宋書

列伝第三十九

列伝第三十九

竟陵王劉誕は字あざなを休文といい、文帝の第六子である。

原文竟陵王誕字休文,文帝第六子也。

元嘉二十年、十一歳の時に広陵王に封ぜられ、食邑二千戸を与えられた。二十一年、南兗州諸軍事・北中郎将・南兗州刺史ししを監し、広陵に出鎮した。まもなく本号のまま南徐州刺史に転任した。

原文元嘉二十年,年十一,封廣陵王,食邑二千戶。二十一年,監南兗州諸軍事、北中郎將、南兗州刺史,出鎮廣陵。尋以本號徙南徐州刺史。

二十六年、都督ととく雍梁南北秦四州荊州之竟陵随二郡諸軍事・後将軍・雍州刺史として出向した。広陵が荒廃していたため、随郡王に改封された。皇帝は大規模な北伐を計画し、襄陽が外で関中・黄河地方と接していることから、その資力を拡充しようと、江州の軍府を廃止し、その文武官をすべて雍州に配属させ、湘州から朝廷に納める税租雑物をすべて襄陽に供給させた。大挙北伐が始まると、諸藩に出兵を命じたが、みな敗走した。ただ劉誕の中兵参軍柳元景だけが先に弘農・関・陝の三城を陥落させ、多くの首級を挙げ、関中・洛陽を震駭させた。事績は柳元景伝にある。諸方面がともに敗退したため、柳元景は軍を引き返した。劉誕は都に召還され、都督広交二州諸軍事・安南将軍・広州刺史に遷り、始興に鎮守することとなったが、赴任せず、都督会稽東陽新安臨海永嘉五郡諸軍事・安東将軍・会稽太守たいしゅに改めて任命され、鼓吹一部を与えられた。

原文二十六年,出為都督雍梁南北秦四州荊州之竟陵隨二郡諸軍事、後將軍、雍州刺史。以廣陵彫弊,改封隨郡王。上欲大舉北討,以襄陽外接關、河,欲廣其資力,乃罷江州軍府,文武悉配雍州,湘州入臺稅租雜物,悉給襄陽。及大舉北伐,命諸蕃並出師,莫不奔敗,唯誕中兵參軍柳元景先克弘農、關、陝三城,多獲首級,關、洛震動,事在元景傳。會諸方並敗退,故元景引還。徵誕還京師,遷都督廣交二州諸軍事、安南將軍、廣州刺史,當鎮始興,未行,改授都督會稽東陽新安臨海永嘉五郡諸軍事、安東將軍、會稽太守,給鼓吹一部。

元凶劉劭が帝を弑しい逆して即位すると、揚州の浙江以西を司隷校尉の管轄とし、浙江以東の五郡を会州として立て、劉誕をその刺史とした。世祖(孝武帝)が討伐の兵を起こすと、沈慶之の兄の子である沈僧栄を遣わして密かに劉誕に連絡し、また寧朔将軍顧彬之を魯顕から東進させ、劉誕の指揮下に入れた。劉誕は参軍劉季之を派遣して顧彬之と合流させ、自らは西陵に駐屯して後詰めとした。劉劭は将軍の華欽と庾導を派遣して東討させ、顧彬之らと曲阿の奔牛塘で遭遇した。道が非常に狭く、左右はすべて菰や葦の茂みであった。顧彬之の軍兵は多くが籠や履き物を携えており、菰葦の茂みの中から挟み撃ちに射かけたため、華欽らは大敗した。事態が平定されると、劉誕は持節・都督荊湘雍益寧梁南北秦八州諸軍事・衛将軍・開府儀同三司・荊州刺史に召された。劉誕は位号が劉濬(文帝第二子)と同じであることを嫌い、変更を求めた。そこで驃騎ひょうき将軍に進号し、班剣二十人を加えられ、その他の官職はもとのままとした。南譙王劉義宣が召しに応じなかったため、劉誕は侍中じちゅう・驃騎大将軍・揚州刺史となり、開府はもとのままとした。竟陵王に改封され、食邑五千戸を与えられた。顧彬之は奔牛の戦功により陽新県侯に封ぜられ食邑千戸、劉季之は零陽県侯に封ぜられ食邑五百戸を与えられた。

原文元凶弒立,以揚州浙江西屬司隸校尉,浙江東五郡立會州,以誕為刺史。世祖入討,遣沈慶之兄子僧榮間報誕,又遣寧朔將軍顧彬之自魯顯東入,受誕節度。誕遣參軍劉季之與彬之并勢,自頓西陵,以為後繼。劭遣將華欽、庾導東討,與彬之等相逢於曲阿之奔牛塘,路甚狹,左右皆悉入菰葑,彬之軍人多齎籃屐,於菰葑中夾射之,欽等大敗。事平,徵誕為持節、都督荊湘雍益寧梁南北秦八州諸軍事、衞將軍、開府儀同三司、荊州刺史。誕以位號正與濬同,惡之,請求回改。乃進號驃騎將軍,加班劍二十人,餘如故。南譙王義宣不肯就徵,以誕為侍中、驃騎大將軍、揚州刺史,開府如故。改封竟陵王,食邑五千戶。顧彬之以奔牛之功,封陽新縣侯,食邑千戶,季之零陽縣侯,食邑五百戶。

翌年、劉義宣が兵を挙げて反乱を起こした。彼は荊・江・兗・豫の四州の兵力を有し、その勢いは天下を震駭させた。皇帝の即位して日が浅く、朝廷内外は大いに恐れた。皇帝は天子の車駕や儀仗を用いて劉義宣を迎えようとしたが、劉誕が強く反対し、その後で処置を決めた。皇帝は劉誕に節を加え、仗士五十人を与え、六門の出入りを許した。上流の平定は、劉誕の力によるものであった。かつて元凶劉劭を討った時、皇帝とともに挙兵し、奔牛の戦勝を収め、この時また特別な功績を立てた。皇帝は猜疑心が強く、劉誕をかなり疑い恐れるようになった。一方で劉誕は邸宅を造営し、その精巧さは極まり、庭園や池の美しさは当時随一であった。多くの才力ある士を集めて邸内に住まわせ、精鋭の兵士や優れた武器はすべて上品であり、皇帝の心中はますます穏やかでなくなった。

原文明年,義宣舉兵反,有荊、江、兗、豫四州之力,勢震天下。上即位日淺,朝野大懼,上欲奉乘輿法物,以迎義宣,誕固執不可,然後處分。帝加誕節,仗士五十人,出入六門。上流平定,誕之力也。初討元凶,與上同舉兵,有奔牛之捷,至是又有殊勳,上性多猜,頗相疑憚。而誕造立第舍,窮極工巧,園池之美,冠於一時。多聚才力之士,實之第內,精甲利器,莫非上品,上意愈不平。

孝建二年、劉誕は使持節・都督南徐兗二州諸軍事・太子太傅・南徐州刺史として出向し、侍中の職はもとのままとした。皇帝は京口が都に近いことを依然として疑っていたため、大明元年の秋、また都督南兗南徐兗青冀幽六州諸軍事・南兗州刺史として出向させ、その他の官職はもとのままとした。劉誕は猜疑を受けていると悟り、ひそかに備えを始めた。広陵に着くと、索虜(北魏)が辺境を侵したことを理由に、城壁や堀を修築し、食糧を集め武器を整えた。不和が明らかになると、世間では常に劉誕が謀反を起こすと噂された。

原文孝建二年,乃出為使持節、都督南徐兗二州諸軍事、太子太傅、南徐州刺史,侍中如故。上以京口去都密邇,猶疑之,大明元年秋,又出為都督南兗南徐兗青冀幽六州諸軍事、南兗州刺史,餘如故。誕既見猜,亦潛為之備,至廣陵,因索虜寇邊,修治城隍,聚糧治仗。嫌隙既著,道路常云誕反。

三年、建康の住民陳文紹が上書して言った。「私の家門は幸運にも、亡くなった大姑(父の姉)が元嘉年間に宮中六宮に入り、薄命で早く亡くなりましたが、先帝は美人の位を追贈し、また大姑の二人の娘が宮中に出入りしてご機嫌をうかがうことをお許しくださいました。父の陳饒は、司空しくう劉誕に召し出されて府史となり、常に山に入って道筋を描かせられ、非常に苦労しましたが、辞めることも許されず、帰宅も許されず、消息は途絶えました。姑の二人の娘が昨年、思い切って帰宅を訴え出ましたところ、陛下の聖恩により、詔勅を賜り陳饒の吏籍を解いてくださいました。劉誕はその符が届くと大いに怒り、陳饒を呼び入れて詰問しました。『お前は死にたいのか。朝廷に訴えて解任を求めるとは。』陳饒はすぐに答えて言いました。『役所では以前から家との連絡を許さず、消息が途絶えていました。もし姉が上奏したのであれば、私は知りません。』劉誕はそこで陳饒に尋ねました。『お前はどうやって朝廷に入ったのか。』陳饒は問われて、事実をありのままに申し上げました。退出した後、劉誕の主衣の荘慶と画師の王強が陳饒に言いました。『お前は今年つぶされたな。お前の姉がお前を誤らせた。殿様は言っている、小僧どもが朝廷の威光を笠に着て俺を脅すとは、と。』陳饒はそこで逃亡して帰宅しました。劉誕はすぐに王強に数人を率いさせて追わせ、家に突入して縛り上げ、広陵に連れ戻そうとしました。京口の宿屋に着いた時、井戸に落ちて死にましたが、『陳饒は罪を恐れて自殺した』と偽りました。痛みを抱え冤罪を訴え、死を覚悟で上訴いたします。」呉郡の住民劉成もまた宮門に赴き上書して、劉誕の謀反を告発し、次のように述べた。「息子の劉道龍はかつて劉誕に仕え、その奸状をこの目で見ました。また劉誕が石頭せきとう城内で天子の車駕や儀仗を整え、警蹕の儀礼を練習しているのを見ました。道龍はひそかに憂慮し恐れ、仲間に話したところ、言葉が漏れました。劉誕は大吏に命じて監内で道龍を捕らえさせましたが、道龍は逃げ出しました。劉誕は怒って監視役を鞭打ち殺し、また道龍を捕らえて殺しました。」また豫章の住民陳談之が上書して冤罪を訴え、次のように述べた。「弟の陳詠之はかつて劉誕に取り立てられ、彼に従って歴任の鎮守地を転々とし、先帝(文帝)の御駕が南下された時、劉誕に代わって書簡を奉送し、危険を冒して通行し、時に上聞に達することができました。聖明なる陛下が即位され、恩沢が広く行き渡り、私のような者にも、わずかな労務の功により朝廷の官位を賜りました。詠之は常に劉誕が側近の小人である荘慶や傅元祀とひそかに奸逆を謀り、言葉が醜く道理に背き、しばしば『天下はまさに我が家のものだ、お前らは富貴になれないと心配するな』と言っているのを見聞きしました。また常に陛下の年齢や姓・諱いみなを書き出し、巫女の鄭師憐の家に行って呪詛していました。詠之はこの言葉を聞きながらも、その事実を見ることができず、いつか事が発覚した時、不当にその罪に巻き込まれることを恐れ、密かに建康右尉の黄宣達に告げ、同時に上奏もして、自らを免れさせようとしました。傅元祀の弟は詠之が黄宣達と往来していることを知り、自ら言葉が漏れたことを怪しみ、すぐにことごとく劉誕に告げました。劉誕は大いに怒り、側近に命じて詠之に酒を飲ませ、無理やり大いに酔わせ、詠之が酒に乗じて罵ったと言いがかりをつけ、ついに殺害されました。この無実の冤罪を顧みますと、事柄は哀れむべきものがあります。」

原文三年,建康民陳文紹上書曰:「私門有幸,亡大姑元嘉中蒙入臺六宮,薄命早亡,先朝賜贈美人,又聽大姑二女出入問訊。父饒,司空誕取為府史,恒使入山圖畫道路,勤劇備至,不敢有辭,不復聽歸,消息斷絕。姑二女去年冒啟歸訴,蒙陛下聖恩,賜敕解饒吏名。誕見符至,大怒,喚饒入交問:『汝欲死邪?訴臺求解。』饒即答:『官比不聽通家信,消息斷絕。若是姊為啟聞,所不知。』誕因問饒:『汝那得入臺?』饒被問,依實啟答。既出,誕主衣莊慶、畫師王強語饒:『汝今年敗,汝姊誤汝。官云小人輩敢持臺家逼我。』饒因叛走歸,誕即遣王強將數人逐,突入家內縛錄,將還廣陵。至京口客舍,乃陊死井中,託云『饒懼罪自殺』。抱痛懷冤,冒死歸訴。」吳郡民劉成又詣闕上書,告誕謀反,稱:「息道龍昔伏事誕,親見姦狀。又見誕在石頭城內,修乘輿法物,習倡警蹕。道龍私獨憂懼,向伴侶言之,語頗漏泄,誕使大吏令監內執道龍,道龍逸走,誕怒鞭殺監,又捕殺道龍。」又豫章民陳談之上書訴枉,稱:「弟詠之昔蒙誕采錄,隨從歷鎮,大駕南下,為誕奉送牋書,經涉危險,時得上聞。聖明登阼,恩澤周普,回改小人,使命微勤,賜署臺位。詠之恒見誕與左右小人莊慶、傅元祀潛圖姦逆,言詞醜悖,每云:『天下方是我家有,汝等不憂不富貴。』又常疏陛下年紀姓諱,往巫鄭師憐家祝詛。詠之既聞此語,又不見其事,恐一旦事發,橫罹其罪,密以告建康右尉黃宣達,并有啟聞,希以自免。元祀弟知詠之與宣達來往,自嫌言語漏泄,即具以告誕。誕大怒,令左右飲詠之酒,逼使大醉,因言詠之乘酒罵詈,遂被害。自顧冤枉,事有可哀。」

その年の四月、皇帝はついに役人に上奏させた。

原文其年四月,上乃使有司奏曰:

皇帝は許さず、役人がまた強く請うたので、爵位を侯に貶め、国へ行くよう命じた。

原文上不許,有司又固請,乃貶爵為侯,遣令之國。

皇帝は劉誕を誅殺しようと、義興太守の垣閬を兗州刺史とし、羽林の禁兵を配属させ、給事中きゅうじちゅうの戴明宝を垣閬に随行させて劉誕を急襲させ、垣閬には赴任を名目とさせた。垣閬が広陵に着いた時、劉誕はまだ気づいていなかった。戴明宝は夜に劉誕の典籤である蒋成に連絡し、明朝に門を開けて内応するよう命じた。蒋成は府の舎人である許宗之に告げた。許宗之は駆け込んで劉誕に告げた。劉誕は驚いて起き上がり、側近と平素から養っていた数百人を呼び集め、蒋成を捕らえ、兵を率いて自衛した。翌朝、夜明け前、戴明宝と垣閬が精兵数百人を率いて突然到着したが、夜が明けても門は開かなかった。劉誕はすでに兵を並べさせて城壁に登り、自ら門の上で蒋成を斬り、兵士の名簿を焼き、作部の囚人や徒役を赦し、門を開いて腹心に壮士を率いさせて戴明宝らを攻撃させ、これを撃破した。垣閬はただちに殺害され、戴明宝は逃走し、海陵の境界からようやく帰還した。

原文上將誅誕,以義興太守垣閬為兗州刺史,配以羽林禁兵,遣給事中戴明寶隨閬襲誕,使閬以之鎮為名。閬至廣陵,誕未悟也。明寶夜報誕典籤蔣成,使明晨開門為內應。成以告府舍人許宗之,宗之奔入告誕。誕驚起,呼左右及素所畜養數百人,執蔣成,勒兵自衞。明旦將曉,明寶與閬率精兵數百人卒至,天明而門不開,誕已列兵登陴,自在門上斬蔣成,焚兵籍,赦作部徒繫囚,開門遣腹心率壯士擊明寶等,破之。閬即遇害,明寶奔逃,自海陵界得還。

上(孝武帝)は車騎大将軍の沈慶之を派遣し、大軍を率いて劉誕を討伐させた。劉誕は城郭と町を焼き払い、住民百姓を駆り立てて、すべて城内に入らせ、書状や檄文を分けて送り、近隣や遠方の者を結びつけようとした。当時、山陽内史の梁曠の家は広陵にあったが、劉誕はその妻子を捕らえ、使者を派遣して梁曠を誘った。梁曠は使者を斬って拒絶した。劉誕は怒り、彼の家族を皆殺しにした。劉誕は上奏文を奉じて城外に投げ入れ、言った。「往年、元凶(劉劭)が禍を起こして逆をなした時、陛下は討伐にお入りになり、臣は凶徒に背き陛下に赴き従いました。これはまさに常の節操と言えるでしょう。そして丞相(劉義宣)が難を構えた時、臧質、魯爽がこれに協力して従い、朝廷と民間は不安定で、皆憂い恐れを感じていました。陛下が百官の羽儀(儀仗)を整えようとされ、星のごとく駆けつけて推戴奉迎しようとした時、臣は前後して固く主張し、ようやくご許可を賜り、社稷が保全されたのは、誰の力でしょうか。陛下は臣を丁重に遇し、栄誉と寵愛を重ねて加えられ、驃騎将軍、揚州刺史を、旬月のうちに移り授けられ、恩寵と官位を頻繁に加えられ、さらに徐州、兗州を賜り、皇太子を仰いで屈してまで、遠くまで見送りに来られました。臣が一度お会いして感じたこの恩情、これをどうして忘れられましょうか。共に老いることを願い、永遠に楽しみ慰め合いたいと望んでいました。まさか陛下が讒言を信用され、ついに名もない小人に来襲させ、不当で残酷なことをさせ、すぐに誅殺しようとされるとは。雀や鼠でさえ命を惜しむのに、詔勅に背くことになりました。今、自ら部曲ぶきょくを指揮し、徐州、兗州を鎮守防衛します。以前にどんな福があったというので、同じ皇家に生まれたのに、今どんな罪があるというので、胡と越のように敵対することになるのでしょうか。鋒を衝いて戈を奮い、万死も顧みず、平定の日を、旦夕に待ち望みます。右軍将軍(劉遵考りゅうじゅんこう)、宣簡公(劉宏)、そして武昌王(劉渾)までもが、皆無罪でありながら、不当な残酷な目に遭いました。臣にどんな過ちがあって、またこのような目に遭うのでしょうか。陛下の宮帷の醜聞は、どうして三度も口を閉ざしていられましょうか。紙に向かって悲しみに塞がれ、何を言うべきか分かりません。」世祖(孝武帝)は劉誕を憤り、左右の腹心で同籍の朞親(一年服の親族)まで皆誅殺し、死者は数千人に及んだ。ある者は家族がすでに殺された後、城内から叛いて出て来た者もいた。

原文上乃遣車騎大將軍沈慶之率大眾討誕。誕焚燒郭邑,驅居民百姓,悉使入城,分遣書檄,要結近遠。時山陽內史梁曠家在廣陵,誕執其妻子,遣使要曠,曠斬使拒之。誕怒,滅其家。誕奉表投之城外,曰:「往年元凶禍逆,陛下入討,臣背凶赴順,可謂常節。及丞相構難,臧、魯協從,朝野怳惚,感懷憂懼,陛下欲建百官羽儀,星馳推奉,臣前後固執,方賜允俞,社稷獲全,是誰之力?陛下接遇慇懃,累加榮寵,驃騎、揚州,旬月移授,恩秩頻加,復賜徐、兗,仰屈皇儲,遠相餞送。臣一遇之感,感此何忘,庶希偕老,永相娛慰。豈謂陛下信用讒言,遂令無名小人來相掩襲,不任枉酷,即加誅剪。雀鼠貪生,仰違詔勑。今親勒部曲,鎮扞徐、兗。先經何福,同生皇家;今有何愆,便成胡、越?陵鋒奮戈,萬沒豈顧,盪定之期,冀在旦夕。右軍、宣簡,爰及武昌,皆以無罪,並遇枉酷,臣有何過,復致於此。陛下宮帷之醜,豈可三緘。臨紙悲塞,不知所言。」世祖忿誕,左右腹心同籍朞親並誅之,死者以千數。或有家人已死,方自城內叛出者。

車駕(天子の行列)は出て宣武堂に駐屯し、内外に厳戒態勢を敷いた。沈慶之が広陵に進軍すると、劉誕の幢主の韓道元が降伏して来た。豫州刺史の宗慤、徐州刺史の劉道隆りゅうどうりゅうが兵を率いて来て合流した。劉誕の中兵参軍の柳光宗、参軍の何康之、劉元邁、幢主の索智朗は、城の北門を開いて帰順しようと謀ったが、期日が来ないうちに、何康之の管轄する隊主の石貝子が先に衆を率いて出奔した。何康之は事が漏れるのを恐れ、夜に索智朗と共に関門を斬って城外に出た。劉誕は柳光宗を捕らえて殺した。柳光宗は柳元景の従弟である。何康之の母は城内にいたが、劉誕に殺された。

原文車駕出頓宣武堂,內外纂嚴。慶之進廣陵,誕幢主韓道元來降。豫州刺史宗慤、徐州刺史劉道隆率眾來會。誕中兵參軍柳光宗、參軍何康之、劉元邁、幢主索智朗謀開城北門歸順,未期而康之所鎮隊主石貝子先眾出奔,康之懼事泄,夜與智朗斬關而出。誕禽光宗殺之。光宗,柳元景從弟也。康之母在城內,亦為誕所殺。

劉誕は諸軍が大挙して集結したのを見て、城を捨てて北へ逃げようとし、中兵参軍の申霊賜を留めて守らせ、自らは騎兵・歩兵数百人を率い、親信を皆従え、出戦すると称して、わざと海陵の道へ向かった。劉誕の将の周豊生が急いで沈慶之に告げたので、沈慶之は龍驤将軍の武念を派遣して追跡させた。劉誕は十余里行ったが、兵士たちは皆行きたがらず、劉誕に城に戻るよう請うた。劉誕は言った。「私が戻れば、卿らは私のために力を尽くしてくれるか?」皆は言った。「力を尽くすことを願います。」側近の楊承伯が劉誕の馬の手綱を引いて言った。「死生をかけてでも城に戻って守りましょう。このまま行ってどこに落ち着くというのですか。急いで戻ればまだ入城できます。そうでなければ敗れます。」沈慶之の派遣した将の戴宝之が単騎で前に進み出て、劉誕を刺して危うく捕らえそうになった。劉誕は恐れ、急いで戻った。武念は劉誕から遠く、まだ追いついていなかったので、劉誕は城の方へ向かうことができた。城に着くと、劉誕は言った。「城上の白髭の者は、沈公ではないか?」左右は言った。「申中兵(申霊賜)です。」劉誕はようやく入城した。申霊賜を驃騎府録事参軍に任じ、王璵之を中軍長史に任じ、世子の劉景粹を中軍将軍に任じ、州別駕の范義を中軍長史に任じ、その他の府州の文武官は皆、官位を加増した。

原文誕見眾軍大集,欲棄城北走,留中兵參軍申靈賜居守,自將騎步數百人,親信並隨,聲云出戰,邪趨海陵道。誕將周豐生馳告慶之,慶之遣龍驤將軍武念追躡。誕行十餘里,眾並不欲去,請誕還城。誕曰:「我還,卿能為我盡力不?」眾皆曰:「願盡力。」左右楊承伯牽誕馬曰:「死生且還保城,欲持此安之?速還尚得入,不然敗矣。」慶之所遣將戴寶之單騎前至,刺誕殆獲,誕懼,乃馳還。武念去誕遠,未及至,故誕得向城。既至,曰:「城上白鬚,非沈公邪?」左右曰:「申中兵。」誕乃入。以靈賜為驃騎府錄事參軍,王璵之為中軍長史,世子景粹為中軍將軍,州別駕范義為中軍長史,其餘府州文武,皆加秩。

以前、右衛将軍の垣護之、左軍将軍の崔道固、屯騎校尉の龐孟虯、太子旅賁中郎将の殷孝祖が索虜(北魏)を破って帰還し、広陵に至った時、上(孝武帝)は彼らを皆、沈慶之の指揮下に置いた。司州刺史の劉季之は、劉誕の旧臣であり、勇猛果敢で膂力があり、梁山の戦役でも戦功があり、封邑を五百戸増やされていた。州では貪欲で残忍であり、司馬の翟弘業が非常に苦しい諫争をしたので、劉季之は積もった憤りから、食事に毒を入れて彼を殺した。若い頃、宗慤と共に博戯をした時、手を加えて宗慤を侮辱したことがあり、宗慤は深く恨みを抱いていた。この時、宗慤が豫州刺史となり、司州を都督していたので、劉季之は宗慤が禍をもたらすことを憂慮し、官を辞して間道を通って朝廷に帰ろうとした。ちょうど劉誕が反乱を起こしたので、劉季之は盱眙に至った。盱眙太守の鄭瑗は、劉季之がもともと劉誕に厚遇されていたので、彼が同謀ではないかと疑い、道中で誘い出して殺し、首を劉道隆に送った。当時、劉誕も間者を派遣して劉季之を誘っていたが、劉季之の首が届くと、沈慶之はそれを持って来て劉誕に見せた。劉季之は歯が欠けており、垣護之も歯が欠けていたので、劉誕は衆に向かって言った。「これは垣護之の首だ。劉季之の首ではない。」太宗(明帝)が即位した初め、鄭瑗は山陽王劉休祐の驃騎中兵参軍であった。豫州刺史の殷琰が晋安王劉子勛と共に反逆したので、劉休祐は鄭瑗と側近の邢龍符を派遣して殷琰を説得させたが、殷琰は受け入れなかった。鄭氏は寿陽の豪族である。鄭瑗はすぐに殷琰の鎮軍参軍となった。劉子勛は殷琰が挙兵が遅いと責めたので、殷琰は自ら釈明しようとして、邢龍符を殺してその首を送った。鄭瑗は固く争ったが、できなかった。寿陽城が降伏した時、鄭瑗は仲間と共に城外に出たが、邢龍符の兄の僧愍が当時城外におり、鄭瑗が邢龍符を陥れて殺したと思い、すぐに鄭瑗を殺した。僧愍はすぐに劉勔に捕らえられたが、後に赦免された。僧愍はまもなく淮西で虜を撃って戦死した。この四人(劉季之、鄭瑗、邢龍符、僧愍)は、皆横暴な殺害を行い、すぐに身に禍を受けたので、論者は天道があると思った。

原文先是,右衞將軍垣護之、左軍將軍崔道固、屯騎校尉龐孟虯、太子旅賁中郎將殷孝祖破索虜還,至廣陵,上並使受慶之節度。司州刺史劉季之,誕故佐也,驍果有膂力,梁山之役,又有戰功,增邑五百戶。在州貪殘,司馬翟弘業諫爭甚苦,季之積忿,置毒藥食中殺之。少年時,宗慤共蒲戲,曾手侮加慤,慤深銜恨。至是慤為豫州刺史,都督司州,季之慮慤為禍,乃委官間道欲歸朝廷。會誕反,季之至盱眙,盱眙太守鄭瑗以季之素為誕所遇,疑其同逆,因邀道殺之,送首詣道隆。時誕亦遣間信要季之,及季之首至,沈慶之送以示誕。季之缺齒,垣護之亦缺,誕謂眾曰:「此垣護之頭,非劉季之也。」太宗初即位,鄭瑗為山陽王休祐驃騎中兵參軍。豫州刺史殷琰與晉安王子勛同逆,休祐遣瑗及左右邢龍符說琰,琰不受。鄭氏,壽陽強族。瑗即使琰鎮軍。子勛責琰舉兵遲晚,琰欲自解釋,乃殺龍符送首,瑗固爭不能得。及壽陽城降,瑗隨輩同出,龍符兄僧愍時在城外,謂瑗構殺龍符,輒殺瑗。即為劉勔所錄,後見原。僧愍尋擊虜於淮西戰死。此四人者,並由橫殺,旋受身禍,論者以為有天道焉。

劉誕の幢主の公孫安期が兵隊を率いて出城し降伏した。劉誕は初め城門を閉じて使者を拒絶したが、記室参軍の賀弼が再三固く諫めたので、劉誕は怒り、刃を彼に向けて抜いたので、賀弼はやめた。ある者が賀弼に出城して降伏するよう勧めたが、賀弼は言った。「公(劉誕)が朝廷に向かって兵を挙げられたこの事は、従うことができない。公の厚い恩を受けており、また義理として背くこともできない。ただ死をもって心を明らかにするのみだ。」そして毒薬を飲んで自殺した。賀弼は字を仲輔といい、会稽郡山陰県の人である。文才があった。車騎参軍、山陽・海陵二郡太守を追贈され、長史の官は元のままとした。幢主の王璵之は数百人を賞金で募り、東門から出て龍驤将軍の程天祚の陣営を攻撃し、その弩の弦を断ったが、程天祚がこれを撃破したので、すぐに逃げて城に戻った。劉誕はさらに申霊賜を南徐州刺史に任じた。軍主の馬元子が城を越えて帰順したが、追いつかれて殺された。そこで城内に列を建てて壇を立てて誓いを立て、劉誕がまさに血をすすろうとした時、彼が任命した輔国将軍の孟玉秀が言った。「陛下がご自身で血をすすってください。」群臣は皆万歳を称えた。

原文誕幢主公孫安期率兵隊出降。誕初閉城拒使,記室參軍賀弼固諫再三,誕怒,抽刃向之,乃止。或勸弼出降,弼曰:「公舉兵向朝廷,此事既不可從,荷公厚恩,又義無違背,唯當死明心耳。」乃服藥自殺。弼字仲輔,會稽山陰人也。有文才。贈車騎參軍、山陽海陵二郡太守,長史如故。幢主王璵之賞募數百人,從東門出攻龍驤將軍程天祚營,斷其弩弦,天祚擊破之,即走還城。誕又加申靈賜南徐州刺史。軍主馬元子踰城歸順,追及殺之。乃於城內建列立壇誓,誕將歃血,其所署輔國將軍孟玉秀曰:「陛下親歃。」羣臣皆稱萬歲。

初め、劉誕は黄門の呂曇済と左右の平素から信頼している者に、世子の劉景粹を民間に隠すよう命じ、言った。「事が成功すれば、この命は全うされる。もし免れられなければ、深く埋めるように。」金銀財宝を分け与え、一緒に門を出させ、それぞれ散り散りに逃げさせた。ただ呂曇済だけは去らず、劉景粹を背負って連れ、十余日後に沈慶之に捕らえられ、斬られた。

原文初,誕使黃門呂曇濟與左右素所信者,將世子景粹藏於民間,謂曰:「事若濟,斯命全脫,如其不免,可深埋之。」分以金寶,齊送出門,並各散走。唯曇濟不去,攜負景粹,十餘日,乃為沈慶之所捕得,斬之。

劉誕が任命した平南将軍の虞季充がまた降伏の書状を出した。上(孝武帝)は沈慶之に桑里に三箇所の烽火を設置させた。劉誕はまた千余人を北門から派遣し、強弩将軍の苟思達の陣営を攻撃したが、龍驤将軍の宗越そうえつに撃破された。東門を開いて劉道隆の陣営を急襲攻撃したが、また殷孝祖と員外散騎侍郎の沈攸之に撃破された。劉誕はさらに申霊賜を左長史に、王璵之を右長史に、范義を左司馬・左将軍に、孟玉秀を右司馬・右将軍に任じた。范義の母・妻・子は皆城内にいた。ある者が范義に出城して降伏するよう勧めたが、范義は言った。「私は人臣である。どうして何康之のように生き延びることができようか。」范義は字を明休といい、済陽郡考城県の人である。早くから世の称賛があった。

原文誕所署平南將軍虞季充又出降書。上使慶之於桑里置烽火三所。誕又遣千餘人自北門攻強弩將軍苟思達營,龍驤將軍宗越擊破之。開東門掩攻劉道隆營,復為殷孝祖及員外散騎侍郎沈攸之所破。誕又加申靈賜左長史,王璵之右長史,范義左司馬、左將軍,孟玉秀右司馬、右將軍。范義母妻子並在城內,有勸義出降,義曰:「我人吏也,且豈能作何康活邪。」義字明休,濟陽考城人也。早有世譽。

五月十九日の夜、流星が斗の柄ほども大きく、尾の長さは十余丈もあり、西北から飛来して城内に墜ちた。これは天狗と呼ばれるものである。占いによれば、「天狗が墜ちたところには、伏した死体と流れる血がある」という。劉誕はまた二百人を東門から出して劉道産の陣営を攻撃させ、別に疑兵二百人を北門から出させた。沈攸之は東門で短兵を奮って接戦し、これを大いに破った。門の守備兵もまた苟思達に破られた。劉誕はさらに数百人を東門から出して寧朔司馬劉勔の陣営を攻撃させたが、沈攸之がまたこれを破った。広陵城はもともと南門を開けず、南門を開けるとその主君に不利であると言われていたが、劉誕に至って初めて開かれた。彭城ほうじょうの邵領宗が城内におり、ひそかに死士を結集して劉誕を襲撃しようと企てた。まず慶之に誠意を示そうとして、劉誕に間諜になることを願い出て許された。領宗は城外に出て誠意を伝えた後、再び城内に戻ったが、事が露見し、劉誕は彼を二百回鞭打ち、尋問したが服罪せず、遂に八つ裂きにした。

原文五月十九日夜,有流星大如斗杆,尾長十餘丈,從西北來墜城內,是謂天狗。占曰:「天狗所墜,下有伏尸流血。」誕又遣二百人出東門攻劉道產營,別遣疑兵二百人出北門。沈攸之於東門奮短兵接戰,大破之。門者又為苟思達所破。誕又遣數百人出東門攻寧朔司馬劉勔營,攸之又破之。廣陵城舊不開南門,云開南門者,不利其主,至誕乃開焉。彭城邵領宗在城內,陰結死士,欲襲誕。先欲布誠於慶之,乃說誕求為間諜,見許。領宗既出,致誠畢,復還城內,事泄,誕鞭二百,考問不服,遂支解之。

皇帝は印章二組を送った。一つは竟陵県開国侯、食邑一千戸で、劉誕を生け捕りにする者への賞として、もう一つは建興県開国男、三百戸で、先陣を切る者への賞として与えられた。もし外城を陥落させれば烽火を一つ、内城を陥落させれば二つ、劉誕を生け捕りにすれば三つを上げよと命じた。皇帝はまた屯騎校尉の譚金たんきんと前虎賁中郎将の鄭景玄に羽林兵を率いさせて慶之の指揮下につけた。劉誕はまた三百人を南門から出して劉勔の土山を攻撃させたが、劉勔に破られた。

原文上遣送章二紐,其一曰竟陵縣開國侯,食邑一千戶,募賞禽誕;其二曰建興縣開國男,三百戶,募賞先登。若克外城,舉一烽;克內城,舉兩烽;禽誕,舉三烽。上又遣屯騎校尉譚金、前虎賁中郎將鄭景玄率羽林兵隸慶之。誕復遣三百人自南門攻劉勔土山,為勔所破。

慶之は塹壕を埋めて攻撃路を整備したが、夏の雨期に当たり、攻城できなかった。皇帝はたびたび璽書を送って督促し、前後相次いだ。晴れた後、再び怒り、太史に発兵の日を選ばせ、自ら長江を渡ろうとした。太宰の江夏王劉義恭が上表して諫めて言った。「劉誕はもともと才略がなく、蓄えも少なく、王命に背いて以来、士民は離散しています。城内は食糧に乏しく、兵器も不足しており、ただ三四百人の免兵や倉頭に頼り、軽率に付き従い、恩讐が早くから結ばれています。臣は当初、短慮にも一句で平定できると思いましたが、息を引き延ばして七十余日も経過しました。上将が命令を受け、諸侯が山のように立ち並び、精鋭の兵士は万単位で動員され、大いなる威勢が震動しているのに、まだ成功していません。臣は凡庸で臆病ではありますが、なお憤りと奮い立ちを抱いています。陛下は内では大猪を切り、外では長蛇を討ち、兵士の刃に血を塗ることなく、七百の国を再興されました。しかし、取るに足らない小賊が、時を引き延ばし、ついに陛下の激怒を招き、御輿を動かそうとしています。これはまさに臣下が禄を食みながら愚鈍であった責めであり、朝廷の百官は皆、上を仰いでは恥じ、下を見ては愧じています。今、酷暑の中に鎧を着て、一日千金を費やし、陛下の天威が一度発動されれば、誰が幸いと思わないでしょうか。臣は考えますに、晋の文王が淮南を征伐した時、軍を出して二百日を経て、ようやく賊を制圧しました。今、劉誕の兵糧は尽きようとしており、背く者も多い。慶之らもまた、遅重であることの非を悟り、次第に機に乗じる利を見出しています。かつて陛下のご命令が頻繁に下され、必ずや旦夕のうちに平定されるはずです。愚かにもまた、広陵は道のりが近く、人の往来や情報も容易に達し、長江があるとはいえ、約束を示すのは難しくないと考えます。また、道理をわきまえる者は少なく、暗愚な者は多く、突然に雲や旗が移動するのを見れば、都では既に畏れ慎むでしょうが、四方の志を持つ者には、まだ伝わっていないことがあるでしょう。臣は愚かながら重ねて考えを巡らせ、今はむしろ小賊を討つことよりも、生命を省みて、遠近の人心を安んずるべきではないでしょうか。また、長江は険しく広大で、風波は予測が難しく、王者ですら危険に乗じることはせず、ましてや測り知れぬ水に浮かぶべきではありません。昔、魏の文帝が長江を渡った時、ついに遺州の名を残しました。今はたとえ天の時を先取りして違わず、動きが吉慶に関わるとしても、龍舟が行くところ、理屈では必ず渡河に有利でしょうが、安きに居て危うきを慮り、恐れないわけにはいきません。私の誠実な思いを、あえて赤心をもって啓上し、恐れ汗をかきながら追って述べ、自らを尽くすことができません。」

原文慶之填壍治攻道,值夏雨,不得攻城。上每璽書催督之,前後相繼。及晴,再怒,使太史擇發日,將自濟江。太宰江夏王義恭上表諫曰:「誕素無才略,畜養又寡,自拒王命,士庶離散。城內乏糧,器械不足,徒賴免兵倉頭三四百人,造次相附,恩怨夙結。臣始短慮,謂一旬可殄,而假息流遷,七十餘日。上將受律,羣蕃岳峙,銳卒精旅,動以萬計,大威所震,未有成功。臣雖凡怯,猶懷憤踊。陛下入翦封豕,出討長蛇,兵不血刃,再興七百。而蕞爾小醜,遂延晷漏,致皇赫斯怒,將動乘輿。此實臣下素食駑鈍之責,行留百司,莫不仰慚俯愧。今盛暑被甲,日費千金,天威一麾,孰不幸甚。臣伏尋晉文王征淮南,淹師出二百日,方能制寇。今誕糇糧垂竭,背逆者多;慶之等轉悟遲重之非,漸見乘機之利。且成旨頻降,必應旦夕夷殄。愚又以廣陵塗近,人信易達,雖為江水,約示不難。且覩理者寡,闇塞者眾,忽見雲旗移次,京都既當祗悚,四方之志,必有未達。臣愚伏重思計,今寧不當計小醜,省生命,以安遐邇之情。又以長江險闊,風波難期,王者尚不乘危,況乃汎不測之水。昔魏文濟江,遂有遺州之名,今雖先天不違,動干休慶,龍舟所幸,理必利涉,然居安慮危,不可不懼。私誠款款,冒啟赤心,追用悚汗,不自宣盡。」

七月二日、慶之が諸軍を率いて進攻し、外城を陥落させ、勝ちに乗じて進み、また小城も陥落させた。劉誕は軍が入ったと聞き、申霊賜と共に後園へ走った。隊主の沈胤之、義征客の周満、胡思祖が駆けつけ、劉誕は玉環刀を手に左右数人と散り散りに逃げた。胤之らは橋の上で劉誕に追いつき、劉誕は刀を挙げて自衛したが、胤之が劉誕の顔を傷つけ、そのため劉誕は水に落ち、引き出されて殺され、首は都に送られた。時に二十七歳であった。広陵に葬られ、姓を留氏に貶められた。同党は皆誅殺され、城内の男子は京観(首塚)とされ、死者は数千に及び、女子は軍の褒賞とされた。劉誕の母の殷氏、妻の徐氏は共に自殺した。殷氏は長寧園淑妃を追贈された。梁曠の誠節を嘉して後将軍に抜擢した。周満を山陽県侯に封じ、食邑四百五十戸、胤之を耒陽子に封じ、食邑三百五十戸、胡思祖を高平県男に封じ、食邑二百戸とした。臨川内史の羊璿之は先に劉誕に協力し従った罪で誅殺された。

原文七月二日,慶之率眾軍進攻,剋其外城,乘勝而進,又剋小城。誕聞軍入,與申靈賜走趨後園。隊主沈胤之、義征客周滿、胡思祖馳至,誕執玉鐶刀與左右數人散走,胤之等追及誕於橋上,誕舉刀自衞,胤之傷誕面,因墜水,引出殺之,傳首京邑。時年二十七。因葬廣陵,貶姓留氏。同黨悉誅,殺城內男為京觀,死者數千,女口為軍賞。誕母殷、妻徐,並自殺。追贈殷長寧園淑妃。嘉梁曠誠節,擢為後將軍。封周滿山陽縣侯,食邑四百五十戶,胤之耒陽子,食邑三百五十戶。胡思祖高平縣男,食邑二百戶。臨川內史羊璿之以先協附誕伏誅。

劉誕が南徐州刺史であった時、都にいた夜、大風が吹き屋根瓦が飛び落ち、城門の鹿砦が倒れ伏し、劉誕は心の中でこれを嫌った。広陵に鎮守を移す時、城に入ると、突風が起こり砂塵を巻き上げ、昼間でも暗くなった。また、夜中に静かに座っていると、赤い光が部屋を照らし、見た者は皆怪しみ驚いた。左右の侍直が眠っていると、夢の中で人が告げて言うには、「官は髪の毛を矟の飾り毛に必要としている」と。目が覚めると、既に髻がなくなっており、このような者は数十人に及び、劉誕は非常に怪しみ恐れた。大明二年、民衆を徴発して広陵城を修築させた時、劉誕が巡行していると、ある人が車の傍らで声を張り上げて大声で罵った。「大軍がまもなく到着するというのに、どうして百姓を苦しめるのか!」劉誕が彼を捕らえ、経緯を問うと、答えて言った。「姓は夷、名は孫、家は海陵にある。天公が去年、道と仏と共に議して、この地の民を除こうとしたが、道と仏が苦言して諫めたので止まった。大禍が将に至ろうとしているのに、どうして六慎門を立てないのか。」劉誕が「六慎門とはどういうものか」と問うと、答えて言った。「古い言葉に、禍は六慎門に入らない、とある。」劉誕はその言葉が狂っているとして、彼を殺した。また、五音士が突然狂気のように鬼を見て、驚き恐れて泣き叫び、「外の軍が城を囲み、城の上に白い布の帆が張られている」と言った。劉誕は彼を二十余日拘束した後、赦した。城が陥落した日、雲霧が暗く曇り、白い虹が北門に臨み、城内にまで連なっていた。

原文誕為南徐州刺史,在京夜,大風飛落屋瓦,城門鹿牀倒覆,誕心惡之。及遷鎮廣陵,入城,衝風暴起揚塵,晝晦。又中夜閑坐,有赤光照室,見者莫不怪愕。左右侍直,眠中夢人告之曰:「官須髮為矟毦。」既覺,已失髻矣,如此者數十人,誕甚怪懼。大明二年,發民築治廣陵城,誕循行,有人干輿揚聲大罵曰:「大兵尋至,何以辛苦百姓!」誕執之,問其本末,答曰:「姓夷名孫,家在海陵。天公去年與道佛共議,欲除此間民人,道佛苦諫得止。大禍將至,何不立六慎門。」誕問:「六慎門云何?」答曰:「古時有言,禍不入六慎門。」誕以其言狂悖,殺之。又五音士忽狂易見鬼,驚怖啼哭曰:「外軍圍城,城上張白布帆。」誕執錄二十餘日,乃赦之。城陷之日,雲霧晦暝,白虹臨北門,亘屬城內。

八年(464年)、前廃帝が即位すると、義陽王劉昶が征北将軍・徐州刺史となり、広陵を通りかかった時、上表して言った。「ひそかに聞くところによれば、淮南王が霧の中で死んだ時、遺族を探し求められ、楚王劉英が流刑に処せられた時も、その墓を大切にされました。ともに二つの臣下の難を結び、二つの君主の義を開き、法では事を断じましたが、礼では情を酌むこともありました。伏して見ますに、故賊劉誕は戈を挙げて節を犯し、自ら逆命を招き、斧の下に膏を塗られて殺され、法に照らして既に明らかです。しかし、尋ねてみれば、彼は皇族に連なり、諸侯の位にありました。一度罪に終わったとはいえ、その魂と骸骨までも赦されず、生きては宗籍に等しく、死しては匹夫の豎子と同じで、旅の仮葬は雑然とし、墓には樹木も植えられていません。今、歳月が過ぎ去り、過ちと禍いも去りましたが、この地を踏み感慨が湧き、事に感じ目を傷めます。陛下は明を継いで運を昇らせ、全てを新たにされ、大いなる徳が今まさに臨まれているのに、哀れみ憐れむことはまだ及びません。欒布が市で哭したのは、義のために雷霆に触れ、田叔が赭色の衣を着け鉗(首枷)をはめられたのは、夷戮(誅殺)を志したからです。ましてや天倫(兄弟)の間柄にあって、どうしてただ一人感じることがないことがありましょうか。伏して願わくは、前例に照らし合わせ、丹誠を降って述べさせていただき、薄く棺を改め、わずかに墓を示していただけますよう。そうすれば朽ちた骨も栄誉を知り、黄泉でも恩恵を覚えるでしょう。紙に向かって哽咽慟哭し、言葉では自らの思いを尽くせません。」詔して言った。「征北将軍の表はこの通りである。省みて慨然とする。劉誕とその妻女は、ともに庶人の礼をもって葬り、守衛を置くこととする。」太宗(明帝)の泰始四年(468年)、また改めて葬りを行い、少牢(羊と豚)をもって祭った。

原文八年,前廢帝即位,義陽王昶為征北將軍、徐州刺史,道經廣陵,上表曰:「竊聞淮南中霧,眷求遺緒;楚英流殛,愛存丘墓。並難結兩臣,義開二主,法雖事斷,禮或情申。伏見故賊劉誕,稱戈犯節,自貽逆命,膏斧嬰戮,在憲已彰。但尋屬忝皇枝,位叨列辟,一以罪終,魂骸莫赦。生均宗籍,死同匹豎,旅窆委雜,封樹不修。今歲月愈邁,愆流釁往,踐境興懷,感事傷目。陛下繼明升運,咸與惟新,大德方臨,哀矜未及。夫欒布哭市,義犯雷霆;田叔鉗赭,志於夷戮。況在天倫,何獨無感。伏願稽若前准,降申丹志,乞薄改楄柎,微表窀穸。則朽骨知榮,窮泉識荷。臨紙哽慟,辭不自宣。」詔曰:「征北表如此。省以慨然。誕及妻女,並可以庶人禮葬,并置守衞。」太宗泰始四年,又更改葬,祭以少牢。

廬江王劉褘、字は休秀、文帝の第八子である。

原文廬江王褘字休秀,文帝第八子也。

元嘉22年、10歳の時に東海王に封ぜられ、食邑二千戸を与えられた。26年、侍中・後軍将軍に任じられ、石頭の戍事を管轄した。冠軍かんぐん将軍・南彭城下邳二郡太守・散騎常侍さんきじょうじに昇進し、戍事の管轄は変わらなかった。会稽太守として出向し、将軍の位はそのままだった。29年、使持節・都督広交二州荊州之始興臨賀始安三郡諸軍事・車騎将軍・平越中郎将・広州刺史に任じられた。元凶が帝を弑して即位すると、安南将軍の号を加えられたが、任地には赴かなかった。世祖が即位すると、再び会稽太守となり、撫軍将軍を加えられた。翌年、秘書監に召され、散騎常侍を加えられた。まもなく撫軍将軍・江州刺史として出向し、平南将軍に昇進し、属官を置くことを許された。大明2年、散騎常侍・中書令に召され、驍騎ぎょうき将軍を管轄し、鼓吹一部を与えられ、常侍の位は変わらなかった。また南豫州刺史として出向し、常侍・将軍の位は変わらなかった。本官の号で開府儀同三司となり、国子祭酒を管轄し、常侍の位は変わらなかった。5年、詔が下された。「昔、韓・衛は異姓でありながら、宗周の明らかな法に列せられた。三つの封爵が異なる等級であることは、過去の晋の立派な法典である。ただ我が皇家が典章を創始し、この意義をことごとく広く明らかにした。朕は天命に応じ、四海を光り輝かせて治めるにあたり、前代の規範に倣い、善き親族を尊び立て、永遠に画一したものを伝え、法令に明記することを考える。諸弟の封国は、いずれも千戸を増やすことができる。」7年、司空に昇進し、常侍・祭酒の位は変わらなかった。前廃帝が即位すると、中書監を加えられた。太宗が即位すると、太尉たいいに昇進し、侍中・中書監を加えられ、班剣二十人を与えられた。廬江王に改封された。

原文元嘉二十二年,年十歲,封東海王,食邑二千戶。二十六年,以為侍中、後軍將軍,領石頭戍事。遷冠軍將軍、南彭城下邳二郡太守、散騎常侍,領戍如故。出為會稽太守,將軍如故。二十九年,遷使持節、都督廣交二州荊州之始興臨賀始安三郡諸軍事、車騎將軍、平越中郎將、廣州刺史。元凶弒立,進號安南將軍,未之鎮。世祖踐阼,復為會稽太守,加撫軍將軍。明年,徵為祕書監,加散騎常侍。尋出為撫軍將軍、江州刺史,進號平南將軍,置吏。大明二年,徵為散騎常侍、中書令,領驍騎將軍,給鼓吹一部,常侍如故。又出為南豫州刺史,常侍、將軍如故。以本號開府儀同三司,領國子祭酒,常侍如故。五年,詔曰:「昔韓、衞異姓,宗周之明憲;三封殊級,往晉之令典。唯皇家創典,盡弘斯義。朕應天命,光宅四海,思所以憲章前式,崇建懿親,永垂畫一,著于甲令。諸弟國封,並可增益千戶。」七年,進司空,常侍、祭酒如故。前廢帝即位,加中書監。太宗踐阼,進太尉,加侍中、中書監,給班劍二十人。改封廬江王。

太祖の諸子の中で、劉褘は特に平凡で劣っており、諸兄弟は彼を愚かで卑しいと見なしていた。南平王劉鑠が早くに亡くなり、劉鑠の子の敬淵が婚礼を挙げた時、劉褘は見舞いに行き、世祖に伎楽を借りるよう申し出た。世祖は答えて言った。「婚礼では楽を奏さない。それに敬淵らは孤苦であり、とりわけふさわしくない。」この時、太宗は建安王劉休仁りゅうきゅうじんに詔を下して言った。「人はすでに西方公を数に入れない。お前が諸王の長となれ。」当時、劉褘は西州に住んでいたので、西方公と呼んだのである。泰始5年、河東の柳欣慰が謀反を企て、劉褘を立てようとし、劉褘は彼と応酬し合った。欣慰は征北諮議参軍杜幼文・左軍参軍宋祖珍・前鄀県令王隆伯らを結びつけようとした。劉褘は側近の徐虎児に命じて、金の盒子一つを杜幼文に贈り、銅の鉢二つを宋祖珍と王隆伯に贈らせた。杜幼文はこの事を詳しく上奏した。上はそこで詔を下して言った。

原文太祖諸子,褘尤凡劣,諸兄弟蚩鄙之。南平王鑠蚤薨,鑠子敬淵婚,褘往視之,白世祖借伎,世祖答曰:「婚禮不舉樂,且敬淵等孤苦,倍非宜也。」至是太宗與建安王休仁詔曰:「人既不比數西方公,汝便為諸王之長。」時褘住西州,故謂之西方公也。泰始五年,河東柳欣慰謀反,欲立褘,褘與相酬和。欣慰要結征北諮議參軍杜幼文、左軍參軍宋祖珍、前鄀令王隆伯等。褘使左右徐虎兒以金合一枚餉幼文,銅鉢二枚餉祖珍、隆伯。幼文具奏其事。上乃下詔曰:

宣城に出鎮すると、上は腹心の楊運長に兵を率いさせて防衛させた。同党の柳欣慰・徐虎児・陳道明・甯敬之・閭丘邈之・樊平祖・孟敬祖はことごとく誅殺された。翌年6月、上はまた役人に上奏させた。「劉褘は憤慨して怨み言がある。官を免じ、爵位と封土を削り、宛陵県の獄に預け、法に基づいて徹底的に処罰するよう請う。」許されなかった。そこで大鴻臚に節を持たせ、宗正を兼ねて副使とし、詔を奉じて劉褘を責め、自殺を強要させた。時に35歳。そのまま宣城に葬られた。

原文出鎮宣城,上遣腹心楊運長領兵防衞。同黨柳欣慰、徐虎兒、陳道明、甯敬之、閭丘邈之、樊平祖、孟敬祖並伏誅。明年六月,上又令有司奏:「褘忿懟有怨言,請免官,削爵土,付宛陵縣獄,依法窮治。」不許。乃遣大鴻臚持節,兼宗正為副奉詔責褘,逼令自殺,時年三十五,即葬宣城。

子の充明は、輔国将軍・南彭城東莞二郡太守となった。廃されて新安郡歙県に移された。後廃帝が即位すると、京邑への帰還を許された。順帝昇明2年に死去した。時に28歳。子はなかった。

原文子充明,輔國將軍、南彭城東莞二郡太守。廢徙新安歙縣。後廢帝即位,聽還京邑。順帝昇明二年卒,時年二十八,無子。

武昌王劉渾、字は休淵。文帝の第十子である。

原文武昌王渾字休淵,文帝第十子也。

元嘉24年、9歳の時に汝陰王に封ぜられ、食邑二千戸を与えられた。後軍将軍となり、散騎常侍を加えられた。索虜が南侵し、汝陰郡を破ったため、劉渾は武昌王に改封された。幼少より凶暴で残忍で、かつて石頭から出た時、側近の者に腹を立て、防身用の刀を抜いて斬りつけた。元凶が帝を弑して即位すると、中書令に任じられた。先帝の陵墓の夕べに、裸身で頭を露出し、散騎省に行って戯れ、弓を引いて通直郎の周朗を射た。その枕に命中し、笑い楽しんだ。世祖が即位すると、征虜将軍・南彭城東海二郡太守を授けられ、京口に出鎮した。

原文元嘉二十四年,年九歲,封汝陰王,食邑二千戶。為後軍將軍,加散騎常侍。索虜南寇,破汝陰郡,徙渾為武昌王。少而凶戾,嘗出石頭,怨左右人,拔防身刀斫之。元凶弒立,以為中書令。山陵夕,臝身露頭,往散騎省戲,因彎弓射通直郎周朗,中其枕,以為笑樂。世祖即位,授征虜將軍、南彭城東海二郡太守,出鎮京口。

孝建元年、使持節・監雍梁南北秦四州荊州之竟陵随二郡諸軍事・寧蛮校尉・雍州刺史に転じ、将軍の位は変わらなかった。劉渾が任地に着くと、側近とともに檄文を作り、自ら楚王と号し、年号を永光元年とし、百官を整備して、戯れ笑いとした。長史の王翼之がその自筆の文書を手に入れ、封をして世祖に呈上した。上は役人に命じて庶人に落とすよう上奏させ、太常に下し、その宗籍を絶ち、始安郡に移住させた。上は員外散騎侍郎の戴明宝を遣わして劉渾を詰問させた。「私はお前と親しさにおいては同じ気脈を分かち、義においては君臣である。西方の藩屏として任を遣わし、盤石のように固くするためであった。どうして一朝にして逆らおうとするのか。檄文による処分は、事跡が明らかである。不忠不義、ここに至るとは。ただ天道が順を助けるだけでなく、逆らう志は満たし難い。もしその凶悪な計画が成就したとしても、天下の誰がお前を受け入れるだろうか。前の事は遠くない。鑑戒とするに足りる。加えて頻発する災難は、外部の者から起こるのではなく、ただ互いに精神を奮い立たせて、七百年の基盤を固めるべきである。お前は突然またこれを企てた。まことに悲しみ嘆かわしい。国には法典があるが、私もどうして極刑に処することが忍びようか。よく自ら養生し、松・喬のような長寿を保て。」自殺を強要させ、そのまま襄陽に葬られた。時に17歳。大明4年、母の江太妃の墓のそばに葬ることを許された。太宗が即位すると、武昌県侯に追封された。

原文孝建元年,遷使持節、監雍梁南北秦四州荊州之竟陵隨二郡諸軍事、寧蠻校尉、雍州刺史,將軍如故。渾至鎮,與左右人作文檄,自號楚王,號年為永光元年,備置百官,以為戲笑。長史王翼之得其手迹,封呈世祖。上使有司奏免為庶人,下太常,絕其屬籍,徙付始安郡。上遣員外散騎侍郎戴明寶詰渾曰:「我與汝親則同氣,義則君臣,遣任西蕃,以同盤石,云何一旦反欲見圖?文檄處分,事迹炳然,不忠不義,乃可至此。豈唯天道助順,逆志難充,如其凶圖獲逞,天下誰當相容,前事不遠,足為鑑戒。加以頻歲釁難,非起外人,唯應相與厲精,以固七百。汝忽復構此,良可悲惋。國雖有典,我亦何忍極法,好自將養,以保松、喬之壽。」逼令自殺,即葬襄陽,時年十七。大明四年,聽還葬母江太妃墓次。太宗即位,追封為武昌縣侯。

王翼之、字は季弼。琅邪郡臨沂県の人。晋の黄門侍郎王徽之の孫である。官は御史中丞、会稽太守、広州刺史に至った。諡は肅子。

原文王翼之字季弼,琅邪臨沂人,晉黃門侍郎徽之孫也。官至御史中丞,會稽太守,廣州刺史。諡曰肅子。

海陵王劉休茂。文帝の第十四子である。

原文海陵王休茂,文帝第十四子也。

孝建2年、11歳の時に海陵王に封ぜられ、食邑二千戸を与えられた。大明2年、使持節・都督雍梁南北秦四州郢州えいしゅう之竟陵随二郡諸軍事・北中郎将・寧蛮校尉・雍州刺史に任じられた。左将軍に昇進し、食邑を千戸増やされた。当時、司馬の庾深之が府の事務を代行していた。劉休茂は性急で、専断しようとしたが、庾深之と主帥がたびたびこれを禁じたため、常に憤り怒りを抱いていた。側近の張伯超は最も親愛されていたが、罪過が多く、主帥が常に叱責を加えた。伯超は罪を恐れ、劉休茂に言った。「主帥は密かに官の罪過を書き記し、上聞しようとしています。このままでは恐らく良いことはありません。」劉休茂は言った。「どうすればよいか。」伯超は言った。「ただ行事(司馬)と主帥を殺し、兵を挙げて自衛するだけです。ここから都までは数千里あります。たとえ大事が成就しなくとも、虜の中に入って王となることは失いません。」劉休茂はこれに従った。夜、伯超と側近の黄霊期・蔡捷世・滕穆之・王宝龍・来承道・彭叔児・魏公子・陳伯児・張駟奴・楊興・劉保・余双らを率い、夾轂隊を率いて城内で典籤の楊慶を殺し、金城から出て、司馬の庾深之と典籤の戴双を殺した。兵士を徴発して集め、牙門を建てて檄を飛ばし、佐吏に命じて車騎大将軍・開府儀同三司を自称させ、黄鉞を加えた。侍読博士の荀詵が諫めて争ったが、殺された。伯超が軍政を一手に任せ、思いのままに殺害した。劉休茂の側近の曹万期が身を挺して劉休茂を斬りつけたが、傷を負って逃げ、殺された。劉休茂は城外に出て陣営を巡ったが、諮議参軍の沈暢之らが兵を率いて城門を閉ざして拒んだ。劉休茂は急いで戻ったが、入ることができなかった。義成太守の薛継考が劉休茂のために力を尽くして城を攻め、多くの死傷者を出したため、沈暢之は自らを守りきれず、ついに城内に入ることができ、沈暢之と同謀の数十人を斬った。

原文孝建二年,年十一,封海陵王,食邑二千戶。大明二年,以為使持節、都督雍梁南北秦四州郢州之竟陵隨二郡諸軍事、北中郎將、寧蠻校尉、雍州刺史。進號左將軍,增邑千戶。時司馬庾深之行府事,休茂性急疾,欲自專,深之及主帥每禁之,常懷忿怒。左右張伯超至所親愛,多罪過,主帥常加呵責,伯超懼罪,謂休茂曰:「主帥密疏官罪過,欲以啟聞,如此恐無好。」休茂曰:「為何計?」伯超曰:「唯當殺行事及主帥,且舉兵自衞。此去都數千里,縱大事不成,不失入虜中為王。」休茂從之。夜挾伯超及左右黃靈期、蔡捷世、滕穆之、王寶龍、來承道、彭叔兒、魏公子、陳伯兒、張駟奴、楊興、劉保、余雙等,率夾轂隊,於城內殺典籤楊慶,出金城,殺司馬庾深之、典籤戴雙。集徵兵眾,建牙馳檄,使佐吏上車騎大將軍、開府儀同三司,加黃鉞。侍讀博士荀詵諫爭,見殺。伯超專任軍政,殺害自己。休茂左右曹萬期挺身斫休茂,被創走,見殺。休茂出城行營,諮議參軍沈暢之等率眾閉門拒之,休茂馳還,不得入。義成太守薛繼考為休茂盡力攻城,殺傷甚眾,暢之不能自固,遂得入城,斬暢之及同謀數十人。

その日、参軍の尹玄慶が義兵を起こし、休茂を攻撃し、生け捕りにし、中門から引き出して斬首しようとした。その時、彼は十七歳であった。母と妻はともに自殺し、同党はすべて誅殺された。城内は混乱し、統率する者がいなかった。当時、尚書右僕射の劉秀之の弟の恭之は休茂の中兵参軍であり、人々は共に彼を行府州事として推挙した。継考は兵で恭之を脅迫し、啓事を作らせて義兵を起こしたと偽り、自ら駅馬で都に戻り、上(皇帝)は彼を永嘉王子仁の北中郎諮議参軍・河南太守とし、冠軍県侯に封じ、食邑四百戸を与えた。まもなく事が露見し、誅殺された。恭之は連座して尚方に拘禁された。玄慶を射声校尉とした。有司が休茂の属籍を絶つよう上奏し、姓を留に貶めることを求めたが、上は許さなかった。すぐに襄陽に埋葬した。

原文其日,參軍尹玄慶起義,攻休茂,生禽之,將出中門斬首,時年十七。母妻皆自殺,同黨悉伏誅。城中撓亂,無相統領。時尚書右僕射劉秀之弟恭之為休茂中兵參軍,眾共推行府州事。繼考以兵脅恭之,使作啟事云立義,自乘驛還都,上以為永嘉王子仁北中郎諮議參軍、河南太守,封冠軍縣侯,食邑四百戶。尋事泄,伏誅。恭之坐繫尚方。以玄慶為射聲校尉。有司奏絕休茂屬籍,貶姓為留,上不許。即葬襄陽。

庾深之は字を彦静といい、新野の人である。先朝に仕えたことで知られた。元嘉二十九年、輔国長史から長沙内史となった。南郡王の義宣が荊州・湘州の二州を治めた時、深之に寧朔将軍を加え、湘州七郡を都督させた。翌年、義宣が謀反を起こすと、深之は巴陵に拠ってこれを防いだ。休茂の司馬に転じた。害された朝、子孫もまた死んだ。深之は冠軍将軍・雍州刺史を追贈され、荀詵は員外散騎侍郎を、曹万期は始平太守を追贈された。

原文庾深之字彥靜,新野人也。以事先朝見知。元嘉二十九年,自輔國長史為長沙內史。南郡王義宣為荊、湘二州,加深之寧朔將軍,督湘州七郡。明年,義宣為逆,深之據巴陵拒之。轉休茂司馬。見害之旦,子孫亦死。追贈深之冠軍將軍、雍州刺史,荀詵員外散騎侍郎,曹萬期始平太守。

桂陽王の休範は、文帝の第十八子である。

原文桂陽王休範,文帝第十八子也。

孝建三年、九歳の時に順陽王に封じられ、食邑二千戸を与えられた。大明元年、桂陽王に改封された。冠軍将軍・南彭城下邳太守となった。三年、外任で江州刺史となり、まもなく征虜将軍を加えられ、食邑千戸となった。内任で秘書監となり、前軍将軍を兼任した。七年、左衛将軍に昇進し、給事中を加えられた。前廃帝の永光元年、中護軍に転じ、崇憲衛尉を兼任した。太宗が乱を平定した後、彼を使持節・都督南徐徐南兗兗四州諸軍事・鎮北将軍・南徐州刺史とし、鼓吹一部を与えた。当時、薛安都せつあんとが彭城に拠って反乱を起こし、従子の索児を南侵させたので、休範は広陵に進んで占拠し、北討諸軍事を都督し、南兗州刺史を加えられ、征北大将軍に進み、散騎常侍を加えられた。京口に戻り、兗州の任を解かれ、食邑二千戸を増やされ、五百戸を受領した。泰始五年、中書監・中軍将軍・揚州刺史に召され、常侍は元の通りであった。翌年、外任で使持節・都督江郢司広交五州および豫州の西陽・新蔡・晋熙、湘州の始興四郡諸軍事・征南大将軍・江州刺史となった。まもなく開府儀同三司を加えられたが、拝命せず、都督南徐徐南兗兗青冀六州諸軍事・驃騎大将軍・南徐州刺史に改めて任じられ、持節・常侍・開府は元の通りであった。拝命せず、驃騎大将軍として江州に戻り、越州諸軍事の都督を加えられ、三望車一乗を与えられた。太宗の遺詔により、司空に進位し、常侍を侍中に改め、班剣三十人を加えられた。

原文孝建三年,年九歲,封順陽王,食邑二千戶。大明元年,改封桂陽王。為冠軍將軍、南彭城下邳太守。三年,出為江州刺史,尋加征虜將軍,邑千戶。入為祕書監,領前軍將軍。七年,遷左衞將軍,加給事中。前廢帝永光元年,轉中護軍,領崇憲衞尉。太宗定亂,以為使持節、都督南徐徐南兗兗四州諸軍事、鎮北將軍、南徐州刺史,給鼓吹一部。時薛安都據彭城反叛,遣從子索兒南侵,休範進據廣陵,督北討諸軍事,加南兗州刺史,進征北大將軍,加散騎常侍,還京口,解兗州,增邑二千戶,受五百戶。泰始五年,徵為中書監、中軍將軍、揚州刺史,常侍如故。明年,出為使持節、都督江郢司廣交五州豫州之西陽新蔡晉熙湘州之始興四郡諸軍事、征南大將軍、江州刺史。尋加開府儀同三司,未拜,改授都督南徐徐南兗兗青冀六州諸軍事、驃騎大將軍、南徐州刺史,持節、常侍、開府如故。未拜,以驃騎大將軍還為江州,進督越州諸軍事,給三望車一乘。太宗遺詔,進位司空,改常侍為侍中,加班劍三十人。

休範はもともと平凡で口数が少なく、理解力に乏しく、諸兄からは相手にされなかった。太宗はしばしば左右の者を指さして王景文おうけいぶんに言った。「休範の才能はこの者たちにも及ばない。私の弟であるがゆえに、生まれながらにして富貴を得た。釈迦の教えが王家に生まれんと願うのは、まことに理由があることだ。」太宗の晩年になると、晋平王の休祐は残忍で禍を招き、建安王の休仁は権勢が皇帝に迫るとして容れられず、巴陵王の休若はもともと人心を得ていたが、それゆえに害された。ただ休範だけは慎重で口下手で才能がなく、人々の支持を得ていなかったため、自らを保つことができたが、常に憂いと恐れを抱き、いつも禍が及ぶことを心配していた。太宗が崩御し、君主が幼く時局が困難になると、素族(外戚・功臣の家柄)が権力を握り、側近が政務を執った。休範は自ら、宗室の親戚の中で自分に次ぐ者はなく、宰輔の地位に就くべきだと思ったが、そのような事態にはならず、怨みと憤りはますます募った。勇士を招き寄せ、兵器を整備し、尋陽を通り過ぎる旅人には、誰もが敬意を払い礼を尽くし、厚く贈り物をし、引き留めれば身を屈めて接遇し、手厚く資金を与えた。そこで遠近から同じように応じる者が現れ、来る者は帰るが如くであった。朝廷は彼に異心があることを知り、密かに防備した。まだ形跡を表してはいなかったが、禍難はすでに成っていた。母の荀太妃が薨去し、廬山に葬られたが、これは戻らない意志を示すためであった。侍中の任を解かれた。

原文休範素凡訥,少知解,不為諸兄所齒遇。太宗常指左右人謂王景文曰:「休範人才不及此,以我弟故,生便富貴。釋氏願生王家,良有以也。」及太宗晚年,晉平王休祐以狠戾致禍,建安王休仁以權逼不見容,巴陵王休若素得人情,又以此見害。唯休範謹澀無才能,不為物情所向,故得自保,而常懷憂懼,恒慮禍及。及太宗晏駕,主幼時艱,素族當權,近習秉政,休範自謂宗戚莫二,應居宰輔,事既不至,怨憤彌結。招引勇士,繕治器械,行人經過尋陽者,莫不降意折節,重加問遺,□□留則傾身接引,厚相資給,於是遠近同應,至者如歸。朝廷知其有異志,密相防禦,雖未表形迹,而釁難已成。母荀太妃薨,葬廬山,以示不還之志。解侍中。

当時、夏口に鎮守の長官が欠けており、朝廷の議論では、尋陽の上流に位置するため、腹心を置き、その兵力を強化すべきだと考えた。元徽元年、第五皇弟の晋熙王の燮を郢州刺史とし、長史の王奐に行府州事をさせ、資力を与えて夏口に出鎮させた。休範に引き留められることを懸念し、太子洑から出発し、尋陽には寄らなかった。休範は大いに怒り、兵を挙げて朝廷を襲おうとし、典籤の新蔡の人、許公輿と密かに謀った。城壁と堀の修築を上表し、楼櫓を築き、多くの榜板(木札)を解いて、将来の使用に備えた。その年、太尉に進位した。翌年五月、ついに兵を挙げて反乱を起こした。民間の船を徴発し、軍隊に力に応じて請け受けさせ、榜板を渡して手分けして装備を整えさせた。二、三日のうちに、すべて整った。兵二万、鉄騎数百騎を率いて尋陽を出発し、昼夜を分かたず進軍した。袁粲、褚淵、劉秉に書を送った。

原文時夏口闕鎮,朝議以居尋陽上流,欲樹置腹心,重其兵力。元徽元年,乃以第五皇弟晉熙王燮為郢州刺史,長史王奐行府州事,配以資力,出鎮夏口。慮為休範所撥留,自太子洑去,不過尋陽。休範大怒,欲舉兵襲朝廷,密與典籤新蔡人許公輿謀之。表治城池,修起樓堞,多解榜板,擬以備用。其年,進位太尉。明年五月,遂舉兵反。虜發百姓船乘,使軍隊稱力請受,付以榜解板,合手裝治,二三日間,便悉整辦。率眾二萬,鐵騎數百匹,發自尋陽,晝夜取道。書與袁粲、褚淵、劉秉曰:

大雷の戍主である杜道欣が急ぎ下って変事を告げた。道欣が到着して一晩過ぎた時、休範はすでに新林に到着しており、朝廷は震動した。平南将軍の斉王が新亭の陣営に出て駐屯し、領軍将軍の劉勔、前兗州刺史の沈懐明が石頭城を占拠し、征北将軍の張永が白下に駐屯し、衛将軍の袁粲、中軍の褚淵、尚書左僕射の劉秉らが殿省に入って護衛した。事態が突然起こったため、改めて処置する暇がなく、南北二つの武庫を開き、将士の意向に任せて武器を取らせた。

原文大雷戍主杜道欣馳下告變。道欣至一宿,休範已至新林,朝廷震動。平南將軍齊王出次新亭壘,領軍將軍劉勔、前兗州刺史沈懷明據石頭,征北將軍張永屯白下,衞將軍袁粲、中軍褚淵、尚書左僕射劉秉等入衞殿省。時事起倉卒,不暇得更處分,開南北二武庫,隨將士意取。

休範は新林から徒歩で進み、新亭の陣営に及び、自ら城南に臨み、臨滄観の上で、数十人で自衛した。屯騎校尉の黄回は、攻撃の機会があると見て、偽って降伏を請い、同時に斉王の意向を伝えた。休範は大いに喜び、二人の子の徳宣と徳嗣を回に預けて人質とし、回は彼らを受け取るとすぐに斬った。回は越騎校尉の張敬児とともにまっすぐ前に進み出て休範の首を斬り、持ち帰った。左右の者はみな逃げ散った。

原文休範於新林步上,及新亭壘,自臨城南,於臨滄觀上,以數十人自衞。屯騎校尉黃回見其可乘,乃偽往請降,并宣齊王意旨,休範大悅,以二子德宣、德嗣付回與為質,至即斬之。回與越騎校尉張敬兒直前斬休範首,持還,左右並奔散。

初め、休範は新林から同党の杜耳、丁文豪、杜墨蠡らを分遣し、まっすぐ朱雀門に向かわせた。休範が死んでも、墨蠡らはそのことを知らなかった。王道隆が羽林兵を率いて朱雀門内にいたが、賊が来たと聞き、急いで劉勔を呼んだ。勔は石頭城から駆けつけ、引き続いて桁の南に進み、戦いに敗れて死んだ。墨蠡らは勝ちに乗じてまっすぐ朱雀門に入り、王道隆は乱兵に殺された。墨蠡らは「太尉が到着した」と叫んだ。休範の死後、斉王は隊主の陳霊宝に首を持たせて台城に送らせたが、途中で賊に出会い、首を水に捨て、単身で到着した。すでに平定したと叫んだが、証拠となるものがなく、人々はますます疑念を抱いた。張永は白下で兵を捨て、沈懐明は石頭城から逃げ散り、撫軍典籤の茅恬が東府を開いて賊を迎え入れた。墨蠡はまっすぐ杜姥宅に至り、中書舎人の孫千齢が承明門を開いて出降した。宮省は恐慌状態に陥り、固守する意志を失った。当時、庫蔵の賞賜品はすでに尽きており、皇太后と太妃は宮中の金銀器物を取り外して費用に充てた。羽林監の陳顕達が率いる兵が杜姥宅で墨蠡と戦い、これを破った。宣陽の御道に至ると、諸賊は一斉に逃げ散り、墨蠡、文豪および同党の姜伯玉、柳仲虔、任天助らを斬った。許公輿は逃げて新蔡に戻ったが、村民が斬って首を送った。晋熙王の燮が夏口から軍を派遣して尋陽を平定し、徳嗣の弟の青牛、智蔵はともに誅殺された。詔により、建康・秣陵の二県が諸軍の戦死者を収容し、賊の屍も併せて埋葬した。

原文初,休範自新林分遣同黨杜耳、丁文豪、杜墨蠡等,直向朱雀門。休範雖死,墨蠡等不相知聞。王道隆率羽林兵在朱雀門內,聞賊至,急召劉勔。勔自石頭來赴,仍進桁南,戰敗,死之。墨蠡等乘勝直入朱雀門,王道隆為亂兵所殺。墨蠡等唱:「太尉至。」休範之死也,齊王遣隊主陳靈寶齎首詣臺,道逢賊,棄首於水,挺身得達,雖唱云「已平」,而無以為據,眾愈疑惑。張永棄眾於白下,沈懷明於石頭奔散,撫軍典籤茅恬開東府納賊。墨蠡逕至杜姥宅,中書舍人孫千齡開承明門出降,宮省恇擾,無復固志。時庫藏賞賜已盡,皇太后、太妃剔取宮內金銀器物以充用。羽林監陳顯達率所領於杜姥宅與墨蠡戰,破之。至宣陽御道,諸賊一時奔散,斬墨蠡、文豪及同黨姜伯玉、柳仲虔、任天助等。許公輿走還新蔡,村民斬送之。晉熙王燮自夏口遣軍平尋陽,德嗣弟青牛、智藏並伏誅。詔建康、秣陵二縣收斂諸軍死者,并殺賊屍,並加藏埋。