巻95

宋書 巻九十五

列伝 第五十五

索頭虜の姓は託跋氏、その先祖は漢の将軍李陵の 後裔 である。李陵が匈奴に降伏し、数百千の種族があり、それぞれ名号を立てたが、索頭もその一つである。

晋の初め、索頭種には数万の部落が雲中にいた。恵帝の末、 へい 刺史 しし の東嬴公 司馬騰 しばとう が晋陽で匈奴に包囲されたとき、索頭単于の猗駞が軍を派遣して 司馬騰 しばとう を助けた。懐帝の永嘉三年、駞の弟の盧が部落を率いて雲中から雁門に入り、 へい 刺史 しし の劉琨に楼煩などの五県を求めると、劉琨はこれを抑えられず、また盧を頼りにしようと考え、上言した。「盧の兄の駞には 司馬騰 しばとう を救った功績があり、旧来の勲功は記録されるべきです。五県の民を新興に移し、その土地を彼に与えてください。」劉琨はまた盧を代郡公に封じるよう上表した。愍帝の初め、さらに盧を代王に進め、常山郡を食邑として加増した。その後、盧の国内は大乱し、盧が死に、子は幼弱であったため、部落は分散した。盧の孫の什翼鞬は勇壮で、人々は再び彼に帰附し、上洛公と号した。北は沙漠を有し、南は陰山を占拠し、数十万の衆を擁した。その後、苻堅に撃破され、長安に連行されたが、後に北帰を許された。鞬が死に、子の開、字は涉珪が代わって立った。

以前、鮮卑の慕容垂が中山で僭号していた。晋の孝武帝の太元二十一年、慕容垂が死ぬと、開は十万騎を率いて中山を包囲した。翌年四月、これを陥落させ、ついに中州を王有し、自ら魏と称し、年号を天賜とした。元年、代郡桑乾県の平城を治所とした。学官を立て、尚書曹を置いた。開はかなり学問があり、天文に通じていた。その風俗では四月に天を祀り、六月末に大衆を率いて陰山に至り、これを却霜と呼んだ。陰山は平城から六百里離れており、深遠で樹木が豊かで、霜雪が解けることがなかったが、おそらく暖気をもって寒さを退けようとしたのであろう。死ぬとひそかに埋葬し、墳墓の場所はなく、葬送に際しては、みな棺柩を虚設し、冢槨を立て、生前の車馬や器物をすべて焼いて死者を送った。開は暴虐で殺戮を好み、民はその命令に耐えられなかった。以前、神巫が開に暴禍が起こると警告し、ただ清河を誅し万民を殺すことによってのみ免れることができると言った。開はそこで清河一郡を滅ぼし、常に自ら手を下して人を殺し、その数を満万にしようとした。あるときは小輦に乗り、自ら剣を執って檐輦の人の脳を打ち、一人死ぬと一人が代わり、一行するごとに死者は数十人に及んだ。夜は常に寝所を変え、人は知ることができず、ただ愛妾の名を万人という者がその場所を知っていた。万人は開の子の清河王と私通し、事が発覚するのを恐れ、開を殺そうとして、万人を内応させた。夜、開が独りでいるのを待ち、彼を殺した。開は臨終に際し、「清河、万人の言とは、お前たちのことだ」と言った。この年は、安帝の義熙五年である。開の次子の斉王の嗣、字は木末が清河王を捕らえ、彼に向かって号泣し、「人が重んじるのは父である。どうして反逆などするのか」と言い、自殺を迫った。嗣が代わって立ち、開を道武皇帝と 諡 した。

十三年、高祖が西征して長安を討つと、嗣は以前に姚興の娘を娶っていたため、十万騎を派遣して河北に駐屯させてこれを救援したが、高祖に大いに撃破された。事は朱超石らの伝にある。そこで使者を派遣して和を請い、これより使者の往来が毎年行われるようになった。高祖は殿中将軍の沈範と索季孫を派遣して返礼の使者とし、復命のため河に至ったが、渡らないうちに、嗣は高祖の崩御の報を聞き、沈範らを追って捕らえ、和親を断絶した。太祖が即位すると、ようやく沈範らを帰国させた。

永初三年十月、嗣は自ら衆を率いて方城に至り、鄭兵将軍・揚州 刺史 しし の山陽公達奚斤、呉兵将軍・広州 刺史 しし の蒼梧公公孫表、尚書の滑稽に歩騎二万余人を率いさせ、滑臺西南の東燕県界の石済で南渡させ、輜重や弱者を連れて行かせた。滑臺の戍主、寧遠将軍、東郡 太守 の王景度が馳せて 冠軍 将軍、司州 刺史 しし の毛徳祖に報告した。毛徳祖は虎牢を守り、司馬の翟広に参軍の龐諮、上党太守の劉談之ら歩騎三千を率いさせてこれを防がせた。軍は巻県の土楼に駐屯した。虜は陣営を滑臺城の東二里に移し、攻具を造り、日ごとに城を脅かした。毛徳祖は滑臺の守兵が少ないため、翟広に軍中の壮士を募集させ、寧遠将軍の劉芳之に率いさせて、王景度を助けて守らせた。劉芳之は八十余人を率いて突入して城に入った。毛徳祖はまた討虜将軍、弘農太守の竇応明に五百人を率いさせ、建武将軍の竇覇に二百五十人を率いさせ、ともに水軍として相次いで出発させ、すべて翟広の指揮下に置いた。

初め、亡命の司馬楚之らが常に陳留郡界に潜伏していた。虜が南渡すると、互いに馳せて結びつき、辺境を扇動して、大いに民の患いとなった。毛徳祖は長社令の王法政に五百人を率いさせて邵陵を占拠させ、将軍の劉憐に二百騎を率いさせて雍丘に至らせてこれを防がせた。司馬楚之は白馬県で劉憐を襲撃したが、劉憐に撃破された。ちょうど朝廷が軍資を送ってきたので、劉憐はこれを迎えに出た。すると酸棗の民の王玉が劉憐が南に行ったのを知り、急いで虜に報告した。虜の将の滑稽が千乗を率いて倉垣を襲撃し、兵士や官吏はみな城を越えて散り散りに逃げ、陳留太守の厳㥄が虜に捕らえられた。虜はすぐに王玉を陳留太守とし、兵を与えて倉垣を守らせた。

十一月、虜は全力で滑臺城を攻撃し、城の東北が崩壊した。王景度は出奔したが、王景度の司馬の陽瓚は堅守して動かず、衆は潰えたが、節を守って降伏せず、虜に殺された。竇応明が石済で虜の輜重を攻撃し、これを破り、賊五百余人を殺し、その戍主の□連内頭、張索児らを斬った。竇応明は石済から滑臺に向かったが、城がすでに陥落したと聞き、そこで進んで尹卯に駐屯し、竇覇は急いで翟広のもとに赴いた。虜は滑臺を陥落させると、力を合わせて翟広らに向かい、力が敵わず、翟広らは退却し、転戦しながら前進し、二日一夜で、わずか十里余り進んだ。虜の歩軍が続いて到着し、翟広らは矢も尽き力も尽き、大敗した。翟広、竇覇、劉談之らはそれぞれ単身で逃げ帰った。

虜は勝ちに乗じて虎牢に至った。毛徳祖は歩騎を出してこれを撃とうとしたが、虜は退いて土楼に駐屯し、さらに退いて滑臺に戻った。長安、魏昌、藍田の三県の民で虎牢の下に住んでいた者を、毛徳祖はみな城内に入らせた。虜は別に黒矟公に三千人を率いさせて河陽に至らせ、南渡して金墉を取ろうとした。毛徳祖は振威将軍、河陰令の竇晃に五百人を率いさせて小壘を守らせ、緱氏令の王瑜に四百人を率いさせて監倉を占拠させ、鞏令の臣琛に五百人を率いさせて小平を固守させ、参軍督護の張季に五百人を率いさせて牛蘭に駐屯させた。また将領に馬隊を率いさせ、洛陽令の楊毅と合わせて二百騎とし、黄河沿いに上下し、機に応じて赴き接応させた。十二月、虜が洛川の小壘に守備を置くと、毛徳祖は翟広に急行させてこれを撃たせ、虜は退走した。翟広は守備を固め、城塢を修復し、また虎牢に戻った。 刺史 しし の劉粹は治中の高道瑾に歩騎五百を率いさせて項を占拠させ、また司馬の徐瓊に続かせた。朝廷は将の輔伯遣、姚珍、杜坦、梁霊宰らに水軍・歩軍の諸軍を続けて進ませた。徐州 刺史 しし の王仲徳は軍を率いて湖陸に駐屯した。黒矟公は長史に千人を率いさせて竇晃と楊毅を脅迫したが、竇晃らは逆襲し、これを捕らえ、二百人を生け捕りにした。その後、鄭兵将軍が五千騎で竇晃らを急襲し、黒矟公が渡河して合力し、四面から塁を攻めた。竇晃らは兵力が少なく衆は散り、竇晃と楊毅はともに重傷を負った。虜の将の安平公の鵝青が二軍七千人で南渡し、碻磝の東から下り、泗瀆口に至り、尹卯から百里余り離れた。兗州 刺史 しし の徐琰は軍鎮を捨てて逃走し、ここにおいて泰山諸郡はともに失陥した。

鄭兵と公孫表および宋兵将軍・交州 刺史 しし ・交阯侯の普幾は一万五千騎を率い、再び虎牢に向かい、城の東南五里に陣営を結び、歩兵と騎兵を分けて成臯から虎牢の外郭西門へ向かわせた。徳祖は迎撃し、百余人を殺傷し、敵は退いて陣営を守った。鎮北将軍の檀道済が水軍を率いて北から救援に向かい、車騎将軍・廬陵王の義真は龍驤将軍の沈叔狸に三千人を付けて 刺史 しし の劉粹のもとへ派遣し、状況に応じて救援に向かわせた。少帝の景平元年正月、鄭兵は軍を分けて洛陽へ向かい、小塁を攻撃した。小塁の守将である竇晃は防戦したが陥落し、河南太守の王涓之は金墉を捨てて逃亡した。

敵が軍を分けて洛陽へ向かって以来、徳祖は戦うたびにこれを撃破した。嗣は自ら大軍を率いて鄴に至った。鄭兵は金墉を陥落させた後、再び虎牢に戻った。徳祖は城内から地下に穴を掘り、七丈進んで二つの道とし、城外に出た。さらに六つの道に分け、敵陣の背後に出た。敢死の士四百人を募り、参軍の范道基が二百人を率いて前駆となり、参軍の郭王符・劉規らが二百人を率いて後続となり、敵の包囲の外に出て、その背後を急襲した。敵陣は混乱し、数百の首級を斬り、攻撃用具を焼き払った。敵は退散したが、すぐに再び集結した。

敵はまた楚兵将軍・徐州 刺史 しし ・安平公の涉帰幡能健、越兵将軍・青州 刺史 しし ・臨菑侯の薛道千、陳兵将軍・淮州 刺史 しし ・寿張子の張模を派遣し、東へ向かって青州を攻撃させた。向かう城邑はすべて逃げ散った。冠軍将軍・青州 刺史 しし の竺夔は東陽城を守備していたが、敵が来ると聞き、兵を集めて堅固に守った。龍驤将軍・済南太守の垣苗は二府郡の文武官を率いて竺夔のもとに逃れた。竺夔は将士と盟誓し、城内に入らない住民には山の険阻な地に移るよう命じ、穀物を焼き払い、敵が来ても物資を得られないようにした。敵軍は青州へ向かい、前後合わせて黄河を渡った騎兵は合計六万騎であった。三月、三万騎が先鋒として迫り脅かした。城内の文武官は一千五百人で、その半数は きょう や蛮などの流民や雑多な者であり、人心は恐れおののいた。竺夔は夜に司馬の車宗に五百人を率いさせて城外に出て急襲させ、敵軍は敗退した。二日後、敵の歩兵と騎兵がすべて到着し、城を四囲に取り囲み、陣を十余里にわたって列ね、夕方には退いて安水に陣営を結び、城から二十里離れた。大いに攻撃用具を整え、日々歩兵と騎兵を分けて常に城に迫った。竺夔は夜に殿中将军の竺宗之・参軍の賈元龍らに百人を率いさせ、楊水口の両岸に伏兵を設けさせた。敵将の阿伏斤が三百人を率いて朝に川を渡ると、両岸の伏兵が現れ、敵騎兵は四方に逃げ散り、数十人を殺傷し、阿伏斤の首を斬った。敵はさらに水の南に進んで陣営を構え、城の西北四里の地点に至った。

嗣は鄴から兵を派遣して虎牢を増強し、包囲を厳しくして急攻した。鄭兵は虎牢で歩兵と騎兵三千を率い、許昌において潁川太守の李元徳を攻撃した。車騎参軍の王玄謨が千人を率いて李元徳を助けて守ったが、李元徳とともに散乱して敗れた。敵はすぐに潁川人の庾龍を潁川太守に任じ、騎兵五百を率いさせ、さらに民丁を徴発して城を守備させた。徳祖は軍を出して公孫表を攻撃し、大戦となり、朝から夕方まで戦い、敵数百人を殺した。ちょうど鄭兵の軍が許昌から戻り、包囲を合わせたため、徳祖は大敗し、甲士千余人を失い、退いて城を固守した。嗣はまた鄴から一万余人を派遣し、白沙口から黄河を渡り、濮陽城の南の寒泉に塁を築かせた。朝廷の議論では、「項城は敵から遠くなく、軽軍で抗えるものではない。劉粹に高道瑾を召還して寿陽に戻させよ。もし沈叔狸がすでに進軍しているなら、やはり追い返すべきである」とした。劉粹は、敵が虎牢を攻めており、まだ南に向かっていないこと、もしすぐに軍を引き上げて項城を捨てれば、淮西の諸郡は頼るものがないこと、沈叔狸はすでに肥口に駐屯しており、またすぐに退くのは適切でないことを考えた。この時、李元徳が散兵二百人を率いて項城に至り、劉粹は彼に高道瑾を助けて守備させ、その敗走の罪を許すよう請うた。朝廷の議論はこれを許した。

檀道済は 彭城 に到着したが、青州と司州の両方が危急であり、自ら率いる兵は多くなく、分けて赴くには足りなかった。青州の道が近く、竺夔の兵が弱いため、まず青州を救援した。竺夔は人を城外に出して東西南に塹壕を造らせた。敵は城の北三百余歩の地点に長い包囲壁を掘った。竺夔は参軍の閭茂らに弓の名手五十人を率いさせ、壁に沿って敵を射させた。敵騎兵数百が駆けつけて壁を囲んだが、壁内から射かけられ、壁を固めて死戦した。敵は馬から下りて歩兵で進み、短兵で接戦した。城上から弓弩が一斉に発射され、敵は敗走した。敵は外堀を埋め、高楼四棟と蝦蟇車二十乗を引き、長い包囲壁の内側に設置した。竺夔はあらかじめ城の北に三つの地下道を掘り、外堀に通じさせ、さらに内堀を掘り、城内から二丈離れたところに子堀を作った。三百余人を地下道から出させ、敵の攻撃用具を焼こうとした。この時、風向きが変わり炎が燃え広がらず、敵兵の矢が横から降り注ぎ、士卒は多くが負傷したため、兵をまとめて引き上げた。敵は三つの堀をすべて埋め尽くして平らにし、子堀だけが残り、蝦蟇車の及ばないところとなった。敵は衝車で城を攻めた。竺夔は人力を募り、城上に大きな石臼を縄でつるして落とし、また子堀の中から出て、大麻の太い縄で骨組みを張り、攻撃車が城に近づくと、地下道から多くの人力で引っ張って折らせた。敵はさらに城南に長い包囲壁を掘り、攻撃をますます激しくした。竺夔は慎重に持ちこたえ、垣苗は胆力と才幹があったため、しばらくの間は堅守できた。しかし攻撃を受ける日が長くなり、城は次第に破壊され、戦士の多くが死傷し、残りの兵も疲弊し、朝夕のうちに陥落しそうであった。檀道済と王仲徳は兼行で救援に向かった。

劉粹は李元徳を派遣して許昌を襲撃させ、庾龍は逃げ散り、将軍の宋晃が追撃して庾龍の首を斬った。李元徳はそのまま留まって慰撫にあたり、租税と食糧を上納した。敵の悦勃大肥は三千余騎を率い、高平郡が管轄する高平・方与・任城・金郷・亢父の五県を破り、二千余家を略奪し、男子を殺し、女子や弱者を捕虜として連行した。兗州 刺史 しし の鄭順之は湖陸を守備していたが、兵卒が少なく出撃できなかった。冠軍将軍の申宣は彭城を守備し、高平から二百余里離れていたが、敵が来るのを恐れ、郭外の住民と諸営署をすべて小城に移した。

嗣はまた へい 刺史 しし の伊楼抜を派遣し、鄭兵を助けて虎牢を攻撃させ、二つの堀を埋めさせた。徳祖は状況に応じて抵抗し、かなりの敵を殺したが、将士は次第に減っていった。

四月壬申、敵は道済が来ると聞き、器械を焼き払い、青州から撤退した。竺夔は上奏して、東陽城が攻撃で破壊され、守れないため、長広郡の不其城に移って守備すると述べた。竺夔は堅守の功により、前将軍に進号し、建陵県男に封ぜられ、食邑四百戸を与えられた。竺夔は字を祖季といい、東莞の人である。官位は金紫光禄大夫に至った。

嗣は大軍を率いて虎牢に至り、三日間留まり、自ら督戦して城を攻めたが陥落できず、軍を返して洛陽に向かい、三千人を留めて鄭兵を増強した。洛陽に数日留まり、黄河を渡って北に帰還した。虜の安平公らの諸軍は青州から撤退し、滑臺に向かい、檀道済と王仲德の歩兵は食糧が乏しく、虜を追撃できなかった。道済は泰山で仲徳を尹卯に向かわせ、道済自身は湖陸に軍を留めた。仲徳が尹卯に着く前に、虜がすでに遠くに去ったと聞き、戻って道済と合流し、共に水軍を整備した。虜の安平公らの諸軍は滑臺に到着し、西進して鄭兵と合流し、共に虎牢を攻撃した。虎牢は二百日間包囲され、一日も戦わない日はなく、徳祖の精鋭部隊はほとんど戦死し、虜は増兵してますます多くなった。虜が外城を破壊すると、徳祖は内側にさらに三重の城壁を築き、依然として四重としたが、賊が三つの城壁を破壊したため、徳祖はただ一つの城壁を守り、昼夜を問わず抵抗した。将兵の目は皆傷つき、死者は大半に及んだ。徳祖は普段から恩徳を施しており、兵士たちに離反の心はなかった。徳祖はかつて北方にいた時、虜の将軍公孫表と旧知の仲であった。表は権謀術数に長けていたため、徳祖はこれを憂い、密かに音信を交わし、鄭兵を説得して、表が自分と内通していると吹き込み、表への返書を書くたびに、多くを改竄した。表がその手紙を鄭兵に見せると、鄭兵は疑念を深め、嗣に報告して表を誅殺させた。虜の勢力は盛んで、檀道済らの救援軍はみな進軍を敢えてしなかった。劉粹は項城を占拠し、沈叔狸は高橋に駐屯した。

二十一日、虜は地下道を作って城内の井戸を盗み掘りした。井戸は深さ四十丈で、山の地勢が険しかったため防ぐことができなかった。その月の二十三日までに、人馬は渇きと飢えと疫病に苦しみ、体は皆乾ききり、傷を負ってももはや血は出なかった。虜は急攻をかけ、ついに虎牢を陥落させた。徳祖から翟広、竇霸に至るまで、城内にいたすべての将佐と郡守は捕虜となり、ただ上党太守の劉談之と参軍の范道基が二百人を率いて包囲を突破し南に帰還しただけだった。城が陥落しようとした時、将兵は徳祖を連れて脱出しようとしたが、徳祖は言った。「私はこの城と運命を共にする。この城が滅びて自分だけが生き残るようなことは義に反する。」嗣は彼の固守の節義を重んじ、軍に命じて生け捕りにさせたため、死を免れた。 司空 しくう の徐羨之、尚書の傅亮、領軍将軍の謝晦が上表して言った。「昨年、逆虜が暴虐をほしいままにし、河南を荒らしました。司州 刺史 しし の臣徳祖は誠を尽くし力を尽くして強敵に対抗し、孤城を独り守り、ほぼ一年に及びました。救援軍の到着が遅れ、城全体が陥落し、陛下の御心は悲しみに沈み、遠近の人々が嘆き悲しんでいます。陛下は深く憂慮され喪に服し、政務を臣下に委ねられましたが、臣らは謀略が浅く見識が狭く、委託に応えることができず、ついに節義を尽くした臣下を忠誠のままに滅ぼさせ、将兵を殲滅させ辱め、王の謀略を損ない挫折させ、上は先代の規律を失い、下は国の恥辱を残しました。朝廷の典拠に照らせば、責めを免れる理由はありません。役人が筆を執って処罰を加えていないとはいえ、どうして禄をむさぼり、特別な寵愛に安住していられましょうか。どうか臣らを罷免し追放して、国法を明らかにしてください。」許されなかった。

徳祖は、 滎陽 けいよう 郡陽武県の人である。晋の末年に郷里から南に帰順した。初め冠軍参軍・輔国将軍となり、道規が荊州にいた時、徳祖はその将佐となった。再び高祖の 太尉 たいい 参軍となった。高祖が北伐した時、王鎮悪の龍驤司馬に任じられ、建武将軍を加えられた。鎮悪の前鋒として、柏谷で賊の寧朔将軍趙玄石を斬り、梨城で弘農太守尹雅を破り、また涇水で賊の大帥姚難を破り、その鎮北将軍姚強を斬った。鎮悪が大功を立てたのは、まさに徳祖の力によるものであった。長安平定後、龍驤将軍・扶風太守に任じられ、そのまま秦州 刺史 しし に転任し、将軍の位は変わらなかった。当時、仏仏虜が寇掠していたため、再び徳祖を王鎮悪の征虜司馬とし、まもなく桂陽公義真の安西参軍・南安太守となり、将軍の位は変わらなかった。さらに馮翊太守に転任した。高祖が東還した時、徳祖を司州の河東・平陽二郡諸軍事・輔国将軍・河東太守に任じて、 へい 刺史 しし 劉遵考 に代わって蒲坂を守備させた。長安が守れなくなると、配下の兵をまとめて彭城に戻り、世子中兵参軍に任じられ、将軍の位は変わらなかった。また、司州の河東・平陽・河北、雍州の京兆、 州の潁川、兗州の陳留の九郡軍事・ 滎陽 けいよう 太守を督し、将軍の位は変わらず、さらに京兆太守を加えられた。高祖が即位すると、冠軍将軍に進号した。前後の功績により、観陽県男に封じられ、食邑四百戸を与えられた。また、司・雍・ へい 三州および 州の潁川、兗州の陳留諸軍事・司州 刺史 しし を督し、将軍の位は変わらなかった。太祖の元嘉六年、虜の中で死去した。享年六十五。世祖の大明元年、徳祖の弟の子である熙祚の第二子、詡之が徳祖の封を継いだ。

虜は虎牢を陥落させると、兵を留めて守備させ、残りの軍勢はすべて北に帰還した。少帝は言った。「故寧遠司馬・濮陽太守の陽瓚は、滑臺が攻められた時、誠を励まして固守し、命を投げ出して節義を全うし、危険の中でも屈しなかった。古代の忠烈な者にもこれに勝るものはいない。 給事中 を追贈し、遺された孤児を慰問し救済して、生きている者と亡くなった者を慰めよ。」 尚書令 しょうしょれい の傅亮は、瓚の家が彭城にあるので、すぐに官庫の絹百匹、粟三百斛を与えるべきと議した。文士の顔延之が誄を作った。龍驤将軍兗州 刺史 しし の徐琰と東郡太守の王景度はともに守備を失った罪により、髪を剃り鉄の首枷をはめられて労役に服し、琰は五年、景度は四年の刑に処せられた。

当時、宣威将軍・潁川太守の李元徳が許昌を守備しており、そのまま 滎陽 けいよう 太守に任じられ、二郡の軍事を督した。その年の十一月、虜は軍を派遣し逃亡兵を集めて、許昌城を攻め迫り、地元民の劉遠を 滎陽 けいよう 太守とした。李元徳は出撃しようとしたが、武器が少なく、夜になると、女牆をすべて取り払って散り散りに敗走し、元徳は再び項城に逃げ戻った。虜はまた汝陽を包囲し、太守の王公度は十数騎を率いて包囲を突破し項城に逃げた。虜はまた邵陵県を破り、二千余家を虐殺し、男丁をすべて殺し、婦女一万二千人を略奪して連れ去った。劉粹は将の姚聡夫を派遣して軍を率いさせ項城の守備を助けさせ、また司馬の徐瓊に五百人を率いさせて続かせた。虜は許昌城を掘り崩し、また鍾離城を破壊し、境界を定めて帰還した。

嗣が死に、諡を明元皇帝とした。子の燾、字は仏貍が代わって立った。母の杜氏は冀州の人で、その宮中に入り、燾を生んだ。燾は十五、六歳の時、嗣に知られることがなく、僕隷のように扱われた。嗣は初め慕容氏の娘を皇后とし、また姚興の娘を娶ったが、いずれも子がなかったため、燾が立つことができた。たくましく筋力があり、戦闘に勇猛で、残忍で殺戮を好み、夷人も宋人も彼を恐れた。城攻めや敵に臨む時は、常に自ら甲冑を身に着けた。元嘉五年、大将の吐伐斤を派遣して西の長安を討伐させ、安定で赫連昌を生け捕りにし、昌を公に封じて妹を妻とさせた。昌の弟の赫連定が隴上にいた。吐伐斤は勝ちに乗じて騎兵三万で定を討ったが、定は隴山の弾箏谷に伏兵を設けてこれを破り、吐伐斤を斬り、その軍勢をすべて生き埋めにした。定は軍勢を率いて東に帰還し、後に長安を陥落させた。燾はまた自ら攻撃したが陥落できず、軍を分けて大城を守備させて帰還した。燾は常に昌を側近に侍らせ、常に共に単騎で鹿を追い、山の渓谷深くまで入った。昌は元々勇名があり、諸将は皆昌を近づけるべきでないと言ったが、燾は言った。「天命が定まっている以上、何を恐れることがあろうか。」以前と同様に親しく遇した。再び長安を攻撃して陥落させ、定は西に逃げ、吐谷渾の慕璝に生け捕りにされた。

赫連氏に衛臣という名の者がいた。その種族は朔方の塞外に居住し、部落は千余戸を数えた。朔方より西、西は上郡に至るまで、東西千余里の地は、漢代に流刑者を移住させて住まわせ、土地は肥沃であった。苻堅の時代、衛臣は塞内に入り寄田し、春に来て秋に去った。堅の雲中護軍賈雍が彼らの田を略奪し、捕虜や馬・牛・羊を獲得したが、堅はすべて返還した。衛臣は恩を感じ、ついに臣下を称して塞内に居住するようになり、その後次第に強盛となった。衛臣が死ぬと、子の仏仏は勇猛で謀略に長け、遠近の雑種族は皆これに帰附した。姚興はこれと対抗したが、興は軍を覆し衆を喪い、前後一度ならず、関中はこれによって傷つき衰えた。高祖が長安に入ると、仏仏は震え恐れて敢えて動かなかった。高祖が東に帰還すると、すぐに北地に侵入寇掠した。安西将軍義真が帰還する際、仏仏は子の昌を遣わしてこれを青泥で破り、諸将帥を捕虜とし、ついに関中を手中に収め、自ら尊号を称し、年号を真興元年と号した。京兆人の韋玄は隠居して志を養い、高い名声があり、姚興は礼を尽くして招聘したが応じず、高祖は彼を相国掾、宋台通直郎に辟召したが、これもまた就任しなかった。仏仏が太子庶子に召すと、韋玄は命に応じた。仏仏は大いに怒り、「姚興や劉公(高祖)が相次いで招聘しても、ともに起たなかったのに、私が命ずればすぐに来た。私が異民族であるため、道理をもって扱えないと思ったのか」と言って、彼を殺した。元嘉二年、仏仏が死に、昌が立ったが、この時に至って燾に併合された。燾は西は隴右を平定し、東は黄龍を滅ぼし、海東の諸国は皆、朝貢の使者を遣わした。

太祖が践祚すると、早くも北略の志があった。七年三月、 詔 を下して言った。「河南は、中国の地でありながら長らく変乱が続き、埋没してその所を得ず、残された民衆は塗炭の苦しみにあり、常にこれを哀れんでいる。今、民は和し年は豊かで、四方に事なく、時宜に合わせて経理し、以て疆場を固めるべきである。甲卒五万を選び、右将軍到彦之に与え、安北将軍王仲徳・兗州 刺史 しし 竺霊秀の舟師を統率させて河に入らせ、 ぎょう 騎 将軍段宏に精騎八千を率いさせて虎牢を直指させ、 刺史 しし 劉徳武に勁勇一万を率いさせて相掎角させよ。後将軍長沙王義欣には臨時に仮節を与え、現有兵力三万を率いさせ、征討諸軍事を監せしめよ。速やかに準備を整え、月内にすべて出発せよ。」先に殿中将军田奇を使者として命を帯びさせ、燾に告げさせた。「河南はもと宋の領土であり、中途でそちらに侵されたが、今は旧境を修復するのであって、河北には関わらない。」燾は大いに怒り、田奇に言った。「私が生まれて髪の毛が乾かない頃から、河南は我が家の地だと聞いている。これ(河南)を得られるはずがあろうか。(宋が)必ず進軍するなら、今はひとまず守備兵を収めて避けるが、冬になって地面が固まり、黄河の氷が結べば、自ら取り戻すことになる。」

後将軍長沙王義欣は彭城に出鎮し、諸将帥を総統し、司・兗二州に告げて言った。

彦之が進軍すると、虜は河南のすべての戍を収めて河北に帰った。太祖は以前の征虜司馬・南広平太守尹沖を督司・雍・ へい 三州、 州の潁川、兗州の陳留二郡諸軍事・奮威将軍・司州 刺史 しし とし、虎牢に戍らせた。十一月、虜の大軍が南に渡河し、彦之は敗退した。洛陽・滑台・虎牢の諸城はともに虜に陥落され、尹沖と司馬 滎陽 けいよう 太守崔模は節を守って降らず、塹壕に身を投じて死んだ。沖は字を子順といい、天水冀の人である。以前は姚興の吏部郎であり、興の子の広平公弼と結党し、興の太子泓を傾けようとした。泓が立つと、沖は弟の弘とともに逃叛して南に帰順した。この時に至り、前将軍を追贈された。太祖は江夏王義恭に書を送って言った。「尹沖の誠節と志概は、古の烈士の跡を継ぐものであり、傷み惜しんでやまない。」

上は滑台が長時日にわたり戦い守ったにもかかわらず、ついに陥落したことをもって、詩を作って言った。

その後、燾はまた使者を遣わして友好を通じ、婚姻を求めたが、太祖は常にこれを曖昧にした。十七年、燾は年号を太平真君元年と号した。十九年、虜の鎮東将軍武昌王宜勒庫莫提が益・梁二州に移書を送り、仇池を討伐し、その附庸を侵した。また徐州に越えて移書を送り、言った。

徐州は移書に答えて言った。

二十年、燾は国をその太子に授け、下書して言った。「朕は祖宗の重光の緒を承け、洪基を闡明し、万世を恢隆せんと考える。天下を経営し、暴を平げ逆を除き、順ならざるものを掃清して以来、武功は既に顕著であるが、文教はまだ闡明されていない。これは太平の治を崇める道ではない。今、域内は安逸で、百姓は富み栄えている。軍国は容を異にするので、制度を定め、万世の法とすべきである。陰陽には往復があり、四時には代序がある。子に授け賢を任じ、安泰と危険は互いに付随する。これによって疲労を休息させ、長久を固くし、その禄福を成すのであり、古今を通じて変わらない典である。諸々の朕の功臣たちは、長らく勤労してきたので、皆、致仕して邸に帰り、雍容として高爵にあり、神を養い寿を保ち、朝請は時に随い、朕の前で饗宴し、道を論じ謀を陳べるだけでよい。再び有司の苦劇の職に親しく携わる必要はない。皇太子に万機を嗣ぎ理めさせ、百揆を総統させ、さらに賢良を挙げて列職に備えさせよ。皆、後進の明能な者を取り、選才の路を広く開き、人を択んで任に授け、これを 黜 陟せよ。故に孔子は言う、『後生畏るべし、来者の今に如かざるを知らんや』と。主者は明らかに科制を定め、宣勅して施行せよ。」ここにおいて王公以下、太子に上書する者は皆、臣と称し、首尾は表と同じであったが、ただ白紙を用いる点が異なっていた。この年、燾は芮芮虜を討伐したが、大敗して帰還し、死者は十の六七に及んだ。死者の家が哀悼の意を表することを許さず、犯す者は誅殺した。

二十三年、虜の安南平南府がまた兗州に移書を送り、南国が僑置した州は城土に依らず、北境の名号を濫用していること、また具区で遊猟したいことを述べた。兗州は移書に答えて言った。

先に、虜の中で謡言があった。「虜を滅ぼす者は呉なり。」燾はこれを非常に憎んだ。二十三年、北地瀘水の人蓋呉、年二十九、杏城天臺において兵を挙げて虜に反旗を翻した。諸戎夷は普くこれに呼応し、衆十万余を擁した。燾は呉の反乱を聞き、その名を憎み、累次軍を派遣してこれを撃ったが、常に敗れた。呉は上表して帰順を申し出て、言った。

燾は軍を派遣して屡々敗れたため、ついに自ら大衆を率いてこれを攻めた。呉はまた上表して言った。

太祖は 詔 を下して言った。「北地の蓋呉は、秦川に衆を起こし、華夷が呼応して帰附し、その義勇を奮い、頻繁に勝利を収め、屡々表疏を遣わし、遠く忠誠を献げ、志は逆虜を梟すことにあり、以て勲績を立てようとしている。爵号を加え、その誠を褒奨すべきである。使持節・ 都督 ととく 関隴諸軍事・安西将軍・雍州 刺史 しし ・北地郡公とすることができる。雍・梁に命じて軍を境界上に派遣させ、以て援接せしめよ。」

燾は呉を攻めて大小数十戦したが、勝つことができなかった。太祖は使者を遣わし、雍・秦二州の統轄する郡および金紫以下の諸将の印合わせて一百二十一紐を呉に送り、適宜に仮授させた。屠各が反叛すると、呉は自らこれを攻めたが、流れ矢に当たって死んだ。呉の弟の吾生が余衆を率いて木面山に入ったが、皆、間もなく破れ散った。

その年、太原の民顔白鹿が私的に荒野に入り、虜に捕らえられた。相州 刺史 しし が彼を殺そうとすると、白鹿は詐って「青州 刺史 しし 杜驥が私を帰順させようと遣わした」と言った。相州 刺史 しし は白鹿を桑乾に送ると、燾は喜んで言った。「我が外戚である。」 司徒 しと 崔浩に命じて杜驥に書を作らせ、 司徒 しと 祭酒王琦に書を持たせて白鹿に随い南に帰らせた。従弟の高梁王に重軍を率いさせて杜驥を迎えさせ、太原界に入り、歴城において冀州 刺史 しし 申恬を攻めたが、恬はこれを撃破した。杜驥はその寧朔府司馬夏侯祖歓・中兵参軍吉淵を馳せて赴援させた。虜は太原を破り略奪し、四千余口、牛六千余頭を得た。間もなくまた兗・青・冀三州を寇し、ついに清東に及び、多くを殺略した。

太祖は経略を弘めようと考え、群臣に 詔 して言った。

当時、国境付近の住民は互いに侵攻や略奪を繰り返していた。二十五年、虜の寧南将軍・ 刺史 しし ・北井侯の若庫辰樹蘭が 州に移書を送り、次のように述べた。

右将軍・ 刺史 しし の南平王劉鑠が移書に答えて次のように述べた。

二十七年、拓跋燾自ら歩兵と騎兵十万を率いて汝南を侵犯した。当初、燾は辺境を侵犯しようとし、梁川で狩猟を行うと声を上げていた。太祖(文帝)は彼が淮水や泗水を侵犯することを懸念し、辺境の守備隊に命令を下した。「小規模な敵が来れば、堅守して防ぎなさい。大軍が来れば、住民を連れて寿陽に撤退しなさい。」しかし、各守備隊の偵察と警戒が不十分で、虜が突然国境に侵入した。宣威将軍・陳郡・南頓郡二郡太守の鄭琨と、綏遠将軍・汝陽郡・潁川郡二郡太守の郭道隱はともに城を捨てて逃走した。虜は淮西の六郡を略奪し、多くの人々を殺戮した。懸瓠城を包囲攻撃したが、城内の戦士は千人に満たなかった。これに先立ち、汝南郡・新蔡郡二郡太守の徐遵之が郡を離れていた。南平王劉鑠が当時寿陽を鎮守しており、右軍行参軍の陳憲を行郡事として派遣した。陳憲は城に籠って堅固に守り、燾は全軍の精鋭を挙げて攻撃した。陳憲は自ら外城に登って督戦した。敵は城に面して楼を建て、矢が雨のように降り注ぎ、衝車で南城を破壊した。陳憲は城内にさらに防壁を築き、柵を立てて補強した。虜は肉薄して城を攻め、死者は非常に多かったが、陳憲の将士の死傷も半数を超えた。燾はただ寿陽からの援軍を恐れ、彭城のことは考慮しなかった。

拓跋燾は従弟の永昌王庫仁真に歩兵と騎兵一万余りを率いさせ、略奪した六郡の住民を連れて北の汝陽に駐屯させた。当時、世祖(孝武帝)は彭城を鎮守しており、太祖は隊主の呉香鑪を駅馬で派遣し、世祖に千騎の兵を三日分の食糧を持たせて襲撃するよう命じた。世祖は百里以内の馬を徴発し、千五百頭を得た。人々は別駕の劉延孫を元帥に推挙したが、延孫は辞退して行こうとせず、参軍の劉泰之を代わりに推挙した。世祖は司馬の王玄謨と長史の張暢に意見を求め、暢らはともにこれを支持した。そこで五軍に分け、泰之を元帥とし、安北騎兵行参軍の垣謙之、田曹行参軍の臧肇之、集曹行参軍の尹定、武陵国左常侍の杜幼文の五人にそれぞれ一軍を率いさせた。謙之は泰之の軍の副将を兼任し、殿中將軍の程天祚が督戦した。譙城に至り、人馬を再選抜し、精鋭の騎兵千一百頭を得て、まっすぐ汝陽に向かった。虜は北から奇襲部隊が来るとは予想しておらず、大本営は汝陽の北、城から三里ほどのところにあった。泰之らが到着した時、虜はまったく気づかず、騎兵で突入して襲撃し、三千人余りを殺し、その輜重を焼いた。陣営内には数区画の氈屋があり、屋の中にはすべて帳幕があり、武器や武具は非常に精巧で、食器はすべて金銀製であった。帳内の各大将帥をことごとく殺した。捕虜となっていた人々はすべて東へ逃げ出し、大声で叫んだ。「官軍が痛烈に手を下したぞ。」虜の兵士たちは一時に逃げ散り、それを追撃したが、一日中行軍したため、人馬は疲労し、汝南に引き返した。城内には虜の一幢(部隊単位)がおり、騎兵と歩兵合わせて約五百人で、城に登って泰之に後続部隊がないことを見て知った。また、別の将帥である鉅鹿公の余嵩が虎牢から到着したため、これらを率いて出撃し泰之を攻撃した。泰之の軍はまだ食事をしておらず、朝から戦ってすでに疲労しており、陣形を整える間もなかった。垣謙之が先に退却したため、軍は驚いて混乱し、武器を捨てて逃走した。道に迷って溵水に向かい、水深は深く岸は高かった。人馬は皆、水の中を走って我先に渡ろうとし、泰之だけは去ろうとせず、「このような敗北をして、どんな顔をして戻れようか」と言い、馬から降りて地面に座り、虜に殺された。肇之は水に溺れて死に、天祚は虜に捕らえられた。謙之、定、幼文および将士で生き残った者は九百人余り、馬は四百頭が戻った。世祖は安北将軍の称号を鎮軍将軍に降格し、玄謨と延孫は免官、暢は兼任していた沛郡太守を免じ、謙之は誅殺され、定と幼文は尚方に送られた。

拓跋燾は最初、汝陽での敗北を聞き、また彭城に援軍がいるという情報が伝わると、大いに恐れ、配下の者たちに言った。「淮南から軍が派遣されたと聞いたばかりなのに、またも奇兵が出てきた。今年は敵の計略に陥るだろう。」すぐに攻城兵器を焼き、逃走しようとした。ちょうどその時、泰之の死の報せが続いて届き、寿陽に留まった。劉康祖を派遣して懸瓠を救援させたが、燾も任城公を派遣して康祖を迎え撃たせ、戦ってこれを破り、任城公を斬った。燾は四十二日間城を攻めたが陥落させられず、死者は非常に多く、任城公も死んだ。康祖の救援軍が次第に迫ってきたため、燾は大将の罪に帰し、多くの者を斬殺し、倍の速度で逃走した。太祖は陳憲の堅固な守りを称え、 詔 を下した。「右軍行参軍・行汝南新蔡二郡軍事の陳憲は、力を尽くして防衛し、城を全うして敵を撃退した。その忠誠と勇敢な功績は、顕著な昇進に値する。龍驤将軍・汝南・新蔡二郡太守に任じよ。」また、布一万匹を陳憲に委ね、汝南城内の文武の官吏・民衆で戦闘や守備に勤労した者たちに分け与えさせた。

拓跋燾は懸瓠を攻略できなかったものの、略奪したものは非常に多く、南朝の軍はたびたび功績を上げられず、燾から軽侮されていた。太祖に書簡を送り、次のように述べた。

この後、再び通和を求めたが、太祖に北伐の意思があると聞き、また書簡を送って言った。「互いに和好し、住民が繋がり合って、長い時が経った。しかし、そちらは飽くことを知らず、我が辺境の民を誘い、逃げて行った者には七年間の賦役免除を約束する。去年の春に南巡し、我が民の様子を見て、すぐに追い返させた。天地が開闢して以来、天下を争う者は、私とあなただけではない。今、そちらが自ら来ると聞いた。もし中山や桑乾川まで来られるなら、好きなように行き来しなさい。来ても迎えず、去っても見送らない。もし自分の領土に飽きたなら、平城に来て住んでもよい。私は揚州に行って住もう。互いの土地を交換することもできる。(傖人は交換のことを博と言う。)あなたはもう五十歳で、一度も戸外に出たことがない。自力で来たとしても、三歳の幼児のようで、どうして我が鮮卑が常に馬の背や首の上で生活しているかを知ることができよう。他に与えるべき物は何もない。今、狩りの白鹿馬十二頭と氈、薬などの品物を贈る。そちらからの馬が力不足なら、これに乗るとよい。道のりは遠く、あるいは水土不服になるかもしれないが、薬で自ら治療できる。」

その年、大規模な北伐が行われ、 詔 が下された。

この年、軍旅が大いに起こり、王公・妃主および朝士・牧守はそれぞれ金や帛などの物品を献上して国用を助け、下って富家や小民に至るまで、私財を数十万に及ぶほど献上する者もいた。また兵力が不足していたため、尚書左 僕射 ぼくや の何尚之が参議し、南兗州の三五(三丁抽一、五丁抽二)の民丁を徴発することになった。父・祖・伯叔・兄弟が州で官職に就き従事として仕えている者、および北徐州・兗州で皇弟・皇子の従事として仕えている者、庶姓の主簿、諸皇弟・皇子府の参軍・督護・国三令以上の者、相府の舎人は、徴発の対象外とした。それ以外の者はすべて一時的に徴発に借り出すこととした。符(命令書)が到着してから十日で装束を整え、長江沿いの五郡は広陵に、淮水沿いの三郡は盱眙に集結させた。また、天下の弩手を募集し、出身を問わず、もし馬術・歩戦など様々な武芸や武力に優れた士で試験に応じる者は、すべて厚く賞賜した。有司はまた、軍用が不足していると上奏した。揚州・南徐州・兗州・江州の四州の富裕な民で、家財が五十万に満ちる者、僧尼で二十万に満ちる者は、すべてその四分の一を換金させ、この率を超える分も計算に含め、事態が収まれば返還することとした。

歴城の建武府司馬の申元吉が騎兵と歩兵□余人を率いて碻磝に向かい、泗瀆口を占領した。虜の碻磝戍主・済州 刺史 しし の王買德は城に拠って抵抗したが、元吉はこれを破り、買德は城を捨てて逃走した。奴婢一百四十人、馬二百余頭、驢と騾二百頭、生きた羊それぞれ千余頭、氈七百領、粗末な車と細工の良い車合わせて三百五十乗、地下倉庫四十二所、粟五十余万斛、城内住民の私的貯蔵分また二十万斛、虜の田畑の五穀三百頃、鉄三万斤、大小の鉄器九千余口を獲得し、その他の武器や雑物もこれに匹敵する量であった。

玄謨が滑臺を攻撃したが陥落させられず、燾は自ら大軍を率いて黄河を渡り、玄謨は敗走した。燾の従弟である永昌王庫仁真は関西の兵を発して汝・潁方面へ向かい、従弟の高梁王阿斗埿は青州方面から、燾は碻磝から、それぞれ南進した。諸鎮はすべて民を収容して城を守った。その年の十一月に鄒山に至り、鄒山の戍主・宣威将軍・魯陽平二郡太守の崔耶利が敗れて戦死した。燾は鄒山に登り、秦始皇の刻石を見て、人に命じて押し倒させた。楚王樹洛真と南康侯杜道儁を派遣して清西に進軍させ、蕭城に至らせ、歩尼公を清東に進軍させ、留城に至らせた。世祖は参軍馬文恭を蕭城に派遣し、江夏王義恭は軍主の嵇玄敬を留城に派遣し、ともに偵察させた。蕭城の虜は旗を伏せ、文恭の斥候が不明瞭であったため、突然遭遇し、文恭は汴を捨てて南山へ向かい、東へ山に至ったところで虜の包囲が完成し、文恭は敗戦し、辛うじて身一つで逃れた。玄敬もまた留城の虜と遭遇したが、幢主の華欽がその後方に続いていた。虜は玄敬の後方に軍がいるのを見て、引き去り、苞橋へ向かった。苞橋に到着し、清西を渡ろうとしたところ、沛県の民が苞橋を焼き、夜に林の中で太鼓を打った。虜は官軍が大挙して来たと思い、争って苞水を渡ったが、水深く、溺死することほぼ半数に及んだ。

先に、燾は員外散騎侍郎の王老壽を駅馬で太祖のもとに派遣し、黄甘(柑橘)を乞うた。太祖は甘を十簿、甘蔗を千挺を与えた。老壽はまた馬を求めて言った。「近年は収穫が豊かで民も豊かになり、朝廷も民間も憂いがありません。春の終わりに東巡して呉・会稽に行き、遊覧を尽くしたいと思います。滄海に臨み、禹穴を探り、姑蘇の台に登り、長洲の苑を探訪します。船は豊富ですが、良馬に乏しい。足の速い馬を恵んでいただき、この旅に間に合わせたいと思います。」老壽が返命の途についたが、国境を出ないうちに虜の兵が深く侵入したため、記録して召還された。

虜はまた尉武戍を破り、戍主の左軍長兼行参軍王羅漢を捕らえた。先に、南平王鑠が三百人を羅漢に付けて出戍させたが、尉武の東北に小さな堡塁があったため、そこを占拠した。ある者が言った。「賊の勢力が盛んで自らを守るには足りません。南の低い林に依拠すれば、敵が来ても容易に逃れられます。」羅漢はここに来る命令を受けた以上、軽々しく去ることはできないと考えた。この日、虜が攻撃し、矢も尽き力も尽き、ついに陥落した。虜の法では、生きた将軍を捕らえると、その三郎大帥に引き渡し、鎖で首の後ろを鎖でつなぐ。羅漢は夜に三郎の首を切り落とし、鎖を抱えて逃亡し、盱眙城に入ることができた。

永昌王が尉武で劉康祖を破り、軍勢を率いて寿陽に向かい、青岡から孫叔敖の冢に駐屯し、寿陽城を脅かし、また馬頭・鍾離を焼き掠奪した。南平王鑠は城を守り固守した。

燾は彭城から南に出て、十二月に盱眙で淮河を渡り、胡崇之らの軍を破った。尚書の韓元興に数千人を留めて盱眙を守らせ、自らは大軍を率いて南進した。中書郎の魯秀は広陵から、高梁王阿斗埿は山陽から、永昌王は寿陽から横江に出た。すべて通過した所は、残害されないところはなかった。燾は瓜歩に至り、民家を破壊し、また葦を伐採し、滁口で筏を造り、江を渡る気配を見せた。太祖は大いに水軍を整え、防御の準備をした。初め、領軍将軍劉遵考が軍を率いて彭城に向かったが、小澗に至った時、虜がすでに道を断っていたため、召還され、左軍将軍尹弘とともに横江を守り、少府の劉興祖が白下を守り、建威将軍・黄門侍郎蕭元邕が裨洲を守り、羽林左監孟宗嗣が新洲上を守り、建武将軍泰容が新洲下を守り、征北中兵参軍事向柳が貴洲を守り、司馬の到元度が蒜山を守り、諮議参軍沈曇慶が北固を守り、尚書の褚湛之が先に京陵に行き、引き続き西津を守り、徐州従事史蕭尚之が練壁を守り、征北参軍管法祖が譙山を守り、徐州従事武仲河が博落を守り、尚書左丞劉伯龍が採石を守った(後に建武将軍・淮南太守に転任し、引き続き守備を総括した)。遊邏は上は于湖から、下は蔡洲まで接続し、艦船を並べ陣営を列ね、江岸に沿って連なり、採石から暨陽まで、六七百里にわたり、船艦は江を覆い、旗や甲冑は星のように輝いた。皇太子は 石頭 城に出戍し、前将軍徐湛之が石頭倉城を守り、都水使者の樂詢と尚書水部郎劉淵之はともに装備の整備を誤り、建康に送られた。乗輿はたびたび石頭や莫府山に行幸し、形勢を観望した。佛狸伐(燾)の首を斬る者には、八千戸の開国県公に封じ、布と絹をそれぞれ一万匹、金と銀をそれぞれ百斤を賞する。その子や弟、偽の宰相、大軍主を斬る者には、四百戸の開国県侯に封じ、布と絹をそれぞれ五千匹を賞する。これ以下それぞれ差がある。また人を募り、冶葛(毒草)の酒を空き村に置かせ、虜を毒殺しようとしたが、ついに害を加えることはできなかった。

燾は瓜歩山を穿って盤道を造り、その頂上に氈屋を設けた。燾は河南の水を飲まず、駱駝に河北の水を負わせて随行させた。一頭の駱駝に三十斗を負わせた。使者を派遣して太祖に駱駝と名馬を贈り、和を請い婚姻を求めた。上は奉朝請の田奇を派遣して珍味を贈った。燾は黄甘を得ると、すぐに食べ、酃酒を大いに飲んだ。左右で耳打ちする者がいて、食物に毒があるのを疑ったが、燾は答えず、天を指さし、孫の子を田奇に示して言った。「ここに至ったのは功名のためだけではなく、実は婚姻による縁を結びたいからだ。もし応じてもらえれば、今後は微塵も侵犯しない。」また世祖に自分の娘を嫁がせることを求めた。二十八年正月朔、燾は山上で会合し、地元の者たちも加わった。会合が終わると、民戸を掠め、邑屋を焼いて去った。虜は初め江沿いに烽火を挙げたが、尹弘は言った。「六夷がこのようにするのは必ず退却するからだ。」正月二日、果たして退却した。

初め、太祖は虜の侵攻を聞き、広陵の城府や船を焼くよう命じ、広陵・南沛二郡太守の劉懷之に人民を一時的に江を渡らせた。虜は海陵に多くの沼沢地があるため、敢えて行かなかった。山陽太守の蕭僧珍もまた住民や流亡してきた百姓を収容し、すべて城内に入れた。朝廷から盱眙に送られた糧秣と兵器は、賊が迫ったため、山陽に分けて留め置かれた。また数万人分の攻城用具があり、滑臺へ送られるはずだったが、これも郡に留め置かれた。城内にはほぼ一万家、戦士五千余人がいた。白米陂という場所が郡から数里のところにあり、僧珍はあらかじめ各所の水を引き、満たさせておき、賊が来たら決壊させて水攻めにするつもりだった。虜が到着したが、留まることを敢えず、引き去った。広陵から戻ると、盱眙を攻撃し、全力で城を攻めたが、三十日間陥落させられず、攻城用具を焼いて退却した。燾は南兗・徐・兗・ ・青・冀の六州を破り、殺戮略奪は計り知れず、その士馬の死傷も過半に及び、国内の者たちは皆これを非難した。

この年、燾は病死し、諡を太武皇帝とした。初め、燾には六人の子がいた。長子の晃は字を天真といい、太子となった。次は晋王である。燾の住む屠蘇が激しい雷に打たれ、屠蘇が倒れ、押し潰されそうになって死にかけた時、左右の者は皆号泣したが、晋王は悲しまなかったので、燾は怒って死を賜った。次は秦王の烏弈肝で、晃と共に国政を執り行っていたが、晃はこれを憎み、その貪欲で暴虐なことを訴えたので、燾は彼を二百回鞭打ち、 枹罕 に鎮守させた。次は燕王。次は呉王で、名は可博真。次は楚王で、名は樹洛真。燾が汝南の瓜歩に至った時、晃は密かに諸営から物資を取らせ、鹵獲品は非常に多かった。燾が帰還してこれを知ると、大々的に捜索検査した。晃は恐れ、燾を殺害しようと謀った。そこで燾は死んだふりをし、側近の者に晃を呼ばせて喪を迎えさせ、途中で彼を捕らえ、国に至ると鉄の籠で覆い、まもなく殺した。烏弈肝は武勇に優れていたので、太子とした。ちょうど燾が死んだ時、寵臣の宗愛に博真を後継者として立てさせたが、宗愛と博真は弈肝に危害を加えられることを恐れ、偽りの命令で彼を殺して自立し、年号を承平とした。博真は懦弱で、国人に支持されなかった。晃の子の濬は字を烏雷直懃といい、もともと燾に愛されていた。燕王が国人に言った。「博真は正統ではない。立てるべきではない。直懃は嫡孫である。立つべきだ。」そこで博真と宗愛を殺し、濬を主として立て、年号を正平とした。

以前、虜の寧南将軍魯爽兄弟が軍勢を率いて帰順した。二十九年、太祖はさらに張永、王玄謨および魯爽らを派遣して北伐させた。青州 刺史 しし の劉興祖は河北を討伐するよう建議し、言った。「河南は飢饉に阻まれ、野に掠奪するものはなく、もし思いがけず敵が堅固に守れば、十日や一月では陥落せず、大軍を留め置けば、輸送がかえって煩雑になります。罪を討ち民を慰めることは、迅速を要する事柄です。今、偽りの帥(拓跋燾)が死に、加えて暑い時期に迫り、国内は猜疑と混乱があり、遠征に手が回りません。関内の軍勢は、自らを守るのがやっとです。愚見では、中山に長駆して進み、その関所と要地を占拠すべきです。冀州以北は、民はまだ豊かで、麦も熟しつつあり、資源を調達するのは容易です。義に赴く者たちは、必ず呼応して集まるでしょう。もし中州が震動すれば、黄河以南は自然に崩壊します。臣の城守の兵以外に、二千人を出すことができます。今さらに三千の兵を発し、別駕の崔勲之に振威将軍を仮授し、発した部隊を率いさせ、二州の名族と共に蓋柳津から直ちに中山を衝かせます。申坦が歴城の軍勢を率いれば、二千ほどになります。続々と共に進軍します。二軍を概算すれば、約七千人ほどです。すでにその心臓部に入り、租税を調達し車両を徴発して、軍用に充てます。もし先鋒が勝利に乗じれば、張永および河南の諸軍は、時宜に合わせて一時に黄河を渡り、声勢と実利を兼ねて挙げさせます。愚かな計略がもし認められれば、司牧を並べて建て、新たに帰順した者を慰撫すべきです。定州 刺史 しし は大嶺を取らせ、冀州 刺史 しし は井陘に向かわせ、 へい 刺史 しし は雁門に駐屯させ、幽州 刺史 しし は軍都を塞がせ、相州 刺史 しし は大行山を備えさせ、事に応じて指揮し、適宜に官職を加授します。威を畏れ寵を喜び、人は百倍の思いを抱くでしょう。黄河を渡る日には、大統の版授・仮授をお願いします。常に将帥が深遠を恐れることを憤っており、勲之らの慷慨たる誠意は、必ず死をもって報效することを誓っています。もし成功すれば、天下統一を待つことができます。もし勝利しなければ、大きな損害にはなりません。どうか装備を整えるよう催促し、謹んで 詔 勅のご指示をお待ちします。」上(文帝)の意向は河南に留まることであり、採用しなかった。王玄謨は碻磝を攻めたが、陥落せずに退却した。

世祖(孝武帝)が即位すると、索虜は互市を求めてきた。江夏王劉義恭、竟陵王劉誕、建平王劉宏、何尚之、何偃は許すべきであると考えた。柳元景、王玄謨、顔竣、謝莊、檀和之、褚湛之は許すべきでないと考えた。当時、遂に通交した。大明二年、虜が青州を寇掠したが、 刺史 しし の顔師伯に撃破され、退走した。

前廃帝の永光元年、濬が死に、諡を文成皇帝とした。子の弘之、字は第豆胤が代わって立った。

景和年間、北討徐州 刺史 しし の義陽王劉昶を討つと、劉昶は単騎で虜に奔った。太宗(明帝)の泰始初年、江州 刺史 しし の晋安王劉子勛が叛逆し、四方が反旗を翻した。徐州 刺史 しし の 薛安都 、青州 刺史 しし の沈文秀、冀州 刺史 しし で歴城鎮主の崔道固らも、それぞれ挙兵した。虜は劉昶を受け入れようと謀り、 詔 書を下した。

まもなく晋安王劉子勛の事件が平定されると、太宗は張永、沈攸之を派遣して北討させた。薛安都は大いに恐れ、使者を遣わして虜を引き入れた。虜は一万騎を派遣して救援し、張永、沈攸之は敗れて退却した。虜は青州、冀州を攻め、ともに陥落させ、沈文秀、崔道固を捕らえた。また 詔 書を下した。

この後、虜は再び和親し、贈り物が毎年届き、朝廷も厚く返礼した。泰 元年、虜の狭石鎮主の白虎公、安陽鎮主の莫索公、貞陽鎮主の鵝落生、襄陽王の桓天生らが、山蛮の歩兵・騎兵二万余人を引き連れ、義陽県の義陽戍を攻囲した。司州 刺史 しし の王贍は従弟の 司空 しくう 行参軍の思遠、撫軍行参軍の王叔瑜を派遣してこれを大破し、虜は退走した。

索虜が慕容氏を破り、中国を領有して以来、芮芮虜はその旧地を有し、これは漢代の匈奴の北庭にあたる。芮芮は大檀とも号し、また檀檀とも号し、やはり匈奴の別種である。西路から京師に通じるには三万余里。僭越して大号を称し、部衆は豊かで強盛であり、毎年使者を京師に派遣し、中国と対等の礼を交わした。西域諸国の焉耆、鄯善、亀茲、姑墨など東道の諸国は、すべてその支配下にあった。城郭はなく、水草を追って畜牧し、氈帳に住み、移徙に従う。その土地は深山では夏でも雪が積もり、平地では数千里を見渡しても、野に青草はない。地気は寒冷で、馬や牛は枯れ草を食み雪を舐めて、自然に肥え健やかになる。国政は簡素で、文書を識らず、木に刻んで事を記したが、その後次第に書契を知るようになり、今ではかなり学問をする者もいる。北海から千余里離れており、丁零と境を接する。常に南の索虜を撃ち、代々仇敵であったので、朝廷は常にこれを羈縻した。

その東に槃槃国、趙昌国があり、流沙を万里渡ると、また粟特国がある。太祖(文帝)の世に、ともに上表して貢献した。粟特は大明年間に使者を派遣して生きた獅子、火浣布、汗血馬を献上したが、途中で賊に遭い、失った。