宋書

列伝第四十五 謝莊 王景文

列伝第四十五 謝莊 王景文

謝莊は字あざなを希逸といい、陳郡陽夏の人で、太常の謝弘微の子である。

原文謝莊字希逸,陳郡陽夏人,太常弘微子也。

七歳の時、文章を作ることができ、論語に通じた。成長すると、美しい容貌と立ち居振る舞いで、太祖(文帝)は彼を見て異才と認め、尚書僕射しょうしょぼくやの殷景仁と領軍将軍の劉湛に言った。「藍田は玉を産すると言うが、それは虚言ではないな。」初め始興王劉濬の後軍法曹行参軍となり、太子舎人、廬陵王文学、太子洗馬、中舎人、廬陵王劉紹の南中郎諮議参軍に転じた。また随王劉誕の後軍諮議に転じ、記室を兼ねた。左氏伝の経と伝を分け、国ごとに篇を立て、一丈いちじょう四方の木版を作り、山川土地を図示し、それぞれに区分と道理を備え、離せば州や郡が区別され、合わせれば天下が一つになるようにした。元嘉二十七年、索虜(北魏)が彭城ほうじょうを侵すと、虜は尚書の李孝伯を使者として派遣し、鎮軍長史の張暢と会談したが、孝伯は謝莊と王微について尋ねた。その名声が遠くまで広まっていたのはこのようなことであった。二十九年、太子中庶子に任じられた。その時、南平王劉鑠が赤い鸚鵡を献上し、広く臣下たちに賦を作るよう詔があった。太子左衛率の袁淑は当時文才で第一とされ、賦を作り終えて、それを持って謝莊に見せた。謝莊の賦もすでに完成しており、袁淑はそれを見て嘆じて言った。「江東に私がいなければ、あなたがただ一人秀でているだろう。私にあなたがいなければ、やはり一代の傑物である。」そして自分の賦を隠してしまった。

原文年七歲,能屬文,通論語。及長,韶令美容儀,太祖見而異之,謂尚書僕射殷景仁、領軍將軍劉湛曰:「藍田出玉,豈虛也哉。」初為始興王濬後軍法曹行參軍,轉太子舍人,廬陵王文學,太子洗馬,中舍人,廬陵王紹南中郎諮議參軍。又轉隨王誕後軍諮議,並領記室。分左氏經傳,隨國立篇,製木方丈,圖山川土地,各有分理,離之則州別郡殊,合之則宇內為一。元嘉二十七年,索虜寇彭城,虜遣尚書李孝伯來使,與鎮軍長史張暢共語,孝伯訪問莊及王微,其名聲遠布如此。二十九年,除太子中庶子。時南平王鑠獻赤鸚鵡,普詔羣臣為賦。太子左衞率袁淑文冠當時,作賦畢,齎以示莊,莊賦亦竟,淑見而歎曰:「江東無我,卿當獨秀。我若無卿,亦一時之傑也。」遂隱其賦。

元凶(劉劭)が帝を弑しい逆して即位すると、司徒しと左長史に転じた。世祖(孝武帝)が討伐に乗り出すと、密かに檄文を謝莊に送り、加筆修正して公布するよう命じた。謝莊は腹心の門生である具慶を使い、密かに世祖のもとに啓事を奉じて言った。「賊の劉劭は自ら天から見放され、冠を裂き冕を壊し、極限の弑逆を行い、開闢以来聞いたことがなく、四海は血の涙を流し、幽明ともに憤っている。三月二十七日の檄文を奉読し、聖なる御跡は明らかであり、伏して読み感慶にたえない。天が王室を助け、叡智の光が再び輝いている。殿下は文明を山岳に備え、神武を陝地に居し、厳かに乾威を奉じ、謹んで天罰を行い、社稷の仇を洗い、華夷の恥を雪ぎ、弛み墜ちた構造を再び築き直し、汚辱を受けた民に再び明るい目を見させてくださる。伏して承るに、命じられたところによれば、柳元景、司馬文恭、宗慤、沈慶之らの精鋭十万は、すでに近道に駐屯している。殿下自ら鋭い軍旅を統率し、律令を授けて続いて進軍される。荊州、鄢の軍、岷、漢の衆は、船は万里に連なり、旌旗は天を覆い、九土は暗に符合し、諸侯はことごとく集まる。今、独夫の醜い類は、まだ一旅にも満たず、自ら暴れ滅び、宮中に横流し、百官は息をひそめ、道路では目配せするのみである。檄文が届き、ただちに京邑に公布すると、朝野ともに喜び、里では頌し、道では歌い、家々で互いに慶賀し、みなその影を見て魂を震わせ、雲を仰ぎ見て足を止めて待ち望んでいる。先帝は日月の光をもって区宇を照臨され、風化と恩沢の及ぶところ、幽遠なところまで行き渡らなかったところはない。ましてや下官は代々寵霊を蒙り、恩恵をいただくこと過分であり、病気と称して私邸に引きこもり、幸いにも虎口を免れたが、報いようとする志はあっても、その道がなかった。今、大軍が近くに駐屯し、永遠の清平が遠くないことを欣び悲しみ躍り上がり、どうしたらよいかわからない。」

原文元凶弒立,轉司徒左長史。世祖入討,密送檄書與莊,令加改治宣布。莊遣腹心門生具慶奉啟事密詣世祖曰:「賊劭自絕於天,裂冠毀冕,窮弒極逆,開闢未聞,四海泣血,幽明同憤。奉三月二十七日檄,聖迹昭然,伏讀感慶。天祚王室,叡哲重光。殿下文明在嶽,神武居陝,肅將乾威,龔行天罰,滌社稷之仇,雪華夷之恥,使弛墜之構,更獲締造,垢辱之甿,復得明目。伏承所命,柳元景、司馬文恭、宗慤、沈慶之等精甲十萬,已次近道。殿下親董銳旅,授律繼進。荊、鄢之師,岷、漢之眾,舳艫萬里,旌斾虧天,九土冥符,羣后畢會。今獨夫醜類,曾不盈旅,自相暴殄,省闥橫流,百僚屏氣,道路以目。檄至,輒布之京邑,朝野同欣,里頌塗歌,室家相慶,莫不望景聳魂,瞻雲佇足。先帝以日月之光,照臨區宇,風澤所漸,無幽不洽。況下官世荷寵靈,叨恩踰量,謝病私門,幸免虎口,雖志在投報,其路無由。今大軍近次,永清無遠,欣悲踊躍,不知所裁。」

世祖が即位すると、侍中じちゅうに任じられた。その時、索虜(北魏)が互市を通じることを求めたので、上(孝武帝)は群臣に広く議論するよう詔を下した。謝莊が議して言った。「臣の愚見では、獯鬻(匈奴)は義を捨て、ただ利を見るのみであり、関市の請いは、あるいは国を窺うためのものである。これに順じれば弱さを示すことになり、遠方を柔らげる道理は明らかでない。拒んでその隙を観れば、強さを表すのに十分である。かつて漢の文帝が和親しても、彭陽の寇は止まらなかった。武帝が約束を修めても、馬邑の謀は廃されなかった。だから余力があれば経略し、不足すれば関を閉ざすのである。なぜ冠帯の国を屈して、弓を引く習俗と通じ、益のない軌道を樹て、塵を点じる風を招く必要があろうか。交易に関する不当な議論は、すでに深く杜絶すべきであり、和約に関する詭弁な論は、特に固く絶つべきである。臣は凡庸で管見に蔽われており、どうして国の儀礼を識りえようか。恩恵をもって誘い導いてくださるので、敢えて心を披かないわけにはいかない。」

原文世祖踐阼,除侍中。時索虜求通互市,上詔羣臣博議。莊議曰:「臣愚以為獯獫棄義,唯利是視,關市之請,或以覘國,順之示弱,無明柔遠,距而觀釁,有足表強。且漢文和親,豈止彭陽之寇;武帝修約,不廢馬邑之謀。故有餘則經略,不足則閉關。何為屈冠帶之邦,通引弓之俗,樹無益之軌,招塵點之風。交易爽議,既應深杜;和約詭論,尤宜固絕。臣庸管多蔽,豈識國儀,恩誘降逮,敢不披盡。」

その時、驃騎ひょうき将軍の竟陵王劉誕が荊州に赴任することになり、丞相・荊州刺史ししの南郡王劉義宣を召し入れて輔弼させようとしたが、劉義宣は固辞して入朝せず、劉誕はすぐに期日を決めて船出の準備をした。謝莊は「丞相(劉義宣)には入朝の意思がなく、驃騎(劉誕)が出発するには期日があるので、互いに逼迫しているようであり、事態にとって不便です」と考えた。世祖はそこで劉誕の出発日を延期し、劉義宣も結局出発しなかった。

原文時驃騎將軍竟陵王誕當為荊州,徵丞相、荊州刺史南郡王義宣入輔,義宣固辭不入,而誕便克日下船。莊以:「丞相既無入志,驃騎發便有期,如似欲相逼切,於事不便。」世祖乃申誕發日,義宣竟亦不下。

上(孝武帝)は即位の初め、風教と法則を広めようとし、節倹を命じる詔書を下した(事柄は孝武帝本紀にある)。謝莊はこの制度が実行されないことを憂慮し、また言上した。「詔には『貴戚が利を競い、貨物を店舗で売買する者は、すべて禁制する』とあります。これは実に民の願いにかなったものです。その中に違反する者がいれば、制裁に従って糾弾すべきです。もし法を廃して恩を施せば、法令が曲げられることになります。この処分については伏して深く考えていただきたく、明詔が下されたのに、実態と名声が食い違うようなことがあってはなりません。臣の愚見では、禄位にある大臣は、特に民と利を争うべきではなく、この詔の中に含めることができるかどうかわかりませんが?葵を抜き機織りを去る(私利を捨てる)ことは、実に深く広く行うべきです。」

原文上始踐阼,欲宣弘風則,下節儉詔書,事在孝武本紀。莊慮此制不行,又言曰:「詔云『貴戚競利,興貨廛肆者,悉皆禁制』。此實允愜民聽。其中若有犯違,則應依制裁糾。若廢法申恩,便為令有所屈。此處分伏願深思,無緣明詔既下,而聲實乖爽。臣愚謂大臣在祿位者,尤不宜與民爭利,不審可得在此詔不?拔葵去織,實宜深弘。」

孝建元年、左衛将軍に昇進した。初め、世祖がかつて謝莊に宝剣を賜ったが、謝莊はそれを豫州刺史の魯爽との別れの際に贈った。魯爽は後に反乱を起こした。世祖は宴会の席で、剣の所在を尋ねた。謝莊は答えて言った。「以前、魯爽と別れる際に贈りました。ひそかに陛下の杜郵の賜り物(自害を命じられること)を避けたのです。」上は大いに喜び、当時は適切な言葉であるとされた。

原文孝建元年,遷左衞將軍。初,世祖嘗賜莊寶劍,莊以與豫州刺史魯爽送別。爽後反叛,世祖因宴集,問劍所在,答曰:「昔以與魯爽別,竊為陛下杜郵之賜。」上甚說,當時以為知言。

その時、人材登用の道が狭かったので、上表して言った。

原文于時搜才路陿,乃上表曰:

詔があり、謝莊の上表はこのようであるから、外廷に付して詳しく議論させよ、とされたが、事は実行されなかった。

原文有詔莊表如此,可付外詳議,事不行。

その年、吏部尚書に任じられた。謝莊はもともと病気が多く、選部に居ることを望まず、大司馬の江夏王劉義恭に手紙を送って自ら陳述した。

原文其年,拜吏部尚書。莊素多疾,不願居選部,與大司馬江夏王義恭牋自陳,曰:

三年、病気を理由に辞退することが多かったため、官を免じられた。

原文三年,坐辭疾多,免官。

大明元年、都官尚書として起用され、刑獄の改定を上奏して言った。

原文大明元年,起為都官尚書,奏改定刑獄,曰:

上(孝武帝)は当時自ら朝政を覧て、常に権力が臣下に移ることを憂慮し、吏部尚書が選挙を司ることに鑑み、その勢力を軽くしようと考えた。二年、詔を下して言った。「八柄をもって下を治めるには、爵を先とし、九徳をことごとく行うには、政典が第一である。銓衡(官吏登用)は政治の枢機であり、興廃がかかっている。近世以来、その順序を失い、ただ国権を握るだけで、結局は権勢への非難を招いている。今、南北に多くの士人がおり、勲功と勤労はますます積み重なっている。物情の善し悪しは、実にこの任にかかっている。人材登用の詠は、聖人だけが適切に行え、哲人を見分ける美徳は、帝でさえ難しい。加えて末世の俗では、譲りの議論が風潮となり、一人の識見で、多くの人々の誹りに当たらねばならず、浮沈を自ら得ることを望むのは、どうしてできるだろうか。吏部尚書は郎の分置に従って設置し、併せて閑散な官庁を詳しく省くこと。」また別に太宰の江夏王劉義恭に詔して言った。

原文上時親覽朝政,常慮權移臣下,以吏部尚書選舉所由,欲輕其勢力,二年,下詔曰:「八柄馭下,以爵為先;九德咸事,政典居首。銓衡治樞,興替攸寄,頃世以來,轉失厥序,徒秉國鈞,終貽權謗。今南北多士,勳勤彌積,物情善否,實繫斯任。官人之詠,維聖克允;則哲之美,粵帝所難。加澆季在俗,讓議成風,以一人之識,當羣品之誚,望沈浮自得,庸可致乎。吏部尚書可依郎分置,并詳省閑曹。」又別詔太宰江夏王義恭曰:

そこで吏部尚書を二人置き、五兵尚書を廃止し、謝荘と度支尚書の顧覬之がともに選職を補った。右衞将軍に転じ、給事中きゅうじちゅうを加えられた。

原文於是置吏部尚書二人,省五兵尚書,莊及度支尚書顧覬之並補選職。遷右衞將軍,加給事中。

その時、河南から舞馬が献上され、詔によって群臣に賦を作らせたが、謝荘が上奏したその文辞は次のようであった。

原文時河南獻舞馬,詔羣臣為賦,莊所上其詞曰:

また謝荘に舞馬歌を作らせ、楽府に歌わせた。

原文又使莊作舞馬歌,令樂府歌之。

五年(大明五年)、また侍中となり、前軍将軍を兼任した。その時、世祖(孝武帝)が外出し、夜に帰還した際、門を開けるよう命じたが、謝荘は留守を預かっており、棨信(通行証)が偽りの可能性もあるとして、詔に従わず、墨詔(皇帝直筆の詔)がなければ開けないと主張した。上(孝武帝)は後に酒宴の席で和やかに言った。「卿は郅君章(郅惲)の真似をしようというのか?」謝荘は答えて言った。「臣は聞きます。狩猟の巡察には限度があり、郊祀こうしには節度があると。遊猟に耽ることは、以前からの戒めとして記されています。陛下は今、塵や露に身をさらし、朝に出て夜に帰られます。恐らくは不逞の輩が、妄りに偽りの命令を出すかもしれません。臣はそれゆえ、神筆(皇帝の直筆)を伏して待たなければ、門を開けることができなかったのです。」游撃将軍に転任し、また本州(陳郡)の大中正、晉安王劉子勛の征虜長史・広陵太守たいしゅを兼任し、冠軍かんぐん将軍を加えられた。江夏王劉義恭の太宰長史に改められ、将軍の位は元のままだった。六年(大明六年)、また吏部尚書となり、国子博士を兼任したが、公車令の張奇を選任したことで連座して免官された。この事件は『顔師伯伝』にある。

原文五年,又為侍中,領前軍將軍。于時世祖出行,夜還,敕開門,莊居守,以棨信或虛,執不奉旨,須墨詔乃開。上後因酒讌從容曰:「卿欲效郅君章邪?」對曰:「臣聞蒐巡有度,郊祀有節,盤于遊田,著之前誡。陛下今蒙犯塵露,晨往宵歸,容恐不逞之徒,妄生矯詐,臣是以伏須神筆,乃敢開門耳。」改領游擊將軍,又領本州大中正,晉安王子勛征虜長史、廣陵太守,加冠軍將軍。改為江夏王義恭太宰長史,將軍如故。六年,又為吏部尚書,領國子博士,坐選公車令張奇免官,事在顏師伯傳。

その時、北中郎将の新安王劉子鸞が大いに寵愛されており、(孝武帝が)彼に才望ある者を招き寄せようとさせたため、子鸞が謝荘を長史に任命した。まもなく府の号が撫軍に進められ、そのまま長史・臨淮太守に任じられたが、拝命せず、また吳郡太守に任じられた。謝荘は病が多く、京師を離れるのを好まず、また以前の職(吏部尚書?)に任じられた。前廃帝が即位すると、金紫光禄大夫とした。初め、世祖の寵姫であった殷貴妃が薨去した時、謝荘が誄を作り、「贊軌堯門(堯の母の門に軌跡を賛える)」と記した。これは漢の昭帝の母である趙婕妤の「堯母門」の故事を引用したもので、当時東宮にいた廃帝はこれを恨みに思っていた。この時、廃帝は人を遣わして謝荘を詰問させた。「卿は昔、殷貴妃の誄を作ったが、東宮(太子である自分)の存在を少しは知っていたのか?」そして彼を誅殺しようとした。ある者が帝に言った。「死は人が皆同じくするもので、ただ一度の苦しみに過ぎず、深く苦しめるには足りません。謝荘は幼少より富貴に育ちました。今しばらく尚方(官営工場)に繋いで、天下の苦しみの厳しさを知らせてから、殺しても遅くはありません。」帝はその言葉を認め、左尚方に拘禁した。太宗(明帝)が乱を平定すると、釈放された。明帝が即位すると、謝荘を散騎常侍さんきじょうじ・光禄大夫とし、金章紫綬を加え、尋陽王師を兼任させた。まもなく、中書令に転じ、常侍・王師は元のままとした。すぐに金紫光禄大夫を加えられ、親信二十人を与えられ、本官はすべて元のままだった。泰始二年、死去した。享年四十六。右光禄大夫を追贈され、常侍は元のままだった。諡は憲子。著した文章四百余首があり、世に行われた。

原文時北中郎將新安王子鸞有盛寵,欲令招引才望,乃使子鸞板莊為長史,府尋進號撫軍,仍除長史、臨淮太守,未拜,又除吳郡太守。莊多疾,不樂去京師,復除前職。前廢帝即位,以為金紫光祿大夫。初,世祖寵姬殷貴妃薨,莊為誄云:「贊軌堯門。」引漢昭帝母趙婕妤堯母門事,廢帝在東宮,銜之。至是遣人詰責莊曰:「卿昔作殷貴妃誄,頗知有東宮不?」將誅之。或說帝曰:「死是人之所同,政復一往之苦,不足為深困。莊少長富貴,今且繫之尚方,使知天下苦劇,然後殺之未晚也。」帝然其言,繫於左尚方。太宗定亂,得出。及即位,以莊為散騎常侍、光祿大夫,加金章紫綬,領尋陽王師,頃之,轉中書令,常侍、王師如故。尋加金紫光祿大夫,給親信二十人,本官並如故。泰始二年,卒,時年四十六,追贈右光祿大夫,常侍如故,諡曰憲子。所著文章四百餘首,行於世。

長子の謝颺は、晉平太守となった。娘は順帝の皇后となり、(謝颺は)金紫光禄大夫を追贈された。

原文長子颺,晉平太守。女為順帝皇后,追贈金紫光祿大夫。

王景文は、琅邪郡臨沂県の人である。名は明帝の諱いみな(彧)と同じ。祖父の王穆は、臨海太守であった。伯父の王智は、若い頃から簡素で尊く、高い名声があり、高祖(劉裕)は彼を非常に重んじ、常に言った。「王智を見ると、仲祖(王濛)のことを思い出す。」劉穆之と劉毅討伐を謀った時、王智もそこにいた。ある日、劉穆之が高祖に言った。「国を討つのは重大な事です。どうして王智に知らせたのですか?」高祖は笑って言った。「この人は高潔で簡素だ。どうしてこの手の連中の議論を聞くことがあろうか。」彼がこのように理解されていた。太尉たいい諮議参軍となり、長安征伐に従軍し、留まって桂陽公劉義真の安西将軍司馬・天水太守となった。帰還して宋国の五兵尚書、晉陵太守となり、秩禄を中二千石に加増され、建陵県五等子に封じられた。太常を追贈された。父の王僧朗も、謹厳実直で知られた。元嘉年間、侍中となり、朝廷での当直に勤勉で、一度も怠ることがなく、太祖(文帝)はこれを賞賛し、湘州刺史とした。世祖(孝武帝)の大明末年、尚書左僕射となった。太宗(明帝)の初め、皇后の父として特進・左光禄大夫となり、さらに開府儀同三司に進められたが、固辞したため、侍中・特進を加えられた。まもなく薨去し、開府を追贈され、諡は元公。

原文王景文,琅邪臨沂人也。名與明帝諱同。祖穆,臨海太守。伯父智,少簡貴,有高名,高祖甚重之,常云:「見王智,使人思仲祖。」與劉穆之謀討劉毅,而智在焉。它日,穆之白高祖曰:「伐國,重事也,公云何乃使王智知?」高祖笑曰:「此人高簡,豈聞此輩論議。」其見知如此。為太尉諮議參軍,從征長安,留為桂陽公義真安西將軍司馬、天水太守。還為宋國五兵尚書,晉陵太守,加秩中二千石,封建陵縣五等子,追贈太常。父僧朗,亦以謹實見知。元嘉中,為侍中,勤於朝直,未嘗違惰,太祖嘉之,以為湘州刺史。世祖大明末,為尚書左僕射。太宗初,以后父為特進、左光祿大夫,又進開府儀同三司,固讓,乃加侍中、特進。尋薨,追贈開府,諡曰元公。

王景文は王智の後を継いだ。幼い頃から従叔父の王球に認められた。風采が美しく、道理を論じることを好み、若い頃は陳郡の謝荘と並び称された。太祖(文帝)は大いに欽重し、それゆえ太宗(明帝)に王景文の妹を娶らせ、また王景文の名が太宗と同じであることを(気にせず用いた)。高祖(劉裕)の第五女である新安公主は先に太原の王景深に嫁いだが、離別し、王景文に嫁がせようとしたが、病気を理由に固辞したため、婚姻は成立しなかった。太子太傅主簿として出仕し、太子舎人に転じ、建陵子の爵位を襲封した。出て江夏王劉義恭、始興王劉濬の征北・後軍二府の主簿、武陵王文学、世祖(孝武帝)の撫軍記室参軍、南広平太守となり、諮議参軍に転じ、引き続き安北将軍府・鎮軍将軍府に属し、出て宣城太守となった。

原文景文出繼智,幼為從叔球所知。美風姿,好言理,少與陳郡謝莊齊名。太祖甚相欽重,故為太宗娶景文妹,而以景文名與太宗同。高祖第五女新安公主先適太原王景深,離絕,當以適景文,固辭以疾,故不成婚。起家太子太傅主簿,轉太子舍人,襲爵建陵子。出為江夏王義恭、始興王濬征北後軍二府主簿,武陵王文學,世祖撫軍記室參軍,南廣平太守,轉諮議參軍,仍度安北、鎮軍府,出為宣城太守。

元凶(劉劭)が弑逆して即位すると、黄門侍郎に任じたが、就任する前に、世祖(孝武帝)が入京して討伐した。王景文は密使を遣わして帰順を申し出た。父が都邑にいたため、身を捧げることができず、事が平定された後、かなり嫌疑をかけられ責められたが、以前の恩寵ゆえに、南平王劉鑠の司空しくう長史に任じられたが、拝命しなかった。出て東陽太守となり、入朝して御史中丞、祕書監となり、越騎校尉を兼任したが拝命せず、司徒左長史に遷った。上(孝武帝)は、散騎常侍が旧来、侍中とともに献替(進言と廃止)を掌っていたことから、その選任を高めようとし、王景文と会稽の孔覬がともに南北の声望があるとして、ともにこれを補任した。まもなくまた左長史となった。姉の墓が開けられた時、臨赴しなかったことで連座し、免官された。大明二年、また祕書監、太子右衞率、侍中となった。五年、出て安陸王劉子綏の冠軍長史・輔国将軍・江夏内史となり、郢州えいしゅうの事務を代行した。また召されて侍中となり、射声校尉、右衞将軍を兼任し、給事中、太子中庶子を加えられ、右衞将軍は元のままだった。奉朝請の毛法因と博戯をして、百二十万銭を得た罪により、白衣(無官の身分)のまま職務を執ることとなった。まもなくまた侍中となり、中庶子を兼任したが、拝命しなかった。前廃帝が帝位を継ぐと、祕書監に転じ、侍中は元のままだった。父が老齢であることを理由に自ら官を解き、出て江夏王劉義恭の太宰長史、輔国将軍・南平太守となった。永光初年、吏部尚書となった。景和元年、右僕射に遷った。

原文元凶弒立,以為黃門侍郎,未及就,世祖入討,景文遣間使歸款。以父在都邑,不獲致身,及事平,頗見嫌責,猶以舊恩,除南平王鑠司空長史,不拜。出為東陽太守,入為御史中丞,祕書監,領越騎校尉,不拜,遷司徒左長史。上以散騎常侍舊與侍中俱掌獻替,欲高其選,以景文及會稽孔覬俱南北之望,並以補之。尋復為左長史。坐姊墓開不臨赴,免官。大明二年,復為祕書監,太子右衞率,侍中。五年,出為安陸王子綏冠軍長史、輔國將軍、江夏內史,行郢州事。又徵為侍中,領射聲校尉,右衞將軍,加給事中,太子中庶子,右衞如故。坐與奉朝請毛法因蒱戲,得錢百二十萬,白衣領職。尋復為侍中,領中庶子,未拜。前廢帝嗣位,徙祕書監,侍中如故。以父老自解,出為江夏王義恭太宰長史,輔國將軍、南平太守。永光初,為吏部尚書。景和元年,遷右僕射。

太宗(明帝)が即位すると、左衞将軍を兼任させた。その時、六軍が戒厳状態にあったが、王景文は兵士三十人を率いて六門に入った。諸将は皆言った。「小賊を平定殲滅するのは、遺物を拾うよりも易しい。」王景文は言った。「敵は元より小さいものなどない。蜂や蠍には毒がある。どうして軽視できようか。諸軍は事に臨んで畏れ、よく謀って成功すべきである。まず負けない態勢を作り、それこそが勝利を制する術である。」まもなく丹陽尹に遷り、僕射は元のままだった。父の喪に服したが、起復して冠軍将軍、尚書左僕射、丹陽尹となったが、僕射を固辞し、改めて散騎常侍・中書令・中軍将軍を授けられ、丹陽尹は元のままとしたが、また拝命を辞した。引き続き出て使持節・散騎常侍・都督ととく江州郢州之西陽豫州之新蔡晉熙三郡諸軍事・安南将軍・江州刺史となった。常侍の位を辞し、喪が明けてから受けた。

原文太宗即位,加領左衞將軍。時六軍戒嚴,景文仗士三十人入六門。諸將咸云:「平殄小賊,易於拾遺。」景文曰:「敵固無小,蜂蠆有毒,何可輕乎。諸軍當臨事而懼,好謀而成,先為不可勝,乃制勝之術耳。」尋遷丹陽尹,僕射如故。遭父憂,起為冠軍將軍,尚書左僕射,丹陽尹,固辭僕射,改授散騎常侍、中書令、中軍將軍,尹如故,又辭不拜。仍出為使持節、散騎常侍、都督江州郢州之西陽豫州之新蔡晉熙三郡諸軍事、安南將軍、江州刺史。讓常侍,服闋乃受。

太宗は暴君を除き、また四方を平定し、朝廷の声望ある者を引き入れて大業を助けさせようとし、詔を下して言った。「良き謀略は国を宣揚し、賞は彝命を尊ぶ。殊なる功績は朝廷に顕れ、策は王府に勤める。安南将軍・江州刺史の景文は、風度が深く純粋で、理を思う心は清らかで暢やか、人望と実力を兼ね備え、誠実さは険阻な地にも及ぶ。宝暦が開かれようとする時、密かに義の機微を賛し、妖徒が紀を犯す時は、廟略に預かって助けた。茅社に登り、永遠にその禄を伝えるべきである。朕が乱を鎮め枢機を安んじるのは、実に多くの士に依る。爵を分け功を計るのは、実に輝かしい功績に応えるためである。尚書右僕射・衛尉を領する興宗は、識見と志が詳しく正しく、思慮は通達して敏速である。吏部尚書・太子左衛率を領する淵は、器量と心情が優れて豊かで、風采と業績が美しく遠大である。ともに謀りて軍政に参じ、功績は時艱を照らし、領土を拓き封邑を開くのは、実に勲典に相応しい。景文は江安県侯に封じ、食邑八百戸とせよ。興宗は始昌県伯、淵は南城県伯に封じ、食邑五百戸とせよ。」景文は固辞したが、許されず、五百戸を受けた。鎮南将軍に進号し、まもなく鼓吹一部を与えられた。後に江州が鎮を南昌に移すことになり、豫章太守を領し、その他は元の通りとした。州は結局移転しなかった。しばらくして、尚書左僕射・吏部を領し、揚州刺史に召され、太子詹事を加えられ、常侍は元の通りとした。朝廷に戻ることを望まず、湘州刺史を求めたが、許されなかった。

原文太宗翦除暴主,又平四方,欲引朝望以佐大業,乃下詔曰:「夫良圖宣國,賞崇彝命;殊績顯朝,策勤王府。安南將軍、江州刺史景文,風度淹粹,理懷清暢,體兼望實,誠備夷岨。寶曆方啟,密贊義機,妖徒干紀,預毗廟略。宜登茅社,永傳厥祚。朕澄氛寧樞,實資多士,疏爵疇庸,實膺徽烈。尚書右僕射、領衞尉興宗,識懷詳正,思局通敏。吏部尚書、領太子左衞率淵,器情閑茂,風業韶遠。並謀參軍政,績亮時艱,拓宇開邑,實允勳典。景文可封江安縣侯,食邑八百戶,興宗可始昌縣伯,淵可南城縣伯,食邑五百戶。」景文固讓,不許,乃受五百戶。進號鎮南將軍,尋給鼓吹一部。後以江州當徙鎮南昌,領豫章太守,餘如故。州不果遷。頃之,徵為尚書左僕射,領吏部,揚州刺史,加太子詹事,常侍如故。不願還朝,求為湘州刺史,不許。

当時、景文が江州で潔白を保てなかったと言う者もいた。景文は上(皇帝)の寵臣である王道隆に手紙を書いて言った。「私は行いにおいては乏しいが、心に背くことはない。すでに殊なる功績に恥じ、誓って明主を欺きはしない。貝錦を織る者がいると聞く。生計を営んで巨万に至ったと言うが、元々そのような能力はなく、突然異術を得たなら、必ずや道理に合わない。ただ平心に精査を乞う。もしこの言葉が虚偽でなければ、すぐに市朝で処刑し、風俗を正すべきである。もし妄作であれば、思慮の及ばぬ理由を賜るべきである。私は過分に忝く任が深まり、誹謗を招くに足る。これを思うと驚き恐れ、どうして自ら測れようか。私の心は、風聞を容れて許されることを望まない。私は自ら窃盗をしないのと同じく、賊をしないのと同じである。故に密かに申し上げ、啓上されることを願う。」

原文時又謂景文在江州,不能潔己,景文與上幸臣王道隆書曰:「吾雖寡於行己,庶不負心,既愧殊效,誓不上欺明主。竊聞有為其貝錦者,云營生乃至巨萬,素無此能,一旦忽致異術,必非平理。唯乞平心精檢,若此言不虛,便宜肆諸市朝,以正風俗。脫其妄作,當賜思罔昧之由。吾踰忝轉深,足以致謗,念此驚懼,何能自測。區區所懷,不願望風容貸。吾自了不作偷,猶如不作賊。故以密白,想為申啟。」

景文は内職への任命を繰り返し辞退した。上(皇帝)は手詔で諭して言った。「尚書左僕射は、卿はすでにこの任を経ている。東宮詹事は、用人は美しいが、職の序列はちょうど中書令と同等である。庶姓で揚州を治めるのは、徐干木(徐羨之)・王休元(王弘)・殷鉄(殷景仁)が皆これを処して辞さなかった。卿の清らかで優れた才望は、何ら王休元に恥じず、中興を助けたことは、徐干木に劣らず、親密に交わることは、何で殷鉄に後れようか。司徒は宰相が神州を帯びるべきでないとし、遠く先の旨に遵い、京口は郷里の基盤で義が重く、畿内に近いため、また驃騎を用いざるを得ず、陝西の任は重要で、元来宗室を用いる。驃騎が去れば、巴陵が当然これに居るべきで、中流は閑地とは言え、三江を控え、荊・郢に通じ、経路の要衝として、元来重鎮がある。こうなると、揚州は自然と刺史が欠けることになる。卿がもし辞退すれば、さらに誰がこれに処すべきか分からない。この選任は大いに備え、公卿と共に考えたもので、軽々しいものではない。」景文は固く詹事と選任を辞し、中書令に転じ、常侍・僕射・揚州は元の通りとした。さらに中書監に進み、太子太傅を領し、常侍・揚州は元の通りとした。景文は固く太傅を辞退した。上は新たに尚書右僕射となった褚淵に旨を宣べさせ、古来の例による六つの事柄で詰問した。やむを得ず拝受した。

原文景文屢辭內授,上手詔譬之曰:「尚書左僕射,卿己經此任,東宮詹事,用人雖美,職次正可比中書令耳。庶姓作揚州,徐干木、王休元、殷鐵並處之不辭。卿清令才望,何愧休元,毗贊中興,豈謝干木,綢繆相與,何後殷鐵邪?司徒以宰相不應帶神州,遠遵先旨,京口鄉基義重,密邇畿內,又不得不用驃騎,陝西任要,由來用宗室。驃騎既去,巴陵理應居之,中流雖曰閑地,控帶三江,通接荊、郢,經塗之要,由來有重鎮。如此,則揚州自成闕刺史,卿若有辭,更不知誰應處之。此選大備,與公卿疇懷,非聊爾也。」固辭詹事領選,徙為中書令,常侍、僕射、揚州如故。又進中書監,領太子太傅,常侍、揚州如故。景文固辭太傅,上遣新除尚書右僕射褚淵宣旨,以古來比例六事詰難之,不得已乃受拜。

当時、太子や諸皇子は皆幼く、上(皇帝)は次第に死後のことを考え始めた。諸将帥の呉喜・寿寂之じゅじゃくしの徒は、幼主を奉じられないと慮り、皆殺した。そして景文は外戚として貴盛であり、張永は累ねて軍旅を経ており、将来信頼し難いと疑い、自ら謡言を作った。「一士は親しむべからず、弓長は人を射殺す。」一士は王の字、弓長は張の字である。景文はますます恐れ、自ら上疏して揚州の解任を求めた。曰く、

原文時太子及諸皇子並小,上稍為身後之計,諸將帥吳喜、壽寂之之徒,慮其不能奉幼主,並殺之,而景文外戚貴盛,張永累經軍旅,又疑其將來難信,乃自為謠言曰:「一士不可親,弓長射殺人。」一士,王字;弓長,張字也。景文彌懼,乃自陳求解揚州,曰:

上は詔を下して答えた。

原文上詔答曰:

当時、上はすでに病を患い、諸弟は皆殺されていた。ただ桂陽王休範だけは人材が元より劣り、疑われず、江州刺史として出された。一旦崩御すれば、皇后が臨朝し、景文が自然と宰相となり、門族が強盛で、元舅の重みを藉り、歳暮には純臣とならないと慮った。泰豫元年春、上は病篤く、使者を遣わして薬を送り景文に死を賜った。手詔に曰く。「卿と周旋し、卿の門戸を全うしようと思い、故にこの処分がある。」死んだ時六十歳。車騎将軍・開府儀同三司を追贈され、常侍・中書監・刺史は元の通りとし、諡して懿侯といった。

原文時上既有疾,而諸弟並已見殺,唯桂陽王休範人才本劣,不見疑,出為江州刺史。慮一旦晏駕,皇后臨朝,則景文自然成宰相,門族強盛,藉元舅之重,歲暮不為純臣。泰豫元年春,上疾篤,乃遣使送藥賜景文死,手詔曰:「與卿周旋,欲全卿門戶,故有此處分。」死時年六十。追贈車騎將軍、開府儀同三司,常侍、中書監、刺史如故,諡曰懿侯。

長子の絢、字は長素。七歳の時、論語を読んで「周は二代に監みる」に至ると、外祖父の何尚之が戯れて言った。「耶耶(父)は文なるかな。」絢はすぐに答えて言った。「草翁(祖父)は風必ず偃す。」幼少より聡明で慧くして知られた。成長すると、志を篤くして学を好み、官は秘書丞に至った。二十四歳で、景文に先立って卒した。諡して恭世子といった。子の婼が封を襲い、斉が禅を受けると、国は除かれた。

原文長子絢字長素。年七歲,讀論語至「周監於二代」,外祖何尚之戲之曰:「耶耶乎文哉。」絢即答曰:「草翁風必偃。」少以敏惠見知。及長,篤志好學,官至祕書丞。年二十四,先景文卒,諡曰恭世子。子婼襲封,齊受禪,國除。

景文の兄の子の蘊、字は彦深。父の楷は太中大夫で、人材は凡庸で劣り、故に蘊は一族から礼遇されず、常に恥辱と憤慨を抱いていた。家が貧しく広徳令となった。太宗が即位した時、四方が叛逆し、蘊は感激して将となり、寧朔将軍を仮し、建安王休仁の司徒参軍となり、令は元の通りとした。景文は甚だ不愉快で、彼に言った。「阿益、汝は必ず我が門戸を破るだろう。」阿益は蘊の小字である。事が収まると、吉陽県男に封じられ、食邑三百戸を与えられた。中書・黄門郎、晉陵・義興太守となり、赴任した地では皆貪欲で放縦であった。義興で収監され処罰されるはずだったが、太后の故により、ただ免官されただけだった。廃帝元徽初年、再び黄門郎、東陽太守となった。郡に赴任しないうちに、桂陽王休範が京邑に迫る事件があり、蘊は兵を率いて朱雀門で戦い敗れて傷を負った。事が収まると、侍中に任じられ、寧朔将軍・湘州刺史として出された。蘊は軽躁で、品行に薄く、当時沈攸之が荊州刺史で、密かに異志を抱いており、蘊は彼と厚く結んだ。斉王が朝政を輔くようになると、蘊と攸之はすぐに謀を連ねて乱を起こそうとした。ちょうど母の喪に遭い、都に戻り、巴陵に十余日留まり、さらに攸之と謀を成した。当時、斉王の世子が郢州行事となっており、蘊は郢州に至り、世子が必ず慰労に来ると考え、これに乗じて変を起こし、夏口を占拠し、荊州と連衡しようとした。世子はその意を察し、病気と称して行かず、また厳重に兵を自衛させたため、蘊の計略は行えず、下がった。攸之が叛逆すると、蘊は密かに司徒袁粲らと謀を結んだ。事は粲伝にある。事が敗れると、鬭場に逃げ、追捕され、秣陵市で斬られた。

原文景文兄子蘊字彥深。父楷,太中大夫,人才凡劣,故蘊不為羣從所禮,常懷恥慨。家貧為廣德令,會太宗初即位,四方叛逆,蘊遂感激為將,假寧朔將軍,建安王休仁司徒參軍,令如故。景文甚不悅,語之曰:「阿益,汝必破我門戶。」阿益者,蘊小字也。事寧,封吉陽縣男,食邑三百戶。為中書、黃門郎,晉陵、義興太守,所莅並貪縱。在義興應見收治,以太后故,止免官。廢帝元徽初,復為黃門郎,東陽太守。未之郡,值桂陽王休範逼京邑,蘊領兵於朱雀門戰敗被創,事平,除侍中,出為寧朔將軍、湘州刺史。蘊輕躁,薄於行業,時沈攸之為荊州刺史,密有異志,蘊與之結厚。及齊王輔朝政,蘊、攸之便連謀為亂,會遭母憂,還都,停巴陵十餘日,更與攸之成謀。時齊王世子為郢州行事,蘊至郢州,謂世子必下慰之,欲因此為變,據夏口,與荊州連橫。世子覺其意,稱疾不往,又嚴兵自衞,蘊計不得行,乃下。及攸之為逆,蘊密與司徒袁粲等結謀,事在粲傳。事敗,走鬭場,追禽,斬於秣陵市。

景文の弟の子の孚は、大明末年に海塩令となった。泰始初年、天下が反逆したが、ただ孚だけは逆に同調せず、官は司徒記室参軍に至った。

原文景文弟子孚,大明末,為海鹽令。泰始初,天下反叛,唯孚獨不同逆,官至司徒記室參軍。