宋書

列伝第五十三

列伝第五十三

易経に「天地閉ざされば、賢人は隠れる」とある。また「世を遁れて悶えず」とも、「その事を高尚にす」とも、「幽人は貞にして吉」ともある。論語の「作者七人」は、逸民の称をもって表している。また「子路が荷蓧の丈人に遇い、孔子が『隠者なり』と言った」ともある。また「賢者は地を避け、その次は言を避ける」とも、「虞仲、夷逸は、隠居して言を放つ」ともある。品目はまちまちで、称謂は一様ではない。試みに言ってみよう。隠という言葉は、その跡が外に現れず、その道が知られないことを言うのである。もし千年の間寂寥として聖人が現れなければ、大賢は自ら晦まし、凡品に降りて、ただ身を全うし害を遠ざけるに止まり、必ずしも穴に住み巌に棲むわけではない。たとえ過去を蔵し二を得て、宗極に隣接するほどの者であっても、世に知られず、万物に見られない。このような人は、どうして潁水のほとりで耳を洗い、皎皎として俗を超えた志を顕わにしようか。世を遁れ避けること、それ自体が賢人なのである。世に適わないことがあってこそ、避世の原因があるのであり、義はただ道を晦ますことにあると知り、身を隠すこととは言わないのである。巣父の名は、すなわち称えられた号であり、裘公と号するのは、伝えるべき跡があるからである。これは荷蓧の隠れであって、賢人の隠れではない。賢人の隠れは、自らを晦ますことの意義が深く、荷蓧の隠れは、人に背くことだけに止まる。跡を論じれば既に異なり、心を推し量ってもまた異なる。身と運命が共に閉ざされ、知られるべき情がなく、鶏と黍で賓客をもてなし、世を超えた美を示す。運命が閉ざされるゆえに隠れ、隠れた跡が見えず、人に背くゆえに隠れ、隠者という名目をもたらす。身が隠れるゆえに隠者と称し、道が隠れるゆえに賢人と言うのである。ある人が言う。「隠者と隠れることの違いについては、その説を聞いた。賢人と賢者との同一性については、どこが異なるのか分からない」と。これに応えて言う。「身を隠すことと道を晦ますことは、名は同じでも意義が異なる。賢人と賢者については、事は亜聖に至るまで究められており、これをもって言えば、あるいは弁別できるかもしれない。高尚なる者と作者、三避と幽人、および逸民の隠居は、皆、独往の称であり、たとえ漢陰の氏が伝わらず、河上の名が顕われなくても、貪りを激しくし俗を励まし、自ら異なる姿を執り、なお日月を背負い、太鼓を鳴らして走るようなものである。」陳郡の袁淑は、古来の無名の高士を集めて『真隠伝』としたが、この議論で格付けすれば、真から遠い。賢人が世にあることは、事実を曲げることはできない。今、隠逸篇を設け、賢隠の位を虚しく置く。その他、心を夷らかにし俗を超えた者は、おそらく逸であって隠ではないと言えよう。

原文易曰:「天地閉,賢人隱。」又曰:「遯世無悶。」又曰:「髙尚其事。」又曰:「幽人貞吉。」論語「作者七人」,表以逸民之稱。又曰:「子路遇荷蓧丈人,孔子曰:隱者也。」又曰:「賢者避地,其次避言。」又曰:「虞仲,夷逸,隱居放言。」品目參差,稱謂非一,請試言之。夫隱之爲言,迹不外見,道不可知之謂也。若夫千載寂寥,聖人不出,則大賢自晦,降夷凡品,止於全身遠害,非必穴處巖栖,雖藏往得二,鄰亞宗極,而舉世莫窺,萬物不覩。若此人者,豈肯洗耳潁濱,皦皦然顯出俗之志乎。遯世避世,即賢人也。夫何適非世,而有避世之因,固知義惟晦道,非曰藏身。至於巣父之名,即是見稱之號,號曰裘公,由有可傳之迹,此蓋荷蓧之隱,而非賢人之隱也。賢人之隱,義深於自晦,荷蓧之隱,事止於違人。論迹既殊,原心亦異也。身與運閉,無可知之情,鷄黍宿賓,示髙世之美。運閉故隱,爲隱之跡不見,違人故隱,用致隱者之目。身隱故稱隱者,道隱故曰賢人。或曰:「隱者之異乎隱,既聞其説,賢者之同於賢,未知所異?」應之曰:「隱身之於晦道,名同而義殊,賢人之於賢者,事窮於亞聖,以此爲言,如或可辨。若乃髙尚之與作者,三避之與幽人,及逸民隱居,皆獨往之稱,雖復漢陰之氏不傳,河上之名不顯,莫不激貪厲俗,秉自異之姿,猶負掲日月,鳴建鼓而趨也。」陳郡袁淑集古來無名髙士,以爲眞隱傳,格以斯談,去眞遠矣。賢人在世,事不可誣,今爲隱逸篇,虚置賢隱之位,其餘夷心俗表者,蓋逸而非隱云。

戴顒は字あざなを仲若といい、譙郡銍県の人である。父は逵、兄は勃で、共に隠遁して高い名声があった。

原文戴顒字仲若,譙郡銍人也。父逵,兄勃,並隱遁有髙名。

顒は十六歳の時、父の喪に遭い、ほとんど身を滅ぼすほどで、このため長く病弱な体質を抱えた。父が仕官しなかったので、その業を継いだ。父は琴と書に優れ、顒はその両方を伝承し、あらゆる音律について、皆、手を揮えば演奏できた。会稽郡剡県には名山が多いため、代々剡県に住んだ。顒と兄の勃は、共に父から琴を学んだ。父が没すると、父から伝えられた曲は、再び奏でるに忍びず、それぞれ新曲を作った。勃は五部、顒は十五部である。顒はまた長弄一部を作り、共に世に伝わった。中書令の王綏がよく賓客を連れて彼らを訪れたが、勃らが豆粥を食べているところだった。綏が「あなたが琴に優れると聞いた。試しに一曲聴きたい」と言っても答えず、綏は恨みを抱いて去った。

原文顒年十六,遭父憂,幾於毀滅,因此長抱羸患。以父不仕,復修其業。父善琴書,顒並傳之,凡諸音律,皆能揮手。會稽剡縣多名山,故世居剡下。顒及兄勃,並受琴於父,父沒,所傳之聲,不忍復奏,各造新弄,勃五部,顒十五部。顒又制長弄一部,並傳於世。中書令王綏常攜賓客造之,勃等方進豆粥,綏曰:「聞卿善琴,試欲一聽。」不答,綏恨而去。

桐廬県にもまた名山が多いので、兄弟は共に遊びに行き、そこで留まって住んだ。勃が病気になり、医薬が足りなかった。顒は勃に言った。「顒は兄について閑居を得たのであって、黙して語らぬことに心があるわけではありません。兄は今、病が重く、治療の手立てがありません。顒が禄を求めて自らを助けましょう。」そこで時勢に合わせて海虞県令を求めたが、事が実行されようとした時に勃が亡くなったので、やめた。桐廬は僻遠で、病気を養うのに難しく、そこで出て呉の地に住んだ。呉の地の士人たちが共に家を築き、石を積み水を引き、林を植え澗を開いた。しばらくすると繁茂し、自然のようであった。そこで荘周の大旨を述べ、『消搖論』を著し、『礼記』中庸篇に注を付けた。三呉の将軍や太守たいしゅ、および郡内の名士たちが彼を誘って野沢を共に遊んだが、行ける時には行き、わざとらしい孤高ぶりはせず、人々の論評はこれをもって彼を称賛した。

原文桐廬縣又多名山,兄弟復共游之,因留居止。勃疾患,醫藥不給,顒謂勃曰:「顒隨兄得閑,非有心於默語。兄今疾篤,無可營療,顒當干祿以自濟耳。」乃告時求海虞令,事垂行而勃卒,乃止。桐廬僻遠,難以養疾,乃出居呉下。呉下士人共爲築室,聚石引水,植林開澗,少時繁密,有若自然。乃述莊周大旨,著消搖論,注禮記中庸篇。三呉將守及郡内衣冠要其同游野澤,堪行便往,不爲矯介,衆論以此多之。

高祖(劉裕)が太尉たいい行参軍、琅邪王司馬属に任命したが、どちらも就任しなかった。宋国が初めて建てられた時、令が下された。「前太尉参軍戴顒、辟士韋玄は、幽遁の操を執り、志を守って変わることない。旌表して招き、退くことを尊ぶ風を広めるべきである。共に散騎侍郎とし、通直の位に置く。」起用されなかった。太祖(文帝)の元嘉二年、詔があった。「新たに任じられた通直散騎侍郎戴顒、太子舎人宗炳は、共に志を丘園に託し、自ら衡門蓽戸を求め、恬静の操は久しく変わらない。顒は国子博士とし、炳は通直散騎侍郎とする。」東宮が初めて建てられた時、また太子中庶子に徴された。十五年、散騎常侍さんきじょうじに徴されたが、どちらも就任しなかった。

原文髙祖命爲太尉行參軍,琅邪王司馬屬,並不就。宋國初建,令曰:「前太尉參軍戴顒、辟士韋玄,秉操幽遁,守志不渝,宜加旌引,以弘止退。並可散騎侍郎,在通直。」不起。太祖元嘉二年,詔曰:「新除通直散騎侍郎戴顒、太子舍人宗炳,並志託丘園,自求衡蓽,恬靜之操,久而不渝。顒可國子博士,炳可通直散騎侍郎。」東宮初建,又徴太子中庶子。十五年,徴散騎常侍,並不就。

衡陽王劉義季が京口を鎮守した時、長史の張邵は顒と姻戚関係があり、彼を迎えて黄鵠山に住まわせた。山の北に竹林精舎があり、林と澗が非常に美しかった。顒はこの澗で憩い、義季はたびたび彼と遊んだ。顒は野服を着て、常の態度を改めなかった。義季のために琴を弾き、また新声や変曲を奏でた。その三調、遊絃、広陵、止息の類いは、皆、世のものと異なっていた。太祖(文帝)はいつも彼に会いたがり、黄門侍郎の張敷に言った。「私が東巡する日には、戴公の山で宴を開こう。」彼が音楽を好むので、長く正声伎一部を給した。顒は何嘗、白鵠の二つの声を合わせて一つの調とし、清曠と号した。

原文衡陽王義季鎭京口,長史張邵與顒姻通,迎來止黃鵠山。山北有竹林精舍,林澗甚美,顒憩于此澗,義季亟從之遊,顒服其野服,不改常度。爲義季鼓琴,並新聲變曲,其三調遊絃、廣陵、止息之流,皆與世異。太祖毎欲見之,嘗謂黃門侍郎張敷曰:「吾東巡之日,當讌戴公山也。」以其好音,長給正聲伎一部。顒合何嘗、白鵠二聲,以爲一調,號爲淸曠。

漢代から初めて仏像があり、形制は精巧ではなかったが、逵は特にこれを善くし、顒もまたこれに関与した。宋の世子が瓦官寺に丈六の銅像を鋳造したが、完成後、顔が痩せているのが不満で、工人は直せなかった。そこで顒を迎えて見せた。顒は言った。「顔が痩せているのではなく、臂と胛が太いのです。」臂と胛を削り直すと、痩せているという問題は解消し、誰もが感服した。

原文自漢世始有佛像,形制未工,逵特善其事,顒亦參焉。宋世子鑄丈六銅像於瓦官寺,既成,面恨瘦,工人不能治,乃迎顒看之。顒曰:「非面瘦,乃臂胛肥耳。」既錯減臂胛,瘦患即除,無不歎服焉。

十八年、死去した。六十四歳であった。子はなかった。景陽山が完成した時、顒は既に亡くなっていた。上(文帝)は嘆いて言った。「戴顒にこれを見せられなかったのが残念だ。」

原文十八年,卒,時年六十四。無子。景陽山成,顒已亡矣,上歎曰:「恨不得使戴顒觀之。」

宗炳は字を少文といい、南陽郡湼陽県の人である。祖父は承で、宜都太守であった。父は繇之で、湘郷県令であった。母は同郡の師氏で、聡明で弁が立ち学識があり、諸子に教授した。

原文宗炳字少文,南陽湼陽人也。祖承,宜都太守。父繇之,湘鄕令。母同郡師氏,聰辯有學義,教授諸子。

炳は喪に服する際、礼を越え、郷里で称賛された。刺史ししの殷仲堪、桓玄が共に主簿に辟召し、秀才に挙げたが、就任しなかった。高祖が劉毅を誅し、荊州を領した時、劉毅の府の諮議参軍申永に問うた。「今日、何を施せばよいか。」永は答えた。「宿怨を取り除き、恵沢を倍加し、門第の順序を通し、才能を顕著に抜擢すること、これだけです。」高祖はこれを受け入れ、炳を主簿に辟召したが、起用されなかった。その理由を問うと、答えて言った。「丘に棲み谷の水を飲むこと、三十余年になります。」高祖はその答えを良しとした。琴と書に妙を得、言理に精通し、山水を遊ぶごとに、往けば帰るのを忘れた。征西長史の王敬弘はいつも彼に従ったが、一日中遊ばない日はなかった。そこで廬山に入り、釈慧遠に就いて文義を考究した。兄の臧が南平太守となり、彼に迫って共に帰還させたので、江陵の三湖に宅を構え、閑居して何事もなかった。高祖が太尉参軍に召したが、就任しなかった。二人の兄が早く亡くなり、孤児や家族の累が多く、家が貧しく養うことができず、かなり農業を営んだ。高祖はたびたび食糧や賜物を送ったが、その後、子弟が禄を受けるようになると、一切受け取らなくなった。

原文炳居喪過禮,爲鄕閭所稱。刺史殷仲堪、桓玄並辟主簿,舉秀才,不就。髙祖誅劉毅,領荊州,問毅府諮議參軍申永曰:「今日何施而可?」永曰:「除其宿釁,倍其惠澤,貫敍門次,顯擢才能,如此而已。」髙祖納之,辟炳爲主簿,不起,問其故,答曰:「棲丘飲谷,三十餘年。」髙祖善其對。妙善琴書,精於言理,毎游山水,往輒忘歸。征西長史王敬弘毎從之,未嘗不彌日也。乃下入廬山,就釋慧遠考尋文義。兄臧爲南平太守,逼與倶還,乃於江陵三湖立宅,閑居無事。髙祖召爲太尉參軍,不就。二兄蚤卒,孤累甚多,家貧無以相贍,頗營稼穡。髙祖數致餼賚,其後子弟從祿,乃悉不復受。

高祖が開府して人材を招聘した際、詔書を下して言った。「私は大任を辱うけているが、賢才を招きたいと思う。しかし、隠遁している者は潜み、求める人材はまだ現れず、丘園に席を設けて待つばかりで、誠に空虚な思いを募らせている。南陽の宗炳、雁門の周續之は、ともに高潔な節操を守り、隠遁生活に満足しており、招聘の詔を下し、礼をもって招き寄せるべきである。」そこで二人を太尉掾に招聘したが、どちらも応じなかった。宋が禅譲を受けると、太子舎人に徴召された。元嘉の初め、また通直郎に徴召され、東宮が建てられると、太子中舎人、庶子に徴召されたが、いずれも応じなかった。妻の羅氏もまた高い志操を持ち、宗炳と志を同じくしていた。羅氏が亡くなると、宗炳は哀しみが過ぎ、やがて泣くのをやめて道理を求め、悲しみの感情はたちまち消え去った。沙門の釈慧堅に言った。「死生の分け目は容易に理解できるものではない。教えを繰り返し学んで、ようやく哀しみを払拭できる。」衡陽王劉義季が荊州にいた時、自ら宗炳の家を訪れ、共に歓談し、諮議参軍に任じようとしたが、応じなかった。

原文髙祖開府辟召,下書曰:「吾忝大寵,思延賢彦,而兔罝潛處,考槃未臻,側席丘園,良增虚佇。南陽宗炳、鴈門周續之,並植操幽棲,無悶巾褐,可下辟召,以禮屈之。」於是並辟太尉掾,皆不起。宋受禪,徴爲太子舍人;元嘉初,又徴通直郎;東宮建,徴爲太子中舍人,庶子,並不應。妻羅氏,亦有髙情,與炳協趣。羅氏沒,炳哀之過甚,既而輟哭尋理,悲情頓釋。謂沙門釋慧堅曰:「死生之分,未易可達,三復至教,方能遣哀。」衡陽王義季在荊州,親至炳室,與之歡讌,命爲諮議參軍,不起。

山水を好み、遠くへの遊歴を愛し、西は荊州、巫山に登り、南は衡山に登った。そこで衡山に庵を結び、尚平(向長)の志を抱こうとした。病気になって江陵に戻り、嘆いて言った。「老いと病気がともに来て、名山をすべて見て回るのは難しいだろう。ただ心を澄ませて道を観じ、臥して遊ぶだけだ。」かつて遊歴した場所はすべて、部屋に絵として描き、人に言った。「琴を弾き曲を奏でると、すべての山々が響き渡るようにしたい。」古くに『金石弄』という曲があり、桓氏一族に重んじられていたが、桓氏が滅びるとその音曲は絶えてしまい、ただ宗炳だけが伝えていた。太祖は楽師の楊観を遣わして宗炳から学ばせた。

原文好山水,愛遠遊,西陟荊、巫,南登衡岳,因而結宇衡山,欲懷尚平之志。有疾還江陵,嘆曰:「老疾倶至,名山恐難徧覩,唯當澄懷觀道,臥以游之。」凡所游履,皆圖之於室,謂人曰:「撫琴動操,欲令衆山皆響。」古有金石弄,爲諸桓所重,桓氏亡,其聲遂絶,唯炳傳焉。太祖遣樂師楊觀就炳受之。

宗炳の従弟の師覺授もまた清貧な学問を身につけ、琴と書物で自らを楽しませていた。臨川王劉義慶が祭酒、主簿に招聘したが、いずれも就かず、上表して推薦したが、病気で死去した。

原文炳外弟師覺授亦有素業,以琴書自娯。臨川王義慶辟爲祭酒,主簿,並不就,乃表薦之,會病卒。

元嘉二十年、宗炳は死去した。六十九歳であった。衡陽王劉義季が司徒しとの江夏王劉義恭に手紙を書いて言った。「宗居士は病を救うことができなかった。その清らかな行いと質素な生活は、終始称賛に値し、そのために悲しみ、やむことができない。」

原文元嘉二十年,炳卒,時年六十九。衡陽王義季與司徒江夏王義恭書曰:「宗居士不救所病,其淸履肥素,終始可嘉,爲之惻愴,不能已已。」

子の宗朔は、南譙王劉義宣の車騎参軍となった。次男の宗綺は、江夏王劉義恭の司空しくう主簿となった。次男の宗昭は、郢州えいしゅう治中となった。次男の宗説は、正員郎となった。

原文子朔,南譙王義宣車騎參軍。次綺,江夏王義恭司空主簿。次昭,郢州治中。次説,正員郎。

周續之、字は道祖、雁門郡広武県の人である。先祖は江南に渡り、豫章郡建昌県に住んだ。周續之は八歳で母を亡くし、成人以上に悲しみ、兄に仕えることを父に仕えるようにした。豫章太守の范甯が郡に学校を設立し、生徒を集めると、遠方から多くの者が来た。周續之は十二歳で范甯に師事して学んだ。学問に数年従事し、五経と緯候に通じ、同門の中で名声が最も高く、「顔子」と呼ばれた。その後、閑居して老子と易経を読み、廬山に入って沙門の釈慧遠に師事した。当時、彭城ほうじょうの劉遺民が廬山に隠遁し、陶淵明もまた徴命に応じなかったので、彼らを尋陽の三隠士と呼んだ。身体は捨てられないが、その他の煩わしさは断つべきだと考え、ついに一生妻を娶らず、布衣で粗食を続けた。

原文周續之字道祖,鴈門廣武人也。其先過江居豫章建昌縣。續之年八歳喪母,哀戚過於成人,奉兄如事父。豫章太守范甯於郡立學,招集生徒,遠方至者甚衆,續之年十二,詣甯受業。居學數年,通五經并緯候,名冠同門,號曰「顏子」。既而閑居讀老、易,入廬山事沙門釋慧遠。時彭城劉遺民遁迹廬山,陶淵明亦不應徴命,謂之尋陽三隱。以爲身不可遣,餘累宜絶,遂終身不娶妻,布衣蔬食。

劉毅が姑孰こじゅくに駐屯した時、撫軍参軍に任命し、太学博士に徴召したが、いずれも就任しなかった。江州刺史がたびたび招請すると、周續之は節義にこだわり過ぎず、しばしば彼と交遊した。常に嵇康の『高士伝』から隠遁の美点を得て、それに注釈を加えた。高祖が北伐する際、世子が留守を守り、周續之を安楽寺に迎えて館を設け、礼を講義させた。一月余りして、また山に戻った。江州刺史の劉柳が高祖に推薦して言った。

原文劉毅鎭姑孰,命爲撫軍參軍,徴太學博士,並不就。江州刺史毎相招請,續之不尚節峻,頗從之游。常以嵇康髙士傳得出處之美,因爲之注。髙祖之北討,世子居守,迎續之館于安樂寺,延入講禮,月餘,復還山。江州刺史劉柳薦之髙祖曰:

まもなく太尉掾に招聘されたが、就任しなかった。高祖が北伐し、彭城に戻って駐屯すると、使者を送って周續之を迎え、礼と賜物を厚くした。常に彼を称えて言った。「心に偏りや惜しみがなく、真の高士である。」間もなくまた南に戻った。高祖が即位すると、再び召し出され、ついに家族全員を連れて都に下った。皇帝は東郭の外に学館を開き、生徒を集めさせた。皇帝が行幸し、諸生と共に会い、周續之に礼記の「慠不可長」、「與我九齢」、「射於矍圃」の三つの義について問うと、その分析は精緻で深遠であり、該博であると称賛された。周續之はもともと風痹を患っており、もはや講義に耐えられなくなったので、病気を理由に鍾山に移った。景平元年に死去した。四十七歳であった。毛詩の六義および礼論、公羊伝に通じ、いずれも世に伝わった。子はなかった。兄の子の景遠は周續之の風範を受け継ぎ、太宗の泰始年間に晉安内史となったが、任地に赴く前に死去した。

原文俄而辟爲太尉掾,不就。髙祖北伐,還鎭彭城,遣使迎之,禮賜甚厚。毎稱之曰:「心無偏吝,眞髙士也。」尋復南還。髙祖踐阼,復召之,乃盡室倶下。上爲開館東郭外,招集生徒。乘輿降幸,并見諸生,問續之禮記「慠不可長」、「與我九齡」、「射於矍圃」三義,辨析精奧,稱爲該通。續之素患風痹,不復堪講,乃移病鍾山。景平元年卒,時年四十七。通毛詩六義及禮論、公羊傳,皆傳於世。無子。兄子景遠有續之風,太宗泰始中,爲晉安内史,未之郡,卒。

王弘之、字は方平、琅邪郡臨沂県の人、宣訓衞尉の王鎭之の弟である。

原文王弘之字方平,琅邪臨沂人,宣訓衞尉鎭之弟也。

幼くして孤貧となり、外祖父の徴士何準に養育された。従叔父の王獻之および太原の王恭は、ともに彼を重んじた。晉の安帝の隆安年間、琅邪王の中軍参軍となり、司徒主簿に転じた。家は貧しかったが、生来山水を好み、烏程県令を求めたが、まもなく病気で帰郷した。桓玄が晉を補佐すると、桓謙が衞軍参軍に任命した。当時、琅邪の殷仲文が姑孰に戻る際、見送りのために朝廷の者が総出した。桓謙は王弘之に同行を求めたが、答えて言った。「見送りや別れには、必ず情誼が必要です。下官は殷氏とは風馬も接せず、付き従う縁がありません。」桓謙はその言葉を重んじた。母が兄の王鎭之に従って安成郡に行く際、王弘之は官職を辞して同行した。荊州刺史の桓偉が南蛮長史に請うた。義熙の初め、何無忌がまた右軍司馬に請うた。高祖が徐州治中従事史に任命し、員外散騎常侍に任じたが、いずれも就任しなかった。家は会稽郡上虞県にあった。従兄の王敬弘が吏部尚書となり、上奏して言った。「聖明なる君主が政権を執り、徳を新たにし、微賤な者にも目を向け、隠遁した高士を表彰されれば、黙する者も風を仰ぎ、遠方の者も首を傾げます。前員外散騎常侍の琅邪王弘之は、丘園に恬淡として、心を放って隠逸に生きています。前衞将軍参軍の武昌郭希林は、質素な行いが純粋で、先人の美風を受け継いでいます。ともに聖朝に身を置きながら、まだ表彰されておらず、旌旗と招聘を加え、丘園を飾るべきです。そうすれば、静かに退く美徳を明らかにし、動いて求める煩わしさを取り除くことができます。臣の愚見では、王弘之は太子庶子に、郭希林は著作郎に任じるのがよいと思います。」すぐに王弘之を庶子に徴召したが、就任しなかった。太祖が即位すると、王敬弘が左僕射となり、また上奏した。「王弘之の高潔な行いは若い時から表れ、苦節は晩年に明らかです。今、内外は平穏であり、太平の教化を修めるべき時です。空谷に声をかけて、謙虚で退く美徳を厚くすべきです。」元嘉四年、通直散騎常侍に徴召されたが、またも就任しなかった。王敬弘はかつて貂の裘を解いて与えると、王弘之はそれを着て薬草を採りに行った。

原文少孤貧,爲外祖徴士何准所撫育。從叔獻之及太原王恭,並貴重之。晉安帝隆安中,爲琅邪王中軍參軍,遷司徒主簿。家貧,而性好山水,求爲烏程令,尋以病歸。桓玄輔晉,桓謙以爲衞軍參軍。時琅邪殷仲文還姑孰,祖送傾朝,謙要弘之同行,答曰:「凡祖離送別,必在有情,下官與殷風馬不接,無縁扈從。」謙貴其言。母隨兄鎭之之安成郡,弘之解職同行,荊州刺史桓偉請爲南蠻長史。義熙初,何無忌又請爲右軍司馬。髙祖命爲徐州治中從事史,除員外散騎常侍,並不就。家在會稽上虞。從兄敬弘爲吏部尚書,奏曰:「聖明司契,載德惟新,垂鑑仄微,表揚隱介,默語仰風,荒遐傾首。前員外散騎常侍琅邪王弘之,恬漠丘園,放心居逸。前衞將軍參軍武昌郭希林,素履純潔,嗣徽前武。並撃壤聖朝,未蒙表飾,宜加旌聘,賁于丘園,以彰止遜之美,以祛動求之累。臣愚謂弘之可太子庶子,希林可著作郎。」即徴弘之爲庶子,不就。太祖即位,敬弘爲左僕射,又陳:「弘之髙行表於初筮,苦節彰於暮年,今内外晏然,當修太平之化,宜招空谷,以敦沖退之美。」元嘉四年,徴爲通直散騎常侍,又不就。敬弘嘗解貂裘與之,即着以采藥。

生来釣りを好み、上虞江に三石頭せきとうという場所があり、王弘之はよくそこで釣り糸を垂れた。通りかかる者は彼を知らず、ある者が尋ねた。「漁師さん、釣った魚を売りますか。」王弘之は言った。「そもそも釣れないし、釣れても売らない。」夕方に魚を車に載せて上虞の城郭内に入り、親戚や旧知の家の前を通ると、それぞれ一匹か二匹を門内に置いて去った。始寧の沃川には良い山水があり、王弘之はまた岩に依って家を築いた。謝霊運と顔延之はともに彼を敬重し、謝霊運は廬陵王劉義眞に手紙を書いて言った。「会稽の地は山水に富んでいるので、江左の隠遁者たちが多く住んでいます。しかし末世は栄誉を慕い、幽棲する者は少なく、あるいは才能が時の求めるところとなり、志に従うことができません。王弘之のように衣を払って帰耕し、三十年以上を経た者、孔淳之のように深山に隠遁し、最初から今まで続けている者、阮萬齢のように官事を辞して閑居し、先人の業を継いでいる者、浙江の外で山沢に隠棲している者は、このような者たちだけです。彼らは遠く羲農・堯舜の世と同じであり、また貪欲と競争を戒め励まします。殿下は質素を愛し古風を好み、常に布衣のようでいらっしゃいます。かつて聞いたことを思い、岩穴の生活を空想なさいます。もし一人の使者を遣わして、彼らを訪ねさせることがあれば、まさに千載の盛事と言えるでしょう。」

原文性好釣,上虞江有一處名三石頭,弘之常垂綸於此。經過者不識之,或問:「漁師得魚賣不?」弘之曰:「亦自不得,得亦不賣。」日夕載魚入上虞郭,經親故門,各以一兩頭置門内而去。始寧沃川有佳山水,弘之又依巖築室。謝靈運、顏延之並相欽重,靈運與廬陵王義眞牋曰:「會境既豐山水,是以江左嘉遁,並多居之。但季世慕榮,幽棲者寡,或復才爲時求,弗獲從志。至若王弘之拂衣歸耕,踰歴三紀;孔淳之隱約窮岫,自始迄今;阮萬齡辭事就閑,纂成先業;浙河之外,棲遲山澤,如斯而已。既遠同羲、唐,亦激貪厲競。殿下愛素好古,常若布衣,毎意昔聞,虚想巖穴,若遣一介,有以相存,眞可謂千載盛美也。」

王弘之は元嘉四年に死去した。六十三歳であった。顔延之は彼のために誄を作ろうとし、王弘之の子の王曇生に手紙を書いて言った。「あなたの家の世に超えた節操は、識者から重んじられており、筆を染めて記述すべきです。ましてや私は末風に慕いを託し、ひそかに徳を記すことを務めとしていますが、ただ筆が短くてその美を書き尽くせないことを恨むだけです。」結局誄は完成しなかった。

原文弘之四年卒,時年六十三。顏延之欲爲作誄,書與弘之子曇生曰:「君家髙世之節,有識歸重,豫染豪翰,所應載述。況僕託慕末風,竊以敍德爲事,但恨短筆不足書美。」誄竟不就。

曇生は文義を好み、謙虚で温和であると評された。顕職を歴任し、吏部尚書、太常卿となった。大明の末年、呉興太守となった。太宗の初年、四方で同じく逆乱が起こると、戦いに敗れて会稽に逃れ、帰順して降伏し、許されて、中散大夫の任で終わった。

原文曇生好文義,以謙和見稱。歴顯位,吏部尚書,太常卿。大明末,爲呉興太守。太宗初,四方同逆,戰敗奔會稽,歸降被宥,終於中散大夫。

阮萬齢は、陳留郡尉氏県の人である。祖父の思曠は、左光禄大夫であった。父の寧は、黄門侍郎であった。

原文阮萬齡,陳留尉氏人也。祖思曠,左光祿大夫。父寧,黃門侍郎。

萬齢は若くして名を知られ、通直郎から孟昶の建威長史となった。当時、袁豹と江夷が相次いで昶の司馬となったので、当時の人々は昶の府に三つの素望があると言った。萬齢の家は会稽郡剡県にあり、かなり素朴な情趣があった。永初の末年、侍中じちゅうから職を解かれて東に帰り、秘書監に徴され、給事中きゅうじちゅうを加えられたが、就任しなかった。まもなく左民尚書に任じられ、再び起用されて命に応じ、太常に昇進し、湘州刺史として出向したが、州での政績はなかった。帰還して東陽太守となったが、またも免職された。再び散騎常侍・金紫光禄大夫となった。元嘉二十五年に死去した。時に七十二歳であった。

原文萬齡少知名,自通直郎爲孟昶建威長史。時袁豹、江夷相係爲昶司馬,時人謂昶府有三素望。萬齡家在會稽剡縣,頗有素情,永初末,自侍中解職東歸,徴爲祕書監,加給事中,不就。尋除左民尚書,復起應命,遷太常,出爲湘州刺史,在州無政績。還爲東陽太守,又被免。復爲散騎常侍、金紫光祿大夫。元嘉二十五年卒,時年七十二。

孔淳之は字を彦深といい、魯郡魯県の人である。祖父の惔は、尚書祠部郎であった。父の粲は、秘書監に徴されたが、就任しなかった。

原文孔淳之字彦深,魯郡魯人也。祖惔,尚書祠部郎。父粲,祕書監徴,不就。

淳之は若い頃から高尚な志を持ち、古典籍を愛好し、太原の王恭に称賛された。会稽郡剡県に住み、山水を好む性質で、遊ぶたびに必ずその幽深で険しいところを極め、あるいは十日間も帰るのを忘れたことがあった。かつて山に遊んだとき、沙門の釈法崇に出会い、そのまま留まって共に住み、ついに三年間滞在した。法崇は嘆いて言った。「俗世間を離れた世界を思い慕うこと三十年、今ここで初めて出会い、老いが近づいているのを覚えない。」そして淳之が帰るとき、姓を告げなかった。著作佐郎、太尉参軍に任じられたが、いずれも就任しなかった。

原文淳之少有髙尚,愛好墳籍,爲太原王恭所稱。居會稽剡縣,性好山水,毎有所游,必窮其幽峻,或旬日忘歸。嘗游山,遇沙門釋法崇,因留共止,遂停三載。法崇嘆曰:「緬想人外,三十年矣,今乃傾蓋于茲,不覺老之將至也。」及淳之還反,不告以姓。除著作佐郎,太尉參軍,並不就。

喪に服している間は非常に孝行で、墓のそばに小屋を建てて住んだ。喪が明けると、徴士の戴顒、王弘之、王敬弘らと共に俗世間を離れた交遊をした。敬弘は娘を淳之の子の尚に嫁がせた。会稽太守の謝方明は苦労して郡に招き入れようとしたが、ついに行こうとしなかった。茅葺きの粗末な家で、庭には草が生い茂り道もないが、ただ寝台の上に数巻の書物があるだけだった。元嘉の初年、再び散騎侍郎に徴されたが、上虞県の境界に逃れ、家族もその行方を知らなかった。弟の黙之が広州刺史となり、都を出るときに別れを告げた。司徒の王弘が淳之を冶城に集めようとしたが、その日に車を東に向けて帰り、ついに振り返らなかった。元嘉七年に死去した。時に五十九歳であった。黙之は儒学に通じ、穀梁春秋に注釈を施した。

原文居喪至孝,廬于墓側。服闋,與徴士戴顒、王弘之及王敬弘等共爲人外之游。敬弘以女適淳之子尚。會稽太守謝方明苦要入郡,終不肯往。茅室蓬戸,庭草蕪逕,唯牀上有數巻書。元嘉初,復徴爲散騎侍郎,乃逃于上虞縣界,家人莫知所之。弟默之爲廣州刺史,出都與別。司徒王弘要淳之集冶城,即日命駕東歸,遂不顧也。元嘉七年,卒,時年五十九。默之儒學,注穀梁春秋。

黙之の子の熙先については、范曄伝に事績が記されている。

原文默之子熙先,事在范曄傳。

劉凝之は字を志安といい、幼名は長年、南郡枝江県の人である。父の期公は衡陽太守、兄の盛公は高尚で仕官しなかった。

原文劉凝之字志安,小名長年,南郡枝江人也。父期公,衡陽太守,兄盛公,髙尚不仕。

凝之は老萊子と厳子陵の生き方を慕い、家財を弟と兄の子に譲り、野外に家を建て、自分の力で得たものでなければ食べず、州里ではその德行を重んじた。州が三度礼を尽くして西曹主簿に辟召し、秀才に推挙したが、就任しなかった。妻は梁州刺史郭銓の娘で、嫁入り道具は豊かで華美であったが、凝之はそれをすべて親族に分け与えた。妻もまた栄華を慕わず、凝之と共に質素で苦しい生活を安んじた。夫婦で粗末な車に乗り、市場に出て売買し、生活費以外はすぐに人に施した。村人に誣告され、一年に三度も公の調を納めることになったが、求められるたびに与えた。ある人が凝之の履いている履を自分のものだと主張したことがあったが、凝之は笑って言った。「私が履いているものはもう壊れています。家で新しいものを探してあなたに備えさせましょう。」この人は後で田んぼで失った履を見つけ、返しに来たが、凝之は再び受け取ろうとしなかった。

原文凝之慕老萊、嚴子陵爲人,推家財與弟及兄子,立屋於野外,非其力不食,州里重其德行。州三禮辟西曹主簿,舉秀才,不就。妻梁州刺史郭銓女也,遣送豐麗,凝之悉散之親屬。妻亦能不慕榮華,與凝之共安儉苦。夫妻共乘薄笨車,出市買易,周用之外,輒以施人。爲邨里所誣,一年三輸公調,求輒與之。有人嘗認其所著屐,笑曰:「僕著之已敗,令家中覔新者備君也。」此人後田中得所失屐,送還之,不肯復取。

元嘉の初年、秘書郎に徴されたが、就任しなかった。臨川王義慶と衡陽王義季が江陵を鎮守したとき、ともに使者を遣わして安否を尋ねたが、凝之は返書で頓首して僕と称し、民としての礼を修めなかったので、ある人はこれを非難した。凝之は言った。「昔、老萊子は楚王に対して僕と称し、厳陵もまた光武帝に対して対等の礼をとった。巣父や許由が堯や舜に対して臣と称したとは聞かない。」当時、戴顒も衡陽王義季に送った手紙で、同様に僕と称していた。

原文元嘉初,徴爲祕書郎,不就。臨川王義慶、衡陽王義季鎭江陵,並遣使存問,凝之答書頓首稱僕,不修民禮,人或譏焉。凝之曰:「昔老萊向楚王稱僕,嚴陵亦抗禮光武,未聞巣、許稱臣堯、舜。」時戴顒與衡陽王義季書,亦稱僕。

荊州で凶作が続いた年、義季は凝之が餓死するのを心配し、十万銭を贈った。凝之は大いに喜び、銭を持って市場の門に行き、飢えた顔色をしている者を見ると、すべて分け与え、あっという間に使い切った。山水を好む性質で、ある日妻子を連れて江湖を渡り、衡山の南に隠居した。高い嶺に登り、人の跡を絶った場所に小屋を建てて住み、薬草を採って服用し、妻子も皆その志に従った。元嘉二十五年に死去した。時に五十九歳であった。

原文荊州年饑,義季慮凝之餧斃,餉錢十萬。凝之大喜,將錢至市門,觀有饑色者,悉分與之,俄頃立盡。性好山水,一旦攜妻子泛江湖,隱居衡山之陽。登髙嶺,絶人迹,爲小屋居之,采藥服食,妻子皆從其志。元嘉二十五年,卒,時年五十九。

龔祈は字を孟道といい、武陵郡漢寿県の人である。従祖父の玄之、父の黎民は、ともに徴辟に応じなかった。

原文龔祈字孟道,武陵漢壽人也。從祖玄之,父黎民,並不應徴辟。

祈は十四歳のとき、郷党が州の迎西曹に推挙したが、行かなかった。謝晦が州を治めたとき、主簿に任命し、彭城王義康が秀才に推挙し、奉朝請に任じ、臨川王義慶の平西参軍に任じたが、いずれも就任しなかった。風姿は端正で優雅、容姿や立ち居振る舞いは見るべきもので、中書郎の范述はこれを見て嘆じて言った。「これは荊楚の仙人である。」衡陽王義季が荊州を治めたとき、教令を発して祈と劉凝之、師覚授が徴召に応じないので、彼らの三人の子を辟召した。祈はまた太子舎人に徴されたが、起き上がらなかった。時に詩を賦すことがあったが、その言葉は世事に及ばなかった。元嘉十七年に死去した。時に四十二歳であった。

原文祈年十四,鄕黨舉爲州迎西曹,不行。謝晦臨州,命爲主簿,彭城王義康舉秀才,除奉朝請,臨川王義慶平西參軍,皆不就。風姿端雅,容止可觀,中書郎范述見而嘆曰:「此荊楚仙人也。」衡陽王義季臨荊州,發教以祈及劉凝之、師覺授不應徴召,辟其三子。祈又徴太子舍人,不起。時或賦詩,言不及世事。元嘉十七年,卒,時年四十二。

翟法賜は、尋陽郡柴桑県の人である。曾祖父の湯、湯の子の荘、荘の子の矯は、ともに高尚で仕官せず、徴辟を避けて逃れた。矯の子が法賜である。

原文翟法賜,尋陽柴桑人也。曾祖湯,湯子莊,莊子矯,並髙尚不仕,逃避徴辟。矯生法賜。

若い頃から家業を守り、廬山の頂上に家を建てた。両親を亡くした後は、もう家に戻らなかった。五穀を食べず、獣皮や草を編んで衣服とし、たとえ郷里の親族や中表の親戚であっても、会うことができなかった。州が主簿に辟召し、秀才に推挙し、右参軍、著作佐郎、員外散騎侍郎に任じたが、いずれも就任しなかった。後になって家族が石室を探し求めて来たので、再び遠くへ移り住み、徴聘を避けて、深く幽邃な地に遁跡した。尋陽太守の鄧文子が上表して言った。「詔書を奉じて郡民で新たに著作佐郎に任じられた南陽の翟法賜を、員外散騎侍郎に補するよう命じられました。法賜は廬山に隠れ跡を潜め、今や四代にわたり、幽深な岩窟に身を寄せ、人と会うことは稀です。もし王法で迫り、厳しい科条で束縛し、山を駆け回り草をかき分けて、捕獲を期するならば、転落して死に至ることを慮り、盛んな教化を傷つけることになります。」そこでやめた。後に岩石の間で死去したが、年月はわからない。

原文少守家業,立屋於廬山頂,喪親後,便不復還家。不食五穀,以獸皮結草爲衣,雖鄕親中表,莫得見也。州辟主簿,舉秀才,右參軍,著作佐郎,員外散騎侍郎,並不就。後家人至石室尋求,因復遠徙,違避徴聘,遁跡幽深。尋陽太守鄧文子表曰:「奉詔書徴郡民新除著作佐郎南陽翟法賜,補員外散騎侍郎。法賜隱跡廬山,于今四世,栖身幽巖,人罕見者。如當逼以王憲,束以嚴科,馳山獵草,以期禽獲,慮致顛殞,有傷盛化。」乃止。後卒於巖石之間,不知年月。

陶潜は字を淵明といい、あるいは淵明は字を元亮というとも言われる。尋陽郡柴桑県の人である。曾祖父の侃は、晋の大司馬であった。

原文陶潛字淵明,或云淵明字元亮,尋陽柴桑人也。曾祖侃,晉大司馬。

陶潜は若い頃から高尚な趣向を持ち、かつて『五柳先生伝』を著して自らに譬え、次のように言った。

原文潛少有髙趣,嘗著五柳先生傳以自況,曰:

このような自叙伝を書き、当時の人々はこれを実録であると評した。

原文其自序如此,時人謂之實録。

親が年老いて家が貧しかったため、州の祭酒に起用されたが、役人の職務に耐えられず、わずか数日で自ら辞任して帰った。州が主簿に召し出したが、就任しなかった。自ら耕作して生計を立てたが、そのために衰弱した病を患い、再び鎮軍参軍・建威参軍となった。親しい友人に「しばらく琴を奏でて歌い、隠居のための資金にしたいと思うが、どうだろうか」と言った。これを聞いた役人が、彼を彭沢県令に任命した。公田にはすべて役人にモチ米を植えさせようとしたが、妻と子が強くうるち米を植えるよう請うたので、結局二頃五十畝にモチ米を、五十畝にうるち米を植えさせた。郡から督郵が来たとき、県の役人は帯を締めて正装して会うべきだと告げた。陶潜は嘆息して「私は五斗の米のために腰をかがめて郷里の小人物に頭を下げることはできない」と言い、その日のうちに印綬を解いて職を辞した。『帰去来の賦』を作り、その詞は次のようであった。

原文親老家貧,起爲州祭酒,不堪吏職,少日,自解歸。州召主簿,不就。躬耕自資,遂抱羸疾,復爲鎭軍、建威參軍,謂親朋曰:「聊欲絃歌,以爲三逕之資,可乎?」執事者聞之,以爲彭澤令。公田悉令吏種秫稻,妻子固請種秔,乃使二頃五十畝種秫,五十畝種秔。郡遣督郵至,縣吏白應束帶見之,潛嘆曰:「我不能爲五斗米折腰向鄕里小人。」即日解印綬去職。賦歸去來,其詞曰:

義熙の末年に著作佐郎に徴召されたが、就任しなかった。江州刺史の王弘は彼と面識を持とうとしたが、招くことができなかった。陶潜がかつて廬山に行ったとき、王弘は陶潜の旧友である龐通之に酒器を持たせ、途中の栗里で彼を待ち伏せさせた。陶潜は足の病気があったので、一人の門人と二人の子供に輿を担がせて行き、到着すると喜んで共に酒を酌み交わした。しばらくして王弘が到着しても、何のわだかまりもなかった。以前、顔延之が劉柳の後軍功曹であったとき、尋陽にいて陶潜と親しく交わった。後に始安郡太守となったとき、通過する際に毎日陶潜を訪ね、訪れるたびに必ず酒を飲んで酔うまで楽しんだ。去る際に、二万銭を陶潜に残した。陶潜はそれをすべて酒屋に送り、少しずつ酒を受け取った。ある九月九日に酒がなかったとき、家のそばの菊の茂みの中に座って長く過ごしていたところ、たまたま王弘が酒を届けに来たので、すぐに飲み始め、酔ってから帰った。陶潜は音楽を理解しなかったが、無弦の素琴一張を所持しており、酒に酔って心地よいときにはいつもそれを撫でて思いを託した。身分の高低を問わず訪れる客には、酒があれば必ず供した。陶潜が先に酔った場合は、客に「私は酔って眠りたいので、あなたは帰ってもよい」と言った。その真率さはこのようなものであった。郡の将軍が陶潜を見舞ったとき、ちょうど酒が熟したところで、彼は頭に巻いていた葛の頭巾を取って酒を漉し、終わるとまたそれを頭に巻き直した。

原文義熙末,徴著作佐郎,不就。江州刺史王弘欲識之,不能致也。潛嘗往廬山,弘令潛故人龐通之齎酒具於半道栗里要之,潛有脚疾,使一門生二兒轝籃輿,既至,欣然便共飲酌,俄頃弘至,亦無忤也。先是,顏延之爲劉柳後軍功曹,在尋陽,與潛情款。後爲始安郡,經過,日日造潛,毎往必酣飲致醉。臨去,留二萬錢與潛,潛悉送酒家,稍就取酒。嘗九月九日無酒,出宅邊菊叢中坐久,値弘送酒至,即便就酌,醉而後歸。潛不解音聲,而畜素琴一張,無絃,毎有酒適,輒撫弄以寄其意。貴賤造之者,有酒輒設,潛若先醉,便語客:「我醉欲眠,卿可去。」其眞率如此。郡將候潛,値其酒熟,取頭上葛巾漉酒,畢,還復著之。

陶潜は若い頃に低い官職に就き、身の振り方に潔白さがなかったが、曾祖父が晋の時代の宰相であったことを自覚し、後代の王朝に再び屈することを恥じ、高祖(劉裕)の王業が次第に盛んになってからは、もはや仕官しようとしなかった。著した文章にはすべて年月を記したが、義熙以前のものには晋の年号を書き、永初以来のものにはただ干支(甲子)だけを記した。息子に手紙を書き、自分の志を述べるとともに訓戒として次のように言った。

原文潛弱年薄宦,不潔去就之迹,自以曾祖晉世宰輔,恥復屈身後代,自髙祖王業漸隆,不復肯仕。所著文章,皆題其年月,義熙以前,則書晉氏年號,自永初以來唯云甲子而已。與子書以言其志,并爲訓戒曰:

また、『命子詩』を作って息子に贈り、次のように言った。

原文又爲命子詩以貽之曰:

陶潜は元嘉四年に死去した。享年六十三歳。

原文潛元嘉四年卒,時年六十三。

宗彧之は字を叔粲といい、南陽郡涅陽県の人で、宗炳の従父弟である。幼くして孤児となり、兄に仕えて恭しく慎み深く、家は貧しかったが学問を好んだ。文才の点では宗炳に及ばなかったが、真実で淡泊な点では彼を上回った。州が主簿に辟召し、秀才に推挙したが、就任しなかった。公私を問わず贈り物があっても、一切受け取らなかった。高祖が禅譲を受けたとき、著作佐郎に徴召されたが、赴任しなかった。元嘉の初め、大使の陸子真が風俗を観察採録するために三度宗彧之を訪れたが、毎回病気を理由に会おうとしなかった。人に告げて「私は布衣の草莽の人間であり、幼い頃から田畑で育った。どうして高官の客人にわざわざ来てもらえるだろうか」と言った。陸子真が帰還すると、彼を推薦する上表をし、員外散騎侍郎に徴召されたが、またも就任しなかった。元嘉八年に死去した。享年五十歳。

原文宗彧之字叔粲,南陽湼陽人,炳從父弟也。蚤孤,事兄恭謹,家貧好學,雖文義不逮炳,而眞澹過之。州辟主簿,舉秀才,不就。公私餼遺,一無所受。髙祖受禪,徴著作佐郎,不至。元嘉初,大使陸子眞觀采風俗,三詣彧之,毎辭疾不見也。告人曰:「我布衣草萊之人,少長壟畝,何枉軒冕之客。」子眞還,表薦之,徴員外散騎侍郎,又不就。元嘉八年,卒,時年五十。

沈道虔は、呉興郡武康県の人である。幼い頃から仁愛に富み、老子と易経を好み、県の北の石山の下に住んだ。孫恩の乱の後の飢饉のとき、県令の庾肅之が彼を県南の廃頭里に迎え出て、小さな家を建ててやった。それは溪流に臨み、山水の景観を楽しむことができた。時折石山の精舎に戻り、孤児となった兄の子供たちと共に炊事をし、貧困にあっても節操を変えなかった。戴逵から琴を学び、王敬弘から深く敬われた。郡・州・府から合わせて十二回任命されたが、すべて就任しなかった。

原文沈道虔,呉興武康人也。少仁愛,好老、易,居縣北石山下。孫恩亂後飢荒,縣令庾肅之迎出縣南廢頭里,爲立小宅,臨溪,有山水之玩。時復還石山精廬,與諸孤兄子共釜庾之資,困不改節。受琴於戴逵,王敬弘深敬之。郡州府凡十二命,皆不就。

ある者が彼の菜園の野菜を盗んだとき、それを見つけたが、自ら逃げて隠れ、盗人が十分に取って去った後で出てきた。人が彼の家の後ろの筍を抜いたとき、人をやって止めさせ、「この筍が林になるのを惜しんでいたのだが、もっと良いものを差し上げよう」と言い、人をやって大きな筍を買って来させ、盗人に送った。盗人は恥じて受け取らなかったので、沈道虔はそれを門の中に置かせて帰った。常に落ち穂拾いで生計を立てていた。一緒に落ち穂を拾う者が穂を争ったとき、沈道虔が諫めても止まなかったので、自分の得たものをすべて彼らに与えた。争った者は恥じ入り、以後争うたびに「居士(沈道虔)に知らせるな」と言った。冬に着替えの衣服がなかったとき、戴顒がこれを聞いて彼を迎え、衣服を作ってやり、さらに一万銭を与えた。帰ると、自分の上衣と銭を分け、すべて衣服のない兄弟の子供たちに与えた。郷里の若者たちは続いて彼に師事して学んだ。沈道虔は常に食べるものがなく、弟子たちを養うことができなかった。武康県令の孔欣之が厚く資金を援助したので、学業を受けた者は皆成果を上げることができた。太祖(文帝)はこれを聞き、使者を遣わして慰問し、三万銭と二百斛こくの米を賜った。彼はこれをすべて孤児となった兄の子供たちの結婚の費用に充てた。員外散騎侍郎に徴召されたが、就任しなかった。代々仏教を信奉し、父祖の旧宅を寺に寄進した。四月八日には、毎年仏像を請じた。仏像を請じる日には、必ず一家そろって感きょうして慟哭した。沈道虔は年老いて菜食し、常に一日分の蓄えもなかったが、琴と書物を楽しみ、倦むことなく学び続けた。太祖は郡県の令に命じて、時宜に応じて物資を給付させた。元嘉二十六年に死去した。享年八十二歳。

原文有人竊其園萊者,還見之,乃自逃隱,待竊者取足去後乃出。人拔其屋後筍,令人止之,曰:「惜此筍欲令成林,更有佳者相與。」乃令人買大筍送與之,盜者慚不取,道虔使置其門内而還。常以捃拾自資,同捃者爭穟,道虔諫之不止,悉以其所得與之,爭者愧恧,後毎爭,輒云:「勿令居士知。」冬月無複衣,戴顒聞而迎之,爲作衣服,并與錢一萬。既還,分身上衣及錢,悉供諸兄弟子無衣者。鄕里年少,相率受學。道虔常無食,無以立學徒。武康令孔欣之厚相資給,受業者咸得有成。太祖聞之,遣使存問,賜錢三萬,米二百斛,悉以嫁娶孤兄子。徴員外散騎侍郎,不就。累世事佛,推父祖舊宅爲寺。至四月八日,毎請像。請像之日,輒舉家感慟焉。道虔年老,菜食,恒無經日之資,而琴書爲樂,孜孜不倦。太祖敕郡縣令隨時資給。元嘉二十六年,卒,時年八十二。

息子の慧鋒は父の業を継ぎ、従事に辟召されたが、就任しなかった。

原文子慧鋒,修父業,辟從事,皆不就。

郭希林は、武昌郡武昌県の人である。曾祖父の翻は、晋の時代に高尚を守り仕官しなかった。郭希林は若い頃から家業を守り、州主簿、秀才、衛軍参軍に徴召されたが、すべて就任しなかった。元嘉の初め、吏部尚書の王敬弘が王弘之を太子庶子に、郭希林を著作佐郎に推挙した。後にまた員外散騎侍郎に徴召されたが、就任しなかった。元嘉十年に死去した。享年四十七歳。

原文郭希林,武昌武昌人也。曾祖翻,晉世髙尚不仕。希林少守家業,徴州主簿,秀才,衞軍參軍,並不就。元嘉初,吏部尚書王敬弘舉王弘之爲太子庶子,希林爲著作佐郎。後又徴員外散騎侍郎,並不就。十年,卒,時年四十七。

息子の蒙もまた隠居して仕官しなかった。泰始年間、郢州刺史の蔡興宗が主簿に辟召したが、就任しなかった。

原文子蒙,亦隱居不仕。泰始中,郢州刺史蔡興宗辟爲主簿,不就。

雷次宗は字を仲倫といい、豫章郡南昌県の人である。若くして廬山に入り、沙門の釈慧遠に師事し、志を固めて学問を好み、特に三礼と毛詩に明るく、隠退して世俗の事務に関わらなかった。本州が従事に辟召し、員外散騎侍郎に徴召したが、すべて就任しなかった。子や甥たちに手紙を書き、自分の守るべきことを次のように述べた。

原文雷次宗字仲倫,豫章南昌人也。少入廬山,事沙門釋慧遠,篤志好學,尤明三禮、毛詩,隱退不交世務。本州辟從事,員外散騎侍郎徴,並不就。與子姪書以言所守,曰:

元嘉十五年、朝廷は雷次宗を召し出して都に至らせ、鶏籠山に学館を開き、門徒を集めて教授させ、学生を百余人置いた。会稽の朱膺之と潁川の庾蔚之がともに儒学をもって、諸生の監督総括を担当した。当時国子学はまだ設立されておらず、皇帝は学術に心を留め、丹陽尹の何尚之に玄学を立てさせ、太子率更令の何承天に史学を立てさせ、司徒参軍の謝元に文学を立てさせ、合わせて四学を並立させた。皇帝の車駕はたびたび次宗の学館に行幸し、援助と給与は非常に手厚かった。また給事中に任じられたが、就任しなかった。長い時を経て廬山に戻ると、公卿以下がこぞって餞別の宴を設けた。二十五年、詔が下された。「前新たに除された給事中雷次宗は、古を希い篤く尊び、経学の行いが明らかで修められており、自ら招聘の命を絶ち、志を守って隠遁生活を送っている。昇進して引き立て、退いて質素な生活を送る者を表彰すべきである。散騎侍郎とせよ。」その後また都に召し出され、鍾山の西巖の下に住居を築かせ、それを招隠館と称し、皇太子や諸王に喪服経を講義させた。次宗は宮門に入らなかったため、華林東門から入らせて延賢堂で学業に就かせた。二十五年、鍾山で死去した。享年六十三。太祖が江夏王劉義恭に手紙を送って次宗の死を伝えると、義恭は答えて言った。「雷次宗は病を救うことができず、まことに痛惜に堪えません。彼は幽邃な地に棲み、自ら聖朝に賓客として仕え、己に克ち礼を復し、終始一貫していました。伏して考えますに、天の慈愛が広く及ぶならば、また憐れみを垂れられるでしょう。」

原文元嘉十五年,徴次宗至京師,開館於鷄籠山,聚徒教授,置生百餘人。會稽朱膺之、潁川庾蔚之並以儒學,監總諸生。時國子學未立,上留心蓺術,使丹陽尹何尚之立玄學,太子率更令何承天立史學,司徒參軍謝元立文學,凡四學並建。車駕數幸次宗學舘,資給甚厚。又除給事中,不就。久之,還廬山,公卿以下,並設祖道。二十五年,詔曰:「前新除給事中雷次宗,篤尚希古,經行明修,自絶招命,守志隱約。宜加升引,以旌退素。可散騎侍郎。」後又徴詣京邑,爲築室於鍾山西巖下,謂之招隱舘,使爲皇太子諸王講喪服經。次宗不入公門,乃使自華林東門入延賢堂就業。二十五年,卒於鍾山,時年六十三。太祖與江夏王義恭書道次宗亡,義恭答曰:「雷次宗不救所疾,甚可痛念。其幽棲窮藪,自賓聖朝,克己復禮,始終若一。伏惟天慈弘被,亦垂矜愍。」

子の雷肅之は、その学業をかなり伝え、官は豫章郡丞に至った。

原文子肅之,頗傳其業,官至豫章郡丞。

朱百年は、会稽郡山陰県の人である。祖父の朱愷之は、晋の右衛将軍であった。父の朱濤は、揚州主簿であった。

原文朱百年,會稽山陰人也。祖愷之,晉右衞將軍。父濤,揚州主簿。

百年は若い頃から高い志操を持ち、両親が亡くなり喪が明けると、妻の孔氏を連れて会稽の南山に入り、薪を伐り笹の葉を採ることを生業とした。いつも薪や笹の葉を道端に置くと、すぐに行き交う人に取られてしまい、翌朝もまた同じようにしたので、人々は少し怪しんだが、長い間経ってからそれが朱隠士の売り物だと知り、必要な者はそれぞれのできる範囲で多少の金銭を残し、薪や笹の葉を持って去った。寒雪に遭うと、薪や笹の葉が売れず、自らを養う術がなく、すぐに自ら船を漕いで妻を孔氏の実家に送り返し、天気が晴れるとまた迎えに行った。時には山陰に出て妻のために絹織物を三五尺買い、酒を好んで飲み、酔って時にはそれを失うこともあった。道理を述べるのがかなり上手で、時に詩を詠み、しばしば優れた勝れた言葉があった。郡が功曹に任命し、州が従事に辟召し、秀才に推挙したが、いずれも就任しなかった。人を避けて隠れ住み、ただ同県の孔覬と親しくした。覬もまた酒を嗜み、意気投合するとすぐに酣に至り、向かい合って飲み尽くして歓を尽くした。百年の家はもともと貧しく、母が冬の月に亡くなった時、衣服には綿が全く入っておらず、この時以来綿や絹の衣服を着なくなった。かつて寒い時に覬の家に泊まりに行き、衣服はすべて袷の布物で、酒を飲んで酔って眠ると、覬が寝具をかけてやったが、百年は気づかなかった。目が覚めると、寝具を体から引き離し、覬に言った。「綿は確かに格別に温かい。」そして涙を流して悲しみ慟哭したので、覬もまたそのために感傷にふけった。

原文百年少有髙情,親亡服闋,携妻孔氏入會稽南山,以伐樵採箬爲業。毎以樵箬置道頭,輒爲行人所取,明旦亦復如此,人稍怪之,積久方知是朱隱士所賣,須者隨其所堪多少,留錢取樵箬而去。或遇寒雪,樵箬不售,無以自資,輒自搒船送妻還孔氏,天晴復迎之。有時出山陰爲妻買繒綵三五尺,好飲酒,遇醉或失之。頗能言理,時爲詩詠,往往有髙勝之言。郡命功曹,州辟從事,舉秀才,並不就。隱迹避人,唯與同縣孔覬友善。覬亦嗜酒,相得輒酣,對飲盡歡。百年家素貧,母以冬月亡,衣並無絮,自此不衣綿帛。嘗寒時就覬宿,衣悉裌布,飲酒醉眠,覬以臥具覆之,百年不覺也。既覺,引臥具去體,謂覬曰:「綿定奇温。」因流涕悲慟,覬亦爲之傷感。

太子舎人に任じられたが、就任しなかった。顔竣が東揚州刺史となった時、百年に穀物五百斛を贈るよう教令を出したが、受け取らなかった。当時山陰にはまた寒門の出身で姚吟という者もおり、高い趣向を持ち、士大夫階級に重んじられた。義陽王劉昶が州の長官となった時、文学従事に辟召したが、起き上がらなかった。竣が吟に米二百斛を贈ったが、吟もまた辞退した。

原文除太子舍人,不就。顏竣爲東揚州,發教餉百年穀五百斛,不受。時山陰又有寒人姚吟,亦有髙趣,爲衣冠所重。義陽王昶臨州,辟爲文學從事,不起。竣餉吟米二百斛,吟亦辭之。

百年は孝建元年に山中で死去した。享年八十七。蔡興宗が会稽太守となった時、百年の妻に米百斛を贈ったが、百年の妻は婢を郡の門に遣わして固く辞退の意を奉ったので、当時の人々はこれを称賛し、梁鴻の妻に比した。

原文百年孝建元年卒山中,時年八十七。蔡興宗爲會稽太守,餉百年妻米百斛,百年妻遣婢詣郡門奉辭固讓,時人美之,以比梁鴻妻。

王素は字を休業といい、琅邪郡臨沂県の人である。高祖父の王翹之は、晋の光禄大夫であった。

原文王素字休業,琅邪臨沂人也。髙祖翹之,晉光祿大夫。

素は若い頃から志操と行いを持ち、家は貧しく母は老いていた。初め廬陵国の侍郎となったが、母の喪で職を去った。喪が明けると、廬陵王劉紹が江州刺史となったが、親戚や旧友が素に旧居を修復するよう勧めても、素は答えず、身軽に東陽に行き、隠居して仕官せず、田園の資産をかなり経営して、自立することができた。文義を愛好し、世俗の煩わしさを心にかけなかった。世祖が即位すると、隠退した者を探し揚げようとし、詔を下して言った。「世を済い務めを成すには、すべて隠微なところまで通じさせ、風俗を軌道に乗せ謙譲を興すには、必ず清節を表さねばならない。朕は早朝から善を求め、薄い風俗を篤くすることを考えている。琅邪の王素、会稽の朱百年は、ともに廉潔で質素、貞固で遠大であり、物と競わず、自ら畝の中に足ることを知り、志を移さない。褒め引き立てて、進み難い者を輝かせるべきである。ともに太子舎人とせよ。」大明年間、太宰江夏王劉義恭が開府して辟召を行うと、素を倉曹属に辟召した。太宗泰始六年、また太子中舎人に召し出されたが、いずれも就任しなかった。素はたびたび徴辟され、名声は非常に高かった。山中に蚿虫という虫がいて、声が清く長く、聞く者を厭わせないが、その形は非常に醜いので、素は蚿賦を作って自らに譬えた。七年、死去した。享年五十四。

原文素少有志行,家貧母老。初爲廬陵國侍郎,母憂去職。服闋,廬陵王紹爲江州,親舊勸素修完舊居,素不答,乃輕身往東陽,隱居不仕,頗營田園之資,得以自立。愛好文義,不以人俗累懷。世祖即位,欲搜揚隱退,下詔曰:「濟世成務,咸達隱微,軌俗興讓,必表淸節。朕昧旦求善,思惇薄風,琅邪王素、會稽朱百年,並廉約貞遠,與物無競,自足臯畝,志在不移。宜加褒引,以光難進。並可太子舍人。」大明中,太宰江夏王義恭開府辟召,辟素爲倉曹屬,太宗泰始六年,又召爲太子中舍人,並不就。素既屢被徴辟,聲譽甚髙。山中有蚿蟲,聲淸長,聽之使人不厭,而其形甚醜,素乃爲蚿賦以自況。七年,卒,時年五十四。

当時また宋平の劉睦之、汝南の州韶、呉郡の褚伯玉もまた、身を隠して志を求めた。睦之は交州に住み、武平太守に任じられたが拝命しなかった。韶は字を伯和といい、黄門侍郎州文の孫である。湖熟の方山に住居を築き、員外散騎侍郎、征北行参軍に徴されたが起き上がらなかった。伯玉は剡県の瀑布山に三十余年住み、揚州が議曹従事に辟召したが就任しなかった。

原文時又有宋平劉睦之、汝南州韶、呉郡褚伯玉,亦隱身求志。睦之居交州,除武平太守,不拜。韶字伯和,黃門侍郎文孫也。築室湖熟之方山,徴員外散騎侍郎,征北行參軍,不起。伯玉居剡縣瀑布山三十餘載,揚州辟議曹從事,不就。

関康之は字を伯愉といい、河東郡楊県の人である。代々京口に住み、南平昌郡に籍を寄せた。若くして学問に篤く、姿形は豊かで立派であった。下邳の趙繹は文義で称えられ、康之は彼と親しくした。特進の顔延之は彼を見てその人物を知った。晋陵の顧悦之が王弼の易義四十余条を難じたが、康之は王弼を申し立てて顧を難じ、遠く情理があった。また毛詩義を作り、経籍の疑わしく滞るところを多く論釈した。かつて沙門の支僧納について算を学び、その能を妙に極めた。竟陵王劉義宣が京口から遷って江陵に鎮した時、康之に同行を求めたが、拒絶して応命しなかった。元嘉年間、太祖は康之に学問の義理があると聞き、武昌国中軍将軍に任じ、租税を免除した。江夏王劉義恭と広陵王劉誕が南徐州の長官となった時、従事、西曹に辟召したが、いずれも就任しなかった。人事を棄て絶ち、志を守って閑居した。弟の双之は臧質の車騎参軍となり、質とともに下り、赭圻しゃきで病死し、水辺に埋葬された。康之はその春に重篤な病気にかかり、少し良くなると、車を引いて喪を迎えに行き、そのため虚労の病を得、二十余年臥せって衰弱した。時に暇な日があると、すぐに臥して文義を論じた。世祖が即位すると、大使の陸子真を遣わして天下を巡行させ、使いが戻ると、康之を「業績と行いは常に貞固、操行は励み清く固く、行いは里党に信頼され、名声は国邑に広がり、志を棲まわせて古を希い、操りは変えることができない。徴聘を加えて、風紀を清くすべきである」と推薦したが、省みられなかった。太宗泰始初年、平原の明僧紹とともに通直郎に徴されたが、また病気を理由に辞退した。順帝昇明元年、死去した。享年六十三。

原文關康之字伯愉,河東楊人。世居京口,寓屬南平昌。少而篤學,姿狀豐偉。下邳趙繹以文義見稱,康之與之友善。特進顏延之見而知之。晉陵顧悅之難王弼易義四十餘條,康之申王難顧,遠有情理。又爲毛詩義,經籍疑滯,多所論釋。嘗就沙門支僧納學算,妙盡其能。竟陵王義宣自京口遷鎭江陵,要康之同行,距不應命。元嘉中,太祖聞康之有學義,除武昌國中軍將軍,蠲除租稅。江夏王義恭、廣陵王誕臨南徐州,辟爲從事、西曹,並不就。棄絶人事,守志閑居。弟雙之爲臧質車騎參軍,與質倶下,至赭圻病卒,瘞於水濱。康之其春得疾困篤,小差,牽以迎喪,因得虚勞病,寢頓二十餘年。時有閒日,輒臥論文義。世祖即位,遣大使陸子眞巡行天下,使反,薦康之「業履恒貞,操勗淸固,行信閭黨,譽延邦邑,棲志希古,操不可渝,宜加徴聘,以潔風軌」。不見省。太宗泰始初,與平原明僧紹倶徴爲通直郎,又辭以疾。順帝昇明元年,卒,時年六十三。