宋書

列伝第二十五 吉翰 劉道產 杜驥 申恬

列伝第二十五 吉翰 劉道產 杜驥 申恬

吉翰は字あざなを休文といい、馮翊郡池陽県の人である。初め龍驤将軍劉道憐の参軍となり、府に随従して征虜左軍参軍、員外散騎侍郎に転じた。道憐に従って北征し広固を攻め、建城県五等男の爵位を賜った。道憐の驃騎ひょうき中兵参軍、從事中郎に転じた。将佐として十余年を経て、清廉で慎み深く剛直であり、高祖に大いに知られ賞賛された。永初三年、道憐の太尉たいい司馬に転じた。

原文吉翰字休文,馮翊池陽人也。初為龍驤將軍道憐參軍,隨府轉征虜左軍參軍,員外散騎侍郎。隨道憐北征廣固,賜爵建城縣五等男。轉道憐驃騎中兵參軍,從事中郎。為將佐十餘年,清謹剛正,甚為高祖所知賞。永初三年,轉道憐太尉司馬。

太祖元嘉元年、外任として梁・南秦二州諸軍事、龍驤将軍、西戎校尉、梁南秦二州刺史ししを督した。三年、仇池の氐族の楊興平が使者を遣わして帰順し、弟を人質としたので、吉翰は始平太守たいしゅの龐諮を派遣して武興を占拠させた。仇池の大帥楊玄は弟の楊難当を派遣して軍勢を率い龐諮を防がせ、また部将の強鹿皮を白水に向かわせた。龐諮はこれを撃破し、楊難当らはともに退却した。その年、益・寧二州および梁州の巴西・梓潼・宕渠・南漢中、秦州の安固・懐寧の六郡諸軍事、益州刺史を督するよう転任し、将軍の号はもとのままとした。益州では善政を施し、方伯(地方長官)としての体面をよく保ったので、論者はこれを称賛した。

原文太祖元嘉元年,出督梁南秦二州諸軍事、龍驤將軍、西戎校尉、梁南秦二州刺史。三年,仇池氐楊興平遣使歸順,并兒弟為質,翰遣始平太守龐諮據武興。仇池大帥楊玄遣弟難當率眾拒諮,又遣將強鹿皮向白水。諮擊破,難當等並退走。其年,徙督益寧二州梁州之巴西梓潼宕渠南漢中秦州之安固懷寧六郡諸軍事、益州刺史,將軍如故。在益州著美績,甚得方伯之體,論者稱之。

六年、老病のため召還され、彭城ほうじょう王劉義康の司徒しと司馬に任じられ、輔国将軍を加えられた。当時、太祖は河南を経略しており、吉翰を持節、司・雍・并三州諸軍事、司州刺史を監する者とし、将軍の号はもとのままとした。前鋒の諸軍である到彦之らが敗退したため、翌年、再び司徒司馬となり、将軍の号はもとのままとした。その年、また仮節、徐・兗二州および豫州の梁郡諸軍事、徐州刺史を監する者とされ、将軍の号はもとのままとした。当時、死罪の囚人がおり、典籤が彼を生かそうと考え、吉翰が八関斎を行っている時にその事を文書で提出した。吉翰が閲覧し終えると、「今日は帰ってよい、明日また提出せよ」と言った。翌朝、典籤は再び入ることを敢えず、呼ばれてようやく来た。吉翰は昨日提出された文書を取り上げて見終えると、彼に言った。「卿はこの囚人の命を赦そうと考えているのだろう。昨日、斎座でその事を見て、私も彼を生かそうと思った。しかしこの囚人は罪が重く、全く許すことはできない。恩恵を加えようとするならば、卿が代わってその罪を負うべきだ。」そこで左右の者に命じて典籤を収監し獄に下して殺させ、この囚人の命は許した。その刑政はこのようなものであり、配下は畏服し、禁令を犯す者はなかった。翌年、在官のまま死去した。時に六十歳。征虜将軍を追贈され、持節、監、刺史の職はもとのままとした。

原文六年,以老疾徵還,除彭城王義康司徒司馬,加輔國將軍。時太祖經略河南,以翰為持節、監司雍并三州諸軍事、司州刺史,將軍如故。會前鋒諸軍到彥之等敗退,明年,復為司徒司馬,將軍如故。其年,又假節、監徐兗二州豫州之梁郡諸軍事、徐州刺史,將軍如故。時有死罪囚,典籤意欲活之,因翰八關齋呈其事。翰省訖,語「今且去,明可便呈」。明旦,典籤不敢復入,呼之乃來,取昨所呈事視訖,謂之曰:「卿意當欲宥此囚死命。昨於齋坐見其事,亦有心活之。但此囚罪重,不可全貸,既欲加恩,卿便當代任其罪。」因命左右收典籤付獄殺之,原此囚生命。其刑政如此,其下畏服,莫敢犯禁。明年卒官,時年六十。追贈征虜將軍,持節、監、刺史如故。

劉道產は、彭城郡呂県の人で、太尉諮議参軍劉簡の子である。劉簡の事績は弟子の劉康祖の伝にある。

原文劉道產,彭城呂人,太尉諮議參軍簡之子也。簡之事在弟子康祖傳。

道產は初め輔国参軍、無錫県令となり、県において有能な名声があった。高祖が板授により中軍行参軍とし、また道憐の驃騎参軍とされ、父の爵位である晋安県五等侯を襲った。広州の群盗が刺史謝道欣の死に乗じて寇賊となり、州城を陥落させたので、道憐は道產に振武将軍を加えて南征させたが、始興相の劉謙之がすでに広州を平定したため、道產は到着せずに帰還した。

原文道產初為輔國參軍,無錫令,在縣有能名。高祖版為中軍行參軍,又為道憐驃騎參軍,襲父爵晉安縣五等侯。廣州羣盜因刺史謝道欣死為寇,攻沒州城,道憐加道產振武將軍南討,會始興相劉謙之已平廣州,道產未至而反。

元年、寧遠将軍、巴西・梓潼二郡太守に任じられた。郡内の者である黄公生、任肅之、張石之らはいずれも譙縦の残党で、姻戚の侯攬、羅奧らと結託して白水の氐族を招き、乱を企てようとした。道產は黄公生ら二十一家を誅殺し、残党は赦した。帰還して彭城王劉義康の驃騎中兵参軍となった。元嘉三年、梁・南秦二州諸軍事、寧遠将軍、西戎校尉、梁南秦二州刺史を督した。州においては恵みの教化を行い、関中の流民で前後して漢川に出て彼に帰順する者が非常に多かった。六年、道產は上表して隴西、宋康の二郡を設置し、彼らを統轄させた。

原文元年,除寧遠將軍、巴西梓潼二郡太守。郡人黃公生、任肅之、張石之等並譙縱餘燼,與姻親侯攬、羅奧等招引白水氐,規欲為亂。道產誅公生等二十一家,宥其餘黨。還為彭城王義康驃騎中兵參軍。元嘉三年,督梁南秦二州諸軍事、寧遠將軍、西戎校尉、梁南秦二州刺史。在州有惠化,關中流民,前後出漢川歸之者甚多。六年,道產表置隴西、宋康二郡以領之。

七年、後軍将軍として召還された。翌年、竟陵王劉義宣の左将軍諮議参軍に転じ、引き続き持節、雍・梁・南秦三州および荊州の南陽・竟陵・順陽・襄陽・新野・随の六郡諸軍事、寧遠将軍、寧蛮校尉、雍州刺史、襄陽太守を督した。民を治めることに長け、雍州部での政績は特に顕著であり、前後して叛逆し教化を受け入れなかった蛮夷も、すべて順服し、こぞって沔水の沿岸に出て居住した。百姓は生業を楽しみ、民戸は豊かになった。これにより襄陽楽歌が生まれたのは、道產から始まるのである。十三年、輔国将軍に進号した。十九年に死去し、征虜将軍を追贈され、諡を襄侯といった。道產の恵沢は西方の地に及び、喪が帰還する時、諸蛮はみな喪服を整え、号哭して追い送り、沔口にまで至った。荊州刺史の衡陽王劉義季は太祖に上啓して言った。「故輔国将軍劉道產は背中に癰を患い、病が遂に治らなかった。道產は漢南を鎮守して以来、境は凶悪な寇賊に接していたが、政績が顕著であり、威厳と懐柔をともに挙げた。年齢もまだこれからという時に、その才能を発揮しようとしていたのに、突然死去したことは、傷み怨むことが特に深い。伏して考えるに、聖なるお心は、哀悼と惜しみの念がともに至っていることでしょう。」

原文七年,徵為後軍將軍。明年,遷竟陵王義宣左將軍諮議參軍,仍為持節、督雍梁南秦三州荊州之南陽竟陵順陽襄陽新野隨六郡諸軍事、寧遠將軍、寧蠻校尉、雍州刺史、襄陽太守。善於臨民,在雍部政績尤著,蠻夷前後叛戾不受化者,並皆順服,悉出緣沔為居。百姓樂業,民戶豐贍,由此有襄陽樂歌,自道產始也。十三年,進號輔國將軍。十九年卒,追贈征虜將軍,諡曰襄侯。道產惠澤被於西土,及喪還,諸蠻皆備衰絰,號哭追送,至于沔口。荊州刺史衡陽王義季啟太祖曰:「故輔國將軍劉道產患背癕,疾遂不救。道產自鎮漢南,境接凶寇,政績既著,威懷兼舉。年時猶可,方宣其用,奄至殞沒,傷怨特深。伏惟聖懷,愍惜兼至。」

長子の劉延孫は、別に伝がある。延孫の弟の劉延熙は、延孫の恩蔭により、大明年間に司徒右長史、黄門郎、臨海・義興太守となった。泰始初年、四方の者とともに反乱を起こし、誅殺された。

原文長子延孫,別有傳。延孫弟延熙,因延孫之廕,大明中,為司徒右長史,黃門郎,臨海、義興太守。泰始初,與四方同反,伏誅。

道產の弟の劉道錫は、巴西・梓潼二郡太守であった。元嘉十八年、氐族の寇賊に攻撃されたが、道錫は城を守って敵を退けた。太祖はこれを賞賛し、詔を下して言った。「先に兵寇が攻め迫り、辺境の情勢が波立った時、広威将軍、巴西梓潼二郡太守劉道錫は、文武の官を激励・統率し、心を尽くして固守し、保全した功績は、その効果を記録すべきである。冠軍かんぐん将軍に任じよ。諮議参軍、前建威将軍、晋寿太守申坦は、孤城で寡兵でありながら、志を奮い起こして果敢に戦い、死傷者は半ばに及んだが、壮気は衰えず、力尽きて陥落したとはいえ、その誠意は表彰されるべきである。建威将軍、巴西梓潼二郡太守に任じよ。」初め、氐寇が到来した時、城内の兵は寡少であったため、道錫は吏民を募って城を守らせ、租税と布の徴収を二十年間免除すると約束した。賊が退いた後、朝廷で議論が行われた。「賊は城を攻めたが、一戦してすぐに退いた。元の約束に従うことを認めるのが、事柄としては優れている。」右衛将軍沈演之、丹陽尹羊玄保、後軍長史范曄はいずれも言った。「功労に応じて裁量すべきであり、元の誓約を全面的に用いるべきではなく、多くても十年を超えてはならない。」この意見に従った。二十一年、揚烈将軍、広州刺史に転じた。二十七年、貪欲で放縦が過ぎ、自ら治中の荀齊文を杖打ちして瀕死にさせ、車に乗って城を出て行き、阿尼(尼僧)と同乗した罪で、有司に糾弾された。赦令に遭遇したが、翌年、散官として徴還され、また赦令後の残る贓物の罪で、廷尉に収監され、赦免された後に病没した。

原文道產弟道錫,巴西、梓潼二郡太守。元嘉十八年,為氐寇所攻,道錫保城退敵,太祖嘉之,下詔曰:「前者兵寇攻逼,邊情波駭,廣威將軍、巴西梓潼二郡太守劉道錫,奬率文武,盡心固守,保全之績,厥效可書。可冠軍。諮議參軍、前建威將軍、晉壽太守申坦,孤城弱眾,厲志致果,死傷參半,壯氣不衰,雖力屈陷沒,在誠宜甄。可建威將軍、巴西梓潼二郡太守。」初,氐寇至,城內眾寡,道錫募吏民守城,復租布二十年。及賊退,朝議:「賊雖攻城,一戰便走,聽依本要,於事為優。」右衛將軍沈演之、丹陽尹羊玄保、後軍長史范曄並謂:「宜隨功勞裁量,不可全用本誓,多者不得過十年。」從之。二十一年,遷揚烈將軍、廣州刺史。二十七年,坐貪縱過度,自杖治中荀齊文垂死,乘轝出城行,與阿尼同載,為有司所糾。值赦,明年散徵,又以赦後餘贓,收下廷尉,被宥病卒。

杜驥は字を度世といい、京兆郡杜陵県の人である。高祖の杜預は、晋の征南将軍であった。曾祖父の杜耽は、河西に避難し、張氏に仕えた。苻堅が涼州を平定すると、父祖は関中に戻った。

原文杜驥字度世,京兆杜陵人也。高祖預,晉征南將軍。曾祖耽,避難河西,因仕張氏。苻堅平凉州,父祖始還關中。

兄の坦は、史書や伝記に広く通じていた。高祖が長安を征討した際、一族を率いて従い南に帰還した。太祖の元嘉年間、重用され待遇は厚く、後軍将軍、龍驤将軍、青州・冀州二州刺史、南平王鑠の右将軍司馬を歴任した。晩年に渡江した北方出身者であったため、朝廷は常に粗野な辺境の者として遇し、才能を発揮できる素養はあったものの、清流の官途には隔てられ、坦はこのことに憤慨していた。かつて太祖と史書について話した際、上(太祖)が「金日磾は忠孝心が厚く純粋で、漢朝でも並ぶ者がいない。残念なことに今の世には再びこのような人物がいない」と言うと、坦は「日磾の美徳は、確かに詔の通りです。しかし仮に彼が今の世に生まれていたら、馬の世話に追われており、ましてや知遇を得ることなどできなかったでしょう」と答えた。上は顔色を変えて「卿はなぜ朝廷をそれほど軽く見るのか」と言った。坦は「臣自身を例に申し上げます。臣は本来、中華の高貴な家柄で、亡くなった曾祖父の代に晋朝の動乱により涼州の地に移住し、代々受け継がれ、その旧い家柄を失ってはいません。ただ、南渡が早くなかったばかりに、辺境の粗野な者として隔てられているのです。日磾は胡人で、身分は牧畜の役人でしたが、いきなり内侍に抜擢され、名賢の列に加えられました。聖朝でも才能を抜擢することはありますが、臣は(日磾のようなことは)必ずしもできるとは思いません」と答えた。上は黙り込んだ。

原文兄坦,頗涉史傳。高祖征長安,席卷隨從南還。太祖元嘉中,任遇甚厚,歷後軍將軍,龍驤將軍,青、冀二州刺史,南平王鑠右將軍司馬。晚渡北人,朝廷常以傖荒遇之,雖復人才可施,每為清塗所隔,坦以此慨然。嘗與太祖言及史籍,上曰:「金日磾忠孝淳深,漢朝莫及,恨今世無復如此輩人。」坦曰:「日磾之美,誠如聖詔。假使生乎今世,養馬不暇,豈辦見知。」上變色曰:「卿何量朝廷之薄也。」坦曰:「請以臣言之。臣本中華高族,亡曾祖晉氏喪亂,播遷涼土,世葉相承,不殞其舊。直以南度不早,便以荒傖賜隔。日磾胡人,身為牧圉,便超入內侍,齒列名賢。聖朝雖復拔才,臣恐未必能也。」上默然。

北方の旧来の習慣では、見舞いには必ず子弟を遣わすものだった。驥が十三歳の時、父が同郡の韋華を見舞わせた。韋華の子の玄は高名で、驥を見て異才と認め、娘を妻として与えた。桂陽公義真が長安を鎮守した時、州主簿に召し出され、後に義真の車騎行参軍、員外散騎侍郎、江夏王義恭の撫軍刑獄参軍、尚書都官郎、長沙王義欣の後軍録事参軍となった。

原文北土舊法,問疾必遣子弟。驥年十三,父使候同郡韋華。華子玄有高名,見而異之,以女妻焉。桂陽公義真鎮長安,辟為州主簿,後為義真車騎行參軍,員外散騎侍郎,江夏王義恭撫軍刑獄參軍,尚書都官郎,長沙王義欣後軍錄事參軍。

元嘉七年、到彦之に従って河南に入り、建武将軍を加えられた。索虜(北魏)が河南の守備を撤収して全て河北に帰ると、彦之は驥に洛陽を守らせた。洛陽城は長らく整備されておらず、食糧もなかった。彦之が敗退すると、驥は城を捨てて逃げようとしたが、太祖に誅殺されることを恐れた。かつて高祖が関中・洛陽を平定した時、鐘や虡などの古い器物を南に持ち帰らせたが、大きな鐘一つが洛水に落ちた。この時、太祖は将軍の姚聳夫に千五百人を率いてこれを引き揚げさせようと派遣した。ちょうど聳夫が配下を率いて洛水で鐘を引き揚げようとしていた時、驥は彼を欺いて言った。「虜は既に南渡し、洛城の勢力は弱い。今、城壁を修理してすでに堅固になり、軍糧も十分ある。足りないのは人手だけだ。君が兵を率いて来てくれれば、共にこの城を守り、大功を立てた後で鐘を取っても遅くはない」。聳夫はこれを信じ、配下を率いて驥のもとに赴いた。到着して城が守れないこと、食糧もないことを知ると、兵を率いて去った。驥も城を捨てて南へ逃走し、太祖に報告した。「本来は死を賭して固守しようとしたが、姚聳夫が城に来るとすぐに逃走し、兵士の士気は沮喪し、もう抑えられませんでした」。上は大いに怒り、建威将軍鄭順之に命じて寿陽で聳夫を殺させた。聳夫は、呉興郡武康県の人である。勇猛果断で気力があり、宋の時代の偏裨の小将で彼に及ぶ者はいなかった。最初に到彦之に従って北伐した。虜と遭遇した時、聳夫は自ら託跋燾の叔父である英文特勤の首を斬り、燾は百頭の馬でその首を贖おうとした。

原文元嘉七年,隨到彥之入河南,加建武將軍。索虜撤河南戍悉歸河北,彥之使驥守洛陽。洛陽城不治既久,又無糧食,及彥之敗退,驥欲棄城走,慮為太祖所誅。初,高祖平關洛,致鍾虡舊器南還,一大鍾墜洛水。至是太祖遣將姚聳夫領千五百人迎致之。時聳夫政率所領牽鍾於洛水,驥乃誑之曰:「虜既南渡,洛城勢弱,今修理城池,並已堅固,軍糧又足,所乏者人耳。君率眾見就,共守此城,大功既立,取鍾無晚。」聳夫信之,率所領就驥。既至見城不可守,又無糧食,於是引眾去。驥亦委城南奔,白太祖曰:「本欲以死固守,姚聳夫及城便走,人情沮敗,不可復禁。」上大怒,使建威將軍鄭順之殺聳夫於壽陽。聳夫,吳興武康人。勇果有氣力,宋世偏裨小將莫及。始隨到彥之北伐。與虜遇,聳夫手斬託跋燾叔父英文特勤首,燾以馬百匹贖之。

驥を通直郎、射声校尉、世祖の征虜諮議参軍とした。十七年、青・冀二州および徐州の東莞・東安二郡の諸軍事を監督する寧遠将軍・青冀二州刺史として出向した。在任八年、恵みと教化は斉の地に顕著であった。義熙年間から宋の末年に至るまで、刺史で羊穆之と驥だけが、官吏や民衆から称賛された。二十四年、左軍将軍に召還され、兄の坦が刺史を代わった。北方の出身者たちはこれを栄誉とした。坦の長子の琬は員外散騎侍郎であった。太祖がかつて封書の詔勅を坦に下した時、琬が開封して見てしまった。使者がまだ出発していないうちに詔書を回収しようとしたが、封書は既に開けられており、厳しく調査が行われた。丞都が答えて「諸郎(郎官たち)が開封して見ました」と言った。上は主書を遣わして詰問させた。驥は答えて「開封したのは臣の第四子の季文です。謹んで刑罰をお待ちしております」。上は特に寛大に処し、追及しなかった。二十七年、死去。六十四歳であった。

原文以驥為通直郎,射聲校尉,世祖征虜諮議參軍。十七年,出督青冀二州徐州之東莞東安二郡諸軍事、寧遠將軍、青冀二州刺史。在任八年,惠化著於齊土。自義熙至于宋末,刺史唯羊穆之及驥,為吏民所稱詠。二十四年,徵左軍將軍,兄坦代為刺史,北土以為榮焉。坦長子琬為員外散騎侍郎,太祖嘗有函詔敕坦,琬輒開視。信未發又追取之,敕函已發,大相推檢。丞都答云:「諸郎開視。」上遣主書詰責,驥答曰:「開函是臣第四子季文,伏待刑坐。」上特原不問。二十七年,卒,時年六十四。

長子の長文は、早世した。

原文長子長文,早卒。

第五子の幼文は、品行が卑しい。太宗の初め、軍功により驍騎ぎょうき将軍となり、邵陽県男に封じられ、食邑三百戸を与えられた。間もなく巧言令色の罪で爵位を剥奪された。後に太尉廬江王褘の謀反計画を発覚させた功績により、黄門侍郎に任じられた。輔国将軍・梁州南秦州二州刺史として出向した。廃帝の元徽年間、散騎常侍さんきじょうじとなった。幼文が赴任した地では貪欲で横暴であり、家財は千金を累ね、女楽は数十人、弦楽器や管楽器の音が昼夜絶えることがなく、沈勃、孫超之と住居が近く、常に付き従い、また阮佃夫げんでんふとも親密に交わった。佃夫が死ぬと、廃帝は彼らを深く憎んだ。帝が微行して夜に出かけると、いつも幼文の家の塀の外で、その音楽を聞いていた。積もり積もって我慢できなくなり、自ら宿衛兵を率いて幼文、勃、超之らを誅殺した。幼文の兄の叔文は長水校尉で、在京の子弟や方鎮にいる甥たちも皆誅殺された。ただ幼文の兄の季文、弟の希文ら数人だけが、逃亡して難を免れた。

原文第五子幼文,薄於行。太宗初,以軍功為驍騎將軍,封邵陽縣男,食邑三百戶。尋坐巧佞奪爵。後以發太尉廬江王褘謀反事,拜黃門侍郎。出為輔國將軍、梁南秦二州刺史。廢帝元徽中,為散騎常侍。幼文所莅貪橫,家累千金,女伎數十人,絲竹晝夜不絕,與沈勃、孫超之居止接近,常相從,又並與阮佃夫厚善。佃夫死,廢帝深疾之。帝微行夜出,輒在幼文門牆之間,聽其弦管,積久轉不能平,於是自率宿衛兵誅幼文、勃、超之等。幼文兄叔文為長水校尉,及諸子姪在京邑方鎮者並誅。唯幼文兄季文、弟希文等數人,逃亡得免。

申恬は字を公休といい、魏郡魏県の人である。曾祖父の鍾は、石虎の司徒となった。高祖が広固を平定した時、恬の父の宣、および宣の従父兄の永は共に帰国することができ、ともに有能として知られた。永は青州・兗州二州刺史を歴任した。高祖が即位すると、太中大夫に任じられた。宣は、太祖の元嘉初年、やはり兗州・青州二州刺史を歴任した。恬の兄の謨は、朱脩之と共に滑台を守ったが、虜に捕らえられ、後に逃亡して帰還した。元嘉年間、竟陵太守となった。

原文申恬字公休,魏郡魏人也。曾祖鍾,為石虎司徒。高祖平廣固,恬父宣、宣從父兄永皆得歸國,並以幹用見知。永歷青、兗二州刺史。高祖踐阼,拜太中大夫。宣,太祖元嘉初,亦歷兗、青二州刺史。恬兄謨,與朱脩之守滑臺,為虜所沒,後得叛還。元嘉中,為竟陵太守。

恬は初め驃騎将軍道憐の長兼行参軍となった。高祖が即位すると、東宮殿中将軍に任じられ、台省に直番した。十年間直番し、休暇を申請しなかった。員外散騎侍郎に転じ、綏遠将軍・下邳太守として出向した。さらに北海に転任し、寧遠将軍を加えられた。赴任した地ではすべて政績を上げた。また北譙・梁二郡太守となり、将軍の位は変わらなかった。郡境は任榛と接し、たびたび賊の略奪を受けた。恬が着任すると、密かに賊の来襲を知り、要害に伏兵を配置し、不意を突いて全て捕らえ殲滅した。元嘉十二年、魯・東平・済北三郡の軍事を監督する泰山太守に昇進し、将軍の位は変わらず、威厳と恵みを兼ね備え、官吏や民衆に便利であった。臨川王義慶が江陵を鎮守した時、平西中兵参軍・河東太守となった。衡陽王義季が義慶の後を継ぐと、また安西府に転属し、寧朔将軍を加えられた。召還されて太子屯騎校尉に任じられたが、母の喪で職を去った。

原文恬初為驃騎道憐長兼行參軍。高祖踐阼,拜東宮殿中將軍,度還臺。直省十載,不請休息。轉員外散騎侍郎,出為綏遠將軍、下邳太守。轉在北海,加寧遠將軍。所至皆有政績。又為北譙、梁二郡太守,將軍如故。郡境邊接任榛,屢被寇抄。恬到,密知賊來,仍伏兵要害,出其不意,悉皆禽殄。元嘉十二年,遷督魯東平濟北三郡軍事、泰山太守,將軍如故,威惠兼著,吏民便之。臨川王義慶鎮江陵,為平西中兵參軍、河東太守。衡陽王義季代義慶,又度安西府,加寧朔將軍。召拜太子屯騎校尉,母憂去職。

二十一年、冀州の州治が歴下に移ると、恬に冀州および青州の済南・楽安・太原三郡の諸軍事を監督する揚烈将軍・冀州刺史を命じ、翌年、済南太守を加えた。当時、諸郡の太守を交代させようとしていた。恬は上表して言った。「朝廷の恩恵により臣に済南太守を加えられると承り、優れたご意向を仰ぎ、心は乱れ惑っております。臣は災禍の余り、過分なご寵遇を蒙り、私的な恩寵は既に限りなく、今またこの任を兼ねることになり、愚かで迷った身では、とてもお答えできるものではありません。臣が最近着任してすぐに、統轄する地域を巡行し、その地理的状況を詳しく調べました。黄河と済水の間には、守備のための戍を置くべきで、そのうち四箇所は急いで修築すべきです。また瓮口の故城は要所であり、太原の兵を移して辺境の防備を委ねるべきです。山沿いの諸々の哨所は全て廃止でき、防衛と懐柔に便利な点は一つではありません。呂綽の意見は実効が著しく、臣の考えと深く一致しており、聞いた百姓たちも皆賛同しています。急な変更には異論もあり、二、三の点でまだ適切ではありません。ただ、房紹之が郡を治めて一年が経ち、軍民もおおむね慣れ親しんでおり、臣に交代させるのは旧来のやり方に反します。遠く太原から兵を引き連れてくるのは、民にとって苦痛です。また瓮口の計画も、互いに交錯することになり、人々の心情は喜ばず、不安を抱くかもしれません。辺境の威令と刑罰は、その範囲が広くないことを患うべきで、もし以前の処分通りにできるならば、公私ともに調和がとれるでしょう」。上はこれに従った。詔を下して有司に言った。「恬の上奏は妥当な事柄である。近々の諸々の任免は全て停止せよ」。

原文二十一年,冀州移鎮歷下,以恬督冀州青州之濟南樂安太原三郡諸軍事、揚烈將軍、冀州刺史,明年,加濟南太守。時又遷換諸郡守,恬上表曰:「伏聞朝恩當加臣濟南太守,仰惟優旨,荒心散越。臣殃咎之餘,遭蒙踰忝,寵私罔已,復兼今授,豈其愚迷,所能上答。臣近至止,即履行所統,究其形宜。河、濟之間,應置戍扞,其中四處,急須修立,瓮口故城,又是要所,宜移太原,委以邊事。緣山諸邏,並得除省,防衛綏懷,利便非一。呂綽誠效益著,深同臣意,百姓聞者,咸皆附說,急有同異,二三未宜。但房紹之莅郡經年,軍民粗狎,改以帶臣,有乖舊事。遠牽太原,於民為苦。而瓮口之計,復成交互,人情非樂,容有不安。疆埸威刑,患不開廣,若得依先處分,公私允緝。」上從之。詔有司曰:「恬所陳當是事宜,近諸除授可悉停。」

北方の異民族が侵入してきたが、恬はこれを撃退しようとしたが、逆に異民族に敗れ、召還されて都に戻された。二十七年、通直常侍として起用された。この年、索虜が南方に侵攻し、その武昌王が青州に向かった。恬は東陽を救援するために派遣され、輔国司馬・斉郡太守の龐秀之とともに城を守り固めた。蕭斌は青州別駕の解栄之に垣護之を率いさせて恬らを救援させ、南山沿いから入城させた。賊は朝に城を脅かし、日が暮れると退却した。城内では車を北門外に出し、堀を巡らせて陣営を築き、挑戦しようとしたが、賊は近づこうとしなかった。五日間滞在した後、賊は東へ向かい清河郡や駅道の南の数千家を略奪し、東安・東莞を経て下邳に出た。下邳太守の垣閬は城門を閉じて守りを固め、二千余家を保全した。異民族が退却した後、恬は寧朔将軍・山陽太守に任じられた。彼は民政に優れ、赴任した地で実績を上げた。世祖が即位すると、青州刺史に転任し、将軍の位はそのままだった。まもなく徐州の東莞・東安二郡諸軍事を監督することを加えられた。翌年、さらに冀州も監督した。斉の地は連年兵を起こし、民衆は疲弊していたが、恬は当初は辺境を防衛し、農桑を奨励し、二三年のうちにすべてが豊かで充実するようになった。性格は清廉で質素であり、頻繁に州郡の長官を務めたが、妻子も飢えと寒さを免れず、世間はこれをもって彼を称えた。輔国将軍の号を進められた。

原文北虜入寇,恬摧擊之,為虜所破,被徵還都。二十七年,起為通直常侍。是歲,索虜南寇,其武昌王向青州。遣恬援東陽,因與輔國司馬、齊郡太守龐秀之保城固守。蕭斌遣青州別駕解榮之率垣護之還援恬等,仍傍南山得入。賊朝來脅城,日晚輒退。城內乃出車北門外,環塹為營,欲挑戰,賊不敢逼。停五日,東過抄略清河郡及驛道南數千家,從東安、東莞出下邳。下邳太守垣閬閉城距守,保全二千餘家。虜退,以恬為寧朔將軍、山陽太守。善於治民,所莅有績。世祖踐阼,遷青州刺史,將軍如故。尋加督徐州之東莞東安二郡諸軍事。明年,又督冀州。齊地連歲興兵,百姓凋弊,恬初防衛邊境,勸課農桑,二三年間,遂皆優實。性清約,頻處州郡,妻子不免飢寒,世以此稱之。進號輔國將軍。

孝建二年、豫州軍事・寧朔将軍・豫州刺史を監督するようになった。翌年、病気で召還され、道中で死去した。享年六十九歳。死んだ日、家には残された財産がなかった。子の寔は南譙郡太守であったが、早世した。

原文孝建二年,遷督豫州軍事、寧朔將軍、豫州刺史。明年,疾病徵還,於道卒,時年六十九。死之日,家無遺財。子寔,南譙郡太守,早卒。

謨の子の元嗣は、海陵・広陵太守となった。元嗣の弟の謙は、泰始初年に軍功により軍校を歴任し、輔国将軍・臨川内史まで昇進した。

原文謨子元嗣,海陵、廣陵太守。元嗣弟謙,泰始初,以軍功歷軍校,官至輔國將軍、臨川內史。

永の子の坦は、巴西・梓潼太守から梁・南秦二州刺史に転任した。元嘉二十六年、世祖の鎮軍諮議参軍となり、王玄謨とともに滑臺を包囲したが陥落させられず、免官された。青州刺史の蕭斌が板行建威将軍・済南平原二郡太守に任命し、再び碻磝を攻めたが敗退し、歴城に下った。蕭思話が義兵を起こして元凶を討つと、坦は輔国将軍を仮授され、前鋒となった。世祖が新亭に到着すると、坦もまた進軍して京城を陥落させた。孝建初年、太子右衛率、寧朔将軍・徐州刺史となった。大明元年、異民族が兗州に侵攻した。世祖は太子左衛率の薛安都せつあんとと新任の東陽太守沈法系を派遣して北方を討伐させたが、兗州に到着した時には異民族は既に去っていた。坦は建議した。「任榛の亡命者は、たびたび辺境の民を犯し、軍を出しても功績がない。この機会に討伐すべきである。」上はこれに従った。亡命者は事前に聞き知っており、村ごと逃げ去った。安都と法系は白衣のまま職務を続けること(白衣領職)を命じられ、坦は棄市(市場で処刑)に処された。群臣が彼のために請願したが、許されなかった。刑が執行されようとした時、始興公の沈慶之が市場に入り、坦を抱きしめて慟哭して言った。「卿に罪はない。朝廷に冤罪で誅殺されようとしている。私も市場に入るのもそう遠くないだろう。」市の役人がこれを上に報告したため、ようやく命は助けられ、尚方に拘禁された。まもなく赦免され、再び驍騎将軍となったが、病気で死去した。

原文永子坦,自巴西、梓潼太守遷梁、南秦二州刺史。元嘉二十六年,為世祖鎮軍諮議參軍,與王玄謨圍滑臺不剋,免官。青州刺史蕭斌板行建威將軍、濟南平原二郡太守,復攻碻磝,敗退,下歷城。蕭思話起義討元凶,假坦輔國將軍,為前鋒。世祖至新亭,坦亦進剋京城。孝建初,為太子右衛率,寧朔將軍、徐州刺史。大明元年,虜寇兗州,世祖遣太子左衛率薛安都、新除東陽太守沈法系北討,至兗州,虜已去。坦建議:「任榛亡命,屢犯邊民,軍出無功,宜因此翦撲。」上從之。亡命先已聞知,舉村逃走,安都與法系坐白衣領職,坦棄市。羣臣為之請,莫能得。將行刑,始興公沈慶之入市抱坦慟哭曰:「卿無罪,為朝廷所枉誅,我入市亦當不久。」市官以白上,乃原生命,繫尚方。尋被宥,復為驍騎將軍,病卒。

子の令孫は、前廃帝の景和年間に、永嘉王子仁の左軍司馬・広陵太守となった。太宗は彼を寧朔将軍・徐州刺史に任じ、薛安都を討伐させた。淮陽まで進軍したところで、すぐに安都と合流した。弟の闡は当時済陰太守で、睢陵城を守備しており、安都に従わずに朝廷に忠誠を尽くしていたため、安都は包囲攻撃しても陥落させられなかった。ちょうど令孫が到着したので、睢陵に派遣して闡を説得させ降伏させたが、闡が降伏した後、殺害し、令孫もまた殺害された。

原文子令孫,前廢帝景和中,為永嘉王子仁左軍司馬、廣陵太守。太宗以為寧朔將軍、徐州刺史,討薛安都。行至淮陽,即與安都合。弟闡,時為濟陰太守,戍睢陵城,奉順不同安都,安都攻圍不能克。會令孫至,遣往睢陵令說闡降,闡既降,殺之,令孫亦見殺。

これより先、清河もまた将吏として高祖に知られ、永初末年、振威将軍・東萊太守となった。少帝の初め、亡命した司馬霊期・司馬順之ら千余人が東萊を包囲したが、諲はこれを撃ち、霊期ら三十人を斬首した。太祖の元嘉年間、青州刺史にまで至った。

原文先是,清河亦以將吏見知高祖,永初末,為振威將軍、東萊太守。少帝初,亡命司馬靈期、司馬順之千餘人圍東萊,諲擊之,斬靈期等三十級。太祖元嘉中,至青州刺史。