺死者は万を数え、川は流れを止めた。(数が万を超えるので、万を単位として数えた。)

王邑、厳尤、陳茂は軽騎で死体を踏み台にして川を渡り逃げ去った。その軍の物資、輜重、車甲、珍宝をことごとく奪い、数えきれないほどで、数か月かけて運び出しても尽きず、残りは焼き払った。

光武帝はこれに乗じて再び潁陽を攻め落とした。(県名、潁川郡に属す。故城は現在の許州にある。)

兄の伯升が更始帝に殺害されると、光武帝は父城から宛へ急行して謝罪した。

司徒の官属が光武帝を迎えて弔問したが、光武帝は私的な会話を交わすことを避け、ひたすら自らの過失を深く認めるばかりであった。昆陽での功績を自ら誇ることもなく、また伯升の喪に服することも敢えてせず、飲食や言笑は普段と変わらなかった。更始帝はこれを恥じて、光武帝を破虜大将軍に任じ、武信侯に封じた。

九月庚戌の日、三輔の豪傑たちが共に王莽を誅殺し、その首級を宛へ送り届けた。

更始帝が北の洛陽に都を移そうとすると、光武帝を行司隷校尉とし、先遣させて宮殿や官府の整備修復を行わせた。

そこで光武帝は官僚の属官を配置し、公文書を作成して、

従事史に巡察させたが、すべて旧来の規定の通りであった。

当時、三輔の官吏や兵士たちが東から更始帝を迎えに来ていたが、諸将が通過するのを見ると、皆がさくをかぶり、

婦人の衣服である諸于しょりに刺繍の短い上着を着ていたので、

誰もがこれを笑い、あるいは恐れて逃げ出す者もいた。

しかし、司隷校尉の官僚や属官を見ると、皆が喜びを抑えきれず、年老いた役人の中には涙を流して言う者もいた。「今日また漢の官人の威儀を見ることができるとは思わなかった。」これによって、見識ある者たちは皆、心を寄せるようになった。

更始帝が洛陽に到着すると、光武帝を破虜将軍として大司馬の職務を行わせた。十月、光武帝は節を持って北へ黄河を渡り、

州郡を鎮撫慰問した。赴任した郡県では、必ず二千石の太守、県の長吏、三老、官属から下は佐史に至るまで、

その能力を調査し、罷免や昇進を行った。これは州牧が管轄区域を巡察する職務と同様であった。

囚人を公平に釈放し、王莽の苛酷な政令を廃止し、

漢代の官名を復活させた。官吏や民衆は喜び、争って牛や酒を持って出迎え、慰労した。

邯鄲まで進軍した。

かつての趙の繆王の子である劉林が

光武帝に進言した。「赤眉軍は今、河東におります。ただ水を決壊させて灌漑すれば、百万の兵衆を魚とすることができます」。

光武帝は答えず、真定へ去った。

劉林はそこで占い師の王郎を成帝の子である子輿だと偽って詐称した。

十二月、王郎を天子として立て、邯鄲を都とし、使者を派遣して郡国を降伏させた。

二年正月、光武帝は王郎の勢いが新たに盛んであるのを見て、北へ薊を巡行した。

王郎は檄文を移し、光武帝の首に十万戸の賞金をかけた。

かつての広陽王の子である劉接が

薊の中で兵を起こして王郎に応じ、城内は混乱し、互いに驚き恐れ、邯鄲からの使者がまさに到着すると言い、二千石以下の者たちは皆出迎えた。そこで光武帝は急いで車を南に向け、

朝も夜も城邑に入ることができず、道端で食事をとり休んだ。饒陽に至り、

役人たちは皆、食糧に困った。光武帝は自ら邯鄲からの使者を名乗り、駅舎に入った。

駅舎の役人がちょうど食事を運び込もうとしたところ、従者たちが飢えて、それを奪い合った。駅舎の役人は彼らが偽者ではないかと疑い、そこで数十回太鼓を打ち鳴らし、

「邯鄲の将軍が到着した」と偽って言った。

役人たちは皆、顔色を失った。光武帝は車に乗り、走り去ろうとした。しばらくして逃れられないのではないかと恐れ、ゆっくりと座りに戻り、「邯鄲の将軍をお招き入れよ」と言った。長い時間が経ってから車を出発させた。駅舎の中の人が遠くから門番に声をかけ、門を閉じさせようとした。門番の長は言った。「天下のことがどうなるかわからないのに、どうして年長者を閉め出すことができようか」。こうして南へ出ることができた。朝も夜も兼ねて行軍し、霜雪を冒した。

天候は寒く、顔面はみなひび割れした。呼沱河に至ると、

船がなく、ちょうど氷が張り詰めていたので、渡ることができた。

数台の車が渡り終わらないうちに氷が陥没した。進軍して下博城の西に至った。

惑わされてどこへ行くべきかわからなかった。道端に白衣の老人がいて、

指さして言った。「努めよ。信都郡は長安のために守っている。ここから八十里のところだ。」

光武帝はただちに馳せ向かった。信都太守の任光が門を開いて出迎えた。世祖は付近の県の兵を動員し、四千人を得て、まず堂陽と貰県を攻撃し、いずれも降伏させた。

王莽の和成卒正である邳彤もまた郡を挙げて降伏した。

また、昌城の人劉植、宋子の人耿純が、

それぞれ宗族や子弟を率いて、その県邑を占拠し、光武帝に奉じた。ここにおいて北進して下曲陽を降し、

兵は次第に集まり、喜んで従う者は数万人に至った。

さらに北進して中山を攻撃し、

盧奴を陥落させた。

通過する地で奔命兵を徴発し、

辺境の部族に檄を飛ばして共に邯鄲を攻撃するよう求めると、郡県は再び呼応した。南進して新市、真定、元氏、房子を攻撃し、いずれも陥落させ、

これによって趙の境界内に入った。

その時、王郎の大将李育が柏人に駐屯していた。

漢軍は知らずに進軍し、先鋒の偏将朱浮と鄧禹が李育に敗れ、輜重を失った。光武帝は後方でこれを聞き、朱浮と鄧禹の散兵を収容し、李育と城門で戦って大破し、彼らが奪ったものを全て取り戻した。李育は城に戻って守りを固め、攻めても落とせなかったため、そこで兵を率いて広阿を攻略した。

上谷太守耿況と漁陽太守彭寵が、

それぞれ配下の将軍呉漢と寇恂らに突騎を率いさせて王郎討伐を援助しに来た。

更始帝も尚書僕射謝躬を派遣して王郎を討伐させた。

光武帝はそこで兵士たちを大いに慰労し、東進して鉅鹿を包囲した。王郎の守将王饒が堅守し、一ヶ月以上経っても落ちなかった。王郎は将軍倪宏と劉奉を派遣し、

数万の兵を率いて鉅鹿を救援させた。光武帝は南䜌で迎え撃ち、

数千の首級を斬った。四月、進軍して邯鄲を包囲し、連戦してこれを破った。五月甲辰、その城を攻略し、王郎を誅殺した。文書を押収し、役人たちが王郎と通じて誹謗中傷した数千通の上書を得た。光武帝はこれらを調べず、諸将軍を集めて焼き捨てさせ、「不安な者たちを安心させよ」と言った。

更始帝は侍御史を派遣し、節を持たせて光武帝を蕭王に封じた。

全ての兵を罷めさせ、天子の行在所に赴くよう命じた。

光武帝は河北がまだ平定されていないことを理由に辞退し、徴召に応じなかった。これ以降、更始帝から離反し始めた。

この時、長安では政治が乱れ、四方で反乱が起こった。梁王劉永が睢陽で独自に命令を発し、

公孫述が巴蜀で王を称し、

李憲が自ら淮南王を名乗り、

秦豊が自ら楚黎王と号した。

張歩が琅邪で挙兵した。

董憲が東海で挙兵した。

延岑が漢中で挙兵した。

田戎が夷陵で挙兵した。

また、諸賊に別の名称として銅馬、大肜、高湖、重連、鐵脛、大搶、尤來、上江、青犢、五校、檀郷、五幡、五樓、富平、獲索などがあり、

それぞれが部曲ぶきょくを率い、

その衆は合わせて数百万人に達し、各地で略奪を働いた。

光武帝がこれを討とうとし、先に呉漢を派遣して北方の十郡の兵を徴発させた。幽州牧の苗曾がこれに従わなかったので、呉漢は苗曾を斬ってその兵を徴発した。秋、光武帝は鄡において銅馬賊を攻撃した。

呉漢が突騎を率いて清陽に来て合流した。

賊はたびたび挑戦してきたが、

光武帝は陣営を堅固にして自ら守り、出て略奪する者がいれば、すぐにこれを撃ち取って、

その糧道を断った。一か月余りが経ち、賊の食糧が尽き、夜に逃げ去ったので、館陶まで追撃してこれを大破した。

降伏を受け入れ終わらないうちに、高湖、重連が東南から来て、銅馬の残党と合流した。光武帝は再び蒲陽でこれと大戦し、ことごとく撃破して降伏させ、その渠帥きょすいを列侯に封じた。

降伏した者たちはなお自ら安んじることができなかった。光武帝はその心中を知り、それぞれの陣営に帰って兵を整えよと命じ、自ら軽騎に乗って部隊の陣営を巡視した。降伏した者たちは互いに語り合って言った。「蕭王(光武帝)は真心を人の腹中に置いてくださる。どうして死力を尽くさずにいられようか。」

これによって皆が心服した。降伏した者たちをすべて諸将に分配したので、その兵は数十万に達し、関西では光武帝を「銅馬帝」と呼んだ。赤眉の別帥と大肜、青犢の十余万の兵が射犬にいた。

光武帝は進撃し、これを大いに破り、賊の兵衆は皆散り散りに逃走した。呉漢と岑彭を派遣して謝躬を鄴で襲撃させ殺害した。

青犢と赤眉の賊が函谷関に入り、更始帝を攻撃した。

光武帝はそこで鄧禹に六人の裨将ひしょうを率いて兵を率い西進させ、更始帝と赤眉の混乱に乗じることにした。当時、更始帝は大司馬の朱鮪と舞陰王の李軼らを洛陽に駐屯させていた。

光武帝もまた馮異に孟津を守備させてこれに抵抗させた。

建武元年

春正月、平陵の人方望が

前の孺子劉嬰を天子として擁立した。

更始帝は丞相の李松を派遣してこれを撃ち斬った。

光武帝は北進して尤来・大搶・五幡を元氏で攻撃し、右北平まで追撃し、連続してこれを破った。

また順水の北で戦い、

勝利に乗じて軽率に進軍したため、かえって敗北した。賊は急迫して追撃し、短兵で交戦した。

光武帝は自ら高い岸に身を投じ、突騎の王豊に出会い、王豊は下馬して光武帝に馬を譲り、光武帝はその肩を撫でて馬に乗り、振り返って耿弇に笑いながら言った。「危うく敵の笑いものになるところだった。」耿弇は頻りに射て賊を退却させ、難を免れた。兵士の死者は数千人に上り、散り散りになった兵は范陽に退いて守りを固めた。

軍中では光武帝の姿が見えず、ある者は既に戦死したと噂した。

諸将はどうすべきか分からなかった。呉漢が言った。「諸君、奮闘せよ。

主君の兄の子が南陽におられる。主君がいなくなることを憂うる必要があろうか。」

兵士たちは恐怖し、数日たってようやく落ち着いた。賊は戦いに勝ったものの、もともと大軍の威勢に恐れをなしていたため、

敵味方の状況が分からず、夜のうちに撤退した。大軍はさらに進軍して安次に至り、

賊と戦ってこれを破り、三千余りの首級を斬った。賊は漁陽に入ったため、呉漢に耿弇・陳俊・馬武ら十二将軍を率いさせ、潞の東で追撃戦を行わせた。

および平谷で、賊を大破して殲滅した。

朱鮪が討難将軍の蘇茂を派遣して温を攻撃した。

馮異と寇恂がこれと戦い、大破してその将の賈彊を斬った。

そこで諸将は帝号を奉ることを議した。馬武がまず進み出て言った。「天下に主がいません。もし聖人が衰弊に乗じて立ち上がるならば、たとえ仲尼が宰相となり、孫子が将軍となっても、まだ有益であるとは思えません。こぼれた水は元に戻らず、後悔しても間に合いません。

大王が謙遜して退かれるとしても、宗廟と社稷はどうなさいますか。まず薊に戻って帝位に即き、それから征伐を議すべきです。今、誰が賊なのか分からないのに、駆け回ってこれを撃つのですか。」

光武帝は驚いて言った。「どうして将軍がこのようなことを言うのか。斬るべきである。」馬武は言った。「諸将は皆そう思っています。」光武帝は彼を出して諸将に諭させ、

軍を率いて薊に戻った。

夏四月、公孫述が天子を自称した。

光武帝は薊から戻る途中、范陽を通り過ぎ、官吏と兵士の遺体を収容して葬るよう命じた。中山に至ると、諸将が再び上奏して言った。「漢は王莽に遭い、宗廟は廃絶し、豪傑は憤怒し、民衆は塗炭の苦しみに陥りました。

大王と伯升(劉縯)がまず義兵を挙げ、更始帝はその基盤を利用して帝位を占めましたが、大統を奉じることができず、綱紀を敗乱させ、盗賊は日増しに多く、民衆は危機に迫られています。

行軍して南平棘に至ると、

諸将が再び固く請願した。光武帝は言った。「寇賊がまだ平定されておらず、四面から敵を受けており、どうして急いで正しい称号と位を定めようとするのか。諸将はまず退出せよ。」耿純が進み出て言った。「天下の士大夫が親戚を捨て、故郷を棄て、矢石の間を大王に従うのは、その考えは固より龍の鱗に攀じ、鳳の翼に附いて、その志を成し遂げることを望んでいるからです。

今や功業は既に定まり、天と人もまた応じているのに、大王は時を留めて衆に逆らい、正しい号位につかず、私は士大夫たちが望みを絶ち計略が尽き、去って帰る思いを抱き、長く自ら苦しむことがないようにすることを恐れます。大衆が一度散れば、再び合わせるのは難しい。時は留められず、衆は逆らえない。」耿純の言葉は非常に誠実で切実であり、光武帝は深く感じ入り、「私は考えてみよう。」と言った。

行って鄗に至った。〈県名で、現在の趙州高邑県である。鄗の音は火各反。〉

光武帝が以前長安にいた時に同宿していた学友の彊華〈『続漢書』によると、「彊華は潁川の人である。」彊の音は其両反。〉

関中から赤伏符を奉じて来て、言うには「劉秀発兵捕不道、四夷雲集龍鬬野、四七之際火為主」。〈四七は二十八である。高祖から光武帝が初めて挙兵するまで、合わせて二百二十八年、すなわち四七の際である。漢は火徳なので、火が主となるのである。〉

群臣はこれによりまた上奏して言った。「天命を受ける符瑞は、〈彊華が奉じた赤伏符を指す。〉

人の応じることが最も重要であり、万里を隔てて信が合い、相談しなくても同じ心であり、周の白魚など、どうして比べられようか?〈『尚書・中候』に「武王が紂を討つ時、孟津を渡る途中、中流で白魚が王の舟に躍り入り、長さ三尺、赤い文様に字があり、紂を討つ意を告げた」とある。〉

今、上には天子がおらず、海内は乱れ、符瑞の応じることは、明らかに著しく聞こえており、天神に応え、群衆の望みを満たすべきです。」光武帝はそこで役人に命じて、鄗の南の千秋亭五成陌に壇場を設けさせた。〈壇とは土を築くことで、場とは地を除くことである。秦の法では、十里ごとに一亭を置く。南北を阡とし、東西を陌とする。その地は現在の趙州柏郷県にある。『水経注』によると、亭には石壇があり、壇には圭頭碑があり、その陰に常山相隴西狄道の馮龍が造ったとある。壇廟の東、道に枕して二つの石翁仲があり、南北に向かい合っている。〉

六月己未、皇帝の位に即いた。燔燎はんりょうして天に告げた。〈天は高くて達し難いので、柴を焼いてこれを祭り、煙が高く上って通じるようにする。『爾雅』に「天を祭ることを燔柴という」とある。燔の音は煩。燎の音は力弔反。〉

六宗を禋祀いんしした。〈精誠を込めて祀ることを禋という。『続漢志』:「平帝の元始年間、六宗を易卦の六子の気、すなわち水、火、雷、風、山、沢と称した。光武帝が中興し、これに従って改めなかった。安帝が即位するに至り、初めて六宗を天地四方の宗と改め、洛陽の北、戌亥の地で祭祀した。」〉

群神を望祀ぼうしした。〈山林川谷で雲雨を起こすことができるものは皆神という。すべてに行き届かないので、望んでこれを祭る。『尚書』に「山川を望み、群神に遍くする」とある。〉

その祝文は言う。「皇天上帝、后土神祇が、顧みて命を降し、秀に黎元れいげんを委ねられた。属の音は燭。人の父母となられることを、秀は敢えて当たることができない。群下百辟ひゃくへき、〈『詩・大雅』に「百辟卿士」とある。鄭玄の注に「百辟は畿内の諸侯である」とある。〉

謀らずして同じ言葉を言い、皆が言うには:『王莽が位を簒奪したので、秀は憤りを発して兵を興し、王尋・王邑を昆陽で破り、王郎・銅馬を河北で誅し、天下を平定し、海内は恩恵を蒙った。上は天地の心に当たり、下は元元の帰するところとなった。』〈元元とは黎庶れいしょのことである。元元とは喁喁ぎょうぎょうと言うように、憐れむべき言葉である。〉

讖記に言う:『劉秀発兵捕不道、卯金修徳為天子。』〈卯金は劉の字である。『春秋演孔図』に「卯金刀の名は劉、赤帝の後となり、次いで周に代わる」とある。〉

秀はなお固く辞退し、二度、三度に及んだ。群下は皆言う:『皇天の大命は、留めておくことはできない。』敢えて敬って受けざるを得ない。」そこで建元を建武とし、天下に大赦を行い、鄗を高邑と改めた。

この月、赤眉が劉盆子を立てて天子とした。

甲子の日、前将軍の鄧禹が更始の定国公王匡を安邑で攻撃し、大いにこれを破った。

その将軍劉均を斬った。

秋七月辛未、前将軍の鄧禹を大司徒に任命した。丁丑、野王県令の王梁を大司空とした。

壬午、大将軍の呉漢を大司馬とし、偏将軍の景丹を驃騎大将軍とし、大将軍の耿弇を建威大将軍とし、偏将軍の蓋延を虎牙大将軍とし、偏将軍の朱祐を建義大将軍とし、中堅将軍の杜茂を大将軍とした。

この時、宗室の劉茂が自ら「厭新将軍」と号した。

衆を率いて降伏し、中山王に封じられた。

己亥、懐県に行幸した。

耿弇を遣わし、彊弩将軍の陳俊に五社津に軍を駐屯させ、

滎陽けいよう以東を守備させた。呉漢に朱祐および廷尉の岑彭、

執金吾の賈復、

揚化将軍の堅鐔ら十一人の将軍を率いさせ、

朱鮪を洛陽で包囲させた。

八月壬子、社稷を祭った。癸丑、懐宮において高祖、太宗、世宗を祀った。河陽に進んで行幸した。更始の廩丘王りんきゅうおう田立が降伏した。

九月、赤眉が長安に入り、更始は高陵に逃れた。辛未、詔を下した。

「更始は破れて敗れ、城を棄てて逃走し、妻子は裸で、路傍に散り散りになっている。

私はこれを非常に哀れに思う。今、更始を淮陽王に封じる。

役人や民衆で敢えて賊害する者は、大逆の罪に同様とする。」

甲申の日、以前の高密県令であった卓茂を太傅とした。

辛卯の日、朱鮪が城を挙げて降伏した。

冬十月癸丑の日、車駕は洛陽に入り、南宮の却非殿に幸し、ここに都を定めた。

岑彭を派遣して荊州の群賊を討伐させた。

十一月甲午の日、懐県に幸した。

劉永が天子を自称した。

十二月丙戌の日、懐県から帰還した。

赤眉が更始を殺し、隗嚻が隴右を占拠し、盧芳が安定で挙兵した。

破虜大将軍の叔寿が曲梁で五校の賊を撃ち、戦死した。

二年春正月甲子の朔日、日食があった。

大司馬の呉漢が九将軍を率いて鄴の東で檀郷の賊を撃ち、大破して降伏させた。庚辰の日、功臣を皆列侯に封じ、大国は四県、その他はそれぞれ差等を設けた。詔を下して言った。「人情は満足を得ると、放縦に苦しみ、一時の欲望を快くし、刑罰を慎む道理を忘れる。

諸将の業績は遠大で功績は大きい。誠に子孫に伝えて窮まりなきものとしたいならば、深淵に臨むが如く、薄氷を踏むが如く、戦戦慄慄として、一日一日を慎むべきである。

顕著な功績がまだ報われず、名簿に登録されていない者は、大鴻臚が急いで上奏せよ、

朕は差別して記録しようと思う。」博士の丁恭が議して言った。「古代の帝王が諸侯を封じるのは百里を超えませんでした。

したがって、利は侯を建てるにあり、雷を法として取ります。

幹を強くし枝を弱くするのは、治めようとする所以です。今、諸侯に四県を封じるのは、法制に合いません。」帝は言った。「古の亡国は、皆無道によるもので、功臣の領地が多いために滅亡したと聞いたことはない。」そこで謁者を派遣して印綬を授けさせた。

策にはこう記された。「上にいて驕らず、高くして危うからず。節を制し度を謹み、満ちて溢れず。これを敬い戒めよ。汝の子孫に伝え、長く漢の藩となれ。」

壬午、更始の復漢将軍鄧曅と輔漢将軍于匡が降伏し、皆、爵位を回復した。

壬子、高廟を建て、洛陽に社稷を建て、城南に郊兆を立て、火徳を正し始め、色は赤を尊んだ。

この月、赤眉が西京の宮室を焼き、園陵を発掘し、

関中を寇掠した。大司徒の鄧禹が長安に入り、府掾を派遣して十一帝の神主を奉り、高廟に納めた。

真定王の劉楊と臨邑侯の劉譲が謀反を企てた。

前将軍の耿純を派遣してこれを誅殺した。

二月己酉、修武に行幸した。

大司空の王梁が免官された。壬子、太中大夫の宋弘を大司空とした。

驃騎大将軍の景丹に征虜将軍の祭遵ら二将軍を率いさせて弘農の賊を撃ち、これを破らせ、ついで祭遵を派遣して蛮中の賊の張満を包囲させた。

漁陽太守の彭寵が反乱し、薊において幽州牧の朱浮を攻撃した。

延岑が漢中において武安王を自称した。

辛卯の日、修武から帰還した。

三月乙未の日、大赦を天下に施行し、詔を下して言った。「近頃、獄には冤罪の者が多く、刑罰が厳しすぎる。朕はこれを深く憂慮している。孔子は言われた。『刑罰が適切でなければ、民は手足の置き所に困る』と。

中二千石、諸大夫、博士、議郎らと共に刑法を減省することを議せよ。」

執金吾の賈復を派遣し、二将軍を率いて更始の郾王尹遵を撃たせ、これを破って降伏させた。

驍騎将軍の劉植が密県の賊を撃ったが、戦死した。

虎牙大将軍の蓋延を派遣し、四将軍を率いて劉永を討伐させた。夏四月、睢陽で劉永を包囲した。更始の将である蘇茂が淮陽太守の潘蹇を殺し、劉永に帰順した。

甲午の日、叔父の良を広陽王に、兄の子の章を太原王に、章の弟の興を魯王に、舂陵侯の嫡子の祉を城陽王に封じた。

五月庚辰の日、更始の元氏王の歙を泗水王に封じた。

故真定王の楊の子の得を真定王に、周の後裔の姬常を周承休公に封じた。

癸未の日、詔を下して言った。「民のうち、嫁いだ妻や売った子が父母のもとに帰りたいと願う者は、自由にそれを許せ。敢えて拘束する者は、律に照らして論ずる。」

六月戊戌の日、貴人郭氏を立てて皇后とし、子の彊を皇太子とした。天下に大赦を施行した。郎、謁者、従官の秩をそれぞれ一等増した。

丙午の日、宗族の子の劉終を淄川王に封じた。

秋八月、帝は自ら将として五校を征討した。丙辰の日、内黄に行幸した。

羛陽で五校を大破し、これを降伏させた。

游撃将軍の鄧隆を派遣して朱浮を救援させたが、潞で彭寵と戦い、鄧隆の軍は大敗した。

蓋延が睢陽を陥落させ、劉永は譙に逃れた。

破虜将軍の鄧奉が淯陽を拠点として反乱を起こした。

九月壬戌の日、内黄から帰還した。

驃騎大将軍の景丹が死去した。

延岑が杜陵において赤眉軍を大破した。

関中は飢饉に見舞われ、人々は互いに食い合った。

冬十一月、廷尉の岑彭を征南大将軍に任じ、八将軍を率いて堵郷において鄧奉を討伐させた。

銅馬、青犢、尤来の残党が共に上郡において孫登を天子として擁立した。

孫登の部将である楽玄が孫登を殺害し、その配下五万余人を率いて降伏した。

偏将軍の馮異を派遣し、鄧禹に代わって赤眉軍を討伐させた。

太中大夫の伏隆に節を持たせて青州と徐州の二州を慰撫平定させ、張歩を招いて降伏させた。

十二月戊午の日、詔を下した。「宗室の列侯で王莽によって廃された者たちは、先祖の霊が依り代とする所がなく、朕はこれを非常に哀れむ。彼らの旧国をすべて復活させよ。もし侯自身がすでに死去している場合は、所属する役所がその子孫の名前を尚書に上奏し、封爵・任命を行うこと。」

この年、蓋延らが沛の西において劉永を大破した。

初め、王莽の末期、天下は旱魃と蝗害に見舞われ、黄金一斤で粟一斛と交換されたが、この時には野生の穀物が自然に生え、

麻や豆が特に繁茂し、野蚕が繭を作り、山や丘を覆い、人々はその利益を得た。

三年春正月甲子、偏将軍の馮異を征西大将軍とし、杜茂を驃騎大将軍とした。大司徒の鄧禹と馮異が赤眉軍と回渓で戦った。

鄧禹と馮異は敗北した。

征虜将軍の祭遵が蛮中を破り、張満を斬った。

辛巳、皇考の南頓君より上の四廟を立てた。

壬午、天下に大赦を行った。

閏月乙巳、大司徒の鄧禹を免官した。

馮異が赤眉軍と崤底で戦い、これを大破した。

残党は南の宜陽へ向かった。

帝は自ら軍を率いてこれを征伐した。己亥、宜陽に行幸した。甲辰、自ら六軍を指揮し、大いに軍馬を陣立て、大司馬の呉漢の精鋭部隊が先鋒となり、中軍がこれに続き、驍騎、武衛が左右に分かれて陣を敷いた。赤眉軍はこれを見て震え恐れ、使者を遣わして降伏を請うた。丙午、赤眉軍の君臣は面縛し、

高皇帝の璽綬じじゅを奉じてきた。

詔してこれを城門校尉に属させた。

戊申、宜陽から帰還した。己酉、詔して言った。「群盗が縦横に跋扈し、民衆を害し、盆子が尊号を窃み、天下を乱し惑わせた。朕は兵を奮い起こして討伐し、時機に応じて崩壊させ、十余万の衆が手を束ねて降伏し、先帝の璽綬が王府に帰した。これらは皆、祖宗の霊と士人の力によるものであり、朕はどうしてこれに当たることができようか。

吉日を選んで高廟を祀り、天下の長子で父の後を継ぐべき者に爵位を賜い、人ごとに一級とする。」

二月己未、高廟を祀り、伝国の璽を受けた。

劉永が董憲を海西王に立てた。

張歩が斉王となった。張歩は光禄大夫の伏隆を殺して反逆した。

帝は懐県に行幸した。呉漢に命じて二将軍を率いさせ、青犢を軹県の西で攻撃させ、大いに破って降伏させた。

三月壬寅の日、大司徒司直の伏湛を大司徒に任じた。

彭寵が薊城を陥落させ、彭寵は自ら燕王と称した。

帝は自ら軍を率いて鄧奉を征伐し、堵陽に行幸した。夏四月、小長安で鄧奉を大いに破り、これを斬った。

馮異が延岑と上林で戦い、これを破った。

呉漢が七将軍を率いて劉永の将軍蘇茂と広楽で戦い、大いにこれを破った。

虎牙大将軍の蓋延が劉永を睢陽で包囲した。

五月己酉の日、車駕が宮中に帰還した。

乙卯の晦、日食があった。

六月壬戌の日、天下に大赦を行った。

耿弇が延岑と穣県で戦い、大いにこれを破った。

秋七月、征南大将軍の岑彭が三将軍を率いて秦豊を討伐し、黎丘で戦い、大いにこれを破り、その将軍蔡宏を捕らえた。

庚辰の日、詔を下した。「六百石に満たない官吏、下は墨綬の長・相に至るまで、罪があればまず上奏して裁決を請うこと。

男子で八十歳以上、十歳以下、および婦人で連座する者は、不道の罪でない限り、詔書で特に名を挙げて逮捕を命じられた者以外は、すべて拘禁してはならない。

証拠を調べる必要がある者はすぐに調べる。女の囚人(徒刑に処せられた女性)は雇山(雇山の制度)によって家に帰す。」〈《前書音義》に言う:「令甲:女子が徒刑に犯した場合、家に帰し、毎月銭を出して人を雇い、山で木を伐らせる。これを雇山という。」〉

蓋延が睢陽を陥落させ、劉永を捕らえたが、蘇茂と周建が劉永の子の紆を立てて梁王とした。

冬十月壬申、光武帝は舂陵に行幸し、園廟を祀り、旧宅で酒宴を設け、旧知の者や父老を大いに集めた。〈光武帝の旧宅は現在の随州棗陽県の東南にある。宅の南二里に白水があり、これが張衡の言う「龍飛白水」である。〉

十一月乙未、舂陵から帰還した。

涿郡太守の張豊が反乱を起こした。〈涿郡の故城は現在の幽州范陽県にある。〉

この年、李憲が天子を自称した。西州大将軍の隗嚻が上奏した。〈当時、鄧禹が制を承けて隗嚻を西州大将軍に任命し、涼州・朔方の事を専断させた。〉

建義大将軍の朱祐が祭遵を率いて延岑と東陽で戦い、その将軍の張成を斬った。〈東陽は聚の名で、故城は現在の鄧州の南にある。臨淮郡にもまた東陽県があるが、ここではない。〉

四年春正月甲申、大赦を天下に施行した。

二月壬子、懐県に行幸した。壬申、懐県から帰還した。

右将軍の鄧禹に二将軍を率いさせ、延岑と武当で戦わせ、これを破った。〈武当は県で、南陽郡に属し、武当山がある。現在の均州の県である。〉

夏四月丁巳、鄴に行幸した。己巳、進んで臨平に行幸した。〈県の名で、鉅鹿郡に属する。故城は現在の定州鼓城県の東南にある。〉

大司馬の呉漢を派遣し、箕山で五校の賊を撃ち、これを大破した。〈呉漢伝に東郡の箕山とある。〉

五月、進んで元氏に行幸した。辛巳、進んで盧奴に行幸した。

征虜将軍の祭遵に四将軍を率いさせ、涿郡で張豊を討伐させ、豊を斬った。

六月辛亥、車駕(天子の乗り物)が宮殿に帰還した。

七月丁亥の日、皇帝は譙に行幸した。捕虜将軍の馬武と偏将軍の王霸を派遣し、劉紆を垂恵で包囲させた。

董憲の部将である賁休が蘭陵城を降伏させたが、董憲がこれを包囲した。

虎牙大将軍の蓋延が平狄将軍の龐萌を率いて賁休を救援したが、成功せず、蘭陵は董憲によって陥落した。

秋八月戊午の日、皇帝は寿春に進んで行幸した。

太中大夫の徐惲が臨淮太守の劉度を勝手に殺害し、徐惲は誅殺された。

揚武将軍の馬成を派遣し、三将軍を率いて李憲を討伐させた。九月、舒で李憲を包囲した。

冬十月甲寅の日、皇帝の車駕は宮中に帰還した。

太傅の卓茂が死去した。

十一月丙申の日、宛に行幸した。建義大将軍の朱祐を派遣し、二将軍を率いて秦豊を黎丘で包囲させた。十二月丙寅の日、黎丘に進んで行幸した。

この年、征西大将軍の馮異が公孫述の部将である程焉と陳倉で戦い、これを撃破した。

五年春正月癸巳の日、皇帝の車駕は宮中に帰還した。

二月丙午の日、天下に大赦を行った。

捕虜将軍の馬武と偏将軍の王霸が垂恵を陥落させた。

乙丑の日、魏郡に行幸した。

壬申の日、殷の末裔である孔安を殷紹嘉公に封じた。

彭寵がその蒼頭(下僕)に殺害され、漁陽は平定された。

大司馬の呉漢が建威大将軍の耿弇を率いて富平・獲索の賊を平原で撃ち、大いに破って降伏させた。

また耿弇を派遣し、二将軍を率いて張歩を討伐させた。

三月癸未、広陽王の劉良を趙王に移封し、初めて封国に赴かせた。

平狄将軍の龐萌が反乱を起こし、楚郡太守の孫萌を殺害して東の董憲に帰順した。

征南大将軍の岑彭を派遣し、二将軍を率いて田戎を津郷で討伐させ、大いにこれを破った。

夏四月、旱魃と蝗害があった。

河西大将軍の竇融が初めて使者を派遣して貢物を献上した。

五月丙子、詔を下して言った。「長引く旱魃で麦が損なわれ、秋の種蒔きもまだ行われていない。朕はこれを非常に憂えている。あるいは酷吏が勝ち誇り、獄に多くの冤罪が結ばれ、民衆が愁い恨むことで、天気を動かしているのだろうか。中都官、三輔、郡、国に命じて、拘禁中の囚人を出させること。

殊死しゅし(斬首刑)に当たる罪でない者は、一切取り調べないこと。

現在の徒刑者は免じて庶人とする。柔和で善良な者を登用し、貪欲で残酷な者を退け、それぞれその職務を正しく行うようにせよ。」

六月、建義大将軍の朱祐が黎丘を陥落させ、秦豊を捕らえた。一方、龐萌と蘇茂が桃城を包囲した。

帝はこの時、蒙県に行幸していた。

そこで自ら軍を率いて征伐に向かった。まず任城で軍勢を整え、それから進軍して桃城を救援し、龐萌らを大いに破った。

秋七月丁丑、沛に行幸し、高原廟で祭祀を行った。

詔を下して西京の園陵を修復させた。湖陵に進幸し、董憲を征討した。

また蕃に幸し、

ついに昌慮において董憲を攻撃し、これを大破した。

八月己酉、郯に進幸し、

呉漢に劉紆・董憲らを攻撃させて留め置き、車駕は転じて彭城・下邳を巡行した。呉漢が郯を陥落させ、劉紆を捕らえ、呉漢は進んで朐において董憲・龐萌を包囲した。

冬十月、還り、魯に幸し、大司空に命じて孔子を祀らせた。

耿弇らが張歩と臨淄で戦い、これを大破した。

帝は臨淄に幸し、さらに劇に進幸した。

張歩が蘇茂を斬って降伏し、斉の地は平定された。

初めて太学を建てた。

車駕が宮に還り、太学に幸し、博士弟子にそれぞれ差等を設けて賜物を与えた。

十一月壬寅、大司徒伏湛が免官となり、尚書令侯霸が大司徒となった。

十二月、盧芳が九原において天子を自称した。

西州大将軍隗囂の子の恂が入朝して侍することとなった。

交阯牧の鄧譲が七郡の太守を率いて使者を遣わし、貢物を奉じた。

詔を下して、済陽県の二年分の徭役ようえきを免除した。(済陽は県で、その故城は現在の曹州冤句県の西南にある。皇考の南頓君が最初に済陽県令となった。哀帝の建平元年に帝が済陽宮で生まれたので、これを免除したのである。《前書音義》によれば、「復とはその賦役を除くことをいう。復の音は福である」という。)

この年、野生の穀物は次第に少なくなり、田畑はますます広がった。