巻80

宋書

列伝第四十

孝武帝には二十八人の男子がいた。文穆皇后は廃帝の子業と 章王の子尚を生んだ。陳淑媛は しん 安王の子勛を生んだ。阮容華は安陸王の子綏を生んだ。徐昭容は皇子の子深を生んだ。何淑儀は松滋侯の子房を生んだ。史昭華は臨海王の子頊を生んだ。殷貴妃は始平孝敬王の子鸞を生んだ。次は永嘉王の子仁で、皇子の子深と同母である。何婕妤は皇子の子鳳を生んだ。謝昭容は始安王の子真を生んだ。江婕妤は皇子の子玄を生んだ。史昭儀は邵陵王の子元を生んだ。次は齊敬王の子羽で、始平孝敬王の子鸞と同母である。江美人は皇子の子衡を生んだ。楊婕妤は淮南王の子孟を生んだ。次は皇子の子況で、皇子の子玄と同母である。次は南平王の子産で、永嘉王の子仁と同母である。次は しん 陵孝王の子雲、次は皇子の子文で、ともに始平孝敬王の子鸞と同母である。次は廬陵王の子輿で、淮南王の子孟と同母である。次は南海哀王の子師で、始平孝敬王の子鸞と同母である。次は淮陽思王の子霄で、皇子の子玄と同母である。次は皇子の子雍で、始安王の子真と同母である。次は皇子の子趨で、皇子の子鳳と同母である。次は皇子の子期で、皇子の子衡と同母である。次は東平王の子嗣で、始安王の子真と同母である。杜容華は皇子の子悅を生んだ。安陸王の子綏、南平王の子産、廬陵王の子輿はみな他家へ養子に出された。皇子の子深、子鳳、子玄、子衡、子況、子文、子雍は封を受けずに早世した。子趨、子期、子悅は封を受けず、明帝に殺害された。

章王の子尚は字を孝師といい、孝武帝の第二子である。

孝建三年、六歳のとき、西陽王に封ぜられ、食邑二千戸を与えられた。引き続き 都督 ととく 南徐兗二州諸軍事・北中郎将・南兗州 刺史 しし に任じられた。同年、揚州 刺史 しし に転じた。大明二年、撫軍将軍を加えられた。三年、浙江以西を分割して王畿を設置し、浙江以東を揚州とし、子尚に 都督 ととく 揚州江州之鄱陽 しん 安建安三郡諸軍事・揚州 刺史 しし を命じ、将軍の号はもとのままとし、鼓吹一部を与えた。五年、 章王に改封され、戸邑は先のとおりで、会稽 太守 を兼任した。七年、使持節を加えられ、車騎将軍に進号した。同年、さらに 散騎常侍 さんきじょうじ を加えられ、本号のまま開府儀同三司となった。当時、東部地方は大旱魃に見舞われ、鄞県には多くの焼畑があった。世祖(孝武帝)は子尚に命じて上表文を持たせ、鄞県まで行って農業を奨励させた。また左学を設立し、生徒を召集し、儒林祭酒一人を置き、学生は師として敬い、その地位は州の治中に比した。文学祭酒一人を置き、西曹に比した。勧学従事二人を置き、祭酒従事に比した。前廃帝が即位すると、王畿を廃止して旧に復し、子尚を 都督 ととく 揚・南徐二州諸軍事に任命し、 尚書令 しょうしょれい を兼任させ、東揚州の 都督 ととく を解任したが、その他の官職はもとのままとされた。

初め、孝建年間に、世祖は子尚が太子(前廃帝)の同母弟であるため、特に気にかけていた。後に新安王の子鸞が母の寵愛を受けて可愛がられるようになると、子尚への寵愛は次第に衰えた。成長してからは、才能は平凡で劣っており、凶悪な性質は廃帝に似ていた。太宗(明帝)が廃帝を殺害した後、太皇后の令を称して言った。「子尚は頑迷で凶悪、極めて道理に背いている。楚玉は淫乱で悪事をほしいままにし、人倫の道を断っている。ともに邸宅において自尽を賜る。」子尚はこのとき十六歳であった。

楚玉は山陰公主である。廃帝は彼女を会稽郡長公主に改封し、湯沐邑二千戸を与え、鼓吹一部を給し、班剣二十人を加えた。拝受する前に廃帝は敗れた。楚玉は情欲のままに淫乱にふけり、尚書吏部郎の褚淵が美貌であるのを理由に、十日間自分に侍らせるよう請い、廃帝はこれを許した。褚淵は命令を受けては行ったが、死を覚悟で固く節を守ったため、楚玉は彼を意のままにできなかった。

しん 安王の子勛は字を孝徳といい、孝武帝の第三子である。

大明四年、五歳のとき、 しん 安王に封ぜられ、食邑二千戸を与えられた。引き続き 都督 ととく 南兗州徐州之東海諸軍事・征虜将軍・南兗州 刺史 しし に任じられた。七年、 都督 ととく 江州南 州之 しん 熙新蔡 郢州 之西陽三郡諸軍事・前将軍・江州 刺史 しし に改めて任命された。八年、使持節・ 都督 ととく 雍梁南北秦四州郢州之竟陵随二郡諸軍事・鎮軍将軍・寧蛮 校尉 こうい ・雍州 刺史 しし に転じた。拝受しないうちに世祖が崩御し、鎮軍将軍として江州に戻り、本来の官職はもとのままとされた。眼が風疾を患い、世祖に愛されなかった。景和元年、使持節を加えられた。

当時、廃帝は狂乱して凶暴で、多く誅殺や害を加えていた。前撫軍諮議参軍の何邁は若い頃から武を好み、多くの武勇の士を招き集めていた。何邁は先に太祖(文帝)の娘である新蔡公主を娶っていたが、帝は公主が 薨去 こうきょ したと偽り、宮人を殺して代わりに葬り、表向きは丁重に葬儀を行いながら、公主を後宮に納れた。帝は何邁を深く忌み嫌い、何邁も禍が及ぶことを恐れ、帝が外出した際に変事を起こし、子勛を迎えて立てようと謀った。事が漏れ、帝は自ら宿衛兵を率いて何邁を誅殺し、八座に命じて子勛が何邁と共謀していたと上奏させた。また子勛に手 詔 を下して言った。「何邁は私を殺してお前を立てようとした。お前は自分で考えてみよ、孝武帝と比べてどうか?自らそのための処置をせよ。」側近の朱景雲を遣わして薬を賜り、子勛に自尽を命じた。朱景雲は盆口に至り、進むのを止め、使者を遣わして長史の鄧琬に報告した。鄧琬らはこれにより子勛を奉じて挙兵し、廃立を名目とした。

太宗が乱を平定すると、子勛を車騎将軍・開府儀同三司に進号した。鄧琬らは命令を受けず、京邑に檄を飛ばした。泰始二年正月七日、子勛を皇帝として奉じ、尋陽城で偽の即位を行い、年号を義嘉元年とし、百官を整え置いた。四方はこぞって呼応し、その威勢は天下を震わせた。この年、四方からの貢ぎ物や上計はすべて尋陽に集まった。左衛将軍の孫沖之らを派遣して 赭圻 を占拠させ、また 刺史 しし の劉胡を派遣して大軍を率いて 鵲尾 に駐屯させ、さらに安北将軍の 袁顗 を派遣して諸軍を総統させた。朝廷軍は銭谿に駐屯して袁顗らの糧道と援軍を断った。劉胡は将を派遣して攻撃したが大敗し、そこで陣営を焼いて逃走した。袁顗は劉胡が去ったと聞き、やはり軍勢を捨てて南へ奔った。沈攸之らの諸軍が尋陽に到着し、子勛とその母を誅殺し、ともに叛逆した者は皆滅ぼされた。子勛が死んだとき十一歳で、そのまま尋陽の廬山に葬られた。

松滋侯の子房は字を孝良といい、孝武帝の第六子である。

大明四年、五歳のとき、尋陽王に封ぜられ、食邑二千戸を与えられた。引き続き 冠軍 将軍・淮南宣城二郡太守に任じられた。五年、 刺史 しし に転じ、将軍・淮南太守はもとのままとした。六年、宣城太守を兼任することに改めた。七年、右将軍に進号し、宣城太守の兼任を解かれたが、その他の官職はもとのままとされた。前廃帝の永光元年、東揚州 刺史 しし に転じ、将軍はもとのままとされた。景和元年、東揚州が廃止されると、子房は本号のまま 都督 ととく 会稽東陽新安臨海永嘉五郡諸軍事・会稽太守となった。

太宗が即位すると、 都督 ととく に改められ、安東将軍に進号し、太守はもとのままとされた。また撫軍将軍に召され、太常を兼任した。長史の孔覬は命令を受けず、兵を挙げて反逆し、 しん 安王に呼応した。子勛が偽の帝位に即くと、子房を車騎将軍・開府儀同三司に進号した。三呉と しん 陵はともに孔覬の命令を受けた。太宗は衛将軍の巴陵王休若を派遣して諸将の呉喜らを督させて東征させ、戦うことごとに勝利し、順次平定した。上虞県令の王晏が兵を起こして孔覬を殺し、子房を捕らえて京都に送還した。上(明帝)はこれを許し、松滋県侯に貶爵し、食邑千戸を与えた。

司徒 しと の建安王 劉休仁 は、子房兄弟が結局は禍難となると考え、帝に彼らを除くよう勧めた。そこで 詔 を下して言った。「予期せぬ禍いは、古来より明らかであり、情は法に屈し、聖達の者はこれを遵ぶ。朕は穢れを掃い傾きを定め、再び宝業を全うし、遠く鴻基を思い、辱くも負荷に当たる。治道を弘めんと務め、敦睦を尽くそうとしたが、妖豎が扇動し、妄りに異図を造った。西南で兵を阻み、東夏で侵斥し、都邸の群凶は密かに脣歯を合わせた。路休之兄弟は専ら謀主となり、禍乱を起こさんと図り、舍人の厳龍に宮省を覗わせ、羽林軍が出討した際、宿衛が単罄となった隙に、間を伺い、密かに発動を謀った。劉祗は蕃国にあって、これに応援せんと図り、北寇に通言し、淮を渡らせようとした。近ごろ休範が江を渡った時、潜かに拒捍せんとしたが、卜祚の霊長に頼り、奸回は果たせなかった。陰慝は既に露わになり、宜しく憲辟を尽くすべきであったが、方難未だ夷せず、曲を加えて遵養した。今、王化は帖泰し、忠邪を弁ずべきであり、涓流を塞がねば、燎火は滅し難い。直ちに有司に委ね、刑典を粛正せよ。松滋侯の子房らは逆徒に陥り、醜悖に協同し、遂に籤帥の群小と共に、密かに南釁に通じ、劉祗らと連結し、朕を図った。咎戾は既に顕著であり、法において宥すべきではないが、猶子の情、未だ忍びない。庶人に廃し、遠郡に徙付せよ。」そこで共に殺した。子房は当時十一歳であった。

路休之らは崇憲太后が既に崩御したため、将来立たないことを自ら慮り、自ら安んじなかった。劉祗は南兗州にあって、逆を為さんとする志があった。厳龍は、太祖の元嘉年間に、既に中書舍人・南臺御史となり、世祖もまた舍人とし、甚だ委信された。景和・泰始の際には、越騎 校尉 こうい ・右軍将軍に至った。この時に至って異端を抱いたため、誅に及んだ。

臨海王の子頊、字は孝列、孝武帝の第七子である。

大明四年、五歳の時、歴陽王に封ぜられ、食邑二千戸を与えられた。引き続き冠軍将軍・呉興太守となった。五年、臨海王に改封され、戸邑は先の通りであった。その年、使持節・ 都督 ととく 広交二州湘州之始興始安臨賀三郡諸軍事・征虜将軍・平越中郎将・広州 刺史 しし に遷った。未だ鎮せず、荊州 刺史 しし に徙され、将軍は先の通りであった。八年、前将軍に進号した。

前廃帝が即位すると、本号のまま 都督 ととく 荊・湘・雍・益・梁・寧・南北秦八州諸軍事となり、 刺史 しし は先の通りであった。明帝が即位すると、雍州の督を解かれ、鎮軍将軍・丹陽尹とされた。間もなく本任に留まり、雍州の督を進められ、また平西将軍に進号した。長史の孔道存が命を受けず、兵を挙げて反し、晋安王の子勛に応じた。子勛が偽位に即くと、衛将軍・開府儀同三司に進号した。鵲尾で奔敗し、呉喜・張興世らの軍が到ると、子頊は死を賜り、当時十一歳であった。巴陵に葬られた。

始平孝敬王の子鸞、字は孝羽、孝武帝の第八子である。

大明四年、五歳の時、襄陽王に封ぜられ、食邑二千戸を与えられた。引き続き東中郎将・呉郡太守となった。その年、新安王に改封され、戸邑は先の通りであった。五年、北中郎将・南徐州 刺史 しし に遷り、南琅邪太守を領した。母の殷淑儀は、後宮で寵愛を傾け、子鸞は諸子の中で最も愛され、凡そ上に盼遇された者は、子鸞の府・国に入らぬ者はなかった。南徐州となると、また呉郡を割いてこれに属させた。

六年、母の喪に服した。淑儀を貴妃に追進し、班位は皇后に次ぎ、 諡 して宣とした。葬儀には轀輬車を給し、虎賁・班剣、鑾輅九旒、黄屋左纛、前後部の羽葆・鼓吹を備えた。上自ら南掖門に臨み、喪車が過ぎるのを見て悲しみ自ら勝えず、左右感動せぬ者はいなかった。上は痛愛して止まず、漢の武帝の李夫人賦に擬して、その詞を作った。

また有司に諷して言った。「典礼に云う、天子には后があり、夫人がある。檀弓に云う、舜は蒼梧に葬られ、三妃は従わなかった。昏義に云う、后は六宮を立て、三夫人がある。されば三妃は即ち三夫人である。后に三妃があるのは、猶天子に三公があるが如し。周礼に按ずるに、三公は八命、諸侯は七命である。三公は既に列国諸侯より尊く、三妃もまた庶邦の夫人より貴い。春秋伝に拠れば、仲子は魯の恵公の元嫡ではないが、尚お彼の別宮を考うるを得る。今、貴妃は天秩の崇班に蓋い、理を以て新廟を創立すべきである。」尚書左丞の徐爰之がまた議して言った。「宣貴妃は既に殊命を加えられ、礼は五宮を絶しております。古典を考うるに、顕かな成据があります。廟堂を克構するには、宜しく将作大匠卿を選ぶべきです。」

葬儀が終わると、 詔 して子鸞に職を摂させ、本官のまま 司徒 しと を兼ね、撫軍将軍・ 司徒 しと に進号し、鼓吹一部を給し、礼儀は全て正公に依った。また 都督 ととく 南徐州諸軍事を加えた。八年、中書令を加え、 司徒 しと を領した。前廃帝が即位すると、中書令を解かれ、 司徒 しと を領し、加持節して鎮に赴いた。

帝は元より子鸞の寵愛を憎んでおり、群公を誅した後、使者を遣わして死を賜り、当時十歳であった。子鸞は臨終に際し、左右に言った。「願わくは身、再び王家に生まれず。」同母の弟妹も共に死に、京口に葬られた。太宗が即位すると、 詔 して言った。「冤を紓げ痛みを申すは、往くとも必ず追うべく、情に縁り愛を惻むは、事に感ずれば弥遠し。故に使持節・ 都督 ととく 南徐州諸軍事・撫軍将軍・南徐州 刺史 しし 新安王の子鸞は、夙に成器を表し、早く殊寵を延べ、方に美業を樹て、克く蕃維を光らせんとした。而るに凶心肆忌し、奄に横禍を羅し、言を興して永く傷み、常の懐いを兼ねる有り、宜しく夭秀を旍し、以て沈魂を雪ぐべし。贈らしむべし使持節・ 侍中 ・ 都督 ととく 南徐兗二州諸軍事・ 司徒 しと ・南徐州 刺史 しし 、王は先の通り。第十二皇女・第二十二皇子の子師は、俱に謬酷を嬰り、酸悼を増す有り、皇女は贈らしむべし県公主、子師は先に封ぜられた南海王に復し、並びに徽諡を加えよ。」また言った。「枉を哀しみ遠きを追うは、仁道の弘むる所、滅を興し絶を継ぐは、盛典の貴ぶ所である。朕は古に務め治を思い、恩礼必ず敷き、異族にすら敦く、況んや近戚においてをや。故に新たに除せられた使持節・侍中・ 都督 ととく 南徐兗二州諸軍事・ 司徒 しと ・南徐州 刺史 しし 新安王の子鸞は、年は沖弱ながらも、性識早く茂り、世祖に慈しまれ、列蕃の冠寵を受けた。景和の凶虐に値し、横に酷禍を羅し、国胤主無く、冤祀寄る所莫く、尋ねて痛悼を念い、夙に軫みを懐く。以て建平王の景素の息の延年、字は徳沖、泰始四年に薨じ、当時四歳、諡して沖王とした。明年、また長沙王の劉纂の子の延之を始平王とし、子鸞の後を紹がせた。順帝の昇明三年に薨じ、国除となった。

永嘉王の子仁、字は孝和、孝武帝の第九子である。

大明五年、五歳の時、監雍梁南北秦四州郢州之竟陵随二郡諸軍事・北中郎将・寧蛮 校尉 こうい ・雍州 刺史 しし を監し、永嘉王に封ぜられ、食邑二千戸を与えられた。引き続き東中郎将・呉郡太守に遷った。六年、また丹陽尹に遷った。七年、衛尉を兼ねた。前廃帝が即位すると、征虜将軍を加え、衛尉を領し、丹陽尹は先の通りであった。間もなく左将軍・南兗州 刺史 しし として出た。景和元年、南徐州 刺史 しし に遷り、将軍は先の通りであった。泰始元年、また中軍将軍に遷り、太常を領した。未だ拝せず、護軍将軍に徙された。四方が平定されると、使持節・ 都督 ととく 湘広交三州諸軍事・平南将軍・湘州 刺史 しし とされた。

太宗は主書の趙扶公を遣わして子仁に宣旨を伝えた。「お前の一家は門戸を建てず、 社稷 しゃしょく を覆さんとした。天は未だ宋を亡ぼさず、天命は我に集まった。上流では迷愚の者が相扇ぎ、四海は同じく悪をなした。もし我が徳を修めて天下を治めなければ、三祖の基業は一朝にして地に墜ち、お前たちは異族の手に陥るはずであった。我が昔、兄弟は二十人近くいたが、零落して相継ぎ、存命する者は僅かである。ただ 司徒 しと (劉休仁)が年長で、令徳をもって輔佐し、皇家の門戸が頼るのは、我と 司徒 しと の二人だけである。まだ百姓の奸心を厭うことができず、他の諸王もまた治世を賛えるには堪えられない。我には太子一人がいるのみで、 司徒 しと の世子はまた幼弱であり、桂陽王・巴陵王ともに継嗣がなく、正にお前たち兄弟に頼り、互いに倚り強くして、天下に王室を窺わせぬようにしたい。お前たちは十余歳で始めて俯仰を知るばかり、当今諸王の舎人は細弱で、人の軽陵を免れぬであろう。もし我が主でなければ、劉氏は今日のことを弁じられなかった。お前たち諸兄弟は幼少で、群凶に逼迫され誤らされ、遂に百姓と共に骨肉を図った。お前の心において、愧じぬことはあるまい。即日、四海は寧んじ、恩化が始まろうとしている。今、お前を湘州に処する。お前は年が漸く長じ、善悪を知るに足る。常に刻厲を思い、朝廷を奉ることを心とし、爵秩は自然と年と共に進むであろう。我は猶子の情を垂れ、万物に著す。お前もまた好を知るべきで、我が敕旨を憶えよ。」この時、 司徒 しと 建安王劉休仁は南討して未だ帰らず、帰還して上に白状し、将来は 社稷 しゃしょく の計に非ず、宜しく併せて処置すべきと述べた。未だ拝せず、賜死され、時に十歳であった。

始安王劉子真は字を孝貞といい、孝武帝の第十一子である。

大明五年、五歳で始安王に封ぜられ、食邑二千戸を与えられた。引き続き輔国将軍・呉興太守となった。七年、使持節・監広交二州湘州之始興始安臨賀三郡諸軍事・平越中郎将・広州 刺史 しし に遷り、将軍は元のまま、鎮には赴かなかった。征虜将軍・南 彭城 太守に遷り、 石頭 戍事を領した。景和元年、丹陽尹となり、将軍は元のまま。まもなくまた南兗州 刺史 しし となり、将軍は元のまま。泰始二年、左将軍・丹陽尹に遷った。未だ拝せず、賜死され、時に十歳であった。

邵陵王劉子元は字を孝善といい、孝武帝の第十三子である。

大明六年、五歳で邵陵王に封ぜられ、食邑二千戸を与えられた。八年、度支 校尉 こうい ・秦南沛二郡太守とされた。引き続き冠軍将軍・南琅邪泰山二郡太守となった。

景和元年、湘州 刺史 しし として出され、将軍は元のまま、鎮には未だ赴かなかった。尋陽に至り、晋安王劉子勛が叛逆したため、留まって鎮には赴かなかった。撫軍将軍に進号した。事が平定され、賜死され、時に九歳であった。

斉敬王劉子羽は字を孝英といい、孝武帝の第十四子である。大明二年に生まれ、三年に卒し、封諡を追加された。

淮南王劉子孟は字を孝光といい、孝武帝の第十六子である。

大明七年、五歳で淮南王に封ぜられ、食邑二千戸を与えられた。この時、世祖(孝武帝)は 州の南梁郡を淮南国に改め、南 州の淮南郡を廃して宣城に併せた。前廃帝が即位すると、二郡は共に旧に復し、子孟は国名のまま淮南郡の食邑を度した。景和元年、冠軍将軍・南琅邪彭城二郡太守となった。泰始二年、安成王に改封され、戸邑は先の通り。未だ拝せず、賜死され、時に八歳であった。

晋陵孝王劉子雲は字を孝挙といい、孝武帝の第十九子である。大明六年、四歳で晋陵王に封ぜられ、食邑二千戸を与えられた。未だ拝せず、その年に 薨去 こうきょ した。

南海哀王劉子師は字を孝友といい、孝武帝の第二十二子である。

大明七年、四歳で南海王に封ぜられ、食邑二千戸を与えられた。未だ拝せず、景和元年、前廃帝に害され、時に六歳であった。太宗が即位し、追諡された。

淮陽思王劉子霄は字を孝雲といい、孝武帝の第二十三子である。大明五年に生まれ、八年に 薨去 こうきょ し、封諡を追加された。

東平王劉子嗣は字を孝叔といい、孝武帝の第二十七子である。

大明七年に生まれ、引き続き東平王に封ぜられ、食邑二千戸を与えられた。東平沖王劉休倩の後を継いだ。休倩の母の顔氏は性理が厳酷で、泰始二年、子嗣の生母である景寧園昭容の謝氏が上表して言った。「故東平沖王休倩は璿極に託け、幼少より聡明を示したが、天寿永からず、遺胤は伝わらなかった。孝武皇帝は妾の子である臣子嗣に出継ぎさせて後とし、既に国祀を承け、方や烝薦を奉じ、遠き慶を広め、遠くまで延ばさんとした。しかし妾の顔氏は訓養に恩なく、撫導に理を乖き、情は引進に欠け、義は負螟に違う。昔、世祖が在世中は、慈愛を偽って示したが、崩御して未だ幾ばくもなく、真性が発揮され、それでも崇憲(太后)を畏怖し、少しは隠そうとした。これ以降、専ら厳酷を恣にし、実に宗戚に顕布し、宮闈に宣灼し、人倫を傷つけ、行路の人をも哀れませた。妾は天属冥々として至り、感切実に深い。伏して願わくは乾渥広く臨み、曲りて照賜を垂れ、改めて命を復し本属に還依させてくださいますように。そうすれば妾母子は隕落の辰も、猶生きている年のようでございます。」許された。その年に賜死され、時に四歳であった。

武陵王劉贊は字を仲敷といい、明帝の第九子である。泰始六年に生まれた。その年、 詔 が下された。「世祖孝武皇帝は、尊位を恃んで恩恵を堕し、勲功は狭く政務は弛み、楽しみ飲むことに飽きることがなく、事は寧泰によるものであり、威を任せて費やし放題にし、義は務めの少なさに由来する。それゆえ積もった怨みが天を動かし、流れる災いは子孫に及び、景和の時に禍いが始まり、義嘉の時に禍いが成った。世祖が後を継いだが、法に陥って遺すところがなかった。かつて皇室が中だるみし、生きとし生けるものは滅びを恐れたが、英明で孝心に感奮した者に頼り、冤罪と恥辱を雪ぎ払い、墜ちた暦を勲功でつなぎ、この窮した民を救った。絶えたものを継ぎ遠いものを追うことは、礼と教えの重んじるところであり、ましてや帝でありかつ兄であるのに、この典を欠くことがあろうか。今、第九子の智随をもって世祖の子として奉じる。武陵郡は大明の世において、事は代邦と均しい。智随を武陵王に封じ、食邑五千戸を与えるのがよい。思うに、世祖の一門には女子の累が少なくない。既に総理する者がいないのであれば、義として防閑を設ける必要がある。諸侯は天子を祖と称することはできないが、事には一家としての切実さがある。また帰寧する所があり、病気の際には互いに助け合い、得失は任せ、閨房には稟うところがある。朕は天に応じて位にあり、九族に対する恩は深い。これで足りて追慕の思いを述べ、愛を敷く旨を明らかにしたい。」

後廃帝の元徽四年、使持節・ 都督 ととく 南徐・兗・青・冀五州諸軍事・北中郎将・南徐州 刺史 しし として出向した。順帝の昇明元年、持節・ 都督 ととく 郢州・司州の義陽諸軍事・前将軍・郢州 刺史 しし に転じた。二年、沈攸之に包囲され、 都督 ととく 荊・湘・雍・益・梁・寧・南北秦八州諸軍事・安西将軍・荊州 刺史 しし に移され、持節はもとの通りとした。攸之が平定された後、ようやく任地に赴いた。その年に 薨去 こうきょ した。時に九歳であった。封国は除かれた。