宋書 巻九十八
列伝第五十八
略陽の清水 氐 の楊氏は、秦・漢以来、代々隴右に居住し、豪族であった。漢の献帝の建安年間(196-220年)、楊騰という者がおり、部落の大帥となった。騰の子の駒は、勇猛で計略に富み、初めて仇池に移住した。仇池の地は百頃の広さがあり、それゆえ百頃を号とした。四面は切り立った絶壁で、高く平らな土地は二十余里四方、羊腸のように曲がりくねった道が三十六回も続く。山上には豊富な水と泉があり、土を煮て塩を作った。駒の後、千万という名の者がおり、魏は彼を百頃 氐 王に任じた。千万の子孫に飛龍という者がおり、次第に強盛となった。晋の武帝は彼に征西将軍の仮号を与え、略陽に戻って居住させた。飛龍には子がなく、姉妹の子である令狐氏の子を養子とし、戊搜と名付けた。晋の恵帝の元康六年(296年)、斉万年の乱を避けて、部落四千家を率い、百頃に戻って守りを固め、自ら輔国将軍・右賢王と号した。関中の人士で流亡してくる者は多く彼に頼り、戊搜は彼らを招き入れ、慰撫して受け入れ、去りたい者には護衛して資金を与えて送り出した。愍帝は彼を 驃騎 将軍・左賢王とした。当時、南陽王司馬保が上邽におり、また戊搜の子の難敵を征南将軍とした。建興五年(317年)、戊搜が卒去すると、難敵が位を継いだ。難敵は堅頭と部曲を分け、難敵は左賢王と号して下辯に駐屯し、堅頭は右賢王と号して河池に駐屯した。元帝の太興四年(321年)、 劉曜 が難敵を討伐し、難敵は堅頭とともに晋寿に奔り、 李雄 に臣従した。 劉曜 が退くと、再び仇池に戻った。
成帝の咸和九年(334年)、難敵が卒去し、子の毅が立ち、自ら使持節・龍驤将軍・左賢王・下辯公と号した。堅頭の子の槃を使持節・ 冠軍 将軍・右賢王・河池公とした。咸康元年(335年)、晋に使者を遣わして藩属を称し、毅を征南将軍、槃を征東将軍とした。三年(337年)、毅の族兄の初が毅を襲撃して殺害し、その衆を併せ持ち、自ら仇池公を称し、石虎に臣従した。後に使者を遣わして穆帝に藩属を称した。永和三年(347年)、初を使持節・征南将軍・雍州 刺史 ・平 羌 校尉 ・仇池公とした。初の子の国を鎮東将軍・武都 太守 とした。十年(354年)、初を天水公に改封した。十一年(355年)、毅の末弟の宋奴が、姉妹の子である梁式王に命じて、侍直の際に手ずから初を刺殺させた。初の子の国が左右を率いて式王と宋奴を誅殺し、再び自立した。征西将軍桓温は上表して、国を鎮北将軍・秦州 刺史 ・平 羌 校尉 とし、国の子の安を振威将軍・武都太守とした。十二年(356年)、国の従父の楊俊が再び国を殺して自立し、安は苻生のもとに奔った。俊は使者を遣わして帰順した。昇平三年(359年)、俊を平西将軍・平 羌 校尉 ・仇池公とした。四年(360年)、俊が卒去し、子の世が立ち、再び冠軍将軍・平 羌 校尉 ・武都太守・仇池公とした。海西公の太和三年(368年)、世を征西将軍・秦州 刺史 に遷し、世の弟の統を寧東将軍・武都太守とした。五年(370年)、世が卒去し、統は世子の纂を廃して自立した。纂は一名を徳といい、徒党を集めて統を殺し、使者を簡文帝のもとに遣わして自ら陳述し、再び纂を平 羌 校尉 ・秦州 刺史 ・仇池公とした。咸安元年(371年)、苻堅が楊安・苻雅らを遣わして纂を討伐し、これを攻略し、その民を関中に移住させ、百頃の地を空にした。纂は後に楊安に殺された。
宋奴が死んだとき、その二人の子の仏奴と仏狗は関中に逃げた。苻堅は仏奴を右将軍とし、仏狗を撫夷護軍とした。後に娘を仏奴の子の定に娶せ、定を尚書・領軍将軍とした。孝武帝の太元八年(383年)、苻堅が淮南で敗れ、関中が混乱すると、定は力を尽くして苻堅に仕えた。苻堅が死ぬと、家を率いて隴右に奔り、治所を歴城に移した。城は西県の境界にあり、仇池から百二十里離れていた。百頃に倉庫を設置した。夷や晋の人々を招き集め、千余家を得て、自ら龍驤将軍・平 羌 校尉 ・仇池公と号し、晋の孝武帝に藩属を称した。孝武帝はその自ら号した官職を仮に与えた。定は天水郡の西県と武都郡の上禄を割いて仇池郡とすることを求め、許された。十五年(390年)、また定を輔国将軍・秦州 刺史 とした。定はすでに自ら征西将軍を称していた。さらに持節・ 都督 隴右諸軍事・輔国大将軍・開府儀同三司に進められ、 校尉 ・ 刺史 はもとのままとした。その年、天水略陽郡を平定し、ついに秦州の地を有し、自ら隴西王と号した。十九年(394年)に至り、隴西の虜である乞仏乾帰を攻撃したが、定の軍は敗れて殺害された。子がなく、仏狗の子の盛が先に監国として仇池を守っており、位を継ぎ、自ら使持節・征西将軍・秦州 刺史 ・平 羌 校尉 ・仇池公と号した。定に武王と 諡 した。四方の山の 氐 ・ 羌 を分けて二十部の護軍とし、それぞれが鎮戍となり、郡県を設置しなかった。安帝の隆安三年(399年)、使者を遣わして藩属を称し、地方の産物を献上した。安帝は盛を輔国将軍・平 羌 校尉 ・仇池公とした。元興三年(404年)、桓玄が晋を輔政すると、盛を平北将軍・涼州 刺史 ・西戎 校尉 に進めた。義熙元年(405年)、姚興が盛を討伐し、盛は恐れて子の難当を人質として送った。姚興は将軍の王敏を遣わして城を攻撃させた。梁州別駕の呂瑩が盛に救援を求めたため、盛は軍を濜口に駐留させ、王敏は退却した。盛を 都督 隴右諸軍事・征西大将軍・開府儀同三司とした。当時、益州 刺史 の毛璩が桓玄が設置した梁州 刺史 の桓希を討伐し、敗走させたため、漢中が空虚となった。盛は兄の子である平南将軍の撫を遣わして漢中を守らせた。三年(407年)、また盛を使持節・北秦州 刺史 に仮授した。盛はまた将軍の苻宣を遣わして梁州 刺史 の代行とし、撫に代わらせた。九年(413年)、梁州 刺史 の索邈が南城に鎮すると、苻宣は帰還した。高祖(劉裕)が即位すると、盛を車騎大将軍に進め、 侍中 を加えた。永初三年(422年)、武都王に改封し、長子の玄を武都王世子とし、前将軍の号を加え、難当を冠軍将軍、撫を安南将軍とした。盛は位を嗣いで三十年、太祖の元嘉二年(425年)六月に卒去した。時に六十二歳。私諡して恵文王といった。
玄は字を黄眉といい、自ら使持節・ 都督 隴右諸軍事・征西大将軍・開府儀同三司・平 羌 校尉 ・秦州 刺史 ・武都王と号した。藩臣でありながらも、なお義熙の年号を奉じた。士人を厚遇し、流寓の者や旧来の者から慕われた。安南将軍の撫は文武の智略を備えていたが、玄は彼を容れることができず、三年(426年)、その子が人を殺したことを理由に、撫を併せて誅殺した。太祖は直ちに玄を使持節・征西将軍・平 羌 校尉 ・北秦州 刺史 ・武都王とした。そこで義熙の年号を改め、元嘉の正朔を奉じた。初め、盛は玄に言った。「私はすでに年老いた。晋の臣となるべきである。お前はよく宋の皇帝に仕えよ。」それゆえ玄はそれに従ったのである。盛を驃騎大将軍に追贈し、その他の官職はもとのままとした。六年(429年)六月、玄が卒去し、私諡して孝昭王といった。
弟の楊難當は楊玄の子である楊保宗(別名は 羌 奴)を廃して自ら立ち、使持節・ 都督 雍涼諸軍事・秦州 刺史 ・平 羌 校尉 ・武都王を称した。太祖(宋の文帝)は彼を冠軍将軍・秦州 刺史 ・武都王とした。元嘉九年、征西将軍の号を加えられ、持節・ 都督 ・ 校尉 の称号も授けられた。楊難當は楊保宗を鎮南将軍に任じて宕昌に駐屯させ、次男の楊順を鎮東将軍・秦州 刺史 として上邽を守らせた。楊保宗が楊難當を襲撃しようと謀ったが、事が漏れ、捕らえられて拘禁された。これより先、各地からの流民である許穆之と郝恢之の二人が楊難當に身を寄せ、ともに司馬姓に改めた。穆之は自らを飛龍と名乗り、恢之は自らを康之と名乗り、晋王室の近親であると称した。康之はまもなく人に殺された。元嘉十年、楊難當は益州 刺史 の劉道済が蜀の人心を失っていると見て、兵力を飛龍(許穆之)に与え、蜀に侵入させて寇掠させたが、劉道済がこれを撃破して斬った。当時、梁州 刺史 の甄法護は刑罰や政務を適切に行わず、太祖は 刺史 の蕭思話を派遣して代わらせた。楊難當は蕭思話がまだ到着せず、甄法護が任を離れようとしている隙に乗じて、兵を挙げて梁州を襲撃し、白馬を陥落させ、晋昌太守の張範を捕らえた。甄法護は参軍の魯安期と沈法慧らを派遣して防がせたが、ともに敗走した。楊難當はさらに建忠将軍の趙進を派遣して葭萌を攻め、晋寿太守の范延朗を捕らえた。その年十一月、甄法護は任地を捨てて洋川に逃れ、楊難當はついに漢中の地を手中に収めた。 氐 族の苻粟持を梁州 刺史 としたが、その凶暴さゆえに殺害し、司馬の趙温を代わりに梁州の任に就かせた。元嘉十年正月、蕭思話は司馬の蕭承之を先鋒として進軍させて討伐にあたらせ、向かうところ勝利を収め、ついに梁州を平定した。このことは蕭思話伝にある。四月、楊難當は使者を派遣して上表文を奉り、罪を謝した。その文は以下の通りである:
太祖は彼が辺境の異民族であることを考慮し、 詔 を下して言った。「楊難當の上表はこのようなものであり、以前の過ちを悔いて謝罪している。特にこれを許し、かつ特に節と符節を返還せよ。」
元嘉十二年、楊難當は楊保宗を釈放し、童亭に駐屯させたが、楊保宗は逃亡した。索虜(北魏)の主である拓跋燾は彼を 都督 隴西諸軍事・征西大将軍・開府儀同三司・平 羌 校尉 ・南秦王に任じ、上邽を襲撃させた。楊難當の子の楊順は守りを失って退却し、雍州 刺史 として下辯を守った。元嘉十三年三月、楊難當は自ら大秦王を称し、年号を建義とし、妻を王后に、世子を太子に立て、百官を設置し、天子の朝廷を模倣した。しかしなおも朝廷(宋)に臣従し、貢ぎ物を絶やさなかった。元嘉十七年、その国は大旱魃に見舞われ、多くの災異があったため、大秦王から再び武都王に降格した。
元嘉十八年十月、国を挙げて南侵し、蜀の地を手に入れようと図り、漢中からの宋軍の出撃を恐れて、建忠将軍の苻沖を東洛に派遣して防がせた。梁州 刺史 の劉真道が苻沖を撃破して斬った。十一月、楊難當は葭萌を陥落させ、晋寿太守の申坦を捕らえ、ついに涪城を包囲した。巴西太守の劉道錫は城に籠って固く守り、楊難當は十余日間攻撃したが陥落させられず、引き揚げた。元嘉十九年正月、太祖は龍驤将軍の裴方明、太子左積弩将軍の劉康祖、後軍参軍の梁坦に甲士三千人を与え、さらに荊州と雍州の二州の兵を動員して楊難當を討伐させ、劉真道の指揮下に置いた。五月、裴方明らは漢中に到着し、長駆して進軍した。劉真道は武興に到着し、偽の建忠将軍である苻隆を攻撃してこれを撃破した。安西参軍の韋俊と建武将軍の姜道盛は別働隊として下辯に向かい、劉真道はさらに司馬の夏侯穆季を派遣して西の白水を攻め取らせた。楊難當の子で雍州 刺史 の楊順と建忠将軍の楊亮がこれを防いだが、ともに風の便りを聞いて敗走した。閏月、裴方明は蘭臯に到着した。楊難當の鎮北将軍の苻義徳と建節将軍の苻弘祖が一万余りで陣を構えて防戦したが、裴方明がこれを撃破し、苻弘祖を斬り、二千余人を殺害し、苻義徳は逃走した。天水の任愈之が配下を率いて帰順した。楊難當の世子で撫軍大将軍の楊和が修城を占拠していたが、裴方明はさらに軍を派遣して任愈之を率いて楊和を攻撃し、大破した。ここにおいて楊難當は妻子を連れて索虜(北魏)に逃亡し、その地で死んだ。安西参軍の魯尚期が楊難當を寒峡まで追撃し、建節将軍の楊保熾と安昌侯の楊虎頭を生け捕りにした。初め、楊難當は第二子の楊虎を鎮南将軍・益州 刺史 として陰平を守らせていた。楊虎は父が逃亡したと聞き、逃げ帰ろうとして下辯に至った。裴方明は子の裴粛之に命じて途中で待ち伏せさせ、楊虎を生け捕りにし、都に護送して建康の市で斬首した。こうして仇池は平定された。
輔国司馬の胡崇之を龍驤将軍・秦州 刺史 ・平 羌 校尉 に任じ、仇池を守らせた。索虜の拓跋燾は安西大将軍の吐奚弼と平北将軍の拓跋斉ら二万人を派遣して胡崇之を迎え撃たせた。元嘉二十年二月、胡崇之は濁水に到着し、仇池から八十里の地点で拓跋斉らと遭遇し、戦って敗れ戦死し、残兵は漢中に逃げ帰った。
三月、前鎮東司馬の苻達と征西従事中郎の任朏らが義兵を挙げ、楊保宗の弟の楊文徳を主君として擁立した。拓跋斉は兵が起こったと聞いて逃走し、苻達が追撃して拓跋斉を斬り、これにより白崖を占拠し、諸々の戍を平定した。楊文徳は自ら使持節・ 都督 秦河涼三州諸軍事・征西大将軍・秦河涼三州牧・平 羌 校尉 ・仇池公を称し、露板(封をしない文書)を朝廷に急送して報告した。太祖は 詔 を下して言った。「近ごろ 校尉 仇池公が上表したところによれば、虜(北魏)が放縦に振る舞い、仇池を侵し窃み、将兵は挫折し傷つき、民衆は塗炭の苦しみにあるという。四方を見渡し、思いを巡らせれば、哀れみと憤慨の念が胸に満ちる。楊文徳は代々忠順に篤く、その誠意は家と国に通じ、義兵を糾合し率いて、凶悪な賊を殲滅した。その旗印の向かうところ、殲滅・潰走させずに残すことはなく、妖気は晴れ渡り、辺境は平穏に統一された。その功績を思いその事績を考えれば、まことに喜び賞賛に値する。ただちに使者を派遣して慰労し、朝廷の旨を示せ。また梁州 刺史 の申坦に命じて、状況に応じて救援に当たらせよ。」さらに 詔 を下して言った。「顕著な功績を記録することは、国の法典である。賞を与えるには速やかに行うべきで、時を過ごしてはならない。楊文徳は志気が果敢で、文武に優れ、機に乗じて密かに奮起し、並外れた功績を成し遂げた。勝利を告げ誠意を示し、万里の彼方から捕虜を献上した。朝廷はわずかな土地も与えず、自ら困難を切り開いて威厳を示し、輝かしい功績は明らかである。朕は大いにこれを嘉する。楊氏は代々西方で功労を立て、忠誠を幾代にもわたって積み重ねてきた。先人の業績を継承し、寵愛と栄誉を受けるにふさわしい。使持節・ 散騎常侍 ・ 都督 北秦雍二州諸軍事・征西大将軍・平 羌 校尉 ・北秦州 刺史 とし、武都王に封ぜよ。」任朏の祖父の任岐、伯父の任祚、父の任綜は、いずれも楊氏に仕え、諮議従事中郎であった。任朏は志と才幹があり、楊文徳は彼を左司馬とした。
楊文徳は朝廷の任命を受けると、進軍して茄蘆城を守備した。元嘉二十五年、索虜(北魏)の攻撃を受け、漢中に逃亡した。当時、世祖(孝武帝)は襄陽に鎮守しており、楊文徳を捕らえて都に送り、守備地を失った罪で官職を免じ、爵位と封土を削った。元嘉二十七年、朝廷の軍が北討を行うにあたり、楊文徳を輔国将軍として起用し、軍を率いて漢中から西に入り、汧・隴の地を揺るがせた。楊文徳の同族の楊高が陰平と平武の諸 氐 族を率いて唐魯橋を占拠し、楊文徳を防いだ。楊文徳は水陸両面から攻撃し、これを大破した。兵士たちはともに敗走し散り散りになった。楊高は逃走して 羌 族のもとに身を寄せた。楊文徳は黎卬嶺まで追撃し、楊高は単身で 羌 族の仇阿弱の家に逃げ込んだが、追いかけて斬り殺し、陰平と平武をすべて平定した。さらに楊文徳を派遣して啖提 氐 を討伐させたが、勝利できず、梁州 刺史 の劉秀之が彼を捕らえて荊州に送り、楊文徳の従祖兄の楊頭に茄蘆を守備させた。荊州 刺史 の南郡王劉義宣が反乱を起こしたとき、楊文徳は同調せず、殺害された。世祖は彼を追贈して征虜将軍・秦州 刺史 とした。
孝建二年(455年)、保宗の子の元和を征虜将軍とし、頭を輔国将軍とした。元和は楊氏の正統ではあったが、群 氐 は彼を宗主として推戴しようとしたものの、年が若く才能も弱く、配下の部衆を鎮撫統御することができなかった。頭の母・妻・子・弟はともに索虜(北魏)に捕らえられていたが、頭は至誠を尽くして朝廷に恭順し、私情に囚われることはなかった。朝廷は元和の称号と地位を正式に認めず、部落には定まった主君がいなかったため、雍州 刺史 の王玄謨が上表して言った。「 詔 勅により、臣に命じて使者を楊元和と楊頭のもとに遣わし、連絡を取り、贈り物を届けさせました。すでに中軍行参軍の呂智宗に書状と贈り物を持たせて派遣しましたが、彼ら自身も使者を智宗に随行させました。頭が智宗に語ったところによると、近ごろ家を捨てて国のために尽くし、母・妻・子・弟はともに虜(北魏)に陥落し、孝道を顧みず、辺境防衛に力を尽くし、忠誠を傾け誠意を尽くしたが、まだ朝廷に認められていないという。もし元和が正統を継承するならば、王爵を授けるべきである。もし彼が若くて重任に堪えないならば、別に委任すべき者があるはずだ。近ごろ公私に紛糾が生じ、華(漢)と戎(異民族)が互いに争っているのは、すべてこのことによるものである。臣が思うに、頭は元嘉年間以来、実に国に対して忠誠があり、親族を捨て愛する者を遺してまでしたことは、誠に賞賛に値する。 氐 や 羌 は遠方にあり、また虜と咫尺の距離にある。急ぎすぎれば反乱を起こし、緩やかすぎれば怨みを抱く。頭の使者の言葉から判断すると、彼はすぐに仇池公の地位を望んでいるわけではなく、希望しているのはせいぜい西秦州での仮節の権限だけである。臣の愚見では、漢川を蕃屏として守り、虜の患いがないようにするのに、頭は実に力がある。四千戸の荒れた州を、惜しむにはおよばない。元和は幼弱であり、もし専任に堪えないならば、さらに数年後には必ず後継の事業に堪えるようになるだろう。彼を用いるのは難しくない。もし才能がその任にふさわしくなければ、その時は頭に帰属させるべきである。もし茄蘆が守れなければ、漢川もまた存立する道理はない。」皇帝は許さなかった。その後、元和を武都王に立て、白水を治めさせたが、自立できず、再び索虜(北魏)に奔って逃げた。
元和の従弟の僧嗣が、再び自立し、茄蘆に戻って守備し、寧朔将軍・仇池太守に任じられた。太宗泰始二年(466年)、 詔 が下された。「僧嗣は遠く西の辺境を守り、代々忠誠を厚くしてきた。その義烈を明らかにするため、表彰を加えるべきである。冠軍将軍・北秦州 刺史 ・武都王とし、太守はもとの通りとする。」三年(467年)、持節・ 都督 北秦雍二州諸軍事を加えられ、征西将軍・ 校尉 に進号し、 刺史 はもとの通りとした。僧嗣が死去すると、従弟の文度が再び自立した。泰 豫 元年(472年)、龍驤将軍・略陽太守とし、武都王に封じ、さらに龍驤を寧朔将軍に改めた。後廃帝元徽四年(476年)、督北秦州諸軍事・平 羌 校尉 ・北秦州 刺史 を加えられ、将軍はもとの通りとした。文度は弟の龍驤将軍文弘を遣わして仇池を攻撃させ、蘭臯で守備兵を破った。順帝昇明元年(477年)、 詔 が下された。「盛大な賞賜には規定があり、国の法度を明らかにし、功績を顕彰することは、史冊に記されるべきである。督北秦州諸軍事・寧朔将軍・平 羌 校尉 ・北秦州 刺史 、武都王の文度は、家門に輝かしい寵愛を受け、代々辺境の邑で栄え、忠義果断はすでに明らかで、才幹と剛勁さを兼ね備えている。龍驤将軍の楊文弘は厳かに規律に協力し、自ら戦鼓を打ち、百頃を押し進め、蘭臯を席巻した。その功績の美しさは、ともに十分に賞賛すべきであり、爵位と官職を授けて、勲功に報いるべきである。文度は使持節・ 都督 北秦雍二州諸軍事・征西将軍とし、 刺史 ・ 校尉 はすべてもとの通りとする。文弘は輔国将軍・略陽太守とする。」その年、虜が茄蘆を攻め落とし、文度は殺害された。本官を追贈し、 散騎常侍 を加えられた。文弘を督北秦州諸軍事・平 羌 校尉 ・北秦州 刺史 とし、武都王の封を襲封させ、将軍はもとの通りとした。文弘は武興に退いて治めた。
大且渠蒙遜は、張掖郡臨松県の盧水胡人である。匈奴には左且渠・右且渠という官職があり、蒙遜の先祖がこの職に就いていた。 羌 の酋長のことを「大」と言ったので、且渠は官職を氏とし、それに「大」を冠したのである。代々盧水に住んで酋長となった。蒙遜の高祖父の暉仲帰、曾祖父の遮は、みな雄健で勇名があった。祖父の祁復延は狄地王に封じられた。父の法弘が爵位を継承し、苻氏(前秦)によって中田護軍に任じられた。
蒙遜は父に代わって部曲を統率し、勇略があり、計略に富み、諸胡から推戴され服従された。呂光が涼州で王を称すると、蒙遜に自ら営の人々を率いて箱直に配属させ、また蒙遜の叔父の羅仇を西平太守とした。安帝隆安三年(399年)春、呂光は子の鎮東将軍纂に羅仇を率いさせて 枹罕 の虜である乞仏乾帰を討伐させたが、乾帰に敗れた。光は罪を羅仇に負わせて殺した。四月、蒙遜は羅仇の遺体を帰葬することを求め、これに乗じて万余人を集めて呂光に反逆し、臨松護軍を殺し、金山に駐屯した。五月、光は纂を指揮して蒙遜を撃破し、蒙遜は六七人の将兵を率いて山中に逃れ、家族や戸籍はすべて離散した。その時、蒙遜の兄の男成が兵を率いて西の晋昌を守っていたが、蒙遜の反乱を聞き、軍を返して酒泉太守の疊滕を殺し、建康太守の段業を主君に推戴した。業は自ら龍驤大将軍・涼州牧・建康公を号し、男成を輔国将軍とした。男成および晋昌太守の王徳は張掖を包囲し、これを攻略した。業はこれにより張掖を占拠した。蒙遜は部曲を率いて段業に投じ、業は蒙遜を鎮西将軍・臨池太守とし、王徳を酒泉太守とした。まもなくまた蒙遜に張掖太守を兼任させた。三年(400年)四月、業は蒙遜に万人を率いさせて西郡で呂光の弟子の純を攻撃させたが、十日経っても攻略できなかった。そこで水を引いて城を灌漑し、窮迫した純は降伏を乞い、捕らえて帰還した。その時、王徳が段業に背き、自ら河州 刺史 を称した。業は蒙遜に西討させた。王徳は城を焼き、部曲を率いて晋昌太守の唐瑤に奔った。蒙遜は王徳を沙頭まで追撃し、大破してその妻子と部落を捕虜にして帰還した。西安太守に転任し、将軍はもとの通りとした。四年(401年)五月、蒙遜は男成と謀って段業を殺そうとしたが、男成は許さなかった。蒙遜は逆に男成を段業に讒言し、業は男成を殺した。蒙遜はそこでその部曲に言った。「段公は無道で、輔国将軍(男成)を無実の罪で殺した。私は輔国のために仇を討つ。」そこで兵を挙げて張掖を攻め、段業を殺し、自ら車騎大将軍を称し、年号を永安元年とした。
その月、敦煌太守の李暠もまた兵を起こし、自ら冠軍大将軍・西胡 校尉 ・沙州 刺史 を号し、太守はもとの通りとした。年号を庚子元年と称した。蒙遜と対抗した。その冬、李暠は唐瑤および鷹揚将軍の宋繇を遣わして酒泉を攻撃させ、太守の大且渠益生を捕らえた。彼は蒙遜の従叔である。
呂光が死に、子の纂が立った。元年(399年)、従弟の隆に 簒奪 された。姚興が涼州を攻撃すると、隆は臣下を称して降伏を請い、蒙遜もまた使者を姚興のもとに遣わした。興は蒙遜を鎮西将軍・沙州 刺史 ・西海侯とした。二年(400年)二月、蒙遜は西平の虜である禿髪傉檀とともに涼州を攻撃したが、隆に撃破された。十月、傉檀が再び隆を攻撃した。三年(401年)三月、隆は蒙遜と傉檀がともに逼迫してきたため、弟の超を姚興のもとに遣わして迎えを求めた。七月、興は将軍の斉難を遣わして隆を迎えさせた。隆は斉難に蒙遜を討伐するよう説き、蒙遜は恐れて弟を人質として差し出し、斉難に宝物を献上したので、討伐は中止された。武衛将軍の王尚を行涼州 刺史 として派遣し、帰還した。
義熙元年(405年)正月、李暠は大將軍・大 都督 ・涼州牧・護 羌 校尉 ・涼公と改めて称した。五月、酒泉に移って拠点とした。姚興は傉檀に涼州 刺史 の仮号を与え、王尚に代わって姑臧に駐屯させた。二年(406年)九月、蒙遜が李暠を襲撃し、安彌に至り、城から六十里のところで李暠はようやく気づいた。軍を率いて出戦したが大敗し、退却して城に戻り、城門を閉じて自ら守備した。蒙遜も帰還した。六年(410年)、蒙遜は傉檀を攻め破り、傉檀は逃走して楽都に駐屯した。武威の人焦朗が姑臧に入り、驃騎大將軍を自称し、李暠に臣従した。八年(412年)、蒙遜が焦朗を攻撃し、これを殺害した。姑臧を占拠し、大 都督 ・大將軍・河西王を自称し、元号を玄始元年と改め、子の正徳を世子に立てた。
十三年(417年)五月、李暠が死去し、子の歆が立った。六月、歆が蒙遜を討伐し、建康に至った。蒙遜がこれを防ぎ、歆は退却して逃走した。西支澗まで追撃され、蒙遜は大敗し、死者は四千余人に及んだ。そこで残兵を収容し、建康城を増築して兵を置いて守備させ、帰還した。
十四年(418年)、蒙遜は使者を晋に遣わし、上表して藩属を称し、蒙遜を涼州 刺史 とした。高祖(劉裕)が即位すると、歆を使持節・ 都督 高昌敦煌晋昌酒泉西海玉門堪泉七郡諸軍事・護 羌 校尉 ・征西大將軍・酒泉公に任じた。
永初元年(420年)七月、蒙遜が東方の浩舋を攻略すると、李歆は虚に乗じて張掖を攻撃した。蒙遜は軍を返して西帰し、歆は退却して逃走した。臨沢まで追撃し、歆の兄弟三人を斬った。酒泉に進攻し、これを陥落させた。歆の弟で敦煌太守の恂が郡を拠点とし、大將軍を自称した。十月、蒙遜は世子の正徳を派遣して恂を攻撃させたが、落とせなかった。三年(422年)正月、蒙遜は自ら赴き長堤を築いて水を引き、城に注ぎ込んだ。数十日経っても、また落とせなかった。三月、恂の武 衞 将軍宋承と広武将軍張弘が城を挙げて降伏し、恂は自殺した。李氏はこれによって遂に滅亡した。ここにおいて鄯善王の比龍が入朝し、西域三十六国が皆、臣下を称して貢物を献上した。
高祖は蒙遜を使持節・ 散騎常侍 ・ 都督 涼州諸軍事・鎮軍大將軍・開府儀同三司・涼州 刺史 ・張掖公に任じた。
十二月、晋昌太守の唐契が反乱を起こした。再び正徳を派遣して唐契を攻撃させた。景平元年(423年)三月、これを陥落させ、唐契は伊吾に奔った。
八月、芮芮(柔然)が来襲して略奪した。蒙遜は正徳を派遣してこれを防がせた。正徳は軽騎兵を率いて進軍して戦ったが、軍は敗れて殺害された。そこで次子の興国を世子とした。
この年、蒙遜を侍中・ 都督 涼秦河沙四州諸軍事・驃騎大將軍・領護匈奴中郎将・西夷 校尉 ・涼州牧・河西王に進め、開府・持節は従前の通りとした。
太祖の元嘉元年(424年)、枹罕の虜(異民族)である乞佛熾槃が貂渠谷から出撃して河西の白草嶺を攻撃し、臨松郡は全て陥落した。蒙遜の従弟の成都、従子の日蹄、頗羅などを捕らえて去った。
三年(426年)、驃騎を車騎に改称した。世子の興国が使者を派遣して上表し、『周易』および子部・集部の諸書を請うた。太祖はこれらを全て下賜し、合わせて四百七十五巻であった。蒙遜はまた 司徒 の王弘に『捜神記』を求め、王弘は書き写して与えた。
六年(429年)、蒙遜が枹罕を征討した。この時、乞佛熾槃は既に死去しており、子の茂蔓が蒙遜を大破し、興国を生け捕りにし、三千余人を殺害した。蒙遜は興国を贖おうとし、穀物三十万斛を送ったが、結局引き渡さなかった。蒙遜はそこで興国の同母弟の菩提を世子に立てたが、朝廷はまだ知らなかった。七年(430年)、興国を冠軍将軍・河西王世子に任じた。その年の夏四月、西虜の赫連定が索虜(北魏)の拓跋燾に撃破され、上邽に奔った。十一月、茂蔓は赫連定の敗北を聞き、家眷と興国を率いて東征し、上邽に移住しようとした。八年(431年)正月、南安に到着した。赫連定が軍勢を率いて茂蔓を防ぎ、大破して茂蔓を殺害し、興国を捕らえて帰還した。四月、赫連定は拓跋燾を避けて、黄河を渡り西進し蒙遜を撃とうとした。五月、配下を率いて治城峡口に至り、黄河を渡った。渡河が半分も終わらないうちに、吐谷渾の慕璝に邀撃され、捕らえられた。興国は傷を負い数日後に死去した。
九年(432年)、菩提を冠軍将軍・河西王世子に任じた。十年(433年)四月、蒙遜が死去した。享年六十六歳。私諡を武宣王とした。菩提は幼かったため、蒙遜の第三子の茂虔が当時酒泉太守であり、衆議は茂虔を主に推し、蒙遜の位号を継承させた。十一年(434年)、茂虔は上表して言った。「臣は聞きます。功績は万物を救うことを以て高しとし、竹帛(史書)なくしてはその徳を述べることはできません。名声は実に相応しいことを以て美とし、諡号なくしてはその終わりを美しくすることはできません。先臣の蒙遜は西方で涼城を回復し、その恩沢は崑崙の辺境にまで及び、多くの暴虐を平定し、中華の地を清めました。そして時運が有道の世に巡り合い、大宋の宗臣として備わり、爵位は九服に列し、永遠の大いなる福祚を享受し、功名は顕著で、貞節を固く守りました。正しい道によって寿命を全うしましたが、名誉を請うる道がなく、その優れた事跡は広大であっても、それを叙述する美事に欠けるところがあります。臣子として痛み感じ、皆これに不安を抱いております。謹んで諡法を案じますと、禍乱を平定することを武と曰い、善を聞き周く通達することを宣と曰います。先臣は黄河以西の地を平定し、その勲功は天の府庫(朝廷)に光を放ち、その称えられる事跡は、実にこの両義を兼ね備えております。ここに諡を武宣王と上ります。もし天の聴聞を許され、これを史筆に留められるならば、冥界と現世の両方が栄光を受け、始終に遺恨はございません。」 詔 して言った。「使持節・侍中・ 都督 秦河沙涼四州諸軍事・ 車騎大將軍 ・開府儀同三司・領護匈奴中郎将・西夷 校尉 ・涼州牧河西王の蒙遜は、文武の才を兼ね備え、その勲功は西方を救済し、万里の彼方より、誠意を早くから顕著にし、忠誠と果断を頼りに、遠大な謀略を補佐しようとしていたところ、突然 薨去 した。心中、悲しみ悼む。直ちに使者を遣わして弔祭し、顕著な諡号を加える。後継者の茂虔は、先人の軌跡を継承し、その忠誠の心はますます明らかである。寵愛を受けて任官されるに相応しく、この藩国の事業を継承させるべきである。使持節・ 散騎常侍 ・ 都督 涼秦河沙四州諸軍事・征西大將軍・領護匈奴中郎将・西夷 校尉 ・涼州 刺史 ・河西王とする。」
河西の人趙𢾺は暦算に優れていた。十四年(437年)、茂虔は上表して地方の産物を献上し、併せて『周生子』十三巻、『時務論』十二巻、『三国総略』二十巻、『俗問』十一巻、『十三州志』十巻、『文検』六巻、『四科伝』四巻、『燉煌実録』十巻、『涼書』十巻、『漢皇徳伝』二十五巻、『亡典』七巻、『魏駮』九巻、『謝艾集』八巻、『古今字』二巻、『乗丘先生』三巻、『周髀』一巻、『皇帝王暦三合紀』一巻、『趙𢾺伝』および『甲寅元暦』一巻、『孔子讃』一巻、合わせて百五十四巻を献上した。茂虔はまた、晋・趙の起居注など雑書数十件を求め、太祖はこれを下賜した。
十六年閏八月、拓跋燾が涼州を攻撃し、茂虔の兄の子の万年が虜の内応となり、茂虔は捕らえられた。茂虔の弟の安弥県侯無 諱 は先に征西将軍・沙州 刺史 ・ 都督 建康以西諸軍事・酒泉太守となっており、第六弟の武興県侯儀徳は征東将軍・秦州 刺史 ・ 都督 丹嶺以西諸軍事・張掖太守であった。燾は茂虔を捕らえた後、軍を派遣して儀徳を攻撃し、儀徳は城を捨てて無諱のもとに逃れた。そこで無諱と儀徳は家族や戸口を率いて西へ向かい、従弟の敦煌太守唐児のもとに身を寄せた。燾は将軍を派遣して武威・酒泉・張掖を守らせ、帰還した。十七年正月、無諱は唐児に敦煌を守らせ、自らは儀徳とともに酒泉を攻撃し、三月にこれを陥落させた。張掖・臨松を攻撃し、四万余戸を得て、酒泉に戻って拠点とした。十八年五月、唐児が反乱を起こした。無諱は従弟の天周に酒泉を守らせ、再び儀徳とともに唐児を討伐した。唐児は一万余りの兵を率いて出撃したが大敗し、捕らえられて殺害され、無諱は再び敦煌を占拠した。七月、拓跋燾が軍を派遣して酒泉を包囲した。十月、城中で飢饉が起こり、一万余りが餓死し、天周は妻を殺して戦士に食わせたが、食糧が尽きて城は陥落し、天周は捕らえられて平城に送られ、殺害された。当時、虜の兵力は非常に強く、無諱の軍は飢えていたため、自立できないことを恐れ、軍勢を率いて西進しようとした。十一月、弟の安周に五千人を率いて鄯善を攻撃させたが、堅守されて陥落しなかった。十九年四月、無諱は自ら一万余家を率いて敦煌を放棄し、西へ向かい安周のもとに身を寄せようとしたが、到着する前に鄯善王比龍が四千余家を率いて逃走したため、鄯善を占拠した。初め、唐契が晋昌から伊吾に逃れていたが、この年に高昌を攻撃し、高昌城主の闞爽が救援を求めた。八月、無諱は従子の豊周に鄯善を守らせ、自ら家族や戸口を率いて高昌へ向かった。到着する前に、芮芮が軍を派遣して高昌を救援し、唐契を殺害したため、その配下の兵士たちは無諱のもとに逃れた。九月、無諱は将軍の 衞 尞を派遣して夜襲で高昌を攻撃し、爽は芮芮に逃れ、無諱は再び高昌を占拠した。
常侍の氾儁を派遣して上表文を持たせて京師に使いさせ、地方の産物を献上した。太祖は 詔 を下して言った。「往年、狡猾な虜が放縦に振る舞い、涼土を侵害し、西河王茂虔は遂に守りきれず、賊に陥落し、累世にわたって誠意を示してきたことを哀悼に思う。次弟の無諱は遺業を継承し、辺境を守り据え、外では隣国と結び、内では民衆をまとめ、朝廷を心にかけ、貢職を修めている。朝廷の命令を加えて、篤実な功績を褒めるべきである。持節・ 散騎常侍 ・ 都督 涼河沙三州諸軍事・征西大将軍・領護匈奴中郎将・西夷 校尉 ・涼州 刺史 ・河西王に任じることを許可する。」
無諱が死去し、弟の安周が立った。二十一年、 詔 を下して言った。「故征西大将軍・河西王無諱の弟安周は、才略が沈着にして周到であり、代々忠誠篤実で、遺業を継承し、民衆が帰依し慕っている。兵士を失い軍を喪失し、異郷で孤立しているにもかかわらず、残った寡兵を招き率い、今に至るまで賊を撃退している。栄誉ある官職を加えて、先人の軌跡を継がせるべきである。使持節・ 散騎常侍 ・ 都督 涼河沙三州諸軍事・領西域戊己 校尉 ・涼州 刺史 ・河西王に任じることを許可する。」世祖の大明三年、安周は地方の産物を献上した。