宋書

列伝第五十一

列伝第五十一

易経に言う、「人の道を立てるは、仁と義とを曰う」と。仁義とは、君主と親に対する最高の道理を合わせたものであり、忠孝の実践の基となるものである。義は心から発するものであり、情は外からの感化によるものではないが、それに及ぼうとする意図は、聖人賢者の教えである。風俗が乱れ教化が薄れ、礼が失われ道が喪われると、忠は国を支えず、孝も家を誤る。そして世の人々は権利を引き合いに、勢力によって官職を招き、栄誉は行いによって立つものではなく、高翔する感慨に乏しく、命を捨てる本分を棄てる。霜露が変わらないうちに、大きな悲しみはすでに心から忘れ去られ、名節は変わらないのに、戦車がすぐにその先頭に立つ。これらはすべて、軌範と教訓の道理が広まらず、人材を引き上げる道が欠けているからである。もし情が天から発し、行いが自ら成るもので、身を捨て命を投げ出して主君を救い親を安んじるならば、道理に従って暗黙のうちに至るものであり、勧賞によるものではないが、世を治める人々は、少しも誘導激励しない。さらには事績が民間に隠れ、見聞に及ばないため、図録に明らかに記されることは、百に一つもない。今、埋もれ落ちた者を採り集め、欠けた文章を補うこととする。

原文易曰:「立人之道,曰仁與義。」夫仁義者,合君親之至理,實忠孝之所資,雖義發因心,情非外感,然企及之旨,聖哲詒言。至於風漓化薄,禮違道喪,忠不樹國,孝亦愆家,而一世之民,權利相引,仕以勢招,榮非行立,乏翺翔之感,棄舍生之分,霜露未改,大痛已忘於心,名節不變,戎車遽為其首,斯並軌訓之理未弘,汲引之塗多闕。若夫情發於天,行成乎己,捐軀舍命,濟主安親,雖乘理闇至,匪由勸賞,而宰世之人,曾微誘激。乃至事隱閭閻,無聞視聽,故可以昭被圖篆,百不一焉。今采綴湮落,以備闕文云爾。

龔穎は遂寧の人である。若い頃から学問を好み、益州刺史ししの毛璩に召されて勧学従事となった。毛璩が譙縦に殺害されると、かつての属官たちは皆逃亡したが、龔穎は号泣して駆けつけ、礼をもって葬送した。譙縦は後に宴を設けて龔穎を招いたが、やむを得ず出席した。音楽が奏でられると、龔穎は涙を流して立ち上がり言った。「北面して人に仕え、死ぬことができなかったのに、どうして楽を聞きながら杯を挙げ、逆乱の跡を踏むことができようか。」譙縦の大将の譙道福が彼を引き出し、斬ろうとした。道福の母は龔穎の叔母であり、裸足で飛び出して救ったため、免れることができた。譙縦が僭号を称した後、礼を整えて招聘したが、またも応じなかった。そこで龔穎を捕らえて獄に下し、刃物で脅したが、志操はますます堅固で、ついに改めることはなく、蜀が平定されるまで、節を屈しなかった。

原文龔穎,遂寧人也。少好學,益州刺史毛璩辟為勸學從事。璩為譙縱所殺,故佐吏並逃亡,穎號哭奔赴,殯送以禮。縱後設宴延穎,不獲已而至,樂奏,穎流涕起曰:「北面事人,亡不能死,何忍舉觴聞樂,蹈跡逆亂乎。」縱大將譙道福引出,將斬之。道福母即穎姑,跣出救之,故得免。縱既僭號,備禮徵,又不至,乃收穎付獄,脅以兵刃,執志彌堅,終無回改,至于蜀平,遂不屈節。

その後、刺史が着任するたびに召し出され、府の参軍、州の別駕従事史を歴任した。太祖の元嘉二十四年、刺史の陸徽が上表して言った。「臣は聞きます。明夷の運に遭えば、艱難に貞節な志操が顕れる。棟が撓む時節にあれば、独立した操りが明らかになると。昔の元興の時、皇綱は弛緩紊乱し、譙縦が隙に乗じて巴・庸で暴虐をふるい、前益州刺史の毛璩を害し、蜀の地を窃拠しました。涪・岷の士人庶民は恐れ迫られて職を受けました。毛璩の旧吏である龔穎はただ一人、身を貞白に保ち、志を高く掲げて撓まず、旧君を葬送し、哀悼と敬意を礼を尽くして表し、節操を全うすること九年、偽朝に染まりませんでした。譙縦は残忍凶暴ながらも、なお義気を重んじ、旌旗と命令をもって招き、兵威をもって脅しましたが、龔穎の忠誠は奮い立ち、言葉と表情はますます雄壮で、たとえ枷が身にあっても、危険を踏むほどにその節義は確信を増し、白刃が頸に臨んでも、死を見てもその守りを変えませんでした。王蠋が燕軍に抗弁したこと、周苛が楚王を激しく罵ったことに比べ、龔穎に勝るものはありません。誠に当今の忠壮なる人物であり、古を振るう遺烈です。しかしその名は王府に登録されず、爵位はなお郷里の下吏と同列です。これは実に辺境の民、遠方の士が嘆き悲しむところです。臣は過分に恩寵を蒙り、万里に風教を宣べ、志は砥ぎ尽くすことにあり、思いあれば必ず上聞に達せしめたいので、愚直な誠意をもって、知るところを挙げます。追って誤りや妄りを恐れ、伏して慄きを増します。」龔穎は結局朝廷の任命を受けず、家で亡くなった。

原文其後刺史至,輒加辟引,歷府參軍,州別駕從事史。太祖元嘉二十四年,刺史陸徽上表曰:「臣聞運纏明夷,則艱貞之節顯;時屬棟撓,則獨立之操彰。昔之元興,皇綱弛紊,譙縱乘釁,肆虐巴、庸,害殺前益州刺史毛璩,竊據蜀土,涪、岷士庶,怵迫受職。璩故吏龔穎,獨秉身貞白,抗志不撓,殯送舊君,哀敬盡禮,全操九載,不染偽朝。縱雖殘凶,猶重義概,遂延以旌命,劫以兵威,穎忠誠奮發,辭色方壯,雖桎梏在身,踐危愈信其節,白刃臨頸,見死不更其守。若王蠋之抗辭燕軍,同周苛之肆詈楚王,方之於穎,蔑以加焉。誠當今之忠壯,振古之遺烈。而名未登於王府,爵猶齒於鄉曹,斯實邊氓遠土,所為於邑。臣過叨恩私,宣風萬里,志存砥竭,有懷必聞,故率愚慤,舉其所知。追懼紕妄,伏增悚栗。」穎遂不被朝命,終於家。

劉瑜は歴陽の人である。七歳で父を亡くし、母に仕えて至孝であった。五十二歳の時、また母を亡くし、三年間塩や乳製品を口にせず、昼夜を問わず声を絶やさず号泣した。自ら勤労して力を尽くし、葬儀の事を営んだ。喪が明けた後、二十余年も布衣と粗食で過ごし、話すたびに涙を流した。常に墓の傍らに住み、一時も離れることはなかった。太祖の元嘉初年に亡くなった。

原文劉瑜,歷陽人也。七歲喪父,事母至孝。年五十二,又喪母,三年不進鹽酪,號泣晝夜不絕聲。勤身運力,以營葬事。服除後,二十餘年布衣蔬食,言輒流涕。常居墓側,未嘗暫違。太祖元嘉初卒。

賈恩は会稽郡諸暨県の人である。若い頃から志操と行いがあり、郷里で推重された。元嘉三年、母が亡くなり、喪に服すること礼を越えていた。未葬の時、隣家の火災に迫られ、賈恩と妻の桓氏は号泣して救いに向かい、近隣の人々も駆けつけて助け、棺は難を免れた。賈恩と桓氏はともに焼死した。役所が上奏してその里を孝義里と改め、三代にわたり租布を免除した。死後、天水郡顕親県左尉を追贈された。

原文賈恩,會稽諸暨人也。少有志行,為鄉曲所推重。元嘉三年,母亡,居喪過禮。未葬,為鄰火所逼,恩及妻桓氏號哭奔救,鄰近赴助,棺櫬得免。恩及桓俱見燒死。有司奏改其里為孝義里,蠲租布三世。追贈天水郡顯親縣左尉。

郭世道は会稽郡永興県の人である。生まれて間もなく母を失い、父が再婚したが、世道は父と継母に仕え、孝道を純粋に尽くした。十四歳の時、また父を亡くし、喪に服すること礼を越え、ほとんど喪に堪えられないほどであった。家は貧しく産業がなく、雇われて働き継母を養った。妻が男児を産んだ時、夫妻は共に相談して言った。「身を粉にして供養しても、力はまだ足りない。もしこの子を養えば、かかる費用は大きい。」そして涙を流してその子を埋めた。母が亡くなると、土を背負って墳墓を築き、親戚が皆葬儀の費用を助けたが、少しだけ受け取り、葬儀が終わると、雇われて働き、以前の借りを倍返しした。喪が明けた後も、哀しみ慕う気持ちは、終身喪に服する者のようであり、遠きを追慕する思いは、いつも心から離れず、だから衣服と冠を脱ぐことはなかった。仁厚の風は郷党に行き渡り、隣村の大小を問わず、その名を呼ぶ者はなかった。かつて人と共に山陰市で商品を売り、誤って千銭多く受け取ったが、その時は気づかず、別れてから初めて悟った。同行者にこの銭で本主に返還を求めてほしいと頼んだが、同行者は大笑いして答えなかった。世道は自分の銭でその数を補い送り返した。銭の主は驚嘆し、半額を世道に与えようとしたが、世道はそれを置いて去った。

原文郭世道,會稽永興人也。生而失母,父更娶,世道事父及後母,孝道淳備。年十四,又喪父,居喪過禮,殆不勝喪。家貧無產業,傭力以養繼母。婦生一男,夫妻共議曰:「勤身供養,力猶不足,若養此兒,則所費者大。」乃垂泣瘞之。母亡,負土成墳,親戚咸共賻助,微有所受,葬畢,傭賃倍還先直。服除後,哀戚思慕,終身如喪者,以為追遠之思,無時去心,故未嘗釋衣㡊。仁厚之風,行於鄉黨,隣村小大,莫有呼其名者。嘗與人共於山陰市貨物,誤得一千錢,當時不覺,分背方悟。請其伴求以此錢追還本主,伴大笑不答,世道以己錢充數送還之,錢主驚嘆,以半直與世道,世道委之而去。

元嘉四年、大使が天下を巡行した時、散騎常侍さんきじょうじの袁愉がその淳朴な行いを上表し、太祖はこれを嘉して、郡に命じて里門に表彰を掲示させ、その租税と調役を免除し、住む所の独楓里を孝行里と改めさせた。太守たいしゅの孟顗が孝廉に推挙したが、応じなかった。

原文元嘉四年,遣大使巡行天下,散騎常侍袁愉表其淳行,太祖嘉之,敕郡牓表閭門,蠲其稅調,改所居獨楓里為孝行焉。太守孟顗察孝廉,不就。

子の原平、字あざなは長泰、また至孝の行いを受け継ぎ、親を養うことは必ず自らの力によるものとした。性質は木工を好み、雇われて働き供養の資を得た。性格は謙虚で、いつも人に工匠として働く時は、単純労働者の賃金を取った。主人が食事を用意しても、原平は家が貧しく、父母が肴を用意できないと思い、塩味の飯だけを食べた。もし家に食べ物がなければ、空腹のまま一日を過ごし、道理として独りで満腹になることをせず、日暮れに仕事が終わり、賃金を受け取って家に帰り、里中で米を買い、それから炊事をした。父が重病で一年中臥せると、原平は衣も帯も解かず、塩味の野菜も口にせず、寒暑を跨いだ。また眠りにつくこともなかった。父が亡くなると、哭踊して悲嘆のあまり気絶し、数日後にようやく蘇った。終わりを奉ずる義は、情と礼のすべてであると考え、墓穴を掘る凶事の仕事は、他人に頼もうとしなかった。元来は器用であったが、墓を作る方法は分からなかったので、邑の中で墓を営む者を訪ね、人手を助けて力を運び、時を経て勤勉に努め、長くして熟練した。また自ら十人分の労働力を売り、諸費用に充てた。埋葬の事は倹約ながら礼に適い、学問の術はなかったが、心のまま自然であった。葬儀が終わると、買い主の所へ赴き、労役を怠ることなく、諸々の奴隷と仕事を分け合い、いつも楽な方を譲り重労働を選んだ。主人は使うに忍びず、いつも帰そうとしたが、原平は勤勉に服し、一時も代わることはなかった。余った自分の労働時間は、雇われて母を養い、余れば貯めて自らの身請けに充てた。本性器用で、墓の構造を学んだ後は、特にその仕事を得意とし、吉歳になると、求める者が門に溢れた。原平が赴くのは、必ず貧しい者から始め、賃金を安く取るだけでなく、労働日数で助けた。父の喪が終わると、自ら二間の小屋を建て、祠堂とした。節句や祭祀の時には、この数日間、哀しみに思いを馳せ、粥さえ断った。父の喪が明けた後、魚肉を食べることはなく、母の前では食べているように見せ、私室では妄りに口にせず、これ以来亡くなるまで、三十余年であった。高陽の許瑶之が永興に住んでおり、建安郡丞を罷めて家に帰る時、綿一斤を原平に贈ったが、原平は受け取らず、送り返してはまた戻ることを前後数十回繰り返し、瑶之が自ら赴いて言った。「今年は寒さが厳しく、建安の綿は良いので、これをご尊家族に差し上げるだけです。」原平はようやく拝礼して受け取った。母が亡くなると、憔悴はますます甚だしく、かろうじて喪を終えた。墓前に数十畝の田があったが、原平の所有ではなかった。農繁期になると、耕す者はいつも裸になることがあった。原平は人が自分の墳墓を軽んじるのを望まず、家財を売り質に入れ、高値でこの田を買った。農繁期の月には、帯を締めて涙を流し、自ら耕墾した。

原文子原平字長泰,又禀至行,養親必己力。性閑木功,傭賃以給供養。性謙虛,每為人作匠,取散夫價。主人設食,原平自以家貧,父母不辦有肴味,唯飡鹽飯而已。若家或無食,則虛中竟日,義不獨飽,要須日暮作畢,受直歸家,於里中買糴,然後舉爨。父抱篤疾彌年,原平衣不解帶,口不嘗鹽菜者,跨積寒暑。又未嘗睡臥。父亡,哭踊慟絕,數日方蘇。以為奉終之義,情禮所畢,營壙凶功,不欲假人。本雖智巧,而不解作墓,乃訪邑中有營墓者,助人運力,經時展勤,久乃閑練。又自賣十夫,以供眾費。窀穸之事,儉而當禮,性無術學,因心自然。葬畢,詣所買主,執役無懈,與諸奴分務,每讓逸取勞,主人不忍使,每遣之,原平服勤,未曾暫替。所餘私夫,傭賃養母,有餘聚以自贖。本性智巧,既學構冢,尤善其事,每至吉歲,求者盈門。原平所赴,必自貧始,既取賤價,又以夫日助之。父喪既終,自起兩間小屋,以為祠堂。每至節歲烝嘗,於此數日中,哀思,絕飲粥。父服除後,不復食魚肉,於母前,示有所噉,在私室,未曾妄嘗,自此迄終,三十餘載。高陽許瑤之居在永興,罷建安郡丞還家,以緜一斤遺原平,原平不受,送而復反者前後數十,瑤之乃自往曰:「今歲過寒,而建安緜好,以此奉尊上下耳。」原平乃拜而受之。及母終,毀瘠彌甚,僅乃免喪。墓前有數十畝田,不屬原平,每至農月,耕者恒裸袒,原平不欲使人慢其墳墓,乃販質家貲,貴買此田。三農之月,輒束帶垂泣,躬自耕墾。

毎回市場に出て物を売る時、人が値段を尋ねると、半値だけを言い、このように長い間続けたので、町の人々は皆それを知り、常に元の値段を上乗せして支払った。互いに譲り合い、買おうとする者は少しずつ値段を下げ、わざと安くしてから代金を受け取った。住居は低湿地にあり、家の周りに溝を巡らせて汚水を通した。家の上に少し竹を植えていたが、春の夜に筍を盗む者がいて、原平がたまたま起きてそれを見つけると、盗人は逃げ出して溝に落ちた。原平は自分が広く施しをすることができず、このような人を困窮させてしまったと考え、植えた竹のそばの溝の上に小さな橋を架け、足が通れるようにし、さらに筍を採って籬の外に置いた。近隣の人々は恥じ入り、二度と取る者はなかった。

原文每出市賣物,人問幾錢,裁言其半,如此積時,邑人皆共識悉,輒加本價與之,彼此相讓,欲買者稍稍減價,要使微賤,然後取直。居宅下濕,遶宅為溝,以通淤水。宅上種少竹,春月夜有盜其筍者,原平偶起見之,盜者奔走墜溝。原平自以不能廣施,至使此人顛沛,乃於所植竹處溝上立小橋,令足通行,又采筍置籬外。鄰曲慚愧,無復取者。

太祖が崩御すると、原平は慟哭して悲しみ、一日に麦の粥一杯だけを食べ、このように五日間過ごした。ある人が尋ねて言った。「誰もが王の民ではないか、どうしてあなただけがこのようにするのか。」原平は泣いて答えた。「私の家は先朝から特別な扱いを受け、褒賞を賜りましたが、恩に報いることができず、私心で感傷にふけっているのです。」

原文太祖崩,原平號哭致慟,日食麥䉽一枚,如此五日。人或問之曰:「誰非王民,何獨如此?」原平泣而答曰:「吾家見異先朝,蒙褒贊之賞,不能報恩,私心感慟耳。」

また瓜作りを生業とした。世祖の大明七年に大旱魃が起こり、瓜を運ぶ水路が船の通行不能となった。県官の劉僧秀は彼の貧窮と老齢を哀れみ、水路に水を引いてやろうとした。原平は言った。「天下が大旱魃で、百姓は皆困窮しているのに、どうして田を潤す水を減らして、瓜を運ぶ船を通すことができましょうか。」そこで別の道を歩いて銭唐へ行き売りに出た。行き来の度に、人が堤を越えられずにいると、すぐに櫂を速めて助け、自分で船を引く時は他人の力を借りなかった。もし自分の船が渡り終え、後続の者がまだなら、常に停まって待つのを常とした。かつて県南の郭鳳埭で人の船引きを手伝っていた時、喧嘩している者に遭遇し、役人に捕らえられた。聞きつけた者は逃げ散ったが、原平だけは留まった。役人は彼を捕らえて県に送り、県令は新任で事情を知らず、厳罰を加えようとした。原平は衣を脱いで罪に就き、一言も弁解しなかった。左右の大小の役人たちは皆額を地につけて救済を請い、ようやく赦免された。それまで官長に謁見したことはなかったが、この後からは民としての礼を尽くすようになった。

原文又以種瓜為業。世祖大明七年大旱,瓜瀆不復通船,縣官劉僧秀愍其窮老,下瀆水與之。原平曰:「普天大旱,百姓俱困,豈可減溉田之水,以通運瓜之船。」乃步從他道往錢唐貨賣。每行來,見人牽埭未過,輒迅檝助之,己自引船,不假旁力。若自船已渡,後人未及,常停住須待,以此為常。嘗於縣南郭鳳埭助人引船,遇有相鬭者,為吏所錄,聞者逃散,唯原平獨住。吏執以送縣,縣令新到,未相諳悉,將加嚴罰,原平解衣就罪,義無一言。左右小大咸稽顙請救,然後得免。由來不謁官長,自此以後,乃修民敬。

太守の王僧朗が孝廉に推挙したが、就任しなかった。太守の蔡興宗が郡に着任すると、深くその非凡さを認め、私的な米を原平と山陰の朱百年の妻に贈り、教令を下した。「年功に対する賜りは国書に明記され、貧者への給与の規定は法令に聞こえている。ましてや高柴のような窮した老人、萊婦のような老いた未亡人においてはなおさらである。永興の郭原平は代々孝徳を禀け、深く仁徳を蓄え、高潔な操行は古を凌ぎ、貞節を守り質素に処し、年老いても厳格である。山陰の朱百年は道を究めて世俗を超え、その妻の孔氏は老いて寡居し、貧窮して残りの日々を過ごしている。その風を敬い事に接し、感慨に満ちている。帳下の米をもって、それぞれ百斛こくを給与せよ。」原平は固く辞退を繰り返し、死んでも受け取らないと誓った。ある人が尋ねた。「府君はあなたの純朴な行いを称え、貧しく老いたことを哀れんで、このような給与を加えたのであって、どうして必ず辞退する必要があるのか。」原平は言った。「府君がもし私の義行によるものなら、わずかな善行もない者がこの賜りを濫りに受けることはできません。もし貧老によるものなら、老いた者は多く、貧窮した家は隣接しており、私一人だけではないのです。」結局受け取らなかった。百年の妻も辞退して受け取らなかった。

原文太守王僧朗察孝廉,不就。太守蔡興宗臨郡,深加貴異,以私米饋原平及山陰朱百年妻,教曰:「秩年之貺,著自國書,餼貧之典,有聞甲令。況高柴窮老,萊婦屯暮者哉。永興郭原平世禀孝德,洞業儲靈,深仁絕操,追風曠古,棲貞處約,華耈方嚴。山陰朱百年道終物表,妻孔耋齒孀居,窶迫殘日,欽風撫事,嗟慨滿懷。可以帳下米,各餉百斛。」原平固讓頻煩,誓死不受。人或問曰:「府君嘉君淳行,慜君貧老,故加此贍,豈宜必辭。」原平曰:「府君若以吾義行邪,則無一介之善,不可濫荷此賜。若以其貧老邪,耋齒甚多,屢空比室,非吾一人而巳。」終不肯納。百年妻亦辭不受。

会稽では望計と望孝を重んじ、名門の出身者は秘書郎・著作佐郎に劣らなかった。太宗の泰始七年、興宗は山陰の孔仲智の長子を望計に、原平の次男を望孝に推挙しようとした。仲智は会稽の高門、原平は一地方の至高の行いを持つ者で、互いに匹敵させようとした。折しも太宗が別に人材を任用する勅命を下したため、両方の選挙は中止された。泰豫元年、興宗が都に召還される際、その特異な行跡を上表し、推挙抜擢して顕職に就け、風俗を勧めるべきだと述べた。太学博士に推挙されたが、興宗が逝去したため実現しなかった。翌年、元徽元年、家で逝去した。原平は幼少の頃から人と接するにも、人に逆らう言葉はなく、共に住んだ者も数十年、喜びや怒りの色を見せたことはなかった。三人の息子と一人の弟は、いずれも家風に従う行いがあった。長男の伯林は孝廉に推挙され、次男の霊馥は儒林祭酒に推挙されたが、いずれも就任しなかった。

原文會稽貴重望計及望孝,盛族出身,不減祕、著。太宗泰始七年,興宗欲舉山陰孔仲智長子為望計,原平次息為望孝。仲智會土高門,原平一邦至行,欲以相敵。會太宗別敕用人,故二選並寢。泰豫元年,興宗徵還京師,表其殊行,宜舉拔顯選,以勸風俗。舉為太學博士;會興宗薨,事不行。明年,元徽元年,卒於家。原平少長交物,無忤辭於人,與其居處者數十年,未嘗見喜慍之色。三子一弟,並有門行。長子伯林,舉孝廉,次子靈馥,儒林祭酒,皆不就。

厳世期は、会稽郡山陰県の人である。施しを好み善を慕うのは天性であった。同里の張邁ら三人の妻がそれぞれ子を産んだが、その年は凶作で、生き延びられないと考え、捨てて育てないことにした。世期はこれを聞き、駆けつけて救い、食物を分け衣を解いてその困窮を助け、三人の子は皆成長することができた。同県の俞陽の妻の莊は九十歳、莊の娘の蘭は七十歳で、ともに老病であり、孤独で頼る者もなかった。世期は衣食を供給して二十余年、死後はともに葬儀を行った。同族の厳弘、郷人の潘伯ら十五人は、凶作の年にともに餓死し、骸を露わにしたまま放置されていた。世期は棺桶を買って埋葬し、幼い子供たちを養育した。山陰県令の何曼之が上表してその事跡を報告した。元嘉四年、役所が奏上して門に「義行厳氏の閭」と掲げさせ、その徭役ようえきを免除し、十年間租税を免除した。

原文嚴世期,會稽山陰人也。好施慕善,出自天然。同里張邁三人,妻各產子,時歲飢儉,慮不相存,欲棄而不舉,世期聞之,馳往拯救,分食解衣,以贍其乏,三子並得成長。同縣俞陽妻莊年九十,莊女蘭七十,並各老病,單孤無所依,世期衣飴之二十餘年,死並殯葬。宗親嚴弘、鄉人潘伯等十五人,荒年並餓死,露骸不收,世期買棺器殯埋,存育孩幼。山陰令何曼之表言之。元嘉四年,有司奏牓門曰「義行嚴氏之閭」,復其身徭役,蠲租稅十年。

呉逵は、呉興郡烏程県の人である。凶作と飢饉が続き、疫病が加わり、父母・兄弟・嫂および従兄弟などの小功の親族で、男女十三人が死亡した。逵は当時病気で重態であり、隣里が葦の筵で包んで村の傍らに埋めた。その後逵の病気は癒えたが、親族は皆亡くなり、逵夫婦だけが生き残った。家はがらんどうで、冬には布団もなく、昼は雇われ労働をし、夜は木を伐り塼を焼き、まことに倦むことなく働いた。逵が夜道で虎に遭遇すると、虎は道を下りて避けた。一年のうちに七つの墓を築き、十三の棺を葬った。隣里はその志と義行を称え、葬儀の日には皆出向いて手伝い、葬送の事も倹約ながら礼に適っていた。逵は事前に隣人の人夫代を借り受けていたが、葬儀が終わると、人々は皆それを施しとして与えようとした。逵は一切受け取らず、皆労働力で報いた。太守の張崇之は三度礼を尽くして招いた。太守の王韶之は功曹史に抜擢しようとしたが、逵は家柄が卑賤であるとして固辞し就任せず、孝廉に推挙された。

原文吳逵,吳興烏程人也。經荒飢饉,係以疾疫,父母兄弟嫂及羣從小功之親,男女死者十三人。逵時病困,鄰里以葦席裹之,埋於村側,既而逵疾得瘳,親屬皆盡,唯逵夫妻獲全。家徒壁立,冬無被絝,晝則庸賃,夜則伐木燒塼,此誠無有懈倦。逵夜行遇虎,虎輒下道避之。朞年中,成七墓,葬十三棺。鄰里嘉其志義,葬日悉出赴助,送終之事,亦儉而周禮。逵時逆取鄰人夫直,葬畢,眾悉以施之,逵一無所受,皆傭力報答焉。太守張崇之三加禮命,太守王韶之擢補功曹史,逵以門寒,固辭不就,舉為孝廉。

潘綜は、呉興郡烏程県の人である。孫恩の乱の時、賊党が村落を攻め落とした。綜は父の驃と共に逃れて賊を避けた。驃は年老いて歩みが遅く、賊が迫ってきた。驃は綜に言った。「私は行けない。お前が逃げれば助かる。どうか共に死なないでくれ。」驃は疲れ果てて地面に座り込んだ。綜は賊を迎え叩頭して言った。「父は年老いております。命をお恵みください。」賊が到着すると、驃も賊に請うて言った。「息子は若く、自分で逃げられます。今は老子のために逃げようとしません。老子は死を惜しみません。この子を生かしてください。」賊はそこで驃を斬ろうとした。綜は父を腹の下に抱きかかえた。賊は綜の頭や顔を斬りつけ、合わせて四ヶ所の傷を負わせ、綜はその場で気絶した。一人の賊が傍らから来て、言った。「あなたは大事を起こそうとしている。この子は死をもって父を救おうとしている。どうして殺せようか。孝子を殺すのは不吉だ。」賊はしばらくしてようやく止め、父子ともに免れることができた。

原文潘綜,吳興烏程人也。孫恩之亂,妖黨攻破村邑,綜與父驃共走避賊。驃年老行遲,賊轉逼,驃語綜:「我不能去,汝走可脫,幸勿俱死。」驃困乏坐地,綜迎賊叩頭曰:「父年老,乞賜生命。」賊至,驃亦請賊曰:「兒年少,自能走,今為老子不走去。老子不惜死,乞活此兒。」賊因斫驃,綜抱父於腹下,賊斫綜頭面,凡四創,綜當時悶絕。有一賊從傍來,相謂曰:「卿欲舉大事,此兒以死救父,云何可殺。殺孝子不祥。」賊良久乃止,父子並得免。

綜の郷人である秘書監の丘継祖と廷尉の沈赤黔は、綜の非凡な行いを認め、廉吏として左民令史に補任し、遂昌県長に任じた。任期満了で帰郷した。太守の王韶之が郡に着任し、教令を発した。「以前に符を受け、孝廉の選挙は必ずその人物を審査すべしと。四科(德行・言語・政事・文学)を全て備えることは難しく、文質ともに完璧とは言えなくとも、必ずや孝義で俗を超え、抜きん出て名が知られた者であれば、十分に明らかに応え、符旨に叶うものである。烏程の潘綜は死をもって孝道を守り、親を全うし難を救った。烏程の呉逵は義行が純粋で極みに達し、墓を列ねて並べた。ともに精誠が内に淳く、美しい名声が外に著しい。ともに孝廉に推挙し、州の台に列記してその行跡を陳述せよ。」出発に際し、餞別の宴を設け、四言詩を贈って言った。

原文綜鄉人祕書監丘繼祖、廷尉沈赤黔以綜異行,廉補左民令史,除遂昌長,歲滿還家。太守王韶之臨郡,發教曰:「前被符,孝廉之選,必審其人,雖四科難該,文質寡備,必能孝義邁俗,拔萃著聞者,便足以顯應明敭,允將符旨。烏程潘綜守死孝道,全親濟難。烏程吳逵義行純至,列墳成行。咸精誠內淳,休聲外著,可並察孝廉,并列上州臺,陳其行跡。」及將行,設祖道,贈以四言詩曰:

元嘉四年、役所が奏上してその里を純孝里と改称し、三世にわたり租布を免除した。

原文元嘉四年,有司奏改其里為純孝里,蠲租布三世。

張進之は永嘉郡安固県の人である。郡内の大族であった。若い頃から志操と行いがあり、郡の五官主簿、永寧・安固二県の領校尉を歴任した。家は代々裕福であったが、凶作の年に財産を分け与え、郷里の人々を救済・扶養したため、貧窮に陥り、多くを全うさせ救った。進之は太守王味之の役人であったが、味之が罪を得て逮捕されそうになった時、逃れて進之の家に身を寄せた。進之は長い間彼を供養し、誠意と力を尽くした。元の村は手近で危険だったため、池や川辺に移ったが、味之が水に落ちて沈み、進之も水に飛び込んで救おうとして共に沈んだが、危うく免れた。当時は略奪が横行し、村に侵入して暴れることが多かったが、進之の家の前まで来ると、略奪者たちは互いに戒め合い、侵犯しないようにした。彼の信義が人々を感化させたのはこのようなことであった。元嘉初年、詔によってその徭役が免除された。

原文張進之,永嘉安固人也。為郡大族。少有志行,歷郡五官主簿,永寧、安固二縣領校尉。家世富足,經荒年散其財,救贍鄉里,遂以貧罄,全濟者甚多。進之為太守王味之吏,味之有罪當見收,逃避投進之家,供奉經時,盡其誠力。以本村淺近,移入池溪,味之墮水沈沒,進之投水拯救,相與沈淪,危而得免。時劫掠充斥,每入村抄暴,至進之門,輒相約勒,不得侵犯,其信義所感如此。元嘉初,詔在所蠲其繇役。

孫恩の乱の時、永嘉太守司馬逸之が殺害され、妻子も共に死んだ。戦乱の最中、誰も遺体を収容しようとはしなかった。郡の役人である俞僉は私財を投じて棺を買い、逸之ら六人の遺体を収容し、都に送り返して葬った後、郷里に帰った。元嘉年間に、老病で死去した。

原文孫恩之亂,永嘉太守司馬逸之被害,妻子並死,兵寇之際,莫敢收藏。郡吏俞僉以家財買棺斂逸之等六喪,送致還都,葬畢乃歸鄉里。元嘉中,老病卒。

王彭は盱眙郡直瀆県の人である。幼くして母を亡くした。元嘉初年、父もまた亡くなり、家は貧しく力も弱く、葬儀を営むことができなかった。兄弟二人は昼は雇われて働き、夜は声を上げて悲しんだ。郷里の人々は皆これを哀れみ、それぞれ人夫を出して煉瓦作りを手伝った。煉瓦には水が必要だったが天候は干ばつで、井戸を数十丈掘っても水は湧かず、墓所は淮水から五里離れており、担いで遠くから水を汲んでくるのは困難で足りなかった。彭は天に訴えて泣き叫び、このように何日も続けたある日、一面に濃霧が立ち込め、霧が晴れると、煉瓦を焼く窯の前に突然泉水が湧き出た。手伝った隣人たちは皆、神異なことに感嘆し、県や近隣遠方からも見物に来た。葬儀が終わると、水は自然に枯れた。元嘉九年、太守劉伯龍が事実に基づいて上表して報告し、その里を通霊里と改称し、三世にわたって租税と布を免除した。

原文王彭,盱眙直瀆人也。少喪母。元嘉初,父又喪亡,家貧力弱,無以營葬,兄弟二人,晝則傭力,夜則號感。鄉里並哀之,乃各出夫力助作塼。塼須水而天旱,穿井數十丈,泉不出,墓處去淮五里,荷檐遠汲,困而不周。彭號天自訴,如此積日,一旦大霧,霧歇,塼竈前忽生泉水,鄉隣助之者,並嗟歎神異,縣邑近遠,悉往觀之。葬事既竟,水便自竭。元嘉九年,太守劉伯龍依事表言,改其里為通靈里,蠲租布三世。

蔣恭は義興郡臨津県の人である。元嘉年間、晉陵の蔣崇平が強盗を働いて捕らえられ、恭の妻の弟である吳晞き張と共犯だったと供述した。晞張は先に出て行っておらず、彼の村が水害に遭い、妻子五人で水を避けて蔣恭の家に移り住んでいた。晞張を捜索しても見つからず、蔣恭と兄の蔣協が捕らえられ獄に下されて罪を問われた。恭と協は共に、晞張の家族を自分の家に住まわせたことは認めたが、強盗の事情は知らないと述べた。蔣恭は、晞張の妻子は妻の親族であり、親族に罪がある今、自分が身代わりになることを甘んじて受け、兄の協を釈放してほしいと申し立てた。蔣協は、自分が戸主であり、法令上責任を負うべき者であり、罪がある日は自分に関わるだけだとし、弟の恭を釈放してほしいと申し立てた。兄弟二人は争って罪を受けることを求め、郡県では判決を下せず、事実に基づいて上申して裁決を仰いだ。州の議決は次の通りであった。「礼譲を行う者は義を第一とし、自らを厚くする者は利を第一とする。末の世は俗が薄く、私利私欲に走らない者はない。聖人の教えを胸に抱く者でさえ、まだ及ばないことがある。ましてや在野の者で、教訓に通じていない者が、互いに天倫の憂いを発し、測り知れない罪を甘んじて受けるなど、このような情義は実に並外れている。卑賤の恭と協が、このような行いができたことは、古来稀なことであり、盛んな世の美事である。『二子乗舟』の故事にも、これを超えるものはない。どうして法令の条文に拘泥し、罪を加えて殺戮すべきだろうか。かつて晞張は荷物をまとめて遠方へ行き、他の地域で強盗を働き、外部から禍を招き、盗品は家に持ち帰らず、寄寓した村の者たちが知らなかったとしても、罪を加えるべきではない。」県に命じて釈放し、民の籍に戻させた。そして蔣恭を義成県令に、蔣協を義招県令に任じた。

原文蔣恭,義興臨津人也。元嘉中,晉陵蔣崇平為劫見禽,云與恭妻弟吳晞張為侶。晞張先行不在,本村遇水,妻息五口避水移寄恭家,討錄晞張不獲,收恭及兄協付獄治罪。恭、協並款舍住晞張家口,而不知劫情。恭列晞張妻息是婦之親,親今有罪,恭身甘分,求遣兄協。協列協是戶主,延制所由,有罪之日,關協而已,求遣弟恭。兄弟二人,爭求受罪,郡縣不能判,依事上詳。州議之曰:「禮讓者以義為先,自厚者以利為上,末世俗薄,靡不自私。伏膺聖教,猶或不逮,況在野夫,未達誥訓,而能互發天倫之憂,甘受莫測之罪,若斯情義,實為殊特。蔑爾恭、協,而能行之,茲乃終古之所希,盛世之嘉事。二子乘舟,無以過此。豈宜拘執憲文,加以罪戮。且晞張封筒遠行,他界為劫,造釁自外,贓不還家,所寓村伍,容有不知,不合加罪。」勒縣遣之,還復民伍。乃除恭義成令,協義招令。

徐耕は晉陵郡延陵県の人である。令史から平原県令に任じられた。元嘉二十一年、大旱魃で民は飢えた。耕は県を訪れて陳情した。「今年は大旱魃で、穀物は実りません。民衆は飢え、草を摘んで命をつなぐばかりです。聖上の哀れみにより、すでに救済の手は差し伸べられています。しかし、飢饉と窮乏が長く続き、困窮している者は多く、米穀の価格は高騰し、買い求めることもできません。今まさに春夏を迎え、月日は長く、わずかな救済がなければ、永遠に救済の道理はありません。私は凡庸な者ですが、身の外のことを憂えずにはいられません。『鹿鳴』の求めのように、野草と同様に思い、同類への感応により、傷心せずにはいられません。民は少しの米を買い求め、朝夕の糧としています。志は自ら力を尽くすことにあり、分け与えて食べるのが義です。今、千斛を官の救済貸付に寄付します。この地域は連年不作で、今年は特にひどく、晉陵の地は特に被害が甚大です。この郡は疲弊していますが、まだ富裕な家はあります。池や堤のある家は至る所にあり、皆収穫を保ち、損失はごくわずかです。蓄積された穀物は、いずれも巨万にのぼります。旱魃による被害は、実に貧民に集中しています。豊かで裕福な家は、それぞれ財宝を持っています。このような者たちは皆、官を助けるべきであり、乏しい月を乗り越えさせれば、損失はごく軽く、救済されるものは甚だ重大です。今、私は敢えて自ら奮起し、勧め導く端緒となろうと思います。実に、水をすくい塵を揚げて、山海を高め広げることを願います。」県はこれを上奏した。当時の議論では、耕を漢の卜式に比べ、詔書で褒め称え、県令の地位をもって報いた。

原文徐耕,晉陵延陵人也。自令史除平原令。元嘉二十一年,大旱民飢,耕詣縣陳辭曰:「今年亢旱,禾稼不登。氓黎飢餒,採掇存命,聖上哀矜,已垂存拯。但饉罄來久,困殆者眾,米穀轉貴,糴索無所。方涉春夏,日月悠長,不有微救,永無濟理。不惟凡瑣,敢憂身外,鹿鳴之求,思同野草,氣類之感,能不傷心。民糴得少米,資供朝夕,志欲自竭,義存分飡,今以千斛,助官賑貸。此境連年不熟,今歲尤甚,晉陵境特為偏枯。此郡雖弊,猶有富室,承陂之家,處處而是,並皆保熟,所失蓋微。陳積之穀,皆有巨萬,旱之所弊,實鍾貧民,溫富之家,各有財寶。謂此等並宜助官,得過儉月,所損至輕,所濟甚重。今敢自勵,為勸造之端。實願掘水揚塵,崇益山海。」縣為言上。當時議者以耕比漢卜式,詔書褒美,酬以縣令。

大明八年、東部の地域が飢饉と旱魃に見舞われた。東海の厳成と東莞の王道蓋が、それぞれ穀物五百斛を官に寄付して救済に協力した。

原文大明八年,東土飢旱,東海嚴成、東莞王道蓋各以穀五百斛助官賑卹。

孫法宗は呉興郡の人である。父は乱に遭って殺害され、遺骸は収容されなかった。母と兄も共に餓死し、法宗は幼くして流浪し、十六歳になってようやく帰還した。独り身で苦労し、霜の降りる中を歩き草むらで寝て、棺や柩を調達し、墓を築いて、母と兄を葬り送った。質素ではあったが礼に適っていた。父の死が不明であったため、管轄区域内で白骨を探し求め、血を刺してそれに注いだ。このようにして十数年経っても見つからず、喪服を着て、一生結婚せず、贈り物も一切受け取らなかった。世祖(孝武帝)の初年、揚州から文学従事に招聘されたが、就任しなかった。

原文孫法宗,吳興人也。父遇亂被害,尸骸不收,母兄並餓死,法宗年小流迸,至年十六,方得還。單身勤苦,霜行草宿,營辦棺椁,造立冢墓,葬送母兄,儉而有禮。以父喪不測,於部境之內,尋求枯骨,刺血以灌之,如此者十餘年不獲,乃縗絰,終身不娶,饋遺無所受。世祖初,揚州辟為文學從事,不就。

范叔孫は呉郡銭唐県の人である。若い頃から仁愛に厚く、貧窮した者を助け急を救った。同里の范法先の父母兄弟七人が同時に疫病で死に、法先だけが残されたが、病も重篤で、遺体は一ヶ月経っても収容されなかった。叔孫は棺や道具をすべて整え、自ら埋葬した。また、同里の施淵夫が病気になり、父母が死んでも埋葬されず、同里の范苗父子が共に亡くなり、同里の危敬宗の家族六人全員が病気にかかり、二人が亡くなったが、親族や隣人は恐れて遠ざかり、誰も世話をしようとしなかった。叔孫はこれらすべてを埋葬し、自ら病人を看護し、皆を全うさせた。郷里の人々はその義行を尊び、彼の名を呼ぶ者はなかった。世祖孝建初年、竟陵王国中軍将軍に任じられたが、就任しなかった。

原文范叔孫,吳郡錢唐人也。少而仁厚,周窮濟急。同里范法先父母兄弟七人,同時疫死,唯餘法先,病又危篤,喪尸經月不收。叔孫悉備棺器,親為殯埋。又同里施淵夫疾病,父母死不殯,又同里范苗父子並亡,又同里危敬宗家口六人俱得病,二人喪沒,親隣畏遠,莫敢營視。叔孫並殯葬,躬卹病者,並皆得全。鄉曲貴其義行,莫有呼其名者。世祖孝建初,除竟陵王國中軍將軍,不就。

義興の呉國夫にも、義に富み譲る美徳があった。自分の稲を盗んだ者がいたが、彼を連れ戻し、酒食を設けてもてなし、米を与えて送り出した。

原文義興吳國夫,亦有義讓之美。人有竊其稻者,乃引還,為設酒食,以米送之。

卜天與は呉興郡餘杭県の人である。父の名は祖といい、勇猛で有能であった。徐赤特が餘杭県令であった時、祖は彼に従った。赤特が死ぬと、高祖(劉裕)はその有能さを聞き、召し出して隊主に補任し、征伐に従軍させ、関中侯に封じ、二県の県令を歴任した。

原文卜天與,吳興餘杭人也。父名祖,有勇幹,徐赤特為餘杭令,祖依隨之。赤特死,高祖聞其有幹力,召補隊主,從征伐,封關中侯,歷二縣令。

天與は弓射に優れ、弓の力は常人より倍あり、容貌は厳粛で、笑っても顔をほころばせなかった。太祖(文帝)は彼が旧将の子であるため、皇子に弓射を教えさせた。数年後、白衣の身分で東掖防閤隊を率いた。元嘉二十七年、臧質が懸瓠を救援し、劉興祖が白石を守った時、共に配下を率いて従軍し、敵が退くと任務を解かれた。輦後第一隊を率いるようになり、兵士を慰め慈しみ、非常に兵心を得た。二十九年、広威将軍に任じられ、左細仗を率い、兼ねて営禄を帯びた。

原文天與善射,弓力兼倍,容貌嚴正,笑不解顏。太祖以其舊將子,使教皇子射。居累年,以白衣領東掖防閤隊。元嘉二十七年,臧質救懸瓠,劉興祖守白石,並率所領隨之,虜退罷。遷領輦後第一隊,撫卹士卒,甚得眾心。二十九年,以為廣威將軍,領左細仗,兼帶營祿。

元凶(劉劭)が入内して皇帝を弑しい逆したとき、事変は突然起こり、旧将の羅訓・徐罕らは皆風向きを見て屈服し従ったが、卜天与は甲冑を着ける暇もなく、刀を執り弓を持ち、左右の者に急ぎ呼びかけて出戦させた。徐罕が「殿下(劉劭)が入ってこられたのに、お前は何をしようというのか」と言うと、天与は罵って言った。「殿下はいつも来られる。どうして今になってこのようなことを言うのか。お前こそが賊だ。」手ずから賊の劉劭を東堂で射て、ほとんど命中させた。逆徒が彼を撃ち、腕を断たれて倒れたところで、殺害された。その隊将の張泓之・朱道欽・陳満は天与とともに出て防戦し、ともに戦死した。世祖(孝武帝)が即位すると、詔を下して言った。「かつて逆賊が宮中を犯し、凶変が突然起こったとき、広威将軍関中侯卜天与は戈を提げて難に赴き、身を挺して節を奮い起こし、凶党を斬り殺したが、やがて虐げる刃を受けた。その勇気は当時に冠たり、その義は古の烈士に等しく、思いを起こして追悼すれば、心を傷め痛む。まさに表彰し追贈を加え、忠節を顕彰すべきである。龍驤将軍・益州刺史を追贈し、諡を壮侯とせよ。」車駕(皇帝)は臨んで哭礼を行った。泓之らにはそれぞれ郡守を追贈し、天与の家には長く禄を与えた。

原文元凶入弒,事變倉卒,舊將羅訓、徐罕皆望風屈附,天與不暇被甲,執刀持弓,疾呼左右出戰。徐罕曰:「殿下入,汝欲何為?」天與罵曰:「殿下常來,云何即時方作此語。只汝是賊。」手射賊劭於東堂,幾中。逆徒擊之,臂斷倒地,乃見殺。其隊將張泓之、朱道欽、陳滿與天與同出拒戰,並死。世祖即位,詔曰:「日者逆豎犯蹕,釁變卒起,廣威將軍關中侯卜天與提戈赴難,挺身奮節,斬殪凶黨,而旋受虐刃。勇冠當時,義侔古烈,興言追悼,傷痛于心。宜加甄贈,以旌忠節。可贈龍驤將軍、益州刺史,諡曰壯侯。」車駕臨哭。泓之等各贈郡守,給天與家長稟。

子の卜伯宗は、殿中将軍となった。太宗(明帝)泰始初年、幢(軍旗部隊)を率いて赭圻しゃきで南賊(劉子勛軍)を撃ち、戦死した。

原文子伯宗,殿中將軍。太宗泰始初,領幢,擊南賊於赭圻,戰沒。

伯宗の弟の卜伯興は、官は前将軍・南平昌太守に至り、直閤(宮中宿直)となり、細仗主(儀仗兵の長)を兼任した。順帝昇明元年、袁粲とともに謀議ぼうぎをめぐらし、誅殺された。

原文伯宗弟伯興,官至前將軍、南平昌太守,直閤,領細仗主。順帝昇明元年,與袁粲同謀,伏誅。

天与の弟の卜天生は、若くして隊将となり、十人が同じ火(炊事班)を組んだ。家の後ろに大きな穴があり、広さは二丈余りあった。十人で一緒に跳び越えようとしたが皆渡り、ただ天生だけが穴に落ちた。天生は中身の詰まった苦竹を取り、その先を削って鋭くし、穴の中に交差して横たえ、再び仲間を呼んで一緒に跳ぼうとしたが、皆恐れて敢えてしなかった。天生は言った。「私はさっき渡れなかった。今度こそ必ずこの穴に落ちるだろう。男たる者がこれを跳び越えられないなら、生きている必要もない。」そして再び跳び、往復十余回、まったく留められることもなく、皆は感服した。兄が節を守って死んだため、世祖に気にかけられ、次第に西陽王劉子尚の撫軍参軍となり、龍驤将軍を加えられた。沈慶之に従って広陵城を攻めたとき、天生は車を押して塹壕を埋め、数百人を率いて真っ先に西北角に登り、まっすぐ城上に至った。賊は重い柵を設けて攻撃路を遮断し、苦戦して一日中かかっても陥落させられず、ついに引き揚げた。詔が下って言った。「天生は初めて軍務を受け、敵の城塁に攻め寄せたが、車輪を投じて塹壕を越え、果敢に先頭に立ち、その驍勇壮烈な気概は、賞賛してやまない。暫く布千匹を賜い、諸軍の士気を奮い立たせよ。」大明末年、弋陽太守となった。太宗泰始初年、殷琰とともに叛逆し、辺城県令の宿僧護が義兵を起こして討ち斬った。

原文天與弟天生,少為隊將,十人同火。屋後有一大阬,廣二丈餘,十人共跳之皆渡,唯天生墜阬。天生乃取實中苦竹,剡其端使利,交橫布阬內,更呼等類共跳,並畏懼不敢。天生曰:「我向已不渡,今者必墜此阬中。丈夫跳此不渡,亦何須活。」乃復跳之,往反十餘,曾無留礙,眾並歎服。以兄死節,為世祖所留心,稍至西陽王子尚撫軍參軍,加龍驤將軍。隸沈慶之攻廣陵城,天生推車塞塹,率數百人先登西北角,徑至城上。賊為重柵斷攻道,苦戰移日不拔,乃還。詔曰:「天生始受戎任,甫造寇壘,而投輪越塹,率果先騰,驍壯之氣,嘉歎無已。可且賜布千匹,以厲眾校。」大明末,為弋陽太守。太宗泰始初,與殷琰同逆,邊城令宿僧護起義討斬之。

許昭先は、義興郡の人である。叔父の許肇之は、事件に連座して獄に繋がれ、七年経っても判決が下らなかった。子や甥二十人ほどの中で、昭先の家が最も貧しく、彼一人が取り計らって訴え出て、家にいる日はなかった。肇之に送る食糧は、ことごとく珍しく新鮮なもので、家産が尽きると、家屋を売ってそれを充てた。肇之の息子たちは疲れ果てたが、昭先に怠る様子はなく、このように七年が経った。尚書の沈演之がその操行を称え、肇之の事件はこれによって釈放された。昭先の舅夫婦がともに疫病で死亡したが、家が貧しく葬送の費用がなく、昭先は衣服や物品を売って葬儀を営んだ。舅の子三人は皆幼く、養護して皆成長させた。昭先の父母はともに老病で、家に下僕もおらず、力を尽くして養い、美味しいものは必ず届け、宗族や郷党はその孝行を称えた。雍州刺史の劉真道が板授(臨時の任命)で征虜参軍に任じようとしたが、昭先は親が年老いていることを理由に就任しなかった。本邑が主簿に補任しようとしたが、昭先は叔父がまだ仕官していないことを理由に、また固辞した。

原文許昭先,義興人也。叔父肇之,坐事繫獄,七年不判。子姪二十許人,昭先家最貧薄,專獨料訴,無日在家。餉饋肇之,莫非珍新,家產既盡,賣宅以充之。肇之諸子倦怠,昭先無有懈息,如是七載。尚書沈演之嘉其操行,肇之事由此得釋。昭先舅夫妻並疫病死亡,家貧無以殯送,昭先賣衣物以營殯葬。舅子三人並幼,贍護皆得成長。昭先父母皆老病,家無僮役,竭力致養,甘旨必從,宗黨嘉其孝行。雍州刺史劉真道板為征虜參軍,昭先以親老不就。本邑補主簿,昭先以叔未仕,又固辭。

元嘉初年、西陽の董陽は五世代が財産を共有し、郷里で称賛された。

原文元嘉初,西陽董陽五世同財,為鄉邑所美。

会稽の姚吟は親に仕えること至孝であり、孝建初年、揚州が文学従事に辟召したが、就任しなかった。

原文會稽姚吟事親至孝,孝建初,揚州辟文學從事,不就。

余斉民は、晋陵郡晋陵県の人である。若い頃から孝行があり、県の書吏となった。父の余殖は、大明二年、家で病死した。家人が父の病気を彼に知らせたが、その知らせが届く前に、斉民は人に言った。「近頃肉が痛み心が煩わしく、まるで切り刻まれるようだ。いつも不安でおびえており、きっと異変があるに違いない。」知らせがすぐに届き、帰郷した。四百余里を一日で到着した。門に着いて初めて父の死を知り、号泣し地に踊り慟哭して気絶し、しばらくしてようやく蘇生した。母に「父の遺言は」と尋ねると、母は言った。「お前の父は臨終に、お前に会えなかったことを残念がっていた。」彼は言った。「会うことなど何が難しいことがあろうか。」そこで棺の安置所で号泣し、たちまち気絶した。州郡が上奏し、有司が奏上して言った。「賢者を収め善を顕彰することは、万代変わるところなく、心の至誠は天より出で、古今どうして異なろうか。斉民の至性は内より発し、その情は外からの感化によるものではなく、純粋な真情が凝り至り、深い心は天に通じ、跪いて遺言を尋ね、一たび慟哭して命を落とした。その行跡は曾参・高柴とは異なるが、その誠実さは丘吾子・趙至に等しい。今まさに聖なる事業が盛んに行き渡り、華夏に移り変革がなされようとしているのは、実に風俗を淳朴にし礼をもってし、治めの根本はただ孝にあるからであり、霊祥の応ずる帰するところ、その道はまずここに顕われる。斉民は民衆の身分より出で、その行いは生ある者の品性を貫き、里門を表彰し墓を顕彰すること、まさにここに出るべきである。」その里を孝義里と改称し、租税と布を免除し、その母に穀物百斛を賜った。

原文余齊民,晉陵晉陵人也。少有孝行,為邑書吏。父殖,大明二年,在家病亡,家人以父病報之,信未至,齊民謂人曰:「比者肉痛心煩,有若割截,居常遑駭,必有異故。」信尋至,便歸,四百餘里,一日而至。至門,方詳父死,號踊慟絕,良久乃蘇。問母:「父所遺言。」母曰:「汝父臨終,恨不見汝。」曰:「相見何難。」於是號叫殯所,須臾便絕。州郡上言,有司奏曰:「收賢旌善,萬代無殊,心至自天,古今豈異。齊民至性由中,情非外感,淳情凝至,深心天徹,跪訊遺旨,一慟殞亡。雖迹異參、柴,而誠均丘、趙。方今聖務彪被,移革華夏,實乃風淳以禮,治本惟孝,靈祥歸應,其道先彰。齊民越自氓隸,行貫生品,旌閭表墓,允出在茲。」改其里為孝義里,蠲租布,賜其母穀百斛。

孫棘は、彭城ほうじょう郡彭城県の人である。世祖大明五年、三五丁(三丁抽一、五丁抽二の兵役)を徴発し、弟の孫薩が行くべきところとなったが、期限に違反して到着せず、制度に従い軍法により、本人を獄に付すことになった。まだ判決が確定しないうちに、孫棘が郡に出頭して言上した。「一門に苦しみを負わせるに忍びず、私の身をもって薩に代わりたい。」孫薩もまた陳述した。「家門を立てず、罪はここに至るべきであり、狂愚の者が法を犯したのは、実に薩自身である。自ら法に従って誅戮を受けるべきである。兄弟は幼くして孤児となり、薩は三歳で父を失い、一生頼りにしているのは長兄だけである。兄は憐れみをかけてくださるかもしれないが、どうして心安らかに世に処せようか。」太守の張岱はその真偽を疑い、孫棘と孫薩をそれぞれ別の場所に置き、孫棘に言った。「すでに上申して詳しく取り計らった。お前が代わることを許す。」孫棘の表情は大変喜び、「そうしていただければ、これで死なずに済みます」と答えた。また孫薩にも言うと、彼も欣然として言った。「死ぬのは当然甘んじて受けます。ただ兄が免れるなら、薩に何の恨みがありましょう。」孫棘の妻の許氏もまた人を介して孫棘に伝言した。「あなたが家の主です。どうして罪を弟殿に押し付けられましょう。それに姑が亡くなる際、弟殿をあなたに託されました。弟殿はまだ妻も娶らず、家も立ちません。あなたにはすでに二人の子がいます。死んでも何の恨みがありましょう。」張岱は事実に基づいて上表し、世祖は詔を下して言った。「孫棘・孫薩は民衆の身分ながら、節操と行いは表彰に値する。特に罪を赦す。」州が辟召して任用し、また許氏に帛二十匹を賜った。

原文孫棘,彭城彭城人也。世祖大明五年,發三五丁,弟薩應充行,坐違期不至,依制,軍法,人身付獄。未及結竟,棘詣郡辭:「不忍令當一門之苦,乞以身代薩。」薩又辭列:「門戶不建,罪應至此,狂愚犯法,實是薩身,自應依法受戮。兄弟少孤,薩三歲失父,一生恃賴,唯在長兄,兄雖可垂愍,有何心處世。」太守張岱疑其不實,以棘、薩各置一處,語棘云:「已為諮詳,聽其相代。」棘顏色甚悅,答云:「得爾,旦則為不死。」又語薩,亦欣然曰:「死自分甘,但令兄免,薩有何恨。」棘妻許又寄語屬棘:「君當門戶,豈可委罪小郎。且大家臨亡,以小郎屬君,竟未妻娶,家道不立,君已有二兒,死復何恨。」岱依事表上,世祖詔曰:「棘、薩甿隸,節行可甄,特原罪。」州加辟命,并賜許帛二十匹。

これより先、新蔡の徐元の妻の許氏は、二十一歳で夫に死別し、子の徐甄は三歳であった。父の許攬はその若さを哀れみ、同県の張買に再嫁させようとした。許氏は誓って行かないと誓ったが、父が強引に車に乗せて張買に送り届けた。許氏は首を吊って気絶し、家人が駆けつけ、しばらくしてようやく蘇生した。張買はどうにもならないと知り、夜に許攬のもとに送り返した。許氏は徐氏に帰り、徐元の父の徐季を養った。元嘉年間、八十余歳で亡くなった。

原文先是,新蔡徐元妻許,年二十一,喪夫,子甄年三歲。父攬愍其年少,以更適同縣張買。許自誓不行,父逼載送買,許自經氣絕,家人奔赴,良久乃蘇。買知不可奪,夜送還攬。許歸徐氏,養元父季。元嘉中,年八十餘,卒。

太宗泰始二年、長城県の奚慶思が同県の銭仲期を殺害した。仲期の子の銭延慶は都で役務に従事していたが、父の死を聞き、馳せ戻り、庚浦埭で慶思に出会い、自ら手ずからこれを斬殺し、自ら進んで烏程県の獄に繋がれた。呉興太守の郗顒が上表して罪を問わないよう請い、許された。

原文太宗泰始二年,長城奚慶思殺同縣錢仲期,仲期子延慶屬役在都,聞父死,馳還,於庚浦埭逢慶思,手刃殺之,自繫烏程縣獄。吳興太守郗顒表不加罪,許之。

何子平は、廬江郡灊県の人である。曾祖父の何楷は、晋の侍中じちゅうであった。祖父の何友は、会稽王司馬道子の驃騎ひょうき諮議参軍であった。父の何子先は、建安太守であった。

原文何子平,廬江灊人也。曾祖楷,晉侍中。祖友,會稽王道子驃騎諮議參軍。父子先,建安太守。

子平は代々会稽に住み、若い頃から志操と行いがあり、郷里で称えられた。母に仕えること至孝であった。揚州が従事史に辟召し、月俸として白米を得ると、すぐに売って粟や麦を買った。ある人が尋ねた。「利益はわずかで、どうして煩わしいことをするのか。」子平は言った。「老いた母が東の地におり、常に生米(精白していない米)を調達できないのに、どうして私一人が白米を楽しむ気になれようか。」鮮魚や佳肴を贈る者がいたとき、もしそれを家に送り届けることができないなら、受け取らなかった。

原文子平世居會稽,少有志行,見稱於鄉曲。事母至孝。揚州辟從事史,月俸得白米,輒貨市粟麥。人或問曰:「所利無幾,何足為煩?」子平曰:「尊老在東,不辦常得生米,何心獨饗白粲。」每有贈鮮肴者,若不可寄致其家,則不肯受。

母は本来側室であり、戸籍の記載が事実と異なっていたため、養うべき年齢に達していないのに、戸籍上の年齢が満了したので、職を辞して帰郷した。当時、鎮軍将軍の顧覬之が州の上綱であったが、彼に言った。「ご尊父の年齢は実際には八十歳に達しておらず、親族や旧知の者が知っている。州にはわずかな俸禄があるので、留任を願い出よう。」子平は言った。「公家はまさに黄籍を信頼しており、戸籍上の年齢が届いた以上、私の家で扶養すべきであり、どうして実年齢が満たないことを理由に、みだりに栄誉と利益を貪ることができようか。しかも帰って養うという願いは、私の微かな心情として切実なのです。」覬之はさらに、母が年老いていることを理由に県の官職を求めるよう勧めたが、子平は言った。「実際には養うべき年齢に達していないのに、どうして俸禄を求める口実にできようか。」覬之はますます彼を重んじた。帰郷した後は、自らの身を尽くして働き、母を養った。

原文母本側庶,籍注失實,年未及養,而籍年已滿,便去職歸家。時鎮軍將軍顧覬之為州上綱,謂曰:「尊上年實未八十,親故所知。州中差有微祿,當啟相留。」子平曰:「公家正取信黃籍,籍年既至,便應扶侍私庭,何容以實年未滿,苟冒榮利。且歸養之願,又切微情。」覬之又勸令以母老求縣,子平曰:「實未及養,何假以希祿。」覬之益重之。既歸家,竭身運力,以給供養。

元嘉三十年、元凶が逆を弑した時、安東将軍の随王誕が討伐に赴き、彼を行参軍に任じた。子平は、凶逆が道理を滅ぼし、天下が共に奮い立つと考えたため、自らの意志を抑えて職務を受け、事態が収まると、自ら辞任した。また奉朝請に任じられたが、就任しなかった。後に呉郡海虞県令に任じられたが、県の俸禄は母一人を養うためだけに使い、妻子には一毫も触れさせなかった。ある人がその倹約ぶりを疑うと、子平は言った。「俸禄を求めるのは本来、親を養うためであり、自分のためではない。」問うた者は恥じて退いた。母の喪のため官を去り、悲しみのあまり礼を超え、泣き伏しては倒れ、気絶してから蘇った。大明の末年に、東の地域が飢饉に見舞われ、さらに戦乱が続き、八年間も葬儀を営むことができず、昼夜を問わず慟哭し、胸を叩き地に伏して泣き、一瞬も途切れることがなく、母を慕う声は、まるで喪に服したばかりの日々のようであった。冬は綿入れを着ず、夏は涼しい場所を避け、一日に数合の米で粥を作り、塩や野菜を口にしなかった。住んでいた家は荒れ果て、雨や日差しを防げず、兄の子の伯與が茅や竹を採ってきて、修繕しようとしたが、子平は承知せず、言った。「私の心情と事情はまだ晴らされず、天地の罪人に過ぎない。どうして家屋を覆うことができようか。」蔡興宗が会稽太守であった時、大いに彼を表彰し賞賛した。泰始六年、墓と棺を造営した。子平は喪に服して非常に憔悴し、衰弱が長く続き、喪が明けた時には、体の各部分がほとんどつながらないほどであった。幼い頃から節操を保ち、名声と行いを励まし、暗室にいるときも、大賓に接するかのように振る舞った。学問の道理を堅固に明らかにし、沈黙をもって処し、貧しさに安んじて善を守り、栄達を求めず、退くことを好む士人たちは、ますます彼を貴んだ。順帝の昇明元年に死去した。享年六十歳。

原文元嘉三十年,元凶弒逆,安東將軍隨王誕入討,以為行參軍。子平以凶逆滅理,普天同奮,故廢己受職,事寧,自解。又除奉朝請,不就。末除吳郡海虞令,縣祿唯以養母一身,而妻子不犯一毫。人或疑其儉薄,子平曰:「希祿本在養親,不在為己。」問者慚而退。母喪去官,哀毀踰禮,每至哭踊,頓絕方蘇。值大明末,東土飢荒,繼以師旅,八年不得營葬,晝夜號絕擗踊,不闋俄頃,叫慕之音,常如袒括之日。冬不衣絮,暑避清凉,日以數合米為粥,不進鹽菜。所居屋敗,不蔽雨日,兄子伯與採伐茅竹,欲為葺治,子平不肯,曰:「我情事未申,天地一罪人耳,屋何宜覆。」蔡興宗為會稽太守,甚加旌賞。泰始六年,為營冢椁。子平居喪毀甚,困瘠踰久,及至免喪,支體殆不相屬。幼持操檢,敦厲名行,雖處闇室,如接大賓。學義堅明,處之以默,安貧守善,不求榮進,好退之士,彌以貴之。順帝昇明元年,卒,時年六十。