巻75

宋書

列伝第三十五 王僧達 顔竣

王僧達は、琅邪郡臨沂県の人で、太保の王弘の末子である。兄の王錫は、質朴で口数が少なく、風采に乏しかった。太祖(文帝)は王僧達が早くから聡明であると聞き、徳陽殿で引見し、その学問や家の事情について問うと、受け答えは落ち着いて機敏であり、上は彼を大いに気に入り、臨川王劉義慶の娘を妻として与えた。

若くして学問を好み、文章を作るのが巧みであった。二十歳になる前に、始興王劉濬の後軍参軍に任じられ、太子舎人に転じた。病気療養中に、楊列橋で鴨の闘いを見物したことで役人に糾弾されたが、不問に付された。性質として鷹や犬を好み、町の若者たちと駆け回り、また自ら牛を屠ることもした。劉義慶はこのような様子を聞き、側近の僧侶である慧観を遣わして彼を訪ねさせた。王僧達は書物を座席いっぱいに並べ、文義について論じ合い、慧観は返答に追われるほどで、深く称賛した。兄の王錫とは仲が悪く、家が貧しいと訴えて郡 太守 を求めた。太祖は秦郡太守にしようとしたが、吏部郎の庾炳之が「王弘の子は秦郡を治めるのに適さず、王僧達も民を治めることはできません」と言ったので、取りやめになった。まもなく太子洗馬に転じ、母の喪で職を去った。兄の王錫が臨海郡太守を罷免されて帰還すると、送別の贈り物や俸禄の蓄えなど百万銭以上を王僧達は一晩で奴隷に車で運び取らせ、残りは何もなかった。喪が明けると、宣城太守となった。遊猟を好む性質で、山間の郡には事が少なかったため、王僧達は思うままに駆け回り、あるいは三五日も帰らず、訴訟の受理も多くは狩場で行い、民衆が道で出会っても彼が誰だかわからず、太守はどこにいると尋ねると、王僧達は「すぐ後ろにいる」と答えた。元嘉二十八年の春、索虜(北魏)が侵攻して都が危険にさらされると、王僧達は京師の守衛に加わりたいと願い出て、許された。賊が退くと、再び宣城太守に任じられ、ほどなくして義興郡に転任した。

三十年、元凶(劉劭)が帝を しい 逆して即位すると、世祖(孝武帝)が討伐の軍を起こした。世祖は諸州郡に檄を広く発し、また郡に兵を出すよう符(命令書)を送ったが、王僧達はどちらに従うべきかわからなかった。ある客が彼に説いて言った。「今、逆賊の罪は天を覆い、古今に例がありません。あなたのために計るなら、義軍の檄を受け取って、隣接する郡に伝え、弁舌に優れた者に禍福の道理を明示させ、心ある者は誰でもこれに応じるように仕向けるのが、上策です。それができないなら、義に従おうとする者を自ら率い、水陸の便を詳しく選んで、身を南に投じて帰順するのが、次善の策です。」王僧達はそこで自ら小道を南に逃れ、鵲頭で世祖に出会い、すぐに長史に任じられ、征虜将軍を加えられた。初め、世祖が尋陽を出発した時、沈慶之は人に言った。「王僧達は必ず義軍に馳せ参じるだろう。」人がその理由を尋ねると、慶之は言った。「虜の馬が長江の水を飲む(北魏が侵攻する)時、王は国難に赴こうとし、先帝(文帝)の御前で議論を展開し、意志は明快で決断力があった。このことから言えば、彼の到来は必至である。」

上(孝武帝)が即位すると、尚書右 僕射 ぼくや に任じた。まもなく使持節・南蛮 校尉 こうい として出向し、征虜将軍を加えられた。この時、南郡王劉義宣が江陵に留まることを求めたため、南蛮 校尉 こうい としての任地に赴かず、出発できなかった。そこで護軍将軍に補任された。王僧達は自分の才能と家柄を恃み、当時自分に及ぶ者はいないと思っていた。上(孝武帝)が即位した当初から最高官位の一つに就き、一二年のうちに宰相の地位を望んだ。護軍将軍となってからは志を得ず、そこで上奏して徐州を管轄することを求めた。

上は許さなかった。王僧達は三度上奏して強く願い出たので、上は大いに不愉快になった。征虜将軍・呉郡太守に任じた。一年の間に五回転任したが、王僧達はますます不満を募らせた。

呉郡の郭西にある台寺には裕福な僧侶が多かった。王僧達が必要なものを求めても思い通りにならないと、主簿の顧曠に命じて門客や義徒を率いて寺内の僧侶竺法瑤を襲わせ、数百万銭を得た。荊州・江州で反乱が起こると、王僧達に属官を置き兵を率いることを許し、朝廷の命令では千人までとされたが、勝手に三十隊を編成し、一隊八十人とした。また呉に邸宅を建てるのに、多く公の労力を徴発した。これらの罪で官を免じられた。初め、王僧達が太子洗馬として東宮にいた時、軍人の朱霊宝を寵愛した。宣城太守として出た時、霊宝はすでに成長していた。王僧達は彼を死亡と偽って届け出、宣城郡の左永之の戸籍に寄せ、自分の子として登録し、名を元序と改めさせた。そして太祖(文帝)に上奏して武陵国の典衛令とし、さらに竟陵国の典書令、建平国の中軍将軍に補任させた。孝建元年の春、この事が発覚し、さらに官途を閉ざされた。上表して陳謝したが、「側近に依りかかり、権貴に心を寄せることができませんでした」と書いたので、上はますます怒った。王僧達の族子の王確は若く、容姿が美しかった。王僧達は彼と親密な関係を持った。王確の叔父の王休が永嘉太守となり、王確を連れて郡へ赴こうとした時、王僧達は無理に引き留めようとした。王確はその意図を知り、避けて二度と行かなくなった。王僧達は大いに怒り、密かに自分の住む家の後ろに大きな穴を掘り、王確が別れに来るのを誘い出し、殺して埋めようとした。従弟の王僧虔がその計画を知り、制止したのでやめた。御史中丞の劉瑀が収監して取り調べるよう上奏したが、上は許さなかった。

孝建三年、太常に任じられたが、気持ちは特に不愉快であった。ほどなくして上表して職を解くことを願い出た。

王僧達の文章の趣旨は抑揚に富み、 詔 によって門下省に下された。 侍中 の何偃はその言葉が不遜であるとして、南台(御史台)に付するよう上奏し、またも官を免じられる罪に問われた。

ほどなくして、江夏王劉義恭の太傅長史、臨淮太守に任じられ、さらに太宰長史に転じ、太守の職はそのままだった。大明元年、左衛将軍に転じ、太子中庶子を兼任した。帰順の功績により、寧陵県の五等侯に封じられた。二年、中書令に転じた。

以前から、南 彭城 国蕃県の民である高闍、僧侶の釈曇標、道方らが共に人を惑わし、鬼神や龍鳳の瑞祥があると自称し、常に簫鼓の音が聞こえると言い、秣陵の民である藍宏期らと謀って乱を起こそうとしていた。さらに殿中將軍の苗允、員外散騎侍郎の厳欣之、 司空 しくう 参軍の闞千纂、太宰府の将である程農、王恬らを結託し、二年八月一日の夜に兵を起こして宮門を攻め、朝には太宰の江夏王劉義恭を急襲し、兵を分けて諸大臣を襲撃殺害し、高闍を天子に立てる計画であった。事が発覚し、党与で死んだ者は数十人に及んだ。王僧達はたびたび狂逆の行為を重ねており、上は彼が終いに悔い改める心がないと見て、高闍の事件を利用して彼を陥れ、 詔 を下して言った。「王僧達は先祖の余慶を受けて、早くから栄達し、軽薄で危険な行いがなく、世間の評判は悪い。国が艱難に遭った時、一族を挙げて忠誠を尽くそうとしたので、その浅い誠意を認め、大きな罪を赦し、爵位は内外に及び、身は栄誉と寵愛に窮まった。しかし、かつて学問に励み(善に導かれることもなく)、桑の実を食べて(恩に報いる)心を持つこともなく、かえって西楚(江夏王?あるいは反乱勢力)と規律を合わせ、東の地域をかき乱そうと志し、公然と略奪を行い、凶悪な党与から公然と奪い取り、悪党と結託し、人々の視聴を惑わし乱した。朕はたびたび隠忍し、その罪を雪ぎ清めようと思ったが、かつて犬馬の恩を知る志はなく、炎は燎原の勢いとなり、細流は江河となる兆しを見せた。ついには高闍と唇歯の関係を結び、蘇宝と密約を交わし、妖しい図謀を探り詳しく調べ、天象を窺い観察した。賊の首長が捕らえられて梟首され、残党が取り調べられ、皆が獄中の供述書に記し、市中で宣言した時でさえ、なお隠忍しようとしたが、法は情に屈した。小醜が紛糾し、扇動する者がますます甚だしく、風塵を偽り構えて、非分の望みを志し、すでに公卿たちに知れ渡り、朝野に明らかとなった。朕はどうして宗廟 社稷 しゃしょく の重みを軽んじ、匹夫の仁を行えようか。山を崩して邪を誅することは聖典に同じくし、諷刺を戮し律を剪ることは漢の法が尊んだところである。ただちに廷尉に引き渡し、刑書によって厳正に処断せよ。故太保華容文昭公の王弘は歴朝にわたって忠勤を尽くし、深く眷遇を受けてきた。どうしてこの勲功と徳を忘れ、その世々の祭祀を忽せにできようか。門地による爵位と国戚としての婚姻は、一切貶絶しない。」獄中で死を賜った。時に三十六歳。

子の王道琰は新安郡に流された。前廃帝が即位すると、京邑に戻ることができた。後廃帝の元徽年間、廬陵国内史となったが、郡に着任する前に死去した。

蘇宝という者は、名を宝生といい、もとは寒門の出身であったが、文義の美しさがあった。元嘉年間に国子学が設立されると、毛詩の助教となり、太祖(文帝)に認められ、官は南台侍御史、江寧令に至った。高闍が反逆することを知りながらすぐに上奏しなかった罪により、高闍と共に誅殺された。

顔竣は字を士遜といい、琅邪郡臨沂県の人で、光禄大夫の顔延之の子である。太祖(文帝)が顔延之に「卿の子たちのうち、誰が卿の風があるか」と問うと、答えて言った。「竣は臣の筆(文章の才)を得、測は臣の文(学問の才)を得、㚟は臣の義(道理をわきまえる才)を得、躍は臣の酒(酒量)を得ました。」

顔竣は初め太学博士、太子舎人となり、出向して世祖(劉駿)の撫軍主簿となった。大いに寵愛され、顔竣もまた心を尽くして補佐した。元嘉年間、皇帝は諸王がそれぞれ党派を立てることを望まず、顔竣を召し出して尚書郎に補任しようとしたが、吏部尚書の江湛は、顔竣が王府で評判が良いので、変更すべきでないと主張し、皇帝は取りやめた。そこで顔竣は王府の転任に従い、安北将軍府、鎮軍将軍府、北中郎将府の主簿を歴任した。二十八年、北魏が彭城から北帰した後、再び互市を求めてきた。顔竣は議論して言った。「愚考するに、北魏と和親を結んでも益はなく、これまでの明らかな結果が示している。なぜそう言えるのか。夷狄が侵攻暴虐を欲するのは、まさに力が不足していることに苦しんでいるからである。彼らは信義に拘束されることなく、その謀略を止めることはない。かつての江上の戦役(元嘉二十七年の北魏南侵)は、まさに和親によって招かれたものである。長年にわたり使者を交換し、ついに国婚を求めたが、朝廷は羈縻の義(名目上の従属関係を保つこと)により、はっきりと拒絶せず、年月を重ねるうちに、次第に欺くことができなくなり、獣のような心は飽くことを知らず、さらに怒りを重ねたため、ついに深く侵入するに至ったのである。幸い今は戦争の後で、華夏と戎狄は隔絶している。もし互市を認めれば、再び過去の弊害の芽を開くことになる。議論する者は、互市の利点は馬を得られることにあると言うに過ぎないが、今、我々が重視するものを捨てて、彼らの下等な馬を得たとしても、千匹以上でさえまだ取るに足らず、ましてや得られる数がわずか十頭や百頭に過ぎないのである。一度交易を始めれば、結局は閉鎖し難くなる。敵寇は力を恃み勝利に驕り、狡猾で傲慢なことこの上ない。互市と称していても、実は国情を窺っているのであり、彼らの要求を多く満たせば、傲慢は止むことがなく、交易を認めて節度を設けても、必ずや辺境の憂いが生じる。端緒を断ち、その不満を防ぎ、内には徳化を修め、外には辺境の事を治め、国境を守って彼らの隙をうかがう方が、事柄としては長策である。」

初め、沙門の釈僧含はわずかに学識があり、顔竣に言った。「貧僧はわずかに讖記(予言書)を見たが、真人が符命に応じる者がおり、その名称の順序は殿下に属している。」顔竣は彭城でかつて親しい者にこの話をしたことがあり、その言葉はやがて広まり、太祖(文帝)の耳に入った。当時、元凶(劉劭)の巫蠱の事件がすでに発覚していたため、皇帝は追及しなかった。世祖が尋陽に駐屯すると、顔竣は南中郎記室参軍に転任した。三十年春、父の顔延之が致仕したため、固く職務の解任を求めたが、許されなかった。休暇を賜ったがまだ出発しないうちに、太祖の崩御の報が届き、世祖は兵を挙げて討伐に向かった。顔竣は諮議参軍に転じ、録事を兼任し、内外の事務を総括し、さらに檄文を作成した。世祖が尋陽を出発した時、すでに病気を患っており、録事を兼任する沈慶之以下は、みな面会に耐えられず、ただ顔竣だけが寝室に出入りし、軍機を断決した。当時、世祖はたびたび危篤状態に陥り、諮問に応じることができなかったため、すべての事柄は顔竣が専断して施行した。世祖が即位すると、顔竣を侍中とし、まもなく左衛将軍に転じ、 散騎常侍 さんきじょうじ を加えられたが、常侍を辞退し、許された。建城県侯に封ぜられ、食邑二千戸を与えられた。

孝建元年、吏部尚書に転じ、 ぎょう 騎 将軍を兼任した。選挙(官吏登用)に心を配り、自ら励んで怠らず、任用と待遇がすでに厚かったため、上奏はすべて認められた。その後、謝荘が顔竣に代わって選挙を担当したが、その意向は多く実行されなかった。顔竣の容貌は厳しく毅然としており、謝荘の風姿は非常に美しく、賓客が騒ぎ訴えても、常に笑顔で答えた。当時の人はこれについて言った。「顔竣は睨みつけて人に官を与え、謝荘は笑って人に官を与えない。」

南郡王劉義宣と臧質らが反乱を起こしたため、顔竣に領軍将軍を兼任させた。劉義宣と臧質の諸子が建康、秣陵、湖熟、江寧県の境界内に隠れていたため、世祖は大いに怒り、丹陽尹の褚湛之を免官し、四県の官長を逮捕した。そして顔竣を丹陽尹とし、 散騎常侍 さんきじょうじ を加えた。これ以前、顔竣には子がなかったが、大司馬の江夏王劉義恭の諸子が元凶(劉劭)に殺されていた。この時、それぞれ男児が生まれたので、皇帝自らが名を定め、劉義恭の子を伯禽と名付け、魯公の伯禽(周公旦の子)に比べ、顔竣の子を辟強と名付け、漢の侍中張良の子に比した。

かつて元嘉年間に四銖銭を鋳造したが、輪郭と形状は五銖銭と同じで、費用がかさみ利益がなかったため、百姓は盗鋳しなかった。世祖が即位すると、また孝建四銖銭を鋳造した。三年、尚書右丞の徐爰が議論して言った。「貨幣を重視して民に利することは、五政(五行の政)に記載され、鋳造を開いて貨幣を流通させることは、九府(周代の貨幣管理機関)の法を成し、民は富み国は実り、教化は立ち栄える。時が移り俗が変われば、変通して適用するものであり、それゆえ周や漢は時代に応じて貨幣の軽重を変えた。後代に至っても、財は豊かで用は足り、前例に従い、改めて創造することはなかった。年月が遠く経ち、喪乱がたびたび起こり、埋もれ焼かれ切り毀され、日月とともに減り、貨幣は薄く民は貧しく、公私ともに困窮している。改革創造がなければ、大いなる不足に至るであろう。古典に従い、銅を収集して鋳造し、贖罪によって刑罰を軽減することは、過去の策に明記されている。今は銅による刑の贖いを認め、罰金に応じて品位を定めるべきである。」 詔 により許可された。鋳造された銭は形状が薄く小さく、輪郭が整っていなかった。そこで民間で盗鋳する者が雲のように起こり、鉛や錫を混ぜ、堅牢ではなかった。また古銭を切り鑿してその銅を取り、銭はますます薄く小さくなり、次第に官製の様式から外れた。重い制限と厳しい刑罰があっても、民や吏、官長が死罪や免職に連座する者が相次いだが、盗鋳はますます甚だしく、百物の価格が高騰し、民衆は苦しんだ。そこで規格を定め、薄く小さく輪郭のないものは、すべて禁止した。

始興郡公の沈慶之が意見を立てて言った。「昔、秦の貨幣が重すぎたため、高祖(劉邦)はこれを憂い、民に鋳造を許可し、榆莢銭に改鋳したが、貨幣は軽く物価は高くなり、また時勢に合わなかった。太宗(漢文帝)が鋳造を許可した時、賈誼がこれを批判したのは、まさに銅山の採掘が存続し、銅が多く利益が大きいため、耕戦の器具がかつて用いられ、四民(士農工商)が競って作り、害が多いと考えたからである。しかし孝文(文帝)は採用せず、民による鋳造が遂に行われたため、朽ちた銭が役所に満ち、天下は豊かになった。まして今は耕戦に用いられず、採掘と鋳造は久しく廃れており、鋳造に必要なものは、多くが既成品に依存し、労力は大変で利益は薄く、呉王濞や鄧通のような資力は絶え、農民は慣れておらず、耒を捨てる心配もない。今、中興が開け運が向かい、聖なる教化は新たである。甲冑をしまい戈を溶かすといえども、倉庫はまだ満たされておらず、公私に不足しているのは、ただ貨幣だけである。愚考するに、民に銭の鋳造を許可すべきであり、郡県に銭署を開設し、鋳造を喜ぶ家はすべて署内に居住させ、その規格を平準化し、雑多な偽物を取り除き、官が輪郭を整えて収め、永久の宝として蔵する。去年の春に禁止された新品を一時的に使用し、今後の鋳造はすべてこの規格に従う。一万に対して三千を税とし、盗鋳を厳しく検査し、併せて切り鑿を禁止する。数年で公私ともに豊かになり、銅が尽きれば事は収まり、奸偽は自然に止む。かつ、鋳造を禁止すれば銅は器物に変わり、鋳造を許可すれば器物は財貨に化する。華美を削ぎ実用を利するなら、事柄にとって益となる。」

公卿にこの件を下問すると、太宰の江夏王劉義恭が議して言った。「沈慶之の議を拝見しますと、『民間の私鋳を許可し、鋳造を喜ぶ家は皆、官署に入居させる。その基準様式を平準化し、雑多な偽物を取り除く』とあります。愚考しますに、百姓が官と関わることを喜ばないのは、由来が非常に古く、また多くは士人であり、おそらく官署に入ることを望まないでしょう。凡そ盗鋳は利益のためであり、利益は偽物や雑物にあるので、偽物や雑物が既に禁じられれば、喜んで入署する者は必ず少ないでしょう。『輪郭を収集し、永久の宝として蔵する』とあります。愚考しますに、上で貴重とすれば、下は必ず従うもので、百姓が官が輪郭を収集すると聞けば、輪郭の価格は百倍になり、大小で交換しても、誰がそれを行おうとするでしょうか。強制的に交換させれば、その様子は逼迫して奪うのに似ています。また『去春に禁止された新品を、一時的に使用を許可する』とあります。愚考しますに、この条項は許可して開くべきものと考えます。また『今の鋳造はこの規格に従うべきで、一万につき三千を税とする』とあります。また『盗鋳を厳しく検査し、再び造らせない』とあります。愚考しますに、禁制の設置は一朝一夕のものではなく、利に目がくらんで憲法を犯すのは、衆庶の常なる心情であり、制が軽いことを憂えるのではなく、冒犯することを憂えるのです。今、官署に入れば必ず一万につき三千を納め、私鋳には十分の三の税がないならば、利を逐って禁を犯すことは、明らかに絶えません。また『銅が尽きれば事は収まり、奸偽は自然に禁じられる』とあります。愚考しますに、天下の銅は、急に尽きるものではなく、銅が尽きるまでに、奸偽は既に積み重なっているでしょう。また『鋳造を禁じれば銅は器物に転じ、鋳造を開けば器物は財貨に化する』とあります。しかし、近頃患っているのは、形式が均一でないこと、さらに剪鑿が加わり、また鉛や錫が多く混ざっていることによるもので、盗鋳の銅に止まるならば、苦しく禁じる必要もありません。」

顔竣が議して言った。「貨幣の利用は、近古において同じであり、軽重の議論は漢代に定まり、魏・晋以降、これを改めることができませんでした。まさに物貨が既に均一であるため、改めれば偽物が生じるからです。世代が次第に久しくなり、弊害が突然到来し、因革の道には、その方策があるべきです。今、官署を開いて鋳造を許可するというのは、誠に喜んで同意するところです。ただ、山から採ることが絶え、器物が日々消耗し、銅が既に転じて少なくなり、器物もますます高価になることを懸念します。仮に器物の価値が一千ならば、それを鋳造すれば半減し、それを行っても利益がなく、たとえ命令しても行われないでしょう。また『去春に禁止されたものを、一時的に使用する』とあります。これは天下の財を豊かにしようとするものです。もし細かい貨幣を必ず流通させ、公の鋳造に従わなければ、利が既に深く、情実と偽りは極まりがなく、私鋳や剪鑿は、全て禁じることができず、五銖や半両の類は、一年も満たずに必ず尽きてしまうでしょう。財貨がまだ満たされないうちに、大銭は既に枯渇し、数年以内に、全て塵土となってしまうでしょう。どうして弊害を取る道を、皇代の基礎とすることができましょうか。今、百姓の財貨は、転じて少なくなっているとはいえ、市井の民に嘆き怨む声はなく、これは新たな禁令が初めて施行され、品式が統一されていないため、すぐに自然に止まるものであり、聖慮を垂れるに足りません。ただ、府庫の蔵が空しく乏しいことは、実に重大な憂いです。今、細銭を行ったとしても、官には税を益する理がなく、百姓は豊かになっても、官の乏しさを解消することはありません。ただ、費用を簡素化し華美を去り、節倹に努め、豊かになる道を求めること、これに勝るものはありません。しかし、銭には定まった限りがあり、消失には方法がなく、剪鑿や鋳造が止んでも、終いには窮尽するのであれば、官が銅を取る署を開き、器物使用の途を絶ち、その品式を定め、日月をかけて次第に鋳造し、歳月が経った後、世の益とならないことはありません。」

当時、議する者たちはまた、銅が転じて得難いことを理由に、二銖銭を鋳造しようとしました。顔竣がまた議して言った。「議する者は、官の蔵が空虚であるため、改めて鋳造すべきであり、天下の銅が少ないため、銭の様式を減らして、交わる弊害を救い、国を賑わせ民を楽にすべきだと言います。愚かにはそうは思いません。今、二銖を鋳造し、新たな細銭を恣に行えば、官の乏しさを解消することはなく、民の奸巧が大いに興り、天下の財貨は、粉々になって尽きてしまうでしょう。厳しい禁令を空しく立てても、利が深くて絶ち難く、一二年を過ぎず、その弊害は救いようがなくなります。これは非常にやってはならないことの第一です。今、鎔鑄して利益を得ても、一二億を頓に得る理は見えず、たとえ再びこれを得たとしても、必ず一年を待たねばなりません。年末に税が登録され、財幣が一時的に改まるとしても、日々の費用は数ヶ月も満たさず、権宜的に徴収して助けても、どうして乏しさを解消できましょうか。ただ奸民の意を騒がせ、その過ちを謀るだけです。これもまた非常にやってはならないことの第二です。民は大銭の改鋳を懲り、また近頃の新禁令を畏れ、市井の間には、必ず喧擾が生じ、遠い利益は聞こえず、切実な患いが猥りに及び、富商は志を得て、貧民は困窮します。これもまた非常にやってはならないことの第三です。もし交わる弊害が深重であれば、尚も行うことができず、ましてやその利益が見えず、多くの弊害がこのようであるならば、当時の失算となり、百代に笑われることになるでしょう。」

前廃帝が即位すると、二銖銭を鋳造し、形式はますます細かくなりました。官銭が出るたびに、民間はすぐに模倣しましたが、大小厚薄は全て及びませんでした。輪郭がなく、磨鑢せず、今の剪鑿したようなものを、耒子と呼びました。景和元年、沈慶之が私鋳を通すよう啓上し、これにより銭貨は乱れて敗れ、一千銭でも長さ三寸に満たず、大小これに称し、鵝眼銭と呼びました。これより劣るものを綖環銭と呼びました。水に入れても沈まず、手にすればすぐに破れ、市井では数えず、十万銭でも一掬いに満たず、一斗の米が一万銭で、商貨は流通しませんでした。太宗の初め、鵝眼・綖環だけを禁じ、その他は全て通用させました。また民の鋳造を禁じ、官署も工匠を廃し、すぐに併せて断ち、古銭だけを用いました。

顔竣は 散騎常侍 さんきじょうじ ・丹陽尹から、中書令を加えられ、丹陽尹は元の通りとされました。中書令を辞退する上表をして言った。「虚しく国霊を窃み、坐して禁中の要職を汚し、命を聞いて慚惶し、形魂震え越えます。臣は東州の凡鄙な者で、微賤な族に生まれ、里巷で育ち、官の轍を窺わず、門に富貴なく、華やかな伍から志を絶ちました。ただ畝に身を委ね、飢寒が交わって切迫していたところ、先朝が庶品を陶冶均しくし、愚賤を遺さず、耕税の勤めを免れ、仕進の末席に置いて頂きました。陛下は盛徳をもって藩国におられ、英異を総攬され、不才を越えて、清い軌道に塵を超えさせ、身を奉じて数年を経ましたが、労効を記すことができず、曲がりなりにも成し遂げて下さる仁を仰ぎ恃み、守宰の官位を守ることを願い切りました。どうして天地が中絶し、深い憂いが聖を啓き、興運に倚附し、神の道に景を擢げ、雲のように飛び海のように泳ぎ、倫等を冠絶し、まだ三年にも満たないうちに、八度も殊なる命を頂こうとは思いませんでした。賞典を詳しく考えれば、臣は科に応じるべきではなく、勤良を顧み言えば、臣は貴きに等しいとはいえません。まさに皇朝に訴え、盛んな序列から降り、微かな国の言葉をもって、身の誹謗を少しでも取り除こうとしたところ、制書が猥りに下り、爵位がますます高くなりました。臣は小人であり、遠い謀りごとには及びません。寵利が来れば、どうして約束を守ることができましょうか。ただ上は天明を涜し、下は彝議を汚すだけで、災いと譴責が興るのは、恐らく近いことでしょう。今の過分な授与は、先の微身によるもので、もしその地位にふさわしくなければ、危辱が将に及び、十手に指され、膏肓に等しいと諭され、それゆえに寝ても覚めても兢り懼れ、苦しい病に縈りつかれているのです。伏して願わくは、陛下がその丹誠を察し、その疾き願いを憐れみ、会うことを絶ち恩を収め、愚かな分を全うさせて下さい。そうすれば造化の施しは、これより薄いものとなるでしょう。」と。許されました。当時、旱魃で民が飢え、顔竣は餳を一月間禁じるよう上言し、米を近く一万斛節約しました。また謝莊に代わって吏部尚書となり、太子左衛率を領し、拝命せずに、丁憂に服しました。起用されて右將軍となり、丹陽尹は元の通りとされました。

竣は朝廷の旧臣としての地位を頼りに、盛んに得失を述べた。上(孝武帝)は喪が明けてから、多くの造営事業を起こしたが、竣は諫争を懇切に行い、遠慮することがなく、上の心中は甚だ快く思わず、多くは聞き入れられなかった。竣は自ら才能が時務を処理するに足り、恩寵と旧誼において比べる者がないと思い、当然、朝廷の中枢で政務を補佐し、永く朝政を執るべきであると考えていたが、上奏した意見の多くが採用されないので、上(孝武帝)が自分を遠ざけようとしているのではないかと疑い、外任を求めて、時の意向を探ろうとした。大明元年、東揚州 刺史 しし に任じられ、将軍の号はもとのままとした。求めていたことが許されると、今度は憂い恐れて策がなくなった。任地に着くと、また母の喪に遭ったが、職を離れることは許されず、喪を送って都に帰ることは認められ、待遇は依然として厚かったが、竣はますます不安を感じた。親しい者や旧知に会うたびに、かなり怨み憤りの気持ちを抱き、また朝廷の事柄が道理に合わず、君主に過失があると語った。王僧達が誅殺された時、竣が讒言して陥れたものとされ、僧達は死に臨んで竣が前後にもっていた憤りと恨みを述べ、常に自分の言葉が聞き入れられなかったことを恨んだ。僧達の言ったことは、かなり証拠と符合する点があった。上(孝武帝)はそこで御史中丞の庾徽之に上奏させ、次のように言わせた。

上(孝武帝)はすぐに大刑を加えることを望まず、ひとまず免官にとどめた。竣はたびたび上書して罪を謝し、命だけは助けてくれるよう乞うた。上はますます怒り、 詔 を下して答えて言った。「御史台の上奏したことは、かつて私が卿に期待していたことではない。卿は栄誉と厚遇を受けたのだから、当然このような極みに至るべきであった。誹謗し、怨み憤ることは、すでに本来の期待を裏切るものである。それなのにさらに過剰に思慮を煩わせ、自らの身の保全を恐れるとは、これが臣下が主上に仕える誠節の極みと言えるだろうか。」そして竟陵王誕が叛逆を起こした時、このことを利用して竣を陥れ、御史中丞の庾徽之を御前で上奏させ、奏文ができあがると、 詔 を下して言った。「竣が恩養に背いたのは、ここまで至るものだ。獄中で死を賜い、妻子は遠方に流して許す。」子の辟強は交州に流送され、さらに道中で殺害された。竣の文集は世に行われた。