宋書

列伝第三十一

列伝第三十一

徐湛之は字あざなを孝源といい、東海郡郯県の人である。司徒しと徐羨之の兄の孫で、呉郡太守たいしゅ徐佩之の弟の子である。祖父の徐欽之は秘書監であった。父の徐逵之は、高祖の長女会稽公主を娶り、振威将軍・彭城ほうじょう・沛二郡太守となった。高祖の諸子は皆幼かったため、徐逵之が姻戚であることから、大任を与えようとし、まず功績を立てさせようとした。司馬休之を討伐する際、彼に軍を統率させて前鋒とし、精兵と利器を配属した。事が成就すれば、すぐに荊州を授けるつもりであった。休之は魯宗の子の魯軌を派遣してこれを撃破し、徐逵之は戦陣で殺害された。追贈して中書侍郎とされた。

原文徐湛之字孝源,東海郯人。司徒羨之兄孫,吳郡太守佩之弟子也。祖欽之,祕書監。父逵之,尚高祖長女會稽公主,為振威將軍、彭城沛二郡太守。高祖諸子並幼,以逵之姻戚,將大任之,欲先令立功。及討司馬休之,使統軍為前鋒,配以精兵利器,事剋,當即授荊州。休之遣魯宗之子軌擊破之,於陣見害。追贈中書侍郎。

徐湛之は幼くして孤児となり、高祖に愛され、常に江夏王劉義恭と寝食を共にし、側を離れなかった。永初三年、詔が下された。「永興公主は一門の嫡長であり、早くから辛苦を味わった。外孫の湛之は、特に寵愛している。かつて節義を尽くした者の子孫であり、情実も尋常を超えている。枝江県侯に封じ、食邑五百戸を与えること。」数歳の時、弟の淳之と共に車に乗って行くと、牛が暴走して車が壊れた。左右の者が駆けつけたが、湛之はまず弟を救うよう命じた。人々は皆、彼が幼いながらも分別があると感嘆した。成長すると、文義に広く通じ、自らの立場をわきまえて振る舞った。祖母と母に仕えることは、共に孝行で慎み深いことで知られた。

原文湛之幼孤,為高祖所愛,常與江夏王義恭寢食不離於側。永初三年,詔曰:「永興公主一門嫡長,早罹辛苦。外孫湛之,特所鍾愛。且致節之胤,情實兼常。可封枝江縣侯,食邑五百戶。」年數歲,與弟淳之共車行,牛奔車壞,左右馳來赴之。湛之先令取弟,眾咸歎其幼而有識。及長,頗涉文義,善自位待。事祖母及母,並以孝謹聞。

元嘉二年、著作佐郎、員外散騎侍郎に任じられたが、いずれも就任しなかった。六年、東宮が創建されると、初めて官に就き太子洗馬に補され、転じて国子博士となり、奮威将軍・南彭城・沛二郡太守に昇進し、黄門侍郎に転任した。祖母が年老いていたため、朝廷での直務を理由に辞退し、拝命しなかった。再び二郡の太守に任じられ、輔国将軍を加えられ、秘書監に昇進し、右軍将軍を兼任し、侍中じちゅうに転じ、驍騎ぎょうき将軍を加えられた。再び秘書監となり、散騎常侍さんきじょうじを加えられ、驍騎将軍は元のままとした。

原文元嘉二年,除著作佐郎,員外散騎侍郎,並不就。六年,東宮始建,起家補太子洗馬,轉國子博士,遷奮威將軍、南彭城沛二郡太守,徙黃門侍郎。祖母年老,辭以朝直,不拜。復授二郡,加輔國將軍,遷祕書監,領右軍將軍,轉侍中,加驍騎將軍。復為祕書監,加散騎常侍,驍騎如故。

会稽公主は長女としての立場にあり、太祖に礼遇され、家事の大小を問わず、必ず彼女に相談してから実行した。西征して謝晦を討つ時、公主を台城内に留め置き、六宮を総摂させた。公主は思い通りにならないことがあると、すぐに号泣したので、上(太祖)は非常に恐れた。初め、高祖が微賤の時、貧しく粗末な生活をしており、自ら新洲へ行って荻を刈ったことがあった。麻布の上衣や綿入れの服などの衣服は、すべて敬皇后が自ら作ったものであった。高祖が貴くなってから、これらの衣服を公主に託し、「後世に驕り奢って節度を守らない者がいたら、この衣服を見せよ」と言った。徐湛之は大将軍彭城王劉義康に愛され、劉湛らと互いに結びつき協力していた。劉湛が罪を得ると、事は徐湛之にも連座し、太祖は大いに怒り、死刑に処そうとした。湛之は憂い恐れて策がなく、公主に告げた。公主はその日のうちに宮中に入り、太祖に会うと、号泣して床から降り、臣妾の礼を取らなかった。錦の袋に高祖の麻布の衣服を入れて、地面に投げつけて上(太祖)に見せ、「お前の家はもともと貧賤であった。これは私の母がお前の父のために作ったこの麻布の衣服だ。今日一頓の飽食を得たからといって、すぐに私の息子を害しようとするのか!」と言った。上も号泣し、湛之はこれによって命を全うすることができた。中護軍に転任したが、拝命せず、また太子詹事に転任し、まもなく侍中を加えられた。

原文會稽公主身居長嫡,為太祖所禮,家事大小,必咨而後行。西征謝晦,使公主留止臺內,總攝六宮。忽有不得意,輒號哭,上甚憚之。初,高祖微時,貧陋過甚,嘗自往新洲伐荻,有納布衫襖等衣,皆敬皇后手自作,高祖既貴,以此衣付公主,曰:「後世若有驕奢不節者,可以此衣示之。」湛之為大將軍彭城王義康所愛,與劉湛等頗相附協。及劉湛得罪,事連湛之,太祖大怒,將致大辟。湛之憂懼無計,以告公主。公主即日入宮,既見太祖,因號哭下牀,不復施臣妾之禮。以錦囊盛高祖納衣,擲地以示上曰:「汝家本貧賤,此是我母為汝父作此納衣。今日有一頓飽食,便欲殘害我兒子!」上亦號哭,湛之由此得全也。遷中護軍,未拜,又遷太子詹事,尋加侍中。

徐湛之は手紙の文章に長け、言葉は流暢であった。貴戚の豪族として、財産は非常に豊かであった。屋敷や庭園・池は、貴遊の誰にも及ばなかった。伎楽の妙は、当時で最も優れていた。門生は千余人おり、皆三呉の富人の子で、容姿端麗で、衣服は鮮やかで美しかった。出入りして遊行するたびに、道や路地は満ちあふれ、雨や泥の日には、皆を後続の車に乗せた。太祖はその奢侈で放縦なことを嫌い、たびたびこれを口にした。当時、安成公何勗(何無忌の子)と、臨汝公孟霊休(孟昶の子)は、それぞれ奢豪で、徐湛之と共に料理・食器・衣服・車馬を競い合った。京邑では彼らについて「安成の食、臨汝の飾り」と言った。湛之はこの二つの美点を、何・孟の両方に兼ね備えていた。何勗は官は侍中まで至り、追贈して荒公と諡された。孟霊休は囲碁をよくし、官は秘書監まで至った。

原文湛之善於尺牘,音辭流暢。貴戚豪家,產業甚厚。室宇園池,貴遊莫及。伎樂之妙,冠絕一時。門生千餘人,皆三吳富人之子,姿質端妍,衣服鮮麗。每出入行遊,塗巷盈滿,泥雨日,悉以後車載之。太祖嫌其侈縱,每以為言。時安成公何勗,无忌之子也,臨汝公孟靈休,昶之子也,並各奢豪,與湛之共以肴膳、器服、車馬相尚。京邑為之語曰:「安成食,臨汝飾。」湛之二事之美,兼於何、孟。勗官至侍中,追諡荒公。靈休善彈棊,官至祕書監。

徐湛之は冠軍かんぐん将軍・丹陽尹に転任し、征虜将軍の号を進められ、散騎常侍を加えられたが、公主の喪に服しているため拝命しなかった。葬儀が過ぎてから、前の職に再任されたが、湛之は上表して固辞し、また廷尉を訪れて罪を受けようとした。上は獄官に受け取らせないよう詔を下し、その後で就任を命じた。常侍の職を固辞したので、許された。二十二年、范曄らが謀反を企てたが、湛之は初め彼らと同調していたが、後にその事を発覚させた。しかし、陳述した内容の多くが十分でなく、范曄らの自供の言葉に連座したため、廷尉を訪れて罪に帰した。上は慰めて帰還を命じ、郡に戻らせた。湛之は上表して言った。

原文湛之遷冠軍將軍、丹陽尹,進號征虜將軍,加散騎常侍,以公主憂不拜。過葬,復授前職,湛之表啟固辭,又詣廷尉受罪,上詔獄官勿得受,然後就命。固辭常侍,許之。二十二年,范曄等謀逆,湛之始與之同,後發其事,所陳多不盡,為曄等款辭所連,乃詣廷尉歸罪,上慰遣令還郡。湛之上表曰:

賊臣の范曄、孔熙先らが結託して謀反を企てた際、法静尼が行き来して宣伝し、大將軍臣義康と互いに唇歯の関係となり、取り調べにおいてそのことが明らかになった。仲承祖が熙先らの意図を初めて知った時、すぐにその奸状を極言したことを思うに、臣の子供たちは近しい情に流され、大義をわきまえず、陛下に初めて聞かせた時、明確に指摘せず、文書に記された内容も特に粗略であった。実は凶悪な計画が既に表に出て、逆事が露見した上に、また聖なる慈愛に依り、ことごとく追求したくないと思い、そのため言葉の勢いは曖昧で、詳細に陳述することを敢えてしなかったのである。心情と趣旨に隠し立てはなく、既に天の鑑照に明らかである。そして群凶が捕らえられ、それぞれが供述したところ、范曄らの口供は多くが誣告と誹謗であり、承祖の醜悪な言葉は特に紛糾していた。すなわち、臣が義康と以前から密約があり、官省での言葉を以て約束と定め、密かに奸意を通じ、天文を示して知らせたと言い、最後に熙先が指を差して必ず同調すると言い、范曄を欺いたと言い、ある者は智勇をもって称えられ、ある者は愚懦をもって目されたという。その信義は覆すことができると賞賛する一方で、その行動が必ず啓上されると驚愕する。凡そこれらの詭妄な言葉は、自ら矛盾し、多くの事柄を挙げながら源流を究めず、伝えられた証言には主たる名がなく、証言を求められた人物はまた既に死没しており、首尾が食い違い、自ら矛楯をなしている。すなわち臣が誘引した言葉を、最初の謀議ぼうぎの証拠とし、臣が糾弾告発したことを恨み咎め、狂言をほしいままにして、必ずや禍いを陥れようと企んでいる。ひそかに自ら省みるに、また理由がある。かつて義康が南方に出ることになった初め、陛下は臣に入って相伴い慰めるよう命じ、朝夕に対面し、十日余りを経た。逆図が謀議として成ったわけではないが、恨みの表情や異なる意向は、言葉の端々にかなり現れていた。臣に利刃を遺し、機会を待たせようとしたが、臣は苦しく諫め譬え、強く拒絶した。怨憤の至りであるとして、慮るに足りないと思い、すぐに啓上すれば虚妄であることを恐れ、繰り返し考えた末、愚かな心で実際に経過したことであり、受け入れて曲げて隠匿したわけではない。また范曄に情を述べて仲違いのわだかまりを解かせ、蕭思話に思いを致して婚姻の意が果たされなかったことを恨ませ、このような僥倖もまた宣べ伝えるべきではないと思った。陛下は天倫を厚く惜しみ、四海に明らかにされ、藩王の禁制は緩やかで、親族の道理はすべて通じており、またかつてご眷顧を蒙り、自ら絶つことは許されず、音信や命令は時折往来した。あるいは言葉は少なく意味は多く、趣旨は深く文は浅く、言辞と表情の間には、往々にして測りがたいものがあった。臣は常に異聞を恐れ、すべて略して答えず、ただ心に邪な悖りがなかったので、少しも自ら嫌疑を抱かなかった。誠実な真心は、このようにすべて啓上した通りである。法静が伝えたこと、および熙先らの謀議については、実際に早く知らず、関知した日、すぐに聞かせた。たとえ晨光が幽かに照らし、曲がりくねって窮状を明らかにしても、正義をもって裁き、刑罰から逃れることはできない。骸を束ねて北闕に至り、司寇に罪を請う。陛下の施しは寛大で、まだ取り調べを加えず、宮中からの詔が頻繁に降り、制使が往還し、恩寵を仰ぎ、哀惶のあまり自失した。臣は災いが積み罪が深く、酷罰に遭い、久しく屏棄されるべきであり、永久に人の道理から謝すべきである。まして奸謀に染まり、忠孝はたちまち欠け、智防は愚かで浅く、禍の萌芽に暗く、士類はその心を明らかにせず、群庶は同悪と謂い、朝野は側目し、衆議は沸騰し、讎隙の言葉だけを専ら信じ、少しも互いに事情を汲み取ろうとしない。臣は駑鈍ではあるが、情は木石ではない。醜い汚点を負う難しさや、伏して剣を受ける易さを知らないわけがない。しかし恥ずかしげもなく息をして、この余生を忍んでいるのは、実は微命を惜しんで漏刻を引き延ばすためではない。罪を負って灰滅し、悪を将来に遺すことになりながら、なお息のある間に、少しでも自ら訴えたいと貪っているからである。幽かな誠の丹心が、もしも明らかになることを願い、たとえ身が草土に膏となっても、九泉に恨みはない。顕かに官次に居り、朝班を垢穢し、厚顔どこに地あって、自ら処することができようか。罷免放逐を乞い、伏して鈇鑕を待つ。

原文賊臣范曄、孔熙先等,連結謀逆,法靜尼宣分往還,與大將軍臣義康共相脣齒,備於鞠對。伏尋仲承祖始達熙先等意,便極言姦狀。而臣兒女近情,不識大體,上聞之初,不務指斥,紙翰所載,尤復漫略者,實以凶計既表,逆事歸露,又仰緣聖慈,不欲窮盡,故言勢依違,未敢縷陳。情旨無隱,已昭天鑒。及羣凶收禽,各有所列,曄等口辭,多見誣謗,承祖醜言,紛紜特甚。乃云臣與義康宿有密契,在省之言,期以為定,潛通姦意,報示天文。末云熙先縣指必同,以誑於曄,或以智勇見稱,或以愚懦為目。既美其信懷可覆,復駭其動止必啟。凡諸詭妄,還自違伐,多舉事端,不究源統,齎傳之信,無有主名,所徵之人,又已死沒,首尾乖互,自為矛楯。即臣誘引之辭,以為始謀之證,銜臣糾告,並見怨咎,縱肆狂言,必規禍陷。伏自探省,亦復有由。昔義康南出之始,敕臣入相伴慰,晨夕覲對,經踰旬日。逆圖成謀,雖無顯然,懟容異意,頗形言旨。遺臣利刃,期以際會,臣苦相諫譬,深加距塞。以為怨憤所至,不足為慮,便以關啟,懼成虛妄,思量反覆,實經愚心,非為納受,曲相蔽匿。又令申情范曄,釋中間之憾,致懷蕭思話,恨婚意未申,謂此僥幸,亦不宣達。陛下敦惜天倫,彰於四海,藩禁優簡,親理咸通,又昔蒙眷顧,不容自絕,音翰信命,時相往來。或言少意多,旨深文淺,辭色之間,往往難測。臣每懼異聞,皆略而不答,惟心無邪悖,故不稍以自嫌。慺慺丹實,具如此啟。至於法靜所傳,及熙先等謀,知實不早,見關之日,便即以聞。雖晨光幽燭,曲昭窮款,裁以正義,無所逃刑。束骸北闕,請罪司寇,乾施含宥,未加治考,中旨頻降,制使還往,仰荷恩私,哀惶失守。臣殃積罪深,丁罹酷罰,久應屏棄,永謝人理。況姦謀所染,忠孝頓闕,智防愚淺,闇於禍萌,士類未明其心,羣庶謂之同惡,朝野側目,眾議沸騰,專信讎隙之辭,不復稍相申體。臣雖駑下,情非木石。豈不知醜點難嬰,伏劍為易。而靦然視息,忍此餘生,實非苟吝微命,假延漏刻。誠以負戾灰滅,貽惡方來,貪及視息,少自披訴。冀幽誠丹款,儻或昭然,雖復身膏草土,九泉無恨。顯居官次,垢穢朝班,厚顏何地,可以自處。乞蒙隳放,伏待鈇鑕。

上は優詔を下して許さなかった。

原文上優詔不許。

二十四年、喪服期間が終わり、中書令に転じ、太子詹事を兼任した。前軍將軍・南兗州刺史ししとして出向した。政治を行うのに巧みで、威厳と恵みを並行させた。広陵城には旧来高楼があり、湛之はさらに修繕整備し、南に鍾山を望んだ。城の北には陂沢があり、水産物が豊かであった。湛之はさらに風亭・月観、吹臺・琴室を建て、果樹や竹が繁茂し、花や薬草が列をなし、文士を招集して遊玩の楽しみを尽くし、一時の盛況であった。時に沙門の釈惠休という者がおり、文章を作るのが巧みで、辞采が綺麗で艶やかであり、湛之は彼と非常に親しくした。世祖は彼を還俗させるよう命じた。本来の姓は湯で、揚州從事史の位に至った。二十六年、再び入朝して丹陽尹となり、太子詹事を兼任し、將軍は元の通りであった。二十七年、索虜が瓜歩に至ると、湛之は兵を率いて佐官を置き、皇太子と分かれて石頭せきとうを守った。二十八年春、魯爽兄弟が部曲ぶきょくを率いて帰順した。爽らは魯軌の子である。湛之は朝廷の遠大な計画として、特にこれを奨励して受け入れ、私怨を軽々しく述べることはしなかった。田舎に隠居することを乞うたが、許されなかった。

原文二十四年,服闋,轉中書令,領太子詹事。出為前軍將軍、南兗州刺史。善於為政,威惠並行。廣陵城舊有高樓,湛之更加修整,南望鍾山。城北有陂澤,水物豐盛。湛之更起風亭、月觀,吹臺、琴室,果竹繁茂,花藥成行,招集文士,盡遊玩之適,一時之盛也。時有沙門釋惠休,善屬文,辭采綺豔,湛之與之甚厚。世祖命使還俗。本姓湯,位至揚州從事史。二十六年,復入為丹陽尹,領太子詹事,將軍如故。二十七年,索虜至瓜步,湛之領兵置佐,與皇太子分守石頭。二十八年春,魯爽兄弟率部曲歸順,爽等,魯軌子也。湛之以為廟算遠圖,特所奬納,不敢苟申私怨。乞屏居田里,不許。

尚書僕射しょうしょぼくやに転じ、護軍將軍を兼任した。当時、尚書令の何尚之は湛之が国戚であり、任用と待遇が重んじられていることから、朝政を彼に推譲しようとした。すべての訴訟について、一切取り扱わなかった。湛之もまた職官記および令文により、尚書令は上奏と内外の事を敷き、事柄はすべて総括し、令が欠けるときは僕射が総任するとし、また事柄を尚之に帰して、互いに推譲した。御史中丞の袁淑が両者を免官すべきと上奏した。詔して言うには、「令と僕射は政務を委ねられる存在であり、共に適切な対応を求めず、互いに推譲するのは、糾弾するのは当然である。しかし旧来の制度が残欠しているため、このような疑念と執着が生じたのであり、特に問責はせず、時を詳らかにして正すように。」そこで湛之と尚之に並んで訴訟を受け付けさせた。尚之は令ではあったが、朝政はすべて湛之に帰した。初め、劉湛が誅殺され、殷景仁が没すると、太祖は沈演之・廋炳之・范曄らを任用し、後にまた江湛・何瑀之があり、范曄が誅殺され、炳之が免官され、演之・瑀之がともに没し、この時に至って江湛が吏部尚書となり、湛之とともに権要の地位にあり、世間では江・徐と呼んだ。

原文轉尚書僕射,領護軍將軍。時尚書令何尚之以湛之國戚,任遇隆重,欲以朝政推之。凡諸辭訴,一不料省。湛之亦以職官記及令文,尚書令敷奏出內,事無不總,令缺則僕射總任。又以事歸尚之,互相推委。御史中丞袁淑並奏免官,詔曰:「令僕治務所寄,不共求體當,而互相推委,糾之是也。然故事殘舛,所以致茲疑執,特無所問,時詳正之。」乃使湛之與尚之並受辭訴。尚之雖為令,而朝事悉歸湛之。初,劉湛伏誅,殷景仁卒,太祖委任沈演之、廋炳之、范曄等,後又有江湛、何瑀之,曄誅,炳之免,演之、瑀之並卒,至是江湛為吏部尚書,與湛之並居權要,世謂之江、徐焉。

上は病があるたびに、湛之はいつも入って医薬の世話をした。二凶の巫蠱事件が発覚し、上は劭を廃し、濬に死を賜おうとした。しかし世祖は寵愛されていなかったので、累ねて外藩に出され、京輦に留まることを得なかった。南平王鑠と建平王宏はともに上に愛されたが、鑠の妃は湛之の妹であり、上に彼を立てるよう勧めた。元嘉の末、鑠を寿陽から朝廷に召し寄せたが、到着した後、また上意に沿わず、宏を立てようとしたが、順序外れであるのを嫌い、そのため議論は久しく決まらなかった。湛之と人を屏して共に議論し、ある時は連日連夜に及んだ。毎夜、常に湛之に自ら燭を執らせ、壁を巡って検査させ、盗み聞きする者がいないか慮った。劭が入って弑しい逆した朝、その前夜、上は湛之と人を屏して語り、暁になってもまだ燭を消さなかった。湛之は驚いて起きて北戸に走ったが、開くに及ばず、害された。時に年四十四。世祖が即位すると、司空しくうを追贈し、散騎常侍を加え、本来の官職は元の通りとし、諡して忠烈公といった。また詔して言うには、「徐湛之・江湛・王僧綽の家門は酷い災難に遭い、遺された孤児は流浪している。過ぎ去ったことを思うと、感慨と痛みが深い。本宅に帰って住むことを許し、手厚く撫恤と賜物を与えよ。」そこで三家には長く食糧が給付された。

原文上每有疾,湛之輒入侍醫藥。二凶巫蠱事發,上欲廢劭,賜濬死。而世祖不見寵,故累出外蕃,不得停京輦。南平王鑠、建平王宏並為上所愛,而鑠妃即湛妹,勸上立之。元嘉末,徵鑠自壽陽入朝,既至,又失旨,欲立宏,嫌其非次,是以議久不決。與湛之屏人共言論,或連日累夕。每夜常使湛之自秉燭,繞壁檢行,慮有竊聽者。劭入弒之旦,其夕,上與湛之屏人語,至曉猶未滅燭。湛之驚起趣北戶,未及開,見害。時年四十四。世祖即位,追贈司空,加散騎常侍,本官如故,諡曰忠烈公。又詔曰:「徐湛之、江湛、王僧綽門戶荼酷,遺孤流寓,言念既往,感痛兼深。可令歸居本宅,厚加恤賜。」於是三家長給廩。

三人の子:聿之・謙之は元凶に殺された。恒之が侯を嗣ぎ、太祖の第十五女である南陽公主を娶ったが、早逝し、子がなかった。聿之の子の孝嗣が封を継ぎ、斉が禅譲を受けると、封国は除かれた。

原文三子:聿之、謙之,為元凶所殺。恒之嗣侯,尚太祖第十五女南陽公主,蚤卒,無子。聿之子孝嗣紹封,齊受禪,國除。

江湛は字を徽淵といい、済陽郡考城県の人で、湘州刺史の江夷の子である。喪に服して孝行で知られた。文芸を愛好し、囲碁や琴を弾くことを好み、算術にも通じていた。初め著作佐郎となり、彭城王劉義康の司徒行参軍に転じ、南譙王劉義宣の左軍功曹となり、再び劉義康の司徒主簿、太子中舎人となった。司空の檀道済が子のために江湛の妹との婚姻を求めたが、許さなかった。劉義康が命じても、従わなかった。当時の人はその志操を重んじた。劉義康が彼を引き留めて日夜ともに過ごそうとしたが、江湛は固く外任を求めたので、武陵内史とし、後に司徒従事中郎として召還され、太子中庶子、尚書吏部郎に昇進した。随王劉誕が北中郎将・南徐州刺史となった時、江湛を長史・南東海太守とし、政事をすべて委任した。

原文江湛字徽淵,濟陽考城人,湘州刺史夷子也。居喪以孝聞。愛好文義,喜彈棊鼓琴,兼明算術。初為著作佐郎,遷彭城王義康司徒行參軍,南譙王義宣左軍功曹,復為義康司徒主簿,太子中舍人。司空檀道濟為子求湛妹婚,不許。義康有命,又不從。時人重其立志。義康欲引與日夕,湛固求外出,乃以為武陵內史,還為司徒從事中郎,遷太子中庶子,尚書吏部郎。隨王誕為北中郎將、南徐州刺史,以湛為長史、南東海太守,政事悉委之。

元嘉二十五年、侍中に召され、機密を任され、本州の大中正を兼ね、左衛将軍に転じた。当時、学職の選任が改められ、太尉たいいの江夏王劉義恭が国子祭酒を兼ね、江湛と侍中の何攸之が博士を兼ねた。二十七年、吏部尚書に転じた。家は非常に貧しく倹約し、財利を求めず、贈り物が門に満ちても一切受け取らず、余分な衣服や食糧もなかった。かつて皇帝に召された時、洗濯中の衣服であったため、一日中病気と称し、衣服ができてから赴いた。牛が飢え、御者が草を求めたが、江湛はしばらくして「水を飲ませよ」と言った。選任の職にあっては、かなり厳格で細かいという批判があったが、公平無私で請託を受けず、論者はこの点を称賛した。

原文元嘉二十五年,徵為侍中,任以機密,領本州大中正,遷左衞將軍。時改選學職,以太尉江夏王義恭領國子祭酒,湛及侍中何攸之領博士。二十七年,轉吏部尚書。家甚貧約,不營財利,餉饋盈門,一無所受,無兼衣餘食。嘗為上所召,值澣衣,稱疾經日,衣成然後赴。牛餓,馭人求草,湛良久曰:「可與飲。」在選職,頗有刻覈之譏,而公平無私,不受請謁,論者以此稱焉。

皇帝が大規模な北伐を起こそうとした時、朝廷全体が反対したが、江湛だけが賛成した。索虜が瓜歩に至ると、領軍将軍の劉遵考りゅうじゅんこうが軍を率いて江上に出たが、江湛に領軍を兼務させ、軍事の処分をすべて委任した。虜が使者を遣わして婚姻を求めた時、皇帝は太子の劉劭以下を集めて議論させた。皆が許すべきだと言ったが、江湛は「戎狄に信義はなく、許しても益がない」と言った。劉劭は怒り、江湛に「今、三王が窮地にあるのに、どうして軽々しく異議を執るべきか」と言い、声色は非常に激しかった。座が散って皆が出た時、劉劭は班剣と左右の者に命じて江湛を押し、ほとんど倒れそうになった。劉劭はまた皇帝に「北伐は敗北し辱めを受け、数州が陥落した。ただ江湛を斬るだけで、天下に謝罪できる」と言った。皇帝は「北伐は私の意志であり、江湛はただ異議を唱えなかっただけだ」と言った。劉劭は後に宴会を開いた時、決して江湛を招かなかった。常に皇帝に「江湛は佞人であり、親しくすべきではない」と言った。皇帝は劉劭の長子の劉偉之に江湛の三女を娶わせようとし、和解させようとした。

原文上大舉北伐,舉朝為不可,唯湛贊成之。索虜至瓜步,領軍將軍劉遵考率軍出江上,以湛兼領軍,軍事處分,一以委焉。虜遣使求婚,上召太子劭以下集議,眾並謂宜許,湛曰:「戎狄無信,許之無益。」劭怒,謂湛曰:「今三王在阨,詎宜苟執異議。」聲色甚厲。坐散俱出,劭使班劍及左右推之,殆將側倒。劭又謂上曰:「北伐敗辱,數州淪破,獨有斬江湛,可以謝天下。」上曰:「北伐自我意,江湛但不異耳。」劭後燕集,未嘗命湛。常謂上曰:「江湛佞人,不宜親也。」上乃為劭長子偉之娉湛第三女,欲以和之。

皇帝が劉劭を廃そうとした時、江湛に詔書の草案を作らせた。劉劭が入内して弑逆した時、江湛は尚書上省に直宿しており、叫び騒ぐ声を聞いて、傍らの小屋に隠れた。劉劭が彼を捕らえに遣わすと、舎吏が「ここにはいない」と偽った。兵士はすぐに舎吏を殺し、ようやく江湛を見つけた。江湛は窓際で害され、表情や態度は屈しなかった。時に四十六歳であった。江湛の五人の子、江恁、江恕、江憼、江愻、江法寿は皆殺された。初め、江湛の家ではしばしば怪異が起こり、敗れる数日前、寝ていた床に突然数升の血が現れた。世祖(孝武帝)が即位すると、左光禄大夫・開府儀同三司を追贈し、散騎常侍を加え、本官はそのままとし、諡を忠簡公といった。

原文上將廢劭,使湛具詔草。劭之入弒也,湛直上省,聞叫譟之聲,乃匿傍小屋中。劭遣收之,舍吏紿云:「不在此。」兵士即殺舍吏,乃得湛。湛據窗受害,意色不撓。時年四十六。湛五子恁、恕、憼、愻、法壽,皆見殺。初,湛家數見怪異,未敗少日,所眠牀忽有數升血。世祖即位,追贈左光祿大夫、開府儀同三司,加散騎常侍,本官如故,諡曰忠簡公。

長子の江恁は、太祖(文帝)の第九女である淮陽長公主を娶り、著作佐郎となった。

原文長子恁,尚太祖第九女淮陽長公主,為著作佐郎。

王僧綽は、琅邪郡臨沂県の人で、左光禄大夫の王曇首の子である。幼い時から大成する器量があり、若年で人々から国器と認められた。学問を好み道理を考え、朝廷の典章に精通していた。十三歳の時、太祖に引見され、下拜するとすぐに涙を流し咽び泣き、皇帝も悲しみに耐えられなかった。豫寧県侯の爵位を襲封し、太祖の長女である東陽献公主を娶った。初め江夏王劉義恭の司徒参軍となり、始興王文学、秘書丞、司徒左長史、太子中庶子に転じた。元嘉二十六年、尚書吏部郎に転じ、大選を参掌した。人材の流品を究め、人物に詳しく、才能を抜擢し能を挙げるのに、すべて適切であった。二十八年、侍中に転じ、機密を任された。王僧綽は沈着深遠で器量があり、才能を以て人を見下さなかった。以前、父の王曇首と王華がともに太祖に任用されていたが、王華の子の王嗣は人材が劣り、地位と待遇も軽かった。王僧綽はかつて中書侍郎の蔡興宗に「弟(私)の名声と地位は新建と同等であるべきだが、今日まで越えているのは、姻戚によるものであろう」と言った。新建とは、王嗣の封号である。侍中となった時、年は二十九歳であった。始興王劉濬がかつてその年齢を尋ねた時、王僧綽は早く出世したことを気にして、しばらく逡巡してから答えた。その謙虚で自ら退く態度はこのようなものであった。

原文王僧綽,琅邪臨沂人,左光祿大夫曇首子也。幼有大成之度,弱年眾以國器許之。好學有理思,練悉朝典。年十三,太祖引見,下拜便流涕哽咽,上亦悲不自勝。襲封豫寧縣侯,尚太祖長女東陽獻公主。初為江夏王義恭司徒參軍,轉始興王文學,祕書丞,司徒左長史,太子中庶子。元嘉二十六年,徙尚書吏部郎,參掌大選。究識流品,諳悉人物,拔才舉能,咸得其分。二十八年,遷侍中,任以機密。僧綽沈深有局度,不以才能高人。先是,父曇首與王華並為太祖所任,華子嗣人才既劣,位遇亦輕。僧綽嘗謂中書侍郎蔡興宗曰:「弟名位應與新建齊,超至今日,蓋由姻戚所致也。」新建者,嗣之封也。及為侍中,時年二十九。始興王濬嘗問其年,僧綽自嫌蚤達,逡巡良久乃答,其謙虛自退若此。

元嘉の末、太祖は後事をかなり気にかけ、彼が年少であるにもかかわらず、大いに託そうとし、朝政の大小にかかわらず、すべて彼に参与させた。従兄の王微は清廉な士であり、彼の勢いが盛んすぎるのを恐れ、抑制するよう勧めた。王僧綽はそこで呉郡や広州を求めたが、皇帝はともに許さなかった。

原文元嘉末,太祖頗以後事為念,以其年少,方欲大相付託,朝政小大,皆與參焉。從兄微,清介士也,懼其太盛,勸令損抑。僧綽乃求吳郡及廣州,上並不許。

ちょうど二凶(劉劭・劉濬)の巫蠱の事が漏れた時、皇帝はただ一人真っ先に王僧綽を召して詳しく話した。廃立を行おうとした時、前朝の旧典を探求させた。劉劭が東宮で夜、将士を饗応した時、王僧綽は密かに報告した。皇帝はまた漢魏以来の諸王廃立の故事を撰述させた。撰述が終わると、江湛と徐湛之に送った。徐湛之は随王劉誕を立てようとし、江湛は南平王劉鑠を立てようとし、太祖は建平王劉宏を立てようとしたが、議論は長く決まらなかった。劉誕の妃は徐湛之の娘であり、劉鑠の妃は江湛の妹である。太祖は王僧綽に「諸人はそれぞれ身のための計らいをして、国と憂いを共にする者はいない」と言った。王僧綽は「立てる事は、仰いで聖慮によるものです。臣はただ速やかに断じるべきであり、遅延すべきでないと考えます。断ずべき時に断じなければ、かえってその乱れを受けます。義をもって恩を断ち、小さな不忍を略することを願います。そうでなければ、初めのように胸襟を開き、煩わしい疑いの議論は不要です。淮南子に『石を水に投げれば、呉越の善く潜る者がこれを取る』とあります。事の機微は密であっても、容易に広まりやすく、難事が慮りの外に生じて、千年の笑いを取らせることはできません」と言った。皇帝は「卿は大事を断ずることができると言えよう。この事は重く、丁寧に三思することを欠かせない。かつて庶人(劉劭)が初めて亡くなった時、人々は私に慈愛の道がなくなったと言うだろう」と言った。王僧綽は「臣は千年の後、陛下はただ弟を裁くことができ、子を裁くことができないと言われることを恐れます」と言った。皇帝は黙った。江湛がともに侍坐しており、閤を出て、王僧綽に「卿がさっき言ったことは、あまりに切直すぎはしないか」と言った。王僧綽は「弟も君が率直でないことを残念に思う」と言った。

原文會二凶巫蠱事泄,上獨先召僧綽具言之。及將廢立,使尋求前朝舊典。劭於東宮夜饗將士,僧綽密以啟聞,上又令撰漢魏以來廢諸王故事。撰畢,送與江湛、徐湛之。湛之欲立隨王誕,江湛欲立南平王鑠,太祖欲立建平王宏,議久不決。誕妃即湛之女,鑠妃即湛妹。太祖謂僧綽曰:「諸人各為身計,便無與國家同憂者。」僧綽曰:「建立之事,仰由聖懷。臣謂唯宜速斷,不可稽緩。當斷不斷,反受其亂。願以義割恩,略小不忍,不爾便應坦懷如初,無煩疑論。淮南云:『以石投水,吳越之善沒取之。』事機雖密,易致宣廣,不可使難生慮表,取笑千載。」上曰:「卿可謂能斷大事。此事重,不可不殷勤三思。且庶人始亡,人將謂我無復慈愛之道。」僧綽曰:「臣恐千載之後,言陛下唯能裁弟,不能裁兒。」上默然。江湛同侍坐,出閤,謂僧綽曰:「卿向言,將不太傷切直。」僧綽曰:「弟亦恨君不直。」

劉劭が弑逆した時、江湛は尚書上省におり、変事を聞いて嘆き、「王僧綽の言を用いなかったために、このようなことになった」と言った。劉劭が即位すると、王僧綽は吏部尚書に転じ、事任を委ねられた。事柄は二凶伝にある。まもなく、劉劭が太祖の巾箱と江湛の家の書簡を調べ、王僧綽が報告した将士饗応と諸王廃立に関する文書を見つけ、彼を捕らえて害した。時に三十一歳であった。このため北第の諸王侯を陥れ、王僧綽と異志があるとして、王僧綽の門客である太学博士の賈匪之、奉朝請の司馬文穎、建平国の常侍の司馬仲秀らをともに殺した。世祖が即位すると、散騎常侍・金紫光禄大夫を追贈し、諡を愍侯といった。

原文及劭弒逆,江湛在尚書上省,聞變,歎曰:「不用僧綽言,以至於此。」劭既立,轉為吏部尚書,委以事任,事在二凶傳。頃之,劭料檢太祖巾箱及江湛家書疏,得僧綽所啟饗士并廢諸王書,乃收害焉,時年三十一。因此陷北第諸王侯,以為與僧綽有異志,并殺僧綽門客太學博士賈匪之、奉朝請司馬文穎、建平國常侍司馬仲秀等。世祖即位,追贈散騎常侍、金紫光祿大夫,諡曰愍侯。

初め、太社の西に空地一区があり、呉の時代は丁奉の宅であり、孫晧がその家を流徙させた。江左の初めは周顗・蘇峻の宅であり、その後は袁悦の宅となり、また章武王司馬秀の宅となったが、皆凶事で終わり、後に臧燾に与えられたが、やはりかなり喪禍に遭ったので、世に凶地と呼ばれた。王僧綽は常に正しく達観していると自任し、宅に吉凶はないとして、これを邸宅として請うた。築造を始めたが、住む前に敗れた。

原文初,太社西空地一區,吳時丁奉宅,孫晧流徙其家。江左初為周顗、蘇峻宅,其後為袁悅宅,又為章武王司馬秀宅,皆以凶終,後給臧燾,亦頗遇喪禍,故世稱為凶地。僧綽常以正達自居,謂宅無吉凶,請以為第。始就造築,未及居而敗。

子の王儉が嗣ぎ、昇明の末、斉国の尚書右僕射となった。

原文子儉嗣,昇明末,為齊國尚書右僕射。