宋書

宋書 巻九十八

宋書 巻九十八

略陽の清水氐の楊氏は、秦・漢以来、代々隴右に居住し、豪族であった。漢の献帝の建安年間(196-220年)、楊騰という者がおり、部落の大帥となった。騰の子の駒は、勇猛で計略に富み、初めて仇池に移住した。仇池の地は百頃の広さがあり、それゆえ百頃を号とした。四面は切り立った絶壁で、高く平らな土地は二十余里四方、羊腸のように曲がりくねった道が三十六回も続く。山上には豊富な水と泉があり、土を煮て塩を作った。駒の後、千万という名の者がおり、魏は彼を百頃氐王に任じた。千万の子孫に飛龍という者がおり、次第に強盛となった。晋の武帝は彼に征西将軍の仮号を与え、略陽に戻って居住させた。飛龍には子がなく、姉妹の子である令狐氏の子を養子とし、戊搜と名付けた。晋の恵帝の元康六年(296年)、斉万年の乱を避けて、部落四千家を率い、百頃に戻って守りを固め、自ら輔国将軍・右賢王と号した。関中の人士で流亡してくる者は多く彼に頼り、戊搜は彼らを招き入れ、慰撫して受け入れ、去りたい者には護衛して資金を与えて送り出した。愍帝は彼を驃騎ひょうき将軍・左賢王とした。当時、南陽王司馬保が上邽におり、また戊搜の子の難敵を征南将軍とした。建興五年(317年)、戊搜が卒去すると、難敵が位を継いだ。難敵は堅頭と部曲ぶきょくを分け、難敵は左賢王と号して下辯に駐屯し、堅頭は右賢王と号して河池に駐屯した。元帝の太興四年(321年)、劉曜が難敵を討伐し、難敵は堅頭とともに晋寿に奔り、李雄に臣従した。劉曜が退くと、再び仇池に戻った。

原文略陽清水氐楊氏,秦、漢以來,世居隴右,為豪族。漢獻帝建安中,有楊騰者,為部落大帥。騰子駒,勇健多計略,始徙仇池。仇池地方百頃,因以百頃為號,四面斗絕,高平地方二十餘里,羊腸蟠道,三十六回。山上豐水泉,煮土成鹽。駒後有名千萬者,魏拜為百頃氐王。千萬子孫名飛龍,漸強盛,晉武假征西將軍,還居略陽。無子,養外甥令狐氏子為子,名戊搜。晉惠帝元康六年,避齊萬年之亂,率部落四千家,還保百頃,自號輔國將軍、右賢王。關中人士奔流者多依之,戊搜延納撫接,欲去者則衞護資遣之。愍帝以為驃騎將軍、左賢王。時南陽王保在上邽,又以戊搜子難敵為征南將軍。建興五年,戊搜卒,難敵襲位。與堅頭分部曲,難敵號左賢王,屯下辯,堅頭號右賢王,屯河池。元帝太興四年,劉曜伐難敵,與堅頭俱奔晉壽,臣於李雄,曜退,復還仇池。

成帝の咸和九年(334年)、難敵が卒去し、子の毅が立ち、自ら使持節・龍驤将軍・左賢王・下辯公と号した。堅頭の子の槃を使持節・冠軍かんぐん将軍・右賢王・河池公とした。咸康元年(335年)、晋に使者を遣わして藩属を称し、毅を征南将軍、槃を征東将軍とした。三年(337年)、毅の族兄の初が毅を襲撃して殺害し、その衆を併せ持ち、自ら仇池公を称し、石虎に臣従した。後に使者を遣わして穆帝に藩属を称した。永和三年(347年)、初を使持節・征南将軍・雍州刺史しし・平羌校尉・仇池公とした。初の子の国を鎮東将軍・武都太守たいしゅとした。十年(354年)、初を天水公に改封した。十一年(355年)、毅の末弟の宋奴が、姉妹の子である梁式王に命じて、侍直の際に手ずから初を刺殺させた。初の子の国が左右を率いて式王と宋奴を誅殺し、再び自立した。征西将軍桓温は上表して、国を鎮北将軍・秦州刺史・平羌校尉とし、国の子の安を振威将軍・武都太守とした。十二年(356年)、国の従父の楊俊が再び国を殺して自立し、安は苻生のもとに奔った。俊は使者を遣わして帰順した。昇平三年(359年)、俊を平西将軍・平羌校尉・仇池公とした。四年(360年)、俊が卒去し、子の世が立ち、再び冠軍将軍・平羌校尉・武都太守・仇池公とした。海西公の太和三年(368年)、世を征西将軍・秦州刺史に遷し、世の弟の統を寧東将軍・武都太守とした。五年(370年)、世が卒去し、統は世子の纂を廃して自立した。纂は一名を徳といい、徒党を集めて統を殺し、使者を簡文帝のもとに遣わして自ら陳述し、再び纂を平羌校尉・秦州刺史・仇池公とした。咸安元年(371年)、苻堅が楊安・苻雅らを遣わして纂を討伐し、これを攻略し、その民を関中に移住させ、百頃の地を空にした。纂は後に楊安に殺された。

原文成帝咸和九年,難敵卒,子毅立,自號使持節、龍驤將軍、左賢王、下辯公。以堅頭子槃為使持節、冠軍將軍、右賢王、河池公。咸康元年,遣使稱蕃於晉,以毅為征南,槃征東將軍。三年,毅族兄初襲殺毅,并有其眾,自立為仇池公,臣於石虎。後遣使稱蕃於穆帝。永和三年,以初為使持節、征南將軍、雍州刺史、平羌校尉、仇池公。初子國為鎮東將軍、武都太守。十年,改封初天水公。十一年,毅小弟宋奴使姑子梁式王因侍直手刃殺初,初子國率左右誅式王及宋奴,復自立。征西將軍桓溫表國為鎮北將軍、秦州刺史、平羌校尉,國子安為振威將軍、武都太守。十二年,國從父楊俊復殺國自立,安奔苻生,俊遣使歸順。昇平三年,以俊為平西將軍、平羌校尉、仇池公。四年,俊卒,子世立,復以為冠軍將軍、平羌校尉、武都太守、仇池公。海西公太和三年,遷征西將軍、秦州刺史,以世弟統為寧東將軍、武都太守。五年,世卒,統廢世子纂自立。纂一名德,聚黨殺統,遣使詣簡文帝自陳,復以纂為平羌校尉、秦州刺史、仇池公。咸安元年,苻堅遣楊安、苻雅等討纂克之,徙其民於關中,空百頃之地。纂後為楊安所殺。

宋奴が死んだとき、その二人の子の仏奴と仏狗は関中に逃げた。苻堅は仏奴を右将軍とし、仏狗を撫夷護軍とした。後に娘を仏奴の子の定に娶せ、定を尚書・領軍将軍とした。孝武帝の太元八年(383年)、苻堅が淮南で敗れ、関中が混乱すると、定は力を尽くして苻堅に仕えた。苻堅が死ぬと、家を率いて隴右に奔り、治所を歴城に移した。城は西県の境界にあり、仇池から百二十里離れていた。百頃に倉庫を設置した。夷や晋の人々を招き集め、千余家を得て、自ら龍驤将軍・平羌校尉・仇池公と号し、晋の孝武帝に藩属を称した。孝武帝はその自ら号した官職を仮に与えた。定は天水郡の西県と武都郡の上禄を割いて仇池郡とすることを求め、許された。十五年(390年)、また定を輔国将軍・秦州刺史とした。定はすでに自ら征西将軍を称していた。さらに持節・都督ととく隴右諸軍事・輔国大将軍・開府儀同三司に進められ、校尉・刺史はもとのままとした。その年、天水略陽郡を平定し、ついに秦州の地を有し、自ら隴西王と号した。十九年(394年)に至り、隴西の虜である乞仏乾帰を攻撃したが、定の軍は敗れて殺害された。子がなく、仏狗の子の盛が先に監国として仇池を守っており、位を継ぎ、自ら使持節・征西将軍・秦州刺史・平羌校尉・仇池公と号した。定に武王と諡した。四方の山の氐・羌を分けて二十部の護軍とし、それぞれが鎮戍となり、郡県を設置しなかった。安帝の隆安三年(399年)、使者を遣わして藩属を称し、地方の産物を献上した。安帝は盛を輔国将軍・平羌校尉・仇池公とした。元興三年(404年)、桓玄が晋を輔政すると、盛を平北将軍・涼州刺史・西戎校尉に進めた。義熙元年(405年)、姚興が盛を討伐し、盛は恐れて子の難当を人質として送った。姚興は将軍の王敏を遣わして城を攻撃させた。梁州別駕の呂瑩が盛に救援を求めたため、盛は軍を濜口に駐留させ、王敏は退却した。盛を都督隴右諸軍事・征西大将軍・開府儀同三司とした。当時、益州刺史の毛璩が桓玄が設置した梁州刺史の桓希を討伐し、敗走させたため、漢中が空虚となった。盛は兄の子である平南将軍の撫を遣わして漢中を守らせた。三年(407年)、また盛を使持節・北秦州刺史に仮授した。盛はまた将軍の苻宣を遣わして梁州刺史の代行とし、撫に代わらせた。九年(413年)、梁州刺史の索邈が南城に鎮すると、苻宣は帰還した。高祖(劉裕)が即位すると、盛を車騎大将軍に進め、侍中じちゅうを加えた。永初三年(422年)、武都王に改封し、長子の玄を武都王世子とし、前将軍の号を加え、難当を冠軍将軍、撫を安南将軍とした。盛は位を嗣いで三十年、太祖の元嘉二年(425年)六月に卒去した。時に六十二歳。私諡して恵文王といった。

原文宋奴之死也,二子佛奴、佛狗奔逃關中,苻堅以佛奴為右將軍,佛狗為撫夷護軍。後以女妻佛奴子定,以定為尚書、領軍將軍。孝武帝太元八年,苻堅敗於淮南,關中擾亂,定盡力奉堅。堅死,乃將家奔隴右,徙治歷城,城在西縣界,去仇池百二十里。置倉儲於百頃。招合夷、晉,得千餘家,自號龍驤將軍、平羌校尉、仇池公,稱蕃於晉孝武帝,孝武帝即以其自號假之。求割天水之西縣、武都之上祿為仇池郡,見許。十五年,又以定為輔國將軍、秦州刺史,定已自署征西將軍。又進持節、都督隴右諸軍事、輔國大將軍、開府儀同三司,校尉、刺史如故。其年,進平天水略陽郡,遂有秦州之地,自號隴西王。至十九年,攻隴西虜乞佛乾歸,定軍敗見殺。無子,佛狗子盛先為監國,守仇池,襲位,自號使持節、征西將軍、秦州刺史、平羌校尉、仇池公。諡定為武王。分諸四山氐、羌為二十部護軍,各為鎮戍,不置郡縣。安帝隆安三年,遣使稱蕃,奉獻方物。安帝以盛為輔國將軍、平羌校尉、仇池公。元興三年,桓玄輔晉,進盛平北將軍、涼州刺史、西戎校尉。義熙元年,姚興伐盛,盛懼,遣子難當為質。興遣將王敏攻城,因梁州別駕呂瑩,求救於盛,盛遣軍次濜口,敏退。以盛為都督隴右諸軍事、征西大將軍、開府儀同三司。時益州刺史毛璩討桓玄所置梁州刺史桓希,敗走,漢中空虛,盛遣兄子平南將軍撫守漢中。三年,又假盛使持節、北秦州刺史。盛又遣將苻宣行梁州刺史代撫。九年,梁州刺史索邈鎮南城,宣乃還。高祖踐阼,進盛車騎大將軍,加侍中。永初三年,改封武都王,以長子玄為武都王世子,加號前將軍,難當為冠軍將軍,撫為安南將軍。盛嗣位三十年,太祖元嘉二年六月卒,時年六十二,私諡曰惠文王。

玄は字あざなを黄眉といい、自ら使持節・都督隴右諸軍事・征西大将軍・開府儀同三司・平羌校尉・秦州刺史・武都王と号した。藩臣でありながらも、なお義熙の年号を奉じた。士人を厚遇し、流寓の者や旧来の者から慕われた。安南将軍の撫は文武の智略を備えていたが、玄は彼を容れることができず、三年(426年)、その子が人を殺したことを理由に、撫を併せて誅殺した。太祖は直ちに玄を使持節・征西将軍・平羌校尉・北秦州刺史・武都王とした。そこで義熙の年号を改め、元嘉の正朔を奉じた。初め、盛は玄に言った。「私はすでに年老いた。晋の臣となるべきである。お前はよく宋の皇帝に仕えよ。」それゆえ玄はそれに従ったのである。盛を驃騎大将軍に追贈し、その他の官職はもとのままとした。六年(429年)六月、玄が卒去し、私諡して孝昭王といった。

原文玄字黃眉,自號使持節、都督隴右諸軍事、征西大將軍、開府儀同三司、平羌校尉、秦州刺史、武都王。雖為蕃臣,猶奉義熙之號。善待士,為流、舊所懷。安南將軍撫有文武智略,玄不能容,三年,因其子殺人,并誅之。太祖即以玄為使持節、征西將軍、平羌校尉、北秦州刺史、武都王。乃改義熙之號,奉元嘉正朔。初,盛謂玄曰:「吾年已老,當為晉臣,汝善事宋帝。」故玄奉焉。追贈盛驃騎大將軍,餘如故。六年六月,玄卒,私諡曰孝昭王。

弟の楊難當は楊玄の子である楊保宗(別名は羌奴)を廃して自ら立ち、使持節・都督雍涼諸軍事・秦州刺史・平羌校尉・武都王を称した。太祖(宋の文帝)は彼を冠軍将軍・秦州刺史・武都王とした。元嘉九年、征西将軍の号を加えられ、持節・都督・校尉の称号も授けられた。楊難當は楊保宗を鎮南将軍に任じて宕昌に駐屯させ、次男の楊順を鎮東将軍・秦州刺史として上邽を守らせた。楊保宗が楊難當を襲撃しようと謀ったが、事が漏れ、捕らえられて拘禁された。これより先、各地からの流民である許穆之と郝恢之の二人が楊難當に身を寄せ、ともに司馬姓に改めた。穆之は自らを飛龍と名乗り、恢之は自らを康之と名乗り、晋王室の近親であると称した。康之はまもなく人に殺された。元嘉十年、楊難當は益州刺史の劉道済が蜀の人心を失っていると見て、兵力を飛龍(許穆之)に与え、蜀に侵入させて寇掠させたが、劉道済がこれを撃破して斬った。当時、梁州刺史の甄法護は刑罰や政務を適切に行わず、太祖は刺史の蕭思話を派遣して代わらせた。楊難當は蕭思話がまだ到着せず、甄法護が任を離れようとしている隙に乗じて、兵を挙げて梁州を襲撃し、白馬を陥落させ、晋昌太守の張範を捕らえた。甄法護は参軍の魯安期と沈法慧らを派遣して防がせたが、ともに敗走した。楊難當はさらに建忠将軍の趙進を派遣して葭萌を攻め、晋寿太守の范延朗を捕らえた。その年十一月、甄法護は任地を捨てて洋川に逃れ、楊難當はついに漢中の地を手中に収めた。氐族の苻粟持を梁州刺史としたが、その凶暴さゆえに殺害し、司馬の趙温を代わりに梁州の任に就かせた。元嘉十年正月、蕭思話は司馬の蕭承之を先鋒として進軍させて討伐にあたらせ、向かうところ勝利を収め、ついに梁州を平定した。このことは蕭思話伝にある。四月、楊難當は使者を派遣して上表文を奉り、罪を謝した。その文は以下の通りである:

原文弟難當廢玄子保宗一名羌奴而自立,號使持節、都督雍涼諸軍事、秦州刺史、平羌校尉、武都王。太祖以為冠軍將軍、秦州刺史、武都王。九年,進號征西將軍,加持節、都督、校尉之號。難當拜保宗為鎮南將軍,鎮宕昌,以次子順為鎮東將軍、秦州刺史,守上邽。保宗謀襲難當,事泄,收繫之。先是,四方流民有許穆之、郝恢之二人投難當,並改姓為司馬。穆之自云名飛龍,恢之自云名康之,云是晉室近戚。康之尋為人所殺。十年,難當以益州刺史劉道濟失蜀土人情,以兵力資飛龍,使入蜀為寇,道濟擊斬之。時梁州刺史甄法護刑法不理,太祖遣刺史蕭思話代任。難當因思話未至,法護將下,舉兵襲梁州,破白馬,獲晉昌太守張範。法護遣參軍魯安期、沈法慧等拒之,並各奔退。難當又遣建忠將軍趙進攻葭萌,獲晉壽太守范延朗。其年十一月,法護委鎮奔洋川,難當遂有漢中之地。以氐苻粟持為梁州刺史,又以其凶悍殺之,以司馬趙溫代為梁州。十年正月,思話使司馬蕭承之先驅進討,所向剋捷,遂平梁州,事在思話傳。四月,難當遣使奉表謝罪,曰:

太祖は彼が辺境の異民族であることを考慮し、詔を下して言った。「楊難當の上表はこのようなものであり、以前の過ちを悔いて謝罪している。特にこれを許し、かつ特に節と符節を返還せよ。」

原文太祖以其邊裔,下詔曰:「楊難當表如此,悔謝前愆,可特恕宥,并特還章節。」

元嘉十二年、楊難當は楊保宗を釈放し、童亭に駐屯させたが、楊保宗は逃亡した。索虜(北魏)の主である拓跋燾は彼を都督隴西諸軍事・征西大将軍・開府儀同三司・平羌校尉・南秦王に任じ、上邽を襲撃させた。楊難當の子の楊順は守りを失って退却し、雍州刺史として下辯を守った。元嘉十三年三月、楊難當は自ら大秦王を称し、年号を建義とし、妻を王后に、世子を太子に立て、百官を設置し、天子の朝廷を模倣した。しかしなおも朝廷(宋)に臣従し、貢ぎ物を絶やさなかった。元嘉十七年、その国は大旱魃に見舞われ、多くの災異があったため、大秦王から再び武都王に降格した。

原文十二年,難當釋保宗,遣鎮童亭,保宗奔,索虜主拓跋燾以為都督隴西諸軍事、征西大將軍、開府儀同三司、平羌校尉、南秦王,遣襲上邽,難當子順失守退,以為雍州刺史,守下辯。十三年三月,難當自立為大秦王,號年曰建義,立妻為王后,世子為太子,置百官,具擬天朝,然猶奉朝庭,貢獻不絕。十七年,其國大旱,多災異,降大秦王復為武都王。

元嘉十八年十月、国を挙げて南侵し、蜀の地を手に入れようと図り、漢中からの宋軍の出撃を恐れて、建忠将軍の苻沖を東洛に派遣して防がせた。梁州刺史の劉真道が苻沖を撃破して斬った。十一月、楊難當は葭萌を陥落させ、晋寿太守の申坦を捕らえ、ついに涪城を包囲した。巴西太守の劉道錫は城に籠って固く守り、楊難當は十余日間攻撃したが陥落させられず、引き揚げた。元嘉十九年正月、太祖は龍驤将軍の裴方明、太子左積弩将軍の劉康祖、後軍参軍の梁坦に甲士こうし三千人を与え、さらに荊州と雍州の二州の兵を動員して楊難當を討伐させ、劉真道の指揮下に置いた。五月、裴方明らは漢中に到着し、長駆して進軍した。劉真道は武興に到着し、偽の建忠将軍である苻隆を攻撃してこれを撃破した。安西参軍の韋俊と建武将軍の姜道盛は別働隊として下辯に向かい、劉真道はさらに司馬の夏侯穆季を派遣して西の白水を攻め取らせた。楊難當の子で雍州刺史の楊順と建忠将軍の楊亮がこれを防いだが、ともに風の便りを聞いて敗走した。閏月、裴方明は蘭臯に到着した。楊難當の鎮北将軍の苻義徳と建節将軍の苻弘祖が一万余りで陣を構えて防戦したが、裴方明がこれを撃破し、苻弘祖を斬り、二千余人を殺害し、苻義徳は逃走した。天水の任愈之が配下を率いて帰順した。楊難當の世子で撫軍大将軍の楊和が修城を占拠していたが、裴方明はさらに軍を派遣して任愈之を率いて楊和を攻撃し、大破した。ここにおいて楊難當は妻子を連れて索虜(北魏)に逃亡し、その地で死んだ。安西参軍の魯尚期が楊難當を寒峡まで追撃し、建節将軍の楊保熾と安昌侯の楊虎頭を生け捕りにした。初め、楊難當は第二子の楊虎を鎮南将軍・益州刺史として陰平を守らせていた。楊虎は父が逃亡したと聞き、逃げ帰ろうとして下辯に至った。裴方明は子の裴粛之に命じて途中で待ち伏せさせ、楊虎を生け捕りにし、都に護送して建康の市で斬首した。こうして仇池は平定された。

原文十八年十月,傾國南寇,規有蜀土,慮漢中軍出,遣建忠將軍苻沖出東洛以防之。梁州刺史劉真道擊斬沖。十一月,難當剋葭萌,獲晉壽太守申坦,遂圍涪城,巴西太守劉道錫嬰城固守,難當攻之十餘日,不剋,乃還。十九年正月,太祖遣龍驤將軍裴方明、太子左積弩將軍劉康祖、後軍參軍梁坦甲士三千人,又發荊、雍二州兵討難當,受劉真道節度。五月,方明等至漢中,長驅而進。真道到武興,攻偽建忠將軍苻隆,剋之。安西參軍韋俊、建武將軍姜道盛別向下辯,真道又遣司馬夏侯穆季西取白水,難當子雍州刺史順、建忠將軍楊亮拒之,並望風奔走。閏月,方明至蘭臯,難當鎮北將軍苻義德、建節將軍苻弘祖萬餘人列陣拒戰,方明擊破之,斬弘祖,殺二千餘人,義德遁去。天水任愈之率部曲歸順。難當世子撫軍大將軍和據修城,方明又遣軍率愈之攻和,大破之。於是難當將妻子奔索虜,死于虜中。安西參軍魯尚期追難當出寒峽,生禽建節將軍楊保熾、安昌侯楊虎頭。初,難當遣第二子虎為鎮南將軍、益州刺史,守陰平。聞父走,逃還,至下辯。方明使子肅之要之,生禽虎,傳送京師,斬于建康市。仇池平。

輔国司馬の胡崇之を龍驤将軍・秦州刺史・平羌校尉に任じ、仇池を守らせた。索虜の拓跋燾は安西大将軍の吐奚弼と平北将軍の拓跋斉ら二万人を派遣して胡崇之を迎え撃たせた。元嘉二十年二月、胡崇之は濁水に到着し、仇池から八十里の地点で拓跋斉らと遭遇し、戦って敗れ戦死し、残兵は漢中に逃げ帰った。

原文以輔國司馬胡崇之為龍驤將軍、秦州刺史、平羌校尉,守仇池。索虜拓跋燾遣安西大將軍吐奚弼、平北將軍拓跋齊等二萬人邀崇之。二十年二月,崇之至濁水,去仇池八十里,遇齊等,戰敗沒,餘眾奔還漢中。

三月、前鎮東司馬の苻達と征西従事中郎の任朏らが義兵を挙げ、楊保宗の弟の楊文徳を主君として擁立した。拓跋斉は兵が起こったと聞いて逃走し、苻達が追撃して拓跋斉を斬り、これにより白崖を占拠し、諸々の戍を平定した。楊文徳は自ら使持節・都督秦河涼三州諸軍事・征西大将軍・秦河涼三州牧・平羌校尉・仇池公を称し、露板(封をしない文書)を朝廷に急送して報告した。太祖は詔を下して言った。「近ごろ校尉仇池公が上表したところによれば、虜(北魏)が放縦に振る舞い、仇池を侵し窃み、将兵は挫折し傷つき、民衆は塗炭の苦しみにあるという。四方を見渡し、思いを巡らせれば、哀れみと憤慨の念が胸に満ちる。楊文徳は代々忠順に篤く、その誠意は家と国に通じ、義兵を糾合し率いて、凶悪な賊を殲滅した。その旗印の向かうところ、殲滅・潰走させずに残すことはなく、妖気は晴れ渡り、辺境は平穏に統一された。その功績を思いその事績を考えれば、まことに喜び賞賛に値する。ただちに使者を派遣して慰労し、朝廷の旨を示せ。また梁州刺史の申坦に命じて、状況に応じて救援に当たらせよ。」さらに詔を下して言った。「顕著な功績を記録することは、国の法典である。賞を与えるには速やかに行うべきで、時を過ごしてはならない。楊文徳は志気が果敢で、文武に優れ、機に乗じて密かに奮起し、並外れた功績を成し遂げた。勝利を告げ誠意を示し、万里の彼方から捕虜を献上した。朝廷はわずかな土地も与えず、自ら困難を切り開いて威厳を示し、輝かしい功績は明らかである。朕は大いにこれを嘉する。楊氏は代々西方で功労を立て、忠誠を幾代にもわたって積み重ねてきた。先人の業績を継承し、寵愛と栄誉を受けるにふさわしい。使持節・散騎常侍さんきじょうじ・都督北秦雍二州諸軍事・征西大将軍・平羌校尉・北秦州刺史とし、武都王に封ぜよ。」任朏の祖父の任岐、伯父の任祚、父の任綜は、いずれも楊氏に仕え、諮議従事中郎であった。任朏は志と才幹があり、楊文徳は彼を左司馬とした。

原文三月,前鎮東司馬苻達、征西從事中郎任朏等舉義,立保宗弟文德為主。拓跋齊聞兵起遁走,達追擊斬齊,因據白崖,分平諸戍。文德自號使持節、都督秦河涼三州諸軍事、征西大將軍、秦河涼三州牧、平羌校尉、仇池公,遣露板馳告朝廷。太祖詔曰:「近者校尉仇池公表虜縱逸,寇竊仇池,將士挫傷,民萌塗炭,眷言四顧,矜慨在懷。楊文德世篤忠順,誠感家國,糾率義徒,奄殄凶醜,鋒旗所向,殲潰無遺,氛祲澄清,蕃境寧一,念功惟事,良有欣嘉。便可遣使慰勞,宣示朝旨,并勑梁州刺史申坦隨宜應援。」又詔曰:「顯錄勳効,蓋惟國典,施賞務速,無或踰時。楊文德志氣果到,文武兼全,乘機潛奮,殊功仍集,告捷歸誠,獻俘萬里,朝無暫土,樹難自肅,休烈昭著,朕甚嘉焉。楊氏世祖西勞,方忠累葉,宜紹先緒,膺受寵榮。可使持節、散騎常侍、都督北秦雍二州諸軍事、征西大將軍、平羌校尉、北秦州刺史,封武都王。」任朏祖父岐,伯父祚,父綜,並仕楊氏,為諮議從事中郎。朏有志幹,文德以為左司馬。

楊文徳は朝廷の任命を受けると、進軍して茄蘆城を守備した。元嘉二十五年、索虜(北魏)の攻撃を受け、漢中に逃亡した。当時、世祖(孝武帝)は襄陽に鎮守しており、楊文徳を捕らえて都に送り、守備地を失った罪で官職を免じ、爵位と封土を削った。元嘉二十七年、朝廷の軍が北討を行うにあたり、楊文徳を輔国将軍として起用し、軍を率いて漢中から西に入り、汧・隴の地を揺るがせた。楊文徳の同族の楊高が陰平と平武の諸氐族を率いて唐魯橋を占拠し、楊文徳を防いだ。楊文徳は水陸両面から攻撃し、これを大破した。兵士たちはともに敗走し散り散りになった。楊高は逃走して羌族のもとに身を寄せた。楊文徳は黎卬嶺まで追撃し、楊高は単身で羌族の仇阿弱の家に逃げ込んだが、追いかけて斬り殺し、陰平と平武をすべて平定した。さらに楊文徳を派遣して啖提氐を討伐させたが、勝利できず、梁州刺史の劉秀之が彼を捕らえて荊州に送り、楊文徳の従祖兄の楊頭に茄蘆を守備させた。荊州刺史の南郡王劉義宣が反乱を起こしたとき、楊文徳は同調せず、殺害された。世祖は彼を追贈して征虜将軍・秦州刺史とした。

原文文德既受朝命,進戍茄蘆城。二十五年,為索虜所攻,奔于漢中。時世祖鎮襄陽,執文德歸之于京師,以失守,免官,削爵土。二十七年,王師北討,起文德為輔國將軍,率軍自漢中西入,搖動汧、隴。文德宗人楊高率陰平、平武羣氐,據唐魯橋以距文德,文德水陸俱攻,大破之,眾並奔散。高遁走奔羌,文德追之至黎卬嶺,高單身投羌仇阿弱家,追斬之,陰平、平武悉平。又遣文德伐啖提氐,不剋,梁州刺史劉秀之執送荊州,使文德從祖兄頭戍茄蘆。荊州刺史南郡王義宣反,文德不同見殺,世祖追贈征虜將軍、秦州刺史。

孝建二年(455年)、保宗の子の元和を征虜将軍とし、頭を輔国将軍とした。元和は楊氏の正統ではあったが、群氐は彼を宗主として推戴しようとしたものの、年が若く才能も弱く、配下の部衆を鎮撫統御することができなかった。頭の母・妻・子・弟はともに索虜(北魏)に捕らえられていたが、頭は至誠を尽くして朝廷に恭順し、私情に囚われることはなかった。朝廷は元和の称号と地位を正式に認めず、部落には定まった主君がいなかったため、雍州刺史の王玄謨が上表して言った。「詔勅により、臣に命じて使者を楊元和と楊頭のもとに遣わし、連絡を取り、贈り物を届けさせました。すでに中軍行参軍の呂智宗に書状と贈り物を持たせて派遣しましたが、彼ら自身も使者を智宗に随行させました。頭が智宗に語ったところによると、近ごろ家を捨てて国のために尽くし、母・妻・子・弟はともに虜(北魏)に陥落し、孝道を顧みず、辺境防衛に力を尽くし、忠誠を傾け誠意を尽くしたが、まだ朝廷に認められていないという。もし元和が正統を継承するならば、王爵を授けるべきである。もし彼が若くて重任に堪えないならば、別に委任すべき者があるはずだ。近ごろ公私に紛糾が生じ、華(漢)と戎(異民族)が互いに争っているのは、すべてこのことによるものである。臣が思うに、頭は元嘉年間以来、実に国に対して忠誠があり、親族を捨て愛する者を遺してまでしたことは、誠に賞賛に値する。氐や羌は遠方にあり、また虜と咫尺の距離にある。急ぎすぎれば反乱を起こし、緩やかすぎれば怨みを抱く。頭の使者の言葉から判断すると、彼はすぐに仇池公の地位を望んでいるわけではなく、希望しているのはせいぜい西秦州での仮節の権限だけである。臣の愚見では、漢川を蕃屏として守り、虜の患いがないようにするのに、頭は実に力がある。四千戸の荒れた州を、惜しむにはおよばない。元和は幼弱であり、もし専任に堪えないならば、さらに数年後には必ず後継の事業に堪えるようになるだろう。彼を用いるのは難しくない。もし才能がその任にふさわしくなければ、その時は頭に帰属させるべきである。もし茄蘆が守れなければ、漢川もまた存立する道理はない。」皇帝は許さなかった。その後、元和を武都王に立て、白水を治めさせたが、自立できず、再び索虜(北魏)に奔って逃げた。

原文孝建二年,以保宗子元和為征虜將軍,以頭為輔國將軍。元和既楊氏正統,羣氐欲相宗推,年小才弱,不能綏御所部,頭母妻子弟並為索虜所執,頭至誠奉順,無所顧懷。朝廷既不正元和號位,部落未有定主,雍州刺史王玄謨上表曰:「被勑令臣遣使與楊元和、楊頭相聞,并致信餉。既遣中軍行參軍呂智宗齎書并信等,亦自遣使隨智宗。及頭語智宗,頃破家為國,母妻子弟并墜沒虜中,不顧孝道,陳力邊捍,竭忠盡誠,未為朝廷所識。若以元和承統,宜授王爵;若以其年小未堪大任,則應別有所委。頃來公私紛紜,華、戎交構,皆此之由。臣伏尋頭元嘉以來,實有忠誠於國,棄親遺愛,誠在可嘉。氐、羌負遠,又與虜咫尺,急之則反,緩之則怨。觀頭使人言語,不敢便望仇池公,所希政在西秦州假節而已。如臣愚見,蕃捍漢川,使無虜患,頭實有力,四千戶荒州,殆不足吝。元和小弱,若未可專委,復數年之後,必堪嗣業,用之不難。若才用不稱,則應歸頭。若茄蘆不守,漢川亦無立理。」上不許。其後立元和為武都王,治白水,不能自立,復走奔索虜。

元和の従弟の僧嗣が、再び自立し、茄蘆に戻って守備し、寧朔将軍・仇池太守に任じられた。太宗泰始二年(466年)、詔が下された。「僧嗣は遠く西の辺境を守り、代々忠誠を厚くしてきた。その義烈を明らかにするため、表彰を加えるべきである。冠軍将軍・北秦州刺史・武都王とし、太守はもとの通りとする。」三年(467年)、持節・都督北秦雍二州諸軍事を加えられ、征西将軍・校尉に進号し、刺史はもとの通りとした。僧嗣が死去すると、従弟の文度が再び自立した。泰豫元年(472年)、龍驤将軍・略陽太守とし、武都王に封じ、さらに龍驤を寧朔将軍に改めた。後廃帝元徽四年(476年)、督北秦州諸軍事・平羌校尉・北秦州刺史を加えられ、将軍はもとの通りとした。文度は弟の龍驤将軍文弘を遣わして仇池を攻撃させ、蘭臯で守備兵を破った。順帝昇明元年(477年)、詔が下された。「盛大な賞賜には規定があり、国の法度を明らかにし、功績を顕彰することは、史冊に記されるべきである。督北秦州諸軍事・寧朔将軍・平羌校尉・北秦州刺史、武都王の文度は、家門に輝かしい寵愛を受け、代々辺境の邑で栄え、忠義果断はすでに明らかで、才幹と剛勁さを兼ね備えている。龍驤将軍の楊文弘は厳かに規律に協力し、自ら戦鼓を打ち、百頃を押し進め、蘭臯を席巻した。その功績の美しさは、ともに十分に賞賛すべきであり、爵位と官職を授けて、勲功に報いるべきである。文度は使持節・都督北秦雍二州諸軍事・征西将軍とし、刺史・校尉はすべてもとの通りとする。文弘は輔国将軍・略陽太守とする。」その年、虜が茄蘆を攻め落とし、文度は殺害された。本官を追贈し、散騎常侍を加えられた。文弘を督北秦州諸軍事・平羌校尉・北秦州刺史とし、武都王の封を襲封させ、将軍はもとの通りとした。文弘は武興に退いて治めた。

原文元和從弟僧嗣,復自立,還戍茄蘆,以為寧朔將軍、仇池太守。太宗泰始二年,詔曰:「僧嗣遠守西疆,世篤忠款,宜加旌顯,以甄義概。可冠軍將軍、北秦州刺史、武都王,太守如故。」三年,加持節、都督北秦雍二州諸軍事,進號征西將軍、校尉,刺史如故。僧嗣卒,從弟文度復自立。泰豫元年,以為龍驤將軍、略陽太守,封武都王,又改龍驤為寧朔將軍。後廢帝元徽四年,加督北秦州諸軍事、平羌校尉、北秦州刺史,將軍如故。文度遣弟龍驤將軍文弘伐仇池,破戍兵於蘭臯。順帝昇明元年,詔曰:「茂賞有章,實昭國度,疇庸斯炳,載宣史冊。督北秦州諸軍事、寧朔將軍、平羌校尉、北秦州刺史,武都王文度門乘輝寵,世榮邊邑,忠果既亮,才勁兼彰。龍驤將軍楊文弘肅協成規,躬提桴鼓,申稜百頃,席卷蘭臯,功烈之美,並足嘉歎,宜膺爵授,以酬勳緒。文度可使持節、都督北秦雍二州諸軍事、征西將軍,刺史、校尉悉如故。文弘輔國將軍、略陽太守。」其年,虜破茄蘆,文度見殺,追贈本官,加散騎常侍。以文弘督北秦州諸軍事、平羌校尉、北秦州刺史,襲封武都王,將軍如故。退治武興。

大且渠蒙遜は、張掖郡臨松県の盧水胡人である。匈奴には左且渠・右且渠という官職があり、蒙遜の先祖がこの職に就いていた。羌の酋長のことを「大」と言ったので、且渠は官職を氏とし、それに「大」を冠したのである。代々盧水に住んで酋長となった。蒙遜の高祖父の暉仲帰、曾祖父の遮は、みな雄健で勇名があった。祖父の祁復延は狄地王に封じられた。父の法弘が爵位を継承し、苻氏(前秦)によって中田護軍に任じられた。

原文大且渠蒙遜,張掖臨松盧水胡人也。匈奴有左且渠、右且渠之官,蒙遜之先為此職,羌之酋豪曰大,故且渠以位為氏,而以大冠之。世居盧水為酋豪。蒙遜高祖暉仲歸,曾祖遮,皆雄健有勇名。祖祁復延,封狄地王。父法弘襲爵,苻氏以為中田護軍。

蒙遜は父に代わって部曲を統率し、勇略があり、計略に富み、諸胡から推戴され服従された。呂光が涼州で王を称すると、蒙遜に自ら営の人々を率いて箱直に配属させ、また蒙遜の叔父の羅仇を西平太守とした。安帝隆安三年(399年)春、呂光は子の鎮東将軍纂に羅仇を率いさせて枹罕ほうかんの虜である乞仏乾帰を討伐させたが、乾帰に敗れた。光は罪を羅仇に負わせて殺した。四月、蒙遜は羅仇の遺体を帰葬することを求め、これに乗じて万余人を集めて呂光に反逆し、臨松護軍を殺し、金山に駐屯した。五月、光は纂を指揮して蒙遜を撃破し、蒙遜は六七人の将兵を率いて山中に逃れ、家族や戸籍はすべて離散した。その時、蒙遜の兄の男成が兵を率いて西の晋昌を守っていたが、蒙遜の反乱を聞き、軍を返して酒泉太守の疊滕を殺し、建康太守の段業を主君に推戴した。業は自ら龍驤大将軍・涼州牧・建康公を号し、男成を輔国将軍とした。男成および晋昌太守の王徳は張掖を包囲し、これを攻略した。業はこれにより張掖を占拠した。蒙遜は部曲を率いて段業に投じ、業は蒙遜を鎮西将軍・臨池太守とし、王徳を酒泉太守とした。まもなくまた蒙遜に張掖太守を兼任させた。三年(400年)四月、業は蒙遜に万人を率いさせて西郡で呂光の弟子の純を攻撃させたが、十日経っても攻略できなかった。そこで水を引いて城を灌漑し、窮迫した純は降伏を乞い、捕らえて帰還した。その時、王徳が段業に背き、自ら河州刺史を称した。業は蒙遜に西討させた。王徳は城を焼き、部曲を率いて晋昌太守の唐瑤に奔った。蒙遜は王徳を沙頭まで追撃し、大破してその妻子と部落を捕虜にして帰還した。西安太守に転任し、将軍はもとの通りとした。四年(401年)五月、蒙遜は男成と謀って段業を殺そうとしたが、男成は許さなかった。蒙遜は逆に男成を段業に讒言し、業は男成を殺した。蒙遜はそこでその部曲に言った。「段公は無道で、輔国将軍(男成)を無実の罪で殺した。私は輔国のために仇を討つ。」そこで兵を挙げて張掖を攻め、段業を殺し、自ら車騎大将軍を称し、年号を永安元年とした。

原文蒙遜代父領部曲,有勇略,多計數,為諸胡所推服。呂光自王於涼州,使蒙遜自領營人配箱直,又以蒙遜叔父羅仇為西平太守。安帝隆安三年春,呂光遣子鎮東將軍纂率羅仇伐枹罕虜乞佛乾歸,為乾歸所敗,光委罪羅仇,殺之。四月,蒙遜求還葬羅仇,因聚萬餘人叛光,殺臨松護軍,屯金山。五月,光揮纂擊破蒙遜,蒙遜將六七人,逃山中,家戶悉亡散。時蒙遜兄男成將兵西守晉昌,聞蒙遜反,引軍還,殺酒泉太守疊滕,推建康太守段業為主。業自號龍驤大將軍、涼州牧、建康公,以男成為輔國將軍。男成及晉昌太守王德圍張掖,剋之,業因據張掖。蒙遜率部曲投業,業以蒙遜為鎮西將軍、臨池太守,王德為酒泉太守。尋又以蒙遜領張掖太守。三年四月,業使蒙遜將萬人攻光弟子純於西郡,經旬不剋,乃引水灌城,窘急乞降,執之以歸。時王德叛業,自稱河州刺史,業使蒙遜西討,德焚城,將部曲走投晉昌太守唐瑤,蒙遜追德至沙頭,大破之,虜其妻子部落而還。轉西安太守,將軍如故。四年五月,蒙遜與男成謀殺業,男成不許,蒙遜反譖男成於業,業殺男成。蒙遜乃謂其部曲曰:「段公無道,枉殺輔國。吾為輔國報讎。」遂舉兵攻張掖,殺段業,自稱車騎大將軍,建號永安元年。

その月、敦煌太守の李暠もまた兵を起こし、自ら冠軍大将軍・西胡校尉・沙州刺史を号し、太守はもとの通りとした。年号を庚子元年と称した。蒙遜と対抗した。その冬、李暠は唐瑤および鷹揚将軍の宋繇を遣わして酒泉を攻撃させ、太守の大且渠益生を捕らえた。彼は蒙遜の従叔である。

原文是月,敦煌太守李暠亦起兵,自號冠軍大將軍、西胡校尉、沙州刺史,太守如故。稱庚子元年。與蒙遜相抗。其冬,暠遣唐瑤及鷹揚將軍宋繇攻酒泉,獲太守大且渠益生,蒙遜從叔也。

呂光が死に、子の纂が立った。元年(399年)、従弟の隆に簒奪さんだつされた。姚興が涼州を攻撃すると、隆は臣下を称して降伏を請い、蒙遜もまた使者を姚興のもとに遣わした。興は蒙遜を鎮西将軍・沙州刺史・西海侯とした。二年(400年)二月、蒙遜は西平の虜である禿髪傉檀とともに涼州を攻撃したが、隆に撃破された。十月、傉檀が再び隆を攻撃した。三年(401年)三月、隆は蒙遜と傉檀がともに逼迫してきたため、弟の超を姚興のもとに遣わして迎えを求めた。七月、興は将軍の斉難を遣わして隆を迎えさせた。隆は斉難に蒙遜を討伐するよう説き、蒙遜は恐れて弟を人質として差し出し、斉難に宝物を献上したので、討伐は中止された。武衛将軍の王尚を行涼州刺史として派遣し、帰還した。

原文呂光死,子纂立,元年,為從弟隆所篡。姚興攻涼州,隆稱臣請降,蒙遜亦遣使詣興,興以為鎮西將軍、沙州刺史、西海侯。二年二月,蒙遜與西平虜禿髮傉檀共攻涼州,為隆所破。十月,傉檀復攻隆,三年三月,隆以蒙遜、傉檀交逼,遣弟超詣姚興求迎。七月,興遣將齊難迎隆,隆說難伐蒙遜,蒙遜懼,遣弟為質,獻寶貨於難,乃止,以武衞將軍王尚行涼州刺史而還。

義熙元年(405年)正月、李暠は大將軍・大都督・涼州牧・護羌校尉・涼公と改めて称した。五月、酒泉に移って拠点とした。姚興は傉檀に涼州刺史の仮号を与え、王尚に代わって姑臧に駐屯させた。二年(406年)九月、蒙遜が李暠を襲撃し、安彌に至り、城から六十里のところで李暠はようやく気づいた。軍を率いて出戦したが大敗し、退却して城に戻り、城門を閉じて自ら守備した。蒙遜も帰還した。六年(410年)、蒙遜は傉檀を攻め破り、傉檀は逃走して楽都に駐屯した。武威の人焦朗が姑臧に入り、驃騎大將軍を自称し、李暠に臣従した。八年(412年)、蒙遜が焦朗を攻撃し、これを殺害した。姑臧を占拠し、大都督・大將軍・河西王を自称し、元号を玄始元年と改め、子の正徳を世子に立てた。

原文義熙元年正月,李暠改稱大將軍、大都督、涼州牧、護羌校尉、涼公;五月,移據酒泉。姚興假傉檀涼州刺史,代王尚屯姑臧。二年九月,蒙遜襲李暠,至安彌,去城六十里,暠乃覺。引軍出戰,大敗,退還,閉城自守,蒙遜亦歸。六年,蒙遜攻破傉檀,傉檀走屯樂都。武威人焦朗入姑臧,自號驃騎大將軍,臣于李暠。八年,蒙遜攻焦朗,殺之。據姑臧,自號大都督、大將軍、河西王,改稱玄始元年,立子正德為世子。

十三年(417年)五月、李暠が死去し、子の歆が立った。六月、歆が蒙遜を討伐し、建康に至った。蒙遜がこれを防ぎ、歆は退却して逃走した。西支澗まで追撃され、蒙遜は大敗し、死者は四千余人に及んだ。そこで残兵を収容し、建康城を増築して兵を置いて守備させ、帰還した。

原文十三年五月,李暠死,子歆立。六月,歆伐蒙遜,至建康,蒙遜拒之,歆退走,追到西支澗,蒙遜大敗,死者四千餘人,乃收餘眾,增築建康城,置兵戍而還。

十四年(418年)、蒙遜は使者を晋に遣わし、上表して藩属を称し、蒙遜を涼州刺史とした。高祖(劉裕)が即位すると、歆を使持節・都督高昌敦煌晋昌酒泉西海玉門堪泉七郡諸軍事・護羌校尉・征西大將軍・酒泉公に任じた。

原文十四年,蒙遜遣使詣晉,奉表稱蕃,以蒙遜為涼州刺史。高祖踐阼,以歆為使持節、都督高昌敦煌晉昌酒泉西海玉門堪泉七郡諸軍事、護羌校尉、征西大將軍、酒泉公。

永初元年(420年)七月、蒙遜が東方の浩舋を攻略すると、李歆は虚に乗じて張掖を攻撃した。蒙遜は軍を返して西帰し、歆は退却して逃走した。臨沢まで追撃し、歆の兄弟三人を斬った。酒泉に進攻し、これを陥落させた。歆の弟で敦煌太守の恂が郡を拠点とし、大將軍を自称した。十月、蒙遜は世子の正徳を派遣して恂を攻撃させたが、落とせなかった。三年(422年)正月、蒙遜は自ら赴き長堤を築いて水を引き、城に注ぎ込んだ。数十日経っても、また落とせなかった。三月、恂の武衞将軍宋承と広武将軍張弘が城を挙げて降伏し、恂は自殺した。李氏はこれによって遂に滅亡した。ここにおいて鄯善王の比龍が入朝し、西域三十六国が皆、臣下を称して貢物を献上した。

原文永初元年七月,蒙遜東略浩舋,李歆乘虛攻張掖,蒙遜回軍西歸,歆退走,追至臨澤,斬歆兄弟三人,進攻酒泉,剋之。歆弟敦煌太守恂據郡,自稱大將軍。十月,蒙遜遣世子正德攻恂,不下。三年正月,蒙遜自往築長堤引水灌城,數十日,又不下。三月,恂武衞將軍宋承、廣武將軍張弘舉城降,恂自殺,李氏由是遂亡。於是鄯善王比龍入朝,西域三十六國皆稱臣貢獻。

高祖は蒙遜を使持節・散騎常侍・都督涼州諸軍事・鎮軍大將軍・開府儀同三司・涼州刺史・張掖公に任じた。

原文高祖以蒙遜為使持節、散騎常侍、都督涼州諸軍事、鎮軍大將軍、開府儀同三司、涼州刺史、張掖公。

十二月、晋昌太守の唐契が反乱を起こした。再び正徳を派遣して唐契を攻撃させた。景平元年(423年)三月、これを陥落させ、唐契は伊吾に奔った。

原文十二月,晉昌太守唐契反,復遣正德攻契。景平元年三月,克之,契奔伊吾。

八月、芮芮(柔然)が来襲して略奪した。蒙遜は正徳を派遣してこれを防がせた。正徳は軽騎兵を率いて進軍して戦ったが、軍は敗れて殺害された。そこで次子の興国を世子とした。

原文八月,芮芮來抄,蒙遜遣正德距之,正德輕騎進戰,軍敗見殺。乃以次子興國為世子。

この年、蒙遜を侍中・都督涼秦河沙四州諸軍事・驃騎大將軍・領護匈奴中郎将・西夷校尉・涼州牧・河西王に進め、開府・持節は従前の通りとした。

原文是歲,進蒙遜侍中、都督涼秦河沙四州諸軍事、驃騎大將軍、領護匈奴中郎將、西夷校尉、涼州牧,河西王,開府、持節如故。

太祖の元嘉元年(424年)、枹罕の虜(異民族)である乞佛熾槃が貂渠谷から出撃して河西の白草嶺を攻撃し、臨松郡は全て陥落した。蒙遜の従弟の成都、従子の日蹄、頗羅などを捕らえて去った。

原文太祖元嘉元年,枹罕虜乞佛熾槃出貂渠谷攻河西白草嶺,臨松郡皆沒,執蒙遜從弟成都、從子日蹄、頗羅等而去。

三年(426年)、驃騎を車騎に改称した。世子の興国が使者を派遣して上表し、『周易』および子部・集部の諸書を請うた。太祖はこれらを全て下賜し、合わせて四百七十五巻であった。蒙遜はまた司徒しとの王弘に『捜神記』を求め、王弘は書き写して与えた。

原文三年,改驃騎為車騎。世子興國遣使奉表,請周易及子集諸書,太祖並賜之,合四百七十五卷。蒙遜又就司徒王弘求搜神記,弘寫與之。

六年(429年)、蒙遜が枹罕を征討した。この時、乞佛熾槃は既に死去しており、子の茂蔓が蒙遜を大破し、興国を生け捕りにし、三千余人を殺害した。蒙遜は興国を贖おうとし、穀物三十万斛こくを送ったが、結局引き渡さなかった。蒙遜はそこで興国の同母弟の菩提を世子に立てたが、朝廷はまだ知らなかった。七年(430年)、興国を冠軍将軍・河西王世子に任じた。その年の夏四月、西虜の赫連定が索虜(北魏)の拓跋燾に撃破され、上邽に奔った。十一月、茂蔓は赫連定の敗北を聞き、家眷と興国を率いて東征し、上邽に移住しようとした。八年(431年)正月、南安に到着した。赫連定が軍勢を率いて茂蔓を防ぎ、大破して茂蔓を殺害し、興国を捕らえて帰還した。四月、赫連定は拓跋燾を避けて、黄河を渡り西進し蒙遜を撃とうとした。五月、配下を率いて治城峡口に至り、黄河を渡った。渡河が半分も終わらないうちに、吐谷渾の慕璝に邀撃され、捕らえられた。興国は傷を負い数日後に死去した。

原文六年,蒙遜征枹罕,時乞佛熾槃死矣,子茂蔓大破蒙遜,生禽興國,殺三千餘人。蒙遜贖興國,送穀三十萬斛,竟不遣。蒙遜乃立興國母弟菩提為世子,朝廷未知也。七年,以興國為冠軍將軍、河西王世子。其年夏四月,西虜赫連定為索虜拓跋燾所破,奔上邽。十一月,茂蔓聞定敗,將家戶及興國東征,欲移居上邽。八年正月至南安,定率眾禦茂蔓,大破之,殺茂蔓,執興國而還。四月,定避拓跋燾,欲渡河西擊蒙遜。五月,率部曲至治城峽口,渡河,濟未半,為吐谷渾慕璝所邀,見獲,興國被創數日死。

九年(432年)、菩提を冠軍将軍・河西王世子に任じた。十年(433年)四月、蒙遜が死去した。享年六十六歳。私諡を武宣王とした。菩提は幼かったため、蒙遜の第三子の茂虔が当時酒泉太守であり、衆議は茂虔を主に推し、蒙遜の位号を継承させた。十一年(434年)、茂虔は上表して言った。「臣は聞きます。功績は万物を救うことを以て高しとし、竹帛(史書)なくしてはその徳を述べることはできません。名声は実に相応しいことを以て美とし、諡号なくしてはその終わりを美しくすることはできません。先臣の蒙遜は西方で涼城を回復し、その恩沢は崑崙の辺境にまで及び、多くの暴虐を平定し、中華の地を清めました。そして時運が有道の世に巡り合い、大宋の宗臣として備わり、爵位は九服に列し、永遠の大いなる福祚を享受し、功名は顕著で、貞節を固く守りました。正しい道によって寿命を全うしましたが、名誉を請うる道がなく、その優れた事跡は広大であっても、それを叙述する美事に欠けるところがあります。臣子として痛み感じ、皆これに不安を抱いております。謹んで諡法を案じますと、禍乱を平定することを武と曰い、善を聞き周く通達することを宣と曰います。先臣は黄河以西の地を平定し、その勲功は天の府庫(朝廷)に光を放ち、その称えられる事跡は、実にこの両義を兼ね備えております。ここに諡を武宣王と上ります。もし天の聴聞を許され、これを史筆に留められるならば、冥界と現世の両方が栄光を受け、始終に遺恨はございません。」詔して言った。「使持節・侍中・都督秦河沙涼四州諸軍事・車騎大將軍・開府儀同三司・領護匈奴中郎将・西夷校尉・涼州牧河西王の蒙遜は、文武の才を兼ね備え、その勲功は西方を救済し、万里の彼方より、誠意を早くから顕著にし、忠誠と果断を頼りに、遠大な謀略を補佐しようとしていたところ、突然薨去した。心中、悲しみ悼む。直ちに使者を遣わして弔祭し、顕著な諡号を加える。後継者の茂虔は、先人の軌跡を継承し、その忠誠の心はますます明らかである。寵愛を受けて任官されるに相応しく、この藩国の事業を継承させるべきである。使持節・散騎常侍・都督涼秦河沙四州諸軍事・征西大將軍・領護匈奴中郎将・西夷校尉・涼州刺史・河西王とする。」

原文九年,以菩提為冠軍將軍、河西王世子。十年四月,蒙遜卒,時年六十六。私諡曰武宣王。菩提年幼,蒙遜第三子茂虔時為酒泉太守,眾議推茂虔為主,襲蒙遜位號。十一年,茂虔上表曰:「臣聞功以濟物為高,非竹帛無以述德,名以當實為美,非諡號無以休終。先臣蒙遜西復涼城,澤憺崐裔,芟夷羣暴,清灑區夏。暨運鍾有道,備大宋之宗臣,爵班九服,享惟永之丕祚,功名昭著,剋固貞節。考終由正,而請名之路無階,懿跡雖弘,而述敍之美有缺。臣子痛感,咸用不安。謹案諡法,剋定禍亂曰武,善聞周達曰宣。先臣廓清河外,勳光天府,標牓稱迹,實兼斯義。輒上諡為武宣王。若允天聽,垂之史筆,則幽顯荷榮,始終無恨。」詔曰:「使持節、侍中、都督秦河沙涼四州諸軍事、車騎大將軍、開府儀同三司、領護匈奴中郎將、西夷校尉、涼州牧河西王蒙遜,才兼文武,勳濟西服,爰自萬里,款誠夙著,方仗忠果,翼宣遠略,奄至薨隕,悽悼于懷。便遣使弔祭,并加顯諡。嗣子茂虔,纂戎前軌,乃心彌彰,宜蒙寵授,紹茲蕃業。可持節、散騎常侍、都督涼秦河沙四州諸軍事、征西大將軍、領護匈奴中郎將、西夷校尉、涼州刺史、河西王。」

河西の人趙𢾺は暦算に優れていた。十四年(437年)、茂虔は上表して地方の産物を献上し、併せて『周生子』十三巻、『時務論』十二巻、『三国総略』二十巻、『俗問』十一巻、『十三州志』十巻、『文検』六巻、『四科伝』四巻、『燉煌実録』十巻、『涼書』十巻、『漢皇徳伝』二十五巻、『亡典』七巻、『魏駮』九巻、『謝艾集』八巻、『古今字』二巻、『乗丘先生』三巻、『周髀』一巻、『皇帝王暦三合紀』一巻、『趙𢾺伝』および『甲寅元暦』一巻、『孔子讃』一巻、合わせて百五十四巻を献上した。茂虔はまた、晋・趙の起居注など雑書数十件を求め、太祖はこれを下賜した。

原文河西人趙𢾺善歷算。十四年,茂虔奉表獻方物,并獻周生子十三卷,時務論十二卷,三國總略二十卷,俗問十一卷,十三州志十卷,文檢六卷,四科傳四卷,燉煌實錄十卷,涼書十卷,漢皇德傳二十五卷,亡典七卷,魏駮九卷,謝艾集八卷,古今字二卷,乘丘先生三卷,周髀一卷,皇帝王歷三合紀一卷,趙𢾺傳并甲寅元歷一卷,孔子讚一卷,合一百五十四卷。茂虔又求晉、趙起居注諸雜書數十件,太祖賜之。

十六年閏八月、拓跋燾が涼州を攻撃し、茂虔の兄の子の万年が虜の内応となり、茂虔は捕らえられた。茂虔の弟の安弥県侯無諱いみなは先に征西将軍・沙州刺史・都督建康以西諸軍事・酒泉太守となっており、第六弟の武興県侯儀徳は征東将軍・秦州刺史・都督丹嶺以西諸軍事・張掖太守であった。燾は茂虔を捕らえた後、軍を派遣して儀徳を攻撃し、儀徳は城を捨てて無諱のもとに逃れた。そこで無諱と儀徳は家族や戸口を率いて西へ向かい、従弟の敦煌太守唐児のもとに身を寄せた。燾は将軍を派遣して武威・酒泉・張掖を守らせ、帰還した。十七年正月、無諱は唐児に敦煌を守らせ、自らは儀徳とともに酒泉を攻撃し、三月にこれを陥落させた。張掖・臨松を攻撃し、四万余戸を得て、酒泉に戻って拠点とした。十八年五月、唐児が反乱を起こした。無諱は従弟の天周に酒泉を守らせ、再び儀徳とともに唐児を討伐した。唐児は一万余りの兵を率いて出撃したが大敗し、捕らえられて殺害され、無諱は再び敦煌を占拠した。七月、拓跋燾が軍を派遣して酒泉を包囲した。十月、城中で飢饉が起こり、一万余りが餓死し、天周は妻を殺して戦士に食わせたが、食糧が尽きて城は陥落し、天周は捕らえられて平城に送られ、殺害された。当時、虜の兵力は非常に強く、無諱の軍は飢えていたため、自立できないことを恐れ、軍勢を率いて西進しようとした。十一月、弟の安周に五千人を率いて鄯善を攻撃させたが、堅守されて陥落しなかった。十九年四月、無諱は自ら一万余家を率いて敦煌を放棄し、西へ向かい安周のもとに身を寄せようとしたが、到着する前に鄯善王比龍が四千余家を率いて逃走したため、鄯善を占拠した。初め、唐契が晋昌から伊吾に逃れていたが、この年に高昌を攻撃し、高昌城主の闞爽が救援を求めた。八月、無諱は従子の豊周に鄯善を守らせ、自ら家族や戸口を率いて高昌へ向かった。到着する前に、芮芮が軍を派遣して高昌を救援し、唐契を殺害したため、その配下の兵士たちは無諱のもとに逃れた。九月、無諱は将軍の衞尞を派遣して夜襲で高昌を攻撃し、爽は芮芮に逃れ、無諱は再び高昌を占拠した。

原文十六年閏八月,拓跋燾攻涼州,茂虔兄子萬年為虜內應,茂虔見執。茂虔弟安彌縣侯無諱先為征西將軍、沙州刺史、都督建康以西諸軍事、酒泉太守,第六弟武興縣侯儀德為征東將軍、秦州刺史、都督丹嶺以西諸軍事、張掖太守。燾既獲茂虔,遣軍擊儀德,棄城奔無諱。於是無諱、儀德擁家戶西就從弟敦煌太守唐兒。燾使將守武威、酒泉、張掖而還。十七年正月,無諱使唐兒守敦煌,自與儀德伐酒泉,三月,剋之。攻張掖、臨松,得四萬餘戶,還據酒泉。十八年五月,唐兒反,無諱留從弟天周守酒泉,復與儀德討唐兒。唐兒將萬餘人出戰,大敗,執唐兒殺之,復據敦煌。七月,拓跋燾遣軍圍酒泉。十月,城中饑,萬餘口皆餓死,天周殺妻以食戰士,食盡,城乃陷,執天周至平城,殺之。于時虜兵甚盛,無諱眾饑,懼不自立,欲引眾西行。十一月,遣弟安周五千人伐鄯善,堅守不下。十九年四月,無諱自率萬餘家棄敦煌,西就安周,未至而鄯善王比龍將四千餘家走,因據鄯善。初,唐契自晉昌奔伊吾,是年攻高昌,高昌城主闞爽告急。八月,無諱留從子豐周守鄯善,自將家戶赴之。未至,而芮芮遣軍救高昌,殺唐契,部曲奔無諱。九月,無諱遣將衞尞夜襲高昌,爽奔芮芮,無諱復據高昌。

常侍の氾儁を派遣して上表文を持たせて京師に使いさせ、地方の産物を献上した。太祖は詔を下して言った。「往年、狡猾な虜が放縦に振る舞い、涼土を侵害し、西河王茂虔は遂に守りきれず、賊に陥落し、累世にわたって誠意を示してきたことを哀悼に思う。次弟の無諱は遺業を継承し、辺境を守り据え、外では隣国と結び、内では民衆をまとめ、朝廷を心にかけ、貢職を修めている。朝廷の命令を加えて、篤実な功績を褒めるべきである。持節・散騎常侍・都督涼河沙三州諸軍事・征西大将軍・領護匈奴中郎将・西夷校尉・涼州刺史・河西王に任じることを許可する。」

原文遣常侍氾儁奉表使京師,獻方物。太祖詔曰:「往年狡虜縱逸,侵害涼土,西河王茂虔遂至不守,淪陷寇逆,累世著誠,以為矜悼。次弟無諱克紹遺業,保據方隅,外結鄰國,內輯民庶,係心闕庭,踐修貢職,宜加朝命,以褒篤勳。可持節、散騎常侍、都督涼河沙三州諸軍事、征西大將軍、領護匈奴中郎將、西夷校尉、涼州刺史、河西王。」

無諱が死去し、弟の安周が立った。二十一年、詔を下して言った。「故征西大将軍・河西王無諱の弟安周は、才略が沈着にして周到であり、代々忠誠篤実で、遺業を継承し、民衆が帰依し慕っている。兵士を失い軍を喪失し、異郷で孤立しているにもかかわらず、残った寡兵を招き率い、今に至るまで賊を撃退している。栄誉ある官職を加えて、先人の軌跡を継がせるべきである。使持節・散騎常侍・都督涼河沙三州諸軍事・領西域戊己校尉・涼州刺史・河西王に任じることを許可する。」世祖の大明三年、安周は地方の産物を献上した。

原文無諱卒,弟安周立。二十一年,詔曰:「故征西大將軍、河西王無諱弟安周,才略沈到,世篤忠欵,統承遺業,民眾歸懷。雖亡士喪師,孤立異所,而能招率殘寡,攘寇自今,宜加榮授,垂軌先烈。可使持節、散騎常侍、都督涼河沙三州諸軍事、領西域戊己校尉、涼州刺史、河西王。」世祖大明三年,安周奉獻方物。