宋書

列伝第二十八

列伝第二十八

彭城ほうじょう王劉義康は、十二歳の時、宋の朝廷により豫・司・雍・并の四州諸軍事を監督し、冠軍かんぐん将軍・豫州刺史ししに任じられた。当時、高祖(劉裕)は寿陽から召し出されて朝廷を補佐することとなり、劉義康を留めて寿陽の守備を代行させた。また司州刺史を兼任し、徐州の鍾離、荊州の義陽の諸軍事の監督を加えられた。永初元年(420年)、彭城王に封ぜられ、食邑三千戸を与えられ、右将軍に昇進した。二年(421年)、南豫・豫・司・雍・并の五州諸軍事を監督し、南豫州刺史に転任したが、将軍の号は変わらなかった。三年(422年)、使持節・都督ととく南徐兗二州揚州之晉陵諸軍事・南徐州刺史に遷り、将軍の号は変わらなかった。太祖(文帝劉義隆)が即位すると、食邑二千戸を加増され、驃騎ひょうき将軍に昇進し、散騎常侍さんきじょうじを加えられ、鼓吹一部を与えられた。まもなく開府儀同三司を加えられた。元嘉三年(426年)、都督荊湘雍梁益寧南北秦八州諸軍事・荊州刺史に改めて任じられ、班剣三十人を与えられ、持節・常侍・将軍の号は変わらなかった。劉義康は幼少の頃から聡明で洞察力があり、地方の重任に就くと、職務を整え治めた。

原文彭城王義康,年十二,宋臺除督豫司雍并四州諸軍事、冠軍將軍、豫州刺史。時高祖自壽陽被徵入輔,留義康代鎮壽陽。又領司州刺史,進督徐州之鍾離、荊州之義陽諸軍事。永初元年,封彭城王,食邑三千戶,進號右將軍。二年,徙監南豫豫司雍并五州諸軍事、南豫州刺史,將軍如故。三年,遷使持節、都督南徐兗二州揚州之晉陵諸軍事、南徐州刺史,將軍如故。太祖即位,增邑二千戶,進號驃騎將軍,加散騎常侍,給鼓吹一部。尋加開府儀同三司。元嘉三年,改授都督荊湘雍梁益寧南北秦八州諸軍事、荊州刺史,給班劍三十人,持節、常侍、將軍如故。義康少而聰察,及居方任,職事修理。

六年(429年)、司徒しとの王弘が上表して、劉義康を朝廷に召し還して補佐させるべきであるとし、侍中じちゅう・都督揚南徐兗三州諸軍事・司徒・録尚書事に任じられ、平北将軍・南徐州刺史を兼任し、持節は変わらなかった。司徒府と将軍府の両府に属官を置き兵を領し、王弘と共に朝政を補佐した。王弘は病が多く、かつ何事も謙譲して任せたので、これより内外の諸事務はすべて劉義康が決断するようになった。太子詹事の劉湛は経国の才があり、劉義康がかつて豫州にいた時、劉湛は長史であった。もともと親密な関係にあったので、この時は特に信任が厚く、人物の評価や行動の是非について、すべて彼に諮問した。そのため、前後して藩鎮にあった時、多くの善政があり、遠近に称えられた。九年(432年)、王弘が没すると、揚州刺史を兼任した。その年、太妃(劉義康の母)が薨去したので、侍中を解任し、班剣を返上した。十二年(435年)、また太子太傅を兼任し、再び侍中・班剣を加えられた。

原文六年,司徒王弘表義康宜還入輔,徵侍中、都督揚南徐兗三州諸軍事、司徒、錄尚書事,領平北將軍、南徐州刺史,持節如故。二府並置佐領兵,與王弘共輔朝政。弘既多疾,且每事推謙,自是內外眾務,一斷之義康。太子詹事劉湛有經國才,義康昔在豫州,湛為長史,既素經情款,至是意委特隆,人物雅俗,舉動事宜,莫不咨訪之,故前後在藩,多有善政,為遠近所稱。九年,弘薨,又領揚州刺史。其年太妃薨,解侍中,辭班劍。十二年,又領太子太傅,復加侍中、班劍。

劉義康はもともと吏務を好み、文書事務に鋭意取り組み、是非を糾明することに、精緻を極めた。朝廷の権力を一手に掌握すると、事柄は自分で決断し、生殺の大事は、録尚書事の命令によって裁断した。彼が上奏するものはすべて許可され、方伯(地方長官)以下の人事はすべて劉義康に委ねられ任用された。これにより朝廷内外の人が車の輻が轂に集まるように彼のもとに集まり、その勢いは天下を傾けた。劉義康もまた自ら努め励み、倦むことがなかった。府門には毎朝常に数百台の車があり、たとえ地位が低く身分が卑しい者でも、すべて引見し接遇した。また聡明で記憶力が人並み外れており、一度聞けば必ず覚え、かつて一時的に会った人物も、終生忘れず、多くの人が集まる席で、しばしば記憶していることを示して聡明さを誇示し、人々はますます彼を推服した。官爵を愛惜し、一度も私的に官位を与えることはなく、朝廷の士で才能のある者はすべて自分の府に引き入れ、もし彼らが過失を犯したり、自分の意に逆らったりすれば、すぐに尚書省の官に左遷した。部下は喜んで力を尽くし、欺くことを敢えてしなかった。太祖(文帝)は虚労の病を患い、臥せることが数年続き、何か思い悩むことがあると、心臓が引き裂かれるように痛み、危篤状態になることが相次いだ。劉義康は宮中に侍して医薬に当たり、心を尽くして奉仕し、湯薬や飲食は、自ら口にしたものでなければ進めなかった。ある時は連夜眠らず、一日中衣服を脱がずに過ごした。内外の諸事はすべて彼が独断で施行した。十六年(439年)、大将軍に進み、司徒を兼任し、掾属を召し任用した。

原文義康性好吏職,銳意文案,糾剔是非,莫不精盡。既專總朝權,事決自己,生殺大事,以錄命斷之。凡所陳奏,入無不可,方伯以下,並委義康授用,由是朝野輻湊,勢傾天下。義康亦自強不息,無有懈倦。府門每旦常有數百乘車,雖復位卑人微,皆被引接。又聰識過人,一聞必記,常所暫遇,終生不忘,稠人廣席,每標所憶以示聰明,人物益以此推服之。愛惜官爵,未嘗以階級私人,凡朝士有才用者,皆引入己府,無施及忤旨,即度為臺官。自下樂為竭力,不敢欺負。太祖有虛勞疾,寢頓積年,每意有所想,便覺心中痛裂,屬纊者相係。義康入侍醫藥,盡心衞奉,湯藥飲食,非口所嘗不進;或連夕不寐,彌日不解衣;內外眾事,皆專決施行。十六年,進位大將軍,領司徒,辟召掾屬。

劉義康はもともと学問がなく、大義に暗く、兄弟は最も親しい間柄であると思い、君臣の礼儀を顧みず、率直に行動し、猜疑や警戒心を持たなかった。私的に僮僕や部曲ぶきょくを六千余人も置き、朝廷に報告しなかった。四方からの献上品は、すべて上等なものを劉義康に進め、次等のものを皇帝に供えた。皇帝(文帝)がかつて冬に柑橘を食べ、その形も味も劣っていると嘆いたことがあった。劉義康が同席して言うには、「今年の柑橘には非常に良いものがあります」と。そして人を東府に遣わして柑橘を取って来させ、皇帝に供えるものより三寸も大きいものを献上した。尚書僕射しょうしょぼくやの殷景仁は太祖に寵愛されていたが、太子詹事の劉湛とはもともと親しかったが、仲は後に悪化した。劉湛は常に宰相の権力を利用して殷景仁を失脚させようとしたが、殷景仁は太祖に庇護され、劉義康が幾度も言上しても用いられず、劉湛はますます憤った。南陽の劉斌は、劉湛の同族で、世俗的な才能があり、劉義康に認められ、司徒右長史から左長史に抜擢された。從事中郎の琅邪の王履、主簿の沛郡の劉敬文、祭酒の魯郡の孔胤秀は、みな邪な心で取り入り、太祖の病が重篤であるのを見て、みな年長の君主を立てるべきであると言った。皇帝の病がかつて危篤になった時、劉義康に遺詔を起草させた。劉義康が官省に戻り、涙を流して劉湛と殷景仁に告げると、劉湛は言った。「天下は艱難であり、幼い君主が統治できるものではありません」。劉義康と殷景仁はともに答えなかった。しかし孔胤秀らはすぐに尚書省の儀曹を訪れ、晋の咸康末年(咸康8年、342年)に康帝を立てた旧例を求め、劉義康はこれを知らなかった。太祖の病気が回復すると、このことをかすかに聞き知った。劉斌らは劉義康に寵愛されていた上に、権威と権力はすべて宰相(劉義康)にあったので、常に朝廷を傾け覆そうとし、帝位を(劉義康に)帰属させようとした。そこで徒党を結び、宮中の様子を窺い、もし国に忠を尽くし、自分たちと志を同じくしない者がいれば、必ず過失や罪をでっち上げ、罪に落として罷免した。常に殷景仁の短所を探し集め、あるいは事実無根の異同をでっち上げて劉湛に告げた。これより主君(皇帝)と宰相(劉義康)の勢力は分かれ、朝廷内外に禍難が結ばれた。

原文義康素無術學,闇於大體,自謂兄弟至親,不復存君臣形迹,率心逕行,曾無猜防。私置僮部六千餘人,不以言臺。四方獻饋,皆以上品薦義康,而以次者供御。上嘗冬月噉甘,歎其形味並劣,義康在坐曰:「今年甘殊有佳者。」遣人還東府取甘,大供御者三寸。尚書僕射殷景仁為太祖所寵,與太子詹事劉湛素善,而意好晚衰。湛常欲因宰輔之權以傾之,景仁為太祖所保持,義康屢言不見用,湛愈憤。南陽劉斌,湛之宗也,有涉俗才用,為義康所知,自司徒右長史擢為左長史。從事中郎琅邪王履、主簿沛郡劉敬文、祭酒魯郡孔胤秀,並以傾側自入,見太祖疾篤,皆謂宜立長君。上疾嘗危殆,使義康具顧命詔。義康還省,流涕以告湛及殷景仁,湛曰:「天下艱難,詎是幼主所御。」義康、景仁並不答。而胤秀等輒就尚書儀曹索晉咸康末立康帝舊事,義康不知也。及太祖疾豫,微聞之。而斌等既為義康所寵,又威權盡在宰相,常欲傾移朝廷,使神器有歸。遂結為朋黨,伺察省禁,若有盡忠奉國,不與己同志者,必構造愆釁,加以罪黜。每採拾景仁短長,或虛造異同以告湛。自是主相之勢分,內外之難結矣。

劉義康は劉斌を丹陽尹にしようとし、折に触れて太祖に申し上げ、彼の家が貧しいことを述べた。皇帝はその意図を察し、劉義康の言葉が終わらないうちに言った。「呉郡に任じよう」。後に会稽太守たいしゅの羊玄保が帰還を求めた時、劉義康はまた劉斌を代わりに任じようとし、また太祖に申し上げて言った。「羊玄保が帰還を望んでいますが、誰を会稽太守とするかお考えでしょうか」。皇帝はその時まだ人選を考えておらず、慌てて言った。「私はすでに王鴻を用いた」。十六年(439年)の秋以降、皇帝は東府に行幸しなくなった。皇帝はすでに猜疑の溝ができ、大禍を招くことになると考えた。十七年(440年)十月、ついに劉湛を捕らえて廷尉に引き渡し、誅殺した。また劉斌および大将軍録事参軍の劉敬文、賊曹参軍の孔邵秀、中兵参軍の邢懷明、主簿の孔胤秀、丹陽丞の孔文秀、司空しくう從事中郎の司馬亮、烏程令の盛曇泰らを誅殺した。尚書庫部郎の何默子、餘姚令の韓景之、永興令の顏遙之、劉湛の弟の黄門侍郎の劉素、劉斌の弟の給事中きゅうじちゅうの劉溫を広州に流罪とし、王履は家に廃された。孔胤秀は初めは書記として任用され、次第に機密に参与するようになった。孔文秀、孔邵秀はともに彼の兄である。司馬亮は孔氏のいとこで、みな孔胤秀によって進用された。邢懷明、盛曇泰は劉義康に遇された者である。何默子、韓景之、顏遙之は劉湛の党与であった。

原文義康欲以斌為丹陽尹,言次啟太祖,陳其家貧。上覺其旨,義康言未卒,上曰:「以為吳郡。」後會稽太守羊玄保求還,義康又欲以斌代之,又啟太祖曰:「羊玄保欲還,不審以誰為會稽?」上時未有所擬,倉卒曰:「我已用王鴻。」自十六年秋,不復幸東府。上以嫌隙既成,將致大禍。十七年十月,乃收劉湛付廷尉,伏誅。又誅斌及大將軍錄事參軍劉敬文、賊曹參軍孔邵秀、中兵參軍邢懷明、主簿孔胤秀、丹陽丞孔文秀、司空從事中郎司馬亮、烏程令盛曇泰等。徙尚書庫部郎何默子、餘姚令韓景之、永興令顏遙之、湛弟黃門侍郎素、斌弟給事中溫於廣州,王履廢於家。胤秀始以書記見任,漸預機密,文秀、邵秀,皆其兄也。司馬亮,孔氏中表,並由胤秀而進。懷明、曇泰為義康所遇。默子、景之、遙之,劉湛黨也。

その日、義康を刺して宿所に入れ、中書省に留め置いた。その夜、湛らを分捕り、青州刺史の杜驥が兵を率いて殿内を守り、非常事態に備えた。使者を遣わして湛らの罪状を告げると、義康は上表して辞任を申し出た。「臣は幼少より国恩を蒙り、爵位と待遇は等を超えていました。陛下は恩を推し及ぼし親族を睦まじくし、兄弟の情を厚くされ、臣の卑しさを忘れ、寵愛して高位を授けられ、内外の任を総べさせ、台輔の位を兼ねさせられました。臣が身を正して下を率いることができず、諸官を粛正せず、近しい者を誤って親しみ、次第に自覚できなくなり、ついに評判と実態が食い違い、賞罰が誤って加えられることとなりました。これは臣の才が弱く任が重かったため、傾き乱れるに至ったのです。今、罪人はすでに誅殺され、王道は静かになりましたが、禍の種を育て恥を残したのは、実に臣に起因します。身をかがめて慄き恐れ、深い谷に落ちるかのようです。どのような心や顔があって、この寵愛に安んじていられましょうか。ただちに職務を解き、私邸で罪を待ちます。」と。都督江州諸軍事・江州刺史に改めて任命され、持節・侍中・将軍は元のまま、豫章に出鎮することとなった。省に十数日留め置かれ、桂陽侯義融、新喻侯義宗、秘書監徐湛之が往来して慰問した。省で別れの挨拶をし、すぐに渚へ下った。上はただ彼に対して慟哭するだけで、他に何も言わなかった。上はまた沙門の釈慧琳を遣わして様子を見させた。義康は「弟子に戻る道理はありますか」と問うと、慧琳は「残念ながら、あなたが数百巻の書を読まなかったことを恨みます」と言った。征虜司馬の蕭斌は、かつて義康に寵愛されていたが、劉斌らがその寵を妬み、讒言して排斥した。そこで蕭斌を諮議参軍とし、豫章太守を兼任させ、事の大小を問わず、すべて彼に委ねた。司徒主簿の謝綜は、もともと義康に親しまれていたので、記室参軍とし、側近で愛顧されている者たちは、皆、豫章まで随従することを許された。州の職務を辞することを願い出ると、許され、広州・交州および湘州の始興郡の諸軍事の都督を増やされた。供給は手厚く、贈り物の使者が絶えず、朝廷の大事はすべて彼に知らせた。義康が敗れる前、東府の聴事堂前の井戸の水が突然湧き出て溢れ、野の雉や江の鴎が共に彼の住む斎舎の前に飛び込んできた。

原文其日刺義康入宿,留止中書省,其夕分收湛等,青州刺史杜驥勒兵殿內,以備非常。遣人宣旨告以湛等罪釁,義康上表遜位曰:「臣幼荷國靈,爵遇踰等。陛下推恩睦親,以隆棠棣,愛忘其鄙,寵授遂崇,任總內外,位兼台輔。不能正身率下,以肅庶僚,暱近失所,漸不自覺,致令毀譽違實,賞罰謬加,由臣才弱任重,以及傾撓。今雖罪人即戮,王猷載靜,養釁貽垢,實由於臣。鞠躬慄悚,若墮谿壑,有何心顏,而安斯寵,輒解所職,待罪私第。」改授都督江州諸軍事、江州刺史,持節、侍中、將軍如故,出鎮豫章。停省十餘日,桂陽侯義融、新喻侯義宗、祕書監徐湛之往來慰視。於省奉辭,便下渚。上唯對之慟哭,餘無所言。上又遣沙門釋慧琳視之,義康曰:「弟子有還理不?」慧琳曰:「恨公不讀數百卷書。」征虜司馬蕭斌,昔為義康所暱,劉斌等害其寵,讒斥之。乃以斌為諮議參軍,領豫章太守,事無大小,皆以委之。司徒主簿謝綜,素為義康所狎,以為記室參軍,左右愛念者,並聽隨從至豫章。辭州,見許,增督廣交二州湘州之始興諸軍事。資奉優厚,信賜相係,朝廷大事,皆報示之。義康未敗,東府聽事前井水忽涌溢,野雉江鷗並飛入所住齋前。

龍驤参軍の巴東の扶令育が宮門に赴き上表した。

原文龍驤參軍巴東扶令育詣闕上表曰:

表が奏上されると、すぐに捕らえて建康の獄に下し、死を賜った。

原文表奏,即收付建康獄,賜死。

会稽長公主は、兄弟の中では最年長で、太祖(文帝)から最も親しく敬われていた。義康が南へ行った後、しばらくして、上(文帝)が公主の宴席に臨み、大いに楽しんだ時、公主が立ち上がり再拝して額を地につけ、悲しみに耐えられなかった。上はその意味がわからず、自ら立ち上がって彼女を支えた。公主は言った。「車子(義康)は年を取れば、必ずや陛下に容れられなくなるでしょう。今、特に彼の命をお願いします。」そして慟哭した。上は涙を流し、手を挙げて蒋山を指さして言った。「必ずそのような心配はない。もし今の誓いに背くことがあれば、それは初寧陵(武帝の陵)に背くことだ。」すぐに飲んでいた酒を封じて義康に賜り、手紙を添えた。「会稽の姉が宴席で弟を思い、残った酒を今封じて送る。」車子は、義康の幼名である。

原文會稽長公主,於兄弟為長,太祖至所親敬。義康南上後,久之,上嘗就主宴集甚歡,主起再拜稽顙,悲不自勝。上不曉其意,自起扶之。主曰:「車子歲暮,必不為陛下所容,今特請其生命。」因慟哭。上流涕,舉手指蔣山曰:「必無此慮。若違今誓,便是負初寧陵。」即封所飲酒賜義康,并書曰:「會稽姊飲宴憶弟,所餘酒今封送。」車子,義康小字也。

二十二年、太子詹事の范曄らが謀反を企て、事件は義康に及び、詳細は范曄伝にある。有司が上奏した。「義康はかつて国権を専断し、心のままに上を凌ぎ、朋党を結び、凶悪な者を包み隠し受け入れました。重い罪状が明らかで、事は明らかな罰に合致します。特に陛下の仁愛は深く至り、親族を大切に思い、封土を削らず、爵位と寵愛を貶めませんでした。四海の心、朝野の議論は、皆、皇徳は厚いが、実は刑罰を曲げたと言っています。しかし義康は、この大きな恩恵の徳を一度も考えず、南の地に出てからは、感情と様子を偽り装い、外見は恐れを知っているように示しながら、内実は悔い改めず、欲望の限りを尽くし、請願は度を超えていました。聖なる慈愛は広大で、常に旧悪を責めず、憐れんで釈放を繰り返し、恩恵は過去のものに及びました。しかし密かに使者を励まし、交通の謀略を始め、ひそかに側近に資金を与え、死士の命を求めました。険しい道を縫って隙をうかがい、覗うことを忘れませんでした。当時はまだ我慢して、罰は側近の者だけに留めました。狂ったような性質は決して懲りず改まらず、凶悪な心は遂に成り、悖逆の謀略を再び企てました。遠く群醜に投じ、千里を隔てて結びつき、再び宗廟社稷を議論し、重ねて鼎の祚を窺いました。陛下の至誠が神を動かし、宋の歴数がようやく永く続くので、奸事が明るみに出て、罪人が得られたのです。周公のような上聖でも、同気の刑を避けず、漢の文帝のような仁明でも、従兄の悪を隠しませんでした。ましてや義康の罪は二叔(管叔・蔡叔)より深く、謀略は淮南王(劉長)を超え、親に背き道に反し、自ら天地を見捨てました。臣らが協議したところ、有司に下して義康の王爵を削り、廷尉の法獄に収監して罪を治めるよう請います。」詔により、特に大辟(死刑)を赦した。そこで義康とその子の泉陵侯允、娘の始寧・豊城・益陽・興平の四県主を庶人に免じ、属籍から絶ち、安成郡に移住させた。寧朔将軍の沈邵を安成公相とし、兵を率いて守備させた。義康は安成で書を読み、淮南厲王劉長の事跡を見て、書を置いて嘆いた。「前代にもこのようなことがあったのか。私が罪を得るのも当然だ。」

原文二十二年,太子詹事范曄等謀反,事逮義康,事在曄傳。有司上曰:「義康昔擅國權,恣心凌上,結朋樹黨,苞納凶邪。重釁彰著,事合明罰。特遭陛下仁愛深至,敦惜周親,封社不削,爵寵無貶。四海之心,朝野之議,咸謂皇德雖厚,實橈典刑。而義康曾不思此大造之德,自出南服,詭飾情貌,外示知懼,內實不悛。窮好極欲,干請無度。聖慈含弘,每不折舊,矜釋屢加,恩疇已往。而陰敦行李,方啟交通之謀,潛資左右,以要死士之命。崎嶇伺隙,不忘窺窬。時猶隱忍,罰止僕侍。狂疾之性,永不懲革,兇心遂成,悖謀仍構。遠投羣醜,千里相結,再議宗社,重闚鼎祚。賴陛下至誠感神,宋曆方永,故姦事昭露,罪人斯得。周公上聖,不辭同氣之刑;漢文仁明,無隱從兄之惡。況義康釁深二叔,謀過淮南,背親反道,自棄天地。臣等參議,請下有司削義康王爵,收付廷尉法獄治罪。」詔特宥大辟。於是免義康及子泉陵侯允、女始寧豐城益陽興平四縣主為庶人,絕屬籍,徙付安成郡。以寧朔將軍沈邵為安成公相,領兵防守。義康在安成讀書,見淮南厲王長事,廢書歎曰:「前代乃有此,我得罪為宜也。」

二十四年、豫章の胡誕世、前吳平県令の袁惲らが謀反を企て、豫章太守の桓隆、南昌県令の諸葛智之を襲撃して殺し、衆を集めて郡を占拠し、再び義康を奉戴しようとした。太尉たいい録尚書の江夏王義恭らが上奏した。「『投畀』の言葉は、雅篇(詩経)に明らかであり、流刑・誅殺の教えは、書典(尚書)にあります。庶人義康は罪が深く重く、罪は誅殺に値します。聖なる仁愛は忍びず、たびたび逡巡され、大辟を赦し、近郊に移住させられました。これはまさに天から発する至愛であり、終古を超えています。それなのに、かつて過ちを甘んじて引き受けず、讒言に同調し、頑迷で幸運を狙い、常に言葉や表情に現れ、内には家族に言いふらし、外には民衆の耳を動かし、不満を持つ者たちが、それによって異心を抱きました。胡誕世が名号を偽って窃取し、凶逆を構成しました。微細なうちに防ぎ除くことは、古今の務めであり、まして禍の機が急に発することを、どうして軽視できましょうか。臣らが協議したところ、広州の遠郡に移し、辺境に放逐し、防ぎ絶つことが望ましいと考えます。」上奏は許可され、引き続き安成公相の沈邵に広州の事務を担当させた。実行されないうちに、沈邵が病死し、索虜(北魏)が瓜歩に来寇し、天下が騒然となった。上は異心を抱く者が義康を奉じて乱を起こすことを憂慮し、世祖(孝武帝)が当時彭城を鎮守していたが、たびたび上啓して適切な処置をすべきとし、太子および尚書左僕射の何尚之も同様に意見を述べた。二十八年正月、中書舎人の厳龍を遣わし、薬を賜って自死を命じた。義康は薬を飲もうとせず、「仏教では自殺すると再び人身を得られない。適宜に処分してほしい」と言った。そこで布団で窒息死させた。時に四十三歳。侯の礼で安成に葬った。

原文二十四年,豫章胡誕世、前吳平令袁惲等謀反,襲殺豫章太守桓隆、南昌令諸葛智之,聚眾據郡,復欲奉戴義康。太尉錄尚書江夏王義恭等奏曰:「投𢌿之言,義著雅篇,流殛之教,事在書典。庶人義康負釁深重,罪不容戮。聖仁不忍,屢加遲回,宥其大辟,賜遷近甸,斯乃至愛發天,超邈終古。曾不遇愆甘引,而讒言同眾,佷悖徼幸,每形辭色,內宣家人,外動民聽,不逞之族,因以生心。胡誕世假竊名號,搆成凶逆。杜漸除微,古今所務,況禍機驟發,庸可忽乎。臣等參議,宜徙廣州遠郡,放之邊表,庶有防絕。」奏可,仍以安成公相沈邵為廣州事。未行,值邵病卒,索虜來寇瓜步,天下擾動。上慮異志者或奉義康為亂,世祖時鎮彭城,累啟宜為之所,太子及尚書左僕射何尚之並以為言。二十八年正月,遣中書舍人嚴龍齎藥賜死。義康不肯服藥,曰:「佛教自殺不復得人身,便隨宜見處分。」乃以被揜殺之,時年四十三,以侯禮葬安成。

六人の子:允、肱、珣、昭、方、曇辯。允は初め泉陵県侯に封じられ、食邑七百戸。昭と方はともに早世した。允らは安成に留め置かれたが、元凶(劉劭)が志を得て、彼らを殺害するよう命じた。

原文六子:允、肱、珣、昭、方、曇辯。允初封泉陵縣侯,食邑七百戶。昭、方並早夭。允等留安成,元凶得志,遣殺之。

世祖大明四年、義康の娘の玉秀らが露板(公開の上書)で訴えて言った。「父は凶悪で滅亡の形跡がなく、天の明命に背き、存命中は優遇を受けて養われ、死後は礼遇を加えられましたが、羽山での明らかな罰も、法を正すには十分ではありません。烏鳥のような微かな心で、死を恐れず上訴いたします。どうか古い墓所に返葬し、骨を故郷の土に埋めさせてください。」詔が下り、これを聞き届け、さらに資財を給付した。前廃帝永光元年、太宰江夏王義恭が上表して言った。「臣は聞きます。遠い傍系の祖に辱めを受ける者でさえ、なお親族を慮り、霍光の序列を省みれば、義は令戚(外戚)を重んじます。故に厳道(厳助)は病で亡くなり、嗣子が封土を開き、阜陵(劉延)は過ちを犯して王位を剥奪されましたが、身は晩年に恩恵を受けました。ひそかに思いますに、故庶人劉義康はかつて奸回(邪悪な心)を隠し、自ら非命を招き、魂は沈み、籍から漏れ、来たるべき法典に戒めを垂れました。世は三朝を変革し、歳月は三紀(三十六年)を満たし、天地は暦を改め、日月は再び昇り、形を陶冶し気を賦与された者は皆、更始(新たな始まり)を蒙りました。義康の妻と子は漂没し、早くに盛んな教化に背き、多くの娘たちは孤弱で、永遠に黔首(庶民)に沈んでいます。その心情と罪の根源を考えれば、本来自ら招いたものではなく、事に感じて哀れみ、俯いて傷みと咽びを増します。敢えて陛下の聖なる教化が融和し泰平で、春の恵みが広く及んでいることに縁り、慈愛をもって衆生を育み、仁が泉下の草にまで及んでいることを拝します。実に洗い清め許され、帝室の一員に戻ることを望みます。そうすれば施しは陳根(枯れ草の根)に及び、栄光は朽ちた土に施されます。臣は特に国の私情を頼み、誠意の表を冒して申し上げ、霊威に塵を触れ、紙に伏して悲しみ恐れます。」詔して言った。「太宰の上表はこの通りである。公は情に縁り遠きを追憶し、これを覧て憎しみと感慨を抱く。昔、淮・楚の地で恩を推し及ぼし、封土が支流の子孫にまで及んだのは、法を抑えて親族を弘揚したからであり、古今を通じて成された基準である。公の上表を外朝に付して、旨に従って奉行せよ。故泉陵侯劉允が横に凶虐に遭ったので、特に後継ぎを立てることを許す。」太宗泰始四年、再び属籍(皇族の籍)を絶たれ、庶人に戻された。

原文世祖大明四年,義康女玉秀等露板辭曰:「父凶滅無狀,孤負天明,存荷優養,沒蒙加禮,明罰羽山,未足勑法。烏鳥微心,昧死上訴,乞反葬舊塋,糜骨鄉壤。」詔聽,并加資給。前廢帝永光元年,太宰江夏王義恭表曰:「臣聞忝祖遠支,猶或慮親,降霍省序,義重令戚。故嚴道疾終,嗣啟方宇,阜陵愆屏,身𨕣晚恩。竊惟故庶人劉義康昔昧姦回,自貽非命,沈魂漏籍,垂誡來典。運革三朝,歲盈三紀,天地改朔,日月再升,陶形賦氣,咸蒙更始。義康妻息漂沒,早違盛化,眾女孤弱,永淪黔首。即情原釁,本非己招,感事哀焭,俯增傷咽。敢緣陛下聖化融泰,春澤覃被,慈育羣生,仁被泉草。實希洗宥,還齒帝宗,則施及陳荄,榮施朽壤。臣特憑國私,冒以誠表,塵觸靈威,伏紙悲悸。」詔曰:「太宰表如此,公緣情追遠,覽以憎慨。昔淮、楚推恩,胙流支胤,抑法弘親,古今成準。使以公表付外,依旨奉行。故泉陵侯允橫罹凶虐,可特為置後。」太宗泰始四年,復絕屬籍,還為庶人。

南郡王義宣は、生まれつき舌が短く、言論が滑らかでなかった。元嘉元年、十二歳で竟陵王に封ぜられ、食邑五千戸を与えられた。引き続き左将軍に任じられ、石頭せきとうを鎮守した。七年、使持節・都督徐兗青冀幽五州諸軍事・徐州刺史に遷り、将軍の位は元のままで、依然として石頭を守備した。八年、また都督南兗・兗州刺史に改められ、山陽に鎮すべきであったが、赴任しなかった。翌年、中書監に遷り、中軍将軍の号を進められ、散騎常侍を加えられ、鼓吹一部を与えられた。当時、竟陵の蛮族が充満し、賦役が厳しく民は離散したため、南譙王に改封され、また石頭の守備任務を兼任した。十三年、都督江州豫州之西陽晉熙新蔡三郡諸軍事・鎮南将軍・江州刺史として出鎮した。

原文南郡王義宣,生而舌短,澀於言論。元嘉元年,年十二,封竟陵王,食邑五千戶。仍拜左將軍,鎮石頭。七年,遷使持節、都督徐兗青冀幽五州諸軍事、徐州刺史,將軍如故,猶戍石頭。八年,又改都督南兗、兗州刺史,當鎮山陽,未行。明年,遷中書監,進號中軍將軍,加散騎常侍,給鼓吹一部。時竟陵羣蠻充斥,役刻民散,改封南譙王,又領石頭戍事。十三年,出都督江州豫州之西陽晉熙新蔡三郡諸軍事、鎮南將軍、江州刺史。

初め、高祖(劉裕)は荊州が上流の要害の地で、土地が広く兵が強いため、遺詔で諸子に順番にこれを治めさせた。謝晦が平定された後、彭城王義康に授けた。義康が宰相に入ると、次に江夏王義恭が治めた。また臨川王義慶は宗室の中で声望があり、かつ臨川武烈王(劉道規)が社稷に大功があったため、義慶もまたこれを治めた。その後は義宣が順番となるはずであった。上(文帝)は義宣の才能が元来乏しく、上流の地を治めるに堪えないと考えた。十六年、衡陽王義季を以て義慶に代えさせ、義宣を以て義季に代わって南徐州刺史・都督南徐州軍事・征北将軍とし、持節は元のままとし、散騎常侍を加えた。しかし会稽公主(劉裕の長女)がたびたびこのことを言上したため、上は長く逡巡した。二十一年、ようやく義宣を都督荊雍益梁寧南北秦七州諸軍事・車騎将軍・荊州刺史とし、持節・常侍は元のままとし、先に中詔(内廷からの詔)を賜って言った。「師護(義季)は西の地に長くいるため、近頃上表して帰還を求めている。内外の左右の者を出すのは、そもそも国を治める常道であり、また必ずしも一度の赴任に応じる必要はない。今、聞き届けようと思うが、そなたを以て代えよう。師護には特別な功績はないが、己を清くし倹約し、思いを広げて物事に期し、群下を恣にしない。この信頼は容易ならざるもので、ただ西土に名声が著しいだけでなく、朝野が美談としている。彼の地では既に秩序ができ、士庶に安んじられている。論者は未だ彼を遷すことを議していないが、今の交代は、更にそなたのためにしたいからである。そなたと師護は年齢が同じ世代で、それぞれに美点があり、世間の評判も互いに少し劣るところがある。もし今事に当たって少しでも減ずることがあれば、西夏(西方)の地に大きな支障が生じ、交代の非難は必ずや私に帰せられるだろう。また師護の怨みを買うことになり、ただ一つの嘲笑だけでは済まない。このようにすれば公私ともに損なわれ、先ず共によく詳しく考えるべきでない。この事もまた容易に努められることであり、人をして動きやすく評論を生じさせないようにせよ。」師護は義季の幼名である。

原文初,高祖以荊州上流形勝,地廣兵強,遺詔諸子次第居之。謝晦平後,以授彭城王義康。義康入相,次江夏王義恭。又以臨川王義慶宗室令望,且臨川武烈王有大功於社稷,義慶又居之。其後應在義宣。上以義宣人才素短,不堪居上流。十六年,以衡陽王義季代義慶,而以義宣代義季為南徐州刺史,都督南徐州軍事、征北將軍,持節如故。加散騎常侍。而會稽公主每以為言,上遲回久之,二十一年,乃以義宣都督荊雍益梁寧南北秦七州諸軍事、車騎將軍、荊州刺史,持節、常侍如故。先賜中詔曰:「師護以在西久,比表求還,出內左右,自是經國常理,亦何必其應於一往。今欲聽許,以汝代之。師護雖無殊績,潔己節用,通懷期物,不恣羣下。此信未易,非唯聲著西土,朝野以為美談。在彼已有次第,為士庶所安,論者乃謂未議遷之,今之回換,更在欲為汝耳。汝與師護年時一輩,各有其美,物議亦互有少劣。若今向事脫一減之者,既於西夏交有巨礙,遷代之譏,必歸責於吾矣。復當為師護怨,非但一誚而已也。如此則公私俱損,為不可不先共善詳。此事亦易勉耳,無為使人動生評論也。」師護,義季小字也。

義宣は任地に着くと、自ら努めて励み、政事を整え治めた。色白で、眉鬚が美しく、身長七尺五寸、腰帯十圍(太い腰)、多くの側室を蓄え、後房は千余人、尼や老女は数百人、子女は三十人いた。華美な装飾を好み、費用は豊かで広範囲に及んだ。司空に進位し、侍中に改め、南蛮校尉を兼任した。二十七年、索虜(北魏)が南侵した時、義宣は敵が来るのを憂慮し、上明に逃げようとした。敵が退いた後、太祖(文帝)は詔を下して言った。「民の務めをよく修めよ。ひそかに逃げる計画を練る必要はない。」

原文義宣至鎮,勤自課厲,政事修理。白晳,美鬚眉,長七尺五寸,腰帶十圍,多畜嬪媵,後房千餘,尼媼數百,男女三十人。崇飾綺麗,費用殷廣。進位司空,改侍中,領南蠻校尉。二十七年,索虜南侵,義宣慮寇至,欲奔上明。及虜退,太祖詔之曰:「善修民務,不須營潛逃計也。」

三十年、司徒・中軍将軍・揚州刺史に遷り、侍中は元のままとされた。就任徴発を受けないうちに、元凶(劉劭)が帝を弑しいして立つ事件が起こり、義宣を中書監・太尉とし、司徒・侍中を兼任させた。義宣はこれを聞くと、即時に兵を起こし、甲卒を徴発集結させ、近遠に檄を伝えた。ちょうど世祖(孝武帝劉駿)が入朝討伐したため、義宣は参軍徐遺宝に三千の兵を率いさせ、先鋒として援助させた。世祖が即位すると、義宣を中書監・都督揚豫二州・〔丞相、録尚書六条事、揚州〕刺史とし、羽葆・鼓吹を加え、班剣四十人を与え、持節・侍中は元のままとし、南郡王に改封され、食邑一万戸を与えられた。義宣の実母に献太妃の諡号を追贈した。次子の宜陽侯劉愷を南譙王に封じ、食邑千戸を与えた。義宣は内任(中央の職)と劉愷の王爵を固辞した。そこで都督荊湘雍益梁寧南北秦八州諸軍事・荊湘二州刺史に改めて授けられ、持節・侍中・丞相は元のままとし、劉愷を宜陽県王に降格させた。義宣の将佐以下は、皆賞禄を加増された。長史張暢の事績は本伝にある。諮議参軍蔡超は専ら書記を掌り参謀に加わり、尚書吏部郎に任じられ、引き続き丞相諮議参軍・南郡内史となり、汝南県侯に封ぜられ、食邑千戸を与えられた。司馬竺超民は黄門侍郎となり、引き続き丞相司馬・南平内史に任じられた。その他それぞれに差等があった。

原文三十年,遷司徒、中軍將軍、揚州刺史,侍中如故。未及就徵,值元凶弒立,以義宣為中書監、太尉,領司徒、侍中如故。義宣聞之,即時起兵,徵聚甲卒,傳檄近遠。會世祖入討,義宣遣參軍徐遺寶率眾三千,助為前鋒。世祖即位,以義宣為中書監,都督揚豫二州、〔丞相,錄尚書六條事,揚州〕刺史,加羽葆、鼓吹,給班劍四十人,持節、侍中如故。改封南郡王,食邑萬戶。進諡義宣所生為獻太妃。封次子宜陽侯愷為南譙王,食邑千戶。義宣固辭內任,及愷王爵。於是改授都督荊湘雍益梁寧南北秦八州諸軍事、荊湘二州刺史,持節、侍中、丞相如故。降愷為宜陽縣王。義宣將佐以下,並加賞秩。長史張暢,事在本傳。諮議參軍蔡超專掌書記并參謀,除尚書吏部郎,仍為丞相諮議參軍、南郡內史,封汝南縣侯,食邑千戶。司馬竺超民為黃門侍郎,仍除丞相司馬、南平內史。其餘各有差。

義宣は任地に十年間在任し、兵は強く財は富み、大義(孝武帝擁立)を最初に唱えた後、威名は天下に著しく、凡そ求める欲することは、必ず従わされないことはなかった。朝廷が下す制度で、自分の意に合わないものは、一切遵守しなかった。かつて世祖に酒を献上した時、先ず自ら酌んで飲み、残りを封じて送った。そのように大義をわきまえない者であった。初め、臧質は密かに異心を抱き、義宣が凡庸で弱いため、容易に傾け動かせると考え、彼の手を借りて乱を起こし、自分の奸計を成そうとした。襄陽から江陵へ行き義宣に会うと、礼を尽くした(事績は臧質伝にある)。江州に着くと、たびたび密書を送って義宣を説き、「大才を持ち、大功を負い、主君を震わせる威勢を抱く者は、古来ほとんど全うした者がいない。人の先に立ち、早く処分(行動)すべきである。かつ万姓は皆、公に心を寄せている。軍勢を整えて入朝すれば、内外の誰が歓喜して戴かないことがあろうか。そうしなければ、一旦禍いを受ければ、後悔しても及ばない。」義宣は密かに臧質の言葉を受け入れた。そして世祖が閨庭(後宮)で礼を失い、義宣の娘たちと淫乱な行為をしたため、義宣はこれに怒り、密かに舟と甲冑を整え、孝建元年の秋冬に挙兵することを決めた。豫州刺史魯爽と兗州刺史徐遺宝に報じて同調を求めた。魯爽は酒に狂って命令を誤り、その年正月に早くも反乱を起こした。府の戸曹に版(任命書)を送らせ、義宣を天子に補任し、天子の羽儀(儀仗)も送った。徐遺宝も兵を率いて彭城に向かった。義宣と臧質は慌てて兵を起こした。二月二十六日、都督中外諸軍事を加えられ、左右長史・司馬を置き、僚佐に悉く名乗らせた。伝使を遣わして奉表して言った。

原文義宣在鎮十年,兵強財富,既首創大義,威名著天下,凡所求欲,無不必從。朝廷所下制度,意所不同者,一不遵承。嘗獻世祖酒,先自酌飲,封送所餘,其不識大體如此。初,臧質陰有異志,以義宣凡弱,易可傾移,欲假手為亂,以成其姦。自襄陽往江陵見義宣,便盡禮,事在質傳。及至江州,每密信說義宣,以為「有大才,負大功,挾震主之威,自古尠有全者,宜在人前,蚤有處分。且萬姓莫不係心於公,整眾入朝,內外孰不欣戴。不爾一旦受禍,悔無所及。」義宣陰納質言,而世祖閨庭無禮,與義宣諸女淫亂,義宣因此發怒,密治舟甲,克孝建元年秋冬舉兵。報豫州刺史魯爽、兗州刺史徐遺寶使同。爽狂酒失旨,其年正月便反。遣府戶曹送版,以義宣補天子,并送天子羽儀。遺寶亦勒兵向彭城。義宣及質狼狽起兵。二月二十六日,加都督中外諸軍事,置左右長史、司馬,使僚佐悉稱名。遣傳奉表曰:

上(孝武帝)は詔を下して答えた。

原文上詔答曰:

太傅江夏王劉義恭もまた劉義宣に手紙を送って言った。

原文太傅江夏王義恭又與義宣書曰:

劉義宣は諸州郡に檄を移し、位号を加進した。参軍劉諶之、尹周之らを派遣して軍を率いて臧質のもとに下らせた。雍州刺史朱脩之は兵を起こして順に奉じた。劉義宣は二月十一日に十万の兵を率いて江津を出発し、船艦は数百里に及んだ。この日は大風が吹き、船は転覆しそうになったが、辛うじて中夏口に入った。第八子の劉慆を輔国将軍とし、江陵に留め置いて鎮守させた。魯秀、朱曇韶に一万余りの兵を与えて北進させ、朱脩之を討伐させた。魯秀は初めて江陵に到着し、劉義宣に会ったが、退出すると胸を打って言った。「兄上が事を誤った。なんと愚か者と共に賊を為すとは。今年は敗れるだろう。」劉義宣は尋陽に到着し、臧質と共に下った。臧質が前鋒となった。鵲頭に至り、徐遺寶が敗れ、魯爽が小峴で首を斬られたと聞き、顔色を失って互いに見つめ合った。世祖(孝武帝)は鎮北大将軍沈慶之に魯爽の首を送らせ、劉義宣に見せるとともに手紙を送った。「私は一方の任を負っているが、統轄する所に禍が生じた。近ごろ軽師を率いて、指を向けて討伐に向かったところ、軍鋒が交わるやいなや、賊爽は首を斬られた。貴公は情誼が並々ならぬので、あるいは会いたいと思われるかもしれない。識別できるうちに、指し示して送り届ける。」劉義宣と臧質はともに驚き恐れた。

原文義宣移檄諸州郡,加進號位。遣參軍劉諶之、尹周之等率軍下就臧質。雍州刺史朱脩之起兵奉順。義宣二月十一日率眾十萬發自江津,舳艫數百里。是日大風,船垂覆沒,僅得入中夏口。以第八子慆為輔國將軍,留鎮江陵。遣魯秀、朱曇韶萬餘人北討朱脩之。秀初至江陵,見義宣,既出,拊膺曰:「阿兄誤人事,乃與癡人共作賊,今年敗矣。」義宣至尋陽,與質俱下,質為前鋒。至鵲頭,聞徐遺寶敗,魯爽於小峴授首,相視失色。世祖使鎮北大將軍沈慶之送爽首示義宣,并與書:「僕荷任一方,而釁生所統。近聊率輕師,指往翦撲,軍鋒裁交,賊爽授首。公情契異常,或欲相見,及其可識,指送相呈。」義宣、質並駭懼。

上(孝武帝)は先に豫州刺史王玄謨に水軍を率いさせて梁山洲内に駐屯させ、東西両岸に却月城を築き、営柵を非常に堅固にしていた。劉義宣はたびたび王玄謨に手紙を送り、降伏するよう求めた。王玄謨は返書で答えた。

原文上先遣豫州刺史王玄謨舟師頓梁山洲內,東西兩岸為卻月城,營柵甚固。義宣屢與玄謨書,要令降,玄謨書報曰:

撫軍柳元景は姑孰こじゅくを占拠して大統とし、偏帥の鄭琨と武念が南浦を守備した。臧質はまっすぐ梁山に入り、王玄謨の陣営から一里ほどの所に陣を構えた。劉義宣は蕪湖に駐屯した。五月十九日、西南風が激しく吹き、臧質は風に乗り流れに沿って王玄謨の西の陣を攻撃した。冗従僕射胡子友らは戦いに利あらず、陣を捨てて渡り王玄謨のもとに退いた。臧質はまた将の龐法起に数千の兵を率いさせて洲の外から南浦に向かわせ、引き続き背後から王玄謨を襲撃させた。龐法起は鄭琨、武念と遭遇し、戦いは大敗し、水に飛び込んでほとんどが死んだ。二十一日、劉義宣が梁山に到着し、臧質は軍を出して東岸から王玄謨を攻撃した。王玄謨は游撃将軍垣護之、竟陵太守薛安都せつあんとらを分遣して陣から奮撃させ、臧質の軍を大破した。兵士たちは一斉に水に飛び込んだ。垣護之らは風に乗って火を放ち、その船艦を焼いた。風勢は猛烈で、煙炎が江を覆った。劉義宣は当時西岸に駐屯していたが、延焼して陣営はほとんど焼き尽くされた。諸将は風火の勢いに乗じて兵を縦に攻撃し、兵衆は一斉に潰走した。

原文撫軍柳元景據姑孰為大統,偏帥鄭琨、武念戍南浦。質逕入梁山,去玄謨一里許結營,義宣屯蕪湖。五月十九日,西南風猛,質乘風順流攻玄謨西壘,冗從僕射胡子友等戰失利,棄壘渡就玄謨。質又遣將龐法起數千兵從洲外趨南浦,仍使自後掩玄謨。與琨、念相遇,法起戰大敗,赴水死略盡。二十一日,義宣至梁山,質上出軍東岸攻玄謨。玄謨分遣游擊將軍垣護之、竟陵太守薛安都等出壘奮擊,大敗質軍,軍人一時投水。護之等因風縱火,焚其舟乘,風勢猛盛,烟爓覆江。義宣時屯西岸,延火燒營殆盡。諸將乘風火之勢,縱兵攻之,眾一時奔潰。

劉義宣は臧質とはぐれ、それぞれ単艦で逃げ散った。東の人士庶民はみな帰順し、西の人で劉義宣に従った者は、船艦がまだ百余りあった。娘は以前臧質の子に嫁いでいたが、尋陽を通り過ぎる際、城に入って娘を連れ出し、載せて西へ逃げた。江夏に至り、巴陵に軍がいて遮断されていると聞き、引き返して逕口に入り、徒歩で江陵に向かった。兵衆は散り果て、左右には十人ほどしかおらず、足が痛んで歩けなくなったので、民から露車を借りて自分を載せた。食糧もなくなり、道すがら物乞いをした。江陵の城外に至り、人をやって竺超民に報せた。竺超民は儀仗兵衆を整えて迎えた。当時、外見は依然として以前のままで、武装兵はまだ一万余人いた。劉義宣が城に入ると、すぐに政庁に出て客に会った。側近の翟霊宝は賓客を慰撫するよう諭し、「臧質が指示に背いたため、敗北を招いた。今、兵を整え甲を繕い、改めて後の計画を立てよう。昔、漢の高祖は百敗しても、ついに大業を成し遂げた」と言わせようとした。しかし劉義宣は翟霊宝の言葉を忘れ、誤って「項羽は千敗した」と言ってしまった。人々はみな口を押さえて笑った。魯秀、竺超民らはなおもその手足となって、残った兵を収集し、もう一度決戦を図ろうとしたが、劉義宣はぼんやりして気力がなくなり、奥に入ったきり出てこなかった。左右の腹心は次々と逃げ叛いた。魯秀が北へ逃げると、劉義宣はもはや自立できず、魯秀に従おうとした。そこで内で軍服を着け、袋に食糧を詰め、佩刀を帯び、息子の劉慆と寵愛する妾五人を連れた。皆、男子の服を着て従った。城内は混乱し、白刃が交錯した。劉義宣は大いに恐れて落馬し、そのまま徒歩で進んだ。竺超民は城外まで送り、さらに馬を与えた。竺超民はそのまま戻って城を守った。劉義宣は魯秀に追いつき、諸将が北へ送り胡に入れてくれることを望んだ。しかし魯秀の所在が分からず、城外に出る前に将兵は逃げ散り、残ったのは劉慆と五人の妾、二人の宦官だけだった。夜になって城に戻り、南郡の空き役所に入った。寝台はなく、地面に座って夜明けを待った。宦官を遣わして竺超民に報せると、竺超民は古い車一台を送り、刺姦に護送させた。劉義宣は獄戸に送られ、地面に座って嘆いて言った。「臧質の老いぼれが私を誤らせた。」初めは五人の妾とともに獄に入ったが、五人の妾はまもなく連れ出された。劉義宣は泣き叫んで獄吏に言った。「普段は苦しくなかったが、今日別れるのが初めての苦しみだ。」

原文義宣與質相失,各單舸迸走,東人士庶並歸順,西人與義宣相隨者,船舸猶有百餘。女先適臧質子,過尋陽,入城取女,載以西奔。至江夏,聞巴陵有軍,被抄斷,回入逕口,步向江陵。眾散且盡,左右唯十許人,脚痛不復能行,就民僦露車自載。無復食,緣道求告。至江陵郭外,遣人報竺超民,超民具羽儀兵眾迎之。時外猶自如舊,帶甲尚萬餘人。義宣既入城,仍出聽事見客,左右翟靈寶誡使撫慰眾賓,以「臧質違指授之宜,用致失利,今治兵繕甲,更為後圖,昔漢高百敗,終成大業」。而義宣忘靈寶之言,誤云「項羽千敗」。眾咸掩口而笑。魯秀、竺超民等猶為之爪牙,欲收合餘燼,更圖一決,而義宣惛墊無復神守,入內不復出。左右腹心,相率奔叛。魯秀北走,義宣不復自立,欲隨秀去,乃於內戎服,幐囊盛糧,帶佩刀,攜息慆及所愛妾五人,皆著男子服相隨。城內擾亂,白刃交橫,義宣大懼落馬,仍便步進,超民送城外,更以馬與之,超民因還守城。義宣冀及秀,望諸將送北入虜。既失秀所在,未出郭,將士逃散盡,唯餘慆及五妾兩黃門而已。夜還向城,入南郡空廨,無牀,席地至旦。遣黃門報超民,超民遣故車一乘,載送刺姦。義宣送止獄戶,坐地歎曰:「臧質老奴誤我。」始與五妾俱入獄,五妾尋被遣出,義宣號泣語獄吏曰:「常日非苦,今日分別始是苦。」

大司馬江夏王劉義恭と諸公・王・八座は荊州刺史朱脩之に手紙を送って言った。「劉義宣は道に背き恩を叛き、自ら極逆に陥った。大義は親を滅す。古今同じ基準である。『無将』の誅りでさえ、囚われ殺されることがある。ましてや醜悪な文書と道理に悖る志は、遠近に明らかであり、鋒は宮闕を指し、兵は近郊に纏わり、禍は逼迫し憂いは深く、臣主は遅くまで食事もとれなかった。朝廷の謀略が明らかに震い、祖宗の霊慶により、罪人はここに得られ、七廟は崩れなかった。刑罰を定めるのは、法典の定めるところである。しかし皇慈が下に及び、その愚迷を憐れみ、法を抑えて情を申し、たびたび上奏しても聞き入れられず、人神は恐れ慌て、心を省みて震え恐れる。劉義宣は自ら天に絶った。道理として容れられるべきではない。社稷の慮りは、臣子の責めとして深い。便宜を図って大戮を専断し、国難を和らげるべきである。ただ斧鉞を加えることは、聖なる仁に傷つけるところがある。弘大な恩を示し、自ら処するようにさせ、上は天徳を全うし、下は大法を一つにする。手紙を前にして悲慨に堪えず、多くは語らない。」手紙が届く前に、朱脩之は江陵に到着し、すでに獄中で処刑していた。時に四十歳。世祖は葬ることを許した。

原文大司馬江夏王義恭諸公王八座與荊州刺史朱脩之書曰:「義宣反道叛恩,自陷極逆。大義滅親,古今同准。無將之誅,猶或囚殺,況醜文悖志,宣灼遐邇,鋒指絳闕,兵纏近郊,釁逼憂深,臣主旰食。賴朝略震明,祖宗靈慶,罪人斯得,七廟弗隳。司刑定罰,典辟攸在。而皇慈逮下,愍其愚迷,抑法申情,屢奏不省,人神悚遑,省心震惕。義宣自絕於天,理無容受。社稷之慮,臣子責深。便宜專行大戮,以紓國難。但加諸斧鉞,有傷聖仁,示以弘恩,使自為所,上全天德,下一洪憲。臨書悲慨,不復多云。」書未達,脩之至江陵,已於獄盡焉。時年四十。世祖聽還葬。

劉義宣の子、劉悰、劉愷、劉恢、劉憬、劉惔、劉𢚝、劉惇、劉慆、劉伯実、劉業、劉悉達、劉法導、劉僧喜、劉慧正、劉慧知、劉明弥虜、劉妙覚、劉宝明、合わせて十八人。劉愷、劉恢、劉惔、劉惇は江寧の墓所で賜死され、劉𢚝、劉悉達は早世し、その他はみな劉義宣とともに朱脩之に殺された。蔡超と諮議参軍顔楽之、徐寿之ら諸々の同悪は、みな誅殺された。蔡超は済陽郡考城県の人である。父の蔡茂之は廬陵王劉義真に仕えて読書を伴い、官は彭城王劉義康の驃騎從事中郎、始興太守に至った。蔡超は若い時から才学があり、初め兗州主簿となった。当時、百官に人材を推挙させたが、蔡超は前始寧令で同郡の江淳之、前征南参軍会稽の賀道養とともに興安侯劉義賓に表薦された。竺超民は青州刺史竺夔の子である。

原文義宣子悰、愷、恢、憬、惔、𢚝、惇、慆、伯實、業、悉達、法導、僧喜、慧正、慧知、明彌虜、妙覺、寶明凡十八人,愷、恢、惔、惇並於江寧墓所賜死,𢚝、悉達早卒,餘並與義宣俱為朱脩之所殺。蔡超及諮議參軍顏樂之、徐壽之等諸同惡,並伏誅。超,濟陽考城人。父茂之,侍廬陵王義真讀書,官至彭城王義康驃騎從事中郎,始興太守。超少有才學,初為兗州主簿,時令百官舉才,超與前始寧令同郡江淳之、前征南參軍會稽賀道養並為興安侯義賓所表薦。竺超民,青州刺史竺夔子也。

劉恢は字あざなを景度といい、嫡長子として生まれ、幼い頃から弁舌が巧みで聡明であったため、劉義宣は彼を非常に可愛がり大切にした。十一歳の時、南譙王の世子に任じられ、給事中を拝命した。劉義宣が荊州に赴任すると、劉恢は常に都に留まっていた。太祖(劉義隆)は彼を西の任地に戻させようと考え、河東太守に任じ、寧朔将軍を加えた。間もなく、黄門侍郎に召された。元凶(劉劭)が帝位を簒奪さんだつすると、劉恢は侍中となった。劉義宣が挙兵すると、劉劭は劉恢とその弟の劉愷・劉惔・劉悰・劉憬・劉𢚝を外で捕らえて拘束し、散騎郎の沈煥に監視させた。沈煥は密かに帰順する意思を持ち、劉恢らに言った。「禍福は諸郎と共にします。どうかご心配なく。」臧質が白下から広莫門へ向かって進軍すると、劉劭は沈煥に劉恢らを殺すよう命じた。沈煥は彼らの枷を外し、配下の数十人を率いて劉恢らと共に広莫門へ向かい脱出しようとした。門番がこれを阻んだが、沈煥は言った。「臧公(臧質)が既に到着し、凶徒は逃げ去った。こちらは司空(劉義宣)の諸郎であり、諸君に富貴をもたらすことができる。ただ災いを免れるだけでなく、どうか引き留めないでくれ。」ちょうど臧質が到着したため、彼らは脱出することができた。劉恢が新亭に到着すると、すぐに侍中に任じられた。まもなく侍中・散騎常侍・西中郎将・湘州刺史に転じた。劉義宣が湘州を兼ねて統轄することになったため、劉恢は侍中に転じ、衛尉を兼任した。晋が江南に移って以来、城門校尉と衛尉の官は置かれていなかったが、世祖(劉駿)は城門の警備を重視したいと考え、衛尉卿を復活させた。衛尉の設置は劉恢から始まったのである。右衛将軍に転じ、侍中は元のままとした。劉義宣が兵を挙げて反乱を起こすと、劉恢は兄弟姉妹と共に一斉に逃亡した。劉恢は江寧の民、陳銑の家に隠れたが、密告する者がおり、捕らえられて廷尉に引き渡された。劉恢の子の劉善蔵は、劉恢と共に処刑された。

原文恢字景度,既嫡長,少而辯慧,義宣甚愛重之。年十一,拜南譙王世子,除給事中。義宣為荊州,常停都邑。太祖欲令還西,乃以為河東太守,加寧朔將軍。頃之,徵為黃門侍郎。元凶弒立,恢為侍中。義宣起義,劭收恢及弟愷、惔、悰、憬、𢚝繫于外,散騎郎沈煥防守之。煥密有歸順意,謂恢等曰:「禍福與諸郎同之,願勿憂。」及臧質自白下上趨廣莫門,劭令煥殺恢等。煥乃解其桎梏,率所領數十人與恢等向廣莫門欲出。門者拒之,煥曰:「臧公已至,凶人走矣。此司空諸郎,並能為諸君得富貴,非徒免禍而已,勿相留。」亦值質至,因以得出。恢至新亭,即除侍中。俄遷侍中、散騎常侍、西中郎將、湘州刺史。義宣并領湘州,轉恢侍中,領衞尉。晉氏過江,不置城門校尉及衞尉官,世祖欲重城禁,故復置衞尉卿。衞尉之置,自恢始也。轉右衞將軍,侍中如故。義宣舉兵反,恢與兄弟姊妹一時逃亡。恢藏江寧民陳銑家,有告之者,錄付廷尉。恢子善藏,與恢俱死。

劉愷は字を景穆といい、生まれてすぐ宮中で養育され、寵愛は皇子と同等であった。十歳で宜陽県侯に封じられた。引き続き建威将軍・南彭城・沛の二郡太守に任じられた。歩兵校尉に転じ、さらに黄門侍郎・太子中庶子に転じ、長水校尉を兼任した。元凶(劉劭)は劉愷を散騎常侍とした。世祖(劉駿)は彼を秘書監に任じようとした。拝命する前に、輔国将軍・南彭城・下邳の二郡太守に転じた。その年、五兵尚書に転じ、爵位を王に進めた。劉義宣の反乱の情報が届くと、劉愷は尚書寺の中で女装し、問訊車に乗って臨汝公の孟詡のもとに逃げ込んだ。孟詡は妻の部屋に地下の隠し部屋を作って彼を匿ったが、事が発覚し、捕らえられて廷尉に引き渡され、孟詡も共に誅殺された。劉𢚝は臨武県侯に封じられ、十八歳で死去し、諡は悼侯といった。劉悰は湘南県侯に封じられた。劉憬は祁陽県侯に封じられた。

原文愷字景穆,生而養於宮內,寵均皇子。十歲,封宜陽縣侯。仍為建威將軍、南彭城沛二郡太守。遷步兵校尉,轉黃門侍郎,太子中庶子,領長水校尉。元凶以愷為散騎常侍。世祖以為祕書監。未拜,遷輔國將軍、南彭城下邳二郡太守。其年,轉五兵尚書,進爵為王。義宣反問至,愷於尚書寺內,著婦人衣,乘問訊車,投臨汝公孟詡。詡於妻室內為地窟藏之,事覺,收付廷尉,并詡伏誅。𢚝封臨武縣侯,年十八卒,諡曰悼侯。悰封湘南縣侯。憬封祁陽縣侯。

徐遺寶は字を石㑺といい、高平郡金郷県の人である。当初、新亭での戦功により、輔国将軍・衛軍司馬・河東太守に任じられたが、赴任しなかった。兗州刺史に転じ、将軍の位は元のままとし、湖陸を守備した。益陽県侯に封じられ、食邑二千五百戸を与えられた。劉義宣が反乱を起こすと、使者を遣わして徐遺宝を征虜将軍・徐州刺史とし、軍を率いて瓜歩から出撃させた。徐遺宝は長史の劉雍之を派遣して彭城を襲撃させたが、寧朔司馬の明胤に撃破された。さらに高平太守の王玄楷を劉雍之と共に派遣し、再び彭城を脅かした。当時、徐州刺史の蕭思話はまだ任地に赴任しておらず、詔により安北司馬の夏侯祖権が五百人の兵を率いて急行し、明胤を援助した。到着すると、王玄楷を攻撃して斬り、劉雍之は湖陸に戻った。徐遺宝はまた地元の者である檀休祖を派遣して王玄楷に応援させたが、敗北を聞いて、これも潰走した。徐遺宝は城を捨てて魯爽のもとに逃げた。魯爽が敗れると、東海郡の境界まで逃げたが、地元の者に斬られて首を送られ、その首は都に伝えられた。

原文徐遺寶字石㑺,高平金鄉人。初以新亭戰功,為輔國將軍、衞軍司馬、河東太守,不之官。遷兗州刺史,將軍如故,戍湖陸。封益陽縣侯,食邑二千五百戶。義宣既叛,遣使以遺寶為征虜將軍、徐州刺史,率軍出瓜步。遺寶遣長史劉雍之襲彭城,寧朔司馬明胤擊破之。更遣高平太守王玄楷與雍之復逼彭城。時徐州刺史蕭思話未之鎮,因詔安北司馬夏侯祖權率五百人馳往助胤,既至,擊玄楷斬之,雍之還湖陸。遺寶復遣土人檀休祖應玄楷,聞敗,亦潰散。遺寶棄城奔魯爽,爽敗,逃東海郡界,土人斬送之,傳首京邑。

夏侯祖権は譙郡の人である。功績により祁陽県子に封じられ、食邑四百戸を与えられた。大明年間に建武将軍・兗州刺史となり、在官中に死去した。諡は烈子といった。

原文夏侯祖權,譙人也。以功封祁陽縣子,食邑四百戶。大明中,為建武將軍、兗州刺史,卒官。諡曰烈子。