宋書

列伝第五十六

列伝第五十六

阿柴虜の吐谷渾は、遼東の鮮卑である。父の弈洛韓には二人の子がおり、長子を吐谷渾、次子を若洛廆といった。若洛廆は別に慕容氏を称した。渾は庶子の長男、廆は正嫡であった。父が存命中、七百戸を渾に分け与えた。渾と廆の二部はともに馬を放牧していたが、馬が争って互いに傷つけた。廆は怒り、使者を遣わして渾に言った。「先公(父)は処分して、兄とは別の部とされた。牧馬をするのにどうして遠く離れず、争いを起こして傷つけ合うのか」。渾は言った。「馬は畜生である。草を食み水を飲み、春の気が発動するので、争いを起こすのだ。争いは馬にあるのに、怒りが人に及ぶのか。別れるのはとても容易い。今、お前から万里の彼方へ去ろう」。そこで馬を擁して西へ向かい、一日に一頓ずつ移動し、一頓は八十里であった。数頓を経て、廆は悔い悟り、深く自らを責め、昔からの父老や長史の乙那楼を遣わして渾を追わせ、戻るよう命じた。渾は言った。「我が先祖以来、遼東の地に徳を樹ててきた。また卜筮の言葉によれば、先公には二人の子があり、福と位はともに子孫に流れるという。私は卑しい庶子である。道理として並び立つことはない。今、馬によって別れることになったのは、おそらく天が開いたのであろう。諸君は試しに馬を擁して東へ向かわせてみよ。馬がもし東へ戻るなら、私は従って行こう」。楼は喜んで拝礼し言った。「処可寒」。虜(鮮卑)の言葉で「処可寒」とは、宋の言葉で「爾官家(あなた様)」である。すぐに従う二千騎を率いて共に馬を遮って戻らせようとしたが、三百歩にも満たないうちに、突然悲鳴をあげて突進して走り去り、その声は山が崩れるようであった。このようなことが十余度もあり、一方向へは近づき、別の方向へは遠ざかった。楼は力尽き、また跪いて言った。「可寒、これはもはや人の力ではどうにもなりません」。渾はその部落に言った。「我が兄弟の子孫は、ともに栄えるはずである。廆は子や曾孫、玄孫に伝わるであろう。その間は百年余り、私は玄孫の時代になって初めて顕れるであろう」。そこで遂に西へ向かい陰山に依った。晋の乱に遭い、遂に隴の地へ上った。後に廆は渾を追慕し、阿干の歌を作った。鮮卑は兄を「阿干」と呼ぶ。廆の子孫が帝号を僭称せんしょうした時、この歌を輦後の大曲とした。

原文阿柴虜吐谷渾,遼東鮮卑也。父弈洛韓,有二子,長曰吐谷渾,少曰若洛廆。若洛廆別為慕容氏。渾庶長,廆正嫡。父在時,分七百戶與渾,渾與廆二部俱牧馬,馬鬭相傷,廆怒,遣信謂渾曰:「先公處分,與兄異部,牧馬何不相遠,而致鬭爭相傷?」渾曰:「馬是畜生,食草飲水,春氣發動,所以致鬭。鬭在於馬,而怒及人邪。乖別甚易,今當去汝萬里。」於是擁馬西行,日移一頓,頓八十里。經數頓,廆悔悟,深自咎責,遣舊父老及長史乙那樓追渾令還。渾曰:「我乃祖以來,樹德遼右,又卜筮之言,先公有二子,福胙並流子孫。我是卑庶,理無並大,今以馬致別,殆天所啟。諸君試擁馬令東,馬若還東,我當相隨去。」樓喜拜曰:「處可寒。」虜言「處可寒」,宋言爾官家也。即使所從二千騎共遮馬令回,不盈三百步,欻然悲鳴突走,聲若頹山。如是者十餘輩,一向一遠。樓力屈,又跪曰:「可寒,此非復人事。」渾謂其部落曰:「我兄弟子孫,並應昌盛,廆當傳子及曾孫玄孫,其間可百餘年,我乃玄孫間始當顯耳。」於是遂西附陰山。遭晉亂,遂得上隴。後廆追思渾,作阿干之歌。鮮卑呼兄為「阿干」。廆子孫竊號,以此歌為輦後大曲。

渾は隴に上ると、罕幵、西零に出た。西零は今の西平郡、罕幵は今の枹罕ほうかん県である。枹罕から東へ千余里、甘松に至り、西は河南に至り、南の境界は昴城、龍涸である。洮水の西南から、極めて白蘭に至るまで、数千里の間で、水草を追い、廬帳に住み、肉や乳製品を糧食とした。西北の諸雑種は彼らを阿柴虜と呼んだ。

原文渾既上隴,出罕幵、西零。西零,今之西平郡,罕幵,今枹罕縣。自枹罕以東千餘里,暨甘松,西至河南,南界昴城、龍涸。自洮水西南,極白蘭,數千里中,逐水草,廬帳居,以肉酪為糧。西北諸雜種謂之為阿柴虜。

渾は七十二歳で死に、六十人の子がいた。長子の吐延が後を嗣いだ。吐延は身長七尺八寸、勇力は人に優れ、性格は苛烈で暴虐であった。昴城の羌の酋長である姜聰に刺され、剣がまだ体に刺さったまま、子の葉延を呼び、その大将の絶拔渥に言った。「私が息絶えたら、棺に納め終わったら、すぐに遠くへ去って白蘭を保て。白蘭の地は険しく遠い上に、土俗も懦弱で、制御しやすい。葉延は幼い。思いは他の者に授けたいが、慌ただしいうちには結うとうまく制御できないだろう。今、葉延を汝に託す。汝は股肱の力を尽くしてこれを補佐せよ。幼子が立つことができれば、私は恨みはない」。剣を抜いて死んだ。嗣位して十三年、三十五歳であった。十二人の子がいた。

原文渾年七十二死,有子六十人,長吐延嗣。吐延身長七尺八寸,勇力過人,性刻暴,為昴城羌酋姜聰所刺,劍猶在體,呼子葉延,語其大將絕拔渥曰:「吾氣絕,棺斂訖,便遠去保白蘭。白蘭地既嶮遠,又土俗懦弱,易為控御。葉延小,意乃欲授與餘人,恐倉卒終不能相制。今以葉延付汝,汝竭股肱之力以輔之,孺子得立,吾無恨矣。」抽劍而死。嗣位十三年,年三十五。有子十二人。

葉延は幼くして勇猛果断で、十歳の時、草を縛って人形を作り、姜聰と名付け、毎朝これに矢を射た。射当てると喜び、当たらなければ号泣して涙を流した。その母が言った。「仇敵の諸将はすでに切り刻んでしまった。汝は年が若いのに、どうして毎朝毎朝このように自ら苦しむ必要があるのか」。葉延は嗚咽して堪えられず、母に答えて言った。「確かに無益なこととは知っている。しかし葉延の尽きることのない心は、その痛みに耐えられないのです」。性格は非常に孝行で、母が病気で三日食べられないと、葉延も食べなかった。書物をよく読み、自らの曾祖父の弈洛韓が初めて昌黎公に封ぜられたことから言った。「私は公孫の子である。礼によれば、公孫の子は、祖父の字あざなを氏とすることができる」。命じて姓を吐谷渾氏とした。嗣立して二十三年、三十三歳であった。四人の子がいた。

原文葉延少而勇果,年十歲,縛草為人,號曰姜聰,每旦輒射之,射中則喜,不中則號叫泣涕。其母曰:「讎賊諸將已屠膾之,汝年小,何煩朝朝自苦如此。」葉延嗚咽不自勝,答母曰:「誠知無益,然葉延罔極之心,不勝其痛耳。」性至孝,母病,三日不能食,葉延亦不食。頗視書傳,自謂曾祖弈洛韓始封昌黎公,曰:「吾為公孫之子。案禮,公孫之子,得氏王父字。」命姓為吐谷渾氏。嗣立二十三年,年三十三。有子四人。

長子の碎奚が立った。碎奚の性格は純朴で謹直であったが、三人の弟が権力を専断し、碎奚は制御できず、諸大将が共にこれを誅殺した。碎奚は憂い悲しんで再び政務を執らず、遂に子の視連を世子とし、事を委ね、「莫賀郎」と号した。「莫賀」は、宋の言葉で父である。碎奚は遂に憂い死んだ。在位二十五年、四十二歳であった。六人の子がいた。子の視連は父の憂いで死んだため、遊び楽しまず、酒宴に耽らなかった。在位十五年、四十二歳であった。二人の子があり、長子を視羆、次を烏紇提といった。視羆が嗣立して十一年、四十二歳であった。子の樹洛干らは皆幼く、弟の烏紇提が立った。紇提が立って八年、三十五歳であった。視羆の子の樹洛干が立ち、自ら車騎将軍と称した。義熙の初めのことである。

原文長子碎奚立。碎奚性純謹,三弟專權,碎奚不能制,諸大將共誅之。碎奚憂哀不復攝事,遂立子視連為世子,委之事,號曰「莫賀郎」。「莫賀」,宋言父也。碎奚遂以憂死。在位二十五年,年四十二。有子六人。子視連以父憂卒,不遊娛,不酣宴。在位十五年,年四十二。有子二人,長曰視羆,次烏紇提。視羆嗣立十一年,年四十二。子樹洛干等並小,弟烏紇提立。紇提立八年,年三十五。視羆子樹洛干立,自稱車騎將軍,義熙初也。

樹洛干が死ぬと、弟の阿犲が自ら驃騎ひょうき将軍と称した。譙縦が蜀で乱を起こすと、阿犲はその従子の西彊公である吐谷渾の敕来泥を遣わして、領土を開拓して龍涸、平康に至らせた。少帝の景平年間、阿犲は使者を遣わして上表し、地方の産物を献上した。詔が下った。「吐谷渾の阿犲は遠方の辺境にありながら、義を慕うことは嘉すべきであり、寵任を与えるのが適当である。今、その来款に報いるため、塞表諸軍事・安西将軍・沙州刺史しし・澆河公を督せしめる」。拝受する前に、太祖の元嘉三年、また詔を下して任命を加えた。届かないうちに阿犲が死に、弟の慕璝が立った。六年、上表して言った。「大宋は天運に応じ、四海は心を定めています。臣の亡兄の阿犲は天朝の義を慕い、誠意は平素から顕著でした。去年七月五日、謁者の董湛が至り、明らかな詔を宣べ伝え、栄爵を顕かに授けられました。しかし臣の私門は不幸にも、亡兄が逝去いたしました。臣は懦弱ながらも、後任の任を負うことになりました。しかし天恩の報いは、本来臣の家門にあるものであり、もしまた反覆するならば、信命が止まることを恐れます。つつしんで寵任を拝受し、上旨を奉じて遵守いたします。伏して願わくは詳しく処置され、改めて章策を授けられますよう」。七年、詔が下った。「吐谷渾の慕璝兄弟は義を慕い、至誠は嘉すべきであり、策爵を授けて忠款を顕彰すべきである。塞表諸軍事・征西将軍・沙州刺史・隴西公を督せしめる」。

原文樹洛干死,弟阿犲自稱驃騎將軍。譙縱亂蜀,阿犲遣其從子西彊公吐谷渾敕來泥拓土至龍涸、平康。少帝景平中,阿犲遣使上表獻方物。詔曰:「吐谷渾阿犲介在遐表,慕義可嘉,宜有寵任。今酬其來款,可督塞表諸軍事、安西將軍、沙州刺史、澆河公。」未及拜受,太祖元嘉三年,又詔加除命。未至而阿犲死,弟慕璝立。六年,表曰:「大宋應運,四海宅心,臣亡兄阿犲慕義天朝,款情素著。去年七月五日,謁者董湛至,宣傳明詔,顯授榮爵,而臣私門不幸,亡兄見背。臣以懦弱,負荷後任,然天恩所報,本在臣門,若更反覆,懼停信命。輒拜受寵任,奉遵上旨,伏願詳處,更授章策。」七年,詔曰:「吐谷渾慕璝兄弟慕義,至誠可嘉,宜授策爵,以甄忠款。可督塞表諸軍事、征西將軍、沙州刺史、隴西公。」

以前、晋の末年に、金城郡東允街県の胡人である乞伏乾帰が部衆を擁して洮河、罕幵を占拠し、自ら隴西公と号した。乾帰が死ぬと、子の熾磐が立ち、使者を晋朝に遣わして帰順を申し出た。これにより使持節・都督ととく河西諸軍事・平西将軍に任じられ、公の爵位はそのままとした。高祖が即位すると、安西大将軍に進号した。熾磐が死ぬと、子の茂蔓が立った。慕璝は前後してたびたび軍を派遣して攻撃し、茂蔓は部落を率いて東の隴右へ奔った。慕璝はその地を占拠した。この年、赫連定が長安で索虜の拓跋燾に攻められ、秦の戸口十余万を擁して西進し、罕幵に駐屯し、涼州へ向かおうとした。慕璝がこれを防ぎ撃ち、大破し、生け捕りにした。燾は使者を遣わして求め、慕璝は定をこれに与えた。九年、慕璝は司馬の趙敍を遣わして貢献を奉じ、併せて二万人の戦勝を言上した。太祖はその者を加えて使持節・散騎常侍さんきじょうじ・都督西秦河沙三州諸軍事・征西大将軍・西秦河二州刺史・領護羌校尉とし、爵位を隴西王に進めた。弟の慕延を平東将軍とし、慕璝の兄である樹洛干の子の拾寅を平北将軍とし、阿豺の子の煒代を鎮軍将軍とした。詔して、慕璝の南国の将士で、かつて仏仏(赫連勃勃)のもとに没した者を、すべて送り届けるよう命じた。慕璝は朱昕之ら五十五戸、百五十四人を送り届けた。

原文先是晉末,金城東允街縣胡人乞伏乾歸擁部眾據洮河、罕幵,自號隴西公。乾歸死,子熾磐立,遣使詣晉朝歸順,以為使持節、都督河西諸軍事、平西將軍,公如故。高祖即位,進號安西大將軍。熾磐死,子茂蔓立。慕璝前後屢遣軍擊,茂蔓率部落東奔隴右,慕璝據有其地。是歲,赫連定於長安為索虜拓跋燾所攻,擁秦戶口十餘萬西次罕幵,欲向涼州,慕璝距擊,大破之,生擒定。燾遣使求,慕璝以定與之。九年,慕璝遣司馬趙敍奉貢獻,幷言二萬人捷。太祖加其使持節、散騎常侍、都督西秦河沙三州諸軍事、征西大將軍、西秦河二州刺史、領護羌校尉,進爵隴西王。弟慕延為平東將軍,慕璝兄樹洛干子拾寅為平北將軍,阿豺子煒代鎮軍將軍。詔慕璝南國將士,昔沒在佛佛者,並悉致。慕璝遣送朱昕之等五十五戶,一百五十四人。

慕璝が死去し、弟の慕延が立って使者を遣わし上表した。十五年、慕延に使持節・散騎常侍・都督西秦河沙三州諸軍事・鎮西大将軍・領護羌校尉・西秦河二州刺史・隴西王を授けた。十六年、河南王に改封した。その年、拾虔の弟の拾寅を平西将軍に、慕延の庶長子の繁暱を撫軍将軍に、慕延の嫡子の瑍を左将軍・河南王世子に任じた。十九年、阿豺に本号の安西・秦沙三州諸軍事・沙州刺史・領護羌校尉・隴西王を追贈した。索虜の拓跋燾が軍を派遣して慕延を攻撃し、大いにこれを破った。慕延は部落を率いて西の白蘭に奔り、于闐国を攻め破った。虜が再び来ることを憂慮し、二十七年、使者を遣わして上表して言うには、「もし自ら固守できない場合は、部曲ぶきょくを率いて龍涸の越嶲門に入りたい」と。また牽車を求め、烏丸帽・女国の金酒器・胡王の金釧などを献上した。太祖は牽車を与え、もし虜が来て自立できない場合は、越嶲に入ることを許した。虜は結局来なかった。

原文慕璝死,弟慕延立,遣使奉表。十五年,除慕延使持節、散騎常侍、都督西秦河沙三州諸軍事、鎮西大將軍、領護羌校尉、西秦河二州刺史、隴西王。十六年,改封河南王。其年,以拾虔弟拾寅為平西將軍,慕延庶長子繁暱為撫軍將軍,慕延嫡子瑍為左將軍、河南王世子。十九年,追贈阿豺本號安西、秦沙三州諸軍事、沙州刺史、領護羌校尉、隴西王。索虜拓跋燾遣軍擊慕延,大破之,慕延率部落西奔白蘭,攻破于闐國。慮虜復至,二十七年,遣使上表云:「若不自固者,欲率部曲入龍涸越嶲門。」并求牽車,獻烏丸帽、女國金酒器、胡王金釧等物。太祖賜以牽車,若虜至不自立,聽入越嶲。虜竟不至也。

慕延が死去し、拾寅が自立した。二十九年、拾寅を使持節・督西秦河沙三州諸軍事・安西将軍・領護羌校尉・西秦河二州刺史・河南王とした。拾寅は東で索虜を破り、開府儀同三司を加えられた。世祖の大明五年、拾寅は使者を遣わして善く舞う馬と四角羊を献上した。皇太子・王公以下で舞馬の歌を献上した者は二十七首であった。太宗の泰始三年、征西大将軍に進号した。五年、拾寅は上表して方物を献上し、弟の拾皮を平西将軍・金城公とした。前廃帝はまた車騎大将軍に進号した。

原文慕延死,拾寅自立。二十九年,以拾寅為使持節、督西秦河沙三州諸軍事、安西將軍、領護羌校尉、西秦河二州刺史、河南王。拾寅東破索虜,加開府儀同三司。世祖大明五年,拾寅遣使獻善舞馬,四角羊。皇太子、王公以下上舞馬歌者二十七首。太宗泰始三年,進號征西大將軍。五年,拾寅奉表獻方物,以弟拾皮為平西將軍、金城公。前廢帝又進號車騎大將軍。

その国の西には黄沙があり、南北一百二十里、東西七十里で、草木が生えず、沙州はこれによって名付けられた。屈真川には塩池があり、甘谷嶺の北には雀と鼠が同じ穴に棲み、あるいは山嶺に、あるいは平地にいる。雀の色は白く、鼠の色は黄色で、地に黄紫の花草が生えると、そこに雀鼠の穴がある。白蘭の地は黄金・銅・鉄を産する。その国は水草に従って移動するが、おおよそ慕賀川を治めている。

原文其國西有黃沙,南北一百二十里,東西七十里,不生草木,沙州因此為號。屈真川有鹽池,甘谷嶺北有雀鼠同穴,或在山嶺,或在平地,雀色白,鼠色黃,地生黃紫花草,便有雀鼠穴。白蘭土出黃金、銅、鐵。其國雖隨水草,大抵治慕賀川。