巻72

宋書

列伝第三十二

文帝には十九人の男子がいた。元皇后は劉劭を生み、潘淑妃は劉濬を生み、路淑媛は孝武帝を生み、呉淑儀は南平王劉鑠を生み、高修儀は廬陵昭王劉紹を生み、殷修華は竟陵王劉誕を生み、曹婕妤は建平宣簡王劉宏を生み、陳修容は東海王劉褘を生み、謝容華は しん 熙王劉昶を生み、江修儀は武昌王劉渾を生み、沈婕妤は明帝を生み、楊修儀は建安王 劉休仁 を生み、邢美人は しん 平王劉休祐を生み、蔡美人は海陵王劉休茂を生み、董美人は鄱陽哀王劉休業を生み、顔美人は臨慶沖王劉休倩を生み、陳美人は新野懷王劉夷父を生み、荀美人は桂陽王 劉休範 を生み、羅美人は巴陵哀王劉休若を生んだ。劉劭、劉濬、劉誕、劉褘、劉渾、劉休茂、劉休範については別に伝がある。劉紹は廬陵孝獻王劉義真の後を継いだ。

南平穆王劉鑠は字を休玄といい、文帝の第四子である。

元嘉十七年、 都督 ととく 湘州諸軍事・ 冠軍 將軍・湘州 刺史 しし となり、任地には赴かず、 石頭 の戍事を統轄した。二十二年、使持節・ 都督 ととく 司雍秦 へい 六州諸軍事・南 刺史 しし に転じた。当時、太祖は外征に力を注いでいたため、南 州を廃止して寿陽に併合し、ただちに劉鑠を 刺史 しし とし、まもなく安蛮 校尉 こうい を兼ね、鼓吹一部を与えられた。二十六年、平西将軍に進号したが、辞退して受けなかった。

索虜の大帥である託跋燾が南侵して陳・潁を攻め、ついに汝南の懸瓠城を包囲した。行汝南 太守 の陳憲は城を守って自らを固め、賊は昼夜を分かたず攻囲した。陳憲は守りながら戦い、矢や石が絶え間なく飛び交った。虜は多くの高楼を築き、弩を設置して城内を射た。飛び交う矢は雨のようで、城内の者は戸板を背負って水を汲んだ。また仏塔を破壊し、金像を取って大きな鉤とし、衝車の先端に取り付け、城楼や城壁を引き倒そうとした。城内に一人の沙門がおり、機知に富んでいたので、奇策を設けてこれに対応した。賊は多くの蝦蟆車を作って堀を埋め、肉薄して城を攻めた。陳憲は将士を督励し、女牆を固守して戦い、賊の死者は屍が城と同じ高さに積み上がり、ついに屍を踏み台にして城に登り、短兵相接した。陳憲の鋭気はますます奮い、戦士は一騎当千の働きを見せ、殺傷は万を数え、汝水は流れが止まるほどであった。四十余日対峙した後、劉鑠は安蛮司馬の劉康祖と寧朔将軍の臧質を派遣して救援し、虜は攻城具を焼いて逃走した。

二十七年、大規模な北伐が行われ、諸藩もみな出師した。劉鑠は中兵参軍の胡盛之を汝南から出撃させ、到坦之を上蔡から出撃させて長社に向かわせた。長社の戍主である魯爽は城を捨てて逃走した。長社を攻略した後、幢主の王陽児・張略らを派遣して小索を占拠させた。偽の 刺史 しし である僕蘭が大索で歩騎二千を率いて王陽児を攻撃したが、王陽児はこれを大破した。到坦之らは大索に向かって進軍し、 滎陽 けいよう の民である鄭徳玄・張和がそれぞれ義兵を起こして到坦之に呼応したため、僕蘭は虎牢に逃れた。ちょうど王陽児らが到着し、ただちに大索を占拠し、虎牢に向かった。劉鑠はさらに安蛮司馬の劉康祖を派遣して到坦之の後続とした。虜の永昌王である宜勤庫仁真が虎牢を救援し、到坦之は敗走した。虜は勝ちに乗じてまっすぐ進軍し、尉氏津で劉康祖と遭遇し、劉康祖は戦いに敗れて殺害された。賊は進んで寿陽を脅かし、東へ進んで江上で託跋燾と合流した。

二十八年夏、虜の荊州 刺史 しし である魯爽と弟の魯秀らが、部曲を率いて劉鑠のもとに帰順した。その年七月、劉鑠の生母である呉淑儀が 薨去 こうきょ したため、劉鑠は京師に帰り、葬儀が終わると、もとの任に戻って職務を代行した。当時、江夏王劉義恭が南兗州 刺史 しし を兼ね、盱眙に鎮守していた。母の喪に服するため、京師に帰った。上は兗州の地が荒廃しているのを理由に、南兗州を廃止して南徐州に併合し、別に淮南 都督 ととく を盱眙に置き、屯田を開創して遠近を応接しようと考え、劉鑠にこれを授けようとした。その後、 散騎常侍 さんきじょうじ ・撫軍将軍に改めて任命し、兵を率いて石頭を守備させた。

元凶(劉劭)が帝を しい して即位すると、劉鑠を中軍将軍とし、護軍・常侍はもとのままとした。世祖(孝武帝)が討伐の軍を起こすと、劉劭は京邑に兵を駐屯させ、劉鑠に巡行させて慰労させた。劉劭は帰還して南兗州を設置し、劉鑠を使持節・ 都督 ととく 南兗徐兗青冀幽六州諸軍事・征北将軍・開府儀同三司・南兗州 刺史 しし とし、常侍はもとのままとした。柳元景が新亭に到着すると、劉劭は自ら攻撃し、劉鑠を伴って従軍した。江夏王劉義恭が南奔すると、劉鑠に東府を守らせ、腹心の者で彼を監視させた。 侍中 ・ 驃騎 将軍・録尚書事に進めて任命し、その他の官職はもとのままとした。劉劭は宮中に蔣侯神を迎え、世祖の年齢と 諱 を書き出し、呪詛して祈請し、仮に位号を授け、劉鑠に策文を作らせた。義軍が宮中に入ると、劉鑠は劉濬とともに世祖のもとに帰順した。劉濬はただちに処刑され、上(世祖)は劉鑠を迎えて陣営に入れた。当時、慌てふためいて国璽を失ったが、事態が収まると、改めて鋳造して与えられた。侍中・ 司空 しくう に進め、兵を統率し属官を置くことを許されたが、国の喪に服する期間が終わっていないことを理由に、侍中の職を辞退した。

劉鑠はもともと世祖を推戴しておらず、また元凶に重用されていたため、上は薬を食物に混ぜて毒殺した。時に二十三歳であった。侍中・ 司徒 しと を追贈された。

三人の子がいた。劉敬猷、劉敬淵、劉敬先である。劉敬猷が後を継ぎ、官は黄門郎に至った。劉敬淵は初め南安県侯に封ぜられ、官は後軍将軍に至った。劉敬先は廬陵王劉紹の後を継いだ。前廃帝の景和末年、劉鑠の妃である江氏を宮中に召し入れ、左右の者に命じて面前で脅迫したが、江氏は命令に従わなかった。前廃帝は言った。「もし従わなければ、お前の三人の子を殺す。」江氏はなおも肯じなかった。そこで使者を邸に派遣して劉敬猷・劉敬淵・劉敬先を殺害し、江氏を百回鞭打った。その夜、前廃帝もまた死んだ。太宗(明帝)が即位すると、劉敬猷に侍中を追贈し、 諡 を懐王とした。劉敬淵に黄門侍郎を追贈し、諡を悼侯とした。孝武帝の第十八子である臨賀王 劉子産 (字は孝仁)を南平王に改封し、劉鑠の後を継がせたが、拝命しないうちに殺害された。泰始五年、 しん 平王劉休祐の第七子である劉宣曜を南平王として立て、劉鑠の後を継がせた。劉休祐が死ぬと、劉宣曜は廃されて本来の身分に戻された。後廃帝の元徽元年、衡陽恭王劉嶷の第二子である劉伯玉を南平王として立て、劉鑠の後を継がせた。後に官は 給事中 に至った。昇明二年、謀反を企てて誅殺され、封国は除かれた。

建平宣簡王劉宏は字を休度といい、文帝の第七子である。早くに母を失った。

元嘉二十一年、十一歳で建平王に封ぜられ、食邑二千戸を与えられた。若くして閑静で質素であり、文籍を深く愛好した。太祖(文帝)は格別に寵愛し、鷄籠山に邸宅を建てさせ、山水の美を尽くさせた。建平国の官職の位階は、他の国より一階高く設定された。二十四年、中護軍となり、石頭の戍事を統轄した。外任として征虜将軍・江州 刺史 しし となった。二十八年、召還されて中書令となり、 ぎょう 騎 将軍を兼ねた。元凶が帝を しい して即位すると、劉宏を左将軍・丹陽尹とした。また 散騎常侍 さんきじょうじ ・鎮軍将軍・江州 刺史 しし とした。世祖が討伐の軍を起こすと、劉劭は劉宏を宮殿内に監禁した。世祖はかつて一枚の手板を劉宏に与えていたことがあり、劉宏は左右の親信である周法道にその手板を持たせて世祖のもとに遣わした。事態が収まると、尚書左 僕射 ぼくや とし、太后を奉迎させ、帰還後は中軍将軍を加えられ、 中書監 ちゅうしょかん となり、 僕射 ぼくや はもとのままとした。臧質が叛逆したとき、劉宏は衛兵五十人を率いて六門に入った。

人となりは謙虚で倹約、周到で慎重であり、賢者を礼遇し士人と交わり、政事に明るく通暁していたため、上は彼を非常に信頼し頼りにした。当時、広く百官に直言を求めると、劉宏は次のように建議した。

尚書令 しょうしょれい に転じ、 散騎常侍 さんきじょうじ を加えられ、将軍はもとのまま、鼓吹一部を与えられた。まもなく衛将軍に進号し、 中書監 ちゅうしょかん 尚書令 しょうしょれい はもとのままとした。

劉宏は幼少の頃から病弱で、大明二年に病気が再発し、 尚書令 しょうしょれい の職務を解くよう求め、本来の官位である開府儀同三司のまま、 散騎常侍 さんきじょうじ を加官され、 中書監 ちゅうしょかん は従前通りとした。拝命する前に、その年に死去した。享年二十五歳。侍中、 司徒 しと を追贈され、 中書監 ちゅうしょかん は従前通りとし、班剣二十人を賜った。皇帝は非常に悲しみ悼み、毎月の朔日と望日には必ず霊前に出向き、自ら墓誌銘と序文を作った。東揚州 刺史 しし の顔竣に 詔 を下して言った。「劉宏は平素からの志操と業績があり、素直な心と優れた功績を持っていた。年齢は壮年に達していなかったが、その言葉には兼ねてからの思いが込められていた。天道は頼りにできるものと思い、仁を補うことに虚妄はないと考え、病床に伏せている時間が長くても、禍が及ぶとは思わなかった。どうして善を助けることが虚しく、一朝にして永遠に別れなければならないのか。驚き嘆き、心が打ち砕かれ、五内がことごとく崩れ落ちる思いだ。生前のことは遠くなく、目を上げれば昨日のようであるのに、賞賛し語らい遊んだ楽しみは、はるか千年の昔のように遠ざかり、哀しみの酷さが絡みつき、実に痛切さを増す。卿の心情は喜びと悲しみを共にし、重ねて親しく交わってきた。わずかな時の隔たりが、たちまちにして今と昔となってしまった。この知らせを聞き傷み嘆く気持ちは、何と言えばよいものか。」五年、諸弟の封国にそれぞれ千戸を加増したが、先に死去した者はその例に含めず、劉宏のみが追って加増された。

子の景素は、若い頃から文芸を愛好し、父の風格があった。大明四年、寧朔将軍・南済陰太守となり、歴陽・南譙の二郡太守に転任し、将軍は従前通りとした。中書侍郎に任じられたが拝命しなかった。南 の二州諸軍事を監察する輔国将軍・南 刺史 しし となったが、これも拝命しなかった。太宗(明帝)の初め、太子中庶子となり、歩兵 校尉 こうい を兼任し、太子左衛率、給事中を加官され、冠軍将軍・南兗州 刺史 しし 、丹陽尹、呉興太守、使持節・湘州諸軍事監察・湘州 刺史 しし となり、将軍はすべて従前通りとした。左将軍に進号した。泰始六年、荊・湘・雍・益・梁・寧・南秦・北秦の八州諸軍事を 都督 ととく する左将軍・荊州 刺史 しし となり、持節は従前通りとした。 散騎常侍 さんきじょうじ ・後将軍・太常に召されたが拝命しなかった。

使持節・南徐・南兗・兗・徐・青・冀の六州諸軍事 都督 ととく ・鎮軍将軍・南徐州 刺史 しし に任じられた。桂陽王劉休範が叛逆した時、景素は兵士を集結させたが、朝廷に赴くことを名目としながら、内心では両端を持していた。事件が平定されると、鎮北将軍に進号した。斉王(蕭道成)が南兗州 刺史 しし となると、景素は 都督 ととく を解かれた。

当時、太祖(文帝)の諸子はすべて亡くなり、孫の世代では景素が最年長であった。建安王劉休祐の諸子はすべて廃位・流刑に処され、朝廷にいる者は一人もいなかった。景素は文章や書籍を好み、才知と義理に富む人士を招き集め、身を低くして礼をもって接し、名声を収めた。これにより朝廷と民間は一致して、彼に期待を寄せない者はなかった。しかし、後廃帝は狂乱凶暴で道を失い、内外ともに景素こそが帝位に就くべきであると言った。ただ、廃帝の生母である陳氏の親族だけが彼を憎み妬み、また楊運長と 阮佃夫 はともに太宗(明帝)の旧臣で、幼少の君主を擁して権力を長く保つことを貪り、景素が即位すれば年長の君主に容れられないことを慮り、深く忌み恐れた。元徽三年、景素の防閤将軍王季符が景素の意に背き、恨みを抱き、単騎で都に逃げ、運長と佃夫に「景素が謀反を企てている」と告げた。運長らはすぐに軍を派遣して討伐しようとしたが、斉王および衛将軍 袁粲 えんさん 以下がみなこれを制止し、事実ではないと言った。景素も急いで世子の延齢を都に帰らせ、詳しく自らを弁明したため、運長らは季符を梁州に流刑とし、さらに景素の鎮北将軍・開府儀同三司の官を剥奪した。

これ以降、廃帝の狂乱と背徳は日増しに甚だしくなり、朝廷と民間はともに心を景素に寄せた。陳氏一族と運長らはますます猜疑心を強めた。景素はこのため次第に自衛の策を講じるようになり、司馬の廬江何季穆、録事参軍の陳郡殷濔、記室参軍の済陽蔡履、中兵参軍の略陽垣慶延、左右の賀文超らと謀議した。参軍の沈顒、毌丘文子、左暄、州西曹の王潭らを手足とした。季穆は従弟の 之を参軍に推薦した。景素は 之、潭、文超らを都に往来させ、多額の金品を与えて、武勇に優れた人士と結びつこうとした。これにより冠軍将軍黄回、遊撃将軍高道慶、輔国将軍曹欣之、前軍の韓道清、長水 校尉 こうい 郭蘭之、羽林監垣祗祖らはみな呼応して従い、その他の武人で失職し不満を抱く者は、こぞって彼に帰服した。

当時、廃帝は単騎で外出し、郊野を遊走していた。曹欣之は石頭城を占拠しようと謀り、韓道清と郭蘭之は斉王を説得して味方に付けようとし、もし応じなければ彼を除こうとした。廃帝の外出を待ち、兵衆を動かして難を起こし、事が成功すれば景素を奉じようとした。景素は毎回これを制止し、軽率な行動を起こそうとはしなかった。運長は密かに傖人(江北の者)の周天賜を偽って景素に投降させ、異心を持つよう勧めた。景素は運長が派遣した者と知り、すぐに斬り、司馬の孫謙にその首を都の官庁に送り返させた。元徽四年七月、垣祗祖が数百人を率いて景素のもとに奔り、都はすでに崩壊混乱していると言い、速やかに進軍するよう勧めた。景素はこれを信じ、すぐに挙兵し、武器を手に集まった者は数千人に及んだ。運長らは常日頃から景素に異心があることを疑っており、祗祖が叛走したと聞くと、すぐに厳戒態勢を整えた。斉王は玄武湖に出て駐屯し、冠軍将軍任農夫、黄回、左軍将軍李安民がそれぞれ歩兵を率い、右軍将軍張保が水軍を率いて、ともに北討に向かった。冠軍将軍・南 刺史 しし 段佛栄が都統となり、その他の諸軍も相次いで進軍した。冠軍将軍斉王世子は東府城を鎮守した。斉王は黄回に異心があることを知っていたので、安民と佛栄をともに同行させて彼を防がせた。

景素は竹里を遮断して占拠し、朝廷軍を迎え撃とうとした。垣慶延、祗祖、沈顒らは言った。「今は天候が旱魃で暑く、朝廷軍は遠くから来て疲労困憊している。彼らを引き寄せて来させ、安逸を以って労する者を待ち、一戦で打ち破ることができます。」殷濔らは固く争ったが聞き入れられなかった。農夫らが到着すると、市街地に火を放って焼き払った。しかし垣慶延らは互いに顔を見合わせるばかりで、戦う意志はまったくなかった。景素はもともと威厳と謀略に乏しく、恐れ慌ててどうしてよいかわからなかった。その時、張保の水軍が西渚に停泊していた。景素の側近の勇士数十人は、いずれも荊楚の敏捷な者で、互いに約束し合って水軍を攻撃し、たちまちのうちに撃破し、張保を斬った。しかし、諸将は互いに応援せず、再び朝廷軍に打ち破られた。朝廷軍が城壁に迫ると、沈顒がまず兵衆に先立って叛走し、垣祗祖がそれに続き、その他の諸軍も相次いで敗走した。左暄は勇猛果敢で胆力があり、景素のために節を尽くそうとしたが、配属された兵力は非常に弱く、それでも力戦して退かず、万歳楼の下で朝廷軍を横射し、止めることができなかったが、その後退散した。右衛殿中将軍張倪奴、前軍将軍周盤龍が京城を攻め落とし、倪奴は景素を捕らえて斬った。享年二十五歳。そのまま京口に葬られた。垣慶延、祗祖、左暄、賀文超はともに誅殺され、殷濔、蔡履は梁州に流刑となった。何季穆は先に官職を移されていたので、禍に及ばず、その他はすべて逃亡し、赦令に遭遇して罪を免れた。景素が敗れた後、曹欣之は逆に韓道清と郭蘭之の謀略を告発し、道清らはともに誅殺された。黄回、高道慶らは、斉王が従前通りに慰撫した。景素の子延齢と二人の幼い子は、ともに誅殺に従った。その年の冬、長沙成王劉義欣の子劉𢣢の第三子劉恬を秭帰県侯に封じ、食邑千戸とし、劉宏の後を継がせた。順帝昇明二年に死去し、封国は除かれた。張倪奴は景素を捕らえた功績により、筑陽県侯に封じられ、食邑千戸を賜った。

景素が敗れた後、かつての記室参軍王螭、かつての主簿何昌㝢がともに上書して景素の冤罪を訴えた。斉が禅譲を受けた後、建元初年、かつての景素の秀才劉璡がまた上書して言った。

(上書は)また省みられなかった。今上(斉の武帝)が即位するに至り、ようやく 詔 を下して言った。「宋の建平王 劉景素 は、名高い父を持つ子であり、幼少より清らかな志操を篤くした。末路では図りを誤ったが、その本心には道理があった。年月が流れ世が変わり、優れた恩沢を広く施すべきである。王の礼をもって旧墓に還葬することを許す。」

しん 熙王劉昶、字は休道、文帝の第九子である。

元嘉二十二年、十歳の時に義陽王に封ぜられ、食邑二千戸を与えられた。二十七年、輔国将軍、南 彭城 ・下邳二郡太守となった。元凶(劉劭)が帝を しい して立つと、 散騎常侍 さんきじょうじ を加えられた。世祖(孝武帝)が即位すると、太常に遷り、出て東中郎将、会稽太守となり、まもなく会稽・東陽・臨海・永嘉・新安の五郡諸軍事を監察した。孝建元年、東揚州が立てられると、劉昶は 刺史 しし に拝され、東中郎将はもとのままとし、後将軍に進号した。大明元年、秘書監に徴され、 ぎょう 騎将軍を領し、 散騎常侍 さんきじょうじ を加えられ、中軍将軍、南彭城・下邳二郡太守に遷った。また出て 都督 ととく 江州 郢州 之西陽 州之新蔡 しん 熙三郡諸軍事、前将軍、江州 刺史 しし となった。三年、護軍将軍に徴され、鼓吹一部を与えられ、食邑を千戸増やされた。中書令に転じ、中軍将軍となり、まもなく本号のまま開府儀同三司となり、 散騎常侍 さんきじょうじ 、太常を加えられた。世祖の南巡に従ったが、皇太后の龍舟を斥けた罪で開府を免ぜられ、まもなくまた加授された。前廃帝が即位すると、出て使持節、 都督 ととく 徐兗南兗青冀幽六州 州之梁郡諸軍事、征北将軍、徐州 刺史 しし となり、 散騎常侍 さんきじょうじ を加えられ、開府はもとのままとした。

劉昶は軽率で狭量かつ短気であり、世祖に謹んで仕えることができず、大明年間にはしばしば嫌疑をかけられ責められ、民間では喧伝され、常に劉昶に異心があると言われた。永光・景和年間には、この声がますます高まった。廃帝が諸公を誅殺した後、ますます狂悖にふけり、常に左右に語って言った。「朕が大位について以来、まだ一度も戒厳を行ったことがなく、人をして憂鬱にさせる。」江夏王劉義恭が誅殺された後、劉昶は上表して入朝を願い出、典籤の籧法生を使者として派遣した。帝は法生に言った。「義陽王(劉昶)は太宰と謀反を企てている。朕はちょうど討伐しようとしていたところだ。今、帰還を求めてきたのは、大変良い。」またたびたび法生に詰問した。「義陽王が謀反を企てているのに、なぜ啓上しなかったのか。」法生は禍を恐れ、叛いて彭城に逃げ帰った。帝はこれにより北討を決意し、自ら衆を率いて長江を渡った。法生が到着すると、劉昶はただちに衆を集めて兵を起こした。統内の諸郡はみな命令を受けず、劉昶の使者を斬った。将佐文武はみな異心を抱いていた。劉昶は勝利できないと知り、夜に数十騎とともに城門を開いて北へ索虜(北魏)に奔り、母と妻を棄て、ただ愛妾一人を連れ、男装させ、また馬に乗って自ら従わせた。劉昶の家族は都に戻され、二人の妾がそれぞれ一人の子を生んだ。時に太宗(明帝)はすでに即位しており、年長の子を思遠、幼い子を懐遠と名付け、まもなくともに死去した。懐遠を追封して池陽県侯とし、食邑千戸を与えた。

泰始六年、第六皇子の 劉燮 (字は仲綏)を劉昶の後継ぎとし、劉昶の封を しん 熙王に改めた。劉燮が爵を襲い、食邑三千戸を与えられた。

太宗は劉燮を劉昶の後継ぎとした後、 詔 を下して言った。「虎や狼も子を護り、猿も孫を背負う。毒性があり薄情なものでさえ、仁愛がある。だから気類を識念し、なお群品を均しくする。まして人倫において、天属を忘れることができようか。 しん 熙太妃謝氏は、冷酷で親しみがなく、物の道理に比べるものが稀である。征北公(劉昶)は孝道を欠くことはなかったが、この不慈に遭い、幼少から成長するまで、養育の恩が欠け、ついには吉凶に関わらず、寒温を訪ねず、朝夕は隔絶し、定省の機会もなかった。事に違背することはなくても、動けばすぐに誚責を受け、毒のある言葉が口から発せられ、人の聞くに堪えないものであった。悪意を加え苦しみを備え、仇敵の間隙よりも過ぎ、ついに事は宗族姻戚に憤りを生じ、義は行路の人をも傷つけた。公の故妃の郗氏は、婦礼に違背することなく、この厳酷に逢い、ついに憂いで卒し、盛んな年齢で夭折した。また謝氏は食は豊かな珍味、衣は文様の麗しいものを着て、己を奉る余りで、群下に広く及ぼした。しかし諸孫は綿も体を温めず、食も飢えを充たさず、乳母の手に預け、任軍の路に任せきりにした。己が生んだ者に遇しても、糞土のように棄て、ぼろきれは重囚に比し、窮困は下僕よりも過ぎた。誠に皇規は遠く及ぼし、砂漠の塞もまもなく一つになろうとしているが、公の寿命の長短は忌諱せず、また予め図り難い。兼ねて妾や女は累弱で、一つの邸宅を領する主であり、防閑の道は、人倫の道理として急務である。朕が第六子の劉燮に命じて公の胤として奉じさせようとするのは、一門を整え助け、公の後継ぎとさせたいためである。しかし謝氏は骨肉の至親を待つに、なお相棄て蔑ろにする。ましてや義によって合う者を、苦しみから免れさせることは難しい。患いは萌芽のうちに防ぎ、危機には断を要する。ただちにその本家に還し、藩王としての秩序を削り絶つべし。」これに先立ち、謝氏を射氏に改めていた。

時に主上は幼く、時世は艱難であり、宗室は寡弱であった。元徽元年、劉燮は四歳で、使持節、監郢州 州之西陽司州之義陽二郡諸軍事、征虜将軍、郢州 刺史 しし とされ、黄門郎の王奐を長史として、府州の任を総せしめた。翌年、 太尉 たいい 、江州 刺史 しし の桂陽王劉休範が兵を挙げて朝廷に迫ると、劉燮は中兵参軍の馮景祖を派遣して尋陽を襲撃させた。休範は中兵参軍の毛恵連と州別駕の程罕之を留めて居守とし、城門を開いて景祖のもとに赴き降伏した。劉燮は安西将軍に進号し、江州諸軍事を督することを加えられ、劉昶の生母の謝氏を しん 熙国太妃に復した。四年、また劉燮を鎮西将軍に進め、鼓吹一部を加えられた。順帝が即位すると、使持節、 都督 ととく 揚南徐二州諸軍事、撫軍将軍、揚州 刺史 しし に徴された。これに先立ち、斉の世子(蕭賾、後の武帝)が劉燮の安西長史となり、府州の事を行っていたが、時に左衛将軍に徴され、劉燮とともに下った。ちょうど荊州 刺史 しし の沈攸之が兵を挙げて反逆したため、世子は劉燮を奉じて尋陽の盆城に鎮めさせ、中流を占拠し、内外の形勢の援けとした。攸之が平定されると、劉燮は京邑に還った。斉王(蕭道成)が南徐州 刺史 しし となると、劉燮は南徐の督を解かれ、南 ・江州諸軍事を督することを進められ、中軍将軍、開府儀同三司に進号し、 司徒 しと に遷った。斉が禅を受けると、 司徒 しと を解かれ、陰安県侯に降封され、食邑千五百戸を与えられた。謀反を企て、死を賜った。

始安王劉休仁、文帝の第十二子である。

元嘉二十九年、十歳の時に建安王に立てられ、食邑二千戸を与えられた。孝建三年、秘書監となり、歩兵 校尉 こうい を領した。まもなく 都督 ととく 南兗徐二州諸軍事、冠軍将軍、南兗州 刺史 しし となった。大明元年、入朝して侍中となり、右軍将軍を領した。四年、出て湘州 刺史 しし となり、 散騎常侍 さんきじょうじ を加えられ、平南将軍に進号した。八年、使持節、督江州南 州之 しん 熙新蔡郢州之西陽三郡諸軍事、安南将軍、江州 刺史 しし に遷った。拝命せず、 散騎常侍 さんきじょうじ 、太常に徙り、また拝命せず。そのまま護軍将軍となり、常侍はもとのままとした。前廃帝の永光元年、領軍将軍に遷り、常侍はもとのままとした。景和元年、また使持節、 都督 ととく 雍梁南北秦四州諸軍事、安西将軍、寧蛮 校尉 こうい 、雍州 刺史 しし に遷ったが、任に就かず、留まって 散騎常侍 さんきじょうじ 、護軍将軍となり、また特進、左光禄大夫を加えられ、鼓吹一部を与えられた。

当時、廃帝は狂乱して道理をわきまえず、多くの公卿を誅殺し、諸王(叔父たち)を忌み恐れて、皆を宮殿内に幽閉し、殴打し辱め、もはや人間として扱わなかった。休仁と太宗(劉彧)、山陽王休祐は、いずれも体が肥満していたため、帝は竹籠に入れて彼らの体重を量り、太宗が特に肥っていたので「豚王」と号し、休仁を「殺王」、休祐を「賊王」と号した。三王は年長であったため、特に畏怖していたので、常に側近に置き、左右を離さなかった。東海王褘は凡庸で劣っていたので「驢馬王」と号し、桂陽王休範と巴陵王休若は年少であったため、ともに比較的自由にさせておいた。かつて木の槽に飯を盛り、さまざまな食べ物を混ぜてかき混ぜ、地面に穴を掘って泥水を満たし、太宗を裸にしてその穴の中に入れ、混ぜた槽の食事を前に置き、太宗に口を槽に近づけて食べさせ、これを楽しみとして笑った。太宗と休仁、休祐を害そうとしたことは前後十数回に及んだが、休仁は機知に富み、いつも笑いや冗談、へつらいで帝を喜ばせたので、難を逃れることができた。帝はしばしば休仁の面前で左右の者に命じ、休仁の生母である楊太妃を凌辱させた。左右の者はやむなく命令に従い、右衛将軍 劉道隆 に至っては、道隆は喜んで命に従い、あらゆる醜態を尽くした。当時、廷尉劉蒙の妾が妊娠して臨月を迎えていたので、後宮に迎え入れ、男児が生まれることを期待して、太子に立てようとした。太宗がかつて帝の意に逆らったとき、帝は怒り、太宗を裸にし、手足を縛り、棒で手足を貫いて担がせ、太官に届けさせ、「今日すぐに豚を屠る」と言った。休仁は笑って帝に言った。「豚は今日まだ死ぬべきではありません。」帝がその理由を問うと、休仁は言った。「皇太子が生まれるのを待って、豚を殺しその肝肺を取るのです。」帝の怒りはようやく解け、「ひとまず廷尉に預けよ」と言った。一晩で釈放された。

帝は荊州と湘州に南遊しようとし、翌朝には諸王を殺して出発するつもりだった。その夜、太宗が禍難を平定し、帝を華林園で殺害した。休仁はその日に太宗を推戴し、臣下の礼を執った。翌朝、休仁は出て東府に住んだ。当時、南平王と廬陵王の敬先兄弟は、廃帝によって殺害されていたが、まだ葬儀が済んでおらず、休仁と休祐は同じ車に乗って臨み、帷を開けて笑い、鼓吹を奏でて往復した。当時の人々は皆これを非難した。

先に、廃帝は休仁を驃騎大将軍・開府儀同三司に進め、常侍は元のままとした。まだ拝命しないうちに、太宗は 詔 書を下して休仁を使持節・侍中・ 都督 ととく 揚南徐二州諸軍事・ 司徒 しと 尚書令 しょうしょれい ・揚州 刺史 しし とし、班剣二十人を加え、三望車十五乗を給した。当時、劉道隆は護軍であったが、休仁は職の解任を請願し、「臣はこの者と同じ朝廷にいることはできません」と言った。上(太宗)はそこで道隆に死を賜った。

まもなく各地で反乱が起こると、休仁は 都督 ととく 征討諸軍事に任じられ、班剣三十人を増やされた。出陣して虎檻を占拠し、さらに進んで 赭圻 を占拠した。まもなく太子太傅を兼任し、諸軍を統率し、状況に応じて対応した。長江中流域の平定は、休仁の力によるものであった。出陣に際し、蘇侯神と兄弟の契りを結び、神の加護を求めた。事態が平定された後、太宗は休仁に手紙を送り、「この度は特に蘇侯兄弟の力に頼った」と述べた。休仁の封邑を四千戸増やそうとしたが、固辞したので、千戸を受領した。上流は平定されたが、 薛安都 が彭城を占拠し、索虜(北魏)を招き寄せたため、再び 都督 ととく 北討諸軍事に任じられ、さらに封邑三千戸を増やされたが、受けなかった。当時、 刺史 しし 殷琰が寿陽を占拠しており、まだ平定されていなかった。 しん 平王休祐が先に 都督 ととく 征討諸軍事を督していたが、休祐が出て江陵を領することになり、休仁が代わって 都督 ととく 西討諸軍事を督した。泰始五年、 都督 ととく ・司二州諸軍事に進んだ。

休仁の年齢は太宗と近く、ともに文籍を好み、平素から親愛の情を持って交際していた。廃帝の時代には、ともに危難を経験し、太宗はまた彼の権謀術数の力を頼りにした。泰始初年、四方で反乱が起こり、兵が近畿に迫ったとき、休仁は自ら矢石に身をさらし、大功を立て、百官を統率する重任を担い、非常に厚い信頼を受けた。朝廷内外、四方から人々が集まり、車の輻が轂に集まるようであった。上(太宗)は次第に快く思わなくなった。休仁はその意を悟り、その冬、揚州 刺史 しし の職を解くよう上表し、許された。六年、 太尉 たいい に進位し、 司徒 しと を兼任したが、固辞し、さらに漆輪車と剣履を加えられた。太宗の末年は多くの禁忌があり、猜疑と害意が次第に強くなり、休仁は次第に不安を感じるようになった。 しん 平王休祐が殺害されると、憂慮と恐れは一層強くなった。その年、上(太宗)の病状が重篤になり、楊運長らと後事を図り、諸弟が強盛で、太子が幼弱であるため、将来不安であると慮った。運長もまた、帝が崩御した後、休仁が一旦周公のような地位に就けば、自分たちが権力を握れなくなることを慮り、一層このことを支持した。上(太宗)の病状がかつて急激に悪化したとき、内外の誰もが休仁に期待を寄せ、主書以下の者たちは皆、東府の休仁の親信のもとを訪れ、あらかじめ結びつきを求めた。ある者は直接出向くことができず、皆恐れおののいた。上は以前からこの考えを抱いており、この時に至ってまた人々の心情が休仁に向いていると聞き、休仁を召し出して謁見させた。その後また言った。「夕方には尚書下省に泊まり、明朝早く来るがよい。」その夜、人を遣わして薬を賜り、休仁を死に至らしめた。時に三十九歳であった。

上(太宗)は長く病床に伏せており、内外の連絡が絶たれていたため、人々の心情に異同があることを慮り、自力で輿に乗って端門を出た。休仁の死後、 詔 を下して言った。「『無将の誅』は、まさに通典であり、自ら咎を悟って引き下がることは、実に偏った行いである。劉休仁は親密な親族に属し、台閣の重職にあり、朕は特に深く友愛の情を寄せ、寵愛と官位を兼ねて厚く遇した。国策を広く補佐し、政道を補い広めることができず、自ら宰相の任に処し、妄りに猜疑の念を生じ、側近の小人の説を受け入れ、内心では不逞の志を抱き、その姿を隠し跡を晦まし、何事もなく陽に愚を装った。近ごろ朕の疾患が重篤になったため、内外が憂慮し恐れている折、休仁は禁軍を脅迫し、乱逆を謀った。朕は天倫(兄弟の情)を曲げて推し量り、明らかに法を適用するに忍びず、 詔 を発して戒め、事の根源を明らかにしようとした。休仁は恩に恥じ罪を恐れ、急いで自ら決断した(自害した)。その死を追想して悲しみ痛み、情は自ら抑えられず、法の規定を曲げて、哀悼の意を表したい。彼の二人の子を赦し、ともに封爵を全うさせよ。しかし家国には多難なことが多く、禍は台輔(宰相)から起こった。過ぎ去ったことを永く思い起こせば、感慨は深く追慕に至る。」

役人が上奏して言った。「臣が聞くところによれば、明らかな罰は親しい者にも及ぶものであり、情実は法の網によって屈する。国の法典には定められた規則があり、威厳は正義による滅亡によって示される。それゆえ、梁や趙の誅罰では、素足で出て過ちを称え、来言の罰では、克明に入って動きを致した。謹んで案ずるに、劉休仁は禍の跡を包み隠し、事は天の明らかさに蔽われ、悪事を隠し匿い、情実は民の耳に宣べられた。自らは皇族の近親に属しているとして、早くから恩寵と親睦を受け、異なる礼遇と特別な義理を望み、常の均しさを越えようとした。往年、南征のために鉞を授けられたが、本来才能と天命によるものではなく、 濃湖 への出発は、特に親族としての代理によるものであった。上は朝廷の謀略に従い、下は衆人の功績を借りて、泰運に属し、成し遂げた勲功にひそかに付き従ったが、しばしば天の功績を貪り、多くを自ら誇り伐った。聖明なる天子が天下を治め、自ら万機を覧られ、百官には規律があり、官職の道を越えることはなかったが、休仁は勲功を誇り、貴きを恃んで、自ら朝廷の権力を総べるべきと考え、妄りに疑難を生じさせ、深く自らを猜疑し疎外した。故 司空 しくう の晋平剌王劉休祐は、幼少より善き行いがなく、成長して貪欲と暴虐を増し、陝州と荊州の任に就き、毒は西夏に流れ、編入された戸は嘆き散り、列なる邑は衰え虚ろとなった。聖なる恩沢は広大であったが、明らかな刑罰は示されなかった。しばしば休仁とその過ちの跡を論じたが、言葉の意図は密やかであり、広く伝えるべきではなく、遂に容姿の趣旨を飾り、逆に勧めて激しくさせた。休祐は休仁が朝廷の高位にあり、任用と待遇が優遇され崇められているので、必ずや己の力の援けとなると考え、深く党を結んだ。休祐はそこで金を送り宝を薦め、顔色をうかがい意向を受け、膝を交えて語る間には必ず朝政を論じ、遂には一日として共に行かぬ日はなく、一時として共に宿らぬ時はなく、声を張り上げて集まり、密やかな言葉を静かな閑暇に交わした。休仁は悪事を抱え扇動し、計算に長け、休祐に外には専心と慎重の法を装わせ、密かに貪欲と詐欺の心を行わせ、朝廷は気づかず、人々は悟らないと説いた。休祐は遂に外には怨みと恐れを積み、内には禍心を合わせ、賛同と激励を得て、凶悪さはますます激しくなり、休仁と共に奸謀を為し、ひそかに機会の隙を伺い、争いの変事を図り、凶悪で狡猾な振る舞いを計画した。休祐が突然に死んだのは、実に天誅によるものであるが、晋平国の太妃である妾の邢は子の悪事を追って慚じることもなく、上には曲がった恩を感じ、さらに不逞の志を抱き、巫蠱による呪詛を行った。休仁は聖体の不和に乗じて、みだりに奸逆を謀り、道を滅ぼし常を反するもので、これほど甚だしいものはなく、朝市で誅戮し曝し、国刑を示すべきであったが、法の網が加えられる前に、自ら命を絶った。天の慈愛は厚く、法を減じて恩を崇め、二人の息子を全うさせ、その爵位と封土を与えた。これは誠に広大な風教と広遠な徳であり、古今を通じて卓越しているが、悪を棄て罪のきっかけを流し、乱臣を懲らしめ恐れさせるものではない。臣らが参議して考えるに、休仁を追って庶人に降格し、その属籍を絶ち、現存する息子たちは全て遠郡に移すべきである。休祐の過ちの謀略が初めて露わになったので、これも裁き 黜 けるべきであり、移徙と削除の科条は、旧来の基準と同じとする。邢を収監して獄に付し、法に基づいて徹底的に処罰すべきである。」 詔 が下された。「邢は一介の婦人の狂愚であり、計らうに足りない。休仁は罪のきっかけを知って自ら引き下がり、情には追悼の念がある。特に始安県王に降格し、食邑千戸とし、併せて伯融らの流刑を停止し、封爵を襲ぐことを聴許する。伯猷は先に江夏国を継いでいたが、本籍に戻し、郷侯の爵位を賜う。」

上(明帝)は休仁を殺した後、人心が動揺することを憂慮し、諸方鎮および諸大臣に 詔 を下した。

上は休仁と元来厚い関係にあり、害し合うに至ったのは、後継者の不安を慮ってのことである。休仁が死んだ後、痛み悼むことは極めて甚だしく、人に言った。「私は建安王(休仁)とは年齢が近く、幼少の頃から親しく付き合ってきた。景和、泰始の間には、勲功と誠実さは実に重かった。事の計らいが切迫し、互いに除かざるを得なかった。痛み思うことは極まり、自らを抑えることができない。今、諸侯と共に語り合うべき一つの事があるが、喜び楽しむ方法は、今や尽きてしまった。」そして涙を流して自らを制することができなかった。

子の伯融は、妃の殷氏が生んだ。殷氏は、呉興太守の殷沖の娘である。范陽の祖翻は医術を持ち、容姿も美しかった。殷氏が病気になった時、翻が脈を見に入り、彼女を口説いて、遂に情を通じさせた。事が漏れ、家に送り返されて死を賜った。伯融は南 刺史 しし 、琅邪・臨淮二郡太守、寧朔将軍、広州 刺史 しし を歴任したが、赴任せず、廃されて丹楊県に移された。後廃帝の元徽元年、京邑に戻り、始興王の封を襲いだ。弟の伯猷は、初め江夏愍王の伯禽の後を継ぎ、江夏王に封ぜられ、邑二千戸を与えられた。休仁の死後に本籍に戻り、伯融と共に丹楊県に移された。後廃帝の元徽元年、都郷侯の爵位を賜った。建平王の劉景素が叛逆を起こした時、楊運長らは宗室を畏れ忌み、 詔 を称して伯融らに死を賜った。伯融は当時十九歳、伯猷は十一歳であった。

晋平剌王劉休祐は、文帝の第十三子である。

孝建二年、十一歳で山陽王に封ぜられ、食邑二千戸を与えられた。大明元年、 散騎常侍 さんきじょうじ となり、長水 校尉 こうい を兼ね、まもなく東揚州 刺史 しし に遷った。拝命せず、湘州 刺史 しし に転じ、征虜将軍の号を加えられた。四年、都に戻って秘書監となり、右軍将軍を兼ね、邑千戸を増やされた。侍中に遷り、さらに左中郎将、都官尚書に遷り、また秘書監となり、 ぎょう 騎将軍を兼ね、使持節・ 都督 ととく 司二州南 州之梁郡諸軍事・右将軍・ 刺史 しし として出向した。景和元年、朝廷に入り、鎮西大将軍に進号し、そのまま 散騎常侍 さんきじょうじ ・鎮軍大将軍・開府儀同三司に遷った。

太宗(明帝)が乱を平定すると、使持節・ 都督 ととく 荊湘雍益梁寧南北秦八州諸軍事・驃騎大将軍・荊州 刺史 しし とし、開府・常侍は元の通りとした。また 都督 ととく 江郢雍湘五州・江州 刺史 しし に改め、さらに 都督 ととく 江南 司州・南 刺史 しし に改め、 都督 ととく 江司三州・ 刺史 しし に改めた。当時、 刺史 しし の殷琰が寿陽に拠って反乱を起こしたため、休祐は歴陽に出鎮し、劉勔らを督して殷琰を討った。殷琰が平定されないうちに、劉勔は長囲を築いて守った。休祐は再び 都督 ととく 荊湘雍益梁寧南北秦八州諸軍事・荊州 刺史 しし に転じ、持節・常侍・将軍・開府は全て元の通りとし、封邑二千戸を増やし、五百戸を受領した。山陽は荒廃していたため、晋平王に改封された。

休祐は元来才能がなく、強情で独断専行し、大明の時代には年がまだ若く、自ら専断することはできなかったが、この時には貪欲で淫ら、財貨と女色を好んだ。荊州では、任地で収奪し、多くの財貨を営んだ。短銭(不足銭)一百を民に貸し付け、田の収穫時になると白米一斛を要求し、米粒は全て透き通るほど白く、もし割れているものがあれば、全て選り分けて受け取らなかった。民間でこの米を買うと、一升で一百であった。時期が来るとまた米を受け取らず、米を評価して銭を責め立てた。あらゆる利益追求は全てこのようなもので、百姓は嗷々とし、もはや命を保つことができなかった。泰始六年、 都督 ととく 南徐南兗徐兗青冀六州諸軍事・南徐州 刺史 しし に召され、侍中を加えられ、持節・将軍は元の通りとした。上(明帝)は休祐が貪虐で民を治めることができないと考え、京邑に留め置き、上佐に府州の事務を行わせた。

休祐は剛直で強情で横暴であり、前後して主上に逆らうことが一度や二度ではなかった。荊州にいた時、側近の苑景達が囲碁をよく打ったので、主上は彼を召し出そうとしたが、休祐は引き留めて送らなかった。主上は怒り、詰問して責めた。「お前はこのように剛直で強情で、どうして臣下としての道理があろうか!」積もり積もって我慢できなくなった。また、休祐が将来制御し難くなることを懸念し、機会をうかがって除こうと考えた。七年二月、車駕(天子の行列)が巌山で雉を射ようとした時、一羽の雉が射場に入ろうとせず、日が暮れようとして帰ろうとした時、休祐にそれを射るよう命じた。言葉に、「雉を獲られなければ、帰ってはならぬ」と言った。休祐は当時黄麾(天子の旗)の内に従っていたが、左右の従者はみな部隊の後ろにいて、休祐はただちに駆け去り、主上は左右の数人を彼に従わせた。主上はすでに帰還し、先導が道を清めたので、休祐の従者はすべて分散し、互いに連絡が取れなくなり、主上はそこで 寿寂之 ら諸将に追わせた。日はすでに暮れようとしており、休祐に追いつき、墜馬するよう強制した。休祐はもともと勇壮で気力があり、拳を奮って左右を撃ち払い、近づく者はいなかった。一人が後ろから陰部を引っ張り、それによって地面に倒れ、即座に共に殴り殺した。そこで人を走らせて主上に報告し、行きながら叫んだ。「驃騎(休祐)が落馬しました。」主上は言った。「驃騎は体が大きいから、落馬するのはよほど難しいことだ。」即座に御医を次々と派遣した。しばらくして、休祐の側近が到着したが、すでに息が絶えて久しかった。車の車輪を取り外し、輿に乗せて邸宅に戻した。時に二十七歳。 司空 しくう を追贈し、持節・侍中・ 都督 ととく 刺史 しし はもとの通りとし、班剣二十人、三望車一乗を給した。当時巴陵王休若が江陵におり、その日すぐに使者を走らせて休若に報告した。「私は驃騎と南山で雉を射ていたが、驃騎の馬が驚き、直閤の夏文秀の馬と踏み合い、文秀は地面に落ち、驃騎は手綱を失い、馬が驚いて松の木に触れて地面に落ち、溝の中に落ちた。時に倒れて気を失い、人を識別できなかったので、急いで弟に報告する。」その年五月、休祐を追って免官し庶人とした。

長男の士薈は早世した。次男の宣翊が世子となり、寧朔将軍・湘州 刺史 しし となったが、拝命せず、免官・廃嫡された。次男の士弘は、鄱陽哀王休業の後を継ぎ、封を襲ったが、廃嫡されて本家に戻された。次男の宣彦は原豊県侯に封ぜられ、寧朔将軍・彭城太守となったが、拝命せず、免官・廃嫡された。次男の宣諒。次男の宣曜は、南平穆王鑠の封を継ぐために出されたが、廃嫡されて本家に戻された。次男の宣景、次男の宣梵、次男の宣覚、次男の宣受、次男の宣則、次男の宣直、次男の宣季、合わせて十三人の子は、すべて しん 平郡に移された。太宗(明帝)はまもなく病にかかり、休祐が祟りをなすのを見たので、前中書舎人の劉休を しん 平に派遣して宣翊らを慰撫させ、上(明帝)は崩御した。後廃帝の元徽元年、宣翊らが都に戻ることを許された。順帝の昇明三年、謀反を企て、すべて賜死された。

鄱陽哀王休業は、文帝の第十五子である。

孝建二年、十一歳で、鄱陽王に封ぜられ、食邑二千戸を与えられた。三年、 薨去 こうきょ し、太常を追贈された。大明六年、山陽王休祐の次男の士弘が封を継いだ。廃嫡されて本家に戻され、封国は除かれた。

臨慶沖王休倩は、文帝の第十六子である。

孝建元年、九歳で、病が重くなり、東平王に封ぜられ、食邑二千戸を与えられたが、拝命せずに 薨去 こうきょ した。

大明七年、第二十七皇子の子嗣を東平王として立て、休倩の後を継がせた。太宗泰始二年に本家に戻され、封国は絶えた。六年、第五皇子の智井を東平王として、休倩の後を継がせたが、拝命せずに 薨去 こうきょ した。その年、休倩を臨慶王に追って改め、臨賀郡を臨慶国とし、第八皇子の躋を臨慶王として立て、食邑二千戸を与え、休倩の後を継がせた。翌年、本家に戻された。休倩は太祖(文帝)に愛されたので、前後してたびたび後継者を立てて封国を継がせた。

新野懷王夷父は、文帝の第十七子である。

元嘉二十九年、 薨去 こうきょ した。時に六歳。太宗泰始五年、封と諡を追加された。

巴陵哀王休若は、文帝の第十九子である。

孝建三年、九歳で、巴陵王に封ぜられ、食邑二千戸を与えられた。大明二年、冠軍将軍・南琅邪臨淮二郡太守となり、南彭城・下邳二郡太守に転じ、将軍はもとの通り。四年、 都督 ととく 徐州諸軍事・徐州 刺史 しし として出向し、将軍はもとの通り、 州の梁郡の監督を増やし、食邑を千戸増やした。翌年、 散騎常侍 さんきじょうじ ・左中郎将・呉興太守として召還された。再び 散騎常侍 さんきじょうじ ・太常として召還されたが、拝命せず、前廃帝永光元年、左衛将軍に転じた。太宗泰始元年、 散騎常侍 さんきじょうじ ・中書令に転じ、衛尉を兼任した。拝命せず、再び左衛将軍となり、常侍・衛尉はもとの通り。また拝命せず、使持節・ 都督 ととく 会稽東陽永嘉臨海新安五郡諸軍事・領安東将軍・会稽太守として出向し、軍勢を率いて東征した。呉・呉興・ しん 陵三郡の監督を加えられた。まもなく 散騎常侍 さんきじょうじ を加えられ、衛将軍に進号し、鼓吹一部を与えられた。また しん 安囗囗二郡諸軍事の監督を進められた。

二年、雍梁南北秦四州郢州の竟陵随二郡諸軍事・寧蛮 校尉 こうい ・雍州 刺史 しし に転じ、持節・常侍・将軍はもとの通り、食邑二千戸を増やし、三百戸を受領した。以前会稽にいた時、録事参軍の陳郡謝沈が諂佞をもって休若に仕え、多くの賄賂を受けた。当時内外戒厳で、すべて袴褶を着用していたが、沈は母の喪に服していたのに、起用され、音楽を楽しみ酒を飲み、通常の人と変わらず、衣冠も特に変わったところがなく、皆沈が喪に服していることを知らず、かつて自ら孤子と称したので、人々は驚愕した。休若は沈と親しみすぎて、姦私の行いがあったとして、鎮西将軍に降格された。また衛将軍に進んだ。典籤の夏宝期が休若に無礼なことをし、獄に繋がれた。太宗に殺すことを上奏したが、許されないことを懸念し、返答が来ないうちに、獄中で刑を執行し、使者が返ってきて確かに監禁して送るよう命じたが、宝期はすでに死んでいた。上(明帝)は大いに怒り、休若に手紙を書いた。「孝建・大明の時代に、お前はこのようなことを敢えて行ったのか?」休若の母に杖三百を加え、左将軍に降格し、使持節 都督 ととく を監に貶め、行雍州 刺史 しし とし、寧蛮 校尉 こうい を務めさせ、封邑五百戸を削った。四年、使持節・ 都督 ととく 湘州諸軍事・行湘州 刺史 しし に転じ、将軍はもとの通り。六年、荊州 刺史 しし しん 平王休祐が入朝したので、休若に荊州の事務を監督させ、征南将軍・湘州 刺史 しし に進号した。引き続き 都督 ととく 荊湘雍益梁寧南北秦八州諸軍事・征西将軍・荊州 刺史 しし となり、持節はもとの通り。まもなく 散騎常侍 さんきじょうじ を加えられ、また征西大将軍・開府儀同三司に進号した。

七年、晋平王劉休祐が殺害され、建安王劉休仁が疑われた。京師では噂が立ち、休若には極めて貴い相貌があると言われ、太宗(明帝)はその言葉を彼に伝えたため、休若は内心非常に憂慮し恐れた。ちょうど召還され、休祐に代わって 都督 ととく 南徐南兗徐兗青冀六州諸軍事、征北大将軍、南徐州 刺史 しし に任じられ、持節・常侍・開府は従前の通りであった。休若の腹心の将佐たちは皆、朝廷に戻れば必ず大禍があるとし、中兵参軍の京兆出身の王敬先が強く入朝すべきでないと主張し、荊楚の地を割拠して朝廷に対抗するよう勧めた。休若は偽ってこれを承諾した。敬先が出た後、彼を捕らえて記録し、急使を走らせて太宗に報告した。敬先は罪に坐して誅殺された。休若が京口に着くと、建安王劉休仁もまた害され、ますます危惧の念を抱いた。上(明帝)は休若が温和で善良であり、人々の心情を和らげまとめることができるため、将来幼い主君(後継者)を脅かすことを憂慮し、使者を遣わして殺そうと考えた。 詔 を奉じないことを懸念し、朝廷に召し入れると、また猜疑と驚きを生む恐れがあった。そこで偽って休若を 都督 ととく 江郢司広交 州之西陽新蔡晋熙湘州之始興四郡諸軍事、車騎大将軍、江州 刺史 しし に転任させ、持節・常侍・開府は従前の通りとした。召還して拝謁を命じ、親書でねんごろに、七月七日に向かうよう命じ、そのまま邸宅で死を賜った。時に二十四歳であった。侍中、 司空 しくう を追贈し、持節・ 都督 ととく 刺史 しし は従前の通りとし、班剣二十人、三望車一乗を給された。

休若が死ぬと、上は驃騎大将軍桂陽王劉休範に手紙を書いて言った。

廬江王劉褘がかつて西州にいたので、上は冶城の辺りと言ったのである。

休若の子の劉冲が初め封を継いだ。順帝昇明三年に死去し、ちょうど斉が禅譲を受けたため、封国は除かれた。