宋書

列伝第四十八 薛安都 沈文秀 崔道固

列伝第四十八 薛安都 沈文秀 崔道固

薛安都は、河東郡汾陰県の人である。代々強力な族であり、同姓は三千家あった。父の薛広は宗族の豪族で、高祖(劉裕)が関中・黄河地域を平定した時、上党太守たいしゅに任じられた。

原文薛安都,河東汾陰人也。世為強族,同姓有三千家。父廣為宗豪,高祖定關、河,以為上黨太守。

安都は若い頃から勇猛さで知られ、身長は七尺八寸、弓馬に熟練していた。索虜(北魏)は彼を秦州刺史ししの北賀汨を助けて反乱した胡人の白龍子を討伐させ、これを滅ぼした。これにより、彼は偽の雍州・秦州二州都統に任じられ、州ごとに刺史がいたが、都統がその事柄を総統した。元嘉21年(444年)、索虜の君主拓跋燾が芮芮(柔然)を攻撃して大敗した時、安都は同族の薛永宗とともに義兵を起こした。永宗は汾水の曲がりくねった地に陣営を構え、安都は弘農郡を襲撃して奪取した。ちょうど北地郡の人蓋呉が兵を起こしたので、連合して呼応した。拓跋燾は自ら軍勢を率いて永宗を攻撃し、その一族を滅ぼし、さらに蓋呉を攻撃した。安都は寡兵では敵わないと判断し、壮士の辛霊度らを率いて弘農を捨てて帰国した。太祖(文帝劉義隆)は彼を引見し、北へ戻って河・陝の地で扇動し、義兵を招集することを求めた。上(文帝)はこれを許し、錦百匹、雑色の絹三百匹を与えた。再び弘農を襲撃したが、虜(北魏)はすでに守備を増強しており、城を落とすことができず、蓋呉もまた死んだので、上洛に退却した。世祖(孝武帝劉駿)が襄陽に駐屯していた時、板授(臨時の任命)で揚武将軍・北弘農太守とした。虜が次第に強盛になったので、安都は襄陽に帰還した。従叔父の薛沈も同じく帰国し、官は綏遠将軍・新野太守に至った。

原文安都少以勇聞,身長七尺八寸,便弓馬。索虜使助秦州刺史北賀汨擊反胡白龍子,滅之,由是為偽雍、秦二州都統,州各有刺史,都總統其事。元嘉二十一年,索虜主拓跋燾擊芮芮大敗,安都與宗人薛永宗起義,永宗營汾曲,安都襲得弘農。會北地人蓋吳起兵,遂連衡相應。燾自率眾擊永宗,滅其族,進擊蓋吳。安都料眾寡不敵,率壯士辛靈度等,棄弘農歸國。太祖延見之,求北還構扇河、陝,招聚義眾。上許之,給錦百疋,雜繒三百疋。復襲弘農,虜已增戍,城不可克,蓋吳又死,乃退還上洛。世祖鎮襄陽,板為揚武將軍、北弘農太守。虜漸強盛,安都乃歸襄陽。從叔沈亦同歸國,官至綏遠將軍、新野太守。

元嘉27年(450年)、随王劉誕が安都を建武将軍に板授し、柳元景に従って関中・陝地へ向かわせた。歩兵と騎兵を率いて先鋒となり、向かうところ勝利した。詳細は柳元景伝にある。軍が帰還すると、劉誕は彼を後軍行参軍に板授した。29年(452年)、始興王劉濬の征北行参軍に任じられ、建武将軍の号を加えられた。魯爽が虎牢へ向かうと、安都は再び柳元景に従って北進し、関城を占拠し、共に黄河を渡って蒲坂を奪取することを約束した。ちょうど魯爽が退却したので、安都は再び配下の兵を率いて柳元景に従って引き返した。引き続き西陽の五水蛮を討伐した。世祖(劉駿)が反逆(劉劭)を討伐する時、参軍事に転じ、寧朔将軍の号を加えられ、馬軍を率いて柳元景とともに出発した。4月14日、朱雀航に到着し、矛を横たえ目を怒らせて、賊将の皇甫安民らを叱責して言った。「賊は君父を弑しいした。どうしてこれに仕えようか!」世祖が即位すると、右軍将軍に任じられた。5月4日、配下の騎兵を率いて前鋒となり、まっすぐに殿庭に突入した。賊はまだ数百人いたが、一斉に逃げ散った。功績により南郷県男に封じられ、食邑五百戸を与えられた。安都は関中・陝地への従征の際、臼口に至った時、仰向いて天を見上げると、ちょうど天門が開く夢を見た。左右の者に「お前たちは天門が開くのを見たか?」と言った。この時になって嘆息して言った。「天が開く夢は、中興の兆しだったのだろうか。」

原文二十七年,隨王誕版安都為建武將軍,隨柳元景向關、陝,率步騎居前,所向克捷,事在元景傳。軍還,誕版為後軍行參軍。二十九年,除始興王濬征北行參軍,加建武將軍。魯爽向虎牢,安都復隨元景北出,即據關城,期俱濟河取蒲坂。會爽退,安都復率所領隨元景引還。仍伐西陽五水蠻。世祖伐逆,轉參軍事,加寧朔將軍,領馬軍,與柳元景俱發。四月十四日,至朱雀航,橫矛瞋目,叱賊將皇甫安民等曰:「賊弒君父,何心事之!」世祖踐阼,除右軍將軍。五月四日,率所領騎為前鋒,直入殿庭,賊尚有數百人,一時奔散。以功封南鄉縣男,食邑五百戶。安都從征關、陝,至臼口,夢仰頭視天,正見天門開,謂左右曰:「汝見天門開不?」至是歎曰:「夢天開,乃中興之象邪。」

従弟の薛道生もまた軍功により大司馬参軍となったが、罪を犯し、秣陵県令の庾淑之に鞭打たれた。安都は大いに怒り、数十人を従えて馬に乗り、左右の者に矛を持たせ、庾淑之を殺しに行こうとした。朱雀航まで来た時、柳元景に出会った。元景が遠くから尋ねた。「薛公はどこへ行かれるのか?」安都は馬を躍らせて車の後ろまで来て言った。「あの小僧の庾淑之が私の従弟を鞭打った。今、刺し殺しに行くところだ。」元景は彼を引き留められないと考え、騙して言った。「小僧は確かにふさわしくない。卿が行って手討ちにするのは、とても痛快だ。」安都が馬を返した後、元景は再び追いかけて呼びかけた。「別に卿と話したいことがある。」そして彼に馬から降りて車に乗るよう命じた。車に乗ると、彼を責めて言った。「卿の従弟の服装や言動は、貧しい下賤の者と変わらない。たとえ士人であっても、庾淑之はどうして知ることができようか。しかも人が罪を犯せば、道理として罰を加えるべきである。卿は朝廷の勲臣であり、法憲を重んじ奉るべきである。どうして勝手気ままに、都の中で人を殺そうとするのか。これは科律が許さないだけでなく、主上もまた卿を赦す言葉を持たないだろう。」そして彼を車に乗せて一緒に帰り、安都はやめた。その年、剛直すぎることを理由に免官された。

原文從弟道生,亦以軍功為大司馬參軍,犯罪,為秣陵令庾淑之所鞭。安都大怒,乃乘馬從數十人,令左右執矟,欲往殺淑之,行至朱雀航,逢柳元景。元景遙問:「薛公何處去?」安都躍馬至車後曰:「小子庾淑之鞭我從弟,今指往刺殺之。」元景慮其不可駐,乃紿之曰:「小子無宜適,卿往與手,甚快。」安都既回馬,復追呼之:「別宜與卿有所論。」令下馬入車。既入車,因責讓之曰:「卿從弟服章言論,與寒細不異,雖復人士,庾淑之亦何由得知?且人身犯罪,理應加罰,卿為朝庭勳臣,宜崇奉法憲,云何放恣,輒欲於都邑殺人。非唯科律所不容,主上亦無辭以相宥。」因載之俱歸,安都乃止。其年,以憚直免官。

孝建元年(454年)、再び左軍将軍に任じられた。2月、魯爽が反乱を起こし、安都と冗従僕射の胡子反、龍驤将軍の宗越そうえつに歩兵と騎兵を率いて歴陽を占拠させた。魯爽は将軍の鄭徳玄を派遣して大峴を守備させた。鄭徳玄は先鋒の楊胡と軽兵を率いて歴陽に向かわせた。安都は宗越と歴陽太守の程天祚を派遣して迎撃し、これを破り、楊胡とその軍の副将を斬った。鄭徳玄はまたその司馬の梁厳を派遣して峴の東に駐屯させた。安都の幢主の周文恭が朝方に偵察に行き、それに乗じて襲撃し、全員を捕らえた。賊は進軍を敢えてしなかった。世祖は詔を下し、安都に三百人を残して歴陽を守らせ、渡江して採石に戻り、輔国将軍・竟陵内史に転任させた。

原文孝建元年,復除左軍將軍。二月,魯爽反叛,遣安都及冗從僕射胡子反、龍驤將軍宗越率步騎據歷陽。爽遣將鄭德玄戍大峴,德玄使前鋒楊胡與輕兵向歷陽。安都遣宗越及歷陽太守程天祚逆擊破之,斬胡與及其軍副。德玄復使其司馬梁嚴屯峴東,安都幢主周文恭晨往偵候,因而襲之,悉禽。賊未敢進。世祖詔安都留三百人守歷陽,渡還採石,遷輔國將軍、竟陵內史。

4月、魯爽は弟の魯瑜に三千人を率いさせて小峴から出撃させ、魯爽自身はまもなく大軍を率いて大峴を塞いだ。また安都に歩兵と騎兵八千を率いさせて長江を渡り、歴陽太守の張幼緒らとともに魯爽を討伐させた。安都の軍副である建武将軍の譚金たんきんが数十騎を率いて挑戦し、その偏帥を斬った。張幼緒が臆病で、すぐに軍を引き返して退却したので、安都もまた歴陽に戻った。臧質がなかなか到着しないので、世祖は再び沈慶之を派遣して長江を渡らせ、諸軍を統率させた。魯爽軍の食糧が少なくなり、撤退を始めた。沈慶之は安都に軽騎兵を率いて追撃させた。4月丙戌の日、小峴で魯爽に追いついた。魯爽は自ら腹心の精鋭騎兵を率いて後衛を務めた。譚金が先に接近したが、突入できなかった。安都は魯爽を見ると、馬を躍らせて大声で叫び、まっすぐに突進して彼を刺し、手応えとともに倒れた。左右の范雙が魯爽の首を斬った。魯爽は代々勇猛で、生まれながらにして戦陣に慣れ、万人に敵すると言われていた。安都が単騎で突入し、彼を斬って戻ったので、当時の人々は皆、関羽が顔良を斬ったことにも劣らないと言った。爵位を侯に進め、食邑を五百戸増やし、以前の分と合わせて千戸とした。

原文四月,魯爽使弟瑜率三千人出小峴,爽尋以大眾阻大峴。又遣安都步騎八千度江,與歷陽太守張幼緒等討爽。安都軍副建武將軍譚金率數十騎挑戰,斬其偏帥。幼緒恇怯,輒引軍退還,安都復還歷陽。臧質久不至,世祖復遣沈慶之濟江督統諸軍。爽軍食少,引退,慶之使安都率輕騎追之,四月丙戌,及爽於小峴,爽自與腹心壯騎斷後。譚金先薄之,不能入,安都望見爽,便躍馬大呼,直往刺之,應手而倒,左右范雙斬爽首。爽累世梟猛,生習戰陳,咸云萬人敵,安都單騎直入,斬之而反,時人皆云關羽之斬顏良,不是過也。進爵為侯,增邑五百戶,并前千戶。

当時、王玄謨が梁山で南郡王劉義宣と臧質を防いでいた。安都は再び騎兵を率いて支軍となった。賊の水軍と歩兵の陣営が蕪湖にあったので、安都は将軍の呂興寿に数十騎を率いさせてこれを襲撃させた。賊の兵衆は驚いて混乱し、斬首された者や水に飛び込んで死んだ者は非常に多かった。劉義宣は将軍の劉諶之と臧質を派遣して王玄謨を攻撃させた。王玄謨は諸軍に命じてこれを攻撃させ、安都に騎兵を率いて賊の陣の右側から出撃させた。その副将である建武将軍の譚金が三度賊の陣を駆け巡り、その隙に乗じて騎兵を突撃させた。諸将が続いて進撃した。その朝、賊の騎兵軍が蕪湖から出発し、合流して戦おうとしたが、安都の騎兵が非常に盛んであるのを見て、山に隠れて出てこようとしなかった。賊の陣の東南はまだ堅固であったが、安都が横から攻撃してこれを陥落させ、賊はついに大敗した。安都の隊主の劉元儒が軍艦の中で劉諶之の首を斬った。安都は太子左衛率に転任した。

原文時王玄謨距南郡王義宣、臧質於梁山,安都復領騎為支軍。賊有水步營在蕪湖,安都遣將呂興壽率數十騎襲之,賊眾驚亂,斬首及赴水死者甚眾。義宣遣將劉諶之及質攻玄謨,玄謨命眾軍擊之,使安都引騎出賊陣右。其副建武將軍譚金三歷賊陳,乘其隙縱騎突之,諸將係進。是朝,賊馬軍發蕪湖,欲來會戰,望安都騎甚盛,隱山不敢出。賊陣東南猶堅,安都橫擊陷之,賊遂大潰。安都隊主劉元儒於艦中斬諶之首。轉太子左衞率。

大明元年(457年)、虜(北魏)が無塩に向かい、東平太守の劉胡が出撃して戦ったが、敗北した。2月、安都に騎兵を率いさせて北討させ、東陽太守の沈法系に水軍を率いさせて彭城ほうじょうに向かわせ、ともに徐州刺史の申坦の指揮下に置かれた。上(孝武帝)は彼らに戒めて言った。「賊が追撃可能ならば、全力を尽くして殲滅せよ。もしすでに引き返したと判断したならば、黄河を渡って威勢を示して戻って来い。」当時、虜はすでに去っており、申坦は軍を返して任榛を討伐することを求め、許可された。安都は左城に向かうことになっていた。左城は滑臺から二百余里離れていた。安都は虜の鎮所に近いため、軍が少なく分進すべきでないと考えた。東坊城に至った時、任榛の配下の騎兵三人に出会い、討伐して一人を捕らえ、残りの二人は逃げ去った。任榛はこれを聞き知り、皆逃げ散った。当時は旱魃で、水泉の多くが枯れ、人馬は疲労困憊し、遠くまで追撃できなかった。安都と沈法系はともに白衣(無官の身)で職務を続け、申坦は尚方に拘禁された。任榛の勢力はおおむね任城の境界にあり、代々逃亡した反逆者の集まる所で、その場所はすべて茨や雑木が深く密生しており、軍を用いるのが難しく、長く自らを保ち隠れることができ、たびたび民の害となっていた。安都は翌年に復職し、武昌県侯に改封され、散騎常侍さんきじょうじを加えられた。大明7年(463年)、さらに征虜将軍を加えられ、太子左衛率を十年間務め、世祖(孝武帝)の世が終わるまで転任しなかった。

原文大明元年,虜向無鹽,東平太守劉胡出戰失利。二月,遣安都領馬軍北討,東陽太守沈法系水軍向彭城,並受徐州刺史申坦節度。上戒之曰:「賊若可及,便盡力殄之。若度已回,可過河耀威而反。」時虜已去,坦求回軍討任榛,見許。安都當向左城,左城去滑臺二百餘里,安都以去虜鎮近,軍少不宜分行。至東坊城,遇任榛三騎,討擒其一,餘兩騎得走。任榛聞知,皆得逃散。時天旱,水泉多竭,人馬疲困,不能遠追,安都、法系並白衣領職,坦繫尚方。任榛大抵在任城界,積世逋叛所聚,所在皆棘榛深密,難為用師,故能久自保藏,屢為民患。安都明年復職,改封武昌縣侯,加散騎常侍。七年,又加征虜將軍,為太子左衞率十年,終世祖世不轉。

前廃帝が即位すると、右衛将軍に転任し、給事中きゅうじちゅうを加えられた。永光元年、使持節・都督ととく兗州諸軍事・前将軍・兗州刺史として出向した。景和元年、義陽王劉昶に代わって都督徐州豫州之梁郡諸軍事・平北将軍・徐州刺史となった。太宗(明帝)が即位すると、安北将軍の号を進められ、鼓吹一部を与えられた。しかし薛安都は命令を受けず、兵を挙げて晋安王劉子勛に同調した。初め、薛安都の従子の薛索児は、前廃帝の景和年間に前軍将軍・直閤となり、諸公誅殺に従い、武安県男に封ぜられ、食邑三百戸を与えられた。太宗が即位すると、左将軍とされ、直閤はもとのままだった。薛安都が叛逆を企てると、密書を送って報告し、さらに数百人を瓜歩に派遣して迎えさせた。当時、右衛将軍の柳光世も薛安都と内通していた。泰始二年正月、薛索児と柳光世はともに宮中にいたが、薛安都からの手紙で急ぎ出立するよう催促され、二人はともに宮中から逃げ出し、薛安都の諸子や家族を連れ、すべてを持ち去って北へ奔った。青州刺史の沈文秀、冀州刺史の崔道固はいずれもこれに同調して反乱を起こした。沈文秀は劉彌之、張霊慶、崔僧琁の三軍を派遣し、崔道固は子の景徴と傅霊越に兵を率いさせ、ともに薛安都に応じた。劉彌之らは南下して下邳に出、傅霊越は泰山の道を通って彭城に向かった。当時、済陰太守の申闡が睢陵城を拠点として義兵を挙げたので、薛索児は傅霊越らを率いてこれを攻撃した。薛安都は同党の裴祖隆に下邳城を守らせたが、劉彌之らが下邳に到着すると、方針を変えて帰順し、進軍して裴祖隆を攻撃した。崔僧琁はこれに同意せず、配下の兵を率いて薛安都のもとに帰った。薛索児は劉彌之に異心があると聞くと、睢陵を捨てて下邳に急行した。劉彌之らは戦わずして潰走し、ともに薛索児に捕らえられ、殺害された。

原文前廢帝即位,遷右衞將軍,加給事中。永光元年,出為使持節、督兗州諸軍事、前將軍、兗州刺史。景和元年,代義陽王昶督徐州豫州之梁郡諸軍事、平北將軍、徐州刺史。太宗即位,進號安北將軍,給鼓吹一部。安都不受命,舉兵同晉安王子勛。初,安都從子索兒,前廢帝景和中,為前軍將軍,直閤,從誅諸公,封武安縣男,食邑三百戶。太宗即位,以為左將軍,直閤如故。安都將為逆,遣密信報之,又遣數百人至瓜步迎接。時右衞將軍柳光世亦與安都通謀。泰始二年正月,索兒、光世並在省,安都信催令速去,二人俱自省逃出,携安都諸子及家累,席卷北奔。青州刺史沈文秀、冀州刺史崔道固並皆同反。文秀遣劉彌之、張靈慶、崔僧琁三軍,道固遣子景徵、傅靈越領眾,並應安都。彌之等南出下邳,靈越自泰山道向彭城。時濟陰太守申闡據睢陵城起義,索兒率靈越等攻之。安都使同黨裴祖隆守下邳城,彌之等至下邳,改計歸順,因進軍攻祖隆,僧琁不同,率所領歸安都。索兒聞彌之有異志,舍睢陵馳赴下邳,彌之等未戰潰散,並為索兒所執,見殺。

当時、太宗は申令孫を徐州刺史として薛安都の後任とした。申令孫は淮陽に進駐したが、密かに反逆の意志を持ち、使者を送って薛索児に告げた。「あなたに従順したいが、一族百人が都にいる。進軍して攻撃してくれ。もし戦いに敗れて捕虜になれば、家族は禍を免れることができるだろう。」薛索児は傅霊越を淮陽に向かわせた。申令孫は城を出て、対峙する形をとったが、やがて兵は散り散りになり、北へ逃れて薛索児に投降した。薛索児は申令孫に申闡を説得させて降伏させようとした。申闡が降伏すると、薛索児は申闡と申令孫を捕らえ、ともに殺害した。薛索児は軍を率いて淮を渡ったが、軍糧が不足し、百姓の穀物を略奪した。太宗は斉王(劉休若)に前将軍の張永、寧朔将軍の垣山宝、王寛、員外散騎侍郎の張寘震、蕭順之、龍驤将軍の張季和、黄文玉らの諸軍を率いさせて北討させた。その年(泰始二年)五月、軍は平原に駐屯した。薛索児らは騎兵・歩兵五千を率いて陣を布き対戦したが、大敗を喫した。薛索児はさらに民衆の穀物を略奪し、石梁に拠って守りを固めた。斉王はまた鎮北参軍の趙曇之、呂湛之を率いてこれを攻撃した。薛索児軍には物資がなく、野で略奪するしかなかったが、攻められては自らを守る術がなく、そこで潰走した。さらに葛家白鵠で追撃してこれを撃破した。薛索児は楽平県の境界へ逃げたが、申令孫の子の申孝叔に斬られた。薛安都の子の薛道智と大将の范雙は合肥へ逃げ、南汝陰太守の裴季のもとに降伏した。

原文時太宗以申令孫為徐州,代安都。令孫進據淮陽,密有反志,遣人告索兒曰:「欲相從順,而百口在都。可進軍見攻,若戰敗被執,家人可得免禍。」索兒乃遣靈越向淮陽,令孫出城,為相距之形,既而奔散,北投索兒。索兒使令孫說闡令降,闡既降,索兒執闡及令孫,並殺之。索兒因引軍渡淮,軍糧不給,掠奪百姓穀食。太宗遣齊王率前將軍張永、寧朔將軍垣山寶、王寬、員外散騎侍郎張寘震、蕭順之、龍驤將軍張季和、黃文玉等諸軍北討。其年五月,軍次平原,索兒等率馬步五千,列陳距戰,擊大破之。索兒又虜掠民穀,固守石梁,齊王又率鎮北參軍趙曇之、呂湛之擊之。索兒軍無資實,所資野掠,既見攻逼,無以自守,於是奔散,又追破之於葛家白鵠。索兒走向樂平縣界,為申令孫子孝叔所斬。安都子道智、大將范雙走向合肥,詣南汝陰太守裴季降。

当時、武衛将軍の王広之は軍を率いて劉勔に隷属し、寿陽の殷琰を攻撃していた。傅霊越は逃亡し、王広之の兵士に生け捕りにされた。彼は声を張り上げて言った。「私は傅霊越だ。賊を捕らえてどうしてすぐに殺さないのか。」生きたまま劉勔のもとに送られると、劉勔は自ら慰労し、叛逆の理由を詰問した。傅霊越は答えて言った。「九州が義を唱えているのに、どうして私だけが(賊なのか)。」劉勔はさらに尋ねた。「四方の叛逆者は、戦えば必ず捕らえられているが、主上は皆寛大に処し、その才能を用いている。どうして早く朝廷に帰順せず、草むらに逃げ隠れしていたのか。」傅霊越は答えた。「薛公(安都)が淮北で兵を挙げ、威は天下に震うたが、智勇の士を専任せず、子や甥に任せた。敗北の原因はまさにここにある。しかし事の始末は、私はすべて参与した。人の命は一死に帰するもの、生き延びようと顔向けできない。」劉勔はその志気を称え、都に送還した。太宗は赦そうとしたが、傅霊越の答えは一貫しており、ついに改めることはなく、ついに殺害した。傅霊越は清河の人である。当時、輔国将軍・山陽内史の程天祚は郡を拠点として薛安都に同調し、しばらく攻囲された後、帰順した。

原文時武衞將軍王廣之領軍隸劉勔,攻殷琰於壽陽,傅靈越奔逃,為廣之軍人所生禽,厲聲曰:「我傅靈越也。汝得賊何不即殺。」生送詣勔,勔躬自慰勞,詰其叛逆,對曰:「九州唱義,豈獨在我。」勔又問:「四方阻逆,無戰不禽,主上皆加以曠蕩,即其才用。卿何不早歸天闕,乃逃命草間乎?」靈越答曰:「薛公舉兵淮北,威震天下,不能專任智勇,委付子姪,致敗之由,實在於此。然事之始末,備皆參豫,人生歸於一死,實無面求活。」勔壯其意,送還京師。太宗欲加原宥,靈越辭對如一,終不回改,乃殺之。靈越,清河人也。時輔國將軍、山陽內史程天祚據郡同安都,攻圍彌時,然後歸順。

劉子勛が平定されると、薛安都は別駕従事史の畢衆愛、下邳太守の王煥らを派遣して啓書を奉り、太宗のもとに帰順の意を伝えさせた。その文は言う。「臣は辺境の愚かなる隷であり、上国に生きながらえております。世祖孝武皇帝の並々ならぬ恩寵を過分に蒙り、犬馬の心をもって、まことに恩遇に感謝しております。それゆえ晋安王が初めて義を唱えたとき、誠意を投じてただ一人で参じ、生きて栄えることを望まず、死をもって報いることを存じておりました。今、天命は大きく帰し、群迷は改めて帰属いたします。ここに率いる所部を率い、身を縛って誅罰を待ちます。命令に背き拒んだ罪は、どうか烹殺の刑をお聞き入れください。」薛索児が死んだ後、薛安都は柳光世に下邳を守らせていたが、この時も配下を率いて帰降した。太宗は四方がすでに平定されたので、淮水の外に威を示そうとし、張永と沈攸之に大軍を率いて迎えさせた。薛安都は、すでに帰順したのだから重兵を派遣すべきではないと考え、罪を免れないことを恐れ、使者を送って索虜(北魏)を招き寄せた。三年正月、索虜は博陵公の尉遅苟人、城陽公の孔伯恭に二万騎を率いさせて救援に向かわせた。張永らは退却し、薛安都は城門を開いて虜を迎え入れた。虜はただちに薛安都を徐州刺史・河東公に任命した。四年三月、桑乾に召還された。五年、虜の地で死去した。享年六十。

原文子勛平定,安都遣別駕從事史畢眾愛、下邳太守王煥等奉啟書詣太宗歸款,曰:「臣庸隸荒萌,偷生上國,過蒙世祖孝武皇帝過常之恩,犬馬有心,實感恩遇。是以晉安始唱,投誠孤往,不期生榮,實存死報。今天命大歸,羣迷改屬,輒率領所部,束骸待誅,違拒之罪,伏聽湯鑊。」索兒之死也,安都使柳光世守下邳,至是亦率所領歸降。太宗以四方已平,欲示威於淮外,遣張永、沈攸之以重軍迎之。安都謂既已歸順,不應遣重兵,懼不免罪,乃遣信要引索虜。三年正月,索虜遣博陵公尉遲苟人、城陽公孔伯恭二萬騎救之。永等引退,安都開門納虜,虜即授安都徐州刺史、河東公。四年三月,召還桑乾。五年,死於虜中,時年六十。

初め、薛安都が兵を挙げたとき、長史の蘭陵の儼が密かに彼を除こうと図ったが、殺害された。薛安都が桑乾に向かう前、前軍将軍の裴祖隆が尉遅苟人を殺害し、彭城を挙げて帰順しようと謀ったが、事が漏れて誅殺された。員外散騎侍郎の孫耿之は薛索児を攻撃して戦死し、また劉彌之、張霊慶も戦いに敗れて殺害された。彼らはすべて太宗に哀れまれ、蘭陵儼は光禄勲を、裴祖隆は寧朔将軍・兗州刺史を、孫耿之は羽林監を、劉彌之は輔国将軍・青州刺史を、張霊慶は寧朔将軍・冀州刺史をそれぞれ追贈された。

原文初,安都起兵,長史蘭陵儼密欲圖之,見殺。安都未向桑乾,前軍將軍裴祖隆謀殺苟人,舉彭城歸順,事洩,見誅。員外散騎侍郎孫耿之擊索兒戰死,及劉彌之、張靈慶皆戰敗見殺,並為太宗所哀,追贈儼光祿勳,祖隆寧朔將軍、兗州刺史,耿之羽林監,彌之輔國將軍、青州刺史,靈慶寧朔將軍、冀州刺史。

薛安都の子の薛伯令、薛環龍は、梁州と雍州の間で逃亡生活を送った。三年、逃亡者数千人を率いて広平を襲撃し、太守の劉冥虬を捕らえ、順陽を攻めてこれを陥落させ、義成、扶風を攻略し、守宰を置いた。雍州刺史の巴陵王劉休若が南陽太守の張敬児、新野太守の劉攘兵を派遣してこれを撃破し、ともに捕らえた。

原文安都子伯令、環龍,亡命梁、雍二州之間。三年,率亡命數千人襲廣平,執太守劉冥虬,攻順陽,克之,略有義成、扶風,置立守宰。雍州刺史巴陵王休若遣南陽太守張敬兒、新野太守劉攘兵擊破之,並禽。

以前、東安・東莞二郡太守の張讜が団城を守っていた。団城は彭城の東北にあった。初めは薛安都に同調したが、最後には帰順した。太宗は彼を東徐州刺史としたが、再び虜に陥落させられた。

原文先是,東安、東莞二郡太守張讜守團城,在彭城東北。始同安都,末亦歸順,太宗以為東徐州刺史,復為虜所沒。

沈文秀は字あざなを仲遠といい、呉興郡武康県の人で、司空しくうの沈慶之の弟の子である。父は沈劭之で、南中郎行参軍であった。

原文沈文秀字仲遠,吳興武康人,司空慶之弟子也。父劭之,南中郎行參軍。

沈文秀は初め郡主簿、功曹史を務めた。沈慶之が貴顕になった後、沈文秀は東海王劉褘の撫軍行参軍として仕官し、また義陽王劉昶の東中郎府に移り、東遷県令、銭唐県令、西陽王劉子尚の撫軍参軍、武康県令、尚書庫部郎、本邑中正、建康県令を歴任した。尋陽王の私奴を鞭打ち殺した罪で免官され、さらに杖百回を加えられた。まもなく官職に復帰した。前廃帝が即位すると、建安王劉休仁りゅうきゅうじんの安南録事参軍、射声校尉となった。

原文文秀初為郡主簿,功曹史,慶之貴後,文秀起家為東海王褘撫軍行參軍,又度義陽王昶東中郎府,東遷、錢唐令,西陽王子尚撫軍參軍,武康令,尚書庫部郎,本邑中正,建康令。坐為尋陽王鞭殺私奴,免官,加杖一百。尋復官。前廢帝即位,為建安王休仁安南錄事參軍,射聲校尉。

景和元年(465年)、沈文秀は青州・徐州の東莞・東安二郡諸軍事を監督し、建威将軍・青州刺史に任じられた。当時、前廃帝(劉子業りゅうしぎょう)は狂乱で道理に外れた行いをし、朝廷内外は憂慮と危険に満ちていた。文秀が任地へ赴こうとした時、配下の部隊は白下に駐屯し出発した。文秀は慶之(沈慶之)に言った。「主上はこのように狂暴で、国家の崩壊が迫っています。それなのに我が一族はその寵愛と信任を受け、世間の人は皆、我々が主上と心を一つにしていると思っています。しかもこの人の性格は気まぐれで、猜疑心が特に強く、将来の災いは、事態がどうなるか測りがたい。今、この兵の力によって図れば、手のひらを返すよりも易く、千年に一度の機会であり、決して逃すべきではありません。」慶之は従わなかった。文秀は一度ならず強く勧め、言うたびに涙を流したが、慶之の心はついに変わらなかった。文秀が出発した後、慶之は果たして帝に殺された。慶之の死後、帝は直閤の江方興に兵を率いさせて文秀を誅殺させようとしたが、方興が到着する前に、太宗(明帝)がすでに乱を平定し、駅伝を飛ばして方興を制止させた。方興が到着すると、文秀に捕らえられたが、まもなく釈放され、京師に帰還させられた。

原文景和元年,遷督青州徐州之東莞東安二郡諸軍事、建威將軍、青州刺史。時帝狂悖無道,內外憂危,文秀將之鎮,部曲出屯白下,說慶之曰:「主上狂暴如此,土崩將至,而一門受其寵任,萬物皆謂與之同心。且此人性情無常,猜忌特甚,將來之禍,事又難測。今因此眾力,圖之易於反掌,千載一時,萬不可失。」慶之不從。文秀固請非一,言輒流涕,終不回。文秀既行,慶之果為帝所殺。慶之死後,帝遣直閤江方興領兵誅文秀,方興未至,太宗已定亂,馳驛駐之。方興既至,為文秀所執,尋見釋,遣還京師。

当時、晋安王の劉子勛が尋陽に拠って反乱を起こし、朝廷の軍が外征し、文秀に徴兵を求めた。文秀は劉弥之、張霊慶、崔僧琁の三軍を朝廷に派遣した。その時、徐州刺史の薛安都はすでに子勛に同調しており、使者を送って文秀に連絡し、四方が一斉に挙兵しているとして、ともに叛逆するよう勧めた。文秀はすぐに弥之らに命じて安都に呼応させた。弥之らはまもなく帰順した。この事は安都伝にある。弥之は青州の有力な氏族で、同族が非常に多く、諸宗族が相集まって北海に奔り、城を占拠して文秀に抵抗した。平原・楽安二郡太守の王玄黙は琅邪に拠り、清河・広川二郡太守の王玄邈は盤陽城に拠り、高陽・勃海二郡太守の劉乗民は臨済城に拠り、いずれも義兵を起こした。文秀の司馬である房文慶はこれに応じようと謀ったが、文秀に殺された。文秀は軍主の解彦士を派遣して北海を攻撃し陥落させた。乗民の従弟の伯宗が郷兵を集め、再び北海を奪回し、そこで配下の兵を率いて青州の治所である東陽城に向かった。文秀はこれを防ぎ、伯宗は戦いに敗れて傷を負い、弟の天愛が支えて退こうとした。伯宗は言った。「大丈夫は戦場で死に、身をもって国に殉ずべきであり、どうして女子供の手の中で死ぬことができようか。弟は速やかに去れ、二人とも死ぬことはないように。」そして殺され、龍驤将軍・長広太守を追贈された。

原文時晉安王子勛據尋陽反叛,六師外討,徵兵於文秀,文秀遣劉彌之、張靈慶、崔僧琁三軍赴朝廷。時徐州刺史薛安都已同子勛,遣使報文秀,以四方齊舉,勸令同逆,文秀即令彌之等回應安都。彌之等尋歸順,事在安都傳。彌之青州強姓,門族甚多,諸宗從相合率奔北海,據城以拒文秀。平原、樂安二郡太守王玄默據琅邪,清河、廣川二郡太守王玄邈據盤陽城,高陽、勃海二郡太守劉乘民據臨濟城,並起義。文秀司馬房文慶謀應之,為文秀所殺。文秀遣軍主解彥士攻北海陷之,乘民從弟伯宗合率鄉兵,復克北海,因率所領向青州所治東陽城。文秀拒之,伯宗戰敗被創,弟天愛扶持將去,伯宗曰:「丈夫當死戰場,以身殉國,安能歸死兒女手中乎。弟可速去,無為兩亡。」乃見殺,追贈龍驤將軍、長廣太守。

太宗は青州刺史の明僧暠と東莞・東安二郡太守の李霊謙に軍を率いて文秀を討伐させた。玄邈、乗民、僧暠らはともに進軍して城を攻めたが、戦うたびに文秀に打ち破られ、離散してはまた集結し、このようなことが十余度も繰り返された。泰始二年(466年)八月、尋陽が平定されると、太宗は尚書度支郎の崔元孫を派遣して諸義軍を慰労させたが、僧暠に従って戦い、敗れて殺され、寧朔将軍・冀州刺史を追贈された。上(明帝)は文秀の弟の文炳を遣わし、文秀に詔を伝えさせた。「皇帝が前督青州徐州之東莞東安二郡諸軍事・建威将軍・青州刺史に問う。朕は昨年乱を平定し、その功績は天下に響き渡った。卿の一族に対しては、特に格別の恩恵を与えた。卿が命を今日まで延ばせているのは、誰の力によるのか?何故に国に背き恩を忘れ、遠く逆賊と同調するのか。今や天下はすでに平定され、四方は安寧統一されている。卿だけが孤城を守り、何に帰順し奉じようとするのか?しかも卿の一族百人は都におり、墳墓もある。心情が木石でないならば、まだ顧みることもあろう。故に文炳を指図して派遣し、詳しく宣べ示させる。凡そ叛逆の徒で、自ら兵の主導者となった者でも、一人として罪を加えないことは、文炳が詳しく伝える通りである。卿だけが特別な者で、自立できるというのか。速やかに配下の兵を率い、ともに軍門に至るべし。別に詔を下し、役人に命じて一切問わない。もしそうしなければ、国には常の刑罰があり、ただ弟や子息を殺戮するだけでなく、卿の墳墓もまた平らげるであろう。それはすでに斉の地の百姓に謝罪するためであり、また将士の心を労うためでもある。故に今の詔がある。」三年(467年)二月、文秀は帰順して罪を請い、そのまま本来の職務に安んじた。

原文太宗遣青州刺史明僧暠、東莞東安二郡太守李靈謙率軍伐文秀。玄邈、乘民、僧暠等並進軍攻城,每戰輒為文秀所破,離而復合,如此者十餘。泰始二年八月,尋陽平定,太宗遣尚書度支郎崔元孫慰勞諸義軍,隨僧暠戰敗見殺,追贈寧朔將軍、冀州刺史。上遣文秀弟文炳詔文秀曰:「皇帝問前督青州徐州之東莞東安二郡諸軍事、建威將軍、青州刺史,朕去歲撥亂,功振普天,於卿一門,特有殊澤,卿得延命至今,誰之力邪?何故背國負恩,遠同逆豎。今天下已定,四方寧壹,卿獨守窮城,何所歸奉?且卿百口在都,兼有墳墓,想情非木石,猶或顧懷。故指遣文炳具相宣示。凡諸逆節,親為戎首,一不加罪,文炳所具。卿獨何人,而能自立。便可速率部曲,同到軍門,別詔有司,一無所問。如其不爾,國有常刑,非惟戮及弟息,亦當夷卿墳壟,既以謝齊土百姓,亦以勞將士之心。故有今詔。」三年二月,文秀歸命請罪,即安本任。

これより先、冀州刺史の崔道固も歴城に拠ってともに叛逆し、地元の民衆の義兵に攻撃され、文秀とともに使者を送って北魏(虜)を引き入れた。北魏は将軍の慕輿白曜に大軍を率いさせて救援させた。文秀はすでに朝廷の命令を受けていたので、北魏が無備であるのに乗じて、兵を放って急襲し、多くの死傷者を出した。北魏はそこで進軍して城を包囲した。文秀は兵士を慰撫統御するのが巧みで、将士は皆そのために力を尽くし、北魏と戦うたびに、つねにこれを打ち破り、敵の陣営や砦を急襲して、向かうところ勝利しないことはなかった。太宗は文秀の号を輔国将軍に進めた。その年(泰始三年)八月、北魏の蜀郡公の抜式らが騎兵・歩兵数万人で西の外城郭に入り、城下にまで迫った。文秀は輔国将軍の垣諶に命じてこれを撃破させた。九月、また城の東に迫った。十月、南の外城郭を攻撃した。文秀は員外散騎侍郎の黄弥之らに命じて迎撃させ、数千を斬り捕らえた。四年(468年)、また文秀の号を右将軍に進め、新城県侯に封じ、食邑五百戸を与えた。北魏の青州刺史の王隆顕は安丘県でまた軍主の高崇仁に打ち破られ、死者数百人を出した。北魏が青州を包囲すること久しく、太宗の派遣した救兵はみな進もうとせず、そこで文秀の弟で征北中兵参軍の文静を輔国将軍とし、高密・北海・平昌・長広・東萊の五郡軍事を統率させ、海路から青州を救援させた。文静は東萊の不其城に至ったが、北魏に遮断され、進むことができず、そこで城を守って自衛し、また北魏に攻撃されたが、戦うたびに勝利し、太宗は彼を東青州刺史に加えた。四年(468年)、不其城は北魏に陥落され、文静は殺された。

原文先是,冀州刺史崔道固亦據歷城同逆,為土人起義所攻,與文秀俱遣信引虜,虜遣將慕輿白曜率大眾援之,文秀已受朝命,乃乘虜無備,縱兵掩擊,殺傷甚多。虜乃進軍圍城,文秀善於撫御,將士咸為盡力,每與虜戰,輒摧破之,掩擊營砦,往無不捷。太宗進文秀號輔國將軍。其年八月,虜蜀郡公拔式等馬步數萬人入西郭,直至城下。文秀使輔國將軍垣諶擊破之。九月,又逼城東。十月,進攻南郭。文秀使員外散騎侍郎黃彌之等邀擊,斬獲數千。四年,又進文秀號右將軍,封新城縣侯,食邑五百戶。虜青州刺史王隆顯於安丘縣又為軍主高崇仁所破,死者數百人。虜圍青州積久,太宗所遣救兵並不敢進,乃以文秀弟征北中兵參軍文靜為輔國將軍,統高密、北海、平昌、長廣、東萊五郡軍事,從海道救青州。文靜至東萊之不其城,為虜所斷遏,不得進,因保城自守,又為虜所攻,屢戰輒剋,太宗加其東青州刺史。四年,不其城為虜所陷,文靜見殺。

文秀は三年間包囲され、外に援軍はなく、兵士たちは彼のために命を尽くし、離反する者はなく、日夜戦闘し、甲冑にはシラミが生じた。五年(469年)正月二十四日、ついに北魏に陥落された。城が敗れた日、文秀は軍服を解き、ゆったりとした服を着て静かに座り、左右の者に持っていた節を持って来るよう命じた。北魏兵が入ってくると、刃物が交差して迫り、「青州刺史の沈文秀はどこだ?」と問うた。文秀は声を張り上げて言った。「私がそうだ。」そこで捕らえられ、引きずり出されて役所の前庭に連れて行かれ、衣服を剥ぎ取られた。その時、白曜は城の西南の角楼におり、裸で縛られた文秀が白曜の前に連れて来られ、捕らえた者が拝礼を命じた。文秀は言った。「それぞれ二国の大臣である。互いに拝礼する礼儀はない。」白曜は命じて衣服を返させ、酒食を設けさせ、鎖でつないで桑乾に送った。その他の者は乱兵に殺され、死者は非常に多かった。太宗は先に尚書功論郎の何如真を派遣して青州の文武官を選抜させていたが、彼もまた北魏に殺された。文秀は桑乾で合わせて十九年間を過ごし、斉の永明四年(486年)に病死した。時に六十一歳であった。

原文文秀被圍三載,外無援軍,士卒為之用命,無離叛者,日夜戰鬭,甲冑生蟣虱。五年正月二十四日,遂為虜所陷。城敗之日,解釋戎衣,緩服靜坐,命左右取所持節。虜既入,兵刃交至,問曰:「青州刺史沈文秀何在?」文秀厲聲曰:「身是。」因執之,牽出聽事前,剝取衣服。時白曜在城西南角樓,裸縛文秀至曜前,執之者令拜,文秀曰:「各二國大臣,無相拜之禮。」曜命還其衣,為設酒食,鏁送桑乾。其餘為亂兵所殺,死者甚眾。太宗先遣尚書功論郎何如真選青州文武,亦為虜所殺。文秀在桑乾凡十九年,齊之永明四年,病死,時年六十一。

崔道固は清河の人である。世祖(孝武帝)の時代に、有能な人物として知られ、太子屯騎校尉、左軍将軍を歴任した。大明三年(459年)、出向して斉・北海二郡太守となった。民の焦恭が古墳を破壊し、玉の鎧を得た。道固がこれを検査して押収し、献上し、焦恭を捕らえて拘束した。入朝して新安王劉子鸞の北中郎諮議参軍、永嘉王劉子仁りゅうしじんの左軍司馬となった。

原文崔道固,清河人也。世祖世,以幹用見知,歷太子屯騎校尉,左軍將軍。大明三年,出為齊、北海二郡太守。民焦恭破古冢,得玉鎧,道固檢得,獻之,執繫恭。入為新安王子鸞北中郎諮議參軍,永嘉王子仁左軍司馬。

景和元年(465年)、出向して寧朔将軍・冀州刺史となり、歴城を鎮守した。泰始二年(466年)、号を輔国将軍に進め、また征虜将軍に進めた。当時、徐州刺史の薛安都がともに叛逆したので、上(明帝)はすぐに道固の本来の号を徐州刺史として安都に代えようとした。道固は命令を受けず、子の景微と軍主の傅霊越に兵を率いさせて安都のもとへ赴かせた。まもなく地元の民衆の義兵に攻撃され、戦うたびに不利となり、門を閉じて自衛した。ちょうど四方が平定されると、上は使者を派遣して慰撫を宣べ、道固は詔を奉じて帰順した。これより先、沈文秀とともに北魏を引き入れていたが、北魏が到着すると、固く守ってこれを防ぎ、そこで包囲攻撃を受けた。北魏が進軍するたびに、つねに道固によって打ち破られた。三年(467年)、都督冀青兗幽并五州諸軍事・前将軍・冀州刺史とし、節を加え、また号を平北将軍に進めた。その年、北魏に陥落され、桑乾に送られ、北魏の中で死んだ。

原文景和元年,出為寧朔將軍、冀州刺史,鎮歷城。泰始二年,進號輔國將軍,又進號征虜將軍。時徐州刺史薛安都同逆,上即還道固本號為徐州代之。道固不受命,遣子景微、軍主傅靈越率眾赴安都。既而為土人起義所攻,屢戰失利,閉門自守。會四方平定,上遣使宣慰,道固奉詔歸順。先是與沈文秀共引虜,虜既至,固守距之,因被圍逼。虜每進,輒為道固所摧。三年,以為都督冀青兗幽并五州諸軍事、前將軍、冀州刺史,加節,又進號平北將軍。其年,為虜所陷,被送桑乾,死於虜中。