宋書

列伝第二十九 劉湛 范曄

列伝第二十九 劉湛 范曄

劉湛は字あざなを弘仁といい、南陽郡涅陽県の人である。祖父の耽、父の柳は、ともに晋の左光禄大夫・開府儀同三司であった。

原文劉湛字弘仁,南陽涅陽人也。祖耽,父柳,並晉左光祿大夫、開府儀同三司。

劉湛は伯父の淡の後を継ぎ、安衆県の五等男の爵位を襲封した。若い頃から器量と才幹があり、浮華なものを尊ばなかった。史書や伝記に広く通じ、前代の旧典に詳しく、弱冠の頃から天下を治める志を持ち、常に管夷吾や諸葛亮に自らを比べ、文章を書かず、談議を好まなかった。本州から主簿に招聘されたが就かず、著作佐郎に任じられたがこれも拝命しなかった。高祖(劉裕)は彼を太尉たいい行参軍とし、厚く待遇した。高祖が鎮西将軍・荊州刺史ししを兼ねると、劉湛を功曹とし、引き続き治中別駕従事史を補任し、また太尉参軍、世子征虜西中郎主簿とした。父の柳が江州で亡くなると、州府から贈られた葬儀の品は非常に豊かであったが、劉湛は一切受け取らず、当時の論評はこれを称えた。喪が明けると、秘書丞に任じられ、出向して相国参軍となった。謝晦と王弘はともに彼に器量と幹才があると称えた。

原文湛出繼伯父淡,襲封安眾縣五等男。少有局力,不尚浮華。博涉史傳,諳前世舊典,弱年便有宰世情,常自比管夷吾、諸葛亮,不為文章,不喜談議。本州辟主簿,不就,除著作佐郎,又不拜。高祖以為太尉行參軍,賞遇甚厚。高祖領鎮西將軍、荊州刺史,以湛為功曹,仍補治中別駕從事史,復為太尉參軍,世子征虜西中郎主簿。父柳亡於江州,州府送故甚豐,一無所受,時論稱之。服終,除祕書丞,出為相國參軍。謝晦、王弘並稱其有器幹。

高祖が晋の禅譲を受けるために都に入ると、第四子の義康を冠軍かんぐん将軍・豫州刺史とし、寿陽に留まって鎮守させた。劉湛を長史・梁郡太守たいしゅとした。義康は若年で政務に親しまず、府と州の軍事はすべて劉湛に委ねられた。府の号が右将軍に進むと、それに従って転任した。義康が本来の将軍号のまま南豫州刺史に転じると、劉湛は歴陽太守を兼任することになった。人となりは剛直で厳格に法を適用し、汚職を犯した官吏は百銭以上であれば皆殺しにしたので、部下はみな震え上がって畏まった。廬陵王義真が車騎将軍・南豫州刺史として出向すると、劉湛はまた長史となり、太守はもとのままだった。義真は当時、高祖の喪に服していたが、配下に食事の準備をさせた。劉湛がこれを禁じると、義真は側近に魚肉や珍味を求めさせ、斎舎の内に別に厨房を設けた。ちょうど劉湛が入ってきたので、義真は酒や焼いた車螯(貝の一種)を出すよう命じた。劉湛は厳しい表情で言った。「公は今、このような設えをなさるべきではありません」。義真は言った。「朝はとても寒い。一杯の酒が何の害があろう。長史は一家のようなものだ。異を唱えないでほしい」。酒が運ばれてくると、劉湛は立ち上がって言った。「(公は)礼をもって自らを処することができないばかりか、礼をもって人を処することもできない」。

原文高祖入受晉命,以第四子義康為冠軍將軍、豫州刺史,留鎮壽陽。以湛為長史、梁郡太守。義康弱年未親政,府州軍事悉委湛。府進號右將軍,仍隨府轉。義康以本號徙為南豫州,湛改領歷陽太守。為人剛嚴用法,姦吏犯贓百錢以上,皆殺之,自下莫不震肅。廬陵王義真出為車騎將軍、南豫州刺史,湛又為長史,太守如故。義真時居高祖憂,使帳下備膳,湛禁之,義真乃使左右索魚肉珍羞,於齋內別立厨帳。會湛入,因命臑酒炙車螯,湛正色曰:「公當今不宜有此設。」義真曰:「旦甚寒,一盌酒亦何傷。長史事同一家,望不為異。」酒既至,湛因起曰:「既不能以禮自處,又不能以禮處人。」

景平元年(423年)、召されて都に入り、尚書吏部郎に任じられ、右衛将軍に転じた。出向して広州・交州の諸軍事、建威将軍、平越中郎将、広州刺史を都督ととくした。実母の喪で職を去った。喪が明けると、侍中じちゅうとなった。撫軍将軍江夏王義恭が江陵を鎮守するとき、劉湛を使持節・南蛮校尉・撫軍長史を兼任させ、府と州の事務を代行させた。当時、王弘が政務を補佐し、王華と王曇首が朝廷内で職務を執っていた。劉湛は自分の才能が彼らに劣らないと思い、地方に出ることを望まず、この赴任は王弘らに排斥されたものと考え、心中非常に不平で、常に言った。「二王(王華・王曇首)は代王(武帝劉裕)の旧臣でなければ、ここまで出世できなかった。風雲に遭遇したと言える」。劉湛はその志気を恃み、常に汲黯と崔琰の人物を慕い、長子の名を黯、字を長孺とし、第二子の名を琰、字を季珪とした。琰が江陵で病死すると、劉湛は自ら喪を送って都に還ることを求めた。義恭もまたこのことを陳情した。太祖(文帝劉義隆)は義恭に答えて言った。「私も劉湛の上奏文を得て、心が痛んだ。むやみに彼の願いを違えたいとは思わない。しかし、汝は若年で、ようやく政務に携わり始めたばかりだ。八州は広大で、専断すべき事柄は重大である。諮問し委任し頼るべき人物は、適任者でなければならない。いろいろ考えてみたが、すぐに承諾することはできない。今、劉湛の上奏に答えて、しばらく彼の葬儀を止めさせよう。近頃、朝臣が次々と亡くなり、心を託せる者がますます少なくなっている。劉湛はまことに国の宝器である。私は彼を召し還そうと思っているが、ただ西方の重任があるため、しばらくこの件を止めているだけだ。汝の慶賞や罷免・処罰、得失に関わることは、必ずすべて彼に委任し託すべきである」。

原文景平元年,召入,拜尚書吏部郎,遷右衞將軍。出督廣交二州諸軍事、建威將軍、平越中郎將、廣州刺史。嫡母憂去職。服闋,為侍中。撫軍將軍江夏王義恭鎮江陵,以湛為使持節、南蠻校尉、領撫軍長史,行府州事。時王弘輔政,而王華、王曇首任事居中,湛自謂才能不後之,不願外出,是行也,謂為弘等所斥,意甚不平,常曰:「二王若非代邸之舊,無以至此,可謂遭遇風雲。」湛負其志氣,常慕汲黯、崔琰為人,故名長子曰黯字長孺,第二子曰琰字季珪。琰於江陵病卒,湛求自送喪還都,義恭亦為之陳請,太祖答義恭曰:「吾亦得湛啟事,為之酸懷,乃不欲苟違所請。但汝弱年,新涉庶務,八州殷曠,專斷事重,疇諮委仗,不可不得其人,量算二三,未獲便相順許。今答湛啟,權停彼葬。頃朝臣零落相係,寄懷轉寡,湛實國器,吾乃欲引其令還,直以西夏任重,要且停此事耳。汝慶賞黜罰,豫關失得者,必宜悉相委寄。」

義恭の性格は非常に狭量で、年も次第に長じ、政事を専断しようとしたが、毎度劉湛によって裁断され、主君と補佐官の間に、わだかまりが生じた。太祖はこれを聞き、密かに使者を遣わして義恭を詰問し責めさせ、また深く和睦するよう命じた。義恭は劉湛に下僚の礼がないことを詳しく述べ、また自ら年長であるのに思い通りにできないとし、詔勅を奉じてはいるが、かなり怨み言を言った。上(文帝)は兄弟愛がもともと厚く、義恭に報いて従わせようと思い、詔を下して言った。「事ここに至ったのは、まことに嘆かわしい。当今は人材が乏しく、委任はすでにこの通りである。互いにうまく調和し、取るべきところを取り、棄てるべきところを棄てるべきだ。汝の上疏に『(境界が)消え去って際限がない』とあるが、このようにするのは非常に良い。彼(劉湛)は猜疑心が強いので、万一にも気づかせてはならない。汝はすでに年長であり、次第に物事を経験している。しかも衆人の期待は、幼さや未熟さを前提としていない。どうして以前の十歳の時のように、一挙一動を諮問する必要があろうか。ただ当今、汝が専断すべきは、必ず小事に限られる。また、この軽重を量ることは、必ずしも完全に適切とは限らない。彼の疑念と怨みは、あるいはこれに起因しているのかもしれない」。

原文義恭性甚狷隘,年又漸長,欲專政事,每為湛所裁,主佐之間,嫌隙遂構。太祖聞之,密遣使詰讓義恭,并使深加諧緝。義恭具陳湛無居下之禮,又自以年長,未得行意,雖奉詔旨,頗有怨言。上友于素篤,欲加酬順,乃詔之曰:「事至於此,甚為可歎。當今乏才,委授已爾,宜盡相彌縫,取其可取,棄其可棄。汝疏云『泯然無際』,如此甚佳。彼多猜,不可令萬一覺也。汝年已長,漸更事物,且羣情矚望,不以幼昧相期,何由故如十歲時,動止諮問。但當今所專,必是小事耳。亦恐量此輕重,未必盡得,彼之疑怨,兼或由此邪。」

先に、王華が亡くなり、王曇首もまた死去した。領軍将軍殷景仁は、時の賢人が次々と亡くなるのを見て、太祖に劉湛を召し出すよう上奏した。元嘉八年(431年)、太子詹事に召され、給事中きゅうじちゅう・本州大中正を加えられ、景仁とともに任用され厚遇された。劉湛は常に言った。「今世の宰相になるのは何の難事か。これはちょうど我が南陽郡の漢代の功曹に相当するだけだ」。翌年、景仁が尚書僕射しょうしょぼくやに転じ、選事を管轠し護軍将軍を兼任すると、劉湛が代わって領軍将軍となった。十二年(435年)、また詹事を兼任した。劉湛はもともと景仁と親しく、また彼が召還を建議したので、非常に感謝し喜んだ。ともに時の厚遇を受けるようになると、猜疑のわだかまりが次第に生じ、景仁が朝廷内の職務を専管するのを、自分を疎外していると思った。当時、彭城ほうじょう王義康が朝権を専断し、劉湛はかつて彼の上席の補佐官であったので、旧情によって心から結びつき、宰相(義康)の力によって主君(文帝)の心を翻し、景仁を排斥して失脚させ、当時の政務を独占しようとした。義康はたびたび太祖に劉湛を推挙したが、その事は実現しなかった。義康の幕僚や劉湛に付き従う者たちはひそかに申し合わせ、殷氏(景仁)の門を訪れる者はいなかった。劉湛の与党の劉敬文の父の成は、その機微を悟らず、景仁を訪ねて郡守を求めた。敬文は急いで劉湛の許に行き謝罪して言った。「老父が耄碌して、殷鉄(景仁のあだ名)に禄を求めて参りました。敬文が愚かで浅はかであるため、上(劉湛)の養育の恩に背き、一族慚愧し恐れ、身の置き所がありません」。敬文の奸佞と諂いは、このように恥知らずなものであった。

原文先是,王華既亡,曇首又卒,領軍將軍殷景仁以時賢零落,白太祖徵湛。八年,召為太子詹事,加給事中、本州大中正,與景仁並被任遇。湛常云:「今世宰相何難,此政可當我南陽郡漢世功曹耳。」明年,景仁轉尚書僕射,領選護軍將軍,湛代為領軍將軍。十二年,又領詹事。湛與景仁素欵,又以其建議徵之,甚相感說。及俱被時遇,猜隙漸生,以景仁專管內任,謂為間己。時彭城王義康專秉朝權,而湛昔為上佐,遂以舊情委心自結,欲因宰相之力以回主心,傾黜景仁,獨當時務。義康屢構之於太祖,其事不行。義康僚屬及湛諸附隸潛相約勒,無敢歷殷氏門者。湛黨劉敬文父成未悟其機,詣景仁求郡,敬文遽往謝湛曰:「老父悖耄,遂就殷鐵干祿。由敬文闇淺,上負生成,合門慚懼,無地自處。」敬文之姦諂無愧如此。

義康が権勢を擅にして朝廷を専断し、その威勢は朝廷内外を圧倒した。劉湛はますます彼を推し崇め、もはや人臣の礼を失い、上(文帝)は次第に快く思わなくなった。劉湛が初めて朝廷に入った時は、任用が非常に重く、日夜引見され接遇され、恩寵と礼遇は密接であった。治道を論じるのが巧みで、前代の故事にも詳しく、道理を述べて秩序立てるので、聞く者は疲れを忘れた。雲龍門に入るたびに、御者は車を解き、側近や儀仗兵は随意に分散し、夕方にならなければ出てこないのが常であった。晩年に至ると、義康を煽り立て、朝廷を凌駕し圧迫した。上(文帝)の心中ではすでに離反していたが、接遇は変わらなかった。上はかつて親しい者に言った。「劉班が初めて西から還ってきた時、私が彼と話すと、常に日の早晚を見て、彼が去る時を気にしていた。近頃入ってくると、私もまた日の早晚を見て、彼が去らないことを気にしている」。劉湛の幼名は班虎なので、班と言ったのである。丹陽尹に転じ、金紫光禄大夫に進み、散騎常侍さんきじょうじを加えられ、詹事はもとのままだった。

原文義康擅勢專朝,威傾內外,湛愈推崇之,無復人臣之禮,上稍不能平。湛初入朝,委任甚重,日夕引接,恩禮綢繆。善論治道,并諳前世故事,敍致銓理,聽者忘疲。每入雲龍門,御者便解駕,左右及羽儀隨意分散,不夕不出,以此為常。及至晚節,驅煽義康,凌轢朝廷,上意雖內離,而接遇不改。上嘗謂所親曰:「劉班初自西還,吾與語,常看日早晚,慮其當去。比入,吾亦看日早晚,慮其不去。」湛小字班虎,故云班也。遷丹陽尹,金紫光祿大夫,加散騎常侍,詹事如故。

十七年(440年)、実母が亡くなった。当時、上(文帝)と義康の関係はすでに乖離し、禍難が結ばれようとしていた。劉湛もまた、もはや全き地盤がないことを知っていた。喪に服することになると、親しい者に言った。「今年こそ必ず敗れるだろう。普段は口先で争っているからこそ、延ばし延ばしにできたのだ。今や困窮し苦しみ、もはやこの望みはない。禍が至れば、どうして長く続くことができようか」。

原文十七年,所生母亡。時上與義康形迹既乖,釁難將結,湛亦知無復全地。及至丁艱,謂所親曰:「今年必敗。常日正賴口舌爭之,故得推遷耳。今既窮毒,無復此望,禍至其能久乎!」

十月、詔書を下して言う。「劉湛は門地の恩恵を頼みとし、若くして栄位にありつき、かつて歴陽を補佐した際、奸悪な行いは早くから顕著であった。謝晦の難の時、密かに使者を送って告げさせ、その心を推し量れば、早くから誅殺すべきであった。朕が罪を捨て瑕を略したのは、後日の効用を収めんがためであり、寵愛と官位を優遇して与え、同輩を越えるほどであった。しかし彼は凶暴で猜疑心が強く、剛愎で飽くことを知らず、君主をないがしろにする心は、機会あるごとに発露した。ついには徒党を組み群れを連ね、同異を扇動し、下に附き上を蔽い、威権を専らに弄び、子を推挙し親族を立て、互いに表裏をなし、邪に附く者は九族に栄光を耀かせ、道理を執る者は必ず陥れられる。その奸悪を顧みれば、日時は既に久しく、なおも寛大に受け入れ養い、あるいは悔い改めることを望んでいた。近頃以来、傲慢で放縦はますます甚だしく、道理に悖る言葉と怨みの表情は、顧みる所なく、陰謀と密計は、両宮を睨みつけていた。ただ国都に暴かれただけでなく、固より四海にまで達していた。近年、七曜が軌道を外れ、地震と日食が災いを示し、陽を侵す徴候は、事象が幽顕に符合する。搢紳は憤りを抱き、義士は嘆息した。昔、斉・魯が綱紀を失い、禍いは邦国を傾けた;昭帝・宣帝が電光のように断行し、漢の国祚はようやく延びた。直ちに廷尉に引き渡し、刑典を厳粛に明らかにせよ。」獄中で誅殺され、時に四十九歳。

原文十月,詔曰:「劉湛階藉門蔭,少叨榮位,往佐歷陽,姦詖夙著。謝晦之難,潛使密告,求心即事,久宜誅屏。朕所以棄罪略瑕,庶收後効,寵秩優忝,踰越倫匹。而凶忍忌克,剛愎靡厭,無君之心,觸遇斯發。遂乃合黨連羣,構扇同異,附下蔽上,專弄威權,薦子樹親,互為表裏,邪附者榮曜九族,秉理者推陷必至。旋觀姦慝,為日已久,猶欲弘納遵養,冀或悛革。自邇以來,凌縱滋甚,悖言懟容,罔所顧忌,陰謀潛計,䁹睨兩宮。豈唯彰暴國都,固亦達于四海。比年七曜違度,震蝕表災,侵陽之徵,事符幽顯。搢紳含憤,義夫興歎。昔齊、魯不綱,禍傾邦國;昭、宣電斷,漢祚方延。便收付廷尉,肅明刑典。」於獄伏誅,時年四十九。

子の黯は、大将軍従事中郎であった。黯と二人の弟の亮・儼はともに誅殺に連座した。湛の弟の素は、黄門侍郎で、広州に流された。湛が最初に捕らえられた時、嘆いて言った。「これが乱というものか。」さらにまた言った。「私がいなければ乱が起こるとは言わないが、私を殺すことは自ら法を乱すことだ。」獄に入って素に会い、言った。「お前までも及んだのか?悪事を勧めれば、悪は為すべからず;善事を勧めれば、正に今日の結果を見る。どうしたものか!」湛は女児が生まれるとすぐに殺したため、士人の間で怪しまれた。

原文子黯,大將軍從事中郎。黯及二弟亮、儼並從誅。湛弟素,黃門侍郎,徙廣州。湛初被收,歎曰:「便是亂邪。」仍又曰:「不言無我應亂,殺我自是亂法耳。」入獄見素,曰:「乃復及汝邪?相勸為惡,惡不可為;相勸為善,正見今日。如何!」湛生女輒殺之,為士流所怪。

范曄は字を蔚宗といい、順陽の人で、車騎将軍范泰の末子である。母が厠で彼を産んだ時、額が塼(煉瓦)で傷ついたため、塼を小字とした。従伯の弘之の後を継ぎ、武興県五等侯の爵位を襲封した。

原文范曄字蔚宗,順陽人,車騎將軍泰少子也。母如厠產之,額為塼所傷,故以塼為小字。出繼從伯弘之,襲封武興縣五等侯。

若くして学問を好み、経書史書に広く通じ、文章を巧みに作り、隷書を能くし、音律に通暁した。十七歳の時、州から主簿に辟召されたが、就任しなかった。高祖の相国掾、彭城王劉義康の冠軍参軍となり、府に従って右軍参軍に転じ、入朝して尚書外兵郎を補し、出て荊州別駕従事史となった。まもなく召されて秘書丞となり、父の喪で職を去った。喪が明けると、征南大将軍檀道済の司馬となり、新蔡太守を兼ねた。道済が北征する時、曄は行くのを恐れ、脚の病気を理由に辞退したが、上(文帝)は許さず、水路によって兵器や部隊を統率して運ばせた。軍が帰還すると、司徒しと従事中郎となった。しばらくして、尚書吏部郎に遷った。

原文少好學,博涉經史,善為文章,能隸書,曉音律。年十七,州辟主簿,不就。高祖相國掾,彭城王義康冠軍參軍,隨府轉右軍參軍,入補尚書外兵郎,出為荊州別駕從事史。尋召為祕書丞,父憂去職。服終,為征南大將軍檀道濟司馬,領新蔡太守。道濟北征,曄憚行,辭以脚疾,上不許,使由水道統載器仗部伍。軍還,為司徒從事中郎。頃之,遷尚書吏部郎。

元嘉九年の冬、彭城太妃が薨去し、葬送を前に、祖奠の夜、僚友や旧知が皆東府に集まった。曄の弟の広淵は、当時司徒祭酒で、その日は当直であった。曄は司徒左西属の王深と共に広淵の許に宿泊し、夜中に酒を酣に飲み、北窓を開けて挽歌を聴いて楽しんだ。義康は大いに怒り、曄を左遷して宣城太守とした。志を得ず、そこで諸家の後漢書を削って一家の著作とした。郡に数年いて、長沙王劉義欣の鎮軍長史に遷り、寧朔将軍の号を加えられた。兄の暠は宜都太守で、嫡母は暠に従って任地にいた。十六年、母が亡くなったが、病気と偽って知らせ、曄はすぐに駆けつけず、出発する時もまた妓妾を連れて従えたため、御史中丞劉損に弾劾されたが、太祖(文帝)はその才能を愛し、罪に問わなかった。喪が明けると、始興王劉濬の後軍長史となり、南下邳太守を兼ねた。濬が揚州刺史となった時、まだ政事に親しまず、全てを曄に委任した。まもなく左衛将軍・太子詹事に遷った。

原文元嘉九年冬,彭城太妃薨,將葬,祖夕,僚故並集東府。曄弟廣淵,時為司徒祭酒,其日在直。曄與司徒左西屬王深宿廣淵許,夜中酣飲,開北牖聽挽歌為樂。義康大怒,左遷曄宣城太守。不得志,乃刪眾家後漢書為一家之作。在郡數年,遷長沙王義欣鎮軍長史,加寧朔將軍。兄暠為宜都太守,嫡母隨暠在官。十六年,母亡,報之以疾,曄不時奔赴,及行,又攜妓妾自隨,為御史中丞劉損所奏,太祖愛其才,不罪也。服闋,為始興王濬後軍長史,領南下邳太守。及濬為揚州,未親政事,悉以委曄。尋遷左衞將軍、太子詹事。

曄の身長は七尺に満たず、太っていて黒く、眉と鬚が禿げていた。琵琶を弾くのが巧みで、新しい曲を作ることができ、上(文帝)がそれを聞きたいと思い、たびたびほのめかしたが、曄は知らないふりをして、ついに上に弾いて聞かせようとしなかった。上がかつて宴飲して楽しんでいる時、曄に言った。「私が歌うから、卿が弾いてくれ。」曄はようやく命に従った。上の歌が終わると、曄も弦を止めた。

原文曄長不滿七尺,肥黑,禿眉鬚。善彈琵琶,能為新聲,上欲聞之,屢諷以微旨,曄偽若不曉,終不肯為上彈。上嘗宴飲歡適,謂曄曰:「我欲歌,卿可彈。」曄乃奉旨。上歌既畢,曄亦止弦。

初め、魯国の孔熙先は博学で縦横の才志を持ち、文史・星象・算術に至るまで、兼ねて能くしないものはなかった。員外散騎侍郎であったが、当時に知られず、長く昇進しなかった。かつて熙先の父の孔默之が広州刺史の時、賄賂の罪で廷尉に下され、大将軍彭城王劉義康が庇ったため、免れることができた。義康が廃されると、熙先は密かに報恩を思い、朝廷の大臣を誘おうとしたが、誰が動かせるか分からず、曄が不満を抱いていると見て、彼を引き入れようとした。しかし熙先はもともと曄に重んじられておらず、進言する機会がなかった。曄の甥の謝綜は、もともと曄に知られており、熙先はかつて面識があったので、身を屈めて綜に仕え、厚く交わった。熙先は嶺南で残した財産を頼りに、家は非常に豊かで、初め綜の諸弟と共に博戯をし、わざと下手なふりをして、物を彼らに負かせた。綜ら若者たちは、たびたび物を得たので、日夜往来し、情意は次第に親密になった。綜は熙先を引き合わせて曄と博戯をさせ、曄もまた勝負をしたが、熙先はわざと敵わないふりをして、前後して曄に多くの物を負かせた。曄はその財宝を利するとともに、その文芸も愛した。熙先はもともと弁舌に優れ、真心を尽くして仕えたので、曄はついに彼と並々ならぬ関係となり、莫逆の交わりを結んだ。初めはほのめかして曄を動かそうとしたが、曄は応じなかったので、熙先は極力言葉を尽くして譬え説いた。曄はもともと閨門内の評判(母を軽んじたこと)があり、朝野に知られていたため、門地は華やかでも、国家(皇室)は婚姻を結ぼうとしなかった。熙先はこれによって彼を刺激して言った。「丈人(曄)が朝廷の待遇が厚いと思われるなら、なぜ丈人と婚姻を結ばないのか。それは門戸が足りないからか?人が犬や豚のように扱っているのに、丈人はそのために死のうとされるのは、惑わしいことではないか。」曄は黙って答えず、その意志は固まった。

原文初,魯國孔熙先博學有縱橫才志,文史星算,無不兼善。為員外散騎侍郎,不為時所知,久不得調。初熙先父默之為廣州刺史,以贓貨得罪下廷尉,大將軍彭城王義康保持之,故得免。及義康被黜,熙先密懷報效,欲要朝廷大臣,未知誰可動者,以曄意志不滿,欲引之。而熙先素不為曄所重,無因進說。曄外甥謝綜,雅為曄所知,熙先嘗經相識,乃傾身事綜,與之結厚。熙先藉嶺南遺財,家甚富足,始與綜諸弟共博,故為拙行,以物輸之。綜等諸年少,既屢得物,遂日夕往來,情意稍款。綜乃引熙先與曄為數,曄又與戲,熙先故為不敵,前後輸曄物甚多。曄既利其財寶,又愛其文藝。熙先素有詞辯,盡心事之,曄遂相與異常,申莫逆之好。始以微言動曄,曄不回,熙先乃極辭譬說。曄素有閨庭論議,朝野所知,故門冑雖華,而國家不與姻娶。熙先因以此激之曰:「丈人若謂朝廷相待厚者,何故不與丈人婚,為是門戶不得邪?人作犬豕相遇,而丈人欲為之死,不亦惑乎?」曄默然不答,其意乃定。

当時、曄と沈演之はともに上(文帝)に知遇を得て、召し出される時は多く一緒であった。曄が先に到着すると、必ず演之が一緒になるのを待って入り、演之が先に到着すると、しばしば独りで引見され、曄はまたこれによって怨んだ。曄はたびたび義康の府の属官を務め、もともと厚く遇されていた。宣城太守への任命後、両者の関係は乖離した。綜は義康の大将軍記室参軍で、豫章に従って鎮守した。綜が帰還し、曄に義康の意向を伝え、最近のわだかまりを解き、以前のよしみを回復しようとした。曄は既に逆謀を抱いており、時の意向を探ろうとして、上に言った。「臣が歴史上の前漢・後漢の故事を観ますに、諸侯王が妖術や呪詛で災いを喜ぶような政治を行えば、すぐに大逆の罰を加えています。ましてや義康の奸心と罪の跡は、遠近に顕著でありながら、今に至るまで無事であるのは、臣はひそかに惑います。しかも大きな禍根が常に存すれば、乱の段階を重くするでしょう。骨肉の間柄は、人が言い難いところです。臣は恩を受けること深重であるため、敢えて犯して披露いたします。」上は受け入れなかった。

原文時曄與沈演之並為上所知待,每被見多同。曄若先至。必待演之俱入,演之先至,嘗獨被引,曄又以此為怨。曄累經義康府佐,見待素厚。及宣城之授,意好乖離。綜為義康大將軍記室參軍,隨鎮豫章。綜還,申義康意於曄,求解晚隙,復敦往好。曄既有逆謀,欲探時旨,乃言於上曰:「臣歷觀前史二漢故事,諸蕃王政以訞詛幸災,便正大逆之罰。況義康姦心釁跡,彰著遐邇,而至今無恙,臣竊惑焉。且大梗常存,將重階亂,骨肉之際,人所難言。臣受恩深重,故冒犯披露。」上不納。

熙先はもともと天文に詳しく、言った。「太祖(文帝)は必ずや非道なことで崩御され、骨肉の争いによるでしょう。江州から天子が出るはずです。」義康がそれに当たると考えた。綜の父の謝述も義康に遇されており、綜の弟の謝約はまた義康の女婿であったため、太祖は綜に命じて南上に従わせたが、既に熙先に勧め説かれており、報いようとする心もあった。広州人の周霊甫は私兵部曲ぶきょくを持っており、熙先は六十万銭を与えて、広州で兵を集めさせた。霊甫は一度行ったきり返らなかった。大将軍府の史である仲承祖は、義康が旧く信頼していた者で、たびたび命を受けて都に下り、また密かに腹心を結び、異志を企てていた。熙先に誠意があると聞き、密かに結び付いた。丹陽尹の徐湛之は、もともと義康に愛され、舅甥の間柄ながら、子弟を越える恩寵があり、承祖はこれによって湛之に接近し、密計を告げた。承祖が南下し、蕭思話と曄に義康の意向を伝え、言った。「本来は蕭(思話)と婚姻を結びたかったが、最初の意向が果たせなかったことを残念に思う。范(曄)とはもともと情誼が薄くはなかったが、途中で疎遠になったのは、傍らの者のせいである。」

原文熙先素善天文,云:「太祖必以非道晏駕,當由骨肉相殘。江州應出天子。」以為義康當之。綜父述亦為義康所遇,綜弟約又是義康女夫,故太祖使綜隨從南上,既為熙先所奬說,亦有酬報之心。廣州人周靈甫有家兵部曲,熙先以六十萬錢與之,使於廣州合兵。靈甫一去不反。大將軍府史仲承祖,義康舊所信念,屢銜命下都,亦潛結腹心,規有異志。聞熙先有誠,密相結納。丹陽尹徐湛之,素為義康所愛,雖為舅甥,恩過子弟,承祖因此結事湛之,告以密計。承祖南下,申義康意於蕭思話及曄,云:「本欲與蕭結婚,恨始意不果。與范本情不薄,中間相失,傍人為之耳。」

法略という僧侶がおり、以前は劉義康に供養され、ある程度知遇を得ていた。また王國寺の法静という尼僧も劉義康の家に出入りしており、二人とも旧恩に感じ、救い出そうと計画し、ともに孔熙先と往来していた。孔熙先は法略に還俗させ、本来の姓である孫に戻し、名を景玄と改めさせ、臧質の寧遠参軍とした。孔熙先は治療が上手で、脈診もできた。法静尼の妹の夫である許耀は、台城で隊を率い、殿省の宿衛にあたっていた。かつて病気になった時、法静尼を通じて孔熙先に治療を求め、一服の湯薬を合わせてもらうと、許耀の病気はすぐに良くなった。許耀は自ら礼を述べに行き、それによって交流が生まれた。孔熙先は許耀が胆力があり役に立つと考え、深く交わりを結び、謀反の計画を告げると、許耀は内応することを承諾した。豫章の胡遵世は胡藩の子で、法略と非常に親しく、密かに呼応していた。法静尼が南へ行く時、孔熙先は婢の採藻を随行させ、手紙を託して図讖としんについて述べさせた。法静が戻ると、劉義康は孔熙先に銅の匕首、銅の鑷子、袍の生地、碁盤箱などを贈った。孔熙先は事が漏れるのを恐れ、採藻に毒を飲ませて殺した。徐湛之はまた范曄らに言った。「臧質は私と並々ならぬ関係にあり、年内に帰還する予定だ。すでに臧質に知らせ、門生や義故を全て連れてくるよう伝えてある。彼もこの趣旨を理解するはずだから、数百の精兵を得られるだろう。臧質は蕭思話と親密な間柄なので、彼を頼りにすべきだ。二人とも大将軍(劉義康)の恩顧を受けており、異を唱えることはないだろう。蕭思話の三州の義故の勢力も、臧質に劣らない。郡内の文武官や、各所の偵察・巡邏兵を合わせても、千人を下らないだろう。兵力不足を心配する必要はなく、ただ機会を逃さないことだ」。そこでおおよその役職を定め、徐湛之を撫軍将軍・揚州刺史、范曄を中軍将軍・南徐州刺史、孔熙先を左衛将軍とし、その他にも選任を擬定した。平素から仲が悪かった者や劉義康に従わない者については、別の名簿を作り、皆を死刑の対象とした。

原文有法略道人,先為義康所供養,粗被知待,又有王國寺法靜尼亦出入義康家內,皆感激舊恩,規相拯拔,並與熙先往來。使法略罷道,本姓孫,改名景玄,以為臧質寧遠參軍。熙先善於治病,兼能診脉。法靜尼妹夫許耀,領隊在臺,宿衞殿省。嘗有病,因法靜尼就熙先乞治,為合湯一劑,耀疾即損。耀自往酬謝,因成周旋。熙先以耀膽幹可施,深相待結,因告逆謀,耀許為內應。豫章胡遵世,藩之子也,與法略甚款,亦密相酬和。法靜尼南上,熙先遣婢採藻隨之,付以牋書,陳說圖讖。法靜還,義康餉熙先銅匕、銅鑷、袍段、棊奩等物。熙先慮事泄,酖採藻殺之。湛之又謂曄等:「臧質見與異常,歲內當還,已報質,悉攜門生義故,其亦當解人此旨,故應得健兒數百。質與蕭思話款密,當仗要之,二人並受大將軍眷遇,必無異同。思話三州義故眾力,亦不減質。郡中文武,及合諸處偵邏,亦當不減千人。不憂兵力不足,但當勿失機耳。」乃略相署置,湛之為撫軍將軍、揚州刺史,曄中軍將軍、南徐州刺史,熙先左衞將軍,其餘皆有選擬。凡素所不善及不附義康者,又有別簿,並入死目。

孔熙先は弟の孔休先に先に檄文を作らせた。その文は次の通りである。

原文熙先使弟休先先為檄文曰:

吉凶は互いに乗じ、道は常に安泰ではなく、狂った悪人がほしいままに逆心を抱けば、明哲な者はこれを誅戮する。ゆえに小白(桓公)には天下を匡正する功績があり、重耳(文公)には王室を翼賛する徳があった。景平年間以来、皇室には多くの変事があり、大行皇帝(文帝)は天が生んだ英姿で、聡明叡哲であり、藩国から抜擢され、帝位を継いで天下を統治し、万機を憂い労し、庶務に心を砕かれた。それゆえ国内は安楽で、四海は同じ風俗となった。しかしここ数年、奸臣が政を乱し、刑罰は道理に外れ、陰陽は調和を失い、それによって禍が宮廷内部から起こり、危険と災いが集まった。賊臣趙伯符は積もった怨みと毒を含み、ついに奸凶をほしいままにし、兵を動かして皇帝の車駕を犯し、禍は皇太子に及び、不適格者を立てて、皇室の基盤を傾け墜とそうとした。その罪は寒浞や𤡬(羿の臣)の百倍、王莽や桓玄の十倍であり、天地開闢以来、このような例は聞いたことがない。天下の民は胸を打ち、華夷は血の涙を流し、皆が身を亡くす覚悟を抱き、共に体を粉にする報復を考えている。

原文夫休否相乘,道無恒泰,狂狡肆逆,明哲是殛。故小白有一匡之勳,重耳有翼戴之德。自景平肇始,皇室多故,大行皇帝天誕英姿,聰明叡哲,拔自藩國,嗣位統天,憂勞萬機,垂心庶務,是以邦內安逸,四海同風。而比年以來,姦豎亂政,刑罰乖淫,陰陽違舛,致使釁起蕭牆,危禍萃集。賊臣趙伯符積怨含毒,遂縱姦凶,肆兵犯蹕,禍流儲宰,崇樹非類,傾墜皇基。罪百浞、𤡬,過十玄、莽,開闢以來,未聞斯比。率土叩心,華夷泣血,咸懷亡身之誠,同思糜軀之報。

徐湛之、范曄と行中領軍蕭思話、行護軍将軍臧質、行左衛将軍孔熙先、建威将軍孔休先は、忠誠は白日に貫き、誠意は幽顕に著しく、義に心を痛め、事に目を傷め、命を投げ出して戈を奮い、万死も顧みず、即日に趙伯符の首とその党与を斬った。豺狼が誅戮されたとはいえ、王道は新たになるが、天下には主がなく、民衆は拠り所がない。彭城王(劉義康)は高祖(劉裕)の御子であり、御自身に聖明の徳を備え、徳は天地に届き、勲功は天下に満ちている。世の道が険しく、南方に用いられず、龍が潜み鳳が棲むこと、すでに六年になる。蒼生はその徳を飢え、億兆の民はその教化を渇望しており、ただ東方征伐に鴟鴞の歌があっただけでなく、陝西には剪らずに残す思いがあるのだ。霊祇は吉祥の兆しを示し、讖記は帝王の符瑞を表し、上は天の心に答え、下は民の望みに叶い、北辰の位に正しく就くのは、王以外に誰があろうか。

原文湛之、曄與行中領軍蕭思話、行護軍將軍臧質、行左衞將軍孔熙先、建威將軍孔休先,忠貫白日,誠著幽顯,義痛其心,事傷其目,投命奮戈,萬殞莫顧,即日斬伯符首,及其黨與。雖犲狼即戮,王道惟新,而普天無主,羣萌莫係。彭城王體自高祖,聖明在躬,德格天地,勳溢區宇,世路威夷,勿用南服,龍潛鳳栖,于茲六稔,蒼生飢德,億兆渴化,豈唯東征有鴟鴞之歌,陝西有勿翦之思哉。靈祇告徵祥之應,讖記表帝者之符,上答天心,下愜民望,正位辰極,非王而誰。

今、行護軍将軍臧質らを遣わし、皇帝の璽綬じじゅを携えさせ、星のごとく馳せて奉迎に赴かせる。百官は礼を整え、続々と進み出て、ともに諸将帥に命じ、鎮戍を常の如く守らせる。もし正義の徒を妨げる者がいれば、犯す者は容赦しない。往年、使者が戻った時、徐湛之は陛下の手詔を賜り、禍乱を予め戒め、その萌芽を見て取った。朝廷の賢人に示し、共に危難を救うよう命じられたが、謀事を決断せず、後の機会を失い、ついに聖躬が無残な災いに遭い、大変事が突然起こった。哀しみと無念の思いで心は崩れ裂け、胸を撫でて嗚咽し、身を置くべき地を知らない。ただ病弱な身を督励し、死して後やむのみである。

原文今遣行護軍將軍臧質等,齎皇帝璽綬,星馳奉迎。百官備禮,駱驛繼進,並命羣帥,鎮戍有常。若干撓義徒,有犯無貸。昔年使反,湛之奉賜手勑,逆誡禍亂,預覩斯萌,令宣示朝賢,共拯危溺,無斷謀事,失於後機,遂使聖躬濫酷,大變奄集,哀恨崩裂,撫心摧哽,不知何地,可以厝身。輒督厲尫頓,死而後已。

孔熙先は、大事をなすには劉義康の意向が必要だと考えた。そこで范曄が劉義康の名で徐湛之への書簡を作り、同党に示して言った。

原文熙先以既為大事,宜須義康意旨,曄乃作義康與湛之書,宣示同黨曰:

私は凡人で才能がなく、富貴の中で育ち、気ままに自分勝手に振る舞い、過ちがあっても聞き入れず、人との付き合いに一貫性がなく、喜怒が実情に合わず、それによって小人の怨みが多く、士人階級も心を寄せなかった。禍敗がすでに成った今も、まだ覚悟せず、退いてよく考えてみて、初めて自ら招いたものと知り、肌身に刻み骨に刻む思いで、どうして償えようか。しかし、心を尽くして主上に奉り、誠意が幽顕に通じ、真心を込めて謹慎し、及ばないことを恐れるのみで、寵愛を頼んで驕り高ぶるようなことは、決して故意に欺いたり偽ったりはしていない。どうして逆心を包み隠し、滅亡を招くようなことをしようか。それゆえ誠意を推して自ら信じ、異論を防ぐことをせず、率直に信じ、万物の議論を顧みなかったために、ついに讒言と巧みな言葉が密かに組み立てられ、多くの悪が集まることになった。甲(おそらく具体的人名の仮称)は奸険で利を好み、私の事を深く裏切った。乙は凶暴で愚かであり、恥ずべき者で、長い間無頼の徒を扇動した。丙、丁は走り回る小者で、ただへつらって出世することだけを知り、人の長短を探り求めて、共に虚説を作り上げ、ついに骨肉に禍いが及び、無辜の者が誅戮されるに至った。私の過ちと罪には、いったい何の証拠があったというのか。それなのに加えられた刑罰は、元凶と同じであり、和を傷つけ道理を曲げたことは、天地にまで通じるものがある。私は幽閉されて日々苦しみ、命は刻々と尽きようとしているが、義に感じる士からは、時々音信がある。天象や人事、および外間の事情を知るたびに、土崩瓦解は朝夕のうちに必ず起こると分かる。これは賢人たちの中から禍が起こり、国家にまで及んだのであり、朝夕憤り躍り上がり、心の中で激しく戦っている。朝廷の君子や、士人・庶民を問わず、義を懐き理を秉る者は、どうして時運の機会を認識せずに、座して洪水が横溢するのを待っていられようか。君側の悪を除くことは、ただ一代のことではなく、ましてこのような狂乱した罪深き輩は、古来なかったものであり、これを剪り戮することは、朽ちたものを摧くよりも易しい。私の意を多くの賢人に示し、もし心を一つにして奮い立ち、逆党を族滅させることができれば、創業と同じ功績となり、宋室を再建することにならないだろうか。ただし、兵は凶事であり戦いは危険で、あるいは侵害や濫行を招くかもしれない。もし一毫でも順を犯す者がいれば、九族にまで誅戮が及ぶ。処分の要は、多くの賢人に委ね、皆が謹んで朝廷に奉じ、行動や停止は必ず報告するように。往日の恨みや怨みは、一時に解き放たれ、その後、私は北闕で謝罪し、有司の手で誅戮されるであろう。社稷が安泰であれば、目を閉じて恨みはない。努めよ、努めよ。

原文吾凡人短才,生長富貴,任情用己,有過不聞,與物無恒,喜怒違實,致使小人多怨,士類不歸。禍敗已成,猶不覺悟,退加尋省,方知自招,刻肌刻骨,何所復補。然至於盡心奉上,誠貫幽顯,拳拳謹慎,惟恐不及,乃可恃寵驕盈,實不敢故為欺罔也。豈苞藏逆心,以招灰滅,所以推誠自信,不復防護異同,率意信心,不顧萬物議論,遂致讒巧潛構,眾惡歸集。甲姦險好利,負吾事深;乙凶愚不齒,扇長無賴;丙、丁趨走小子,唯知諂進,伺求長短,共造虛說,致令禍陷骨肉,誅戮無辜。凡在過釁,竟有何徵,而刑罰所加,同之元惡,傷和枉理,感徹天地。吾雖幽逼日苦,命在漏刻,義慨之士,時有音信。每知天文人事,及外間物情,土崩瓦解,必在朝夕。是為釁起羣賢,濫延國家,夙夜憤踊,心腹交戰。朝之君子及士庶白黑懷義秉理者,寧可不識時運之會,而坐待橫流邪。除君側之惡,非唯一代,況此等狂亂罪骩,終古所無,加之翦戮,易於摧朽邪。可以吾意宣示眾賢,若能同心奮發,族裂逆黨,豈非功均創業,重造宋室乎。但兵凶戰危,或致侵濫,若有一豪犯順,誅及九族。處分之要,委之羣賢,皆當謹奉朝廷,動止聞啟。往日嫌怨,一時豁然,然後吾當謝罪北闕,就戮有司。苟安社稷,暝目無恨。勉之勉之。

二十二年九月、征北将軍衡陽王劉義季と右将軍南平王劉鑠が任地に出鎮する際、皇帝は武帳岡で送別の宴を催した。范曄らはその日に乱を起こすことを計画していたが、食い違いが生じて実行できなかった。十一月、徐湛之が上表して言った。「臣と范曄は元来旧知の仲ではなく、中途で門下省に仕えることになり、彼と隣の官省にいたため、彼がたびたび訪ねてきたので、次第に交際するようになりました。近年、彼の様子は変わってきて、危険で猜疑心に満ちた動きを見せ、富貴への執着が深く、自らの待遇がまだ高くないと思い、遂に怨望を抱くようになりました。朝廷の士人を攻撃し、聖なる時代を誹謗するだけでなく、上は朝廷を論じ、下は藩王や補佐官にまで及び、同調者と異論者を煽り立て、口を極めて好き勝手に言いふらしました。このようなことは、既に上申した文書に詳しく記してあります。近ごろ員外散騎侍郎の孔熙先が突然、大将軍府の吏である仲承祖に、范曄と謝綜らの意向を伝えさせ、不満分子を糾合して何かを企てようとしています。臣が昔、劉義康に目をかけられたこと、また昨年、小人物どもが臣について根拠のない噂を流したため、臣が必ず嫌疑を恐れているだろうと思い、深く勧誘してきました。さらに、人心は乱を好むので機会を逃すな、讖緯や天文にはいずれも兆候があると言いました。范曄はすぐに自ら来て、これらを繰り返し述べ、臣の議論が次第に悪くなり、身の安全が難しくなっているとも言いました。臣は直ちにこれを上奏して聞かせ、詔により彼らと応対して引き出し、その実情を究明するよう命じられました。そこで、檄文、人事選任に関する文書、および共謀者の名簿、自筆の文書を全て提出し、謹んで封をして上呈いたします。その凶悪で道理に背くこと、古今を通じて稀に見るものです。臣が交友の士を見る目が暗かったため、この逆謀を知り、上奏するに臨んで震え上がり、慌てふためいてどうしてよいかわかりません。」詔が下された。「湛之の上表はこのようなことでは、まことに驚き嘆かわしい。范曄は平素より品行に欠け、若い頃から過失があったが、才能と技芸が役に立つと思ったので、その長所を採用し、たびたび栄爵を加え、遂に清要な地位に参与させた。しかし、危険で利に走る性質は、谷や溝よりも甚だしく、恩遇を理解せず、なお怨みと憤りを抱いている。常に寛容に養い、悔い改めることを望んでいたが、悪党同士が助け合い、これほどまでに狂気に陥ったとは。直ちに逮捕し、法に基づいて徹底的に詮議せよ。」

原文二十二年九月,征北將軍衡陽王義季、右將軍南平王鑠出鎮,上於武帳岡祖道,曄等期以其日為亂,而差互不得發。於十一月,徐湛之上表曰:「臣與范曄,本無素舊,中忝門下,與之鄰省,屢來見就,故漸成周旋。比年以來,意態轉見,傾動險忌,富貴情深,自謂任遇未高,遂生怨望。非唯攻伐朝士,譏謗聖時,乃上議朝廷,下及藩輔,驅扇同異,恣口肆心,如此之事,已具上簡。近員外散騎侍郎孔熙先忽令大將軍府吏仲承祖騰曄及謝綜等意,欲收合不逞,規有所建。以臣昔蒙義康接盼,又去歲羣小為臣妄生風塵,謂必嫌懼,深見勸誘。兼云人情樂亂,機不可失,讖緯天文,並有徵驗。曄尋自來,復具陳此,并說臣論議轉惡,全身為難。即以啟聞,被敕使相酬引,究其情狀。於是悉出檄書、選事、及同惡人名、手墨翰跡,謹封上呈,凶悖之甚,古今罕比。由臣闇於交士,聞此逆謀,臨啟震惶,荒情無措。」詔曰:「湛之表如此,良可駭惋。曄素無行檢,少負瑕釁,但以才藝可施,故收其所長,頻加榮爵,遂參清顯。而險利之性,有過谿壑,不識恩遇,猶懷怨憤。每存容養,冀能悛革,不謂同惡相濟,狂悖至此。便可收掩,依法窮詰。」

その夜、まず范曄と朝臣を華林東閤に集め、客省に留め置いた。既に外では謝綜と孔熙先兄弟を逮捕しており、いずれも自白していた。この時、皇帝は延賢堂におり、使者を遣わして范曄に問うた。「卿は少しばかり文才があるので、任用し抜擢した。名声と爵位、期待と厚遇は、例に比べて少なくない。また、卿の欲望が満たされ難いことも知っていたが、それはただ道理に合わない怨望を抱き、徒党を扇動しているだけだと思っていた。どうして異謀など起こそうとするのか。」范曄は慌てて恐れ、すぐには自白しなかった。皇帝は重ねて問うた。「卿は謝綜、徐湛之、孔熙先と謀反を企てたが、彼らは既に自白し、まだ死んではいない。証拠は現存している。どうして事実に基づかないのか。」范曄は答えた。「今、宗室は磐石のごとく固く、藩王は各地に勢力を張っています。仮に幸運をあてこんでひそかに事を起こしても、方鎮の軍がすぐに討伐に来るでしょう。どうして誅滅されないことがありましょうか。また、臣の地位と任務は重すぎるほどで、一階級や二階級の昇進は自然と必ず来るものです。どうして滅族と引き換えにこれを得ようとするでしょうか。古人は言いました。『左手で天下の地図を握り、右手で自分の喉を刎ねるのは、愚かな者でもしない』と。臣は凡庸ではありますが、朝廷は臣が少しは及ぶところがあると認めておられます。道理に照らして考えれば、臣にこのようなことがあるはずがありません。」皇帝は再び問うた。「孔熙先は近く華林門外にいる。面と向かって弁明したいか?」范曄は言い詰まり、ようやく言った。「熙先がもし臣をでっち上げて引きずり込んだのなら、臣はどうすればよいのでしょう。」孔熙先は范曄が服罪しないと聞き、殿中將軍の沈邵之に向かって笑いながら言った。「あらゆる処分、符や檄文、書簡などは、すべて范曄が作成し、また決定したものです。どうして今になってこのようにごまかそうとするのでしょう。」皇帝は自筆の文書を見せると、范曄はようやく一部始終を詳しく述べ、言った。「久しく上奏しようと思っていましたが、逆謀がまだ顕著でなく、また事が消え去ることを望んでいたので、今日まで延ばしてきました。国に背いた罪は重く、誅殺されるのは当然です。」

原文其夜,先呼曄及朝臣集華林東閤,止於客省。先已於外收綜及熙先兄弟,並皆款服。于時上在延賢堂,遣使問曄曰:「以卿觕有文翰,故相任擢,名爵期懷,於例非少。亦知卿意難厭滿,正是無理怨望,驅扇朋黨而已,云何乃有異謀。」曄倉卒怖懼,不即首款。上重遣問曰:「卿與謝綜、徐湛之、孔熙先謀逆,並已答款,猶尚未死,徵據見存,何不依實。」曄對曰:「今宗室磐石,蕃嶽張跱,設使竊發僥倖,方鎮便來討伐,幾何而不誅夷。且臣位任過重,一階兩級,自然必至。如何以滅族易此。古人云:『左手據天下之圖,右手刎其喉,愚夫不為。』臣雖凡下,朝廷許其觕有所及,以理而察,臣不容有此。」上復遣問曰:「熙先近在華林門外,寧欲面辨之乎?」曄辭窮,乃曰:「熙先苟誣引臣,臣當如何。」熙先聞曄不服,笑謂殿中將軍沈邵之曰:「凡諸處分,符檄書疏,皆范曄所造及治定。云何於今方作如此抵蹋邪。」上示以墨迹,曄乃具陳本末,曰:「久欲上聞,逆謀未著,又冀其事消弭,故推遷至今。負國罪重,分甘誅戮。」

その夜、皇帝は尚書僕射の何尚之に行かせて様子を見させ、問わせた。「卿の事がどうしてここまでなったのか?」范曄は言った。「あなたはどう思いますか?」尚之は言った。「卿は自ら理解すべきだ。」范曄は言った。「外では庾尚書(庾炳之)が憎まれていると伝えられており、彼とは悪い関係ではないと計算していました。謀反の件は、孔熙先がこれを話したのを聞きましたが、彼を軽んじて子供扱いし、気に留めませんでした。今、突然責められて、初めて罪であると気づきました。あなたは道をもって世を補佐し、天下に冤罪がないようにしておられます。私めが死んだ後も、どうかこの心をお察しください。」翌日、衛兵が范曄を廷尉に引き渡し、獄に下した。彼は徐丹陽(徐湛之)の所在を尋ね、そこで初めて徐湛之に告発されたことを知った。孔熙先は風向きを見て自白し、その言葉の勢いは屈しなかった。皇帝はその才能を奇異に思い、人を遣わして慰労し、言った。「卿の才能をもって、集書省に滞在しているのでは、道理として異志を抱くのも当然だ。これは私が卿に負うところがある。」また、前吏部尚書の何尚之を詰問して責めた。「孔熙先を三十歳近くになって散騎郎にしたからこそ、賊を働かないでいられようか。」

原文其夜,上使尚書僕射何尚之視之,問曰:「卿事何得至此?」曄曰:「君謂是何?」尚之曰:「卿自應解。」曄曰:「外人傳庾尚書見憎,計與之無惡。謀逆之事,聞孔熙先說此,輕其小兒,不以經意。今忽受責,方覺為罪。君方以道佐世,使天下無寃。弟就死之後,猶望君照此心也。」明日,仗士送曄付廷尉,入獄,問徐丹陽所在,然後知為湛之所發。熙先望風吐款,辭氣不橈,上奇其才,遣人慰勞之曰:「以卿之才,而滯於集書省,理應有異志。此乃我負卿也。」又詰責前吏部尚書何尚之曰:「使孔熙先年將三十作散騎郎,那不作賊。」

孔熙先は獄中で上書した。「囚人は小人物で猖狂を極め、遠大な見識がなく、ただ一時の気持ちの小さな感懐に従い、逆順の大義を考慮しませんでした。第二弟の休先とともに率先して奸計をめぐらし、国の法を犯しました。細かく刻まれ、干し肉にされ、塩漬けにされても、過ちの償いにはなりません。陛下は大いなる明るさで包容し、度量は天と海を包み込み、わずかな節義を記録され、みだりに優れた取り調べの詔を下されました。恩恵は望み始めたものではなく、死後にも栄誉が残り、古来より、このような例はありません。盗馬の罪を許され、冠の紐を切られた臣(楚の荘王の故事)、璧を持って投書した士(戦国時の藺相如の故事)は、その行いは極めて卑しく、その過ちは極めて微細でしたが、世に二つとない恩恵を理解し、命を尽くして報いることで、遂に斉や魏で功を立て、秦や楚で勲を致しました。囚人は身は禍逆に陥り、名も節も失いましたが、若い頃から気概に富み、ひそかに烈士の遺風を慕っておりました。しかし、崖から落ちた木は、再び登ることは絶え、覆された盆の水は、汲み取る道理に反します。今まさに身は斧や鉞の餌食となり、後世に戒めを遺すところですが、もし魂に霊があるならば、結草して報いることに遠くはありません(春秋時の魏顆の故事)。しかし、わずかな丹精な思いは、平素の心に背かず、息のあるうちに、少しでも申し述べたいと貪っています。自ら考えるに、性来書物を愛し、数術を理解し、知恵の及ぶ範囲、力の及ぶ限り、あらゆるものを探り求め、その奥深い微妙なところまで究めました。過去を考察し論じれば、誠に多くが審査と検証に耐えます。謹んで知っているところを略述し、条項を列記して別状の通りとします。どうか遺棄なさらず、中書省に保管していただけませんか。もし囚人が死んだ後、追って保存されることがあれば、九泉の下で、少しでも過ちの責任を塞ぐことができるかもしれません。」彼が述べたことはすべて天文と占候に関するもので、讖書には骨肉が互いに傷つけ合う禍いがあると記されており、その言葉は痛切であった。

原文熙先於獄中上書曰:「囚小人猖狂,識無遠概,徒狥意氣之小感,不料逆順之大方。與第二弟休先首為姦謀,干犯國憲,䪠膾脯醢,無補尤戾。陛下大明含弘,量苞天海,錄其一介之節,猥垂優逮之詔。恩非望始,沒有遺榮,終古以來,未有斯比。夫盜馬絕纓之臣,懷璧投書之士,其行至賤,其過至微,由識不世之恩,以盡軀命之報,卒能立功齊、魏,致勳秦、楚。囚雖身陷禍逆,名節俱喪,然少也慷慨,竊慕烈士之遺風。但墜崖之木,事絕升躋,覆盆之水,理乖收汲。方當身膏鈇鉞,詒誡方來,若使魂而有靈,結草無遠。然區區丹抱,不負夙心,貪及視息,少得申暢。自惟性愛羣書,心解數術,智之所周,力之所至,莫不窮攬,究其幽微。考論既往,誠多審驗。謹略陳所知,條牒如故別狀,願且勿遺棄,存之中書。若囚死之後,或可追存,庶九泉之下,少塞釁責。」所陳並天文占候,讖上有骨肉相殘之禍,其言深切。

范曄は獄中で、謝綜や孔熙先とは別の場所にいたが、病気と称して取り調べ室への移動を求め、謝綜らに近づこうとした。聞き入れられ、謝綜らと確かに壁を隔てた隣り合う場所になった。遠くから謝綜に尋ねた。「逮捕された時、誰が告げ口したか疑ったか?」謝綜は言った。「わからない。」范曄は言った。「あれは徐童だ。」童は、徐湛之の幼名の仙童である。彼は獄中で詩を作った。「禍福は元より兆しなく、性命は帰する所に極まりあり。必ず至るは定まった前期、誰か能く一息を延ばさん。生にあること既に知る可く、来る縁は未だ識らず。好醜共に一丘、何ぞ異なる枉直を足らん。豈に論ぜん東陵の上、寧んぞ弁ぜん首山の側。嵇生の琴無しと雖も、庶幾くは同じく夏侯の色。言を寄す生存の子、此の路行きて復た即ち。」(禍福は元々兆候がなく、生命には終わりがある。必ず訪れるのは定められた時、誰が一息を延ばせようか。生きている間のことは既に知りうるが、来世の縁はまだわからない。善人も悪人も同じ墓穴、曲がったことと正しいことの違いなど問題にならない。どうして東陵(盗跖の墓)の上を論じ、どうして首陽山(伯夷・叔斉の墓)の側を弁別しようか。嵇康の琴はなくとも、せめて夏侯玄の顔色(刑死に臨んで泰然としていた)にはなりたい。生きている者たちに伝えよう、この道はやがて君たちも行くことになるのだと。)

原文曄在獄,與綜及熙先異處,乃稱疾求移考堂,欲近綜等。見聽,與綜等果得隔壁。遙問綜曰:「始被收時,疑誰所告?」綜云:「不知。」曄曰:「乃是徐童。」童,徐湛之小名仙童也。在獄為詩曰:「禍福本無兆,性命歸有極。必至定前期,誰能延一息。在生已可知,來緣㦎無識。好醜共一丘,何足異枉直。豈論東陵上,寧辨首山側。雖無嵇生琴,庶同夏侯色。寄言生存子,此路行復即。」

范曄は元々、獄に入ればすぐに死ぬと思っていたが、皇帝がその事件を徹底的に取り調べたため、ついに二十日を経過し、范曄は再び生きる望みを持った。獄吏が冗談めかして言った。「外では伝え聞くところによると、詹事(范曄)は長く拘禁されるかもしれないそうだ。」范曄はこれを聞いて驚き喜んだ。謝綜と孔熙先は笑って言った。「詹事は昔、共に事を論じた時、いつも袖をまくり上げて目を怒らせていた。また西池の射堂で、馬を躍らせて見回し、自ら一世の英雄と思い込んでいた。しかし今、ごたごたと騒ぎ、死を恐れてこの様子だ。仮に今、命を賜ったとしても、人臣として主君を謀った者が、どんな顔をして生きていられようか。」范曄は獄の看守の将に言った。「惜しいことだ、このような人を埋めてしまうとは。」将は言った。「不忠の者に、何の惜しむことがあろう。」范曄は言った。「大将の言う通りだ。」

原文曄本意謂入獄便死,而上窮治其獄,遂經二旬,曄更有生望。獄吏因戲之曰:「外傳詹事或當長繫。」曄聞之驚喜,綜、熙先笑之曰:「詹事嘗共疇昔事時,無不攘袂瞋目。及在西池射堂上,躍馬顧盼,自以為一世之雄。而今擾攘紛紜,畏死乃爾。設令今時賜以性命,人臣圖主,何顏可以生存。」曄謂衞獄將曰:「惜哉!薶如此人。」將曰:「不忠之人,亦何足惜。」曄曰:「大將言是也。」

市場へ出されることになり、范曄が一番前にいて、牢獄の門で謝綜を振り返って言った。「今日の順番は、官位によるのか?」謝綜は言った。「賊の首領が先だ。」道中で語り笑い、少しも止むことはなかった。市場に着き、范曄は謝綜に尋ねた。「時はもう来たか?」謝綜は言った。「もう長くはない。」范曄は食事を済ませ、また謝綜に強く勧めたが、謝綜は言った。「これは重病とは違う、どうして無理に飯を食えようか。」范曄の家族が皆市場にやって来た。刑の執行を監督する役人が尋ねた。「会いたいか?」范曄は謝綜に言った。「家族が来たので、幸いにも会えるが、少し別れを告げようか。」謝綜は言った。「別れを告げようが告げまいが、どうということもない。来れば必ず泣き叫ぶだけだ、ただ人の心を乱すだけだ。」范曄は言った。「泣き叫ぶことが人に関係あるか。さっき道端で親族や知人が見守っているのを見たが、会わないよりははるかにましだ。私はやはり会いたいと思う。」そこで呼び寄せた。范曄の妻が先に下りて息子をなだめ、振り返って范曄を罵った。「あなたは百歳の姑のためにもならず、天子の恩遇にも感謝せず、自分が死ぬだけでは罪を償えず、どうして無実の子孫まで殺すのか。」范曄は乾いた笑いをして、罪が至っただけだと言った。范曄の実母が泣いて言った。「主上はあなたをこの上なく思っておられるのに、あなたは恩に感じることもできず、また私が年老いていることも考えず、今日どうするつもりだ。」そして手で范曄の首筋や頬を打ったが、范曄の顔色は変わらなかった。妻が言った。「罪人です、姑様、お気になさらずに。」妹や妓妾が別れに来ると、范曄は悲しみの涙を流した。謝綜が言った。「舅上は夏侯(玄)の様子とはまったく違うな。」范曄は涙を収めて止めた。謝綜の母は子弟が自ら逆乱に陥ったので、一人だけ出て見ようとしなかった。范曄は謝綜に言った。「姉上は今来られないが、人より勝っている。」范曄は次第に酔い、息子の范藹も酔って、地面の土や果物の皮を取って范曄に投げつけ、范曄を別駕と呼び数十声も叫んだ。范曄が尋ねた。「お前は私を恨んでいるのか?」范藹は言った。「今日どうしてまた恨むことがあろうか、ただ父子同じく死ぬことになり、悲しまずにはいられないだけです。」范曄は常に死者は神が滅びると言い、無鬼論を著そうとしていた。この時になって徐湛之に手紙を書き、「地下で争おう」と言った。その誤り乱れた様はこのようであった。また人に言った。「何僕射(尚之)に伝えてくれ、天下に決して仏や鬼はいない。もし霊があるなら、自ら報いがあるだろう。」范曄の家を没収すると、楽器や衣服・装飾品はすべて珍しく麗しく、妓妾も盛装していたが、母の住まいは質素で粗末で、薪を入れた厨一つがあるだけで、弟子は冬に布団がなく、叔父は単衣一枚であった。范曄と息子の范藹、范遙、叔父の范蔞、孔熙先と弟の休先、景先、思先、熙先の子の桂甫、桂甫の子の白民、謝綜と弟の謝約、仲承祖、許耀、および連座した者たちは、すべて処刑された。范曄はこの時四十八歳であった。范曄の兄弟や子で既に亡くなった者および謝綜の弟の謝緯は、広州に流された。范藹の子の魯連は、呉興昭公主の外孫で、命の保全を願い出て、遠流も免れ、世祖(孝武帝)が即位すると帰還できた。

原文將出市,曄最在前,於獄門顧謂綜曰:「今日次第,當以位邪?」綜曰:「賊帥為先。」在道語笑,初無暫止。至市,問綜曰:「時欲至未?」綜曰:「勢不復久。」曄既食,又苦勸綜,綜曰:「此異病篤,何事強飯。」曄家人悉至市,監刑職司問:「須相見不?」曄問綜曰:「家人以來,幸得相見,將不暫別。」綜曰:「別與不別,亦何所存。來必當號泣,正足亂人意。」曄曰:「號泣何關人,向見道邊親故相瞻望,亦殊勝不見。吾意故欲相見。」於是呼前。曄妻先下撫其子,回罵曄曰:「君不為百歲阿家,不感天子恩遇,身死固不足塞罪,奈何枉殺子孫。」曄乾笑云罪至而已。曄所生母泣曰:「主上念汝無極,汝曾不能感恩,又不念我老,今日奈何?」仍以手擊曄頸及頰,曄顏色不怍。妻云:「罪人,阿家莫念。」妹及妓妾來別,曄悲涕流漣,綜曰:「舅殊不同夏侯色。」曄收淚而止。綜母以子弟自蹈逆亂,獨不出視。曄語綜曰:「姊今不來,勝人多也。」曄轉醉,子藹亦醉,取地土及果皮以擲曄,呼曄為別駕數十聲。曄問曰:「汝恚我邪?」藹曰:「今日何緣復恚,但父子同死,不能不悲耳。」曄常謂死者神滅,欲著無鬼論;至是與徐湛之書,云「當相訟地下」。其謬亂如此。又語人:「寄語何僕射,天下決無佛鬼。若有靈,自當相報。」收曄家,樂器服玩,並皆珍麗,妓妾亦盛飾,母住止單陋,唯有一厨盛樵薪,弟子冬無被,叔父單布衣。曄及子藹、遙、叔蔞、孔熙先及弟休先、景先、思先、熙先子桂甫、桂甫子白民、謝綜及弟約、仲承祖、許耀,諸所連及,並伏誅。曄時年四十八。曄兄弟子父已亡者及謝綜弟緯,徙廣州。藹子魯連,吳興昭公主外孫,請全生命,亦得遠徙,世祖即位得還。

范曄の性格は精微で思慮深く、物事に触れると多く善しとし、衣服や器物・服飾は、すべて制度を増減し、世の人々は皆それを学んで手本とした。和香方(調合香料の処方)を撰し、その序文で言った。「麝香はもともと禁忌が多く、過分であれば必ず害がある。沈香と実(?)は調和しやすく、一斤満たしても害はない。零陵香と藿香は虚しく燥いている。詹唐(香木)は粘り湿っている。甘松、蘇合、安息香、鬱金、㮏多、和羅の類は、すべて外国で珍重されるが、中国では取るに足らない。また棗膏は昏く鈍く、甲煎(香料)は浅薄で俗っぽい。ただ芳香を助けないだけでなく、かえって病気をますます増やすことになるだろう。」この序文で言っていることは、すべて朝廷の人士に比喩している。「麝本多忌」は庾炳之に、「零藿虚燥」は何尚之に、「詹唐黏濕」は沈演之に、「棗膏昏鈍」は羊玄保に、「甲煎浅俗」は徐湛之に、「甘松、蘇合」は慧琳道人に、「沈実易和」は自分自身に比喩しているのである。

原文曄性精微有思致,觸類多善,衣裳器服,莫不增損制度,世人皆法學之。撰和香方,其序之曰:「麝本多忌,過分必害;沈實易和,盈斤無傷。零藿虛燥,詹唐黏濕。甘松、蘇合、安息、鬱金、㮏多、和羅之屬,並被珍於外國,無取於中土。又棗膏昏鈍,甲煎淺俗,非唯無助於馨烈,乃當彌增於尤疾也。」此序所言,悉以比類朝士:「麝本多忌」,比庾炳之;「零藿虛燥」,比何尚之;「詹唐黏濕」,比沈演之;「棗膏昏鈍」,比羊玄保;「甲煎淺俗」,比徐湛之;「甘松、蘇合」,比慧琳道人;「沈實易和」,以自比也。

范曄は獄中で諸甥姪に与えた手紙で自ら序文を書いて言った。

原文曄獄中與諸甥姪書以自序曰:

私の狂気と過ちが滅亡を招いたことは、もはや言うまでもない。あなたがたは皆、私を罪人として見捨てるべきだ。しかし、平生の行いや心がけは、なお尋ねることができるはずだ。私ができること、できないこと、心の中で理解していることは、あなたがたはあるいは詳しく知らないかもしれない。私は若い頃学問を怠り、成人するのが遅く、三十歳頃になって、ようやく方向性が定まった。それ以来、心が変化し、老いが近づいていると推し量っても、まだ止まってはいない。しばしば微かな理解があり、言葉では十分に表現できない。性格として注釈書を探求せず、心気が悪く、少し考え込むとすぐに煩悶し、口先もまた調子が良くないので、これによって談論の才はない。理解が通じるところは、すべて胸中で自ら得たものである。文章は次第に上達したが、ただ才能が少なく思考が難しいので、筆を執るたびに、完成した篇は、ほとんど完全に称賛されるものはない。常に文士であることを恥じていた。文章の患いは、事柄が形に尽き、情感が文飾に急ぎ、義が主旨を引きずり、韻が意味を変えてしまうことにある。時に才能ある者もいるが、大体多くはこの欠点を免れず、まさに精巧な絵画のようで、結局得るところがない。常に言うには、情志が託されるのであるから、やはり意味を主とし、文章で意味を伝えるべきだ。意味を主とすれば、その主旨は必ず現れる。文章で意味を伝えれば、その言葉は流されない。そうしてこそ、その芳香を引き出し、その金石の音を響かせることができる。この中の性情と趣向は、千条百様で、曲折して道理を成している。自らはその術をかなり識っていると思い、かつて人に話したが、多くは賞賛されず、考えが異なるからであろう。

原文吾狂釁覆滅,豈復可言,汝等皆當以罪人棄之。然平生行己任懷,猶應可尋。至於能不,意中所解,汝等或不悉知。吾少懶學問,晚成人,年三十許,政始有向耳。自爾以來,轉為心化,推老將至者,亦當未已也。往往有微解,言乃不能自盡。為性不尋注書,心氣惡,小苦思,便憒悶,口機又不調利,以此無談功。至於所通解處,皆自得之於胸懷耳。文章轉進,但才少思難,所以每於操筆,其所成篇,殆無全稱者。常恥作文士。文患其事盡於形,情急於藻,義牽其旨,韻移其意。雖時有能者,大較多不免此累,政可類工巧圖繢,竟無得也。常謂情志所託,故當以意為主,以文傳意。以意為主,則其旨必見;以文傳意,則其詞不流。然後抽其芬芳,振其金石耳。此中情性旨趣,千條百品,屈曲有成理。自謂頗識其數,嘗為人言,多不能賞,意或異故也。

宮商(音律)の区別を識り、清濁をわきまえるのは、自然なことである。古今の文人を見ると、多くはこの点を完全に理解しておらず、たとえこれに通じる者がいても、必ずしも根本から来ているわけではない。言葉にはすべて実証があり、空談ではない。若い者の中では、謝莊が最もその素質があり、筆跡はやや易しく、文章が韻に拘束されないからである。私の思考には定まった方法がなく、ただ難事を救い軽重に適するのが特に得意で、天から授かった素質は、まだ尽きてはいないだろう。ただ公的な言葉が多く、世俗を離れた遠大な趣致に乏しいことを遺憾とし、また文名を求める意がないからでもある。

原文性別宮商,識清濁,斯自然也。觀古今文人,多不全了此處,縱有會此者,不必從根本中來。言之皆有實證,非為空談。年少中,謝莊最有其分,手筆差易,文不拘韻故也。吾思乃無定方,特能濟難適輕重,所稟之分,猶當未盡。但多公家之言,少於事外遠致,以此為恨,亦由無意於文名故也。

もともと史書に関わっておらず、ただ常に理解できないと感じていただけだ。後漢書を編纂してから、ようやく系統が得られ、古今の著述や評論を詳しく観察すると、ほとんど気に入るものは少ない。班固は最も高い名声があるが、感情任せで例がなく、甲乙と区別することができない。後の賛は道理に近いがほとんど得るところがなく、ただ志(天文志、律暦志など)は推奨できるだけだ。博識豊富では及ばないが、整理の点では必ずしも恥じることはない。私の雑伝論(列伝の論賛)は、すべて精妙な意味と深遠な主旨があり、すでに裁断と味わいがあるので、その詞句を簡約した。循吏以下および六夷(東夷、南蛮など)の諸序論は、筆勢が縦横に放たれ、まさに天下の奇作である。その中で合致するものは、しばしば賈誼の「過秦論」に劣らない。かつて班固の作ったものと比べてみると、ただ恥じないだけでなく、むしろ勝っている。すべての志を作り遍くしたいと思い、前漢書にあるものはすべて備えさせようとした。事柄は必ずしも多くなくとも、文章を見て尽きることができるように。また事柄に因って巻内で論を発し、一代の得失を正そうと思ったが、この考えもまた果たせなかった。賛はまさに私の文章の傑出した思考で、ほとんど一字も無駄がなく、奇抜な変化が尽きず、同じものに合致し異なる体裁で、自らどう称賛してよいかわからない。この書が行われるなら、きっと賞賛する者がいるはずだ。紀と伝の例はその大略を挙げただけであり、細かい意図は非常に多い。古来、体裁が大きく思考が精緻なものは、これほどない。世の人が十分に理解できないことを恐れ、多くは古を貴び今を賤しむので、情に任せて狂言を吐いたまでだ。

原文本未關史書,政恒覺其不可解耳。既造後漢,轉得統緒,詳觀古今著述及評論,殆少可意者。班氏最有高名,既任情無例,不可甲乙辨。後贊於理近無所得,唯志可推耳。博贍不可及之,整理未必愧也。吾雜傳論,皆有精意深旨,既有裁味,故約其詞句。至於循吏以下及六夷諸序論,筆勢縱放,實天下之奇作。其中合者,往往不減過秦篇。嘗共比方班氏所作,非但不愧之而已。欲徧作諸志,前漢所有者悉令備。雖事不必多,且使見文得盡。又欲因事就卷內發論,以正一代得失,意復未果。贊自是吾文之傑思,殆無一字空設,奇變不窮,同合異體,乃自不知所以稱之。此書行,故應有賞音者。紀、傳例為舉其大略耳,諸細意甚多。自古體大而思精,未有此也。恐世人不能盡之,多貴古賤今,所以稱情狂言耳。

私は音楽において、聴く能力は自ら演奏するのに及ばないが、ただ精通しているのは雅楽ではなく、遺憾である。しかし、絶妙の境地に至れば、また何の違いがあろうか。その中の体得した趣は、言葉では尽くせず、弦外の意、虚ろな響きの音は、どこから来るのかわからない。少しのところであっても、旨趣と様態は無限である。かつて人に授けたこともあるが、士人や庶民の中で一人として少し似た者はいない。これは永遠に伝わらないだろう。私の書道は少しばかり趣があるが、筆勢が速くなく、結局大成せず、この名声を常に恥じている。

原文吾於音樂,聽功不及自揮,但所精非雅聲,為可恨。然至於一絕處,亦復何異邪。其中體趣,言之不盡,弦外之意,虛響之音,不知所從而來。雖少許處,而旨態無極。亦嘗以授人,士庶中未有一豪似者。此永不傳矣。吾書雖小小有意,筆勢不快,餘竟不成就,每愧此名。

范曄の自序はすべて事実であるので、ここに保存する。

原文曄自序並實,故存之。

范藹は幼い頃から整っていて清潔で、衣服は一年中ほこり一点つかなかった。死んだ時は二十歳であった。

原文藹幼而整潔,衣服竟歲未嘗有塵點。死時年二十。

范曄が若い頃、兄の范晏が常に言った。「この子は利益を追い求め、結局は家門を破るだろう。」結局、范晏の言う通りになった。

原文曄少時,兄晏常云:「此兒進利,終破門戶。」終如晏言。