宋書

宋書 巻九十五

宋書 巻九十五

列伝 第五十五

原文列傳第五十五

索頭虜の姓は託跋氏、その先祖は漢の将軍李陵の後裔こうえいである。李陵が匈奴に降伏し、数百千の種族があり、それぞれ名号を立てたが、索頭もその一つである。

原文索頭虜姓託跋氏,其先漢將李陵後也。陵降匈奴,有數百千種,各立名號,索頭亦其一也。

晋の初め、索頭種には数万の部落が雲中にいた。恵帝の末、并州刺史ししの東嬴公司馬騰が晋陽で匈奴に包囲されたとき、索頭単于の猗駞が軍を派遣して司馬騰を助けた。懐帝の永嘉三年、駞の弟の盧が部落を率いて雲中から雁門に入り、并州刺史の劉琨に楼煩などの五県を求めると、劉琨はこれを抑えられず、また盧を頼りにしようと考え、上言した。「盧の兄の駞には司馬騰を救った功績があり、旧来の勲功は記録されるべきです。五県の民を新興に移し、その土地を彼に与えてください。」劉琨はまた盧を代郡公に封じるよう上表した。愍帝の初め、さらに盧を代王に進め、常山郡を食邑として加増した。その後、盧の国内は大乱し、盧が死に、子は幼弱であったため、部落は分散した。盧の孫の什翼鞬は勇壮で、人々は再び彼に帰附し、上洛公と号した。北は沙漠を有し、南は陰山を占拠し、数十万の衆を擁した。その後、苻堅に撃破され、長安に連行されたが、後に北帰を許された。鞬が死に、子の開、字あざなは涉珪が代わって立った。

原文晉初,索頭種有部落數萬家在雲中。惠帝末,并州刺史東嬴公司馬騰於晉陽為匈奴所圍,索頭單于猗駞遣軍助騰。懷帝永嘉三年,駞弟盧率部落自雲中入雁門,就并州刺史劉琨求樓煩等五縣,琨不能制,且欲倚盧為援,乃上言:「盧兄駞有救騰之功,舊勳宜錄,請移五縣民於新興,以其地處之。」琨又表封盧為代郡公。愍帝初,又進盧為代王,增食常山郡。其後盧國內大亂,盧死,子又幼弱,部落分散。盧孫什翼鞬勇壯,眾復附之,號上洛公,北有沙漠,南據陰山,眾數十萬。其後為苻堅所破,執還長安,後聽北歸。鞬死,子開字涉珪代立。

以前、鮮卑の慕容垂が中山で僭号していた。晋の孝武帝の太元二十一年、慕容垂が死ぬと、開は十万騎を率いて中山を包囲した。翌年四月、これを陥落させ、ついに中州を王有し、自ら魏と称し、年号を天賜とした。元年、代郡桑乾県の平城を治所とした。学官を立て、尚書曹を置いた。開はかなり学問があり、天文に通じていた。その風俗では四月に天を祀り、六月末に大衆を率いて陰山に至り、これを却霜と呼んだ。陰山は平城から六百里離れており、深遠で樹木が豊かで、霜雪が解けることがなかったが、おそらく暖気をもって寒さを退けようとしたのであろう。死ぬとひそかに埋葬し、墳墓の場所はなく、葬送に際しては、みな棺柩を虚設し、冢槨を立て、生前の車馬や器物をすべて焼いて死者を送った。開は暴虐で殺戮を好み、民はその命令に耐えられなかった。以前、神巫が開に暴禍が起こると警告し、ただ清河を誅し万民を殺すことによってのみ免れることができると言った。開はそこで清河一郡を滅ぼし、常に自ら手を下して人を殺し、その数を満万にしようとした。あるときは小輦に乗り、自ら剣を執って檐輦の人の脳を打ち、一人死ぬと一人が代わり、一行するごとに死者は数十人に及んだ。夜は常に寝所を変え、人は知ることができず、ただ愛妾の名を万人という者がその場所を知っていた。万人は開の子の清河王と私通し、事が発覚するのを恐れ、開を殺そうとして、万人を内応させた。夜、開が独りでいるのを待ち、彼を殺した。開は臨終に際し、「清河、万人の言とは、お前たちのことだ」と言った。この年は、安帝の義熙五年である。開の次子の斉王の嗣、字は木末が清河王を捕らえ、彼に向かって号泣し、「人が重んじるのは父である。どうして反逆などするのか」と言い、自殺を迫った。嗣が代わって立ち、開を道武皇帝と諡した。

原文先是,鮮卑慕容垂僭號中山,晉孝武太元二十一年,垂死,開率十萬騎圍中山。明年四月,剋之,遂王有中州,自稱曰魏,號年天賜。元年,治代郡桑乾縣之平城。立學官,置尚書曹。開頗有學問,曉天文。其俗以四月祠天,六月末率大眾至陰山,謂之却霜。陰山去平城六百里,深遠饒樹木,霜雪未嘗釋,蓋欲以暖氣却寒也。死則潛埋,無墳壟處所,至於葬送,皆虛設棺柩,立冢槨,生時車馬器用皆燒之以送亡者。開暴虐好殺,民不堪命。先是,有神巫誡開當有暴禍,唯誅清河殺萬民,乃可以免。開乃滅清河一郡,常手自殺人,欲令其數滿萬。或乘小輦,手自執劍擊檐輦人腦,一人死,一人代,每一行,死者數十。夜恒變易寢處,人莫得知,唯愛妾名萬人知其處。萬人與開子清河王私通,慮事覺,欲殺開,令萬人為內應。夜伺開獨處,殺之。開臨死,曰:「清河、萬人之言,乃汝等也。」是歲,安帝義熙五年。開次子齊王嗣字木末,執清河王,對之號哭,曰:「人生所重者父,云何反逆。」逼令自殺。嗣代立,諡開道武皇帝。

十三年、高祖が西征して長安を討つと、嗣は以前に姚興の娘を娶っていたため、十万騎を派遣して河北に駐屯させてこれを救援したが、高祖に大いに撃破された。事は朱超石らの伝にある。そこで使者を派遣して和を請い、これより使者の往来が毎年行われるようになった。高祖は殿中将軍の沈範と索季孫を派遣して返礼の使者とし、復命のため河に至ったが、渡らないうちに、嗣は高祖の崩御の報を聞き、沈範らを追って捕らえ、和親を断絶した。太祖が即位すると、ようやく沈範らを帰国させた。

原文十三年,高祖西伐長安,嗣先娶姚興女,乃遣十萬騎屯結河北以救之,大為高祖所破,事在朱超石等傳。於是遣使求和,自是使命歲通。高祖遣殿中將軍沈範、索季孫報使,反命已至河,未濟,嗣聞高祖崩問,追執範等,絕和親。太祖即位,方遣範等歸。

永初三年十月、嗣は自ら衆を率いて方城に至り、鄭兵将軍・揚州刺史の山陽公達奚斤、呉兵将軍・広州刺史の蒼梧公公孫表、尚書の滑稽に歩騎二万余人を率いさせ、滑臺西南の東燕県界の石済で南渡させ、輜重しちょうや弱者を連れて行かせた。滑臺の戍主、寧遠将軍、東郡太守たいしゅの王景度が馳せて冠軍かんぐん将軍、司州刺史の毛徳祖に報告した。毛徳祖は虎牢を守り、司馬の翟広に参軍の龐諮、上党太守の劉談之ら歩騎三千を率いさせてこれを防がせた。軍は巻県の土楼に駐屯した。虜は陣営を滑臺城の東二里に移し、攻具を造り、日ごとに城を脅かした。毛徳祖は滑臺の守兵が少ないため、翟広に軍中の壮士を募集させ、寧遠将軍の劉芳之に率いさせて、王景度を助けて守らせた。劉芳之は八十余人を率いて突入して城に入った。毛徳祖はまた討虜将軍、弘農太守の竇応明に五百人を率いさせ、建武将軍の竇覇に二百五十人を率いさせ、ともに水軍として相次いで出発させ、すべて翟広の指揮下に置いた。

原文永初三年十月,嗣自率眾至方城,遣鄭兵將軍揚州刺史山陽公達奚斤、吳兵將軍廣州刺史蒼梧公公孫表、尚書滑稽,領步騎二萬餘人,於滑臺西南東燕縣界石濟南渡,輜重弱累自隨。滑臺戍主、寧遠將軍、東郡太守王景度馳告冠軍將軍、司州刺史毛德祖,戍虎牢,遣司馬翟廣率參軍龐諮、上黨太守劉談之等步騎三千拒之。軍次卷縣土樓,虜徙營滑臺城東二里,造攻具,日往脅城。德祖以滑臺戍人少,使翟廣募軍中壯士,遣寧遠將軍劉芳之率領,助景度守。芳之將八十餘人,突得入城。德祖又遣討虜將軍、弘農太守竇應明領五百人,建武將軍竇霸領二百五十人,並以水軍相繼發,咸受翟廣節度。

初め、亡命の司馬楚之らが常に陳留郡界に潜伏していた。虜が南渡すると、互いに馳せて結びつき、辺境を扇動して、大いに民の患いとなった。毛徳祖は長社令の王法政に五百人を率いさせて邵陵を占拠させ、将軍の劉憐に二百騎を率いさせて雍丘に至らせてこれを防がせた。司馬楚之は白馬県で劉憐を襲撃したが、劉憐に撃破された。ちょうど朝廷が軍資を送ってきたので、劉憐はこれを迎えに出た。すると酸棗の民の王玉が劉憐が南に行ったのを知り、急いで虜に報告した。虜の将の滑稽が千乗を率いて倉垣を襲撃し、兵士や官吏はみな城を越えて散り散りに逃げ、陳留太守の厳㥄が虜に捕らえられた。虜はすぐに王玉を陳留太守とし、兵を与えて倉垣を守らせた。

原文初,亡命司馬楚之等常藏竄陳留郡界,虜既南渡,馳相要結,驅扇疆埸,大為民患。德祖遣長社令王法政率五百人據邵陵,將軍劉憐領二百騎至雍丘以防之。楚之於白馬縣襲憐,為憐所破。會臺送軍資至,憐往迎之,而酸棗民王玉知憐南,馳以告虜,虜將滑稽領千乘襲倉垣,兵吏悉踰城散走,陳留太守嚴㥄為虜所獲,虜即用王玉為陳留太守,給兵守倉垣。

十一月、虜は全力で滑臺城を攻撃し、城の東北が崩壊した。王景度は出奔したが、王景度の司馬の陽瓚は堅守して動かず、衆は潰えたが、節を守って降伏せず、虜に殺された。竇応明が石済で虜の輜重を攻撃し、これを破り、賊五百余人を殺し、その戍主の□連内頭、張索児らを斬った。竇応明は石済から滑臺に向かったが、城がすでに陥落したと聞き、そこで進んで尹卯に駐屯し、竇覇は急いで翟広のもとに赴いた。虜は滑臺を陥落させると、力を合わせて翟広らに向かい、力が敵わず、翟広らは退却し、転戦しながら前進し、二日一夜で、わずか十里余り進んだ。虜の歩軍が続いて到着し、翟広らは矢も尽き力も尽き、大敗した。翟広、竇覇、劉談之らはそれぞれ単身で逃げ帰った。

原文十一月,虜悉力攻滑臺城,城東北崩壞,王景度出奔,景度司馬陽瓚堅守不動,眾潰,抗節不降,為虜所殺。竇應明擊虜輜重於石濟,破之,殺賊五百餘人,斬其戍主□連內頭、張索兒等。應明自石濟赴滑臺,聞城已沒,遂進屯尹卯,竇霸馳就翟廣。虜既剋滑臺,并力向廣等,力不敵,引退,轉鬭而前,二日一夜,裁行十許里。虜步軍續至,廣等矢盡力竭,大敗,廣、霸、談之等各單身迸還。

虜は勝ちに乗じて虎牢に至った。毛徳祖は歩騎を出してこれを撃とうとしたが、虜は退いて土楼に駐屯し、さらに退いて滑臺に戻った。長安、魏昌、藍田の三県の民で虎牢の下に住んでいた者を、毛徳祖はみな城内に入らせた。虜は別に黒矟公に三千人を率いさせて河陽に至らせ、南渡して金墉を取ろうとした。毛徳祖は振威将軍、河陰令の竇晃に五百人を率いさせて小壘を守らせ、緱氏令の王瑜に四百人を率いさせて監倉を占拠させ、鞏令の臣琛に五百人を率いさせて小平を固守させ、参軍督護の張季に五百人を率いさせて牛蘭に駐屯させた。また将領に馬隊を率いさせ、洛陽令の楊毅と合わせて二百騎とし、黄河沿いに上下し、機に応じて赴き接応させた。十二月、虜が洛川の小壘に守備を置くと、毛徳祖は翟広に急行させてこれを撃たせ、虜は退走した。翟広は守備を固め、城塢を修復し、また虎牢に戻った。豫州刺史の劉粹は治中の高道瑾に歩騎五百を率いさせて項を占拠させ、また司馬の徐瓊に続かせた。朝廷は将の輔伯遣、姚珍、杜坦、梁霊宰らに水軍・歩軍の諸軍を続けて進ませた。徐州刺史の王仲徳は軍を率いて湖陸に駐屯した。黒矟公は長史に千人を率いさせて竇晃と楊毅を脅迫したが、竇晃らは逆襲し、これを捕らえ、二百人を生け捕りにした。その後、鄭兵将軍が五千騎で竇晃らを急襲し、黒矟公が渡河して合力し、四面から塁を攻めた。竇晃らは兵力が少なく衆は散り、竇晃と楊毅はともに重傷を負った。虜の将の安平公の鵝青が二軍七千人で南渡し、碻磝の東から下り、泗瀆口に至り、尹卯から百里余り離れた。兗州刺史の徐琰は軍鎮を捨てて逃走し、ここにおいて泰山諸郡はともに失陥した。

原文虜乘勝遂至虎牢,德祖出步騎欲擊之,虜退屯土樓,又退還滑臺。長安、魏昌、藍田三縣民居在虎牢下,德祖皆使入城。虜別遣黑矟公率三千人至河陽,欲南渡取金墉。德祖遣振威將軍、河陰令竇晃五百人戍小壘,緱氏令王瑜四百人據監倉,鞏令臣琛五百人固小平,參軍督護張季五百人屯牛蘭,又遣將領馬隊,與洛陽令楊毅合二百騎,緣河上下,隨機赴接。十二月,虜置守於洛川小壘,德祖遣翟廣馳往擊之,虜退走。廣安立守防,修治城塢,復還虎牢。豫州刺史劉粹遣治中高道瑾領步騎五百據項,又遣司馬徐瓊繼之,臺遣將輔伯遣、姚珍、杜坦、梁靈宰等水步諸軍續進。徐州刺史王仲德率軍次湖陸。黑矟公遣長史將千人逼竇晃、楊毅,晃等逆擊,禽之,生獲二百人。其後鄭兵將軍五千騎掩襲晃等,黑矟渡與并力,四面攻壘,晃等力少眾散,晃、毅皆被重創。虜將安平公鵝青二軍七千人南渡,於碻磝東下,至泗瀆口,去尹卯百許里。兗州刺史徐琰委軍鎮走,於是泰山諸郡並失守。

鄭兵と公孫表および宋兵将軍・交州刺史・交阯侯の普幾は一万五千騎を率い、再び虎牢に向かい、城の東南五里に陣営を結び、歩兵と騎兵を分けて成臯から虎牢の外郭西門へ向かわせた。徳祖は迎撃し、百余人を殺傷し、敵は退いて陣営を守った。鎮北将軍の檀道済が水軍を率いて北から救援に向かい、車騎将軍・廬陵王の義真は龍驤将軍の沈叔狸に三千人を付けて豫州刺史の劉粹のもとへ派遣し、状況に応じて救援に向かわせた。少帝の景平元年正月、鄭兵は軍を分けて洛陽へ向かい、小塁を攻撃した。小塁の守将である竇晃は防戦したが陥落し、河南太守の王涓之は金墉を捨てて逃亡した。

原文鄭兵與公孫表及宋兵將軍、交州刺史交阯侯普幾萬五千騎,復向虎牢,於城東南五里結營,分步騎自成臯開向虎牢外郭西門,德祖逆擊,殺傷百餘人,虜退還保營。鎮北將軍檀道濟率水軍北救,車騎將軍廬陵王義真遣龍驤將軍沈叔狸三千人就豫州刺史劉粹,量宜赴援。少帝景平元年正月,鄭兵分軍向洛,攻小壘,小壘守將竇晃拒戰,陷沒,河南太守王涓之棄金墉出奔。

敵が軍を分けて洛陽へ向かって以来、徳祖は戦うたびにこれを撃破した。嗣は自ら大軍を率いて鄴に至った。鄭兵は金墉を陥落させた後、再び虎牢に戻った。徳祖は城内から地下に穴を掘り、七丈進んで二つの道とし、城外に出た。さらに六つの道に分け、敵陣の背後に出た。敢死の士四百人を募り、参軍の范道基が二百人を率いて前駆となり、参軍の郭王符・劉規らが二百人を率いて後続となり、敵の包囲の外に出て、その背後を急襲した。敵陣は混乱し、数百の首級を斬り、攻撃用具を焼き払った。敵は退散したが、すぐに再び集結した。

原文自虜分軍向洛,德祖每戰輒破之。嗣自率大眾至鄴。鄭兵既剋金墉,復還虎牢,德祖於城內穴地,入七丈,二道,出城外,又分作六道,出虜陣後。募敢死之士四百人,參軍范道基率二百人為前驅,參軍郭王符、劉規等以二百人為後係,出賊圍外,掩襲其後,虜陣擾亂,斬首數百級,焚燒攻具。虜雖退散,隨復更合。

敵はまた楚兵将軍・徐州刺史・安平公の涉帰幡能健、越兵将軍・青州刺史・臨菑侯の薛道千、陳兵将軍・淮州刺史・寿張子の張模を派遣し、東へ向かって青州を攻撃させた。向かう城邑はすべて逃げ散った。冠軍将軍・青州刺史の竺夔は東陽城を守備していたが、敵が来ると聞き、兵を集めて堅固に守った。龍驤将軍・済南太守の垣苗は二府郡の文武官を率いて竺夔のもとに逃れた。竺夔は将士と盟誓し、城内に入らない住民には山の険阻な地に移るよう命じ、穀物を焼き払い、敵が来ても物資を得られないようにした。敵軍は青州へ向かい、前後合わせて黄河を渡った騎兵は合計六万騎であった。三月、三万騎が先鋒として迫り脅かした。城内の文武官は一千五百人で、その半数は羌や蛮などの流民や雑多な者であり、人心は恐れおののいた。竺夔は夜に司馬の車宗に五百人を率いさせて城外に出て急襲させ、敵軍は敗退した。二日後、敵の歩兵と騎兵がすべて到着し、城を四囲に取り囲み、陣を十余里にわたって列ね、夕方には退いて安水に陣営を結び、城から二十里離れた。大いに攻撃用具を整え、日々歩兵と騎兵を分けて常に城に迫った。竺夔は夜に殿中将军の竺宗之・参軍の賈元龍らに百人を率いさせ、楊水口の両岸に伏兵を設けさせた。敵将の阿伏斤が三百人を率いて朝に川を渡ると、両岸の伏兵が現れ、敵騎兵は四方に逃げ散り、数十人を殺傷し、阿伏斤の首を斬った。敵はさらに水の南に進んで陣営を構え、城の西北四里の地点に至った。

原文虜又遣楚兵將軍、徐州刺史、安平公涉歸幡能健、越兵將軍、青州刺史、臨菑侯薛道千、陳兵將軍、淮州刺史、壽張子張模東擊青州,所向城邑皆奔走。冠軍將軍、青州刺史竺夔鎮東陽城,聞虜將至,斂眾固守。龍驤將軍、濟南太守垣苗率二府郡文武奔就夔。夔與將士盟誓,居民不入城者,使移就山阻,燒除禾稼,令虜至無所資。虜眾向青州,前後濟河凡六萬騎。三月,三萬騎前追脅。城內文武一千五百人,而半是羌蠻流雜,人情駭懼。竺夔夜遣司馬車宗領五百人出城掩擊,虜眾披退。間二日,虜步騎悉至,繞城四圍,列陣十餘里,至晡退還安水結營,去城二十里,大治攻具,日日分步騎常來逼城。夔夜使殿中將軍竺宗之、參軍賈元龍等領百人,於楊水口兩岸設伏。虜將阿伏斤領三百人晨渡水,兩岸伏發,虜騎四迸,殺傷數十人,梟阿伏斤首。虜又進營水南,去城西北四里。

嗣は鄴から兵を派遣して虎牢を増強し、包囲を厳しくして急攻した。鄭兵は虎牢で歩兵と騎兵三千を率い、許昌において潁川太守の李元徳を攻撃した。車騎参軍の王玄謨が千人を率いて李元徳を助けて守ったが、李元徳とともに散乱して敗れた。敵はすぐに潁川人の庾龍を潁川太守に任じ、騎兵五百を率いさせ、さらに民丁を徴発して城を守備させた。徳祖は軍を出して公孫表を攻撃し、大戦となり、朝から夕方まで戦い、敵数百人を殺した。ちょうど鄭兵の軍が許昌から戻り、包囲を合わせたため、徳祖は大敗し、甲士こうし千余人を失い、退いて城を固守した。嗣はまた鄴から一万余人を派遣し、白沙口から黄河を渡り、濮陽城の南の寒泉に塁を築かせた。朝廷の議論では、「項城は敵から遠くなく、軽軍で抗えるものではない。劉粹に高道瑾を召還して寿陽に戻させよ。もし沈叔狸がすでに進軍しているなら、やはり追い返すべきである」とした。劉粹は、敵が虎牢を攻めており、まだ南に向かっていないこと、もしすぐに軍を引き上げて項城を捨てれば、淮西の諸郡は頼るものがないこと、沈叔狸はすでに肥口に駐屯しており、またすぐに退くのは適切でないことを考えた。この時、李元徳が散兵二百人を率いて項城に至り、劉粹は彼に高道瑾を助けて守備させ、その敗走の罪を許すよう請うた。朝廷の議論はこれを許した。

原文嗣自鄴遣兵益虎牢,增圍急攻,鄭兵於虎牢率步騎三千,攻潁川太守李元德於許昌,車騎參軍王玄謨領千人,助元德守,與元德俱散敗。虜即用潁川人庾龍為潁川太守,領騎五百,幷發民丁以戍城。德祖出軍擊公孫表,大戰,從朝至晡,殺虜數百。會鄭兵軍從許昌還,合圍,德祖大敗,失甲士千餘人,退還固城。嗣又於鄴遣萬餘人從白沙口過河,於濮陽城南寒泉築壘。朝議以:「項城去虜不遠,非輕軍所抗,使劉粹召高道瑾還壽陽。若沈叔狸已進,亦宜且追。」粹以虜攻虎牢,未復南向,若便攝軍捨項城,則淮西諸郡,無所憑依。沈叔狸已頓肥口,又不宜便退。時李元德率散卒二百人至項,劉粹使助高道瑾戍守,請宥其奔敗之罪,朝議並許之。

檀道済は彭城ほうじょうに到着したが、青州と司州の両方が危急であり、自ら率いる兵は多くなく、分けて赴くには足りなかった。青州の道が近く、竺夔の兵が弱いため、まず青州を救援した。竺夔は人を城外に出して東西南に塹壕を造らせた。敵は城の北三百余歩の地点に長い包囲壁を掘った。竺夔は参軍の閭茂らに弓の名手五十人を率いさせ、壁に沿って敵を射させた。敵騎兵数百が駆けつけて壁を囲んだが、壁内から射かけられ、壁を固めて死戦した。敵は馬から下りて歩兵で進み、短兵で接戦した。城上から弓弩が一斉に発射され、敵は敗走した。敵は外堀を埋め、高楼四棟と蝦蟇車二十乗を引き、長い包囲壁の内側に設置した。竺夔はあらかじめ城の北に三つの地下道を掘り、外堀に通じさせ、さらに内堀を掘り、城内から二丈離れたところに子堀を作った。三百余人を地下道から出させ、敵の攻撃用具を焼こうとした。この時、風向きが変わり炎が燃え広がらず、敵兵の矢が横から降り注ぎ、士卒は多くが負傷したため、兵をまとめて引き上げた。敵は三つの堀をすべて埋め尽くして平らにし、子堀だけが残り、蝦蟇車の及ばないところとなった。敵は衝車で城を攻めた。竺夔は人力を募り、城上に大きな石臼を縄でつるして落とし、また子堀の中から出て、大麻の太い縄で骨組みを張り、攻撃車が城に近づくと、地下道から多くの人力で引っ張って折らせた。敵はさらに城南に長い包囲壁を掘り、攻撃をますます激しくした。竺夔は慎重に持ちこたえ、垣苗は胆力と才幹があったため、しばらくの間は堅守できた。しかし攻撃を受ける日が長くなり、城は次第に破壊され、戦士の多くが死傷し、残りの兵も疲弊し、朝夕のうちに陥落しそうであった。檀道済と王仲徳は兼行で救援に向かった。

原文檀道濟至彭城,以青、司二州並急,而所領不多,不足分赴,青州道近,竺夔兵弱,先救青州。竺夔遣人出城作東西南塹,虜於城北三百餘步鑿長圍,夔遣參軍閭茂等領善射五十人,依牆射虜,虜騎數百馳來圍牆,牆內納射,固牆死戰。虜下馬步進,短兵接,城上弓弩俱發,虜乃披散。虜遂填外塹,引高樓四所,蝦蟆車二十乘,置長圍內。夔先鑿城北作三地道,令通外塹,復鑿裏塹,內去城二丈作子塹,遣三百餘人出地道,欲燒虜攻具。時回風轉爓,火不得燃,虜兵矢橫下,士卒多傷,斂眾還入。虜填三塹盡平,唯餘子塹,蝦蟆車所不及。虜以橦攻城,夔募人力,於城上係大磨石堆之,又出於子塹中,用大麻絙張骨骨,攻車近城,從地道中多人力挽令折。虜復於城南掘長圍,進攻逾急。夔能持重,垣苗有膽幹,故能堅守移時。然被攻日久,城轉毀壞,戰士多死傷,餘眾困乏,旦暮且陷,檀道濟、王仲德兼行赴之。

劉粹は李元徳を派遣して許昌を襲撃させ、庾龍は逃げ散り、将軍の宋晃が追撃して庾龍の首を斬った。李元徳はそのまま留まって慰撫にあたり、租税と食糧を上納した。敵の悦勃大肥は三千余騎を率い、高平郡が管轄する高平・方与・任城・金郷・亢父の五県を破り、二千余家を略奪し、男子を殺し、女子や弱者を捕虜として連行した。兗州刺史の鄭順之は湖陸を守備していたが、兵卒が少なく出撃できなかった。冠軍将軍の申宣は彭城を守備し、高平から二百余里離れていたが、敵が来るのを恐れ、郭外の住民と諸営署をすべて小城に移した。

原文劉粹遣李元德襲許昌,庾龍奔迸,將宋晃追躡,斬龍首。元德因留綏撫,并上租糧。虜悅勃大肥率三千餘騎,破高平郡所統高平、方與、任城、金鄉、亢父等五縣,殺略二千餘家,殺其男子,驅虜女弱。兗州刺史鄭順之戍湖陸,以兵卒不敢出。冠軍將軍申宣戍彭城,去高平二百餘里,懼虜至,移郭外居民,并諸營署,悉入小城。

嗣はまた并州刺史の伊楼抜を派遣し、鄭兵を助けて虎牢を攻撃させ、二つの堀を埋めさせた。徳祖は状況に応じて抵抗し、かなりの敵を殺したが、将士は次第に減っていった。

原文嗣又遣并州刺史伊樓拔助鄭兵攻虎牢,填塞兩塹,德祖隨方抗拒,頗殺虜,而將士稍零落。

四月壬申、敵は道済が来ると聞き、器械を焼き払い、青州から撤退した。竺夔は上奏して、東陽城が攻撃で破壊され、守れないため、長広郡の不其城に移って守備すると述べた。竺夔は堅守の功により、前将軍に進号し、建陵県男に封ぜられ、食邑四百戸を与えられた。竺夔は字を祖季といい、東莞の人である。官位は金紫光禄大夫に至った。

原文四月壬申,虜聞道濟將至,焚燒器械,棄青州走。竺夔上言東陽城被攻毀壞,不可守,移鎮長廣之不其城。夔以固守功,進號前將軍,封建陵縣男,食邑四百戶。夔字祖季,東莞人也。官至金紫光祿大夫。

嗣は大軍を率いて虎牢に至り、三日間留まり、自ら督戦して城を攻めたが陥落できず、軍を返して洛陽に向かい、三千人を留めて鄭兵を増強した。洛陽に数日留まり、黄河を渡って北に帰還した。虜の安平公らの諸軍は青州から撤退し、滑臺に向かい、檀道済と王仲德の歩兵は食糧が乏しく、虜を追撃できなかった。道済は泰山で仲徳を尹卯に向かわせ、道済自身は湖陸に軍を留めた。仲徳が尹卯に着く前に、虜がすでに遠くに去ったと聞き、戻って道済と合流し、共に水軍を整備した。虜の安平公らの諸軍は滑臺に到着し、西進して鄭兵と合流し、共に虎牢を攻撃した。虎牢は二百日間包囲され、一日も戦わない日はなく、徳祖の精鋭部隊はほとんど戦死し、虜は増兵してますます多くなった。虜が外城を破壊すると、徳祖は内側にさらに三重の城壁を築き、依然として四重としたが、賊が三つの城壁を破壊したため、徳祖はただ一つの城壁を守り、昼夜を問わず抵抗した。将兵の目は皆傷つき、死者は大半に及んだ。徳祖は普段から恩徳を施しており、兵士たちに離反の心はなかった。徳祖はかつて北方にいた時、虜の将軍公孫表と旧知の仲であった。表は権謀術数に長けていたため、徳祖はこれを憂い、密かに音信を交わし、鄭兵を説得して、表が自分と内通していると吹き込み、表への返書を書くたびに、多くを改竄した。表がその手紙を鄭兵に見せると、鄭兵は疑念を深め、嗣に報告して表を誅殺させた。虜の勢力は盛んで、檀道済らの救援軍はみな進軍を敢えてしなかった。劉粹は項城を占拠し、沈叔狸は高橋に駐屯した。

原文嗣率大眾至虎牢,停三日,自督攻城,不能下,回軍向洛陽,留三千人益鄭兵。停洛數日,渡河北歸。虜安平公等諸軍從青州退還,逕趨滑臺,檀道濟、王仲德步軍乏糧,追虜不及。道濟於泰山分遣仲德向尹卯,道濟停軍湖陸。仲德未至尹卯,聞虜已遠,還就道濟,共裝治水軍。虜安平公諸軍就滑臺,西就鄭兵,共攻虎牢。虎牢被圍二百日,無日不戰,德祖勁兵戰死殆盡,而虜增兵轉多。虜撞外城,德祖於內更築三重,仍舊為四,賊撞三城已毀,德祖唯保一城,晝夜相拒,將士眼皆生創,死者太半。德祖恩德素結,眾無離心。德祖昔在北,與虜將公孫表有舊,表有權略,德祖患之,乃與交通音問,密遣人說鄭兵,云表與之連謀,每答表書,輒多所治定。表以書示鄭兵,鄭兵倍疑之,言於嗣,誅表。虜眾盛,檀道濟諸救軍並不敢進。劉粹據項城,沈叔狸屯高橋。

二十一日、虜は地下道を作って城内の井戸を盗み掘りした。井戸は深さ四十丈で、山の地勢が険しかったため防ぐことができなかった。その月の二十三日までに、人馬は渇きと飢えと疫病に苦しみ、体は皆乾ききり、傷を負ってももはや血は出なかった。虜は急攻をかけ、ついに虎牢を陥落させた。徳祖から翟広、竇霸に至るまで、城内にいたすべての将佐と郡守は捕虜となり、ただ上党太守の劉談之と参軍の范道基が二百人を率いて包囲を突破し南に帰還しただけだった。城が陥落しようとした時、将兵は徳祖を連れて脱出しようとしたが、徳祖は言った。「私はこの城と運命を共にする。この城が滅びて自分だけが生き残るようなことは義に反する。」嗣は彼の固守の節義を重んじ、軍に命じて生け捕りにさせたため、死を免れた。司空しくうの徐羨之、尚書の傅亮、領軍将軍の謝晦が上表して言った。「昨年、逆虜が暴虐をほしいままにし、河南を荒らしました。司州刺史の臣徳祖は誠を尽くし力を尽くして強敵に対抗し、孤城を独り守り、ほぼ一年に及びました。救援軍の到着が遅れ、城全体が陥落し、陛下の御心は悲しみに沈み、遠近の人々が嘆き悲しんでいます。陛下は深く憂慮され喪に服し、政務を臣下に委ねられましたが、臣らは謀略が浅く見識が狭く、委託に応えることができず、ついに節義を尽くした臣下を忠誠のままに滅ぼさせ、将兵を殲滅させ辱め、王の謀略を損ない挫折させ、上は先代の規律を失い、下は国の恥辱を残しました。朝廷の典拠に照らせば、責めを免れる理由はありません。役人が筆を執って処罰を加えていないとはいえ、どうして禄をむさぼり、特別な寵愛に安住していられましょうか。どうか臣らを罷免し追放して、国法を明らかにしてください。」許されなかった。

原文二十一日,虜作地道偷城內井,井深四十丈,山勢峻峭,不可得防。至其月二十三日,人馬渴乏飢疫,體皆乾燥,被創者不復出血。虜因急攻,遂剋虎牢,自德祖及翟廣、竇霸,凡諸將佐及郡守在城內者,皆見囚執,唯上黨太守劉談之、參軍范道基將二百人突圍南還。城將潰,將士欲扶德祖出奔,德祖曰:「我與此城并命,義不使此城亡而身在也。」嗣重其固守之節,勒眾軍生致之,故得不死。司空徐羨之、尚書傅亮、領軍將軍謝晦表曰:「去年逆虜縱肆,陵暴河南,司州刺史臣德祖竭誠盡力,抗對強寇,孤城獨守,將涉朞年,救師淹緩,舉城淪沒,聖懷垂悼,遠近嗟傷。陛下殷憂諒闇,委政自下,臣等謀猷淺蔽,託付無成,遂令致節之臣,抱忠傾覆,將士殲辱,王略虧挫,上墜先規,下貽國恥。稽之朝典,無所辭責。雖有司撓筆,未加准繩,豈宜尸祿,昧安殊寵,乞蒙屏固,以申國法。」不許。

徳祖は、滎陽けいよう郡陽武県の人である。晋の末年に郷里から南に帰順した。初め冠軍参軍・輔国将軍となり、道規が荊州にいた時、徳祖はその将佐となった。再び高祖の太尉たいい参軍となった。高祖が北伐した時、王鎮悪の龍驤司馬に任じられ、建武将軍を加えられた。鎮悪の前鋒として、柏谷で賊の寧朔将軍趙玄石を斬り、梨城で弘農太守尹雅を破り、また涇水で賊の大帥姚難を破り、その鎮北将軍姚強を斬った。鎮悪が大功を立てたのは、まさに徳祖の力によるものであった。長安平定後、龍驤将軍・扶風太守に任じられ、そのまま秦州刺史に転任し、将軍の位は変わらなかった。当時、仏仏虜が寇掠していたため、再び徳祖を王鎮悪の征虜司馬とし、まもなく桂陽公義真の安西参軍・南安太守となり、将軍の位は変わらなかった。さらに馮翊太守に転任した。高祖が東還した時、徳祖を司州の河東・平陽二郡諸軍事・輔国将軍・河東太守に任じて、并州刺史劉遵考りゅうじゅんこうに代わって蒲坂を守備させた。長安が守れなくなると、配下の兵をまとめて彭城に戻り、世子中兵参軍に任じられ、将軍の位は変わらなかった。また、司州の河東・平陽・河北、雍州の京兆、豫州の潁川、兗州の陳留の九郡軍事・滎陽太守を督し、将軍の位は変わらず、さらに京兆太守を加えられた。高祖が即位すると、冠軍将軍に進号した。前後の功績により、観陽県男に封じられ、食邑四百戸を与えられた。また、司・雍・并三州および豫州の潁川、兗州の陳留諸軍事・司州刺史を督し、将軍の位は変わらなかった。太祖の元嘉六年、虜の中で死去した。享年六十五。世祖の大明元年、徳祖の弟の子である熙祚の第二子、詡之が徳祖の封を継いだ。

原文德祖,滎陽陽武人也。晉末自鄉里南歸。初為冠軍參軍、輔國將軍,道規為荊州,德祖為之將佐。復為高祖太尉參軍。高祖北伐,以為王鎮惡龍驤司馬,加建武將軍。為鎮惡前鋒,斬賊寧朔將軍趙玄石於栢谷,破弘農太守尹雅於梨城,又破賊大帥姚難於涇水,斬其鎮北將軍姚強。鎮惡剋立大功,蓋德祖之力也。長安平定,以為龍驤將軍、扶風太守,仍遷秦州刺史,將軍如故。時佛佛虜為寇,復以德祖為王鎮惡征虜司馬,尋復為桂陽公義真安西參軍、南安太守,將軍如故。復徙馮翊太守。高祖東還,以德祖督司州之河東、平陽二郡諸軍、輔國將軍、河東太守,代并州刺史劉遵考戍蒲坂。長安不守,合部曲還彭城,除世子中兵參軍,將軍如故。又除督司州之河東、平陽、河北、雍州之京兆、豫州之潁川、兗州之陳留九郡軍事、滎陽太守,將軍如故,又加京兆太守。高祖踐阼,進號冠軍。論前後功,封觀陽縣男,食邑四百戶。又除督司、雍、并三州、豫州之潁川、兗州之陳留諸軍事、司州刺史,將軍如故。太祖元嘉六年,死於虜中,時年六十五。世祖大明元年,以德祖弟子熙祚第二息詡之紹德祖封。

虜は虎牢を陥落させると、兵を留めて守備させ、残りの軍勢はすべて北に帰還した。少帝は言った。「故寧遠司馬・濮陽太守の陽瓚は、滑臺が攻められた時、誠を励まして固守し、命を投げ出して節義を全うし、危険の中でも屈しなかった。古代の忠烈な者にもこれに勝るものはいない。給事中きゅうじちゅうを追贈し、遺された孤児を慰問し救済して、生きている者と亡くなった者を慰めよ。」尚書令の傅亮は、瓚の家が彭城にあるので、すぐに官庫の絹百匹、粟三百斛こくを与えるべきと議した。文士の顔延之が誄を作った。龍驤将軍兗州刺史の徐琰と東郡太守の王景度はともに守備を失った罪により、髪を剃り鉄の首枷をはめられて労役に服し、琰は五年、景度は四年の刑に処せられた。

原文虜既剋虎牢,留兵居守,餘眾悉北歸。少帝曰:「故寧遠司馬、濮陽太守陽瓚,滑臺之逼,厲誠固守,投命均節,在危無撓,古之忠烈,無以加之。可追贈給事中,并存卹遺孤,以慰存亡。」尚書令傅亮議瓚家在彭城,宜即以入臺絹一百匹,粟三百斛賜給。文士顏延之為誄焉。龍驤將軍兗州刺史徐琰、東郡太守王景度並坐失守,鉗髠居作,琰五歲,景度四歲。

当時、宣威将軍・潁川太守の李元徳が許昌を守備しており、そのまま滎陽太守に任じられ、二郡の軍事を督した。その年の十一月、虜は軍を派遣し逃亡兵を集めて、許昌城を攻め迫り、地元民の劉遠を滎陽太守とした。李元徳は出撃しようとしたが、武器が少なく、夜になると、女牆をすべて取り払って散り散りに敗走し、元徳は再び項城に逃げ戻った。虜はまた汝陽を包囲し、太守の王公度は十数騎を率いて包囲を突破し項城に逃げた。虜はまた邵陵県を破り、二千余家を虐殺し、男丁をすべて殺し、婦女一万二千人を略奪して連れ去った。劉粹は将の姚聡夫を派遣して軍を率いさせ項城の守備を助けさせ、また司馬の徐瓊に五百人を率いさせて続かせた。虜は許昌城を掘り崩し、また鍾離城を破壊し、境界を定めて帰還した。

原文時宣威將軍、潁川太守李元德戍許昌,仍除滎陽太守,督二郡軍事。其年十一月,虜遣軍并招集亡命,攻逼許昌城,以土人劉遠為滎陽太守。李元德欲出戰,兵仗少,至夜,悉排女牆散潰,元德復奔還項城。虜又圍汝陽,太守王公度將十餘騎突圍奔項城。虜又破邵陵縣,殘害二千餘家,盡殺其男丁,驅略婦女一萬二千口。劉粹遣將姚聳夫率軍助守項城,又遣司馬徐瓊五百人繼之。虜掘破許昌城,又毀壞鍾離城,以立疆界而還。

嗣が死に、諡を明元皇帝とした。子の燾、字は仏貍が代わって立った。母の杜氏は冀州の人で、その宮中に入り、燾を生んだ。燾は十五、六歳の時、嗣に知られることがなく、僕隷のように扱われた。嗣は初め慕容氏の娘を皇后とし、また姚興の娘を娶ったが、いずれも子がなかったため、燾が立つことができた。たくましく筋力があり、戦闘に勇猛で、残忍で殺戮を好み、夷人も宋人も彼を恐れた。城攻めや敵に臨む時は、常に自ら甲冑を身に着けた。元嘉五年、大将の吐伐斤を派遣して西の長安を討伐させ、安定で赫連昌を生け捕りにし、昌を公に封じて妹を妻とさせた。昌の弟の赫連定が隴上にいた。吐伐斤は勝ちに乗じて騎兵三万で定を討ったが、定は隴山の弾箏谷に伏兵を設けてこれを破り、吐伐斤を斬り、その軍勢をすべて生き埋めにした。定は軍勢を率いて東に帰還し、後に長安を陥落させた。燾はまた自ら攻撃したが陥落できず、軍を分けて大城を守備させて帰還した。燾は常に昌を側近に侍らせ、常に共に単騎で鹿を追い、山の渓谷深くまで入った。昌は元々勇名があり、諸将は皆昌を近づけるべきでないと言ったが、燾は言った。「天命が定まっている以上、何を恐れることがあろうか。」以前と同様に親しく遇した。再び長安を攻撃して陥落させ、定は西に逃げ、吐谷渾の慕璝に生け捕りにされた。

原文嗣死,諡曰明元皇帝,子燾字佛貍代立。母杜氏,冀州人,入其宮內,生燾。燾年十五六,不為嗣所知,遇之如僕隸。嗣初立慕容氏女為后,又娶姚興女,並無子,故燾得立。壯健有筋力,勇於戰鬭,忍虐好殺,夷、宋畏之。攻城臨敵,皆親貫甲冑。元嘉五年,使大將吐伐斤西伐長安,生禽赫連昌於安定,封昌為公,以妹妻之。昌弟赫連定在隴上,吐伐斤乘勝以騎三萬討定,定設伏於隴山彈箏谷破之,斬吐伐斤,盡坑其眾。定率眾東還,後剋長安,燾又自攻不剋,乃分軍戍大城而還。燾常使昌侍左右,常共單馬逐鹿,深入山澗。昌素有勇名,諸將咸謂昌不可親,燾曰:「天命有在,亦何所懼。」親遇如初。復攻長安,剋之,定西走,為吐谷渾慕璝所禽。

赫連氏に衛臣という名の者がいた。その種族は朔方の塞外に居住し、部落は千余戸を数えた。朔方より西、西は上郡に至るまで、東西千余里の地は、漢代に流刑者を移住させて住まわせ、土地は肥沃であった。苻堅の時代、衛臣は塞内に入り寄田し、春に来て秋に去った。堅の雲中護軍賈雍が彼らの田を略奪し、捕虜や馬・牛・羊を獲得したが、堅はすべて返還した。衛臣は恩を感じ、ついに臣下を称して塞内に居住するようになり、その後次第に強盛となった。衛臣が死ぬと、子の仏仏は勇猛で謀略に長け、遠近の雑種族は皆これに帰附した。姚興はこれと対抗したが、興は軍を覆し衆を喪い、前後一度ならず、関中はこれによって傷つき衰えた。高祖が長安に入ると、仏仏は震え恐れて敢えて動かなかった。高祖が東に帰還すると、すぐに北地に侵入寇掠した。安西将軍義真が帰還する際、仏仏は子の昌を遣わしてこれを青泥で破り、諸将帥を捕虜とし、ついに関中を手中に収め、自ら尊号を称し、年号を真興元年と号した。京兆人の韋玄は隠居して志を養い、高い名声があり、姚興は礼を尽くして招聘したが応じず、高祖は彼を相国掾、宋台通直郎に辟召したが、これもまた就任しなかった。仏仏が太子庶子に召すと、韋玄は命に応じた。仏仏は大いに怒り、「姚興や劉公(高祖)が相次いで招聘しても、ともに起たなかったのに、私が命ずればすぐに来た。私が異民族であるため、道理をもって扱えないと思ったのか」と言って、彼を殺した。元嘉二年、仏仏が死に、昌が立ったが、この時に至って燾に併合された。燾は西は隴右を平定し、東は黄龍を滅ぼし、海東の諸国は皆、朝貢の使者を遣わした。

原文赫連氏有名衞臣者,種落在朔方塞外,部落千餘戶。朔方以西,西至上郡,東西千餘里,漢世徙讁民居之,土地良沃。苻堅時,衞臣入塞寄田,春來秋去。堅雲中護軍賈雍掠其田者,獲生口馬牛羊,堅悉以還之,衞臣感恩,遂稱臣入居塞內,其後漸強盛。衞臣死,子佛佛驍猛有謀算,遠近雜種皆附之。姚興與相抗,興覆軍喪眾,前後非一,關中為之傷殘。高祖入長安,佛佛震懾不敢動。高祖東還,即入寇北地。安西將軍義真之歸也,佛佛遣子昌破之青泥,俘囚諸將帥,遂有關中,自稱尊號,號年曰真興元年。京兆人韋玄隱居養志,有高名,姚興備禮徵,不起,高祖辟為相國掾,宋臺通直郎,又並不就。佛佛召為太子庶子,玄應命。佛佛大怒,曰:「姚興及劉公相徵召,並不起,我有命即至,當以我殊類,不可理其故耶。」殺之。元嘉二年,佛佛死,昌立,至是為燾所兼。燾西定隴右,東滅黃龍,海東諸國,並遣朝貢。

太祖が践祚すると、早くも北略の志があった。七年三月、詔を下して言った。「河南は、中国の地でありながら長らく変乱が続き、埋没してその所を得ず、残された民衆は塗炭の苦しみにあり、常にこれを哀れんでいる。今、民は和し年は豊かで、四方に事なく、時宜に合わせて経理し、以て疆場を固めるべきである。甲卒五万を選び、右将軍到彦之に与え、安北将軍王仲徳・兗州刺史竺霊秀の舟師を統率させて河に入らせ、驍騎ぎょうき将軍段宏に精騎八千を率いさせて虎牢を直指させ、豫州刺史劉徳武に勁勇一万を率いさせて相掎角させよ。後将軍長沙王義欣には臨時に仮節を与え、現有兵力三万を率いさせ、征討諸軍事を監せしめよ。速やかに準備を整え、月内にすべて出発せよ。」先に殿中将军田奇を使者として命を帯びさせ、燾に告げさせた。「河南はもと宋の領土であり、中途でそちらに侵されたが、今は旧境を修復するのであって、河北には関わらない。」燾は大いに怒り、田奇に言った。「私が生まれて髪の毛が乾かない頃から、河南は我が家の地だと聞いている。これ(河南)を得られるはずがあろうか。(宋が)必ず進軍するなら、今はひとまず守備兵を収めて避けるが、冬になって地面が固まり、黄河の氷が結べば、自ら取り戻すことになる。」

原文太祖踐阼,便有志北略。七年三月,詔曰:「河南,中國多故,湮沒非所,遺黎荼炭,每用矜懷。今民和年豐,方隅無事,宜時經理,以固疆埸。可簡甲卒五萬,給右將軍到彥之,統安北將軍王仲德、兗州刺史竺靈秀舟師入河,驍騎將軍段宏精騎八千,直指虎牢,豫州刺史劉德武勁勇一萬,以相掎角,後將軍長沙王義欣可權假節,率見力三萬,監征討諸軍事。便速備辦,月內悉發。」先遣殿中將軍田奇銜命告燾:「河南舊是宋土,中為彼所侵,今當修復舊境,不關河北。」燾大怒,謂奇曰:「我生頭髮未燥,便聞河南是我家地,此豈可得河南。必進軍,今權當斂戍相避,須冬行地凈,河冰合,自更取之。」

後将軍長沙王義欣は彭城に出鎮し、諸将帥を総統し、司・兗二州に告げて言った。

原文後將軍長沙王義欣出鎮彭城,總統羣帥,告司、兗二州曰:

彦之が進軍すると、虜は河南のすべての戍を収めて河北に帰った。太祖は以前の征虜司馬・南広平太守尹沖を督司・雍・并三州、豫州の潁川、兗州の陳留二郡諸軍事・奮威将軍・司州刺史とし、虎牢に戍らせた。十一月、虜の大軍が南に渡河し、彦之は敗退した。洛陽・滑台・虎牢の諸城はともに虜に陥落され、尹沖と司馬滎陽太守崔模は節を守って降らず、塹壕に身を投じて死んだ。沖は字を子順といい、天水冀の人である。以前は姚興の吏部郎であり、興の子の広平公弼と結党し、興の太子泓を傾けようとした。泓が立つと、沖は弟の弘とともに逃叛して南に帰順した。この時に至り、前将軍を追贈された。太祖は江夏王義恭に書を送って言った。「尹沖の誠節と志概は、古の烈士の跡を継ぐものであり、傷み惜しんでやまない。」

原文彥之進軍,虜悉斂河南一戍歸河北。太祖以前征虜司馬、南廣平太守尹沖為督司、雍、并三州、豫州之潁川、兗州之陳留二郡諸軍事、奮威將軍、司州刺史,戍虎牢。十一月,虜大眾南渡河,彥之敗退,洛陽、滑臺、虎牢諸城並為虜所沒,尹沖及司馬滎陽太守崔模抗節不降,投塹死。沖字子順,天水冀人也。先為姚興吏部郎,與興子廣平公弼結黨,欲傾興太子泓,泓立,沖與弟弘俱逃叛南歸。至是追贈前將軍。太祖與江夏王義恭書曰:「尹沖誠節志概,繼蹤古烈,以為傷惋,不能已已。」

上は滑台が長時日にわたり戦い守ったにもかかわらず、ついに陥落したことをもって、詩を作って言った。

原文上以滑臺戰守彌時,遂至陷沒,乃作詩曰:

その後、燾はまた使者を遣わして友好を通じ、婚姻を求めたが、太祖は常にこれを曖昧にした。十七年、燾は年号を太平真君元年と号した。十九年、虜の鎮東将軍武昌王宜勒庫莫提が益・梁二州に移書を送り、仇池を討伐し、その附庸を侵した。また徐州に越えて移書を送り、言った。

原文其後燾又遣使通好,并求婚姻,太祖每依違之。十七年,燾號太平真君元年。十九年,虜鎮東將軍武昌王宜勒庫莫提移書益、梁二州,往伐仇池,侵其附屬,而移書越詣徐州曰:

徐州は移書に答えて言った。

原文徐州答移曰:

二十年、燾は国をその太子に授け、下書して言った。「朕は祖宗の重光の緒を承け、洪基を闡明し、万世を恢隆せんと考える。天下を経営し、暴を平げ逆を除き、順ならざるものを掃清して以来、武功は既に顕著であるが、文教はまだ闡明されていない。これは太平の治を崇める道ではない。今、域内は安逸で、百姓は富み栄えている。軍国は容を異にするので、制度を定め、万世の法とすべきである。陰陽には往復があり、四時には代序がある。子に授け賢を任じ、安泰と危険は互いに付随する。これによって疲労を休息させ、長久を固くし、その禄福を成すのであり、古今を通じて変わらない典である。諸々の朕の功臣たちは、長らく勤労してきたので、皆、致仕して邸に帰り、雍容として高爵にあり、神を養い寿を保ち、朝請は時に随い、朕の前で饗宴し、道を論じ謀を陳べるだけでよい。再び有司の苦劇の職に親しく携わる必要はない。皇太子に万機を嗣ぎ理めさせ、百揆を総統させ、さらに賢良を挙げて列職に備えさせよ。皆、後進の明能な者を取り、選才の路を広く開き、人を択んで任に授け、これを黜ちゅつ陟せよ。故に孔子は言う、『後生畏るべし、来者の今に如かざるを知らんや』と。主者は明らかに科制を定め、宣勅して施行せよ。」ここにおいて王公以下、太子に上書する者は皆、臣と称し、首尾は表と同じであったが、ただ白紙を用いる点が異なっていた。この年、燾は芮芮虜を討伐したが、大敗して帰還し、死者は十の六七に及んだ。死者の家が哀悼の意を表することを許さず、犯す者は誅殺した。

原文二十年,燾以國授其太子,下書曰:「朕承祖宗重光之緒,思闡洪基,恢隆萬世。自經營天下,平暴除逆,掃清不順,武功既昭,而文教未闡,非所以崇太平之治也。今者域內安逸,百姓富昌,軍國異容,宜定制度,為萬世之法。夫陰陽有往復,四時有代序,授子任賢,安全相附,所以休息疲勞,式固長久,成其祿福,古今不易之典也。諸朕功臣,懃勞日久,皆當致仕歸第,雍容高爵,頤神養壽,朝請隨時,饗宴朕前,論道陳謀而已,不須復親有司苦劇之職。其令皇太子嗣理萬機,總統百揆,更舉賢良,以被列職,皆取後進明能,廣啟選才之路,擇人授任而黜陟之。故孔子曰:『後生可畏,焉知來者之不如今。』主者明為科制,宣勑施行。」於是王公以下上書太子皆稱臣,首尾與表同,唯用白紙為異。是歲,燾伐芮芮虜,大敗而還,死者十六七。不聽死家發哀,犯者誅之。

二十三年、虜の安南平南府がまた兗州に移書を送り、南国が僑置した州は城土に依らず、北境の名号を濫用していること、また具区で遊猟したいことを述べた。兗州は移書に答えて言った。

原文二十三年,虜安南平南府又移書兗州,以南國僑置州,不依城土,多濫北境名號,又欲遊獵具區。兗州答移曰:

先に、虜の中で謡言があった。「虜を滅ぼす者は呉なり。」燾はこれを非常に憎んだ。二十三年、北地瀘水の人蓋呉、年二十九、杏城天臺において兵を挙げて虜に反旗を翻した。諸戎夷は普くこれに呼応し、衆十万余を擁した。燾は呉の反乱を聞き、その名を憎み、累次軍を派遣してこれを撃ったが、常に敗れた。呉は上表して帰順を申し出て、言った。

原文先是,虜中謠言:「滅虜者吳也。」燾甚惡之。二十三年,北地瀘水人蓋吳,年二十九,於杏城天臺舉兵反虜,諸戎夷普並響應,有眾十餘萬。燾聞吳反,惡其名,累遣軍擊之,輒敗。吳上表歸順,曰:

燾は軍を派遣して屡々敗れたため、ついに自ら大衆を率いてこれを攻めた。呉はまた上表して言った。

原文燾遣軍屢敗,乃自率大眾攻之。吳又上表曰:

太祖は詔を下して言った。「北地の蓋呉は、秦川に衆を起こし、華夷が呼応して帰附し、その義勇を奮い、頻繁に勝利を収め、屡々表疏を遣わし、遠く忠誠を献げ、志は逆虜を梟すことにあり、以て勲績を立てようとしている。爵号を加え、その誠を褒奨すべきである。使持節・都督ととく関隴諸軍事・安西将軍・雍州刺史・北地郡公とすることができる。雍・梁に命じて軍を境界上に派遣させ、以て援接せしめよ。」

原文太祖詔曰:「北地蓋吳,起眾秦川,華戎響附,奮其義勇,頻煩克捷,屢遣表疏,遠效忠款,志梟逆虜,以立勳績。宜加爵號,襃奬乃誠,可以為使持節、都督關隴諸軍事、安西將軍、雍州刺史、北地郡公。使雍、梁遣軍界上,以相援接。」

燾は呉を攻めて大小数十戦したが、勝つことができなかった。太祖は使者を遣わし、雍・秦二州の統轄する郡および金紫以下の諸将の印合わせて一百二十一紐を呉に送り、適宜に仮授させた。屠各が反叛すると、呉は自らこれを攻めたが、流れ矢に当たって死んだ。呉の弟の吾生が余衆を率いて木面山に入ったが、皆、間もなく破れ散った。

原文燾攻吳大小數十戰,不能剋。太祖遣使送雍、秦二州所統郡及金紫以下諸將印合一百二十一紐與吳,使隨宜假授。屠各反叛,吳自攻之,為流矢所中,死。吳弟吾生率餘眾入木面山,皆尋破散。

その年、太原の民顔白鹿が私的に荒野に入り、虜に捕らえられた。相州刺史が彼を殺そうとすると、白鹿は詐って「青州刺史杜驥が私を帰順させようと遣わした」と言った。相州刺史は白鹿を桑乾に送ると、燾は喜んで言った。「我が外戚である。」司徒しと崔浩に命じて杜驥に書を作らせ、司徒祭酒王琦に書を持たせて白鹿に随い南に帰らせた。従弟の高梁王に重軍を率いさせて杜驥を迎えさせ、太原界に入り、歴城において冀州刺史申恬を攻めたが、恬はこれを撃破した。杜驥はその寧朔府司馬夏侯祖歓・中兵参軍吉淵を馳せて赴援させた。虜は太原を破り略奪し、四千余口、牛六千余頭を得た。間もなくまた兗・青・冀三州を寇し、ついに清東に及び、多くを殺略した。

原文其年,太原民顏白鹿私行入荒,為虜所錄,相州刺史欲殺之,白鹿詐云「青州刺史杜驥使其歸誠」。相州刺史送白鹿至桑乾,燾喜曰:「我外家也。」使其司徒崔浩作書與驥,使司徒祭酒王琦齎書隨白鹿南歸。遣從弟高梁王以重軍延驥,入太原界,攻冀州刺史申恬於歷城,恬擊破之。杜驥遣其寧朔府司馬夏侯祖歡、中兵參軍吉淵馳往赴援,虜破略太原,得四千餘口,牛六千餘頭。尋又寇兗、青、冀三州,遂及清東,殺略甚眾。

太祖は経略を弘めようと考え、群臣に詔して言った。

原文太祖思弘經略,詔羣臣曰:

当時、国境付近の住民は互いに侵攻や略奪を繰り返していた。二十五年、虜の寧南将軍・豫州刺史・北井侯の若庫辰樹蘭が豫州に移書を送り、次のように述べた。

原文時疆埸之民,多相侵盜。二十五年,虜寧南將軍、豫州刺史、北井侯若庫辰樹蘭移書豫州曰:

右将軍・豫州刺史の南平王劉鑠が移書に答えて次のように述べた。

原文右將軍、豫州刺史南平王鑠答移曰:

二十七年、拓跋燾自ら歩兵と騎兵十万を率いて汝南を侵犯した。当初、燾は辺境を侵犯しようとし、梁川で狩猟を行うと声を上げていた。太祖(文帝)は彼が淮水や泗水を侵犯することを懸念し、辺境の守備隊に命令を下した。「小規模な敵が来れば、堅守して防ぎなさい。大軍が来れば、住民を連れて寿陽に撤退しなさい。」しかし、各守備隊の偵察と警戒が不十分で、虜が突然国境に侵入した。宣威将軍・陳郡・南頓郡二郡太守の鄭琨と、綏遠将軍・汝陽郡・潁川郡二郡太守の郭道隱はともに城を捨てて逃走した。虜は淮西の六郡を略奪し、多くの人々を殺戮した。懸瓠城を包囲攻撃したが、城内の戦士は千人に満たなかった。これに先立ち、汝南郡・新蔡郡二郡太守の徐遵之が郡を離れていた。南平王劉鑠が当時寿陽を鎮守しており、右軍行参軍の陳憲を行郡事として派遣した。陳憲は城に籠って堅固に守り、燾は全軍の精鋭を挙げて攻撃した。陳憲は自ら外城に登って督戦した。敵は城に面して楼を建て、矢が雨のように降り注ぎ、衝車で南城を破壊した。陳憲は城内にさらに防壁を築き、柵を立てて補強した。虜は肉薄して城を攻め、死者は非常に多かったが、陳憲の将士の死傷も半数を超えた。燾はただ寿陽からの援軍を恐れ、彭城のことは考慮しなかった。

原文二十七年,燾自率步騎十萬寇汝南。初,燾欲為邊寇,聲云獵於梁川。太祖慮其侵犯淮、泗,迺敕邊戍:「小寇至,則堅守拒之;大眾來,則拔民戶歸壽陽。」諸戍偵候不明,虜奄來入境,宣威將軍、陳、南頓二郡太守鄭琨、綏遠將軍、汝陽、潁川二郡太守郭道隱並棄城奔走。虜掠抄淮西六郡,殺戮甚多。攻圍懸瓠城,城內戰士不滿千人。先是,汝南、新蔡二郡太守徐遵之去郡,南平王鑠時鎮壽陽,遣右軍行參軍陳憲行郡事。憲嬰城固守,燾盡銳以攻之,憲自登郭城督戰。起樓臨城,飛矢雨集,衝車攻破南城,憲於內更築扞城,立柵以補之。虜肉薄攻城,死者甚眾,憲將士死傷亦過半。燾唯恐壽陽有救兵,不以彭城為慮。

拓跋燾は従弟の永昌王庫仁真に歩兵と騎兵一万余りを率いさせ、略奪した六郡の住民を連れて北の汝陽に駐屯させた。当時、世祖(孝武帝)は彭城を鎮守しており、太祖は隊主の呉香鑪を駅馬で派遣し、世祖に千騎の兵を三日分の食糧を持たせて襲撃するよう命じた。世祖は百里以内の馬を徴発し、千五百頭を得た。人々は別駕の劉延孫を元帥に推挙したが、延孫は辞退して行こうとせず、参軍の劉泰之を代わりに推挙した。世祖は司馬の王玄謨と長史の張暢に意見を求め、暢らはともにこれを支持した。そこで五軍に分け、泰之を元帥とし、安北騎兵行参軍の垣謙之、田曹行参軍の臧肇之、集曹行参軍の尹定、武陵国左常侍の杜幼文の五人にそれぞれ一軍を率いさせた。謙之は泰之の軍の副将を兼任し、殿中將軍の程天祚が督戦した。譙城に至り、人馬を再選抜し、精鋭の騎兵千一百頭を得て、まっすぐ汝陽に向かった。虜は北から奇襲部隊が来るとは予想しておらず、大本営は汝陽の北、城から三里ほどのところにあった。泰之らが到着した時、虜はまったく気づかず、騎兵で突入して襲撃し、三千人余りを殺し、その輜重を焼いた。陣営内には数区画の氈屋があり、屋の中にはすべて帳幕があり、武器や武具は非常に精巧で、食器はすべて金銀製であった。帳内の各大将帥をことごとく殺した。捕虜となっていた人々はすべて東へ逃げ出し、大声で叫んだ。「官軍が痛烈に手を下したぞ。」虜の兵士たちは一時に逃げ散り、それを追撃したが、一日中行軍したため、人馬は疲労し、汝南に引き返した。城内には虜の一幢(部隊単位)がおり、騎兵と歩兵合わせて約五百人で、城に登って泰之に後続部隊がないことを見て知った。また、別の将帥である鉅鹿公の余嵩が虎牢から到着したため、これらを率いて出撃し泰之を攻撃した。泰之の軍はまだ食事をしておらず、朝から戦ってすでに疲労しており、陣形を整える間もなかった。垣謙之が先に退却したため、軍は驚いて混乱し、武器を捨てて逃走した。道に迷って溵水に向かい、水深は深く岸は高かった。人馬は皆、水の中を走って我先に渡ろうとし、泰之だけは去ろうとせず、「このような敗北をして、どんな顔をして戻れようか」と言い、馬から降りて地面に座り、虜に殺された。肇之は水に溺れて死に、天祚は虜に捕らえられた。謙之、定、幼文および将士で生き残った者は九百人余り、馬は四百頭が戻った。世祖は安北将軍の称号を鎮軍将軍に降格し、玄謨と延孫は免官、暢は兼任していた沛郡太守を免じ、謙之は誅殺され、定と幼文は尚方に送られた。

原文燾遣從弟永昌王庫仁真步騎萬餘,將所略六郡口,北屯汝陽。時世祖鎮彭城,太祖遣隊主吳香鑪乘驛敕世祖,遣千騎,齎三日糧襲之。世祖發百里內馬,得千五百匹。眾議舉別駕劉延孫為元帥,延孫辭不肯行,舉參軍劉泰之自代。世祖以問司馬王玄謨、長史張暢,暢等並贊成之。乃分為五軍,以泰之為元帥,與安北騎兵行參軍垣謙之、田曹行參軍臧肇之、集曹行參軍尹定、武陵國左常侍杜幼文五人,各領其一。謙之領泰之軍副殿中將軍程天祚督戰,至譙城,更簡閱人馬,得精騎千一百匹,直向汝陽。虜不意奇兵從北來,大營在汝陽北,去城三里許。泰之等至,虜都不覺,馳入襲之,殺三千餘人,燒其輜重。營內有數區氈屋,屋中皆有帳,器仗甚精,食具皆是金銀,帳內諸大主帥,悉殺之。諸亡口悉得東走,大呼云:「官軍痛與手。」虜眾一時奔散,因追之,行已經日,人馬疲倦,引還汝南。城內有虜一幢,馬步可五百,登城望知泰之無後繼,又有別帥鉅鹿公餘嵩自虎牢至,因引出擊泰之,泰之軍未食,旦戰已疲勞,結陣未及定,垣謙之先退,因是驚亂,棄仗奔走,行迷道趨溵水,水深岸高,人馬悉走水爭渡,泰之獨不去,曰:「喪敗如此,何面復還。」下馬坐地,為虜所殺。肇之溺水死,天祚為虜所執,謙之、定、幼文及將士免者九百餘人,馬至者四百匹。世祖降安北之號為鎮軍將軍,玄謨、延孫免官,暢免所領沛郡,謙之伏誅,定、幼文付尚方。

拓跋燾は最初、汝陽での敗北を聞き、また彭城に援軍がいるという情報が伝わると、大いに恐れ、配下の者たちに言った。「淮南から軍が派遣されたと聞いたばかりなのに、またも奇兵が出てきた。今年は敵の計略に陥るだろう。」すぐに攻城兵器を焼き、逃走しようとした。ちょうどその時、泰之の死の報せが続いて届き、寿陽に留まった。劉康祖を派遣して懸瓠を救援させたが、燾も任城公を派遣して康祖を迎え撃たせ、戦ってこれを破り、任城公を斬った。燾は四十二日間城を攻めたが陥落させられず、死者は非常に多く、任城公も死んだ。康祖の救援軍が次第に迫ってきたため、燾は大将の罪に帰し、多くの者を斬殺し、倍の速度で逃走した。太祖は陳憲の堅固な守りを称え、詔を下した。「右軍行参軍・行汝南新蔡二郡軍事の陳憲は、力を尽くして防衛し、城を全うして敵を撃退した。その忠誠と勇敢な功績は、顕著な昇進に値する。龍驤将軍・汝南・新蔡二郡太守に任じよ。」また、布一万匹を陳憲に委ね、汝南城内の文武の官吏・民衆で戦闘や守備に勤労した者たちに分け与えさせた。

原文燾初聞汝陽敗,又傳彭城有係軍,大懼,謂其眾曰:「但聞淮南遣軍,乃復有奇兵出。今年將墮人計中。」即燒攻具,欲走。會泰之死問續至,乃停壽陽。遣劉康祖救懸瓠,燾亦遣任城公拒康祖,與戰破之,斬任城。燾攻城四十二日不拔,死者甚多,任城又死,康祖救軍漸進,乃委罪大將,多所斬戮,倍道奔走。太祖嘉憲固守,詔曰:「右軍行參軍、行汝南新蔡二郡軍事陳憲,盡力捍禦,全城摧寇,忠敢之効,宜加顯擢,可龍驤將軍、汝南、新蔡二郡太守。」又以布萬匹委憲分賜汝南城內文武吏民戰守勤勞者。

拓跋燾は懸瓠を攻略できなかったものの、略奪したものは非常に多く、南朝の軍はたびたび功績を上げられず、燾から軽侮されていた。太祖に書簡を送り、次のように述べた。

原文燾雖不剋懸瓠,而虜掠甚多,南師屢無功,為燾所輕侮。與太祖書曰:

この後、再び通和を求めたが、太祖に北伐の意思があると聞き、また書簡を送って言った。「互いに和好し、住民が繋がり合って、長い時が経った。しかし、そちらは飽くことを知らず、我が辺境の民を誘い、逃げて行った者には七年間の賦役免除を約束する。去年の春に南巡し、我が民の様子を見て、すぐに追い返させた。天地が開闢して以来、天下を争う者は、私とあなただけではない。今、そちらが自ら来ると聞いた。もし中山や桑乾川まで来られるなら、好きなように行き来しなさい。来ても迎えず、去っても見送らない。もし自分の領土に飽きたなら、平城に来て住んでもよい。私は揚州に行って住もう。互いの土地を交換することもできる。(傖人は交換のことを博と言う。)あなたはもう五十歳で、一度も戸外に出たことがない。自力で来たとしても、三歳の幼児のようで、どうして我が鮮卑が常に馬の背や首の上で生活しているかを知ることができよう。他に与えるべき物は何もない。今、狩りの白鹿馬十二頭と氈、薬などの品物を贈る。そちらからの馬が力不足なら、これに乗るとよい。道のりは遠く、あるいは水土不服になるかもしれないが、薬で自ら治療できる。」

原文此後復求通和,聞太祖有北伐意,又與書曰:「彼此和好,居民連接,為日已久,而彼無厭,誘我邊民,其有往者,復之七年。去春南巡,因省我民,即使驅還。自天地啟闢已來,爭天下者,非唯我二人而已。今聞彼自來,設能至中山及桑乾川,隨意而行,來亦不迎,去亦不送。若厭其區宇者,可來平城居,我往揚州住,且可博其土地。〈傖人謂換易為博。〉彼年已五十,未嘗出戶,雖自力而來,如三歲嬰兒,復何知我鮮卑常馬背中領上生活。更無餘物可以相與,今送獵白鹿馬十二匹并氈藥等物。彼來馬力不足,可乘之。道里來遠,或不服水土,藥自可療。」

その年、大規模な北伐が行われ、詔が下された。

原文其年,大舉北討,下詔曰:

この年、軍旅が大いに起こり、王公・妃主および朝士・牧守はそれぞれ金や帛などの物品を献上して国用を助け、下って富家や小民に至るまで、私財を数十万に及ぶほど献上する者もいた。また兵力が不足していたため、尚書左僕射の何尚之が参議し、南兗州の三五(三丁抽一、五丁抽二)の民丁を徴発することになった。父・祖・伯叔・兄弟が州で官職に就き従事として仕えている者、および北徐州・兗州で皇弟・皇子の従事として仕えている者、庶姓の主簿、諸皇弟・皇子府の参軍・督護・国三令以上の者、相府の舎人は、徴発の対象外とした。それ以外の者はすべて一時的に徴発に借り出すこととした。符(命令書)が到着してから十日で装束を整え、長江沿いの五郡は広陵に、淮水沿いの三郡は盱眙に集結させた。また、天下の弩手を募集し、出身を問わず、もし馬術・歩戦など様々な武芸や武力に優れた士で試験に応じる者は、すべて厚く賞賜した。有司はまた、軍用が不足していると上奏した。揚州・南徐州・兗州・江州の四州の富裕な民で、家財が五十万に満ちる者、僧尼で二十万に満ちる者は、すべてその四分の一を換金させ、この率を超える分も計算に含め、事態が収まれば返還することとした。

原文是歲軍旅大起,王公妃主及朝士牧守,各獻金帛等物,以助國用,下及富室小民,亦有獻私財至數十萬者。又以兵力不足,尚書左僕射何尚之參議發南兗州三五民丁,父祖伯叔兄弟仕州居職從事、及仕北徐、兗為皇弟皇子從事、庶姓主簿、諸皇弟皇子府參軍督護國三令以上相府舍者,不在發例,其餘悉倩暫行征。符到十日裝束,緣江五郡集廣陵,緣淮三郡集盱眙。又募天下弩手,不問所從,若有馬步眾藝武力之士應科者,皆加厚賞。有司又奏軍用不充,揚、南徐、兗、江四州富有之民,家資滿五十萬,僧尼滿二十萬者,並四分換一,過此率計,事息即還。

歴城の建武府司馬の申元吉が騎兵と歩兵□余人を率いて碻磝に向かい、泗瀆口を占領した。虜の碻磝戍主・済州刺史の王買德は城に拠って抵抗したが、元吉はこれを破り、買德は城を捨てて逃走した。奴婢一百四十人、馬二百余頭、驢と騾二百頭、生きた羊それぞれ千余頭、氈七百領、粗末な車と細工の良い車合わせて三百五十乗、地下倉庫四十二所、粟五十余万斛、城内住民の私的貯蔵分また二十万斛、虜の田畑の五穀三百頃、鉄三万斤、大小の鉄器九千余口を獲得し、その他の武器や雑物もこれに匹敵する量であった。

原文歷城建武府司馬申元吉率馬步□餘人向碻磝,取泗瀆口。虜碻磝戍主、濟州刺史王買德憑城拒戰,元吉破之,買德棄城走,獲奴婢一百四十口,馬二百餘匹,驢騾二百,生羊各千餘頭,氈七百領,麁細車三百五十乘,地倉四十二所,粟五十餘萬斛,城內居民私儲又二十萬斛,虜田五穀三百頃,鐵三萬斤,大小鐵器九千餘口,餘器仗雜物稱此。

玄謨が滑臺を攻撃したが陥落させられず、燾は自ら大軍を率いて黄河を渡り、玄謨は敗走した。燾の従弟である永昌王庫仁真は関西の兵を発して汝・潁方面へ向かい、従弟の高梁王阿斗埿は青州方面から、燾は碻磝から、それぞれ南進した。諸鎮はすべて民を収容して城を守った。その年の十一月に鄒山に至り、鄒山の戍主・宣威将軍・魯陽平二郡太守の崔耶利が敗れて戦死した。燾は鄒山に登り、秦始皇の刻石を見て、人に命じて押し倒させた。楚王樹洛真と南康侯杜道儁を派遣して清西に進軍させ、蕭城に至らせ、歩尼公を清東に進軍させ、留城に至らせた。世祖は参軍馬文恭を蕭城に派遣し、江夏王義恭は軍主の嵇玄敬を留城に派遣し、ともに偵察させた。蕭城の虜は旗を伏せ、文恭の斥候が不明瞭であったため、突然遭遇し、文恭は汴を捨てて南山へ向かい、東へ山に至ったところで虜の包囲が完成し、文恭は敗戦し、辛うじて身一つで逃れた。玄敬もまた留城の虜と遭遇したが、幢主の華欽がその後方に続いていた。虜は玄敬の後方に軍がいるのを見て、引き去り、苞橋へ向かった。苞橋に到着し、清西を渡ろうとしたところ、沛県の民が苞橋を焼き、夜に林の中で太鼓を打った。虜は官軍が大挙して来たと思い、争って苞水を渡ったが、水深く、溺死することほぼ半数に及んだ。

原文玄謨攻滑臺不剋,燾自率大眾渡河,玄謨敗走。燾從弟永昌王庫仁真發關西兵趨汝、潁,從弟高梁王阿斗埿自青州道,燾自碻磝,並南出。諸鎮悉斂民保城。其十一月至鄒山,鄒山戍主、宣威將軍、魯陽平二郡太守崔耶利敗沒。燾登鄒山,見秦始皇刻石,使人排倒之。遣楚王樹洛真、南康侯杜道儁進軍清西,至蕭城,步尼公進軍清東,至留城。世祖遣參軍馬文恭至蕭城,江夏王義恭遣軍主嵇玄敬至留城,並為覘候。蕭城虜偃旗旌,文恭斥候不明,卒與相遇,乃捨汴趣南山,東至山而虜圍合,文恭戰敗,僅以身免。玄敬亦與留城虜相值,幢主華欽繼其後,虜望玄敬後有軍,引去,趨苞橋。至,欲渡清西,沛縣民燒苞橋,夜於林中擊鼓。虜謂官軍大至,爭渡苞水,水深,溺死殆半。

先に、燾は員外散騎侍郎の王老壽を駅馬で太祖のもとに派遣し、黄甘(柑橘)を乞うた。太祖は甘を十簿、甘蔗を千挺を与えた。老壽はまた馬を求めて言った。「近年は収穫が豊かで民も豊かになり、朝廷も民間も憂いがありません。春の終わりに東巡して呉・会稽に行き、遊覧を尽くしたいと思います。滄海に臨み、禹穴を探り、姑蘇の台に登り、長洲の苑を探訪します。船は豊富ですが、良馬に乏しい。足の速い馬を恵んでいただき、この旅に間に合わせたいと思います。」老壽が返命の途についたが、国境を出ないうちに虜の兵が深く侵入したため、記録して召還された。

原文先是,燾遣員外散騎侍郎王老壽乘驛就太祖乞黃甘,太祖餉甘十簿、甘蔗千挺。并就求馬,曰:「自頃歲成民阜,朝野無虞,春末當東巡吳、會,以盡游豫。臨滄海,探禹穴,陟姑蘇之臺,搜長洲之苑,舟檝雖盛,寡於良駟,想能惠以逸足,令及此行。」老壽反命,未出境,虜兵深入,乃錄還。

虜はまた尉武戍を破り、戍主の左軍長兼行参軍王羅漢を捕らえた。先に、南平王鑠が三百人を羅漢に付けて出戍させたが、尉武の東北に小さな堡塁があったため、そこを占拠した。ある者が言った。「賊の勢力が盛んで自らを守るには足りません。南の低い林に依拠すれば、敵が来ても容易に逃れられます。」羅漢はここに来る命令を受けた以上、軽々しく去ることはできないと考えた。この日、虜が攻撃し、矢も尽き力も尽き、ついに陥落した。虜の法では、生きた将軍を捕らえると、その三郎大帥に引き渡し、鎖で首の後ろを鎖でつなぐ。羅漢は夜に三郎の首を切り落とし、鎖を抱えて逃亡し、盱眙城に入ることができた。

原文虜又破尉武戍,執戍主左軍長兼行參軍王羅漢。先是,南平王鑠以三百人配羅漢出戍,而尉武東北有小壘,因據之。或曰:「賊盛不足自固,南依卑林,寇至易以免。」羅漢以受命來此,不可輒去。是日虜攻之,矢盡力屈,遂沒。虜法,獲生將,付其三郎大帥,連鎖鎖頸後。羅漢夜斷三郎頭,抱鎖亡走,得入盱眙城。

永昌王が尉武で劉康祖を破り、軍勢を率いて寿陽に向かい、青岡から孫叔敖の冢に駐屯し、寿陽城を脅かし、また馬頭・鍾離を焼き掠奪した。南平王鑠は城を守り固守した。

原文永昌王破劉康祖於尉武,引眾向壽陽,自青岡屯孫叔敖冢,脅壽陽城,又焚掠馬頭、鍾離。南平王鑠保城固守。

燾は彭城から南に出て、十二月に盱眙で淮河を渡り、胡崇之らの軍を破った。尚書の韓元興に数千人を留めて盱眙を守らせ、自らは大軍を率いて南進した。中書郎の魯秀は広陵から、高梁王阿斗埿は山陽から、永昌王は寿陽から横江に出た。すべて通過した所は、残害されないところはなかった。燾は瓜歩に至り、民家を破壊し、また葦を伐採し、滁口で筏を造り、江を渡る気配を見せた。太祖は大いに水軍を整え、防御の準備をした。初め、領軍将軍劉遵考が軍を率いて彭城に向かったが、小澗に至った時、虜がすでに道を断っていたため、召還され、左軍将軍尹弘とともに横江を守り、少府の劉興祖が白下を守り、建威将軍・黄門侍郎蕭元邕が裨洲を守り、羽林左監孟宗嗣が新洲上を守り、建武将軍泰容が新洲下を守り、征北中兵参軍事向柳が貴洲を守り、司馬の到元度が蒜山を守り、諮議参軍沈曇慶が北固を守り、尚書の褚湛之が先に京陵に行き、引き続き西津を守り、徐州従事史蕭尚之が練壁を守り、征北参軍管法祖が譙山を守り、徐州従事武仲河が博落を守り、尚書左丞劉伯龍が採石を守った(後に建武将軍・淮南太守に転任し、引き続き守備を総括した)。遊邏は上は于湖から、下は蔡洲まで接続し、艦船を並べ陣営を列ね、江岸に沿って連なり、採石から暨陽まで、六七百里にわたり、船艦は江を覆い、旗や甲冑は星のように輝いた。皇太子は石頭せきとう城に出戍し、前将軍徐湛之が石頭倉城を守り、都水使者の樂詢と尚書水部郎劉淵之はともに装備の整備を誤り、建康に送られた。乗輿はたびたび石頭や莫府山に行幸し、形勢を観望した。佛狸伐(燾)の首を斬る者には、八千戸の開国県公に封じ、布と絹をそれぞれ一万匹、金と銀をそれぞれ百斤を賞する。その子や弟、偽の宰相、大軍主を斬る者には、四百戸の開国県侯に封じ、布と絹をそれぞれ五千匹を賞する。これ以下それぞれ差がある。また人を募り、冶葛(毒草)の酒を空き村に置かせ、虜を毒殺しようとしたが、ついに害を加えることはできなかった。

原文燾自彭城南出,十二月,於盱眙渡淮,破胡崇之等軍。留尚書韓元興數千人守盱眙,自率大眾南向,中書郎魯秀出廣陵,高梁王阿斗埿出山陽,永昌王於壽陽出橫江。凡所經過,莫不殘害。燾至瓜步,壞民屋宇,及伐蒹葦,於滁口造箄筏,聲欲渡江。太祖大具水軍,為防禦之備。初,領軍將軍劉遵考率軍向彭城,至小澗,虜已斷道,召還,與左軍將軍尹弘守橫江,少府劉興祖守白下,建威將軍、黃門侍郎蕭元邕守裨洲,羽林左監孟宗嗣守新洲上,建武將軍泰容守新洲下,征北中兵參軍事向柳守貴洲,司馬到元度守蒜山,諮議參軍沈曇慶守北固,尚書褚湛之先行京陵,仍守西津,徐州從事史蕭尚之守練壁,征北參軍管法祖守譙山,徐州從事武仲河守博落,尚書左丞劉伯龍守採石,尋遷建武將軍、淮南太守,仍總守事。遊邏上接于湖,下至蔡洲,陳艦列營,周亘江畔,自採石至于暨陽,六七百里,船艦蓋江,旗甲星燭。皇太子出戍石頭城,前將軍徐湛之守石頭倉城,都水使者樂詢、尚書水部郎劉淵之並以裝治失旨,付建康。乘輿數幸石頭及莫府山,觀望形勢。購能斬佛狸伐頭者,封八千戶開國縣公,賞布絹各萬匹,金銀各百斤;斬其子及弟、偽相、大軍主,封四百戶開國縣侯,布絹各五千疋;自此以下各有差。又募人賷冶葛酒置空村中,欲以毒虜,竟不能傷。

燾は瓜歩山を穿って盤道を造り、その頂上に氈屋を設けた。燾は河南の水を飲まず、駱駝に河北の水を負わせて随行させた。一頭の駱駝に三十斗を負わせた。使者を派遣して太祖に駱駝と名馬を贈り、和を請い婚姻を求めた。上は奉朝請の田奇を派遣して珍味を贈った。燾は黄甘を得ると、すぐに食べ、酃酒を大いに飲んだ。左右で耳打ちする者がいて、食物に毒があるのを疑ったが、燾は答えず、天を指さし、孫の子を田奇に示して言った。「ここに至ったのは功名のためだけではなく、実は婚姻による縁を結びたいからだ。もし応じてもらえれば、今後は微塵も侵犯しない。」また世祖に自分の娘を嫁がせることを求めた。二十八年正月朔、燾は山上で会合し、地元の者たちも加わった。会合が終わると、民戸を掠め、邑屋を焼いて去った。虜は初め江沿いに烽火を挙げたが、尹弘は言った。「六夷がこのようにするのは必ず退却するからだ。」正月二日、果たして退却した。

原文燾鑿瓜步山為盤道,於其頂設氈屋。燾不飲河南水,以駱駝負河北水自隨,一駱駝負三十斗。遣使餉太祖駱駝名馬,求和請婚。上遣奉朝請田奇餉以珍羞異味。燾得黃甘,即噉之,并大進酃酒,左右有耳語者,疑食中有毒,燾不答,以手指天,而以孫兒示奇曰:「至此非唯欲為功名,實是貪結姻援,若能酬酢,自今不復相犯秋毫。」又求嫁女與世祖。二十八年正月朔,燾會於山上,并及土人。會竟,掠民戶,燒邑屋而去。虜初緣江舉烽火,尹弘曰:「六夷如此必走。」正月二日,果退。

初め、太祖は虜の侵攻を聞き、広陵の城府や船を焼くよう命じ、広陵・南沛二郡太守の劉懷之に人民を一時的に江を渡らせた。虜は海陵に多くの沼沢地があるため、敢えて行かなかった。山陽太守の蕭僧珍もまた住民や流亡してきた百姓を収容し、すべて城内に入れた。朝廷から盱眙に送られた糧秣と兵器は、賊が迫ったため、山陽に分けて留め置かれた。また数万人分の攻城用具があり、滑臺へ送られるはずだったが、これも郡に留め置かれた。城内にはほぼ一万家、戦士五千余人がいた。白米陂という場所が郡から数里のところにあり、僧珍はあらかじめ各所の水を引き、満たさせておき、賊が来たら決壊させて水攻めにするつもりだった。虜が到着したが、留まることを敢えず、引き去った。広陵から戻ると、盱眙を攻撃し、全力で城を攻めたが、三十日間陥落させられず、攻城用具を焼いて退却した。燾は南兗・徐・兗・豫・青・冀の六州を破り、殺戮略奪は計り知れず、その士馬の死傷も過半に及び、国内の者たちは皆これを非難した。

原文初,太祖聞虜寇逆,焚燒廣陵城府船乘,使廣陵、南沛二郡太守劉懷之率人民一時渡江。虜以海陵多陂澤,不敢往。山陽太守蕭僧珍亦斂居民及流奔百姓,悉入城。臺送糧仗給盱眙,賊逼,分留山陽。又有數萬人攻具,當往滑臺,亦留付郡。城內垂萬家,戰士五千餘人。有白米陂,去郡數里,僧珍逆下諸處水,注令滿,須賊至,決以灌之。虜既至,不敢停,引去。自廣陵還。因攻盱眙,盡銳攻城,三十日不能剋,乃燒攻具退走。燾凡破南兗、徐、兗、豫、青、冀六州,殺略不可稱計,而其士馬死傷過半,國人並尤之。

この年、燾は病死し、諡を太武皇帝とした。初め、燾には六人の子がいた。長子の晃は字を天真といい、太子となった。次は晋王である。燾の住む屠蘇が激しい雷に打たれ、屠蘇が倒れ、押し潰されそうになって死にかけた時、左右の者は皆号泣したが、晋王は悲しまなかったので、燾は怒って死を賜った。次は秦王の烏弈肝で、晃と共に国政を執り行っていたが、晃はこれを憎み、その貪欲で暴虐なことを訴えたので、燾は彼を二百回鞭打ち、枹罕ほうかんに鎮守させた。次は燕王。次は呉王で、名は可博真。次は楚王で、名は樹洛真。燾が汝南の瓜歩に至った時、晃は密かに諸営から物資を取らせ、鹵獲品は非常に多かった。燾が帰還してこれを知ると、大々的に捜索検査した。晃は恐れ、燾を殺害しようと謀った。そこで燾は死んだふりをし、側近の者に晃を呼ばせて喪を迎えさせ、途中で彼を捕らえ、国に至ると鉄の籠で覆い、まもなく殺した。烏弈肝は武勇に優れていたので、太子とした。ちょうど燾が死んだ時、寵臣の宗愛に博真を後継者として立てさせたが、宗愛と博真は弈肝に危害を加えられることを恐れ、偽りの命令で彼を殺して自立し、年号を承平とした。博真は懦弱で、国人に支持されなかった。晃の子の濬は字を烏雷直懃といい、もともと燾に愛されていた。燕王が国人に言った。「博真は正統ではない。立てるべきではない。直懃は嫡孫である。立つべきだ。」そこで博真と宗愛を殺し、濬を主として立て、年号を正平とした。

原文是歲,燾病死,諡為太武皇帝。初,燾有六子,長子晃字天真,為太子。次曰晉王。燾所住屠蘇為疾雷擊,屠蘇倒,見壓殆死,左右皆號泣,晉王不悲,燾怒賜死。次曰秦王烏弈肝,與晃對掌國事,晃疾之,愬其貪暴,燾鞭之二百,遣鎮枹罕。次曰燕王。次曰吳王,名可博真。次曰楚王,名樹洛真。燾至汝南瓜步,晃私遣取諸營,鹵獲甚眾。燾歸聞知,大加搜檢。晃懼,謀殺燾,燾乃詐死,使其近習召晃迎喪,於道執之,及國,罩以鐵籠,尋殺之。以烏弈肝有武用,以為太子。會燾死,使嬖人宗愛立博真為後,宗愛、博真恐為弈肝所危,矯殺之而自立,號年承平。博真懦弱,不為國人所附,晃子濬字烏雷直懃,素為燾所愛,燕王謂國人曰:「博真非正,不宜立,直懃嫡孫,應立耳。」乃殺博真及宗愛,而立濬為主,號年為正平。

以前、虜の寧南将軍魯爽兄弟が軍勢を率いて帰順した。二十九年、太祖はさらに張永、王玄謨および魯爽らを派遣して北伐させた。青州刺史の劉興祖は河北を討伐するよう建議し、言った。「河南は飢饉に阻まれ、野に掠奪するものはなく、もし思いがけず敵が堅固に守れば、十日や一月では陥落せず、大軍を留め置けば、輸送がかえって煩雑になります。罪を討ち民を慰めることは、迅速を要する事柄です。今、偽りの帥(拓跋燾)が死に、加えて暑い時期に迫り、国内は猜疑と混乱があり、遠征に手が回りません。関内の軍勢は、自らを守るのがやっとです。愚見では、中山に長駆して進み、その関所と要地を占拠すべきです。冀州以北は、民はまだ豊かで、麦も熟しつつあり、資源を調達するのは容易です。義に赴く者たちは、必ず呼応して集まるでしょう。もし中州が震動すれば、黄河以南は自然に崩壊します。臣の城守の兵以外に、二千人を出すことができます。今さらに三千の兵を発し、別駕の崔勲之に振威将軍を仮授し、発した部隊を率いさせ、二州の名族と共に蓋柳津から直ちに中山を衝かせます。申坦が歴城の軍勢を率いれば、二千ほどになります。続々と共に進軍します。二軍を概算すれば、約七千人ほどです。すでにその心臓部に入り、租税を調達し車両を徴発して、軍用に充てます。もし先鋒が勝利に乗じれば、張永および河南の諸軍は、時宜に合わせて一時に黄河を渡り、声勢と実利を兼ねて挙げさせます。愚かな計略がもし認められれば、司牧を並べて建て、新たに帰順した者を慰撫すべきです。定州刺史は大嶺を取らせ、冀州刺史は井陘に向かわせ、并州刺史は雁門に駐屯させ、幽州刺史は軍都を塞がせ、相州刺史は大行山を備えさせ、事に応じて指揮し、適宜に官職を加授します。威を畏れ寵を喜び、人は百倍の思いを抱くでしょう。黄河を渡る日には、大統の版授・仮授をお願いします。常に将帥が深遠を恐れることを憤っており、勲之らの慷慨たる誠意は、必ず死をもって報效することを誓っています。もし成功すれば、天下統一を待つことができます。もし勝利しなければ、大きな損害にはなりません。どうか装備を整えるよう催促し、謹んで詔勅のご指示をお待ちします。」上(文帝)の意向は河南に留まることであり、採用しなかった。王玄謨は碻磝を攻めたが、陥落せずに退却した。

原文先是,虜寧南將軍魯爽兄弟率眾歸順。二十九年,太祖更遣張永、王玄謨及爽等北伐,青州刺史劉興祖建議伐河北,曰:「河南阻飢,野無所掠,脫意外固守,非旬月可拔,稽留大眾,轉輸方勞。伐罪弔民,事存急速,今偽帥始死,兼逼暑時,國內猜擾,不暇遠赴,關內之眾,裁足自守。愚謂宜長驅中山,據其關要。冀州已北,民人尚豐,兼麥已向熟,資因為易。向義之徒,必應響赴,若中州震動,黃河以南,自當消潰。臣城守之外,可有二千人,今更發三千兵,假別駕崔勳之振威將軍,領所發隊,并二州望族,從蓋柳津直衝中山。申坦率歷城之眾,可有二千,駱驛俱進。較略二軍,可七千許人,既入其心腹,調租發車,以充軍用。若前驅乘勝,張永及河南眾軍,便宜一時濟河,使聲實兼舉。愚計謬允,宜並建司牧,撫柔初附。定州刺史取大嶺,冀州刺史向井陘,并州刺史屯雁門,幽州刺史塞軍都,相州刺史備大行,因事指麾,隨宜加授。畏威欣寵,人百其懷,濟河之日,請大統版假。常忿將率憚於深遠,勳之等慷慨之誠,誓必死效。若能成功,清一可待;若不克捷,不為大傷。並催促裝束,伏聽敕旨。」上意止存河南,不納。玄謨攻碻磝,不克退還。

世祖(孝武帝)が即位すると、索虜は互市を求めてきた。江夏王劉義恭、竟陵王劉誕、建平王劉宏、何尚之、何偃は許すべきであると考えた。柳元景、王玄謨、顔竣、謝莊、檀和之、褚湛之は許すべきでないと考えた。当時、遂に通交した。大明二年、虜が青州を寇掠したが、刺史の顔師伯に撃破され、退走した。

原文世祖即位,索虜求互市,江夏王義恭、竟陵王誕、建平王宏、何尚之、何偃以為宜許;柳元景、王玄謨、顏竣、謝莊、檀和之、褚湛之以為不宜許。時遂通之。大明二年,虜寇青州,為刺史顏師伯所破,退走。

前廃帝の永光元年、濬が死に、諡を文成皇帝とした。子の弘之、字は第豆胤が代わって立った。

原文前廢帝永光元年,濬死,諡文成皇帝。子弘之字第豆胤代立。

景和年間、北討徐州刺史の義陽王劉昶を討つと、劉昶は単騎で虜に奔った。太宗(明帝)の泰始初年、江州刺史の晋安王劉子勛が叛逆し、四方が反旗を翻した。徐州刺史の薛安都せつあんと、青州刺史の沈文秀、冀州刺史で歴城鎮主の崔道固らも、それぞれ挙兵した。虜は劉昶を受け入れようと謀り、詔書を下した。

原文景和中,北討徐州刺史義陽王昶,昶單騎奔虜。太宗泰始初,江州刺史晉安王子勛為逆,四方反,徐州刺史薛安都、青州刺史沈文秀、冀州刺史歷城鎮主崔道固等,亦各舉兵。虜謀欲納昶,下書曰:

まもなく晋安王劉子勛の事件が平定されると、太宗は張永、沈攸之を派遣して北討させた。薛安都は大いに恐れ、使者を遣わして虜を引き入れた。虜は一万騎を派遣して救援し、張永、沈攸之は敗れて退却した。虜は青州、冀州を攻め、ともに陥落させ、沈文秀、崔道固を捕らえた。また詔書を下した。

原文既而晉安王子勛事平,太宗遣張永、沈攸之北討,薛安都大懼,遣使引虜。虜遣萬騎救之,永、攸之敗退,虜攻青、冀二州,並剋,執沈文秀、崔道固。又下書:

この後、虜は再び和親し、贈り物が毎年届き、朝廷も厚く返礼した。泰豫元年、虜の狭石鎮主の白虎公、安陽鎮主の莫索公、貞陽鎮主の鵝落生、襄陽王の桓天生らが、山蛮の歩兵・騎兵二万余人を引き連れ、義陽県の義陽戍を攻囲した。司州刺史の王贍は従弟の司空行参軍の思遠、撫軍行参軍の王叔瑜を派遣してこれを大破し、虜は退走した。

原文此後虜復和親,信餉歲至,朝庭亦厚相報答。泰豫元年,虜狹石鎮主白虎公、安陽鎮主莫索公、貞陽鎮主鵝落生、襄陽王桓天生等,引山蠻馬步二萬餘人,攻圍義陽縣義陽戍。司州刺史王贍遣從弟司空行參軍思遠、撫軍行參軍王叔瑜擊大破之,虜退走。

索虜が慕容氏を破り、中国を領有して以来、芮芮虜はその旧地を有し、これは漢代の匈奴の北庭にあたる。芮芮は大檀とも号し、また檀檀とも号し、やはり匈奴の別種である。西路から京師に通じるには三万余里。僭越して大号を称し、部衆は豊かで強盛であり、毎年使者を京師に派遣し、中国と対等の礼を交わした。西域諸国の焉耆、鄯善、亀茲、姑墨など東道の諸国は、すべてその支配下にあった。城郭はなく、水草を追って畜牧し、氈帳に住み、移徙に従う。その土地は深山では夏でも雪が積もり、平地では数千里を見渡しても、野に青草はない。地気は寒冷で、馬や牛は枯れ草を食み雪を舐めて、自然に肥え健やかになる。国政は簡素で、文書を識らず、木に刻んで事を記したが、その後次第に書契を知るようになり、今ではかなり学問をする者もいる。北海から千余里離れており、丁零と境を接する。常に南の索虜を撃ち、代々仇敵であったので、朝廷は常にこれを羈縻した。

原文自索虜破慕容,據有中國,而芮芮虜有其故地,蓋漢世匈奴之北庭也。芮芮一號大檀,又號檀檀,亦匈奴別種。自西路通京師,三萬餘里。僭稱大號,部眾殷強,歲時遣使詣京師,與中國亢禮,西域諸國焉耆、鄯善、龜茲、姑墨東道諸國,並役屬之。無城郭,逐水草畜牧,以氈帳為居,隨所遷徙。其土地深山則當夏積雪,平地則極望數千里,野無青草。地氣寒凉,馬牛齕枯噉雪,自然肥健。國政疎簡,不識文書,刻木以記事,其後漸知書契,至今頗有學者。去北海千餘里,與丁零相接。常南擊索虜,世為仇讎,故朝庭每羈縻之。

その東に槃槃国、趙昌国があり、流沙を万里渡ると、また粟特国がある。太祖(文帝)の世に、ともに上表して貢献した。粟特は大明年間に使者を派遣して生きた獅子、火浣布、汗血馬を献上したが、途中で賊に遭い、失った。

原文其東有槃槃國、趙昌國,渡流沙萬里,又有粟特國,太祖世,並奉表貢獻。粟特大明中遣使獻生師子、火浣布、汗血馬,道中遇寇,失之。