宋書

列伝第五十九

列伝第五十九

元凶の劉劭、字あざなは休遠、文帝の長子である。帝が即位した後に劉劭が生まれたが、当時、帝はまだ諒闇(喪に服する期間)中であったため、このことは秘密にされた。三年の閏正月になって、初めて劉劭が生まれたと公表した。前代以来、君主が即位した後に皇后が太子を生んだ例はなく、ただ殷の帝乙が践祚した後、正妃が紂王を生んだのみであり、ここに至ってまた劉劭の例があった。体元居正(帝王の位に就く)の子であり、帝は大いに喜んだ。

原文元凶劭字休遠,文帝長子也。帝即位後生劭,時上猶在諒闇,故祕之。三年閏正月,方云劭生。自前代以來,未有人君即位後皇后生太子,唯殷帝乙既踐阼,正妃生紂,至是又有劭焉。體元居正,上甚喜說。

六歳の時、皇太子に立てられ、中庶子と二率(太子左衛率・右衛率)が永福省に入って宿直した。さらに宮殿を築き、その制度は厳かで華麗であった。十二歳の時、東宮に移り住み、黄門侍郎の殷淳の娘を妃として迎えた。十三歳で元服した。史伝を読むことを好み、特に弓馬を愛し、成長すると、美しいひげ眉、大きな目と四角い口、身長七尺四寸であった。自ら宮中の事務を監察し、賓客を迎え接し、その意向は、帝が必ず従った。東宮には兵を置き、その数は羽林軍と同等であった。十七年、劉劭が京陵を拝謁した際、大将軍の彭城ほうじょう王劉義康、竟陵王劉誕、尚書の桂陽侯劉義融が従い、司空しくうの江夏王劉義恭が江都から来て京口で会合した。

原文年六歲,拜為皇太子,中庶子二率入直永福省。更築宮,制度嚴麗。年十二,出居東宮,納黃門侍郎殷淳女為妃。十三,加元服。好讀史傳,尤愛弓馬,及長,美須眉,大眼方口,長七尺四寸。親覽宮事,延接賓客,意之所欲,上必從之。東宮置兵,與羽林等。十七年,劭拜京陵,大將軍彭城王義康、竟陵王誕、尚書桂陽侯義融並從,司空江夏王義恭自江都來會京口。

二十七年、帝が北伐を企図すると、劉劭は蕭思話と共に強く諫めたが、聞き入れられなかった。索虜(北魏)が瓜歩に至り、京邑は震駭した。劉劭は石頭せきとう城に出鎮して水軍を統率し、撫御に長じていた。帝が石頭城に登ると、憂色を浮かべた。劉劭は言った。「江湛と徐湛之を斬らなければ、天下に謝罪することはできません。」帝は言った。「北伐は我が意志によるもので、二人に関係はない。」

原文二十七年,上將北伐,劭與蕭思話固諫,不從。索虜至瓜步,京邑震駭,劭出鎮石頭,總統水軍,善於撫御。上登石頭城,有憂色,劭曰:「不斬江湛、徐湛之,無以謝天下。」上曰:「北伐自我意,不關二人也。」

帝は当時、本業(農業)に力を入れ、耕桑を勧め課し、宮内の者を皆、養蚕させ、天下を諷諫し激励しようとした。女巫の厳道育がいた。もと呉興の人で、自ら霊感があり、鬼物を駆使できると称した。夫が強盗を働き、連座して奚官(官奴婢を管理する役所)に没入された。劉劭の姉の東陽公主の応閤(宮中の一区画)の婢である王鸚鵡が公主に申し上げた。「道育は霊感があり、異なる術を持っています。」公主はそこで帝に申し上げ、養蚕が上手だという口実で召し入れるよう求め、許された。道育が入ると、自ら服食(仙薬を服用すること)を称し、公主と劉劭は共に信じて惑わされた。始興王の劉濬はもともと劉劭に諂って仕えており、劉劭と共に過失が多かったため、帝に知られることを恐れ、道育に祈願させ、過失が上聞に達しないようにしようとした。道育はすぐに言った。「天に上って陳請すれば、必ず漏れることはありません。」劉劭らは敬って仕え、天師と号した。後に遂に巫蠱を行い、玉で帝の形像を作り、含章殿の前に埋めた。

原文上時務在本業,勸課耕桑,使宮內皆蠶,欲以諷勵天下。有女巫嚴道育,本吳興人,自言通靈,能役使鬼物。夫為劫,坐沒入奚官。劭姊東陽公主應閤婢王鸚鵡白公主云:「道育通靈有異術。」主乃白上,託云善蠶,求召入,見許。道育既入,自言服食,主及劭並信惑之。始興王濬素佞事劭,與劭並多過失,慮上知,使道育祈請,欲令過不上聞。道育輒云:「自上天陳請,必不泄露。」劭等敬事,號曰天師。後遂為巫蠱,以玉人為上形像,埋於含章殿前。

初め、東陽公主に奴の陳天興がおり、鸚鵡が養子とし、彼と淫通した。鸚鵡、天興、および寧州から献上された黄門の慶国は皆、巫蠱の事に関与した。劉劭は天興を隊主に補任した。東陽公主が薨去すると、鸚鵡は出嫁すべきであったが、劉劭は彼女の言葉が漏れやすいことを憂慮し、劉濬と謀った。当時、呉興の沈懐遠が劉濬の府の佐官であり、異常なほど厚遇されていたので、鸚鵡を懐遠に妾として嫁がせた。帝に啓上せず、後日事が漏れることを憂慮し、臨賀公主を通じて仄めかした。後に帝は天興が隊主を務めていることを知り、宦官の奚承祖を遣わして劉劭を詰問させた。「臨賀公主の南第に以前、一人の下人がいて嫁がせようとしていたと聞く。また、この下人が他人の奴を養子にしたとも聞く。そして汝は彼を隊主に用いている。抜擢は何と速いことか。汝が間で用いる主、副は、皆、奴なのか?嫁がせるのはどこに置くつもりか?」劉劭は答えた。「南第は以前、天興に属しており、駆使に連れて行ってほしいと求めてきました。臣は答えました。『兵士はどうして得られようか。もし賊を撃つことができるなら、隊に入れることができる。』当時は冗談を言っただけで、全く覚えていません。後に天興が道で言葉を通じて地位を乞い、過去の言動を思い起こし、約束を破るに忍びず、呼び出して見るとその容貌はたくましく、駆使に堪えると見て、軽率にも監礼兼隊副に任じました。近頃、人を用いるには労績のある旧人を取るが、気力・幹略のある者も参酌して用いています。謹んで人名を条牒に記して上呈いたします。下人を嫁がせようとする者は、まだ行き先が決まっていません。」当時、鸚鵡は既に懐遠に嫁いでいた。劉劭は恐れ、急ぎ書状を劉濬に告げ、併せて臨賀公主にも報せた。「帝が嫁ぎ先を問うならば、まだ定まった所はないと言うように。」劉濬は返書で答えた。「命令を拝受し、深く惶怖いたします。この件を啓上してから多日を経て、今になって問われたのは、きっと何か感じて発した者がいるのでしょう。その根源は測れません。考えますに、臨賀公主は故に言葉を翻覆すべきではなく、自ら寒熱(疑念)を生じさせることはないでしょう。この老婆(鸚鵡)はもともから両端を抱え、単独で保証することは難しく、正に自ら臨賀公主に問い、審実を得ることを望みます。もし問われたら、当に依違した返答をすべきです。天興は先に佞人(江夏王義恭)の府の位に署名しましたが、監上(記録係?)にこの簿領がないかは分かりません。急いで封じておくべきです。殿下は既に王(鸚鵡)にお会いになりましたか?このように厳しく自ら躬(道育)に上啓して聞かせるよう命じるべきです。あの人(帝)がもしやめないなら、正にその余命を縮めることを促すか、あるいは大慶(吉事)の兆しとなるかもしれません。」凡そ劉劭と劉濬が交わした書簡はこのような類いであり、言う所は皆、名号を用い、帝を「彼人」または「其人」と呼び、太尉たいいの江夏王劉義恭を「佞人」と呼び、東陽公主の邸宅が西掖門の外にあったので「南第」と言い、王は鸚鵡の姓であり、躬が上啓して聞かせるとは、道育に天に上って天神に白状させることを命じるのである。

原文初,東陽主有奴陳天興,鸚鵡養以為子,而與之淫通。鸚鵡、天興及寧州所獻黃門慶國並預巫蠱事。劭以天興補隊主。東陽主薨,鸚鵡應出嫁,劭慮言語難密,與濬謀之。時吳興沈懷遠為濬府佐,見待異常,乃嫁鸚鵡與懷遠為妾,不以啟上,慮後事泄,因臨賀公主微言之。上後知天興領隊,遣閹人奚承祖詰讓劭曰:「臨賀公主南第先有一下人欲嫁,又聞此下人養他人奴為兒,而汝用為隊主,抽拔何乃速。汝間用主、副,並是奴邪?欲嫁置何處?」劭答曰:「南第昔屬天興,求將驅使,臣答曰:『伍那可得,若能擊賊者,可入隊。』當時蓋戲言耳,都不復憶。後天興道上通辭乞位,追存往為者,不忍食言,呼視見其形容粗健,堪充驅使,脫爾使監禮兼隊副。比用人雖取勞舊,亦參用有氣幹者。謹條牒人名上呈。下人欲嫁者,猶未有處。」時鸚鵡已嫁懷遠矣。劭懼,馳書告濬,并使報臨賀主:「上若問嫁處,當言未有定所。」濬答書曰:「奉令,伏深惶怖,啟此事多日,今始來問,當是有感發之者,未測源由耳。計臨賀故當不應翻覆言語,自生寒熱也。此姥由來挾兩端,難可孤保,正爾自問臨賀,冀得審實也。其若見問,當作依違答之。天興先署佞人府位,不審監上當無此簿領耳。急宜犍之。殿下已見王未?宜依此具令嚴自躬上啟聞。彼人若為不已,正可促其餘命,或是大慶之漸。」凡劭、濬相與書疏類如此,所言皆為名號,謂上為「彼人」,或以為「其人」,以太尉江夏王義恭為「佞人」,東陽主第在西掖門外,故云「南第」,王即鸚鵡姓,躬上啟聞者,令道育上天白天神也。

鸚鵡が既に懐遠に嫁いだ後、天興との私通が露見することを憂慮し、劉劭に彼を殺すよう請うた。劉劭は密かに人を遣わして天興を害した。慶国は、宣伝(伝達)の往来は二人だけであり、天興が既に死んだ以上、自分も及ぶことを憂慮し、そこで詳しくその事を帝に白状した。帝は驚き嘆き、すぐに鸚鵡を捕らえさせ、その家を封じて籍没し、劉劭と劉濬の書簡数百枚を得た。皆、呪詛と巫蠱の言葉であり、宮中で埋められた帝の形像を発見した。道育は逃亡し、討捕しても得られなかった。帝は大いに怒り、その事を窮めて取り調べ、中使を分遣して東の諸郡に捜索させたが、遂に捕らえられなかった。帝は劉劭と劉濬を詰問責めた。劉劭と劉濬は惶恐して言葉がなく、ただ陳謝するのみであった。道育は服装を変えて尼となり、東宮に逃げ隠れた。劉濬が京口へ行く時、また車に載せて自ら従え、ある時は民の張旿の家に出て止宿した。

原文鸚鵡既適懷遠,慮與天興私通事泄,請劭殺之。劭密使人害天興。慶國謂宣傳往來,唯有二人,天興既死,慮將見及,乃具以其事白上。上驚惋,即遣收鸚鵡,封籍其家,得劭、濬書數百紙,皆呪詛巫蠱之言,得所埋上形像於宮內。道育叛亡,討捕不得,上大怒,窮治其事,分遣中使入東諸郡搜討,遂不獲。上詰責劭、濬,劭、濬惶懼無辭,唯陳謝而已。道育變服為尼,逃匿東宮,濬往京口,又載以自隨,或出止民張旿家。

江夏王の劉義恭が旴眙から朝廷に戻ると、帝は巫蠱のことを彼に告げて言った。「常に典籍にこのようなことがあるのを見て、書伝の空言だと思っていたが、思いがけず親しく目にすることになった。劉劭の行いは道を失っているが、必ずしもすぐに社稷を滅ぼすとは限らない。彼が南面(皇帝)の日には、もはや我々や汝の関わることではない。汝には息子が多いが、将来このような不幸に遇うであろう。」

原文江夏王義恭自旴眙還朝,上以巫蠱告之,曰:「常見典籍有此,謂之書傳空言,不意遂所親覩。劭雖所行失道,未必便亡社稷,南面之日,非復我及汝事。汝兒子多,將來遇此不幸爾。」

先だって二十八年、彗星すいせいが畢宿と昴宿から起こり、太微垣に入り、帝座と端門を掃き、翼宿と軫宿で消えた。二十九年、熒惑(火星)が逆行して氐宿を守り、十一月から霖雨が続き雪が降り、太陽がめったに輝かなかった。三十年正月、大風が吹き、霰が飛び、かつ雷が鳴った。帝は陰謀の発動を憂慮し、しばしば劉劭の兵衆を増やし、東宮の実甲(武装兵)は一万人に及んだ。帝が車駕で出行する時、劉劭が入って守り、白直隊の将に自ら従わせた。

原文先是二十八年,彗星起畢、昂,入太微,掃帝座端門,滅翼、軫。二十九年,熒惑逆行守氐,自十一月霖雨連雪,太陽罕曜。三十年正月,大風飛霰且雷。上憂有竊發,輒加劭兵眾,東宮實甲萬人。車駕出行,劭入守,使將白直隊自隨。

その年の二月、劉濬が京口から入朝し、江陵を鎮守すべき時、また道育を車に載せて東宮に戻し、西上に連れて行こうとした。帝に告げる者があった。「京口の民、張旿の家に一人の尼がおり、服食し、征北将軍(劉濬)の内室に出入りし、厳道育のようです。」帝は初め信じず、試みに捕らえさせて記録させると、その二人の婢を得て、言った。「道育は征北将軍に従って都に戻りました。」帝は劉劭と劉濬が既に道育を斥け遣わしたと思っていたが、なおも彼女と往来していると知り、失望し嘆き驚いた。そこで京口に命じて船で道育の二人の婢を送らせ、到着したら検査対照し、劉劭を廃し、劉濬に死を賜ろうとし、このことを劉濬の母の潘淑妃に語った。淑妃は詳しく劉濬に告げた。劉濬は急報で劉劭に報せた。劉劭はこれによって異謀を抱き、毎夜、将士に饗応し、ある時は自ら酒を行き渡らせ、腹心の隊主である陳叔兒、詹叔兒、齋帥の張超之、任建之と密かに謀った。

原文其年二月,濬自京口入朝,當鎮江陵,復載道育還東宮,欲將西上。有告上云:「京口民張旿家有一尼,服食,出入征北內,似是嚴道育。」上初不信,試使掩錄,得其二婢,云:「道育隨征北還都。」上謂劭、濬已當斥遣道育,而猶與往來,惆悵惋駭。乃使京口以船送道育二婢,須至檢覈,廢劭,賜濬死,以語濬母潘淑妃,淑妃具以告濬。濬馳報劭,劭因是異謀,每夜輒饗將士,或親自行酒,密與腹心隊主陳叔兒、詹叔兒、齋帥張超之、任建之謀之。

道育の婢が到着しようとしていたその月の二十一日の夜、偽りの詔勅をでっち上げて言った。「魯秀が謀反を企てている。お前は明け方に宮門を守り、兵を率いて入城せよ。」そこで張超之らに命じて、平素から養っていた兵士二千余人を集めさせ、全員に鎧を着させ、内外の幢隊の主将・副将を召集し、事前に部署を整えさせ、何かを討伐するのだと言った。前もって前中庶子・右軍長史の蕭斌を呼び寄せ、夜に蕭斌と左衛率の袁淑、中舎人の殷仲素、左積弩将軍の王正見を呼び出し、共に宮中に入り、大事を告げた。自ら立ち上がって蕭斌らに拝礼し、涙を流した。一同は皆驚愕した。詳細は袁淑伝にある。翌朝、太鼓が鳴る前に、劉劭は朱色の礼服の上に軍服を着て、画輪車に乗り、蕭斌と同乗した。護衛や従者は普段の入朝の儀式の通りで、宮門が開くと、万春門から入った。旧制では、東宮の部隊は城内に入ることができなかったが、劉劭は門の衛兵に「詔勅を受けて、捕縛討伐を行うのだ」と言い、後続の部隊に速やかに来るよう命じた。張超之ら数十人が雲龍門・東中華門および斎閣に駆け込み、刀を抜いてまっすぐ合殿に上がった。その夜、上(文帝)は尚書僕射しょうしょぼくやの徐湛之と人払いをして語り合い、夜明けになってもまだ燭が消えていなかった。当直の衛兵はまだ寝ていた。張超之が手ずから弑しい逆を行い、徐湛之も殺した。劉劭が合殿の中閤まで進むと、太祖(文帝)は既に崩御していた。劉劭は出て東堂に座り、蕭斌が刀を持って侍直した。中書舎人の顧嘏を呼んだが、顧嘏は震え恐れてすぐに出て来なかった。到着すると、劉劭は問いただした。「共に廃されようとしているのに、なぜ早く啓上しなかったのか。」答える間もなく、その場で斬り殺した。人を崇礼闥に遣わして吏部尚書の江湛を殺させた。太祖の左細杖主の卜天与が東堂で劉劭を攻撃したが、殺された。また人を東閤から入らせて潘淑妃を殺させ、さらに太祖の親信の側近数十人を殺した。急いで始興王劉濬を呼び寄せ、兵を率いて中堂に駐屯させた。また太尉の江夏王劉義恭、尚書令の何尚之を呼び寄せた。

原文道育婢將至,其月二十一日夜,詐上詔云:「魯秀謀反,汝可平明守闕,率眾入。」因使超之等集素所畜養兵士二千餘人,皆使被甲,召內外幢隊主副,豫加部勒,云有所討。宿召前中庶子、右軍長史蕭斌,夜呼斌及左衞率袁淑、中舍人殷仲素、左積弩將軍王正見,並入宮,告以大事,自起拜斌等,因流涕,眾並驚愕,語在淑傳。明旦未開鼓,劭以朱服加戎服上,乘畫輪車,與蕭斌同載,衞從如常入朝之儀,守門開,從萬春門入。舊制,東宮隊不得入城,劭與門衞云:「受敕,有所收討。」令後隊速來,張超之等數十人馳入雲龍、東中華門及齋閤,拔刃徑上合殿。上其夜與尚書僕射徐湛之屏人語,至旦燭猶未滅,直衞兵尚寢。超之手行弒逆,并殺湛之。劭進至合殿中閤,太祖已崩,出坐東堂,蕭斌執刀侍直。呼中書舍人顧嘏,嘏震懼不時出,既至,問曰:「欲共見廢,何不蚤啟。」未及答,即於前斬之。遣人於崇禮闥殺吏部尚書江湛。太祖左細杖主卜天與攻劭於東堂,見殺。又使人從東閤入殺潘淑妃,又殺太祖親信左右數十人。急召始興王濬,率眾屯中堂。又召太尉江夏王義恭、尚書令何尚之。

劉劭はすぐに偽りの帝位に即き、詔書を発して言った。「徐湛之、江湛は弑逆の罪を犯し、その有様は言語道断である。朕が兵を率いて殿中に入った時は、すでに手遅れで、号泣し慟哭して、肝心が破裂する思いであった。今、罪人は捕らえられ、元凶は滅ぼされた。よって天下に大赦を行う。元嘉三十年を太初元年と改元する。文武の官は皆位二等を賜り、諸科の処遇はすべて丁卯の年の例に従う。」初め蕭斌に詔書を作らせようとしたが、蕭斌は文才がないと辞退したので、侍中じちゅうの王僧綽に作らせた。太初への改元は、劉劭が以前から道育と決めていたことである。蕭斌が言った。「旧制では、年を越えてから改元するものです。」劉劭が王僧綽に問うと、王僧綽は言った。「晋の恵帝は即位するとすぐに年号を改めました。」劉劭は喜んでこれに従った。百官で参朝した者はわずか数十人だったが、劉劭は急いで即位した。即位が終わると、病気を称して永福省に引き込み、その後、大行皇帝(文帝)の御遺体を太極前殿に移した。この日、蕭斌を散騎常侍さんきじょうじ・尚書僕射・領軍将軍とし、何尚之を司空とし、前右衛率の檀和之を石頭に駐屯させ、侍中の営道侯劉義綦を征虜将軍・晋陵・南下邳二郡太守たいしゅとし、京城を鎮守させ、尚書の殷沖を侍中・中護軍とした。大行皇帝の大殮の際、劉劭は病気を理由に出席しようとしなかった。先に諸王や各所に配布していた武器をすべて武庫に回収した。徐湛之、江湛の親族・与党である新任の始興内史荀赤松、新任の尚書左丞臧凝之、山陰県令傅僧祐、呉県令江徽、前征北行参軍諸葛詡、右衛司馬江文綱を殺した。殷仲素を黄門侍郎とし、王正見を左軍将軍とし、張超之およびその他の謀反に加わった聞人文子、徐興祖、詹叔児、陳叔児、任建之らを、いずれも将校以下龍驤将軍に郡守を兼務させ、それぞれに銭二十万を賜った。魯秀に使いを遣わして言った。「徐湛之は常にお前を危険にさらそうとしていたが、朕がお前のために除いてやった。」魯秀と屯騎校尉の龐秀之に軍隊を対等に掌握させた。侍中の王僧綽を吏部尚書とし、司徒しと左長史の何偃を侍中とした。喪服を着る日、劉劭は殿に登って御霊の前に臨み、慟哭して自らを制することができなかった。広く公卿に意見を求め、政治の道を尋ね求め、税を軽くし、徭役ようえきを減らし、遊興の費用を削減した。田園・苑囿・山林・沢地で、緩和できるものは貧民に貸し与えた。

原文劭即偽位,為書曰:「徐湛之、江湛弒逆無狀,吾勒兵入殿,已無所及,號惋崩衄,肝心破裂。今罪人斯得,元凶克殄,可大赦天下。改元嘉三十年為太初元年。文武並賜位二等,諸科一依丁卯。」初使蕭斌作詔,斌辭以不文,乃使侍中王僧綽為之。使改元為太初,劭素與道育所定。斌曰:「舊踰年改元。」劭以問僧綽,僧綽曰:「晉惠帝即位,便改號。」劭喜而從之。百僚至者裁數十人,劭便遽即位。即位畢,稱疾還入永福省,然後遷大行皇帝升太極前殿。是日,以蕭斌為散騎常侍、尚書僕射、領軍將軍,何尚之為司空,前右衞率檀和之戍石頭,侍中營道侯義綦為征虜將軍、晉陵南下邳二郡太守,鎮京城,尚書殷沖為侍中、中護軍。大行皇帝大斂,劭辭疾不敢出。先給諸王及諸處兵仗,悉收還武庫。殺徐湛之、江湛親黨新除始興內史荀赤松、新除尚書左丞臧凝之、山陰令傅僧祐、吳令江徽、前征北行參軍諸葛詡、右衞司馬江文綱。以殷仲素為黃門侍郎,王正見為左軍將軍,張超之及諸同逆聞人文子、徐興祖、詹叔兒、陳叔兒、任建之等,並將校以下龍驤將軍帶郡,各賜錢二十萬。遣人謂魯秀曰:「徐湛之常欲相危,我已為卿除之矣。」使秀與屯騎校尉龐秀之對掌軍隊。以侍中王僧綽為吏部尚書,司徒左長史何偃為侍中。成服日,劭登殿臨靈,號慟不自持。博訪公卿,詢求治道,薄賦輕繇,損諸遊費。田苑山澤,有可弛者,假與貧民。

三月、大使を派遣して四方を巡行させ、浙以東の五郡を分割して会州とし、揚州を廃止して司隷校尉を設置し、殷沖をこれに補任した。大将軍の江夏王劉義恭を太保とし、司徒の南譙王劉義宣を太尉とし、衛将軍・荊州刺史ししの始興王劉濬の号を驃騎ひょうき将軍に進めた。王僧綽は以前から廃立(文帝廃位)に加わっていたため、誅殺された。長沙王劉瑾、劉瑾の弟の劉楷、臨川王劉燁、桂陽侯劉覬、新渝侯劉玠は、いずれも以前からの恨みのために獄に下されて死んだ。礼官は劉劭の意向に迎合し、太祖(文帝)の諡号を完全な美称にせず、上諡して中宗景皇帝とした。雍州刺史の臧質を丹陽尹とし、世祖(孝武帝劉駿)の号を征南将軍に進め、散騎常侍を加え、撫軍将軍の南平王劉鑠を中軍将軍とし、会稽太守の随王劉誕を会州刺史とした。江夏王劉義恭は太保として大宗師を兼任し、諮問・稟議の規定は、晋の扶風王の故事に従った。

原文三月,遣大使分行四方,分浙以東五郡為會州,省揚州立司隸校尉,以殷沖補之。以大將軍江夏王義恭為太保,司徒南譙王義宣為太尉,衞將軍、荊州刺史始興王濬進號驃騎將軍。王僧綽以先預廢立,見誅。長沙王瑾、瑾弟楷、臨川王燁、桂陽侯覬、新渝侯玠,並以宿恨下獄死。禮官希旨,諡太祖不敢盡美稱,上諡曰中宗景皇帝。以雍州刺史臧質為丹陽尹,進世祖號征南將軍,加散騎常侍,撫軍將軍南平王鑠中軍將軍,會稽太守隨王誕會州刺史。江夏王義恭以太保領大宗師,諮稟之科,依晉扶風王故事。

世祖(孝武帝)および南譙王劉義宣、随王劉誕ら各方鎮がこぞって義兵を挙げた。劉劭は義軍が大挙して起こったと聞き、諸王と大臣をすべて城内に集め、江夏王劉義恭を尚書下舎に移し住まわせ、劉義恭の諸子を侍中下省に住まわせた。永初元年以前より、相国府に入斎・伝教・給使として仕えていた者は、軍戸を免じ、南彭城薛県に属させた。劉劭は詔書を下し、長江中流域で兵が起こったため、自ら六軍を率いて江辺の情勢を見に行くとして、下番していた将吏をすべて召集した。三呉の太守に軍号を加え、属官を置いて兵を率いさせた。四月、妻の殷氏を皇后に立てた。

原文世祖及南譙王義宣、隨王誕諸方鎮並舉義兵。劭聞義師大起,悉聚諸王及大臣於城禸,移江夏王義恭住尚書下舍,義恭諸子住侍中下省。自永初元年以前,相國府入齋、傳教、給使,免軍戶,屬南彭城薛縣。劭下書,以中流起兵,當親率六師,觀變江介,悉召下番將吏。加三吳太守軍號,置佐領兵。四月,立妻殷氏為皇后。

世祖(孝武帝)が京邑に檄文を飛ばして言った。

原文世祖檄京邑曰:

世の運は常に隆盛ではなく、時代ごとに非常に大きな禍いがある。上代以来、あるいは多くの困難によって福が成り、あるいは昏虐を踏み台として乱の兆しとなったが、いずれも君臣の義が合致し、理に背き恩が離れたことによる。だから堅氷の兆しは、しばしば末世に現れる。道をもって世を治め、教化が明らかで厚く、なおかつ梟鏡(不孝の鳥獣)が反噬するような、天属(肉親)に対して難事が起こることはなかった。先帝は聖徳をもって在位し、功績は天下に及び、明らかに万国を照らし、道は至るところに行き渡り、風の及ぶところ、辺境の地でも識見が変わり、仁の動かすところ、木石さえも心を開いた。しかし賊劉劭は嫡長子の地位を頼みにし、早くから寵愛を受け育てられ、東宮の正位にあり、君主と后妃を超える礼遇を受けていたが、凶暴で傲慢な性情は幼少の頃から発現し、猜疑心が強く残忍な心は成人するにつれて固まった。賊劉濬は陰険でせっかちで品行が悪く、幼少から成長するまで互いに頼り合い、共に奸悪をほしいままにした。先帝のご意志は、王室が不幸で、家難が次々と起こるため、彼らを包み隠し、その罪を明らかにせず、訓戒し導き告げて、改心することを望んでいた。どうして狂った悪人が悔い改めず、悪人同士が助け合い、まず巫蠱の乱を起こし、ついに弑逆を行ったことに気づけようか。聖なる御身は荼毒の痛みに遭い、社稷には断ち落とされる哀しみがあり、四海は心が崩れ、人神は血の涙を流す。生民が起こって以来、このような禍いは聞いたことがない。崩御の報せに驚き号泣し、肝脳を地に塗れさせ、煩悶と憤りで胸が塞がり、身を容れるところがない。大将軍、諸王は幽閉され窮省に閉じ込められ、生死も分からない。徐僕射(徐湛之)、江尚書(江湛)、袁左率(袁淑)は、いずれも当代の優れた人物で、一時の忠貞の士であり、あるいは朝廷で厳正な態度を取り、あるいは逆謀を聞いて従わず、ともに階闥で横たわり斬られ、首を都市に晒された。宗族・与党が滅ぼされたのは、ただ一姓だけでなく、禍毒が流れ広がり、その極みを知ることができない。

原文夫運不常隆,代有莫大之釁。爰自上葉,或因多難以成福,或階昏虐以兆亂,咸由君臣義合,理悖恩離,故堅冰之遘,每鍾澆末,未有以道御世,教化明厚,而當梟鏡反噬,難發天屬者也。先帝聖德在位,功格區宇,明照萬國,道洽無垠,風之所被,荒隅變識,仁之所動,木石開心。而賊劭乘藉冢嫡,夙蒙寵樹,正位東朝,禮絕君后,凶慢之情,發於齠齓,猜忍之心,成於幾立。賊濬險躁無行,自幼而長,交相倚附,共逞姦回。先旨以王室不造,家難亟結,故含蔽容隱,不彰其釁,訓誘啟告,冀能革音。何悟狂慝不悛,同惡相濟,肇亂巫蠱,終行弒逆,聖躬離荼毒之痛,社稷有翦墜之哀,四海崩心,人神泣血,生民以來,未聞斯禍。奉諱驚號,肝腦塗地,煩寃腷臆,容身無所。大將軍、諸王幽閉窮省,存亡未測。徐僕射、江尚書、袁左率,皆當世標秀,一時忠貞,或正色立朝,或聞逆弗順,並橫分階闥,懸首都市。宗黨夷滅,豈伊一姓,禍毒所流,未知其極。

昔、周の道が困難を告げた時、斉や晋が王事に勤しんだ。漢の暦が中だるみした時、虚や牟が節義を立てた。異姓の末裔でさえ、なお命を捨てることがあった。ましてや幕府の職務は昔の人と同じであり、君臣の義を兼ねている。それゆえに戈を枕にし胆を嘗め、かろうじて息をつなぎ、元凶を梟首し、少しでも仇恥を雪ごうと志してきた。今、冠軍かんぐん将軍で諮議中直兵を兼ねる柳元景、寧朔将軍で中直兵を兼ねる馬文恭らに、精鋭の兵三万を統率させ、風のように疾走して石頭に直行し、白下に分かれて向かわせる。輔国将軍で諮議中直兵を兼ねる宗慤らには、甲冑と盾の兵二万を率いさせ、征虜将軍で司馬武昌内史を兼ねる沈慶之らには、壮勇の兵五万を率いさせ、相次いで進路につかせる。別働隊を統率する者は、あるいは船を焼き釜を破り、姑孰こじゅくから徒歩で進み、あるいは蕪湖から迅速に船を進め、雲陽を占拠する。これらすべての将帥は、みな英明果断で権謀奇略に富み、智略は深く豊かであり、名声は中原に響き渡り、勲功は遠方の国境にまで及んでいる。幕府自らが精悍な兵十余万を指揮し、律を授け戈を枕にし、続々と前進する。司徒は叡智深遠な謀略を以て、赫然と奮起し、八州の兵を徴発し、電光のように荊郢から起こる。冠軍将軍臧質は忠烈を協同して挙げ、漢陰に雷動する。冠軍将軍朱脩之は誠実な節操を明らかにし、全力を尽くして奮闘を請う。荊州・雍州の百万の兵は、次第に近い道に集結し、蜀・漢の兵卒は、すでに国境を出て続いている。また安東将軍劉誕、平西将軍劉遵考りゅうじゅんこう、前撫軍将軍蕭思話、征虜将軍魯爽、前寧朔将軍王玄謨らは、いずれも密かに連絡が届き、期を同じくして契り、三呉に檄を飛ばし、軍を京邑に駆けつけ、遠近ともに発兵し、旗を揚げて万里に及ぶ。楼艦が川を躍れば滄江の霧は咽び、鋭い甲兵が野に赴けば林や草むらは根こそぎにされる。謀臣智士、雄夫毅卒は、志を蓄えて時を待ち、憤りを抱いて用いられるのを待っている。先代の聖なる恩沢は、民心に結びついており、逆順の大勢は、天理が暗黙のうちに発動する。父のない国は、天下に存在しない。羽檄が既に飛ばされれば、華夷が呼応し合う。この衆をもって戦えば、誰が抗禦できようか。この義をもって動けば、どこへ行って捷たざることがあろうか。況や逆賊の醜類は親しむ者がなく、人も鬼も背を向けている。その同悪の者を数えても、一旅に満たず、極めて多くの小人を崇め、これと結託している。哲人君子は、必ずやこれを積み重ねて忌み嫌う。海を傾けて蛍に注ぎ、山を崩して卵を圧するような勢いであり、商や周の勢いなど、どうして足りようか。

原文昔周道告難,齊、晉勤王,漢曆中圮,虛、牟立節,異姓末屬,猶或亡軀,況幕府職同昔人,義兼臣子,所以枕戈嘗膽,苟全視息,志梟元凶,少雪仇恥。今命冠軍將軍領諮議中直兵柳元景、寧朔將軍領中直兵馬文恭等,統勁卒三萬,風馳徑造石頭,分趨白下。輔國將軍領諮議中直兵宗慤等,勒甲楯二萬,征虜將軍領司馬武昌內史沈慶之等,領壯勇五萬,相尋就路。支軍別統,或焚舟破釜,步自姑孰,或迅檝蕪湖,入據雲陽。凡此諸帥,皆英果權奇,智略深贍,名震中土,勳暢遐疆。幕府親董精悍一十餘萬,授律枕戈,駱驛繼邁。司徒叡哲淵謨,赫然震發,徵甲八州,電起荊郢。冠軍將軍臧質忠烈協舉,雷動漢陰。冠軍將軍朱脩之誠節亮款,悉力請奮。荊、雍百萬,稍次近塗,蜀、漢之卒,續已出境。又安東將軍誕、平西將軍遵考、前撫軍將軍蕭思話、征虜將軍魯爽、前寧朔將軍王玄謨,並密信俱到,不契同期,傳檄三吳,馳軍京邑,遠近俱發,揚旍萬里。樓艦騰川,則滄江霧咽,銳甲赴野,則林薄摧根。謀臣智士,雄夫毅卒,畜志須時,懷憤待用。先聖靈澤,結在民心,逆順大數,冥發天理,無父之國,天下無之。羽檄既馳,華夷響會,以此眾戰,誰能抗禦,以此義動,何往不捷。況逆醜無親,人鬼所背,計其同惡,不盈一旅,崇極羣小,是與比周,哲人君子,必加積忌。傾海注螢,頹山壓卵,商、周之勢,曾何足云。

諸君は、あるいは代々の忠賢として、身に皇恩を浴び、あるいは勲功烈々たる肺腑の臣として、栄枯を共にしてきた。凶悪な勢力に拘束され、賊の手に俯いて眉をひそめ、憤りを飲み込み苦しみを抱えていることは、心に耐えがたい。大軍が近くに駐屯し、威勢の声が既に届いている。時宜に応じて変に乗じて功を立て、汚れた累を洗い雪ぐべきである。もし事が成就し得ないなら、逆に背き順に帰ることも、次善の策である。もし迷いを守って進み続け、一凶類に与党するならば、刑罰はこれに赦しがなく、五宗にまで及ぶ。賞罰の条項は、日月のように確かである。原野の火が一度燃え上がれば、異なる物も同じ灰となる。幸いに多福を求め、後悔を残さないように。書状が到着したら宣告し、皆に知らしめよ。

原文諸君或奕世貞賢,身□皇渥,或勳烈肺腑,休否攸同。拘逼凶勢,俛眉寇手,含憤茹慼,不可為心。大軍近次,威聲已接,便宜因變立功,洗雪滓累;若事有不獲,能背逆歸順,亦其次也;如有守迷遂往,黨一凶類,刑茲無赦,戮及五宗。賞罰之科,信如日月。原火一燎,異物同灰,幸求多福,無貽後悔。書到宣告,咸使聞知。

劉劭は自ら平素から武事に習熟していると思い込み、朝士たちに言った。「卿らはただ私が文書を処理するのを助ければよい。軍陣のことには気を配るな。もし賊難があれば、私自ら出陣する。ただ賊虜が動こうとしないのを恐れるだけだ。」司隸校尉殷沖が文書符節を総括し、左衞将軍尹弘が軍旅の装備を配分し、蕭斌が諸事を総括した。内外は戒厳した。世祖(劉駿)の子を侍中下省に、南譙王劉義宣の諸子を太倉の空き屋に監禁した。劉劭は劉濬に世祖への手紙を書かせた。「弟が突然狂ったような檄文を起こし、兵を阻んで反逆し噛みついたと聞き、縉紳は憤慨し、義士は激怒している。古来、上を陵ぎ内を侮る者は、誰が滅びなかったか。弟は典籍に通暁しているが、どうしてこのことを知らないことがあろうか。今、主上は天が与えた英知聖明で、霊武は広く発揮され、帝位に登って以来、威厳と恩沢を併せて宣べ、人は甘んじて死ぬ志を抱き、物は命を捨てる節を競っている。弟は眷顧を受けており、幼少の頃から顕著であり、東宮での歓びは、昨日のことのようだ。それなのに奸邪に惑わされ、この恩友を忘れるとは、この不義は、人も鬼も共に憎む。今、水軍・歩兵の諸軍は全て準備が整い、上(文帝)自ら六師を御し、太保(劉義恭)もまた鉞を乗じて統率に臨む。私と烏羊は、相次いで進路につく。雷霆や電光を緩やかにしたのは、なお弟が迷いから覚めて戻ることを望んだからだ。故にほのかに思いを示す。言葉は思いを尽くせない。主上の聖恩は、常に法師を厚くしており、今は殿内に住んでいる。弟が消息を知りたいと思っているだろうから、ここに及ぶ。」烏羊とは南平王劉鑠のこと。法師とは世祖の世子の小名である。

原文劭自謂素習武事,語朝士曰:「卿等但助我理文書,勿措意戎陳。若有寇難,吾當自出,唯恐賊虜不敢動爾。」司隸校尉殷沖掌綜文符,左衞將軍尹弘配衣軍旅,蕭斌總眾事。中外戒嚴。防守世祖子於侍中下省,南譙王義宣諸子於太倉空屋。劭使濬與世祖書曰:「聞弟忽起狂檄,阻兵反噬,縉紳憤歎,義夫激怒。古來陵上內侮,誰不夷滅,弟洞覽墳籍,豈不斯具。今主上天縱英聖,靈武宏發,自登宸極,威澤兼宣,人懷甘死之志,物競舍生之節。弟蒙眷遇,著自少長,東宮之歡,其來如昨,而信惑姦邪,忘茲恩友,此之不義,人鬼同疾。今水步諸軍悉已備辦,上親御六師,太保又乘鉞臨統,吾與烏羊,相尋即道。所以淹霆緩電者,猶冀弟迷而知返耳。故略示懷,言不盡意。主上聖恩,每厚法師,今在殿內住,想弟欲知消息,故及。」烏羊者,南平王鑠;法師,世祖世子小名也。

劉劭は三鎮(江州、荊州、雍州)の士庶の家族を殺そうとした。江夏王劉義恭と何尚之が説得した。「およそ大事を挙げる者は、家族を顧みない。しかも多くは駆り立てられ強制された者である。今、突然その残りの累を誅すれば、かえって彼らの意志を堅固にするだけだ。」劉劭はその意見を正しいと思い、詔書を下して一切問わないことにした。褚湛之を石頭に守備させ、劉思考を東府に鎮守させた。劉濬と蕭斌は劉劭に水軍を率いて自ら出陣して決戦するよう勧めた。もしそうでなければ、梁山を守り拠点とすべきだと。江夏王劉義恭は義兵が倉卒で、船が粗末で小さいことを慮り、水戦には適さないと考えた。そこで進言して策を述べた。「賊の劉駿は若年で軍旅に習熟せず、遠来して疲弊している。逸をもってこれを待つべきである。今、遠く梁山に出れば、京都は空虚で弱体化し、東軍が虚に乗じて、おそらく禍患となり得る。もし力を分けて両方に赴けば、兵は散り勢いは離れる。鋭気を養って時期を待ち、座して隙を観るに如くはない。」劉劭はその意見を良しとした。蕭斌は厳しい表情で言った。「南中郎(劉駿)は二十歳の若者で、よくこのような大事を成し遂げることができた。どうして再び推し量ることができようか。三方(江州、荊州、雍州)が同悪で、勢い上流を占め、沈慶之は軍事に甚だ練達し、柳元景、宗慤は屡々功を立てている。形勢はこのようであり、実に小さな敵ではない。ただ人心が離れていないうちに、まだ力を決して一戦するべきである。端坐して臺城にいれば、どうして長く持ちこたえられようか。主君も宰相も皆戦意がない。これは天のなすところだ。」劉劭は聞き入れなかった。朝廷の旧臣が皆自分のために働かないのではないかと疑い、王羅漢と魯秀を厚く遇し、全ての軍事を委任し、珍玩や美女を多く賜って、その心を喜ばせようとした。羅漢は以前南平王劉鑠の右軍参軍であった。劉劭は彼に将才があると思い、故に心膂として委ねた。劉劭に石頭城を守るよう勧める者もいた。劉劭は言った。「昔の人が石頭を固守したのは、諸侯が王事に勤めるのを待つためだ。私がここを守れば、誰が救いに来るというのか。ただ力を尽くして戦い決するべきだ。そうでなければ勝てない。」毎日自ら出陣して行軍し、将士を慰労し、自ら都水を監督して船艦を整備し、南岸を焼き、百姓の家を全て追い立てて水の北に渡らせた。有司に命じて子の劉偉之を皇太子に立てるよう奏上させ、褚湛之を後将軍・丹陽尹とし、佐史を置かせ、驃騎将軍始興王劉濬を侍中・中書監・司徒・録尚書六条事とし、中軍将軍南平王劉鑠を使持節・都督ととく南兗兗青徐冀五州諸軍事・征北将軍・開府儀同三司・南兗州刺史とし、新たに左将軍・丹陽尹となった建平王劉宏を散騎常侍・鎮軍将軍・江州刺史とした。

原文劭欲殺三鎮士庶家口,江夏王義恭、何尚之說之曰:「凡舉大事者,不顧家口。且多是驅逼,今忽誅其餘累,正足堅彼意耳。」劭謂為然,乃下書一無所問。使褚湛之戍石頭,劉思考鎮東府。濬及蕭斌勸劭勒水軍自上決戰,若不爾,則保據梁山。江夏王義恭慮義兵倉卒,船舫陋小,不宜水戰。乃進策曰:「賊駿少年未習軍旅,遠來疲弊,宜以逸待之。今遠出梁山,則京都空弱,東軍乘虛,容能為患。若分力兩赴,則兵散勢離。不如養銳待期,坐而觀釁。」劭善其議,蕭斌厲色曰:「南中郎二十年少,業能建如此大事,豈復可量。三方同惡,勢據上流,沈慶之甚練軍事,柳元景、宗慤屢嘗立功。形勢如此,實非小敵。唯宜及人情未離,尚可決力一戰。端坐臺城,何由得久。主相咸無戰意,此自天也。」劭不納。疑朝廷舊臣悉不為己用,厚接王羅漢、魯秀,悉以兵事委之,多賜珍玩美色,以悅其意。羅漢先為南平王鑠右軍參軍,劭以其有將用,故以心膂委焉。或勸劭保石頭城者,劭曰:「昔人所以固石頭,俟諸侯勤王爾。我若守此,誰當見救。唯應力戰決之,不然不剋。」日日自出行軍,慰勞將士,親督都水治船艦,焚南岸,驅百姓家悉渡水北。使有司奏立子偉之為皇太子,以褚湛之為後將軍、丹陽尹,置佐史,驃騎將軍始興王濬為侍中、中書監、司徒、錄尚書六條事,中軍將軍南平王鑠為使持節、都督南兗兗青徐冀五州諸軍事、征北將軍、開府儀同三司、南兗州刺史,新除左將軍、丹陽尹建平王宏為散騎常侍、鎮軍將軍、江州刺史。

龐秀之が石頭から先立って衆を率いて南奔した。人心はこれによって大いに動揺した。征虜将軍営道侯劉義綦をそのままの号で湘州刺史とし、輔国将軍檀和之を西中郎将・雍州刺史とした。

原文龐秀之自石頭先眾南奔,人情由是大震。以征虜將軍營道侯義綦即本號為湘州刺史,輔國將軍檀和之為西中郎將、雍州刺史。

十九日、義軍が新林に到着すると、劉劭は石頭の烽火楼に登ってこれを眺めた。二十一日、義軍が新亭に到着した。この時、魯秀は白石に駐屯しており、劉劭は魯秀を召し出して王羅漢と共に朱雀門に駐屯させた。蕭斌が歩兵を統率し、褚湛之が水軍を統率した。二十二日、蕭斌に魯秀、王羅漢などの精兵一万を率いて新亭の陣営を攻撃させ、劉劭は朱雀門に登って自ら督戦した。将兵は劉劭の厚い褒賞を期待し、皆そのために力戦した。勝利目前であったが、魯秀が軍を収めて突然停止したため、柳元景らに攻撃の機会を与え、大敗した。劉劭はまた腹心の共犯者を率いて自ら陣営を攻撃したが、元景が再びこれを撃破し、劉劭は逃げて朱雀門に戻り、蕭斌は腕に流れ矢を受けた。褚湛之は二人の子を連れて檀和之と共に帰順した。劉劭は驚き恐れ、逃げて台城に戻った。その夜、魯秀はまた南へ逃亡した。この時、江夏王劉義恭は石頭を占拠しようと謀ったが、ちょうど劉劭が既に劉濬と蕭斌に守備させていた。劉劭はまた都の軍籍を焼き払い、郡県を設置して、全て司隷の管轄下に置いて民とした。前軍将軍、輔国将軍の王羅漢を左衛将軍とし、輔国将軍は元のままとし、左軍の王正見を太子左衛率とした。二十五日、義恭は単騎で南へ逃亡し、東掖門から出て、冶渚で淮水を渡った。東掖門の隊主の吳道興は臧質の門人であり、冶渚の軍主の原稚孫は世祖(劉駿)の旧臣であったため、義恭は難を逃れた。劉劭は騎兵を派遣して追討させたが、騎兵が冶渚に着いた時、義恭はようやく淮水を渡り終えていた。義恭の佐史や旧臣二千余人が従って南奔したが、多くは追兵に殺された。劉濬を派遣して義恭の諸子を殺させた。輦で蔣侯の神像を宮内に迎え入れ、額を地につけて恩を乞い、大司馬に拝し、鍾山郡王に封じ、食邑一万戸を与え、節鉞を加えた。蘇侯を驃騎将軍とした。南平王劉鑠に祝文を作らせ、世祖の罪状を述べさせた。

原文十九日,義軍至新林,劭登石頭烽火樓望之。二十一日,義軍至新亭。時魯秀屯白石,劭召秀與王羅漢共屯朱雀門。蕭斌統步軍,褚湛之統水軍。二十二日,使蕭斌率魯秀、王羅漢等精兵萬人攻新亭壘,劭登朱雀門躬自督率,將士懷劭重賞,皆為之力戰。將克,而秀斂軍遽止,為柳元景等所乘,故大敗。劭又率腹心同惡自來攻壘,元景復破之,劭走還朱雀門,蕭斌臂為流矢所中。褚湛之携二子與檀和之同共歸順。劭駭懼,走還臺城。其夜,魯秀又南奔。時江夏王義恭謀據石頭,會劭已令濬及蕭斌備守。劭並焚京都軍籍,置立郡縣,悉屬司隸為民。以前軍將軍、輔國將軍王羅漢為左衞將軍,輔國如故,左軍王正見為太子左衞率。二十五日,義恭單馬南奔,自東掖門出,於冶渚過淮。東掖門隊主吳道興是臧質門人,冶渚軍主原稚孫是世祖故史,義恭得免。劭遣騎追討,騎至冶渚,義恭始得渡淮。義恭佐史義故二千餘人,隨從南奔,多為追兵所殺。遣濬殺義恭諸子。以輦迎蔣侯神像於宮內,啟顙乞恩,拜為大司馬,封鍾山郡王,食邑萬戶,加節鉞。蘇侯為驃騎將軍。使南平王鑠為祝文,罪狀世祖。

劉濬に使持節、都督南徐会二州諸軍事、領太子太傅、南徐州刺史を加え、班剣二十人を与え、征北将軍、南兗州刺史の南平王劉鑠を驃騎将軍に進号させ、劉濬と共に尚書事を録させた。二十七日、臨軒で息子の劉偉之を太子に立て、百官は皆軍服を着たが、劉劭だけは袞衣を着た。詔書を下して天下に大赦を行い、ただ世祖、劉義恭、劉義宣、劉誕だけは赦免の対象外とし、その他の徒党は一切問わないとした。

原文加濬使持節、都督南徐會二州諸軍事、領太子太傅、南徐州刺史,給班劍二十人,征北將軍、南兗州刺史南平王鑠進號驃騎將軍,與濬並錄尚書事。二十七日,臨軒拜息偉之為太子,百官皆戎服,劭獨袞衣。下書大赦天下,唯世祖、劉義恭、義宣、誕不在原例,餘黨一無所問。

先に太保参軍の庾道、員外散騎侍郎の朱和之を派遣し、また殿中将军の燕欽を派遣して東から劉誕を防がせた。五月、世祖が派遣した参軍の顧彬之と劉誕の前軍が、共に曲阿に到着し、庾道と遭遇して戦い、これを大破した。劉劭は人を遣わして都水の西の装備と左尚方を焼き、柏崗の方山埭を決壊させて東の軍を遮断した。また、上守家の丁や巷に住む者を全て動員し、淮水沿いに舶船を並べて楼とし、多くの大弩を設置した。また、司隷治中で琅邪郡事を監る羊希に班瀆、白石などの水口に柵を設けて遮断させた。この時、男丁は既に尽きていたので、婦女を召集して労役に就かせた。

原文先遣太保參軍庾道、員外散騎侍郎朱和之,又遣殿中將軍燕欽東拒誕。五月,世祖所遣參軍顧彬之及誕前軍,並至曲阿,與道相遇,與戰,大破之。劭遣人焚燒都水西裝及左尚方,決破柏崗方山埭以絕東軍。又悉以上守家之丁巷居者,緣淮竪舶船為樓,多設大弩。又使司隸治中監琅邪郡事羊希柵斷班瀆、白石諸水口。于時男丁既盡,召婦女親役。

その月の三日、魯秀らは勇士五百人を募って大航を攻撃し、鉤で一艘の船を引き寄せた。王羅漢の副官の楊恃德は命じて船を復航させようとしたが、羅漢は酒に酔って芸を楽しんでおり、官軍が既に渡河したと聞くと、驚き恐れて武器を捨てて降伏した。渚沿いの幢隊は、次々と逃げ散り、武器や太鼓、傘蓋が街路に充満した。この夜、劉劭は六門を閉ざして守り、門内に堀を掘り柵を立て、露車を楼とし、城内は沸き返って混乱し、秩序は全くなくなった。丹陽尹の尹弘、前軍将軍の孟宗嗣以下、将吏らは皆、城を越えて逃亡した。劉劭は詹叔兒に輦や袞冕服を焼かせた。蕭斌は大航が守られていないと聞き、慌てふためいてどうすべきか分からず、配下の軍に命令して、皆に武装解除させ、石頭から息子の蕭約を遣わして宮廷に罪を請わせ、間もなく白幡を掲げて降伏して来たが、すぐに軍門で誅殺された。

原文其月三日,魯秀等募勇士五百人攻大航,鉤得一舶。王羅漢副楊恃德命使復航,羅漢昏酣作伎,聞官軍已渡,驚懼放仗歸降。緣渚幢隊,以次奔散,器仗鼓蓋,充塞街衢。是夜,劭閉守六門,於門內鑿塹立柵,以露車為樓,城內沸亂,無復綱紀。丹陽尹尹弘、前軍將軍孟宗嗣等下及將吏,並踰城出奔。劭使詹叔兒燒輦及袞冕服。蕭斌聞大航不守,惶窘不知所為,宣令所統,皆使解甲,自石頭遣息約詣闕請罪,尋戴白幡來降,即於軍門伏誅。

四日、太尉の江夏王劉義恭が朱雀門に登り、諸将を総指揮し、魯秀、薛安都せつあんと、程天祚らを派遣して直ちに宣陽門に向かわせた。劉劭の軍主の徐興祖、羅訓、虞丘要兒らが兵を率いて降伏して来た。劉劭は先に龍驤将軍の陳叔兒を派遣して東を討たせていたが、事態が急を告げたので召還した。この日、叔兒はようやく建陽門に入ったが、遥かに官軍を見ると、率いていた兵は皆武器を捨てて逃げた。劉劭の腹心の白直や共犯者らは先に閶闔門外に駐屯していたが、皆逃げて殿中に入った。天祚と安都の副官の譚金たんきんはこれに乗じて、すぐに共に入ることができた。安都と軍主の武念、宗越そうえつらが相次いで進軍し、臧質の大軍が広莫門から入り、共に太極殿前で合流し、すぐに太子左衛率の王正見を斬った。建平王、東海王など七王は皆号泣して共に出て行った。劉劭は西の垣根を破って武庫の井戸の中に入り、隊副の高禽がこれを捕らえた。劉濬は左右数十人を率いて、南平王劉鑠と共に西明門から出て、共に南へ逃亡した。越城で江夏王劉義恭に遭遇し、劉濬は馬から降りて言った。「南中郎(劉駿)は今何をなさっているのか。」義恭は言った。「天下に統治者がおらず、百官が固く請うたので、上(劉駿)は既に衆人の心に従い、万国を治めておられる。」劉濬はまた言った。「虎頭(劉濬の小字)が来るのは遅すぎないか。」義恭は言った。「非常に遅すぎることを残念に思う。」劉濬はまた言った。「それでもやはり死なずに済むだろうか。」義恭は言った。「行宮に行って罪を請うがよい。」劉濬はまた言った。「まだ一職を賜って自らの力を尽くすことができるかどうか分からない。」義恭はまた言った。「それは測りかねる。」義恭は劉濬を連行して共に帰ったが、道中で首を斬った。

原文四日,太尉江夏王義恭登朱雀門,總羣帥,遣魯秀、薛安都、程天祚等直趣宣陽門。劭軍主徐興祖、羅訓、虞丘要兒等率眾來降。劭先遣龍驤將軍陳叔兒東討,事急,召還。是日始入建陽門,遙見官軍,所領並棄仗走。劭腹心白直諸同逆先屯閶闔門外,並走還入殿。天祚與安都副譚金因而乘之,即得俱入。安都及軍主武念、宗越等相繼進,臧質大軍從廣莫門入,同會太極殿前,即斬太子左衞率王正見。建平、東海等七王並號哭俱出。劭穿西垣入武庫井中,隊副高禽執之。濬率左右數十人,與南平王鑠於西明門出,俱共南奔。於越城遇江夏王義恭,濬下馬曰:「南中郎今何所作?」義恭曰:「四海無統,百司固請,上已俯順羣心,君臨萬國。」又曰:「虎頭來得無晚乎?」義恭曰:「殊當恨晚。」又曰:「故當不死耶?」義恭曰:「可詣行闕請罪。」又曰:「未審猶能賜一職自効不?」義恭又曰:「此未可量。」勒與俱歸,於道斬首。

劉濬は字を休明といい、生まれる前夜、鵩鳥が屋根の上で鳴いた。元嘉十三年、八歳の時、始興王に封じられた。十六年、都督湘州諸軍事、後将軍、湘州刺史となった。そのまま使持節、都督南豫豫司雍并五州諸軍事、南豫州刺史に遷り、将軍は元のままとした。十七年、揚州刺史となり、将軍は元のままとし、佐官を置いて兵を領した。十九年、府を罷めた。二十一年、散騎常侍を加えられ、中軍将軍に進号した。

原文濬字休明,將產之夕,有鵩鳥鳴於屋上。元嘉十三年,年八歲,封始興王。十六年,都督湘州諸軍事、後將軍、湘州刺史。仍遷使持節、都督南豫豫司雍并五州諸軍事、南豫州刺史,將軍如故。十七年,為揚州刺史,將軍如故,置佐領兵。十九年,罷府。二十一年,加散騎常侍,進號中軍將軍。

翌年、劉濬は上言した。「私が統轄する呉興郡は、重なる山を襟帯とし、地には沼沢が多い。泉流が集まってくるが、疏導や決壊が遅れて滞り、時雨がまだ過ぎていないうちに、既に流没するほどになる。あるいは春の耕作を中断し、あるいは秋の始めに作物を水没させ、農家はただ苦しむだけで、防ぎ止める方法がない。あの地域は奥深く、土地は肥沃で民は豊かであり、一年豊作となれば、穀物は都にまであふれ、時に水害があれば、数郡が災害に見舞われる。近年以来、凶作が多く豊作が少なく、賑済や賜与は行き渡っているが、国の蓄えを使い果たし、公私の弊害は、まだ終わっていない。州民の姚嶠が以前に便宜を上申し、二呉、晋陵、義興の四郡は、共に太湖に注いでいるが、松江の滬瀆が詰まって流れが悪いため、至る所で水が溢れ出し、浸漬して災害となっている、と述べた。武康の紵溪から漕谷湖を開削し、直ちに海口に出る、百余里の水路を開けば、必ず滞りはないだろう、と。彼は自ら実地に赴いて測量し、二十年余りが経過した。去る十一年の大水の時、既に前刺史の臣(劉)義康の許へ赴きこの計画を陳述しようとし、すぐに主簿の盛曇泰を姚嶠に随行させて周回させたが、互いに疑念や難点が生じ、議論は遂に中止された。既に事は大きな利益に関わるので、詳しく研究し尽くすべきであり、議曹従事史の虞長孫を派遣して呉興太守の孔山士と共に実地踏査させ、地勢を観測し、高低を評価させた。その川の源流や経路は、全て踏査・検証し、地形の利便を図面に描き、詳細に計算・考察した。検討したところ、決して実行可能であると言える。考えてみれば四郡が共に患っているのであり、呉興だけではない。もしこの水路が開通すれば、諸国が恩恵を受ける。一時の労苦なくして、永遠の安泰はない。しかし、事業を創始することは大きく、始めを図るのは難しい。今はまず小さな運河を開削し、水流の勢いを試してみたい。すぐに烏程、武康、東遷の三県の近隣の民を差し向け、即時に工事に当たらせる。もしさらに拡大すべきであれば、改めて上申する。昔、鄭国の敵将(を退けた)史起は忠誠を尽くし、一度その説を開いて、万世の利益となった。姚嶠の提案は、たとえ草刈りの者の意見であっても、もし間違っていなければ、おそらく実行できるだろう。」これに従ったが、工事は結局完成しなかった。

原文明年,濬上言:「所統吳興郡,衿帶重山,地多汙澤,泉流歸集,疏決遲壅,時雨未過,已至漂沒。或方春輟耕,或開秋沈稼,田家徒苦,防遏無方。彼邦奧區,地沃民阜,一歲稱稔,則穰被京城,時或水潦,則數郡為災。頃年以來,儉多豐寡,雖賑賚周給,傾耗國儲,公私之弊,方在未已。州民姚嶠比通便宜,以為二吳、晉陵、義興四郡,同注太湖,而松江滬瀆壅噎不利,故處處涌溢,浸漬成災。欲從武康紵溪開漕谷湖,直出海口,一百餘里,穿渠浛必無閡滯。自去踐行量度,二十許載。去十一年大水,已詣前刺史臣義康欲陳此計,即遣主簿盛曇泰隨嶠周行,互生疑難,議遂寢息。既事關大利,宜加研盡,登遣議曹從事史虞長孫與吳興太守孔山士同共履行,准望地勢,格評高下,其川源由歷,莫不踐校,圖畫形便,詳加算考,如所較量,決謂可立。尋四郡同患,非獨吳興,若此浛獲通,列邦蒙益。不有暫勞,無由永晏。然興創事大,圖始當難。今欲且開小漕,觀試流勢,輒差烏程、武康、東遷三縣近民,即時營作。若宜更增廣,尋更列言。昔鄭國敵將,史起畢忠,一開其說,萬世為利。嶠之所建,雖則芻蕘,如或非妄,庶幾可立。」從之。功竟不立。

二十三年、鼓吹一部を賜う。二十六年、使持節・都督南徐兗二州諸軍事・征北將軍・開府儀同三司・南徐兗二州刺史として出向し、常侍の職はもとのまま。二十八年、劉濬に命じて軍勢を率いさせ瓜歩山に城を築かせ、南兗州を解任。三十年、都督荊雍益梁寧南北秦七州諸軍事・衞將軍・開府儀同三司・荊州刺史・領護南蠻校尉に転任し、持節・常侍の職はもとのまま。

原文二十三年,給鼓吹一部。二十六年,出為使持節、都督南徐兗二州諸軍事、征北將軍、開府儀同三司、南徐兗二州刺史,常侍如故。二十八年,遣濬率眾城瓜步山,解南兗州。三十年,徙都督荊雍益梁寧南北秦七州諸軍事、衞將軍、開府儀同三司、荊州刺史、領護南蠻校尉,持節、常侍如故。

劉濬は若い頃から文籍を好み、容姿端麗であった。母の潘淑妃は大いに寵愛されていた。当時、後宮には主となる者がおらず、潘氏が内政を一手に取り仕切っていた。劉濬は人材も優れ、母もまた深く愛されていたので、太祖(文帝)は大いに気にかけていた。建平王劉宏、侍中王僧綽、中書侍郎蔡興宗らがみな文義をもって交際した。初め、元皇后は嫉妬深い性格で、潘氏が寵愛されるのを見て、ついに恨みを抱いて崩御したので、劉劭は潘氏と劉濬を深く憎んだ。劉濬は将来禍を受けることを憂慮し、曲げて劉劭に仕え、劉劭も彼と親しくなった。過失が多く、たびたび上(文帝)から詰問・譴責され、憂い恐れて、劉劭とともに巫蠱を行った。京口に出鎮する時、揚州の文武官二千人を率いて随行することを許され、外藩で悠々自適とし、大いに得意であった。外にいた年が経ち、また南兗州を失ったので、再び朝廷に戻りたいと願うようになった。廬陵王劉紹が病気のため揚州を解任され、当時江夏王劉義恭は外鎮していたので、劉濬は州の任は自然と自分に帰するものと思ったが、上は南譙王劉義宣に授けたので、心中大いに快く思わなかった。そこで員外散騎侍郎徐爰を通じて江陵への出鎮を求め、また尚書僕射徐湛之に助力を求めた。しかし尚書令何尚之らはみな、劉濬は太子に次ぐ弟であるから、遠方に出るのはふさわしくないと言った。上は上流の地の重要性から、至親がいるべきと考え、劉濬に授けたのである。当時劉濬は入朝し、京に戻るよう命じられ、行き留まりの処分を受けた。京に着いて数日後に巫蠱の事が発覚した。時は二十九年七月であった。上は一日中嘆き、潘淑妃に言った。「太子が富貴を図るのは、また別の道理だ。虎頭(劉濬)までもがこのようでは、もはや考え及ぶところではない。汝ら母子は一日も私なしでいられようか。」劉濬の幼名は虎頭である。側近の朱法瑜を使者として密かに劉濬を責めさせ、その言葉は非常に哀切で、併せて書を賜って言った。「鸚鵡(厳道育)の件はお前も聞いただろう、お前もどうしてこれほどまでに惑わされるのか。それに沈懷遠は何者か、どうしてお前のためにこれを隠せようか。だから法瑜に口頭で伝えさせ、筆を投げて慨嘆する。」劉濬は恥じ恐れて、何と答えてよいかわからなかった。劉濬が京に戻ったのは、もともと一時的なつもりだったが、上は怒って帰ることを許さなかった。その年十二月、中書侍郎蔡興宗が建平王劉宏に尋ねた。「年の残りはいくらもないが、征北將軍(劉濬)はいつ頃着くだろうか。」劉宏はしばらく嘆息して言った。「年内にどうして戻れようか。」京では沈懷遠を長流參軍とし、毎晩ひそかに便門を開けて微行した。上はこれを聞き、彼の寵愛する者楊承先を殺した。翌年正月、荊州赴任の準備が進み、二月、劉濬は朝廷に戻った。十四日、臨軒で拝命を受けた。その日、厳道育を匿った事が発覚し、翌朝劉濬が入朝して謝罪すると、上の表情は尋常ではなかった。その夜、ただちに詰問が加えられ、劉濬はただ謝罪するのみであった。潘淑妃は劉濬を抱きしめ、涙を流して言った。「お前が呪詛の事を起こした時は、まだ自らを戒め過ちを悔い改めることを望んでいたのに、どうして突然厳道育を匿ったのか。上はお前を深く責め、私が頭を地に叩きつけて恩を乞うても、その心は決して解けなかった。今日生きていて何の役に立とう、薬を送ってくれ、私がまず自ら飲み尽くそう、お前が破滅するのを見るに忍びない。」劉濬は袖を振り払って立ち去り、言った。「天下の事はやがて自ら決着がつく、少しの間憂い苦しみを和らげてくれ、必ずや上(母)に累を及ぼすことはない。」

原文濬少好文籍,姿質端妍。母潘淑妃有盛寵。時六宮無主,潘專總內政。濬人才既美,母又至愛,太祖甚留心。建平王宏、侍中王僧綽、中書侍郎蔡興宗並以文義往復。初,元皇后性忌,以潘氏見幸,遂以恚恨致崩,故劭深疾潘氏及濬。濬慮將來受禍,乃曲意事劭,劭與之遂善。多有過失,屢為上所詰讓,憂懼,乃與劭共為巫蠱。及出鎮京口,聽將揚州文武二千人自隨,優遊外藩,甚為得意。在外經年,又失南兗,於是復願還朝。廬陵王紹以疾患解揚州,時江夏王義恭外鎮,濬謂州任自然歸己,而上以授南譙王義宣,意甚不悅。乃因員外散騎侍郎徐爰求鎮江陵,又求助於尚書僕射徐湛之。而尚書令何尚之等咸謂濬太子次弟,不宜遠出。上以上流之重,宜有至親,故以授濬。時濬入朝,遣還京,為行留處分。至京數日而巫蠱事發,時二十九年七月也。上惋歎彌日,謂潘淑妃曰:「太子圖富貴,更是一理。虎頭復如此,非復思慮所及。汝母子豈可一日無我耶。」濬小名虎頭。使左右朱法瑜密責讓濬,辭甚哀切,并賜書曰:「鸚鵡事想汝已聞,汝亦何至迷惑乃爾。且沈懷遠何人,其詎能為汝隱此耶?故使法瑜口宣,投筆惋慨。」濬慚懼,不知所答。濬還京,本暫去,上怒,不聽歸。其年十二月,中書侍郎蔡興宗問建平王宏曰:「歲無復幾,征北何當至?」宏歎息良久曰:「年內何必還。」在京以沈懷遠為長流參軍,每夕輒開便門為微行。上聞,殺其嬖人楊承先。明年正月,荊州事方行,二月,濬還朝。十四日,臨軒受拜。其日,藏嚴道育事發,明旦濬入謝,上容色非常。其夕,即加詰問,濬唯謝罪而已。潘淑妃抱持濬,泣涕謂曰:「汝始呪詛事發,猶冀刻己思愆,何意忽藏嚴道育耶。上責汝深,至我叩頭乞恩,意永不釋。今日用活何為,可送藥來,當先自取盡,不忍見汝禍敗。」濬奮衣而去,曰:「天下事尋自當判,願小寬憂煎,必不上累。」

劉劭が弑逆をした朝、劉濬は西州におり、府の舎人朱法瑜が駆けつけて劉濬に告げた。「台城内で叫び声がし、宮門はすべて閉ざされ、道上では太子が謀反したと伝えられています。禍変がどこまで及ぶか測りかねます。」劉濬は驚いたふりをして言った。「今どうすべきか。」法瑜は石頭城を占拠するよう勧めた。劉濬は劉劭からの確かな知らせを得ておらず、事が成就するかどうかわからず、動揺してどうすべきかわからなかった。將軍王慶が言った。「今、宮内に変事があり、主上の安否もわからない。臣子として預かっている身で、袖を振るって難に赴くべきです。城に拠って自ら守るのは、臣下の節義ではありません。」劉濬は聞き入れず、南門から出て、まっすぐ石頭城へ向かい、文武の従者は千余人であった。当時南平王劉鑠が石頭城を守っており、兵士も千余人いた。まもなく劉劭が張超之を走らせて劉濬を召し出した。劉濬は人を退けて様子を尋ね、すぐに軍服を着て馬に乗って出発した。朱法瑜は固く劉濬を引き留めたが、劉濬は従わなかった。中門まで出ると、王慶がまた諫めて言った。「太子が反逆し、天下は怨み憤っています。明公はただ城門を堅く閉ざし、蓄えた穀物を食べて座しているだけで、三日も経たぬうちに、凶徒は自ら離散するでしょう。公の立場はこのようなものですが、今どうして行くことができましょう。」劉濬は言った。「皇太子の命令だ、また言う者があれば斬る。」入城すると、劉劭に会い、荀赤松らを殺すよう勧めた。劉劭は劉濬に言った。「潘淑妃はついに乱兵に害された。」劉濬は言った。「これは下々の者たちがかねてから願っていたことです。」その悖逆ぶりはこのようなものであった。

原文劭入弒之旦,濬在西州,府舍人朱法瑜奔告濬曰:「臺內叫喚,宮門皆閉,道上傳太子反,未測禍變所至。」濬陽驚曰:「今當奈何?」法瑜勸入據石頭。濬未得劭信,不知事之濟不,騷擾未知所為。將軍王慶曰:「今宮內有變,未知主上安危,預在臣子,當投袂赴難。憑城自守,非臣節也。」濬不聽,乃從南門出,徑向石頭,文武從者千餘人。時南平王鑠守石頭,兵士亦千餘人。俄而劭遣張超之馳馬召濬,濬屏人問狀,即戎服乘馬而去。朱法瑜固止濬,濬不從。出至中門,王慶又諫曰:「太子反逆,天下怨憤。明公但當堅閉城門,坐食積粟,不過三日,凶黨自離。公情事如此,今豈宜去。」濬曰:「皇太子令,敢有復言者斬。」既入,見劭,勸殺荀赤松等。劭謂濬曰:「潘淑妃遂為亂兵所害。」濬曰:「此是下情由來所願。」其悖逆乃如此。

劉劭が敗れようとした時、劉劭に海に入るよう勧め、珍宝や絹帛を車に載せて船に降ろし、劉劭に書を送って言った。「船はまだ着いていませんが、今夜のうちにここで荷物を降ろし終える予定です。速やかに謝賜に出船艦を出すようお命じください。尼(厳道育)はすでに台城に入りました。彼女と明日決着をつけたいと思います。臣はなお、車駕(天子)はここから出られるべきだと考えます。そうでなければ人心を鎮めることができません。」人心が離散していたので、この計画は実現しなかった。劉濬の書簡に言う「尼」とは、すなわち厳道育のことである。

原文及劭將敗,勸劭入海,輦珍寶繒帛下船,與劭書曰:「船故未至,今晚期當於此下物令畢,願速敕謝賜出船艦。尼已入臺,願與之明日決也。臣猶謂車駕應出此,不爾無以鎮物情。」人情離散,故行計不果。濬書所云尼,即嚴道育也。

劉劭が井戸に入った時、高禽が井戸の中から彼を引きずり出した。劉劭は高禽に尋ねた。「天子はどこにおられるか。」高禽は言った。「至尊は近く新亭におられます。」劉劭を殿前まで連れて行くと、臧質は彼を見て慟哭した。劉劭は言った。「天地の覆載するところとならぬ者を、丈人はどうして泣いてお見舞いくださるのか。」臧質はそこで彼の逆状を問い質すと、劉劭は答えて言った。「先朝(文帝の世)で不当に廃されかけた時、獄中の囚人となるわけにはいかず、蕭斌に計を問うと、斌はこのように勧めたのでした。」また臧質に言った。「上奏していただいて、遠方への流罪を乞うことはできまいか。」臧質は答えて言った。「主上は近く航南におられます。自ら処分されるでしょう。」劉劭を馬上に縛り付け、護送して軍門に至らせた。牙門の下に着くと、鞍に寄りかかって周りを見回した。太尉江夏王劉義恭と諸王が皆そろって彼を見守った。劉義恭は劉劭を詰問して言った。「私が背逆をやめて帰順したのに、何の大罪があって、いきなり我が家の十二人の子供を殺したのか。」劉劭は答えて言った。「諸弟を殺したことは、この件では父上に申し訳なく思っています。」江湛の妻庾氏が車に乗って彼を罵り、龐秀之もまた譲り責めた。劉劭は声を荒げて言った。「お前たちはまた何を煩わすのだ。」まず自分の四人の子を殺し、南平王劉鑠に言った。「これに何の意味があろうか。」そして牙門の下で劉劭を斬った。刑に臨んで嘆いて言った。「宗室がこのような末路をたどるとは思わなかった。」

原文及劭入井,高禽於井中牽出之,劭問禽曰:「天子何在?」禽曰:「至尊近在新亭。」將劭至殿前,臧質見之慟哭,劭曰:「天地所不覆載,丈人何為見哭。」質因辨其逆狀,答曰:「先朝當見枉廢,不能作獄中囚,問計於蕭斌,斌見勸如此。」又語質曰:「可得為啟,乞遠徙不?」質答曰:「主上近在航南,自當有處分。」縛劭於馬上,防送軍門。既至牙下,據鞍顧望,太尉江夏王義恭與諸王皆共臨視之。義恭詰劭曰:「我背逆歸順,有何大罪,頓殺我家十二兒?」劭答曰:「殺諸弟,此事負阿父。」江湛妻庾氏乘車罵之,龐秀之亦加誚讓,劭厲聲曰:「汝輩復何煩爾!」先殺其四子,謂南平王鑠曰:「此何有哉。」乃斬劭于牙下。臨刑歎曰:「不圖宗室一至於此。」

劉劭、劉濬および劉劭の四子の劉偉之、劉迪之、劉彬之、もう一人はまだ名がなく、劉濬の三子の劉長文、劉長仁、劉長道は、皆大航で梟首され、その屍は市中に晒された。劉劭の妻の殷氏は廷尉で賜死され、死に臨んで、獄丞の江恪に言った、「あなたがたの家では肉親同士が殺し合いをしたのに、どうして天下の罪なき人を無実の罪で殺すのか。」江恪は言った、「皇后に拝謁を受けたことは、罪ではないのか。」殷氏は言った、「それは一時の権宜であって、本当は鸚鵡を皇后とするはずだったのだ。」劉濬の妻の褚氏は、丹陽尹の褚湛之の娘であり、褚湛之が南へ逃亡した当初から、すでに離縁されていたので、誅殺を免れた。その他の子女や妾媵は、皆獄中で賜死された。劉劭と劉濬の屍は江に投げ捨てられ、その他の同逆者、および王羅漢らは、皆誅殺された。張超之は兵が入ってきたと聞くと、逆走して合殿の旧基に至り、ちょうど御床のあった場所で、乱兵に殺された。腸を切り裂き心臓をえぐり出し、その肉を細かく切り刻むと、諸将が生で喰らい、その頭蓋骨を焼いた。当時、伝国の璽が見えなかったので、劉劭に尋ねると、言った、「厳道育のところにある。」そこで取りに行って得た。道育と鸚鵡は共に都の街で鞭打ちの刑に処して殺し、石頭の四望山の下でその屍を焼き、灰を江に撒いた。劉劭の東宮の住んでいた斎舎を壊し、その場所を汚れた溜め池にした。

原文劭、濬及劭四子偉之、迪之、彬之、其一未有名,濬三子長文、長仁、長道,並梟首大航,暴尸於市。劭妻殷氏賜死於廷尉,臨死,謂獄丞江恪曰:「汝家骨肉相殘害,何以枉殺天下無罪人。」恪曰:「受拜皇后,非罪而何?」殷氏曰:「此權時爾,當以鸚鵡為后也。」濬妻褚氏,丹陽尹湛之女,湛之南奔之始,即見離絕,故免於誅。其餘子女妾媵,並於獄賜死。投劭、濬尸首於江,其餘同逆,及王羅漢等,皆伏誅。張超之聞兵入,逆走至合殿故基,正於御床之所,為亂兵所殺。割腸刳心,臠剖其肉,諸將生噉之,焚其頭骨。當時不見傳國璽,問劭,云:「在嚴道育處。」就取得之。道育、鸚鵡並都街鞭殺,於石頭四望山下焚其尸,揚灰于江。毀劭東宮所住齋,汙潴其處。

高禽を新陽県男に封じ、食邑三百戸を賜う。潘淑妃を追贈して長寧園夫人とし、守冢を置いた。

原文封高禽新陽縣男,食邑三百戶。追贈潘淑妃長寧園夫人,置守冢。

偽司隸校尉の殷沖、丹陽尹の尹弘は、共に賜死された。殷沖は劉劭のために即位の詔書を起草し、また妃の叔父でもあった。尹弘は二月二十一日の明け方に入直し、西掖門に至り、宮中に変事があると聞き、城内の兵を率いて閣道の下まで来た。そして劉劭が入ったと聞くと、恐れおののいて啓上し、処分を受けることを求め、また劉劭のために兵士を選抜配備し、その心力を尽くした。尹弘は、天水郡冀県の人で、司州刺史の尹沖の弟である。太祖に信任されていた。元嘉年間に、太子左右衞率、左右衞将軍を歴任し、□人の官爵の高低は、皆彼に委ねられていた。

原文偽司隸校尉殷沖,丹陽尹尹弘,並賜死。沖為劭草立符文,又妃叔父也。弘二月二十一日平旦入直,至西掖門,聞宮中有變,率城內禦兵至閣道下。及聞劭入,惶怖通啟,求受處分,又為劭簡配兵士,盡其心力。弘,天水冀人,司州刺史沖弟也。為太祖所委任。元嘉中,歷太子左右衞率、左右衞將軍,□人官爵高下,皆以委之。